のんきにあちこち見て回ったり、そのレポートを書いたりしている間に溜まってしまいました。5件、ご紹介します。
まず、先月の『聖教新聞』さん。現在、新宿の中村屋サロン
美術館さんで開催中で、光太郎作品も展示されている「生誕140年・中村屋サロン美術館開館5周年記念 荻原守衛展 彫刻家への道」について、同館学芸員で、連翹忌にもご参加下さった太田美喜子さんへの長いインタビューが載っています。太田さん、『新美術新聞』さんや、雑誌『美術の窓』さんにも寄稿されたり、NHKさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」にもご出演されたりと、最近、その麗しいお姿をあちこちのメディアさんでお見かけします。
記事全文は長いので全文の引用は致しませんが、光太郎に触れて下さった箇所のみ、以下に。
荻原が帰国後、新宿につくったアトリエには、戸張孤雁(こがん)や柳敬助、高村光太郎ら、荻原が留学中に知り合った若い芸術家が訪(たず)ねてくるようになりました。当の荻原は毎日、愛蔵と妻・黒光(こっこう)の相馬夫妻が新宿に開業していた中村屋に通(かよ)っていたため、やがて芸術家たちも中村屋に集まるようになったのです。
相馬夫妻が彼らを温かく迎えたことによって「中村屋サロン」が生まれましたが、荻原は、その中心的人物でした。友人から慕(した)われる彼の人柄がなければ「中村屋サロン」は出来なかったでしょう。
同展、12月8日(日)までの開催です。
続いて、『毎日新聞』さんの西日本版。11月3日(日)に掲載された記事。やはり光太郎作品も出ている熊本市現代美術館さんでの「きっかけは「彫刻」。―近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」展に関してです。こちらも長いので、抜粋で。
熊本市現代美術館(同市中央区)で開かれている。前者は2019年度国立美術館巡回展(東京国立近代美術館所蔵品展)で、「近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」の副題が付く。後者はCAMK(熊本市現代美術館)コレクション展vol・6。こちらの副題は「現代日本の彫刻と立体造形」となっている。展覧会名はどちらも同じ、副題も酷似していて頭が混乱するが、要するに、東京国立近代美術館と熊本市現代美術館の所蔵品を連続して紹介し、近代から現代に至るまでの日本彫刻の展開をたどる試み。一続きの彫刻展として鑑賞できる。
鎌倉時代の運慶の例を持ち出すまでもなく、日本には古くから世界に誇るべき彫刻の歴史があった。だが、「彫刻」なる言葉が生まれたのは明治に入ってから。34点で構成する東京国立近代美術館所蔵品展の会場を巡ると、ロダンが、荻原守衛や高村光太郎ら、日本近代彫刻の巨匠たちに多大な影響を与えていたことが分かる。 フランスで直接指導を受けた荻原のブロンズ像「文覚」(1908年)が好例だろう。図録には<恋に悩む作家自身を重ねた作>とあるが、男性の上半身像は力強く、ロダン作品に特徴的な生命感が凝縮されている。
107歳の天寿を全うした平櫛田中(ひらくしでんちゅう)は江戸・明治時代には、見せ物とみなされていた生(いき)人形の技術を習得するところから、キャリアをスタートさせた。そのせいだろう、作品のたたずまいは人形的である。「鏡獅子試作頭(かがみじししさくかしら)」(38年)は代表作「鏡獅子」(57年)の試作品として作られた。モデルは歌舞伎の六代目尾上菊五郎。東京・国立劇場のロビーに飾られている完成品は木彫の全身像(高さ約2メートル)で、試作品はブロンズの頭部と違いがあるが、どちらも彩色を施す。本作(試作品)の場合、金箔(きんぱく)を貼り、その上に岩絵の具で着色している。西洋の写実に和の感覚を溶かし込むスタイル。鋭い眼光が名優とうたわれた六代目の精神を映し出す。
(以下略)
同展は11月24日(日)まで開催されています。
続いて、同じく『毎日新聞』さんで、集英社さんから刊行された津上英輔氏著 『危険な「美学」』の書評。11月6日(水)に掲載されました。
同日の『日本経済新聞』さんのコラムにも光太郎の名が。
まず、先月の『聖教新聞』さん。現在、新宿の中村屋サロン

記事全文は長いので全文の引用は致しませんが、光太郎に触れて下さった箇所のみ、以下に。
荻原が帰国後、新宿につくったアトリエには、戸張孤雁(こがん)や柳敬助、高村光太郎ら、荻原が留学中に知り合った若い芸術家が訪(たず)ねてくるようになりました。当の荻原は毎日、愛蔵と妻・黒光(こっこう)の相馬夫妻が新宿に開業していた中村屋に通(かよ)っていたため、やがて芸術家たちも中村屋に集まるようになったのです。
相馬夫妻が彼らを温かく迎えたことによって「中村屋サロン」が生まれましたが、荻原は、その中心的人物でした。友人から慕(した)われる彼の人柄がなければ「中村屋サロン」は出来なかったでしょう。
同展、12月8日(日)までの開催です。
続いて、『毎日新聞』さんの西日本版。11月3日(日)に掲載された記事。やはり光太郎作品も出ている熊本市現代美術館さんでの「きっかけは「彫刻」。―近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」展に関してです。こちらも長いので、抜粋で。
日曜カルチャー 近、現代の「彫刻」一望 熊本市現代美術館開催 同館の所蔵品も存在感
「きっかけは『彫刻』。」。そんなタイトルの二つの展覧会が、
鎌倉時代の運慶の例を持ち出すまでもなく、日本には古くから世界に誇るべき彫刻の歴史があった。だが、「彫刻」なる言葉が生まれたのは明治に入ってから。34点で構成する東京国立近代美術館所蔵品展の会場を巡ると、ロダンが、荻原守衛や高村光太郎ら、日本近代彫刻の巨匠たちに多大な影響を与えていたことが分かる。 フランスで直接指導を受けた荻原のブロンズ像「文覚」(1908年)が好例だろう。図録には<恋に悩む作家自身を重ねた作>とあるが、男性の上半身像は力強く、ロダン作品に特徴的な生命感が凝縮されている。
107歳の天寿を全うした平櫛田中(ひらくしでんちゅう)は江戸・明治時代には、見せ物とみなされていた生(いき)人形の技術を習得するところから、キャリアをスタートさせた。そのせいだろう、作品のたたずまいは人形的である。「鏡獅子試作頭(かがみじししさくかしら)」(38年)は代表作「鏡獅子」(57年)の試作品として作られた。モデルは歌舞伎の六代目尾上菊五郎。東京・国立劇場のロビーに飾られている完成品は木彫の全身像(高さ約2メートル)で、試作品はブロンズの頭部と違いがあるが、どちらも彩色を施す。本作(試作品)の場合、金箔(きんぱく)を貼り、その上に岩絵の具で着色している。西洋の写実に和の感覚を溶かし込むスタイル。鋭い眼光が名優とうたわれた六代目の精神を映し出す。
(以下略)
同展は11月24日(日)まで開催されています。
続いて、同じく『毎日新聞』さんで、集英社さんから刊行された津上英輔氏著 『危険な「美学」』の書評。11月6日(水)に掲載されました。
危険な「美学」 津上英輔著
「美」という言葉には完璧な「善」のイメージがある。しかし「美化」となると一転する。アニメ映画「風立ちぬ」に登場する「美しい」戦闘機、高村光太郎の戦争「賛美」、「魔の山」で結核を「美的」に描いたトーマス・マン――。美学者である著者は、「美」を感じようとする人の感性が負を正に反転させてしまう、という作用を具体的に例示し、「美」に潜む危険性を解き明かす。美しくも恐ろしい指摘だ。(集英社インターナショナル新書・882円)同日の『日本経済新聞』さんのコラムにも光太郎の名が。
春秋 2019/11/6付
朝晩、冷え込むようになった。近畿地方では、はや木枯らし1号が吹いたという。札幌も本格的な雪の季節が間近い。東京近郊の公園ではドングリがパラパラと落ち、春、満開の花で人々を楽しませたコブシやサクラの木の葉が黄や赤に色を変え、音もなく散っている。
▼「きりきりともみ込むやうな冬が来た」。高村光太郎の詩「冬が来た」の一節だ。まもなく誰もが実感しよう。「人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た」。しかし、厳しい局面を待ち望み、むしろ挑もうという作者は続けている。「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」と。
▼いてつきそうな境遇を乗り切ろうとの気概が満ちる。抗しがたい人口構成の変化や長引く低金利といった冷たい逆風にさらされ、さまざまな業界が苦境にあえぐ昨今。「冬の時代」という言葉には停滞や低迷の時期といった意味合いがあるのだが、高村の「冬」は逆境に学び、それをはね返す人間をたたえる季節のようだ。
▼いっときユニクロがCMで使った「冬の詩」には、こんな言葉もある。「冬は見上げた僕の友だ」「冬は未来を包み、未来をはぐくむ」。昨今の報道を見渡せば、国内外の諸関係の中にも冷え込みが長引きそうなものが、そこここにある。高村の心の強さにあやかり、冬支度を整えようか。「春遠からじ」の言葉も信じて。
冬の寒さが苦手な当方としては、「『日経』さん、気が早いです、まだ秋です」と言いたくなりますが(笑)。紹介されているユニクロさんのCM、松田龍平さんと黒木メイサさんのご出演でしたが、インパクトがありました。
なる半月前に書いたとみられる書簡が七日、郡山市に寄贈された。市によると、賢治直筆の書簡は貴重だが、最晩年の物はさらに資料的価値が高いという。
書簡は二〇一三(平成二十五)年三月に九十八歳で死去した郡山市出身の詩人の寺田弘さんが所蔵していた。寺田さんらが賢治に詩誌への寄稿を求め、要請に応じた際に送られた。手紙には、賢治が一九三三(昭和八)年九月二十一日に死去する直前の同月五日の日付が記されており、市によると、九日に届いたという。
「ご指示の原稿を一応送りましたが、役に立ちますかどうか。もしお使いになるのなら、名前を迦莉または迦利として出してほしい」などといった内容が書かれていた。「迦莉」「迦利」はペンネームと考えられているが、使用例は知られておらず、なぜ使うよう要望したかは分かっていないという。
寺田さんの妻ツルさん(96)=千葉県=が寄贈した。代理として長女の古宮敬子さん(71)と夫の滋さん(73)=大阪府=、寺田弘さんの弟の寺田秀夫さん(88)=郡山市=が郡山市こおりやま文学の森資料館を訪れ、品川萬里市長に書簡を手渡した。書簡の他、寺田弘さんの原稿や詩集、写真、彫刻家・詩人の高村光太郎の掛け軸などを寄せた。
敬子さんは「皆さんに見ていただければ父が喜ぶと思い、家族で相談して決めた」と寄贈に至った経緯を語った。
市は同資料館の企画展などで寄贈品を展示する。
故・寺田弘氏。やはり連翹忌ご常連でした。昭和20年(1945)4月13日、空襲で本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が燃えはじめた時、真っ先に駆けつけたのが寺田氏だったそうです。氏はその際の回想を、平成21年(2009)にTBSラジオさんでオンエアされた「爆笑問題の日曜サンデー」中の「27人の証言」というコーナーにご出演され、語られました(ちなみに当方も出演)。のち、平成24年(2012)に書籍化もされています。
現存数の少ない賢治書簡がクローズアップされていますが、光太郎の書が気になりますので、今後、展示情報に気をつけ、拝見に伺おうと思っております。詳細が出ましたらまたご紹介いたします。
【折々のことば・光太郎】
あらかじめ道があつたわけではない。けれども、真の芸術家の必然向はねばならない道であつた。単純で平明な、しかし歩きにくい道であつた。「自然」に帰依する熱情。此が凡ての根本だが、しかし此は芸術家といふ名に値する芸術家たる以上、当然の事であつて、特に此所に数へる迄もない事である。――実は中々忘られ勝ちな事だけれども。
▼「きりきりともみ込むやうな冬が来た」。高村光太郎の詩「冬が来た」の一節だ。まもなく誰もが実感しよう。「人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た」。しかし、厳しい局面を待ち望み、むしろ挑もうという作者は続けている。「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」と。
▼いてつきそうな境遇を乗り切ろうとの気概が満ちる。抗しがたい人口構成の変化や長引く低金利といった冷たい逆風にさらされ、さまざまな業界が苦境にあえぐ昨今。「冬の時代」という言葉には停滞や低迷の時期といった意味合いがあるのだが、高村の「冬」は逆境に学び、それをはね返す人間をたたえる季節のようだ。
▼いっときユニクロがCMで使った「冬の詩」には、こんな言葉もある。「冬は見上げた僕の友だ」「冬は未来を包み、未来をはぐくむ」。昨今の報道を見渡せば、国内外の諸関係の中にも冷え込みが長引きそうなものが、そこここにある。高村の心の強さにあやかり、冬支度を整えようか。「春遠からじ」の言葉も信じて。
冬の寒さが苦手な当方としては、「『日経』さん、気が早いです、まだ秋です」と言いたくなりますが(笑)。紹介されているユニクロさんのCM、松田龍平さんと黒木メイサさんのご出演でしたが、インパクトがありました。
さて、最後に、昨日の『福島民報』さん。
宮沢賢治の書簡、市に寄贈 郡山出身の詩人 故寺田弘さん遺族

書簡は二〇一三(平成二十五)年三月に九十八歳で死去した郡山市出身の詩人の寺田弘さんが所蔵していた。寺田さんらが賢治に詩誌への寄稿を求め、要請に応じた際に送られた。手紙には、賢治が一九三三(昭和八)年九月二十一日に死去する直前の同月五日の日付が記されており、市によると、九日に届いたという。
「ご指示の原稿を一応送りましたが、役に立ちますかどうか。もしお使いになるのなら、名前を迦莉または迦利として出してほしい」などといった内容が書かれていた。「迦莉」「迦利」はペンネームと考えられているが、使用例は知られておらず、なぜ使うよう要望したかは分かっていないという。
寺田さんの妻ツルさん(96)=千葉県=が寄贈した。代理として長女の古宮敬子さん(71)と夫の滋さん(73)=大阪府=、寺田弘さんの弟の寺田秀夫さん(88)=郡山市=が郡山市こおりやま文学の森資料館を訪れ、品川萬里市長に書簡を手渡した。書簡の他、寺田弘さんの原稿や詩集、写真、彫刻家・詩人の高村光太郎の掛け軸などを寄せた。
敬子さんは「皆さんに見ていただければ父が喜ぶと思い、家族で相談して決めた」と寄贈に至った経緯を語った。
市は同資料館の企画展などで寄贈品を展示する。
故・寺田弘氏。やはり連翹忌ご常連でした。昭和20年(1945)4月13日、空襲で本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が燃えはじめた時、真っ先に駆けつけたのが寺田氏だったそうです。氏はその際の回想を、平成21年(2009)にTBSラジオさんでオンエアされた「爆笑問題の日曜サンデー」中の「27人の証言」というコーナーにご出演され、語られました(ちなみに当方も出演)。のち、平成24年(2012)に書籍化もされています。
現存数の少ない賢治書簡がクローズアップされていますが、光太郎の書が気になりますので、今後、展示情報に気をつけ、拝見に伺おうと思っております。詳細が出ましたらまたご紹介いたします。
【折々のことば・光太郎】
あらかじめ道があつたわけではない。けれども、真の芸術家の必然向はねばならない道であつた。単純で平明な、しかし歩きにくい道であつた。「自然」に帰依する熱情。此が凡ての根本だが、しかし此は芸術家といふ名に値する芸術家たる以上、当然の事であつて、特に此所に数へる迄もない事である。――実は中々忘られ勝ちな事だけれども。
散文「ロダンに就いて二三の事」より 大正5年(1916) 光太郎34歳
題名の通り、ロダンについての文章です。しかし、光太郎自身のこれからの「道程」を表しているようにも読めます。