2023年09月

新聞各紙で光太郎ゆかりの人物およびそのご子孫が取り上げられたりし、光太郎の名も出ることが相次いでいる三回目、亡くなられたお父さまが光太郎と交流がおありだった、劇作家・女優の渡辺えりさんです。

えりさん地元の『山形新聞』さん。

渡辺えりのちょっとブレーク (220)演劇を続け、訴える平和 舞台「ガラスの動物園」の稽古が始まった。

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005 ローラ役の吉岡里帆さんとは、この日が初対面。ローラ役にぴったりだと思い、私が手紙を出して実現したキャスティングだ。芯が強く純粋でまっすぐなイメージ。会ってみると私が想像していた通りの、まじめで細やかな方だった。ジム役の和田琢磨さん(山形市出身)は先日、私の母校の山形西高演劇部とのワークショップに参加していただいた。山形県民特有の純朴で礼儀正しい気質の方で、信頼できると思った。
 トム役の尾上松也さんはまだ10代の頃、私が歌舞伎を演出した際に出演していただいた。その後、ミュージカル「狸御殿」で親子役で共演した。その時の舞台美術は、山形市出身の絵本作家荒井良二さんだった。
 尾上さんとは、コロナ禍の2020年、本多劇場で2人芝居を上演した。「ガラスの動物園」の後日談「消えなさいローラ」で、探偵役を演じていただいた。尾上さんがテレビドラマ「半沢直樹」の撮影で忙しい最中、午前9時からの稽古を1週間という無謀なスケジュールで行った。緊急事態の公演が大好評で、「こうなったら本編もやろう!」と誓い合った企画が、今回の2本立て公演である。
 私が山形県民会館で文学座の「ガラスの動物園」を見たのは、1971(昭和46)年11月19日の夜、16歳の時だった。その日の昼間は、全共闘の火炎瓶で東京・日比谷公園の松本楼が全焼した。そして、71年は前年の11月に自決した三島由紀夫の葬式があった年だ。
 ベトナム戦争が終わったのは75年。反戦活動が続き、アメリカとの安保条約や地位協定に対する不安と不満が爆発し、日本人のアイデンティティーを問う活動が盛んになっていた時代であった。
 そんな中で見た「ガラスの動物園」のローラは私自身と重なり、世の中の常識と保身で縛ろうとする母親は自分の母と重なった。号泣したまま、席からしばらく立ち上がれなかった。
 公演後、西高演劇部の先輩に誘われ、アポなしで楽屋へ行った。トム役の江守徹さんは何事もなかったようにボテ(張りぼて)をトラックに運び、ジム役の高橋悦史さんは楽屋をほうきで掃いていた。「長岡輝子先生の楽屋はどちらですか?」と先輩が尋ねると、案内してくださった。
 アマンダ役で演出も手がけた長岡さんとローラ役の寺田路恵さんは、同じ楽屋にいらした。先輩は、役者を目指すための方法や覚悟などさまざまな質問をした。長岡さんは、宿泊していた八洋館までの移動を含めて1時間余りも付き合ってくださった。
 あの日の出会いがなければ、私はこうして演劇を志すことはなかった。
 あの日から52年。ともに楽屋を訪ねた先輩は突然の病で異界に旅立った。高村光太郎と智恵子がよく2人で食事していた松本楼の全焼に胸を痛めていた父も、昨年亡くなった。今回の舞台は、11月23日に山形市でも上演する。新しいやまぎん県民ホールで長年の夢がかなう。
 「ガラスの動物園」の時代設定は37年4月26日。ナチスと手を組んだフランコ将軍によるゲルニカの絨毯(じゅうたん)爆撃があった日だ。国際法を破った初めての攻撃とも言われる。その庶民を狙った無差別攻撃は、のちの広島、長崎の原爆投下へとつながっていった。時代は繰り返し、ウクライナ戦争は終わらない。戦争の残酷さは今もまだ止められない。私にできるのは、諦めずに演劇を続けて平和を訴えることしかない。
(俳優・劇作家、山形市出身)

舞台「ガラスの動物園」は、アメリカの劇作家、テネシー・ウィリアムズが昭和19年(1944)に書いた戯曲です。世界全体が閉塞的状況だったともいえる1930年代後半のセントルイスを舞台に、アメリカ下層階級一家の日常を描いています。

日本でも繰り返し舞台化されていて、昭和46年(1971)、文学座の長岡輝子さん、江守徹さん、高橋悦治さんによる公演をご覧になったえりさんの、演劇の道を志すきっかけになった作品だそうです。

その「ガラスの動物園」と、後日譚である「消えなさいローラ」の二本立てを、吉岡里帆さん、尾上松也さん、和田琢磨さんで上演とのこと。演出はえりさんです。
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えりさんが山形で「ガラスの動物園」をご覧になった日、東京日比谷公園ではいわゆる日比谷暴動事件が起こり、沖縄返還闘争の学生デモ隊によって、連翹忌会場として使わせていただいてる(当時は違いましたが)日比谷松本楼さんが焼け落ちました。

松本楼さんは、光太郎や木下杢太郎・北原白秋等による芸術至上主義運動「パンの会」会場としても使われたり、明治末には光太郎智恵子が訪れてアイスクリームを食べたりといった記録が残っています。

アイスクリームの件は新潮文庫版『智恵子抄』(昭和31年=1956)に掲載(オリジナル『智恵子抄』には無し)されている詩「涙」に書かれており、光太郎と交流のおありだったえりさんのお父さま、「あの松本楼が……」というわけだったのでしょう。

ちなみに地上波テレビ朝日さんで昨日放映されていた「午後もじゅん散歩」。平成30年(2018)放映の回を編集し直したものだそうでしたが、高田純次さんが信州善光寺さんに行かれるというので拝見しました。
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光太郎の父・光雲の名は出ませんでしたが、光雲とその高弟・米原雲海による仁王像が納められた仁王門。

で、この番組、後半はテレビ通販です。すると、松本楼さん。驚きました。
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しかも、ゆかりの文人ということで、漱石と光太郎。
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通販で扱った商品は、松本楼さんのデミグラスハンバーグとビーフシチューを冷凍食品にしたものでした。
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ところで、過日、えりさんから突然電話が掛かってきまして(いつものことですが(笑))「今、エッセイ書いてるんだけど、昭和46年に松本楼さんが焼けた経緯、わかる?」。当方も焼けたことは存じていましたが、詳しいいきさつまでは存じませんでした。それどころか焼けたのが二度目というのは存じていたものの、一度目は明治38年(1905)の日比谷焼き討ち事件と思い込んでいて、実は大正12年(1923)の関東大震災だったという有様。汗顔の至りです。

閑話休題、演劇を通して平和の尊さを訴え続けられているえりさん、今後ともご活躍なさるを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子の三回忌が近づきました。五日は今年は防空訓練最終の日にあたるので十日にのばして法事をします、今年は父の七回忌にもあたりますから丁度一緒に父の命日に営むわけです、 満二年たつたのですが、まだ昨日のやうに思はれます。


昭和15年(1940)9月30日 長沼セン宛書簡より 光太郎58歳

太平洋戦争開戦までは未だ1年以上間があるのですが、「防空訓練」。光太郎の周辺もだいぶきな臭くなっていました。

昨日のこのブログで書きましたが、このところ、新聞各紙で光太郎ゆかりの人物およびそのご子孫が取り上げられたりし、光太郎の名も出ることが相次いでいます。

今日は、宮沢賢治令弟にして光太郎と交流の深かった故・宮沢清六氏令孫・宮沢和樹氏。『朝日新聞』さん岩手版から。

賢治を語る 没後90年 切ない願い「雨ニモマケズ」 「林風舎」代表・宮沢和樹さん

 北東北の詩人・宮沢賢治が亡くなって21日で90年になった。賢治の代表作の一つとなった「雨ニモマケズ」の詩にはどのような思いが込められていたのか。彼の死後、多くの作品を世に送り出した賢治の実弟・清六さんの孫で、賢治のゆかりの品や肖像などを保護する「林風舎」(花巻市)の代表、宮沢和樹さん(59)に聞いた。008

――祖父の清六さんは、どのような人物でしたか?
 賢治と年が八つ離れていましたが、妹トシと並んで、賢治の最も良き理解者でした。
 賢治は多くの作品を世に残しましたが、生前刊行できたのは詩集「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」の2冊だけです。賢治の作品のほとんどは死後、祖父の手を通して発表されました。童話にしてはやや難解ですので、最初はどの出版社からも相手にされませんでしたが、尊敬する兄の作品を世に送り出すことを、祖父はどこか自分の使命のように考えていました。

――詩人・高村光太郎も賢治を評価していました。
 当時、すでに詩人として成功を収めていた光太郎は、賢治と生前に一度面会し、その作品を「自分の作品よりも後世に残るものになるかもしれない」と高く評価していました。賢治の死後に刊行された全集の題字は、光太郎によるものです。
 戦争中、東京のアトリエが空襲で焼かれた光太郎は、疎開先として賢治の実家に身を寄せます。その際、清六は光太郎から「念のために防空壕(ごう)を作り、あらかじめ大切な物を避難させておいた方がいい」と助言され、賢治の原稿や資料を防空壕と土蔵の二つに分けて避難させました。結果、1945年8月10日に空襲が花巻を襲い、賢治の実家は焼けてしまいましたが、作品は奇跡的に残すことができました。

――花巻には「雨ニモマケズ」の詩碑があります。
 賢治の没後3年目の36年秋に建てられた最初の詩碑で、毎年賢治の命日には詩碑の前で「賢治祭」が開かれます。
 碑文は「雨ニモマケズ」が選ばれましたが、長いために後半部だけが刻まれました。
 碑文の字は光太郎によるものです。実は届いた文面には誤りがありましたが、高名な詩人の字であるため、そのまま刻印されました。その後、光太郎が誤りを正すために追刻を施し、世にも珍しい「直しの跡が見える詩碑」になっています。

――「雨ニモマケズ」で、清六さんが考えていたことは?
 「雨ニモマケズ」は、賢治が作品として残したものではなく、死の約2年前に病床で手帳に書いたものでした。
 そこには「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ」という文がありますが、祖父は常々、「この『行ッテ』が大事なのだ」と話していました。
 自分が実際に動くことが大事なのだ、そしてそれは、病床にいて自分では動くことのできない、賢治の切ない願いではなかったか、と。
 作品を通じて、賢治の願いや夢みた世界が、多くの人に伝わっていくことを願っています。


こうしたお話、氏のご著書『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』(令和3年=2021 ソレイユ出版)などにも記されていますし、今年2月、光太郎がかつて暮らした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん主催で行われた氏と当方の公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」などでも語られました。

過日も書きましたが、その公開対談が好評だったということで第2弾が11月1日(水)、宮沢賢治イーハトーブ館ホール行われます。今回はさらに生前の光太郎をご存じの方々などにもパネラーとなっていただき、当方がコーディネーターとしてお話を伺います。

昨日、フライヤーその他が届きました。
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詳細はまたのちほどご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生の過去を知るべき詩集は“道程”一冊しかなく、それが絶版になつてゐて不便なので文献上再版して置くべきだといふ事になるのでせう、これは拒否するいはれが無いやうです、それであなたの編輯といふ條件で再版を承諾します、

昭和15年(1940)8月8日 三ツ村繁蔵宛書簡より 光太郎58歳

この年11月、三ツ村の山雅房から刊行された『道程改訂版』に関わります。大正3年(1914)の初版『道程』をベースにしていますが、削除した詩篇もあり、その後の詩篇も多数追加、『道程』とはいいうものの、別の詩集というべきものでした。

11月には「150部限定版」、通常の「書店版」が同時に刊行され、翌年には「普及版」。こちらは昭和18年(1943)の9刷まで版を重ねました。昭和17年(1942)にはこれにより昭和16年度の第一回帝国芸術院賞受賞。

どうも戦時下における文化人代表の一人として光太郎を引っぱり出すため、実績を積ませようとする軍部や大政翼賛会(8月の時点では準備段階で、未だ正式に発足していませんが)の意図が、出版そのものの裏側に透けて見えます。

このところ、新聞各紙で光太郎ゆかりの人物およびそのご子孫が取り上げられたりし、光太郎の名も出ることが相次いでいます。

まず、光太郎と交流のあった彫刻家・舟越保武の息女にして、光太郎に名付け親になってもらった絵本編集者・末盛千枝子さん。

『中日新聞』さんおよび系列の『東京新聞』さんから。

被災地の子どもに絵本を届けて10年 編集者・末盛千枝子さんの思い「何もしなかったら、美智子さまに会わせる顔がない」

009 絵本編集者の末盛千枝子さん(82)は、まど・みちおさんの詩を上皇后美智子さまが英訳した本など話題作を世に送り出してきた。2010年に岩手県八幡平市に移住。1年もたたないうちに東日本大震災が発生し、被災地の子どもたちに絵本を届ける「3.11絵本プロジェクトいわて」に10年間、取り組んできた。絵本への思いや震災後について聞いた。

「あったー」喜んだ子がいとしくて
―「3.11絵本プロジェクトいわて」を10年間、続けられました。
 子どもたちは本当にけなげでしたよね。震災後、保育園のおやつの時間に伺ったことがあったのですが、同じテーブルでおやつを食べていた男の子が「おまえのおじいさん大丈夫だったの?」「大丈夫だった」「良かったね」なんて会話をしていました。それが3歳、4歳の子どもの会話なのよね。ぼうぜんとするような感じでした。
 高台にある保育園では、津波で流された家などが逆流してきたのが見えたりしたらしいのね。子どもによっては、自分の家が流されたりしたのを見た子もいました。
 持っていった絵本から、自分の好きな本を見つけてそれ持って帰っていいからねって言ったら、子どもたちがわれ先にと探していた。
 最後の最後まで探している男の子がいて、「あったー」って喜んで持って帰りました。きっと自分の家か保育園にあった好きな本が、流されて探していたんだと思うんですよね。本当にちょっといとしい感じがしてね。私も同じ本を注文して、その子の思い出に持っています。

 ―岩手に移住されて1年もたたないうちに3.11でした。運命のようなものを感じましたか。
 なんか本当に不思議でしたよね。移住して1年目ですから。友人に「神様があなたに、北の海で一緒に働いてくれっておっしゃったんじゃない」と言われて、そのときはうれしい言葉に涙が出ましたね。移住してすぐで、最初は友達がいないような感じだったのに、活動を通じて今は友達がこちらでもたくさんできました。毎月、お金を送ってくれる友達もいて本当にありがたかったですね。

美智子さまは毎月のように絵本を…
―プロジェクトには美智子さまからも絵本が届けられました。
 プロジェクトを始めたのは、岩手にいるのに私がここで何もしなかったら美智子さまに会わせる顔がない、という思いもありました。
 美智子さまは毎月のように絵本を送ってくださった。2、3年たったときだったかしら、「私の手元にある絵本の原画をお貸しするから展示してみてもらってくださる?」というご連絡もいただきました。美智子さまも、みんなと一緒に活動しているという思いがおありだったと思います。折に触れてお電話をいただきます。

―3.11から十数年が経過しました。
 陸前高田の友達の話が忘れられません。信号のある交差点を車で運転していたら、信号が青になったのに前の車が止まったまま動かない。後ろで待っている人たちが運転している人に対して「もう青になっているよ」と言うと、運転している人は「いくら青になったって人がたくさん渡っているから行けないだろう」って。もちろん実際には誰もいないんだけど、そういう話がいっぱいあるのだと。なんだかとっても切なかったですね。
 大船渡の避難所になっていた体育館で、砂の中に小さなぬいぐるみが埋まっていたのを見つけました。小さい子が持って逃げ込んだに違いないと思いました。
 砂を払うと、ピンクとブルーの牛のぬいぐるみだったんですよね。うちの子どもが持って歩いていたぬいぐるみを思い出してね。どうしてもそのまま帰れずにバンダナにくるんで持って帰って、しばらく自宅の岩手山の見える窓に置いておいたんですけどね。いつかだれかに返すチャンスがあるかもしれない、と思っていたんですけど、そういうこともなく、まだ家にありますけど。

大人たちにも絵本を見てもらいたい
―今年は「末盛千枝子と舟越家の人々」という展覧会がありました。
 (最初の夫の)末盛憲彦が亡くなる前も絵本の仕事はしてたんだけど、確かにそういえば、彼が亡くなったことによって、彼のしようとしていたことのたいまつを持ち続けたい、と思ったんだったなってあらためて気付きました。
 こんなにたくさん本をつくってきたんだ、ってあらためて自分で思ったのとね、何と言うんだろう、自分では全然意識していなかったけど、大人の人たちにも絵本を見てもらいたい、という思いはもちろんありましたけどね。それがこんなにみんなに受け入れてもらったんだってあらためて思いましたね。子どものためだったらこの程度でいい、というふうにはつくってこなかった、と。

―大人にも絵本を見てもらいたい、というのはどういうことでしょうか。
 忘れられないのは、とても親しかったある方が絵本が好きで、自分の部下が転勤していくときに必ず(絵本作家の)ゴフスタインの絵本をプレゼントしていました。すごくわが意を得たり、と思いましたね。病気だったその方にゴフスタインの「ピアノ調律師」という絵本を送ったら、「人生で自分が好きなことを仕事にできるほど幸せなことがあるかい、というメッセージ、確かに受け取りました」という返事が来てすごくうれしかった。

プーチン大統領に、絵本を届けたい
―千枝子さんというお名前は、お父さまが高村光太郎さんに会いに行ってつけてもらったとか。
 父は高村光太郎さんが訳した本を読んで彫刻家になろうと決めた、と言うんです。「千枝子」という名前の重みから逃げようとしていましたよね、若いときは。だけど今になって、これでよかった、と言える感じがしますけどね。

―ご不幸も経験された。どのように乗り越えてこられたのでしょうか。
 一つには、大変なのは自分だけじゃない、という思い。小さいときからいろいろ大変な人たちを見てくるじゃないですか。子どものときには、中学生ぐらいだったかな、渋谷の駅とかそういうところに傷痍(しょうい)軍人が白い服着てアコーディオンを演奏していましたしね。いろんな人たちがいて、みんなそれぞれが大変なんだということを思っていましたね。
 一番きつかったのは末盛が亡くなったときかもしれない。すっごく優しい人だったんですよ。だからその人が亡くなったということはものすごく大変だったですね。でも皆さんがすごく助けてくださった。

―ロシアのウクライナ侵攻が続いている。絵本には平和への思いも込められていると思いますが、今、何を思われますか。
 無力感ですよね。ウクライナの若い大統領、頑張っているが、だんだんやつれてきている。(美智子さまの講演録の)「橋をかける」はロシア語にも翻訳されています。プーチン大統領に絵本を届けたいぐらいです。

インタビューを終えて
 岩手山を望む、おしゃれなご自宅でインタビューに応じていただいた。部屋のあちこちに絵画などの芸術作品があり、日常に芸術が溶け込んでいた。洗練された絵本を送り出し、震災後の子どもたちにやわらかなまなざしを注ぐ源に、このような暮らしがあるのだと感じた。「3.11絵本プロジェクトいわて」の絵本がどれだけ子どもたちの心の支えになっただろう。
 部下に絵本を送るとは、すてきなエピソードだと思った。大人になってからはあまり絵本に触れてこなかった記者だが、そんな大人に憧れる。幸い、近所に絵本の図書館や絵本専門店がある。今度ゆっくりと訪れてみたい。

末盛千枝子(すえもり・ちえこ)
 1941年、彫刻家・故舟越保武氏の長女として東京で生まれる。4~10歳は保武氏の郷里・盛岡で育つ。NHKディレクターだった末盛憲彦さんと結婚、2人の息子に恵まれたが、結婚11年後に憲彦さんが急死。その後、本格的に編集者として歩み始めた。自ら設立した出版社「すえもりブックス」で、まど・みちおさんの詩を上皇后美智子さまが選・英訳された「THE ANIMALS 『どうぶつたち』」や、講演をまとめた「橋をかける 子供時代の読書の思い出」を手がけた。2010年5月に岩手県八幡平市に移住。今年4~6月に市原湖畔美術館(千葉県市原市)で「末盛千枝子と舟越家の人々」が開催された。著書に「『私』を受け容れて生きる」(新潮社)など。

東日本大震災後の「3.11絵本プロジェクトいわて」のお話を根幹に、今年4~6月に千葉県の市原湖畔美術館さんで開催された「末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―」にも言及されています。

同様のお話などが、NHKカルチャーさんでオンライン配信されます。

絵本という希望 -人の悲しみに寄り添う-

講師 絵本編集者 末盛千枝子

愛する家族の難病、そして突然の別れ―さまざまな困難に幾度も遭いながら、小さな幸せをひとつひとつ数えるように、人生の希望や喜びを本に込めて届け続けてきた末盛千枝子さん。2023月6月、末盛さんのご自宅を訪ね、お話を伺いました。末盛さんからのメッセージをオンデマンド配信でお届けします。008

配信期間 2023年10/1(日)~12/31(日)
受講料(税込み) 3,300円
・本講座は録画済の動画を視聴する講座です。
・録画、録音、第三者との共有は禁止します。
・支払い決済後の解約・キャンセルはできません。
・配布資料はございません。

【講師プロフィール】

1941年、彫刻家の舟越保武と母・道子の長女として東京に生まれる。高村光太郎より「千枝子」と名付けられる。4歳から10歳まで父の郷里・盛岡で過ごす。慶應義塾大学卒業後、絵本の出版社に勤務。「夢であいましょう」等で知られるNHKディレクター末盛憲彦氏と結婚、2児の母になるが、夫の突然死のあと、最初に出した絵本『あさ One  morninng』(G.C.PRESS刊)でボローニャ国際児童図書展グランプリを受賞。ニューヨークタイムズ年間優秀絵本に選出される。1988年、すえもりブックスを立ち上げ、独立。1992年『フランチェスコ』(はらだたけひで作)がエズラ・ジャック・キーツ国際絵本画家最優秀賞受賞。まど・みちおの詩を美智子さまが選・英訳された『どうぶつたち THE ANIMALS』やご講演をまとめた『橋をかける 子ども時代の読書の思い出』など、国内外にわたって良質な作品を出版。1995年、古くからの友人、哲学者の古田暁氏と結婚。2002年から2006年まで国際児童図書評議会(IBBY)の国際理事をつとめ、2014年には名誉会長に選ばれる。2010年に移住した八幡平市で東日本大震災に遭い、それから10年間、被災した子どもたちに絵本を届ける「3.11絵本プロジェクトいわて」の代表を務めた。2022年4月、難病を抱えた上、スポーツ事故で20代に車椅子生活となった長男武彦さんが突然死する。(享年47)

当方、市原湖畔美術館さんでの「末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―」展の関連行事としてのご講演を拝聴して参りました。今回も有意義なお話が伺えると存じます。ぜひお申し込みを。

【折々のことば・光太郎】

昨日アメリカのせき子さんから手がみが来て、同封のてがみを転送するやうにと書いてありましたから、今朝書留便でお送りしました。尚横浜の税関の方から荷物がそちらに届く筈です。

昭和15年(1940)6月28日 長沼セン宛書簡より 光太郎58歳

長沼センは智恵子実母。長沼酒造破産後、智恵子の妹・セツ(五女)夫婦と共に千葉九十九里に移り住み、昭和9年(1934)には心を病んだ智恵子を預かっていました。

「せき子さん」(セキ)は智恵子のすぐ下の妹で二女。智恵子と同じく日本女子大学校に進み、さらに東京女子高等師範を出ましたが、いろいろあって、大正4年(1915)に渡米。彼の地で結婚して武井姓となり、御夫婦で書店を経営していたそうです。

神奈川県鎌倉市から展示及びイベント情報です。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その10

期 日 : 2023年10月6日(金)~11月28日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 : 高村光太郎と尾崎喜八の詩朗読会 11月11日(土) 15:00~
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「あじさい寺」として有名な北鎌倉は明月院さんの裏手にあるカフェ兼ギャラリー「笛」さん。
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ご主人の奥様が、光太郎のすぐ下の妹・しづの令孫にあたられ、お宅には光太郎直筆の書や古写真など、さまざまなものが伝わっています。昨年はNHKさんの「鶴瓶の家族に乾杯 市川猿之助が鎌倉でがんばる人を探す旅&坂道を走る人を叱る」で、笑福亭鶴瓶さんがお店をご訪問なさいました。
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また、すぐご近所に、光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏(サイエンス・アート研究者)もお住まいで、そちらには喜八の関連資料、そして光太郎から喜八の結婚祝い(新婦は光太郎の親友・水野葉舟息女)に贈られたブロンズの「聖母子像」も。
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毎年この時期に、こうした品々の展示をなさっています。昨年の様子はこちら。昨年から関連行事として、光太郎・喜八の詩の朗読会も開かれています。

今年も11月11日(土)に朗読会だそうで、当方、その日にお邪魔するつもりです。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

校歌作曲は弘田龍太郎氏が適当かと思ひます、同君は本郷区向岡弥生町三番地に居ますが木下小学校から直接におたのみになるなら名刺でも送りませうか。作曲料を予め問合せるといいと思ひます。

昭和15年(1940)5月11日 水野葉舟宛書簡より 光太郎58歳

葉舟作詞の校歌に関わります。

弘田龍太郎」は作曲家。大正年間、鈴木三重吉主宰の『赤い鳥』によって展開された童謡運動に共鳴、北原白秋らの作詞による童謡を同誌に相当数発表しました。今日でも歌い継がれている作品としては「靴が鳴る」(大正8年=1919 清水かつら作詞)、「叱られて」(同9年=1920 同)、「雀の学校」(同11年=1922 同)、「春よ来い」(同12年=1923 相馬御風作詞)などがあります。

また、正確な作曲年は不明で、楽譜が刊行された記録も見あたりませんが、昭和18年(1943)12月に日本コロムビア改め日蓄工業株式会社(戦時中の「敵性語追放」によります)から、光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」に弘田が曲を付けた歌曲のレコードがリリースされています。

木下(きおろし)小学校」は、千葉県印西市に現存し、校歌は葉舟の作詞、弘田の作曲です。一帯は当時木下(きおろし)町。葉舟が居住していた遠山村(現・成田市)と同じ印旛郡に属し、おそらく地域の名士・葉舟に校歌作詞、併せて作曲家を紹介してほしい旨の依頼があり、さらに葉舟から光太郎に適当な作曲家は誰かという問い合わせがあったものと思われます。

いわゆる「超絶技巧」系の展覧会で、光太郎の父・光雲の木彫が出ています。

超絶技巧、未来へ 明治工芸とそのDNA

期 日 : 2023年9月12日(火)~11月26日(日)
会 場 : 三井記念美術館 東京都中央区日本橋室町二丁目1番1号 三井本館7階
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(但し9月18日、10月9日は開館)、9月19日(火)、10月10日(火)
料 金 : 一般 1,500(1,300)円 大学・高校生 1,000(900)円
      ( )内団体料金 中学生以下 無料

 三井記念美術館を皮切りに2014年から2015年にかけて全国を巡回した「超絶技巧!明治工芸の粋」展、2017年から2019年に全国巡回した「驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ」展で、多くの人々を魅了した「超絶技巧」シリーズの第3弾。本展では、金属、木、陶磁、漆、ガラス、紙など様々な素材を用い、孤独な環境の中、自らに信じられないほどの負荷をかけ、アスリートのような鍛錬を実践している現代作家17名の作品、64点を紹介します。いずれも単に技巧を駆使するだけでなく、「超絶技巧プラスα」の美意識と並外れたインテリジェンスに裏打ちされた作品をセレクトしました。
 また超絶技巧のルーツでもある七宝、金工、漆工、木彫、陶磁、刺繍絵画などの明治工芸57点もあわせて展覧します。
 明治工芸のDNAを受け継ぎながら、それらを凌駕するような、誰にも真似できないことに挑戦し続ける作家たちの渾身の作品を、ぜひその目でお確かめください。
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メインは現代の作家さんたちによる超細密工芸ですが、そのルーツということで、明治工芸等も出ています。光雲作品は「白衣観音像」。その他、光雲と並び称される石川光明、光雲高弟の一人・米原雲海の作なども。出品目録はこちら
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同展、今年2月から全国巡回が始まっており、三井記念美術館さんで4館めです。

 岐阜県現代陶芸美術館 2023年2月11日(土・祝)〜4月9日(日)【終了】
 長野県立美術館 2023年4月22日(土)〜6月18日(日)【終了】
 あべのハルカス美術館 2023年7月1日(土)〜9月3日(日)【終了】
 富山県水墨美術館 2023年12月8日(金)〜2024年2月4日(日)
 山口県立美術館(予定) 2024年9月12日(木)~11月10日(日)
 山梨県立美術館(予定) 2024年11月20日(水)~2025年1月30日(木)

長野展あたりで光雲作品が出ているらしいという情報を得ていたのですが、詳細が不明でいるうちに失念していました。ひところの「超絶技巧」ブームもだいぶ下火になったような感もあり、これまでの巡回、あまり話題にならなかったような気もしています。

ところで、光雲といえば、当方は拝見しませんでしたが、昨夜、テレビの某人気クイズ番組で光雲の「老猿」が問題に出たそうです。作者名として光雲を問う問題だったようですが(違っていたらすみません)、それに対しX(旧Twitter)上で「難問過ぎる」という御意見と「わかって当然」という御意見と、半々くらいだったでしょうか。個人的には「日本人としてマストの知識でしょ」と思うのですが……。ちなみにその放送中あたりから、そのあおりで当ブログへのアクセス数が跳ね上がりました(笑)。

閑話休題、「超絶技巧、未来へ 明治工芸とそのDNA」。今後の巡回を含め、お近くの会場にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生例の通り光の一字を彫つていただければ仕合に思ひますが、一字分のお礼ではすまない事に存じますゆえ、臨機幾字分かの割になりましてもかまひません、まづはお願まで


昭和15年(1940)5月7日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎58歳

この後、光太郎が終生愛用した「光」一文字の印を、宮崎を通じて中国の画家・書家・篆刻家の斉白石に依頼したことに関わります。昭和20年(1945)には駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が空襲で全焼しますが、この印は彫刻刀などの道具類、智恵子ゆかりの毛布等と共に防空壕に入れて置いて難を逃れたようです。

横浜から、現代アートの展覧会情報を。既に始まってしまっていますが……。

新・今日の作家展2023 ここにいる―Voice of Place

期 日 : 2023年9月16日(土)~10月9日(月・祝)
会 場 : 横浜市民ギャラリー 横浜市西区宮崎町26番地1
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 「新・今日の作家展」は、横浜市民ギャラリーが開館した1964年から40年にわたり開催した「今日の作家展」を継承した展覧会で、同時代の表現を紹介・考察しています。今年度は「ここにいる―Voice of Place」を副題に2名のアーティストを紹介します。
 来田広大は、土地や場所と人との関係を探るため、山等におけるフィールドワークをひとつの拠点としています。そこから臨む風景を地図と捉え、作品に対峙した際「今ここにいる」という自覚を導く、チョークを用いた制作を中心に行っています。古橋まどかは、自身に関わる地域や場所の中にある自然や人工物の変遷や軌跡に着目します。自らの経験との関係性を掘り下げ、リサーチをもとに立体や映像、収集物を用いたインスタレーションを発表してきました。
 私たちはみな、どこかの場所や土地に関係しながら今ここにいます。対人距離や移動に制限のあったコロナ禍を経た今、2名の作品に相対することは、場や土地が内包する時間、人びとや生物の身体や記憶等に思索を巡らせ、自己や他者に対する内的な気づきをもたらすことでしょう。

[出品作家]
来田広大、古橋まどか

※展覧会にあわせて事前収録した作家2名のインタビュー映像をWebおよび会場で公開の予定です。
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出品作家お二人のうち、来田広大氏。「智恵子抄」インスパイアで、令和2年(2020)には福島県いわき市で「来田広大個展「あどけない空」KITA Kodai Solo Exhibition “Candid Sky”」、同3年には都内で「あどけない空#2 The artless sky #2」を開催。後者は拝見して参りました。

その際に出品された映像作品《東京には空がない (Rooftop Drawing)》が、今回も出ているとのことです。
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YouTube上に予告動画。


来田氏へのインタビューも。12:50頃から「あどけない空」として、光太郎智恵子に触れて下さっています。


ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お電話の趣により、執筆をつづけて居りましたがどうしてもまとまりさうもありません。今度はわざわざ御来訪の上のおたのみだつたのに甚だ不本意ですが右御諒承下さい、 今年十月は智恵子の三回忌になりますので出来ればその頃出させていただければ一番気持が済むやうに思はれます。智恵子に話しかけるやうに書けるかと思ひますから。


昭和15年(1940)4月28日 栗本和夫宛書簡より 光太郎58歳

栗本和夫は『婦人公論』編集者。同誌のこの年12月号に載った随筆「智恵子の半生」(原題「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」)に関わります。のち、詩集『智恵子抄』に転載されましたが、いかにも苦しみつつ書き足し書き足ししながら書いたというのがわかる文章です。

10月5日(木)が智恵子の命日「レモンの日」ということで、その故郷、福島県二本松市での顕彰事業もろもろが、今年から「レモン祭」と名付けられました。新しい取り組みも含まれています。

高村智恵子レモン祭

期 日 : 2023年10月5日(木)~11月19日(日)
会 場 : 智恵子生家/智恵子記念館 福島県二本松市油井漆原町35
休 館 : 水曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 大人(高校生以上) 個人:410円 団体:360円
      子供(小・中学生) 個人:210円 団体:150円

■みんなで作るシンメトリー展 ~作製編~
 智恵子も数多く生んだシンメトリー作品を、オリジナルで作成できます。
 作成いただいた方には、粗品(今季限定)をプレゼントいたします。
 皆様の作品は、ひとつの作品に仕上げ、次回自主事業開催時に展示いたします。
 実施期間 10月5日(木)~11月19日(日)

■蘇る智恵子 ~生家のライトアップ~
 智恵子の命日に生家がライトアップされます。
 ライトアップを堪能するとともに、智恵子への哀悼の意を表しませんか?
 実施期間 10月5日(木) 午後5時~午後8時 11月6日(月)~19日(日) 開館時間内

■智恵子の生家 2階公開
 公開日
 10月7日(土)~9日(月)、14日(土)~15日(日)、21日(土)~22日(日)、28日~29日(日)
 11月3日(金)~5日(日)

■奇跡といわれる「紙絵」の実物展示
 展示期間 10月5日(木)~17日(火)
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例年行われている智恵子居室を含む生家二階部分の公開、智恵子紙絵の実物展示に加え、新たな取り組みとして、生家のライトアップ、シンメトリー紙絵の制作体験が盛り込まれました。

心を病んで入院していた智恵子によって南品川ゼームス坂病院で作られたシンメトリーの紙絵はこんな感じです。
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光太郎の回想が残っています。

模様の類は紙を四つ折又は八つ折にして置いて切りぬいてから紙をひらくと其処にシムメトリイが出来るわけである。さういふ模様に中々おもしろいのがある。はじめは一枚の紙で一枚を作る単色のものであつたが、後にはだんだん色調の配合、色量の均衡、布置の比例等に微妙な神経がはたらいて来て紙は一個のカムバスとなつた。十二単衣に於ける色襲ねの美を見るやうに、一枚の切抜きを又一枚の別のいろ紙の上に貼はりつけ、その色の調和や対照に妙味尽きないものが出来るやうになつた。或は同色を襲ねたり、或は近似の色で構成したり、或は鋏で線だけ切つて切りぬかずに置いたり、いろいろの技巧をこらした。此の切りぬかずに置いて、其を別の紙の上に貼つたのは、下の紙の色がちらちらと上の紙の線の間に見えて不可言の美を作る。(「智恵子の切抜絵」昭和14年=1939)

下の紙の色がちらちらと上の紙の線の間に見え」るという「切りぬかずに置いて、其を別の紙の上に貼つたの」は、たとえばこれ。
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智恵子の並々ならぬ造型感覚が見て取れますね。

こうしたシンメトリーの紙絵(もうちょっとシンプルなものだったとは思いますが)、智恵子が心を病む前から手がけていたという証言が残っています。光太郎智恵子と親しかった詩人の尾崎喜八の回想から。

智恵子さんは後の紙絵の大家で、立派な工芸家だと思いますがとっても折り紙がお上手だったんです。我々が作る幼稚な折鶴とか云ったものでなく、とってもすばらしいもので、それをもうすでにいわゆる、そのシンメトリカルに紙をたたんでシンメトリカルに切ると、あるきそくに立派な模様ができる。ああいうものをすでにやっていらした。それを三つになる女の子のために作って下さった。オバチャマに頂いた、とそれをもって帰って来た事があります。(「尾崎喜八氏聞き書き―智恵子三十年忌―」  請川利夫著『高村光太郎論』昭和44年=1969所収)

三つになる女の子」は、尾崎の長女・榮子さん。平成28年(2016)までご健在で、当方も智恵子の思い出を聴かせていただいたことがあります。大正14年(1925)のお生まれでしたので、「三つ」ということは、数えなら昭和2年(1927)、満なら同3年(1928)、いずれにしてもまだ智恵子の心の病が誰の目にも顕在化する以前です。

それにしても、ゼームス坂病院で作られた智恵子のシンメトリーの紙絵、まさに光太郎の云う通り「紙は一個のカムバスとなつた」状態ですね。複数のシンメトリー作品を組み合わせたものなど、まさにこの紙絵が奇跡と云われる所以の一つでしょう。

残念ながら智恵子を偲ぶレモン忌の集いは、主催されていた智恵子の里レモン会さんが解散してしまったため無くなりましたが、当方も期間中に一度足を運ぼうと思っております。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

先年智恵子が造つて置いてくれた梅酒をのみました、感慨無量です、彼女はまだ生きてゐます、


昭和15年(1940)3月29日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎58歳

『智恵子抄』所収の詩「梅酒」の光景です。光太郎手控えの草稿に依れば、この書簡の2日後に書かれています。

    梅酒013
 
 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
 十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
 いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
 これをあがつてくださいと、
 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
 おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
 もうぢき駄目になると思ふ悲に
 智恵子は身のまはりの始末をした。
 七年の狂気は死んで終つた。
 厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
 わたしはしづかにしづかに味はふ。
 狂瀾怒濤の世界の叫も
 この一瞬を犯しがたい。
 あはれな一個の生命を正視する時、
 世界はただこれを遠巻にする。
 夜風も絶えた。

光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村にある高村光太郎記念館さんでの企画展です。

令和5年度高村光太郎記念館企画展「光太郎と吉田幾世」

期 日 : 2023年10月5日(木)~11月30日(木)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円 高村山荘は別途料金

吉田幾世は盛岡友の会生活学校(現盛岡スコーレ高等学校)の創始者です。高村光太郎と吉田幾世の関わりについて写真や掛け軸などの資料とともに紹介します。
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 2023年11月2日(木) 10:00~12:00 高村光太郎記念館第一展示室
 講師 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 高村光太郎と吉田幾世の交流について解説。

 申し込み締め切り日 10月20日(金)
 定員をこえる場合は抽選となります。
 定員に達しない場合は、定員に達するまで引き続き募集いたします。
 次のいずれかの方法でお申し込みください。
 高村光太郎記念館(0198-28-3012)へお電話ください。
 専用申込フォームへアクセスし、必要事項をご入力のうえ、ご送信ください。

吉田幾世(大正元年=1912~平成15年=2003)は、盛岡出身の教育者。戦前に羽仁吉一・もと子夫妻が東京東久留米に創設した自由学園に学びました。卒業後、昭和7年(1932)に郷里に帰ってから、羽仁夫妻の創刊で、明治末から光太郎が数多くの寄稿をした雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部の仕事なども行いました。その流れの中で、吉田は友の会のメンバーと共に、昭和8年(1933)、「盛岡友の会生活学校」(現・盛岡スコーレ高等学校さん)を開校させ、自由学園の精神を受け継ぐ岩手女子教育の新生面を担うこととなりました。

戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に光太郎が移住すると、吉田は『婦人之友』に光太郎の寄稿を仰ぐべく山荘を訪れ、以後、学校ぐるみでの光太郎とのさまざまな交流が続くことになります。吉田が生徒たちを引き連れて光太郎の山小屋を訪れたり、光太郎が盛岡の同校で講演を行ったり、さまざまなアドバイスをしたりと。

そうした交流についての紹介、それから光太郎から吉田や同校などに贈られた書、当時の古写真などを展示します。当方、展示パネルおよびフライヤー裏面の解説文を執筆いたしました。

特に書は、新たに確認されたこれまで未公開のものの展示も。こういう書を書いた、という記録は残っていたものの、その現物が確認できていなかった作品が含まれ、「こんなものも見つかった」という報せと共に市役所さんから送られてきた画像を見て仰天しました。

11月2日(木)には関連行事としての当方の講座があります。今回、参加資格に花巻市在住とか勤務とかの縛りが特に無いようなので、ぜひどうぞ。もちろん展示のご高覧も、です。

【折々のことば・光太郎】

毎日お送りの書きものは面白くよんでゐますが一々御返事は書きません、御ゆるし下さい、

昭和14年(1939)8月20日 野澤一宛書簡より 光太郎57歳

野澤一は山梨県出身の詩人。昭和4年(1929)から同8年(1933)まで四尾連湖畔に独居生活を送り、そののち上京。なぜか面識がなかったと思われる光太郎に対し膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けました。その数300通超、一通が3,000字を超えることもありました。光太郎、ある意味辟易しながら、それを面白がってもいました。

智恵子の故郷・福島二本松でのイベントです。

観月の宴~十五夜~

期 日 : 2023年9月29日(金)
会 場 : 二本松市市民交流センター 福島県二本松市本町二丁目3-1
時 間 : 18:00~19:30
料 金 : 500円(お茶菓子代)

十五夜の当日に、抹茶と和菓子を楽しみながら、箏(こと)の音色と共に月見をいたします。「ほんとの空」に輝く仲秋の名月を眺めてみませんか?

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直接は光太郎智恵子には関わらないと思いますが、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を使われては、紹介しないわけにはいきません(笑)。

ただし、定員30名、既に埋まっているという話でした。それでもキャンセル等あるかもしれませんので、一応。

今年の十五夜は9月29日(金)なのですね。智恵子が亡くなった昭和13年(1938)の十五夜は智恵子葬儀の執り行われた10月8日だったようで、その日の模様を後に回想して謳った詩「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)の最終行は、「外は名月といふ月夜らしい。」でした。何だか智恵子がなよたけのかぐや姫のように、月へ帰っていったような気がします。

当日、晴れるといいですね。

【折々のことば・光太郎】

おたよりと桃一箱昨日頂戴、まことに忝く存じました、今年はお盆にも別に何もいたしませんが、智恵子が好きだつた桃を見て感慨に堪へません、早速智恵子に供へました、まだ小生智恵子が死に去つたといふやうな気がしません、この桃も一緒に食べるやうな気がします、


昭和14年(1939)7月10日 水野葉舟宛書簡より 光太郎57歳

光太郎、智恵子の陰膳的にビールをコップ二つに注いでおくと、いつのまにかそちらも無くなっているという回想を残しています。絶対、自分で飲んで居るんですけれど(笑)。

光太郎の盟友の一人、岸田劉生について、一昨日の『朝日新聞』さん夕刊の週一連載「美の履歴書」で大きく取り上げられました。現在、六本木の泉屋博古館東京さんで開催中の「楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス」出品作「塘芽帖」の紹介で、ちらりと光太郎の名も。

美の履歴書:814「塘芽帖」岸田劉生 秋の日、思い巡らすのは

 濃厚でグロテスクな麗子像で知られる、画家の作品とは思えない。ささっとした筆致で、肩の力を抜いて描いたような印象だ。舞台は、作者の岸田劉生が鎌倉に構えた画室「塘芽庵」。秋の日、ほおづえをつき、物思いにふける自身の姿を描いている。
 季節の移ろいに心境を託して作られたこの画帖(がじょう)には、南画風のツバキやタケノコ、ナスなどの絵もある。「塘芽」とは、中国画(唐画)を収集した劉生の雅号だ。
 本作は孤独や憂愁がにじみながら、自然に囲まれた静謐(せいひつ)な環境での思案に穏やかさも感じる。「冬臥(とうが)山人」(冬に寝てばかりいる)「冬瓜(とうがん)山人」(冬瓜ばかり描いている)と、言葉遊びをしながら、自らを揶揄(やゆ)。さらに「飽画(ほうが)山人」とまで書いている。
 つまりは、「絵に飽きた」。ただ、泉屋博古館東京の野地耕一郎館長は「描く意欲はまだまだ持ち続けていたのでは。巻き返しを図ろうとしていた時代の産物だと思う」と話す。
 関東大震災で被災し、京都へ移った劉生は、美術作品を買いあさり、茶屋遊びにおぼれ、生活や制作に支障をきたす。そんな状況を一新して再起を図るため、1926年に引っ越したのが鎌倉だった。野地さんは、冬臥山人などと自身を笑っているところについても、「自分を外側から冷たく見ている。劉生の成長や成熟、酸いも甘いもかみわけ始めたところを感じます」。
 これは28年ごろの作品とみられる。翌29年に中国東北部を訪れ、意欲的に創作した油彩の風景画は温かみがある。新たな境地へ、何かをつかみかけていた時期だったのだろう。だが同年、体調を崩していた劉生は、帰国して急逝する。38歳だった。

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美の履歴書
・名前 塘芽帖
・生年 1928年ごろ
・体格 縦33.3㌢×横48.1㌢
・素材 紙本墨画着色
・生みの親 岸田劉生(1891~1929)
・親の経歴 東京・銀座生まれ。独学で水彩画を描き始め、黒田清輝の主宰する白馬会葵橋洋画研究所で本格的に洋画を学ぶ。雑誌「白樺(しらかば)」で紹介されたゴッホらポスト印象派の作品に衝撃を受ける。1912年に高村光太郎らとヒュウザン会を設立した。15年には木村荘八や椿貞雄らとともに草土社を結成。春陽会にも名を連ねた。デューラーや北方ルネサンスの写実的な作品に傾倒したり、浮世絵や中国絵画に学んで東洋的な油彩画や日本画を手がけたりと、画風が変遷。娘の麗子をモデルに描いた。中国東北部への旅行から帰国後、山口県で死去。
・日本にいる兄弟姉妹 東京国立近代美術館や京都国立近代美術館などに。
・見どころ 「冬瓜山人」とあるように、劉生はトウガンをモチーフにした静物画をいくつも描いた。実際、円窓がある鎌倉の画室で撮影された、ほおづえをつく劉生の写真がある。


紹介されている作品は令和元年(2019)、東京駅構内の東京ステーションギャラリーさん他を巡回した「没後90年記念 岸田劉生展」に出品されて拝見しました。それまで劉生の日本画についてはほとんど存じませんで、ああ、こんな絵も描いていたんだ、という感じでした。

記事にある「トウガンをモチーフにした静物画」はこちらなど。
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劉生というと、ポスト印象派風の「道路と土手と塀(切通之写生)」や、なぜか題名が「智恵子抄」だと勘違いされている「麗子」シリーズなどが有名ですが、これはこれで劉生の一境地ですね。
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円窓がある鎌倉の画室で撮影された、ほおづえをつく劉生の写真」はこちら。
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『朝日』さんの「美の履歴書」、取り上げられるのはマイナーな作家や「作者不明」というものも多く、劉生クラスのメジャーどころだと今回のようなあまり有名ではない作品にスポットが当てられるケースがほとんどです。ぜひとも光太郎や父・光雲、実弟・豊周なども取り上げていただきたいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

おてがみ拝見して驚きました。二三日考へてゐましたがどうも弱りました、此は当然横山大観氏あたりが引きうけるものではないでせうか、もう一度お考へ下さい、

昭和14年(1939)1月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎57歳

茨城取手の長禅寺に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」題字揮毫に関わります。碑の揮毫というと、既に昭和11年(1936)、花巻に建てられた宮沢賢治(ちなみに今日が命日)の「雨ニモマケズ」碑の揮毫をしていますが、芋銭とはおそらく面識も無かったのではないかと思われ、一旦は固辞しました。しかし結局は三顧の礼を尽くされて引き受け、この年6月には除幕となりました。
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光太郎の揮毫は題字のみです。

花巻グルメ系、2件ご紹介します。

まず、光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」として月イチで出店されている花巻市土沢地区の「ワンデイシェフの大食堂」さん。9月13日(水)がご出店日でした。

かつて光太郎が実際に作ったメニューを現代風にアレンジしたり、光太郎が使った食材を取り入れたりしたメニューは以下の通り。

栗ご飯、アンチョビサンド(軽くトーストしたバケットにレタス・チーズ・ドライトマトをのせアンチョビソースとオリーブオイル)、ピーマンの肉詰め(人参・コーン・エリンギを細かいサイノメに切り和風だしのあんかけに)、林檎とナッツのサラダ(リーフレタスに皮つきのリンゴを刺してオシャレに盛り付け)、夕顔のポトフ(大きめに切った夕顔に鶏の旨味が染み込ませ)、ゴーヤの佃煮、舞茸スープ、お新香、コーヒーゼリーサンデー(寒天とコーンフレークの食感も加えアイスとチョコソース・バナナ・ポッキーのトッピング)、お茶(煎茶にミントを加えて煎れたモロッコ風ミントアイスティー)。
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専門の料理人でない皆さんがここまで作るか、という感じですね。

9月15日(金)には、道の駅はなまき西南さんでの豪華弁当「光太郎ランチ」の販売もありました。
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こちらのメニューは以下の通り。

栗ご飯、そば粉クレープ鶏照りレタス、牛肉入りジャガバタ炒め、里芋と厚揚げの煮物、塩麹入り卵焼き、きゅうりとトマトの酢の物、蒸しかぼちゃのごまかけ、舞茸当座煮、糠漬け、フルーツ。

どちらにも光太郎が好んだ栗ご飯や舞茸が入っています。秋ですね。

それぞれ末永く愛されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の死は小生にとつてかなりひどい打撃ですがしかし遠からず平常の常態に復して今度は猛烈に仕事に専念しようと考へてゐます、四十九日がもうぢきです、

昭和13年(1938)11月16日 更科源蔵宛書簡より 光太郎56歳

智恵子の死にも不屈の光太郎。しかし前年に始まった日中戦争は既に膠着化、挙国一致体制が求められ始め、彫刻も詩作も自由には出来なくなっていきます。

テレビ番組の放映情報です。

まず再放送。

再 にほんごであそぼ「朗読スペシャル(2)」

地上波NHK Eテレ 9月21日(木) 15:35~15:45  9月23日(土) 07:00~07:10

朗読(高杉真宙)/「三銃士」アレクサンドラ・デュマ、「旅情」萩原朔太郎、「あどけない話」高村光太郎、「鶏」山村暮鳥、朗読(津田健次郎)/「ロミオとジュリエット」シェイクスピア、「板極道」棟方志功、「達磨おくり」金子みすゞ、うた「なせばなる」

【出演】南野巴那,津田健次郎,高杉真宙,藤原道山,中村彩玖,川原瑛都,川田秋妃

昨日が本放送。これまでに番組内で使われた高杉真宙さんと津田健次郎さんの朗読をまとめて流す回です。7月に放映された高杉さんによる「あどけない話」(昭和3年=1928)を含みます。
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続いて、光太郎が終生敬愛し続けたロダン。珍しく、相次いで二つの番組で取り上げられます。

四大化計画 〜世界は3つで語れない〜 教養バラエティー「未完成作品」

地上波NHK総合 2023年9月20日(水) 22:00~22:45

内村光良司会の知的教養バラエティー。世界の三大〇〇に4つ目を提案して“四大化”してしまおう!人類史に残しておくべき、完成を凌駕する「未完成」の芸術的魅力とは!?

あなたの好奇心をゆさぶる知的エンタメ!未完成でありながら輝きを放つ作品たちを深堀り!世界初!未完成なのに世界遺産「サグラダ・ファミリア」、20世紀を代表する作家カフカの未完の最高傑作「城」、天才彫刻家ロダンの人生を映す代表作「地獄の門」▽世界の小沢の人生観を変えた日本漫画の金字塔VS.強火担・中川翔子による超有名アクション映画▽ジャッジするのはいとうせいこう、宇垣美里、片桐仁、川島明、ニッチェ近藤

【出演】内村光良,小沢一敬,中川翔子,いとうせいこう,宇垣美里,片桐仁,川島明,近藤くみこ,【語り】甲斐田裕子,成田剣
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通常時、「歴史探偵」が放映されている枠です。この日は「歴史探偵」がお休みで、単発のこの番組が入ります。

もう1件。

ねこのめ美じゅつかん 31歩め 「考える人」は何も考えていない!?

地上波NHK Eテレ 2023年9月21日(木) 08:25〜08:35 
 再放送 9月23日(土) 11:30〜11:40 9月26日(火) 15:45〜15:55

キャッチュアイの2匹が静岡県立美術館で目にしたのは「考える人」。実は、何も考えていなかったのではないかと言い出す弟子ネコにボスもびっくり!一体どういう事なのか?

19世紀フランスを代表する彫刻家、オーギュスト・ロダンの傑作「考える人」。その造形を見てリアルだなあと感想を漏らすボスネコに対し、弟子ネコはそうではなく、“無理している”からこそ迫力があるのだと語り出す。さらにはそもそも、「考えていない人」かも知れないと、ボスを混乱させ始める。「考える人」にこめられたヒミツに迫る。そして古川琴音の「画家のうた」ではドラクロワの気になる超有名絵画を取り上げる。

【声】カミナリ,【出演】古川琴音
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「ねこ目線」で有名美術作品を見るという番組、一昨年に始まり、何度か拝見しました。笑えます。しかし、笑えるだけでなく、なかなかの鋭い視点で感心もさせられました。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

先般智恵子逝去の節は早速御弔電をいただき感謝したしました。匆々の間に日を過ごし思はず延引いたしましたが右厚くお礼申上げます。 お返し ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテミヤコオホヂヲカマハズアルキシ


昭和13年(1938)10月28日 山崎斌宛書簡より 光太郎56歳

山崎斌(あきら)は染織工芸家。「草木染」の命名者でもあります。心を病む前、駒込林町のアトリエ兼住居で機織りにも取り組んでいた智恵子とも交流がありました。

山崎からの弔電には「ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテアテナリシヒトイマハナシハヤ(袖のところ一筋青き縞を織りて貴なりし人今は亡しはや)」という短歌が打電されていました。

山崎曰く「アヲキシマ――とは、故人が特にその好みから、袖口の部分に一筋の青藍色を織らせた着衣をされてゐた追憶」。「貴(あて)なり」は古語で「品のある美しさ」といった意です。

これに対する光太郎の返歌が、やはり電報のスタイルでしたためられました。無理くり書き下せば、(袖の所一筋青き縞を織りて都大路を構はず歩きし)。この歌を読んだ山崎、「故人が見え、高村氏が見え、涙が流れた」とも回想しています。

「絵手紙」の創始者、小池邦夫氏が先月末に亡くなりました。今月初めには訃報が出たようですが、気づきませんでした。今朝の『朝日新聞』さん一面コラム「天声人語」に氏が亡くなったことが書かれていて知った次第です。

共同通信さん配信記事。

書家の小池邦夫さん死去 絵手紙を普及、82歳021

 手がきの素朴な絵と文字で心情を伝える絵手紙の普及に努めた書家の小池邦夫(こいけ・くにお)さんが8月31日午後3時57分、胃がんのため東京都狛江市の自宅で死去した。82歳。松山市出身。葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。喪主は妻恭子(きょうこ)さん。後日、お別れの会を開く予定。
 東京学芸大書道科で学び、1985年に日本絵手紙協会を設立。「ヘタでいい、ヘタがいい」を合言葉に絵手紙の普及に励み、初心者の指導にも力を入れた。2021年に文化庁長官表彰。著書に「小池邦夫絵手紙50年」など。

小池氏故郷のテレビ愛媛さん。

絵手紙の創始者 松山出身の小池邦夫さん 胃がんのため死去 葬儀は近親者で

絵手紙の創始者で松山市出身の小池邦夫さんが、8月末に亡くなっていたことが5日までに分かりました。82歳でした。
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小池さんは8月31日に胃がんのため都内の自宅で亡くなりました。82歳でした。葬儀は近親者のみで執り行われる予定です。
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小池さんは松山市生まれで松山東高校から東京学芸大学へ進学。19歳から絵手紙を描き始め1985年に日本絵手紙協会を設立し、テレビなどによる発信で全国に文化を広げました。
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また2021年には文化の振興に貢献したとして文化庁長官表彰を、去年は松山市文化スポーツ栄誉賞を受賞していました。
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小池さんの絵手紙はその時々に感じた感動を素直に表現。思いがそのまま相手に伝わるのが特徴でした。
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日本絵手紙協会は「故人の遺志を引き継ぎ、絵手紙の普及活動に取り組む」としています。

氏が主宰されていた日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。氏が光太郎ファンだったようで、繰り返し光太郎特集を組んで下さいましたし、平成29年(2017)6月号から令和2年(2020)3月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されていました。
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また、氏の編著等でも、光太郎の絵手紙をご紹介下さったりも。

『心を贈る絵手紙入門』(平成11年=1999 日本放送協会出版)。当時のNHK教育テレビで放映されていた「趣味悠々」のテキストです。
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『芸術家・文士の絵手紙』(平成16年=2004 二玄社)。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

智恵子葬儀も無事終了、明日は早や三七日となりました、明日は春子と一緒に墓参をいたします、


昭和13年(1938)10月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎57歳

智恵子実母に宛てた書簡から。「春子」は智恵子の姪にして、当時の一等看護婦の資格を持ち、南品川ゼームス坂病院で智恵子の付き添いを務めた長沼春子です。

葬儀は10月8日、駒込林町のアトリエ兼住居で執り行われました。その様子を謳った詩。約3年後、詩集『智恵子抄』刊行に際し、書き下ろされました。
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   荒涼たる帰宅

 あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
 智恵子は死んでかへつて来た。
 十月の深夜のがらんどうなアトリエの
 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
 私は智恵子をそつと置く。
 この一個の動かない人体の前に
 私はいつまでも立ちつくす。
 人は屏風をさかさにする。
 人は燭をともし香をたく。
 人は智恵子に化粧する。
 さうして事がひとりでに運ぶ。
 夜が明けたり日がくれたりして
 そこら中がにぎやかになり、
 家の中は花にうづまり、
 何処かの葬式のやうになり、
 いつのまにか智恵子が居なくなる。
 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
 外は名月といふ月夜らしい。

画像は最近流行りのモノクロ画像をカラー化するアプリで作ってみました。

昨日、別件でご紹介した『広報はなまき』9月15日号からもう1件。

いいトコ発見! 地域おこし協力隊 自分の内から出る自由なものを大切に‐学びの場を通した地域のつながりを作る。国内外の文化交流を推進する‐ 森川沙紀

「協力隊の任期3年間、あなたのワクワクすることだけをしてください」
 昨年着任時のあいさつ回りをしていた際、ある人に言われた言葉です。自分が楽しんでいることは必ず相手にも伝わる―そう信じ、毎日協力隊の活動をしています。
 大学の専門が英語で米国に5年間留学していたため、私は英語を生かして地域の人たちとつながりを作りたいと考えています。
    昨年度は詩人・彫刻家で晩年の7年を花巻で過ごした、高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳しました。本年度は米国の女性詩人エミリー・ディキンソンと宮沢賢治について学ぶ講座の開催、市内の保育園で英語の歌と絵本の読み聞かせなどを行っています。
 協力隊の活動は自由ですが、見たこ
と聞いたこと全て勉強になり無駄なことは一つもありません。全てがつながっている、影響・呼応し合っている―協力隊2年目に学んだことです。
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高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳」についてはこちら

昨年5月から花巻市の地域おこし協力隊員として活動されている森川沙紀さん。大阪のご出身だそうですが、「大学の時、岩手出身の友人に花巻を案内してもらい自然豊かな花巻が大好きになりました。いつか花巻に移住したいと思い15年、ようやく夢が叶いました」だそうで。いろいろ御苦労もあるかと存じますが、さらなるご活躍を期待いたします。

もう1件、『日本経済新聞』さんの岩手版から。宮沢賢治実弟・清六の令孫たる宮沢和樹氏へのインタビューです。

「雨ニモマケズ」は祈りの言葉 商業化には思い尊重を 宮沢和樹・林風舎社長 賢治没後90年 イーハトーブの経済㊦

014 賢治作品を現在私たちが読めるのは、賢治の弟、宮沢清六の存在が欠かせない。賢治の死後も原稿の詰まった「兄のトランク」を守り、高村光太郎らの力を借りながら出版社に作品を売り込んだ。清六の孫で賢治の商品を扱う林風舎(岩手県花巻市)社長の宮沢和樹氏は今も愛唱される「雨ニモマケズ」は「賢治の祈りの言葉だった」と語る。

――賢治の残したメッセージは現代的です。先見の明でしょうか。
「ちょっと違う。予言者とも違う。科学の知識と法華経がベースにあった。盛岡高等農林学校では地質を学び、半分はフィールドワークだった。どちらかというと理系人間で、今もし尋ねられたら自分のことを地質の専門家と答えたと思う」

――「石っこ賢さん」と呼ばれていたそうですね。有名な「雨ニモマケズ」もその中から生まれた?
「これは自分に向けて書いた言葉だ。原稿用紙に書いていないので作品ではない。『丈夫ナカラダヲモチ欲ハナク』と述べた後に『サウイフモノニワタシハナリタイ』と書いた。そういうものに自分はなっていないということだ。祈りの気持ちだったのだろう」

林風舎(岩手県花巻市)の社名は賢治作品「北守将軍と三人兄弟の医者」の登場人物からとった

――賢治そのものがビジネスになっているという指摘があります。
「ビジネス化は大事なことだ。映画やアニメ、美術、演劇、音楽に広がっている。宇宙飛行士の毛利衛さんや野口聡一さん、水沢VLBI観測所(岩手県奥州市)の本間希樹所長も賢治ファンを公言してくれている」 「ただ商品を売るための看板としてしか考えていない人とは全然違う。作品の著作権は切れているが、かつて(私たちの意向を無視して賢治を商業利用された今そこまでされることはなくなった。人格や思いを尊重して使うことには賛成だ」

――スタジオジブリ作品にも影響を与えています。
「アニメ映画『セロ弾きのゴーシュ』を監督した高畑勲さんや鈴木敏夫さんと祖父は何度も会っている。『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』など多くの作品に賢治の世界を感じることができる。祖父は賢治のプロデューサーだった」

――岩手ではソーシャルビジネスの起業も盛んです。
「盛岡高等農林の卒業生で海外に出て地元に学校を作ろうとした人もいた。農業の6次産業化が言われるが、当時生産が大変だった納豆の加工の起業に高等農林は関係している。賢治と同級生だった成瀬金太郎の後継者による納豆生産は今も続いている」

――全国植樹祭で天皇陛下が賢治の「虔十」に言及されました。
「賢治さんもここまで来たんだなあと式典会場で思った。『虔十公園林』に『ああ、全く誰が賢く、誰が賢くないかはわかりません』というくだりがある。賢治が虔十に託して語ったように、そのときには皆に認められず、後にならないと価値がわからないこともたくさんある」

記者の目 生前に作家や詩人としてほぼ無名だった賢治が長命だったらと想像せずにはいられない。起業家や社会活動家になっていただろうか。SNSを駆使して情報発信をしていたかもしれない。 賢治の生年と没年には津波が三陸沿岸を襲った。スーパー台風や大雨、山火事、沸騰する地球。「地質の専門家」なら、人類の活動が地球史で無視できないほど大きくなった「人新世」という時代へのヒントをきっと示したはずだ。

和樹氏とは今年2月、光太郎がかつて暮らした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん主催で行われた公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」でご一緒させていただきました。

そちらが好評だったということで第2弾が企画されています。まだ細かな情報が公開されていませんが、11月1日(水)、会場は宮沢賢治イーハトーブ館ホールだそうです。

今回は和樹氏、そして先述の森川沙紀さん、さらに生前の光太郎をご存じの複数の方々にパネラーとなっていただき、当方はコーディネーター。いろいろと興味深いお話が聞けるのではないかと思っております。詳細が出ましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

智恵子はとうとう昨夜病院で亡くなりました、 昨夜遺骸を自宅に連れてきました、 あはれな一生だつたと思ひます、


昭和13年(1938)10月6日 難波田龍起宛書簡より 光太郎56歳
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直接の死因は長く煩っていた粟粒性肺結核でした。

光太郎令甥の故・髙村規氏(光太郎実弟・豊周子息)の回想に依れば、まだ存命ということにして、南品川ゼームス坂病院から駒込林町の光太郎自宅兼アトリエまでタクシーで運んだそうです。当時でも遺骸を運ぶには霊柩車等の使用が義務づけられていたのでしょうが、それは面倒だと。

規氏回想から。

 だいぶ前のことですが、銀座で高村光雲の木彫の写真展をやった時に千葉の方から電話がかかってきましてね。僕が電話に出たら「あなたは私のことを知らないでしょうけれども藍染橋って言えばわかるでしょう」って言うから、「ああ、よく知ってますよ」って。「そこの角で根津神社のすぐそばなんですが、僕はあの当時智恵子さんが亡くなった時、ハイヤー会社をやってたんですよ。僕は社長で運転手もやってたんです。あなたのお父さんはものすごく機転の利く人で、智恵子さんが亡くなった時、僕に「すぐ迎えに行きたいんだけど、ゼームス坂病院まで回してくれ」って頼まれた。僕はすぐゼームス坂病院へ行った。その時、あなたのお父さんが院長と親しかったせいもあるんだけど、機転を利かせて、智恵子さんを亡くなったことにしてなかったんだって。病気は病気だけれどもまだ生きてることにして、後ろの席へ座らせて帰って来たんですよ。光太郎先生とあんたのお父さんとお付きの人がいて、私が運転して」という話を聞きました。
 なんで亡くなった人をハイヤーに乗っけて帰って来られたのか長いこと不思議だなあって思ってたんですが、その電話でやっとわかったんですね。だからね、亡くなってなかったんですよ。実際には亡くなってたけれども、(『碌山美術館報』第34号 「碌山忌記念講演会 伯父高村光太郎の思い出」)

そのタクシー会社はおそらく「藍染タクシー」。斎藤という人物が社長さんでした。営業所の大家さんだった津谷宇之助という人物が、光太郎にゼームス坂病院を紹介したようです。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』、9月15日号に光太郎が2箇所。

最終ページの連載「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」では、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の光太郎書「大地麗」が取り上げられています。
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記事にあるとおり、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隠棲中の昭和25年(1950)、村役場の新築落成記念に贈られた書です。

ただし「快諾」とは行かなかったようで……。以下、佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』から当時の村長・高橋雅郎の談話を元にした一節。

 いよいよ落成したので、先生に何か記念の額を書いていただきたいと思ったのでしたが、役場のできたのは十一月の末の頃の相当寒い時で、先生はすでに筆をおさめて、今年中は何も書かないという時でした。山口小学校の校長さんの浅沼さんなどが行ってたのんでも到底書いてもらえまいし、村長が自身行ってもおおよそことわられるだろう、結局この使は線のやさしいそして先生が気楽にものを考えられるであろう女の人がよいではないかとなりました。
 村長さんは、奥さんのアサヨさんに「書いてもらう使は、しょっちゅう先生のところへ出入りして気のおけないお前がいいよ。お前にいってもらうことだな。うまく引き受けてくれればいいし、ことわるにもお前だら先生も気楽だろう。」ということで、アサヨさんが使に行きました。間もなく帰ってき、「承知しました。」という返事に村長さんは飛上がるほど喜びました。


その後、光太郎、翌年1月の『婦人公論』に、この書に関する詩を寄稿しました。
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   大地うるはし

 村役場の五十畳敷に
 新築祝の額を書く。
 「大地麗(だいちうるはし)」、太い最低音部(バス)。
 書いてみると急にあたりの山林が、
 刈つたあとの萱原が、
 まだ一二寸の麦畑のうねうねが、
 遠い和賀仙人の山山が
 目をさまして起き上がる。
 半分晴れた天上から
 今日は初雪の粉粉が
 あそびあそびじやれてくる。
 冬のはじめの寒くてどこか暖い
 大地のぬくもりがたそがれる。012
 大地麗(だいちうるはし)と書いた私の最低音部(バス)に
 世界が音程を合せるのだ。
 大地無境界と書ける日は
 烏有先生の世であるか、
 筆を投げてわたくしは考へる。


「烏有先生」は、漢の司馬相如「子虚賦」に登場する架空の人物。「烏有」は訓読すれば「烏 ( いづ ) くんぞ有らむや」、反語で「どうして有るだろうか、いや、有るはずがない」の意。大地に国境が無くなることは現実にはあり得ないのだろうか、ということになります。

『広報はなまき』にも記述のある役場の落成式典で撮られた写真がこちら。

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ところで、写真と言えば、『広報はなまき』に載った写真。
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光太郎、先述の高橋雅郎村長、そして当時の村議会議長。現在、花巻で宮沢賢治の顕彰活動等にも取り組まれている泉沢善雄氏の大伯父さま(お祖父様のお兄様)だそうで、驚きました。
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さて、『広報はなまき』。光太郎の名がもう1件出て参りますが、長くなりましたので、明日。

【折々のことば・光太郎】

今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどい様です、 もし万一の場合は電報為替で汽車賃等をお送りしますゆゑ、其節は御上京なし下さい、 うまく恢復してくれればいいと念じてゐます、


昭和13年(1938)10月5日 長沼セン宛書簡より 光太郎56歳

千葉九十九里浜に移り住んでいた、智恵子の実母・セン宛書簡から。「うまく恢復してくれればいい」との願い空しく、宿痾の粟粒性肺結核のため、この日の夜遅く、智恵子は亡くなりました。

この書簡が書かれた直後、かの「レモン哀歌」に描かれた情景が実際にあったのだと思われます。

    レモン哀歌
 
 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズいろの香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう

作曲家の西村朗氏の訃報が出ました。

「共同通信」さん配信記事。

作曲家の西村朗さん死去 オペラ「紫苑物語」

005 オペラ「紫苑物語」など多くの作品を残した作曲家の西村朗(にしむら・あきら)さんが7日午後8時12分、右上顎がんのため東京都内の病院で死去した。69歳。大阪市生まれ。葬儀は近親者で行った。喪主は妻優子さん。
 NHK・Eテレ「N響アワー」の司会、いずみシンフォニエッタ大阪や草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルの音楽監督を務めた。東京音楽大の教授として後進の指導にも尽力した。
 1977年、エリザベート王妃国際音楽コンクール作曲部門大賞。2013年紫綬褒章。
 19年には、新国立劇場の委嘱で作曲した新作「紫苑物語」が話題を集めた。

『朝日新聞』さん。

作曲家の西村朗さん死去 現代音楽で世界的活躍、N響アワー司会も

 現代音楽の作曲家で、「N響アワー」などの司会でも広く知られた西村朗(にしむら・あきら)さんが7日、右上顎(じょうがく)がんで死去した。69歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻優子さん。
 大阪市生まれ。東京芸大で矢代秋雄、野田暉行に師事。西洋音楽の語法に立脚しつつ、音高やリズムのずれによって多層的な響きを紡ぐ「ヘテロフォニー」の手法を確立した。
 代表作にインドネシアやモンゴルなど、アジア各国の民族の感性を縦横に採り入れた「2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー」など。クロノス・カルテットなど世界的なアーティストから新作委嘱を受け、ウィーン・モデルン音楽祭などで演奏されてきた。2019年、新国立劇場で石川淳の短編を原作にした新作オペラ「紫苑(しおん)物語」が大野和士の指揮で初演され、世界的な話題を集めた。
 武満徹作曲賞など数多くの審査員を歴任した。いずみシンフォニエッタ大阪、10年から草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルの音楽監督も務めた。軽妙な語り手としても知られ、NHK教育「N響アワー」の司会を09年から12年まで務め、現在もNHKFM「現代の音楽」の解説を務めていた。
 東京音大教授。エリザベート国際音楽コンクール大賞、尾高賞など受賞多数。
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西村氏、平成20年(2008)に関西合唱団さんの依嘱で「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」を作曲、同団の第73回定期演奏会で演奏がなされました。翌年には全音さんから楽譜が出版されています。

その後、平成30年(2018)の全日本合唱コンクール第71回大会高校Bグループ(33人以上の大編成)に出場した九州地区代表・鹿児島高等学校音楽部さんが第3曲「レモン哀歌」を歌われました。同部は一昨年の第74回大会では第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」でみごと銀賞に輝きました。

YouTube上に同部の演奏がアップされています。


楽譜集巻頭の氏による「作品解説」。

 関西合唱団の委嘱により作曲。この組曲は、私としては初めて高村光太郎の詩をテキストとして作曲した合唱曲です。ここに用いた詩はいずれも有名なもので、かなり以前から読み親しんでいたものですが、最近になって急に感ずるところが強く深まったものでもあります。ようやくにして詩境に理解が近づいたということかもしれません。
 光太郎(1883~1956)の生涯は日本近代の激動期とも重なっており、伝記などが示すとおり、一人の芸術家としてはその社会的な実生活環境と個人的な内的精神生活の両面において、特異なまでに複雑困難な一生を送ったと言えるでしょう。おそらく、その魂は一生を通じて安息の時を得ることはなかったと思われます。詩集「智恵子抄」(1941)、「典型」「智恵子抄その後」(1950)などには光太郎の魂の孤独と悲哀と絶望が鋭く表現されています。これらは単なる抒情詩集ではありません。より厳しく生と死と人間存在の孤独を描いたものです。晩年、敗戦後の虚脱を経ての隠遁生活のなかで、あるいは、かつてのその清らかな心を病んで先に旅立っていった愛妻、智恵子の思い出だけが老詩人の魂を救い、一点のレモンのように純化されていったのかもしれません。
 光太郎の没後半世紀、「心の時代」と言われて久しい今日ですが、しかしながら「時代の心」は一層貧しくなっているかにも思えます。光太郎の「レモン」は私たちの魂を救ってくれるのでしょうか。
 第1曲は海辺の風光の中での夢幻的な魂の孤独。異界からの千鳥の声と智恵子の遠景。第2曲は峻険な山塊のように残酷に分断されていく二つの意識。魂の呻くような叫びの断章。そして第3曲、レモン哀歌。祈り。


「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」、歌い継がれていってほしいものです。

謹んで氏のご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

【折々のことば・光太郎】

大層あたたかくなりました、皆様おかはり無い事と存じます、小生も元気で毎日仕事してゐます、先日病院へまゐりましたが今月も智恵子に会はずにかへりました、興奮するといけないと思つて案じられます、春先になるといつも悪くなるやうに思ひます、


昭和13年(1938)3月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎56歳

かつて智恵子が千鳥と遊んでいた九十九里浜に暮らす、智恵子の母宛の書簡から。

「家族との面会は興奮状態を引き起こすので控えてほしい」的な指示が智恵子入院先のゼームス坂病院の医師からあったのは確かですが、それにしても光太郎、面会する頻度が極端に落ちました。変わり果てた智恵子の姿を見るにしのびなかったのでしょうか。九十九里で療養していた昭和9年(1934)には、ほぼ毎週、見舞いに訪れていたのですが……。

智恵子は心の病以外にそれ以前から罹患していた結核も進み、余命約半年です。

9月10日(日)、最後の訪問先、東京国立博物館さんに着きました。
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常設展的な総合文化展の中で、光太郎の父・光雲や光太郎と交流のあった僧侶・河口慧海をメインとした「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」が開催中です。
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チベットからの将来品などが中心ですが、サムネイル的に使われているのは、光雲の弟子・藤田光田作の慧海像。
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光太郎も慧海像(塑像)の制作に着手したのですが、残念ながら未完のまま戦災で焼失したと考えられ、作品の現存が確認できていません。
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これが観たかったので足を運びました。河口が持ち帰った白檀に光雲が彫った釈尊像。
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同趣旨の作が平成28年(2016)、慧海の出身地・大阪堺市で開催された「河口慧海生誕150年記念事業 慧海と堺展」に出たのですが、そちらは念持仏のような小さいものだったようです。

もう1点、光雲原型で、光雲三男の豊周による鋳造仏。やはり釈尊ですが、「天上天下唯我独尊」のポージングをとった誕生仏です。
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制作年代がはっきりしないのですが、いい感じですね。

他は将来品の仏像等。世界史的には「仏像」というものの源流に近いと思われますが、当方、やはり日本風にアレンジされた仏像の方に親しみを感じます。
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拝観後、他の展示室もざっと拝見。

第18室は「近代の美術」。同館目玉の作の一つ、光雲の「老猿」が時折出る部屋です。残念ながら「老猿」はお休み中。
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しかし、光太郎の親友・碌山荻原守衛の「北条虎吉像」と「女」が出ていました。
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「女」は最近の鋳造だそうですが、古色を着けての仕上げ。
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石膏原型からの3D計測によって作られたそうで、今後、ブロンズの鋳造はこの方式が主流になっていくのかな、と思いました。

9月12日(火)から展示替えとなり、残念ながら「女」はお休みに入っています。逆に高村真夫筆の「河口慧海師像」が新たに出ています。高村は新潟出身の画家。たまたま同じ「高村」で、光太郎等との血縁関係はありません。

「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」は10月9日(月)までの開催。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

それから小生の木彫小品の事ですが誌上で紹介して下さる御厚意をありがたく存じます、小生の彫刻は数が多く出来ないので割に高く譲つてゐるので如何かと思ひますが、小品例へば蟬とか小果とかいふ類のものを百円にしてゐます、又丸額(一尺二寸位)の「シシ合ひ彫り」を百二十円位にしてゐます、やすく頒ちたいのですが手間がかかるのでどうしてもその位になります、床の間へ置くやうな所謂置物といふやうな大きさになると五百円以上になります、心ぐるしいけれどやむを得ません、


昭和12年(1937)11月9日 更科源蔵宛書簡より 光太郎55歳
大熊座
翌年、更科が発行していた雑誌『大熊座』に載った「高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布」の広告に関わります。

広告の「フシシ合ひ彫り」は「シシ合ひ彫り」の誤植。漢字では「肉」と書いて「しし」、レリーフのことですね。

広告は出したものの、昭和12年(1937)の時点では、木彫の作品はほとんど手がけなくなっていました。僅かに未完に終わった「鯉」が知られている程度です。ただし、知られざる木彫作品がどこかにひっそりと眠っている可能性も否定できません。

9月10日(日)、京橋のアーティゾン美術館さんを後に、地下鉄を乗り継いで千代田区の半蔵門ミュージアムさんへ。こちらでは「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春」展が11月5日(日)まで開催中です。
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日本画家・堅山南風が関東大震災を描いた「大震災実写図巻」全3巻を中心に、横山大観、棟方志功ら同時代の作家の作品(そちらは震災とは無関係)が展示されています。
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南風は震災当時巣鴨に住んでいましたが、翌日から紙と矢立を手に東京市内、特に被害の大きかった下町方面を中心にスケッチをして廻り、二年後に31葉の絵を全3巻の絵巻として完成させました。ただし今回の展示、31葉全てが見られるように広げられているわけではありませんでした。

日本画ならではの墨が効果的に使われ、恐ろしいまでの臨場感でした。浅草凌雲閣(通称・十二階)が倒壊する様子(空中に投げ出された人まで描き込んでありました)などは伝聞や想像を元に描かれたものでしょうが、大半は自身の見た惨状。ドサクサに紛れて追い剥ぎをする人物なども描かれ、人間の暗部も描かれています。しかし、上中下と巻が進むにつれ、助け合って復興に向かう人々や、市外からの支援の様子なども題材となり、最後は犠牲者への鎮魂の祈りを込めた仏画で締めくくられています。

図録は刊行されていませんでしたが、4枚だけポストカードが販売されていました。

時系列順に。
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残念ながらポストカードになっていませんでしたが、目当てはフライヤーにも使われていた中巻の「貼札ヲ着タ銅像」。光太郎の父・光雲が主任となって東京美術学校総出で作られた上野公園の西郷隆盛像が描かれています。

現物は撮影禁止だったものの、エントランスの大看板にほぼ実物大の画像があしらわれていて、そちらを撮りました。
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この西郷像の姿、当時の動画にも収められていたり、現代でも森まゆみ氏の新著『聞き書き・関東大震災』では表紙に使われていたりと、いわば関東大震災を象徴するアイコンともいえるような感じですね。

再び地下鉄を乗り継いで、上野へ。

100年後のリアル西郷さん。
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こちらが目的で上野に行ったわけではなく、「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」を拝観するため東京国立博物館さんに行くのが目的でしたが、ちょうど通り道だったもので。

というわけで、明日はトーハクさんをレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

今年のお初穂の餅は殊におめでたく早速亡父の霊前にもお供へいたしました 父光雲はすべてのたなつものの類に敬虔の念を持つて居りました 又納豆は小生の好物とて是又ありがたく頂戴いたしました


昭和12年(1937)11月6日 長谷川吉三郎宛書簡より 光太郎55歳

一昨日のこの項でご紹介した色紙二点の礼として、山形の銀行家・長谷川から餅と納豆を贈られた礼状の一節です。

「たなつもの」は穀物。「納豆は小生の好物」だったのですね。そういえば、花巻高村光太郎記念館さん前の「詩の森」さんで出していた「光太郎そば」には、「光太郎の好物だった」ということで納豆がトッピングされていました。「ほんとかよ?」と思っていたら本当でした(笑)。

ちなみに「詩の森」さん、先月末で閉店とのこと。残念です。しかし、キッチンカーで移動販売をなさっている方が「光太郎そば」を受け継ぐと言うお話もあるようです。

一昨日、久々に上京し、美術館さん・博物館さん三館を巡りました。

まずは京橋のアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)さん。こちらでは「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」展が開催中です。

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同館では旧ブリヂストン美術館さんだった時代、昭和28年(1953)から昭和39年(1964)にかけ、17本の「美術映画シリーズ」を制作し、それらを複数のモニターで一挙上映、取り上げられている作家の作品等を併せて展示するというもの。

第3作が「高村光太郎」。昭和28年(1953)に撮影され、公開は翌年でした。
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前半は昭和28年(1953)の11月26日と27日、一時帰村(前年に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京していました)した花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)とその付近での撮影。
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光太郎彫刻の紹介が挟まり、後半はそれより前の同年5月25日、中野の貸しアトリエでの「乙女の像」制作風景。
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こちらは現代でも様々な美術館さん、文学館さん等で上映される機会が多く、また、回りまわって当方手元にはDVDも存在し、少なくとも数十回拝見しています。

そこで、はっきり言うとあまり期待せずに出かけました。

ところが行ってみてびっくり。もう1本、光太郎が登場する作品が存在したのです。題して「美術家訪問」第7集。「高村光太郎」よりだいぶ後、光太郎歿後の昭和33年(1958)制作でした。
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これは存じませんでしたが、「「高村光太郎」からの使い回しの動画を使っているんだろう」と思いました。ところが、実際に見てみて驚天動地でした。光太郎の部はぴったり2分間。撮影日は同一と思われるものの、使い回しのカットはほとんどなく、初見の映像のオンパレードだったのです。尺の関係などがあって「高村光太郎」で使えなかった映像をもったいないから使ったということでしょう。

「高村光太郎」同様、花巻郊外旧太田村のシーンから。
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作品紹介。これも「高村光太郎」にはなかった「鯰」。
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そして中野の貸しアトリエ。
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一緒に映っているご婦人は、貸しアトリエの大家さん・中西富江氏(水彩画家・中西利雄未亡人)と思われます。

帰って来てから気がついたのですが、ネット上でこの動画が公開されていました。


ぜひご覧下さい。

それから、同じく「美術家訪問」の第1集(昭和29年=1954)には、光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝・髙村豊周も。これも存じませんでした。
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一緒に映っているのは君江夫人でしょうか。こちらは残念ながらネット上には公開されていません。

全17本のラインナップは以下の通り。取り上げられている作家は全61名です。
伊東深水  川島理一郎 斎藤与里  高村豊周  熊谷守一  平櫛田中  川端龍子
児玉希望  石井柏亭  近藤浩一路 小絲源太郎 木村荘八  北村西望  辻永
中川一政  田辺至   松林桂月  山下新太郎 山口蓬春  梅原龍三郎 中村岳陵
朝倉文夫  中沢弘光  白瀧幾之助 前田青邨  金山平三  奥村土牛  西山翠嶂
堅山南風  飯塚琅玕斎 徳岡神泉  坂本繁二郎 安田靫彦  和田三造  福田平八郎
有島生馬  松田権六  横山大観  高村光太郎 正宗得三郎 結城素明  石川寅治
榊原紫峰  富本憲吉  吉田三郎  小野竹喬  寺内萬治郎 堂本印象  中村研一
鏑木清方  川合玉堂  小杉放庵  野田九浦  斎藤素巌  中川紀元  岩田藤七
清水多嘉示 森田元子  鳥海青児  山本豊市  林武
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あらためて貴重な映像の数々だな、という感じです。全ては拝見しませんでしたが、それぞれの作家の制作風景、鬼気迫るものさえ感じさせられました。しかし、戦前に亡くなった、光太郎の父・光雲や光太郎の親友・荻原守衛などの動画が残っていないのは返す返す残念だな、とも思いました。

それぞれの作家の作品等。
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光太郎の「手」(大正7年=1918)は、今日からの展示です。

「美術映画」シリーズのパンフレットなども展示されていました。
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「これは欲しい」と思いました(笑)。

ミュージアムショップで図録を購入。
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表紙は光太郎とも交流の深かった梅原龍三郎です。

フィルムを象った4枚組のしおりも購入しました。右上に光太郎も居ます。
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もったいなくて使えませんが(笑)。

拝観後、地下鉄を乗り継いで半蔵門ミュージアムさんでの「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春」展へ(ちなみにアーティゾンさんでは堅山の動画もありました)。明日、そちらをレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

中原君の夭折は残念でした、


昭和12年(1937)11月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎55歳

「中原君」は中原中也。その第一詩集『山羊の歌』(昭和9年=1934)の装幀・題字は光太郎でした。

3件ご紹介します。

びじゅチューン!「老猿は主役じゃなくても」

NHK Eテレ 2023年9月12日(火) 17:3017:35 9月15日(金) 23:5023:55

発想の源は、高村光雲「老猿」(東京国立博物館)。この彫刻は、そのまわりだけ空気がちがうような、圧倒的な「ドラマ性」を感じさせます。もし脇役としてキャスティングされたとしても、その存在感の強さで主役を食ってしまうでしょう。「白雪姫」の小人C役、「桃太郎」のサル役…。たまたま脇役として起用されて現場のパワーバランスをおかしくさせてしまうストーリー。「老猿」と周囲とのギャップを楽しんでください。

【出演】井上涼,【声】ジョリー・ラジャーズ

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光太郎の父・光雲作の「老猿」(明治26年=1893)をメインにしています。

初回放映が昨年1月、その後、今年3月にはDVDブック『びじゅチューン!DVD BOOK 7』にも収録されていますが、電波に乗るのは久しぶりですね。

再 にほんごであそぼ「服装」

地上波NHK Eテレ 2023年9月14日(木) 15:35〜15:45 9月16日(土) 07:0007:10

書道で学ぶにほんご・ぐうたらちんたら・花鹿亭/服装、朗読(津田健次郎)/「あなたはだんだんきれいになる」高村光太郎、偉人とダンス/やむを得ないそのときは、服装に無頓着でもいいんだよ。でもいつでも心はきちんとドレスを着てください。(マーク・トウェイン)、うた「なせばなる」

【出演】南野巴那,津田健次郎,柳家わさび,藤原道山,青柳美扇,世田一恵,中村彩玖,
    川原瑛都,川田秋妃

今朝、初回放映がありました。ベテラン俳優・声優の津田健次郎さんによる光太郎詩「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)朗読を含みます。
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もう1件、同じ「にほんごであそぼ」から。

にほんごであそぼ「朗読スペシャル(2)」

地上波NHK Eテレ 9月18日(月) 08:35〜08:45

朗読(高杉真宙)/「三銃士」アレクサンドラ・デュマ、「旅情」萩原朔太郎、「あどけない話」高村光太郎、「鶏」山村暮鳥、朗読(津田健次郎)/「ロミオとジュリエット」シェイクスピア、「板極道」棟方志功、「達磨おくり」金子みすゞ、うた「なせばなる」

【出演】南野巴那,津田健次郎,高杉真宙,藤原道山,中村彩玖,川原瑛都,川田秋妃

これまでに「朗読」のコーナーで放映されたパートを集めてのものと思われます。7月に放映された若手俳優・高杉真宙さんによる「あどけない話」(昭和3年=1928)を含みます。
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それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

夏の暑さなどに遮られ、のびのびとなつて居りました色紙を今日の日曜に書きましたゆゑ不出来ながら明朝小包にてお送りいたします、文字の方は拙詩 “牛” の中の一行に有之、デツサンの方はコンテにて描きました。彫刻の方も追々着手の運びといたします、


006昭和12年(1937)10月31日 長谷川吉三郎宛書簡より 光太郎55歳

長谷川吉三郎は山形県の銀行家。光太郎に書や彫刻の制作を依頼しました。「色紙」は二点。詩「牛」(大正3年=1914)の一節「牛は大地をふみしめて歩く」と、牛の絵です。長谷川は丑年生まれでした。

これ以外にも、「牛」全文を書いた大きな書も贈られました。これらは「長谷川コレクション」として山形県立美術館さんに所蔵されており、一昨年、富山県水墨美術館さんでの「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」でお借りしました。
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昨日、光太郎自身の書について書きましたが、光太郎詩を書いて下さった作品も含まれる現代の書の展覧会が長野県で開催中でした。気づくのが遅れ、明日までです。

表具師北岡芳仙洞 創作箔アートパネル展

期 日 : 2023年9月2日(土)~9月11日(月)
会 場 : かんてんぱぱガーデン 長野県伊那市西春近広域農道沿い
時 間 : 9:00〜17:00 最終日は13:00まで
料 金 : 無料

染めた和紙と織物に金銀箔をあしらった屏風やパネルなど200点以上。

和紙と織物を染め、金銀箔をあしらった唯一無二の作品を展示販売いたします。新作六曲一双屏風や新作パネル・行燈・花掛・置時計など多種多様です。表具師古来の糊と技法を生かした新しい表現の数々。全ホール使用の展覧会は二回目となります。みなさまのご清遊を心よりお待ち申し上げております。

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長野県北部の中野市にお店を構えられている芳仙洞さんという老舗表具店さんの主催。

光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を書家の方が書かれた作品も展示されているそうです。
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長野市の書家、久保皐泉さんとの共作。高村光太郎の「道程」。墨染、絹、銅箔。何度も書き直したという久保さん。久保さんの作品の中でも異色ですが、とてもシックな仕上がりではないかと。広い会場でその雰囲気を是非、感じて頂けたらと思います。

横長の作品ですが、なるほど、マクリの状態ではなく、きれいに表装されているようです。茶色っぽい部分が銅の箔なのですね。へーっと思いました。

書の方は詩の内容が内容だけに雄渾な感じで、てっきり男性の作品かと思い込んでいましたが、久保さんという方、女流の書家だそうです。意外といえば意外でした。そういう決めつけがジェンダー平等に反するのかも知れません。

書家の皆さんには、光太郎詩文、どんどん取り上げていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

今日は岡倉先生の珍しき写真一葉お貸し下され難有存じます。團十郎製作後に天心像を作りたく、その時の参考に暫く拝借いたします、


昭和12年3月31日 松下英麿宛書簡より 光太郎55歳

「岡倉先生」は岡倉天心、「団十郎」は九代目市川團十郎。南品川ゼームス坂病院に智恵子を入院させたことによって、彫刻制作の時間が取れるようになりました。しかし團十郎像は九分通り出来上がったものの、未完。天心像は着手したのかどうかも確認できていません。

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん、一昨日の一面コラムで光太郎をメインに取り上げて下さいました。

河北春秋(9/7):「いくらまはされても針は天極をさす」。

「いくらまはされても針は天極をさす」。花巻市の高村光太郎記念館に展示される高村光太郎(1883~1956年)の書は言葉の雄大さ故、全懐紙ほどの実物以上に大きい印象を与える。地元の山口小(現太田小)の校訓を揮毫(きごう)した「正直親切」は達筆というより誠実そのもの。児童が書いたようですらある▼光太郎は「書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ」とつづった。太平洋戦争中に戦意高揚の詩を作ったことを悔いた光太郎は戦後、最後の作品である十和田湖畔の『乙女の像』(53年)まで彫刻の制作には慎重だった。その分、従前に増して書に意欲を見せた▼光太郎の書を「実に味わいがあり、まさに見ていて飽きない」と愛するのが仙台市の作家伊集院静さん。書にまつわるエッセー集『文字に美はありや。』は、書に伝わる「人の哀しみ」に美を見いだす▼第70回河北書道展があす開幕する。戦争の傷跡がまだ残る54年に産声を上げた。東日本大震災、新型コロナウイルス禍に直面しても中止せず、喜怒哀楽を伝えてきた▼光太郎はこうも記している。「直接書いた人にあふやうな気がしていつでも新らしい」。古希を迎える書の杜で、困難にも辛抱強く、ぶれずに生きる東北の人々に会いたい。(2023・9・7)

花巻の高村光太郎記念館さんで展示されている光太郎書を取り上げて下さいました。その評もなかなか的確ですね。

言葉の雄大さ故、全懐紙ほどの実物以上に大きい印象」という「いくらまはされても針は天極をさす」。戦後の花巻郊外旧太田村蟄居時代に書いた色紙です。
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「ぶれない自分」というものを表象しようとしたものでしょう。世の中が戦時に突入すると、ぶれる、というか、豹変した光太郎ですが。

この語は揮毫等で好んで使いました。おそらく初出は昭和2年(1927)に書いたたった2行の詩「詩人」。

いくら目隠をされても己は向く方へ向く。 いくら廻されても針は天極をさす。
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おそらくそう離れていない時期に、この語を刻んだ木皿も残されています。

木皿は光太郎実弟の鋳金家・豊周により、ブロンズに鋳造されて、戦後の高村光太郎賞牌として受賞者に授与されました。
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また、同じ趣旨の「針は北をさす」と揮毫された書が、岩手県奥州市の人首文庫さんに現存します。

達筆というより誠実そのもの」「児童が書いたようですらある」と評された「正直親切」はこちら。
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昭和23年(1948)に、蟄居していた山小屋近くの山口分教場が山口小学校に昇格し、光太郎が校訓として贈ったものです。横書きで現代風に左から右、一年生の児童にも読めるようにと新仮名遣いでルビも書き込みました(拗音を一回り小さいサイズで書くというルールはまだ定着していなかったようです)。

この文字を刻んだ碑が、確認出来ている限り全国に三基。花巻の山口小学校跡地、埼玉県東松山市の新宿小学校さん(同市元教育長の故・田口弘氏肝煎り)、荒川区立第一日暮里小学校さん(光太郎母校)です。
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三基のみならず、日本中の全ての小学校さんに設置していただきたいものです(笑)。あるいは永田町の衆参本会議場とか議員会館とかにも(笑)。

『河北新報』さんん、伊集院静氏の『文字に美はありや。』にもふれられています。こちらでも光太郎書が取り上げられています。

さて、秋となりました。「芸術の秋」とうことで、各地で書道展なども多くなってくることでしょう。今回の『河北新報』さんコラムも同社主催の「河北書道展」にからめての光太郎紹介でした。同展、「近代詩文」部門もあり、光太郎詩を書いた作品が入賞しているかな、と思いましたが、残念ながらネット上で見られる上位入賞作品にはありませんでした。おそらく各種書道展で、光太郎詩文を書いて下さるかたが少なからずいらっしゃると存じますが、ぜひとも光太郎曰くの「あたり前と見える」「無理と無駄との無い」書でお願いしたいところです。

【折々のことば・光太郎】

智恵子も春子さんの看護になつてから前よりもよい様に見うけられます。しきりと手芸をやつて居る様です。


昭和12年(1937)2月19日 長沼セン宛書簡より 光太郎55歳

「手芸」は、奇跡と言われた紙絵の制作と思われます。智恵子の生命、あと1年半あまりですが、その間に千数百点の紙絵を作りました。
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コロナ禍前は毎年ご紹介していました。おそらく4年ぶりの本格開催と思われます。しかも記念大祭だそうで。

お三の宮日枝神社御鎮座350年記念大祭~お三の宮秋祭り~

期 日 : 2023年9月15日(金)~17日(日)
会 場 : お三の宮日枝神社 神奈川県横浜市南区山王町5-32
      イセザキ・モール 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1・2丁目
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 15日(金) 例祭(式典)   午後5時 斎行
 16日(土) 神社大神輿御巡行 午前9時 出御祭
 17日(日) 町内神輿連合渡御 午前9時 出発式
  〜神賑行事〜
 16日(土) 午後5時居合奉納演武(横浜無外会)
 17日(日) 午後5時和太鼓 奉納演奏(ヒビカス横浜)
 両日 日中 お囃子奉納演奏(横浜やっしゃ鯛)
     19時 奉納演芸会(お三の宮奉納演芸委員会)
 終日縁日・献灯

「お三の宮」「おさんさま」として親しまれている日枝神社の例祭で、《かながわのまつり50選》にも選ばれています。横浜随一の大神輿「千貫みこし」による氏子内御巡行は毎年行われ、本祭り(奇数年毎)には大小30〜40基にも及ぶ町内神輿連合渡御が神社からイセザキ町へと練り歩き、市内屈指の規模を誇ります。境内では神賑行事として、奉納演芸会やお囃子・和太鼓・居合演武の奉納などが催され、献灯や縁日で賑わいます。

今年(令和5年)は、御鎮座350年の佳節を迎えます。皆さまと共に奉祝の誠を捧げるべく、御鎮座350年記念大祭を盛大に斎行したいと存じます。
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イセザキモールさんのサイトによれば、光雲が装飾彫刻を担当した「火伏神輿」がモール内に展示されるそうです。

9月15日(金)朝10時~夕方4時ころ007
伊勢佐木町1・2丁目【火伏の神輿】展示(有隣堂ヨコ、神酒所)

1915(大正4)年の大正天皇の即位の礼を記念し、伊勢佐木町町内会として高村光雲(上野、西郷隆盛像ほか)に制作を依頼しました。ちょうど100年前の1923年9月、完成目前に東京・上野の工房で関東大震災に遭遇。火に包まれる直前に部材をすべて運び出し、震災10日後に無事納められたことから「火伏の神輿」と言われるようになりました。祭礼期間以外は、神奈川県立歴史博物館エントランスにて展示しています。

「火伏神輿」、以前に拝見に伺ったときはかつがれていましたが、今回は展示のみなのでしょうか? また、やはり光雲作の木彫獅子頭一対も併せて展示されていましたが、そのあたりも不明です。
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それにしても、またもや関東大震災がらみか、と、少し驚きました。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

チヱ子には春子さんを附添にたのみました。今日お給料を看護婦会へ払ひました。

昭和12年(1937)1月21日 長沼セン宛書簡より 光太郎55歳

「春子さん」は長沼春子。智恵子実妹にして大正11年(1922)に30歳で早世したミツの遺児です。したがって、智恵子にとっては姪ですが、ミツの死後、智恵子の母・センが養女として届けましたので、戸籍上は妹の扱いでした。戦後、光太郎が間を取り持って茨城取手の詩人・宮崎稔に嫁ぎました。

当時の一等看護婦の資格を持ち、光太郎の依頼で、ゼームス坂病院に入院していた智恵子の付き添い看護にあたることとなりました。

春子の回想「紙絵のおもいで」より。

「昨日血を吐いたのですが大した事もないのですよ。」
とおっしゃって寒々としたソファーに寝ておられた。伯母の病院の地図を書いてくれたり、いろいろと今までの病状を伺い、お暇をした。翌日南品川ゼームス坂病院に行った。病院ではやはり看護服の方が働きよいだろうというので、服をきて行った。
 そうっとドアを開けて、
「伯母さま、御機嫌よう、春子です。」と声をかけた。変り果てた伯母の姿! 私は思わず胸をしめつけられ涙があふれてきた。
 じっと立って見ていた伯母は、
「啓助は死んだの?」
「はい死にました。」
 重ねて「修二は?」と二人の弟たちのことをきかれた。そののち三年あまり看護中身内の者のことを聞いたのはこの時だけであった。
(略)
 私はそれから毎夜のように伯母のかたわらにやすみ、そのやつれはてた姿を見ては泣いた。ただ神に祈った。


三年あまり」は記憶違いで、実際には2年弱でした。春子が付き添いに入った頃、まだ紙絵制作は為されていませんでしたが、千羽鶴や紙灯籠などは作り始めていたそうです。
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NHK Eテレさんで放映中の「にほんごであそぼ」。光太郎詩が取り上げられます。

にほんごであそぼ「服装」

地上波NHK Eテレ 2023年9月11日(月) 08:35~08:45 再放送 9月14日(木)15:35〜15:45

書道で学ぶにほんご・ぐうたらちんたら・花鹿亭/服装、朗読(津田健次郎)/「あなたはだんだんきれいになる」高村光太郎、偉人とダンス/やむを得ないそのときは、服装に無頓着でもいいんだよ。でもいつでも心はきちんとドレスを着てください。(マーク・トウェイン)、うた「なせばなる」

【出演】南野巴那,津田健次郎,柳家わさび,藤原道山,青柳美扇,世田一恵,中村彩玖,
    川原瑛都,川田秋妃
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俳優・声優の津田健次郎さんが光太郎詩「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)を朗読なさるようです。ちなみに7月には若手の高杉真宙さんの「あどけない話」(昭和3年=1928)朗読がありました。とても爽やかな朗読でしたが、今回はベテランの津田さん。経験を生かしての深みのある朗読を期待したいものです。
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   あなたはだんだんきれいになる

 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属。
 見えも外聞もてんで歯のたたない
 中身ばかりの清冽な生きものが
 生きて動いてさつさつと意慾する。
 をんながをんなを取りもどすのは
 かうした世紀の修業によるのか。
 あなたが黙つて立つてゐると
 まことに神の造りしものだ。
 時時内心おどろくほど
 あなたはだんだんきれいになる。

画像はこの詩の書かれた2年程前の大正14年(1925)頃。最近流行りのモノクロ画像をカラー化するアプリで遊んでみました。

この詩に関しては、エッセイ「智恵子の半生」(昭和15年=1940)でも触れられています。

私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、

をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。

と私が書いたのも其の頃である。

素のままの智恵子の美しさをたたえてはいますが、危険な考え方でもありますね。一種のモラハラに近いような。智恵子は自ら服装の簡易化を図ったのでしょうが、そうせざるをえない空気を作ったのは光太郎とも考えられます。実際、智恵子の心の病の顕在化はこの4年後でした。

ともあれ、「にほんごであそぼ」、ぜひご覧下さい。やはり見逃し配信もありますし。

【折々のことば・光太郎】

小生十九日夜突然大喀血をやつて、絶対安静療養をつづけてゐます、もう畧出血はとまりました。発熱無く食慾旺盛、心配は少しもありません


昭和11年(1936)12月27日 水野葉舟宛書簡より 光太郎54歳

光太郎は否定し続けましたが、結局は結核でした。智恵子共々、かなり早い時期から罹患していたようです。光太郎ほどに頑健ではなかった智恵子は約2年後に結核で死去。光太郎はこの後も20年近く生きながらえます。

都内で開催中の企画展です。

楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス

期 日 : 2023年9月2日(土)~10月15日(日)
会 場 : 泉屋博古館東京 東京都港区六本木1丁目5番地1号
時 間 : 午前11時 ~ 午後6時 金曜日は午後7時まで開館
休 館 : 月曜日、9月19日(火)、10月10日(火)
      9月18日(月・祝)、10月9日(月・祝)は開館
料 金 : 一般1,000円 高大生600円 中学生以下無料

 安らぎと自由の追求。
 忙しない俗世を離れ、清雅な地での隠遁生活を送りたいと願うのは、超高速の情報が飛び交う現代社会に生きる私達ばかりではありません。むかしの人たちも政治や社会のしがらみから逃れ、清廉な生活にあこがれたがために、自ら娯しみ遊戯の精神を忘れず、自由を希求する「自娯遊戯」の世界を描いた絵画や工芸品を求めたりしました。そのために、東洋の山水画には、生き方の理想や文学的なテーマが隠されていることが少なくありません。そこには、田舎暮らしのスローライフを求める「楽しい」隠遁から、厳しい現実を積極的に切り抜ける「過激な」隠遁まで、実に多種多様な隠遁スタイルが見いだせます。
 本展は、理想の隠遁空間をイメージした山水・風景や、彼らが慕った中国の隠者達の姿を描いた絵画作品とともに、清閑な暮らしの中で愛玩されたであろう細緻な文房具なども併せて展示いたします。中国の士大夫や日本の文人たちが抱いたマインドフルネス(安寧な心理状態)に触れることで、暮らしを楽しむ生の充実の一助となれば幸いです。

同時開催:特集展示「住友コレクションの近代彫刻」
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メインの「楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス」ではなく(そちらはそちらで優品がいろいろ出ているのですが)、同時開催としてひっそり行っている特集展示「住友コレクションの近代彫刻」で、光太郎の父・光雲作の「楠木正成銅像頭部木型」(明治26年=1893)が出品されています。

その名の通り、皇居前広場に立つ「楠木正成銅像」の頭部の木型です。像自体が巨大なものですので、頭部のみとはいえ、像高70㌢ほどの大きなものです。当方、平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」、平成30年(2018)に小平市平櫛田中彫刻美術館さんで開催された「明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ」で拝見しました。

元々「楠木正成銅像」は、住友家の別子銅山開坑200周年という意味合いもあって奉納され、その関係でこの作品が住友コレクションに入っています。頭部以外の木型は行方不明となりました。
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他に光雲高弟の一人、山崎朝雲や東京美術学校での光雲の同僚にして盟友・石川光明、光太郎と交流のあった木内克の作なども出ています。
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また、「住友コレクションの近代彫刻」に絞った記念講演会も開催されます。

講師:野城今日子氏(渋谷区立松濤美術館学芸員) 定員:50名(予約制)

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日碑文の石刷り到着、彫刻の早く出来たのに驚きました。 文字の拙さは汗顔の至りでありますが、石屋さんの彫刻は大層やはらかにうまく彫れたと感心しました。 今部屋にかけて眺めて居ります。


昭和11年(1936)11月19日 宮沢清六宛書簡より 光太郎54歳

この年、宮沢家の依頼で揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の拓本が届けられたことに対する返信です。同碑は全国に数ある賢治碑の第一号です。

石屋さん」は今藤清六。昭和21年(1946)、詩碑の誤字脱字の追刻の際にも鑿を振るいました。

昨夜、NHKさんのラジオ第2で「声でつづる昭和人物史〜賢治を語る 1」の放送がありました。

2本立ての内容で、前半は光太郎と盛岡放送局高橋忠アナウンサーとの対談「朝の訪問」から。後半は賢治実弟の宮沢清六による賢治詩「原体剣舞連」「春と修羅」の朗読でした。

「朝の訪問」、昭和24年(1949)の録音です。SNS上で花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での録音、と勘違いされている方の投稿がありましたが、盛岡放送局での録音です。おそらく、戦時中に翼賛活動に邁進していた光太郎の肉声を流すのはまかりならん、というGHQの横槍でお蔵入りになっていたものです。

久しぶりに拝聴しました。手元にカセットテープがあるのですが、カセットテープだけに再生すればしただけ劣化が進みますので、めったに再生しません。平成16年(2004)頃、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の依頼で文字起こしをし、そちらを読めば内容は確認出来ますし。

「対談」と分類していますが、相方の高橋アナウンサーは聞き手、ネタふりに徹する感じで、8:2から9:1くらいで光太郎が滔々と語りつづけています。昭和24年(1949)、数え67歳の光太郎、意外と張りのある人間的にも芯の強さを感じさせる声です。

10月30日(月)まで、聴き逃し配信があります。ぜひお聴き下さい。
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ところで、光太郎のしゃべり、あまりにも滔々としすぎていて、ちょっと違和感。「あれ、こんなんだったっけ?」的な。そこで文字起こししたものと見比べながらもう一度聴くと、だいぶ編集されていました。言い淀んだり、言い間違って言い直したりした部分は全てカットです。

例えば、こんな一節。

ええ、不自由って、もし、そういうこと言い出したら、むやみに不自由だけど、ま、あそこに住む以上は、それを織り込んであるんです。だから、もう、何ですね。平気なもんです。ま、それで、て言いますか、覚悟の上だしね。人間の不自由なんてものは、やっぱり一つの欲ですから、あのー、欲、捨てっちまえば何でもない。ただ、その、合理的な食事生活や何かって言うと差し支えるから。

オンエアされたのは赤字の部分で、「何ですね」とか「何て言いますか」、「あのー」といった間投詞的な無意味な部分はほぼすべてカットされていました。そこで会話として聴くと無駄がないため、忙しく感じます。

またそれ以外でも結構ツギハギになっていました。

前は不自由だったですよ。夜はもうほとんど本は読めなかった。で、細かい字のものは、手紙でも読めない。自分が詩を書いたりする時は、新聞紙、こう広げてね、毛筆で一寸角ぐらいの字を書く。それで字を書いた。そうしないと読めない。それから、石油ランプじゃ暗いから、炉で焚き火をしてその灯りで書いた。もう、原始生活の原始生活でしょうな。

全体にこんな感じで、話の流れを損なわない程度に編集が為されています。また、バッサリとカットされている部分も多々ありました。放送枠の関係で、仕方がないのでしょうが。

生放送を除けば、テレビ番組でもそうですね。もう10年前になりますが、渋谷のNHK放送センターさんで「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」のスタジオ収録に立ち会いました。その際は司会の井浦新さん、伊東敏恵アナ、ゲストの作家・平野啓一郎氏によるトーク、オンエアされたのは約3分の1くらいで、「この発言とこの発言の間にこういう発言もあったはずだが無くなってるなぁ、もったいない」という感じでした。まぁ、そんなものなのでしょう。

さて、聴き逃し配信、ぜひお聴き下さい。清六の朗読、それから司会の宇田川清江氏、解説の保阪正康氏のトークもなかなかのものです。

また、以前にも書きましたが、来週は「賢治を語る 2」として、「草野心平、賢治を語る わが文学わが回想」(初回放送 昭和58年=1983 8月11日 ラジオ第2)、「堀籠文之進 賢治の思い出」(同 昭和57年=1982 7月16日 FM盛岡ローカル)もオンエアされます。併せてどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あれから父の一周忌がすむと、今度は智恵子の弟の急病、つづいて死亡といふやうな事があつて寸暇なく心ならずも原稿が遅れましたし、又枚数も少くなりましたが、ともかく別封でお送りしました、遅延のおわびまで


昭和10年(1935)10月23日 宮崎稔宛書簡より 光太郎53歳

智恵子の弟」は、二本松の長沼酒造三代目を継いだ啓助。結局は家業を破産に導いてしまいました。その後は上京し、大学野球早慶戦のダフ屋や廃品回収業のようなこともやって細々と暮らしていたのですが、この月、数え39歳で窮死しました。

しつこいようですが、今年は昨日は大正12年(1923)に起こった関東大震災からちょうど100年です。

一昨日、昨日と二夜連続で放映された「NHKスペシャル 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間」を拝見しました。
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番組内では当時モノクロで撮影されたフィルムのを8K映像でリマスター、さらにカラー化するという画期的な試みが為されており、そのリアルさに息を呑みました。
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モノクロだと遠い世界の出来事のようなのが、カラー化された高精細映像では目の前で起こっているかのような……。
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「前編」では、航空撮影された震災2ヶ月前の様子も。
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その他、「前編」では震災当日の火災の様子、「後編」は翌日以降でやはり火災の話や朝鮮人虐殺等にも触れられていました。
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さらに「後編」では、上野公園の西郷隆盛像(光太郎の父・光雲が主任となって東京美術学校総出で制作)。
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動画でこれを観るのは初めてでした。

初めて観た、といえば、こちら。
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芥川龍之介を撮影した動画。撮影は震災後しばらく経った昭和2年(1927)ですが、震災時に芥川が東京市内の様子をレポートしたという話の流れで使われました。この動画の存在は存じていましたが、観るのは初めてでした。しかも8Kカラー。

その芥川の手記から、「救い」のような部分で番組全体のまとめ。
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さて、「後編」の方が再放送されます。

再 NHKスペシャル 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 後編

NHK総合 2023年9月7日(木) 00:40〜01:31

10万5千人が命を落とした関東大震災の3日間を高精細カラー映像で追体験する。後編では、震災最大の悲劇・陸軍被服廠跡を襲った巨大な火の竜巻・火災旋風の謎に迫る。

1日午後4時頃、最大の悲劇が生まれる。両国駅付近の広場、避難場所となった陸軍被服廠跡を巨大な火災旋風が襲い、避難者4万人のうち、3万8千人が亡くなったのだ。映像は、遺体が折り重なる惨劇の跡を克明に記録している。2日目になると、人々の間に流言飛語が飛び交う。混乱に乗じて朝鮮人が襲ってくるという噂。警視庁は全焼し機能停止、新聞社も火災に遭っていた。確かな情報がない中で、人々の心に狂気が取り付いていく。

【語り】守本奈実


ネット上でも「NHKプラス」さんで前編後編共に配信中。ただし利用登録が必要ですし、ブラウザが限定されているようですが。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

この夏は随分暑くて困りましたが、父の胸像をやつてゐたので却て凌ぎ易かつたやうです、もう畧出来上がりました、


昭和10年(1935)8月30日 難波田龍起宛書簡より 光太郎53歳

父の胸像」は「光雲一周忌記念胸像」。東京藝術大学さん構内に露座で設置されている他、同型のものは今週末まで信州安曇野の碌山美術館さんで開催中の「夏季特別企画 生誕140周年高村光太郎展」に出品されています。
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新刊です。

聞き書き・関東大震災

2023年9月1日 森まゆみ著 亜紀書房 定価2,000円+税

〈 1923年に起きた関東大震災から100年 〉
 著者が地域雑誌『谷根千』を始めたころ、町にはまだ震災を体験した人びとが多く残っていた。それらの声とその界隈に住んでいた寺田寅彦、野上弥生子、宮本百合子、芥川龍之介、宇野浩二、宮武外骨らの日記など、膨大な資料を紐解き、関東大震災を振り返る。
 地震の当日、人々はどのように行動したのか、その後、記憶はどのように受け継がれているのか。小さな声の集積は、大きな歴史では記述されない、もう一つの歴史でもある。そこから何を学ぶことができるのだろうか。
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目次
 ■序言………災害は忘れた頃にやってくる――寺田寅彦
 ■第1章……一九二三年九月一日004
  震災まで
  九月一日、発災当日
  谷中
  上野の美術展、初日
  根津の谷
  千駄木あたり
  本郷に火が迫る
  東京帝国大学構内の火事
  被害の少なかったお邸町
  上野桜木町
  上野の山をめざせ
  尾根沿いに日暮里へ
  田端文士村
 ■第2章……一夜が明けて、九月二日
  九月二日、発災翌日
  自警団
  九月三日朝、池之端焼ける
 コラム 林芙美子 根津神社の野宿
 ■第3章……本所から神田、浅草など
  被害のひどかった本所
  神田周辺005
  佐久間町の奇跡
  下谷区、浅草区
  浅草十二階
  溺死した吉原の遊女たち
  神奈川県の被害――横浜、鎌倉、小田原
 コラム 藤沢清造 小説家のルポルタージュ
 ■第4章……震災に乗じて殺された人びと
  朝鮮人虐殺
  中国人の虐殺
  殺された、間違われた日本人
  社会主義者の拘束
  亀戸事件
  大杉栄・伊藤野枝事件
  虎ノ門事件――摂政官狙撃  
 コラム 宮武外骨
 『震災画報』でいち早く知らせる
 ■第5章……救援――被災者のために
  行政の避難救護と食料配給
  遺体処理
  医療
  教育
  ボランティア
  鉄道輸送
  変わる暮らし
 コラム 宮本百合子 二〇代の作家がつづった関東大震災
 ■第6章……震災で変わった運命
  やってきた人、去っていった人たち
  文学者たち
  震災後に歌われた二つの童謡
  奏楽堂のパイプオルガン
  根岸子規庵の去就
  上野動物園の象
 ■第7章……帝都復興計画
  後藤新平の震災復興
  復興小学校
  復興公園・本郷元町公園
  同潤会アパート
  経済的打撃から昭和恐慌へ
  東京都慰霊堂
 ■第8章……今までの災害に学ぶこと
  江戸時代の地震
  斎藤月岑『安政乙卯江地動之記』
  鯰絵
  不忍池と上野公園の意味
  井戸のある暮らし――谷根千の水環境
  阪神・淡路大地震
  三・一一、東日本大地震
 コラム 永井荷風 江戸と明治の終わり
 ■正しく怖がり適切に備えるために――東京大学平田直名誉教授に聞く
 あとがき


森氏らがかつて発行していた『地域雑誌 谷中根津千駄木』(谷根千)などから、関東大震災に関わる主に谷根千地区の住民の皆さんの証言等を抜き出し、ほぼ時系列順に並べて、新たに解説が付されています。一部、神奈川県での被災の様子も含みます。
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千駄木に居住していた光太郎の名も。元ネタは『谷根千』第51号(平成9年=1997)に載った、画家にして詩人の難波田龍起への聞き書き「駒込林町 高村光太郎のいた頃」。難波田は光太郎住居兼アトリエのすぐそばに住んでいました。他の箇所には光雲の名もちらりと。

光雲と言えば、表紙には光雲が主任となって東京美術学校総出で作られた上野公園の「西郷隆盛像」があしらわれています。こちらの元ネタはジャーナリスト・宮武外骨の『震災画報』。上の方に元絵を載せておきました。

難波田の回想では、光太郎との交流は震災がきっかけだったそうです。

 僕が目白から早稲田の高等学院に入ったのは大正十二年。その年の秋が関東大震災で、自警団ができたときに高村光太郎さんと夜警で会って、初めてあいさつをするようになったんです。久留米絣の筒袖を着て鳥打帽をかむった高村さんがポストに手紙を出しにいくのは子どもの頃からよく見ていたんですが。

自警団」に関しては、光太郎が編集者・龍田秀吉に送った翌年2月22日の書簡に記述があります。

今日はわざわざ来て下さつたのに、昨夜徹宵したのと、今夜の夜警勤務の支度とのため、丁度寝たところで、とてもねむくてねむくて起きられなかったので、知りながら其のまま睡つてしまひ、失敬しました。(略)今夜は此から明朝まで夜警小屋に出るのです。

震災から半年近く経っても、夜警が行われていたのですね。まさか光太郎は道行く人を捕まえて「井戸に毒を投げ入れただろう!「十五円五十銭」と言ってみろ!」などということはやらなかったと思いますが……。

震災後に起こった種々の虐殺事件について、本書では一章を割いています。「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらないところであります」とほざいた政府高官にぜひ読んでいただきたいところです。蛙の面に小便かもしれませんが。

閑話休題、『聞き書き・関東大震災』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生は明日午后神戸へ急にまゐります、帰国する弟を迎へにゆくのですが、此弟とは十九年も会はないわけです、一時フランスで行衛不明にだつた弟です、どんなに変つてゐるかと思ひます、


昭和10年(1935)8月17日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

」は、三歳違いのすぐ下の弟・道利。軍人志望や結婚を光雲に反対され、半ば自暴自棄になって渡欧したまま、やがて音信不通になっていました。それがフランスの大使館から慈善病院的な所に入院しているが、送還するので引き取って欲しいという知らせが来、その受け取りでした。

道利の下の弟・豊周の回想に依れば、道利の渡欧は大正10年(1921)頃とのことでしたが、「十九年も会はない」となれば1935-19=1916で、大正5年となります。

その後、道利は昭和20年(1945)、縦穴の防空壕に転落した事故が元で亡くなりました。

昨日は大正12年(1923)に起こった関東大震災からちょうど100年。

8月26日(土)の『毎日新聞』さんに、震災直後、貼り紙が無数に貼られた上野公園の西郷隆盛像(光太郎の父・光雲が主任となって東京美術学校総出で制作)の写真が半ページ使って掲載されましたが、NHKさんのニュース番組内でも同様の画像が流れました。

上野だけでなく、都内(当時は「東京府」でしたが)各所の被災の様子等でした。

関東大震災100年 被災直後の東京 写真で見る被害状況

 9月1日で関東大震災の発生から100年となります。NHKのアーカイブスには、関東大震災の発生直後に東京の都心部を撮影した写真や映像が数多く残っています。どの写真も巨大災害の大変貴重な記録です。今回、その写真が撮影されたのとほぼ同じ場所を訪ねました。私たちもよく知っているあの場所が100年前の被災直後はどうだったのか、動画で紹介します。
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皇居外苑 二重橋前 ~ 被災者がバラックで避難生活
 皇居外苑の二重橋前信号付近から皇居の方向を撮影しました。100年前と現在の写真を動画で比較しています。皇居は、明治21年から昭和23年まで宮城(きゅうじょう)と言われていました。発災時は多くの被災者が宮城外苑の二重橋前広場に避難し、そこにバラックと言われる仮設の建築物を建てて避難生活を送っていたことが見てとれます。写真の上部に木が生い茂っていることから、その奥に宮城があることがわかります。
 警視庁の「大正大震火災誌」によりますと、地震が発生した9月1日に、外苑に避難した人は約21万人いたということです。その後、月末には4162名にまで減り、翌大正13年1月初旬には1890人いた避難者が芝離宮内に移転したということです。
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こちらには西郷隆盛像と同様に、光雲主任、チーム美校で制作した楠木正成像が既にあったのですが、西郷像のように伝言板的な使い方はされなかったのでしょうか。

日本橋 三越 ~ 建物火災も“ライオン像”は被害免れる
 関東大震災発生直後の三越呉服店(現在の日本橋三越本店)とその周辺です。100年前と現在の写真を比較した動画です。内閣府の資料によると、三越呉服店は地震の影響により屋上の貯水タンクの配管が破損して漏水し、消防設備が無力となって延焼したということです。
 当時の写真からは、火災で焦げたような跡が建物に残っていることや、入り口にあるシンボルのライオン像は被害を免れたことが見て取れます。発災時の様子が記録された『大正大震大火之記念』には、当日の百貨店の様子などについて、月の初めの土曜日ということで商売に携わっている人の中には休みの人も多く、浅草方面や活動写真劇場などの歓楽街は朝からずっと大いににぎわっていて、三越をはじめとする百貨店も非常に多くの人で混み合っていた、と書かれています。

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三越さんには、光雲作の「活動大黒天」が納められていましたが、たまたま金庫に保管されていて焼け残り、現在は屋上の三囲神社さんに奉納されています。

日本橋 ~ 路面電車が焼けて台車部分のみに
 関東大震災が発生した直後の日本橋と、現在の日本橋を比べた動画です。装飾柱には今も残存する麒麟(きりん)像がうつっています。左側の白い壁の建物は当時あった村井銀行です。粉じんなどを避けるためか、マスクをしている人がいます。画面右では路面電車の上が焼けてしまい、台車部分のみが残っている様子がわかります。内閣府の資料によると、地震発生翌日の9月2日の未明には日本橋のほとんどの地域が焼失したということです。
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隅田川 吾妻橋 ~ 火災で路面抜けるなどの甚大な被害
 関東大震災直後の吾妻橋の写真と、現在の様子を比べた動画です。内閣府の資料によると、隅田川には当時、北から吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋の5つの橋が架かっていて、このうち吾妻橋、厩橋、永代橋の3つの橋が火災で甚大な損傷を受けたということです。画面の左奥に見えるのは大日本麦酒の工場でビールを製造していました。路面が抜けるなどの被害を受けた橋を鉄道第二連隊が補修している様子が撮影されています。全国から復旧の応援が来ていました。
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隅田川べりは、明治末、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」の会場となった幾つかの料亭などがあった場所です。

浅草寺 ~ 境内は支援拠点や避難所に “尋ね人”の紙も
 関東大震災の後、浅草寺本堂周辺で撮影された写真です。同じ位置から撮影した現在の様子と動画で比較しています。写真からは激しい揺れで灯籠が崩れている様子や尋ね人の紙も確認できます。当時、浅草寺は支援の拠点や避難所になっていて、炊き出しなどが行われていました。『浅草寺社会事業概要 大正13年10月現在』の記録によりますと、被災者約1万5000人の収容、食料その他の配給、尋ね人受付、はがきの代書、巡回回向(供養)、慰安会開催などその活動は多岐にわたりました。浅草寺に属する60余りの僧侶や婦人会、学生僧侶はこれらの臨時救済事業に全力を費やしていたということです。
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浅草 仲見世 ~ 炊き出しや給付に向かう人々の列
 浅草寺の仲見世商店街の関東大震災直後の写真と、現在を比較した動画です。本堂のあるほうに向かって歩く人々の姿が見えます。当時、浅草寺は支援物資拠点や避難所の一つになっていて、炊き出しや給付が行われていました。浅草寺のホームページによりますと、仲見世は関東大震災から2年後の1925年(大正14年)に鉄筋コンクリート造り、朱塗りの商店街に生まれ変わったということです。

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浅草寺さんが焼けなかったのは、本堂裏手に広大な池があったためとも言われているようです。その池の中央にあった噴水には、光雲作の「沙竭羅龍王像」が配されていました。現在は本堂手前の手水舎に移転されています。

そして、西郷像。

上野公園 ~ 西郷隆盛像が“伝言板” 約50万人が避難
 上野公園にある西郷隆盛の銅像とその周辺の様子です。100年前の写真と現在を動画で比べてみました。体や立っている台のあたりに多くの張り紙が貼ってあるのが確認できます。当時の東京市の『東京震災録 前輯』など複数の資料によりますと、銅像や柱や壁は行方不明者を尋ねたり避難者の無事を知らせたりするといった伝言板代わりとなっていました。
 上野公園は火事から免れ、内閣府の資料によると、都内で最も多いおよそ50万人が避難したということです。当時の内務省の「大正震災志」によりますと、広大な公園がわずかな隙間もない状態で、避難者は一時お互いの体を枕にして夜を明かしたということです。その後はそれぞれの故郷に帰ったり、被害が軽微な場所に移ったりし、9月下旬には大部分が退去して、わずかに残った避難者が現在の東京国立博物館の敷地内や池之端に建設された公営のバラックに収容されたということです。
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あの上野公園に50万人とは驚きでした。光雲はこの時、まだ存命でしたが、どう感じていたのでしょうか。

上野駅 ~ 多くの避難者がホームや線路にあふれる
 関東大震災直後の上野駅周辺の写真と、現在の様子を比較した動画です。避難した大勢の人たちが写っています。内閣府の資料によると、上野駅は地震当日、屋根が落ちるなどの被害にとどまったため、多くの避難者が駅周辺に押し寄せ、ホームや線路にまで人があふれたということです。しかし翌日の2日には上野駅周辺にも火災が広がり、避難者は西側の上野公園に逃げ込みました。鉄道省の「国有鉄道震災誌」によりますと、関東大震災で駅舎は焼け落ちましたが、復旧に向けて動き、9月23日には運輸営業を再開したということです。
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明日も関東大震災関連で、新刊書籍をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

与謝野先生が御病気で中々御重態の事を一昨日平野万里さんからの電話ではじめて知り昨日慶応病院にお見舞い申上げました、一昨日が一番容態が悪く、昨日はよほど持ち直された御様子で此の分ならばまづ安心といふ事でありました、

昭和10年(1935)3月22日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

「与謝野先生」は光太郎の師・鉄幹与謝野寛。「よほど持ち直された御様子」とありますが、蠟燭が消える前の一瞬の煌めきだったようで、3月26日には亡くなりました。死因は気管支カタルでした。

今日、9月1日は大正12年(1923)に起こった関東大震災からちょうど100年。

『朝日新聞』さんでは、「(関東大震災100年)帝都被災、おののく文豪たち」と題し、光太郎の名はありませんでしたが、光太郎と交流のあった与謝野晶子、室生犀星、芥川龍之介らの文章等を紹介していました。それぞれ震災時の様子が生々しく記されたもので、貴重な証言記録です。
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光太郎が震災時の様子を書いたレポート類は確認出来ていません。しかし、直後には智恵子ともども震災に触れた提言を発表しています。

光太郎のものは、11月に雑誌『女性』第4巻第5号に載ったアンケート回答「アメリカ趣味の流入を防げ――帝都復興に対する民間からの要求――」、同月『報知新聞』に連載された散文「美の立場から」(『中央建築』第2巻第5号 大正13年=1924に転載)がありました。いずれも留学中には都市計画にも多大な興味を持ち、自身で建築設計も行った光太郎ならではのものです。こちらをご覧下さい。

心を病む前の智恵子の提言も、2篇確認出来ています。

まず、やはり11月の雑誌『女性』に光太郎のそれと共に載ったアンケート回答「建設の根源は此処に在り――帝都復興に対する民間からの要求――」。

 期間を画して、一都市が思ひきり一掃されるとすれば、この激震の予想を、考量のすべてに入れる事はむしろ、当然すぎる事とおもふ。
 首都のあらゆるものが、僅か一世紀にも満たず煙りと消え、陰惨な墓場と化するやうなミゼラブルに、今後われわれは堪へようとするのか。国が歴史を持つやうに、都市の姿にも代々の人々の、堅実な精神と叡智との堆積が聳え輝くやう、そして世紀より世紀へ、累畳(るいでう)されなければ、われわれは文明に恥づべきである。
 ゴシツクやルネサンスが、永遠への、偉大な精神的観念に裏づけられる事なくして、あの優美と崇高の生ける姿を現はし得たであらうか。たとへサンマルコやサンピイトロの寺院また数々のフランスの本寺などが、われらの都に花さく夢想はしなくとも、せめてこの都をして永久に生かしめる確信によつて、すべての火は内に燃ゆべきであらう。少くともわれわれの全生命を傾けた、はるかな時代への忠実な寄与として、来るべきものを鼓舞し高め、更によき生命の胚胎の園生(そのふ)とするだけの覚悟がなくては。この考へが人々のこころに潜力となり地盤となつて、芽生えをもつ。
 眼をあげて高きものへの、趣味と憧憬(どうけい)とその不撓の力とをもつて、石をとれ、岩石を彫刻せよ。剛堅にしてしかも温かい生命を蔵する石材によつて、焼け失せ蝕まぬわが首都の衣裳となさしめよ。そして山嶽の威風と優美と、森林の荘厳と軽快と、大洋の自由と勢力とを理想せよ。
 如何に経済と機械と能率との問題に尽きてゐる事務的な、会社、商会、諸官省にしても、あの無味乾燥な、人をして重苦しい憂鬱の虜(とりこ)とするやうな洋風建築が、どこ迄もどこ迄も拡がつてゆく安価な木造家屋。失はれたわれらの東京の建築に、不朽のものとして真に哀惜に堪へないものが、幾何(いくら)そこにあつたであらう。恵まれない優越国の都であつた。
 今日創造される都市として、必然的な基本設備である上下水道、公園、街路、運河、筑港、交通機関、種々の区画、配置、防備其の他の設計については、もとより間然されないであらう。ただけちな制限を費用をおかずに遠大を期されたい。
 すべてを破滅し尽した今、われわれの偉大な理想へのよき機会を逸してはならない。建築に対する新らしい道程は開かれてゐる。急がずあせらず、自然界の生長の如く、微細に入念にそして大胆に、生命の奥底に仕事を育たしめよ。


アンケート回答と言いつつ、かなりの長文です。震災発生時、智恵子は福島の実家に帰省中で、その後も東京は大変な状況だったこともあり、しばらく帰って来ませんでした。そこで、この文章、光太郎の代筆ではとも思ったのですが、読点の打ち方など、明らかに光太郎のそれとは異なります。建築についての提言内容などが光太郎の考えともかぶっているのは、光太郎の影響と思われますが。

もう一篇、おなじく11月の雑誌『婦人之友』に載ったアンケート回答「暴力は臆病の変形――甘粕事件に関する感想――」。

 おはがき延着のためたぶんもう遅れた事と存じますし、また感想をのべるとしては事件の結審までみてからのことです。尤もその刑法上の処罰の如何等のことはさして私の注意をひいてゐる問題ではありません。ただ殺人に関する同胞の心理上のある一点に、大きな疑問をもつてゐるからです。
 もとより、かかる事件の忌はしい事は、法律にもとるからばかりでありますまい。また動機の如何もつまりは打算の問題です。われわれが死せるものに生命を与へ得ない限り、これに手を触れる事はゆるされない。他人の生命に手をかけるなんて、何といふ醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です。
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言わずもがなですが、震災直後のドサクサに紛れ、憲兵大尉・甘粕正彦が、無政府主義者・大杉栄とその妻・伊藤野枝、そして甥っ子の橘宗一少年を惨殺した事件に関わります。野枝は智恵子とほぼ入れ違いに『青鞜』メンバーとなりましたし、光太郎は大杉等の活動に理解を示し、シンパに近い立ち位置でした。

ちなみに、ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の先輩にして恩師でしたが、智恵子がそれを知っていたかどうか……。

昨年ドラマ化もされた村山由佳氏の小説『風よ あらしよ』などの影響で、もう少し大杉・野枝夫妻らの殺害について各種メディアで紹介されるかと思っていましたが、そうでもありません。いわゆる朝鮮人虐殺や「福田村事件」などについてはそれなりに取り上げられていますが(どこかの知事は相変わらずだんまりを決め込むようですけれど)。

100年経っても、防災に対する意識、大災害後の心構え等、学ぶべき点はたくさんありますね。

【折々のことば・光太郎】

智恵子入院後やはり同じ容態のやうです、十日毎に病院へ会計に参りますが家族の者は面会せぬ方がよいといふのでもう二十日以上もあひません。


昭和10年(1935)3月22日 齋藤セツ宛書簡より 光太郎53歳

セツは智恵子実妹。前年、九十九里浜で半年あまり智恵子を引き取ってくれていました。九十九里へは毎週のように見舞いに行っていた光太郎ですが、この書簡にあるように「家族の者は面会せぬ方がよい」と言われ(それを免罪符にしてしまっていたような気もしますが)、ゼームス坂病院へは会計に行くだけのことが多かったのは事実です。

当時としては最先端の精神科医療をうたっていた同院、その入院費用には前年に亡くなった光太郎の父・光雲の遺産が役立ちました。

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