新型コロナウイルスの影響で、各種イベント等の中止、延期が相次ぐ中、日本高野連さんでは、今月19日からの予定の第九十二回選抜高校野球大会を、無観客で実施する方向で準備に入ったそうです。

3/12 追記 しかしながら、今年の大会は中止という決定になりました。

さらに追記 夏の甲子園大会中止に伴い、センバツ大会代替の甲子園交流試合開催が決定しました。磐城高校さんは8月15日(土)、対国士舘高校さん戦が組まれています。


今年のセンバツには、21世紀枠で、福島県立磐城高校さんが選ばれています。当会の祖・草野心平の母校である旧制磐城中学校の後身です。そこで、先月、同校の出場決定が報じられた際には、心平がらみの記事等がいろいろ出ました。 

1月25日(土)、『福島民報』さん。 

【磐城センバツ決定】さらば行けそして勝て

 磐城高の第九十二回選抜高校野球大会出場が二十四日、決まった。二十一世紀枠で選ばれた。一九七四(昭和四十九)年の第四十六回大会以来四十六年ぶりで、春夏合わせれば十度目、一九九五(平成七)年夏以来二十五年ぶりに甲子園の土を踏む。

 東日本大震災の被災地いわきは、昨年十月の台風19号と二週間後の大雨でも被害を受けた。復興に向けて立ち上がる市民の希望の光となるように、甲子園での磐城ナインの活躍を願う。

 二十一世紀枠で福島県の高校が選ばれたのは、二〇〇一年の安積、二〇一三年のいわき海星に次いで三校目だ。学業と部活動の両立、自然災害による困難な環境の克服、活動の地域に与える好影響などの多くの面で高く評価された。

 選出の参考となる秋季東北地区高校野球大会は、台風19号の北上と重なった。十月十一日の初戦に勝った磐城は、日程変更で会場の岩手県から一度いわきに戻り、惨状を目の当たりにした。出場継続を決めた選手は結束する。「いわきに元気を届けよう」。十四日の二回戦に勝利し、ベスト8の成績を残した。
 古里は台風の爪痕が深く残っていた。大会を控えたサッカー部とラグビー部は浸水でグラウンドが使えない。野球場を整備して提供し、ナインは被災した家屋で後片付けなどのボランティアに励んだ。懸命の活動は住民に元気をもたらした。逆に、住民から激励の言葉を掛けられるときもあった。選手は人のつながりや支え合いの大切さを実感しただろう。

 野球部は昨春から月二回程度、学校近くの平一小を訪問し、学童保育の児童と交流している。地域貢献や野球の普及促進を目指して始めた。野球に加え、鬼ごっこなどの遊びを取り入れ、スポーツの楽しさを伝えた。時には勉強も教える。コミュニケーション能力が向上し、選手の精神面の成長にもつながった。

 四半世紀ぶりの甲子園に地元の期待は高まっている。選手は「チーム全員の技術を高め、大舞台で戦いたい」と力を込める。気負うことなく、培ってきた全てを、自信を持って発揮してほしい。

 磐城は、一九七一年夏の全国大会で準優勝という輝かしい実績を持つ。当時、卒業生で詩人の草野心平はスタンドで応援し、全国の強豪に立ち向かう後輩に激励の詩を贈った。小柄な選手が冷静、果敢に、臆せずプレーする姿をたたえ、最後に結んだ。「さらば行け そして勝てよ」。センバツに挑むナインに、同じ言葉を贈る。(鈴木 俊哉)

引用されている詩、全文は以下の通りです。
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    さらば行け、そして勝て

 四十四、五年前に    私も歌った校歌は
 古い明治調
 進学率は高いけれど   背たけはおそらく一番低い
 ちっぽけな連中が     しかし豪胆で微密で冷静で
 果敢で驕らず悪びれず  あわてず、臆せず
 その青春のバネは強く激しい
 類のない不思議なチームよ
 さらば行け  そして勝てよ


ちなみに心平、ゆかりの川内村で現在も続く「盆野球」(東日本大震災直後には、村民の多くが避難していた郡山で開催されました)では、始球式を務めるのが恒例でした。


同じ『福島民報』さん、同日の一面コラムでも。

あぶくま抄 磐城高センバツ出場

 磐城高野球部の父と慕われた阿部政(まさ)右衛門(えもん)の顕彰碑が、いわき市の上荒川公園の丘に立つ。肖像は平野球場を優しく見守る。詩人草野心平揮毫(きごう)の「暖かく強く正しく その生涯を一途(いちず)に生きぬいた人」の文字も刻まれる。

 一九〇六(明治三十九)年の創部時の部員で、卒業後は石炭販売業を営み、物心両面で母校を支えた。甲子園を目前に、勝てない時期を重ねた。球児が実戦練習できるように、平野球場の建設を当時の平市に訴え、一九六〇(昭和三十五)年に実現させた。三十八年前、九十三歳で亡くなる。

 一九七一年四月、常磐で最大の炭鉱が閉山し、暗い空気が漂った。その年の八月、磐城高は春夏通算五度目の甲子園出場を果たす。初戦で優勝候補の日大一高(東京)を下すと快進撃し、準優勝した。県民に勇気を与えた試合は語り継がれる。後輩がセンバツ出場を決めた。

 震災と原発事故、昨年の台風19号と大雨被害…。幾多の苦難を乗り越えて二十一世紀枠で選ばれ、チームは四半世紀ぶりに夢舞台に立つ。「IWAKI」を海の青色であしらったユニホームには、白球を追い続けた多くの先輩の思いが詰まる。憧れの地で、選手を後押しする。



心平の名はありませんが、同日の『福島民友』さん。

編集日記

 野球漫画の金字塔「ドカベン」には、1971年の磐城高をモデルにしているであろう「いわき東高」が登場する。夏の甲子園の決勝で主人公山田太郎を擁する明訓高と対戦する
 ▼神奈川県と福島県の代表が決勝で戦うのは71年と同じ組み合わせ。小柄な主戦が準決勝まで無失点で勝ち上がるのは田村隆寿投手がモデルとみられる。地元の炭鉱が閉山となり、いわき東ナインは大会が終われば離れ離れになる設定だった
 ▼磐城ナインが当時の高校野球ファンにどれほど鮮烈な印象を与えたのかが分かる。試合は1点差を追ういわき東が最終回、同点を狙ってタッチアップを試みるも本塁上でアウトとなり、試合終了。磐城同様、あと一歩のところで優勝を逃す
 ▼磐城が春の選抜高校野球大会(センバツ)に21世紀枠で出場することが決まった。昨秋の東北大会の8強入りに加えて、台風19号などで被害を受けた地元でのボランティア活動も評価された。苦境にある古里を元気づけようと奮闘する姿はいわき東とだぶって見える
 ▼71年の快進撃からほぼ半世紀。甲子園も95年の夏以来、25年ぶりだ。令和初となるセンバツで、新たな磐城のイメージを打ち立てるような胸のすくプレーが見たい。

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「ドカベン」。当方、リアルタイムで読んでいましたが、主人公・山田太郎らが1年生だった夏の甲子園での決勝戦が、当時としては珍しかったフォークを武器とする緒方投手率いる「いわき東高校」戦でした。

準決勝で高知代表・土佐丸高校との死闘を制し、決勝に駒を進めた明訓高校。エース里中は満身創痍。明訓のムードメーカー・岩鬼が初回に先頭打者ホームランを打つも、ベース踏み忘れというボーンヘッドで無効。八回には「ドカベン」史上最速の足を持つ、いわき東・足利の好走塁によって、先制を許します。実にハラハラさせる展開でした。

しかしその岩鬼が九回表に逆転の場外2ランホームラン。そして迎えた九回裏一死三塁。いわき東の五番・平山の、スタンドに入ろうかという三塁後方ファールフライを、「タッチアップされるから捕るな」という声を無視して岩鬼が無理な体勢でキャッチ。三塁ランナー緒方は当然のようにタッチアップ。岩鬼の本塁への送球は剛速球ながら、捕球の難しいハーフバウンド。キャッチャー山田は「下がって捕れば確実だがタイミング的にセーフ」「前に出れば落球の可能性」という二者択一に、強気に前へ出て、結果、見事にタッチアウト!  併殺となり、ゲームセット!! 何とも劇的な幕切れでした。野球のルール等をよく知らない方には、「何のことやら?」でしょうが(笑)。

この試合のモデルになったのが、昭和46年(1971)夏の甲子園決勝。磐城高校さんは、神奈川代表の桐蔭学園さんに0-1で敗れたそうで、そしてその試合を心平はスタンドで観戦していたというわけです。

ちなみに光太郎も野球は意外と好きだったようで、最晩年には終焉の地となった中野の貸しアトリエで、長嶋茂雄さんらが出場していた東京六大学野球のラジオ中継を聴いたりしていました。

さて、センバツ高校野球。まだ中止となる可能性はありますが、開催できることとなたっら、東日本大震災被災地の皆さんを勇気づけるという意味でも、磐城高校さんの活躍に期待したいものです。


【折々のことば・光太郎】

智恵子の葬式の日は十五夜だった。一二年たったその日の夜、アトリエでビールをのんでいた。コップを二つおいて、一つは智恵子の分という気持で、フト気がつくとコップが空になっている。あれがのんだんだなとおもったのだ。

談話筆記「炉辺にて」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳


「いやいや、光太郎先生、それはあなたが飲んだんですよ」と突っ込みたくなりますが(笑)。

福島出身の智恵子も、雲の上から磐城高校さんの活躍を見守っているような気もします。


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。