昨日は埼玉県和光市に行き、オペラ歌手・和田タカ子さん主催のトークイベント「オペラ勧進 歌と芸術よもやま話 「智恵子抄」を読み解いてみませんか」を拝聴して参りました。
会場は東武東上線和光市駅近くの さん。
月に1回、オペラにまつわる様々なお話を和田さんがなさる催しで、今回が134回目だそうです。ギャラリーは20名ほど。当方以外は常連さんのようでした。
和田さん、仙道作三氏作曲、山本鉱太郎氏脚本、当会顧問・北川太一先生監修の「オペラ智恵子抄」に4回出演されたそうで、その関連のお話もなされました。それに関連して、光太郎令甥の故・髙村規氏の思い出なども。
本題は智恵子の人となり、芸術的足跡。一般の方にもわかりやすいよう、お手持ちの書籍の図版などを示されつつ、語られました。
和田さん、過日、NHKBSプレミアムさんで放映された「偉人たちの健康診断「東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」」をご覧になって、いろいろ思うところがあり、今回、智恵子を取り上げられたとのこと。
智恵子色覚異常説についても言及されました。当方にも振られたのでお話しさせていただきました。オンエア後のレポートにも書きましたが、番組内で「智恵子は色覚異常だった」とほぼ断定していたのは問題です。
智恵子色覚異常説の根拠は主に二点。一つは、智恵子が福島高等女学校時代の親友・上野ヤスに「自分は色覚異常だ」と語ったというエピソード。もう一つは、結局、油絵画家として大成できなかったという状況証拠です。その他、智恵子がエメラルドグリーンを好んで多用していたのを色覚異常に結びつけようとする向きもありますが、これは牽強付会と言わざるを得ないでしょう。
反証はいくらでも上げられます。まず、上野ヤス以外に智恵子から色覚の件を話されたという人物がいないこと。色覚に関し智恵子がきちんと医師の診断を受けた記録がないこと。智恵子の血縁に色覚異常者がいたという記録もないこと(100%遺伝ですので、特に血縁男性に同じ症状が出ていなければおかしいのです)。女性の場合は発症率が500人に1人と、非常に低いこと。そして何より、晩年の紙絵。あの色鮮やかな作品の数々には、異常性が感じられません。
この世界、結構そういう例があるのですが、誤った伝聞や判断、証拠不十分の仮説が「定説」となってしまうのが恐ろしいと感じています。
会場は東武東上線和光市駅近くの さん。
月に1回、オペラにまつわる様々なお話を和田さんがなさる催しで、今回が134回目だそうです。ギャラリーは20名ほど。当方以外は常連さんのようでした。
和田さん、仙道作三氏作曲、山本鉱太郎氏脚本、当会顧問・北川太一先生監修の「オペラ智恵子抄」に4回出演されたそうで、その関連のお話もなされました。それに関連して、光太郎令甥の故・髙村規氏の思い出なども。
本題は智恵子の人となり、芸術的足跡。一般の方にもわかりやすいよう、お手持ちの書籍の図版などを示されつつ、語られました。
和田さん、過日、NHKBSプレミアムさんで放映された「偉人たちの健康診断「東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」」をご覧になって、いろいろ思うところがあり、今回、智恵子を取り上げられたとのこと。
智恵子色覚異常説についても言及されました。当方にも振られたのでお話しさせていただきました。オンエア後のレポートにも書きましたが、番組内で「智恵子は色覚異常だった」とほぼ断定していたのは問題です。
智恵子色覚異常説の根拠は主に二点。一つは、智恵子が福島高等女学校時代の親友・上野ヤスに「自分は色覚異常だ」と語ったというエピソード。もう一つは、結局、油絵画家として大成できなかったという状況証拠です。その他、智恵子がエメラルドグリーンを好んで多用していたのを色覚異常に結びつけようとする向きもありますが、これは牽強付会と言わざるを得ないでしょう。
反証はいくらでも上げられます。まず、上野ヤス以外に智恵子から色覚の件を話されたという人物がいないこと。色覚に関し智恵子がきちんと医師の診断を受けた記録がないこと。智恵子の血縁に色覚異常者がいたという記録もないこと(100%遺伝ですので、特に血縁男性に同じ症状が出ていなければおかしいのです)。女性の場合は発症率が500人に1人と、非常に低いこと。そして何より、晩年の紙絵。あの色鮮やかな作品の数々には、異常性が感じられません。
この世界、結構そういう例があるのですが、誤った伝聞や判断、証拠不十分の仮説が「定説」となってしまうのが恐ろしいと感じています。
例えば……
・智恵子が『青鞜』の表紙絵に描いたのはスズランである。
↓
「アマドコロ」という全く別の植物です。
・智恵子は、故郷で医師との縁談が進んでいた。
↓
相手とされる医師はその時点で既に結婚していました。
・智恵子の心の病は脳梅毒によるものである。
↓
光太郎智恵子ともその検査を受け、陰性と診断されています。
・宮澤賢治の「雨ニモマケズ」中の「ヒドリノトキハ」を「ヒデリ
ノトキハ」と改竄したのは光太郎で、そのために花巻の賢治 詩碑に「ヒデリ」と刻まれている。
↓
光太郎が碑文を揮毫する以前から「ヒデリノトキハ」の形で流布していました。
・花巻郊外の料亭で光太郎が出刃包丁で座卓に大きく文字を刻みつけた。
↓
店の主人が正体不明の老人を、あれはきっと高村光太郎だろう、と思ったに過ぎません。
・光太郎は「うつくしきもの三つ」という書を残している。「三つ」うちの一つは……。
↓
「満つ」の「満」を変体仮名的にカタカナで「ミ」と書いたものです。
・靖国神社の狛犬は光太郎が原型を作成した。
↓
全くの別人の作です。どこから光太郎の名が結びつけられたのかも不明です。
他にもありますが、きりがないので……。
閑話休題。和田さん、ご自身オペラ歌手ですが、最近はプロデュースの方面でご活躍なさっています。そうした中で、オペラの普及のためにということで、「オペラ勧進」。
今後とも、ご活躍を祈念いたしております。
オペラの「智恵子抄」、仙道氏以外にも原嘉壽子さんという方も作曲なさり(台本・まえだ純氏)、昭和60年(1985)に初演がなされました。当方、NHKさんのFM放送で拝聴しました。
なかなかオペラでの上演は難しいかもしれませんが、合唱曲、独唱歌曲などにもなっていますし、インストゥルメンタルでも「智恵子抄」へのオマージュ的な取り組みがなされています。
もっともっといろいろな方に、それぞれの味付けで取り上げていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
詩歌の城に詩は住まず、 そこに住むのは家老ばかり、 とうの昔に町へ出て 殿さま御帰還あそばさず。
他の詩を書いた原稿用紙の欄外に走り書きされ、赤鉛筆で抹消されています。のち、『現代詩人全集第九巻』(昭和4年=1929)に収められた際、後半2行が「威儀三千は家老に問へ 詩だけはただの親父にきかう」と改められました。
詩人としての魂を、浮世離れしたお城のようなところに閉じこめ、花鳥風月を愛でてばかりいるようではだめだ、もっと世の中を見ろ、ということでしょうか。この時期、プロレタリア詩の方向に傾きつつあった心境が垣間見えます。

・智恵子が『青鞜』の表紙絵に描いたのはスズランである。
↓
「アマドコロ」という全く別の植物です。
・智恵子は、故郷で医師との縁談が進んでいた。
↓
相手とされる医師はその時点で既に結婚していました。
・智恵子の心の病は脳梅毒によるものである。
↓
光太郎智恵子ともその検査を受け、陰性と診断されています。
・宮澤賢治の「雨ニモマケズ」中の「ヒドリノトキハ」を「ヒデリ
ノトキハ」と改竄したのは光太郎で、そのために花巻の賢治 詩碑に「ヒデリ」と刻まれている。
↓
光太郎が碑文を揮毫する以前から「ヒデリノトキハ」の形で流布していました。
・花巻郊外の料亭で光太郎が出刃包丁で座卓に大きく文字を刻みつけた。
↓
店の主人が正体不明の老人を、あれはきっと高村光太郎だろう、と思ったに過ぎません。
・光太郎は「うつくしきもの三つ」という書を残している。「三つ」うちの一つは……。
↓
「満つ」の「満」を変体仮名的にカタカナで「ミ」と書いたものです。
・靖国神社の狛犬は光太郎が原型を作成した。
↓
全くの別人の作です。どこから光太郎の名が結びつけられたのかも不明です。
他にもありますが、きりがないので……。
閑話休題。和田さん、ご自身オペラ歌手ですが、最近はプロデュースの方面でご活躍なさっています。そうした中で、オペラの普及のためにということで、「オペラ勧進」。
今後とも、ご活躍を祈念いたしております。
オペラの「智恵子抄」、仙道氏以外にも原嘉壽子さんという方も作曲なさり(台本・まえだ純氏)、昭和60年(1985)に初演がなされました。当方、NHKさんのFM放送で拝聴しました。
なかなかオペラでの上演は難しいかもしれませんが、合唱曲、独唱歌曲などにもなっていますし、インストゥルメンタルでも「智恵子抄」へのオマージュ的な取り組みがなされています。
もっともっといろいろな方に、それぞれの味付けで取り上げていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
詩歌の城に詩は住まず、 そこに住むのは家老ばかり、 とうの昔に町へ出て 殿さま御帰還あそばさず。
詩断片「偶作(詩歌の城に)」異稿全文
大正12年(1923) 光太郎41歳
他の詩を書いた原稿用紙の欄外に走り書きされ、赤鉛筆で抹消されています。のち、『現代詩人全集第九巻』(昭和4年=1929)に収められた際、後半2行が「威儀三千は家老に問へ 詩だけはただの親父にきかう」と改められました。
詩人としての魂を、浮世離れしたお城のようなところに閉じこめ、花鳥風月を愛でてばかりいるようではだめだ、もっと世の中を見ろ、ということでしょうか。この時期、プロレタリア詩の方向に傾きつつあった心境が垣間見えます。