2024年04月

光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動の関係で、昨日も上京しておりました。

行き先は「三岸アトリエ/アトリエM」さん。画家の三岸好太郎(明36=1903~昭9=1934)・節子(明38=1905~平11=1999)夫妻のアトリエで、不定期に開催される一般公開の日に当たっていました。先日、中西アトリエ保存意見交換会の第3回会合がやはり中野区で行われ、その席上で話題に上り、光太郎と三岸夫妻の直接の交流は確認できていませんが、同じ中野区ということもあり、足を運んだ次第です。
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現地は鷺宮の住宅街で、カーナビは新青梅街道から信号のない交差点を右に入って数十㍍と指示。「えっ、こんなとこ入ってくの?」というような狭い路地でした。駐車スペースはなく、アトリエ前を通り過ぎて突き当たりを左折、数百㍍行ったところに三井のリパークを見つけて愛車を置き、歩きました。立地条件的には中西アトリエと似たような感じです。
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建物は昭和9年(1934)竣工、設計は山脇巌。山脇はドイツのバウハウスで学んだ建築家です。現在の外観は戦時中の空襲による被害の修理で手が入っていますので、一見するとバウハウス感があまりないのですが、古写真を見ると竣工当時はコッテコテのバウハウス風ですね。昭和9年(1934)当時、かなり目をひいたのではないでしょうか。
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早速、内部へ。三岸夫妻の令孫に当たられる山本愛子様が対応して下さいました。
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入口を入ると、まず応接スペースとして使われていたエントランス。
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節子の写真も。
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左手の小部屋を通り抜けると、広々としたアトリエです。
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まず驚いたのが、窓が南面していること。通常、アトリエは北から採光するものです。南からの陽光は時刻によってかなり変わってしまうので。なぜこうなっているのか、山本様もよくわからないとのことでした。
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節子と好太郎、波乱に充ちた二人の生涯にしばし思いを馳せました。節子の方はつい先月、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」でも取り上げられましたし。

エントランスとの間の小部屋、螺旋階段を上がった二階部分の座敷、廊下、中庭等も拝見。
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アトリエ内の古写真。上でご紹介した外観同様、無料でいただけるポストカードです。
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気になるこのアトリエの活用法について、山本様に伺いました。この手の建築、単に保存するだけでなく、どう活用するかが肝心です。

すると、「三岸アトリエ/アトリエM」というのがこちらの正式名称で、レンタルス多ジオ的な活用が為されているとのこと。
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ここで撮影が行われた写真が載っているというファッション誌を拝見。なるほど、いい感じでした。現代の写真スタジオでは醸し出しようのない、有機的な空気感というか何というか、そういうものが感じられる写真が掲載されていました。その点、南面の窓から差し込む光がいい方向に作用しているようです。

それから、さらに驚いたのが、映画の撮影でも使われたというお話。吉高由里子さん、横浜流星さん主演の「きみの瞳(め)が問いかけている」(令和2年=2020)でした。
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2月にやはり吉高さん主演の映画「風よ あらしよ 劇場版」を拝見したばかりでしたので、なおさら驚きました。

いわゆる「聖地巡礼」でこちらを訪れる方もいらっしゃるそうで、それも驚きでした。

それ以外にもギャラリーや講演会の会場、さらに予約制ながらカフェとしても活用されているとのこと。維持管理していくランニングコストという部分を考えると、ご苦労が覗えました。国の登録有形文化財指定は受けているものの、それによる経済的なメリットはないとのことでしたし。

光太郎の使った中西アトリエ、保存が為されたとしても、どのように活用していくべきなのか、ほんとに大きな課題だな、と感じました。

火のない所に煙は立てるわけにもいかないので、かつては中西アトリエの保存にからめた記述は避けてきましたが、当方、各地の「○○生家」や古建築を使った「××記念館」などを数十個所廻りましたその裏側には、それらがどのような経過でそこに存在しているのか、維持管理運営などをいかにして行っているのか、その母体は、原資は、などといった点からの興味もありました。いずれ中西アトリエでもそうした動きが起こるかも、という推測の元に、でした。

現実にアトリエ保存運動が起きて一枚噛ませていただくことになり、そうした点への興味・関心がますますつのっております。

今後は特に光太郎智恵子・光雲らとの縁故はあまり考えず、そうしたスポットを折に触れて見て回ろうと思っております。「ぜひここは見ておいた方がいいよ」という場所がありましたら、ご教示いただけると幸いです。

それから「三岸アトリエ/アトリエM」の公開、5月5日(日)と5月11日(土)にも開催されるそうです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昨日開墾にゐる復員者の青年から配給の蚊帳を譲つてもらひました。青年は二帳持つてゐるので不用との事でした。六尺-八尺の一人用白蚊帳で中々よろしく、代金二百六十円。今日としてはやすいと思ひます。


昭和22年(1947)7月16日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、山裾ですので湿気が多く、ボウフラもかなりわいていたのでは、と思われます。

それにしても、今さらながらにこの小屋が光太郎没後に村人達や花巻病院長・佐藤隆房(初代花巻高村記念会理事長)、宮沢家などの尽力によって保存されるにいたり、現代まで残されていることに感慨深い思いです。

過日ご紹介した「花巻周遊デジタルスタンプラリー」について、地方紙『岩手日報』さんから。

温泉も まちも楽しんで 花巻北高生CF企画スタンプラリー27日開始 スマホ使い参加 市内観光地周遊

 花巻北高(佐々木信明校長、生徒675人)の2年生4人は27日、花巻市内の観光地などを巡る周遊デジタルスタンプラリーを始める。2月に実施したクラウドファンディング(CF)で善意が集まり企画が実現。花巻温泉郷にとどまらない魅力あるスポットを観光客らにアピールする。
 ラリーは温泉施設のほか、昭和の学校など見学体験施設、そばやジェラートといった飲食店の計20カ所が参加。5月27日までに、スマートフォンで各所にある2次元コードを読み取るとスタンプがたまる。
 景品は2種類を準備。スタンプ3個以上か6個以上でそれぞれ抽選に応募でき、市内5企業が提供する地元の特産品などが当たる。どのように施設を巡りスタンプを獲得したかなど、計測データを基に新たな観光アイデアを検討し市に提案する。
 メンバーは菊池碧斗(あおと)さん、伊藤琉賀(りゅうが)さん、三瓶由偉(ゆうい)さん、斎藤蒼大(そうた)さん。探求活動の一環で2023年度から企画に取り組み、2月にCFに挑戦。目標額を7万円余り上回る67万600円が集まった。支援者からは「楽しい街に変える企画」「若いエネルギーにワクワクしている」など多くの応援メッセージが届いた。
 同市大通りのビアバル「リットワークプレイス」を経営するトルクストの高橋亮代表(39)は「企画の完成度が高い。(自身も)温泉以外の魅力をつくりたいとの思いで事業を始めた。ぜひ次につなげてほしい」と応援する。
 4人は春休みを利用して各店舗に自作のポスターやチラシを配り準備に励んだ。斎藤さんは「地元住民のまちを活性化したいとの思いや応援の気持ちに触れ、一緒に頑張りたかった。花巻の暖かさに触れてほしい」と力を込めた。
 ラリーへの参加や抽選への応募は特設ウェブサイトで受け付けている。

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過日も書きましたが、スタンプがもらえるポイントに、高村山荘・高村光太郎記念館さんも含まれています。

ところで高村光太郎記念館さんでは、同じく昨日からテーマ展「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催されています。

市役所さんから通知が来たのですが、送られてきた画像が切れており、会期が分かりません。
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「これじゃ宣伝しようがありません」と返信したのですが、ナシのつぶて。市のHPにも何らの情報も出ていませんし(昨年行った同名の展示の情報は残っていますが――また、2年続けて同じ企画というのもどうかと思いますし……)、館のX(旧ツイッター)は2年近く更新されていません。

苦言を呈させていただけるなら、真剣に集客を考えているのか? と感じざるを得ません。困ったものです。

閑話休題、やる気に溢れている花巻北高生さん考案のスタンプラリーは、ぜひ皆さん、チャレンジして下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫刻はまだ出来ません。仕事部屋が出来ないので当分は手がつきません。畑や開墾にはいろいろのものをつくり、副食物は自給してゐます。此辺には山菜もあるので仕合です。

昭和22年(1947)7月15日 山端静子宛書簡より 光太郎65歳

山端静子は光太郎の直ぐ下の妹。鎌倉在住でした。鎌倉では令孫夫妻が「カフェ兼ギャラリー笛」さんを経営なさっています。

キーワード「乙女の像」でヒットしました。

4月26日(金)、RAB青森放送さんのローカルニュース。

十和田湖遊覧船運航開始

あすから最大で10日間の大型連休が始まります。十和田湖では遊覧船の運航が始まり、観光客は春の装いに変わり始めた景色を楽しんでいました。
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十和田湖遊覧船はきょうから運航が始まり、地元の人たちが観光客を見送りました。ことしも中山半島と御倉半島を巡る休屋発着便と、休屋と子ノ口を結ぶ便の2つのコースで1日12便が運航されます。
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恵比須大黒島や乙女の像を眺めながら進むと、雪が残る外輪山に囲まれた十和田湖が目の前に広がります。
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また緑色に色づき始めた木々の中にヤマザクラが咲いていて、訪れた観光客は春の装いに変わり始めた景色を眺めながらおよそ1時間の遊覧を楽しんでいました。
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★観光客
「ゆっくりと大自然の中でいい感じです」
「きれいですねほんとうに、自然が豊かに残っていてこんなにきれいなところだとは思っていませんでした。感激しました」
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遊覧船を運航している十和田観光電鉄によりますと去年の乗客7万8,000人のうち外国人観光客は約1万人で、インバウンドはコロナ禍前まで回復しているということです。
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★十和田観光電鉄 佐藤行洋社長
「十和田湖、いろんな意味で自然という部分で大変豊かなところですし休屋もだいぶ変わってきたというか、新しい魅力のある十和田湖・休屋になってきたのかなと思うのでそういう楽しみ方をしていただきたい」
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十和田湖遊覧船は11月18日まで運航されます。
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11月18日(月)の頃は、紅葉シーズンなのでしょう。それまでの間、多くの方が乗船なさることを祈念いたします。4月13日(土)から、青森・八戸~十和田湖休屋までのJRバスの運行も始まっているそうです。

【折々のことば・光太郎】

南海の名物鰹節をいただき、何よりのものとよろこびました。ウルヰ、シドケのやうな山菜も此のこの黒潮の味と香りとを得て一段と美味を加へる事でせう。

昭和22年(1947)7月9日 東正巳宛書簡より 光太郎65歳

東正巳は三重県在住、公立学校の事務職員を務めるかたわら詩歌句に親しみ、同人雑誌等を刊行、光太郎も寄稿していました。

ウルヰ」はオオバギボウシ(大葉擬宝珠)、「シドケ」はモミジガサ(紅葉笠・紅葉傘)。現代でも食されている山菜です。光太郎、鰹節を添えたおひたしにでもしていたのでしょう。

此のこの」は当方ではなく、光太郎の誤記です(笑)。

いわき市立草野心平記念文学館名誉館長の粟津則雄氏が亡くなりました。

『いわき民報』さん。

粟津則雄さん死去 ランボー研究の第一人者 草野心平記念文学館の初代館長も

000 フランスの詩人ランボーの研究などで知られる文芸評論家・仏文学者で、市立草野心平記念文学館の初代館長を務め、その後も名誉館長として事業運営の相談を受けるなど、小川出身の詩人草野心平を通じ、いわき市の文化発展に多大な功績を残してきた、粟津則雄(あわづ・のりお)さんが、心筋梗塞のため東京都練馬区の施設で19日に死去した。
 96歳。葬儀は近親者などで行い、喪主は弟庸雄(つねお)さんが務めた。粟津さんの著作集を刊行している、思潮社(本社・東京都)が後日、しのぶ会を催す予定。
 1927(昭和2)年8月15日、現在の愛知県西尾市生まれ。東京大文学部フランス文学科を卒業後、学習院大で講師を務める傍ら、57年6月の総合芸術誌「ユリイカ」に評論「ボードレールの近代性」を寄稿して注目を集めた。
 1960年刊行のフランス文学全集第12巻(東西五月社版)では、ランボーの「地獄の一季節」そのほかを初めて訳した。ランボーの翻訳と研究の第一人者として名をはせ、長篇評論の第1巻「少年ランボオ」(思潮社)、「ランボオ全詩」(同)など多くの著書を残した。
 また1970年に第8回藤村記念歴程賞、82年に「正岡子規」(朝日新聞社)で第14回亀井勝一郎賞を受賞。1993(平成5)年には紫綬褒章を受章し、2010年、83歳で刊行した「粟津則雄著作集」(第1次全7巻)は第1回鮎川信夫賞特別賞を受賞した。
 市立草野心平記念文学館が開館した1998年7月から館長を務め、2019年4月に名誉館長に就任。同館によると、同館に最後に来館したのは、同年11月3日の記念講演会「草野心平と粟津則雄」だった。

草野心平記念文学館さんの初代館長を務められていた平成15年(2003)、同館で「高村光太郎・智恵子展」を開催して下さいました。
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その際の図録には館長としてのご挨拶の他、「光太郎と心平」と題する論考をご発表。

他にも光太郎がらみの玉稿が複数おありでした。

現在も版を重ねている集英社文庫『レモン哀歌 高村光太郎詩集』(平成3年=1991)巻末の「解説――剛直な明治人」。
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他に、雑誌の光太郎特集号等で。

『国文學 解釈と教材の研究』第18巻第14号(學燈社 昭和48年=1973)で「特集 詩的近代の成立 萩原朔太郎と高村光太郎」を組んだ際に、「近代芸術家意識-高村光太郎と萩原朔太郎」をご寄稿。

『みづゑ』第856号(美術出版社 昭和51年=1976)の「没後20年記念 高村光太郎 その芸術+智恵子の紙絵」という特集では「高村光太郎の矛盾と超克:ある近代日本精神の道程」。
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『歴程』第282号(歴程社 昭和57年=1982)の「特集 高村光太郎生誕百年」には「「道程」寸感」。

いずれも光太郎へのリスペクト溢れるものでした。

それから間接的な関わりですが、詩人の宮静枝が昭和27年(1952)に花巻郊外旧太田村の光太郎を訪問した際の体験をまとめた『詩集 山荘 光太郎残影』(平成4年=1992)が、その年の第33回晩翠賞に選ばれた際、選考委員のお一人が粟津氏でした。
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翌年刊行された『詩集 山荘 117人の感想録』には、宗左近、吉野弘と選考委員三人の連名で出された「選評」が掲載されています。

他にも、氏のご著作の中で光太郎に言及されているものもいくつか。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「光太郎詩集」は鎌倉書房から五冊届きました。一冊署名して別封小包でお送りしました。誤植は十三個所ありました。印税を果してよこすかどうかと思つてゐます。知らない本屋はあてになりません。

昭和22年(1947)7月12日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

鎌倉書房版『高村光太郎詩集』は、戦前戦後通じて初の光太郎選詩集として、草野心平の編集で刊行されました。

豪放な一面のあった心平は、細かいことにはあまりこだわらない部分があり、心平編集の光太郎関連には誤植が目立ちました。光太郎没後の昭和37年(1962)に刊行された光太郎詩集『猛獣篇』は、心平が鉄筆を執り、ガリ版で刷られたものですが、こちらでも誤字が散見されます。心平のことなので「印税を果してよこすかどうか」と光太郎も半ばあきらめていました。

亡くなった粟津氏、心平とは深いご交流がおありで、そのため心平記念文学館初代館長に就任されたわけですが、令和元年(2019)から翌年にかけ、同館ではお二人の交流に的を絞った「草野心平と粟津則雄」という企画展まで開催されました。
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当方、粟津氏から直接伺った話で最も印象に残っているのは、こちらの図録でも触れられていますが、心平からの電話のエピソード。ある日の真夜中に突然心平から粟津氏に電話があり、寝ぼけまなこの粟津氏が電話口に出ると「粟津君、ゴーギャンの赤って、あれ、哀しみの色だね」。氏が「そうですね」と答えると、心平は満足そうに笑って、それでガチャン(笑)。こんな心平とのつきあい、さぞ大変だったのではないかと推察いたしました。

しかし、それを補って余りある「優しさ」的なものを心平から受けられました。氏が飼われていたコリーの「権太」が死ぬと、心平はすぐさま詩「権太」を書いたというエピソードも印象的です。

信州レポート最終回です。

4月22日(月)、宿泊させていただいた「guest room ガーデンあずみ野」さんを後に、愛車を東に向けました。この日は碌山美術館さんでの第114回碌山忌でしたが、午後2時開始の薩摩琵琶の演奏から参加しようと思い、それまでの間は上田市に行く予定を最初から立てておりました。

信州(それから通り道の甲州も)には、光太郎と深く交流のあった人物の作品を多く所蔵・展示している美術館さんや、それらの人物そのものの記念館さん、光太郎ゆかりのスポットなどが数多くあり、碌山美術館さんもその一つですが、同館を訪問する際には他館などにも併せて足を運ぶのがルーティンです。

その一環で、前日には飯田市美術博物館さん内の日夏耿之介記念館さん、柳田國男館さんを訪れましたが、そちらは言わばイレギュラー。思いの外、早く信州に入れてしまったため、予定になかった拝観をしたわけで。

この日は当初、長野市の記念館さん二館を廻ろうと思ったのですが、ちょうど月曜日でどちらも休館日。そこで月曜に開いている館はないかと調べたところ、上田市の「KAITA EPITAPH 残照館」さんがヒットしました。こちらはかつては「信濃デッサン館」という名で、光太郎と交流のあった村山槐多の作品などが展示されていました。その時代に何度か訪れたことがあります。ところが平成30年(2018)に事実上閉館。残念に思っておりました。しかし、令和2年(2020)に「KAITA EPITAPH 残照館」としてリニューアルオープン。再開後に行ったことがありませんでしたし、昨年、映画「火だるま槐多よ」を拝見し、また槐多の絵を見たいという思いが触発されたので、伺おうと考えた次第です。

残照館さんの前に、姉妹館とも云うべき(残照館さんともども窪島誠一郎氏が館長)「戦没画学生慰霊美術館 無言館」さんを先に拝観しました。残照館さんも無言館さんも山裾ですが、無言館さんの方が手前にありますので。
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改修工事中でしたが、拝観は可能でした。

入口前の、パレットをかたどったオブジェ。白っぽい点々は桜の花びらです。
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刻まれている名は、こちらに作品や遺品等が収蔵されている人々で、そのほとんどが戦没者、そして戦時中に全国の美術学校などに在学していたり、それらの卒業生だったりして戦死した方々です。彫りの感じから、新しく刻まれたんだろうなと思われる名も散見されます。作品の収集や寄贈が今も続いているようです。

作品の収集や同館の開館に協力された、画家の野見山暁治氏が昨年亡くなりましたので、その意味でも感慨深いものがありました。

さて、館内へ。撮影禁止ですのでパンフから。
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何度も訪れていますが(最後は令和元年=2019でした)、何度訪れても粛然とさせられます。ありあまる才能や情熱をあたら散らせてしまった若者達の無念さとか、御家族や恋人への思いとか、逆に残された御家族や恋人の故人への思いとか、そういうものが直截に響いてきますので。

以前に訪れた際には気づきませんでしたが(新たに展示されたのでしょうか)、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる彫刻家・高橋英吉の木彫作品が展示されていまして、驚きました。高橋は東京美術学校彫刻科の出身ですので光太郎の後輩にも当たりますし、それをいえば西洋画科を含め他の光太郎の後輩や、光太郎実弟の豊周の教え子たる同校鋳金科出身だったり在学中だったりの人物の作品も多数。前途洋々の筈だったどれだけ多くの若者が散っていったんだ、と思いますし、その事実を知った光太郎が自らの戦争責任を恥じ、蟄居生活に入らざるを得なかった気持も理解できます。

そんなこんなで拝観終了。ちなみに平日午前中にもかかわらず、他にも拝観されている方が多数いらっしゃいました。良いことです。

こちらは拝観料を出口で支払うシステム。そこで支払いをしつつ係員の方に「残照館さんも開いてますよね?」。ところが「すみません、あちらは冬期休館で、再開が4月27日(土)なんですよ」。「ありゃま」でした。

一応、行くだけ行ってみました。もしかすると再開の準備作業をやっていたりで、こちらの身分を告げればドサクサに紛れて入れてくれるかも(それに似たことがかつて他館でありましたので)と、淡い期待を抱きつつ。
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しかし残念ながら人の気配がありませんでした。またの機会にしたいと思いました。

実はここから1㌔ほどの所に亡父の実家がありまして、このあたりは子どもの頃からよく訪れていました。祖父母や伯父らの眠る墓もありますし。今回はその墓参も目的の一つでした。下記は残照館さん前から見た亡父実家・共同墓地方面です。
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墓参の前に、残照館さん脇の前山寺さんに参拝。ついでというと何ですが、ここまで来てお参りしないのも何だかな、というわけで。

茅葺きの本堂。
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室町時代建立の三重塔。
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今回初めて気づきましたが、棟方志功の碑。
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南関東ではとっくに終わっているしだれ桜が実にいい感じでした。
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その後、祖父母等の墓参。やはり遠いのでこちらも令和元年(2019)以来。「ご存じでしょうが、さきおととし親爺が、ついでに言うならお袋も去年、そっちに行きましたので……」と念じつつ。

そして再び愛車を駆って安曇野に戻り、第114回碌山忌に参列した次第です。以上、長々書きましたが信州レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

小生は青年が好きです。青年のムキな気持は愛すべきです。

昭和22年(1947)7月3日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

美術学校彫刻科の後輩達が、学校改革のために校長に進言してくれという手紙を寄越したそうで、その顛末を語った後に添えられたひと言です。結局いろいろ差し障りがあって進言は実現しなかったようですが。

特に戦後、若い世代に対する光太郎の支援は目立ちました。戦時中に『週刊少国民』『少国民の友』『少国民文化』『日本少女』『少女の友』などの雑誌におぞましい翼賛詩等を書き殴っていた罪滅ぼしという側面はあったでしょう。

4月21日(日)、22日(月)と、愛車を駆って一泊二日で信州に行っておりましたが、メインの目的は安曇野市の碌山美術館さんで開催の「第114回碌山忌」および関連行事としての「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」への参加でした。

「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」が4月21日(日)の午後1:30から。休日の中央高速下り線、特に首都高から抜けた後しばらくの片側二車線区間は行楽等の皆さんで非常に混みますし、事故渋滞等も怖いので(一度、事故渋滞の影響で片道6時間以上かかったことがありました)早めに千葉の自宅兼事務所を出発しました。

そのおかげでスイスイ行けてしまい、そのままだとやけに早く着いてしまう状況に。そこで当初予定にはなかったのですが、寄り道していくことにしました。中央道岡谷ジャンクションで安曇野方面の長野道に入らず、そのまま直進し飯田市へ。

飯田市美術博物館さん内に、日夏耿之介記念館さんが併設されており、一度行ってみたいと思っていました。

日夏耿之介は、明治23年(1890)、現在の飯田市出身の詩人です。光太郎より7歳年下で、深い交流はなかったものの、おそらく直接の面識はあったと思われます。

筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には、日夏の名が2回。

まず大正13年(1924)3月1日付の、雑誌『婦人之友』編集部にいた龍田秀吉宛書簡。同誌の読者投稿詩欄の選者をお願いしたいという龍田からの依頼を断る内容です。抜粋します。

詩の選といふ事は余程厄介な事の上に兎に角感じやすい若い魂から出たものをあれこれと取捨するやうな仕事はおよそ私などには向かないのです。それのみならず私は一種の野蛮人ですから自分の趣味なり傾向なりがさういふ巣の中の小鳥のやうなやさしいものの上に何等かの意味ではたらきかけるやうな冒涜の結果がありでもしたらといふ事もおそれます。とにかく女性の詩の選を私にさせるのは世の中で不つり合の頂上でせう。(略)どうか私に私らしくない事をさせないで下さい。 その詩のやさしさに私も心ひかれる西條さんが渡欧の為め選をやめられるのは本当に適任者を失ふ事です。しかし川路柳虹氏も居られるし、又日夏耿之介氏のやうな立派な詩人も居られます。

それまで選者を務めていた西条八十が渡欧するため退任、その後釜というわけですが、光太郎は固辞し、代わりに川路柳虹や日夏の名を挙げています(実際に誰が後任になったのかまでは未だ調べていませんが)。それだけ日夏を高く評価していたことがしのばれます。

ちなみに光太郎、この後、昭和14年(1939)から同16年(1941)にかけては『新女苑』、同17年(1942)から18年(1943)の『職場の光』で投稿詩の選者を務めました。これらの際には断り切れなかったということでしょう。

他にも昭和14年(1939)に書かれた「詩の勉強」というエッセイで、やはり日夏を賞めています。

私は概して時代の老大家よりも真摯な青年層の方から良い教訓を受ける。其頃も日本詩壇の老大家とは殆ど没交渉だつたが、青年詩人からは多くの刺激をうけた。葉舟、犀星、朔太郎、耿之介、柳虹等の諸氏は常に尊敬してゐた。

「其頃」は大正初め頃をさします。「老大家」はおそらく北村透谷やら島崎藤村やら土井晩翠やらの一世代前の人々でしょう。

『高村光太郎全集』に日夏の名が出て来るのはこの2箇所だけですが、おそらく詩話会などの詩人の会合等で光太郎と日夏が顔を合わせる機会はいろいろあったと思われます。実際、昭和17年(1942)の第一回大東亜文学者大会には、光太郎、日夏共に出席しています。

b7b6af5e日夏の方で光太郎をどう評していたか、あるいは光太郎がらみの回想等を遺していないか、当方、寡聞にしてよく存じません。ただ、戦後の昭和26年(1951)に日夏の編集で刊行された『近代日本詩集』(弘文堂アテネ文庫)では、14名の詩人の作品を採り、光太郎詩も含まれています。日夏によるその序文に曰く、

透谷以下の十四人をこゝに選出したのは、偶まの十四人であるが、明治の八人大正の六人を厳しく選んで獲たる数であつて、近代情趣の形成の上に正統の抒情詩的寄与をなした新旧十四個のピラアズの作品を、この篇冊にアンソロジイにして抄出したところに編者は史的意味を認めるとなすものである。

まぁ、光太郎は外せないよ、ということでしょう。ちなみに日夏、ちゃっかり自分も十四人に入れていますが、これは本人の意図というより、版元の意向でしょう。

これは日夏の編集ですが、他者の編によるこの手のアンソロジーで、光太郎、日夏の作品が共に掲載されているものは、軽く30冊はあります。

さて、前置きが長くなりましたが、飯田市の日夏耿之介記念館さん。
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一見すると普通の古民家のようです。それもそのはず、「日夏が余生を送った飯田の邸宅を復元したもの」だそうで。
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調べてみましたところ、光太郎が亡くなった昭和31年(1951)から昭和46年(1971)まで暮らした家のようです。元は数百㍍離れた稲荷神社境内に建てられ、平成元年(1989)、この地に復元されたとのこと。内部も民家の体裁を生かし、展示が為されていました。
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光太郎と交流の深かった佐藤春夫からの書簡。
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江戸川乱歩からの来翰も。
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この手の来翰をまとめた書籍が置いてあり、光太郎からのそれはないかと調べましたが、残念ながら見あたらずでした。それをもっとも期待していたのですが……。

しかし、展示されていた古写真を見て、仰天しました。
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日夏の詩集『転身の頌』出版記念会の際に撮られた集合写真だそうで、大正7年(1918)のものです。ちなみに下記のキャプションは「1916」となっていますが、誤りです。
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北原白秋、堀口大学、室生犀星、森口多里など、光太郎と交流のあった面々が写っていますが、光太郎は居ません。ではなぜ驚き桃の木山椒の木(死語ですね(笑))だったかというと、バックに写っている、壁に掛けられた絵のためです。
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光太郎の絵です。

大正2年(1913)、智恵子と共に一夏を過ごした上高地で描かれ、その年の10月、岸田劉生らと興した生活社主催の油絵展覧会に出品された作品群の内の一枚で、その際の題が「焼岳」。下記は『高村光太郎 造型』(春秋社 昭和48年=1973 北川太一・吉本隆明編)に載った画像。
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なぜこの写真にこれが? と思ったのですが、キャプションを詳しく見て納得しました。撮影場所が京橋の「鴻ノ巣」となっていたためです。

「鴻ノ巣」は「メイゾン鴻乃巣」。明治43年(1910)、奥田駒蔵という人物が日本橋小網町に開店した西洋料理店です。光太郎も中心メンバーだったパンの会で使われたり、光太郎が絵を描き、伊上凡骨が彫刻刀をふるったメニューが作られたりしました。また、智恵子が創刊号の表紙を描いた『青鞜』社員の尾竹紅吉が「五色の酒」事件を起こしたりした店でした。

同店はその後、日本橋通一丁目、さらに京橋に移転。駒蔵の令孫夫人に当たる奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』所収の年表によれば、京橋への移転は大正5年(1916)、そして大正7年(1918)の項に「1月 日夏耿之介『転身の頌』出版記念会(13日)」「『文章世界』13巻2号に『転身の頌』の会写真掲載」の記述がありました。

しかしその京橋の店も、大正12年(1923)の関東大震災で焼失してしまいました。おそらく懸かっていた光太郎の絵も灰燼に帰したのでしょう。

光太郎自身も昭和21年(1946)、美術史家の土方定一に宛てた書簡で「『霞沢の三本槍』は京橋の『鴻巣』の店にかけて置きましたが大震災の時焼失した事でせう」と書き残しています。絵のタイトルが「焼岳」ではありませんが。

この写真を見られたのは大きな収穫でした。

さて、館外へ。
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左は日夏の句碑「秋風や狗賓の山に骨を埋む」。「狗賓の山」は「天狗の住む山」の意で、飯田市の風越山を指すそうです。右は日夏の肖像レリーフ。「T.NISI」とサインが入っており、光太郎実弟の鋳金人間国宝・豊周の弟子筋にあたり、光太郎詩碑のブロンズパネルを複数鋳造した西大由の作かな、と思ったのですが、詳細不明です。
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追記・小杉放菴記念日光美術館さんの学芸員・迫内祐司氏より、「西常雄の作ではないか」とご教示いただきました。

日夏耿之介記念館さんに隣接して柳田國男館さんもありました。事前に調べていかなかったので、「へー」という感じでした。
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こちらは成城にあった柳田の書斎兼住居をここに移築したものだそうでした。柳田は飯田に居住したことはないそうですが、柳田の養父にして妻の父・柳田直平が旧飯田藩士だった縁とのこと。
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ちなみに光太郎と柳田も、軽く面識がありました。なんと共に同じミスコンの審査員を務めたのです。
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昭和4年(1929)、朝日新聞社主催で行われたミスコン「女性美代表審査会」で、写真審査のみで実施され、最高点を獲得したのはのちに歌人となる齋藤史でした。この年8月7日『アサヒグラフ』に、鏑木清方を除く審査員一同による座談会の筆録が掲載されています。

これ以外に柳田と光太郎が直接会った記録は見あたらないのですが、光太郎はエッセイ等の中で柳田を「柳田先生」と書き、それなりに尊敬していたようです。

愛車に戻ろうと飯田市美術博物館さん敷地内を歩いていると、何やら石碑や胸像。見てやはり驚きました。

石碑は「菱田春草誕生之地」。横山大観の揮毫でした。春草が飯田出身とは存じませんでした。
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胸像は「田中芳男像」。
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田中は明治初期、東京国立博物館や国立科学博物館、恩賜上野動物園等の礎を築いた人物で、朝ドラ「らんまん」でいとうせいこうさんが演じた里中教授のモデルです。
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光太郎の父・光雲が登場し、田中を主人公とした小説『博覧男爵』を読んで、田中も飯田出身だったことは存じていましたが、失念していました。

そんなこんなで「飯田、どんだけだよ? 恐るべし!」という感想の飯田行でした(笑)。

この後、愛車で北上し、「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」へ。さらに翌日、第114回碌山忌参列の前に、上田まで足を延ばしました。長くなりましたので、そのあたりは明日。

【折々のことば・光太郎】

今日小包拝受、砒酸鉛、展着剤まことに忝く存じました。毎日素手で虫と格闘してゐましたが、これで大に助かります。雨が多くて虫も勢よく中々大変です。

昭和22年(1947)7月12日 真壁仁宛書簡より 光太郎65歳

砒酸鉛」はかつて農薬として使われていましたが、現在は使用禁止。「展着剤」は農薬を作物に付着させるためのもの。いずれも蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村での畑で使いました。

当方、化学はまるでだめなのでよく分かりませんが「砒酸鉛」の「砒」は「砒素」と関係があるのでしょうか。光太郎の親友だった碌山荻原守衛の死因、最近は皮膚病の治療に使っていた薬剤に含まれていた砒素によるものとする説を、碌山美術館さんでは提唱なさっているようで、気になります。

信州安曇野レポートを続けます。

4月22日(月)は、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の忌日「第114回碌山忌」が碌山美術館さんで行われました。前日に関連行事として行われたマルチアーティスト・井上涼氏のトークセッション「表現とアイデンティティ☆」の際に続き、この日も同館にお邪魔しました。
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午前中は地元の方々などによるコンサートが開催されてましたが、そちらは欠礼。安曇野を離れ、他へ行っておりました。そちらのアリバイ(笑)は明日以降レポートいたします。

午後1時頃、同館に到着。2時から薩摩琵琶奏者・坂麗水氏による演奏があるというので、それは聴いておこう、と。
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PXL_20240421_070610947会場は同館グズベリーハウス。演目は「文覚発心」「文覚と頼朝」そして「耳なし芳一」。

文覚は平安末期から鎌倉初期にかけての僧侶で、源頼朝に平家打倒を焚きつけた人物として知られています。、元々は遠藤盛遠という北面の武士で、懸想していた人妻・袈裟御前を誤って手にかけてしまい、それが元で出家しました。

そのあたりを守衛は自らに重ね合わせ、塑像「文覚」を制作。右画像の一番手前の腕組みしている像です。守衛が像にした人物ということで、文覚がらみが演目に選ばれたようです。

それから一般の方々にもわかりやすい「耳なし芳一」。当方、琵琶の演奏を生で聴くのは2度目でしたが、平成29年(2017)に千葉の柏で初めて聴いた時(「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」という演奏会でした)も「耳なし芳一」でした。

その後、守衛の墓参。館から車で10分程の共同墓地に、智恵子の師でもあった中村不折揮毫の守衛の墓があります。当方は荻原家当主・荻原義重氏の車に乗せていただきました。
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明治43年(1910)4月22日に守衛が新宿中村屋で亡くなった際、光太郎は奈良旅行中でした。知らせを受けて慌てて東京に舞い戻り、さらにこの墓地に駆けつけました。その際にはまだこの墓石は出来ていませんでしたが、それにしても光太郎もここに額づいたかと思うと、毎年のことながら感慨深いものがありました。こうした場合にいつもそうですが、光太郎の代参のつもりで香を手向けました。

館に戻り、午後6時からグズベリーハウスで「碌山を偲ぶ会・サポートメンバーシップ交流会」。当会主催の連翹忌の集い同様、和気あいあいと会食しつつの懇談です。
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毎年そうで、開会宣言の後、光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)を参会者全員で群読します。光太郎の愛惜の思いが込められた寂しい詩なのですが、おめでたい集まりではないんだという意味では、ふさわしいといえるでしょうか。
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今年はご指名で、マイクを握って音頭を取ることになってしまいました。そこで「じゃあ、題名と一行目のみ、自分がソロで読みますので、二行目から皆さんでご唱和願います」。
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朗読しながら撮りました(笑)。

ご挨拶、ご報告、ご祝辞等。
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左から碌山美術館長・幅谷啓子氏。同館理事も務められている安曇野市長・太田寛氏。荻原家ご当主・荻原義重氏。

その後は料理に舌鼓をうちつつ、歓談。合間にスピーチ。
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当方の隣には琵琶の坂氏が座られ、いろいろお話しさせていただきました。坂氏、鎌倉にお住まいだそうで、当方、「毎年秋には北鎌倉のカフェ兼ギャラリー笛さんにお邪魔してるんですよ」と申し上げたところ、「そのお店、よく知ってます」。驚きました。しかし、以前にも同様のことがあり、笛さんをご存じない鎌倉市民はモグリなのかな、などと思いました(笑)。

それから、ちゃっかり光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエ保存運動のための署名を皆さんにお書き頂きました(実は今日もその会合があるのですが)。

そんなこんなで8時閉会。片付けの後、愛車を駆って千葉に帰りました。

最後に、同館でゲットした今年のカレンダーをご紹介します。
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A4判横の冊子型、表紙は守衛の絶作「女」です。上下見開きで1ヶ月ごとになっています。

これが発行されたことは気付いていましたが、同館所蔵の光太郎彫刻もあしらわれていまして、その件は存じませんでした。

いきなり1月が「腕」(大正7年=1918)、4月は「十和田裸婦像のための中型試作」、10月で「手」。
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井上涼氏のトークセッションの後でしたか、グズベリーハウス内に貼ってあり、4月ですから「十和田裸婦像のための中型試作」のページで、「ありゃま」。急いでミュージアムショップに行き、「カレンダー、まだありますか?」と訊いたところ、「つい最近、完売してしまいまして……」。残念……。

ところが、「これでよろしければ」と、壁に貼ってあった見本をなんとタダで下さいました。「見本」とシールが貼ってあったり、ピン穴が空いていたりでしたが、全然OKです。ありがたく頂戴して参りました。

さて、明日は碌山美術館さん以外で廻った信州各地のレポートを。

【折々のことば・光太郎】

お茶は先日の玉露はまだありますが大切なのでめつたにいれません。今度のお茶も新鮮でとてもいいです。目がさめるばかりです。

昭和22年(1947)7月9日 多田政介宛書簡より 光太郎65歳

若い頃からお茶好きだった光太郎ですが、蟄居生活を送っていた岩手では茶が栽培されて居らず、戦後の混乱もまだ続いていた折、茶葉の入手には苦労していました。そんな中、光太郎の茶好きを知っていた友人等が送ってくれる茶葉は非常にありがたかったようです。

一昨日、昨日と、愛車を駆って一泊二日で信州に行っておりました。レポートいたします。

メインの目的は、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛命日に合わせ、安曇野市の碌山美術館さんで開催された「第114回碌山忌」への出席でした。
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そちらが昨日でしたが、一昨日には関連行事として、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」で、アニメーション制作、歌の作詞作曲、歌唱、美術作品の解説まで担当されているマルチアーティスト・井上涼氏のトークセッション「表現とアイデンティティ☆」があり、まずそちらから。

会場の研成ホール。道を挟んで美術館さんの向かいです。
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開場15分前くらい。すでに長蛇の列。
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キャパ120名でしたが、ほぼ満員でした。日曜日というのも大きかったようです。

お話は、井上氏と、碌山美術館さん学芸員の濱田卓二氏によるもので、濱田氏が聞き役でいろいろと水を向けられ、井上氏が詳しく語るという形式でした。お二人はかつて金沢美術工芸大学さんで同級生だったとのことで、井上氏は濱田氏を「濱ちゃん」と呼んでいたそうです(笑)。当方、濱田氏とけっこう長い付き合いですが、その件はまったく存じませんでしたので驚きでした。

内容的には井上氏のアーティストとしての来し方、「びじゅチューン」などの作品についての舞台裏、そしてご自身カミングアウトされているLGBTQをからめたお話。そちらはやはり井上氏がアニメーションを制作され、NHKさんの「みんなのうた」で流れたYOASOBI with ミドリーズさんの「ツバメ~レインボーバージョン」のお話をメインに。

井上氏、テレビで拝見するとおり、否、それ以上にユニークなキャラクターで、会場の笑いを誘われていました。聴衆の中には井上時の追っかけ的な方もけっこういらしたようでした。

「びじゅチューン」のお話の中では、平成30年(2018)に初回放映があった、なんと光太郎のブロンズ「手」をモチーフとした「指揮者が手」を、動画に合わせて井上氏が熱唱して下さいました。
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同番組でなにがしかの碌山作品が取り上げられていたらそちらだったのでしょうが、まだ取り上げられて居らず、そこで碌山美術館さんで展示されている「手」に白羽の矢が立ったようですが、ありがたいかぎりでした。

トーク終了後の質問タイム。当方も手を挙げて質問。「荻原守衛作品をご覧になって、どういう感想を持たれましたか」的な。当方は「とても素晴らしいと思いました」的な答えを期待しておりました。そこで、返す刀で「では、ぜひ『びじゅチューン』で守衛作品を取り上げて下さい」と言うつもりでした。ところが井上氏、「いやぁ、あまり何も感じなかったというか……」。いや、正直ですね(笑)。こういう場合、たとえそう思っていなくても空気を読んで社交辞令的に「とても素晴らしいと思いました」と返すものだと思いますが、そう思っていないことはそう思っていないと、包み隠さないところに芸術家としての矜恃を感じました。

そこで当方としても「では、ぜひ『びじゅチューン』で守衛作品を取り上げて下さい」という二の矢が継げませんでした(笑)。すると、あとで濱田氏らに「言って下さいよー」と怒られてしまいました(笑)。

ちなみに終演後等も含めて「撮影禁止」と厳しく出ていましたので当方撮影の画像はありませんが、井上氏のX(旧ツイッター)投稿から画像をお借りします。
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集合写真の方は井上上氏の「聴衆の皆さんと一緒に」という自撮りです。右手後方に当方も写っています(笑)。

この日はこの後、ゆっくり碌山美術館さんを拝観して退散し、市街地で早めの夕食を摂った後、宿泊先の「guest room ガーデンあずみ野」さんへ。
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フロントにはドイツのスタインベルグ社製のヴィンテージピアノが置かれたりし、なかなか瀟洒なお宿でした。
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この日は(翌日もでしたが)長時間の運転でしたので、けっこう疲労困憊。温泉にゆっくり浸かり、「おやすみなさい」。

急ぎ紹介すべき事項が何もなければ、あと2回程、信州レポートを続けさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

「高村光太郎詩集」(鎌倉書房)を東京の本屋で見たといふ人あり、小生方にはまるで音沙汰ありません。


昭和22年(1947)7月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

鎌倉書房版『高村光太郎詩集』は、戦前戦後を通じて初の選詩集です。編集、題字揮毫は当会の祖・草野心平でした。
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奥付に依ればこの年7月5日刊行。しかし既に前月には出ていたようです。当然、こういうものを出すという連絡等は心平から入っていましたが、「出た」という連絡が入らなかったようです。

昨日から信州安曇野に来ております。碌山美術館さんでのイベントで、昨日はNHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」で、アニメーション制作、歌の作詞作曲、歌唱、美術作品の解説まで担当されているマルチアーティスト・井上涼氏のトークセッション「表現とアイデンティティ☆」を拝聴、今日は光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛を偲ぶ「第114回碌山忌」に列席させていただきます。
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普段ですとこういう場合には画像を2~3枚載せて「詳しくは帰りましてからレポートいたします」で終わるのですが、このブログサイトで紹介すべき事項が山積しており、全くの別件をご紹介しておきます。歌手・俳優の佐川満男さんの訃報です。

『デイリースポーツ』さん。

歌手・俳優の佐川満男さん死去 84歳 胆のう炎 3月から入院し容体急変 出演映画の公開初日待ち発表

001 NHK連続テレビ小説「おちょやん」「カムカムエヴリバディ」などに出演した、歌手で俳優の佐川満男さんが、12日に胆のう炎のため84歳で死去していたことが20日、分かった。所属事務所がデイリースポーツの取材に対して認めた。葬儀は近親者で営んだという。
 事務所によると、佐川さんは昨年、現在公開中の映画「あまろっく」の撮影中にも体調不良を訴えており、今年3月から入院。容体が急変し、12日に死去した。映画は19日に公開初日を迎えたが、影響を考えて共演者にも訃報は伝えられず、初日終了を待ってこの日の発表となったという。
 佐川さんは神戸市出身で、1960年に「佐川ミツオ」名義でシングル「二人の並木径」を発売し歌手デビュー。68年には本名の佐川満男名義で発売した「今は幸せかい」が大ヒットを記録し、同曲などでNHK紅白歌合戦に4回出場した。
 俳優としても渋い演技で存在感を示し、NHK連続テレビ小説には94年の「ぴあの」を皮切りに「おちょやん」「カムカムエヴリバディ」など10作品に出演した。私生活では71年に歌手・伊東ゆかりと結婚し、一女(歌手・宙美)をもうけたが。75年に離婚。2003年には胃がんの摘出手術を行い、18年にも脊柱管狭窄症の手術を行うなど、病に悩まされていた。

『スポニチ』さん。

歌手で俳優の佐川満男さん死去、84歳 公開中の出演映画も哀悼「これを最後の仕事に」先行上映初日に…

000 「今は幸せかい」で知られる歌手で俳優の佐川満男(さがわ・みつお)さんが12日、胆のう炎のため死去した。84歳。神戸市出身。
 1939年(昭14)11月9日、神戸市生まれ。1960年に「二人の並木径」で歌手デビュー。デビュー当初は「佐川ミツオ」という名義を使用していた。ヒット曲に「無情の夢」「ゴンドラの唄」「背広姿の渡り鳥」などがあり、NHK紅白歌合戦に4度出場した。俳優としても「水戸黄門」やNHK連続テレビ小説「わろてんか」「べっぴんさん」「マッサン」「おちょやん」「カムカムエヴリバディ」などに出演し、今月12日に先行上映、19日に全国公開された「あまろっく」にも出演していた。
 私生活では1971年に同歌手の伊東ゆかりと結婚。一人娘(歌手の宙美)を授かったが、1975年5月に離婚した。
 現在公開中の映画「あまろっく」の公式X(旧ツイッター)が更新され「映画『あまろっく』にご出演頂いた歌手で俳優の佐川満男さんが、ご逝去されました。近松竜太郎(笑福亭鶴瓶)が営む鉄工所のベテラン職人・高橋鉄蔵役を演じて頂きました。和気あいあいと撮影を楽しんで、現場を和ませて頂いた佐川さん、キャスト・スタッフ一同、謹んでご冥福をお祈りします」と追悼した。
 同映画の中村和宏監督は、同Xに「佐川満男さんが、4月12日にこの世を去られました。奇しくも先行上映初日でした。今回、佐川さんにこの映画のオファーをした際、初めはご自身の高齢を理由に謙虚にお断りされましたが、最終的には“これを最後の仕事にする”という決意を示してくださいました」と同作品に懸ける佐川さんの思いを明かした。
 続けて「佐川さんの献身と情熱は、撮影中も変わることがなく、彼のプロフェッショナリズムと温かな人柄は、キャスト、スタッフ全員にとって大きな支えとなりました。佐川さんが遺された作品(映像 音楽 絵画)を通じて、彼の芸術に対する愛と情熱をこれからも多くの人々に伝え続けていくことが、私たちの使命だと信じています。映画『あまろっく』の公開が、佐川さんへの最もふさわしい追悼となるよう、心より願っております。皆さまには、彼の遺作を心ゆくまでお楽しみいただければ幸いです」と旅立った佐川さんに思いをはせ、ファンにメッセージを記した。

佐川さん、「佐川ミツオ」の名でロカビリー系歌手として活動されていた昭和39年(1964)、下記のシングルEPをリリースされました。
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A面の「歩け歩け」が、タイトルが変更されているものの、光太郎作詞・飯田信夫作曲の戦時歌謡「歩くうた」です。
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おそらく売れ行きは良くなかったようで、ウィキペディアの佐川さんの項を見ても記述がありません。

訃報を受けて久しぶりに聴いてみました。故・寺岡真三氏による編曲が粋でした。全体的にジャズ調にアレンジされ、前奏や間奏に口笛が入ったりも。

ちなみに原曲の「歩くうた」は、佐川さんも出演なさったNHKさんの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」でも使われました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

都内から演奏会情報です。

大阪コレギウム・ムジクム演奏会 大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団第21回東京定期公演

期 日 : 2024年4月29日(月・祝)
会 場 : 第一生命ホール 東京都中央区晴海1-8-9 晴海トリトンスクエア内
時 間 : 午後2:30開演(午後2:00開場)
料 金 : 全席指定 S席 ¥5,500 A席 ¥4,500 B席 ¥3,000
      学生 ¥1,800(当日¥2,000) 高校生以下 ¥800(当日¥1,000)
      ライブ配信チケット料金 2,000円 + システム利用料220円

こころ通う仲間がいる こころ動く音がある
大阪の地に育まれて49年。音楽と、人との出会いに導かれて演奏を続けています。今回は、木下氏、昨年惜しくも亡くなられた西村氏の人気の合唱作品に加え、ベートーヴェンの名曲の“本歌取り”が驚きと感動を呼ぶ千原氏の最近作をご紹介します。指揮者・當間修一とともに時を重ね、互いを信頼し合うメンバーが音楽の力を信じて奏でるアンサンブルが、どうか皆さまのこころに届きますように。

指 揮 : 當間 修一
ピアノ : 木下 亜子
室内楽 : シンフォニア・コレギウムOSAKA

曲 目

 木下牧子 珠玉のア・カペラ コーラス セレクション
  女声合唱曲「めばえ」〔詩:みずかみかずよ〕
  男声合唱曲「恋のない日」〔詩:堀口大学〕
  混声合唱曲「44わのべにすずめ」〔原詩:ダニエル・ハルムス 訳詩:羽仁協子〕
  混声合唱曲「祝福」〔詩:池澤夏樹〕  ほか
 千原英喜
  ピアノと7楽器のためのコンチェルティーノ
   ベートヴェニアーナ“明けない夜はない”【関東初演】
    ピアノ:木下亜子 ヴァイオリン:森田玲子・中前晴美 
    ヴィオラ:神谷将輝・澤井杏
 チェロ:大木愛一・柳瀬史佳 
    クラリネット:鈴木祐子 ホルン:椋橋基博
    ファゴット:渡邊悦朗 ティンパニ:高鍋歩
 西村朗
  混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」〔詩:高村光太郎〕
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昨年亡くなった西村朗氏作曲の「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」がプログラムに入っています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間「道程復元版」の事で更科君と真壁君と同道で来られました。


昭和22年(1947)7月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

002詩集『道程』は、大正3年(1914)に初版が抒情詩社から刊行された後、売れ残りの残本を改装し奥付だけ変えた再版(国会図書館さんのデジタルデータで見られるのはこれです)が数回出されました。その後、昭和15年(1940)に山雅房から「改訂版」が三種(百五十部限定版/書店版/普及版)、戦時中の昭和20年(1945)1月には青磁社から「再訂版」が上梓されました。

それらも書店の店頭から消えていたこの時期、青磁社の札幌支社的な札幌青磁社から「復元版」が刊行。「改訂版」「再訂版」が初版と詩の選択が異なっていたのに対し、こちらは初版の内容の復元を図ったものでした。奥付では6月の発行となっていますが、東京本社と札幌青磁社との間でのゴタゴタもあったらしく、実際にはずれ込んだようです。そのため札幌青磁社に勤務していた更科源蔵が、友人の真壁仁を伴って弁明に訪れたと思われます。

ほぼほぼ一気読みしました。

不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯

2024年4月29日 渡邉茂男著 東京図書出版 定価1,800円+税

敬助没後百年──芸術家は死んでも、またその作品が多く失われても、その画業は私たちの心に残っている。敬助が見た未知の世界に私たちも旅立ちませんか。
関東大震災で不幸にも多くの代表作を失った。
柳敬助は東京美術学校西洋画科に学び、アメリカ・フランス・イギリス留学を経て帰国、人物画に秀でていた。荻原守衛・高村光太郎・岸田劉生・青木繁などと同時代の画家である。
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目次
 はじめに
  関東大震災に遭遇
  柳敬助との出会い  
 第一章 幼少期の柳敬助
  敬助の誕生  敬助とその家族  佐藤校長との出会い  
 第二章 千葉中学校へ
  千葉中学校への進学  堀江正章との出会い  
 第三章 東京美術学校へ
  西洋画科へ  入谷の五人男  美校生活の一コマ  アメリカ留学準備  
 第四章 渡米時代
  アメリカ留学  シアトルからセントルイスへ  セントルイス万国博覧会  
  ニューヨークへ  ヘンライとの出会い  荻原守衛や高村光太郎らとの出会い  
  ヨーロッパに向かう敬助  
 第五章 帰国と様々な出会い
  生家へ  新宿中村屋  荻原守衛の死  信州穂高へ  『白樺』派との付き合い  
  中村屋裏のアトリエ  橋本八重との出会い  パンの会  新井奥邃との出会い  
 第六章 結婚へ――充実した作家活動
  八重と結婚へ  光太郎へ智恵子紹介  画家仲間との交流  
  アトリエ完成(雑司ヶ谷)
  高村光太郎と『読書読』  山を愛した敬助
  
日本女子大学と成瀬仁蔵   西田天香との出会い  
 第七章 死に向かいて
  充実した作家活動  穂高再訪  最後の旅路  死に向かいて  追悼展に向けて  
 第八章 おわりに
 参考文献
 柳敬助年譜

著者プロフィール
 渡邉茂男  (ワヤナベシゲオ)  (著/文)
1950年生まれ。学習院大学文学部哲学科卒業。卒業後、千葉県内の公立高校教員を務める傍ら、地方史の研究に従事。退職後、君津地方社会教育委員連絡協議会会長を経て、現在君津市文化財審議会委員、千葉県文書館古文書調査員。主な著書・論文に以下のものがある。
『学校が兵舎になったとき』(分担執筆 青木書店 1996年)、『君津市史 通史』(分担執筆 君津市 2001年)、『御明細録―上総久留里藩主黒田氏の記録―』(編修代表 上総古文書の会 2006年)、『房総の仙客 日高誠實』(三省堂書店/創英社 2017年)など。

光太郎と深い交流のあった画家・柳敬助(明14=1881~大12=1923)の評伝です。これまで柳に関するまとまった評伝は無く、いわばパイオニアです。

昨秋、千葉の木更津で開催された「第116回 房総の地域文化講座 没後100年、画家・柳敬助の生涯」で講師を務められた渡邉茂男氏の労作で、同講座を拝聴に伺い、本書出版に向けて最終準備中、的なお話で、心待ちにしておりました。

まず驚いたのが、豊富に図版が挿入されているのですが、古写真等を除き大半がカラー印刷である点。版元の東京図書出版さん、自費出版系の書肆ですが、かなりコストが掛かったのでは? と思いました。やはりカラー画像はインパクトが違います。モノクロ画像だけで油絵画家の色調がどうの、筆致がどうのと論じられてもイメージが湧きにくいのですが、こちらはそのあたりが原色で確認できます。

ただ、柳の作品うちのかなりの点数、しかも優品が、大正12年(1912)の関東大震災で焼失しており、それらは画像があってもモノクロなので、その点が返す返す残念です。

柳が歿したのが震災の年の5月。胃ガンでした。そして9月1日から日本橋三越で遺作展が開催されるはずが、ちょうどその日に震災が起こり、集められた作品群が全て灰燼に帰してしまったわけです。

行年数えで43歳と若くして亡くなり、さらに作品の多くが焼失したことにより、柳の業績は忘れられつつあるのですが、それでも現存する作品も少なからずあり、それらにスポットを当てつつ、柳という人物を後世に伝えていこうという強い意志が感じられる一冊でした。

柳の交流の幅の広さにも、改めて驚かされました。光太郎や荻原守衛をはじめとする美術家はもちろん、井口喜源治、江渡狄嶺成瀬仁蔵、新井奥邃、西田天香ら思想家的な人々との交流が目立ち、それが柳という人物の大きなバックボーンを形成している、と、渡邉氏。なるほど、と思いました。その点は光太郎にも言えることかな、という気はしましたが。

そして柳の妻・八重は日本女子大学校の一期生。柳ともども明治44年(1911)に光太郎と智恵子を引き合わせる労を執ってくれました。ところが結婚した柳夫妻に対し、光太郎は「この頃付き合い悪くなったじゃん」的な詩「友の妻」を書いています。智恵子との結婚後は、光太郎、さらに光太郎よりも智恵子が、周囲との付き合いが悪くなるのですが(笑)。

それから、荻原守衛。現存する柳の絵画のうち、かなりの点数が信州安曇野の碌山美術館さんに所蔵されています(遺族からの寄贈がほとんどのようです)。柳と守衛との交流の深さを物語っています。明日、明後日と碌山忌等のため同館に行って参りますので、改めて柳作品、しっかり見て来ようと思いました。ちなみに柳の絵は、同館の第1展示棟で光太郎ブロンズとともに並んでいます。

さて、『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日師範校の学生さん五人連にて半日遊んでゆきましたが、お弁当にあの胡瓜の生と塩とをさし上げて大変よろこばれました。五人連には坂上のポラーノの広場を案内、皆々大喜びでした。若い人達は元気でうれしくなります。


昭和22年(1947)6月26日 宮沢清六宛書簡より 光太郎65歳

キュウリとか塩とかは、宮沢家からの差し入れでしょう。「ポラーノの広場」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋裏手、現在「智恵子展望台」と呼ばれている高台と思われます。

テレビ放映情報です。

新・BS日本のうた▽小林&天童とのデュエットをかけてパク・真田・原田が火花

NHK BS 2024年4月21日(日) 19:30~21:00

小林幸子&天童よしみの2人ショー。二人が慕ったスターの名曲やオリジナルヒット曲を披露。パク、真田、原田のイケメン男子や角川&角松も参加してステージを盛り上げる!

今回の【古今東西名曲特選】は「夜が明けて」「あの丘越えて」「俺はお前に弱いんだ」「恋のハレルヤ」「おやじの海」「お祭りさわぎ」「智恵子抄」「愛人」「シングルベッド」「旅姿三人男」「池上線」【スペシャルステージ】は「傷だらけのローラ」「君だけを」「時の過ぎゆくままに」「大ちゃん数え唄」「もしかしてPARTⅡ」「アマン」「なめとんか」「りんどう峠」「もう一度逢いたい」「帰郷」「越後絶唱」ほか。

【出演】角川博 門松みゆき 小林幸子 真田ナオキ 天童よしみ 西島三重子 原田波人 パク・ジュニョン 美貴じゅん子 和田青児 栗田信生 BS日本のうた楽団
【司会】渡辺健太 
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小林幸子さんと天童よしみさん、お二人が慕ったスターの名曲やオリジナルヒット曲を披露、ということで、【古今東西名曲特選】というコーナーの中で「智恵子抄」。おそらく故・二代目コロムビア・ローズさんが昭和39年(1964)に歌われた、丘灯至夫作詞/戸塚三博作曲の「智恵子抄」でしょう。小林さん、天童さん、どちらが歌われるのか、あるいはデュエットなのか、はたまた他の出演者の方の歌唱なのか、すみません、詳細は不明です。さらにいうなら再放送のようで、初回放映が4月14日(日)だったようです。

どうも今月に入ってから、テレビ番組の検索が今一つうまくいっていません。

というのも、ヤフーさんで運営されていた「Yahoo!テレビ.Gガイド」というサービスが先月で終了してしまったためです。
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このサイト、なかなか便利でした。「高村光太郎」とか「智恵子抄」とかのキーワードを登録しておけば、そのワードを含む放送がバーッと表示されるシステムでして。

今月からは似たような「J:COM番組ガイド」というサイトを使っているのですが、こちらが今一つです。たとえば漢字二文字のキーワード「○×」で検索すると解説欄、出演者名等、何処を探しても「○×」の語が全く入っていない番組がヒットします。「×」の一字に反応してしまっているようですが、何なんでしょうね? また、検索対象に、無料放送のBS12(トゥエルビ)さん、BS松竹東急さん、BSよしもとさん、BSJapanextさんが一部のジャンルを除いて入っていません。番組一覧表は出るのですが、キーワード検索の対象外のようです。

そんなこんなで、BS松竹東急さんで平成29年(2017)に公開された佐々部清氏監督の映画「八重子のハミング」が4月8日(月)にオンエアされたのですが、その情報も見落としました。原作は「現代の智恵子抄」と称され、劇中でも『智恵子抄』が重要なモチーフの一つとして使われている作品でしたので、このサイトで紹介したかったのですが……。

便利なようで不便な世の中です。

何はともあれ、「新・BS日本のうた」、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

先日は点字詩集ほんとに忝くいただきました。珍らしくもあり、又これが不幸な人達の精神に訴へる機能を持つてゐるものかと思ふとむしろ不思議におもはれて時々撫でてみてゐます。
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昭和22年(1947)6月19日 
照井登久子宛書簡より 光太郎65歳

照井登久子は、昨日もご紹介した「花巻賢治子供の会」を主宰していた一人。点字の普及活動等にも取り組んでおり、光太郎詩を点訳してほうぼうに寄贈したり、光太郎自身に贈ったりもしていました。それらの表紙を光太郎が揮毫することもありました。

この頃まで光太郎は点字についての知識がほとんど無かったようで、人一倍指先の感覚が鋭敏だった光太郎(ガラスの鏡板を撫でて凹凸を感知したといいます)、非常に興味をひかれたようです。

つい先日、光太郎第二の故郷花巻ご在住で、少年時代に光太郎と深く交流された浅沼隆氏の訃報を伝えたばかりですが、またお一人、生前の光太郎と深く交流のあった方が花巻で亡くなりました。

宮沢潤子さん――宮沢賢治実弟の故・宮沢清六氏の次女で、賢治から見れば令姪にあたられます。ただ、昭和12年(1937)のお生まれだったとのことで、昭和8年(1933)に歿した賢治には会われていません。

しかし、光太郎とは一時期、同じ屋根の下で生活されていました。昭和20年(1945)4月、本郷区駒込林町のアトリエ兼住居を空襲で失った光太郎は、翌月、賢治の父・政次郎や清六氏らの誘いで、花巻の宮沢家に疎開しました。その際に潤子さんも居住されていたわけです。そこで光太郎のこの年の日記には潤子さんの名も現れます。光太郎滞在中に潤子さんが痲疹(はしか)に罹患され、光太郎が心配していたことが記されています。

それから終戦後、秋になって光太郎が郊外旧太田村に移住すると、光太郎の山小屋を訪ねたこともおありでした。

また、光太郎から潤子さん宛の書簡も遺されています。昭和23年(1948)8月19日付けで、文面は以下の通り。

おみまひのおたよりをいただいてありがたく思ひました。畑で虫にくはれたのがもとらしく鼻の下のまんなかに面疔がでてき困りましたがよい薬を手に入れてつづけてのんでゐるのでもう九分通り退治しました。このはれものは中々すごい勢のものです。もう安心ですからおぢいさまはじめ皆様によろしくお伝へください。

「面疔」は黄色ブドウ球菌などによる炎症で、化膿を伴う大きな腫れ物。8月15日に清六氏に宛てた書簡に面疔になったと書いたところ、数え12歳の潤子さんから御見舞の書簡が届き、それへの返信です。「おぢいさま」は賢治や清六氏の父・政次郎ですね。

さらに潤子さん、「花巻賢治子供の会」のメンバーでした。同会は賢治の教え子の一人、故・照井謹二郎氏、登久子氏ご夫妻が立ち上げた児童劇団で、主に賢治の童話を劇化して上演していました。
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その第一回公演は昭和22年(1947)。光太郎の山小屋の前でした。もともとは光太郎の無聊を慰問する目的もありました。その後、光太郎のアドバイスで本格的に公演をするようになりましたが、年に一度は山小屋近くの山口分教場(のち小学校に昇格)でも公演を行い、光太郎に見てもらっていました。

当方、潤子さんにお会いしたことはおそらく無いのですが、子息で林風舎代表取締役の和樹氏とは昨年、ともに花巻で行われた、公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」、トークリレー「高村光太郎生誕140周年記念事業 続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」などでご一緒させていただいております。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

十五日の日には潤子さん共々路のわるいところを遠くおいで下されどんなに喜んだか知れません その上いろいろいたゞき唯恐縮の外ございません。


昭和22年(1947)6月19日 宮沢清六宛書簡より 光太郎65歳

この項、現在は光太郎書簡からほぼ年月日順に「これは」と思う記述を拾っていますが、ちょうど紹介しようと思っていた頃の書簡に潤子さんの名があったので驚きました。

6月15日は日曜日で、「賢治子供の会」の第一回公演の日でした。この日の日記のうち、関連する記述は以下の通り。

十時頃、花巻の子供賢治の会の連中(二十人余)来る。照井氏と同夫人とが引率。宮沢さん夫人も同道、ジユン子さんもゐる。ケイ子さんもゐる。ジユン子さんに水飴をもらふ。宮沢夫人よりみそをもらふ。(略)小屋前で一同田植え連中に向つて唱歌をうたふ。ひる学校にて弁当を宮沢夫人にもらふ。劇、唱歌、朗読等あり。村の少年も集る。二時頃すむ。三時半頃余もかへる。

昨日に引き続き、光太郎第二の故郷・花巻ネタで。

まずは花巻で光太郎顕彰活動に当たられているやつかの森LLCさんによる、「こうたろうカフェ」。同市郊外、旧東和町にある「ワンデイシェフの大食堂」さん。日替わりで一般の方々が調理を担当されるというレストランですが、やつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」として出店なさっています。

先月26日の「こうたろうカフェ」で饗されたのがこちら。
3月ワンデイ
3月ワンデイ (2)
甘酒・ガレット・シュークルート
鶏団子のスープ
バッケ味噌ご飯・茶碗蒸し・おひたし 白身魚の黒酢あんかけ (2)
ベリーベリーベリーアイス
3月メニュー表
お品書きは「林檎の甘酒」「ほっけ味噌ご飯」「ビアソーセージのガレットロール」「白身魚の黒酢あんかけ」「ふきのとうとチーズの茶碗蒸し」「紅菜苔のおひたし」「春野菜の鶏団子スープ」「お新香」「カフェドシトロン」「ベリーベリーベリーアイス」。

光太郎日記などを元に、光太郎が実際に作った料理を現代風にアレンジしたり、光太郎が使った食材を取り入れたりして考案されています。

この充実のメニューで驚きの1,000円。固定ファンがついているようで、今回はメニュー公開前から予約で満席だったそうです。

続いて、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチの今月分がこちら。
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やはりやつかの森LLCさん考案によるメニューが、「白六穀ごはん」「筍ごはん」「ホッケの塩焼き」「茹で豚肉の香味ダレがけ」「ほうれんそうとコーンのバター炒め」「カッコ菜の酢味噌和え」「塩麹卵焼」「漬物」「フルーツ白玉」。

これもいい感じですね。

あまり食材等には詳しくない当方、「こうたろうカフェ」の「紅菜苔」というのは存じませんでしたし、「光太郎ランチ」の「カッコ菜」というのも「?」。調べてみましたところ山菜の「野萱草(のかんぞう)」の東北方言のようでした。「野萱草(のかんぞう)」と言われても分からないのですが(笑)。

「こうたろうカフェ」「光太郎ランチ」、それぞれ末永く愛され続けてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

此処ではジヤガイモもやつと芽が出たところです。茄子のいつかいただいた種子が苗になりかかつてゐます。今年は去年より二割増しのつもりでやつてゐます。ゴマもまきました。紅花をまきました。食料兼染料です。 酸性土壌のため出来ないとされてゐたハウレン草がタンカルで中和したら立派に出来ました。

昭和22年(1947)6月3日 小森盛宛書簡より 光太郎65歳

こんな感じで野菜類は概ね自給できていました。「タンカル」は炭酸カルシウム。かつて宮沢賢治が肥料として推奨していたものです。

過日、智恵子の故郷、福島二本松での「春のにほんまつドライブスタンプラリー2024」をご紹介した中でちらっと触れておきましたが、光太郎第二の故郷・岩手花巻でもスタンプラリーが開催されます。チェックポイント的な場所の一つに、高村山荘/高村光太郎記念館さんも。

花巻市の魅力発見!花巻周遊デジタルスタンプラリー

期 間 : 2024年4月27日(土)~5月27日(月)

アプリをインストールせず楽しめるスタンプラリー! 花巻の魅力的な施設20か所にQRコードを設置し、デジタルスタンプラリーを開催♪ スタンプは温泉(日帰り入浴でも対象)、見学・体験、飲食店の3種類。条件を満たすことで、花巻の特産品や温泉宿泊券が当たる抽選に応募できます(*^▽^*)
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●A賞(花巻の特産品 40名)
 温泉スタンプ1個 見学・体験スタンプ1個 飲食店スタンプ1個
 白金豚二刀流セット 10名
 早池峰のむヨーグルト 720ml×2本 5名
 佐々長醸造 銀河のしずくセット 10名
 佐々長醸造 つゆ 15名
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●B賞(温泉宿泊券など 15名)
 温泉スタンプ1個 見学・体験スタンプ3個 飲食店スタンプ2個
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<利用推奨環境>
 iPhoneの場合:iOS 13 以降+Safari(ブラウザ)
 Androidの場合:Android 10 以降+Chrome(ブラウザ)
 ※上記OSのスマートフォンに搭載されているブラウザ以外は推奨しておりません。
  スタンプラリーの参加はスマートフォンからのみ可能でございます。
  パソコン、タブレット、フィーチャーフォンは非対応となります。

参加方法
 STEP1 対象施設を利用しQRコードを読み取る
 STEP2 初めての場合は規約に同意
 STEP3 スタンプをGETしていき条件達成
 STEP4 特産品が当たる抽選に応募

※エントリー数を上限1万人に設定しております。人数に達し次第、新規エントリーはできません。
※イベントは予告なく変更、中止する場合がございます。

対象施設
〇温泉
 花巻温泉 ホテル千秋閣 ホテル花巻 ホテル紅葉館
 志戸平温泉 湯の杜ホテル志戸平
 鉛温泉 藤三旅館
〇見学・体験施設
 宮沢賢治童話村 賢治の学校 宮沢賢治記念館 花巻市博物館 花巻新渡戸記念館
 高村山荘・高村光太郎記念館 母ちゃんハウスだぁすこ 花巻おもちゃ美術館 昭和の学校
〇飲食店
 レストランポパイ マルカンビル大食堂 やぶ屋花巻総本店 嘉司屋 山猫軒本店
 Lit work place 茶寮かだん 森のジェラートポエーマ 金婚亭
 ※金婚亭、茶寮かだんはお買い物でもスタンプをGETできます

よくあるスタンプラリーかな、と思ったのですが、フライヤーの一番下を見て「えっ⁉」。何と主催が「岩手県立花巻北高校 Revolotions」。調べてみたところ、高校生が発案し、クラウドファンディングで資金を集め、実施されるとのこと。

2月の『岩手日報』さんなどに記事が出ていました。

花巻の観光振興へ周遊スタンプラリー 高校生が企画、資金募る

 花巻北高(須川和紀校長、生徒683人)の1年生4人は、花巻市の観光地などを巡る周遊デジタルスタンプラリーを計画している。データを分析し、新たな観光アイデアを市に提案する目標も掲げ「花巻の未来への一歩に」と熱を注ぐ。活動資金を29日までクラウドファンディング(CF)で募っている。
 探究活動の一環で行う。スタンプラリーは5月ごろ開始予定で、宿泊・観光施設、飲食店など約20カ所に2次元コードを設置する。スマートフォンで読み取り、スタンプを集めると特産品が当たる抽選に応募できる仕組みだ。
 花巻の魅力を観光客ら多くに知ってもらう機会としつつ、リアルなデータを収集。それを基に地域の観光を盛り上げるアイデアを検討し、市に提案する。
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記事中に「高村光太郎記念館」の文字があればもっと早く気づき、当該クラウドファンディングにもご協力できたのですが……。

まぁ、それでも目標を超える金額が集まったそうで、良かったと思いました。
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さらに素晴らしいのは、今回の試みが単なるスタンプラリーで終わるのではなく、そこからデータを収集し、「地域の観光を盛り上げるアイデアを検討し、市に提案」というくだり。なるほど、と思いました。こういう柔軟な発想は、「キックバック」だの「中抜き」だの、そんなことばかり考えているジジイどもには出てこない発想でしょう。もっとも、若くても、「セクシーダンス」だのにうつつを抜かしている輩もいましたが(笑)。ちなみにその中心メンバーのセンセイも岩手でしたね。

ちなみに花巻北高さん、全く別の分野ですが、超小型人工衛星「YODAKA」のミッションにも関わられているそうです。光太郎が「内にコスモスを持つ」と評した宮沢賢治の精神が脈々と息づいているように感じます。

全国の学校関係者の皆さん、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

部落の図書館をつくりたいと青年達がいつてきてさしあたり分教場に図書棚をつくり、小生も書籍や雑誌を寄附、今後大いに助力しようと思ひます。部落の青年が自発的にかういふ事を発案したのをよろこんでゐます。いい村に、そして進んだ村にしたいものです。


昭和22年(1947)6月30日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

およそ80年前にも、光太郎、花巻(というか旧太田村ですが)の若者たちに感銘を受けていました。

智恵子の故郷、福島二本松でのイベントです。二本松市さんの主催で、期間中、さまざまなコンテンツが用意されています。

高村智恵子 生誕祭

期 日 : 2024年4月25日(木)~5月26日(日)
会 場 : 智恵子生家/智恵子記念館 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 水曜 ※祝日の場合は翌日
料 金 : 大人(高校生以上)410円(360円)
      子供(小・中学生)210円(150円) (  )内団体料金

「智恵子の生家」は、明治初期に建てられた造り酒屋で、酒銘は「花霞」と言いました。智恵子は明治19年5月20日にここで生まれ、育ちました。

明治、大正、昭和と激動の時代を生きた智恵子の愛と美の軌跡をぜひご覧ください。

智恵子の生誕日5月20日(月)に来館された方には紙絵マグネットをプレゼントいたします。

 智恵子の生家 二階特別公開
  公開日 4月27日(土) ~4月29日(月) 
      5月3日(金)~5月6日(月) 11日(土)・12日(日)
      18日(土)~5月20日(月) 25日(土)・26日(日)
  通常公開していない「智恵子の居室」を特別に公開いたします。

 
奇跡といわれる「紙絵」実物展示
  展示期間 4月25日(木)~5月12日(日)
  展示場所 智恵子記念館展示室
 
 上川崎和紙で作る「智恵子の紙絵」体験
  開催日 5月18日(土)・19日(日)・25日(土)・26日(日)
  開催場所 智恵子生家
  上川崎和紙を使用し、智恵子の紙絵をモチーフとしたグッズを作成できます。

 みんなで作るシンメトリー展~展示編~
  開催日 4月25日(木)~5月26日(日)
  開催場所 智恵子記念館
  昨年開催の“レモン祭”で作製いただいた皆様のシンメトリー作品を展示いたします。
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これとは別に、地元の智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さんが、「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂のつどい~」を5月19日(日)に開催します。また、同日は安達太良山の山開きも行われる予定です。それらはまた近くなりましたら詳細をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

つい昨年まで水野君からいろいろの野菜の種子などをもらつてゐましたが、今年播種期になつて、もう水野君が居ないのだと強く悲しく思ひました。鶴首南瓜の種子も絶え、ブンズウ豆やセリフオンの種子だけはどうやら形見にのこりました。


昭和22年(1947)6月10日 押尾孝宛書簡より 光太郎65歳

「水野君」は水野葉舟。明治後期の第一期『明星』以来、光太郎の一番の親友でした。大正12年(1923)の関東大震災以後は東京を離れ、千葉の遠山村(現・成田市)で半農生活に入り、その意味では光太郎の大先輩でした。

たまたま入ったコンビニに並んでいまして、ついつい買ってしまいました。

いまこそ読みたい 教科書の泣ける名作

2024年3月22日 Gakken編・刊 定価809円+税

国語の教科書で読んだ、記憶に残る物語の短編集。「ないた赤おに」「スーホのしろいうま」「走れメロス」「少年の日の思い出」「故郷」「握手」「高瀬舟」「よだかの星」「トロッコ」など、懐かしい有名作品から隠れた名作までを多数収録。
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目次
 大塚 勇三『スーホのしろいうま』
 太宰 治『走れメロス』
 斎藤 隆介『ベロ出しチョンマ』
 新美 南吉『あかいろうそく』
 芥川 龍之介『トロッコ』
 宮沢 賢治『よだかの星』
 石垣 りん『挨拶 原爆の写真によせて』
 ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』
 宮沢 賢治『オツベルとぞう』
 森 鷗外『高瀬舟』
 井上 ひさし『握手』
 高村 光太郎『レモン哀歌』
 魯迅『故郷』
 浜田 廣介『ないた赤鬼』

今月初めにプレスリリースのページで情報を見つけ、「光太郎は「レモン哀歌」一篇かぁ、じゃ、買うのはやめとこう」と思っていたのですが、先述の通り、たまたま入ったコンビニで表紙の泣いた赤鬼が目に入り、その赤鬼が「買ってくれないの……?」(笑)。結局、「わーった、わーった、買うよ、買うから泣くな!」(笑)。装丁にやられました(笑)。

ちなみにプレスリリースは以下の通り。

【シリーズ累計15万部】あの名作をもう一度読みたい!  「泣いた赤鬼」「少年の日の思い出」「走れメロス」など、国語教科書の感動作14篇を1冊に収録。

国語の教科書に収録されていた、あの懐かしい小説や詩にもう一度出会える。『いまこそ読みたい 教科書の泣ける名作』が新発売!
株式会社 学研ホールディングス

株式会社 学研ホールディングス(東京・品川/代表取締役社長:宮原博昭)のグループ会社、株式会社 Gakken(東京・品川/代表取締役社長:五郎丸徹)は、2024年3月22日(金)に、『いまこそ読みたい 教科書の泣ける名作』を発売いたしました。

■あの名作をもう一度!
『教科書の泣ける名作』は、累計発行部数15万部を誇るベストセラーシリーズです。このたび、絶版となっていた『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作 続』(2014年発刊)の収録作品を一部入れ替え、新たに『いまこそ読みたい 教科書の泣ける名作』として発売しました。

「大人になった今読み返すと、新しい発見や感動があったり、登場人物の気持ちや作者の思いが以前に増して深く響いたりした」といった感想も。当時に思いを馳せながら、“あの名作”をゆっくりと味わってみてはいかがでしょうか。

■国語の教科書の感動作14篇が1冊に
小学校・中学校の国語の教科書に現在掲載されている作品や、かつて長期間にわたって掲載されていた作品の中から、心にしみる作品や涙なしには読めない物語を厳選し、14篇を1冊にまとめました。作品の選考にあたっては、幅広い世代の方を対象に行ったアンケートの結果も反映しています。

いつか読み返したいと思っていた名作だけでなく、忘れかけていた作品や、今の小学生が読んでいる新たな作品にも出会える一冊です。

■全作品に解説つき
各作品のあとには、ミニコーナー “「あのころ」をふりかえる”を設けました。次のような内容で、作品の理解をより深めることができます。

・作者の経歴
・代表作
・作風や作者の受けた評価
・執筆の背景や経緯
・学習学年
・授業での指導内容
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■2冊合わせて、もっとたくさんの感動を
同シリーズの『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作 新装版』(2023年発刊)もおすすめ。こちらも「ごんぎつね」「モチモチの木」「ちいちゃんのかげおくり」など、懐かしい名作を多数収録しています。
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それにしても、「スーホのしろいうま」や「ベロ出しチョンマ」は、何度読んでも納得行きません(笑)。現代でも教科書に掲載されているのでしょうか? とすると、現代の先生方はこれでどう授業を展開されているのか、興味深いところではあります。「こういうのって、「昔々のお話」じゃないんだよ」と語れる骨のある先生はいらっしゃるのでしょうか?

ま、「レモン哀歌」も納得行かない、美化しすぎだ、という向きもおありかもしれませんが。

とにもかくにもお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日速達で「智恵子抄」の原稿「松庵寺」「報告」及び小文をお送りしました。詩は年代順に最後に入れて下さい。小文は序といふほどのものではないので、後記のやうにして下さい。


昭和22年(1947)6月7日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

この年11月に刊行された白玉書房版『智恵子抄』に関わります。

オリジナル『智恵子抄』は太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に龍星閣から刊行され、戦時にもかかわらず昭和19年(1944)の13刷まで増刷されました。その後、戦争の影響で龍星閣は休業。戦後になると店頭からは『智恵子抄』が消えてしまっていました。

そこで休業中の龍星閣に代わって、白玉書房の鎌田が『智恵子抄』復刊を企図し、龍星閣社主の澤田伊四郎から許諾を得たので、と光太郎に打診。光太郎もGOサインを出し、さらに戦後の詩「松庵寺」「報告」を追加することを指示しました。光太郎としては、増刷のたびに新たな智恵子詩をどんどん追加する意図もあったようですが、それは実現しませんでした。

しかし、澤田が「鎌田に許諾した覚えはない」と言いだし(このあたり、真相は闇の中です)、昭和25年(1950)に龍星閣が復興すると、翌年から『智恵子抄』の再刊を始めます。

注文しておいた新刊が届きました。

瀏瀏と研ぐ――職人と芸術家

2024年4月10日 土田昇著 みすず書房 定価4,200円+税

 町の仏師から日本を代表する木彫家、帝室技芸員、東京美術学校教授へと登りつめた高村光雲。巨大な父の息子として二世芸術家の道を定められながら、彫刻家としてよりもむしろ詩人として知られることになる高村光太郎。そして、刀工家に生まれた不世出の大工道具鍛冶、千代鶴是秀。
 明治の近代化とともに芸術家へと脱皮をとげ栄に浴した高村光雲は、いわば無類の製作物を作る職人でありつづけた。その父との相似、相克を経て「芸術家」として生きた光太郎の文章や彫刻作品、そして道具使いのうちに、著者は職人家に相承されてきた技術と道徳の強固な根を見る。
 戦後、岩手の山深い小屋に隠棲した光太郎が是秀に制作を依頼した幻の彫刻刀をめぐって、道具を作る者たち、道具を使って美を生みだす者たちの系譜を描く。
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目次
第一章 職人の世界――火造り再現の旅のはじまり
火起こし / 千代鶴是秀の鍛冶場 / 仕事の領分――冷たい鉄と熱い鉄 / 鋼作り / 地金作り / 鍛接 / 火造り / 山の鍛冶場 / 最後の職人たち――作業感覚に支えられて / 売るためでなく / 「絶滅種」の道具 / 剣錐を造る / 本三枚の刃物の難しさ / 本三枚と格闘する / 出来る時には出来てしまう / 驚異の青年鍛治 / 本三枚の切出小刀の製作仲介 / 作業感触の支配下で

第二章 道具と芸術
不思議を転写した彫刻 / 芸術家とはなにか / 美しいとはなにか / 大工の技術、彫刻家の技術 / 大工の研ぎ、彫刻家の研ぎ / 岐れ道を歩む者たち――千代鶴是秀と高村光太郎 / 千代鶴是秀と明治日本 / 高村光雲と明治日本 / 明日の小刀を瀏瀏と / 高村光雲の彫刻道具 / 仏像作家、森大造と道具 / 特殊鋼の刃物、純炭素鋼の刃物 / 是秀作、左右の印刀――実用本位の刃物 / 津田燿三郎の墨坪 / 道具はどう機能すべきか――森大造と津田燿三郎

第三章 職人的感性と芸術家――高村光雲と光太郎
高村光雲『幕末維新懐古談』との出会い / 『光雲懐古談』想華篇――「省かれてしまった部分の方が面白い」 / 芸術家父子と技法の移譲――岩野勇三と岩野亮介 / 息子がなす無謀――父親と同じではいない / 職人手間、物価の話と、道具の単位 / 世間に知られぬ名人の話 / 無類の制作物を作る「職人」たち――村松梢風『近代名匠傳』 / 職人の道徳――錆びた木彫道具 / 父との相似、相克――息子、光太郎と「のつぽの奴は黙つてゐる」 / 《薄命児》と川縁の地 / 二代目芸術家の洋行 / 帰国と芸術論「緑色の太陽」 / あやうい上手さからの脱却のシミュレーション――「第三回文部省展覧会の最後の一瞥」 / 鋸の色と切味の間の微妙な交渉 / 鋸の製作 / 健康な道具の色 / 三尺の目と一厘の目 / 職人と社会の問題 / 芸術家と社会の問題、芸術家と戦争――佐藤忠良、西常雄 / 「まだうごかぬ」――高村光太郎と西常雄 / 千代鶴太郎と彫塑の師、横江嘉純 / 息子がみつめた「父の顔」 / 工房の中の芸術家――光太郎による光雲作品の評価 / 木彫地紋――修業の第一歩 / 木彫地紋を彫る小刀 / 小さな木彫作品群――《桃》と《蟬》、光雲の荒彫りの洋犬 / 道具調べと職人道徳 / 後進の彫刻家にとっての高村光太郎 / 十和田湖畔の裸像 / 研ぎという刹那な達成 / 名人大工<江戸熊>の研ぎ / 光太郎の変容、是秀の変容 / 随筆身近なものへの感触の確かさ――「三十年来の常用卓」/ 折りたたみの椅子

第四章 道具を作る、道具を使う――是秀と光太郎
コロナ禍の研ぎ比べ――是秀の二本の叩鑿 / 錆びた彫刻刀――光太郎と是秀の接点たる道具 / 光雲の玄能、光太郎の彫刻刀 / <マルサダ>の一文字型玄能 / 錆落とし / 父の検証 / 研ぎ / 焼班やきむら / 仮説と消えゆくウラの文様 / 異形、異例の彫刻刀

借受記録帳より――光太郎のアイスキ刀 図面および寸法と覚書
参考文献
あとがき

著者の土田昇氏は、三軒茶屋の土田刃物店三代目店主であらせられます。木工手道具全般の目立て、研ぎ、すげ込み等を行う職人さんであると同時に、お父さまの二代目店主・一郎氏と交流のあった伝説の大工道具鍛冶・千代鶴是秀作品の研究家としてもご活躍。平成29年(2017)に『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を刊行されています。

千代鶴是秀は光太郎の木彫道具も制作しましたし、実現したかどうか不明なのですが、光太郎は終戦直後、是秀に身の回りの道具類の制作をお願いしたいという旨の書簡を送っています。また、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎を、是秀が中野のアトリエにひょっこり訪ねたりもしています。「乙女の像」の石膏取りをした牛越誠夫は是秀の娘婿でした。

是秀が光太郎のために作った彫刻刀は、令和3年(2021)に東京藝術大学正木記念館さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展で初公開されました。その少し前に髙村家で見つかったもので、土田氏がその錆び落とし、研ぎにあたられたとのこと。「第四章 道具を作る、道具を使う――是秀と光太郎」に、その経緯や作業の工程などが詳しく語られていて、実に興味深く拝読いたしました。

問題の彫刻刀は、先端部分のみを木製の柄にすげる通常の彫刻刀と異なり、柄の部分まで鉄で出来た「共柄」と呼ばれるタイプ。当方、この手の道具類にはさほど詳しいわけではなく、現物を拝見した時には「へー、このタイプか」と思っただけでした。しかし、本書を読むと「共柄」のものは実用に適さず、土田氏は「異形」とまで言い切られています。光太郎と交流のあった朝倉文夫は、わざわざ是秀が作った「共柄」の彫刻刀の鉄製の柄に木製の柄をかぶせていたそうで。

また、材質も特殊。是秀は早い時期から日本の伝統的な「玉鋼」ではなく、より良質な輸入鋼の「洋鋼」による制作を主流としていたにもかかわらず、光太郎の彫刻刀は「玉鋼」製だったとのこと。そうした異形、異質な作品が光太郎に作られた理由について、考察が為されています。

また、光太郎の父・光雲が使っていた玄能(げんのう)についても。こちらは「丸定」という明治期の名工の作。こちらも錆び落としや柄の補修などを土田氏が担当され、そのレポートも読み応えがありました。作業が一段落した際の記述に曰く「空振りするだけで、握る手、振り上げ振り下ろす肩や腕に制作者丸定と、柄をすげて実用した光雲が憑依しているかのように感じました」。

昨日届いたばかりですし、300ページに迫る厚冊ですので、まだ全て読み終えていませんが、他にも『光雲懐古談』、光太郎のさまざまな評論やエッセイ、詩についての考察などがちりばめられています。木工手道具全般の目立て、研ぎ、すげ込み等に取り組まれている土田氏の読み方は、やはりいわゆる「評論家」のセンセイとはひと味もふた味も違います。なにげに読み飛ばしてしまうような一行に、「この背景にはこういうことがある」という指摘、唸らせる部分が多々ありました。

また、光雲や光太郎の周辺にいたさまざまな彫刻家などについての記述も。荻原守衛はもちろん、森大造などについても触れられていて、舌を巻きました。

ちなみにタイトルの「瀏瀏と研ぐ」は、『智恵子抄』にも収められた光太郎詩「鯰」(大正15年=1926)からの引用です。

   鯰

 盥の中でぴしやりとはねる音がする。000
 夜が更けると小刀の刃が冴える。
 木を削るのは冬の夜の北風の為事(しごと)である。
 煖炉に入れる石炭が無くなつても、
 鯰よ、
 お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。
 檜の木片(こつぱ)は私の眷族、
 智恵子は貧におどろかない。
 鯰よ、
 お前の鰭に剣があり、
 お前の尻尾に触角があり、
 お前の鰓(あぎと)に黒金の覆輪があり、
 さうしてお前の楽天にそんな石頭があるといふのは、
 何と面白い私の為事への挨拶であらう。
 風が落ちて板の間に蘭の香ひがする。
 智恵子は寝た。
 私は彫りかけの鯰を傍へ押しやり、
 研水(とみづ)を新しくして
 更に鋭い明日の小刀を瀏瀏と研ぐ。

土田氏にかかると、終わりから二行目の「研水(とみづ)を新しくして」だけでも深い意味。詳しくはぜひお買い求めの上、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩稿「暗愚小伝」(題名未定)は、いつまでも書き直してゐてもきりがありませんから此の十五日までに遅くもそちらに届くやうにするつもりで居ります。 一応読んでみて下さい。雑誌でも検閲があるのでせうが一切自由に書きましたからご注意下さい。

昭和22年(1947)6月1日 臼井吉見宛書簡より 光太郎65歳

自己の生涯を振り返り、同時に戦争責任にも言及した20篇から成る連作詩「暗愚小伝」。前年から取り組んでいて、ようやくほぼ脱稿しました。これを書く前と後とでは、花巻郊外旧太田村での山小屋生活の意味もかなり変容したように思われます。移住当初はここに仲間の芸術家たちを招いて「昭和の鷹峯」を作るといった無邪気な夢想もありましたが、続々入る友人知己の戦死の報(木彫「鯰」を贈った新潟の素封家・松木喜之七なども)、東京で巻き起こった戦犯追及の声などに押され、自らの戦争責任を直視せざるを得ず、「自己流謫」へと。「流謫」は「流罪」に同じです。

明治末、光太郎ともどもロダニズムを日本に持ち込み、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛を偲ぶ催しが、信州安曇野の碌山美術館さんで開催されます。

第114回碌山忌

2024年4月22日(月)
 10:00~ コンサート グズベリーハウス
 13:30~ ミュージアム・トーク 約15分
 14:00~ 薩摩琵琶演奏会
       坂麗水氏 「文覚発心」「耳なし芳一」 グズベリーハウス
 16:00~ 墓参
 18:00~ 偲ぶ会
当日は入館無料 ぜひおでかけください
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関連行事としての講演会が前日に開かれます。

井上涼トークセッション「表現とアイデンティティ☆」

期 日 : 2024年4月21日(日)
会 場 : 碌山公園研成ホール 長野県安曇野市穂高5613-1
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 無料(要碌山美術館入場券)一般 900円 高校生 300円 小中生 150円
定 員 : 120名(先着順・事前申込制)

講 師 : 井上涼
ナビゲーター : 濱田卓二(碌山美術館学芸員)

NHK Eテレの美術番組「びじゅチューン!」で知られるアーティスト・ 井上涼氏が自身の表現や観点、いままでやこれから、LGBTQ などについて、ナビゲーターとの会話形式でお話しします。

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案内にあるとおり、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」で、アニメーション制作、歌の作詞作曲、歌唱、美術作品の解説まで担当されている井上涼氏。

同番組ではこれまでに光太郎とその父・光雲を取り上げて下さいました。

光太郎の回は「指揮者が手」。平成30年(2018)に初回放映がありました。
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光雲は一昨年初回放映の「老猿は主役じゃなくても」。
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それぞれ小学館さん発行の『びじゅチューン!DVD BOOK』に収められ、販売中。「指揮者が手」は第5巻、「老猿は主役じゃなくても」は第7巻の収録です。
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また、ロダンの「地獄の門」で、「ランチは地獄の門の奥に」という回もありました。
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井上氏、『毎日小学生新聞』さんに「井上涼の美術でござる」という連載をお持ちで、そちらでも「高村光太郎の巻」(平成31年=2019)、「高村光雲の巻」(令和5年=2023)。
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「びじゅチューン!」、「井上涼の美術でござる」、どちらも守衛作品は未だ取り上げられていないようです。今回のご訪問を機に、守衛彫刻のトリビュートをお願いしたいところです。

今回のトークセッション、申込フォームからの完全予約制ですが、まだ定員に達したというお知らせが出ていません。翌日の碌山忌ともども、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山はツツジのまつ盛りです。ヤマツツジ、ウマツツジ等、


昭和22年(1947)5月26日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。たしかに光太郎の山小屋の裏山にはツツジの木が自生しています。「ウマツツジ」はレンゲツツジの別称です。

光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関わり、急遽出版された書籍です。

中野・中西家と光太郎

2024年4月2日 勝畑耕一 著  小山弘明 監修  文治堂書店 定価400円+税

目次001
 中西利雄と水彩画
  一 明治期の水彩画について
  二 真野紀太郎との出会い
  三 二人の小山を知る
  四 牛込区水道町界隈
  五 東京美術学校に入学
  六 震災後に中野区・桃園へ
  七 「白山丸」でマルセイユへ
  八 渡欧の四年間
  九 『優駿出場』が帝展特選に
  一〇 結婚・作品集の刊行
  一一 戦争が始まる
  一二 絵を描く喜びを再び
  一三 襲い来る病魔
 光太郎とアトリエ
  一四 昭和二十年の光太郎
  一五 花巻での宮沢家・佐藤家との関り
  一六 賢治没後の清六、心平、光太郎の絆
  一七 山荘での七年間
  一八 十和田湖「乙女の像」制作
  一九 中西家との交友
  二〇 雪の日にアトリエで逝去


当方、「監修」とクレジットされています。とりあえず校正をした程度ですが。

前半は中野のアトリエを建てた新制作派の水彩画家・中西利雄(明33=1900~昭23=1948)の評伝。当方、中西についてはそれほど詳しくはなかったので、「なるほど、こういう人物だったのか」という感じでした。日本に於ける水彩画の普及・発展に果たした役割は大きなものがありました。惜しむらくは数え49歳での早世。戦後となり、これから戦時中の空白を取りもどそう、という時期でしたし。

その結果、主なき新築のアトリエが遺され、貸しアトリエとなったわけで、イサム・ノグチ、そして光太郎が店子(たなこ)となりました。

後半は中西アトリエでの光太郎、というか、そこに入るに至る経緯を含めて終戦の年・昭和20年(1945)からの光太郎についてです。

全44ページと厚いものではありませんが、見開き2ページの片側には必ず中西作品の写真や当時の古写真、古地図等の図版が入り、理解の手助けとなっていて、内容は濃い感じです。

4月2日(火)、日比谷松本楼さんでの第68回連翹忌の集いの際、参会の皆様には配付されたようです(当方、主催者でありながら資料の袋詰めは他の皆さんにほとんどやっていただき、詳しく把握していません)。他に30部程頂いて帰りまして(現物支給が「監修」ギャラです(笑))、その後、連翹忌の欠席者や全国の文学館・美術館さん等のうち、関わりが深そうなところへは、他の配付資料ともども発送している最中です。

ご入用の方、文治堂書店さんへお申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

五月十五日は小生が花巻にはじめて疎開して来た記念日なので、宮沢邸に御礼言上の為花巻に出で、数日間滞在、やつと山へ帰つて来ました。


昭和22年(1947)5月26日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

東京を離れてまる二年が経過、というわけです。

雑誌の新刊です。

月刊 アートコレクターズ』№181 2024年4月号

2024年3月25日 生活の友社 定価952円+税

宇宙のような無限の広がりを持つ「色彩」。本特集では、「色彩」にこだわりを持った現代の実力派作家たちを紹介。さらに美術史における「色彩芸術」の変遷や、日本人ならではの色彩感覚についてなど、様々な観点から「色彩」を探究。あたりまえのように感受している「色彩」のパワーを改めて見直します。

表紙:入江明日香「雪月花之舞」2024年 ミクストメディア 85×65cm
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目次
 【巻頭特集】 色彩の宇宙 実力派カラリスト勢ぞろい


◇寄稿
 岡﨑乾二郎 目から転がり落ちる色
 谷川渥 絵画は色彩芸術か
 赤瀬達三 都市のなかの色彩 
 三木学 サイン色彩概念を疑う
◇アーティストインタビュー
 流麻二果 色に遺る生活の跡
 岡村智晴 ノイズの創造性
 氏家昂大 ―異物としての陶芸―
◇グラビア
 中村功/藤井孝次朗/横溝美由紀/前田信明/福本百恵/加来万周/曽谷朝絵/戸泉恵徳
 上野英里/Yeji Sei Lee/木村佳代子/少女(SONYO)/ATSUYA/今実佐子/石倉かよこ
 蓮水/間島秀徳/坂口寛敏/名古屋剛志/西岡悠妃/オーガ ベン/福井江太郎
 大久保智睦/中島麦/中津川博之/小泉遼/銀ソーダ/水津達大/岡田菜美/盧思/城愛音
 長谷川喜久/堀川理万子/天野雛子/やましたあつこ/松下徹/吉川民仁/平体文枝
 CAIQIN/那須佐和子/今津奈鶴子/西川茂/Pin-Ling Huang/小林正人/松浦延年
 近藤亜樹/片山雅史/木下めいこ/井崎聖子/野地美樹子/末松由華利/入江明日香
 南依岐/塚本智也/谷保玲奈/福室みずほ/春田紗良/坪田純哉/篠田教夫/浜田浄
 佐藤裕一郎/梶岡俊幸/藤森哲/田島惠美
【展覧会情報】 神戸アートマルシェ 他
【連載】 鹿島茂/水沢勉/森孝一/田辺一宇/飯島モトハ
 Contemporary Art Now/展覧会ガイド 他

この3月末で退任された、元神奈川県立近代美術館長であらせられた水沢勉氏の連載「色と形は呼び交わす」の第13回「盛田亜耶 被膜の虚実」で、智恵子紙絵が紹介されています。

メインは標題の通り、切り絵作家・盛田亜耶氏の作品紹介ですが、同じ切り絵ということで、智恵子の紙絵が話の枕になっています。ちなみに智恵子のそれは光太郎の意図で「紙絵」という呼称が定着していますが、ジャンル的には切り絵です。

水沢氏、昨秋、二本松市の智恵子生家/智恵子記念館で開催された「高村智恵子レモン祭」に足を運ばれ、智恵子紙絵の実物展示(平時は複製展示)をご覧になったそうで、その印象など。

曰く、

 智恵子の「紙絵」は、紙を折ることによるシンメトリーの効果や皺による無意識の偶然性などを冴え切った感覚で活かし、重なりあった複数の紙の繊細極まりない表情をハサミで震えるような切れ目を入れることによってみごとに際だたせるものであった。その抜きんでた才能を、印刷物や複製ではなく、原作をまのあたりにすることで確かめることができた。

そして先述の通り、盛田氏の切り絵の紹介。

ちなみに盛田氏、昨年全国巡回のあった「超絶技巧、未来へ 明治工芸とそのDNA」展に出品されていました。当方、日本橋の三井記念美術館さんで拝見しました。
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氏の作品、モノトーンが基調のようですが、色彩を効果的に使った作品も見られます。再び水沢氏曰く「一見薄っぺらともいえる紙による造形が特別な存在感を纏っていた」。

こうした点は智恵子紙絵にも共通していえることだと思われます。くりかえし書いていますが、智恵子紙絵は台紙に貼り付けることで生じる1㍉に満たない厚みが不思議な立体感を醸し出しています。これは複製や印刷物では味わえない感覚で、その意味ではぜひ実物をご覧になって納得していただきたいところです。

昨日も書きました通り、今月末から来月にかけ、やはり二本松市の智恵子記念館さんで恒例の実物展示が行われます。また近くなりましたら詳細をご紹介します。

さて、『月刊 アートコレクターズ』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

宮崎さんの赤ちゃんの名は宮崎さん自身で光太郎とつけたと言つて来られました。これには少々驚きました。あんまり近いところに光太郎さんが居る事になるので何だか変ですが、もう届けてしまつたことなので是非もありません。

昭和22年(1947)5月25日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

「宮崎さん」は宮崎稔。茨城在住の詩人で、戦前からその父・仁十郎ともども光太郎と交流がありました。戦後になって昭和20年(1945)、光太郎の仲介で、智恵子の姪にしてその最期を看取った看護師だった長沼春子と結婚。そして生まれた第一子を「光太郎」と名付けてしまったとのこと。夫婦とも光太郎を限りなく敬愛していたためなのでしょう。

先週から始まっています。

状況をわかりやすくするために、地方紙『福島民報』さん記事から。

桜の名所、巡って当てて 4月1日から「春のにほんまつドライブスタンプラリー」 福島県二本松市

 福島県二本松市の桜の名所を満喫する「春のにほんまつドライブスタンプラリー」は1日から30日まで催される。二本松城、安達ケ原、中島の地蔵桜、合戦場のしだれ桜、岳温泉桜坂など18のスポットを巡り、取得したスタンプの数に応じて豪華賞品が当たる。
 にほんまつDMOの主催、日本自動車連盟(JAF)福島支部の協力。スマートフォンの位置情報を使って各スポットでスタンプを集める。賞品は岳温泉宿泊券、安達太良山満喫コース(ロープウエー往復券とバーベキューセット4人分)、牛肉、特産品詰め合わせなど。
 スポットは次の通り。
 二本松城、蓮華寺、鏡石寺、本久寺、円東寺、安達ケ原ふるさと村、万燈桜(道の駅安達下り線)、智恵子の杜公園、ムトーフラワーパーク、合戦場のしだれ桜、道の駅さくらの郷、道の駅ふくしま東和、中島の地蔵桜、祭田の桜、岳温泉桜坂、日向の人待地蔵桜、島山・稚児舞台の桜、愛蔵寺の護摩ザクラ
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というわけで、智恵子生家/智恵子記念館を含む智恵子の杜公園もスタンプ押印地点の一つに。
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数年前から桜の街で自薦している二本松市。東北はこれからが桜の本番ですし、また近くなりましたら詳細をご紹介しますが、今月末には毎年恒例の智恵子生家二階部分の特別公開、智恵子紙絵の実物展示などが始まります。
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ぜひ足をお運びの上、豪華賞品ゲットにチャレンジなさって下さい。

ちなみに豪華賞品は以下の通り。

 A賞 スタンプ18個で応募 岳温泉宿泊券3万円分 抽選で2名様
 B賞 スタンプ15個で応募 安達太良山満喫コース 抽選で3名様
  ロープウェイ往復券・レストハウスで使えるバーベキューセット券がそれぞれ4人分
 C賞 スタンプ15個で応募 エム牧場生体熟成和牛焼肉 抽選で3名様
 D賞 スタンプ10個で応募 二本松詰め合わせセット(1万円相当) 抽選で5名様
 E賞 スタンプ5個で応募 二本松詰め合わせセット(3,000円相当) 抽選で10名様
 F賞 スタンプ3個で応募 肌とうじ1枚 抽選で30名様
  「純米酒」と美肌の湯で有名な岳温泉の天然温泉を配合した、フェイシャルマスク

羊頭狗肉ではなく、実際に豪華ですね。応募方法など詳細はこちら

また、高村光太郎記念館さんを含む花巻市での同様のスタンプラリーも今月末に始まるようです。そちらも後ほどご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

桜温泉入浴から始まり、連日の御もてなしに心のびのびと数日を送り、せんかん楼のあつき褥に身を横たへて実に命ののびる思をしました。又山下新太郎の画に誘はれて思ひがけぬリンゴの詩を得たのも喜でした。


昭和22年(1947)5月23日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から花巻町市街地に出、太田村移住前に厄介になっていた総合花巻病院長・佐藤隆房邸に数日滞在、山に帰ってから送った礼状の一節です。

「桜温泉」は、佐藤邸の所在地が桜町だったためのもじり、「せんかん楼」は「潺湲楼」で、光太郎が太田村移住直前の1ヶ月起居していた佐藤邸離れです。

「リンゴの詩」は、佐藤邸で見せられた留学仲間・山下新太郎の絵を見てインスパイアを受け、即興的に作った詩。即興詩ではありますが、光太郎自身気に入ったようで、最晩年の昭和30年(1955)、交流の深かった美術史家・奥平英雄に贈った書画帖『有機無機帖』にもこの詩を書きました。
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リンゴばたけに 雨ふりて 銀のみどりの けむるとき リンゴたわゝに 枝おもく 沈ゝとして あかきかな

新年度となり、早くも1週間が過ぎました。

当会としましては、年間最大の催し、光太郎を偲ぶ連翹忌の集いが4月2日ということで、それが終われば新たな年度という感覚です。完全な年中行事で、「また一年頑張ろう」という感じで。

また、一般社会人の皆さんは4月1日が年度始めですが、児童生徒学生の皆さんは今日あたりから行われる入学式/始業式を以て年度始めと捉えられるのではないでしょうか。

そんなこんなですが、先月31日の『宮崎日日新聞』さん、一面コラム。

くろしお 道程を見守る目

「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」。詩人高村光太郎の、教科書にも載る有名な詩「道程(どうてい)」の冒頭だ。わずか9行。何もない荒野に、だれかが歩んでこそ道は切り開かれていくことを教えてくれる▼110年前の1914年に発表されたこの詩、当初は102行に及ぶ大作だった。そちらの方は大自然の中、手探りで進むべき道を模索するしかない若者の決意がより情熱的にうたわれている。「人類の道程は遠い そして其(そ)の大道はない」と覚悟を問うようだ▼今日で一般の会社や学校の年度は終わる。明日から新しいステージに踏み出す人は同様の覚悟を抱えていることだろう。先人の残した道をなぞりながら試行錯誤を繰り返し、自分だけの道ができる。道に車輪が通ると轍(わだち)が出来て、それがまた後進の指針になる▼先日、宮崎市で「宮崎芸術文化人団 轍」という文化団体の設立会があった。県内の芸術家や文学者のほか学者や実業家らが名を連ね、地域文化の振興や県文化賞への推薦を目的に掲げる。轍という漢字の中には「育」の字がある。後進を育てる意図が団体の名称の由来に込められているのだろう▼厳しさに満ちた「道程」だが「父」に「僕から目を離さないで守ることをせよ」と命令口調で説く。「父」は神的な存在、自然、先達者を含め、広く共同体を指すのではないか。荒野に放り出された新人も団体も、地域の温かい理解や支援があって道を歩める。

ちょうど110年前の大正3年(1914)3月、雑誌『美の廃墟』に発表された初出の「道程」に触れて下さいました。

詩「道程」は記述の通り、最初は102行の長詩。それが10月に刊行された第一詩集『道程』収録の際にばっさりカットされ、現在流布している9行の最終詩形となりました。このあたり、繰り返しこのブログサイトでご紹介しています。

そのたびに触れているのですが、初出発表形の102行バージョンを「全文」としてSNS上などに紹介される方が多くて閉口しています。「全文」とされると、まるで9行の最終詩形がまがいもので「全文」からの抜粋に過ぎず、正しくは102行の形だ、というニュアンスになってしまいます。

そうではなく102行の初出発表形は光太郎自身がボツにし、9行の最終詩形に書き直したわけで、決して「抜粋」として流布しているわけではありません。

102行の初出発表形は、それはそれで優れた詩ですので、花巻高村光太郎記念館さんでは声優の堀内賢雄氏による朗読を流していたりします。つい最近も芥川賞作家・九段理江氏の小説『しをかくうま』に引用されたりもしました。ただ、あくまで光太郎自身がボツにした「初出発表形」、乃至は「原型」ですので、「全文」という表現は使わないでいただきたく、よろしくお願い申し上げます。

さて、今年は3月に入ってから気温が低い日が続き、桜の開花がここ数年で最も遅かったようですね。しかし、関東などでは4月の入学式シーズンに満開というのが本来の姿だったように思います。ここしばらくが温暖化の影響で異常だったような……。

千葉県の当方自宅兼事務所周辺もまさに今がいい感じです。

昨日、車で5分程の桜の名所での撮影。
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自宅兼事務所から徒歩30秒の公園も、隠れ名所です。今朝の撮影。
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ついでですので、光太郎詩、ずばり「さくら」。
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   さくら

 吉野の山の山ざくら
 山いちめんにらんまんと
 呼吸(いき)するやうに咲きにほふ
 この気高さよ 尊さよ

 春の日あびて山ざくら
 ただ一心に 一斉に
 堂堂と咲く 咲いて散る
 このいさぎよさ きれいさよ

 顕花部被子類双子葉門(けんくわぶひしるいさうしえふもん)
 離弁花区薔薇科桜属(りべんくわくいばらくわさくらぞく)
 世界にまたとない種属
 日本の国花 山ざくら

 ぼくらの胸に花と咲く
 大和心のはげしさを
 姿にみせる山ざくら
 この凛凛しさよ 親しさよ


昭和16年(1941)4月、雑誌『家の光』に寄稿されたもので、光太郎詩には珍しい七五調口語定型詩です。日中戦争は泥沼化、その打開を目論んでの太平洋戦争開戦まであと半年あまり、そんな時期ですから、この詩もキナ臭さがぷんぷん漂っていますが……。

明日も桜がらみで。

【折々のことば・光太郎】

小森さんにたのまれて夜雨詩集の表紙の字を書きました。


昭和22年(1947)4月24日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

「夜雨」は横瀬夜雨。光太郎より5歳年長の明治11年(1878)生まれの詩人です。生涯くる病に悩み、歩行も困難だったそうです。歿したのは昭和9年(1934)でした。

まだ病状がそれほでなかった明治34年(1901)に撮られた集合写真に光太郎と共に写っています。
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投稿雑誌『文庫』(内外出版協会)が百号を記念し、上野の韻松亭で投書家の集まり「春期松風会」を催した際のもの。ただし、この時点で互いに面識があったか(あるいはこの時に出来たか)は不明です。数えで光太郎は19歳、横瀬は24歳でした。

「詩集」は昭和22年(1947)5月に南北書園から刊行された『野に山ありき』。書籍中に光太郎の題字揮毫である旨の記述がありませんが、上記の書簡など、さらに筆跡から光太郎の手になるものであることは明らかです。
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昨日も上京しておりました。

目的地は2箇所、まずは上野桜木町の旧平櫛田中邸。山手線だと鶯谷駅か日暮里駅からの方が近いのですが、せっかくの桜のシーズンですので、上野駅から歩きました。

トーハクさん前。
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藝大さん前。
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寛永寺さん。
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谷中霊園入り口的な。
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と、桜を見つつ歩いて目的地、旧平櫛田中邸へ。木原萌花さんという方による舞踊の公演「旧平櫛田中邸 de タコダンス」を拝見。
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公演も勿論ですが、この建物がどう活用されているのか、という部分に非常に興味がありまして。昨年から、光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動に一枚かませていただいており、その関係です。
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邸宅は住居兼アトリエ。大正8年(1919)に竣工、昭和45年(1970)に平櫛が小平市に移るまで使われました。

平櫛田中は光太郎の父・光雲の高弟の一人ですし、ここは一度見ておきたいと前々から思っていたのですが、イベントがある場合のみ公開されるということで、何もない時に行っても見られません。するとちょうどいいタイミングで今回の公演があったというわけです。
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こちらは保存に関わられた「たいとう歴史都市研究会」さんのパンフレット。他にも古建築の保存に当たられています。同会の方がいらっしゃればお話を伺おうと思っていたのですが、昨日は不在でした。

外観。
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細々したパーツなども実にいい感じです。
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大正8年(1919)に竣工、昭和45年(1970)に平櫛が小平市に移るまで使われました。その間に部分的には少し手が入れられているかな、という感じでしたが、全般的には竣工時のままでしょう。
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住居部分内部。「おばあちゃんの家」みたいな懐かしさを感じます。
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あちこちに田中グッズ。
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アトリエ部分。
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ここが公演会場で、バイアスのないフラットな床面でどうお客さんに観(み)せるのかと思っていましたが、カーペットやクッションなどを活用していました。もちろん椅子も。
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キャパ的には詰め込んで30くらいでしょうか。昨日は20名程でした。

中野のアトリエも、保存活用が為されるようになったあかつきには、こういった公演等での活用も考えられ、その意味では非常に参考になりました。

さて、開幕。
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上演時間は約60分。あえて分類すればコンテンポラリーダンスに入るのでしょうが、通常のダンスというイメージはほとんど無く、能楽やバレエのような動作もあり、激しい動きとゆるやかなそれと予想のつかない緩急、そうかと思うといきなり不可思議な「語り」も入り、後半では一度引っ込んでから黒い大きなゴミ袋を纏って再登場したりと、異界に迷い込んでしまったような感覚を味わわされました。
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将来的に中野のアトリエが活用されるようになったら、ぜひそちらでも演じていただきたいものだと思いました。

終演後、原宿の「デザイン&ギャラリー装丁夜話」さんへ。こちらでは水彩画の個展「ASAKO展 春、在りし日、過ぎし日」が開催中です。
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先月開催された「星センセイと一郎くんと珈琲」の際にもお邪魔しまして、2回目です。偶然でしょうが、光太郎智恵子に関わる個展が短期間に開かれ、ありがたいかぎりでした。

今回は光太郎、中原中也、芥川龍之介の作品からインスパイアを受けたという水彩画の展示。作者のASAKO(井出朝子)氏もご在廊でした。
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「智恵子抄」系。
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智恵子肖像は売約済みになっていました。

中也/芥川系。
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それぞれの作品と、元ネタの詩文を併せて掲載した画集『琥珀糖』が販売されていて、ゲットしました。装丁夜話さんのオンラインショップでも購入出来ます。
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「星センセイと一郎くんと珈琲」の際の山口一郎氏の作品と画集もまだ置いてありました。
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こちらもオンラインショップで注文可。

今日は開廊、その後、来週4月12日(金)~14日(日)の開催です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

四五日あたたかだつたので畑をはじめたら、昨夜猛烈な嵐が来て小屋が飛ぶかと思ふほどでしたが、今日はアラレ交りの雪がふつてゐます。


昭和22年(1947)4月22日 小森盛宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。4月下旬でも降雪が普通にある、厳しい環境でした。

事前に情報をキャッチできず、放送終了となってしまったのですが、最近のラジオ番組とテレビ番組で光太郎が取り上げられていました。

まずラジオ番組。3月28日(木)のNHK FMさんの「ラジオ深夜便」で、俳優の山本學さんが光太郎詩「十二月八日」「一億の号泣」「山林」の朗読。
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調べてみましたところ、1月9日(火)の放送では、ご自身の認知症についてのお話もなさっていました。その際にも朗読が流れたのでしょうか?

当方、令和元年(2019)に山本さんの光太郎詩朗読を生で拝聴いたしました。同じ年には西日本で公演を重ねられましたが、その後、ご体調を崩されて……というお話を聞いておりました。そのあたりのお話があったようです。3/28の放送は4月3日(水)まではネットで聞き逃し配信があったとのことでしたが、連翹忌等でバタバタしており、それも聞き逃してしまいました。

また同様の放送等があることを期待いたします。

続いてテレビ。4月2日(火)、第68回連翹忌の日の朝、テレビ朝日さん系の「グッド!モーニング」。こちらでは番組内で視聴者向けにクイズ形式で4つの「検定」というコーナーがあって、そのうちの「林修のことば検定スマート」で、光太郎が問題に取り上げられました。おそらくその日が命日だった関係でしょう。
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問題は「作品に悪戯をされた高村光太郎、何をした?」。

明治39年(1906)、欧米留学に出た光太郎は、最初の滞在地・ニューヨークのアート・ステューデント・リーグの夜学に通っていました。そこで人種差別の洗礼を受けます。作りかけの光太郎彫刻が、翌日登校してみると腕が逆に付けられていたり、と。そこで、犯人が判ったところで光太郎の取った対応は? という問題です。ちなみに当方、平成30年(2018)に光太郎の母校・荒川区立第一日暮里小学校さんにゲストティーチャーで招かれた際、似たような問題を6年生の児童の皆さんに出題しました(笑)。そのころの児童の皆さん、覚えておいででしょうか(笑)。

視聴者はリモコンの青・赤・緑のボタンで解答する仕組みで、正解するとポイントがもらえ、その後抽選でプレゼントに応募できるとのこと。そこで三択。
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画像はリアルタイムで試聴していた方がのちほど送って下さいました。このコーナー、緑の選択肢は常にダジャレ的なものだそうで、今回の「せびるな与えるから」のココロは……
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座布団一枚! ですね(笑)。

となると青「相手作品に悪戯」か赤「戦って決着」のどちらかが正解です。

話は変わりますが、このブログサイト、だいたい1日の閲覧数は100件ちょっとです。多い日でも数百件、少ない日は2桁。ところがこの日、朝の段階で3,300件を超えました。大バズりです。「何事だ?」と思ったら、どうもこの番組の全国の視聴者の皆さんが、正解発表までの間にネットで急いで調べ、その結果、当会サイトにたどり着かれたようです。

このサイト、翌日になると前日のアクセス状況レポートが見られる仕組みで、それによると12年前のロンドン五輪の頃に書いた「光太郎と柔道(その2)。」という記事にアクセスが集中していました。なるほど、まさに「作品に悪戯をされた高村光太郎、何をした?」について書いたものでした。

で、正解は……
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相手もレスリングだかボクシングだかをやっていたという学生でしたが、身長180センチ超、留学前にボディービル的なこともやっていた光太郎、怪しげな柔道技でギブアップを取りました。

先程も書きましたが、正解してポイントをゲット→ポイントをためてプレゼントに応募→抽選で賞品がもらえる、という流れです。調べてみたところ、現在の賞品はA賞が「ナノバブルシャワー3Dヘッド」、B賞で「ヨーグルトメーカー 自動メニュー7種 」、C賞だと「 尾西の携帯おにぎり4種(24袋)」だそうで。
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当会サイトで調べて当たった方、分け前よこせ! ですね(笑)。

またまた「ちなみに」ですが、この番組の林修氏のコーナーでは、以前にも光太郎。平成27年(2015)には当時あった「林修の金曜言葉塾」というコーナーで連翹忌会場の日比谷松本楼さんが取り上げられ、光太郎にも触れられました。その際はテレ朝さんから制作協力依頼があり、かなり詳しく光太郎に触れるということでお手伝いしたのですが、実際のオンエアでは当初予定が大幅に短くカットされていました。

何にせよ、光太郎について取り上げて下さるのはありがたいことですし、今回、当会サイトにたどり着いた皆さんがさらに光太郎について興味を持って下されば、幸いです。

【折々のことば・光太郎】

紙がうまくゆかないので字が書けずにゐましたが、漸く色紙大の和紙を入手しましたので、「陽光」の文字を一枚に一字づつにして三種類書きました。別封第四種便で発送いたしました。


昭和22年(1947)4月20日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

書も巧みだった光太郎への揮毫依頼、戦前からけっこうあったのですが、この時期からさらに増えました。この時書かれた「陽光」の書、未見です。ぜひ見てみたいものですが……。

またお一人、生前の光太郎をご存じの方がお亡くなりになりました。

浅沼隆さん。

光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村のご出身で、その当時は小学生。お父さまが分教場から昇格した山口小学校の校長先生だった関係もあり、小学校までしか届けてくれない光太郎宛の郵便物を光太郎の山小屋に届けられたこともしばしばでした。光太郎もそんな浅沼さんを随分とかわいがってくれたそうです。
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こちらは比較的有名な写真ですが、昭和24年(1949)、山口小学校の学芸会に現れたサンタクロース(光太郎)と小学校の児童たち。右手後方の窓から顔を出してこちらを見ているのが浅沼さんです。

光太郎歿後はその語り部として、ご活動くださいました。花巻高村光太郎記念会さんの理事も務められました。
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平成25年(2013)、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」。

令和2年(2020)、花巻周辺で発行されているタウン誌的な『シニアズ』
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かつて旧太田村で毎年5月15日に開催されていた高村祭では、運営の中心的な役割を務められ、平成30年(2018)の第61回では、当方が司会を務め、浅沼さんはじめ4名の光太郎を直接知る方々にお話を伺うトークイベントも行いました。昨年、同様の企画を花巻の宮沢賢治イーハトーブセンターさんで行い、それが浅沼さんとお会いした最後となりました……。

花巻以外でも、当会主催の連翹忌、二本松でかつて行われていた智恵子を偲ぶレモン忌、同じく二本松での野村朗氏作曲「歌曲集智恵子抄」コンサート(二本松と言えば、二本松の皆さんをおもてなしなさったことも)、仙台で行われたテルミン奏者の大西ようこさんと朗読の荒井真澄さんのコラボ公演、さらには十和田湖でお会いしたこともありました。

かつて花巻高村光太郎記念館さんで無料配付されていたリーフレット。「せいいち」はやはり冒頭のサンタの写真に写っている高橋征一さん。一昨年、亡くなりました。
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こんなエピソードを元に、当方、平成27年(2015)に十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんが刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』中のジュブナイル「乙女の像ものがたり」で、光太郎を慕う太田村の少年「隆くん」を登場させました。言わずもがなですが、幼い日の浅沼さんがモデルです。
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思い出は尽きません……。

ご葬儀は4月6日(土)11:00~ 〒025-0089 花巻市岩手県花巻市豊沢町8-8 花巻葬祭センターさんで執り行われるとのことです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

山でも急に春になり、雪がとけ、草が芽を出し、畑仕事が忙しくなりました。今月中にいろいろ種子まきや植込みをするので今畝つくりです。畑をやつてゐると汗みづくです。


昭和22年(1947)4月20日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

浅沼さん、光太郎への来信を山小屋に届けるだけでなく、こうした手紙を預かって郵便屋さんに渡すということもなさっていたのではないでしょうか。

一昨日の第68回連翹忌席上にて、参会の方々が「お土産です」的に書籍等を下さいました。

まず一般社団法人日本詩人クラブの宮尾壽里子氏から同会刊行の『評論・エッセイ 詩界論叢2023』通巻第1集創刊号。500ページ近い厚冊です。
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公式サイトには目次の詳細が出ておらず、こちらの検索網に引っかかりませんでしたが、宮尾氏が「愛と芸術に生きようとした女性~智恵子の場合~『智恵子抄』「智恵子の半生」より」と題する論考を寄せていらっしゃいます。

目次画像は以下の通り。
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ご入用の方、上記リンクをご参照下さい。Amazonさん等でも取り扱いがあります。

続いて当方も加入している高村光太郎研究会ご所属の佐藤浩美氏から文芸同人誌『四人』第107号。
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佐藤氏、光太郎の親友だった作家・水野葉舟の小品「かたくり」」をご紹介なさっています。
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奥付画像を載せておきます。
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高村光太郎研究会からは『高村光太郎研究(45)』。
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昨秋行われた研究発表会、第66回「高村光太郎研究会」での発表を元に、当会顧問であらせられた北川太一先生のご子息・北川光彦氏が「西洋・東洋・時代を超えて 高村光太郎・智恵子が求めたもの」を、武蔵野美術大学さんの教授・前田恭二氏で「新出「手」書簡の後景――米原雲海と口村佶郎」。それから当方も「智恵子、新たな横顔」を寄稿しました。

さらに当方は、この1年間で新たに見つけた『高村光太郎全集』未収の光太郎文筆作品の集成「光太郎遺珠⑱」、昨年1年間の光太郎智恵子、光雲に関わる「高村光太郎没後年譜」も。そして主宰の野末明氏による「高村光太郎文献目録」、「研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき」。

こちらも奥付画像を載せておきます。
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もう1冊、光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存運動にからんで、文治堂書店主・勝畑耕一氏が『中野・中西家と光太郎』という書籍を上梓なさいました。当方、「監修」ということになっております。
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こちらについてはまた改めて詳細をご紹介いたします。

以上、いただきもの等。

001逆に当会から参会の皆様にお配りしましたのが、『光太郎資料61』。北川太一先生が発行されていたものの名跡をお譲りいただき、当会にて年2回発行しております。印刷のみ印刷屋さんに頼み、丁合、綴じ込みは手作業の手作りの冊子です。

目次
 「光太郎遺珠」から 第二十五回 書(二)
 光太郎回想・訪問記  高村光太郎と出会った頃 田口弘
 光雲談話筆記集成 牙彫の趣味/「さび」と渋みと
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  犬吠埼(千葉県)その一
 音楽・レコードに見る光太郎
  箏曲「千鳥と遊ぶ智恵子」/「地上のモナリザ」
 高村光太郎初出索引
 編集後記

ご入用の方はコメント欄等から当方まで。

書籍類等はこんなところです。

他に、やはり第68回連翹忌ご参会の方々のうち、わざわざ「お土産です」と食品類をお持ち下さったり、「4月2日はお世話になります」と直前に宅配便でお送り下さったりという方が多数いらっしゃいました。多謝。

和洋のスイーツやら中華まんやら漬物やら珈琲/紅茶やら(笑)。2枚目画像は宅配便で宮城県の「女川光太郎の会」さんから届いた笹蒲鉾です。
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妻曰く「実にありがたいんだけど、あんた、いったい何者だと思われてるの?」(笑)。

何者だと思われているんでしょうかね?(笑)。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」は今でもかなり読みたがつてゐる人があるやうで、時々人から質問される事がありますから、今日出版するのも無意味ではないやうに思はれます。


昭和22年(1947)4月11日 鎌田敬止宛書簡より

a詩集『智恵子抄』は太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に龍星閣から刊行され、戦時にもかかわらず昭和19年(1944)の13刷まで増刷されました。その後、戦争の影響で龍星閣は休業。戦後になると店頭からは『智恵子抄』が消えてしまいました。

そこで休業中の龍星閣に代わって、白玉書房の鎌田が『智恵子抄』復刊を企図し、龍星閣の澤田伊四郎から許諾を得たのでお願いします、的な申し入れを光太郎に。その返答の一部です。

そして白玉書房版『智恵子抄』が、この年11月に刊行されました。ところが刊行されてから、澤田の方では「許諾した覚えはない」。この時期、この手のトラブルがいろいろありました。

昨日は光太郎忌日、第68回の連翹忌でした。『東京新聞』さんで取り上げて下さいました。
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午後5:30から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷公園松本楼さんにて、全国の関係の方々に集まっていただき、集いを催しました。
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その前に、毎年のルーティンですが、晩年の光太郎に親炙し、その歿後は永らく連翹忌を主宰なさっていた故・北川太一先生と奥様の節子先生のお墓に詣でました。文京区の浄心寺さん、桜のお寺として有名です。
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さらに都立染井霊園の髙村家墓所に参拝。それぞれのお墓に連翹の花を手向け、香を焚き、「本日、第68回をやります。」とご報告。
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染井霊園の桜。
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そして日比谷公園。
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集いの開会は午後5:30の予定でしたが、その前に配付資料の袋詰めや参会の皆様のネームプレートなどの準備。多くの方々にお手伝いいただきまして、スムーズに進みました。感謝に堪えません。

光太郎遺影をセット。
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毎年、光太郎令甥で写真家であらせられた故・髙村規氏撮影およびプリントの写真を、北川先生から受け継いだ当方が持参して飾っていたのですが、昨日は愛車に積み忘れ、「やべっ」(笑)。それに気づいたのが浄心寺さんで車内から線香をガサガサ探していた時で、慌てて規氏子息の達氏に「面目ありません、遺影を置いてきてしまいましたので、お宅にあれば持ってきて下さい」とメール。幸い、立派な額装のものをお持ち下さいまして、ことなきを得ました。

さて、開会。当方の開会宣言の後、光太郎に、そしてこの一年に亡くなられた関係の皆様に、黙祷。続いて、達氏に音頭を取っていただいて、献杯。
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ビュッフェ形式にて会食。
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お集まりいただいた70余名の皆様の中から、10名ほどにスピーチをお願いいたしました。

トップバッターは女優・一色采子さん。令和3年(2021)同4年(2022)、北條秀司作の「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を務められました。お父さまの故・大山忠作画伯は智恵子と同郷で、智恵子を描いた作品も複数。采子さんが名誉館長を務められる二本松の大山忠作美術館さんで、画伯渾身の大作・成田山新勝寺さんの襖絵を今秋展示されるということで、その宣伝。
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二本松で活動されている智恵子の顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」熊谷代表。今年度の顕彰活動予定を。
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ちなみに昨日、東北新幹線が工事用車両の故障とかで大幅にダイヤが乱れ(JR東日本さん、最近グッダグダですね。企業体質として何か大きな問題があるのではないでしょうか)、同会の皆さん8名もご参加いただきましたが、在来線で上京なさったとのこと。大変でした。

今年元日の能登半島地震で大きな被害のあった富山県からいらしてくださった、茶山千恵子氏と森寛子氏。茶山氏は今秋、「ひとり芝居 智恵子抄」を都内で公演なさるそうで。
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花巻高村光太郎記念館さんの梅原奈美館長。北東北の皆さんは昼頃復旧した新幹線で来ることができたそうです。
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中国からの留学生の唐昆宇さん。一橋大学さんで光太郎について学ばれているそうで。素晴らしい!

この3月で神奈川県立近代美術館館長を退任なさった水沢勉氏。
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早世した荻原守衛を除き、唯一光太郎が高く評価した同時代の彫刻家・高田博厚を顕彰する活動を進められている埼玉県東松山市教育委員会の柳沢知孝氏。

昨年、中野区で開催された朗読公演「くつろぎの朗読」で「智恵子抄」を朗読して下さった出口佳代氏。それからやはり昨年、横浜で「智恵子抄」を箏曲で演じられた元井美智子氏。
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智恵子や荻原守衛も学んだ太平洋画会(現・太平洋美術会)の坂本富江氏。同会、今年で創立120周年だそうです。
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そして、お父さまが光太郎と交流がおありだった、ご存じ渡辺えりさん。
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えりさんには昨年に引き続き光太郎詩朗読もお願いしておきました。

光太郎終焉の地にして記念すべき第一回連翹忌会場ともなった中野の中西利雄アトリエ保存運動にも関わっていただいておりますので、その中野のアトリエで作られた詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和28年=1953)。やはり中野のアトリエで作られた生涯最後の大作「乙女の像」に寄せた詩です。
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それを受けて、日本詩人クラブの曽我貢誠氏。アトリエ保存運動の中心メンバーで、その件を熱く語って下さいました。あまりに熱き語り口で、写真を撮るのを忘れてしまいました(笑)。
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さらに同じ件で、やはり保存運動に関わられている櫻井美佐氏。光太郎実弟・豊周の令孫です。直接生前の光太郎をご存じのお母さまはご存命ですが、連翹忌にはしばらくいらしていません。

そんなこんなで午後8:00、予定通り閉会。

たくさんの方々のご協力により、つつがなく終えることができました。ありがとうございました。

先日も書きましたが、昨夜は連翹忌史上初めて、生前の光太郎を直接知る方のご参加のないものとなりました。そして中野のアトリエ保存運動のためのご協力を皆様に仰ぐ機会とも成りました。そういった意味では、光太郎顕彰活動も一つの新たな局面を迎えつつあるところです。

今後とも皆様方のご協力を仰ぎつつ、顕彰活動を進めて参ります。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

東京はもう春になつた由、こちらはまだですが、雪の下からフキの花が出てきました。此辺ではバツケと言ひます。


昭和22年(1947)4月6日 髙村珊子宛書簡より 光太郎65歳

当時暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、都内の実姪に送った絵手紙の一節です。
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今年も4月2日、光太郎の命日が巡って参りました。

朝鮮戦争による特需景気、その後の神武景気を経て、前年のGDPが戦前の水準を上回り、政府が経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言し、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞受賞、「太陽族」の語が流行語となった昭和31年(1956)。その4月2日(月)、不世出の巨人・高村光太郎は天然の素中に還っていきました。

その終焉の地、中野区の中西利雄アトリエの大家(おおや)だった中西夫人、故・富江氏の回想。

 先生が私の家に来られたその翌年の正月、十和田湖の彫刻の仕事に打込んでいられた時のことでしたが、ちようど正月の仕事始めをなさるその日に雪が降りました。「これは縁起がいい」と先生がつぶやかれたのを覚えています。雪の白さに先生は天啓のようなものを感じられたのでしょうか。子どものころ雪が降ると湧きたつたあのうれしさ楽しさ、そんなものを先生はやはり心のどこかにもつていられたに違いありません。
 そして、あの四月二日未明は十何年ぶりとかの春雪にこの地上は祝福されていたのでした。先生のいわれたあの言葉。縁起がいいというあのお言葉のままに、先生は白い清らかな雪に迎えられて、この地上から旅立たれて行かれたのでした。
 あの時、アトリエからのベルに飛び起きました。あまりの衝撃に私は気を失わんばかりでした。膝はガクガクふるえ、羽織を着る手もふるえて手間どつたように思い出されます。廊下から飛び出すようにして雪に包まれた庭を敷石伝いに走りながら「どうかご無事でありますように」と心の中で私は祈り続けました。
 アトリエに入ると、看護婦さんが、私をみるなり「もう駄目ですよ」と言いました。それは暗い暗い深いおとし穴に突き落とされた瞬間でした。
 ベッドにかけつけた時の先生のお痛ましいお姿、前の晩から、よほど苦しかつたとみえて、酸素吸入をしたいとご自分から云い出された先生。吸入器をつけて、ずい分お苦しかったことでしよう。
 かすかな息づかいの中で……あのひと息ごとにうなるようにしていられた声も今は立てられず……それから間もなく本当に静かに、素直に、大きな自然の中へ帰つて行かれたのでした。
(略)
 いよいよ重態になられてからも、看護婦さんや家政婦さんの喰べるものまでも心配されていたことなど、最後まで意識がはつきりしておられた先生のお言葉が未だに私の脳裡をはなれません。
 あれからもう一と月経ちました。高村先生がお好きだつたれんぎようの美しい花もすつかり散り、燃えるような新緑が五月の風にそよいでいます。母屋からアトリエに通ずる庭の石ダタミの道。お元気だつたころは、よく夕方、母屋でお湯を使つてから、タオルと石ケンを片手に、ゆらりゆらりとアトリエに帰つて行かれるその後姿が、まるで昨日のことのように思いおこされます。……その道も今は樹々の緑におおわれて、緑のトンネルのようになつています。私の心の中で、肩を落として背を丸められた丹前姿の先生が小さく……だんだん小さく緑の中に遠ざかつて行きます。
 尾崎喜八さんが弔辞の中でお話しになつたように、もう一度こちらを振返えつて、あの大きなお手をふつて下されば……などと時折考えたりいたしております。
(「中野アトリエの高村先生」 『高村光太郎と智恵子』草野心平編 筑摩書房 昭和34年=1959) 
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胸打たれる文章ですね。

1年後の昭和32年(1957)4月2日(火)、記念すべき第一回連翹忌も、終焉の地・中西利雄アトリエで行われました。以後、いろいろな場所に会場を変え、平成11年(1999)の第43回から、現在と同じ、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんでの開催となっています。

本日も午後5:30開会で、全国から光太郎智恵子を敬愛する方々70名超にお集まりいただき、連翹忌の集いを開催いたします。

昨年、コロナ禍も漸く沈静化し、4年ぶりに第67回連翹忌を開催致しましたが、今年もつつがなく執り行うことができそうで、喜びに堪えません。

今回の連翹忌は、その史上初めて、生前の光太郎を直接知る方のご参加のないものとなります。そしてやはり今回、光太郎終焉の地にして記念すべき第1回連翹忌会場となった中野区の中西利雄アトリエ保存運動のためのご協力を皆様に仰ぐ機会とも成りました。そういった意味では、光太郎顕彰活動も一つの新たな局面を迎えつつあるのかと考える次第であります。

皆様方におかれましても、それぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければ幸いに存じます。

【折々のことば・光太郎】

もう雪解の季節になりました。今日は猛烈な風で山林が鳴動してゐます。

昭和22年(1947)4月2日 安藤一郎宛書簡より 光太郎65歳

ちょうど亡くなる9年前、当時暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋からの発信です。

都内から朗読と音楽をコラボしたコンサートの情報です。

My Favorite Music 春の風に寄せて

期 日 : 2024年4月9日(火)
会 場 : 日暮里サニーホール コンサートサロン 東京都荒川区東日暮里5-50-5
時 間 : 18:30開演(18:00開場)
料 金 : 2,500円(全席自由・税込)

出演/曲目
 古荘達郎<テノール> ピアノ:高橋ドレミ
  中田喜直:さくら横ちょう
  F.P.トスティ:4月
  小林秀雄:五つの華の歌 より「山茶花(さざんか)」
 亀川豊秀<ピアノ>
  F.ショパン:練習曲 ハ短調 Op.25-12 「大洋」
    〃  :マズルカ 第45番 ト短調 Op.67-2
    〃  :スケルツォ 第2番 変ロ短調 Op.31
 藤井駿<アルトサックス>
  P.ボノー:ワルツ形式によるカプリス
 岩井奈美<朗読>
  宮沢賢治:「注文の多い料理店」
  太宰治:「眉山」
  芥川龍之介:「蜘蛛の糸」
 桜さゆり<朗読>
  高村光雲:「佐竹の原へ大仏をこしらえたはなし」より抜粋
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光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)から「佐竹の原へ大仏をこしらえたはなし」の抜粋朗読がプログラムに入っています。

演じられる桜さゆりさんという方、平成29年(2017)に「第4回 JILA朗読コンクール入賞・入選記念 朗読の祭典」という公演で光太郎詩「山のともだち」(昭和27年=1952)、「クロツグミ」(昭和23年=1948)を朗読なさいました。また、当方、詩人でもある宮尾壽里子氏が「智恵子抄」を朗読なさった「My Favorite Story ~美しき詩の世界~」公演の際に、室生犀星の詩の朗読で出られていましたのを拝聴しました。

「佐竹の原」は江戸時代、佐竹家の屋敷があった現在の台東区台東4丁目。ここに光雲が実兄で腕のいい大工だった中島巳之助、その仲間の職人衆、浅草の興行師らとともにハリボテの大仏を作った話です。明治22年(1889)、光雲が岡倉天心の要請で東京美術学校に奉職した年でした。

「青空文庫」さんで全文が公開されています。笑えます。


『光雲懐古談』といえば、つい先日は落語の鈴々舎馬桜師匠が新作落語で取り上げて下さいました。語られているさまざまなエピソードは素材として非常に面白いものですし、江戸から明治期の世相を知る上で、また、美術史的にも貴重な証言ですので、どんどん広めていったいただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

出版といふ公的事業には時代の要求、時代の制約といふことも考へねばなりますまい。

昭和22年(1947)3月18日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

姻戚・宮崎からの光太郎の短歌を歌集としてまとめて出版したいという要請に対しての返答の一部です。出版に限らず様々なコンテンツにあてはまる言のような気がします。といっても「時代」に阿(おもね)ってばかりでも仕方がありませんし……。

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