暮れも押し詰まって参りました。そろそろ来年のカレンダーを、今貼ってある今年のカレンダーの後ろにセットする時期ですね。
広島に本社を置く中国新聞サービスセンターさんが発行した「ふるさとミュージアム名画コレクション」という題名の壁掛けカレンダーを入手しました。
B5判(上下に広げればB4)、各月1ページの構成で、中国地方の美術館さんに収蔵されている名品12点をあしらっています。
6月が光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)。
呉市立美術館さん所蔵のものです。新しい鋳造のものと思われますが、いい感じですね。ちなみに同館で昨年開催された「開館35周年記念 呉市立美術館のあゆみ展」では、出品物の目玉の一つという位置づけでした。
このカレンダー、ネットオークションでぽつりぽつり出品されています。当方もそれで入手いたしました。
それから、毎年頂いていて恐縮しておりますが、十和田奥入瀬観光機構/十和田市役所さんから「十和田湖・奥入瀬渓流」という大判のカレンダーを頂きました。

2ヶ月で1ページ、四季折々の十和田湖、奥入瀬渓流の美しい写真があしらわれています。残念ながら光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は使われていませんでしたが。平成27年(2015)、平成29年(2017)の同じカレンダーには「乙女の像」の写真がありました。しかし、そうなるともったいなくて使えず保存することとなり、痛し痒しです(笑)。来年のものは寝室の壁に掛けました。
「乙女の像」といえば、カレンダーを送って下さった十和田奥入瀬観光機構の方からのメールに、最近の様子を撮った写真が添付されていました。
光太郎がこの像を謳った詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和29年=1954)で、「すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで/天然四元の平手打をまともにうける/銅とスズとの合金で出来た/女の裸像が二人/影と形のように立つてゐる」と書いた、そのままの光景ですね。
2月にはこの像もライトアップされるイベント「十和田湖冬物語」が開催されるはずです。また近くなりましたらご紹介します。
【折々のことば・光太郎】
立派な花はもちろん立派で愉快ですが、僕は又一般に雑草と言はれてゐる草の花が妙に好きで飽く事なく見たり描いたりします。その生活力の旺盛なのも快く思ひます。見てゐると妙に心を引立たせてくれ、落ちつかせてくれ、自分の生活に不思議なたよりを与へてくれます。
広島に本社を置く中国新聞サービスセンターさんが発行した「ふるさとミュージアム名画コレクション」という題名の壁掛けカレンダーを入手しました。
B5判(上下に広げればB4)、各月1ページの構成で、中国地方の美術館さんに収蔵されている名品12点をあしらっています。
6月が光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)。
呉市立美術館さん所蔵のものです。新しい鋳造のものと思われますが、いい感じですね。ちなみに同館で昨年開催された「開館35周年記念 呉市立美術館のあゆみ展」では、出品物の目玉の一つという位置づけでした。
このカレンダー、ネットオークションでぽつりぽつり出品されています。当方もそれで入手いたしました。
それから、毎年頂いていて恐縮しておりますが、十和田奥入瀬観光機構/十和田市役所さんから「十和田湖・奥入瀬渓流」という大判のカレンダーを頂きました。

2ヶ月で1ページ、四季折々の十和田湖、奥入瀬渓流の美しい写真があしらわれています。残念ながら光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は使われていませんでしたが。平成27年(2015)、平成29年(2017)の同じカレンダーには「乙女の像」の写真がありました。しかし、そうなるともったいなくて使えず保存することとなり、痛し痒しです(笑)。来年のものは寝室の壁に掛けました。
「乙女の像」といえば、カレンダーを送って下さった十和田奥入瀬観光機構の方からのメールに、最近の様子を撮った写真が添付されていました。
光太郎がこの像を謳った詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和29年=1954)で、「すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで/天然四元の平手打をまともにうける/銅とスズとの合金で出来た/女の裸像が二人/影と形のように立つてゐる」と書いた、そのままの光景ですね。
2月にはこの像もライトアップされるイベント「十和田湖冬物語」が開催されるはずです。また近くなりましたらご紹介します。
【折々のことば・光太郎】
立派な花はもちろん立派で愉快ですが、僕は又一般に雑草と言はれてゐる草の花が妙に好きで飽く事なく見たり描いたりします。その生活力の旺盛なのも快く思ひます。見てゐると妙に心を引立たせてくれ、落ちつかせてくれ、自分の生活に不思議なたよりを与へてくれます。
散文「『私達の本 第一輯』読後感」より 大正12年(1923) 光太郎41歳
元々江戸下町の庶民階級の出で、さらに終世「自然」を愛した光太郎ならではの言ですね。