昨日は福島県の浜通り、双葉郡富岡町に行っておりました。こちらで開催された「福島大学うつくしまふくしま未来支援センターシンポジウムin 富岡 ~ほんとの空が 戻る日まで~」拝聴のためです。

光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「ほんとの空」の語を冠した、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)さんの主催による同様のシンポジウムは、これまでも全国で9回開催されてきており、今回で10回目です。なかなか日程等が合わず、参加できないでおりましたが、今回初めて伺うことができました。

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会場は、富岡町の文化交流センター学びの森さん。

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富岡というと、桜の名所です。特に有名なのが、夜の森地区の桜。しかしその近辺は、福島第一原発事故による帰還困難に指定されたままです。

そこで、ロビーには桜の写真や絵。

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地元の皆さんが、ほんとうの桜を心ゆくまで楽しめる日が一刻も早く訪れる事を願ってやみません。

さて、会場へ。

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午後1時、開会。

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平日にもかかわらず、けっこう多くの方がご参加。地元の行政関係の方が出張扱いでいらしているケースが多かったようです。

基調講演は、(公社)中越中越防災安全推進機構統括本部長・稲垣文彦氏。

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平成16年(2004)の新潟県中越地震の事例、特に山間部の山古志村での取り組み、さらに東日本大震災時に郡山市のビッグパレットふくしまに開設された避難所の支援に当たられたご経験などを話されました。

その中で、東日本大震災時に、福島の浜通りから新潟に避難した女性のエピソードが、象徴的でした。氏が女性に「一番つらいことは」的なご質問をされ、しばらく考えた末に返ってきた答えが「青い空が見えなくなったことかな」。太平洋側の冬は抜けるよう青空となりますが、日本海側は曇天、もしくは雪空。まさに「ほんとの空」を失われたわけで……。

しかし、各地での復興に向けての力強い取り組みなどの様子を知り、救われる思いもしました。

休憩後、パネルディスカッション。まず4人のパネラーの皆さんが、それぞれの地域での現状や課題などを発表され、その後、討議というスタイルでした。

最初のパネラーが、旧知の川内村村長・遠藤雄幸氏。同村は当会の祖・草野心平を名誉村民として下さっています。今回、氏がパネラーということもあり、ぜひ参加せねばと思った次第です。下は受付で無料配付されていた川内村の観光案内的なパンフレットから。

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毎年7月の天山祭会場となっている(昨年は雨天のため村民体育センターでしたが)、川内村での心平別荘として村人の皆さんが建ててあげた「天山文庫」等の紹介。設立協力委員であった、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝・髙村豊周の名も記されています。

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他のパネラーは、秋元正國氏(双葉地方町村会常務理事兼事務局長)、牧ノ原沙友里氏(一般社団法人ならはみらい主任)、仲井康通氏(FURE相双地域支援サテライト長)。モデレーターとして初沢敏生氏(FUREセンター長)、さらに基調講演をなさった稲垣氏も加わり、こちらもさまざまな事例等の報告がなされ、興味深いものでした。

終了後、遠藤氏と少しお話をし、会場を後にしました。家庭の事情もあり、ほぼとんぼ返り。余裕があれば町内各所の様子を詳しく見て回りたかったのですが。

それでもこんな風景も。何もなければほんとにのどかな町だったのでしょうが……。

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しかし、現実には、右画像の通り。020国道6号線ですが、ここから先はしばらくゴーストタウン状態です。

FUREさん、「福島大学は「福島の地にほんとの空が戻る日まで」、このセンターを拠点に「福島」の復旧、復興を支援いたします。」と謳って下さっています。

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一刻も早くその日が来ることを願ってやみません。

【折々のことば・光太郎】

荒れ狂ふ風と、霙と、波と、もとつ外の眼に見えない天然素のやうなものとが、実に思ふ存分な真似をしてゐた。力一ぱいな事をしてゐた。船なんか、人間なんか、まるで眼中になかつた。

散文「遙かにも遠い冬」より 昭和2年(1927)
光太郎45歳 明治39年(1906)


海外留学のため、横浜から乗船したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアン号船上での体験――アリューシャン沖でとてつもない荒天に見舞われ、船が沈没の危機に陥ったこと――の回想です。

まったく天災には抗しようがない時があります。しかし、人災となると、話は別ですね。