今月7日から始まった、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示「光太郎からの手紙」につき、『朝日新聞』さんが岩手版で報じて下さっています。
宮沢賢治との縁で戦火の東京から花巻へ疎開後、7年間を山荘で暮らした光太郎。企画展では1945(昭和20)年の花巻疎開直前から、56(昭和31)年に東京のアトリエで亡くなるまでに書いたはがき28点と書簡11点などを集めた。
山荘時代の光太郎を物心両面で支えた花巻の佐藤隆房医師(宮沢賢治の主治医)とやりとりした手紙が中心で、賢治との縁、虫雑草との戦いや食生活、十和田湖の乙女の像創作前後のことなど、山居7年から最晩年までの足跡や思いをたどることができる。
このうち56年3月27日、東京に戻って病の床に伏していた光太郎が代筆で佐藤医師に宛てた手紙では「手許でみたくなりましたので」と、預けていた亡妻智恵子の切り絵を送るよう依頼している。光太郎が亡くなったのは6日後の4月2日。花巻高村光太郎記念会によると「現在知られている中では光太郎が差し出した最後の手紙」だという。
企画展は来年1月27日まで。12月28日~1月3日は休館。(溝口太郎)
今月7日のこのブログの記事で「どうも話を聞くと『全集』未収録のものも含まれているような気がします。」と書きましたが、画像の書簡がまさにそうでした。しかも、現時点では「最後の手紙」となります。
これまでに確認できていた「最後の手紙」は、昭和31年(1956)3月1日付けで、智恵子の姪にして看護師の資格を持ち、智恵子の最期を看取った宮崎春子にあてた現金書留でした。
このごろいたみが少しつよいので閉口しています、 金同封します、 光太郎 宮崎春子様
「いたみ」は結核によるもので、光太郎はそのために翌月2日に歿しました。
春子は、30歳で早世した智恵子の妹・ミツの娘。前述の通り、昭和10年(1935)に南品川ゼームス坂病院に入院し、同13年(1938)、同院で亡くなった智恵子の付き添いを務めました。有名な智恵子の紙絵の制作現場を目撃した、ほぼ唯一の人物です。

昭和20年(1945)には、光太郎が間を取り持って、詩人の宮崎稔と結婚。花巻郊外太田村の光太郎が暮らした山小屋も訪問しています。ところが、夫の稔は昭和28年(1953)に胃潰瘍で死亡。子供2人を抱えて途方に暮れる春子に、光太郎は経済的援助を惜しみませんでした。
で、今回展示されている上記画像のものは、さらに下って亡くなる6日前のものです。さすがにその時点では長い文面を自ら書き記す力はほとんど残っていなかったようで、借りていた貸しアトリエの大家である中西富江に代筆して貰っています。しかし、翌日には体調が少しだけ戻ったようで、散文「焼失作品おぼえ書」の最後の一枚を自ら書いていますが。ちなみに短い日記は3月30日まで書いています。
拝啓
御無沙汰いたしておりますが お変り御座いませんか
大変突然ですが 御預り願つておりました
智恵子の紙絵を御送附いただきたく思います
手許で見たくなりましたので…
永い間、御預りいただいてゐましたこと深謝にたへません。
鉄道便箱づめにして御送り下さい。同封の送料で何卒よろしくお願いします。
三十一年三月二十七日
高村光太郎
代筆中西富江
佐藤隆房様
宛先は佐藤隆房。昭和20年(1945)、宮澤賢治の父・政次郎らと共に光太郎の花巻疎開に尽力し、宮澤家が8月10日の花巻空襲で焼けたあと、光太郎が花巻郊外太田村の山小屋に入るまで1ヶ月間、自宅離れ に光太郎を住まわせてくれた人物です。花巻病院の院長でもあった佐藤は、花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したりもしています。その後も足かけ8年花巻及び郊外太田村で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後は、花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。隆房没後は、子息の故・佐藤進氏があとを継ぎました。
「紙絵」云々は、昭和20年(1945)3月、空襲がひどくなって、それまで駒込林町の光太郎自宅兼アトリエ(4月13日の空襲で全焼)に保管されていた千点を超える智恵子紙絵を、山形の詩人・真壁仁、茨城取手の宮崎稔、そして花巻の佐藤の元に分散疎開させたことにかかわります。従来、当会の祖・草野心平の勧めもあって、光太郎最晩年に、再び光太郎の元に戻ったとされてきましたが、今回の手紙が書かれたのが亡くなる6日前。果たして間に合ったのでしょうか。
それにしても、おそらく光太郎最後の手紙に、最愛の妻・智恵子の名、そして智恵子がこの世に残した生きた証である紙絵の件が記されたことには、感動を禁じ得ません。
というわけで、「光太郎からの手紙」、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
結局詩人の天から与へられた智慧といふものは、三歳の童子の持つやうな直覚的な智慧なんでそれが尊いのである。
岩手)光太郎からの手紙展 花巻高村記念館
終戦後の7年間、岩手県花巻市太田の山荘で暮らした彫刻家で詩人の高村光太郎が書いた手紙を集めた企画展「光太郎からの手紙」が同市の高村光太郎記念館で開かれている。新しく見つかった、山荘で暮らしていた頃にファンに返信したはがきも展示されている。宮沢賢治との縁で戦火の東京から花巻へ疎開後、7年間を山荘で暮らした光太郎。企画展では1945(昭和20)年の花巻疎開直前から、56(昭和31)年に東京のアトリエで亡くなるまでに書いたはがき28点と書簡11点などを集めた。
山荘時代の光太郎を物心両面で支えた花巻の佐藤隆房医師(宮沢賢治の主治医)とやりとりした手紙が中心で、賢治との縁、虫雑草との戦いや食生活、十和田湖の乙女の像創作前後のことなど、山居7年から最晩年までの足跡や思いをたどることができる。
このうち56年3月27日、東京に戻って病の床に伏していた光太郎が代筆で佐藤医師に宛てた手紙では「手許でみたくなりましたので」と、預けていた亡妻智恵子の切り絵を送るよう依頼している。光太郎が亡くなったのは6日後の4月2日。花巻高村光太郎記念会によると「現在知られている中では光太郎が差し出した最後の手紙」だという。
企画展は来年1月27日まで。12月28日~1月3日は休館。(溝口太郎)
今月7日のこのブログの記事で「どうも話を聞くと『全集』未収録のものも含まれているような気がします。」と書きましたが、画像の書簡がまさにそうでした。しかも、現時点では「最後の手紙」となります。
これまでに確認できていた「最後の手紙」は、昭和31年(1956)3月1日付けで、智恵子の姪にして看護師の資格を持ち、智恵子の最期を看取った宮崎春子にあてた現金書留でした。
このごろいたみが少しつよいので閉口しています、 金同封します、 光太郎 宮崎春子様
「いたみ」は結核によるもので、光太郎はそのために翌月2日に歿しました。
春子は、30歳で早世した智恵子の妹・ミツの娘。前述の通り、昭和10年(1935)に南品川ゼームス坂病院に入院し、同13年(1938)、同院で亡くなった智恵子の付き添いを務めました。有名な智恵子の紙絵の制作現場を目撃した、ほぼ唯一の人物です。

昭和20年(1945)には、光太郎が間を取り持って、詩人の宮崎稔と結婚。花巻郊外太田村の光太郎が暮らした山小屋も訪問しています。ところが、夫の稔は昭和28年(1953)に胃潰瘍で死亡。子供2人を抱えて途方に暮れる春子に、光太郎は経済的援助を惜しみませんでした。
で、今回展示されている上記画像のものは、さらに下って亡くなる6日前のものです。さすがにその時点では長い文面を自ら書き記す力はほとんど残っていなかったようで、借りていた貸しアトリエの大家である中西富江に代筆して貰っています。しかし、翌日には体調が少しだけ戻ったようで、散文「焼失作品おぼえ書」の最後の一枚を自ら書いていますが。ちなみに短い日記は3月30日まで書いています。
拝啓
御無沙汰いたしておりますが お変り御座いませんか
大変突然ですが 御預り願つておりました
智恵子の紙絵を御送附いただきたく思います
手許で見たくなりましたので…
永い間、御預りいただいてゐましたこと深謝にたへません。
鉄道便箱づめにして御送り下さい。同封の送料で何卒よろしくお願いします。
三十一年三月二十七日
高村光太郎
代筆中西富江
佐藤隆房様
宛先は佐藤隆房。昭和20年(1945)、宮澤賢治の父・政次郎らと共に光太郎の花巻疎開に尽力し、宮澤家が8月10日の花巻空襲で焼けたあと、光太郎が花巻郊外太田村の山小屋に入るまで1ヶ月間、自宅離れ に光太郎を住まわせてくれた人物です。花巻病院の院長でもあった佐藤は、花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したりもしています。その後も足かけ8年花巻及び郊外太田村で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後は、花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。隆房没後は、子息の故・佐藤進氏があとを継ぎました。
「紙絵」云々は、昭和20年(1945)3月、空襲がひどくなって、それまで駒込林町の光太郎自宅兼アトリエ(4月13日の空襲で全焼)に保管されていた千点を超える智恵子紙絵を、山形の詩人・真壁仁、茨城取手の宮崎稔、そして花巻の佐藤の元に分散疎開させたことにかかわります。従来、当会の祖・草野心平の勧めもあって、光太郎最晩年に、再び光太郎の元に戻ったとされてきましたが、今回の手紙が書かれたのが亡くなる6日前。果たして間に合ったのでしょうか。
それにしても、おそらく光太郎最後の手紙に、最愛の妻・智恵子の名、そして智恵子がこの世に残した生きた証である紙絵の件が記されたことには、感動を禁じ得ません。
というわけで、「光太郎からの手紙」、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
結局詩人の天から与へられた智慧といふものは、三歳の童子の持つやうな直覚的な智慧なんでそれが尊いのである。
談話筆記「童心と叡智の詩人――北原白秋の業績――」より
昭和17年(1942) 光太郎60歳
昭和17年(1942) 光太郎60歳
白秋の亡くなった日に語られ、翌日の『読売報知新聞』に載った談話の一節。ベクトルは異なれど、論理的な思考から言葉を紡ぐのではなく、「直覚的な智慧」から詩作を行ったという意味では相通じていた朋友・白秋への手向けの言葉です。