本日も、東日本大震災関連で、宮城県女川町の話題を。

昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念した光太郎文学碑を建立、その後、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町から、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連です。

まず、地元紙『河北新報』さんの記事。 

津波避難の教訓刻む 女川町に「いのちの石碑」18基目完成

 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと、宮城県女川町女川中の卒業生らが建立を続けている「女川いのちの石碑」の18基目が同町大石原浜地区に完成し、現地で1日、披露式があった。

 卒業生有志でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーと地元住民らが参加。震災当時、同地区では住民が高台に避難し、犠牲者が出なかったことなどが説明された。
 石森昌義行政区長(80)は「壊滅的な被害を受けたが、徐々に生活が落ち着いてきた。石碑を見て、津波避難の教訓を心に刻み生活したい」と話した。
 これまで建立した石碑のうち15基が「自然災害伝承碑」として国土地理院のウェブ地図に同日から掲載されたことも報告された。守る会の阿部由季会長(21)は「地図を通して多くの人が石碑を知ってくれたらうれしい」と期待した。
 いのちの石碑は2011年4月に女川中に入学した生徒たちが発案した。13年11月の1、2基目を皮切りに町内の各津波到達地点より高い場所に建立。最後となる21基目は今夏新設される女川小・中学校敷地内に建てられ、11月22日に披露式がある。


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NHKさんでは、ローカルニュースで取り上げて下さいました。 

「女川いのちの石碑」披露式

東日本大震災の教訓を後世に伝えたいと、女川町で当時の子どもたちの呼びかけで作られることになった石碑の1つが完成し、1日、披露されました。

女川町では津波の教訓を後世に伝えたいと、震災後、地元の中学生たちが「女川1000年後のいのちを守る会」を立ち上げ、集めた募金をもとに沿岸部に21あるすべての集落で石碑の建立を続けています。
震災から9年を前にきょう、津波で大きな被害を受けた集落の1つ、大石原浜に18番目の石碑が完成し、地元の人たちに披露されました。
石碑は高さ2メートル余り、幅がおよそ1.5メートルあり、「一秒間大切にする我が命」ということばが刻まれています。
女川町では残る3つの集落でもことし11月までに石碑が完成し、国土地理院の自然災害伝承碑に登録されることになっています。
「女川1000年後のいのちを守る会」の阿部由季さんは「石碑で震災の記録を伝えることで、次に津波が来てもひとりでも多くの命を救いたいです」と話していました。


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過日も書きましたが、町中心部に近い光太郎文学碑の再建も成されるやに聞いています。期待しております。


【折々のことば・光太郎】

この部落に住んで、「民族の精神、山林に厳たり」との感を深くした。土地が痩せてゐるため苦闘して生きて行かねばならないことが、人間の良さを純粋に残してゐるのではないかと考へる。

談話筆記「光太郎の言葉」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

「この部落」は、前年秋に移り住んだ花巻郊外旧太田村山口地区です。光太郎が入村した当時は開拓団が入る前。火山性の強い酸性土壌で、田畑も少なく、村人は半農半林、炭焼きが貴重な収入源、闇屋の買い出しさえ来なかったといいます。

この談話は昭和21年(1946)3月3日の『週刊朝日』に載りました。偶然ですがちょうど今日は3月3日ですね。その前の週の号には、光太郎の山小屋と光太郎の写真も載りました。

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女川町はじめ、三陸リアス海岸の猫の額のような土地に暮らす皆さんも、立地条件的には「苦闘して生きて行かねばならない」わけで、そういう意味でやはり「人間の良さを純粋に残してゐる」のではないでしょうか。



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