2023年04月

演奏会情報です。2月に横浜と広島で公演をなさった「藤木大地&みなとみらいクインテット」の皆さんが、新潟と奈良で。

まずは新潟。

りゅーとぴあ室内楽シリーズNo.49 藤木大地&みなとみらいクインテット

期 日 : 2023年5月3日(水・祝)
会 場 : りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館 新潟市中央区一番堀通町3-2
時 間 : 14:00~ 
料 金 : S : 4,500円 A : 3,500円

日本が世界に誇る国際的カウンターテナーの藤木大地と5人の名手による珠玉の室内楽コンサート 唯一無二の歌声を持つカウンターテナーの藤木大地が名手5人と共に創り上げる極上の時間

りゅーとぴあには2018年「りゅーとぴあ・オルガン・リサイタルシリーズNo.25」のゲスト出演以来の登場となる藤木大地。完璧にコントロールされた柔らかな美声と表現力に魅了された方も多くいらっしゃることでしょう。今回は往古来今、その歌声の魅力を余すことなく味わえる贅沢なプログラム。各界で活躍中の個性あふれる名ソリストたちが放つ輝かしい音色と、丁々発止のやり取りが楽しめる特別なアンサンブルは必聴必見です。この企画は、「横浜みなとみらいホール プロデューサー 2021-23」に就任した藤木大地が提唱する横浜市と地域の文化施設ネットワーク化プロジェクトの第一弾として開催します(他、神奈川県横浜市・横須賀市、奈良県大和高田市、広島県三原市、福岡県福岡市で実施)。

プログラム
 ピアノ五重奏曲より 第3楽章(ショスタコーヴィチ)
 お客を招くのが好き(J.シュトラウス2世)
 アヴェ・マリア(マスカーニ)
 ヴォカリーズ(ラフマニノフ)
 魔王(シューベルト)
 私はこの世に忘れられた(マーラー)
 鎮められたあこがれ(ブラームス)
 ピアノ五重奏曲より 第4楽章(シューマン)
 静かな真昼(ヴォーン=ウィリアムズ)
 ネッラ・ファンタジア(モリコーネ)
 ヤンキー・ドゥードゥル(ヴュータン)
 レモン哀歌(加藤昌則)
 鴎(木下牧子)
 瑠璃色の地球(平井夏美)
 いのちの歌(村松崇継)

出演
 藤木大地(カウンターテナー) 成田達輝(ヴァイオリン) 山根一仁(ヴァイオリン)
 川本嘉子(ヴィオラ) 遠藤真理(チェロ) 松本和将(ピアノ)
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続いて、奈良。

ムジークフェストなら 藤木大地&みなとみらいクインテット

期 日 : 2023年5月21日(日)
会 場 : 大和高田さざんかホール 奈良県大和高田市本郷町6-36
時 間 : 15:00~
料 金 : 一般3,000円 高校生以下500円(当日各500円増)

初夏の大和路に響く 奇跡の歌声と心に染み入る極上のハーモニー
唯一無二の歌声を持つカウンター藤木大地が、今望みうる最高のクインテットと共に再びさざんかホールに登場! この企画は、「横浜みなとみらいホール プロデューサー 2021-2023」を務める藤木大地が提唱する横浜市と地域の文化施設ネットワーク化プロジェクトとして開催します(当館他、神奈川県横浜市・横須賀市、新潟市、広島県三原市、福岡市で実施)。

プログラム
 ピアノ五重奏曲 第3楽章 / ブラームス
 アデライーデ / ベートーヴェン
 魔王 / シューベルト
 リディア / フォーレ
 愛の讃歌 / モノ―
 静かな真昼 / ヴォーン=ウィリアムズ
 遠く、遠く、お互いから / ブリッジ
 ピアノ五重奏曲 第4楽章 / ショスタコーヴィチ
 I Dreamed a Dream / レ・ミゼラブル
 サンクタ・マリア / 加藤昌則
 アメリカの思い出 「ヤンキー・ドゥードゥル」Op.17 / ヴュータン
 レモン哀歌 / 加藤昌則
 鷗 / 木下牧子
 いのちの歌 / 村松崇継
 満ち足れる安らい、うれしき魂の悦びよ / バッハ

出演
 藤木大地(カウンターテナー) 成田達輝(ヴァイオリン) 周防亮介(ヴァイオリン)
 川本嘉子(ヴィオラ) 上村文乃(チェロ) 加藤昌則(ピアノ)
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新潟公演と奈良公演で、プログラムがだいぶ異なっていますが、双方に加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」が入っています。光太郎詩句を反映し、切なくも爽やかな印象の曲です。また奈良公演では加藤氏がピアノ担当です。

それぞれお近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

帰つて来ました。葉書も見ました。山では少しは画いた。まだ荷をといたばかり、東京の様子更にわからず。会ひたいと思つて居るから二三日うちに行くかも知れない。山の画でみてもらひたいのもある。 いろんな話すことがどつさりある様だ。


大正2年(1913)10月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎31歳

002」は智恵子と過ごし、結婚の約束を果たした信州上高地。「いろんな話すことがどつさりある」のは「智恵子がらみでしょうか。

少しは画いた」のは油絵。10月12日から神田三崎町のヴヰナス倶楽部で開催された生活社主催油絵展覧会に、上高地での油絵21点と彫刻1点、素描3点が出品されました。

油絵21点のうちの1枚の現存が確認できており、時折、光太郎展などに出ます。この1枚のみ、葉舟が入手し、現在は某美術館に寄託されているはずです。

他は生活社展のパンフレットにモノクロの画像が載っているものが2点、それ以外はどんなものか不明ですし、現存が確認できていません。何処かからひょっこり出てこないかな、と思っているのですが……。

生活社は、前年に結成されたフユウザン会が早くも方針の相違から分裂し、光太郎、岸田劉生、木村荘八、岡本帰一の四人で興したグループです。

一昨日、昨日と、光太郎第二の故郷とも言うべき岩手県花巻市に行っておりました。

まずは花巻市郊外で現地調査。昭和25年(1950)に光太郎が文字を揮毫した墓石の探索でした。この年の光太郎日記は大半が失われており、その詳細が不明でした(郵便物の授受を記録したノートは残っており、そこにちらっと記述がありまして)が、昨年12月に国立国会図書館さんのデジタルデータ閲覧システムが大幅にリニューアルされ、自宅兼事務所に居ながらにして、これまで得られなかった大量の情報が手に入るようになり、墓石銘当該人物の出身地が判明しました。さらに他のサイトで、当該人物の血縁とおぼしき方々がその地区にまだ住んでらっしゃることも判明。雲をつかむに近い話ではありますが、無駄足覚悟で行ってみました。新花巻駅からレンタカーです。

戦後の7年間、光太郎が暮らした旧太田村もかなりの寒村で現在もそんな感じですが、この地区も同じような佇まい。よそ者が車を駐めて歩いていると目立つ、というか、当方のような人相の悪い男がうろうろしていると、物騒な昨今、不審です。お庭で何か作業をされていた年配のご婦人に「何かお探しですか」と声を掛けられました。そこで「これこれこういうわけで……」と説明し、光太郎に墓石の揮毫を依頼した人物の名を挙げると、「ああ、その方はもう亡くなってますけど、そのお宅でしたらひと山向こうのこの辺で……」と、詳しく教えて下さいました。

教えていただいた通りにレンタカーを走らせ、ここだろう、というお宅で呼び鈴を鳴らし、出ていらしたご婦人に「かくかくしかじかで……」と言うと、ご主人を呼んで下さって、「ああ、そのお墓でしたらあそこですよ」。指さされた数百メートル先の小高い山頂に共同墓地。「分かりにくい場所なので案内しましょう」と、軽トラを出して下さり、当方はレンタカーでついていきました。最初のご婦人にしろ、このご夫婦にしろ、何とも親切な方々で……。

車を駐めてご夫婦の後について山道を上ると、共同墓地。そして二基の墓石が、まごうかたなき光太郎の筆跡で、光太郎の遺した記録と一致しました。感無量でした。長時間探したあげく結局見つからず、という事態も覚悟していたのですが、とんとん拍子に見つかったのは、奇跡的でした。光太郎や、墓石に眠る方々のお導きなのか、という気もしました。二基の墓石に眠るお二人、それぞれ太平洋戦争で亡くなっています。お一人は軍人で、抑留されていたシベリアで最期を迎えられたことが墓石側面に記されていましたし、事前に得ていた情報とも一致しました。もうお一方は「軍属」と記されていましたが、そちらはいつどこで亡くなったか何も書かれていませんでした。

ご夫婦、これが光太郎の書いた文字だということは御存じではありませんでした。ただ、依頼した人物(お墓に眠るお二人の父君)の昔の日記が残っているというお話でしたので、そこに経緯が記されているかも知れません。

持参した香を手向け(最初に案内していただいた時には興奮のあまり忘れていたのですが、レンタカーにとってかえし、ボストンバッグから引っぱり出しました)、合掌。

ちなみに、茨城取手山形米沢と、これで記録に残る光太郎揮毫の墓石すべての所在が分かりました。まだ同様の例で記録が確認できていないものがあるかもしれませんが。

その後、旧太田村の高村山荘(光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋)、隣接する花巻高村光太郎記念館さんに推参。

山荘前のかつて光太郎が自耕していた畑の跡には水芭蕉が咲き誇っていました。
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千葉の自宅兼事務所ではとっくに散ってしまった連翹も。
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久しぶりに、山荘裏手の智恵子展望台に上ってみました。冬期は積雪のため行くことが出来ません。
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隣接する花巻高村光太郎記念館さん。
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こちらでは企画展「山口山の木工展」が開催中。奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏による、光太郎や宮沢賢治の世界を表した木工作品の展示です。「山口山」というのは、この辺りの低山の総称です。
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光太郎、そして賢治ワールドのとにかく楽しい作品がいっぱいです。
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しかもモーター仕掛けで動いているものも。
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光太郎も動いて藁を打っていました(笑)。
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やじろべえ。絶妙のバランスで静止しています。
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ダム湖の流木でつくられたという鹿。
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どの作品も木ならではの温かみにあふれ、光太郎も絶賛するのでは、という気がしました。

拝観後、市役所の方に今年度の展望等報告を受けました。そしてお土産。
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最近流行りの缶バッヂです。これもいい感じですね。

記念館をあとに、宿泊させていただく大沢温泉さんへ。
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チェックイン後、旧菊水館のギャラリー茅へ。以前は宿泊棟で、当方、こちらに泊まることが多かったのですが、平成30年(2018)の台風でこちらに通じる橋が車で通行できなくなり、宿泊棟としては休業。その後、手前の棟をギャラリーとして活用していたのですが、さらに茅葺き部分の棟も完全に展示スペースに改装。宿泊棟としての使用はあきらめたようです。その点はちょっと残念ですが……。
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こちらでは「もうひとつの鈴木敏夫とジブリ展」が開催中です。鈴木敏夫氏は、スタジオジブリさんの代表取締役プロデューサー。大沢温泉さんファンとのことで、この展示が実現しました。集客になるならこれもありかな、と存じます。
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まっくろくろすけ、本物が一匹くらい混じっていてもわからないでしょう(笑)。
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茅葺きの棟、天井板が取り払われて、下から茅葺きの裏側が見えるようになっていました。
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手前の棟の貴賓室的な部屋はそのままに残されている部分も。おそらく光太郎、このあたりの部屋に泊まったと思われます。当方も二度、泊めていただきました。

茅葺きの棟も、露天風呂に面した窓側には宿泊棟時代の名残。
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この手の部屋にはさんざん泊まりました。もう泊まれないのかと思うと、やはり寂しいですね。

屋根も山側はトタン葺きになっていました。
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部屋に戻り、温泉に浸かって、夕食は自炊部内の食事処やはぎさんでいただきました。

というわけで、花巻高村光太郎記念館さん「山口山の木工展」、大沢温泉さん「もうひとつの鈴木敏夫とジブリ展」、それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

まだ山に居りましたが、この一日には下山いたす筈になつて居ります。

大正2年(1913)9月29日 窪田空穂宛書簡より 光太郎31歳

」は、8月上旬から10月にけ、滞在していた上高地です。9月には智恵子も光太郎を追ってやって来、ここで二人は結婚の約束を交わしました。窪田は智恵子と入れ替わりに下山しています。

この葉書、『高村光太郎全集』等未収録の新発見ですが、神保町の玉英堂書店さんが売りに出しています。

昨日から、一泊二日の日程で光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。今年2月、宮沢賢治令弟・清六氏の令孫たる宮沢和樹氏との公開対談以来、2ヶ月ぶりです。宿泊は例によってなのですが、大沢温泉さん。
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昨日は花巻市の郊外で現地調査をし、夕方、高村山荘(光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋)、隣接する花巻高村光太郎記念館さんに推参。企画展「山口山の木工展」を拝見しました。奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏による、光太郎や賢治の世界を表した木工作品の展示です。
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このブログ、いつもは旅先からですとスマホでの投稿で、入力が面倒くさく(タブレット買えよ、という話ですが(笑))、ここいらで「詳しくは帰りましてからレポートいたします」で終わりにしているのですが、今日は別。

とにかくここのところ、取り上げるべき事項が大杉栄、もとい、多すぎでして、花巻がらみの新情報、今日のうちにご紹介してしまいます。

まず、「山口山の木工展」につき、花巻市さんの方で動画が作成され、公開されています。


ぜひご覧の上、足をお運び下さい。

もう1件、もう先週になりますが、やはり花巻市さんよりこんな冊子を戴きました。
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題して『The Onsen of Hanamaki 花巻温泉』。

光太郎が亡くなる2ヶ月前の昭和31年(1956)に語った談話筆記「花巻温泉」の全文と、その英訳が載せられています。さらに光太郎が花巻にいた前後の画像などがふんだんに使われ、理解の手助けとなっています。下記は、ここ、大沢温泉さんのページ。
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制作されたのは、花巻市の地域おこし協力隊で活動されている森川沙紀氏。2月の宮沢和樹氏との公開対談にいらっしゃいまして、お近づきにならせていただきました。

A5判47ページ、なかなかの労作です。奥付画像を貼っておきますので、ご入用の方、そちらまで。
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さらにもう1件。4月19日(水)付の『岩手日報』さん記事。

「北の文学」第86号優秀作が決定

 岩手日報社発行の文芸誌「北の文学」第86号の優秀作は、宮城県富谷市の瀬緒瀧世さん(38)=花巻市ゆかり=の小説「fantome(ファントーメ)」、横浜市の谷村行海さん(27)=盛岡市出身=の小説「どこよりも深い黒」に決まった。
 瀬緒さんの作品は、宮沢賢治の家族を頼り疎開していた高村光太郎との交流を、村に住む少女の視点から描いた幻想的な物語。史実に基づくエピソードを織り交ぜ、詩情豊かに表現した。初めての応募での受賞となる。
 谷村さんの作品は、俳句に打ち込む男性と結婚が気になる年上の彼女との心模様を展開。安定感のある文章力で、若者の世界を軽やかに繰り広げた。応募は11回目。76号で初入選し、これまで7回入選している。
 応募は小説21編、文芸評論3編、戯曲3編だった。事務局の予備選考を通過した小説9編、文芸評論1編を最終候補として選考会を開催。編集委員の鈴木文彦さん(東京都、盛岡市出身)、久美沙織さん(長野県、盛岡市出身)、大村友貴美さん(横浜市、釜石市出身)の合議で優秀作2編、入選作2編を選んだ。
 優秀作には賞状と賞金10万円を贈り、入選作とともに5月発行の「北の文学」86号に掲載する。
 入選作は次の通り(敬称略)。
 ◇小説▽「トマト祭り」森葉竜太(47)=山田町▽「卯年炭」咲井田容子(48)=埼玉県越谷市、山田町ゆかり

両親が花巻出身の縁
 瀬緒瀧世さんの話 久しぶりによいお知らせをいただいた。両親が花巻出身で、小さい頃よく遊びに行っていた。高村光太郎や宮沢賢治は身近な存在で、本作は母や祖母から聞いた話が積み重なってできた物語。書き物は読んでいただいて初めて小説になると思う。1年1本を目標に、できれば明るい話を書いていきたい。

実体験を元に書いた
 谷村行海さんの話 選評の指摘をばねに頑張ってきたので、やっと賞を取れてうれしい。句会を含め実体験を基に書いたが、作品にはリアリティーを出したいと思っている。読んだときにちょっとだけ笑えるような、、コメディーよりのものも書いてみたい。この道を勧めてくれた恩師と、毎回作品を読んでくれた父に感謝したい。


というわけで、花巻郊外旧太田村時代の光太郎を描いた小説が優秀作に選ばれたそうで、喜ばしいかぎりです。来月、岩手日報社さんから発行される『北の文学』に掲載されるそうで、読むのが楽しみです。

さて、今日は帰りがけ、都内に立ち寄るつもりです。

詳しくは帰りましてから。

テレビ放映情報です。

アートフルワールド 〜たぶん、すばらしき芸術の世界〜 #48いま会いに行ける銅像 後編

BSフジ 2023年4月29日(土) 13:30~13:55

街を歩いていると、ふと出会い、注目をして歩くと実にさまざまな場所にいる「銅像」。身近にあるけど、よく知らない、知るほどに謎が深まる「銅像」の世界を紐解いていく。

先週に引き続き、アートの冒険に出かけるのは女優の坂東希。長年、銅像を研究しているスペシャリストと共に、東京都内の銅像を巡る。

今回は、現在増え続けている「キャラクター像」や「偉人像」、そして銅像の作り方なども取り上げる。さらに、現役の芸大生に“見ると楽しい東京の銅像”も教えていただく。

出演者:坂東希  ナレーション:松本穂香

4月15日(土)、「前編」のオンエアがあり、拝見しました。
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番組説明欄の「長年、銅像を研究しているスペシャリスト」は平瀬礼太氏。ご著書を何冊か拝読したことのある方でした。
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光太郎の父・光雲が主任となって、東京美術学校として請け負った、皇居前広場の楠木正成像が、長めの尺で取り上げられました。
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さらに、同じく光雲主任、美校総出での制作になる上野の西郷隆盛像もちらっと。
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番組後半では、ロダン。日本に於けるロダン受容の歴史等について、国立西洋美術館研究員・山枡あおい氏のレクチャーの中に、光太郎の名も。
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さて、4月29日(土)は「後編」。「現在増え続けている「キャラクター像」や「偉人像」、そして銅像の作り方など」にスポットを当てるそうで、今回は光雲や光太郎にはあまり関わらないかも知れませんが、一応、ご紹介しておきます。

ちなみに予告編動画には、「前編」で取り上げられなかった、志村けんさんの銅像などがちらっと写りました。
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銅像の作り方」には非常に興味があります。動画で見られる機会は滅多にないような気がしますので。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】真山孝治宛て書簡

上高地名産

大正2年(1913)8~9月(推定)
真山孝治宛書簡より 光太郎31歳

この年8月上旬、光太郎は信州白骨温泉を経て、上高地に着きました。

偶然と思われますが、歌人の窪田空穂、画家の茨木猪之吉、歌人・編集者の谷江風、画家の真山孝治らと同宿でした。また、日本近代登山の父、ウォルター・ウェストン夫妻、伝説のシェルパ上條嘉門次も。

そして9月には智恵子も光太郎を追ってやって来ます。二人は10月まで滞在、ここで婚約を果たしました。

書簡は真山に宛てたもので、窪田と谷との連名です。

窪田が下山するのと同時に智恵子が入山し、驚いた窪田が『東京日日新聞』に「美くしい山上の恋―洋画家連口アングリ―」というゴシップ記事を投稿しました。

智恵子系のイベント情報等、3件まとめてご紹介します。

まずは智恵子の故郷、福島二本松から、「智恵子生誕祭」。期間中、さまざまなプログラムが用意されており、その総称です。

高村智恵子生誕祭

期 日 : 2023年4月27日(木)~5月21日(日)
会 場 : 智恵子生家/智恵子記念館 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:00~16:30
休 館 : 5月10日(水) 5月17日(水)
料 金 : 大人(高校生以上)410円(360円)
      子供(小・中学生)210円(150円) (  )内団体料金

 智恵子の生家 二階特別公開
  公開日 4月29日(土) ~5月7日(日) 5月13日(土)・14日(日)・20日(土)・21日(日) 

 「紙絵」実物展示
  展示期間 4月27日(木)~5月7日(日)
  展示場所 智恵子記念館展示室
 
 上川崎和紙で作る「智恵子の紙絵」体験
  開催日 5月13日(土)・14日(日)・20日(土)・21日(日)
  開催場所 智恵子の生家

 智恵子の生き方を想う~自分らしく生きるために~
  “自分を貫く”人生を送った智恵子のように、皆様自身の“自分を貫く”生き方について
  考えてみませんか。館内のカードに自由にご記入下さい。
  開催日 4月27日(木)~5月21日(日)
  開催場所 智恵子記念館

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ちなみに智恵子の誕生日は明治19年(1886)5月20日です。

続いて、千葉から。朗読のイベントです。

【千葉県150周年記念】文学で千葉を旅するカフェ

期 日 : 2023年4月29日(土) 4月30日(日) 5月3日(水) 5月4日(木)
会 場 : 戸定が丘歴史公園内『松雲亭』 千葉県松戸市松戸714-1
時 間 : 各日11:00~ 13:00~
料 金 : 1,000円(チケット代、飲み物付き)

千葉県誕生150年と言う記念すべき年を祝し、県内各地を舞台にした文学作品(抜粋)の朗読とカフェを楽しんで頂く企画です。座敷用ローチェアのご用意もございます。事前にチケットをご購入の上、ご参加ください。(チケットのお申し込みは090-8101-9347まで)

朗読作品は、司馬遼太郎「北斗の人」、太宰治「黄金風景」、乙川優三郎「地先」、高村光太郎「智恵子抄」、田山花袋「弟」等です。
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最後に都内から。

ニヒル牛・旅の本展

期 日 : 2023年4月22日(土)~5月18日(木)
会 場 : ニヒル牛 東京都杉並区西荻南4丁目31−10
時 間 : 12時~20時
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

2000年6月1日に開店した、石川浩司プロデュースのアートギャラリー雑貨店です。誰かにとって唯一の宝物が隠れている店。世界にひとつしかない手作りの物、かっこいい物はもちろんだけど、少しいびつだったり間抜けだったりする愛しい物達、それを見つけた瞬間のわくわくとした幸福に、出会える店が出来たらとニヒル牛は考えました。

今年も始まっております。ニヒル牛・旅の本展!ニヒル牛のGWはもちろんこれ!! 楽しい旅本、探しにいらして下さい。
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こちら、ギャラリーで、自主制作的な書籍を販売されているようです。

20冊ほどのラインナップの中に、「たむら来夢(うこわや)」さんという方の『2022年潜在意識を探る旅(二本松・桑名)』、750円。
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表紙は明治45年(1912)1~3月、雑誌『青鞜』に使われた智恵子によるアマドコロの表紙絵(かつては「スズラン」とされていましたが)があしらわれています。内容的にも智恵子に詳しく触れられているようで。

会場のニヒル牛さんによる評が「読み始めてすぐ、旅一番の目的がだめになるのに困惑したり、高村智恵子の性格にびっくりさせられたり。相変わらず、ハラハラドキドキが連続の旅本です。そしてタイトルの意味は?!」だそうで。

ちょっと気になりますので、会場に足を運んで購入してこようと思っております。

他のイベント共々、みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

私は今クリストフを訳しながら激昂してゐます。クリストフの心理状態をよく了解出来るからだとおもひます。私は此を訳す事を喜んでゐます 其の純仏蘭西な魂も私を躍らせます。


大正2年(1913)2月22日 『フユーザン』掲載書簡より 光太郎31歳

クリストフ」はロマン・ロラン作の「ジャン・クリストフ」。この年、同作の光太郎による日本初の翻訳が「反逆-ジヤン クリストフより-」の題で、雑誌『フユーザン』に3回に分けて掲載されました。

4月23日(日)の朝、前日行われた第113回碌山忌のため訪れていた信州を後に、千葉の自宅兼事務所へ向かいました。その帰り道、都内で高速を下り、連翹忌の集い会場の日比谷松本楼さん地下にある駐車場に車を置いて、銀座まで歩きました。

目指すは五丁目の大黒屋さん。こちらの6・7階ギャラリーで開催されていた染色工芸家の志村ふくみ氏・洋子氏母子の作品展示販売会「五月のウナ電」最終日でした。
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五月のウナ電」は、昭和7年(1932)、雑誌『スバル』に発表された詩で、当時の電報のスタイルを使って書かれています。
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ヘラクレス座の電報局から地球の鳥獣草木に届いた電報という設定で、差出人はヘラクレス神なのでしょうか。初夏5月、それぞれの生命を謳歌せよ、的な文面です。

一見、のどかな詩に見えますが、この詩の書かれた当時の光太郎、大変な時期でした。前年あたりから智恵子の心の病が誰の目にも明らかになり、この詩の書かれた直後には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂を起こします。また、世相も風雲急。やはり前年には柳条湖事件、満州事変、この年に入ると上海事変、血盟団事件、傀儡国家の満州国建国、そして五・一五事件。翌年には日本が国際連盟から脱退、ドイツではナチス政権樹立……。

志村ふくみ氏による詩の解説がこちら。
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ふくみ氏のエッセイ集『白夜に紡ぐ』(平成21年=2009 人文書院)には、この詩に強く惹かれ、和紙を貼ったパネルに詩を写し、裂を貼ってみたお話や、詩の解釈等をめぐって交わされた、当会顧問であらせられた故・北川太一先生とのやりとりなどが詳しく語られていますし、智恵子の心の病や世相などにも触れられています。

そのパネルが会場内に展示されていました。許可を頂いて撮影。
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照明の関係で、横に縞模様のように線が走っていますが、実際の作品にはこうしたむらはありません。

また、今回の展示に合わせて新たに作られた複製パネルも。
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文字の部分は印刷だそうですが、貼られている裂は印刷ではなく裂そのものです。

こちらを和綴じの装幀で製本したもの。
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それぞれオンデマンドで販売されているそうで。
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また、会場内には、お弟子さんたちの遊び心あふれる「ウナ電」。
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この現物を1枚、戴いてしまいました。多謝。
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やはり貼られている裂は印刷ではなく裂そのものです。

その他、着物や小物、大小様々な裂などの展示。実に見応えがありました。

ふくみ氏は東京会場にはいらしていませんでしたが、令嬢の洋子氏、令孫にしてアトリエシムラさん代表取締役の昌司氏、お弟子さんたちと、しばしお話をさせて戴きました。単なる光太郎ファンの当方が予想外に歓待されてしまい、戸惑いつつも(笑)。

ところで、染織工芸と光太郎智恵子、浅からぬ縁があります。

油絵制作に自信が持てず断念した智恵子は、機織りや草木染めにも挑戦し、光太郎ともども、「草木染」の命名者でもある染織工芸家・山崎斌(あきら)と交流がありました。昭和13年(1938)に智恵子が歿した際、山崎は光太郎に弔電を送っています。

ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテアテナリシヒトイマハナシハヤ
(袖のところ一筋青き縞を織りて貴なりし人今は亡しはや)

山崎曰く「アヲキシマ――とは、故人が特にその好みから、袖口の部分に一筋の青藍色を織らせた着衣をされてゐた追憶」。「貴(あて)なり」は古語で「品のある美しさ」といった意です。

これに対する光太郎の返歌。

ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテミヤコオホヂヲカマハズアリキシ
(袖の所一筋青き縞を織りて都大路を構はず歩きし)

ある種、奇抜ともいえる柄の着物を着て歩いていた智恵子の追憶です。

再び山崎曰く「故人が見え、高村氏が見え、涙が流れた」。

また、「草木染」といえば、イギリスの染織工芸家、エセル・メレ作のホームスパン。戦前に智恵子がメレの個展で見て欲しがり、東京と花巻、二度の戦災をくぐり抜けて奇跡的に残ったものです。これを通して光太郎は岩手のホームスパンの祖・及川全三とも親しくなりました。
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当方、そのあたりは詳しくないのですが、山崎、及川、エセル・メレ、志村ふくみ氏、それぞれ何処かで繋がっているのではないでしょうか。そんなことを考えつつ、花巻高村光太郎記念館でも「五月のウナ電」展ができれば面白いな、などと思った次第です。

さて、同展、東京展示は会期終了ですが、来月、京都での展示があります。会場は岡崎のものがらさん。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

きのふ青踏の講演会にいつてみました。母と妹をひつぱつてゆきました。 あまり外形にかゝづらはつた議論ばかり多くて何にもなりませんでした。


大正2年(1913)2月16日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎31歳

前年からこの年にかけ、智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』(光太郎、「青踏」と誤記しています(笑))発行元の平塚らいてう率いる青鞜社の講演会。東京基督教青年会館で開催された「青鞜社第一回公開講演会」ですが、何と1,000人もの聴衆が詰めかけたとのこと。演壇に立ったのは、らいてう、生田長江、岩野泡鳴、馬場孤蝶、岩野清子、そして伊藤野枝(ちなみに村山由佳氏による野枝の評伝小説『風よ あらしよ』、集英社さんが文庫化なさいました。光太郎智恵子も登場します。お買い求め下さい)。

母と妹をひつぱつて」行ったのは、青鞜社の予告で、野次馬的な男性を排除するため、必ず女子同伴で来るよう指示されていたためです。智恵子はまだ新潟旅行中だったのかもしれません。

それにしても光太郎の評、手厳しいものですね。

4月22日(土)は、光太郎の親友・碌山荻原守衛の113回目の忌日「碌山忌」で、信州安曇野の碌山美術館さんにお邪魔しておりましたした。

途中で昼食を摂りながらなどでしたが、中央高速が激混みで、千葉の自宅兼事務所から5時間以上かかりました。
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コロナ禍のため中止されていた記念講演会は昨年から復活したものの、昨年はまだコロナ禍前に行われていたコンサートや偲ぶ会などは行われませんでした。今年はそれらも復活。コロナ禍前の形が完全復活しました。
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昨年、クラウドファンディングにより補修された、昭和33年(1958)竣工の本館的な碌山館。
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補修といっても、あからさまに直しました、というのが見えず、自然な感じでした。しかし、中に入ると、壁などが実にきれいになっていて、おお、という感じでした。
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ちなみに以前にもご紹介していますが、こちらの入り口裏側の壁には光太郎の名も刻まれています。開館前に亡くなった光太郎ですが、準備段階でいろいろアドバイスをしたりということがあったためです。
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第1展示棟では、常設展示で光太郎ブロンズも数点、第2展示棟では、柳敬助展。
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柳は守衛、光太郎、共通の友人の画家で、明治44年(1911)には妻の八重ともども、光太郎に智恵子を紹介する労を執ってもくれました。

休憩室的なグズベリーハウス。こちらも補修が入っていました。
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令和2年(2020)に発売された守衛絶作「女」のミニチュア
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コロナ禍前に当方が寄贈した切手系。
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午後1時半、近くの研成ホールにて、東京藝術大学教授の布施英利氏による記念講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」。ちなみにこちらでは平成28年(2016)に当方も講演をさせていただきました。
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布施氏、美術解剖学がご専門ということで、守衛の遺したスケッチ・デッサンや「女」などを検証。実に正確に描かれたり作られたりしている部分と、かなりのデフォルメが為されている部分とがある、といったお話で、非常に興味深く拝聴いたしました。
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特に「女」。
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何らの不自然さも感じられず、純粋な写実と思い込んでおりましたが、実際の人体と比較すると、異様に頭部が大きく、腕も長く、乳房の位置などもおかしいとのこと。それを感じさせない守衛の技倆には舌を巻かされます。同様のことはミケランジェロやロダンの彫刻にもよくある話なのですが、「女」もそうだったのかと、目からウロコでした。

さらに、遺されたデッサンによると、「女」の最初の構想は、腕を斜め上に伸ばしているポーズだったのではないかといった考察も。

その後、車で移動して午後4時から守衛の墓参。
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例年、お坊様には午前中に来ていただいて読経してもらうそうですが、今年は一般の墓参の時に。

また美術館さんに帰り、この日最後の行事、「偲ぶ会」の準備。その頃にはとっぷり日も暮れ、寒くなって参りまして、会場のグズベリーハウスの薪ストーブに火が入りました。
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午後6時、開会。参加者全員で光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)を群読。その後、懇親会的な。
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過日、当会主催で執り行いました第67回連翹忌の集い同様、4年ぶりということで、皆さん、またこうして集まれたことを心から喜んでいるという風でした。もちろん当方もですが。来年以降も継続して行われ続けてほしいものです。

以上、信州安曇野レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

早くお帰りになつて下すつた方が 其はうれしいに極つてますけれども 御都合があるのもかまはず 無理にお帰りになつては却て私が すまない気がします 私はほんとに安らかな心持ちであなたを遠くおもひ抱いて居りますから


大正2年(1913)1月28日(推定) 長沼智恵子宛書簡より 光太郎31歳

現存が確認できている、結婚前に書かれた智恵子宛唯一の書簡から。全文はこちら

智恵子は新潟の旗野家に長逗留していました。吉田東伍ゆかりの旗野家の長女・ヤヱ(八重)は日本女子大学校で智恵子と同級、妹のスミ(澄/澄子)も女子大学校卒でした。

昨日から信州に来ております。
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昨日は安曇野の碌山美術館さんにて開催された、光太郎の親友・碌山荻原守衛を偲ぶ第113回碌山忌に参加させていただきました。
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今日は帰りがけに都内に立ち寄り、染色工芸家の志村ふくみ氏・洋子氏母子の作品展示販売会「五月のウナ電」を拝見して帰る予定です。

詳しくは帰りましてから。

展覧会情報、2件ご紹介します。

まずは今日開幕、光太郎の父・光雲の木彫が出ます。

近代・モダン 新しい時代の絵画をもとめて

期 日 : 2023年4月22日(土)~6月11日(日)
会 場 : サンリツ服部美術館 長野県諏訪市湖岸通り2-1-1
時 間 : 9:30~16:30
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人1,100(1,000)円 小中学生400(350)円
      ( )は団体20名様以上の料金

 この度サンリツ服部美術館では、明治期から昭和期の画家たちの作品を、木彫や陶磁器などの立体作品も交えながらご紹介します。
 明治期に本格的に欧米の国々と接するようになった日本では、海外からもたらされた新しい制度や文化にふれ、政治や産業など様々な分野で近代化が進みました。芸術の分野でも、絵画などを学ぶための美術学校が開校され、さらに政府主催の公募展も開かれるようになります。芸術家たちは互いに対抗したり協調したりしながら、新しい時代の息吹のなかで活発に制作を行うようになったのです。
 大正期から昭和初期にかけて、個性や自由を尊ぶ風潮が強まりましたが、東洋の古典的な作品に立ち返り、理想美を追いもとめて創作に取り入れる画家があらわれたのもこの時期です。 
 彼ら芸術家たちが、自分の生きる時代にふさわしい美術をもとめて作り出した多彩な作品をお楽しみください。

主な出品作品
・山元春挙 《若竹図》 明治から昭和期 20世紀
・橋本雅邦 《蓬莱山》 明治期 19から20世紀
・竹内栖鳳 《梅園日暖》 大正から昭和期 20世紀
・伊藤小坡 《虫売図》 昭和期 20世紀
・川合玉堂 《田家早春》 明治から昭和期 20世紀
・横山大観 《蘭図扇子》 明治から昭和期 20世紀
・富本憲吉 《白磁壺》 1936(昭和11)年
・奥村土牛 《スペインの壺》 昭和期 20世紀
・小倉遊亀 《枝椿》 大正から昭和期 20世紀
・岸田劉生 《蕪》 1926(大正15)年         
・高村光雲 《端午(鍾馗像)》 1894(明治27)年 ほか
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サンリツ服部美術館さん、セイコーグループの服部一郎氏のコレクションを元にした美術館です。

光雲の「鍾馗像」は平成30年(2018)に同館で催された「明治維新150年記念 幕末から昭和の芸術家たちと近代数寄者のまなざし」展にも出品され、拝見して参りました。
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工房作か、光雲単独制作か不分明ですが、なかなかの佳品でした。

もう1件、既に始まっていますが岡山から。

リニューアルオープン記念 所蔵名品展「平櫛田中美術館の精華ー平櫛田中全館展示ー」

期 日 : 2023年4月18日(火)~7月9日(日)
会 場 : 井原市立平櫛田中美術館 岡山県井原市井原町315
時 間 : 午前9時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 500円(15人以上の団体400円)
      高校生以下、市内在住の65歳以上、身体障害者手帳等をお持ちの方は無料

 井原市出身の彫刻家・平櫛田中が故郷のために寄贈した作品をコレクションの基盤とし、昭和44年に開館した当館は令和5年4月18日にリニューアルオープンします。
 リニューアル後第1弾の展覧会では、リニューアルオープンを記念して、当館の1,000点を超えるコレクションの中から選りすぐりの平櫛田中作品を一堂に展示します。平櫛田中(1872-1969)は、現在の井原市西江原町に生まれ、大阪で人形師・中谷省古に師事しました。その後、上京した田中は、彫刻家・高村光雲の門戸を叩き、彫刻家の道を歩み始めます。日本に近代化の波が押し寄せる中、日本美術の再興を目指す岡倉天心の感化も受けながら近代と伝統が融合した独自の芸術表現を探求します。
 当館のコレクションの中でも人気の高い《試作鏡獅子》や《幼児狗張子》など展示総数約90点の作品を、新たに生まれ変わった展示室で存分にお楽しみください。
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光雲や光太郎の作品が出ているわけではなさそうなのですが、光雲高弟の一人ということで、ご紹介しておきます。

一昨年からリニューアル工事が始まり、2年がかりでとうとう落成したか、という感じですね。当方、10年前に同館で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の際にお邪魔しました。どんな感じに建て替わったのか、気になるところです。

それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お姉様からもしばらくお消息がありませんので心配して居りますがやはりご無事なのでせうね


大正2年(1913)1月16日 長沼セキ宛書簡より 光太郎31歳

セキは智恵子のすぐ下の妹です。

智恵子はこの月から翌月にかけ、日本女子大学校での後輩・旗野スミの実家(新潟県東蒲原郡三川村)に逗留していました。スミの姉・ヤヱが智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし妹のスミとの交遊は続いていました。ここで智恵子は、日本に伝わってまだ間もないスキーに興じたりしていたそうです。

取り上げるべき事項が多く、5件まとめてご紹介します。

まず、光雲の「老猿」が出品されている、竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中の「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」関係で2件。

日曜美術館 選 重要文化財の秘密 知られざる日本近代美術史

NHK Eテレ 2023年4月23日(日) 9:00~9:45

明治以降に制作された日本近代美術を代表する重要文化財の絵画や彫刻。どのような評価を経て、指定されるに至ったのか?誰もが知る傑作の、知られざる物語をひもときます。

文化財保護法に基づいて国がその価値を認めて指定する重要文化財。美術工芸分野の重要文化財件数は1万件を超える。しかしそのうち明治以降の絵画・彫刻・工芸はわずか68件に過ぎない。時代が浅く、絶対的な評価が固まり切れない中で重要文化財に指定された作品たちはどのような評価を経て、指定されるに至ったのか?誰もが一度は目にしたことのある傑作中の傑作、その知られざる物語をひもとく。

出演者
【司会】小野正嗣,柴田祐規子,【出演】東京国立近代美術館副館長…大谷省吾

4月2日(日)に初回放映のあったものの再放送です。通常、この番組の再放送は次週の夜20:00~なのですが、4月9日(日)は統一地方選挙の特番がEテレさんでも為され、そのため「選」と題して通常枠で再放送です。

同じく「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」を取り上げ、4月19日(水)に放映されたBS日テレさんの「ぶらぶら美術・博物館」では、予想通り(予告編、番組解説欄で触れられていませんでして)光太郎の父・光雲作の「老猿」はスルーされてしまい残念でしたが、こちらでは「老猿」が長めの尺で取り上げられました。
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ちなみに「ぶらぶら美術・博物館」でも、会場内のフォトスポットにプリントされた「老猿」、それから会場内での通りすがりに「老猿」(笑)。
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もう1件、同展がらみで。

東京サイト「重要文化財の秘密」

地上波テレビ朝日 2023年4月27日(木)  13:45~13:49

今後ますますの進化が期待される日本の首都・東京。この世界屈指の巨大都市の知られざる魅力を発見し、暮らしに役立つ最新情報をお届けします。

東京国立近代美術館は企画展「重要文化財の秘密」を開催中。シカゴ万博に出品された高村光雲の「老猿」など、重要文化財に指定されるまでの美術史の秘密に迫っています。

ナビゲーター 林家きく姫
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こちらは番組説明欄に「老猿」。ありがたし。ただし、5分間番組ですが。

続いては、光太郎と宮沢賢治の関係で。やはり再放送です。

業の花びら 〜宮沢賢治 父と子の秘史〜

NHK BSプレミアム 4月23日(日) 10:30~12:00

宮沢賢治の詩碑文にと父が推したのは、「雨ニモマケズ」ではなく「業の花びら」という詩だった。なぜその詩だったのか。ディレクター今野勉が迫る「賢治・もう一つの顔」。

岩手県花巻市郊外に建つ、詩人・童話作家の宮沢賢治の記念詩碑。碑文は有名な「雨ニモマケズ」だが、賢治を最も理解していた父が推したのは「業の花びら」という詩だったという。なぜ「業の花びら」だったのか。賢治の素顔を追い続けてきたディレクター今野勉は、賢治の“業”への強いこだわりに注目。対立の最中に父子で出かけた関西旅行、“業”をテーマにした童話「二十六夜」の謎に迫る。今明かされる、賢治・もう一つの顔。

【語り】森田美由紀

3月24日(金)に初回放映がありました。「雨ニモマケズ」詩碑文の揮毫が光太郎であることが紹介され、碑文の朗読の際には光太郎の筆跡をテロップに使って下さいました。
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そして戦災で焼け出された光太郎を花巻に招いてくれた、賢治の父・政次郎と賢治の関係性。ちょうど来月には映画「銀河鉄道の父」(門井慶喜氏原作)が封切られますし、タイムリーですね。

花巻といえば、こちら。

ミステリー「花ふぶき女スリ三姉妹のみちのく温泉デラックス無銭ツアー」

BS松竹東急(無料放送) 2023年4月22日(土) 15:00~17:00

逮捕も覚悟で一世一代の大仕事! 先祖代々のスリ一家に育った三姉妹、美恵・佳恵・沙恵は父譲りの妙技でスリを働いていた。そんな三人が、温泉とスリの旅にみちのくへ向かう。三人を見張る老刑事堀田もその後を追った。旅先で沙恵は松岡というエリート風の青年に出会い一目惚れ。その彼が会社の重要書類を盗まれて困っていると知り、沙恵たち三人は、川田たち三人のスリグループから、書類を取り返そうとする…。

【公開・放送年】 1988年
【出演者】 叶和貴子、美保純、宮下順子、佐野浅夫、美木良介、八名信夫、宮尾すすむ、
      ビートきよし(ツービート)、猪野修平、美角友亮、不破万作

初回放映が昭和63年(1988)、地上波テレビ朝日さん系列での「火曜スーパーワイド」枠でした。そこで、その後も再放送が繰り返し行われていたと推定されますが、このブログでは初のご紹介です。

サブタイトルの「みちのく温泉」から、「大沢温泉さんとか岳温泉さんとか、そのあたりがロケ地かな?」と思って、公式サイトを見たところ、下の画像。
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「こ、これは!」でした。「何が?」と突っ込まれそうですが、キャストの方々ではなく、後の壁と窓です。

「この壁と窓、高村山荘(光太郎が昭和20年=1945秋から丸7年間暮らした山小屋)だ!」。調べてみました。すると、この手の2時間ドラマのロケ地をまとめたサイトで、たしかに高村山荘でロケが行われていたことが判明。上の画像で気がついた自分を自分でほめたくなりました(笑)。これまで知らなかったというのは減点対象ですが(笑)。

ちなみに「業の花びら」にも出てくる賢治詩碑、賢治記念館、光雲が主任となって制作された上野の西郷隆盛像などでもロケが敢行されていました。

ちなみに「みちのく温泉」はやはり光太郎御用達の花巻温泉さんでした。

さて、2時間ドラマでもう1件。こちらは毎年のように再放送が為されており、このブログで何度もご紹介しています。

ミステリー・セレクション・湯けむりバスツアー桜庭さやかの事件簿1 露天風呂に浮かぶ遺体の謎…22年ぶりの兄妹対面で起こった兄殺し欲望渦巻く故郷で迎えた驚愕の結末とは!!

BS-TBS 2023年4月25日(火) 09:59~12:00

高校生の娘と中学生の息子を持つシングルマザー・桜庭さやかは、ベテランバスガイド。しっかり者の子供たちに今日も起こされ、元気いっぱい仕事へと飛び出していく。今回のツアーは、猪苗代湖〜安達太良山〜会津若松を巡り、山形へと向かう旅。大盛り上がりのサンライズ商店街御一行様を前にさやかの名調子が冴える。ツアー客の中にはフラワーショップを営む佐野雄二と香織の兄妹も参加していた。2人はツアーの途中で22年ぶりに兄・修一に再会できることを楽しみにしていた。しかし、その兄が安達太良山で死体となって発見される。

出演者 萬田久子、葛山信吾、酒井美紀、石橋保、大浦龍宇一、未來貴子、伊藤洋三郎、
    斉藤暁、徳井優、竜雷太(他)
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安達太良山が第一の事件現場という設定で、「智恵子抄」にもちらりと触れられます。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

随分御無沙汰しました。お葉書拝見しました。僕はこの頃一人の人間に頭を傾け尽してゐたので、みんなに失敬してゐました。

大正2年(1913)1月9日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎31歳

頭を傾け尽してゐた」という「一人の人間」は、智恵子。「恋は盲目」といいますからね(笑)。

グルメ系カテゴリで3件ご紹介します。

まず、毎月恒例、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんで、各月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」、今月分。
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毎月、光太郎の日記や書簡などを元に、光太郎が作ったメニュー、ふるまわれた料理、使った食材などを現代風にアレンジしたりして詰め合わせたもので、今月のメニューは、「ひえ・麦ごはんのおむすび」「にら玉炒飯」「ニシンとスルメの柔らか煮」「ソーセージ」「卵豆腐」「コーンと青豆のバター炒め」「ふきのとうの酢醤油」「桑茶ゼリー」「お新香」。盛りだくさんですが、桑茶は血糖値を抑える効能もあるそうで、ヘルシーですね。

ところで、メニュー考案に協力されているやつかの森LLCさん。季刊誌『花巻散歩マチココ』さんで、同様に「光太郎レシピ」という連載を創刊以来続けてこられましたが、3月発行の第34号で最終回だったそうです。最終回っぽい文言があるな、と思っていたら、その通りでした。5年もの長い間、お疲れさまでした。

代わりに、というわけでもないようですが、新しい取り組みとして、花巻市東和地区にある「ワンデイシェフの大食堂」に「光太郎レシピ」を使って参戦なさるそうです。こちらは「一般の主婦(主夫)、学生、OL、プロ等が日替わりでシェフになってランチを提供するレストラン」だそうで。詳細がわかりましたらまたご紹介します。

そのやつかの森LLCさん編集の冊子が発売されました。『KOTARO CAFE 高村光太郎の食卓―おやつ編―』。
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昨秋から先月にかけ、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の際、会場で無料配付していた冊子をきちんと製本したものです。A5判並製、20ページで頒価500円。

前半は光太郎智恵子が食した「おやつ」的なものについて、残された文献等からわかることを当方がまとめました。
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後半は「光太郎レシピ」で使われた写真を元に、会場内の展示パネルの解説文を転載。
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ご入用の方、やつかの森LLCさんまでご連絡ください。

紹介すべき事項が多く、やはり「食」でもう1件。全国学校給食会協会さん発行の月刊誌『学校給食』の2023年5月号
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当会の祖・草野心平の故郷、福島県いわき市の小学校教諭・田島裕司氏の寄稿で「高村光太郎の詩のように」という記事が掲載されています。

光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を引きつつ、勤務校で取り組まれてきた「虹色スマイルプロジェクト」(コロナ禍で頑張る医療従事者を光で応援することから始まった取り組み)、いわき市にある古刹・白水阿弥陀堂の台風による浸水被害への支援などを紹介されていて、あまり「食」には関わらない感じでしたが。「道程」がらみの部分のみ、下に。
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「給食」ということで、「食事中の会話制限」というお話にもなっていました。ようやくコロナ禍も落ち着いてきた感があり、そうした制限も緩和されつつあるのではないかと思われますが、昨日あたりは「第九波の懸念」などといった報道も為されており、まだまだ予断を許しませんね。

そんな心配もなく、「食」を自由に満喫できる日が遠からずやってくることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

私はものを避けるのはイヤです 何にでも正面からぶツかつて行きたうございます 常にさう心懸けて居るのでございます


大正2年(1913)1月8日 長沼セキ宛書簡より 光太郎31歳

「道程」の書かれるほぼ1年前。既に「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」的な精神が感じられますね。

この書簡では、光太郎との交際に難色を示していた智恵子の郷里の人々の様子を教えてほしい、逃げずにぶつかるから、的なことを、智恵子の妹・セキに宛ててしたためています。

















神戸から演奏会情報です。

合唱コンクール課題曲コンサート2023~藤木大地を迎えて~

期 日 : 2023年4月23日(日)
会 場 : 神戸文化ホール 大ホール 兵庫県神戸市中央区楠町4-2-2
時 間 : 14:00開演
料 金 : [全席指定]一般:2,000円 U25(25歳以下):500円

プログラム
 2023年度NHK全国学校音楽コンクール(Nコン2023)課題曲
  ♪ 小学校の部「緑の虎」 廣嶋玲子 詞/村松崇継 曲
  ♪ 中学校の部「Chessboard」 Official髭男dism 制作/横山潤子 編曲
  ♪ 高等学校の部「鳥よ空へ」 劇団ひとり 詞/信長貴富 曲

 2023年度全日本合唱コンクール 課題曲より
  ♪ 花々と木々(「光に寄す」から)サンサーンス 詩・曲
  ♪ Ⅰ―空と涙について― (「恋の色彩」から)古今和歌集より/田畠佑一 曲
  ♪ Salut, Dame Sainte(「アッシジの聖フランチェスコの四つの小さな祈り」から)
    プーランク曲
  ♪ 街路灯(「街路灯」から)北岡淳子 詩/三善晃 曲
 藤木大地独唱ステージ
  ♪ シャガールと木の葉(2022委嘱初演)木下牧子 曲/谷川俊太郎 詩
  ♪ 日々草 加羽沢美濃 曲/星野富弘 詩
  ♪ ぼくが死んでも 信長貴富 曲/寺山修司 詩
  ♪ レモン哀歌 加藤昌則 曲/高村光太郎 詩
 過去のNHK全国学校音楽コンクールより
  ♪ 気球に乗ってどこまでも(1974年度)東龍男 詩 平吉毅州 曲
  ♪ 生きる(1995年度)谷川俊太郎 詩 新実徳英 曲
  ♪ 手紙  ~拝啓 十五の君へ~(2008年度)アンジェラ・アキ  詩・曲
  ♪ ひとつの朝(1978年度)片岡輝 詩 平吉毅州 曲

出演
 指揮・ピアノ 佐藤正浩   ゲスト 藤木大地(カウンターテナー)
 合唱 神戸市混声合唱団
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合唱の二大コンクール、Nコン(NHK全国学校音楽コンクール)と、全日本合唱連盟さん主催の全日本合唱コンクール、それぞれの今年の課題曲が演奏されるコンサートです。

それだけでなく、ゲストにカウンターテナーの藤木大地氏を迎え、独唱のステージも。その中で、加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」が演奏される予定です。

藤木氏、同じ「レモン哀歌」を、横浜と広島で開催された演奏会「藤木大地&みなとみらいクインテットコンサート」で歌われましたし、同コンサートは来月、新潟市民芸術文化会館さん、奈良県大和高田市さざんかホールさんでも開催予定で、「レモン哀歌」も予定曲目に入っています。詳細は追ってご紹介します。

加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」は、バリトンの宮本益光氏の歌唱で、何度かコンサートで演奏されたりCDに収録されたりもしています。

ちなみに今回の会場は神戸文化ホールさん。昭和48年(1973)の竣工で、外壁には智恵子紙絵をあしらった神戸市民の花・紫陽花の巨大壁画が。そのホールで「レモン哀歌」。いいですね。
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ところで、全日本合唱コンクール課題曲のうちの一曲が三善晃氏作曲の女声三部「街路灯」。作詞者が北岡淳子氏で、「ありゃま」と思いました。北岡氏、日本詩人クラブさんの会長を務められていて、昨年行われた同会12月例会では当方が「2022年の高村光太郎――ウクライナ、そして『智恵子抄』――」と題して講演をさせていただき、非常にお世話になりました。また、過日の第67回連翹の集いにもご出席下さっています。

音楽方面でも光太郎、さらにいろいろと取り上げ続けていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

気候のよろしき為めか彫刻の感興抑へがたくいつぞやちよつと御覧に入れたるお姉様の肖像をいぢり始めてつひ半日又半日と重なりて意外の我儘をいたしあなたの御心配のほどに今日思ひ及びまことに恐縮 ひたすら恥ぢ入り候


大正元年(1912) 3日(年代推定 月不詳) 
長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子のすぐ下の妹。したがって「お姉様の肖像」は智恵子像です。光太郎、複数の智恵子像を制作しましたが、残念ながら、すべて現存が確認できていません。例外は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」ですが、純粋に「智恵子像」というわけでもありません。

写真だけ残されている智恵子像、左は大正5年(1916)、右は昭和2年(1927)です。
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まずは染色工芸家の志村ふくみ氏・洋子氏母子の作品展示販売会。サブタイトルに光太郎詩の題名を持ってきて下さいました。

志村ふくみ・志村洋子 作品展示販売会「五月のウナ電」

東京展示
 期 日 : 2023年4月21日(金)~4月23日(日)
 会 場 : 銀座大黒屋ギャラリー 東京都中央区銀座5-7-6 銀座大黒屋ビル6・7階
 時 間 : 11:00~18:00(最終日のみ16:30まで)
京都展示
 期 日 : 2023年5月19日(金)~5月21日(日)
 会 場 : ものがら 京都市左京区岡崎円勝寺140番地 ポルト・ド・岡崎1階
 時 間 : 11:00~18:00(最終日のみ16:30まで)

京都・ものがら/銀座・大黒屋ギャラリーにて志村ふくみ・志村洋子 作品展示販売会を行います。皆さまのお越しを心よりお待ちしています。

〈出品:着物、帯、ショール、掛け軸、額装、コラージュパネル 等〉

忘れられない思い出があります。東日本大震災が起こってからは、連日のように原発のニュースが流されていました。そんなある日、母はケンタウルス星から「ウナ電」が届いたと言って「五月のウナ電」という高村光太郎の詩を読んでくれました。昔の電報はカタカナで内容が印刷してあるので、文章は読みづらいのですが、そこに書かれている言葉に目を見張りました。光太郎の死から70年近く経った現在、「五月のウナ電」は私たちに向けた緊急の警告である事を実感致します。警告文は人間以外の万物に宛てられたものです。人間に希望を見出せなかった光太郎の真意に寄り添いながら、作品の数々をお目に掛けたいと思います。今回の展覧会は着物や帯だけでなく、高村光太郎の「五月のウナ電」の言葉をお届けしたいと思っています。皆様のお越しを心よりお待ちしています。
志村ふくみ   志村洋子  (文責)
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「五月のウナ電」(昭和7年=1932)、全文はこちら。平成27年(2015)に、ふくみ氏が文化勲章を受章なさった時の記事で、全文を引用しました。

その際にもご紹介したふくみ氏のエッセイ集『白夜に紡ぐ』(平成21年=2009)から。

 いつの頃か、私はどこかの雑誌にのっていたこの詩につよく心ひかれて、ノートに写していた。そしていつかどんな形かで、この詩を自分の手で飾りたい、と思っていた。十数年経ったこの頃またまた読みかえし、思い切って和紙を貼ったパネルに筆でカタカナを書いてみた。全くぶっつけ本番に。そしたら文字が踊るようで、ゼンマイはうずまくし、ウソヒメやホホジロがうたい出すし、トチノキは蠟燭をたてるし、人間なんかにかまわずにみんながうたい出した。私はうれしくなって、ところどころの隙間に小さな裂をチョンチョン貼ってこの詩を飾った。

ここに語られているのが、まさに上記の画像(今回の展示のフライヤー的に使われています)のものなのではないかと思われます。

ふくみ氏、その後、当会顧問であらせられた故・北川太一先生を紹介され、この詩の背景等を教わったことも書かれています。

今回の展示では、これそのものの販売はないのでしょうが、もし複製でもあれば、ぜひ入手したいものです。

当方、こちらの会期中である4月22日(土)、信州安曇野の碌山美術館さんでの「碌山忌」に参列します。当日は彼の地に宿泊し、翌日の帰りがけ、通り道ですので覗いてみようと思っております。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛を偲ぶ「碌山忌」。詳細は以下の通り。

第113回碌山忌

2023年4月22日(土)
 10:00~/13:00~ミュージアム・トーク
 10:30~12:00 コンサート
 13:30~15:00 記念講演会 於:研成ホール
 「荻原守衛の彫刻を解剖する」 布施英利氏(東京芸術大学美術学部芸術学科教授)
 16:00~ 墓参
 18:00~ 偲ぶ会
当日は入館無料 ぜひおでかけください♪
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こちらもご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

ちなみに同館、夏には光太郎展を開催して下さいます。詳細はまた後ほど。

【折々のことば・光太郎】

別封でお送りいたしました 裏絵のはエヂプトの瓦の模様です 詩のやうなものは大変乱暴なものですから、もし下らないと思つたら止して下さい 詩の月旦のやうな事が僕に出来るものですか。とても駄目です。あれは外の人に願ひます

大正元年(1912)10月中旬 内藤鋠策宛書簡より 光太郎30歳

裏絵」は、内藤主宰の雑誌『抒情詩』のためのもの。この年11月の第1巻第2号に掲載されました。
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この頃、この手のカットなどにエジプト風のモチーフが多用されています。この時点では既に没していた守衛が、かつて留学中にエジプト芸術の魅力について光太郎にレクチャーしていました。そこからの流れなのでしょうか。

詩のやうなもの」は、同じ号に載った「夜」「或問」の二篇です。「月旦」=「論評」。確かに光太郎、この時期には同時代の詩人の作品をあれこれ論ずることはほとんどしていません。

昨日は市原湖畔美術館さんの「末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―」展に行っておりました。レポートいたします。

同じ千葉県内ということで、自宅兼事務所から自家用車で1時間ちょっと。美術館さんの近くまで行ったあたりで、小湊鐵道さんの「房総里山トロッコ」が走っていました。
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美術館さんはその名の通り、高滝湖というダム湖に面した高台に。
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まずは展示を拝見。
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絵本編集者にして生前の光太郎をご存じの末盛千枝子氏と、光太郎と親しく交わったお父さま・舟越保武をはじめとする芸術一家にまつわる展示です。
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末盛氏が関わられた絵本、その原画、弟君の舟越桂氏の作品など。
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夫君にしてNHKさんの伝説的番組「夢であいましょう」などを手がけられたディレクター末盛憲彦氏関連の展示もなされていました。

撮影不可でしたが、父君・舟越保武の彫刻も。代表作の一つにして高村光太郎賞受賞作「長崎26殉教者記念像」のうちの一体などが出ていました。
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直接、光太郎に関連する展示物はなかったようですが、説明パネルに等は随所に光太郎の名。
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舟越家クロニクル的な御家族の写真コーナーもありました。昭和37年(1962)の第6回連翹忌の集い兼第5回高村光太郎賞授賞式の写真がないかと探しましたが、残念ながらありませんでした。千枝子氏が連翹忌の集いにご参加下さった唯一の機会でしたが。左下の画像は、千枝子氏の御著書『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』から。右下は故・北川太一先生がまとめられたこの年の連翹忌の記録です。「舟越」が「船越」と誤植されていますが。
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錚々たる出席者ですね。しかし、当方が把握している限り、ご存命の方は千枝子氏とあとお二人だけです。ちなみに当方、まだ生まれていません(笑)。

展示を拝見し終わり、午後1時から、千枝子氏のご講演。

そちらの会場には、八幡平市ご在住の千枝子氏が関わられた「3.11 絵本プロジェクトいわて」関連の写真。東日本大震災で被災した子供たちに絵本を届けようというコンセプトでした。
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昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎も訪れた釜石。
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そしてその後、全国から寄せられた絵本。
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うるっと来てしまいました。

そしてご講演。
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絵本関連のお話を中心に、上皇后美智子さまとのご交流のお話なども交え、約2時間弱。

終了後、サイン会。
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「10年近く前、花巻代官山でお世話になりました」とご挨拶して参りました。

同展、6月25日(日)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヒユウザン会が明日から始まりますので今朝早く京橋のヨミウリ社へまゐりちよつと中途で帰宅しましたら花がどつさりとおてがみがはいつてゐました 折角わざわざおいでの処をほんとに残念に存じました


大正元年(1912)10月14日 長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子の直ぐ下の妹。ヒユウザン会展開幕を祝って、光太郎アトリエ兼住居に花を届けに来たようですが、入れ違いになってしまったとのこと。

同展には智恵子の出品も予告されていましたが、どうしたわけかそれは実現しませんでした。
ヒユウザン会
予告広告では10月5日開幕となっていますが、実際には15日開幕でした。

花巻高村光太郎記念館さんでの企画展が始まります。

山口山の木工展

期 日 : 2023年4月20日(木)~5月15日(月)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

高村光太郎は、高村山荘の裏山一帯を山口山(やまぐちやま)と呼んでいました。
奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏。今回は高村光太郎や宮沢賢治をモチーフに取り入れ、山口山(高村山荘周辺)の木材を一部使用した作品を展示します。

(2)展示作品
 ・高村光太郎と智恵子をイメージした壁掛けオブジェ
 ・高村光太郎の山小屋暮らしをイメージしたカラクリオブジェ
 ・セロ弾きのゴーシュをモチーフとした楽器のカラクリオブジェ
 ・宮沢賢治をモチーフとしたやじろべえ
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以前はこうした地元の作家さんなどの作品展示は、敷地内の「森のギャラリー」(旧高村記念館)で行われていましたが、企画展示室を使うのですね。

あたたかみあふれる木工作品、いい感じのようです。当方、今回は関わっていないのですが、月末には拝見に行って参ります。皆様も是非どうぞ。

花巻高村光太郎記念館さんとえば、隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間蟄居生活を送った山小屋)で、光太郎忌日・連翹忌の4月2日(日)、地元の方々が光太郎を偲ぶ詩碑前祭を行って下さいました。光太郎顕彰にあたっているやつかの森LLCさんのサイトから、画像をお借りしました。
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以前、公開で行われていた市街松庵寺さんでの光太郎法要は、非公開でお寺さんとして執り行ったそうです。

4月2日(日)といえば、智恵子の故郷・二本松でもイベントがあったとのこと。直接、光太郎智恵子とは関わらないのですが、二本松に「さつき山公園」というのがあり、そのオープニングイベントだそうで。

「風信子(ヒヤシンス)」さんという歌い手さんのユニットがステージに立ち、「本当の空を忘れないで」という歌などをご披露。YouTubeに動画が上がっています。


「本当の空」は、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「ほんとの空」由来なのでしょう。動画キャプションに「2023年4月2日に二本松市さつき山公園で開催されました「さつき山公園まつり」で歌わせて頂きました。4月2日…高村光太郎さんの連翹忌(レンギョウキ)に、智恵子さんが愛した二本松の本当の空の下で、光太郎さんが愛したレンギョウに囲まれて歌わせて頂きましたこの日を一生忘れません。」とありました。

ありがとうございました。

【折々のことば・光太郎】

私はあなたの大事なお姉様を如何なる場合でも傷つけることはございません 世の中に伝はつてゐるきたならしい噂をも耳にはして居ります しかしそれに対しては 噂をする者等こそ自身を愧ぢよとおもつて居るばかりでございます


大正元年(1912)10月7日(年代推定) 長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子の直ぐ下の妹。どうも結婚前の光太郎智恵子の良からぬ噂を耳にし、光太郎を問い詰める的な手紙を送った、その返答のようです。

智恵子の故郷・福島二本松系の新聞記事を3件ご紹介します。

まず、『福島民報』さん、一昨日の一面コラム。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を使って下さいました。

あぶくま抄 百年桜

足早な春に、小さなエドヒガンザクラが数輪の花を付け、やがて若葉に変わった。二本松市の安達高の正門横で大切に育てられている。今年の学校創立100周年に合わせて記念事業実行委員会が植え、生徒会が「百年桜」と名付けた▼安達高は1923(大正12)年に県立安達中として開校し、地元の若者が志を抱いて勉学に励んだ。1、2回生が卒業を記念して植えた桜が風霜に老いて今回、代替わりした。二本松藩主に目をかけられ、開校時から生徒を見守る「三顧の松」、放射線医学の世界的権威で文化勲章を受けた高橋信次博士の像が近くに立つ▼「入学の日、坂を上り学校へ向かう私を、母はいつまでも見送ってくれた。涙で私のセーラー服姿が見えなくなったとよく話していた」。同窓会長の五輪美智子さんは、10日の入学式で思い出を明かした。娘の成長を喜ぶ母の思いを重ね、当時と同じセーラー服と学生服に身を包む150人の新入生を祝福した▼百年桜のお披露目を兼ねた吹奏楽のスプリングコンサートがきょう13日に催される。伝統の校歌や若い世代に人気の曲を奏でる。ほんとの空に響く澄んだ音色を、100年先も桜が覚えているといい。

記事を読む前、「百年桜」というので、樹齢百年を超える大木の桜が見頃、的な話かと思ったらさにあらず。もとの古木が枯れてしまい、同校の創立百周年を期して新たな桜が植えられ、花を咲かせたそうで。

ネットで調べたところ同校の『創立100周年記念事業実行委員会だより』がヒットしまして、下記の記事が出ていました。昨年のもののようです。
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「ほんとの空」のもと、この木、そして生徒さんたちも逞しく成長してほしいものです。

続いて『福島民友』さん。やはり桜がらみで、過日ご紹介した市内循環バス「春さがし号」の件。

二本松の名所循環バス 16日まで6便、9カ所停車

000 二本松市中心部の名所旧跡を循環する恒例の臨時バス「二本松春さがし号」が始まり、16日までの毎日、JR二本松駅前を発着する計6便が運行している。
 国指定史跡「二本松城跡」がある県立霞ケ城公園や智恵子の生家、二本松少年隊の墓がある大隣寺などを巡るコースで、同駅前を除き9カ所で停車する。午前9時~午後3時台のおおよそ1時間おきに運行され、ゆったりと城跡や公園の散策などをしても次の便に乗車して移動できる。
 にほんまつ観光協会と福島交通二本松営業所が運行。運賃は中学生以上170~500円、小児90~250円で乳幼児無料。乗り降り自由の1日フリー乗車券は中学生以上500円、小児250円で、大山忠作美術館と智恵子記念館の入館料が割引となる。
 運行初日の7日に二本松駅前で出発式が行われ、安斎文彦会長、鈴木友和営業所長がテープカットした。
 問い合わせは同営業所(電話0243・23・0123)、同協会(同0243・24・5085)へ。

多くの乗客の方々で賑わっているといいのですが。

最後に『朝日新聞』さん。今日の土曜版から。朝食を食べながら、これが掲載されていることに気付き、読み進めて吹きました(笑)。イラストレーター・みうらじゅん氏の連載「マイ走馬灯」です。

マイ走馬灯 ひらパーの菊人形

 幼い頃、大阪のひらかたパークで見た(いや、見せられた)菊人形がとても怖かった。まわりの大人たちがそれを「綺麗(きれい)やなァー」と絶賛しているのもまた、ホラー。そんなトラウマがいつしか面白さに変化して、40代後半のマイブームとなったのである。
 絵の左下にあるのは福島県で見た高村光太郎(丸メガネ)の菊人形。中央下のカエル(これは僕の漫画キャラ。走馬灯画には必ずどこかに登場する)は、実際にオリジナルで作った菊人形だ。白い犬は映画にもなった青森の『わさお』。飼い主のおばさんから、わさおの抜け毛をプレゼントされた思い出もある。
 右端は京都、三十三間堂のグッとくるルックスの婆藪(ばす)仙人像。耳にハイビスカスは歌手の日野てる子さん。今でも『夏の日の思い出』を口ずさむ。その隣は僕の青春アイドル、栗田ひろみさんで、映画『犬神家の一族』のスケキヨと、プロレスラーのミル・マスカラスはマスク繋(つな)がりだ。そして中央には、5年前からグッズを買い続けているワニ。きっとみなさん、マイ走馬灯に出てくれるはず!

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みうら氏、幼少期に見たある意味無気味な菊人形に対するトラウマが相当に強いようで、令和元年(2019)には『産経新聞』さんの連載コラムでも、その件に触れられていました。そこでは「二本松の菊人形」に並んだ光太郎の菊人形を写真入りで紹介なさっていました。ちなみにまだ先の話ですが、今年の「二本松の菊人形」のテーマ、「徳川家康」だそうです。

二本松では今月末から恒例の「高村智恵子生誕祭」として、通常非公開となっている智恵子生家の2階部分の限定公開や、智恵子記念館では智恵子紙絵実物の展示もありますし、来月には安達太良山の山開き、さらに地元で智恵子顕彰をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催のイベント等も計画されています。また後ほど詳しくご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

此の間の夜はあまり突然のこととて何の御愛想もいたされませんでしてまことに失礼いたしました それに折角お目にかゝりながらろくろくお話さへも出来ませんで本意ない事に存じました どうぞあれにおこりにならず御暇もございましたら又お遊びにおいで下さいますやう うまい紅茶やお好きなあづきもたんとさし上げますから


大正元年(1912)10月5日(年代推定) 長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子の直ぐ下の妹。智恵子と同じく日本女子大学校に進み、最近分かったのですが、さらに東京女子高等師範学校に入学し直し、この年7月に卒業しています。この後、智恵子の郷里の父母らは光太郎との交際にいい顔をしませんでしたが、セキだけは光太郎と直接面識を持ち、二人の後押しをいろいろしてくれたようです。前月に智恵子が光太郎を追って銚子犬吠埼を訪れた際も、同行していました。

書簡に書かれたセキの光太郎訪問については、智恵子も一緒だったのかなど、詳細が不明です。

テレビ番組の放映情報を2件。

まずは銅像系です。

アートフルワールド 〜たぶん、すばらしき芸術の世界〜 #47 いま会いに行ける銅像

BSフジ 2023年4月15日(土) 13:30~13:55

「世界はアートに満ちている。」をテーマに、アートの世界を様々な視点から紹介し、その多種多様な楽しみ方も合わせてお伝えする。

 街を歩いていると、ふと出会い、注目をして歩くと実にさまざまな場所にいる「銅像」。身近にあるけど、よく知らない、知るほどに謎が深まる「銅像」の世界を紐解いていく。
 今回、アートの冒険に出かけるのは女優の坂東希。長年、銅像を研究しているスペシャリストと共に、皇居外苑にある東京三大銅像と言われている銅像や、日本彫刻界の重鎮が制作した銅像など都内にある様々な銅像を巡る。
 さらに、当時の彫刻家たちに多大な影響を与えた「考える人」で有名なオーギュスト・ロダンなどについても話を伺う。

出演者 坂東希
ナレーション 松本穂香
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光太郎の父・光雲が主任となり、東京美術学校として制作を請け負った「楠木正成像」が取り上げられます。他に、光太郎が終生敬愛し続けたロダンの作品も。

もう1件、光雲の「老猿」が出品されている、竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中の「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」に関して。

ぶらぶら美術・博物館<重要文化財の秘密>東京国立近代美術館

BS日テレ 4月19日(水) 22:00~22:54

史上初!全作品が重要文化財の豪華展覧会▽問題作が傑作になるまで…横山大観の大作「生々流転」、油絵で最初に重要文化財指定された高橋由一「鮭」ほか、名作の秘密に迫る。

誰もが一度は目にしたことがある古今東西の名画・彫刻・文化財を、時空を超えた“ライブなお散歩感覚”で体験します。作品の背景・エピソードを知れば、美術博物は身近で楽しいものに!名解説者・山田五郎、おぎやはぎと一緒にぶらぶらしよう!

出演者 山田五郎 おぎやはぎ(小木博明、矢作兼) 高橋マリ子
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ただ、気になるのは予告編に「老猿」がいなかったこと。紹介欄にも「高村光雲」「老猿」の文字はありませんでした。
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とりあえずは拝見しようと思います。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今は宅にゐますがヨミウリの三階の展覧会などで忙がしがつてゐます


大正元年(1912)10月(推定) 内藤鋠策宛書簡より 光太郎30歳

ヨミウリの三階の展覧会」は、10月15日開幕の「ヒユウザン会第一回展覧会」。反文展の新しい芸術家たちの旗あげとして注目されました。光太郎は油絵4点を出品しています。また、パンフレットには、詩「さびしきみち」を書き下ろしました。
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地方紙二紙に載った記事、まずは『岩手日日』さん。

見どころや偉人学ぶ 新入社員研修会 観光協【花巻】

 花巻観光協会が主催する2023年度新入社員研修会は11日、花巻市内で開かれた。市内の3事業所に入社した新入社員が観光地や名所を巡りながら、花巻の魅力と偉人に学びを深めた。
 研修会は、花巻を訪れた人が必要とする観光情報などに対応できる人材の育成を狙いに17年度から開催。同日は宿泊施設に勤務する19人が参加し、花巻おもてなし観光ガイドの会の高橋孝子会長が講師を務めた。
 参加者は宮沢賢治記念館や花巻新渡戸記念館、ワインシャトー大迫、成島毘沙門堂、高村山荘・高村光太郎記念館などをバスで回った。高橋会長が各施設で概要や見どころを説明し、昼食ではわんこそばも味わった。
 このうち宮沢賢治記念館では同市出身の童話作家で詩人の宮沢賢治の生涯や同記念館の南斜花壇などについて学習した。参加者はメモを取りながら特徴、見どころに理解を深めていた。
 研修会は17、24日にも実施。高橋会長は「観光名所の位置を把握することが大切。観光客に花巻の魅力を伝えられる人材に育ってほしい」と願っていた。
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毎年行われているようで、昨年は報道されたのかされなかったのか気がつきませんでしたが、一昨年にはやはりこの時期に記事が出ていました。

新人さんたち、花巻を盛り上げるために、よろしくお願いします。

続いて『上毛新聞』さん。

《ぐんまヒストリー》赤城山 信仰の山が人気行楽地に

 季節ごとに装いを変えながら、悠々たる裾野を広げる赤城山。穏やかな外観と異なり、山頂に立ち込める霧は、シラカバ林とカルデラ湖の幻想的な世界を演出する。かつては文人墨客が喧噪(けんそう)を避けて滞在し、昭和中期以降はレジャー人気に火がついて年間100万人以上が訪れる観光地となった。現在も都心からの近さと豊かな自然を背景に、多彩な魅力を放っている。
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 富士見村(現前橋市)の村誌続編によると、古くから信仰の対象として、馬草や薪(まき)を取りに行く身近な里山として、住民に親しまれてきた。山頂付近に人が定住し始めたのは明治以降。桐生方面から新潟県へ「赤城越え」をする旅客に部屋を貸した青木、猪谷両旅館が草分けとされる。
 当時は大沼周辺に高い木が少なく、草原が広がっていた。放牧された牛や馬が草をはむ牧歌的な風景が文化人の心をつかみ、志賀直哉や与謝野鉄幹・晶子夫妻、高村光太郎らが訪れて創作活動にふけった。志賀らが立ち上げた文芸誌「白樺」は、赤城のシラカバに由来するという。
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 大正以降は冬スポーツの舞台としても注目を浴びる。冬季五輪で日本人初のメダリストとなった猪谷千春さんの父親で、日本スキー界の先駆者と言われる六合雄さんがこの地でスキーを始め、1927(昭和2)年ごろにスキー場が完成。2年後にジャンプの国際大会が開かれると、県内外からスキーヤーが集まるようになった。
 戦後、バスの運行が麓で止まり、台風で道路が寸断されるなど苦しい時期が続いた。しかし、高度成長期の1950年代になると一転してインフラ整備が進む。バス道路が山頂まで延長され、東武鉄道による開発で地蔵岳にロープウエー、鳥居峠にケーブルカーが相次いで開通した。
 大沼にはスケート場が最大8面作られ、団体客でにぎわった。夏はカップルが湖面にボートを浮かべ、氷室に保管しておいた大沼の氷で作ったかき氷も好評だったという。
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 スキーやスケートなど、冬の誘客の目玉はワカサギ釣りに取って代わったが、山岳随筆「日本百名山」(深田久弥著、1964年出版)の一つに取り上げられ、全山踏破を目指す登山客からの人気は根強い。観光ガイドを担うNPO県自然保護連盟の棚橋弘事務局長は「中高年客を中心に、九州の旅行会社からの相談もある」と話す。
 入り込み客は最盛期の半数ほどに減ったが、人を引きつける雄大な自然は変わらない。
 赤城山観光連盟会長で、青木旅館6代目館主の青木泰孝さん(73)は「時代に合ったやり方で、赤城の魅力を伝えていきたい」とほほ笑む。

歴史トリビア|ワカサギのルーツ
マス養殖のえさで放流
 大沼は氷上ワカサギ釣りのメッカとされる。冬は都内からも多くの太公望が訪れ、ゆったりと駆け引きを楽しんでいる。貴重な観光資源へと発展したワカサギの歴史は、青木旅館四代目の源作が1918(大正7)年に始めたマスの養殖までさかのぼる。
 県の委嘱を受けてマスのふ化や養殖を行っていた青木一族が、餌として放流したのが霞ケ浦から仕入れたワカサギだった。次第に一部の愛好者が山頂まで雪道を歩いて登り、泊まり込みで穴釣りに熱中するようになったという。
 釣りを誘客につなげようと力を入れ始めたのは、平成に入ってからだ。国の補助を取り付けて、99年にワカサギのふ化場を完成させ効率的に稚魚を増やした。諏訪湖や西網走など徐々に卵の仕入れ先も増やし、現在でも2億6000万匹をふ化させている。

上州赤城山は、光太郎にとってのソウルマウンテン。留学前の明治37年(1904)には5~6月と、7~8月にかけての2回、赤城の猪谷旅館に滞在し、それぞれ、親友の水野葉舟、与謝野鉄幹ら新詩社の面々と過ごしています。留学からの帰朝後にもすぐ赤城山に登っています。

昭和4年(1929)にも、草野心平、高田博厚らを引き連れて登っていますし、最後の赤城行は昭和6年(1931)。この際には父・光雲も一緒でした。

明治37年(1904)の滞在中に書かれたスケッチ帖は、光太郎歿後の昭和31年(1956)になって、「智恵子抄」版元の龍星閣から『赤城画帖』として刊行されました。原本は水野葉舟が保管していたのですが、その後、詩人の風間光作の手に渡り、さらに風間からやはり詩人の西山勇太郎に。その後行方不明です。

平成12年(2000)、風間が原本から1枚抜き出して額装していたものが売りに出て、驚いたことがありました。
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どこかからひょっこり原本が出て来ないか、と思っております。また最近、ひょっこり若き日の光太郎木彫習作が出てきましたので。その件はのちほどご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

ごぶさたをしてゐるうちに私もかはりました。変るのが当り前でせうね


大正元年(1912)9月17日 北原白秋宛書簡より 光太郎30歳

銚子犬吠埼で智恵子と愛を確かめ、さらに岸田劉生木村荘八斎藤与里、萬鉄五郎らと、反文展の美術団体「ヒユウザン会」(のち「フユウザン会」)を立ち上げました。明治42年(1909)の留学からの帰国以来続いていたデカダン生活もそろそろ終わりを告げます。

最近情報を知り、購入しました。2ヶ月ほど経ってしまっていますが、絵本の新刊です。

イチからつくる コーラ

2023年2月5日 コーラ小林・編 中島陽子・絵 農文協 定価2,500円+税

甘くてさわやか、みんなが大好きなコーラ。じつはアメリカの薬局で販売された滋養強壮剤が始まり。でもコーラって自分でつくれるの? 「コカ・コーラ」のレシピは門外不出だけど、クラフトコーラなら大丈夫! 世界初のクラフトコーラ専門メーカー『伊良(いよし)コーラ』を創業したコーラ小林さんに教わって、スパイスやカンキツ類、砂糖でコーラシロップをつくってみよう。コーラをつくることで、炭酸水の誕生から、禁酒法や第二次世界大戦などに関わるアメリカの歴史、スパイスの原産地なども知ることに。日本各地で広がるクラフトコーラの動きも紹介します。

もくじ
 炭酸飲料を選ぶなら、きみは何派?
 そもそもコーラって、なんなんだ?
 コーラは、植物の名前だった!
 コカ・コーラの原点は漢方薬
 世界各地のスパイスでつくられるコーラ
 クラフトコーラの広がり
 スパイスとカンキツ類を手に入れる
 自分たちで育てられる作物は、どれだろう?
 踊る水「タンサン」
 炭酸水は自分でつくれる?
 クラフトコーラの「基本のレシピ」
 やっぱりコーラの実をいれたい コーラノキはどこにある?
 自分の好きなコーラシロップをつくるぞ!
 自分でつくったコーラを売ることができる?
 クラフトコーラづくりでみえてきたこと
 「イチからつくる」ということ
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絵本と言っても幼児向けではなく、小学校高学年から中学生向け、といったところでしょうか。主人公の少年少女たちは中学生のようです。学校の文化祭で、自分たちで作ったコーラを販売するという設定でして。

少年少女たちが好きな炭酸飲料の話で盛り上がり、一人が以前飲んだ「クラフトコーラ」を紹介したところ、みんな興味を持って……というストーリー。

執筆はコーラ小林氏。下落合でクラフトコーラのメーカー「伊良(いよし)コーラ」を立ち上げた方です。少年少女たちが小林氏のもとに弟子入りし、手作りコーラの製法を教わったり、コーラの歴史を学んだりしていきます。

そのコーラの歴史の中で、光太郎。ありがとうございます。
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詩『狂者の詩』(大正元年=1912)は、まず雑誌『白樺』に発表され、大正3年(1914)には詩集『道程』に収められました。このあたり、下記をご参照下さい。

「昭和32年 コーラ本格上陸 みんな作って、みんないい」/「「乙女の像」制作 朗読劇で 劇団「エムズ・パーティ」16、17日十和田で上演」。
テレビ放映情報-詩句の読み方。
都内レポートその2 「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」。
岩手日報「風土計」。

ちなみにコーラについては、ネット上などで「大正3年(1914)に高村光太郎が詩集『道程』で初めて日本に紹介した」的に『道程』が初出のように書かれていますが、先述の通り大正元年(1912)の『白樺』に「狂者の詩」が掲載されていますから、そちらを前面に出して頂きたいのですが……。

閑話休題、『イチからつくる コーラ』、レシピ的な記述もあり、ご興味のおありの方、これを参考にオリジナルのコーラ製作に取り組まれてはいかがでしょうか。

【折々のことば・光太郎】

何処へ行つてもやつぱり東京へ帰つて来る。それがつまらない。犬吠で不思議な夢幻的の日を送つてゐた。濤の音が恋しい。この舟の帆が下される。そして日がくれる。水がうたを歌ひ始める。久しぶりで水の傍に居てひとく動かされた。


大正元年(1912)9月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎30歳

親友の水野葉舟に宛てた葉書から。さすがに親友とはいえ、智恵子が犬吠まで追ってきて……という件は伏せていたようです。

画像は初めに智恵子が妹・セキ、友人・藤井ユウと共に泊まった御風館。
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その後、セキとユウを先に帰し、光太郎が泊まっていた暁鶏館に移りました。下の画像の中央奥です。
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光太郎にとっては犬吠の数日間は、「不思議な夢幻的の日」だったでしょうね。

この直後にコーラを取り上げた「狂者の詩」が書かれます。ただ、そちらにはかつて関係のあった吉原河内楼の娼妓・若太夫や、雷門前のカフェ「よか楼」のお梅の名も。まだ「本当に智恵子と付き合っていいんだろうか」的な迷いも見られます。

『毎日小学生新聞』さんに連載されている、マルチアーティスト・井上涼氏の漫画「井上涼の美術でござる」。一昨日掲載分が「高村光雲の巻」でした。
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基本ストーリーは「忍者Bと忍者Cが、世界の芸術家に会いに行き、毎回ドタバタに巻き込まれながら、芸術家の波乱万丈な人生を紹介します」。平成31年(2019)2月には光太郎の巻もありました。

今回は「彫刻を作るため、モデルの猿を探している光雲。忍者Bと忍者Cがモデル探しをお手伝いすることに。モデルを引き受けてくれた猿は何だか凶暴そうで……」。国指定重要文化財の「老猿」制作にまつわるお話。光太郎も登場します。「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」により、ちょっとした「老猿」ブームですので、タイムリーですね。もっとも、毎日新聞社さんが同展の主催に名を連ねているという、大人の事情もあるようですが(笑)。

元ネタは昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』中の「栃の木で老猿を彫ったはなし」。この中で、モデルとして借りてきた猿が、隣の寺院の納所(なっしょ=庫裡)でお坊さんの調理したハツタケを盗み食いしてしまったエピソードが語られています。しかし井上氏、「ハツタケ」を「タケノコ」と勘違いして記憶されていたようで(笑)。当方もこの手の記憶違いをよくやらかしますが(笑)。
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2月には、NHK Eテレさんで放映されている井上氏制作のアニメーション「びじゅチューン」をまとめた『びじゅチューン!DVD BOOK 7』が刊行され、表紙が「老猿」でした。

タブロイド判見開き2ページで、オールカラー。漫画の合間に「老猿」や「西郷隆盛像」の写真入り説明が入ります。毎日新聞社さんの関連会社まいにち書房さんのサイトで一部公開されている他、PDFファイルが50円で販売中。

紙版の『毎日小学生新聞』さんは、公共図書館等で置いてある場合があります。当方、隣町の図書館で拝見しました。

ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

犬吠でひどい風雨にあひました 昨夕帰つて来ましたら東京の静かなのに驚きました 潮の音がないのがつまりません


大正元年(1912)9月5日 前田晁宛書簡より 光太郎30歳

この葉書の発見により、智恵子と愛を誓い合った銚子犬吠埼からの帰京が9月4日だったことが判明しました。光太郎が一人で帰って来たのか、智恵子と共にだったのかは、依然として謎ですが。

都内のホテル2軒の実にユニークな宿泊プランです。

浅草で東京発祥のお菓子「たい焼き」作りの体験はいかがですか。

 江戸時代、神田今川橋付近(現在の東京都千代田区鍛冶町)で売り出されていた「今川焼」をルーツに持つ「たい焼き」は、東京発祥のお菓子と言われています(諸説あります)。江戸時代から、その場で食べられる庶民のおやつは大変人気があり、明治時代に作られた「たい焼き」もその流れの一つとして好まれていました。泉鏡花や高村光太郎などの多くの文豪が作品の中に登場させています。また、当時の俳句や新聞記事にも「たい焼き」の記述があります。

 鯛の焼き型になったのは、大阪から東京にやってきて商売を始めた神戸清次郎が、お店の今川焼きが売れないことに悩み、試行錯誤ののち、お祝いごとの時に食べられる縁起物の「鯛」(めでたい)の形にすると飛ぶように売れ、そこから「たい焼き」として広まったと言われています。

 東京下町にある「ホテルグレイスリー浅草」と「ホテルタビノス浅草」では、「浅草たい焼き工房求楽(ぐらく)」とのコラボレーションプラン「浅草でたい焼きづくり体験プラン」をご用意しております。求楽では、業務用のたい焼き機材を使って、生地から手作りする本格的なたい焼き作りを体験していただけます。

 エプロンや必要な材料はお店で用意してくれるので手ぶらでOK。「たい焼き」に使用する具材を持ち込むこともできますので、自分だけのオリジナル「たい焼き」を作って楽しむこともできます。ぜひこの機会に、食べるだけでなく「たい焼き」作りを体験してみてはいかがですか。「ホテルグレイスリー浅草」と「ホテルタビノス浅草」は、東京下町の浅草など、東京観光に最適なホテルです。「たい焼き」体験の他にも、浅草ならではの体験プランもたくさん!東京旅行の拠点として、ぜひご利用ください。
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【浅草×体験】浅草でたい焼きづくり体験プラン(朝食ビュッフェ付き)
ホテルグレイスリー浅草 東京都台東区雷門2丁目10番2号
雷門から徒歩1~2分に位置し、都営浅草線浅草駅にも徒歩約3分と、国内外のお客様の観光・レジャーの拠点として最適な立地です。客室面積はダブルルーム約18㎡、ツインルーム約24㎡となり、「独立型バスルーム」を全室(※ユニバーサルツインルームを除く)に導入し、お客様にゆったりとお寛ぎいただける時間をご提供いたします。
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気分は和菓子職人!? たい焼き体験プラン >゜)))彡
ホテルタビノス浅草 東京都台東区浅草2丁目18番8号
“MANGA(マンガ)”の世界に 飛び込んだような気分になれるユニークなゲストルームがあなたの旅に彩りを添えます。ホテルタビノス浅草は、浅草のランドマークの「雷門」「浅草寺」「花やしき」へも徒歩圏内にあり、浅草観光にぴったりな立地です。
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たい焼き制作体験のついた宿泊プラン。それだけならこのブログでご紹介しませんが、光太郎の名を出されてしまっては、取り上げないわけには参りません(笑)。

光太郎作品でたい焼きが登場するのは、「智恵子抄」にも収められた詩「美の監禁に手渡す者」(昭和6年=1931)。

   美の監禁に手渡す者

納税告知書の赤い手触りが袂にある、
やつとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。

売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、
所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。

両立しない造形の秘技と貨幣の強引、
両立しない創造の喜と不耕貪食の苦(にが)さ。

がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び木片(こつぱ)、
ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。

ことは木彫作品の売買に関わります。大正末から取り組み始めた「蟬」や「鯰」などの木彫。父・光雲から受け継いだ伝統的な技法に、ロダンなどから学んだ西洋彫塑のエッセンスを盛り込んだまったく新しい作風で、世間からは好評を以て受け入れられました。ただし、光雲のように彫って彫って彫りまくるということはせず(「出来ず」というべきでしょうか)、同一のモチーフを彫るにしてもそれぞれに形を変え、あくまで自分で納得のいくものだけ作品として世に出す、というスタンスでした。

しかし、光太郎の木彫作品を購入できるのは、プロレタリア・アナーキズム詩人たちに近い位置にいた当時の光太郎が嫌っていた富裕層が多く、そしてそれらの人々は掌中の宝として仕舞い込みます。そのあたりが「所有は隔離」、「美の監禁」というわけです。中には光太郎作品の真の価値が解って買っているのかどうかあやしいと思われる人物も含まれていたのではないでしょうか。そうかと言って、作品を売らなければ生計が立たないわけで、「美の監禁に手渡」さざるを得ないのです。

智恵子も光太郎木彫をこよなく愛し、懐に入れて持ち歩いたこともあったそうです。散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)には、「又彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作つた木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫した。」とあります。数ある木彫のうちのどの作品、というのは書かれていません。従って、エラいセンセイの「論文」などで具体的な作品名を出し、これを智恵子が懐に入れて愛した、的な記述をよく見かけますが、全て想像です。

そして光太郎、詩「美の監禁に手渡す者」の舞台設定は、智恵子が懐に入れて持ち歩いた木彫を売りに行った帰りなのでしょうか、代わりに自分の懐に入っているのは、その代金で買った「鯛焼」。そう考えると、甘い甘い鯛焼きも、光太郎にとってはほろ苦い味なわけです。と、まぁ、これも想像ですが(笑)。

何はともあれ、「たい焼き」作りの体験つき宿泊プラン、スイーツ好きの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

海が荒れて居る 銚子にて


大正元年(1912)9月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎30歳

銚子犬吠埼の暁鶏館に泊まり、絵を描きに来た光太郎。それを追って智恵子も現れます。
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この葉書が書かれたのは、智恵子が来る前なのか、来た後なのか、判然としませんが、後だとすると、もはや智恵子への思いは抑えきれぬ、荒れた太平洋の波濤のようだ、という意味にも取れますね。

千葉県から企画展の情報です。

末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―

期 日 : 2023年4月15日(土)~6月25日(日)
会 場 : 市原湖畔美術館 千葉県市原市不入75-1
時 間 : 平日 10:00 - 17:00 土・祝前日 9:30 - 19:00 日・祝 9:30 - 18:00
休 館 : 月曜日[祝日の場合は翌平日]
料 金 : 一般:1,000( 800 )円  大高生・65 歳以上:800( 600 )円
      ( )内は 20 名以上の団体料金

何を美しいと思うか。

日本を代表する彫刻家・舟越保武の長女に生まれ、上皇后陛下美智子さまの講演録の編集者としても知られる末盛千枝子。「絵本は子どもだけのためのものではない」との思いのもと、人生の悲しみや希望、美しさを伝える多くの絵本を世に送り出し、東日本大震災では被災地の子ども達に絵本を届ける活動を立ち上げました。
本展では、末盛がさまざまな人々との出会いと協働によって生み出した珠玉の絵本の原画や貴重な資料とともに、彼女を育んだ芸術家一家――彫刻家の父・保武、弟・桂、直木、自らの句作を断念し彫刻家の妻として生きた母・道子をはじめとする舟越家の人々の作品の数々を一堂に展観、その波乱に富んだ人生と仕事の全容に光を当てます。

プロフィール
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末盛千枝子[1941-]
1941年東京生まれ。高村光太郎により「千枝子」と名付けられる。 4歳から10歳まで父の郷里・盛岡で過ごす。慶応義塾大学卒業後、絵本の出版社に勤務。「夢であいましょう」等で知られる NHKディレクターと結婚、2児の母となるが、夫の突然死のあと、最初に出した絵本『あさ・One morning』でボローニャ国際児童図書展グランプリを受賞。1988年、 すえもりブックスを立ち上げ、独立。まど・みちおの詩を美智子さまが選・英訳された『どうぶつたち THE ANIMALS』やご講演をまとめた『橋をかける 子供時代の読書の思い出』など、話題作を次々に出版。1995年、古くからの友人と再婚。2002年から2006年まで国際児童図書評議会(IBBY)の国際理事をつとめ、2014年には名誉会員に選ばれる。2010年、岩手県に移住。2011年から10年間、「3.11 絵本プロジェクトいわて」の代表を務めた。
主な著書に『人生に大切なことはすべて絵本から教わったI、 II』(現代企画室)、『ことばのともしび』(新教出版社)、 『小さな幸せをひとつひとつ数える』(PHP研究所)、 『「私」を受け容れて生きる』(新潮社)、『根っこと翼・皇后美智子さまという存在の輝き』(新潮社)などがある。

舟越保武[1912-2002]
岩手県一戸町に生まれる。県立盛岡中学校在学中に高村光太郎訳の「ロダンの言葉」に感動し彫刻に惹かれたことをきっかけに、彫刻家を志す。1939年東京美術学校彫刻科を卒業。この頃から、独学で石彫の直彫りをはじめ、その後第一人者となる。聖女像などキリスト教信仰やキリシタンの受難を題材とした作品も多数制作。1967年から東京藝術大学教授を勤め多くの彫刻家を育てた。1987年に脳梗塞で倒れ半身不随となった後も彫刻を続け、死の直前まで作品を作り続けた。高村光太郎賞(1962)、中原悌二郎賞(1972)、芸術選奨文部大臣賞(1978)など受賞、1999年文化功労者受章。「何を美しいと思うか 」と絶えず家族に示し、芸術の厳しさを体現した父・保武は、末盛の価値観、生き方に大きな影響を与える。本展では、保武と家族全員がカトリックの洗礼を受けるきっかけにもなった生後8ヶ月で病死した長男・一馬を描いたパステル画、末盛の幼少期の彫像、代表作である《長崎26殉教者記念像(ヘスス像)》、ハンセン病患者に尽くし自らも病に倒れた《ダミアン神父》とそれぞれのデッサン、すえもりブックスより出版した絵本『ナザレの少年―新約聖書より―』の原画 、右半身が麻痺した後に左手で創作した《ゴルゴダ》やデッサンを展示する。

舟越桂[1951-]
舟越保武、道子の次男として岩手県盛岡市に生まれる。父・保武の影響で子供のころより彫刻家になるだろうと予想する。1975年、東京造形大学彫刻科卒業、東京藝術大学大学院に進学し彫刻を専攻する。大学院在学時、トラピスト修道院のために初の本格的な木彫作品となる《聖母子像》(1977)を制作。1986~87年、文化庁芸術家在外研修員としてロンドンに滞在。性別を感じさせない半身の人物像を特徴としており、2004年からは、両性具有の身体と長い耳をもった像「スフィンクス・シリーズ」を手がけている。これまでの参加した主な国際展に「ヴェネチア・ビエンナーレ」(1988)、「サン・パウロ・ビエンナーレ」(1989)、「ドクメンタ9」(1992)など。タカシマヤ文化基金第1回新鋭作家奨励賞(1991)、中原悌二郎賞(1995)、平櫛田中賞(1997)、毎日芸術賞(2009)などを受賞。11年には紫綬褒章を受章。近年の主な個展に「舟越桂 私の中のスフィンクス」(兵庫県立美術館など4会場を巡回、2015-16)、「舟越桂 私の中にある泉」(2020-21)。本展では、すえもりブックスで出版された『児童文学最終講義』(猪熊葉子著)の表紙となった《 冬の本 》、絵本『おもちゃのいいわけ』にもなった家族のためにつくった木っ端のおもちゃ、東日本大震災の時に被災地に持参した彫刻《立ったまま寝ないのピノッキオ》と伝統手摺木版画で刷られた「ピノッキオ」の絵巻物、東北での体験から生まれた《海にとどく手》など10数点を展示する。

舟越直木[1953-2017]
舟越保武、道子の3男として東京に生まれる。1978年、東京造形大学絵画科卒業。1983年には、みゆき画廊において、絵画作品による初個展を開催する。以降もギャラリーQなどで個展を開催。1980年代後半からは彫刻に転向。その後は、なびす画廊、MORIOKA第一画廊、ときの忘れもの、GALLERY TERASHITA、ギャラリーせいほうなどで個展を開催した。節足動物の足を思わせるような長く、かつ緩やかなカーブを描いた線からなる作品や、人間の心臓を暗示させるハート形をした作品、単純化された人間の輪郭を想起させる作品などの抽象彫刻や、繊細な色彩感覚をもって対象物の存在感そのものを描き出すドローイングなどで知られる。本展では、直木の初期から晩年までの代表作を展示する。

舟越道子[1916-2010]
北海道釧路市に生まれる。旧姓、坂井。女子美術専門学校、文化学院で学び、1940年に舟越保武と結婚。当時すでに自由律俳句の世界で知られた存在であったが、保武の強い希望により、句作を断念、家族を支えた。55年後の1995年、俳句雑誌に「坂井道子はどこへ」という記事が掲載されたことにより、母・道子が文学に憧れただけの少女ではなかったことを子どもたちは知ることとなる。市川浩の哲学との出会いをきっかけに句作を再開、句文集や詩集も刊行した。芹沢銈介に染織を、難波田龍起に洋画を学び、絵画の個展も毎年開催した。

舟越苗子[1943-]
舟越保武、道子の次女として東京に生まれる。アメリカのウエストバージニア州立大学Concord College で絵画、彫金を学び 1966 年に卒業。ニューヨーク、アート・ステューデント・リーグでデッサンを学び、メイン州の工芸学校で彫金を学ぶ。ベルギー、ブリュッセルに滞在、フランス語を学ぶ。テレビ番組(海外局、および海外向け)で日本取材班の通訳・コーディネーターとして働く。父・母の最晩年の介護を担当 した 。 本展ではドローイングを出品する。

茉莉 ・ アントワンヌ ・ 舟越[1946-]
舟越保武、道子の3女として岩手県盛岡で生まれる。1969 年、慶應大学文学部卒業。以来、主にパリとブリュッセルで暮らす。ドキュメンタリー作家の夫ジャン・アントワンヌの日本をテーマにしたフィルム(日本の歴史シリーズ、日本の伝統工芸作家、井上靖、安藤忠雄、堤清二などの紹介)の制作を担い、現在は、フジサンケイ・パリに勤務、高松宮記念世界文化賞、ロン・ティボー国際音楽コンクールを担当する。本展ではシルクスクリーンの作品を出品する。

舟越カンナ[1960-]
舟越保武、道子の4女として東京に生まれる。桐朋学園演劇科卒業。末盛の手がけた絵本『あさ One morning』『冬の日 One Evening』『冬の旅 One Christmas』『そらに In The Sky』では言葉を担当、「まだ、絵本は子どもだけのものとお思いですか」というコピーはカンナの作。アーティスト、絵本作家。本展では、「うしろすがた」シリーズの中から家族を描いた作品を出品する。
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絵本編集者・末盛千枝子氏を中心に、父君で光太郎と親交が深かった彫刻家の舟越保武、同じく彫刻の道に進んだ桂氏をはじめとする弟妹の皆さんなど、タイトル通り「末盛千枝子と舟越家の人々」の展覧会です。

プロフィール欄にある「高村光太郎により「千枝子」と名付けられる」の経緯は、平成28年(2016)に刊行された末盛氏の御著書『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』に詳しく語られています。

 私の父は旧制中学のとき、高村さんの訳した『ロダンの言葉』という本を読んで彫刻家になろうと決心したのだった。そして、私が東京練馬のアトリエ長屋で生まれた時、父は数え年で二十九歳だったが、全く面識のない高村さんを突然訪ねて、
「彫刻家になろうとしている舟越保武というものです。娘が生まれたのですが、名前をつけていただけないでしょうか」
 と頼んだそうだ。困惑されたに違いないが、高村さんはその無謀な願いを聞き入れてくださり、
「女の名前は智恵子しか思い浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけないので字だけは替えましょうね」
 と言って千枝子と名付けて下さったのだと、小さいときから繰り返し、聞かされてきた。


末盛氏のお生まれは昭和16年(1941)、『智恵子抄』が刊行された年です。

その後、同20年(1945)には光太郎が花巻に疎開、同じ頃、舟越一家も盛岡に。戦後、舟越は岩手県立美術工芸学校教授となり、光太郎も同校の顧問格となって、親しく交わるようになります。その頃、幼かった末盛氏は光太郎と会われています。鮮明な記憶ではないようですが、やはり『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』から。

 父はときどき盛岡に出てこられる高村さんにお会いする機会が増え、自分の彫刻を見てもらいに作品を持って花巻をお訪ねすることもあったようだ。
 そして、時には私を連れて盛岡駅に高村さんを見送りにいくというようなことがあったという。父が「この子があのときに名前を付けていただいた千枝子です。三年生になりました」と申し上げると、高村さんは私の頭をなでて、「おじさんを覚えておいてくださいね」と言われたそうだ。父は、そのことを何回も話してくれた。


しかし、「千枝子」と名付けられたことに対し、ご本人はいろいろ複雑な思いを抱えながら成長されたそうで、そのあたりは同書をご覧下さい。

関連行事が以下の通り予定されています。

オープニング・トーク「舟越家の芸術」

期 日 : 2023年4月15日(土)
会 場 : 市原湖畔美術館 千葉県市原市不入75-1
時 間 : 13:00~14:45
料 金 : 1,000円(別途要入館料)
出 演 : 末盛千枝子 中谷ミチコ(アーティスト) 北川フラム(市原湖畔美術館長)

申込み多数のため、会場参加の受付は締め切りました。トークの録画を4月23日にHPで無料公開しますので、ご理解くださいますようお願い申し上げます。

末盛千枝子講演会「人生に大切なことはすべて絵本から教わった」

期 日 : 2023年4月16日(日)
会 場 : 市原湖畔美術館 千葉県市原市不入75-1
時 間 : 13:00~14:30
料 金 : 1,000円(別途要入館料
出 演 : 末盛千枝子

編集者として最初に手がけた絵本がボローニャ国際児童図書展グランプリ、ニューヨークタイムズ年間最優秀絵本賞を受賞、自ら出版社を立ち上げ、美智子さまの講演録を手がけ、ゴフスタインやターシャ・テューダーなど数々の話題作を出版してこられた末盛千枝子さん。しかしその人生は多くの困難に満ちたものでした。夫の突然死、息子の難病と障害、そして移住した岩手での震災……。どんな困難に遭っても、運命から逃げず歩み続けてこられた末盛さんに、自らの人生と世界中の素晴らしい人たち、絵本との出会いを語っていただきます。

当方、講演会の方に申し込みました。

末盛氏とは、平成25年(2013)、代官山で開催された「読書会 少女は本を読んで大人になる」で初めてお会いし、翌年、花巻郊外旧太田村の高村山荘(光太郎が蟄居生活を送った山小屋)敷地内での第57回高村祭でご講演いただきました。それ以来、ほぼほぼ10年ぶりとなります。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

めつたに海に来ない僕にはこの連中のやつてる事が非常に英雄的に見える いつも海に来ると海の重量を考へる


大正元年(1912)8月31日 前田晁宛書簡より 光太郎30歳

昨日のこの項でご紹介した書簡の続きです。昨日分は絵葉書の宛名面下部の文面、今日の分は写真面に書き込まれています。
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銚子犬吠埼に絵を描きに来た光太郎。この後、それを追って智恵子が現れます。

出版社・思潮社さん創業者の小田久郎氏が亡くなっていたことが先月末に報じられました。

『朝日新聞』さん。

小田久郎さん死去 思潮社創業者003

 詩の出版社「思潮社」を創業し、戦後日本の詩壇史に大きな影響を与えた小田久郎(おだ・きゅうろう)さんが昨年1月18日、肺炎で死去した。90歳だった。今月28日発売の詩誌「現代詩手帖(てちょう)」4月号で同社が公表した。
 1956年に思潮社を創業し、59年に「現代詩手帖」を創刊。谷川俊太郎さんや故大岡信さんらを積極的に起用した。95年、詩壇の歩みを綿密に書きとめた「戦後詩壇私史」で大佛次郎賞。2021年、戦後日本の詩と詩壇への貢献に対し、歴程賞を贈られた。

もしかすると記事にある『戦後詩壇私史』等で光太郎に触れられていたかも、と思ったのですが、その辺り、当方、寡聞にして存じませんで、訃報の紹介はいたしませんでした。

ところが、『日本経済新聞』さん(4月6日(木)の掲載でした)に載った氏の追悼記事に、光太郎の名。やはり『戦後詩壇私史』で光太郎の「道程」(大正3年=1914)に言及されていたそうで。

思潮社創業者・小田久郎さん「現代詩」背負って立った人

 昨年1月に90歳で亡くなった「思潮社」の創業者、小田久郎さんは、いつも朗々とした声で語る人だった。
 東京・市谷砂土原町の社屋に小田さんを初めて訪ねたのは34年前。当時58歳の小田さんには、現代詩の出版を背負って立つ自信と気力があふれていた。刊行開始から20年余りを経た「現代詩文庫」発刊の経緯や、田村隆一、鮎川信夫ら「荒地」グループの詩人の仕事を、豊富な逸話と交えて語り出す座談に、駆け出しの文芸記者は魅了された。
 以来、取材などで会うたびに話したのは、いつも詩人と現代詩の話題ばかりだったが、退屈したことがなかった。その訳は、小田さんがその後、齢を重ねても、現代詩の歴史と現在を、いつも我がこととして、受け止め続けてきたからではなかったか。
 現代詩の今を、他人事にはしない姿勢は、思潮社で働く編集者が常々感じていた。看板雑誌「現代詩手帖」の編集長を1960年代に務めた詩人の八木忠栄さんは、小田さんを「貫徹の人だった」と回想する。「現代詩をリードするという意識が常にあって、中心となる企画の決定をするのは、常に小田さんだった」という。柔らかな企画を提案しても、はねられ、悔しい思いをしたこともあった。
 同時に、「新しい詩人を育てないといけない」という意識を強く持っていた。「荒地」の詩人や、大岡信、谷川俊太郎、飯島耕一といった同世代の詩人と並走するとともに、若い編集者を年下の詩人の担当にして、新世代のフォローアップを欠かさなかった。
 「小田さんは、現代詩の流れを更新しよう、という意識をいつも抱いていた」と振り返るのは、2010年から5年間、「現代詩手帖」の編集長を務めた亀岡大助氏さんだ。新しい世代の詩人を取り上げる特集や詩集のシリーズを、21世紀になってからも、次々と送り出していった。
 小田さんの次男で思潮社専務の小田康之さんには、今も忘れられない父の言葉がある。
 「売れる本は作るなよ」。90年代の初め、思潮社で仕事を始めたころに言われて驚いた。売り上げを第一に考える現在の出版界から見れば、ナンセンスにさえ聞こえるかもしれない。しかしそれは、売り上げだけを目的にするのでなく、自社にしか作れない本を作れ、という信念の表れだった。「あれだけ多くの詩集を世に出し続けた出版人は、かつていない。ギネスブックものではないか」。そう語るのは、60年もの親交のある詩人の井川博年さんだ。
 戦後の詩壇の変遷を体験に基づいてたどった著書「戦後詩壇私史」で、小田さんは「現代詩手帖」を創刊した59年ごろの心情を、高村光太郎の詩の一節を借りて表している。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」
 戦後から現代へ至る詩の道を華やかに歩いた詩人は数あれども、その裏で、長きにわたりその道を整備し続けた人は、小田さんをおいてほかにいなかった。
(客員編集委員 宮川匡司)
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なるほど、光太郎の精神を受け継がれての数々の業績だったか、と、粛然とさせられました。

ところで、詩誌『現代詩手帖』をはじめ、このブログサイトでご紹介してきた複数の新刊詩集等で、思潮社さん刊行のものも少なくありません。平田俊子氏『戯れ言の自由』和合亮一氏『QQQ』平岡敏夫氏『平岡敏夫詩集』など。それらの奥付を見てみますと、「発行人 小田久郎」の文字。詩誌『歴程』等を通し、多くの詩人を世に送り出した当会の祖・草野心平や、さらに遡って『明星』で光太郎を含む若い才能を育てた与謝野鉄幹などを彷彿とさせられました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

ふいと出て来たので又出直さうと思つてます 今日は一旦帰るでせう


大正元年(1912)8月31日 前田晁宛書簡より 光太郎30歳

ふいと出て来た」先は、千葉銚子の犬吠埼。今年1月に廃業した老舗旅館・暁鶏館に宿泊し、絵を描くためでした。しかし気乗りがしなかったのでしょうか、すぐ帰ろう、と書いています。

ところがそこに、智恵子が現れます。二人の恋愛問題で煮え切らない態度の光太郎に業を煮やしたのでしょうか。

光太郎の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。

丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会つた。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若し私が何か無理な事でも言ひ出すやうな事があつたら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだつたといふ事であつた。私はそんな事は知らなかつたが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかといふ予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれてゐた。

結果、滞在を9月4日まで延ばし、光太郎も智恵子への愛を貫く決意を固めました。

福島発の報道を2件。

まずは智恵子の故郷・二本松に聳える安達太良山関連で、『福島民報』さん。3月31日(金)掲載分です。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を使って下さいました。

くろがね小屋 またね 建て替え、4月から休業 福島県二本松市の安達太良山 築59年 登山客 感謝

 福島県二本松市の安達太良山(1700㍍)中腹にある「くろがね小屋」は、建て替えのため4月から休業する。60年近く登山客に親しまれてきた現施設は30日、最後の宿泊客を迎えた。なじみの客が大勢訪れ、施設に思い出を刻むとともに、感謝と別れを告げた。ほんとの空の下で登山者の安全を守ってきた山小屋は、2025(令和7)年度内に生まれ変わる。登山者は「心のよりどころとなる施設として在り続けてほしい」と願う。
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 安達太良山の奥岳登山口から2時間ほど歩くと、くろがね小屋に着く。玄関を開けると歴史を感じる造りで、室内にはゆったりとした時間が流れる。冬期も含め年間を通して営業している山小屋は、寒さの厳しい東北、北海道地方では珍しい。源泉掛け流しの温泉もあり、秘伝のレシピで作るカレーも人気だ。ここで1泊し、翌朝に山頂を目指す客は多い。
 4月1日から休業するため、宿泊者を受け入れるのは30日が最後だった。午後になると、客が続々と到着する。昔ながらのダルマストーブがリュックサックを下ろした人たちの体を温める。1階の談話室では、なじみの客が車座になって談笑し始めた。スマートフォンを向けて室内を写真に収めたり、持ち寄った手料理を囲んで杯を交わしたりして思い思いに過ごす。にぎやかで温かな雰囲気に包まれる。
 施設の建て直しに、登山客からは惜しむ声が上がる。3年ほど前に山登りを始めた青森県の会社員矢田圭吾さん(37)は、テレビでくろがね小屋を知り、初めて訪れた。「最初で最後の訪問。趣があって、一目ぼれしている」と話す。郡山市の無職八木沼トモ子さん(69)は、50年以上前から年に2回ほど通う。なじんだ建物がなくなるのはさみしい。「新しい山小屋を楽しみにしている。休業の間も登り続け、再開を待ちたい」と気持ちを切り替える。
 管理人の田畠翔さん(35)は「年間の3分の2の時間をここで過ごしてきた。当たり前にあったものが無くなってしまうが、まだ実感がない」と言う。再開後も仲間と共に管理人の務めを果たしたいと気を引き締める。
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■年間3千人超 宿泊利用
 くろがね小屋の現施設は、1964(昭和39)年に営業を始めた。県が所有し、管理や運営を県観光物産交流協会が担う。県によると、年間3千人以上の宿泊利用がある。
 築59年となり、雨漏りや床の腐食など老朽化が目立ってきたため建て替える。トイレの排水を地中に浸透させて処理しており、環境への影響も課題となっていた。
 新たな建物は現施設の跡地に建てる。排水を処理する浄化槽を設けるほか、2014年の御嶽山(長野、岐阜両県)の噴火災害を教訓に、屋根の強度を高めるという。当初は2019年度に着工する予定だったが、環境影響調査や資材の運搬計画、建設費の見積もりに時間がかかっていた。
 4月からは、電源の引き込みや登山道の補修工事を進める。

くろがね小屋さん、登山系のテレビ番組などで安達太良山が取り上げられる際には、必ずと言っていいほど登場しました。

ドキュメント72時間「福島 真冬の山小屋にて」/宮川一朗太のおっ!さんぽ #42 花巻。
テレビ再放送情報 「ニッポン美景めぐり 十和田・奥入瀬」/「プレミアムドラマ山女日記3 #3 あどけない空・安達太良山」。
日本の名峰・絶景探訪▼紅葉色めく湯の山 安達太良山 福島。
『日本の名峰 DVD付きマガジン44 雪煙舞う厳冬の安達太良山』。
にっぽん百名山「安達太良山」/にほんごであそぼ 道程。
「小さな旅 シリーズ山の歌 秋 ほら、空が近くに~福島県安達太良山~」。
にっぽん百名山「安達太良山」/歴史秘話ヒストリア。

長い間、お疲れさまでした、という感じですね。

もう1件、当会の祖・草野心平関連で、光太郎の名も出して下さいました。『いわき民報』さん、こちらも3月31日(金)掲載分です。

73歳の草野心平は飲みすぎ!? 福島高専・村上さんの日記分析に学会評価

 数え年で73歳の心平が1日に摂取していた平均アルコール量は、一般の約3倍!?
 今年生誕120年を迎える小川出身の詩人・草野心平の飲酒量を、心平自身の日記の一部からデータベース化し、集計・分析した研究発表が、先ごろ開催された情報処理学会の第85回全国大会で高評価を受けた。
 まとめたのは、福島高専ビジネスコミュニケーション学科4年生の村上紗彩さん(19)。高村光太郎ら文人仲間が集う居酒屋「火の車」を経営するなど、無類の酒好きとして知られる郷土の偉人、心平の人間味あふれる一面を数値でつまびらかにし、研究者たちを驚かせている。
 世代の名だたる文豪たちの酒好きエピソードは数あれど、どんな酒をどれだけ飲んだか、事細かく日記に記した文人は草野心平しかいない。
 村上さんが強い関心を持ち、研究材料と決めたのは、心平作詞の校歌をライフワークとして調べ続けるなど、〝心平愛〟の深い恩師、島村浩同校情報処理教育センター長・指導教員(63)から聞いた逸話がきっかけだった。幼いころに教科書で〝蛙の詩人〟を知り、進学した高専の校歌を作詞した偉人が実は食通で、無類の酒好きだったことを知った。
 日本酒、ビール、ウイスキー、ぶどう酒、焼酎にシャンパン……。日本酒は1合180ml、ビールは1本633ml、ウイスキーは1杯30mlなど、日記の記述をもとに合理的と考えられる単位を考え、飲んだ記録はあるが量の記録がない場合は0に。
 一方、特にたくさんの酒を飲んだ様子のある日は記憶がなくなり、飲酒量の記録がないため、「最低でもこれ以上は飲んでいるだろう」という数値を積み重ねた。
 村上さんは「正直、最初は『ぐうたらな人』かと思っていたが、日記を読み進めるうちに、積極的に運動に取り組むなど健康意識は高く、仕事もたくさんする凄い人と分かった」と、心平の人間性に心奪われている。
 今回のデータは膨大な日記のうちのほんの一部で、もっとデータを蓄積する必要性に駆られており、オンライン化を視野に研究を継続して、豪放と評される心平の人となりや凄みを数値化していく考えだ。
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そこまで分析されてしまった心平、雲の上で苦笑しているような気がします。

光太郎とちょうど20歳違いの心平。今年、光太郎が生誕140周年ですが、心平は生誕120周年です。そういうわけで、心平にも大きくスポットがあたってほしいものですね。

【折々のことば・光太郎】

小生転居仕候


明治45年(1912)6月8日 島村盛助宛書簡より 光太郎30歳
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駒込林町25番地のアトリエ兼住居が落成し、実家からこちらに移ったという通知です。「手製の木版は如斯きたなく候」とあり、2色刷りの版画で刷って、あちこちに送ったと推定されます。他に生田葵山に宛てたものの存在も確認できています。

このアトリエの新築祝いに、前年末に知り合った智恵子がグロキシニアの鉢をかかえてやってきました。おそらくこの前後でしょう。

まずは昨日の『福井新聞』さん。

【論説】津村さん原稿、県に寄贈 代表作が持つ圧倒的な力

 福井市出身の芥川賞作家で文化功労者の津村節子さん(94)の製本手書き原稿6点が福井県ふるさと文学館に寄贈された。自伝的小説、伝記小説、歴史小説と多岐にわたり、いずれも代表作。文学賞受賞作も含まれる。万年筆の手書きには力があり、推敲(すいこう)の様子が手に取るように分かる。加筆修正が重ねられた原稿は、作家が世に問おうとした思いの結実であり気迫が伝わってくる。
 6点は、高村智恵子の伝記小説で芸術選奨文部大臣賞を受賞した「智恵子飛ぶ」、戊辰戦争を会津藩士の娘の視点から描いた歴史小説で女流文学賞受賞の「流星雨」、自伝的小説3部作の「茜色の戦記」「星祭りの町」「瑠璃色の石」と、八丈島に流刑された遊女を描いた歴史小説「黒い潮」。県ふるさと文学館で開催中の「新収蔵 津村節子展~津村節子という生き方~」(~6月4日)で公開。2015年の同館開館記念特別展に寄せた自筆原稿はじめ約120点の資料が並ぶ。
 「智恵子飛ぶ」は、画家として活躍した智恵子が彫刻家・高村光太郎と出会い、結婚後は夫の圧倒的な才能に押しつぶされていく芸術家夫婦の葛藤を描いた。吉村昭さん(1927~2006年)と夫婦作家であった津村さんは、光太郎という天才と暮らす智恵子の心情を推し量ることができたのだろう。夫というライバルに対して智恵子が抱えた羨望(せんぼう)や屈辱といった感情のせめぎ合いが圧倒的な熱量をもって表現される。自筆原稿はほぼ全編を通して加筆修正され、智恵子が死に向かう終盤はより修正が多くなる。物語をどう結ぶか、津村さんが考え抜いた様子がうかがえる。
 津村さんにはふるさと5部作といわれる福井の女性を主人公にした作品「炎の舞い」「遅咲きの梅」「白百合の崖」「花がたみ」「絹扇」がある。「遅咲きの梅」と「花がたみ」(越前市所蔵)以外は、県が自筆原稿を所蔵。ふるさとを丹念に取材した5部作を津村文学として親しんでいる県民は多いだろう。代表作の自筆原稿が県に寄贈されたのを機に、改めて6作品に向き合いたい。
 半世紀以上、第一線で執筆を続ける津村さんは非常に限られた作家だ。20代のころから作家を「いのちをかける仕事」と語ってきた。6作品はどれも、懸命に生きる女性の姿に光を当てている。心の内を丁寧にすくい上げた物語は強い力を持って読み手を引きつける。津村さんが命をかけて世に出した作品世界をいま一度味わいたい。

福井県ふるさと文学館さんに、『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)のそれを含む津村氏自筆原稿等が寄贈され、展示されているとのこと。まったく存じませんで、調べてみましたところ、先月から始まっていました。

コレクション展 新収蔵 津村節子展 津村節子という生き方

期 日 : 2023年3月1日(水)~6月4日(日)
会 場 : 福井県ふるさと文学館 福井県福井市下馬町51-11
時 間 : 平日 9:00~19:00 土・日・祝 9:00~18:00
休 館 : 月曜日 4月11日(火)~4月14日(金) 5月25日(木)
料 金 : 無料

 津村節子は、1928年福井市に生まれました。1965年に小説「玩具」で芥川賞受賞を機に福井を訪れた津村は、『花がたみ』『絹扇』などで故郷・福井の女性を描きました。その後も、夫の死と向き合った『紅梅』で2011年に菊池寛賞を受賞。2016年には文化功労者に顕彰されています。
 このたび、当館は、津村節子氏の代表作である『流星雨』(女流文学賞受賞作)や『智恵子飛ぶ』(芸術選奨文部大臣賞受賞作)など自筆原稿6点をご寄贈いただきました。本展では、新収蔵資料を中心に、半世紀以上にわたり、書くことに向き合い続ける作家・津村節子の軌跡と作品世界に迫ります。
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『智恵子飛ぶ』の原稿、複製は荒川区の吉村昭記念文学館さんでの「津村節子展 生きること、書くこと」、三鷹図書館さんでの「吉村昭と津村節子・井の頭に暮らして」展でそれぞれ拝見しましたが、複製でない現物が寄贈され、展示されているのですね。

その他、『智恵子飛ぶ』で第48回芸術選奨文部大臣賞に輝いた際の賞状、二本松市教育委員会さんご提供の智恵子関連のパネル、津村氏旧蔵の光太郎複製原稿なども展示されています。

以前にも書きましたが、故・吉村昭氏との夫婦ご同業ということで、光太郎智恵子夫婦にも通じる余人には伺い知れぬご苦労がいろいろおありで、そのあたりが『智恵子飛ぶ』にも反映されています。

お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

建築は来月の初旬には出来相だ。君の旅行以前に今度の家で一緒に「めし」でも喰ひたいと思つてゐる。今度の家は僕の生活上に一線を画す筈だと思ふ。愈々一人の生活が始められると思つてゐる。


明治45年(1912)5月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎30歳

昨日のこの項でも触れましたが、「建築」は駒込林町25番地の住居兼アトリエ。光太郎自身の設計です。ここに移るまでは、指呼の距離にある実家の庭にあった祖父の隠居所を改装してアトリエとしていました。前年12月に智恵子と初めて会ったのもこちらです。

愈々一人の生活が始められる」とありますが、明治43年(1910)末から翌年にかけ、2ヶ月ほど日本橋浜町の松葉館という下宿屋に居たので、その際は独り暮らしだったはずです。ただ、当時の下宿屋では食事は自室で摂るのではなく、下宿人が座敷で一堂に会して饗されるというスタイルのところが多かったため、その意味では純粋な独り暮らしとは言えなかったということでしょうか。

智恵子の故郷・福島県二本松市の『広報にほんまつ』、今月号から。

このところ、毎年4月号は「安達太良の ほんとの空に さくら舞う」の見出しで市内の桜を特集しています。「ほんとの空に さくら舞う」は、令和元年(2019)に同市で開催された「2019全国さくらシンポジウム」のキャッチフレーズでした。
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智恵子生家/智恵子記念館も行程に入っている臨時の市内循環バス「春さがし号」(明後日から運行)の案内なども。

時刻表等は以下の通りです。
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新幹線等で訪れられる方は、これを使うのも一つの手ですね。

もう1件、日本税理士会連合会さんの監修、株式会社ぎょうせいさんの発行になる『月刊税理』の今月号。中央大学法科大学院教授の酒井克彦氏の連載「酒井教授の百名山おぢ散歩」(見開き2ページのコラム的な)が「第12回 安達太良山」で、光太郎智恵子に触れて下さっています。多謝。
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010ぎょうせいさんの公式サイト、Amazonさん等で、今月号のみ購入可能です。ただ、この後引用されている『智恵子抄』中の詩の制作背景等、ちょっと勘違いされているのですが……。

また後ほど詳しくご紹介いたしますが、二本松では今月末から恒例の「高村智恵子生誕祭」として、通常非公開となっている智恵子生家の2階部分の限定公開や、智恵子記念館では智恵子紙絵実物の展示もありますし、来月には安達太良山の山開き、さらに地元で智恵子顕彰をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催のイベント等も計画されています。

まずは桜。もう関東では終わってしまっている感がありますが、東北はこれから盛りなのでしょう。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

来月末には僕の城郭も略ぼ竣工するだらう。


明治45年(1912)4月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎30歳

僕の城郭」は、駒込林町25番地の、住居兼アトリエ。光太郎自身が設計しました。安藤仁隆氏により、その詳細な図面等が復元され、イギリス風の建築であったことなど、かなり詳細な部分が解明されています。
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訃報を2件、ご紹介します。

まずは言わずと知れた世界の坂本龍一氏。共同通信さん配信記事から。

世界的音楽家の坂本龍一さん死去 YMO、環境・平和活動も

004 音楽ユニット「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)のメンバーで、世界的な音楽家として知られた坂本龍一(さかもと・りゅういち)さんが3月28日、死去した。71歳。東京都出身。葬儀は近親者で行った。
 1978年に細野晴臣さん、高橋幸宏さんとYMOを結成し、キーボードを担当。シンセサイザーを駆使したテクノ・ポップ・サウンドで一世を風靡した。
 大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」に出演し、音楽も担当。映画「ラストエンペラー」の音楽で、米アカデミー作曲賞、グラミー賞を受賞した。
 環境問題や平和問題にも関心が深く、近年は脱原発で積極的な発言を続けた。

坂本氏、NHKEテレさんの「にほんごであそぼ」内でくりかえし使われ続けている「道程」の作曲を手がけられました。
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「道程」の最終詩形は短いものですので(雑誌への初出発表形は102行ありましたが、詩集『道程』収録時にばっさりカットして9行になりました)、通常、他の作曲家等の方々は全9行に曲をつけられます。しかし、坂本氏は冒頭2行「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」だけを抽出。しかも、ある意味、ポジティブな内容の詩ですからこれも他の作曲家等の方々はドゥア(長調)で作曲されるところを、坂本氏は哀愁漂うモール(短調)で。しかし、それが何ら不自然ではなくこの上なくぴったりはまっていて、この短い曲一つとっても、坂本氏の類い希な才能のほどがわかります。

東日本大震災があった次の年の平成24年(2012)に公開収録が行われ、翌年オンエアされて、さらにDVD化もされた「にほんごであそぼ 元気コンサート in 福島」では、おん自らピアノ伴奏。
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坂本氏の貴重なかぶりものショットです。

ちなみにこの際の歌唱チームの一員で、他の機会にはソロでも「道程」を歌われていた、おおたか静流さんも昨年亡くなりました。

坂本氏と光太郎、もう1件。

やはり東日本大震災翌年の平成24年(2012)、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で開催された第21回女川光太郎祭の会場が、当時、女川町の仮設住宅敷地内の、坂本氏が資金を出して作られた巨大テントを張ったコミュニティスペース「坂本龍一マルシェ」でした。
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震災の復興支援、原発問題、環境問題などにも並々ならぬ関心を寄せられ、さらに発信を続けられていた氏の姿勢が、こういうところにも表れています。こういうイベントがあったというのは、ご本人はあずかり知らぬところでしょうが。

それにしても、坂本氏の訃報が出たのが、第67回連翹忌の4月2日(日)。不思議な縁を感じます。

もうお一方、今日の朝刊に出た訃報です。評論家の芹沢俊介氏。やはり共同通信さんから。

評論家の芹沢俊介さんが死去 家族、宗教、幅広いテーマ論じる

007 家族や教育、犯罪、宗教など、幅広いテーマを論じた評論家の芹沢俊介(せりざわ・しゅんすけ)さんが3月22日午後7時12分、脳出血のため千葉県我孫子市の病院で死去した。80歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は妻美保(みほ)さん。
 評論家の吉本隆明さんに師事し、雑誌「試行」などで原稿を発表。「鮎川信夫」などの文芸評論のほか、宗教集団信者の集団失踪を論じた「『イエスの方舟』論」で注目を集めた。ひきこもりの問題のほか、宮崎勤元死刑囚による幼女連続誘拐殺人事件や秋葉原無差別殺傷事件など、家庭や養育、若者の犯罪などについて積極的に論陣を張った。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の盟友だった故・吉本隆明氏の弟子筋に当たられた方です。オウム事件以降、いろいろあって表舞台にはあまり出て来られなくなられていましたが、かつては師の吉本氏同様、光太郎論にも取り組まれました。昭和57年(1982)には、筑摩書房さんから『高村光太郎』という書籍を刊行なさっています。
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また、令和元年(2019)、文治堂書店さんから刊行された北川先生の『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』PR用の冊子『トンボの眼玉』№9に、「北川太一とその仕事」という一文を寄せられました。
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坂本氏、芹沢氏、それぞれ謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

Tant de Japonais admirent votre art, cher  Maître, c'est bien naturel.


明治45年4月20日 アンリ・マティス宛書簡より 光太郎30歳

邦訳は「かくも多くの日本人があなたの芸術を賞讃するのは、親愛なる画伯、ごく自然のことなのです」。光太郎自身も含め、光太郎も関わった白樺派の面々を指しての言です。

マティスからは「あなたとお近づきになれますよう、近々パリに戻られますことを願っております。そのときを待ちつつ、御手紙に厚く御礼申し上げます」的な返信を受け取っています。残念ながらそれは実現しませんでしたが。

昨日は光太郎の忌日、第67回の連翹忌でした。

コロナ禍のため、3年間中止していた日比谷松本楼さんでの集いを4年ぶりに再開。盛会のうちに終えることが出来ました。レポートいたします。

会場入りする前に、まずは当会元顧問で、昭和32年(1957)の第1回連翹忌から会の運営に永らくたずさわられた、故・北川太一先生(令和2年=2020没)と、奥様(同4年=2022没)のお墓に参拝。文京区向丘の浄心寺さんです。
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「4年ぶりにやります」と、ご報告。

続いて都立染井霊園の高村家墓所に。

ソメイヨシノ発祥の地ですが、すでに桜は盛りを過ぎていたものの、まだ咲き残っていました。
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高村家の墓所近くでは、以前は黒猫2匹をよく見かけたのですが、今年はキジトラ系が。
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既にご遺族の方が参拝されたあとだったようで、香華がたむけられていましたが、持参した連翹を追加し、香も。
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こちらでも「4年ぶりにやります」とご報告。

さて、日比谷公園に。こちらの松本楼さんが、集いの会場です。かつて光太郎智恵子が今も饗されている氷菓を賞味し、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」大会の会場としても使われた老舗洋食店です。連翹忌の集いの会場としては、平成11年(1999)から使わせていただいております。
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早く着いてしまったので、近くを散策。桜はやはり盛りを過ぎていましたが、咲いているのが見られる最後の週末でしょう、多くの花見客が。
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松本楼さんエントランスの掲示板、4年ぶりに「連翹忌」の文字。これを見ただけでうるっと来てしまいました。
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泉下の光太郎も喜んでくれていたと信じたいところです。
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5時30分開会でしたが、文書でお願いしたところ、3時頃には、太平洋美術会さんの坂本富江様はじめ、多くの皆さんが駆けつけて下さり、資料の袋詰め等、お手伝い下さいました。中には今回初めてご参加の方も。感謝に堪えませんでした。

さて、開会。

光太郎、そして、4年の間に亡くなった関係の方々へ、ということで黙祷。続いて高村家ご当主にして、光太郎実弟・豊周の令孫の髙村達様の御発声で献杯。

2月に告知をした段階では、4年ぶり、さらにコロナ禍もまだ完全に終わったわけでもないということもあって、どれだけ集まって下さるか心配していたのですが、蓋を開ければコロナ禍前と同様、70名超の皆さんがお集まり下さいました。
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ただ、直前になって御家族にコロナ感染が出たということでキャンセルされた方、ご高齢のため出て来られないという方もけっこういらっしゃいましたし、何より、北川先生御夫妻をはじめ、この4年の間に亡くなったご常連の方々も多く、その点が残念でした。

その後、ビュッフェ形式で会食をしつつ、歓談。合間に何人かの方にスピーチを賜りました。

北川先生令息・光彦氏、女川光太郎の会の佐々木英子様(今年は8月の女川光太郎祭も復活するそうです)、光太郎第二の故郷たる花巻市の松田副市長、同じく花巻で活動されているやつかの森LLCの藤原代表(オリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」の件等、お話しいただきました)、今回唯一生前の光太郎をご存じの深澤様(画家の深沢省三・紅子夫妻令息の故・竜一氏夫人。代理でご令嬢にエピソードを語っていただきました)。
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光太郎の親友・水野葉舟令曾孫にして、やはり光太郎と親しかった尾崎喜八令孫の石黒敦彦氏、光太郎の影響で彫刻家となった高田博厚の顕彰に埼玉県東松山市で当たられている同市教委の柳沢様、日本詩人クラブの曽我様、詩人・吉野弘ご令嬢の久保田奈々子様、当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館の元学芸員・小野様碌山美術館長・幅谷様、そして富山県で演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている茶山千恵子様。

それから、劇作家・女優の渡辺えりさん。戦時中から戦後にかけ、光太郎と交流のあったお父さまのエピソードを語られ、さらに光太郎詩の朗読をお願いしておりましたので、熱演して下さいました。
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バックでピアノ演奏を、作曲家の朝岡真木子様にお願いしました。過日、えりさんから突然電話がかかってきて「朗読だけじゃさびしいから、誰か、ピアノをポロロロンって弾ける人、いない?」。無茶振りです(笑)。無茶を承知で朝岡様に電話したところ、快く引き受けて下さいました。多謝。

元々、朝岡様には、メゾソプラノの清水邦子様に朝岡様作曲の「組曲 智惠子抄」から抜粋で歌っていただく伴奏をお願いしていまして、「ついでというと何ですが……」とお願いした次第です。

その清水様、朝岡様の演奏。「組曲 智惠子抄」から「人に」。さらに今回ご参加いただいた詩人の柏木隆雄氏作詞の曲も。柏木氏、たまたまですが、ご実家が当方自宅兼事務所近くの最中屋さんです。
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名残惜しいところでしたが、これにて閉会とさせていただきました。

4年ぶりということで至らぬ点も多々あり、申し訳なく感じる次第ですが、皆様方のお力添えで、4年ぶりの集いを開催することができ、感無量でした。

コロナ禍の日々は、当たり前の日常が当たり前に続くとは限らないということを知らしめたという意味では意義のあった日々だと存じます。以前は「さて来年もがんばろう」と、当然のように翌年も出来ると決めてかかっていましたが、今年は「来年もまたつつがなく開催できますように」と、切に願うばかりです。

以上、第67回連翹忌レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

自分の感情をごまかしてしまふのは随分いやだから何でも積極的にやらうと今は思つてゐる。

明治45年(1912)2月12日 津田青楓宛書簡より 光太郎30歳

などと言いつつ、1ヶ月半前に初めて会って、好感情を抱いた智恵子に対しては、「自分の感情をごまかしてしまふ」部分が多々ありました。新しい芸術をこの国に根付かせるため、父・光雲の関係する範囲から距離を置くことで、苦労することになるのが目に見えている自分の生活に智恵子を巻き込みたくないと、それはそれで無責任な言動ではないので評価されるべきでしょうが。

今日、4月2日(日)は第67回連翹忌です。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借り受けた中野の貸しアトリエで、宿痾の肺結核のため光太郎が亡くなったのは、昭和31年(1956)4月2日の早暁。前日から都内は季節外れの大雪にすっぽりと包まれていました。
光太郎肖像
戦時中から光太郎と親しかった美術史家・奥平英雄の回想「晩年の高村光太郎」から。

 次の土曜日、すなわち三月二十四日の午後、私はいつものように勤めの帰りに彼を見舞った。すると令弟高村豊周夫婦をはじめ草野氏、岡本・関両医師、駒込病院長などが詰めていて、アトリエの様子が一変していた。聞くと光太郎は十九日の夕方喀血して容態遽かにあらたまったとのことだった。病室には見なれぬ看護婦がいて光太郎の脚をさすっていた。私が光太郎に顔を近づけると、「ぼくの心臓は強いんだそうだ。弱いんだと三、四分で楽になれるんだけどなあ」と低い声でいった。私が悄然と立ちすくんでいると、彼は昏々と眠りに入ったようだったが、また目をさまし私の姿を見つけると、「ああ、まだそこにいたの」といった。そしてこれが私に遺した光太郎の最後の言葉となった。
 それから後、アトリエをとりまく様子がにわかに変った。医師たちの手であらゆる治療の手がつくされると同時に、重態と聞いてかけつける人が多くなった。私も連日のように、訪ねるか電話で問い合わせたりしていたが、今日は遠来の見舞客で病人もひどく疲れているとか、われわれは遠慮して病室にいくのは控えようという声を聞いては、病室にはいっていく勇気も失ってしまった。そして中西家の母屋にいて、中庭をへだてたアトリエを望みながら、私は終始いらいらしていた。その当時の日記を開いてみると、いいいよ絶望ということを聞き、私は次のような走り書きをしている。「昨夜、先生ノコト気ニカカリ眠ラレズ。先生ノ最後ガ見トリタイ、一日一分デモ先生ヲ見タイ、先生ノ最後ノ姿ガ見タイ、ソノ声ガ聴キタイ……」
 喀血は一時やんだかに見えたが、四月一日にふたたび大喀血が起こり、二日の午前三時四十五分、四月の雪の激しく降る中を彼はついにこの世を去った。中西家の知らせで駆けつけた私は、ひっそりと静まり返ったアトリエの中にはいっていった。そして光太郎の顔から白い布をとったとき、私はその詩の顔を実に静かな美しい顔だと思った。生前あれほど彼を苦しめた胸の痛みからも、苦しみの連続だと語った人間の生涯からも、いまやっと彼は死んで解放されたのだと思った。
 私がこれまでしばしば見てきた光太郎の顔は、魂の底に深い孤独の影をたたえたような、謹厳な中にも悲愴のにじんだ顔であった。私はそうした彼の顔に惹かれてきたが、いまここに見る光太郎の安らかな死顔は、生前の顔とはまた別な、実におだやかな美しさをたたえていた。私はいまこそ高村光太郎は、平安な天に還っていったのだと思った。そう思って彼の前に掌(て)を合わせた。


1年後の昭和32年(1957)4月2日、草野心平や、当会顧問であらせられた北川太一先生らの呼びかけで、その終焉の地となった貸しアトリエを会場に、第1回連翹忌の集いが開催されました。

以後、集いはその会場や形態を変遷しつつ連綿と続き、平成11年(1999)の第43回から、会場を日比谷松本楼さん(光太郎智恵子が名物の氷菓を賞味し、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」会場にもなった老舗洋食店です)に移しました。

平成23年(2011)には東日本大震災直後だったため、集いは中止。そして令和2年(2020)から昨年までは、コロナ禍のためやはり集いの開催を見送りました。集いは中止としても、当方が代表して墓参したりで、カウントは続け、本日が第67回連翹忌です。今年は4年ぶり、令和に入って初めての開催となります(2019年は改元直前で平成31年でしたので)。光太郎生誕140年という節目の年に、4年ぶりに志を同じくする人々が集まり、光太郎を偲ぶことが出来るのを、無上の喜びと存じます。ステイホームの日々は、志を同じくする人々があたりまえのように集えることが、実はあたりまえでなどでなく特別なことなのだと、思い知らされた日々でもありました。

しかし残念なのは、この4年の間に、北川太一先生御夫妻をはじめ、関係の方々の訃報が相次いだこと。詳しくはこのブログの「お悔やみ」カテゴリーをご覧下さい。今日の集いは、そうした方々への追悼の意味も込めた特別な集いと位置づけたいと存じます。

集いの様子については、明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

Je suis Japonais. Et, j'ai commencé d'aimer profondément votre art dès que j'ai trouvé dans vos ouvrages en l'exposition du Salon d'Automne en 1908 (C'était la première fois que je voyais vos toiles et bronzes) quelque chose si précieuse, si essentielle, que je ne pouvais pas trouver dans toutes les écoles des arts contemporaines en l'Europe.
 Mais, je n'avais pas le courage d'oser vous visiter, pendant ma séjour à Paris.
 Maintenant, je suis si loin de la France et je ne peux plus voir votre ouvrages.
 J'envie de recueillir les reproductions des vos tableaux et statuettes, et je vous prie que vous voulez bien m'informer le photographe chez qui je les pourrais acquérir.

明治45年(1912)1月10日 アンリ・マティス宛書簡より 光太郎30歳

邦訳は以下の通り。

私は日本人です。そして1908年のサロン・ドートンヌの展覧会におけるあなたの作品に(私があなたの絵とブロンズ彫刻を拝見したのはその時が最初でした)、ヨーロッパの同時代芸術のいかなる流派にも見いだすことができないような、何かとても貴重で、とても本質的なものを見出した時以来、あなたの芸術を深く愛し始めました。
しかしパリ滞在の折には、あなたをお訪ねする勇気がありませんでした。
現在、フランスからかくも遠く離れて、私にはもはやあなたの作品を見ることが叶いません。
私はあなたの絵や小彫刻の複製を集めたいと思っています。そこで、あなたの作品の複製を手に入れることのできる写真家をご教示いただければ幸いです。

光太郎の要請に対し、マティスからは作品の写真が贈られ、翌年の雑誌『白樺』の口絵に使われました。

大阪から演奏会情報です。

Raffiné 春の音楽祭 in Osaka~心に響く名曲の調べ~

期 日 : 2023年4月5日(水)
会 場 : 豊中市立文化芸術センター小ホール 大阪府豊中市曽根東町3-7-2
時 間 : 18:30開演
料 金 : 全席自由 2,800円

出演/曲目 :
 八幡 達<ヴァイオリン> ピアノ:林 典子
  C.サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲 第3番 ロ短調 作品61 より 第1楽章
  F.クライスラー:プレリュードとアレグロ
 永井樹奈<フルート> ピアノ:仲本和香奈
  尾高尚忠:フルート協奏曲 より 第2、第3楽章
 宮口 愛<ピアノ>
  F.リスト:メフィスト・ワルツ 第1番「村の居酒屋での踊り」S.514
 中尾千聡<ピアノ>
  F.ショパン:ノクターン第2番  平井康三郎:幻想曲「さくらさくら」
 板谷優希奈<ピアノ>
  マルグリット・モノー:愛の讃歌  F.リスト:愛の夢 第3番
  ピアノDuo ~Largo~ (中村明日香 & 山田華子)
  W.A.モーツァルト:オペラ「フィガロの結婚」序曲
  W.A.モーツァルト:恋とはどんなものかしら
 宇田津典子<ピアノ>
  F.ショパン:スケルツォ 第2番 変ロ短調 op.31
  R.シューマン – F.リスト:『リートによる15のピアノ小品集』より “献呈” op.25-1
 北野由紀子<ピアノ>
  北野由紀子:咲来羅(さくら)
 宮尾壽里子<朗読> ピアノ:Yoshi
  高村光太郎(翻案・構成/宮尾壽里子)「智恵子抄より~光太郎 智恵子へのオマージュ」
  挿入曲/
カッチーニ「アベ・マリア」
 岩井奈美<メゾ・ソプラノ> ピアノ:尾崎克典
  中田喜直:ひなの日は たんぽぽ  G.ロッシーニ:もしも粉屋の娘をお望みなら
  G.ロッシーニ:オペラ「セビリアの理髪師」より “今の歌声は”
  P.チマ-ラ:郷愁 海の歌  O.レスピーギ:バッラ-タ 最後の陶酔
  R.レオンカヴァッロ:朝の歌  S.カルディッロ:つれない心(カタリ・カタリ)
  R.レオンカヴァッロ:朝の歌(マッティナータ)
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詩人で朗読もなさっている宮尾壽里子氏による「智恵子抄より~光太郎 智恵子へのオマージュ」がプログラムに入っています。哀愁漂う伝・カッチーニのアヴェ・マリアをピアノで弾かれるのは息子さんですね。

宮尾氏はかなり以前から「智恵子抄」系の朗読等に取り組まれており、最近ですと、昨年4月に都内荒川区の日暮里サニーホールさんで開催された「My Favorite Story ~美しき詩の世界~」が入っていて拝聴にうかがいましたし、12月に都内早稲田奉仕園さんで行われた「日本詩人クラブ2022年12月例会」では、詩人の方々が光太郎智恵子等に扮し、朗読ドラマとして上演されました。

宮尾氏、明日の第67回連翹忌にもご参加下さり、その後すぐに大阪での公演と、お忙しいスケジュールのようです。

お近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

いい秋になりましたね。写生が出来ますか。マロニエーの並木が目先にちらつく。

明治44年(1911)11月5日 津田青楓宛書簡より 光太郎29歳

津田青楓は留学仲間の画家。したがって、「マロニエーの並木」はパリでしょう。

翌月には、やはり留学仲間だった画家の柳敬助と、その夫人で日本女子大学校での智恵子の先輩・八重のとりなしにより、光太郎智恵子が運命の出会いを果たします。

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