智恵子の故郷・福島二本松を後に、次なる目的地、岩手盛岡に向かいました。昭和20年(1945)以後、花巻町およびその郊外旧太田村に足かけ8年暮らしていた光太郎がたびたび訪れた街です。

盛岡駅から路線バスに乗り、たどりついたは中の橋の岩手銀行赤レンガ館さん。旧岩手銀行中ノ橋支店を改装して、各種展示やコンサートなどに使えるイベントスペースとしたものです。東京駅なども手がけた辰野金吾と、盛岡出身の葛西萬司による設計で、国指定重要文化財。明治44年(1911)の竣工ですので、たびたび来盛した光太郎も眼にしているはずの建物です。

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こちらでは、11月2日(土)、3日(日)の2日間、「IWATE TRADITIONAL CRAFTS year 2019 ~(ホームスパン)」が開催されていました。

基本、岩手の伝統産業の一つであるホームスパンの、現代作家の方々による展示、即売、製作実演などでした。


建物の趣と相まって、まるで日本ではなくどこか外国のバザールとかマルシェとか、そういった雰囲気でした。

出展されていた工房さんの中には、ともに光太郎と交流のあったホームスパン作家・及川全三やその高弟・福田ハレの流れを汲むところも。


ちなみに一昨日の夜、車を運転中に何の気なしにカーナビテレビのチャンネルをNHK Eテレさんに合わせたところ、生涯教育的な番組「趣味どきっ」が放映中で、何とみちのくあかね会さんが取り上げられていました。自宅兼事務所に帰って調べましたところ現在放映の月曜シリーズが「暮らしにいかすにっぽんの布」ということで、今日も午前中に総合テレビさんでオンエアがありまして、録画予約しておきました。

余談になりますが、この番組では書道を扱った平成27年(2015)の「女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」で光太郎智恵子を取り上げて下さり、少しだけ番組製作のお手伝いをさせていただきました。


閑話休題。で、赤レンガ館さんの一角に、特別展示として、光太郎の遺品である毛布が展示されていました。戦後の光太郎日記に何度か「メーレー夫人の毛布」として記述があり、その方面の専門家であらせられる岩手県立大学盛岡短期大学部の菊池直子教授らの調査により、イギリスの染織工芸家、エセル・メレの作であることが確認された(ただ、メレ本人のみの作か、弟子の手が入った工房としての作かまでは不明とのこと)ものです。戦前、智恵子にせがまれて購入したと光太郎に聞いた、という証言が残っています。

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以前に一度、所蔵する花巻高村光太郎記念館さんで拝見し、今回は二度めです。

今年2月に、岩手県立大学さんの公開講座として、先述の菊池教授による「高村光太郎のホームスパン」があり、拝聴、また、菊池教授の研究報告「「高村光太郎記念館」所蔵のホームスパンに関わる調査」を拝読、わずかながらご調査に協力させていただき、自分でもいろいろ調べたので、感慨ひとしおでした。

その後、赤レンガ館さんの向かいにある「プラザおでって」さんに移動。こちらで菊池教授の特別講演「高村光太郎のホームスパンを探る!」を拝聴するためです。

おでってさんから見た赤レンガ館さん。いかにも辰野建築です。

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大筋では、2月の講座と同一でしたが、その後、他KIMG3363の専門家の方が現物を見ての感想などが新たに加わり、また、前回は60分だったのが今回は90分と、その分、ボリュームアップしていました。

他の専門家の方、というのがこちら。毛織物作家の大久保芙由子さん。NHKさんで放映中の「鑑賞マニュアル 美の壺」にもご出演された方です。また、本場英国への留学のご経験がおありだそうで、光太郎毛布の作者、エセル・メレとはお会いできなかったそうですが、その流れを汲む作家の人々と交流されたそうです。

今回のレジュメには大久保さんから菊池教授に送られた光太郎毛布の分析的な報告も附されていました。実際にこういったものの制作に従事されている方の視点はさすがと思わせられるものでした。

まとめ的な部分で曰く、

エセル・メイリの作品が、高村光太郎・智恵子夫妻によって選ばれ、長い間身辺に置かれて慈しまれ、彼らの美意識にかない、彼らの生活の一部となりえた貴重なものとして尊重したいと思う。

なるほど。

ところで、「メイリ」とあるのは、「Ethel Mairet」のカタカナ表記が日本では確定していないためです。文献によって「メレ」「メーレ」「メーレー」「メイリ」「メアリー」など、さまざまだそうで。

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当方としては、こうした真に「いいもの」を見極め、身辺に置いて愛用した智恵子や光太郎の審美眼的な部分にも感銘を覚えます。

ちなみに、以前にもこのブログに掲載しましたが、この毛布(と思われるもの)を膝に掛けている光太郎の写真。

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おそらく昭和28年(1953)で、場所は光太郎終焉の地、中野の貸しアトリエです。背後に最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が写っています。菊池教授、今回のご講演ではこの画像もスクリーンに投影してくださいました。

その後、再び赤レンガ館さんへ。菊池教授、大久保さんもいらっしゃり、現物を見ながら「この部分がこうなっている」「この色は××を使って染めている」的な解説を拝聴。ありがたく存じました。


続いて、すぐ近くのニッポンレンタカーさんの営業所で車を借りました。ここから翌日までレンタカーでの移動です。

宿泊は花巻でしたが、その前に、盛岡市内の岩手県立美術館さんへ。現在開催中の「紅子と省三 ―絵かき夫婦の70年―」を拝見。

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共に盛岡出身の画家、深澤省三・紅子夫妻の画業をたどる回顧展です。夕方6時まで開館しているということで、ラッキーでした。

夫妻は共に戦後に開校した岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)で教壇に立ち、同校にオブザーバーとして関わった光太郎と交流がありました。

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こちらは昭和25年(1950)、盛岡の菊屋旅館(現・北ホテルさん)で開催された光太郎を囲む会食会「豚の頭を食う会」。深澤夫妻も写っているはずです。

この翌日から、雫石にあった夫妻の家に、光太郎はおそらく2泊逗留しました。当方、平成27年(2015)、夫妻のご長男、故・竜一氏のお宅にお邪魔し、その際に光太郎に書いてもらったという宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の一節を揮毫した書を拝見しました。

さらにその折に詳しくお話を伺ったのですが、竜一氏は東京美術学校彫刻科に在籍されていた昭和18年(1943)、学徒出陣に際し、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を、三人の先輩方と共に訪れ、激励の言葉をもらったそうです。光太郎はその際の様子を、同年、詩「四人の学生」に綴りました。

海軍で各地を転々とされた竜一氏、最終的には人間魚雷「海龍」を擁する特攻隊に配属されたそうですが、出撃命令が出る直前に終戦となり、無事、復員。花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を訪ねられたりもしたそうです。雫石のお宅では、光太郎、好物の一つだった牛乳を一升ほどもがぶ飲みいていたとのこと(笑)。

さらに、紅子の父・四戸慈文は、盛岡で指折りの仕立て職人だったそうで、のちのちまで光太郎が愛用したホームスパンの猟人服(花巻高村光太郎記念館さんで常設展示中)も四戸の仕立てでした。

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さて、夫妻の絵を拝見。

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同じく盛岡の深沢紅子野の花美術館さんを二度訪れたことがあり、夫妻の絵はそちらでも拝見していましたが、油絵の大作をまとめて見るのは初めてでした。

ステレオタイプの表現をするな、と、ジェンダー論者のコワい方々に突っ込まれそうですが(笑)、男性的で雄渾な省三の絵、女性的で細やかな紅子の絵、それぞれに眼福でした。特に紅子の一見油絵に見えない水彩風の優しいタッチで描かれた大きな絵画群が印象に残りました。日本画的な要素も強いな、と感じていましたところ、年譜を見ると紅子は女子美術学校ではじめ日本画に取り組んでいたそうで、なるほど、と思いました。

光太郎との関わりが展示の説明の中に一切無く、その点は残念でしたが、いいものを見せてもらった、という感じでした。

その後、レンタカーを南に向け、花巻へ。以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

静かに坐りこんだやうな彫刻作品に対しても、こちらもじつと坐りこんで静かに呼吸すると、呼吸の微動によつて、向ふの彫刻も肩なり胸なりで微かに呼吸してゐるやうに感じる。

散文「埃及彫刻の話」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

特に具象の優れた造型作品に接すると、確かにこう感じますね。絵画でもそうですが、やはり彫刻の方が、3Dである分、この傾向は強いように思われます。