またまた溜まってしまっています(笑)。2日に分けてご紹介します。

まず、先月30日、『読売新聞』さんの北海道版。

伊藤整の青春時代 特別展 小樽 写真や詩など200点

 小説、詩、評論に幅広く活躍した小樽ゆかりの文学者・伊藤整の青春時代にスポットを当てた特別展が、市立小樽文学館(小樽市色内)で開かれている。
 没後50年を記念した展示「伊藤整と北海道」で、旧塩谷村(小樽市塩谷)で育ち、上京するまでの歩みを伝える写真や詩の草稿、創作ノートなど約200点が並ぶ。
 小樽高等商業学校(現・小樽商科大)時代の演劇大会の写真には、羊に扮(ふん)した先輩の小林多喜二と伊藤が舞台の隅に並んで写っている。
 初の詩集「雪明りの路」(1926年)は、後半部分の直筆原稿などが展示されている。小樽市の中学校教諭だった21歳の時に自費出版したこの作品は伊藤の飛躍の契機となり、小樽の名物行事に今も名を残す。
 会場には文学誌に載ったこの詩集の広告も展示され、詩人・彫刻家の高村光太郎は推薦文で伊藤の詩を「(ロシアの作家)チェホフの様な響」と評した。
 展示は11月24日まで。同9日には作品の解説講座とミニ文学散歩(ともに無料)も行う。問い合わせは同文学館(0134・32・2388)へ。


というわけで、小樽文学館さんで開催中の特別展「歿後50年 伊藤整と北海道展」の紹介です。

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記事にある光太郎の評とは、昭和2年(1927)3月の雑誌『椎の木』に載ったもので、「「雪明りの路」の著者へ――伊藤整詩集――」の題で、『高村光太郎全集』別巻に掲載されています。おそらく、伊藤宛の礼状そのままを引用したと思われる文章です。

 あなたの著書「雪明りの路」をいただいてからもう二三度読み返しました。その度に或る名状し難い深いパテチツクな感情に満たされました。チエホフの感がありますね。この詩集そのものもどこかチエホフの響がありますね。

「パテチツク」は仏語で「pathétique」。「感傷的な」「哀れな」「悲愴な」といった意味です。


続いて、11月12日(火)、『信濃毎日新聞』さん。一面コラムです。

斜面(11月12日)

教科書で出合った高村光太郎の「道程」は不安定な思春期を勇気づけた詩だ。<僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る…>。周りの反対を押し切って智恵子と結婚した年の発表である。わが道を行く強い決意と高揚感が感じられる

   ◆

きのうの信毎選賞贈呈式の若い受賞者に、この9行の詩が重なった。女子柔道の出口クリスタさんとピアニストの藤田真央さん。ともに3歳から始めた道を力強く歩んでいる。出口さんの転機は父の母国カナダの代表として東京五輪を目指す決断だった

   ◆

迷いが吹っ切れたのか自信を持って戦えるようになり、8月の世界選手権初優勝。来夏の「金」へ突き進む。藤田さんもやはり果てしない音楽の道に真摯(しんし)に向かう決意をした。ベートーベンの曲演奏で、自らを信じ歩み続ける強さを感じる作品で自分の気持ちと同じ―と紹介した

   ◆

原点は県ピアノコンクールという。2歳上の兄に負けた悔しさが6月のチャイコフスキー国際コンクール2位につながった。団体受賞の日本ジビエ振興協会も道を切り開く。イノシシやシカの肉を活用するシステム作りは農業の存亡にもかかわる問題だ

   ◆

現地に出向いて新鮮なうちに処理する車を開発するなど数々の工夫を重ねる。信州発の先進的な試みに全国が注目する。飯田OIDE長姫高校原動機部は電気自動車の製作に取り組んで10年目。全国大会の高校部門で8連覇した。飽くなき向上心と積み重ねが頼もしい技術者を育てている。


信毎選賞」というのは、同社の主催で、県内在住、または長野県に関わりが深く、文化、スポーツ活動などを通じて社会に貢献し、将来なお一層の活躍が期待できる個人、団体を顕彰するものだそうです。

女子柔道の出口クリスタ選手。当方、柔道有段者ですのでよく存じていますが、ご存じない方のために解説しますと、長野県の松商学園さんから山梨学院大さんに進み、現在は日本生命さん所属の選手です。以前は全日本の強化指定選手でしたが、お父さんがカナダ人ということで、カナダ代表の道を選びました。やはりオリンピックでは各階級一人しか代表に選ばれませんので、ある意味苦渋の決断だったと思われます。来年の東京五輪での活躍が期待されます。

藤田真央さんという方は、当方存じませんでしたが、今年のチャイコフスキー国際コンクールで第2位を受賞されたそうです。「真央」さんなのでてっきり女性だと思いこんでいましたが、男性でした。すみません。

さらに団体受賞の方々も。

みなさん、<僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る…>という「わが道を行く強い決意と高揚感」を持って、今後もご活躍いただきたいものです。


最後に同日の『岩手日報』さん。やはり一面コラムです。

風土計

 「(賢治は)将来、啄木ほど有名になる可能性がありますか」。そんな質問に、詩人の草野心平は困った。宮沢賢治の没後に発刊した全集を何とか売りたい、と在京岩手の人々に相談した時のことだ
▼「あります」と答えたものの内心、確信はない。「可能性があるなら、応援してもいいだろうけど…」と質問者。全く無名の作家の本を売る。その支援を、同じ岩手出身の人から得るのさえ楽ではなかったらしい
▼心平の命日のきょう、全集発刊の労を思う。賢治を世に出した功績者だが、当時は売れる見込みはない。出版社の命取りにもなりかねない。それでも諦めなかったのは、「いつか必ず読まれる」の一念だったろう
▼そういう話を新鮮に感じるのは、あまりに目先の利を追う時代だからかもしれない。企業や大学では基礎研究より「実利」が重んじられる。高校の国語教育も、3年後は教養より「実用」に重きを置くという
▼今は何の富も生まないが、いつか必ず役に立つ。そう考える余裕が社会から失われて久しい。目先の利を追う時代だったら、賢治が世に現れることもなかったのだが
▼「同時代には、近すぎて全貌が目に入らない。でも100年、200年後には拝まれる人だろう」。金田一京助はそう賢治を評した。100年の時を経て、本当の価値が光を放ち始めるものもある。

光太郎の名は出て来ませんが、当会の祖・草野心平が、光太郎ともども手がけた『宮澤賢治全集』に関してです。心平らの「目先の利」を追わない姿勢があったからこそ、今日、賢治が世界的に有名になりました。考え指させられる内容です。

あと4件ほどご紹介すべき記事等がありまして、明日、ご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

美というものはだんだん進んで行くのであつて、三段跳びのようにとぶものではない。その進み方は面白い。

講演筆録「美の源泉」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

自ら「美」を創出すると共に、先人達の残した「美」にも関心が高く、美術史についても一家言持っていた光太郎ならではの発言です。