2024年01月

新聞記事から、またまた紹介すべき事項が溜まってまいりましたので、2件まとめて。

まずは『毎日新聞』さん。当会顧問であらせられた故・北川太一先生の盟友にして、この国で初めて光太郎を正面から捉えた評論集を刊行した、故・吉本隆明氏がらみです。

エッセー『隆明だもの』刊行 漫画家・ハルノ宵子さん 人間・吉本隆明、衝撃の実像

012 漫画家のハルノ宵子、といえば戦後を代表する思想家・吉本隆明(たかあき)の長女、多子(さわこ)さんのペンネームだが、その人が昨年末にエッセー『隆明(りゅうめい)だもの』(晶文社)を出した。驚くのは、これが知られざる吉本家の内情を明かした一種の暴露本なのである。
 「あとがき」で「吉本主義者の方々の、幻想粉砕してますね」と自ら評し、帯に「吉本家は、薄氷を踏むような“家族”だった」ともある。つづられる吉本と妻の和子(ともに2012年死去)の夫妻間の激しい葛藤、この両親と、著者および妹で作家の吉本ばななさんとの親子間の複雑な心理劇は、全共闘世代の「教祖」といわれ、絶大な影響力を持った吉本の実像として確かにショッキングだ。
  晩年に取材する機会を持った記者もそうだが、吉本と関わった多くの人々が、論争的な著作からすると意外な親しみやすい人柄にひかれた。今でいう「略奪愛」で結ばれた妻と、2人の娘に恵まれた家庭は、はた目には仲むつまじいものとしか見えなかった。
 ところが、本書によると吉本自身が「だいたい10年に1度」「不安定で、攻撃的なサイクル」に入る人であり、和子は「家族皆が振り回された」激しい性格だったという。「父(吉本)が10年に1度位荒れるのも、外的な要因に加えて、家がまた緊張と譲歩を強いられ、無条件に癒しをもたらす場ではなかった」からだとも書いてある。
013 この点について聞くと、ハルノさんは「家では母がすごい力を持っていましたからね。洗濯や料理も進んでやった父ですが、母の気持ちを真っ向から受け止めたり、包容したりする力はない人でした。母は心を支えてほしかったのだと思いますが」よと話す。
 本書は、刊行継続中の『吉本隆明全集』(全38巻・別巻1)の月報に掲載された文章を軸に、ばななさんとの姉妹対談、編集者によるインタビューで構成されている。対談でもハルノさんは「本当いうと、彼(吉本)は結婚すべき人格ではないような気がするんですよね。つまり、妻を支えてとか、そういう意味ではまったく期待できないですね」と手厳しく語っている。
 ハルノさんは1980年代に漫画家としてデビューするものの、妹が独立すると、母が体調を崩したこともあり、やがて家事や、多忙な父のマネジャー役を引き受けざるを得なくなった。しばしば両親の争いの板挟みにもなった。対談でも母の「怖さ」が繰り返し話題になるが、何かにつけてハルノさんを頼りにした母との関係は「共依存だった」とも表現する。
 あまりに個性的な 家族の中で一人、犠牲を強いられたともいえるが、本のトーンは決して暗くない。ユーモアを含んだ柔らかい文体や自作のイラストの効果もあるが、著者の冷静な批評的まなざしに負うところが大きい。そこに自然な愛情や敬意もにじみ出る。「結果的に、家に縛られているうちに面白いものを見せてもらったということになりますかね。状況を楽しむしかなかったですから」と笑顔で語る。
014 父母の葛藤は「一つの家の中に2人の表現者がいる難しさ」だったのではないかという。もともと小説を書いていて結婚後に筆を断った和子は、晩年に俳句を始めている。この見方は、詩人・彫刻家の高村光太郎が画家の智恵子と築いた家庭内の男女の緊張に注目した吉本の評論『高村光太郎』(57年)を思い起こさせ、興味深い。
 他にも、吉本が96年に伊豆の海で遊泳中に溺れた事件を境に「眼(め)も脚も急激に悪くなって」いく様子など、家族でなければ知り得ない生々しい証言は多い。亡くなる4、5カ月前、自宅で大きな音がしたので確かめると、既に視力や運動能力が衰えた身なのに外出の服装をして「玄関の石のたたきに父が転がっていた」という場面に、胸をつかれる読者もいるだろう。
 書名のいわれを尋ねると、「(書家・詩人の相田みつをの)『にんげんだもの』から」。なるほど「ヨシモトリュウメイも一人の人間だった」ということか。吉本の等身大の姿を語ってやまないこの本は、今後の「吉本伝」作家にとって必読の、また頼もしい文献となるに違いない。


『隆明だもの』、店頭で手にとって立ち読みしたのですが、直接光太郎智恵子に触れている部分は見あたりませんでした。まぁ立ち読みであって精読はしていませんから見落としがあるかも知れませんが。

しかし吉本氏夫妻の関係性が光太郎智恵子のそれを彷彿とさせられる、という記者氏の感想。なるほどと思いました。夫婦同業の苦労は、小説『智恵子飛ぶ』を書かれた津村節子氏などもたびたび言及されており(夫は故・吉村昭氏)、その仕事内容がクリエイティブであればあるほど、そうした傾向が強くなるんだろうなと思います。

続いて『山形新聞』さん。彼の地ご出身で、亡きお父さまが光太郎と交流がおありだった劇作家・女優の渡辺えりさんの連載エッセイです。

渡辺えりのちょっとブレーク (224)希望の年を願って

 新しい年が明けた。しかし、能登半島地震の被害はすさまじく、羽田の飛行機事故も痛ましく、波乱の年明けとなった。山形の皆さまは大丈夫だったでしょうか?
 高齢者の避難が困難な現実を目の当たりにし、日頃からご近所の様子などが分かるよう、交流を欠かさないことが大切だと感じた。私が子ども時代の山形市村木沢を思い出す。毎日、いろり端で青菜漬けをつまみながら緑茶をすすり、よもやま話に花を咲かせていた年配の方たちの笑顔が浮かぶ。避難の際の高齢者の保護を考えなくてはいけない。
 年末はロックライブで叫び、31日の大みそかは新宿・京王プラザホテルの宿泊客限定コンサートでシャンソンを歌った。そして今月は、私が演劇の舞台を創作して50年になる記念に劇中歌の中からえりすぐった20曲をレコーディングしている。年末年始は「歌」の仕事が続いた。
 また、うれしいニュースがある。今年5月に山形公演が決まったことだ。コロナ禍に書いた2人芝居を大幅に直し、高畑淳子さんと共演する。昨年の2本立て公演「ガラスの動物園」「消えなさいローラ」と同様に私が演出する。今回は作品も私が書く。コントラバスとバンドネオンの生演奏に加え、歌も披露する。1時間40分の短い作品だ。高畑さんと私は同じ年。ジャンルの違う演劇を続けてきた2人が、ユーモアたっぷりにさまざまな人生を演じる。山形市のやまぎん県民ホールで上演するので、ぜひいらしてください。
 そして今、人形劇「星の王子さま」の脚本を執筆している。結城座という江戸時代から続く人形劇の劇団の新作を依頼された。結城座さんとのコラボは今回で3作目。今年9月の公演だが、オリジナルの人形も制作するため、1月末が締め切りなのだ。
 私ならではの「星の王子さま」を作ろうと考えている。あまりに有名な作品だが、平和を願いながら星空の中で行方不明となったサンテグジュペリの精神を大切に脚色していくつもりだ。
 コロナ禍で中止になっていた学校公演も始まる。山形でも上演させていただきたい作品だ。高村光太郎もファンだった結城座。人形を使いながら、せりふをしゃべる技術の高さを見てほしい。世界にない手法の人形劇だ。
 2月4日は、天童市民文化会館でコンサート「世界は日の出を待っている~渡辺えり 平和への歌声」を開催する。地元で長年活躍しているビッグバンドからの依頼で歌う。「世界は日の出を待っている」は、関東大震災が起きた1923(大正12)年に作られた曲で、春の訪れとともに世界平和を祈っている。同市制施行65周年記念のコンサートとなる。「久しぶりに温泉に入れるのでは?」と期待している。
 そして、仕事で年末年始に会えなかった母ちゃんとも会えるはず。5月17日は父の命日。山形公演の準備で命日に故郷に帰れるのも、皆さまのおかげと父の愛情だと思っている。
 山形の皆さまにとって今年が光に満ちた希望の年でありますように。お互いに持ちつ持たれつ、支え合って生きていきましょう。今年もよろしくお願いします。(俳優・劇作家、山形市出身)
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あいかわらずバイタリティーにあふれていらっしゃいます(笑)。

今年は「江戸糸あやつり人形芝居 結城座」さんとのお仕事もなさるそうで、「高村光太郎もファンだった結城座」とのご紹介。

ファンだったかどうか当方は存じませんが、確かに光太郎、詩の中で座長の九代目結城孫三郎を登場させています。昭和5年(1930)、雑誌『詩・現実』に発表した「のつぽの奴は黙つてゐる」。特異な詩です。

    のつぽの奴は黙つてゐる

『舞台が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマツクスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名誉教授で、金は割かた持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちやあ出世したもんですな。今夜にしたつて、これでお歴々が五六百は来てるでせうな。喜壽の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んぢまつたぢやありませんか。親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか。何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。万能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい気な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の余興は、結城孫三郎の人形に、姐さん連の踊ですか。少し前へ出ませうよ。』

『皆さん、食堂をひらきます。』

滿堂の禿あたまと銀器とオールバツクとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニツポン ロココ格天井(がうてんじやう)の食慾。
ステユワードの一本の指、サーヴイスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ、スピーチ。
老いたる涙。
萬歳。
痲痺に瀕した儀禮の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の崩壊。

何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
腹をきめて時代の曝し者になつたのつぽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考へてゐる。

詩は昭和5年(1930)の作ですが、語られている場面はそれより2年前の昭和3年(1928)4月16日、東京会館で開催された、父・光雲の喜寿記念祝賀会です。

昨年、雑誌『美術新論』第3巻第5号(昭和3年=1928 5月)にその際の写真が掲載されているのを見つけ、智恵子も写っていたことに仰天しました。結婚後の智恵子が写った写真は10葉たらずしか確認できていませんでしたので。
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2週間ほど後に、渡辺さんとお会いする予定がありますので、結城座さんのお話を伺っておこうと思います。

明日以降、これも溜まってしまった新刊書籍等を紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

彫刻家にとつては何といつても彫刻材を入手した時ほど心からうれしい事はありません。実に愉快に存じます。


昭和21年(1946)7月29日 東正巳宛書簡より 光太郎64歳

東正巳は三重県在住だった詩人、編集者。光太郎は東を通じて西村之雄という人物から椿の木材を入手し、その礼状の一節です。しかし、結局、花巻郊外旧太田村での7年間で、作品として発表した彫刻は一点も作られませんでした。

一昨日の『東京新聞』さん、社説欄に光太郎の名が。

<社説>週のはじめに考える 「おまかせ」が過ぎると012

 正直、「回っていない方」にはあまり明るくないのですが、白木のカウンターでいただくような高級な寿司(すし)店でよく採用されているのが、「おまかせ」という注文の仕方です。注文といっても、おまかせですから、どんな寿司が、どんな順番で出てくるかは寿司職人の胸一つ。旬を考え、ネタを吟味し、客の食べるペースにも気を配って「はい、トロです」などと順次、供してくれる仕組みです。
 こうした「おまかせ」を創始したのは、戦前戦後と東京で活躍した藤本繁蔵という寿司職人だといいます。何年か前のNHKの特集番組で初めて知ったのですが、白木のカウンターの採用も、この人を嚆矢(こうし)とするとか。高級寿司店ばかりを渡り歩いて「天才」の名をほしいままにし、多くの著名人らの舌もとりこにした伝説の職人だったようです。
◆「自分で決める」から解放
 その「おまかせ」は寿司を出す順番、いわば構成の妙も含めて職人の力量が問われるわけですが、味覚も食材の知識も覚束(おぼつか)ない者にとっての“利点”は「自分で決める」からの解放かもしれません。「こんなものを頼んだら季節外れだと笑われないか?」などとびくつかずにすみますから、心穏やかに、職人が技を凝らした一貫一貫を味わえるというものです。
 寿司だけでなく、和洋中どの料理にもある「コース」も同じ。いちいち何を、どんな順番で注文するか自分で決めなくてよい。それが客をして「コース」を選ばせる理由の一つではないでしょうか。
 考えてみると、外食に限らず、私たちは暮らしのいろんな場面で「おまかせ」に浸っています。極端なことを言えば、自動ドアだってそうですが、デジタル時代の当節はなおさら。リポートなどの作成で頼りにする人も増えているらしい生成AI(人工知能)こそ、「おまかせ」の極致でしょう。
 もっと身近なところでは、例えば道案内です。特に地理的に詳しくない場所に行く時など、経路の選択は、ほぼ全面的にスマホなどの地図アプリに「おまかせ」という人が今や多数派かと。代表詩の『道程』で<僕の前に道はない>とうたった高村光太郎は、既に目の前の画面にある道を従順に進む<僕>たちを見て、さて、泉下で何を思っているでしょう。
◆まれに見る「選挙イヤー」
 道の選択といえば、今年、2024年は、まれに見る「選挙イヤー」です。台湾総統選は今月、既に終わりましたが、2月にインドネシア大統領選、3月にロシア大統領選があり、4月には韓国、4~5月にはインドで総選挙が予定されています。そして11月には米大統領選が。結果いかんでは、動揺が世界中に及ぶでしょう。
 そして、わが国でも今年は、衆院の解散・総選挙の可能性が高いとみられています。派閥パーティーの裏金問題で大揺れ、岸田内閣の支持率も急落する中、自民党は9月末で任期満了の総裁選を前倒しし、「党の顔」をすげ替えた上で総選挙に臨むのではないか-といった観測も飛び交っています。
 その場合、懸念されることの一つが、低投票率。ただでさえ衆院選は過去4回連続で60%に届かなかったのに、裏金問題などで増大した政治不信がさらに足を引っ張る恐れがあります。でも、国の進む道を左右する大事な選択の機会です。ここは、さすがに「おまかせ」はまずい。寿司でいうなら、自分の胃袋とよくよく相談し、本当に自分が食べたいネタを自分で決めなくてはなりません。
 「政治的無関心」とは、日本や世界の命運を誰かに「おまかせ」にすることでしょう。確かに、政治的な出来事をフォローし、考えを深めるのは面倒といえば面倒です。でも、恐れるのは、その面倒を省き「おまかせ」に慣れきってしまううちに、自分で考え、自分で決めるという回路が錆(さ)びついてしまわないか、という点です。
◆錆びつく思考回路、記憶
 元日に発生した能登半島地震でもそうでしたが、災害時には携帯電話が使えなくなることが少なくない。しかし、やっと公衆電話をみつけ、いざかけようとしたら、家族や友人の電話番号を覚えていないことにはたと気づく…というのは、いかにも現代人に起こりそうなことでしょう。そう。電話番号の記憶をスマホに「おまかせ」にするうち、私たちの記憶は錆びついてしまうのです。
 さて正月も暮れていきますが、年始につきものの「福袋」こそ、「おまかせ」の典型でしたね。中身が分からない点がみそですが、あれは価格より価値の高い商品が入っているのが前提で、だからこその「福」のはず。でも選挙の場合は違います。「おまかせ」の袋から「福」が出てくることはまずないと考えるべきでしょう。

何が出てくるかのワクワク感や、ルーティンにこだわっていては得られない意外性といったものを楽しみたいのなら「おまかせ」も悪くはないと思います。また、いろいろ考えて組み合わせるのが面倒だったり、お店の人に手間をかけるのが申し訳ないと思ったりの場合。例えば当方、コンサート等によく持参するのですが、アレンジフラワーやら花束やら。また、お菓子の詰め合わせなどもそうでしょう。既成のものを頼んでしまった方が自分にとっても、お店にとっても、圧倒的に楽ですね。

しかし、後半にあるとおり、政治の世界での「おまかせ」は駄目ですね。ところがそれがまかり通っているのが現状でしょう。「「○○党」という字しか書けない」と公言し、思考停止に陥っている輩の何と多いことか。

それにしても、最後の方に挙げられたスマホの電話帳の例にはドキリとさせられました。といって、今さら紙のアドレス帳というわけにもなかなかいきませんし……。

たしかにこうした現代人のライフスタイル、泉下の光太郎はどう見るかと考えさせられますね。

【折々のことば・光太郎】

御帰還後も御無事でお過ごしの事と存じます、ますます御元気で進んでください。小生東北の山間で頗る元気に健康にやつて居ります。


昭和21年(1946)7月29日 大木実宛書簡より 光太郎64歳

大木は大正2年(1913)生まれの詩人。光太郎は戦時中の昭和18年(1943)、大木の第三詩集『故郷』の序文を頼まれて書いています。

この時期の「帰還」はイコール「復員」だろうと思って調べたところ、やはりそうでした。何と召集されたのは結婚3ヶ月後だったそうでした。

大木や、当会の祖・草野心平などは無事だったクチですが、光太郎と交流があった文学者たちの中には、高祖保など戦場の露と消えた人々も。そういう報せも届き始めていたと思われます。

昨日は茨城県北茨城市の天心記念五浦美術館さんにお邪魔しておりました。
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こちらで開催中の「天心が託した国宝の未来 -新納忠之介、仏像修理への道」展拝観のためです。
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先月開幕し、気にはなっていたのですが、最近になって光太郎の父・光雲関連の出品物があるということを知り、馳せ参じた次第です。
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新納忠之介(明治2年=1869~昭和29年=1954)は、東京美術学校で光雲に学び、卒業後は3年ほど母校の教壇に立った後、岡倉天心の美術学校事件に連袂辞職、奈良で日本美術院第二部の院長に就任し、仏像修理のスペシャリストとして活躍しました。

新納の子孫から関連資料2,000点あまりが寄贈され、その中から主に奈良の仏像修復に関わるものなどが展示されています。

ちなみに今回展示されては居ませんが、寄贈資料の中には光太郎から新納宛の『高村光太郎全集』未収録葉書が一通、さらに光雲(20通ほど)、光太郎実弟・豊周(1通)から新納宛の書簡が含まれており、一昨年の夏に閲覧に伺いました。

今回展示されている光雲関連のうち、メインは「「日本木彫の技術」木寄法 第参図」。大正15年(1926)のもの。美校で光雲が仏像の寄せ木造りの手法を講義する際に使ったと思われる青写真です。
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大正15年(1926)といえば、新納は既に奈良に移っていますが、後進の指導にでも使うためでしょうか、譲り受けたと推定されます。

光雲作の仏像等も、大きなものは寄せ木造りで出来ており、代表例の一つが信州善光寺さんの仁王像。そういえば、そちらの制作に当たって奈良東大寺さんの金剛力士像も参考にされていまして、その調査には新納も協力、髙村家には新納から送られた金剛力士像の資料も現存し、一昨年、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」などで展示されました。

寄せ木造りといえば、明治中頃の「楠公銅像」木型もそうでしょう。制作は美校総出で行われ、新納も参加しました。そこでその際の集合写真も出ていました。
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あちこちで見かける写真ですが、新納も写っているとは存じませんでした。
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その他、やはり集合写真類で光雲が写っているものが数葉。常設展的な「岡倉天心記念室」での展示にもそれがありました。
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さて、企画展詳細。

天心が託した国宝の未来 -新納忠之介、仏像修理への道

期 日 : 2023年12月9日(月)~2024年2月12日(月・振休)
会 場 : 茨城県天心記念五浦美術館 茨城県北茨城市大津町椿2083
時 間 : 午前9時30分~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般320(260)円/満70歳以上160(130)円/高大生210(150)円/小中生150(100)円
      ※( )内は、20名以上の団体料金

 新納忠之介(にいろちゅうのすけ)(1869-1954)は、東京美術学校を優秀な成績で卒業し、岡倉天心の強い勧めにより、文化財の修理に生涯を捧げた人物です。明治31(1898)年、岡倉天心が創設した日本美術院に参加後、多くの仏像修理に携わり、天心の推進した文化財保護行政の一翼を担いました。また、天心没後には、日本美術院の国宝修理部門が「美術院」と改称して独立し、新納はその中心を担いました。
 それまで確立した修理法が無かった仏像修理において、新納は試行錯誤を重ね、現状維持を基本とする新たな修理法を確立させました。その技術は今日まで引き継がれています。
 本展覧会では、修理図面や研究ノート、書簡といった新納忠之介旧蔵資料の他、新納が模刻した仏像等の彫刻作品も展示します。これらの品を通して、天心の目指す文化財保存の道をひたすらに歩んだ新納の業績を紹介します。
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ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

畑のものいろいろ作って食べてゐます。こちらでも米の欠配がありましたが、東京よりはまだいいでせう。山には何かしらたべるものがあります。小生健康。

昭和21年(1946)7月28日 蔵石徳太郎宛書簡より 光太郎64歳

蔵石は、前年の空襲で全焼してしまった本郷区駒込林町25番地の光太郎自宅兼アトリエの隣人の植木屋でした。アトリエ地所は蔵石からの借地でした。

光太郎の父・光雲の木彫が出ています。

新春特別展 新春工芸名品展

期 日 : 2024年1月5日(金)~3月9日(土)
会 場 : 敦井美術館 新潟市中央区東⼤通1-2-23 北陸ビル1F
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 日曜・祝日
料 金 : 一般500円 大高生300円 中小生200円 団体割引・20名以上

新春を寿ぎ、吉祥文の工芸作品を中心に、干支や富士山などお正月にふさわしい絵画を展示いたします。
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光雲の作品は「木彫 ちゃぼ」。同館サイトの「収蔵作品」に画像がありました。
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宮内庁三の丸尚蔵館さん収蔵のものとよく似ています。ただし三の丸尚蔵館さんのものは雌雄のつがいですが、こちらは雄鶏単体。明治22年(1889)の作で、一般人から注文を受けて制作したものですが、半ば強引に日本美術協会展に出品させられ、それが明治天皇の眼に留まり、お買い上げとなった作です。その辺りの経緯、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』に詳しく記されています。青空文庫さんで無料公開中です。

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もう一つ、別の「矮鶏」があったとは存じませんでした。光雲の場合、同一図題の木彫を複数制作することはよくあるのですが。

それにしても敦井美術館さんの出品目録に「明治22年(1889)」とあり、これは三の丸尚蔵館さん収蔵のものと同じ年です。『光雲懐古談』には同じ年にもう一体彫ったという記述はなく、どういうことなのかな、という感じです。画像で見る限り間違いなさそうなものなのですが……。

他の出品物、彫刻では光雲高弟の一人・山崎朝雲の「大黒天」、日本画では横山大観や前田青邨、洋画で梅原龍三郎、陶芸には宮川香山、富本憲吉などビッグネームが並んでいます。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昼間は九十度以上にのぼる日もたまにありますが、夜は七十度位に下がります。蚊が夜は少いので蚊帳はつりません。蚊えぶしだけでねます。


昭和21年(1946)7月27日 椛沢ふみ子書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の夏。「九十度」「七十度」は華氏ですね。現在一般的な摂氏に直すとそれぞれ33℃、21℃ほどです。

昨日はふと時間が出来まして、隣町の成田市に行っておりました。細かく言うと、市の南部、成田空港を擁する三里塚地区。かつて宮内庁の旧御料牧場があった場所です。関東大震災後、そこからほど近い場所に第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も訪問、詩「春駒」を作りました。

御料牧場の跡地の一角に整備された三里塚記念公園に、「春駒」を刻んだ詩碑が昭和52年(1977)に建立されていまして、何度も拝見に伺ったのですが、最近になってその近くに別のオブジェがあることを知りました。

それがこちら。
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空港関連施設の高いコンクリート壁、100㍍ほどにわたって描かれた壁画。地元の方々の手になるもののようです。

その1枚目が、「春駒」。隣町に住んでいながらこういうものがあったというのを全く存じませんで、汗顔の至りでした。
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先述の詩碑にも使われた光太郎自筆原稿を写したものです。

これが1枚目で、このあと、「むかしの三里塚」ということで戦前からの御料牧場が描かれた壁画がずらっと。まさに光太郎も目にした風景です。
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この後は現代の三里塚を描いた作品など。そちらは割愛させていただきます。

いつ頃描かれたものか明記はされていないのですが、近くの小学校を描いた絵のキャプションに「平成四年四月、七〇〇名、二一学級の児童が学んでいます」とあるので、その頃と思われます。

近くまで来ましたので、「春駒」詩碑も久しぶりに拝見。一昨年、やはり近くの三里塚コミュニティセンターさんで開催された「三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』展」を観に行った時は、上記画像の貴賓館が改修工事中で詩碑のある一角にも立ち入れませんでした。
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すっかり冬枯れて箒になっていますが、並木はパリ時代に光太郎が愛したマロニエです。

以前は詩碑まで勝手に行けたのですが、今は敷地内の御料牧場記念館さんの方にお願いして柵を開けていただくようになっていました。ちなみにやはり同じ敷地内のやんごとなき方々のための防空壕も同じ扱いです。
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貴賓館。改修工事もすっかり終わっているようで。

ここの庭のような一角に、葉舟の歌碑(左)と「春駒」詩碑(右)が並んで(といっても少し離れていますが)立っています。
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葉舟歌碑には短歌「我はもよ野にみそぎすとしもふさのあら牧に来て土を耕す」が刻まれています。昭和29年(1954)、元々光太郎が揮毫する予定で一度は承諾したのですが、健康状態がすぐれず、代わりに窪田空穂が筆を揮いました。

そして「春駒」詩碑。
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ブロンズパネル制作は西大由、光太郎実弟にして鋳金家だった豊周の弟子筋です。花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くの「雪白く積めり」詩碑パネルも西の手になるものでした。

碑陰記の筆跡は当会の祖・草野心平。
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何度も訪れた場所ですが、昭和52年(1977)の除幕の際にはここに西や当会顧問であらせられた故・北川太一先生、葉舟子息にして光太郎とも交流のあった元総務庁長官の故・水野清氏なども列席されたのだな(心平は欠席)と思うと、感慨深いものがありました。
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このあたり、昔から桜の名所です。その頃にぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

肋膜だつたとは驚きました。十分によく治してしまつて下さい。此頃は若い人のかかる病気に年輩の者もかかるやうです。脂とタンパクの不足の為かも知れません。

昭和21年(1946)7月15日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の光太郎から三里塚の葉舟へ。光太郎が山村での独居自炊を決心した陰には、親友の葉舟が開墾生活を送っていたことの影響も考えられます。他にも辺境で活動していた友人知己は少なからずいましたが。

その葉舟、約半年後に肋膜炎でこの世を去ります。

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)」の立つ、青森県十和田市からイベントの復活情報です。

第26回十和田湖冬物語2024 冬の十和田湖を遊びつくそう

期 日 : 2024年2月2日(金)~2月25日(日)
会 場 : 十和田湖畔休屋 多目的広場 青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋
休 業 : 火曜・水曜 

 1998年度に十和田湖畔で誕生したイベント「十和田湖冬物語」が、今年で26回の開催を迎えました。
 今年は屋台村「雪灯り横丁」が4年ぶりに復活します。また、毎年好評の「冬花火」や、県境を跨ぐエリアの特徴を活かした冬の国境まつりなど、冬の十和田湖をお楽しみいただけるコンテンツをご用意しております。
 その他にも、冬ならではのアクティビティや、期間限定の食魅力などが追加される予定です。詳細が決まり次第、公式HPにて公開いたします。
 当イベントを通して、閑散期の集客を促進し、観光施設やサービスの利用増加に繋げて、地域を盛り上げていきたいと考えております。
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冬花火 19:30打ち上げ(音楽と花火ショープログラム5分程度)
厳しい冬の澄み切った夜空だからこその「冬花火」。木曜〜月曜まで、音楽と花火がシンクロした花火ショーが行われます。
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雪灯り横丁 17:00~20:00
コロナの規制がなくなり屋台村「雪灯り横丁」が4年ぶりに復活します!わいわい楽しい屋台料理をお召し上がりください。
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冬の国境まつり
青森・秋田・岩手の北東北三県の芸能のパフォーマンスを毎週末開催。
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スノーアクティビティの充実
好評の滑り台やスノーランプなどのほか、雪でつくった特別観覧シート、連携事業者によるバナナボートなど。
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このイベント、平成10(1998)年度に始まり、永らく湖畔休屋地区での屋台村を中心としたイベントでした。当方、平成25(2013)年度平成29(2017)年度と、2回、お邪魔いたしました。その後、スタイルが変わり、令和2(2020)年度と翌令和3(2021)年度はイルミネーションが中心に。当方、2度目の際に行って参りました。それぞれ「乙女の像」のライトアップが為されていました。

そのままイルミネーション系のイベントとして続くのかな、と思っておりましたところ、昨年度はウォーキングのイベントがあった程度で「あらら……」という感じでしたが、今年度、また屋台村を中心とした昔のスタイルに戻して実施とのこと。「乙女の像」のライトアップもまた為されるやの情報も得ております。

JRさんのバスが八戸から、そおれとは別に十和田市街から「十和田湖アクセスバス」というのも出ているそうです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

一昨日は東京でよく食べに行つたトンカツヤの主人がだしぬけに訪ねてきたので驚きました。秋田の温泉に行つたかへりとの事。コーヒーとサツカリンをもらつて久しぶりにカフエノワールを賞味しました。


昭和21年(1946)7月12日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

終戦からおよそ1年、世の中もだんだん落ち着いてくると、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋に昔の知り合いがぽつりぽつり訪れるようになりました。

「トンカツヤ」は三河島の「東方亭」。光太郎戦前からの行きつけの店でした。そこの長女・明子は医師となり、光太郎は彼女をモデルに詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を書いたりしました。
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新聞各紙から2件。

まずは光太郎第二の故郷・岩手の『岩手日報』さんから。1月13日(土)に出た「岩手とロダン“考える”」という記事を受けてのコラムです。

展望台 高村光太郎のアイドル

 「知らないグループが増えたな~」
 大みそかのNHK紅白歌合戦。ここ最近、冒頭のつぶやきの方が恒例となりつつある。そんなワタシでも注目したのは、音楽ユニットYOASOBI(ヨアソビ)の大ヒット曲「アイドル」だった。
 子どもから大人まではまるキャッチーで中毒性のある曲調。ビルボードのグローバルチャート(米国を除く)で日本語曲として初めて1位を獲得するなど、とにかく世の中を席巻した。
 時をさかのぼること100年前、同じく日本中を席巻したのがフランスの彫刻家ロダンだった。ブームの火付け役となったのが、花巻市ゆかりの高村光太郎。本県では花巻へ疎開した後の山小屋(高村山荘)暮らしのイメージが強く、最初は結びつかなかった。だが興味を持ち調べると、面白い話がいくつもあった。
 20代からロダンの造形に傾倒した光太郎、1908(明治41)年にはフランスのロダン邸を訪ねた。本人は不在で夫人に待たせてもらったが、部屋にある素描にすら参ってしまい、逃げるように帰ったという。
 光太郎は帰国後、知りたいロダンの秘密、これこそ私なりの愛、とばかりに対話録の翻訳に取りかかり、16(大正5)年に「ロダンの言葉」として出版。光太郎にとって、まさにロダンは完璧で究極のアイドルだったのだろう。
 現在、ロダンの代表作「考える人」が陸前高田市立博物館で展示中。台座を含めると高さ3㍍を超え、想像よりも大きい。誰も彼もとりこにした造形の美しさを、ぜひ間近で見てほしい。


光太郎がロダン邸を訪れたのは確認できている限り2回ありました。最初は明治40年(1907)11月、当時ロンドンにいた光太郎がパリの荻原守衛の元を訪れ、パリ郊外ムードンのロダン邸を一緒に訪れました。しかし、ロダンは留守。妻のローズ・ブーレはパリ市内のアトリエに廻るよう勧めましたが、光太郎がロンドンに帰る時間の都合であきらめたと、守衛からロダン宛の書簡に記されています。

2度目は年月日がはっきりしません。ロンドンを引き払ってパリに移り(明治41年=1908 6月10日)、帰国の途に就く(明治42年=1909 5月)までの約1年の間であることは間違いありませんが。晩年に書かれたエッセイ「遍歴の日」(昭和26年=1951)に次の一節があります。

 ロダンには熱中していたけれど、やはり訪問する気にはなれなかつた。訪問客が多くて困るだろうということも察しられたし、それを無理おしして出かけてゆく神経の太さもなかつた。アトリエの外を通つたり、展覧会でも遠くからロダンの姿を見かけるといつた程度だつた。ある日曜日、有島、山下などの諸君の発意で、多勢でロダンのムードンのアトリエに行つてみようということになつて、僕もついて行つたが、ロダンは留守だつた。奥さんがロダンの部屋に案内してくれた。扇の地紙の形をした大きな机があつて、要のところに椅子がある。僕はロダンの椅子に腰かけ、床の上にうず高く積み重ねてあるたくさんのデツサンをあかず見た。一枚一枚台紙に貼つて整理されている無数のデツサンを次々に見ていると、実に威圧される感じだつた。庭に出ると、ちようど白い布をグルグル巻いてバルザツクの像が立つていた。布でつつんであつても、大きな量塊の感じが強く出ていて、今でもそれが印象にのこつている。

「有島」は有島生馬、「山下」は山下新太郎です。展覧会でせっかく姿を見かけたロダンにも声をかけずじまい。高村家の家訓として、「あつかましいことは厳禁」といった戒めがあったのですが、それよりも「自分はまだ何者でもない」という気後れのようなものが先に立っていたのではないでしょうか。

もう1件、過日、ちらっとご紹介した岡山出身の詩人・永瀬清子のからみで、『毎日新聞』さんの岡山版から。

 日々の暮らし つむぐ言葉 赤磐出身の詩人、永瀬清子 来月17日 無料朗読会 ピアノの弾き語りも /岡山

012 岡山県赤磐市は、市出身の詩人で「現代詩の母」ともいわれる永瀬清子(1906~95年)を広く知ってもらおうと2月17日、市くまやまふれあいセンター(同市松木)で朗読会「永瀬清子の詩の世界~貴方がたの島へ」を開く。
 永瀬は2歳までを現赤磐市で、その後は父親の転勤や結婚のため金沢や名古屋、東京で過ごした。学生時代に始めた詩作は結婚後も続け、昭和初期には高村光太郎や宮本百合子らに認められるなど、当時随一の女性詩人の一人となった。
 45年、戦況の悪化に伴い帰郷し、農業をしながら結婚生活や子育て、古里を詩に詠んだ。後進の指導にも情熱を傾けた。
 朗読会は赤磐市が毎年、永瀬の誕生日で命日でもある2月17日前後に開いている。副題「貴方がたの島へ」は、岡山県瀬戸内市・長島にある国立ハンセン病療養所「長島愛生園」に通い、約40年間にわたって詩を指導した永瀬が入所者への思いをつづった詩の題名。
 当日は市民による詩の朗読などのほか、シンガー・ソングライターの沢知恵(ともえ)さん(52)による「永瀬清子とハンセン病療養所」と題したピアノの弾き語りコンサートもある。
 沢さんは音楽活動の傍ら、永瀬と同じように長年、瀬戸内のハンセン病療養所に通っている。2014年に岡山市に移住し、岡山大大学院でハンセン病療養所の音楽文化を研究した。永瀬の詩に曲をつけた楽曲や、ハンセン病患者の隔離の歴史に関する著書もある。 主催者の一つで「赤磐市永瀬清子の里づくり推進委員会」の担当者は「多感な青春時代、結婚の戸惑い、子育ての悩みなどそれぞれの人生のステージで、自分の気持ちを代弁してくれているように感じられる永瀬の詩の魅力を知って欲しい」と話している。
 午後1時半~4時。入場無料だが、事前申し込みが必要(先着順)。問い合わせ・申し込みは市教委熊山分室(086・995・1360)


いつもながらに赤磐市さんの永瀬清子顕彰の取り組みには頭が下がります。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今胡瓜が伸びるさかり、ゑん豆、いんげんは実をつけ、トマトは蕾、茄子も蕾、南瓜は成長の途中、葱は仮植、稗は雑草のやうに繁つてゐます。時無大根や山東菜などは既に賞味、とりたての美味に感嘆しました。ジヤガが秋にどの位とれるかたのしみです。


昭和21年(1946)7月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移住し、生まれて初めて取り組んだ農作業も、そこそこ成果を上げているようです。行き当たりばったりや思いつきなどではなく、文献等でしっかり研究し、さらに村民に謙虚に教えを請うてちゃんと計画を立てるという姿勢が成功の要因でした。数年後に近くの開拓地に入植した元軍人はまったくの我流を押し通そうとし、村人の忠告に一切耳を傾けず、結局、うまくいかずに撤退しました。

当時の光太郎が書いた「農事メモ」というノートが残っています。
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新刊です。

モニュメント原論 思想的課題としての彫刻

2023年11月30日 小田原のどか著 制度社青土社 定価4,200円+税

破壊される瞬間に、彫刻はもっとも光り輝く
彫刻を「思想的課題」と自らに任じ、日本近現代の政治・歴史・教育・芸術そしてジェンダーを再審に付す。問い質されるは、社会の「共同想起」としての彫像。公共空間に立つ為政者の銅像が、なぜ革命・政変時に民衆の手で引き倒される無残な運命に出遭うのか――。画期的かつ根源的な思索の書。
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目次
 プロローグ
 1部 彫刻をめぐって
  1.彫刻という名前
  2.われ記念碑を建立せり――「水俣メモリアル」を再考する
  3.彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎からの回路をひらく
  4.不可視の記念碑
  5.モニュメント・マスト・フォール?――BLMにおける彫像削除をめぐって
  6.彫刻とはなにか――「あいちトリエンナーレ2019」が示した分断をめぐって
  7.女性裸体像はいつまで裸であらねばならないのか?
  8.なぜ女性の大彫刻家は現れないのか?
  9.箱(キューブ)をひらく――ジャコメッティの彫刻とコレクション/
キューレイション/エキシビジョン
  10・三島由紀夫への手紙
 2部 固有の場所から
  1.爆心地の矢印[長崎]――矢形標柱はなにを示したか
  2.この国の彫刻のために[長崎]
  3.彫刻を見よ[東京]――公共空間の女性裸体像をめぐって
  4.拒絶から公共彫刻への問いをひらく[福島]
ヤノベケンジ《サン・チャイルド》撤去をめぐって
  5.被爆者なき後に[広島]――広島平和記念資料館
  6.“私はあなたの「アイヌ」ではない”[白老]――ウポポイ(民族共生象徴空間)
  7.「過去」との絶え間ない対話のために[韓国]――《平和の女子像》をめぐって
  8.旧多摩聖蹟記念館[東京]――台座の消失と彫刻/彫塑のための建築
 3部 時代との共鳴
  1.ウェブ版「美術手帖」ファイル
   1.ナガサキのあとに彫刻は作れるのか――「森淳一 山影」
   2.共産主義と資本主義の裂け目で――
The Nature Rules 自然国家:Dreaming of Earth Projects
   3.彫刻という困難――小谷元彦「Tulpa-Here is me」
   4.なぜ女性の大彫刻家は現れないのか? Ⅱ――青木野枝「霧と山」
   5.私たちは何を学べるのか?――「表現の不自由展・その後」評
   6.公共建築から芸術祭へ――到達/切断地点としての「ファーレ立川」
   7.美術史という「語り」を再考する――コレクション特集ジャコメッティと Ⅱ
   8.名の召喚――柳幸典展
   9.「傷ついた風景の向こう」に見えるもの――
DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに
   10.帰宅困難と自宅待機――Do'nt follow the Wind
   11.コロナ禍は美術館に何をもたらすか?
――『ラディカル・ミュゼオロジー』『美術館の不都合な真実』を手がかりに
   12.女性器が「選ばれない」世界で――遠藤麻衣×百瀬文 新水晶宮
   13.「歌う」から「語る」へ――彼女たちは歌う Listen to Her Song
   14.「個」と「公」を仲立ちし、たぐり寄せる。――加藤翼「Supersturing Secrets」
   15.マテリアル・マテリアリズム・マテリアリスト
――カタルシスの岸辺「光光DEPO」
   16.相次ぐ告発、美術業界の変化のただ中で――居場所はどこにある?
  2.「東京新聞」ファイル
   1.彼女たちは歌う
   2.アイヌの美しき手仕事
   3.性差(ジェンダー)の日本史
   4.石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか
   5.小泉明郎+オヤマアツキ「王の二つの身体」
   6.シアターコモンズ/第13回恵比寿映像祭/TPAM
   7.アイノとアルヴァ 二人のアアルト フィンランド――建築・デザインの神話
   8.女が5人集まれば皿が割れる
   9.膠を旅する――表現をつなぐ文化の源流
   10.白川昌生展 ここが地獄か、天国か。
   11.山城千佳子リフレーミング
   12.ロニ・ホーン――水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?
   13.Vira Video!――久保田成子展
   14.イミグレーション・ミュージアム・東京多国籍美術展
  3.ぐるぐるキョロキョロ展覧会記――『芸術新潮』ファイル
   1.コレクションを活かす/隠す
   2.越境者を照らす光――ヤン・ヴォーーヴ・ンヤ
   3.“世界初”の国際芸術祭は新たな基準となるか
――ヨコハマトリエンナーレ2020「AFTERGLOW――光の破片を捕まえる」
   4.選べない私を選ぶ
――鴻池朋子 ちゅうがえり ジャムセッション 石橋財団コレクション×鴻池朋子
   5.名品という視座を味わう――もうひとつの江戸絵画大津絵
   6.排除と収奪の日本史――性差(ジェンダー)の日本史
   7.サイレンスを見つめる――ミヒャエル・ボレマンス マーク・マング
――ダブル・サイエンス
   8.希代のプロモーターの原点を知る――式場隆三郎「脳室反射鏡」
   9.幻視者(ヴィジョナリー)が問いかけるもの
――平成美術:うかかたと瓦礫1989-2019
   10.どっちだと思う?――アネケ・ヒューマン&クミ・ヒロイ、
潮田登久子、片山真理、春木麻衣子、細倉真弓、そして、あなたの視点
   11.時の可能性と対峙する――3.11とアーティスト:10年目の想像
   12.歴史の編み目をくぐり抜ける――
ホーツーニェンヴォイス・オブ・ヴォイド――虚無の声
   13.風穴を開け、空気を入れ換える
――SIDE CORE presents EVERY DAY HOLIDAY SQUAD soloexbition"underpressure"
   14.差異に宿るエナジー――アナザーエナジー展:挑戦し続ける力
――世界の女性アーティスト一六人
   15.破滅と熱狂、その先に――加藤翼 縄張りと鳥
   16.残/遺されたものを見る――Walls & Bridges 世界にふれる 世界を生きる
   17.むき出しの写真と対峙する――
ユージン・スミスとアイリーンスミスが見たMINAMATA
   18.背後の戦争画――3.11とアーティスト小早川秋声 旅する画家の鎮魂歌
   19.「3.11から一〇年」の影に
――せんだいメディアテーク開館二〇周年展 ナラティブの修復
   20.開かれた「フェミニズム」へ向かって
――ぎこちない会話への対応策――第三波フェミニズムの視点で
   21.地球を感知する場――池内晶子あるいは、地のちからをあつめて
   22.「人類よ消滅しよう」――生誕一〇〇年 松澤宥
   23.稀有な複数性の発露 Chim↑Pom展
   24.未然の迷宮――森村泰昌:ワタシの迷宮劇場
   25.版画に宿る抵抗の精神――彫刻刀が刻む戦後日本
   26.見ること、極限の問い――ゲルハルト・リヒター展
   27.交差点としての美術展――アーティスト支援プログラム
 あとがき


目次を書き写すだけで疲れました(笑)。

彫刻等の実作のかたわら、この手の文筆活動を盛んに行われている小田原のどか氏の評論集です。目次にあるとおり、あちこちに発表されたものの集成で、雑誌『群像』2020年7月号に載った「彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎からの回路をひらく」他、ところどころで光太郎に触れて下さっています。

先週末、『朝日新聞』さんに書評が出ました。

モニュメント原論 思想的課題としての彫刻 小田原のどか〈著〉 平和プロパガンダと女性裸体像

 この国には街や公演の随所で女性の裸体像が立っている。なぜ「裸の女」なのか。本書によると、日本の公共空間に「平和」を冠するその第一号がお目見えしたのは1951年のこと。東京・三宅坂に「平和の群像」と題された三体の彫刻が設置された。同じ台座には、戦時中には軍閥の力の象徴として「寺内元帥騎馬像」が置かれていた。
 ところが戦時中の物資不足で騎馬像が金属回収されると台座だけが残される。そこに戦後、当時の電通社長、吉田秀雄の指針で「軍服を脱ぎ捨てた『三美神』」を建立し、新生日本の平和と自由を「広告宣伝とタイアップの彫刻」により広く演出したのだ。著者はそこに連合国軍総司令部(GHQ)が関与した可能性についても触れている。
 街中に氾濫(はんらん)する女性の裸体像は、この平和の宣伝戦略(プロパガンダ)が行き届いた結果だった。だが、そのことで起源は忘れられる。「彼女」たちは「無言」で「立つなら幾千年でも黙って立ってろ」(高村光太郎)と命じられるしかなかった。しかし忘れてはならない。先の騎馬像の作者は現在、長崎の「平和公園」にそびえる「平和祈念像」と同じ彫刻家、北村西望で、筋骨隆々な裸体の巨人像は力の顕現そのものに見える。先に新生日本と書いたが「ここに『新しさ』はない。むしろ、分かつことのできない戦時との連続性がある」――そう著者は書き「戦後日本の彫刻を考えるうえで、長崎は最も重要な場所」と断言する。
 戦後、日本に「自由と平和」をもたらしたのは、歴史的に言えば「敗戦と占領」にほかならない。ゆえに著者はこの国に氾濫する女性裸体像を「戦後民主主義のレーニン像」と名付ける。そしていつか、それらが引き倒される時が来るかもしれないことに思いを馳(は)せ、長崎に、広島に、水俣にあるモニュメントに「無言」ではなく「応答」しようとし、あえてこれらの「彫刻を見よ」と呼びかけるのだ。
評・椹木野衣 美術評論家・多摩美術大学教授

近年、公共の場に設置された彫刻作品についての論考等がちょっとした流行りになっていますが、平瀬礼太氏などともに、小田原氏もその急先鋒のお一人ですね。

彫刻の場合、同じく昔からある美術作品でも、絵画との大きな相違点の一つがこの辺りにあるような気がしています。絵画でも戦時中の藤田嗣治らの戦争画、戦後も各地に設置された巨大壁画的なもの、或いは大きくないものでもバンクシーの作品群など、プロパガンダ性、メッセージ性を色濃く持つものも存在しますが、3Dの表現である彫刻の方がそうした性格を色濃く持たざるを得ないと感じています。「屋外」ということも大きいと思われます。肖像画が屋外に出ることはめったにありませんが、肖像彫刻は銅像として乱立していますし。

とにもかくにも、ご興味おありの方、お買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

右掌の切開手術をうけに花巻病院長邸に起居。六月末やうやく全治、十日程前に帰つて来ました。右手で文字が書けるやうになつたのも昨今です。畑が遅れ、今大多忙です。


昭和21年(1946)7月7日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村で、生まれて初めての本格的な農作業を始めたところ、掌にできたマメが潰れて化膿し、手術まで受ける羽目になりましたが、ようやく完治。

しかしそのため5月16日から7月16日まで、まるまる2ヶ月、日記は書きませんでした。この間(またはやはり日記が欠けている9月21日~10月9日)に昨年国の重要文化財に指定された花巻市御田屋町にある「旧菊池家住宅西洋館」を訪れたのではないかと推定されます。

購入しようかするまいか迷ったのですが、結局、買ってしまいました。帯に光太郎の名を印刷されてしまいましたので(笑)。

大作家でも口はすべる 文豪の本音・失言・暴言集

2024年1月22日 彩図社文芸部編 彩図社 定価1,300円+税

 本書は、作家たちの本音や失言、暴言を集めたアンソロジーです。名作を生み出し、歴史に名を残した作家といえども、言葉選びを誤ることもしばしば。むしろ、必要以上に周囲を巻き込み、世間を騒がす問題に発展することもありました。
 師匠である佐藤春夫や井伏鱒二を作品内で皮肉って、大叱責を受けた太宰治。こき下ろした作家の弟子から決闘を申し込まれた、坂口安吾。雑誌の後記で、原稿料や各号の売れ行き、もうけの有無まで公開し続けた菊池寛。新聞社入社にあたり、教師時代の不満を新聞紙面にぶちまけた夏目漱石。「好きな人の夫になれないなら豚になる」と友人に漏らした、若き日の谷崎潤一郎……。
 収録したのは、明治から昭和にかけて活躍した、誰もが知る大作家の逸話。問題発言を含む随筆や手紙、日記、知人らの回想文などから、作家たちの言動を探りました。大作家による、人間味あふれるぶっ飛び発言の数々。楽しんで読んでいただけると、うれしく思います。
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[目次]
 はじめに
 第一章 口がすべって大目玉をくらう
  一、佐藤春夫を皮肉って大目玉をくらう太宰治
  二、井伏鱒二を怒らせて平身低頭の太宰治
  三、兄を呆れさせて恐縮する太宰治
 第二章 酒が入ってうっかり失言
  一、酔ってついつい暴言が出る中原中也
  二、坂口安吾の破天荒な飲みっぷり
  三、酒癖が悪すぎて顰蹙を買いまくる漱石の弟子
  四、高村光太郎、酔ったせいか森鷗外を怒らせる
 第三章 原稿をめぐるいざこざ
  一、編集者と作家の攻防
  二、文芸の商業化に苦言を呈する佐藤春夫
  三、作家兼編集者たちの驚きの言動
 第四章 愚痴や文句が喧嘩に発展
  一、漱石の愚痴と癇癪
  二、夏目漱石対自然主義作家たち
  三、同業者をこき下ろす作家たち
  四、菊池寛に企画をパクられたと怒る北原白秋
 第五章 性愛がらみの問題発言
  一、谷崎潤一郎の自由過ぎる性愛
  二、軽はずみな発言を連発する芥川龍之介
  三、遊びのつもりが痛い目に合う石川啄木
 引用出典・参考文献

解説が長々書いてあるわけではなく、作家本人の作を抜粋で並べたいわゆるアンソロジーです。

光太郎に関しては、大正6年(1917)の「軍服着せれば鷗外だ事件」。明治30年代(1900年前後)、光太郎が東京美術学校在学中に美学の講師として同校の教壇に立ち、その頃から権威的な態度に反発心を抱いていた鷗外のことを、鷗外の居ない酒の席で茶化したというものです。いつの時代にもそういうことをチクる奴はいるもので、それが鷗外の耳に入り、鷗外激怒(笑)、光太郎を呼びつけて説教という流れです。

引用されているのはこの件に触れた、鷗外の「観潮楼閑話」二篇と、昭和13年(1938)に光太郎が川路柳虹と行った対談「鷗外先生の思出」の一節です。

一昨年、文京区立森鷗外記念館さんで開催された特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」の際には、鷗外に呼びつけられる前に光太郎が鷗外に宛てた新発見の書簡が展示されました。これも収録されていれば完璧でしたが、さすがにそこまでは手が廻らなかったようです。

他の「文豪」たちのクズっぷりもなかなか笑えます。そうかと思うと「いやいや、この発言はもっともだ」というものもあったりです。人間味溢れるこうしたエピソードに触れることで、彼らがより身近に感じられるのではないでしょうか。

ご興味おありの方、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

草野心平君が歴程社といふ書房を始め、小生の「猛獣篇」を一冊として出したいといつて来ました。これは草野君のこと故承諾する気です。


昭和21年(1946)7月6日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

中国から無事帰還した当会の祖・草野心平。早速、出版に情熱を燃やしていました。連作詩「猛獣篇」を一冊にまとめるという構想は戦前からありましたし、この書簡にあるように戦後にも持ち上がったのですが、結局実現したのは光太郎存命中ではなく、没後の昭和37年(1962)でした。

昨日、「智恵子抄」系 のオンライン講座と音楽ライブをご紹介しましたので、「智恵子抄」つながりで。

まず、智恵子の故郷・福島県二本松市に隣接する大玉村、先月の『広報おおたま』さんから。

おおたまいどばた会議 with地域おこし協力隊 大玉村地域おこし協力隊の小川・遠藤による村民の方々とのトーク・セッション 大玉村が映し出す姿 第4回毛利良之さん(yy vineyard)「大玉村のテロワールを」

1.二拠点生活とワイン作り
 奥さんの故郷である大玉村に家を建てたのは2012年のこと。毛利さんにとって故郷と言える場所がなかったため、福島にいる親戚の存在は大きく、震災によって被害を被ってしまった福島への思いが強くなったのがきっかけだそうです。横浜との二拠点生活をしながら、自然豊かな大玉村で農作物を作る楽しさに触れ、もともと好きであったワインを2016年から大玉村で作り始めました。
2.OOtama blue誕生と苦悩
 ワインが初めてできたのは2022年。高村光太郎の「智恵子抄」に出てくる有名なフレーズの青い空からブランド名を「OOtama blue」と名付けたそうです。しかし、自然相手には思い通りにいかないことが多く、昨年はハクビシンに実を食べられ、今年は高温障害、病虫害により実が萎縮してしまったそうです。だからこそ、ワインができた時の喜びは大きく、たりがいを感じていると話しています。
3.これからのOOtama blue
 現在、約700本のブドウの木を育て、年間1000本のワインボトルを生産することを目標に励まれています。ワインは100%ブドウの果汁からできており、OOtama blueでは大玉村の土地の味(テロワール)ともいえます。OOtama blueが大玉村の特産品となり、大玉村の魅力をさらに幅広く伝えていきたい。そして、村民の方にも大玉村にはOOtama blueがあるよと言ってもらえるようになりたいと話しています。
対談を終えて
 毛利さんはよく大玉村が全国的に認知され、大玉村に住んでいることを誇りに思える人が多くなれるようにしたいと話されています。これまでNPOの活動で多くの地域と交流をし、「地域おこし」に関わっている大先輩である毛利さんの言葉には重みがあり、私は常に勉強させられてばっかりです。OOtama blueは桜が咲く頃に出来上がります。ぜひみなさんも生まれ育った大玉村のテロワールを感じてみてください。
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ワイナリーyy vineyardさんのサイトはこちら。「OOtama blue」についてはこちら。

もう1件、今度は万年筆です。「日本全国お取り寄せ手帖」さんというサイトから。

創業100年の老舗が福島の美しい星空を表現「ほんとの星空。「紡ぐ」万年筆」

 今回、編集長アッキーが気になったのは、万年筆などの筆記具を中心にノートや便箋、カードなど、ペンとノートのある暮らしを彩る福島の「文房具のお店 Pentonote」。まもなく創業100年という株式会社文化堂 代表取締役社長の中野義久氏に商品の人気の秘密を取材陣がうかがいました。

―会社の沿革を教えてください。
中野 創業は1926年、会社設立は1953年です。父が他界し、私が代表になったのは2010年11月ですが、就任して4ヶ月後に東日本大震災がありました。当時、建物の被害はあまりなかったのですが、去年の3月の地震で建物が被災し、現在取り壊して再建中です。2回の大きな地震には耐えましたが、3回目でとうとう駄目になってしまいました。
 再建にあたってクラウドファンディングを行いました。今、街中ではないところに仮店舗として営業しています。これまでは商店街に属していましたが、現在は郊外で営業しているため、わざわざ足を運んでもらう理由が必要でした。そこでベーグル屋を立ち上げ、ベーグル目的のお客さんが店舗にも来ていただくことを目指しました。ベーグルは2ヶ月前ぐらいからオンラインでも販売しています。

―創業から100年、会社として変わらない思いはございますか。
中野 老舗と言われますが、今の時代、商売として老舗が有利ということはありません。ただ、100年築いてきた信用はあります。その信用を伸ばしていくことは大事だと考えています。

―万年筆はどういった方が購入されていますか。
中野 50年くらい前は営業マンが万年筆を持ち歩いて販売することもあるくらいメジャーでしたが、今は万年筆を好きな人だけが使うようになりました。手書き離れが進んだ後に、あらためて手書きの良さが再認識され、ブームとまではいかないですが、万年筆が好きな人たちが増えています。購入される年代で多いのは30~40代の女性です。青やピンクなどたくさんの色のインクを出したことで興味を持っていただくことが増えました。

―今回発売された「ほんとの星空。「紡ぐ」万年筆」はどういった商品ですか。
中野 地元・福島の星空をイメージしています。吾妻山の浄土平からは「ほんとの星空。」が見えます。夜も終わり、朝が漂い始める頃、黒が薄まり青になっていく、その時の空のインクを作ってみようと思いできたのが「ほんとの星空。」です。福島の美しい景色を多くの方に届けたいという思いを込めました。低重心タイプで、重心が下にあるとその重さで力を入れないで書くことができるのも特徴です。万年筆は5万円ぐらいまでは小刻みに構造にグレードがあります。5万円を超えてくると、装飾へのこだわりで価格が変わってくるので、この商品の構造のグレードは最高級です。
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―どういった方に使っていただきたいですか。
中野 こちらはヘビーユーザー向けの商品です。普通の万年筆を使っていた人がよりよい書き心地を求めて購入されることを想定しています。

―今後のビジョン、展望などをお聞かせください。
中野 メーカーとしてオリジナル商品を作っていきたいと考えています。Webサイトやインスタを運営していると、オリジナル商品の強みを感じます。一方、福島へのこだわりはあまり考えておらず、文房具としての機能性とデザイン性、個性を重視した商品を構想中です。
 実店舗では、来年の5月に新しい建物が完成します。県庁通り商店街にあるので商店街のイベントや弊社のイベントができるよう、1階部分は半分ぐらいイベントスペースとして設けています。街や商店街の盛り上がりをイベントスペースを通じて、作っていければと思っています。
 ECに関しては、商品の使い方や詳しい説明など、お客様が知りたいことをブログ記事にしています。最近はYouTubeも始めたので、お客様の層を広げていきたいと考えています。

―貴重なお話をありがとうございました。

「ほんとの星空。「紡ぐ」万年筆」
価格:¥55,000(税込)
店名:文房具のお店 Pentonote
電話:024-573-1590(10:00~17:00 土日祝除く)
定休日:インターネットでのご注文は24時間365日受付
オンラインショップ:https://pentonotelife.com/

※紹介した商品・店舗情報はすべて、WEB掲載時の情報です。変更もしくは販売が終了していることもあります。

<Guest’s profile>
中野義久(株式会社文化堂 代表取締役)
1979年生まれ、福島県福島市出身。株式会社文化堂 代表取締役
県庁通商店街振興組合 理事長 株式会社建堂工業 代表取締役 趣味:ゴルフ・麻雀・筋トレ

サイトを覗いてみましたところ、万年筆以外にインクも「ほんとの星空。」ブランドで販売されていました。
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ワインといい、万年筆といい、なかなかシャレオツですね。こういったもののお好きな方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

一昨二十四日の午後は此の部落のおつさんはじめ青年達の慰労会があり、数十人の饗宴が田頭さんといふ家に開かれ、小生も招待せられてさされる盃を皆うけてのみ、いささか酒の手並をあらはしました。


昭和21年(1946)6月26日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り住んで初めての村民たちとの飲み会。欧米留学中や在京時の文壇画壇の仲間たちとのそれと異なる、単なる近所の人々との飲み会というのも、生涯初だったのではないかと思われます。





ネット上で見つけたイベント情報を2件。

まずはオンライン講座です。

心に響くオンライン朗読サロン(3回)

期 日 : 2024年1月26日(金)、2月9日(金)、3月1日(金)
主 催 : NHKカルチャー西宮ガーデンズ教室
方 式 : Zoomによるオンライン
時 間 : 各回とも13:30~15:00
料 金 : 8,910円

講 師 : 朗読家・神戸女学院大学非常勤講師 川邊暁美

ご自宅で安心!マスクを外してのびのび楽しみましょう♪

世界でたった一つのあなたの音色である「声」の表現力に磨きをかけ、美しい日本語をあなた自身の声で味わう、心豊かなひとときをご一緒しませんか。呼吸・発声・発音・の基本から思いの伝わる表現技術まで、朗読スキルも学んでいただきながら、様々なジャンルの文章表現を楽しんでいただきます。初めての方も経験者の方も、伸びやかに声を響かせて思い思いの音色を奏でましょう。

【各回の内容】
1/26 作品の息遣いを声で伝える『智恵子の紙絵』高村光太郎
2/9 声の5要素を自在に使う 作品に合わせた表現方法 『十三年』山川方夫
3/1 好きな作品をもちより発表会、講師から個別アドバイス
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『智恵子抄』は詩だけでなく、散文や短歌も収録されており、今回テキストとされるのは散文の「智恵子の切抜絵」(昭和14年=1939)と思われます。案内では「智恵子の紙絵」となっっていますが、「智恵子の切抜絵」ではイメージが湧きにくいということでしょうか。

もう1件、音楽ライブ情報です。

黄昏に旅情歌を歌う

期 日 : 2024年1月26日(金)
会 場 : ヤナカフェ西東京 東京都西東京市柳沢2-13-9
時 間 : 16:00~17:00
料 金 : 2,000円(ワンドリンク付)

出 演 : 岡雅子(テイチクエンタテインメント) 


美味しく香り高い珈琲 紅茶をマスターがご用意してお待ちしています。終了後はそのままお食事お酒、お茶をヤナカフェでどうぞ。

セットリスト
宗谷岬 銀色の道〜北上夜曲 岬めぐり 智恵子抄 案山子 津軽海峡・冬景色
東京の灯よいつまでも 椰子の実 愛媛・瀬戸内始まりの「ふるさと」 昴
アンコール 高校三年生
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「智恵子抄」がラインナップに入っていますが、おそらく智恵子の故郷・二本松にほど近い小野町出身の丘灯至夫作詞・戸塚三博作曲で、二代目コロムビア・ローズさんが歌われた「智恵子抄」(昭和39年=1964)でしょう。リリースされてちょうど60周年ですね。

ただし、「ご予約満席」だそうです。それでもキャンセル等有るかもしれませんし、こういうイベントがあったという記録のためにもご紹介しておきます。

【折々のことば・光太郎】

たちまち雪が消えて春がいちめんに小屋のまはりにみちました。ゼンマイ、ワラビをはじめとして木の芽、草の芽、葉に先だつ木々の花、不思議な形態の美を持つ山草の花。目がまはるやうです。


昭和21年(1946)5月10日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

昨日ご紹介した書簡と前後しますが、花巻郊外旧太田村にようやくやってきた遅い春を心から喜んでいます。都会生活が長かった分、山村の春は新鮮に感じられたことでしょう。

過日、概要をお伝えした岩手県花巻市立の記念館さんが「イーハトーブの先人たち~」の統一テーマで行う企画展示「ぐるっと花巻再発見!」。今日開幕です。

高村光太郎記念館さんでは「光太郎からの手紙」と題し、光太郎が諸家に送った書簡12通を中心にした展示です。詳細な情報、展示風景の画像等が花巻市役所さんからもたらされましたのでご紹介します。

まずフライヤー。
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プレスリリースから。

・展示主旨および概要
 宮沢家との縁で戦火の東京から花巻町へ疎開した高村光太郎。その後太田村山口へ移住した光太郎の消息を外部に知らせる手段は手紙が中心でした。
 光太郎からの手紙は事務連絡的なものから、日々の生活や心境を語るものまで多岐にわたります。特に、太田村山口集落への移住にかかわっては、建設準備から食生活、初めての越冬など日記のように詳細に記されています。
 この企画展では昭和20年の戦災による疎開直前から昭和31年に東京のアトリエで没するまでの間に、花巻の医師・佐藤隆房とやり取りされた手紙を中心に展示し、山居七年から最晩年に至る光太郎の足跡をたどります。
 また、女優の渡辺えり氏より寄贈された、渡辺正治宛に光太郎から差し出された葉書をあわせて展示します。(渡辺正治氏は渡辺えり氏の実父、令和4年5月逝去)

・展示の見どころ
昭和21年に渡辺正治宛に差し出された葉書は初公開の資料です。
展示室内には昭和20年から27年までの間に高村光太郎から佐藤隆房宛に差し出された手紙を中心に展示しており、『山居七年エピソードパネル』と併せて見ることで、手紙の内容の背景を詳しく知ることができます。

渡辺正治宛葉書 昭和21年11月30日付
佐藤隆房宛葉書 昭和20年10月18日付
昭和21年10月23日付
昭和21年11月6日付
昭和23年11月29日付
昭和23年12月28日付
昭和26年5月9日付
昭和27年7月19日付 2通
昭和27年10月29日付
佐藤雪江宛葉書(隆房の妻) 昭和22年5月11日付
加藤房子宛葉書(隆房の娘) 昭和24年2月19日付
資料合計12点

展示風景画像。
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展示ケースは使わず、額に入れた光太郎書簡を壁面に吊しての展示です。
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すべてペン書きと思われますが、独特の味わい深い筆跡は「書作品」としても一級のものといえるでしょう。

以前に開催された企画展示の使い回しかも知れませんが、それぞれの書簡と関連する事項の説明パネル。佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』からの抜粋です。
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古写真もパネルで。
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書簡の大半は、宮沢賢治の主治医にして、総合花巻病院長だった佐藤隆房に宛てたもの。佐藤は光太郎歿後には花巻に高村記念会を興し、初代理事長を永らく務めました。

佐藤に送った書簡は『高村光太郎全集』に66通収録されていますが、今回、それに含まれていないものも1通出ています。以前にも66通以外のもの(昭和31年=1956 3月27日付、確認できている光太郎生涯最後の書簡)が展示されたことがありました。今回のものはそれとはまた別の書簡です。『全集』所収の66通も大半は「岩手日報」に佐藤が発表したものからの採録で、いろいろ大人の事情があったようです。

他に佐藤の妻・雪江と息女の房子にあてたものが一通ずつ。そして渡辺えりさんの亡きお父さま、渡辺正治氏に宛てたものが一通。
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平成28年(2016)に寄贈を受けたものですが、これまで展示する機会が無く、この手の一般公開は初めてです。「この手」というのは、『月刊絵手紙』さんの平成15年(2003)6月号通巻90号や、えりさんの舞台「月にぬれた手」の公式パンフレットに画像入りで紹介されたほか、平成24年(2012)にはえりさんが出演なさった「徹子の部屋」で御披露なさいましたので、「この手」です。当方は平成12年(2000)頃の連翹忌の集いで、正治氏が御持参下さったものを手に取って拝見しました。

会期は2月18日(日)まで。当方、来月中旬に伺う予定ですが、皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

右の手掌手術の為下山、目下佐藤院長先生宅に滞在毎日病院に通ひつつあり。

昭和21年(1946)5月24日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り、生まれて初めての農作業にチャレンジし始めたところ、てのひらにできたマメが潰れてひどく化膿、佐藤隆房の執刀で手術を受けました。木彫の彫刻刀と農作業の鍬とでは、やはり勝手が違ったようです。

最近の新聞記事から2件。

まず1月17日(水)、『読売新聞』さん一面コラム。

編集手帳

高村光太郎には冬の詩が多くあり「冬の詩人」と呼ばれる。詩集「道程」のなかに収まる「冬が来た」は、〈刃物のような冬が来た〉という一節でしめくくられる◆人生を厳しい冬にたとえ、乗り越えていく光太郎の強い意志を示す詩だが、小欄には今はまぶしいだけに思えるところがある。〈刃物のような冬〉が、能登地震の被災地では人々が乗り越えられる程度を超えていよう◆雪が降り続いている。避難所では低体温症などの懸念がいっそう深刻になってきた。依然、孤立した集落に暮らす住民も多い。どうか立ち向かったりせずに、広域避難を急いでもらいたい◆輪島市ではきょう、中学生が同じ石川県の中南部に位置する白山市に集団避難する。小学生は年齢的に親元を離れにくいため、中学生のみが対象になった。被災地の教育を軌道に戻す呼びかけに約250人の生徒が応じた◆バスに乗る生徒たちに贈りたい一節が先の詩にある。〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉。気持ちを強く持って、刃物のような冬に打ち勝ってほしい。親やきょうだいを残して、さみしいだろうけれど。

昨夏のような酷暑でも困りますが、厳冬期のしかも雪国で難儀されている皆さんには、心よりお見舞い申し上げたく存じます。

もう1件、ネット上でみつけた記事です。米国ワシントン州のシアトルで刊行されている在外邦人向け邦字新聞の『北米報知』さん、1月16日(火)の掲載です。

龍と宝珠〜地球からの贈りもの〜宝石物語

 辰、竜、龍。年末年始がやってくるたび、干支とそれに当てはまる漢字が、日常で使用する該当の字とは違うことが疑問だった。十二時辰や十干十二支という暦や時間、方位などを表す物がベースになっていると知ったのは、いつの事だったか。
 そもそも辰(龍)は十二支の中で唯一の架空生物。考えてみると、西洋と東洋の龍に対する認識には差がある。西洋は羽があって火を噴いたりして悪者であることが多いに対し、東洋では基本的には水を司る神であり、うねる様に体躯を動かす。私が龍という存在を意識したのは、間違いなく「まんが日本昔ばなし」のオープニングの龍。龍に乗っていた子どもが何の昔話の主人公だったかは忘れてしまったが、子どもを乗せているぐらいだから「怖い」という印象ではなかった気がする。その後は世界的超人気アニメ「ドラゴンボール」の神龍。そして大人になった今の「推し」龍と言えば、浅草寺と略して呼ばれることが多いが、正式名に龍を冠する金龍山浅草寺で見られるさまざまな龍。今年の夏に経年劣化で剥がれてしまった本堂の川端龍子画「龍之図」、お水舎の天井画である東韶光による「墨絵の龍」と高村光雲作の龍神像。それに雷門の赤い大提灯の下の部分には彫刻された龍が。そのほかにも至る所に水の神である龍が潜んでいて、幾度とない火事に見舞われた浅草寺を守っている。因みに、日光東照宮の薬師堂の天井にいる「鳴き龍」もお薦め。雨の降った後などは龍がよく鳴くと言われている。
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▲東韶光画の天井絵「墨絵の龍」。光の位置によって見え方が変わる、迫力の龍

 龍のイメージの基となった蛇をモチーフにしたジュエリーはかなりデフォルメされた物から鱗まで詳細なデザインまで多種多様。それが龍となると一気に選択の幅が狭くなる。角、髭、爪など鋭利な部分が多いこともあり、模った物だと軽く凶器になる。ネットを見るとそういった凶器みたいなジュエリーもあるが、日常使いを考えるのであれば、龍のモチーフが彫られた程度の凹凸がせいぜいでは。龍に関連付くジュエリーというのは中々難しい。こじつけるとすれば、龍の持つ如意宝珠に因んだ物などはどうだろうか。
 宝珠は、本来は前足2本しかない黒龍が持っているものということだが、剥がれた浅草寺の龍も黒龍ではないので、あくまでも「基本的には」という事だろう。宝珠と言うと水晶を思い浮かべる人も多いだろうが、個人的に、数珠の進化系のようなパワーストーンを連ねたブレスレットなどは芸がないと思ってしまう。代わりに、ドーム型や円錐形にツルっとしているカボションカットなどのジュエリーはどうだろうか?
 宝石の多くは、ファセット(面)と呼ばれるカット面がいくつも施されている。たとえば、ラウンドのダイヤモンドは通常58面である。光の反射を効率よくするために面があるが、面の無いカボションカットはまた別の味わいがある。面を取ることで、より多く削ってしまう原石の部分を削減し、色の深みを引き出すのもカボションカットの長所と言えるだろう。さらには、アステリズムと呼ばれるスタールビーやスターサファイヤに見受けられる星状の線が出る現象。猫目石の名の如く、中央に黄金の光の筋が見えるようなシャトヤンシー現象。オパールやムーンストーンなどの、内側で光が反射して踊っているような、視覚的効果や現象なども引き出す。
 ブルガリが昨年晩秋にカボション・コレクションというシリーズを発表したが、これは地金でカボションカットを表現している。このコレクションが象徴するように、カボションカットの宝石の地位を押し上げたのは色の魔術師と呼ばれるブルガリだと言える。50年代以降、カボションカットの紫のアメシストと緑のペリドットの組み合わせたネックレスなど、それまでハイジュエリーとは分類されにくかった半貴石の地位を押し上げた張本人。
 宝珠の様な滑らかさと艶やかさ。見つめると吸い込まれそうなそれぞれの色の深みが堪能できるカボションカット。変革の年と言われる辰年に是非トライしてはいかがだろうか。

415939502_7132432230154910_7550647139489207099_nご執筆は宝石鑑定士の金子倫子氏。在米経験もおありだそうですが、現在は帰国されているとのこと。

画像は浅草寺さん本堂右手前にある手水舎の天上画。この下に光太郎の父・光雲作の「沙竭羅龍王像」が鎮座ましましています。

12年前の辰年の際にはそうでもなかったように記憶しているのですが、今年はやけにこの像があちこちで取り上げられているのが目に付きます。いいことです。右画像は光雲令曾孫にして写真家の髙村達氏撮影になるショット。すばらしい感じですね。

元々は本堂裏手にあった池の噴水に据えられていたもので、関東大震災の際にはこの池のおかげで浅草寺さんは焼失を免れたとのこと(その後、昭和20年(1945)の東京大空襲ではやられてしまいましたが)。地震にはご利益がありそうなので、近くに行った際には久しぶりに参拝し、鎮護国家を祈願して来ようかと存じます。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ゑんどう豆が芽を出しました。ささぎはまだ。今ゼンマイが盛んでワラビが出かかりました。ホロホロといふ花芽をとつてたべます。春日うらうらと山村をくゆらし林間に珍奇の花を人知れず咲かせてゐます。


昭和21年(1946)5月6日 真壁仁宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村もようやく春本番。「ホロホロ」は「ウコギ」の方言のようです。

能登半島地震の被災地にも早く春が訪れて欲しいものですね。

光太郎第二の故郷、岩手花巻からの情報を2件。

まずは道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナントのミレットキッチン花(フラワー)さん販売の豪華弁当「光太郎ランチ」。毎月15日の限定販売で、メニューは光太郎の日記などを元に、光太郎が作った料理や使った食材などを研究、現代風にアレンジし、彼の地で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの考案です。

今月15日分がこちら。
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小豆飯、ゆかりご飯、ブリの醤油麹焼き、豚肉のトマトケチャップ炒め、キャベツの煮浸し、かぼちゃ煮、塩麹入り卵焼き、干し柿入り甘酒ゼリー、大根の漬物だそうです。今月はご飯が2種類でボリューミーですね。しっかりデザートもついています。

もう1件、全く別件です。

昨年11月2日(木)、花巻高村光太郎記念館さんで開催されていた企画展示「光太郎と吉田幾世」の関連行事としまして、同題の市民講座を当方が致しました。その動画が今月いっぱいYouTube上に上げられるそうです。
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会期中にあがるのかな、と思っていたのですが、このタイミングでの公開。まぁ担当各所もいろいろお忙しいと存じますので、いたしかたありますまい。

当方としては自分がべしゃっくっている動画はあまり見たくないのですが、テロップを付けていただき、誤字脱字等ないか確認してくれということでしたので拝見しました。もうちょっとしっかりしゃべれよ、という感じです。

三本に分割されています。リンクを貼り付けておきますのでよろしくお願い申し上げます。
 令和5年度高村光太郎記念館講座「光太郎と吉田幾世」①
 令和5年度高村光太郎記念館講座「光太郎と吉田幾世」②
 令和5年度高村光太郎記念館講座「光太郎と吉田幾世」③

【折々のことば・光太郎】

里から此の小屋に来るまでの道路に熊の出るやうな所はありませんが、小屋のあるところよりも奥へゆくと出るやうです。去秋茸取りの人達が逃げて帰つてきた事があります。小生猟師から熊膽を求めました。


昭和21年(1946)5月6日 喜田聿衛宛書簡より 光太郎64歳

昨年の花巻は熊の出没がものすごく、市街地でもたびたび目撃情報がありました。当方もレンタカー運転中にちらっと見かけたような気がしています。先週は隣接する北上市のショッピングセンターに冬眠しそこねたと思われる子熊が侵入とのことで、ニュースになりました。

花巻郊外旧太田村の山小屋付近、現在も熊が生息していますが、かえって光太郎がいた頃はあまり里には降りてこなかったようです。この頃の方が共存が図れていたということなのでしょうか。

先週土曜日、1月13日に地方紙『岩手日報』さんに出た記事です。

岩手とロダン“考える” 舟越保武 大理石に刻んだ哲学 高村光太郎 日本へ紹介 熱狂生む 陸前高田市立博物館「考える人」

004 「近代彫刻の父」と称されるフランスの彫刻家ロダン(1840~1917年)。昨秋から代表作「考える人」が陸前高田市立博物館で展示公開され話題を呼んでいるが、さかのぼると本県とロダンには深いかかわりがあることが浮かび上がってくる。ロダンが広く日本で知られるようになったのは、花巻市ゆかりの高村光太郎(1883~1956年)の書籍がきっかけ。盛岡市出身の舟越保武(1912~2002年)は、多大な影響を受けて彫刻の道へと進んだ。考える人を間近に見られる今、その系譜と歴史をたどってみたい。
 日本にロダンの存在を広く知らしめたのは、光太郎が1916(大正5)年に翻訳・出版した「ロダンの言葉」だった。光太郎は08年にフランスへ行くなど、20代からロダンの雄弁な造形に傾倒。15年ごろから、ロダンの対話録を集めて翻訳を始めた。
 同書は刊行されると同時に、すさまじい熱量と引力を放った。とりわけ、「若き芸術家たちに(遺稿)」という部分ではメッセージ性が強い。
 「真実であれ、若き人々よ」「最も美しい主題は君たちの前にある」
 内容は芸術論だけでなく生き方や精神論にも及び、芸術を志す若者を中心に大ヒット。熱狂的なロダンブームを巻き起こした。000
 ロダンとの出会いで人生が変わった一人が舟越だ。盛岡中学を病気休学中だった1929(昭和4)年、兄健次郎が買ってくれた同書にのめり込んだ。
 初期の大理石作品には、ロダンの影響が顕著に見られる。フランス大使が購入した「女の顔」(1947年)は、美しい造形に荒々しい彫り跡を残す作り方がロダンに通じるという。
 県立美術館の藁谷(わらがい)収館長は「舟越の大理石への憧れは、まさにロダンの影響だろう。光太郎も舟越も見たままを写し取ることはせず、『奥行きで捉えよ』というロダンの哲学が垣間見える」と指摘する。
 国内がロダン一色だった昭和初期にかけ、多くの彫刻展は大仰で演劇的な身ぶりの作品が主流に。一方、同じ時期に本県は動的なロダンの作風とは対極とも言える潮流が生まれていた。
 象徴的なのが、盛岡市出身の堀江尚志(1897~1935年)の「少女座像」。左右対称で内省的な雰囲気が漂い、エジプト彫刻のような崇高さも感じさせる。
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 ロダンともう一人、舟越を彫刻の道へといざなった宮古市出身の吉川保正(1893~1984年)の作品にもうかがえる。舟越は31年、吉川の「自像」を見て、単純化された塊の内にある心(しん)の強さに「彫刻とはこういうものだ」と感動したという。
 舟越も戦後はカトリックの洗礼を経て、独自の道を歩み出す。ロダンがもたらした熱を浴びつつも、静けさの中に光を見いだすのは、岩手人の気質や風土ゆえだろうか。
 ロダンが本県の地を踏むことがあったなら、何を思い、感じ取っただろう。考える人を鑑賞しながら、思いをはせてはどうだろうか。
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心構え 生き方 若者の熱に 美術史家・髙橋幸次さん(東京)に聞く
 高村光太郎が「ロダンの言葉」を記した経緯と、日本に与えた影響は、いかなるものだったのか。ロダンに関する著書がある美術史家の髙橋幸次さん(東京都)に聞いた。
 -高村光太郎にとって、ロダンはどのような存在だったのか。
 「光太郎は、生命や思想、内面の感情まで表現するロダンの造形に衝撃を受けた。1905(明治38)年、カミーユ・モークレールの『ロダン』英訳を入手し熟読している。仏師の父光雲から彫刻を教え込まれたが、父への反発のばねになったのも、ロダンだったのではないだろうか」
 -「ロダンの言葉」は、どのようにして日本で受け入れられたのか。
 「明治から大正へ時代が変わって開放的になり、若者には『どう生きるか』という熱気が渦巻いていた。当時、芸術家は偉人であり、ロダンの説く心構えや生き方が求道精神や熱となり刺さったのだろう。さらに彫刻家を志す青年たちにとっては格別だったろう」
 -光太郎の文章の力も大きかったのでは。
 「光太郎は翻訳に関しては『文学ではない』との姿勢を崩さなかった。ことロダンにおいては芸術論や技術論であり、言葉と現実の事象が正確に対応している。文章もわかりやすく、口にしやすいものだった」
 -舟越保武の作品にロダンの影響は見られるか。
 「ロダンの男性像は筋肉が張っている。一方、舟越のは女性像に特徴的だが、静けさの中に軸と立ち上がる力がある。強さがなければ静かにもなれない。ロダンの造形手法の力強さを舟越流に取り入れていると感じられる」
 -岩手の作家に受け継がれている部分はあるか。
 「岩手の良さは、大都市と距離を保っているところ。また文化芸術性が歴史的にも豊かで、芸術面では表現がストレートでいて、決して素朴などではない。菅木志雄(現代美術家、盛岡市出身)もそうだ。先人たちが本当によいものを残してくれている」

日本に於けるロダン受容、そこに光太郎の果たした役割、そして岩手県の近代彫刻史と、実に示唆に富む内容ですね。

陸前高田市立博物館さんでの「考える人」展示というのは、収蔵する名古屋市博物館が大規模改修に伴い長期休館することから、東日本大震災を機に友好協定を結んだ陸前高田市に再来年秋まで無償で貸し出されているとのことです。

髙橋幸次氏には、連翹忌にもご参加いただくなど当方もいろいろお世話になっております。
 『花美術館 Vol.68 特集 オーギュスト・ロダン 人体こそ魂の鏡』。
 『「ロダンの言葉」とは何か』。
 『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』。
 美術番組3つ。
 国立西洋美術館 《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』。
 小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」関連行事「音楽と巡るロダンの世界」。
 「日本大学芸術学部紀要」。
 <N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」。

ロダンや光太郎、舟越や堀江、吉川のDNAを受け継ぎ、彫刻方面でさらなる新しい才能が岩手から生まれることを祈ります。

【折々のことば・光太郎】

昨夜セキと一緒に三寸五分ばかりの蛔蟲が一匹が飛び出しました。


昭和21年(1946)5月4日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

蛔蟲」はカイチュウ。カタカナにするとピカチュウみたいでかわいらしい感じですが(笑)、とんでもありません。今の日本ではほとんど聞かなくなりましたが、人体に寄生する寄生虫の一種です。「三寸五分」、マジか? という感じです。

この際かどうか不明ですが、光太郎、「俺の栄養分をかすめ取りやがって!」と怒り心頭、口から出て来たカイチュウを噛みきってやろうとしたそうですが、堅くて無理だったとのこと。花巻郊外旧太田村での暮らし、こういう部分でも壮絶なものでした。

1月13日(土)、世田谷文学館さんにお邪魔しました。
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こちらで開催中の「コレクション展 衣裳は語る――映画衣裳デザイナー・柳生悦子の仕事」拝見のためです。
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会場内部は撮影禁止でした。

映画史上に残る数多くの映画で衣裳デザインを担当された故・柳生悦子氏の原画を中心とした展示で、約3,000点の寄贈を受けたうちの厳選されたものが並んでいました。
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お目当ては昭和42年(1967)封切りの松竹映画「智恵子抄」衣裳デザイン原画。光太郎役の丹波哲郎さんのものが1点、岩下志麻さん演じる智恵子のものが約30点。
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上記はX(旧・ツイッター)に上げられた同館のポスト(ツイート)です。それぞれにいろいろと書き込みがしてあり、こりゃ現物を見ないとしょうがないなと思って参じた次第です。

で、書き込みも細かく読んで参りました。映画の「原作」という位置づけになっている佐藤春夫の『小説智恵子抄』や、当会の祖・草野心平が書いた随筆の一節、それからそれぞれの衣裳に於ける注意事項等がびっしり。驚きました。

上記画像を事前に見て、そうだろうな、と思っていたのですが、左上から始まって右下まで、シーンの順に並んでいます。光太郎と出会う前の若き日の智恵子から、最晩年まで。当然と言えば当然ですが、結婚前の恋愛時代の衣裳は華やかなものが多く、結婚後、特に心を病んでからのそれはシックな感じに移っていきます。

驚いたのは、一番左下のエプロン。同一のものがあと2ヶ所でも描かれていますが。
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雑誌『婦人之友』第18巻第7号(大正13年=1924 7月)に掲載された「変つた形のエプロン二種」という記事に写真と型紙(尺貫法で書かれています)が載った、実際に智恵子が自作し着用していたエプロンほとんどそのままです。
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こういう形のエプロンが一般的だったわけではないようで、『婦人之友』には「高村光太郎氏の御宅に伺つたとき、手を拭きながら出ていらしつた夫人が、ほんとうに面白い前掛をかけてゐらつしやいました。」と書かれていますし、少し調べてみてもこういう形のエプロン画像は見かけません。

ということは、柳生氏、大正時代の『婦人之友』のこの記事を読まれたのだと思われます。舌を巻きました。

録画して置いた映画「智恵子抄」を見返してみましたところ、ちゃんとこのエプロンを着用しているシーンがありました。
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「いや、こういうエプロン、一般的に使われていたよ」というような情報、資料をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

他の映画等のデザイン原画も拝見。ジャンルが実に多岐に亘っているのに驚きました。「裸の大将」「若大将」「風林火山」「八つ墓村」「戦国自衛隊」「敦煌」などなど。

残念ながら図録は作成されておらず、このコレクションに特化した書籍がもしかしたらあるかな、と思ったのですがありませんでした。ぜひとも3,000点をカラーで収録し、出版していただきたいものです。

会期は3月31日(日)まで。同時開催で「江口寿史展 ノット・コンプリーテッド」も2月4日(日)まで開催されています。ぜひ足をお運びください。
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【折々のことば・光太郎】

毎日荒地を掘り起して畑を作つてゐます。実にその仕事が爽快で朝起きるが待ち遠しいやうです。

昭和21年(1946)4月23日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村で、数え64歳にして生まれて初めて本格的に農作業に取り組み始めました。嬉々として取り組んでいる様子がうかがえますね。

昨日は光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエに保存運動が起きている件をご紹介しました。

今日は逆の件を。先月5日、『朝日新聞』さん夕刊に出た記事です。

戦前のまま、時とまったアトリエ 老朽化、近く取り壊し 木彫家・三木宗策が使用

015 東京都北区の路地の奥に、木彫家、三木宗策(そうさく)(1891~1945)が使ったアトリエが残されている。戦前のアトリエが現存するのは珍しく、木彫の像を制作するための石膏(せっこう)原型も保存されていた。当時の息づかいが聞こえてきそうなアトリエだが、老朽化のため、近く取り壊されることが決まった。
 「まるでそこだけ時間が止まっているようでした。見上げた高い屋根裏と上の棚に並んだ石膏(せっこう)の原型から、70年のときを超えて作家の存在を感じました」
 福島県郡山市美術館の中山恵理学芸員は2015年初秋、アトリエに初めて入ったときの感動をそう話す。その年、地元出身だった三木の没後70年展を企画していた。準備が大詰めを迎えたころ、アトリエが現存することを親族から教えられた。

高さ6㍍の吹き抜け
 建物は木造2階建てで、北面の大きなガラス窓の木枠にはツタがからまり、年月を感じさせる。アトリエは約30平方㍍の床面から2階の屋根裏まで吹き抜けの空間構造で、最高部まで高さは 6㍍を超す。
 郡山市出身の三木は14歳で上京し、高村光雲門下の山本瑞雲(ずいうん)に学んだ。22歳で独立。代表作は、全体の高さが3㍍を超える燈明(とうみょう)寺(東京都江戸川区)の本尊・不動明王だ。45(昭和20)年11月、疎開先の郡山市で53歳で病死した。
 東京芸術大学の調査によると、アトリエの建築年代は大正末から昭和初めとされる。三木の次男で美術評論家・三木多聞(1929~2018)の著書「三木宗策の木彫」によると、三木は19(大正8)年までにこの地に転入し、その後、アトリエ付き住宅を建てたらしい。

大空襲の戦火も免れ
 アトリエは、23(大正12)年の関東大震災にも耐えたという話が遺族に伝わる。だが、確実なのは、45(昭和20)年4月13~14日、現在の豊島区、北区、荒川区にかけての米軍による「城北大空襲」の戦火を免れたことだ。
 戦後は子ども部屋や書架など遺族の生活空間として使われてきたという。次第にアトリエとしての存在も家族以外からは忘れられた。
 連絡を受けた中山学芸員ら彫刻関係者らは、残された石膏原型などを郡山市内の施設に運び出し、一時保管した。同美術館ではアトリエの記録や資料の調査をしたのち、所蔵先について検討するという。
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残った石膏原型50点
 いまのところ、アトリエに残された石膏原型約50点のうち、10点は現存する作品の原型、6点は写真だけが残る作品の原型だと確認された。所在不明だった木彫「傷つきたる鳥人」(40年)もみつかった。
 調査にかかわった彫刻家・修復家の藤曲隆哉さんによると、三木は、最初に粘土で塑像(そぞう)を制作したのち石膏原型をつくり、星取り機を用いて木彫の完成作をつくる手順で制作していたという。原型にいくつかの点(星)をうち、その点を星取り機で木に写し取り、空間上の点の位置関係を頼りに彫る。
 藤曲さんは「石膏原型は資料の域を超えることはない」としながらも、「作家本人の純粋な手が入っている。完成作品と原型を比較する価値はあると考えられる」と話している。

三木宗策は、記事にあるとおり、光太郎の父・光雲の孫弟子です。孫弟子ではありますが、光雲との合作もありました。

光雲とゆかりの深い、文京区の金龍山大圓寺さんに、昭和4年(1929)から同8年(1933)にかけて七尊の木彫観音像が寄進され、そのうち五尊は光雲と山本瑞雲(光雲高弟にして宗策の直接の師)、二尊が光雲と宗策の合作という扱いでした。こうした場合、合作という条、メインに鑿を振るったのは瑞雲や宗策なのでは、と思われます。
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これら七観音は戦災で全て焼失、聖観音像のみ鋳銅されたものが大圓寺さん境内に露座でおわしますが、それぞれの胎内仏は現存します。七観音それぞれの開眼供養の際、胎内仏のコピーが鋳銅で造られ、檀家や寄進者に配付されました。像高10㌢弱の懐中仏です。そのうち「准胝(じゅんてい)観音」の鋳銅が花巻市に寄贈され、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで行われた企画展示「高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」に出品されました。

その後、七観音すべてがセットで売りに出ているのを見つけ、購入しました。上記十一面観音、千手観音の懐中仏がこちら。
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この件はまた後日、ご紹介いたします。

その宗策の使っていたアトリエが取り壊されるということで、記事が出たのは先月初めでしたから、既に解体済みかもと思われます。

この記事で知ったのですが、宗策の次男が故・三木多聞氏。昭和46年(1971)、至文堂さん刊行の『近代の美術 第7号 高村光太郎』の編者を務められたほか、光雲、光太郎に触れた論考をいろいろ書かれていました。かつて連翹忌にもご参加下さったそうです。
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お素人さんではない多聞氏が子息だったにもかかわらず、アトリエ保存という話にならなかったということを考えると、今回の取り壊しの件、仕方がないといえばそれまでなのかもしれません……。余人にはうかがい知れぬ事情等、いろいろあるでしょうし……。

そう考えると、昨日ご紹介した光太郎ゆかりの中野のアトリエ保存の件も、もちろんきちんと保存・活用が為されればそれに越したことはないのですが、なかなか難しいのかな、という感じですね……。

また詳しい情報が入りましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

「北方風物」は先日拝受、小生の素描はインキで画きたるため印刷によく出なかつたものと見え甚だ生彩を欠いてすみませんでした。


昭和21年(1946)4月27日 更科源蔵宛書簡より 光太郎64歳

光太郎、7年間の花巻郊外旧太田村の山小屋暮らしの中で、折に触れ身の回りの自然や道具類などをスケッチし続けました。『北方風物』は、詩人の更科源蔵が北海道で刊行していた雑誌です。
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一昨日の『東京新聞』さんに、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエ保存運動についての記事が大きく出ました。

高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野  残したい 代表作「乙女の像」塑像も制作

014 「智恵子抄」「道程」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、彫刻の代表作「乙女の像」の塑像を制作したアトリエが中野区にある。所有者が昨年死去し、受け継いだ妻は「これ以上、個人での保存や活用は難しい」と頭を悩ます。専門家らは貴重な建物と評価し、保存の道を模索している。
 アトリエは中野駅から徒歩10分ほどの住宅街にたたずむ。施工主は大正から昭和にかけて活躍し、「水彩画の巨匠」と呼ばれた洋画家中西利雄(1900~48年)。設計は近代日本建築運動を先導した建築家山口文象(1902~78年)。完成した1948年に利雄が死去したため、貸しアトリエとして使われ、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らが滞在した。
 建坪17坪のアトリエは、斜めの屋根が目を引く一部2階建て。天井が高く、日光が安定して差し込むよう北側に縦3メートル、幅2・5メートルの大きな窓があるのが特徴だ。作品が見下ろせる2階部分は、楽団の演奏場所として造られた。外壁は現在は白いが、建築当時はすみれ色に塗られていた。
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 光太郎は38年に妻智恵子を失った後、終戦間際から岩手・花巻で過ごした。晩年上京し、52~56年にアトリエで生活し、亡くなった。アトリエ前を流れていた川(現在は暗渠(あんきょ)化)に咲くレンギョウを好み、棺(ひつぎ)にこの花がささげられたという逸話から、命日は「連翹(れんぎょう)忌」と命名され、第1回もこのアトリエで開かれた。光太郎の姪(めい)の娘にあたる櫻井美佐さん(60)は「光太郎をしのぶ建物は都内にここしか残っていない。この景色を見ていたと思うと不思議な感覚になる」と大伯父へ思いをはせる。
 アトリエは利雄の長男、利一郎さんが所有者として「自分の生きているうちは」と外壁にペンキを塗るなどして大切に維持してきたが、昨年1月に死去。相続した妻の文江さん(73)は建物の老朽化などから、一度は解体を決心した。
◆「貴重な建築」有志が保存模索
 昨年秋、利一郎さんと交友があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠(こうせい)さん(71)が「芸術的、歴史的に価値がある文化遺産」として保存を提案。有志で会を立ち上げ、クラウドファンディングなどを視野に活動を始めた。
 近代住宅史が専門の内田青蔵・神奈川大建築学部特任教授は建物について「戦前から戦後に活躍した山口文象による貴重な事例で、オリジナルが残っている。モダニズムを象徴する無駄のない空間を創る思想が現れた建物だ」と評価する。
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 歴史ある建物を調査する「伝統技法研究会」のメンバーで建築士の十川百合子さん(69)も調査に入り、「中野には棟方志功ら文化人が創作の場を構えた。中西利雄と山口文象が生み、地元に愛されてきた建築は貴重」とし、オリジナルを尊重しながら補強して保存する方法を提案。文江さんは区など公的な機関による対応を希望している。
 アトリエは非公開。保存・活用法の提案や問い合わせは曽我さん=電090(4422)1534、メールsogakousei@mva.biglobe.ne.jp=へ。
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記事にもある曽我貢誠氏制作の「アトリエ保存企画書」がこちら。
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曽我氏と関わりの深い文治堂書店さんのHPにPDFで掲載されています。7ページ目の「これからの主な予定」という項に関しては、まるで予定通りに進んでいないようですが……。

フライヤー的なものも。
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また、記事にあるとおり、アトリエの設計はモダニズム建築家の山口文象(この件、当方もアトリエ保存運動が起こるまでは存じませんでした)。山口は北鎌倉の宝庵さん、現在は新宿区立林芙美子記念館さんの一部として活用されている林芙美子邸などを手がけたそうです。そうした和風の建築は現存、活用されているものの、山口が設計したモダンスタイル木造住宅作品は、この中西利雄アトリエが現存する唯一のものだとのこと。『東京新聞』さん記事を受けて、都市プランナーの伊達美徳氏が書かれたブログにその辺りが解説されていますのでリンクを貼らせていただきます。

ついでですのでもう1件。『東京新聞』さん記事に、「彫刻の代表作「乙女の像」の塑像を制作したアトリエ」と紹介されていますが、その制作の模様がブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館さん)制作の「美術映画 高村光太郎」(昭和28年=1953)と「美術家訪問 第7集」(昭和33年=1958)に含まれています。

昨年、アーティゾン美術館さんで開催された「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」展でそれらの動画が会場で常時公開され、それを受けてYouTubeでもアップされましたので貼り付けておきます。当時のアトリエ内部の様子(1:47頃から)、ご覧下さい。


明日もこの件で。

【折々のことば・光太郎】

以前「婦人公論」に「日本美の源泉」といふのを六ヶ月つづいて書いたことがありましたが、若しやあの切抜を貴下が持つて居られたら暫く拝借願へないでせうか。来月あたりから此処で日本美について毎月一回づつ六ヶ月間講演をやらうかと考へてゐますが、あの原文をテキストにして述べたいと思つてゐます。禅の提唱のやうに、美を中心にして万般の事に亘つて語るつもりで居ます。

昭和21年(1946)4月19日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、移住当時はここに最高の文化部落を造る、といった意気込みがありまして、その一環でしょう。ことによるとこの地に光太郎を招いた分教場(講演会場)の教師・佐藤勝治が宮沢賢治の信奉者でしたので、その提案でかつての賢治の羅須地人協会的な実践を……という話になったのかも知れません。「日本美の源泉」についてはこちら

新刊です。

ロゴスと巻貝

2023年12月27日 小津夜景著 アノニマ・スタジオ刊 定価1,800円+税

注目の俳人、小津夜景さんが綴る人生と本の記憶
山本貴光さん(文筆家・ゲーム作家)推薦
 細切れに、駆け足で、何度でも、這うように、本がなくても、わからなくてもーー読書とはこんなにも自由なのですね、小津さん
 
注目の俳人小津夜景さんは、選び取る言葉の瑞々しさやその博識さが魅力。本書では、これまでの人生と本の記憶を、芳醇な言葉の群で紡ぎ合わせる。過去と現在、本と日常、本の読み方と人との交際など、ざっくばらんに綴った40篇。
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目次
 読書というもの014
 それは音楽から始まった
 握りしめたてのひらには
 あなたまかせ選書術
 風が吹けば、ひとたまりもない
 ラプソディ・イン・ユメハカレノヲ
 速読の風景
 図書館を始める
 毒キノコをめぐる研究
 事典の歩き方
 『智恵子抄』の影と光
 奇人たちの解放区
 音響計測者(フォノメトログラフィスト)の午後
 再読主義そして遅読派
 名文暮らし
 接続詞の効用
 恋とつるばら
 戦争と平和がもたらすもの
 全集についてわたしが語れる二、三の事柄
 アスタルテ書房の本棚
 ブラジルから来た遺骨拾い013
 残り香としての女たち
 文字の生態系
 明るい未来が待っている
 自伝的虚構という手法
 ゆったりのための獣道
 翻訳と意識
 空気愛好家の生活と意見
 わたしの日本語
 ブルバキ派の衣装哲学
 わたしは驢馬に乗って句集をうりにゆきたい
 そういえばの糸口
 月が地上にいたころ
 存在という名の軽い膜
 プリンキピア日和
 軽やかな人生
 料理は発明である
 クラゲの廃墟
 人間の終わる日
 本当に長い時間
 梨と桃の形をした日曜日のあとがき
 引用書籍一覧

小津夜景氏という方、寡聞にして存じませんでしたが、注目の女流俳人だとのことです。いわゆる結社等には所属しない立場でやられているそうで、へそ曲がりの当方としてはシンパシーを感じます(笑)。

その小沢氏のエッセイ集ですが、目次にある通り「『智恵子抄』の影と光」という項を含みます。『智恵子抄』との出会い、その後、そして現在の『智恵子抄』とご自身、といった感じです。

出会いは意外なところからだったそうです。氏が小学6年生の折、当時ファンだったチェッカーズさん関連の書籍を読まれていて、その中にあったメンバーの武内享氏のインタビューで武内氏が愛読書として『智恵子抄』をあげられていたこと。それを読んでいたかたわらにお母さまがいらしたそうで、

「ねえ、おかあさん」
「なに」
「高村光太郎の『智恵子抄』って知ってる?」
「本棚にあるわよ」
 なんと。


素晴らしいお母さまですね。ここで「誰、それ?」「聞いたことない」となっていたら、話は終わってしまったかもしれないわけで。

そして小6当時の小津氏も素晴らしい。「知らない漢字だらけ」であったにもかかわらず、「辞書を引き、一字一句を拾うようにして」読まれたそうです。そして「かくして『智恵子抄』は自分にとって特別な詩集となった」とのこと。

それにしてもチェッカーズのメンバーの方が『智恵子抄』を愛読書と答えて下さっていたことは存じませんでした。沢田研二さん山口百恵さんなど、芸能界にそういう方は結構いらっしゃいますが。それから小津氏のエッセイでこれも初めて知ったのですが、かの「ドラえもん」で、のび太のパパが若い頃、ママへのラブレターに『智恵子抄』所収の「郊外の人に」(大正元年=1912)を綴ったというエピソードがあったそうです。

しかし小津氏、こうも述べられています。

とはいえ、告白しておいたほうがいいだろう。こうまでして読みはしたものの、わたしは一度たりとも『智恵子抄』をいいと思ったことがないってことを。もっと率直にいえば大嫌いである。

「あ゛?」と思いました。ここから先、いわゆるジェンダー論者の方々のように、男尊女卑の権化光太郎、的なディスりが始まるのか? と。

しかしさにあらずでした。「レモン哀歌」(昭和14年=1939)などを筆頭に、素晴らしい作品群であることは認めつつも、ある種の信用できなさが感じられる、というのです。

ある意味、妥当な見解と思われます。

「レモン哀歌」は宮沢賢治の「永訣の朝」などとの類似点が夙に指摘されてきました。光太郎は智恵子、賢治は妹のトシと、それぞれ最愛の大事な人を亡くした慟哭が謳われている点等々。しかし、そのスタンスはやはり異なりますね。「永訣の朝」はトシを失った悲しみがとにかくこれでもか、これでもかとダダ漏れになっている状態ですが、「レモン哀歌」は、それがいいか悪いかは別として、一つ高い次元からの視点で智恵子の最期を謳っているように感じます。「もっと泣けよ、喚けよ、智恵子が死んだんだぞ」と突っ込みたくなるような。

その理由としては、いろいろ考えられます。「レモン哀歌」執筆が智恵子の死の約4ヶ月後であること、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)10月5日まで、およそ五ヶ月も見舞いに行っていなかったことなどなど。

「レモン哀歌」自体も、「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」と結ばれますが、執筆は2月。桜など咲いていません。これは雑誌『新女苑』への掲載が4月とわかっていたため、その季節に合わせて架空の桜を持ち出したという説があります。おそらくそれで正解でしょう。ただし、やがて4月には実際に「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置」いたのだとは思いますが……。

小津氏、そうしたある種のうさん臭さを、俳人としての優れた感性で敏感に感じ取られたのではないかと思われます。この手の批判的な読みは大歓迎ですね(って、当方は光太郎ではありませんが(笑))。逆に手放しで「類い希なる純愛の詩集」「日本文学史上に燦然と輝く相聞歌」などと評されると、興醒めです。といって、ジェンダー論者の方々のようにその背景もろくに調べずディスりまくりや、自分以外は全員バカだと思っているようなとにかく「批判」だけの自称・研究者などは論外ですが。

一昨日届いたばかりで、他の項はまだ斜め読み状態です。それでも、だいぶ生きづらさを抱えて歩んでこられた方なのだな、というのはわかりました。今日、公共交通機関に長く乗って上京しますので、その行き帰りに精読しようと存じます。

皆様もぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間のお茶のおかげで此頃は朝一杯の煎茶がのめるので爽快を感じます。


昭和21年(1946)4月19日 真壁仁宛書簡より 光太郎64歳

戦後の物資不足の折、花巻郊外旧太田村に引っ込んだ光太郎を案じ、ほうぼうの友人知己がいろいろなものを送ってくれていました。茶は岩手県では産出されず、現在もそうですが、岩手の人々は食事の際に茶を飲むという習慣もないそうで、入手が困難。茶好きの光太郎は真壁からの茶を実に有り難く思ったようです。

清流出版さん発行の『月刊清流』。コンセプトは「すべての女性に贈るこころマガジン」だそうです。

その最新号、2024年2月号に「『智恵子抄』と智恵子」という記事が出ているというので、購入しました。
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智恵子の生涯のアウトライン紹介が主で、さらに『智恵子抄』から「あどけない話」(昭和3年=1928)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)の全文が掲載されています。

015しかし、「私たちにさまざまなことを気づかせてくれる、奇数月連載安芸正宏さんの「こころのヒント」。偶数月の号では、近号からキーワードを選び、「こころのヒント」の味わいを深めたいと思います。」だそうで、昨年9月号に載った「こころのヒント 「おしゃれ」って何だと思いますか? 流行に左右されないスタイル」というエッセイで、やはり『智恵子抄』収録の「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)が紹介されたことを受け、では智恵子や「智恵子抄」を紹介しよう、ということのようでした。

そこで、昨年9月号も追加で注文し購入した次第です。

「安芸正宏」さんという方、どこにもプロフィールが載っていませんが、一般社団法人実践倫理宏正会の名誉会長・上廣榮治氏のペンネームのようです。版元の清流出版さんもその系統の出版社なのですね。

ちなみに『月刊清流』さん、2017年9月号でも「詩歌(うた)の小径」という連載で、「あどけない話――高村光太郎」という記事を掲載して下さいました。

『月刊清流』さんは、書店での販売はおこなっておらず、公式サイトからオンラインで、それからAmazonさんでの取り扱いも最近始まったようです。

今号の目次はこちら。
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さて、明日はやはり『智恵子抄』がらみのエッセイの載った新刊書籍をご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

さすがに此の山の中にも春が来ました。まだ降雪も時にはありますがすぐに消え、日かげさす時は随分温かで暁天の朝靄うすむらさきに、黄セキレイの声やうぐひすの囀りもきこえはじめました。


昭和21年(1946)4月17日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移って初めての冬が終わりました。冬を愛した光太郎も、さすがにそこまで厳しい冬とは予想していなかったようで、春の訪れにほっとしている気配が見て取れます。

またしても始まってしまっている展覧会ですが……。

所蔵品展「冬の精華-語り来る入魂の作品たち-」

期 日 : 2023年11月17日(金)~2024年2月12日(月・祝)
会 場 : 北野美術館 長野市若穂綿内7963-2
時 間 : 9:30~16:30
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 700 円 / 高校・専門・大学生 500 円 / 中学生以下無料

冬の季節にふさわしい日本画作品を中心に、国内外作家による洋画、彫刻、工芸品などバラエティに富んだ約90点の作品をご覧ください。今回は作品の要所要所に、それぞれの画家たちのエピソード・乗り越えてきた困難や、切り開いてきた道、作品への意気込みなどを添えて展観します。
また、著名歌人や作家の短歌、俳句の短冊や、小林一茶の書画、館内茶室に江戸時代の女性俳人・加賀千代女の書画など、書跡作品も複数展示。文字からその人となりを想像してみるのも一興でしょう。
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案内文にその文字がなかったのでこれまで気づきませんでしたが、光太郎の父・光雲作の「仁王像」が出ています。

光雲で仁王といえば、同じ長野市の信州善光寺さんの仁王像が有名ですが、ポージング等異なります。仁王像も人気の図題で、光雲にも複数の作例が確認できています。
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北野美術館さん収蔵の作は、他の作例と共に平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」に出品されました。像高30センチあまりのものですが、なかなかの優品です。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

此の山の中もやうやく春が近くなりかけたところ、今日は又雪が降つて来ました。二寸ばかりつもつて今又日がさしてきました。


昭和21年(1946)4月15日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、4月半ばでも6㌢の積雪。北東北にお住まいの方にとっては「そんなもんだよ」でしょうが、南関東の人間にとっては「へー」ですね。

戦前戦後に光太郎と交流のあった岡山県豊田村(現・赤磐市)出身の詩人、永瀬清子を中心に据えた展示です。

永瀬清子展示室企画展「マンガで読む永瀬清子」

期 日 : 2023年12月8日(金)~2024年3月31日(日)
会 場 : 永瀬清子展示室 岡山県赤磐市松木621-1 赤磐市くまやまふれあいセンター2階
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

今春、永瀬清子の生涯がマンガになりました。永瀬清子が誕生し詩人を志す過程を中心に描いており、赤磐市立図書館などで読むことができます。この展示では、マンガを描くのに使われた資料とマンガ『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』とともに、永瀬清子の生涯を紹介します。
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案内文にあるとおり、昨年、永瀬の伝記マンガ『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』(シナリオ 和田静夫氏/マンガ 藤井敬士氏/赤磐市教育委員会発行)が刊行され、それを記念しての展示です。

マンガには光太郎も登場します。昭和9年(1934)、新宿のモナミで開催された宮沢賢治追悼会の場面、昭和15年(1940)に永瀬が自らの詩集『諸国の天女』序文を光太郎に依頼するシーンなど。

展示ではそのあたり、どういうふうに扱われているのか不明ですが、永瀬の年譜等展示されていれば、触れられていると思われます。

また、期間中の2月17日(土)には第25回朗読会「永瀬清子の詩の世界―貴方がたの島へ」も開催されます。
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007プログラムにはシンガーソングライター・沢知恵さんのコンサートも。永瀬は生前、ハンセン病療養施設への支援活動なども行っていましたが、沢さんも同様の活動に取り組んでいて、そうした関係でしょう。

余談になりますが、沢さんのお祖父様・金素雲の訳詩集『乳色の雲』(昭和15年=1940)には光太郎が挿画を寄せており、奇縁を感じました。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

四月十三日がまた廻りくるにつて、昨年のあの時の貴下の御厚情と一方ならぬご助力とを思ひ出し、真に忝い事だと思つてゐます。其後お訪ね下さつた宮沢家も全焼し、今年は此の山の中の一軒家で記念の日を迎へます。

昭和21年4月9日 寺田弘宛書簡より 光太郎64歳

昨年のあの時」は、米軍の空襲により駒込林町のアトリエが灰燼に帰した昭和20年4月13日を指します。この際、寺田が真っ先に光太郎の元を訪れ、燃えさかるアトリエを茫然と見る光太郎の姿を回想に残しています。

光太郎第二の故郷とも言うべき岩手県花巻市。市立の博物館等が統一テーマの元に行う共同企画展です。

令和5年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館の3館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

期 日 : 2022年1月20日(土)~2023年2月18日(日)

統一テーマ 「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

花巻新渡戸記念館 テーマ「須美子工房~春を彩る貝雛の世界~」
 須美子工房の貝のお雛様は、日本古来の佳き風習を受け継ぎつつ、海と山の幸と日本の文化をつなぎ、「未来への希望をつなぐ」ものとなることを願い、「愛海雛(めぐみびな)」と名を付けました。故・西村須美子さんが製作した貝雛(かいびな)と、夫の故・文夫さんの書と併せて、貝雛の世界を紹介します。

萬鉄五郎記念美術館 テーマ「師岡和彦 早池峰山伏神楽 写真展」
 山形県高畠町出身の師岡和彦(1926-2012)は、1982年、大迫町の岳神楽との出会いをきっかけに、早池峰山伏神楽に魅せられ、以後20年近くに亘り、早池峰山伏神楽を撮影し続けました。数年後には、岳神楽の流れを汲む東和町の石鳩岡神楽にも注目し、数多くの写真を残しています。本展では、師岡がファインダー越しに捉えた、早池峰山伏神楽の躍動する姿を中心に、大迫町、東和町の懐かしい情景を振り返ります。

高村光太郎記念館 テーマ「「光太郎からの手紙」
 昭和20年5月に花巻へ疎開した高村光太郎は、昭和27年10月に彫刻制作で帰京するまでの間に数多くの手紙のやり取りで自身の消息を伝えるだけでなく、文筆から彫刻まで様々な創作活動に関わるやりとりも行っていました。この企画展では光太郎からの手紙を通じて太田村在住当時の様子、創作活動に関わる光太郎周辺の人々との関わり合いをたどります。

協賛館
花巻博物館、花巻市総合文化財センター、宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷農業伝承館、早池峰と賢治の展示館
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 今回の開催館3館すべてをバスに乗って一日で巡るツアーです。参加料、入館料ともに無料!!(注 昼食代は自己負担)さらに各企画展の担当者が解説をしてくれます。

ぐるっとまわろう!スタンプラリー
 共同企画展の会期中、開催館3館のスタンプを集めた方に記念品を差し上げます。さらに、開催館3館すべてといすれかの協賛館3館の計6個スタンプを集めた方には、さらに記念品を差し上げますので、この機会にぜひ足を運んでみてください。
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昨年度、コロナ禍がほぼ終息ということで2年ぶりに復活し、5館が参加して開催されました。どうしたわけか今年度は3館のみ、期間もあまり長くありませんが。

旧太田村の高村光太郎記念館さんでは、「光太郎からの手紙」。同館では一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんで購入したり寄贈を受けたりした光太郎の書簡を多数所蔵しています。種別としてもハガキあり封書あり巻紙に毛筆で書かれたものもありイラストの入ったものありと、バリエーションに富んでいます。それらは常設展示では出品しきれないため、この機会に、ということでしょう。

ペン書きのものであっても、光太郎の筆跡は実に味わい深く、「書」としての価値も高いものです。色紙や条幅などに気負って書いたものとはまた異なるリラックスして書かれたものである点にも面白味が感じられます。

また、送られた相手も多岐に亘っています。以前に伺った話ですと、女優・劇作家の渡辺えりさんのお父さま・故渡辺正治氏から平成28年(2016)に寄贈を受けたハガキなどもまだ展示していないので、機会があれば、というお話でした。
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おそらくこれも出るんではないかと思われますが、違ったらごめんなさい。

また詳しい情報が入りましたらご紹介します。厳冬期ということでなかなか大変ですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

随分雪の多いところで昨日も終日降つてゐました。開墾が出来ないので何かがすべて遅れます。

昭和21年(1946)4月7日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

4月に入ってもまだ雪のため畑仕事にかかれなかったそうで、岩手、おそるべしですね。

1週間経ってしまいましたが、群馬県の地方紙『上毛新聞』さん、今年元日に掲載された一面コラムです。

三山春秋 詩人の室生犀星が萩原朔太郎を訪ねて来たのは...

▼詩人の室生犀星が萩原朔太郎を訪ねて来たのは1914(大正3)年。前橋駅で初めて顔を合わせた時、互いの印象は最悪だった。「肩を怒らし、粗野で荒々しい感じ」(朔太郎)、「何て気障(きざ)な虫酸(むしず)の走る男」(犀星)と語っている▼詩から想像していた風貌とのギャップに双方ともに落胆したが、およそひと月の滞在中に仲は深まる。犀星が上京すると今度は朔太郎が頻繁に会いに行き、一緒に高村光太郎の家を訪ねたり、上野公園へ出かけたりした▼互いの存在は創作の刺激になったのだろう。出会った頃は作品が評価されず暮らしも苦しかった犀星は才能を開花。「二魂一体」(犀星)と言うほどに、生涯の親友となった▼莫逆(ばくぎゃく)の友、心腹の友など友情にまつわる言葉は多い。その存在によって吉がもたらされることもあれば凶に転ぶこともある▼「益者三友損者三友」は論語の教えである。自分のためになる友は三通り、ためにならない友も三通りいる。前者は直言してくれる者、誠実な者、物事を深く知っている者であり、後者は不正直、不誠実、口先だけの者。大切にすべき人を説くこの思想は、江戸時代には広く庶民にも浸透していたという▼新しい年を迎えた。辰(たつ)年は変化の多い年とされる。それぞれの身にも小さな波、大きな波が寄せるかもしれない。行き詰まったとき頼りになるのは益者の友。相手にとっての自分も、そうありたい。

光太郎に朔太郎、犀星。年齢的には光太郎が最年長の明治16年(1883)の生まれ、次いで明治19年出生の(1886)の朔太郎(智恵子と同年です)、そして犀星が最も若く明治22年(1889)の生まれです。
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光太郎は朔太郎、犀星とはそれほど親しかったわけではありませんでしたが、「三山春秋」にあるとおり、二人が駒込林町のアトリエに揃って訪ねてきたことがあり、その件は犀星の随筆「天馬の脚」(昭和4年=1929)に述べられています。

それによれば犀星の光太郎評は「裏側へのびてゆく奥の深い人である。小説を書いてゐたら別の意味の志賀君のやうな人になつてゐたらう。物を研め考へることは当今の文人の比ではない。話をしてゐても気取らず平明で、それでゐてある程度まで他人を容れない冴えをもつてゐる。」「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騒がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、青年の峠を通り抜けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出来であつた。」。そして帰り道、犀星が朔太郎に「かうして高村君を君と訪ねてかへると一寸若くなつたやうな気がするね。」すると「萩原も笑ひながら、いろいろな意味でねと言つた。

当方、朔太郎に関してはあまり詳しくないのですが、朔太郎もこの際の訪問記的なことを書いているのでしょうか。御存じの方、御教示いただければ幸いです。

しかし犀星、光太郎歿後に書かれた『我が愛する詩人の伝記』(昭和33年=1958)では、光太郎をディする方向に梶を切っていますが……。

光太郎にとっての「益者の友」といえるのは、同年生まれだった水野葉舟、そしてちょうど20歳下でしたが、当会の祖・草野心平でしょうか。
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無理くりですが、今日は「成人の日」。新成人の皆さんも、「益者の友」といえる友を得て、人生を豊かにしていっていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

フキノタウは三里塚の土の香りをなつかしいと思ひました。こちらでも此頃やうやく雪の下からフキノタウを発見しました。出はじめれば無限にあるわけです。 いただいたのは早速蕗味噌に作つて賞味します。


昭和21年(1946)4月1日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

光太郎もたびたび訪れた千葉三里塚に隠棲していた葉舟からフキノトウが送られ、その礼状の一節です。温暖な房総と雪深い花巻郊外旧太田村では、春の訪れが何ヶ月もずれます。当方も今月末に房総から花巻郊外旧太田村に足を運ぶ予定でいますが、その点のみが気の重いところです。

昨年12月22日(金)、『日本経済新聞』さんの記事から。

日本復帰70年 「奄美のガンジー」泉芳朗を語り継ぐ

 鹿児島県奄美地方で12月25日は特別な日だ。1946年のGHQ(連合国軍総司令部)の二・二宣言で、奄美を含む北緯30度以南の島々は米軍統治下におかれた。その後、奄美群島が悲願の日本復帰を果たしたのが70年前、53年のこの日だった。
 復帰運動の先頭に立ったのが泉芳朗(ほうろう)(1905〜59年)だ。ハンガー・ストライキを実施し、復帰を訴えた姿からインドのマハトマ・ガンジーになぞらえ「奄美のガンジー」と呼ばれている。
 私が代表を務める「泉芳朗先生を偲(しの)ぶ会」では、功績を後世に伝えようと記念碑建立や出前授業を行っている。設立したのは私の父、豊春だ。泉先生の秘書を務め、復帰運動をそばで支えた。59年に泉先生が亡くなったあとは、奄美群島の各市町村が12月25日を日本復帰記念日に制定するよう奔走した。私も幼いころから話を聞かされ、実際にお目にかかったこともある。当時は親戚のおじさんだと思っていた。
 泉先生は、鹿児島県の徳之島出身。学校を卒業後、小学校で教員をする傍ら、詩作に打ち込んだ。28年に上京し、詩人の高村光太郎とも交友。再び島に戻った後は、教育者と詩人の二足のわらじで活動した。
 外国となった奄美は本土への渡航が制限され、黒糖や大島紬(つむぎ)など特産品の流通も禁止された。生活は苦しく、島民は密輸や密航に手を染めた。復帰を望む声が東京在住の奄美出身者らから広がり、51年2月には奄美で復帰協議会が結成される。議長に就任したのが教育者として信頼を集めていた泉先生だった。
 直後に始まった満14歳以上を対象とした請願署名には、実に島民の99.8%が名を連ねた。私の父の名前もそこに見られる。大規模な集会も開催され、取り締まる米兵との衝突も起きた。

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 51年8月に泉先生は名瀬市(現鹿児島県奄美市)の高千穂神社で5日間の断食を決行し、多くの島民が後に続いた。泉先生の詩「断食悲願」には強い決意がにじむ。〈膝を曲げ 頭を垂れて/奮然 五体の祈りをこめよう/祖国帰心/五臓六腑の矢を放とう〉。詩の力は復帰運動を戦う島民の大きな力となり、うねりは一層大きくなった。
 しかし、すぐには実を結ばなかった。52年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効され日本は主権を回復。北緯29度線以北の島々は復帰を果たしたが、奄美は依然、米軍統治下におかれた。この日は奄美では「痛恨の日」と呼ばれている。
 その翌日、泉先生は子供たちの前に日本国旗を示し、祖国の旗を覚えておくよう呼びかけた。そのことで米軍から注意を受けた際、一歩も譲らず説き伏せたという。父はよくその場面をあげ、胆力のすさまじさを語っていた。同年には名瀬市長に当選し「市政と復帰一如」をスローガンに精力的に活動する。教育者、詩人、政治家の3つの顔で、島民を鼓舞し続けた。
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 53年8月にダレス米国務長官が奄美を日本に返す用意があると発表した「ダレス声明」を経て、その日はやってきた。同年12月25日、奄美は歓喜に沸いた。泉先生は「皆さん、これで八年の苦難は達成して、きょう、この日の我々は、本当の日本人になったのであります」と挨拶し、万歳三唱した。島民はちょうちん行列で喜びあった。
 今年の復帰70周年の日にも、ちょうちん行列が予定され、当時の光景がよみがえるはずだ。奄美が米軍統治下にあったことを知らない世代も増えた。泉先生の功績とともに、先人たちの悲願の先に、今があることを伝えていきたい。
  
12月25日(月)に行われた奄美群島の米軍統治下からの日本復帰70周年記念式典に先立ち、復帰運動を主導した泉芳朗の功績を振り返るといったコンセプトの記事です。

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伊仙村(現伊仙町)出身で、戦後は名瀬市長も務めた泉ですが、戦前は教員を務めるかたわら詩人としても活動し、10年ほどは東京に在住していました。その頃光太郎とも親交を結び、光太郎も出席した座談会の司会を務めたり、自身の主宰する雑誌の題字を光太郎に揮毫して貰ったりした他、光太郎と同じ書籍や雑誌に寄稿することもしばしばでした。戦後も光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、岩手から帰京した直後の昭和27年(1952)に、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪問しています。くわしくはこちら

先月の奄美群島の日本復帰70周年。今一つ報道されなかったように感じています。九州の地方紙などでは改めて占領下を振り返る特集記事などが出ていましたが……。沖縄が永らく米軍統治の扱いだったことは歴史の教科書にも記載がありますが、小笠原諸島、そして奄美群島もそうであったことは忘れられつつあるように思われます。ウクライナの件など、世界的にも領土問題が顕在化しているこの時期、過去に学ぶ必要をひしひしと感じるのですが……。

【折々のことば・光太郎】

おハガキ二通及「週刊朝日」二冊、珍しい新聞一束拝受、ありがたく存じました。 小屋の写真はよくうつつてゐると思ひました。談話の筆記は所々間違へたりしてゐます。ともかく、こんな小屋に独居自炊してゐると思つて下さい。人家からは三丁程離れた山腹で下に見える湧き水の水を汲んで炊事してゐます。勝手元の厨芥を夜兎が来てたべるやうです。鼠は夕方遠くからやつて来て小生の座辺へも平気で来ます。大切なローソクをかぢるのは閉口です。

昭和21年(1946)3月24日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

光太郎の元に送られた『週刊朝日』のうち、この年2月24日号(第48巻第7号)には、花巻郊外旧太田村の光太郎の暮らしぶりが紹介されました。この手の記事としては最も早い時期のものの一つです。
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題して「雪にもめげず 疎開の両翁を東北に訪ふ」。故郷・山形に居た斎藤茂吉も紹介されています。

少し前にご紹介した佐高真氏著『反戦川柳人 鶴彬の獄死』の中で、歴史作家の藤沢周平が同郷の茂吉に対し、戦後も皇国史観から抜け出せず、戦争協力への反省も行わなかったことを痛烈に批判したことが紹介されています。また佐高氏もこう書いています。

 光太郎より一つ年上だった茂吉は、一九四五年の四月に故郷に疎開し、大石田の名家の離れに住んだ。その時、茂吉六十三歳。妻子と離れての独居で病気をしたりもしているが、上下二部屋ずつある家で、光太郎の小屋とは比ぶべくもなかった。また、結城哀草果とか板垣家子夫とか、地元の歌の弟子が献身的に世話をしている。

光太郎も太田村の山小屋に入る前は、花巻町の佐藤隆房邸に厄介になっており、佐藤や宮沢賢治実弟の清六らが献身的に世話してくれていました。その生活を続けなかったところにも光太郎の偉さがあるというわけですね。

おそらく光太郎は登場しないとは思われますが……。

偉人の年収 How much? 歌人 与謝野晶子

NHK Eテレ 2024年1月8日(月) 19:30~20:00 

教科書に載るような偉人たちはいくら稼いでいたの?お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる!今回は「情熱の歌人」与謝野晶子の素顔に迫ります。

愛の歌集「みだれ髪」で衝撃的にデビューした与謝野晶子。初めての収入は何に使った?夫・与謝野鉄幹のヨーロッパ留学を実現するための費用4000万円(現在価値)を用意するため、晶子が始めたこととは?大正時代には男女の意識の変革を訴え、昭和になるとあることに打ち込んだ晶子。鉄幹死後の晩年の年収は?グローバルな視点でいまの私たちにも訴えかけてくる与謝野晶子の姿を今野浩喜が演じ、谷原章介、山崎怜奈と語り合う。

出演者 【司会】谷原章介 山崎怜奈 【出演】今野浩喜
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昨年からレギュラー放映されている番組で、上記番組紹介欄にあるとおり「お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる」というコンセプトです。

何度か拝見しましたが、当方事務所兼自宅のある千葉県香取市の偉人・伊能忠敬の回や、当方がある意味光太郎以上に尊敬する土方歳三の回などは、特に興味深いものでした。

毎回、再現V的な中で今野浩喜さんがそれぞれの偉人に扮し、スタジオのMC谷原章介さんと山崎怜奈さんに突っ込まれるという作り。今回も今野さんが与謝野晶子を無理くり演じられます。
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晶子の夫・鉄幹与謝野寛は、本格的に文学的活動を始めた頃の光太郎の師。晶子も光太郎の姉貴分といった立ち位置でした。そこで「夫・与謝野鉄幹のヨーロッパ留学を実現するための費用4000万円(現在価値)を用意」には光太郎も関わります。明治44年(1911)のことです。

その費用の捻出のため、晶子は自作の短歌百首を散らし書きした「百首屏風」を複数制作して販売しました。それ以外に、光太郎が絵を描き、晶子が短歌を揮毫した屏風も作られました。下記は阪急グループの創始者・小林一三の旧蔵品。
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また、後から晶子も寛を追って渡欧しますが、その際、寛から晶子への指示は「あなた一人で来るのは無理だろうから光太郎君についてきてもらいなさい」。さすがに光太郎の随伴は実現しませんでしたが。

その後も与謝野夫妻と光太郎の交流は続き、不即不離の関係でした。現在確認できている光太郎生涯最後の短歌にも晶子が詠われました。

十和田湖に泛びてわれの言葉なし晶子きたりて百首うた詠め

昭和27年(1952)、彫刻家としての生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため、十和田湖に遊んだ際の詠です。「泛びて」は「うかびて」と読みます。寛は昭和10年(1935)、晶子も昭和17年(1942)、既に亡くなっているのですが。

そんなわけで、番組内でちらっとでも光太郎に触れられるとありがたいのですが……。ともあれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

お約束してゐた「海にして」の揮毫、硯が凍って書けませんでしたが、この二三日時候ゆるみ、雪もとけはじめました位、今日悪筆をふるひましたので別封でお送りしました。


昭和21年(1946)3月25日 岡崎清一郎宛書簡より 光太郎64歳

「海にして」は明治39年(1906)、光太郎が渡米の折に船中で詠んだ短歌です。

海にして太古の民のおどろきをわれ再びす大空のもと

光太郎自身は、「此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屡〻(しばしば)揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。」(「ある日の日記」雑誌『キング』第5巻第9号 昭和4年=1929)と書いています。

古美術・骨董愛好家対象の雑誌『小さな蕾』さん最新号の2024年2月号
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巻頭特集が「骨董を楽しむ 再再訪K氏コレクション」全28ページ。「K氏」というのは、記事自体を執筆なさっている古美術愛好家・加瀬礼二氏という方のようです。

古陶磁が中心ですが、光太郎の父・光雲の作も2点。
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まず、鋳金にして量産したと思われるレリーフの原型「因陀羅大将」。おそらく石膏でしょう。裏面には見覚えのある光雲の筆跡で「大正六年一月二日 試作」と書かれています。因陀羅大将は薬師如来十二神将の一柱で、元々インドの土俗信仰の神だったものが仏教に取り入れられたものです。十二、というわけで他の神将ともども方角や年月日などの干支に割り振られ、因陀羅大将は「巳」の担当です。

もう一点、こちらはブロンズで「聖徳太子孝養立像」。
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何が「孝養」かというと、父・用明天皇の病気平癒を祈願するお姿、というわけです。こちらもある意味伝統的な図題で、聖徳太子信仰とともに昔から作られ続けてきたモチーフです。

光雲も好んだというか、注文されることが多かったようで、木彫による複数の作例が確認できています。令和3年(2021)にはテレビ東京さん系の「開運!なんでも鑑定団」に木彫の像が登場、1,500万円の鑑定額がつきました。
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人気の図題と言うことで、ブロンズに写されたものが販売されています。現代の鋳造であればさほどの値段にはなりませんが、光雲生前に、光太郎実弟にして光雲の三男・豊周が鋳造を手がけたものであれば、そこそこの値がつくものです。『小さな蕾』さん掲載のものは大正9年(1920)、豊周鋳造だそうで、まさにこのタイプのものですね。

ちなみに筆者の加瀬礼二氏、令和3年(2021)9月号の同誌にも「高村光雲 聖徳太子像」という記事を寄稿され、他のタイプのブロンズ聖徳太子像をご紹介下さいました。

というわけで、『小さな蕾』2月号、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨日は猛烈な吹雪で二丁も歩けないほどでした。もうもうとけむるやうな雪の粉が風景をまつたくかき消してしまひました。開墾にもまだ手がつきません。

昭和21年(1946)3月16日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎64歳

いわゆる地吹雪というやつですね。前年秋から独居生活を始めた花巻郊外旧太田村、3月半ばでもこうなのか、と、新鮮な驚きだったようです。

昨秋から始まっている展示です。年末年始休館が明けて今日再開します。

コレクション展 衣裳は語る──映画衣裳デザイナー・柳生悦子の仕事

期 日 : 2023年10月7日(土)~2024年3月31日(日)
会 場 : 世田谷文学館 東京都世田谷区南烏山1-10-10
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 毎週月曜日 1月8日(月・祝)、2月12日(月・祝)は開館、翌日休館
料 金 : 一般 200円 大学・高校生 150円 65歳以上・小中学生 100円

 1950年代から80年代まで、数々の映画で衣裳デザインを担当した柳生悦子(やぎゅう・えつこ 1929~2020)。舞台衣裳デザインの道を志していた柳生は東京美術学校在学中から映画美術監督・松山崇に師事、美術助手として映画制作に携わります。『ロマンス娘』(東宝 1956年)で映画衣裳を手がけるようになり、以降「三人娘」「若大将」「社長」「クレージー」ものなどの東宝の人気シリーズから音楽映画、文芸作品、時代劇、戦争、SF映画などあらゆるジャンルの映画衣裳デザイナーとして活躍していきます。85年の『Mishima』(日米合作映画・日本未公開)、88年の『敦煌』(大映・電通)まで作品数は100本以上に上ります。
 現在でこそ映像作品におけるコスチューム・デザインは作品を成り立たせる重要な要素として認識されていますが、柳生がキャリアをスタートした1950年代から60年代の映画界はモノクロからカラー、ワイド画面への転換期と軌を一にし、登場人物たちの色調やスタイルを全体バランスの中で考える専門職としての衣裳デザイナーの必要性がようやく認められはじめた時期でもありました。柳生は手さぐりの中で、映画全体と調和する「グッド・デザイン」とは何かを追求し続けました。
 世田谷文学館は柳生の生前、約3000点に及ぶデザイン画の寄贈を受けました。本展は、歳月を経てなお色彩鮮やかなデザイン画の数々を中心に構成し、映画衣裳デザイナーのパイオニア・柳生悦子の仕事をご紹介いたします。約400点の衣裳デザイン画を閲覧できるデジタル展示とともにお楽しみください。
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昨年末にX(旧ツイッター)世田谷文学館さんの公式アカウントに出た投稿で、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」岩下志麻さんが演じられた智恵子役の衣裳に関する展示も為されているということを知った次第です。
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手許の資料とつつきあわせてみますと、何点かは「ああ、このシーンでの衣裳か」という感じでした。
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ちなみに光太郎役は丹波哲郎さんでした。
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改めてお着物をよく見てみますと、意外と凝った柄になっていますね。しかしそれが違和感を感じさせず、非常に自然です。柳生さんという方、存じませんでしたが、いい仕事をなさっていましたね。
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ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

苦しめる間は必ず進みます。これでもういいと思つた時はお仕舞です。


昭和21年(1946)3月19日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

なるほど。

元日には能登半島での大地震、昨日は羽田空港での事故と、大変な幕開けになってしまった2024年です。亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したく存じます。

こんな時こそ神仏のご加護にすがり、心落ちつけたいものです。今年は辰年ということで、龍神様。台東区の浅草寺さんお水舎に鎮座まします、光太郎の父・光雲作の「沙竭羅龍王像」が注目されています。

昨年12月28日(木)の『東京新聞』さん。「想像膨らむ「辰」の由来 干支で唯一架空の生き物」という記事で取り上げて下さいました。

想像膨らむ「辰」の由来 干支で唯一架空の生き物

008 来年の干支(えと)は「辰(たつ)」。龍(竜)とも解せられ、十二支の中では唯一、想像上の生き物だ。辰が干支の一つに選ばれた理由を探るとともに、龍が祀(まつ)られている都内の寺社を訪ねた。

◆干支の起源は天体 農耕始める目安に
 なぜ干支に辰(龍)が入ったか。ワニが転じて龍になったとか、インドの教典が起源など諸説あるが、天体からとられたと天文学者の新城(しんじょう)新蔵(1873~1938年)が説いている。新城は宇宙物理学を専門としたが、中国天文学の権威でもあり、戦前に京都帝国大学総長も務めた人物。
 新城は「東洋天文学史大綱」に「古代中国では農作業を行う暦に恒星の『大火』を用いた。大火とは、さそり座のアンタレス」「殷(いん)の時代は大火を『辰』と呼び、守護神扱いした」と記す。十二支を制定する際に5番目が辰となったのは「大火が五月の星だから」という。さそり座は夏の星座で、赤く目立つアンタレスは農耕を始めるのに良い目安になったと想像できる。
 今の時期は、夜空にアンタレスを見ることはできない。多摩六都科学館(西東京市)にお願いして世界最大級のプラネタリウムにさそり座を投影してもらった。南の空、天の川付近に輝く。「アンタレスはさそりの心臓あたり」と天文グループリーダーの齋藤正晴さん。
 中国の星座ではおとめ座、てんびん座、さそり座、いて座にかけての領域を四神獣の青龍に見立てており、辰の星があるから龍に置き換わっていったのではないだろうか。

◆田無神社に5龍神
 龍の神社といえば、西武新宿線・田無駅の近くにある田無神社(西東京市)だ。「鎌倉時代の創建以来、祭神の級津彦命(しなつひこのみこと)・級戸辺命(しなとべのみこと)は龍神として祀っている」と賀陽(かや)智之宮司。現在は五行思想に基づいて本殿内に金龍、境内各所に黒龍、白龍、赤龍、青龍が配され、五龍神として信仰されている。
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    青梅街道に面した南側の一の鳥居をくぐると、すぐ右に赤龍がある。参道を進んで二の鳥居の西に白龍、本殿・拝殿の東に青龍、北参道わきには黒龍が置かれている。
   中国の神話にある四神獣は東が青龍、南が朱雀(すざく)、西が白虎(びゃっこ)、北が玄武だが、田無神社ではいずれも龍だ。金龍は拝観することはできないが、おみくじの入った置物には金龍もある。

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 本殿・拝殿には龍の彫刻が施されている。境内にはイチョウの木が立ち並び、参拝者の中には手を触れて祈る人も。神木「龍木」として親しまれているようだ。
 田無神社にはこんなエピソードもある。作家の五木寛之さんが早稲田大に入った1952年の春から夏にかけ、この神社の床下をねぐらにしていたというのだ。五木さんは「あちこちの神社にお世話になった」のだが「最も快適だったのは田無神社の床下である」と雑誌の随想に書いている。

◆金龍出現で松林1000株 浅草寺の山号に
 龍と縁の深い寺といえば浅草寺(台東区)。東京最古といわれているこの寺の山号は金龍山という。飛鳥時代の628年、隅田川から本尊の観音様が現れた時、金龍が天空から舞い降り、一夜で千株の松林ができあがったという縁起がある。春と秋に奉納される「金龍の舞」の由来だ。
  最初に龍がいるのは雷門。赤い大ちょうちんの底に木彫りの龍が施されている。雷門の南側には風神像と雷神像、北側には龍神像2体が奉安されている。門の正式名称は「風雷神門」だが、江戸時代後期にはすでに雷門と呼ばれるようになった。
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  仲見世を抜けて宝蔵門へ。「小舟町」と記された赤ちょうちんの底にも木彫りの龍がいる。本堂に向かう手前東側のお水舎(みずや)では高村光雲作の龍神像が立ち、足元では龍の口から水が注がれている。天井には東韶光(あずましょうこう)が描いた「墨絵の龍」がにらみをきかせる。
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 本堂の天井にも川端龍子の「龍之図」があったが今年7月に剝落してしまい、現在は高精細の複製画が掲示されている。

雑誌『家庭画報』さんの新春特大号でも。
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特集「辰年の開運祈願 龍神絶景を行く」の中の「あなたの町にも龍はいる!日本全国の社寺建築に息づく龍の傑作選」という記事です。

●浅草寺(東京都) 都内最古の寺院で神像を囲む8体の龍

約1400年前、今の隅田川で聖観世音菩薩の像が、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の投網にかかったことを由緒に持つ「浅草寺」。御水舎には明治から大正にかけて活躍した彫刻家・高村光雲作の龍神像を据え、その周りを8体の龍が囲む。天井にも「墨絵の龍」が描かれている。
浅草寺 住所:東京都台東区浅草2-3-1 TEL:03(3842)0181
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開運・招福にご利益のあるとされる龍神様。年明け早々の暗雲を祓っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

明日は小生の誕生日なので、取つて置いた少しばかりの小豆を煮て明朝は赤飯を祝ふつもりです。

昭和21年(1946)3月12日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

この項、慣例により光太郎の年齢は数え年で記載していますので食い違いますが、翌13日は満63歳の誕生日でした。日記によれば、朝のうちに近くの分教場の先生が用事で訪ねてきた以外は訪問者もなく、一人で祝う誕生日でした。

まずは昨日の能登半島を震源とする地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。

昨日の元旦は、例年通り九十九里浜に初日の出を拝みに行きました。以前は智恵子が療養していた現・九十九里町まで足を延ばしておりましたが、やはり少し遠いということもあり、ここ3年は隣町の旭市で拝観。同じ九十九里浜の一部ではあります。

旭市と言えば、平成23年(2011)の東日本大震災時には津波が発生、全壊家屋300戸以上、半壊も約1,000戸、確認されているだけで14名の尊い命が犠牲となり、2名の方はいまだ行方不明です。
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下の方の赤枠で囲まれている部分が、90年前に智恵子が療養し、週に一度は光太郎が訪れていた現・九十九里町です。当方自宅兼事務所のある香取市は右上の方。

午前6時過ぎ、旭市の海岸に到着。一昨日の大晦日は夜になっても雨がぱらついており、どうかと思っていたのですがまずまずの好天でした。
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右手に目をやると、かつて智恵子が居た九十九里町方面。
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昨年の正月飾り等を持参、それを焚き付けにして、あとは流木を集め、焚き火。令和6年(2024)の迎え火としました。
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波乗り初めのサーファーさんたち。小学生くらいの少年もいました。
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6時45分頃、水平線から太陽。
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10年以上九十九里浜で初日の出を拝んできましたが、いつも水平線上に雲がかかっていて、水平線から上る太陽を見たのは今年が初めてでした。

ちなみに左下は一昨年、右下は昨年の初日の出です。
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いつもこんなふうに雲の上から日が昇る、という感じだったのが、今年は水平線からのご来光で、驚きました。もっとも、やはり雲があっていったん隠れてしまいましたが。
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波打ち際に鳥がいて、智恵子の友達だった千鳥かと思ったので近づいてみましたが、どうやら鷗のようでした。

やがて雲の上に太陽。
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令和6年も光太郎智恵子の世界が盛り上がることを祈念し、手を合わせました。

それにしても、13年前にこの海が牙を剥いたことなどほぼほぼ忘れていましたが、昨日のニュース映像で改めて地震の恐ろしさを再認識しました。身を引き締めて今年1年を過ごそう、と思う次第です。

【折々のことば・光太郎】

此処へ来てからお風呂にはまだ一度も入りません。しかし湯を沸して時々からだ拭きをやり、下着もとりかへて洗濯をちよいちよいやります。

昭和21年(1946)3月7日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で暮らし初めて約5ヶ月。小屋には風呂がありませんでした。のちに見かねた村人たちが風呂を作ってやりますが、大量の薪が必要で効率が悪く、結局あまり使いませんでした。その代わり、落ちついてからは大沢温泉さんなどに足繁く通うようになります。

2024年となりました。あけましておめでとうございます。
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個人としては喪中でして、個人の皆さんへの賀状は欠礼させていただきましたが、高村光太郎連翹忌運営委員会として法人各位には上記の賀状を送らせていただきました。
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画像は光太郎詩「龍」(昭和3年=1928)、光太郎が手許に残した自筆原稿です。詩は以下の通り。

     
 
 一天の黒雲を咄嗟に破り、
 大洋の波を漏斗(じやうご)に吸ひあげ、
 あんたんたる熱帯の島かげに、
 ぎりぎりとまき起す水の柱を
 斜に光るは爪、
 縦につんざくは
 尾端の剣、
 眼を射る火花の
 一瞬、
 海底を干して、
 洞穴にへうへうの風をよび、
 気圧の鬱血に
 暴烈の針をさし、009
 たちまち見え、たちまち隠れ、
 天然の素中に
 清涼無敵の秩序を
 投げて
 天上する波、
 龍。


連作詩「猛獣篇」の一篇として書かれ、雑誌『草』第六号に掲載されました。

アナーキストやプロレタリア文学者達と近い位置にいた頃の作品だけに、世俗に馴れず、孤高の位置を保とうという意志を、天上に駆け上がる龍に託して謳いあげた一篇です。一時期の光太郎詩の真骨頂とも言えるでしょう。

さて、昨年は光太郎生誕140周年でしたが、令和6年(2024)はどんな「周年」かをご紹介します。

150年前 明治7年(1874) 光太郎生誕前 光太郎の父、光雲が11年の奉公を終え、「光雲」の名を許され独立しました。

130年前 明治27年(1894) 光太郎12歳 シカゴ万博で光雲の木彫「老猿」が優等賞を受賞しました。
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120年前 明治37年)(1904) 光太郎22歳 イギリスの美術雑誌『ステュデイオ』でロダンの「考える人」の写真を初めて見、衝撃を受けました。
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110年前 大正3年(1914) 光太郎32歳 10月、第一詩集『道程』を刊行しました。12月には長沼智恵子と上野精養軒にて結婚披露を行いました(入籍はずっと後、昭和8年=1933)。
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100年前 大正13年(1924) 光太郎42歳 連作詩「猛獣篇」の第一作「清廉」を書きました。

90年前 昭和9年(1934) 光太郎52歳 5月から12月、心を病んだ智恵子が九十九里浜に移っていた母・セン、妹・セツの元で療養生活を送りました。10月、父・光雲が没しました。同じ月、前年に没した宮沢賢治の作品を集めた文圃堂版『宮沢賢治全集』全三巻が刊行され、その装幀、編集にあたりました。
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80年前 昭和19年(1944) 光太郎62歳 光太郎の黒歴史、三種類刊行したうちの最後の翼賛詩集『記録』を刊行しました。

70年前 昭和29年(1954) 光太郎72歳 ブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館さん)が「美術映画 高村光太郎」を制作、公開しました。
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特筆すべきは大正3年(1914)の、詩集『道程』刊行及び智恵子との結婚披露110周年でしょうか。110周年というのがちょっと半端ですが。ちょうど100周年ということであれば、連作詩「猛獣篇」。そのあたりにからむ企画展示等、どこかでやっていただければ幸いなのですが……。

さてさて、今年はどういうとしになりますやらですが、今年も変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

こちらはまだまつたく雪に埋れてゐます。木の芽もまだ堅く草木の冬眠はまださめません。


昭和21年(1946)3月3日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

立春を過ぎて1ヶ月ですが、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)はこういう状況でした。3月でこういう状況というのは予想していなかったようです。

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