001当会発行の冊子『光太郎資料』60集、完成しました。今日明日で関係各所に発送いたします。

元は当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められたものです。その後、様々な「資料」を掲載、36集まで不定期に発行されていました。平成24年(2012)から倒壊として誌名を引き継がせていただき、当会として会報的に年2回発行しております。1回は光太郎忌日・連翹忌に合わせ4月、1回は明日の智恵子忌日「レモンの日」に合わせた日付としています。

北川先生の時代には、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、その点は引き継がせていただいております。表紙の題字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。

今号の目次は以下の通り。
008
・「光太郎遺珠」から 第二十四回 書(その一)
平成10年(1998)の『高村光太郎全集』完結後も、続々と見つかり続けている光太郎作品の紹介を、「光太郎遺珠」の題名で『高村光太郎研究』という雑誌に連載させていただいておりますが、そちらをテーマ別に再編。今号と次号で「書」に絞って紹介します。

光太郎自身は「書家」を名乗ったことはないのですが、早くから書の優品を数多く残し、日本書道史上に得意な存在感を放っています。今号では戦前、戦時中に書かれた書。昭和17年(1942)、前年の真珠湾攻撃の際に戦功を立てて戦死した「九軍神」の隊長格・岩佐直治中佐の遺族に贈った書(これまで未確認)、詩人・高祖保や漫画家・池田永ー治(永治)に贈った書など。

光太郎回想・訪問記 わが文学半生記 より 江口渙
光太郎と交流のあった人物による光太郎回想。光太郎自身が書き残さなかったエピソードがあったり、記録はあるものの詳細が不明だった事柄の捕捉になったりと、貴重な証言です。

今号では、芥川龍之介と親しかった江口渙の回想。智恵子の印象や、光太郎の書を巡る江口と芥川とのバトルなどが描かれています。

・光雲談話筆記集成 大黒天鋳造苦心談
昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』以外に、様々な雑誌や書籍に発表された光太郎の父・光雲の談話筆記もまとめています。「大黒天鋳造苦心談」は、明治43年(1910)『みつこしタイムス』第8巻第5号より。同誌は日本橋三越呉服店のPR誌です。この年、同店常務取締役の藤村喜七の勤続50年表彰が行われ、その際に同店から藤村に贈られた光雲作の純金製大黒天像に関わります。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第二十四回  取手(茨城県)
見つけるとついつい購入してしまう(最近はこの項を書くため積極的に探していますが)、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書。それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今回は光太郎の筆跡が刻まれた石碑等が複数残る、茨城取手
007
・音楽・レコードに見る光太郎  第二十四回  舞踊「智恵子抄」藤間節子/小村三千三
昭和24年(1949)、光太郎と交流のあった舞踊家・藤間節子による舞踊「智恵子抄」公演があり、その後、何度か再演されています。劇伴作曲が「歌の町」(よい子が住んでるよい町は……)などの作曲でも知られている小村三千三。そのあたりについてまとめました。
009
・高村光太郎初出索引
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では昭和2年(1927)に初出があったものを掲載しました。この年、一気に寄稿先が増えています。

・第六十七回連翹忌報告
コロナ禍により3回連続で中止としていた4月2日の連翹忌の集いを今年再開させましたので、そのレポートも復活しました。
010 011
ご入用の方にはお頒けいたします(ご希望が有れば37集以降のバックナンバーで、品切れとなっていない号も)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。申し訳ありませんが手数料はご負担下さい。

012
ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

今号のみ欲しい、などという方は、このブログのコメント欄等でご連絡いただければと存じます。送料プラスアルファで1冊200円とさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】013

右の親指がまだ少し不自由なので字がいく分平常と違つてゐるでせう、


昭和15年(1940)11月5日
 更科源蔵宛書簡より 光太郎58歳

更科の詩集『凍原の歌』の題字を揮毫したことに関わります。この頃、右手の親指に腫れ物ができ、各種執筆に不自由を来していました。確かにこの種の光太郎揮毫としては、あまり上手くない文字です。