今日は新聞のみですが……。

まず『日本経済新聞』さん、10日夕刊の掲載です。

読書日記 ナレーター 近藤サト(2) 「緑色の太陽」 芸術の核心を見る手助け

美術史や美術論が好きだ。といっても評論家や研究者による論考はいまいち肌に合わず、実作者の言葉にひかれる。一方でやはりアーティストは文章より作品のほうがすばらしいのが悩ましい。

そんな中で彫刻家であり詩人の高村光太郎による芸術論『緑色の太陽』(岩波文庫)は異彩を放つ。初めて手にしたのは90年代後半だったか。一読して私が覚えたのは、憤りだった。なぜこれを、小中学校で教えてくれなかったのかと。
表題作「緑色の太陽」に光太郎は記す。「僕が青いと思ってるものを人が赤だと見れば、その人が赤だと思うことを基本として、その人がそれを赤として如何(いか)に取扱っているかをSCHAETZEN(評価)したいのである」「人が『緑色の太陽』を画いても僕はこれを非なりとは言わないつもりである。僕にもそう見える事があるかも知れないからである」
太陽を緑色で描いていい。光太郎がこれを記したのは明治43年(1910年)。私の祖父母の時代に存在した論考だ。それなのに、私が幼いとき誰もそんなことは言わず、太陽は赤と刷り込まれ、芸術の核心から遠ざけられた。大人になり自分で探さなければ「緑色の太陽」にたどり着けないなんてあんまりだ。
光太郎の芸術論は、わかっているけれど言語化できないことを鮮やかに文章にする。結論を押しつけるのではなく、違う視点を差し出して、ものを見る手助けをしてくれる。もしかしたら光太郎は自信のない、私たちによく似た人物だったのではないか。居丈高な評論とは対照的な筆致から、そんなことも感じる。

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岩波文庫の『緑色の太陽』。当会顧問の北川太一先生による編集・解説で、昭和57年(1982)に刊行されました。光太郎生前に『緑色の太陽』という書籍があったわけではなく、光太郎の評論・エッセイから30篇ほどをセレクトして一冊にまとめたものです。標題は明治43年(1910)の雑誌『スバル』に発表された同名の評論から。「日本初の印象派宣言」と評されたり、光太郎と出会う前の智恵子がこれを読んで感激したりといったものです。001

近藤さん、テレビ東京系の美術番組「美の巨人たち」でナビゲーターを務められるなど、美術にも造詣が深く、光太郎の言わんとする点をよく押さえて下さっています。

一読して私が覚えたのは、憤りだった」。えっ、何でだよ! それがすぐ「なぜこれを、小中学校で教えてくれなかったのかと」。巧い構成です。

さて、岩波文庫『緑色の太陽』。岩波さんのサイトで調べてみましたところ、「在庫なし」扱いでした。古書市場では普通に入手できますが、これを機に重版を希望します。

文庫の重版といえば、新潮文庫版の『智恵子抄』、過日、都内の新刊書店で令和になってからの重版を見かけました。百二十何版だったかでした。ありがたい。

もう1件。過日の岩手花巻「高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の件を、地元紙『岩手日日』さんが報じて下さっています。 

詩人、彫刻家遺徳しのぶ 光太郎記念館講座 受講者が詩碑巡り

【花巻】高村光太郎記念館講座「詩と林檎(りんご)のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」は7日、花巻、北上両市内で開かれた。高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表=千葉県香取市=を講師に、受講者が両市に建つ詩碑を見学。本県に大きな足跡を残した詩人、彫刻家の遺徳をしのんだ。
 光太郎作品に親しむ男女27人が受講。花巻市花城町のまなび学園を発着点に、光太郎の文字を拡大して刻まれた「開拓に寄す」太田開拓三十周年記念碑=同市太田=や「ブランデンブルグ」詩碑=北上市二子町=などを現地確認した。
 名称や所在地、建立年などが示された資料が配付されたほか、小山代表が各地で詳細に説明。花巻市双葉町内に建つ「松庵寺」詩碑の説明では「(光太郎は)戦争中は(妻の)智恵子に関する詩を書かなかったが、戦後になって初めて書いたのがこの『松庵寺』。石碑もいつかは朽ち果ててしまう物であり、次世代に語り継がなければならない。ゆかりの地である岩手の皆さん、よろしくお願いします。」と呼び掛けていた。
 専門家の解説付きで詩碑を見回る貴重な機会だけに、どの受講者も満足そうな表情。
 同市豊沢町の照井富士子さん(67)は、「きのう詩集を一冊読み終えたばかりで、改めて感動した。ホテルでの昼食もおいしかったし、とても楽しかった。来年もぜひ参加したい」と顔をほころばせていた。

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「来年」があるかどうか分からないのですが(笑)。

書かれたのは顔見知りの記者さん。さも同行したかの如き書きぶりですが、最終見学地の松庵寺さんで待ちかまえていてそこだけでの取材でした(笑)。まぁ、受講者27名プラス市役所の方々、高村光太郎記念館のスタッフの皆さんも数名ずつ同行し、バスは満席、バスの後ろから乗用車一台での移動でしたし、時間も長かったのでそんなもんでしょう。

それにしても台風19号。1週間ずれていたら、と、ぞっとしました。前日のレモン忌にしてもこの碑巡りにしても、やはり雨男・光太郎のせいで(笑)、途中、パラパラと雨に見舞われましたが、パラパラ程度で助かりました。


【折々のことば・光太郎】

からだの中で養つたもの、うまく言ひ現はせないが、何といふか、全身を搏つやうなもの、さうだ、全身から湧きあがり燃えあがるものでなければだめだ。

談話筆記「芸術する心」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

談話筆記だけに光太郎の生の声がよく表されていますね。