今日から花巻高村光太郎記念館さんで、企画展「光太郎からの手紙」が始まります。

それに合わせて、地方紙『岩手日報』さんが以下の記事を載せて下さいました。 

光太郎 ファンへ「礼状」 花巻・記念館であすから展示007 (2)

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が、ファンへつづったはがきが7日から、花巻市太田の高村光太郎記念館(藤原睦館長)で展示される。神奈川県横須賀市の高橋光枝さん(85)が花巻市に寄贈した。1945(昭和20)年から7年間、現在の同市太田で山居生活を送った光太郎が、高橋さんのファンレターへ返信した。光太郎を顕彰する関係者によると、ファンへの返信は珍しく、残りの生涯への決意を示す貴重な資料と評価される。
 「小生の作ったものが若い人達(たち)の心に触れたといふお話をきくと(中略)大変はげまされます」「この山にいて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居ります」。味のある筆跡で光太郎の思いが記されている。
 同館の冬季企画展「光太郎からの手紙」は来年1月27日まで。午前8時半~午後4時半。入場料は一般350円、高校・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。


この葉書の寄贈については、『朝日新聞』さんが岩手版で先月14日、全国版でも同21日に報じて下さっています。『岩手日報』さんは、企画展の開催に合わせ、この時期に記事にしたとのこと。

先日、電話取材があり、全文の読み(光太郎の筆跡に慣れていない人には、「触れた」などが読みにくいようで)や、こういう内容だよ、といった点をお答えしました。かなり根掘り葉掘り訊かれたのでずいぶん詳しく回答しましたが、記事になってみるとそれがあまり反映されて居らず、短い記事でした(笑)。まぁ、新聞紙面はスペースが限られていますので、ニュースが多い時には個々の記事が短くなり、そうでない時は普段は記事にならないようなことも扱われる(『朝日』さんの全国版に載った時がそうなのだと思います)、という相対的な面がありますので、致し方ないでしょう。

ちなみに終末近くの「味のある筆跡で」は当方の発言です。

さて、企画展「光太郎からの手紙」。記念館さんから連絡があり、概要をお聞きしました。それによると、上記葉書以外は、昭和20年(1945)、宮澤賢治の父・政次郎らと共に光太郎の花巻疎開に尽力し、宮澤家が空襲で焼けたあと、光太郎が花巻郊外太田村の山小屋に入るまで1ヶ月間、自宅離れに光太郎を住まわせてくれた佐藤隆房に宛てたものだそうです。

花巻病院の院長でもあった佐藤は、花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したりもしています。その後も足かけ8年花巻及び郊外太田村で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後は、花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。隆房没後は、子息の故・佐藤進氏があとを継ぎました。

009

後ろで立っているのが賢治実弟の清六、前列左から、賢治の父・政次郎、佐藤隆房邸に厄介になる前に半月ほど光太郎を住まわせてくれていた元旧制花巻中学校長・佐藤昌、光太郎、佐藤隆房、賢治の妹・クニ、清六夫人・愛子、賢治の母・イチ、賢治の妹・岩田シゲです。

で、光太郎から隆房宛で葉書30通ほど、封書が10通ほどを展示するとのこと。基本、『高村光太郎全集』に掲載されているものですが、『全集』掲載時、葉書や封書の現物から引き写したのではなく、『岩手日報』から採録した場合があり、そうした際にありがちな誤読、写し間違いがあるようです。また、どうも話を聞くと『全集』未収録のものも含まれているような気がします。あとでデータを送ると言われていますので、その際に精査しようと思っております。

それから関連資料として、昭和25年(1950)11月、当時の水010沢町(現・奥州市)公民館で1日だけ開催された「高村光太郎先生夫人智恵子“切抜絵”」展のパンフレット。

奥州市立水沢図書館さんに現物が保存されており、平成27年(2015)に拝見に伺いましたが、その後、光太郎遺品の中にも同じものがあったのが見つかり、今回、初めて展示されます。

当時、水沢に疎開していた日本画家の夏目利政が、この展覧会の開催に尽力しました。夏目は明治42年(1909)、駒込動坂町の自宅に智恵子を下宿させてくれた人物です。

日本女子大学校を同40年(1907)に卒業した智恵子は、卒業後も女子大学校が運営する寮に住み続けていましたが、突如その寮が閉鎖されることになりました。途方に暮れる智恵子に手をさしのべたのが、やはり女子大学校の卒業生で福島出身の幡ナツ(旧姓・小松)。自分が住んでいた夏目の家に智恵子を斡旋してくれました。下の写真は夏目家で撮影されたもの。夏目は写っていませんが、左端がナツの夫・幡英二、一人おいて智恵子、右端がナツです。幡夫妻はその後、福島市で現在も続く明治病院さんを開院しました。

002

その夏目は水沢に疎開していて、近くに光太郎も疎開していると聞き、コンタクトを取ったわけです。自分と知り合う前の智恵子を知っている人物と出会い、光太郎は驚いたそうです。

で、「高村光太郎先生夫人智恵子“切抜絵”」展のパンフレット。夏目が描いた智恵子の絵が表紙を含め、三葉載っています。佐藤隆房に宛てた光太郎の手紙の中に、この展覧会について言及しているものがあり、関連資料として展示するとのことです。

高村光太郎記念館さんでは、佐藤に宛てたものの他にも大量に光太郎書簡類をお持ちですが、今回は上記の高橋光枝さんに宛てたもののみが新発見ということで出す以外、展示しないそうです。「多方面にわたると焦点がぼやける」そうで。で、「今回は」ということでして「次回」も構想に入れ、次のこうした機会には佐藤に宛てたもの以外を出そうと考えているとのことでした。

というわけで、「光太郎からの手紙」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩は決してただの大袈裟な概念によつてのみは出来ない。自己の実感として真実に身についたところから詩は生れる。一見甚だつまらないやうな些細な日常の生活からでも生れる。

散文「『職場の光』詩選評 三」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

なるほど、光太郎の詩には「一見甚だつまらないやうな些細な日常の生活」を題材にしたものも数多くあります。ただ、それを詩にするためには「詩精神」=「物の中心をつかむ心の眼」が必要だとも述べています。