先月末、今年の文化勲章受章者、文化功労者が発表され、今月3日にはその伝達式が行われました。文化勲章を受章された6名の方々のうち、写真家の田沼武能氏が、光太郎と関わります。

受賞を報じた『朝日新聞』さんの記事。

人間の姿追い写真分野で初 田沼武能さん004

 写真の分野で初の受賞者だ。「びっくりしました。大変光栄で、写真界の励みにもなると確信しています」と喜びを語る。
 東京・浅草の写真館に生まれ、東京写真工業専門学校を卒業後、木村伊兵衛に師事。「人間の生きる姿」に一貫して関心を注ぎ、世界中の子どもたちを写した写真群は自身のライフワークとなった。「人間は生まれてから死ぬまで、即興のドラマを演じている。同じ場面は二度とないんです」
 日本写真家協会会長、日本写真著作権協会会長といった職を通して、写真界の発展に尽力したことも今回評価された。朝日新聞社が後援する写真愛好家の全国組織・全日本写真連盟では、2000年から会長を務めている。
 近年は、自ら提言して設立した日本写真保存センターの代表として、時代の記録となるような古い写真フィルムの保存活動に力を注ぐ。「今やっておかないと、無くなってからでは取り戻せない。後世に悔いを残さないよう、活動を軌道に乗せなければと思っています」


田沼武能氏(たぬま・たけよし)90歳。写真家。米タイム・ライフ社契約写真家を経てフリーに。「子どもたちの写真」という新たな分野を開拓した。全日本写真連盟会長、日本写真著作権協会会長としても写真家の地位向上や後進の育成に尽力、東京工芸大名誉教授。85年菊池寛賞。
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当方、田沼氏と一度お会いしたことがあります。平成26年(2014)8月の、光太郎令甥にして田沼氏と同じく木村伊兵衛門下の写真家だった、故・髙村規氏の葬儀でした。兄弟子に当たられる田沼氏、参列者を代表して弔辞を読まれました。

田沼氏ご自身も、光太郎と面識、というより、光太郎の肖像写真を撮られています。

昭和27年(1952)の『芸術新潮』。


「芸術界時の人」というグラビアで、田沼氏が撮影された、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した直後の光太郎写真が掲載されています。

同じ写真は、平成12年(2000)、筑摩書房さん刊行の田沼氏の『作家の風貌』にも載っています。こちらは、平成3年(1991)、文藝春秋刊行の『わが心の残像』の再編だそうですが。

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こちらは、田沼氏がポートレートを撮られたそれぞれの人物とのエピソードも記されています。それを読むと、載せられている光太郎写真撮影時の内容ではなく、翌昭和28年(1953)、「乙女の像」制作がかなり進捗してからの内容でした。

そういえば、平成25年(2013)に拝見した氏の個展「アトリエの16人」に出ていた光太郎写真が、昭和28年(1953)のものでした。

残念ながら、光太郎日記には田沼氏の名が出て来ず、こちらでは撮影日時までは特定できませんが、田沼氏、複数回、中野のアトリエを訪問されているようです。

ちなみに『作家の風貌』には、当会の祖・草野心平の項もあります。それによれば、心平、撮影を約束していた日時を忘れ、行方不明(笑)。やっとつかまって氏が訪ねると、氏をもてなそうと、秘書嬢に「○○堂のお菓子はどうした?」。秘書嬢「先生が食べてしまったのに……」。いかにも、で、笑いました。

閑話休題。田沼氏、これからもお元気で、さらなるご活躍を祈念いたしております。


【折々のことば・光太郎】

実技家から見ると、裸体は平等といふ観念を意味するよりも、やはりギリシヤに始まつた普遍の美を欲するところから専ら来てゐると言ひたいのである。
散文「羽仁五郎氏著『ミケルアンヂエロ』」より
昭和14年(1939) 光太郎57歳


羽仁五郎は歴史家。光太郎と交流のあった、自由学園の創始者、羽仁吉一・もと子夫妻の娘婿です。