今日は今上天皇即位の礼。地方紙『愛媛新聞』さんから、それがらみの記事をご紹介します。

即位の礼控え 皇居外苑の楠木像、新居浜市民ら清掃

 天皇陛下即位に伴う「即位礼正殿の儀」(22日)を前に、新居浜市民らでつくる「皇居の楠公像を愛(め)でる会」(篠原淳史会長)の会員らが20日、東京都千代田区の皇居外苑にある楠木正成像を清掃した。
 楠木像は、別子銅山開坑200年を記念して住友家から宮内庁へ献納されたもので、1900年に設置された。高村光雲をはじめとした東京美術学校(現東京芸術大学)の職員らが制作した木彫りの原型を基に、別子銅山の銅で鋳造されている。楠木一族の子孫が移り住んだのが新居浜で、新田を切り開いたと伝えられている。
 20日は愛でる会や新居浜にゆかりのある東京在住者ら約30人が参加。周囲に組んだ足場に10人ずつが上り、高さ約4メートルの楠木像に付いた汚れを別子山周辺で取った竹で丁寧に落としていった。台座はたわしで磨き、拭き上げた。
 篠原会長は「即位の礼に参列する外国人ら世界の人々におもてなしの心を示したいと考え、取り組んだ。楠木像と別子銅山、皇居の縁を通じて新居浜を広く知ってほしい」と話した。

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皇居外苑の楠木正成像。記事にあるとおり、光太郎の父・光雲が主任となって、東京美術学校総出で制作されれました。我が国の銅像の歴史の中では草創期の作品です。それだけにいろいろ苦労も多く、完成までに10年の歳月を要しました。後から依頼された西郷隆盛像の方が先に完成しています。

最初に住友家から銅像制作の依頼があったのは明治23年(1890)。住友家の経営する別子銅山の開坑200年記念ということで、材料の銅には別子の銅が使われることとなりました。翌年、光雲が主任を命ぜられ、原型は木彫で制作、明治26年(1893)に完成しています。下記は木型完成時のもの。壮年期の光雲主任も写っています。

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その後、鋳造に3年近くかかり、銅像の完成は明治30年(1897)、正式に除幕されたのは明治33年(1900)でした。ただ、除幕前から既に東京名所の扱いになっていたようです。

下記は当方手持ちの当時の錦絵。除幕前の明治31年(1898)の発行です。

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馬の部分を担当した後藤貞行は、「馬の足はこんな形に跳ね上がらない」と文句を言いながら作ったとか、内部が中空になっていない「無垢」の状態で、総重量が7トン近くもあるとか、エピソードにはこと欠きません。

さらに云うなら、戦中戦後のどさくさで正成の兜の前立てが持ち去られ、それを含めて補修に当たったのが、のちに鋳金の人間国宝となる光雲三男(光太郎実弟)の髙村豊周だったというエピソードもあります。

さて、『愛媛新聞』さんの記事に戻りますが、正成ゆかりの新居浜の皆さんが像の清掃をやってくださったそうで、頭が下がります。

ちなみに今上天皇ご夫妻と光太郎智恵子のご縁はこちら。
 令和元年。
 アンドルー・B・アークリー『陛下、今日は何を話しましょう』。
 二本松レポートその2 第65回安達太良山山開き。

楠公像ともども、国民に愛される存在であらせられることを祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

ギリシヤや天平の彫刻に題とのかね合ひで価値を持つ作品などは無い事も考へてくれ

散文「帝展の彫刻について 三」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

彫刻作品にわけのわからない文学的な題名を付ける風潮に対しての苦言です。光太郎自身も海外留学前の明治30年代にはそれが新しいのだ、と思いこんでそういうことをやっていましたが。