このブログ、どこかへ出かける際には出かける前の未明のうちに書いて投稿しています。今日はどこに出かける予定もないのですが、過日の台風15号による千葉大停電の例もあるので、やはり未明のうちに投稿してしまいます。

3件ほど。

まず、NHKさんのローカルニュースから。

近代~現代彫刻の代表作集め展示

明治から昭和初期にかけての近代彫刻から現代彫刻までの日本の立体造形の代表作を集めた展覧会が、熊本市の美術館で開かれています。

熊本市現代美術館で開催中の「きっかけは「彫刻」。」と題された展覧会は、日本で彫刻が誕生した明治から昭和初期までの近代彫刻と、それらが発展していった現代彫刻までの代表作あわせて60点が集められ、それぞれの時代を象徴する作品が楽しめます。

このうち、大正7年に制作された高村光太郎の「手」は、「考える人」で知られる彫刻家ロダンの手法を取り入れたもので、体全体ではなく、体の一部分だけで生命の躍動感を表現していて、当時としては画期的な作品です。

また、昭和13年に制作された平櫛田中の「鏡獅子試作頭」は、当時としては珍しく、ブロンズに彩色を施した作品で、歌舞伎役者をモチーフにしています。

このほかにも、ブロンズや木材といった伝統的な素材ではなく、不用品や鉄といった日常の生活で使用するもので作品を構成する現代彫刻も並べられています。

熊本市現代美術館の学芸事業班の冨澤治子主査は「時代を代表する彫刻を、360度さまざまな角度から見ることができるので、時代ごとの題材や素材の変化を楽しんでもらいたいです」と話していました。

展覧会は、来月24日まで開かれています。


熊本市現代美術館さんで開催中の企画展「2019年度国立美術館巡回展 東京国立近代美術館所蔵品展 きっかけは「彫刻」。―近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」についてです。

やはり目玉の一つということで、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が大きく取り上げられました。上記文章はWEB上で換骨奪胎してのものなのですが、動画を見るとさらに詳しく解説が為されています。

他に木彫「鯰」(大正15年=1926)も出ていますし、ご都合の付く方、ぜひどうぞ。

その「鯰」からの連想で、群馬県の地方紙『上毛新聞』さん。一面コラムです。

2019/10/10【三山春秋】〈鯰よ、/お前は氷の下で...

 ▼詩人、彫刻家、高村光太郎の詩集『智恵子抄』に収められた「鯰」(1926年)である。光太郎がこの詩とともに制作した生命感あふれる木彫小品「鯰」もまた、見るたびに強い感銘を受けてきた

 ▼伊勢崎市出身の鋳金工芸家、森村酉三(1897~1949年)の鋳金によるその作品を前にして浮かんだのは、光太郎の詩だった。県立近代美術館の企画展「没後70年 森村酉三とその時代」に展示されている最晩年の「鯰」だ。愛嬌あいきょうたっぷりの表情、伸びやかな尾の表現力に驚かされた

 ▼帝展で入選を重ね、本県の美術界の基礎を築いた功績を持ち、高崎の白衣大観音の原型を制作、前橋市の水道共用栓のデザイン、名士の胸像などを手掛けた人物として知られていた。しかし、それはごく一部だという

 ▼森村の全体像を紹介する同展では、県内外の施設や個人所有だった鳥や動物の置物などの 小品も多数集められた。小さな生き物に寄せる、温かみのある眼差しから、光太郎と重なる「詩魂」が伝わってくる

 ▼52歳という若さで亡くなったことなど、さまざまな理由で埋もれてきた森村の業績が正当に評価されるきっかけになればと願う。

執筆者氏、光太郎実弟の髙村豊周の作品が出品されていることに気付いているのかいないのか、群馬県立近代美術館さんで開催中の「没後70年 森村酉三とその時代」展の話で、光太郎を引き合いに出して下さいました。

最後に地方紙『伊豆新聞』さん。こちらは長いので引用はしません。

001
「新・埋もれ火を訪ねて」という、忘れられかけている郷土の先人を紹介する連載のようです。紹介されているのは、下田出身の詩人・鈴木白羊子。光太郎と交流のあった詩人で、そのあたりも記述して下さいました。

確認できている鈴木と光太郎の関わりは、3点。

まず、記事にある詩誌『向日葵』。光太郎は大正13年(1924)の複数の号に、ベルギーの詩人エミール・ヴェルハーレン(光太郎の表記はヹルハアラン)の訳詩を寄せています。中にはヴェルハーレンが妻マルト・マッサンとの愛の日々を謳い『智恵子抄』所収の詩篇成立にも影響を及ぼしたと考えられる「午後の時」の一部も。

それから、やはり記事にもありますが、昭和17年(1942)、鈴木の詩集『太陽花』に、光太郎が序文を寄せています。

そして、こちらは光太郎の名は寄稿者としては割愛されていますが、詩誌『太陽花』(詩集『太陽花』があって詩誌『太陽花』もあり、ややこしいのですが)。確認できている光太郎の寄稿は2回、そのうち昭和2年(1927)9月の第10号に掲載された「ブレエクのイマジネエシヨン」という散文は、『高村光太郎全集』に掲載されています。ところが、それに先立つ同じ年1月発行の第2巻第1号に発表された「栗色の顔をした野の若者よ」(ホイットマン詩の翻訳)、これが幻の作品です。当該の号が神奈川近代文学館さんに所蔵されているのですが、その掲載ページだけ破り取られています。このブログを開設した頃、平成24年(2012)にその件を書きました

情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。


【折々のことば・光太郎】

ムーヴマンといふのは、文字通り、「動き」の事。動きの無い生物の無いやうに、ムーヴマンの無い、生きた絵画彫刻も無い。

散文「ムーヴマンとは何か?」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

「ムーヴマン」は仏語の「 Mouvement」。光太郎が考えた「動勢」の語が訳語として広くあてられています。静物画でも、風景画でも、優れた作品にはそこにそれが感じられるとのこと。逆にどんなに激しいポーズを取っていても、それが感じられない死んだ彫刻もあるとも。

わかるような、わからないような、ですが(笑)。