当会顧問にして、晩年の高村光太郎に親炙、その没後は顕彰の第一人者として、実にさまざまな活動に取り組んでこられた、北川太一先生。
1月12日(日)に大動脈乖離のため亡くなられ、そのお通夜が一昨日の1月16日(木)、葬儀が昨日・1月17日(金)に、それぞれ文京区の浄心寺さんで執り行われました。
まず、お通夜。棺の中の先生は、お気に入りの茶色いジャケットに、これまたお気に入りだったループタイ。「ああ」と思いました。
次いで、ご葬儀。朝は雨。究極の雨男だった光太郎、その関連の大きな何かが行われる時は、必ずと言っていいほど雨でした。天気予報も数日前から雨の予想。1月14日(火)に、先生のお宅にお伺いした際、ご家族も「きっと光太郎さんが雨を降らせるでしょうね」と、おっしゃっていました。しかし、雨は朝のうちに上がりました。光太郎は雨男でしたが、北川先生はご生前、「太一」の「太」の字は「太陽」の「太」、と周りから言われていたそうです。まさしく太陽のようなお方でした。しかし朝晩は雨、ことによると雪だそうで……それは光太郎からの贈りものだったのでしょう。
両日とも、ご家族、ご親族をはじめ、高村家とそのご親族の皆さん、先生が高校教諭をなさっていた頃の教え子の北斗会の方々(本来なら、1月11日(土)に、北斗会の方々と、例年行われている北川先生を囲む新年会の予定でしたが、先生、あまりお加減宜しくないとのことで、昨年暮れには中止の連絡が入りました)、元同僚の方やご朋輩、出版・美術館・文学館等関係者、女優の渡辺えりさん他さまざまなつながりで連翹忌に集って下さっている皆さん(遠くは四国、宮城女川などからも)など、多数のご参列を賜りました。また、急なこと故、参列叶わなかった多くの方々より、お心の籠もった弔電等を頂きました。僭越ながら、故人に成り代わりまして、厚く御礼申し上げます。
浄心寺さんのご住職も、北川先生の教え子のお一人であるやに聞きました。そこで、昨今主流となった葬祭ホールではなく、ぜひともうちの寺で、ということだったようです。また、光太郎顕彰の第一人者であらせられたことをよくご存じで、ご住職、通常の葬儀の中では読まれない「一枚起請文」を読まれました。
光太郎フリークの方はすぐに思い当たるでしょうが、智恵子の法要を謳った光太郎詩「松庵寺」(昭和20年=1945)に出て来る「一枚起請文」です。
松庵寺
奥州花巻といふひなびた町の
浄土宗の古刹松庵寺で
秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
まことにささやかな法事をしました
花巻の町も戦火をうけて
すつかり焼けた松庵寺は
物置小屋に須弥壇をつくつた
二畳敷のお堂でした
雨がうしろの障子から吹きこみ
和尚さまの衣のすそさへ濡れました
和尚さまは静かな声でしみじみと
型どほりに一枚起請文をよみました
仏を信じて身をなげ出した昔の人の
おそろしい告白の真実が
今の世でも生きてわたくしをうちました
限りなき信によつてわたくしのために
燃えてしまつたあなたの一生の序列を
この松庵寺の物置御堂の仏の前で
又も食ひ入るやうに思ひしらべました
松庵寺さんは、花巻市街に今も健在の浄土宗の寺院で、光太郎は花巻疎開後、ほぼ毎年、そちらでご両親や智恵子の法要を営んで貰っていました。光太郎歿後は花巻としての連翹忌法要を毎年営んで下さっています。浄心寺さんも浄土宗ということで、ご住職の粋な計らいには感動を覚えました。
さらに、閉式直前のお話では、「浄土再会」というお話をされました。たとえ今生の別れとなっても、やがて西方浄土でまた再会できるのだそうで。まさしくそう考えたいものです。北川先生、今頃はあちらで光太郎や、髙村豊周や、草野心平や、高田博厚や、伊藤信吉や、そして先に逝かれたお嬢さんや、その他大勢の人々に囲まれているのだ、と。
また、ご遺族からは、かようなメッセージ。

式での喪主としてのご挨拶では、子息・光彦氏、丑年生まれの北川先生、光太郎詩「牛」(大正3年=1914)のごとく、じりじりと一歩ずつ歩まれてきた先生のお姿に触れられていました。
ご葬儀終了後は、先生の棺を載せた霊柩車を先頭に、バス2台に分乗して、近しい一同で町屋斎場へ。
こちらでご遺体が荼毘に付され、当方も拾骨に加わらせていただきました。
再び浄心寺さんに戻り、お清め。
午後3時、滞りなく全日程を終えました。両日ともに、本当に心のこもったいいお式でした。こういうと何ですが、仕事上のつきあいや義理での儀礼的な参列者は皆無で、皆さん、心の底から先生のご逝去を悼まれているように感じられました。これも故人のお人柄のなせる業。まさに「人徳」でしょう。
さて、当方自宅兼事務所の書庫から、先生に関わる書籍等いろいろ引っ張り出していた中で、その存在をすっかり失念していて、改めてこんなものを再発見した、というのをご紹介させていただきます。
書籍は、昭和60年(1985)、先生が都立向丘高校教諭をご退職になられた際に、北斗会の皆さんが中心となってその記念に編まれた私家版の『北川太一とその仲間達』(のちに平成23年(2011)にも、同名の書籍が文治堂書店さんからやはり北斗会さんの編集で公刊されていますが、そちらとは内容を異にします)。
その最終ページに近い当たりに、版画をご趣味とされていた先生の手になると思われる、シルクスクリーンでしょうか、とにかく先生御自筆の文字がドンとでっかく刷られた紙が貼られていました。

書籍の存在は勿論忘れていませんでしたが、この紙が中に貼られていたことは、すっかり失念していまして、この紙を再発見した時は、まるで、彼岸の先生からのメッセージのように感じ、涙が溢れました。「そんな……お礼を賜る筋合いなんて、これっぽっちもありませんよ……」と。
と、ここで、はたと気がつきました。「これをブログ?とやらに載せて、皆さんに伝えて下さい」という、先生からのメッセージなのではないか、と。
というわけで、これまた僭越ながら、故人に成り代わりまして、皆様に画像でお届けいたします。お受け取り下さい。
そして、北川先生、あらためまして、こちらからも、ありがとうございました。どうぞお安らかに……。
【折々のことば・光太郎】
素直さにも深浅大小がありますが、此はともかく詩の基礎を成すものと思ひます。