嬉しい悲鳴ですが、連日のように光太郎やその血縁者等の名が新聞雑誌等に出ています。今日は3件ご紹介します。

まず 、広島に本社を置く「中国新聞」さん。昨日の一面コラムです。 

天風録  冬が来た?

きのうの朝、起きるといつも居間にいる猫の姿がない。ヒーター付きのハウスで丸まっていた。窓の外を見ると小学生が厚い上着にマフラー、手袋をして登校している。各地で一番の冷え込みとなり、鳥取県の大山は初雪をかぶったという▲きつぱりと冬が来た―。高村光太郎が詠んだ詩のように、到来を実感した人も多いだろう。「人にいやがられる」「刃物のやうな」と、高村は冬をさんざんに表現しながらも「僕の餌食(えじき)だ」と立ち向かう覚悟をうたう▲見習って、寒さに負けないように気を引き締めなければと思ったら…おや、きょうはまた、小春日和でも訪れそうな予報である。まだ秋なのだろうか。そう言えば、ことしは秋を十分には楽しんでいない気がしている▲例年通りマツタケは手が出ないし、せめてサンマをと思っても先日まで高値だった。色づかずに枯れそうな木々の葉も目立つ。夜長を読書で過ごすには冷え込んできた。満喫しないうちに、秋は逃げたのかもしれない▲寒さが例年以上にこたえる人も多いはずだ。秋の台風や大雨に襲われた東日本の被災地である。冬将軍は到来したか。足踏みしてくれないか。詩人の言う刃物など持たない冬がいい。

冬の寒さに弱い当方としては、最後の一文、まったく同感、激しく同意します(笑)。

ちなみに我が家の猫も、コタツの中や日向のマッサージチェアなどに居ることが多くなりました(笑)。

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続いて、一昨日の『朝日新聞』さん北海道版。

湯めぐり編 観音湯 仏に見守られ「極楽、極楽」

 お金には未(いま)だに縁がないが、学生の頃はもっとなかった。だから旅に出ると、野宿か、ちょっと贅沢(ぜいたく)してユースホステル。当時は寺経営のユースが結構あり、飛騨高山の寺ではドラム缶風呂に入った。でも仏像が見守るお風呂は、登別温泉の浄土宗観音山聖光(しょうこう)院にある「観音湯」がはじめて。

 寺の縁起は1895年。室蘭の満冏(まんけい)寺の住職が登別に開いた説教所に遡(さかのぼ)る。その後寺は解体するが、現住職である渋谷隆芳さんの父隆道が1950年に再建。62年から92年まではここもユースホステルを営んでいた。「食べていくための副業です」と隆芳さん。

 温泉は隆道が67年に発見。400メートル離れた源泉を家族や檀家(だんか)らと苦労して引いてきた。「ここの湯は殺菌力が強く、傷の治りが早いんです」。ほぼ中性だが硫黄臭のある温泉。2009年に素泊まりの「宿坊」を開業したが、日帰り入浴は浴室清掃の大変さから2年ほど前にやめた。

 宿泊の7~8割は外国人で、それも欧米の人。「日本人はいい所に泊まろうとするけど、欧米の人は宿代が安く味わいのある所を探します」と隆芳さん。“観音寺”とも呼ばれる寺の本堂には、彫刻家高村光雲の弟子筋にあたる3代目東雲が彫った34体の観音像と、寄進された円空の「聖(しょう)観音像」が安置されている。

 肌にやさしく、よく温まるお湯。その泉質は浴槽を覆う石灰華からも伝わってくる。観音様に見守られながら入るお風呂は、まさに「極楽、極楽」。

 (文と写真・塚田敏信)

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三代高村東雲。光太郎の父・光雲の師匠・初代東雲の孫です。

光雲の談話筆記『光雲懐古談』(昭和4年=1929)から。

今一人、私の弟子には違ひないが、家筋からいへば私の師匠筋の人――私の師匠東雲師の孫に当たる高村東吉郎君(晴雲と号す)があります。(「その後の弟子のこと」)

二代目東雲の栄吉氏の子息は、祖父東雲師の技倆をそのまま受け継いだやうに中々望みある人物であります。此は私の弟子にして、丹精致しまして、目下独立して高村晴雲と号して居ります。三代目東雲となるべき人であります。只、惜しいことには、健康すぐれず、今は湘南の地に転地保養をして居りますが、健康恢復すれば、必ず祖父の名を辱めぬ人となることゝ私は望を嘱して居ります。(「東雲師の家の跡のことなど」)

三代東雲、戦後の昭和26年(1951)まで北海道にいたそうで、聖光院さんに納められているのはその頃作った諸仏なのでしょう。帰京する帰途、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋に立ち寄り、自作の観音像を光太郎に贈っています。ちなみにその令孫は三代高村晴雲として、今もご活躍中です。

当方、久しく北海道には足を踏み入れていませんが、いずれそのうち、と思っております。


最後に、『週刊ポスト』さん。11/8・15号の書評欄から。

【平山周吉氏書評】伝説の俳人・河東碧梧桐に肉迫

【書評】『河東碧梧桐 表現の永続革命』/000石川九楊・著/文藝春秋/2500円+税
【評者】平山周吉(雑文家)
「五七五のリズムの生れるべき適当な雰囲気が、芭蕉の身辺に醸生してゐたのではないでせうか」「芭蕉の時代に近い、それと相似た雰囲気のもとに立たねば、再び五七五のリズムの物をいふ時は復帰しないのではないでせうか」
 本書に引用されている河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の『新興俳句への道』の一文である。碧梧桐は高浜虚子と並ぶ正岡子規門下の巨人だった。虚子が花鳥諷詠を愛で、「ホトトギス」を一大文芸企業に発展させたのに対し、碧梧桐は旅を続け、定型を破壊し、遂には俳壇を引退した。
 書家・石川九楊による評伝『河東碧梧桐』は、俳句と書のいずれでも近代の最高峰となった碧梧桐を描き出す。「近代史上、書という表現の秘密に肉迫した人物は、河東碧梧桐と高村光太郎の二人しかいない」という判断があるからだ。俳句は五七五と指折り数えてヒネるのではない。俳句の母胎である「書くこと」=書字へと降りて行くことによって新たな俳句へ至るという「俳句―書―俳句」なる回路の作句戦術に向かった」のが碧梧桐だ。
 明治末、碧梧桐は六朝書の新鮮な衝撃をバネに子規的世界から離脱できた。その当時は、「書は文芸と密接な関係にあり、切り離すことはできない」(『近代書史』)時代だった。いまでは視えなくなったその関係が多くの図版を援用しながら論証されていく。
 碧梧桐の俳句は活字ヅラで読むより、書として鑑賞する時に、その「自由で愉快な」魅力が伝わってくる。日本の近代化が「西欧化」であると同時に「中国化」でもあったことをも、碧梧桐を論じることで解明していく。
 著者は「かく」ことなくして文はない、という強力なワープロ・パソコン否定論者である。本書の中では芥川賞を二種に分け、手書きの「芥川賞」と別に「e芥川賞」をと提言している。その箇所を読んでいる時に思い出したのは長らく芥川賞銓衡委員を務めた瀧井孝作のごつごつとした選評の文章だった。瀧井こそが碧梧桐に激しく傾倒した大正文学青年だった。

平成27年(2015)、NHKさんで放映された「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で、講師を務められた書家・石川九楊氏の新著書評です。

石川氏、けっこうな光太郎ファンで、これまでのご著書でも、光太郎の書をだいぶほめて下さっていましたが、「近代史上、書という表現の秘密に肉迫した人物は、河東碧梧桐と高村光太郎の二人しかいない」は、ほめすぎではないかという気もします(笑)。


3日ほどこのような内容でしたが、とりあえずストックは吐き出しました(笑)。明日から他の内容で。


【折々のことば・光太郎】

父の遺作がどの位世上に存在するかは関東大震災があつた為にその調査が中々困難である。今度長岡市有志の方々が長岡市所在の父の遺作を一堂に集めて展観せられるといふ事を知つて喜びに堪へない。かねてから同市には父の第一品が多いと聞えてゐるので之は見のがし得ない催であると思ひ、感謝と期待とを以て其日をたのしみにゐる。

散文「高村光雲作木彫展観」全文 昭和12年(1937) 光太郎55歳

同年5月23日、一日限定で長岡市の常盤楼という料亭を会場に開催された「高村光雲作木彫展観」出品目録に掲載された文章です。この出品目録を入手したいと思って探してはいるのですが、なかなか難しいですね。

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