明治から昭和にかけて活躍した画家・挿絵画家・漫画家、池田永治(いけだえいじ)。光太郎より6歳年下の明治22年(1889)、京都の生まれです。亡くなったのは光太郎より早く、昭和25年(1950)。歴史上の人物ということで、申し訳ありませんが呼び捨てにさせていただきます。

今年の夏、子息の辰彦氏からご連絡を頂きました。永治が光太郎に書いて貰った「書」が現存するのだが、どんなものだろうか、というお話でした。そこで、メールで画像を送っていただき、拝見。驚愕しました。他に類例のない大珍品だったためです。

他の人物等に光太郎が書いてあげた書は、現存数、決して少なくありません。各地にかなり残っています。そのほとんどがそうした場合の通例である色紙や著書の見返しなどに書かれたもの。しかし、件(くだん)の「書」は、なんとチョッキの背部に書かれたものだったのです。

文言は、「美もつともつよし」、無理くり書き003下せば「美最も強し」。為書(ためがき)的に「池田永一治画伯に献ず 光太郎」。「永一治」は、昭和3年(1928)以後の池田の号です。早世した妹の死を悼み、奮起しようと「永」と「治」の間に「一」を挿入し、「一つ増やす」という意味を込めたそうです。ただ、読み方は「えいじ」のままだったとのことですが。筆跡は間違いなく光太郎のもの。文言の「美最も強し」も、いかにも光太郎という感じです。同趣旨の「美ならざるなし」とか「美しきもの満つ」といった文言の書は複数現存していますが、「美最も強し」という文言は初めて見ました。

そして、揮毫の日付を見て、二度驚愕。「昭和二十年五月十四日」と書かれています。なんとまあ、光太郎が疎開のために岩手花巻の宮澤賢治の実家に発つ前日です。4月13日の空襲で、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎アトリエ兼住居は全焼、しばらくは近所にあって消失を免れた妹・喜子の婚家に身を寄せていた光太郎ですが、以前から賢治の父・政次郎や賢治の主治医・佐藤隆房らから、花巻への疎開を勧められており、5月15日には上野駅から花巻に向かいました。

池田も昭和12年(1937)から駒込林町に住んでいたそうで、古地図で調べてみましたところ、直線距離で200㍍ほどの、本当に近所でした。さらに光太郎アトリエ兼住居と池田邸のちょうど中間あたりが光太郎実家の現髙村家(旧光雲邸)でした。『高村光太郎全集』には池田の名は記されていませんが、おそらく以前から交流があったか、少なくとも顔見知り程度ではあったと思われます。

ちなみにやはり近所の森鷗外邸(観潮楼)は、それ以前にやはり空襲で焼けています。近くでありながら旧光雲邸は焼けず、池田邸も無事でした。しかし、あちこちで火がくすぶっていた極限状況下で書かれた「書」。どこでどういうシチュエーションで書かれたのか詳細は分からないそうですが、おそらく光太郎が「明日、花巻へ発つ」という話を池田にし、池田が「ではお別れに何か書いて下さい」となり、といっても色紙など用意できようはずもなく、着ていたチョッキの背に書いて貰ったと推定できます。そして同じく「美」に携わる者同士、がんばろう、ということで「美もつともつよし」と書いたのではないでしょうか。凄いドラマだと思います。

で、子息の辰彦氏から、4冊の書籍を頂きました。

左上から、チョッキの写真も載っている『画家 池田永治の記録―その作品と年譜―』、池田は俳句、俳画も多く残したということで、『俳画家 池田永一治俳句集』、『新理念 俳画の技法 復刻版』、そして昭和5年(1930)から翌年にかけ、『読売新聞』に連載されたという『こども漫画 ピチベ 第二版』。すべて神戸新聞総合出版センターさんから辰彦氏らご遺族の私刊という形で、今月刊行されたものです。永治の業績をまとめておこうという意図だそうで、頭が下がります。

これらを拝読し、またまた驚愕(笑)。

まず、池田が太平洋画会の中心メンバーだったということ。当方、存じませんでした。太平洋画会といえば、光太郎と結婚披露前の智恵子が、日本女子大学校卒業後に通っていました。そこで調べてみましたところ……

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明治45年(1912)の同会第10回展で、智恵子と池田の作品が並んで出品されていました。当然、池田と智恵子、交流があったでしょうし、のちに光太郎と池田の間でも、智恵子の話題になったでしょう。これにも本当に驚きました。

それから、池田は同じく挿絵画家・漫画家だった岡本一平とも交流がありました。一平は岡本太郎の父。妻のかの子は智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』メンバーでしたし、一平自身、東京美術学校西洋画科で、彫刻科を卒(お)えて再入学した光太郎と同級生でした。

また、これも当方存じませんでしたが、中原中也に「ピチベの哲学」という詩があるそうで、これは上記の『こども漫画 ピチベ 』からのインスパイアではないかという説があるそうです。中也といえば、当会の祖・草野心平を介して光太郎と知り合い、その第一詩集『山羊の歌』の装幀、題字を光太郎が手がけました。

現在と異なり、芸術界が狭かった時代ではありますが、こういう部分であやなされる人間関係には、実に驚かされます。

さて、池田永治、明治大正昭和の文化史の、貴重な一面を担った人物であると改めて感じ入りました。これを機に、もっと光が当たっていいように思われます。


【折々のことば・光太郎】

そして自分の作らうとする胸像に、若し此の内から迸出する活発な内面生活の発露がなかつたら、其は無意味な製作に終る事を痛感しました。思想を持ち、信念を持ち、愛を持つ人格が出なかつたら、それきりだと思ひました。
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散文「成瀬先生胸像の製作に従事して」より
大正9年(1920) 光太郎38歳

「成瀬先生」は、智恵子の母校・日本女子大学校創設者にして初代校長の成瀬仁蔵です。歿したのは大正8年(1919)。その直前に、女子大学校として、成瀬の胸像制作を光太郎に依頼、光太郎は病床の成瀬を見舞っています。ところが像はなかなか完成せず、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。別に光太郎がサボっていたわけではなく、試行錯誤の繰り返しで、作っては毀し、毀しては作り、自身の芸術的良心を納得させる作ができるまでにそれだけかかったということです。

画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影です。