東北レポートの2回目です。
10月6日(日)、智恵子を偲ぶレモン忌が催された福島二本松をあとにして、その日のうちに岩手花巻まで移動しました。翌日朝から夕方まで、市民講座の講師を仰せつかっていたためです。

10月6日(日)、智恵子を偲ぶレモン忌が催された福島二本松をあとにして、その日のうちに岩手花巻まで移動しました。翌日朝から夕方まで、市民講座の講師を仰せつかっていたためです。


講座のタイトルが「高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」。わざわざ当方の名なぞタイトルに入れる必要もないのですが、知らぬ間にそういうことになっていました(笑)。花巻市内と隣接する北上市で、光太郎ゆかりの石碑等をバスに乗って見て歩き、それぞれの石碑等の解説を当方が行うというツアーです。
花巻に着いたのが午後9時頃。もともとそのくらいの予定でしたし、集合場所である市の施設・まなび学園さんが市街地中心部ということで、宿泊は普段の温泉峡ではなく、在来線花巻駅前のかほる旅館さん。昔ながらの商人宿といったたたずまいです。講話を仰せつかった3年前の賢治祭の時などもかほる旅館さんでした。
市役所の方がかほる旅館さんまで車で迎えに来て下さり、集合場所のまなび学園さんへ。ここから参加者の皆さんとバスに乗り込み、いざ、ツアー開始。
下記は除幕式の集合写真。左の方に光太郎も居ます。ガタイがいいのですぐわかります(笑)。
その10分間に当方はダッシュで高村光太郎記念館さんへ。
続いて、山荘入り口の旧山口小学校。石ではなくコンクリート的な素材ですが、「正直親切」碑。かつてここにあった山口分教場が小学校に昇格した際に書いてあげた校訓です。同じ筆跡を使った碑が、光太郎の母校・東京都荒川区立第一日暮里小学校さん、それから光太郎を敬愛していた故・田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市の新宿小学校さんにもあり、そういう部分ではちょっと珍しいのではないかと思います。
バスに乗り込み、北上市へ。午前中最後の見学地・後藤地区の平和観音堂さん。
ちなみにこちらは個人が建てたものではありますが、光太郎生前唯一の、光太郎の筆跡になる光太郎詩碑です。
その後、北上駅近くのホテルで昼食。お腹もふくれたところで午後の部に突入。同じ北上市の飛勢城趾に向かいました。
平成3年(1991)、竹下内閣の際のふるさと創成事業で全国各市町村に配られた1億円を使い、北上市では平成3年(1991)、市内6ヶ所に文学碑を建立しました。その内の一つがここにある光太郎詩碑です。刻まれているのは詩「ブランデンブルグ」(昭和22年=1947)の一節。昭和25年(1950)に光太郎がこの近くで講演をした際にこの詩を朗読したというゆかりがありますし、「北上平野」の語も使われています。
ただ、以前も書きましたが、建立当初は碑のある場所からも非常に素晴らしい展望だったのが、30年近く経って繁茂した草木が展望を妨げ、碑のある場所からは何も見えなくなり、碑自体も埋もれる寸前です。下記は碑の前の展望台から撮影しました。
次の目的地はそこからほど近い石神地区の林檎園。当地の林檎栽培先駆者の一人、阿部博を顕彰する碑が建っています。
奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に
阿部のたいしよが手しほにかけた 国光紅玉デリシヤス
七・七基調の俗謡調ですので、最後は「デリシャス」と読まず「デリシヤス」と五音で読めば調子がいいようです。「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。親しみを込めてそう称したわけですね。阿部は盛岡高等農林学校で賢治の教えを受け、のち、賢治の主治医で太田村に移る直前の光太郎を自宅離れに住まわせてくれた佐藤隆房医師の家で、光太郎と知り合いました。
当方、この碑を見るのは25年ぶりくらいで、懐かしく感じました。25年前、碑の詳しい場所も分からないまま花巻駅からタクシーに乗り、「石神でリンゴやってる阿部さん」と言い、運転手さんが苦労して阿部さん宅を見つけて下さいました。さらに博氏の子息と思われる方が、「石碑はここではないんだ」と、ご自宅から少し離れたこの畑まで自家用車に乗せて下さいました。
同様に、25年ぶりに訪れたのが、次の岩手雪運株式会社花巻物流センター敷地内の「牛」碑。
元々、雪印乳業さんの花巻工場だった昭和43年(1968)、「牛」つながりで光太郎詩「牛」(大正3年=1914)の一節を刻んだ碑が建てられました。
傍らには、ここが雪印さんの工場だったという碑。平成21年(2009)の建立です。『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん今年の4月号に紹介が載っており、「こんな碑が建ったんだ」と思っていまして、初めて目にしました。
さて、いよいよ最後の訪問地、花巻市街の松庵寺さん。
こちらには光太郎碑が三基建っています。
建立順に、右が昭和48年(1973)の建立で、昭和22年(1947)、光太郎がここで二十三回忌の法要をしてもらった母・わかを偲んで詠んだ短歌「花巻の 松庵寺にて 母に会ふ はははりんごを たべたまひけり」が刻まれています。わかは大正14年(1925)に亡くなっていますが、リンゴをお供えした母に再会出来たような気がする、といった歌ですね。
左は詩「松庵寺」(昭和20年=1945)が、佐藤隆房の筆跡でブロンズパネルになっています。「松庵寺」は、詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定される「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)以来、4年ぶりに、また、戦後初めて書かれた智恵子を題材とした詩です。碑の建立は昭和62年(1987)。
中央がその「松庵寺」英訳の碑です。花巻北高校さんなどで英語の先生をなさっていた平賀六郎氏が、日本を訪れる外国の方に日本文化を知って欲しいと英訳されたもので、碑は平成20年(2008)に建てられました。
この三基の碑の前で、当方最後のご挨拶。最初と同じように、光太郎という人物の人となりの一端に触れていただくとともに、それぞれの石碑等の建てられた背景、それぞれの建立に関わった人々の胸の内にも思いを馳せていただきたかったのですが、いかがだったでしょうか、的に話をまとめました。それから、堅牢な石碑といえども永遠のものではなく、やがては地上に割れてくずおれる日も来ようかと思われますが、そうなる日が少しでもあとのばしになって欲しい、そして、光太郎の名や業績や、次の世代へと語り継ぐ責務が我々にはあるんだよ、的な話も。
そしてまなび学園さんに戻り、午後3時、解散。
一日がかりの行程でしたが、それでも割愛した石碑もかなりありました。前述の高村山荘敷地内、それから、市街地なので参加者の方々もいつでも行けるでしょうということで、市役所近くの鳥谷崎神社さんにある「一億の号泣」(昭和20年=1945)詩碑、桜町の光太郎が揮毫した賢治の「雨ニモマケズ」碑。それから、東北新幹線の新花巻駅方面に、個人の方が個人の敷地に建てた光太郎からの書簡を写した碑もあります。当方が知らない他の碑もあるかも知れません。
しかし、この日廻っただけでも、高村光太郎記念館さんのスタッフの方、市役所の方が綿密にルートや昼食場所等考えて下さったお蔭でスムーズに回れました。大感謝です。
どこかの団体さん、学校さんなどで、こうした光太郎ゆかりの地を巡る的な研修旅行等お考えでしたら、このような形で添乗致します。花巻に限らず都内でも、それから十和田湖や智恵子のゆかりの二本松、九十九里やら犬吠埼やらの房総各地などなど。お声がけ下さい。
【折々のことば・光太郎】
が、兎に角、彫刻といふものは芸術と名づくべきものゝ中(うち)で、最も原始的な自然に近いもので、野蕃人が天地の間に受けた美の観念を現す時には、先づ石や樹に何か彫刻するといつた風なことをしたもので、従つて彫刻は最も神秘的なものとも云へませう。
ただ単に手頃な素材だからというだけでなく、太古の昔から人類は石や樹木に霊性を認め、さらに新たな生命を吹き込むために彫刻を施したとも考えられます。
石碑にも似た部分が有るようにも感じます。
花巻に着いたのが午後9時頃。もともとそのくらいの予定でしたし、集合場所である市の施設・まなび学園さんが市街地中心部ということで、宿泊は普段の温泉峡ではなく、在来線花巻駅前のかほる旅館さん。昔ながらの商人宿といったたたずまいです。講話を仰せつかった3年前の賢治祭の時などもかほる旅館さんでした。
市役所の方がかほる旅館さんまで車で迎えに来て下さり、集合場所のまなび学園さんへ。ここから参加者の皆さんとバスに乗り込み、いざ、ツアー開始。
走り出してすぐの当方挨拶では、光太郎という人物の人となりの一端に触れていただくとともに、これから巡るそれぞれの石碑等の建てられた背景、それぞれの建立に関わった人々の胸の内にも思いを馳せていただきたい、的な話をさせていただきました。
さて、最初の目的地、花巻北高校さん。旧制花巻中学校の後身です。有名な卒業生は元NHKさんの名物アナ、故・高橋圭三さん、それからご卒業はされていないということですが、ミュージシャンの故・大瀧詠一さんなどなど。高校さんと光太郎に直接の関わりはありませんが、光太郎の精神に学んでほしいという昭和51年度(1976年度)の卒業生保護者の皆さんにより、高田博厚作の光太郎胸像(原型・昭和34年=1959)、台座に光太郎詩「岩手の人」(昭和24年=1949)の一節が刻まれています。
さて、最初の目的地、花巻北高校さん。旧制花巻中学校の後身です。有名な卒業生は元NHKさんの名物アナ、故・高橋圭三さん、それからご卒業はされていないということですが、ミュージシャンの故・大瀧詠一さんなどなど。高校さんと光太郎に直接の関わりはありませんが、光太郎の精神に学んでほしいという昭和51年度(1976年度)の卒業生保護者の皆さんにより、高田博厚作の光太郎胸像(原型・昭和34年=1959)、台座に光太郎詩「岩手の人」(昭和24年=1949)の一節が刻まれています。
続いて、花巻温泉の「金田一国士頌碑」。昨年、国の登録有形文化財に指定された旧松雲閣別館の、道をはさんだ向かいにひっそり建っています。
グループ企業としての花巻温泉社長だった金田一国士の業績を称える碑で、金田一の没後10年の昭和25年(1950)に建立。碑文の詩「金田一国士頌」を光太郎がこのために作りました。光太郎生前唯一の、オフィシャルな光太郎詩碑です。ただし、書は光太郎の筆跡ではなく金田一の腹心でもあった太田孝太郎の手になるもの。太田は盛岡銀行の常務などを務めるかたわら、書家としても活動していました。
下記は除幕式の集合写真。左の方に光太郎も居ます。ガタイがいいのですぐわかります(笑)。
その後、豊沢川にかかるかつて光太郎も渡ったであろうことから命名された「高村橋」を渡り、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)のある旧太田村へ。ここで高村山荘、そして隣接する高村光太郎記念館さんの駐車場にまずバスを駐め、10分のトイレ休憩。
その10分間に当方はダッシュで高村光太郎記念館さんへ。
また来月初めにゆっくり見に行きますし、明日、詳しくご紹介しますが、企画展「高村光太郎書の世界」が開催中です。
さて、山荘敷地内にも光太郎関連の碑が4つあるのですが、時間の関係で割愛。山荘の土地を提供してくれた駿河重次郎が、戦死した子息の追善供養のため、かつて光太郎に貰った書を昭和32年(1957)になって石に写して建てた「金剛心」碑を見学。
さて、山荘敷地内にも光太郎関連の碑が4つあるのですが、時間の関係で割愛。山荘の土地を提供してくれた駿河重次郎が、戦死した子息の追善供養のため、かつて光太郎に貰った書を昭和32年(1957)になって石に写して建てた「金剛心」碑を見学。
この日初めて、光太郎筆跡による碑ということになります。
続いて、山荘入り口の旧山口小学校。石ではなくコンクリート的な素材ですが、「正直親切」碑。かつてここにあった山口分教場が小学校に昇格した際に書いてあげた校訓です。同じ筆跡を使った碑が、光太郎の母校・東京都荒川区立第一日暮里小学校さん、それから光太郎を敬愛していた故・田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市の新宿小学校さんにもあり、そういう部分ではちょっと珍しいのではないかと思います。
さらにこの地区の共同墓地。「金剛心」碑同様に駿河翁の肝いりで、光太郎の書を写した「皆共成仏道」碑。訓読すれば「皆共に仏道と成る」。「金剛心」ともども仏典由来の言葉です。昭和34年(1959)の建立です。
この周辺が林檎畑。講座のタイトル「詩と林檎のかおりを求めて」の通りでした。
旧山口小学校跡地の向かいにある「太田開拓三十周年記念碑」。昭和51年(1976)の建立で、光太郎詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)の一節が刻まれています。曰く「開拓の精神を失ふ時、 人類は腐り、 開拓の精神を持つ時、 人類は生きる」云々。まがりなりにも農作業に従事していた光太郎の言葉だからこそ、重みがありますね。バスに乗り込み、北上市へ。午前中最後の見学地・後藤地区の平和観音堂さん。
当地で教師をしていた高橋峯次郎という人物が、戦没者供養のために建てたもので、ここの一角に光太郎碑が建っています。高橋は自らも日露戦争への従軍経験を持ち、その後は永らく教師を務めましたが、その間の教え子約500人が出征、約130人が遺骨で帰ってきたそうです。その霊を弔うため、寄付も集めず自費で観音堂の建設を発願、昭和27年(1952)、光太郎に本尊の彫刻を依頼しました。しかし光太郎は彫刻制作を封印している最中で、代わりに観音讃仰の詩を書いた書を高橋に贈り、高橋が石碑にしたというわけです。くわしくはこちら。
こちらの一行が着いた時、地元小学生の一団がやはり見学に訪れていました。ただし、光太郎碑というより、高橋の事績の学習のようでした。ついでで結構ですので(笑)、光太郎との関わりなども教えていただきたいものです。
ちなみにこちらは個人が建てたものではありますが、光太郎生前唯一の、光太郎の筆跡になる光太郎詩碑です。
その後、北上駅近くのホテルで昼食。お腹もふくれたところで午後の部に突入。同じ北上市の飛勢城趾に向かいました。
平成3年(1991)、竹下内閣の際のふるさと創成事業で全国各市町村に配られた1億円を使い、北上市では平成3年(1991)、市内6ヶ所に文学碑を建立しました。その内の一つがここにある光太郎詩碑です。刻まれているのは詩「ブランデンブルグ」(昭和22年=1947)の一節。昭和25年(1950)に光太郎がこの近くで講演をした際にこの詩を朗読したというゆかりがありますし、「北上平野」の語も使われています。
ただ、以前も書きましたが、建立当初は碑のある場所からも非常に素晴らしい展望だったのが、30年近く経って繁茂した草木が展望を妨げ、碑のある場所からは何も見えなくなり、碑自体も埋もれる寸前です。下記は碑の前の展望台から撮影しました。
続いて花巻市に戻り、文化センターでトイレ休憩。ここで、予定を変更し、急遽、ぎんどろ公園の宮澤賢治の「早春」詩碑も見学しました。
この日、二番目に訪れた花巻温泉の「金田一国士頌」碑と、どうやら同じ石材から切り出された双子の碑、という話を「金田一国士頌」碑の前でしたところ、時間もあるし、ついでに見ておきましょうということになった次第です。林檎を包丁でスパッと半分に切った状態を思い浮かべていただけると話が早いのですが、なるほど、二つの碑を碑面で合わせればぴったりくっつきそうです。
次の目的地はそこからほど近い石神地区の林檎園。当地の林檎栽培先駆者の一人、阿部博を顕彰する碑が建っています。
刻まれているのは光太郎の筆跡で、阿部のために光太郎が即興で作った詩「酔中吟」。
奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に
阿部のたいしよが手しほにかけた 国光紅玉デリシヤス
七・七基調の俗謡調ですので、最後は「デリシャス」と読まず「デリシヤス」と五音で読めば調子がいいようです。「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。親しみを込めてそう称したわけですね。阿部は盛岡高等農林学校で賢治の教えを受け、のち、賢治の主治医で太田村に移る直前の光太郎を自宅離れに住まわせてくれた佐藤隆房医師の家で、光太郎と知り合いました。
当方、この碑を見るのは25年ぶりくらいで、懐かしく感じました。25年前、碑の詳しい場所も分からないまま花巻駅からタクシーに乗り、「石神でリンゴやってる阿部さん」と言い、運転手さんが苦労して阿部さん宅を見つけて下さいました。さらに博氏の子息と思われる方が、「石碑はここではないんだ」と、ご自宅から少し離れたこの畑まで自家用車に乗せて下さいました。
同様に、25年ぶりに訪れたのが、次の岩手雪運株式会社花巻物流センター敷地内の「牛」碑。
元々、雪印乳業さんの花巻工場だった昭和43年(1968)、「牛」つながりで光太郎詩「牛」(大正3年=1914)の一節を刻んだ碑が建てられました。
傍らには、ここが雪印さんの工場だったという碑。平成21年(2009)の建立です。『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん今年の4月号に紹介が載っており、「こんな碑が建ったんだ」と思っていまして、初めて目にしました。
表面には光太郎肖像写真、裏面には光太郎の事績が刻まれています。ありがたし。
さて、いよいよ最後の訪問地、花巻市街の松庵寺さん。
こちらには光太郎碑が三基建っています。
建立順に、右が昭和48年(1973)の建立で、昭和22年(1947)、光太郎がここで二十三回忌の法要をしてもらった母・わかを偲んで詠んだ短歌「花巻の 松庵寺にて 母に会ふ はははりんごを たべたまひけり」が刻まれています。わかは大正14年(1925)に亡くなっていますが、リンゴをお供えした母に再会出来たような気がする、といった歌ですね。
左は詩「松庵寺」(昭和20年=1945)が、佐藤隆房の筆跡でブロンズパネルになっています。「松庵寺」は、詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定される「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)以来、4年ぶりに、また、戦後初めて書かれた智恵子を題材とした詩です。碑の建立は昭和62年(1987)。
中央がその「松庵寺」英訳の碑です。花巻北高校さんなどで英語の先生をなさっていた平賀六郎氏が、日本を訪れる外国の方に日本文化を知って欲しいと英訳されたもので、碑は平成20年(2008)に建てられました。
この三基の碑の前で、当方最後のご挨拶。最初と同じように、光太郎という人物の人となりの一端に触れていただくとともに、それぞれの石碑等の建てられた背景、それぞれの建立に関わった人々の胸の内にも思いを馳せていただきたかったのですが、いかがだったでしょうか、的に話をまとめました。それから、堅牢な石碑といえども永遠のものではなく、やがては地上に割れてくずおれる日も来ようかと思われますが、そうなる日が少しでもあとのばしになって欲しい、そして、光太郎の名や業績や、次の世代へと語り継ぐ責務が我々にはあるんだよ、的な話も。
そしてまなび学園さんに戻り、午後3時、解散。
一日がかりの行程でしたが、それでも割愛した石碑もかなりありました。前述の高村山荘敷地内、それから、市街地なので参加者の方々もいつでも行けるでしょうということで、市役所近くの鳥谷崎神社さんにある「一億の号泣」(昭和20年=1945)詩碑、桜町の光太郎が揮毫した賢治の「雨ニモマケズ」碑。それから、東北新幹線の新花巻駅方面に、個人の方が個人の敷地に建てた光太郎からの書簡を写した碑もあります。当方が知らない他の碑もあるかも知れません。
しかし、この日廻っただけでも、高村光太郎記念館さんのスタッフの方、市役所の方が綿密にルートや昼食場所等考えて下さったお蔭でスムーズに回れました。大感謝です。
どこかの団体さん、学校さんなどで、こうした光太郎ゆかりの地を巡る的な研修旅行等お考えでしたら、このような形で添乗致します。花巻に限らず都内でも、それから十和田湖や智恵子のゆかりの二本松、九十九里やら犬吠埼やらの房総各地などなど。お声がけ下さい。
【折々のことば・光太郎】
が、兎に角、彫刻といふものは芸術と名づくべきものゝ中(うち)で、最も原始的な自然に近いもので、野蕃人が天地の間に受けた美の観念を現す時には、先づ石や樹に何か彫刻するといつた風なことをしたもので、従つて彫刻は最も神秘的なものとも云へませう。
談話筆記「彫刻の話」より 大正7年(1918) 光太郎35歳
ただ単に手頃な素材だからというだけでなく、太古の昔から人類は石や樹木に霊性を認め、さらに新たな生命を吹き込むために彫刻を施したとも考えられます。
石碑にも似た部分が有るようにも感じます。