『朝日新聞』さんの岩手版に載った記事です。

岩手)高村光太郎のはがき寄贈 70年前に受け取る

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)が戦後、高橋光枝岩手県花巻市の山荘で蟄居(ちっきょ)していた約70年前に、ファンの中学生から来た手紙に返信したはがきが、受け取った本人から同市の高村光太郎記念館に寄贈された。戦争賛美したことへの自責の念から彫刻を封印していたとされる当時の光太郎だが、詩作や彫刻への思いを記しており、心境を伝える貴重な新発見だという。
 「おてがみが こんな山の中へまで来ました」。こんな書き出しで始まるはがきを、寄贈者である神奈川県横須賀市の高橋光枝さん(85)が受け取ったのは、終戦から5年後の1950(昭和25)年9月のことだ。
 高橋さんは当時、横浜市在住の中学3年生。光太郎の詩集「智恵子抄」のファンで、彫刻展で見た光太郎のセミの彫刻に感激して太田村山口(現花巻市)の光太郎に宛てて手紙を送ったところ、この返信が来たという。

「書いた手紙の内容は忘れたが、お返事をくれた優しさがうれしく、生涯の宝としてずっと大切に保管してきた」と高橋さん。今年8月、親類の法事で岩手県奥州市を訪れた際、約50年ぶりに花巻市の光太郎の山荘を訪れて立派な記念館ができているのに感激し、「わかる人に見てもらいたい」と寄贈の意向を伝え、9月に正式に寄贈した。
 返信のはがきを送った当時の光太郎は、東京大空襲で焼け出され、宮沢賢治との縁を頼って花巻に疎開、そのまま粗末な山荘に蟄居して5年目だった。戦時中に戦争賛美したことなどを悔いた光太郎は当時、彫刻を封印していたとされるが、はがきには、自作が若い人の心に触れたことに「大変はげまされます」と感謝を伝えたうえで「この山にいて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居(お)ります」と記しており、彫刻への意欲もうかがえる。
 「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」の制作依頼が来て、光太郎が山荘を離れるのはその2年後。はがきを読んだ光太郎研究者の小山弘明さん(55)=千葉県香取市=は「ファンレター的な手紙に返信した例はほとんどなく、若い世代への期待も見て取れる。山荘時代も手すさびで小さなセミなどを作っていたという目撃談もあり、創作再開への意欲は当時からあった。十和田湖の像の依頼が来る前は、死ぬまで太田村にいるつもりだったことが再確認できるという意味でも貴重な資料だ」と話している。
 はがきは12月7日から来年1月27日まで光太郎記念館で開かれる冬季企画展「光太郎からの手紙」に展示される。(溝口太郎)


花巻高村光太郎記念館さんに、横須賀在住の高橋さんという女性が光太郎から受け取ったはがきを寄贈されたというニュース。

先月、市民講座の講師を仰せつかって花巻を訪れた際、市役所の担当の方から「こういうものの寄贈があったのですが」とコピーを渡され、調査いたしました。当初、消印の年月日ががなかなか判読できず、何年のものかを特定するのに手間取りましたが、光太郎が郵便物等の授受を記録した「通信事項」というノートがあり、昭和25年(1950)9月、確かに高橋さんから手紙を受け取り、返信をしたという記録がありました。

文面は以下の通り。

おてがみがこんな山の中へまで来ました、
小生の作つたものが若い人達の心に触れたといふお話をきくと不思議のやうにも思はれ、又大変はげまされます、
おてがみに感謝します、
この山にゐて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居ります、


上野で光太郎の木彫「蝉」をご覧になって感動した高橋さんが、光太郎にその気持ちを伝えたことに対する返信だそうです。戦後、光太郎存命中にその作品がまとめて展覧会等に出たのは3回しかなく、そのうち2回は昭和27年(1952)の帰京後。すると、高橋さんがご覧になったのは昭和23年(1948)、上野の東博さんで開催された「近代日本美術綜合展覧会」か、と思いましたが、2年もたっていますし、その際には「蝉」は並びませんでした。となると、やはり東博さんで常設展示のような形で出していたのかもしれません。

若い人達」云々。戦後の光太郎は、若い世代に対して、新生日本を作っていってほしいという期待をかけ、あちこちの学校で児童生徒や教員などに対し、講演や講話を行ったりもしていました。そうした気持の一つの表れのような気がします。

最後の一文中の、「この山にゐて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもり」。昭和25年(1950)当時、光太郎は確かにこう考えていました。昭和27年(1952)に帰京したのは、岩手の山小屋では不可能な「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のためで、それが終われば山に帰るつもりでいました。実際、「乙女の像」除幕後の昭和28年(1953)には一度、山に帰ったのですが、健康状態がもはや山での生活に耐えられず、やむなく再上京(それでも住民票は昭和30年=1955まで移しませんでした)、結局、東京で歿することになります。

とまあ、そういったお話も電話取材に対してしたのですが、紙幅の都合でそこまでは載せられなかったようですので、補足します。

というわけで、貴重なはがきのご寄贈、ありがたい限りです。

その他、新聞各紙でやはり光太郎の名が出ているコラム、記事等がまたいろいろありまして、明日はそのあたりをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

先生方が別に美について説明したり教えたりする必要はない。ただ身体の中に持つていてもらいたいのです。自然にそれがにじみ出してくる。それでいいのです。人間は何も持つていなければ際限なく低くなつてゆく性質があります。

談話筆記「美の日本的源泉」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

光太郎が暮らしていた山小屋近くの山口分教場で行われた講話の筆記から。昭和17年(1942)の『婦人公論』に連載した「日本美の源泉」をもとにした連続講話ですが、上記の「あちこちの学校で児童生徒や教員などに対し、講演や講話を行った」一つの例です。

それにしても「人間は何も持つていなければ際限なく低くなつてゆく性質があります」。昨今の「ナントカを見る会」の報道に接すると、その通りだなあ、と思います。