2023年03月

紹介すべき事項が多く、美術展関連で2件まとめて。

まずはテレビ放映情報。竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中の「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」が大きく取り上げられます。

日曜美術館 重要文化財の秘密 知られざる日本近代美術史

NHK Eテレ 2023年4月2日(日) 09:00〜09:45  再放送 4月23日(日) 09:00〜09:45

明治以降に制作された日本近代美術を代表する重要文化財の絵画や彫刻。どのような評価を経て、指定されるに至ったのか?誰もが知る傑作の、知られざる物語をひもときます。

文化財保護法に基づいて国がその価値を認めて指定する重要文化財。美術工芸分野の重要文化財件数は1万件を超える。しかしそのうち明治以降の絵画・彫刻・工芸はわずか68件に過ぎない。時代が浅く、絶対的な評価が固まり切れない中で重要文化財に指定された作品たちはどのような評価を経て、指定されるに至ったのか?誰もが一度は目にしたことのある傑作中の傑作、その知られざる物語をひもとく。

出演者
【司会】小野正嗣,柴田祐規子,【出演】東京国立近代美術館副館長…大谷省吾
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予告編、最後の締めは光太郎の父・光雲作の「老猿」。本編をぜひご覧下さい。

同展、主催に入っている毎日新聞社さんでCMも作って下さっています。3月17日(金)、BSイレブンさんで放映された「アートミステリー 国立西洋美術館誕生秘話 ~モネを救え~」を拝見していたところ、流れました。こちらはつかみが「老猿」。
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もう1件、今日開幕の展覧会情報です。

「買上展」藝大コレクション展2023

期 日 : 2023年3月31日(金)~5月7日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、5/1は開館)
料 金 : 一般1,200円(1,100円)、大学生500円(400円)
       ( )は前売り料金 高校生以下及び18歳未満は無料

「買上」とは、東京藝術大学が卒業および修了制作の中から各科ごとに特に優秀な作品を選定し、大学が買い上げてきた制度です。遡って、前身である東京美術学校でも卒業制作を買い上げて収蔵する制度がありました。本学が所蔵する「学生制作品」は1万件を超えますが、本展ではその中から約100件を厳選し、東京美術学校時代から現在にいたる日本の美術教育の歩みを振り返ります。

第1部 巨匠たちの学生制作
 明治26年(1893)に最初の卒業生を送り出して以来、東京美術学校では卒業制作を中心に自画像などを含めた学生たちの作品を教育資料として収集してきました。本展では、卒業後に日本近代美術史を牽引した作家たちを各分野から選りすぐり、その渾身のデビュー作が一堂に会します。

第2部 各科が選ぶ買上作品
 東京藝術大学では昭和28年(1953)より買上制度がはじまり、卒業していく学生たちを勇気づけてきました。今年で創設70年を迎えるこの制度は、現在では多くの科で首席卒業と位置づけられています。近年は先端芸術表現、文化財保存学、グローバルアートプラクティス、映像研究など研究領域も広がり、表現方法も多様化してきています。今回、各科による選定意図などを添えて展示することで、各科が特に優秀と認めてきた買上作品の傾向が浮かび上がることでしょう。

出展作家
第1部
 横山大観   児島虎次郎  萬鉄五郎  下村観山   和田三造   高村豊周
 板谷波山   橋口五葉   金観鎬   白浜徴    山本鼎    吉村忠夫
 菱田春草   南薫造    松田権六  西郷孤月   朝倉文夫   伊原宇三郎
 和田英作   小村雪岱   山口蓬春  小林万吾   富本憲吉   吉田五十八
 北蓮蔵    岡本一平   山本丘人  平福百穂   近藤浩一路  山崎覚太郎
 津田信夫   藤田嗣治   東山魁夷  石田英一   建畠大夢   小磯良平
 中沢弘光   小絲源太郎  赤松麟作  李叔同    吉村順三   高村光太郎
 中村岳陵   高山辰雄   松岡映丘  広島新太郎  六角大壌   青木繁
 北村西望   平山郁夫   熊谷守一  今和次郎

光太郎彫刻は、日蓮像の「獅子吼」。明治35年(1902)、東京美術学校彫刻科をいったん卒業した際の卒業制作です。
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「いったん卒業」は、この後も研究科に残り、さらに留学前年の明治38年(1905)には、根底から勉強し直そうと、西洋画科に再入学したためです。西洋画科ではやはり買い上げ作品が展示される岡本一平や藤田嗣治などが同級生でした。ただし、こちらは中退の扱いで、翌年には留学に出ています。

さらに光太郎実弟にして、鋳金分野の人間国宝となった豊周の作品も出ます。豊周は同校鋳金科を卒業し、母校で永らく教壇に立ちました。

「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」と併せ、こちらもぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

About the matter of your letter of the other day, I must think over them a little more. For my HOKKAIDO affairs do not finish all yet. I hurried back to Tokio at that time because of the fire. Perhaps, I go round there once more this summer.


明治44年(1911)7月3日 バーナード・リーチ宛書簡より 光太郎29歳

邦訳は以下の通り。

いつかの君の手紙のことはもう少し考える必要がある。僕の北海道の件はまだ終わったわけではないからだ。あの時は火事のため急いで東京に帰って来たので、恐らく、この夏もう一度行くだろう。

酪農で生計を立てつつ、彫刻や絵を制作する夢を抱いて北海道に渡り、札幌郊外月寒の牧場まで行ったものの、1ヶ月足らずですごすごと東京に舞い戻りました。
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火事」は道内20数カ所で起こった山火事や大火。確かに現地の人々は大変だったのでしょうが、光太郎はどうもそれを言い訳にしている部分があるように感じます。結局、少しの資本ではどうにもならず夢は夢でしかないというわけで。

リーチにはこの夏もう一度北海道へ、と語っていましたが、この後、確認できている限り、光太郎が北海道の土を踏むことは二度とありませんでした。

女優の奈良岡朋子さんが亡くなりました。

NHKさんのニュース。

俳優 奈良岡朋子さん死去 肺炎のため 93歳

 舞台や映画で活躍し、連続テレビ小説「おしん」などテレビドラマのナレーションでも親しまれた俳優の奈良岡朋子さんが今月23日、肺炎のため、東京都内の病院で亡くなりました。93歳でした。
 奈良岡さんは東京の出身で、洋画家の父、奈良岡正夫の影響で今の女子美術大学で絵画を学びながら1948年に現在の劇団民藝に入り、舞台での活動を始めます。
 その後は、同期生だった大滝秀治さんらとともに劇団の代表的な存在となり、「かもめ」や「奇蹟の人」など数々の舞台で高い評価を得てきました。
 テレビドラマや映画でも名脇役を演じたほか、NHKの大河ドラマ「春日局」や「篤姫」、それに連続テレビ小説「おしん」など、多くのナレーションでは落ち着いた語り口で親しまれました。
 1992年には紫綬褒章、2000年には勲四等旭日小綬章を受章しています。
 また、2013年からは原爆の悲惨さを描いた「黒い雨」のひとり語りの舞台がライフワークとなり、全国各地で上演するなど、平和を訴える活動を続けていました。
 劇団民藝によりますと、奈良岡さんは去年も舞台に立つなど最近まで活動を続けていましたが、体調を崩し今月23日夜、肺炎のため亡くなりました。
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『朝日新聞』さん。

奈良岡朋子さん死去 俳優、劇団民芸代表 93歳

 新劇を代表する俳優として70年以上にわたって舞台の第一線で活躍した劇団民芸代表で俳優の奈良岡朋子(ならおか・ともこ)さんが23日午後10時50分、肺炎のため死去した。93歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主はめいで劇団民芸演出家の丹野郁弓(たんの・いくみ)さん。
 1929年東京出身。父は洋画家の奈良岡正夫。女子美術専門学校(現・女子美術大学)在学中の48年、民衆芸術劇場の養成所に入り、50年の民芸創設に参加。旗揚げ公演「かもめ」に出演した。54年の「煉瓦女工」で初主演。宇野重吉や滝沢修らの指導を受けた。
 「ガラスの動物園」「イルクーツク物語」「奇跡の人」「グレイクリスマス」「火山灰地」など劇団公演の出演は7千回を超えた。2000年には同期の大滝秀治と民芸の共同代表となり、12年の大滝死去後も代表を務めた。後進への熱心な指導で知られ、劇団外の俳優も薫陶を受けた。
 森光子が作家林芙美子を演じた「放浪記」でライバルの日夏京子を好演。05年には民芸と無名塾の共同公演「ドライビング・ミス・デイジー」で仲代達矢さんと共演し、孤独な老婦人を陰影深く演じた。映画やドラマでも堅実な脇役で幅広く出演。ドラマ「おしん」「篤姫」などでナレーションも担当した。
 52年の新藤兼人監督の映画「原爆の子」に民芸の仲間らと出演し、戦争の悲劇を語り継ぐことをライフワークに。13年から井伏鱒二の「黒い雨」の一人語りを続けていた。
 69年紀伊国屋演劇賞個人賞、81年菊田一夫演劇賞、92年紫綬褒章、00年勲四等旭日小綬章、06年には朝日舞台芸術賞、毎日芸術賞をそれぞれ受けた。
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奈良岡さん、昭和50年(1975)にラジオの文化放送さんで放送された「青春劇場 日本抒情名詩集」で、「智恵子抄」から数編の朗読をなさいました。平成22年(2010)にはそれを含むCD「文化放送アーカイブス 第2弾 語り芸」がリリースされています。他に宮沢賢治や萩原朔太郎作品の朗読も。
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おそらくこのCDから、YouTube上に「あどけない話」朗読がアップされていました。


さすがの朗読です。

奈良岡さん、他に映画でも光太郎智恵子がらみが。

昭和40年(1965)封切りの日本映画「こころの山脈」(吉村公三郎監督、山岡久乃さん主演)。智恵子の故郷・福島県二本松市に隣接する本宮町(現・本宮市)を舞台にしています。東宝系で上映されましたが、製作は東宝さんではなく「本宮方式映画製作の会」。本宮の人々が声を上げて現代のクラウドファンディングのように基金を募り、地域密着型の映画を作る、それが「本宮方式」で、現代ではよくあるスタイルですが、この手の方式の日本初として映画史に残る作品です。
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奈良岡さんの役どころは、準主役の少年(本宮の一般小学生が演じました)の母親役。ただし、悪女です。
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元々、夫(郡山のアマチュア劇団員の方が演じました)との仲は冷え切っており、二人の子供に対してもネグレクト気味。
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ついには夫と子供たちを捨てて、若い男と駆け落ちしてしまいます。
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ただ、最後には少し改心し、少年を迎えに来るのですが。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

札幌にも斯の如きものあり。此は昨日の出来事に候。今円山は花ざかり。

明治44年(1911)5月10日 北原白秋宛書簡より 光太郎29歳

酪農を行いつつ彫刻や絵を制作するという夢の実現のため、とうとう北海道に。「斯の如きもの」は札幌円山公園での「見番観桜会」。ススキノの芸者衆による華やかな踊りの競演です。

下記は同日、編集者の前田晁に送ったほぼ同一の内容の絵葉書。
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『毎日新聞』さんで月イチの連載だった、詩人の和合亮一氏による「詩の橋を渡って」が、3月23日(木)掲載分で最終回となりました。

これまでも光太郎の名を何度も出して下さいましたが、最終回でも。

詩の橋を渡って 命の芯を豊かに深く

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 水をもとめるものは
 また喉がかわくだろう
 でも きみが与える水は
 ぼくのなかで泉になって
 えんえんと湧きつづける。

 高村光太郎が「この世に詩人が居なければ詩は無い。詩人が居る以上、この世に詩でないものは有り得ない」と述べたが、今を生きる詩の書き手たちにはっきりと詩が守られていると、数多くの書物に触れていつも感じてきた。それとは何かを語る前に、さあ、これら詩人たちの姿と仕事を見よ……という心持ちで、紹介してきた。詩を読むことのかけがえのなさを、きちんと語りたい。しかしこれは、あらためて難しいことでもあると感じた。

 東日本大震災からの月日、その後も続いた各地での地震や豪雨災害、コロナ禍における暮らし、ロシアによるウクライナ侵攻など、めまぐるしい世界と社会の動きがあったことを心に刻みたい。その都度に迫ってくる鋭い言葉を求め続けてきた。三角みづ紀の新詩集『週末のアルペジオ』(春陽堂書店)を開きながら、あらためて思いをめぐらせてみる。「窓から/降ったり止んだりする/きょうの/はじまりが/しずかにおとずれた」
 こんなふうに一日も、言葉も突然にやって来るのだろう。「生きるための/朝食のスープ/すこし萎(しな)びた野菜/感情もなく/切りおとし/ひとは どうして/こんなにも残酷になれるのか。」。日常のなかに潜む詩の素材を調理しようとする詩人の筆づかいは、あたかも料理という日々の手仕事に似ているのかもしれない。それを深く見つめようとする視点は、息を凝らして何をそぎ落とそうかといつも探しつづけているのかもしれない。
 詩人の新川和江が私に語ってくれたことがある。「足元の水を掘りなさい」と。題材は遠くに見える何かなのではなく、実は本当に近くにあって気づかないものなのだ、と。詩は新緑の頃から始まり季節の移ろいを味わうようにして毎月書かれた作品を中心に編まれている。そこに詩人が撮影した写真が添えられているが、切り取られた視界と四季を追うフレーズそのものが、足の下にある命の芯のようなものを豊かに深く語ろうとしている。
 「水をもとめるものは/また喉がかわくだろう/でも きみが与える水は/ぼくのなかで泉になって/えんえんと湧きつづける。」。静かに、丹念に書き表された詩行に見えてくるものとは何か。書き手の独特の深い呼吸と思考のありかがある。湧き続ける言葉を心と暮らしを通して、詩人が足し引きなくこちらへとそのまるごとを届けようとする。今を生きるということの本当の精神の乾きと潤いとを私たちは知るのではないだろうか。
 先日に読売文学賞を受賞したばかりの藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』(思潮社)を再読。読むほどに彼の文体からは解き放たれていく自由が私には感じられる。古今東西の文学と、詩人そして研究者、教育者として長年に向き合ってきて、言わば真の詩魂と詩作のしなやかさを得てきたのだろう。「懐風藻」の藤井流に書き直した一節を紹介し、長年の時評の任を終えたい。「天の紙に、風の筆で、雲間の鶴をえがくこと!」=今回で終わります

これまでの連載で、光太郎に触れられた回はこちら。

令和2年(2020)5月 令和2年(2020)7月 令和2年(2020)12月 令和4年(2022)10月

後とも氏のご健筆を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

福島の町に一泊。今夕青森に向ふ筈


明治44年(1911)5月7日 高村光雲宛書簡より 光太郎29歳

北の大地に酪農で生計を立てながら芸術を生み出すという生活を夢み、ついに東京を発ちました。

兵庫県から演劇の出演者募集情報です。

エレベーター企画 EVKK 6月公演の出演者を募集します

エレベーター企画は、設立当初から作品のために必要な俳優を求める「プロデュース形態」をとる、俳優と作品が互いに活きる創造活動をめざしています。今回、下記6月公演の出演者を募集いたします。

EVKK 2023年6月公演 武庫川KCスタジオオープニングプログラム 売り言葉
作 野田秀樹  演出 外輪能隆(EVKK)

2017年に大阪、2019年に東京、三度目の『売り言葉』を兵庫・武庫川の新しい劇場「KCスタジオ」で上演します。出演者は2名、多くのセリフと出演シーンがあります

公演期間 2023/6/15(木)-18(日) 武庫川KCスタジオ 阪神 武庫川駅徒歩8分

募集人員 女優2名(役柄の想定で、18歳以上、30歳代くらいまでの方を募集します)
選考方法 書類選考後、選考会を行います。
応募方法 下記項目及び写真2枚(全身・上半身)をメールにて送付下さい
 (1) 氏名・ふりがな
 (2) 生年月日
 (3) 電話番号
 (4) メールアドレス
 (5) 現在の所属団体(劇団・事務所など)
 (6) 自己pr/特技
 (7) 稽古可能期間、及び稽古可能日・時間について
 (8) その他留意事項
締め切り 2023/4/2(日)書類必着
選考会  2023/4/9(日)に大阪市立芸術創造館で選考会を実施します

演出助手・公演制作も同時に募集しています

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平成14年(2002)、野田秀樹氏の脚本、主演・大竹しのぶさんで初演された、登場人物は智恵子のみの一人芝居「売り言葉」。南青山スパイラルホールさんでの初演では黒子(くろこ)も登場していました。

光太郎から智恵子へのモラハラ的な対応が続いたことで、智恵子が毀れてしまったという解釈で、光太郎智恵子を扱う演劇等のうち、光太郎ディスり度が最も高いものの一つです。平成15年(2003)、新潮社さんから出版された野田氏の脚本集『二十一世紀最初の戯曲集』に収められこともあり、プロアマ問わず全国で取り上げられています。

コロナ禍前の令和元年(2019)には、当会で把握したものだけで、全国で6つもの劇団/個人の方が上演して下さいました。この頃になると単純に上演するだけでなく、レトロな古民家を会場にしたり、本来一人芝居の脚本として書かれたものを二人で演じる演出にしたり(今回募集をなさっているエレベーター企画さんがそうでした)と、さまざまな工夫が見えました。

今回、募集をかけられているエレベーター企画さん。要項にもあるとおり、平成29年(2017)には大阪市立芸術創造館さんで、令和元年(2019)で北池袋新生館シアターさんを会場に、それぞれ「売り言葉」公演をなさっていて、今回が3度目だそうです。
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「我こそは」という方、ぜひどうぞ。ただし、基本的に一人芝居であるため、セリフの量が膨大ですので「我こそは」と思うにはかなりの覚悟が必要です。

気骨ある方の応募があり、公演が成功裡に終わることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

東京は小生に堪へられぬ地と相成候。東京などに居る芸術家は無神経者か大馬鹿者と被存候。貴兄にも田舎に画室を建てられん事をおすゝめ申上候。


明治44年(1911)4月9日 南薫造宛書簡より 光太郎29歳

北海道移住を計画し、彼の地に渡る約1ヶ月の書簡です。地方移住がトレンドの現代を先取りしたような言ですね。結局、光太郎の移住は失敗に終わるのですが……。


 




光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、青森県十和田市で地域おこし的な活動されている「とわこみゅ」さんからご連絡を頂いていたのですが(1月に「We Love Towada 2023 卓上カレンダー」を購入させていただいた関係でしょう)、紹介すべき事項が多く、後回しになっていました。すみません。

十和田愛を表現した楽曲が完成しました。

 青森県十和田市の市民団体「インバウンド十和田」(会長:米内山和正)では「街なかに賑わいを!十和田市の魅力を音楽で発信!」と題し、音楽文化の<創造・交流・発信>に取組み、地域の愛を表現したオリジナル音楽の制作を通じ、地域を盛り上げる企画者や 参加者(プレイヤー)人口の創出を目的とした事業を行いました。
 楽曲アイデア応募のあった中から、青森県十和田市出身で県外在住の小山田佳苗さんと中野憂さん、2人の共作「色彩は永遠にせせらぐ」を基本とし、他に応募のあったアイデア案を盛り込み制作されました。編曲は、十和田市在住のシンガーソングライター桜田マコトさんが担当し、演奏には同企画の演奏者募集へ応募のあった方など15名が参加されました。
 PV(プロモーションビデオ)の映像制作には、市民団体「インバウンド十和田」米内山和正会長が行い、十和田市の観光名所など1年を通じ撮影された映像と楽器演奏者の映像を盛り込み制作されました。
 完成した楽曲「色彩は永遠にせせらぐ」(しきさいはとわにせせらぐ)は、離れて思い出す故郷(ふるさと)十和田の情景を歌った曲で、青森県十和田市の春夏秋冬を感じ取れる内容となっています。
 また、同企画で生まれた「十和田永久賦」(作詞作曲・向山重考さん)、「Towada Machi」(作詞作曲・チャーリー永井さん)、2つの曲と共に、計3曲の十和田愛溢れる楽曲が発表されました。

「色彩は永遠(とわ)にせせらぐ」、早速、Youtubeで拝見。
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歌詞では「乙女の像」には触れられていませんが、映像にはばっちりと。
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十和田湖や、十和田湖から流れ出る奥入瀬渓流も。
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その他、四季折々の十和田市の風景や、イベント、街の皆さんの営み等がふんだんに。
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タイトル、それから歌詞にも使われている「永遠(とわ)」、「十和田」の「とわ」と掛けているのでしょう。明るく軽快な曲調でありながら、聴いていて不覚にもうるっと来てしまいました(笑)。


「乙女の像」登場は2:02頃と3:22頃です。

全国の町おこし団体や自治体の皆様、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

琅玕洞は一周年を期して、此の四月十四日を限りに一旦閉店する事に致しました。此は弟の就職と、小生の北海道移住問題と、巴里へ新しい店を出す計画との為めです。

明治44年(1911)4月4日 前田晁宛書簡より 光太郎29歳

このところこの項でずっと「琅玕洞」がらみですが、前年に光太郎が立ち上げた、ほぼ日本初の画廊です。名目上の店主に据えていた実弟・道利の不行跡(客に「あなたにこの絵は解りませんよ」と言ったり、閉店時間になれば客がいようがいまいが照明を落としたり)などもあって、経営的にはまるで成り立たず、わずか1年で譲渡。店は存続しますが、性格は変わっていきます。
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光太郎自身は北海道に移住して酪農で生計を立てつつの芸術制作を夢みていました。そしてゆくゆくはパリに店を出すという計画が語られています。この書簡を見つけるまで、そんな計画があったことはわかっていませんでした。

テレビ放映情報です。2夜連続の放映で、2夜めの方の予告に光太郎の名。

興福寺 国宝誕生と復興の物語 発見!天平の美

NHK BSプレミアム 2023年3月27日(月) 18:00~19:00

奈良の象徴五重塔が120年ぶり大修理!阿修羅作った奈良時代の先進性!川端康成・白洲正子・堀辰雄絶賛の国宝仏!天平の心守る考古学の大発見!迫力・ドローン映像

日本一国宝彫刻の指定が多く不死鳥のごとく何度もよみがえった奈良興福寺。 今も奈良市一高い国宝五重塔が大修理へ! 阿修羅と五重塔の美の秘密、ふだん目にしない寺の奥深くまで8Kカメラで記録! ドローンとクレーンで興福寺の宝を徹底解剖し美と千三百年の歴史を味わう。そして、空前絶後の奈良時代の最新写実技法をAIが解き明かす! 国宝北円堂の非公開の法要を超高精細カメラと5.1サラウンドで体感。天平の心をつなぐ礎石の謎に挑む!

出演者
法相衆大本山興福寺貫首…森谷英俊,東京大学大学院工学系研究科准教授…海野聡,奈良国立博物館学芸部主任研究員…山口隆介,奈良大学総合研究所特別研究員…関根俊一ほか

【語り】柴田祐規子 【朗読】小澤康喬

興福寺 国宝誕生と復興の物語 つなぐ!天平の心

NHK BSプレミアム 2023年3月28日(火) 18:00~19:00

平家南都焼き討ちに負けるな!大修理始まる奈良の象徴五重塔に匠がしかけた驚きの技!運慶が学んだ阿修羅の秘密!無著と法相六祖と天平彫刻を徹底比較!大迫力ドローン映像

奈良興福寺が守り続けてきた天平の心と国宝の数々を探る▽秘仏続々登場!北円堂運慶作の弥勒・無著・世親や南円堂康慶作の観音・法相六祖▽古代と中世のハイブリッド?五重塔が美しい理由▽高村光太郎がたたえた天平彫刻の写実と歴代美術史家が絶賛した無著像のリアルを徹底比較▽康慶の仏像に異を唱えた藤原氏!その革新性とは▽東大大学院日本建築研究の海野聡と奈良博彫刻担当の山口隆介が天平の心と中世の職人と仏師の思いに迫る

出演者
【出演】興福寺貫首…森谷英俊,奈良国立博物館学芸部主任研究員…山口隆介,東京大学大学院工学系研究科准教授…海野聡
【語り】柴田祐規子 【朗読】小澤康喬

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BS8Kさんで今年1月と2月に放映された番組を、通常のBS放送で放映します。奈良興福寺さんの建築や仏像の謎に迫るドキュメンタリーです。「高村光太郎がたたえた天平彫刻の写実」ということで、軽く光太郎の詩文が引用されるのでしょう。

光太郎、興福寺さんの仏像に関しては、まず評論で、昭和17年(1942)に帝国教育会出版部刊行の『日本美術の鑑賞 古代篇』(北川桃雄・奥平英雄編)に「興福寺十大弟子」を、同19年(1944)に創芸社刊行の『名品手帖』(大口理夫編)へ「十大弟子」を寄稿しています。それぞれ戦時中の出版にもかかわらず、図版入りのハードカバーです。
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また、遡って大正15年(1926)には、「十大弟子」という詩も発表しています。

    十大弟子

 見知らぬ奈良朝の彫刻師よ、
 いくらおん身がそしらぬ顔を為すようとも、
 私はちやんと見てしまつたよ。

 おん身がどうして因陀羅の雲をつかんで来たかを、
 どうして燃える火を霧と香ひとでつつんだかを、
 どうして万象の氤氳(いんうん)を唯識(ゆいしき)の陰に封じこめたかを、
 どうして千年の夢を手の平にのせたかを、

 おん身は流言をそこら中に放つて、
 霊感虚実の丸太鉄砲を遠くに仕掛けるが、
 ああ、私は見たよ、
 おん身の眼を。

 きのふ街の四辻に立つて、
 大真面目に賤(しづ)の奴(やつこ)と話をしてゐたおん身の眼を。
 
 虚空の音楽に耳をかさず、
 ただ現前咫尺に鯰を估(う)る
 生きた須菩提(すぼだい)と話をしてゐたおん身の眼を。


いずれも興福寺さん所蔵の「乾漆十大弟子立像」についてのもの。光太郎、何度か奈良に足を運び、この群像を実際に眼にしています。

番組ではこれらからの引用があるのではないかと思われます。あるいは、その他、東大寺さん、新薬師寺さん、唐招提寺さんなどの諸仏に触れた評論等も多く、そのあたりかもしれません。

テレビ放映と言えば、同じくNHK BSプレミアムさんで3月24日(金)に放映された「業の花びら 〜宮沢賢治 父と子の秘史〜」。

昭和11年(1936)、花巻の羅須地人協会跡に除幕された宮沢賢治「雨ニモマケズ」碑の碑文を光太郎が揮毫したことを紹介して下さいましたし、光太郎揮毫の文字をテロップに使って、「雨ニモマケズ」後半部分の朗読が流れました。
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メインの賢治詩「業の花びら」についての考察の部分は、それほど賢治に詳しくない当方としては、論評しようがありませんが。
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残念ながらネット配信は為されていないようですし、再放送を期待します。

さて、「興福寺 国宝誕生と復興の物語」、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

僕は北海道へ行く。『琅玕洞』はよす。つぶす。又今にやればやる。芸術家もよす。つぶす。又今にやればやる。

明治44年(1911)4月5日 津田青楓宛書簡より 光太郎29歳

「琅玕洞」は、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と距離を置くため、前年に光太郎が設立した画廊。新しい芸術の拠点として、心ある人々には好意をもって迎えられましたが、経営的にはまるで成り立たず、手放すことにしてしまいました。そして北海道に移住して酪農で生計を立てながら芸術を生み出そうとします。

昨日ご紹介した山脇信徳宛書簡は、それほど親しかったわけではない相手ですので、理路整然とその経緯を説明していましたが、気の置けない留学仲間だった津田青楓宛には激情をぶつけるような文面、筆跡です。
高村光太郎氏津田青楓宛て書簡②(裏)

動画配信サイトYouTubeでのオンラインシンポジウムです。

ミュージアム運営を変える新しいお金の潮流

期 日 : 2023年3月28日(火)
時 間 : 13:00~16:20 見逃し配信有り
料 金 : 無料

新型コロナウイルスの影響や社会情勢の変化が、エネルギーや資材費の高騰を引き起こしている状況の中、博物館や美術館も持続可能な運営を行なっていくために、資金獲得の視点を欠かすことはできません。館の活動を継続・発展していくためには何を考え、実行していかなければいけないのか。本シンポジウムでは、3つのセッションを通じて、お金の側面からみた博物館運営のあり方について掘り下げていきます。館の運営に携わる現場の方々から文化庁における博物館行政の第一人者、資金調達の専門家まで幅広いステークホルダーの皆さまをお招きし、博物館の目指すべき姿について議論を交わしていきます。

こんな方におすすめ
 クラウドファンディングに興味のある方
 クラウドファンディングの実行を考えている方
 博物館・美術館に関わっている方
 芸術関連団体に所属している方
 文化芸術の保存・振興に関心のある方

視聴方法
本セミナーはオンラインでのライブ配信となります。配信ツールとしてはYouTubeを利用します。オンライン配信動画視聴方法につきましては、お申し込みいただいた方へのみ、YouTubeの配信URLをメールにてご案内します。
参加申込URL:https://cfevent.readyfor.jp/culture/230328
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スケジュール
 Session1 / 13:00-14:00 ミュージアムのファンドレイジングの現在地とこれから
  「文化芸術に関する多様な資金の活用状況」に関する基調講演
  博物館におけるファンドレイジング活動の現状と今後の展望
  登壇者
   中尾智行  文化庁博物館振興室 博物館支援調査官
   鎌倉幸子  かまくらさちこ株式会社代表 / 認定ファンドレイザー
   本川 博人  男鹿水族館GAO 館長
   廣安ゆきみ  READYFOR株式会社 文化部門長 / リードキュレーター

 Session2 / 14:10-15:10 「新しい」に挑戦するミュージアム
  
クラウドファンディングを実施した熊本市現代美術館の岩崎氏、
  碌山美術館の武井氏を迎え、それぞれの館の運営を維持・向上させていくための
  手段について具体的事例をもとにお話をお伺いしていきます。
  また、公立と私立の館の運営の違いや比較を通じて、共通する課題を明らかにします。
  登壇者
   岩崎千夏 熊本市現代美術館 副館長
   武井敏  碌山美術館 学芸員
   佐藤妙  READYFOR株式会社 文化部門 キュレーター
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 Session3 / 15:20-16:20 実践に学ぶ|地方公立館のクラウドファンディングの裏側
  公立館でのクラウドファンディングの舞台裏
  公立館ならではのプロジェクトの進め方やハードル
  クラウドファンディングがもたらした効果

  登壇者
   大久保卓  入間市博物館 文化財担当主幹
   島宗美知子 公益財団法人帆船日本丸記念財団 学芸課長補佐
   廣安ゆきみ READYFOR株式会社 文化部門長 / リードキュレーター

光太郎の親友だった彫刻家・荻原守衛を顕彰し、光太郎ブロンズ彫刻も多数所蔵、展示して下さっている信州安曇野の碌山美術館さん。昭和33年(1958)の竣工で、ロマネスク様式の教会風の碌山館(本館)が老朽化ということで、昨夏、クラウドファンディングにチャレンジ。目標額を大幅に上回る資金が集まり、秋以降、改修工事が進められました。

碌山美術館さんクラウドファンディング。
碌山美術館さんクラウドファンディング目標額到達。
新聞各紙から。
碌山美術館さんクラウドファンディング関連。

その実践例ということで同館学芸員の武井敏氏によるプレゼンが為されます。他館さんの報告や識者による提言等、盛りだくさんの内容となっています。「館」ではない文化芸術団体さん等にも参考となる内容でしょう。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

北海道で地面の中から自分の命の糧を貰ひます。そして、今の日本の芸術界と没交渉な僕自身の芸術を作ります。地球の生んだ芸術を得ようとします。そして、此が一面今の社会に対する皮肉な復讐です。僕は日本の東京の為めにどの位神経に害を与へられたか知れません。


明治44年(1911)4月8日 山脇信徳宛書簡より 光太郎29歳

昨日のこの項でご紹介した部分の続きです。北海道に移住し、酪農で生計を立てながら芸術を生み出そうという計画を表明しています。この後、実際に北海道に渡るのですが……。

今日開幕です。光太郎の父・光雲が主任となって制作された鋳銅聖観音像のライトアップも為されます。
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上の画像は昨年秋のライトアップ時。愚妻がお友達と京都に行くというので撮ってきてもらいました。

春のライトアップ2023

期 間 : 2023年3月24日(金)~4月2日(日)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑、国宝三門楼上、女坂、国宝御影堂、阿弥陀堂
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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みどころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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国宝 御影堂
寛永16(1639)年、徳川家光公によって建立されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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国宝 三門 回廊公開は春季9年ぶり
元和7(1621)年、徳川秀忠公が建立した高さ24m、幅50mの日本最大級の木造二重門。悟りの境地に到る「空門」「無相門」「無願門」の三解脱門を表すことから三門といいます。
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関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし テーマ『機をはからう』~その身そのまま、あなたのままで~

正座じゃないといけないの?手の合わせ方が分からない。仏教は難しそう…。お坊さんの話を今まで聞いたことがない。どのようなお方も大歓迎です! 気軽に御影堂へいらしてください。気さくなお坊さんたちが皆さまを温かくお出迎えいたします。お話の後、木魚にふれ「南無阿弥陀仏」とお称えする、木魚念仏体験がございます。日常から離れた心静かなひとときをお坊さんと味わってみませんか?

開始時間:18:00~ 18:45~ 19:30~ 20:15~(各回お話15~20分、木魚念仏体験5~10分程度)
知恩院七不思議のひとつ「鴬張りの廊下」をモチーフにした缶バッジを参加者全員に差し上げます!(無くなり次第終了)
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月かげプレミアムツアー
ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大方丈などの通常非公開部もご案内!1時間半たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
 日程:毎夜開催
 開始時間:17:45~/19:30~
 所要時間:1時間半程度
 定員:各回25名様程度
 料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
 ライトアップ拝観料込み。料金は拝観受付にてお支払いください。
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特別展示 Tradition : Redefined
3月25日(土) / 26日(日)
『千代紙 色とデザイン』RE:KAO
「椿柄」を十四色という多色で手摺りされた千代紙。今回は屏風に仕立てました。
3月31日(金) / 4月1日(土) / 4月2日(日)
『花明 Ceramic × Scissors』林侑子・陶芸家
「白磁」をハサミで切る独自の技法土鋏(つちばさみ)。磁器と鋏で「花明かり」を作り出す。

『鬼より強い守り神』吉田瑞希・陶芸家
「鍾馗(しょうき)」という中国から日本に伝わってきた、屋根に佇む魔除けの神様。

場所 友禅苑 茶室「白寿庵」・茶室「華麓庵」
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

自分は芸術家です。芸術三昧のうれしさと、芸術的全生活の貴さとは既に味ひもし知りもしてゐました。しかし日本に帰つた時日本の社会状態をつくづく見るに及んで此を吾人に近くしてみたいといふ考を起しました。此が動機で琅玕洞も造りました。其他種々の計画でまだ実行されなかつたのも沢山あります。芸術家にこんな事をさせたのは今の社会です。僕は我慢に我慢をしてやつてゐました。然るに此頃つくづく其の馬鹿げてゐた事を感じました。そこで美術国たる日本に全然背中を向けるのです。日本の恩を蒙りたくなくなりました。

明治44年(1911)4月8日 山脇信徳宛書簡より 光太郎29歳

山脇信徳は画家。明治42年(1909)の第3回文部省美術展覧会(文展)にコテコテの印象派風の絵画「停車場の朝」を出品しました。これを光太郎は是とし、石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」とディスり、所謂「地方色論争」が巻き起こりました。さらにそれが光太郎の評論にして我が国最初の印象派宣言とも言われる「緑色の太陽」につながります。

さて、その山脇に宛てた書簡から。芸術後進国・日本を啓蒙しようと、画廊・琅玕洞を開いたりしたことについて、芸術家自身がそんなことをすべきでなかったし、結局うまくゆかなかったとしています。

3月21日(火)、竹橋の東京国立近代美術館さんをあとに、銀座に向かいました。午後2時開演の「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」拝聴のためです。

会場は王子ホールさん。昨秋開催された「えつ子とまき子のコンサート 2022秋」と同じでした。
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作曲家・朝岡真木子氏の歌曲作品を、7人の歌手の皆さんが歌われるというコンセプトで、基本、独唱ですが、二重唱あり、合唱ありと、飽きさせない構成になっていました。
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今回は「第6回」と冠されており、継続的に行うには、やはりアップデートが必要なのでしょう。初演の新作を含むプログラムでした。

歌詞は現役の詩人の皆様から提供を受けたものが多く、絵本作家としても活躍されているこわせたまみ氏、金子みすゞ顕彰でも名高い矢崎節夫氏など、作詞者の方々がほとんどいらしていまして、終演後に紹介されていました。詩の選択は書き下ろしなのか、朝岡氏が旧作からセレクトして使わせてもらっているのかまでは寡聞にして存じませんが。

というわけで、新作もあれば、二重唱や合唱なども盛り込まれていたため、歌い手さんたちはそれなりに練習が大変だったでしょう。それを言えば、ピアノは全て朝岡氏ご本人で、幕開けからカーテンコールまで出ずっぱり。そのあたりの大変さをお客様に気取られないようにされるあたり、プロですね。

で、プログラム中に、組曲「智惠子抄」から2曲、「千鳥と遊ぶ智恵子」「値ひがたき智恵子」。こちらは最近、メゾソプラノの清水邦子氏の持ち歌的な感じになっており、やはり清水氏の歌唱でした。

過日、ご紹介いたしましたが、清水氏、組曲「智惠子抄」CDをリリースされ、公的にはこの日が発売日でした。そこで、受付でコンサート自体のプログラムとともにフライヤーも配付されていました。
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清水氏と親しい、映画監督の水谷俊之氏(一昨年にNHK BSプレミアムさんで放映された「プレミアムドラマ山女日記3 #3 あどけない空・安達太良山」の監督もなさった方)、それから当方が書いたライナーノートの抜粋も印刷されています。恐縮至極。

オンライン販売も為されていますし、フライヤー裏面はFAXでの注文書になっていまして、必要な方は下記画像を印刷してお使い下さい。
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PXL_20230321_060411330開演前、第1部と第2部の間の休憩時間、それから終演後、ロビーに物販コーナーが設けられ、このCDも並びました。

わずかながら制作に協力させていただいた身としましては、売れ行き等気にかかるもの。少し離れた場所からチラ見しておりました(笑)。そこそこ売れていたようです。ただ、他の歌手の方がリリースされたCDも多数並んでいたため、「智惠子抄」のみが飛ぶように売れるというわけにはいかなかったようですが。「智惠子抄」を買われた方には「えらい!」と、心の中で賛辞を送らせていただきました(笑)。

日比谷松本楼さんで4月2日(日)開催の第67回連翹忌の集い会場内でCDの販売も致しますし、朝岡氏、清水氏には「智惠子抄」から抜粋で演奏していただく予定です。

ご参加なさる方、お楽しみに。また、これから参加したいという方、まだ受付中です。コメント欄(非公開設定可)からお申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

濱田葆光氏作画展覧会 自二月十一日 至二月二十日
濱田葆光氏は、所謂「ヸルヂニテエ、デモオシヨン」を蔵する画家にして、熱心なる自然の真の探求者に御座候。今回、品川海岸の研究画を主として、氏の油画十数点の展覧会を弊堂に於て相催し候間幸に御抂駕御一覧の程偏に願上候 神田区淡路町一丁目一番地 琅玕洞

明治44年(1911)2月10日 水野葉舟宛書簡より 光太郎29歳

葉舟宛、というより広く送られた案内状と推定されます。

琅玕洞」は、前年、光太郎が開店した画廊。日本の画廊の中では最初期のものです。名目上の店主は、実弟の道利でした。ここでは正宗得三郎、柳敬助、斎藤与里、濱田葆光ら親しかった新進美術家の個展をたびたび開きました。濱田葆光は太平洋画会研究所に学び、中村不折、満谷国四郎に師事した画家です。「ヸルヂニテエ、デモオシヨン」は、「無垢な凄み」とでもいった感じでしょう。
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昨日は都内に出ておりました。

主たる目的は、銀座王子ホールさんでの「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」拝聴でしたが、その前に竹橋の東京国立近代美術館さんで「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」を拝見。
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名品の数々がこれでもかこれでもかと並んでおり、予想通り、クラクラしました(笑)。

やはり当方にとって一番の目玉は、光太郎の父・光雲の「老猿」。トーハクさんその他で何度も見ている作品ですが、何度見ても見飽きることがありません。
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マルチアーティスト・井上涼さんが「黙すれど語る背中」と評されましたが、その通りですね。

トーハクさんでの展示より、間近で観ることができました。毛並みの一筋一筋、手に持った猛禽の羽根など、それを彫る光雲の息づかいも聞こえてきそうです。
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台座にあたる岩の部分は仏像彫刻の様式が色濃く残っており、やはり仏師なんだなぁと。

材はトチノキ。当初、光雲はもっと白いと思っていて、白猿を彫るつもりでいましたが、栃木鹿沼の山から入手したあとに意外と赤いことに気付き、年老いた猿に変更したとのこと。ちなみに当初は「老猿」ではなく、「猿」一文字でした。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛の「北条虎吉像」。碌山美術館さん蔵の石膏原型です。ブロンズ彫刻の場合、文化財指定は鋳造されたものではなく、原型で指定されることがありますので。
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そのあたりで「大人の事情」があるのでしょう、同じ守衛の「女」は今回の展示には出ないそうです。

その他の作品、特に光太郎や光雲とつながりの深かった作家の作品、光太郎や光雲とのつながりなどについても紹介したいところですが、それを書き始めると10日ぐらいかかりそうなので、割愛します。

続いて常設的な「MOMATコレクション」を拝見。こちらには重要文化財指定はされていないものの、負けず劣らずの逸品がズラリ。

光太郎の「手」
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光太郎生前に鋳造された3点のうちの一つ。有島武郎旧蔵のもので、木彫の台座は光太郎の手になるもの。有島や、有島から受け継いだ秋田雨雀の名が記されています。仮に今後、「手」が文化財指定されるとしたら、これが指定されるような気がしています。「北条虎吉像」や「女」のように石膏原型が、ということになると、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周の弟子筋に当たり、光太郎作品の鋳造を多く手がけ、やはり人間国宝だった故・斎藤明氏旧蔵の石膏原型があるにはあるのですが、それがいつどのように取られた型なのかなど、当方、寡聞にして不分明です。
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さらに光太郎が敬愛してやまなかったロダンの「トルソ」、そして守衛の「女」(鋳造)。
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さらに守衛の「坑夫」。パリ留学中、光太郎がこれを見せられ、ぜひ石膏にとって日本に持ち帰るようにと進言した作品です。光太郎、グッジョブ(笑)。
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「重要文化財の秘密」の図録をゲット。この手の図録には珍しくハードカバーでした。それだけに3,300円とお高め(笑)。重量が1.3㎏を超えていました(笑)。昼食はコンビニのパンで済ませても、迷わずこれを買うのが当方です(笑)。
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展示入れ替えのため、昨日の時点では出ていなかった作品(黒田清輝「湖畔」など)、「大人の事情」で今回は展示されない作品(「女」の石膏原型や竹内栖鳳「斑猫」など)の図版もしっかり掲載されていますし、詳細な作品解説、論考も3本(大谷省吾氏「重要文化財の「指定」の「秘密」」、同じく「東京国立近代美術館における近代日本美術展をふりかえる」、花井久穂氏「「唯一」と「複数」――近代の美術/工芸)の重要文化財指定をめぐって」)。

ぜひ足をお運びいただき、図録もお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

浜町の下宿は馬鹿に気持が可い。大工の神さんの内職の様だ。生活に秩序がついた様な気がする。

明治43年(1910)12月(推定) 水野葉舟宛初刊より 光太郎28歳

この月から翌月にかけ、わずか2ヶ月足らずですが、日本橋浜町31番地の「松葉館」という下宿で独り暮らしをしました。

テレビ放映情報です。

業の花びら 〜宮沢賢治 父と子の秘史〜

NHKBSプレミアム 2023年3月24日(金) 23:00〜00:30

宮沢賢治の詩碑文にと父が推したのは、「雨ニモマケズ」ではなく「業の花びら」という詩だった。なぜその詩だったのか。ディレクター今野勉が迫る「賢治・もう一つの顔」。

岩手県花巻市郊外に建つ、詩人・童話作家の宮沢賢治の記念詩碑。碑文は有名な「雨ニモマケズ」だが、賢治を最も理解していた父が推したのは「業の花びら」という詩だったという。なぜ「業の花びら」だったのか。賢治の素顔を追い続けてきたディレクター今野勉は、賢治の“業”への強いこだわりに注目。対立の最中に父子で出かけた関西旅行、“業”をテーマにした童話「二十六夜」の謎に迫る。今明かされる、賢治・もう一つの顔。

【語り】森田美由紀
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今年は賢治の没後90周年ということもあり、いろいろあるようです(余談ですが、今度の土曜日から東北新幹線新花巻駅の発車メロディーが賢治作曲の「星めぐりの歌」になるそうです)。テレビ番組でも再放送を含め、賢治がらみが放映される頻度が高いように感じています。

今回は新作で、深夜ではありますが1時間半の特番。光太郎が碑文を揮毫し、昭和11年(1936)、花巻の羅須地人協会跡に除幕された「雨ニモマケズ」碑の関係です。となると、光太郎の名も出てくるのでは、と期待しております。

ただ、メインは賢治の父・政次郎が推したという「業の花びら」。大正14年(1925)の作だそうです。

光太郎も編集等に携わった文圃堂書版『宮沢賢治全集』(昭和10年=1935)から。
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「賢治」といえば「異稿」。この詩にも異稿が存在します。

光太郎が「玄米四合の問題」を寄稿した雑誌『農民芸術』第3号(昭和22年=1947)から。
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さらに賢治の主治医だった佐藤隆房の子息にして花巻高村光太郎記念会理事長であらせられた故・佐藤進氏の『賢治の花園―花巻共立病院をめぐる光太郎・隆房―』(平成5年=1993)から異稿の画像。
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ところで、同書に依れば、詩碑に刻む詩の選択に関しては、以下のように記されています。

 ここでどの詩を選ぶべきかが大きな問題となりました。盛岡の賢治の会では、「業の花びら」が最もよいと主張し、父(註・佐藤隆房)らは「業の花びら」は詩としてはよいが、難解な点もあり、詩人ばかりでなく一般の人にも、わかりやすい詩が望ましいと考えました。
(略)
 このとき、賢治さんの父の政次郎さんは、賢治さんが手帳にかきつけてあった、「雨ニモマケズ」がよいと言いました。熟読してみて、この詩はただの文学詩というのではなく、賢治さんの心からの自戒の精神が盛り込まれたもので、いうなれば賢治さんの精神の結論とも思われる感銘深いものです。父は政次郎さんの説明に深い共感を覚え、個人としてもまた建設委員長としても、この「雨ニモマケズ」が最適であると主張しました。


番組説明にある「賢治を最も理解していた父が推したのは「業の花びら」という詩だったという」とは趣が異なりますね。まぁ、進氏の記述も聞き書きなわけで、それが絶対かというとそうも言い切れません。

とにかく番組を拝見してみようと思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ジエントルマン流でゆけば是非とも直ぐに御答礼の訪問をしなけれやならないのだがこゝは ひとつゼニトルマン流に略して手帋を以て失礼ながら御礼を申上げました。何卒あしからず。


明治43年(1910)11月7日 白瀧幾之介宛書簡より 光太郎28歳

光太郎には珍しく、オヤジギャク炸裂の書簡です。相手が気の置けない留学仲間・白瀧幾之介だったためでしょう。「帋」は「紙」の異体字です。

それにしても「ジェントルマン」→「ゼニトルマン」というダジャレ、明治時代に既にあったのですね(笑)。

本日開幕、銀座の画廊での展示です。

高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達

期 日 : 2023年3月20日(月)~4月6日(木)
会 場 : ギャラリーせいほう 東京都中央区銀座8丁目10-7
時 間 : 11:00~18:30
休 館 : 日曜・祝日休廊  土曜不定休
料 金 : 無料

日本の近代彫刻の歴史はロダンの影響をうけた荻原守衛と高村光太郎からはじまる。高村光太郎訳「ロダンの言葉」(1916年)は当時の若い芸術家に多大な影響をあたえた。ロダンから出発し独自の造形を確立することになる3人の彫刻家を紹介します。

高村光太郎 1883 - 1956
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佐藤忠良 1912 – 2011

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舟越保武 1912 - 2002
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柳原義達 1910 - 2004
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光太郎のブロンズが数点。画像で見えるのは、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「野兎の首」(昭和20年代)、「十和田湖畔の裸婦群像のための中型習作」(昭和28年=1953)。他にも出ているかもしれません。

そして、光太郎のDNAを受け継ぐ、次世代の彫刻家である佐藤忠良舟越保武柳原義達の作品も。それぞれの個性、逆に4人に通底して流れる普遍的な「生命へのオード」的なものなどに注目して観ると面白いでしょう。

当方、明日、銀座王子ホールさんでの「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」を拝聴に上がりますので、こちらも廻ろうかと思いましたが、残念ながら日曜・祝日休廊とのこと。

代わりに、というわけでもありませんが、竹橋の国立近代美術館さんでの「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」を拝見してこようと思っております。時間があれば常設の「MOMATコレクション」も。こちらでは光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)や、なぜか「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」に出ていない、荻原守衛の「女」(明治43年=1910)も展示されています。

【折々のことば・光太郎】

僕は何も為ないで暮してゐる。暮せないのに暮してゐる。どうにか暮さうと考へながら暮してゐる。


明治43年(1910)10月16日 津田青楓宛書簡より 光太郎28歳
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留学仲間だった画家で京都在住の津田青楓に宛てた、自画像入りの葉書。

昨日も書きましたが、前年に欧米留学から帰って、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界とは距離を置くことを決意しましたので、彫刻を作っても発表する機会は無し、自分で売りさばくことも無名の自分には不可能、という状況でした。

現在、都内竹橋の東京国立近代美術館さんでは、光太郎の父・光雲の代表作「老猿」も展示されている「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」が開催中ですが、「文化財」つながりで2件。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻。地元紙『岩手日日』さんから。

有形文化財登録へ 花巻・旧菊池家住宅西洋館 文化審答申

 国の文化審議会(佐藤信会長)は、17日に開かれた同審議会文化財分科会で、登録有形文化財(建造物)に、花巻市御田屋町にある「旧菊池家住宅西洋館」を登録するよう文部科学大臣に答申した。老朽化を理由に一度は解体の話が持ち上がったが、関係者の尽力で保存がなされ、今に伝えられる大正期の洋風住宅。関係者は今後の保存活用に向けた活動の弾みになると答申を喜ぶ。
 旧菊池家住宅西洋館は、花巻出身で全国各地の農業試験場長などを務めた菊池捍(まもる)が1926年に建てた木造一部2階建ての自宅。
 瓦ぶきの半切妻屋根で、長い板材を横に重ねた外壁と縦長窓を並べた外観に、正玄関と通用玄関があり、生活空間と応接空間を分ける武家屋敷の間取りを持ちながらも、洋風天井で全て開戸、しっくい壁と、和洋折衷の独特な雰囲気を醸し出す。宮沢賢治の寓話「黒ぶだう」の舞台となったとも考えられている。
 2005年には老朽化から取り壊しの話が持ち上がり、保存運動が活発化した。07年には市の建造物評価委員会が「保存すべき建物」と結論づけ、市民有志の守る会が発足したが、市の財政支援が見込めないことから解散。盛岡市の医師が10年に購入し、市文化財保護審議会委員で長年調査や保存運動に携わってきた木村清且さん(72)に管理を託した。
 屋根瓦や内装を改修して活用方法を探り、21年には建物の継続的な保存・活用とゆかりの先人の顕彰活動を目的に発足した市民有志で組織する保存・活用委員会(木村清且委員長)が、一般公開と先人を紹介する展示を企画した。
 木村さんは文化財として認められたことを受け、「やっとここまできたという気持ち。先人が生きた証しであり、賢治の世界に迷い込んだような建物。先人の思いを掘り下げ、歴史をくみ上げて賢治の世界を醸し出すようなまちづくりにつなげたい」と話している。
 同市内の登録有形文化財(建造物)は花巻温泉旧松雲閣別館(湯本)が登録されており今回の登録を含め2件、県内では102件となる。
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同じ件でIBC岩手放送さん。

賢治の寓話の舞台にも 旧菊池家住宅西洋館(花巻市)など国登録有形文化財に

 大正時代に建設された花巻市の旧菊池家住宅西洋館など岩手県内で2件が新たに国の登録有形文化財に登録されることになりました。
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 花巻市御田屋町にある旧菊池家住宅西洋館は、1926(大正15)年に建設された洋風建築が特徴で、宮沢賢治の寓話「黒ぶだう」の舞台となったとも考えられています。
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 部屋は和室主体となっていますが洋風の天井で、全て開き戸と和洋折衷の貴重な建造物とされています。
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 明治前期に建設された遠野市の旧高善旅館は民俗学者・柳田國男が定宿としていて、通り土間など遠野の典型的な町屋として貴重な建造物とされています。
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 2階には床構え付の客室もある近代和風旅館のつくりです。今回の2件を含め、岩手県内の登録有形文化財は102件となります。

旧菊池家住宅西洋館、おそらく昭和21年(1946)、花巻郊外旧太田村に隠棲していた光太郎がこの家を訪れ、ピアノ演奏を聴いたというので、一昨年にお邪魔しました。確かに面白い建築でした。

『岩手日日』さんの記事にあるとおり、花巻市内では登録有形文化財(建造物)指定は、花巻温泉旧松雲閣別館に続き、2件目。こちらは光太郎が何度も宿泊した建物で、市内2件の指定がいずれも光太郎がらみの建造物ということになり、喜ばしい限りです。

松雲閣別館の方は、今一つ活用が為されていないようですが、旧菊池家住宅西洋館の方は、さまざまな機会に利用し、町おこしに貢献していただきたいものです。

ところで、今回の答申では、智恵子の故郷・福島二本松市街の「檜物屋酒造店旧店蔵」も登録されました。「文庫蔵」と「仕込蔵」の2件です。檜物屋酒造店は明治7年(1874)の創業。智恵子の祖父・長沼次助が油井村に長沼酒造を興したのは明治16、17年(1883、84)頃。同じ酒造業同士、つながりはあったでしょう。
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上の画像は、かなり後になりますが昭和12年(1937)の『大日本職業別明細図』から。この時点では長沼酒造は破産しているのですが、なぜかまだ智恵子の弟・啓助の名で出ています。

ちなみに檜物屋酒造店さんは健在で、銘酒「千功成」は数々の賞に輝いています。公式サイトでは「智恵子の里は 酒の里 ほんとうの空 ほんとうの酒」と謳ってくださっています。
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もう1件、杉並区さんのサイトから。

4年度の区指定文化財が決まりました(5年3月15日)

 区では、昭和58年度から文化財指定を行っています。令和4年度は、歴史資料1件、考古資料1件を指定しましたのでご紹介します。

(1)【区指定有形文化財(歴史資料)】尾崎喜八関係資料(ガラス乾板附ネガフィルム)747点
本資料は、大正末期から昭和戦前期にかけて杉並区に住んだ詩人・尾崎喜八が杉並区内外の風景・人物などを撮影したガラス乾板とネガフィルムです。
 同資料からは、尾崎の嗜好や生活環境、交友関係などが窺えると同時に、カメラが希少な時期に撮影された区内外の写真は全体として貴重であり、農村の面影を残す当時の区内の自然や生活風景も収められています。
 写真を自らの創作の背景を説明する手段としても利用した尾崎の乾板は、尾崎自身や作品の理解に資する資料であり、詩人・尾崎喜八を考察する上で欠く事の出来ない貴重な資料です。
【所在】郷土博物館(杉並区大宮1丁目20番8号)

昨年12月から先月にかけ、杉並区立郷土博物館さんで開催された企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」で一部が展示された、尾崎喜八撮影の古写真が区の文化財に指定されたとのこと。同区在住当時の尾崎が撮った戦前の写真が中心でしょう。ビジュアル的に当時の様子をつかむには、写真は最適ではありますが、写真を文化財指定するという区の英断には頭が下がります。
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気になるのは「杉並区内外の風景・人物などを撮影」となっていること。となると、尾崎は駒込林町の光太郎アトリエでも数葉の写真を撮影しており、それも含まれるのかな、と思いました。

この写真も尾崎の撮影です。
駒込林町アトリエ
また、光太郎のポートレートも。
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ともに昭和8年(1933)2月のものです。

それから、下記は尾崎一家と光太郎。
喜八撮影
これには尾崎自身が写っており、当時、セルフタイマーというものは無かったのではないかと思われ、そうすると他の人物の撮影ということになりますが、どうなのでしょう。カメラの歴史に詳しい方、御教示いただければ幸いです。

また、4月2日(日)日比谷松本楼さんで開催予定の第67回連翹忌の集いに、尾崎令孫の石黒敦彦氏もご参加下さり、写真の一部をご持参、展示して下さるそうなので、訊いてみようかとは思っております。

さて、文化財指定。

形有るものはすべていずれその形を失うものではあります。だからと言って、失われるに任せるのではなく、少しでも失われるまでの時間を延ばすことは可能なわけで、そうした意味では文化財指定は有効な手段の一つでしょう。

そして、指定して終わりではなく、先述しましたが、指定後の有効活用も重要ですね。今回指定されたもろもろも、そうなっていって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

あゝ彫刻が作りたい。


明治43年(1910)10月10日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳

「じゃあ、作れよ」とツッコミたくなりますが、ことはそう簡単ではありません。前年に欧米留学から帰ってからの光太郎、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界とは距離を置くことを決意しましたので、作っても発表する機会は無し、自分で売りさばくことも無名の自分には不可能、という状況でした。

光太郎の生涯にたびたび訪れた、彫刻制作空白の時期、その最初のものです。








定期購読しております『花巻散歩マチココ』さんの34号が届きました。

表紙はマルカン大食堂さんの名物・10段ソフトクリーム。「実物大」だそうで(笑)。
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創刊より6年を経て、次号から版元が変わり、内容も刷新されるそうです。それに伴い、今号はこれまでのクロニクル的なページも多く割かれていました。
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そういえば、光太郎をかなり大きく取り上げて下さった号(第6号)もあったなぁ、という感じでした。

連載の「光太郎レシピ」。
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「ゼンマイの白和えと三色あられ」です。
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レシピ下部にはレシピ考案にあたられているやつかの森LLCさんのひと言。何だか最終回っぽい文言で、次号からのリニューアルでこの連載も無くなるのかな、と思ったのですが特に「最終回」という文言は見あたりません。確認してみます。

もう1件、同じくやつかの森LLCさんメニュー考案の「光太郎ランチ」。毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんで販売されています。

今月分の画像を頂きました。多謝。
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メニュー的には「赤飯」、「そば粉焼パンスルメ入り」、「牛肉の味噌焼き」、「油揚げ焼き」、「大根と夏みかんのサラダ」、「金平ゴボウ」、「塩麹入り卵焼き」、「お新香」、「レモン紅茶寒とおさつ焼き」。個人的には「レモン紅茶寒」が非常に気になります(笑)。

先月はたまたま15日に現地におりましたので、2食分ゲットして千葉の自宅兼事務所に持ち帰り、妻と頂きました。また機会があればそうしようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

よか楼が落成した。このごろに一緒にたべに行きませんか。僕はあそこを休憩のCozy Cornerにしたいと思つてる。

明治43年(1910)9月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎28歳

よか楼」は、浅草雷門前にあったカフェーです。現代のカフェとは異なり、酒を供し、美人の女給が居るというのが売りで、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」の会場にも使われました。
よか楼広告
吉原河内楼の娼妓・若太夫にふられた後、光太郎は「よか楼」の女給「お梅」に入れあげるようになり、一日に5回も足を運んだりもしたそうです。ほとんどストーカーですね(笑)。「お梅」が他の客のテーブルにかかりっきりになっていると、キレて暴れたりもしたとのこと。しょうもない奴でした(笑)。

「よか楼」は新聞に女給の写真入りの広告をたくさん出し、それが人気を呼んだそうです。すると、「お梅」の写真が載った広告も出たのかな、と思っており、調べてみようと思います。現在のところ、「お梅」と特定できる写真を確認できていませんので。光太郎がどんな顔立ちの女性に惚れたのか、興味があります。それを言えば、河内楼の若太夫も写真が確認できていませんが。

下記は新聞ではなく『東京大正博覧会』(大正3年=1914)のパンフレットに載った広告。もしかするとこれが「お梅」かもしれませんが、名前が出ていません。新聞に何度も出たという広告もこんな感じで名前は出さなかったのでしょうか。そうでないことを祈ります。
よか楼広告2
それにしてもこの時代に「Cozy Corner」(憩いの空間、的な)という語をさらりと使うあたり、いかにも光太郎です。

ニューリリースのCDです。一昨日、タワーレコードさん他のサイトに情報がアップされました。ちなみに旧字体の「惠」の字が使われているのは、制作サイドのこだわりなのでしょう。

清水邦子が歌う 組曲『智惠子抄』

2023年3月21日 ムジカフエンテ000
定価2,000円+税

詩:高村光太郎
作曲/ピアノ:朝岡真木子
歌唱:清水邦子

収録曲
 1 人に(6:02)
 2 あどけない話(3:06)
 3 千鳥と遊ぶ智惠子(3:59)
 4 値(あ)ひがたき智惠子(2:59)
 5 間奏曲 ~祈り~(4:19)
 6 レモン哀歌(7:19)

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作曲家・朝岡真木子氏が令和元年(2019)に作曲された組曲「智惠子抄」のみを収めたCDです。

昨年、メゾソプラノの清水邦子氏が旧東京音楽学校奏楽堂で開催された「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」で全曲を歌われ、「ぜひCD化していただきたいものです」と申し上げたところ、とんとん拍子に実現してしまいました(笑)。その行動力、バイタリティーには脱帽です。と言っても、決してやっつけ仕事ではなく、清水氏の歌唱、朝岡氏のピアノ、ともに素晴らしい演奏ですし、ジャケット的なブックレットは全15ページ。こちらもハイクオリティです。

清水氏、どっぷりと「智恵子抄」の世界にはまられ、リサイタル後の11月には智恵子の故郷・福島二本松の智恵子生家/智恵子記念館などをご訪問、今回のブックレットにはその折の写真も多数掲載されています。
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001ちょうど生家二階の特別公開中でしたし、智恵子の「幻の花嫁衣装」の展示も為されている時でした。

その際に同行された、映画監督の水谷俊之氏が、今回のCDのライナーノートを書かれています。題して「三人の女が生み出した劇的なるもの」。「三人」とはもちろん、清水氏、朝岡氏、そして智恵子ですね。ちなみに水谷氏、一昨年にNHK BSプレミアムさんで放映された「プレミアムドラマ山女日記3 #3 あどけない空・安達太良山」の監督もなさっていて、「智恵子抄」とは浅からぬご縁をお持ちです。

ライナーノートと言えば、当方も書かせていただいております。CDの帯には当方執筆のライナーノートの抜粋も印刷して下さいました。恐縮至極です。

最上部にリンクを貼りましたが、オンライン販売が為されていますし、4月2日(日)に日比谷松本楼さんで開催予定の第67回連翹忌の集いにご参加下さる方は、会場内で販売しますので、そちらでお求め下さい。また、連翹忌の集いでは、清水氏、朝岡氏のお二人直々に、組曲から抜粋での演奏をお願いしてあります。ご参加下さる方、お楽しみに。

それに先だって、やはり抜粋での演奏が為される「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」が、3月21日(火)、銀座の王子ホールさんで開催されます。その際にもCDの販売があるでしょう。

さらに、組曲「智惠子抄」全曲が収められた楽譜集『朝岡真木子歌曲集2』も刊行されています。併せてお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

祝入営  明治43年(1910)8月10日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳


005親友・水野葉舟との連名で送った葉書。絵は光太郎でしょう。

長田秀雄は詩人、劇作家、小説家。光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」のやはり主要な一人でした。

「入営」は徴兵によるものです。この年11月、「パンの会」の大会が日本橋大伝馬町の三州屋で開かれ、その際、画像にあるような幟が掲げられ、さらに光太郎がその周りに黒い縁取りをしたところ、訃報の黒枠のように見えました。そこに居合わせた『萬朝報』の記者が「けしからん」と翌朝の記事にし、今で言う「炎上」状態に。

ちょうど幸徳秋水らによるいわゆる「大逆事件」のあった時期で、当局も過敏に反応していましたし、「パンの会」自体、社会主義者の集まりで、「麺麭(パン)」を要求する団体かと警戒されていたそうです。

昨日ご紹介した、竹橋の東京国立近代美術館さんで明日から始まる「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」展につき、主催に名を連ねている『毎日新聞』さんに予告報道が出ています。

東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密 東京で17日から 問題作が傑作へ、変遷たどる

 「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」が17日から東京国立近代美術館(東京都千代田区)で始まる。重要文化財に指定されている明治以降の絵画・彫刻・工芸51点による豪華な展覧会だ。本展を企画した同館の大谷省吾副館長が見どころを解説する。
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 東京国立近代美術館は1952(昭和27)年12月1日に開館し、さきごろ開館70周年を迎えた。本展はこれを記念し、ほぼ同時期の55年から近代美術の指定が始まった重要文化財に焦点を当てるものである。2023年3月現在、重要文化財に指定されている明治以降の絵画・彫刻・工芸は全部で68件だが、本展はそのうち51点を集めた、これまでに類のない展覧会である。とはいえ、ただの名品展ではない。本展は重要文化財イコール名品として手放しで礼賛するのではなく、「なぜ、これが重要文化財なの?」と考えてもらうことを真のねらいとしている。
 重要文化財の指定基準のひとつに「各時代の遺品のうち製作優秀で我が国の文化史上貴重なもの」というのがある。だが「優秀」で「貴重」とする評価の基準は何だろう? 明治以降の美術は、それ以前からの伝統的な美意識と、新たに西洋から伝えられた美術との間でさまざまな葛藤を経ながら展開してきたし、近代美術とは本質的に、それ以前のものの見方を批判的に乗り越えようとしながら新しいものを作り出そうとしてきたから、評価の基準も単純ではないのだ。だから本展のキャッチコピーに“「問題作」が「傑作」になるまで”とあるように、重要文化財に指定された個々の作品が、発表当時はどのような批評を受け、それが時代の変遷とともにどのように評価を変え、そしてどのような理由で重要文化財に指定されるに至ったのかを検証していくと、さまざまな面白いことがわかってくる。以下、主要な作品をいくつかご紹介したい。
  横山大観「生々流転」は、描かれてから今年でちょうど100年になる。発表された展覧会の初日に関東大震災が起きたが、作品は幸いに救い出された。全長40メートルに及ぶ大作で、重要文化財に指定されたのは67年。描かれてから44年後のことで、史上最速の重要文化財指定作品である。
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 この作品と同じ年に、洋画で最初に重要文化財に指定されたのが高橋由一の「鮭」である。この67年とは、翌年が明治100年にあたり、日本中で明治文化の見直しが行われていた時期だった。日本の伝統的な画法では表現できなかった立体感や質感の描写が、西洋からもたらされた技法によって可能となったことへの素直な驚きと喜びが見てとれる。
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 この年、やはり明治時代の名品として指定の候補に挙げられながら、選に漏れて保留となったのが黒田清輝「湖畔」と高村光雲「老猿」だった。
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この2点が重要文化財に指定されるのは、意外にもごく最近、99年のことである。どうして67年当時、選に漏れたのか。99年に指定されたときは、どんな理由だったのか。それらを調べていくと、近代日本美術の評価の基準が時代とともに更新されてきたことが見えてくる。そしてその背景には、近代日本美術史研究の深まりがあることも理解できるだろう。 さまざまな価値観が交錯しているからこそ、近代日本美術は面白い。その魅力をぜひご堪能いただきたい。

音声ガイド、新井さんが初挑戦
 音声ガイドナビゲーターは、ナビゲーター初挑戦のフリーアナウンサー・新井恵理那さんと、声優・小野大輔さんが務める。貸出料金650円(税込み)。
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図録 通販サイトでも
 会場特設ショップのほか、本日より通販サイト「まいにち書房」(https://www.mainichi.store/)でも公式図録を予約販売する。出品作品はもちろん本展不出品の重文指定品を含む全68件のカラー図版と作品解説を収録した充実の一冊。発送は22日以降。送料別。図録はA4変型判。1冊3300円(税込み)

「老猿」の重文指定についての裏話は存じませんでした。そのあたり、図録所収の論考等で触れられているのではないかと思われます。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

日本に住んで居るといふ外は 僕と日本とは今の処没交渉です。Ah!


明治43年(1910)5月12日 南薫造宛書簡より 光太郎28歳

旧態依然の日本美術界(その頂点の一つが、父・光雲)と距離を置き、独自の道を行こうとする意志の表出です。しかしそれは、茨の道でした。

都内から企画展情報です。

東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密

期 日 : 2023年3月17日(金)~5月14日(日)
会 場 : 東京国立近代美術館 千代田区北の丸公園3-1
時 間 : 9:30-17:00(金曜・土曜は9:30-20:00)
休 館 : 月曜日(ただし3月27日、5月1日、8日は開館)
料 金 : 一般 1,800円(1,600円) 大学生 1,200円(1,000円)
      高校生 700円(500円) ( )内は20名以上の団体料金

東京国立近代美術館は1952年12月に開館し、2022年度は開館70周年にあたります。これを記念して、明治以降の絵画・彫刻・工芸のうち、重要文化財に指定された作品のみによる豪華な展覧会を開催します。とはいえ、ただの名品展ではありません。今でこそ「傑作」の呼び声高い作品も、発表された当初は、それまでにない新しい表現を打ち立てた「問題作」でもありました。そうした作品が、どのような評価の変遷を経て、重要文化財に指定されるに至ったのかという美術史の秘密にも迫ります。

重要文化財は保護の観点から貸出や公開が限られるため、本展はそれらをまとめて見ることのできる得がたい機会となります。これら第一級の作品を通して、日本の近代美術の魅力を再発見していただくことができるでしょう。

1.史上初、展示作品すべてが重要文化財
明治以降の絵画・彫刻・工芸の重要文化財のみで構成される展覧会は今回が初となります。明治以降の絵画・彫刻・工芸については、2022年11月現在で68件が重要文化財に指定されていますが、まだ国宝はありません。本展ではそのうち51点を展示します。

2.「問題作」が「傑作」になるまで 指定の歩みから浮かび上がる近代日本美術史
明治以降の作品が最初に重要文化財に指定されたのは1955年。以降、いつ、何が指定されたかをたどっていくと、評価のポイントが少しずつ変わってきているように見えます。それはすなわち、近代日本美術史の研究の深まりの反映でもあるでしょう。

3.東京国立近代美術館所蔵の重要文化財全17件を公開
10年前の開館60周年記念展「美術にぶるっ!」展では当館の所蔵品・寄託作品計13点の重要文化財をまとめて展示しましたが、今回はその後に指定された作品や国立工芸館の鈴木長吉《十二の鷹》、そして2022年11月に新たに指定された鏑木清方《築地明石町》《新富町》《浜町河岸》三部作も加えた17件を、初めてまとめて公開します(会期中展示替えがあります。鏑木清方三部作の展示期間は3月17日~4月16日です)。作品保護のため、会期中一部展示替えがあります。
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関連イベント(講演会)

本展出品作品の所蔵館の方および日本近代の絵画・彫刻・工芸の専門家による講演会です。各美術館・博物館のコレクション形成史をメインに、本展の出品作品にも触れながらお話しいただきます。

3月25日(土)
 第一部 14:00-15:00(開場は13:40)
  登壇者:伊藤嘉章(愛知県陶磁美術館総長、町田市立博物館長)
 第二部 15:30-16:30(開場は15:10)
  登壇者:貝塚健(公益財団法人石橋財団アーティゾン美術館 特命事項担当学芸員)
4月8日(土)
 14:00-15:00(開場は13:40)
  登壇者:大谷省吾(東京国立近代美術館副館長)
   UDトーク対応(字幕表示あり) 協力:国立アートリサーチセンター
4月15日(土)
 第一部 14:00-15:00(開場は13:40)
  登壇者:古田亮(東京藝術大学大学美術館教授)
 第二部 15:30-16:30(開場は15:10)
  登壇者:舟串彩(公益財団法人永青文庫学芸員)
■会場 東京国立近代美術館 地下1階講堂
■定員 各回140名(先着順)
■参加方法
各日12:00より、1階インフォメーションカウンターにて整理券を配布します。
3月25日、4月15日は一部のみ、二部のみの参加も可能です。一部と二部どちらも参加希望の方は、それぞれの参加券をお受け取りください。

というわけで、現在68件が重要文化財に指定されている明治以降の絵画・彫刻・工芸のうち、51点が展示される展覧会です。

そこで、光太郎の父・光雲作の「老猿」(東京国立博物館所蔵)も出ます。
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「老猿」を所蔵しているトーハクさんでは、昨年、「国宝 東京国立博物館のすべて」展が開催され、こちらでは膨大な所蔵品の中から国宝89件すべてが展示されました。同時開催の常設展示ではこの「老猿」も展示されており、SNS上では「国宝も素晴らしいが、常設の「老猿」も超インパクト」的なコメントが目立ちました。

他にも教科書や何かでお馴染みの作品がズラリ。出品目録はこちら

それぞれ、様々な機会に別個に見ることはあっても、まとめて見られる機会はめったにありませんね。当方、拝見に伺う予定ですが、おそらく頭がクラクラしそうです(笑)。
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ところで、素朴な疑問。上記画像にもある岸田劉生の「麗子微笑」など、一連の「麗子像」のタイトルを「智恵子抄」と勘違いしている人が実に多いのです。
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なぜなんでしょうね?

閑話休題、「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

Mr.Ogihara, a friend of mine, is dead suddenly. I am here by by his tomb. You cannot imagine how I am sad! April 26th


明治43年(1910)4月26日 バーナード・リーチ宛書簡より 光太郎28歳

昨日のこの項でも書きましたが、親友だった碌山荻原守衛が突然没したのが4月22日。旅行中の奈良でそれを知らせる電報を受け取った光太郎、信州穂高の守衛の墓に馳せ参じました。

それを知らせるバーナード・リーチ宛の葉書。普段、端正な文字を書く光太郎が、この時はまるで殴り書きのような筆跡。大文字と小文字が入り乱れ、むちゃくちゃです。それだけに激しい動揺が伝わってきます。文言的にも「君には僕がどれほど悲しんでいるか解るまい!」。まるで八つ当たりです。
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昨日も引用した、水野葉舟の「日記の中より(故荻原守衛氏に対する記憶)」から。

 その高村君が留守に寄られた時にこのやうな挿話があつた。これはほんの一つの挿話に過ぎぬが自分はそれを聞くと鋭く胸に映るものがあつた。
 その挿話といふのは斯うである。丁度二十二日の午前一時か二時の頃高村君が宿屋の室で寝て居た。すると誰かがそつと障子を開けて入つて来た。と思ふと床(とこ)の上から非常な力で圧されて苦しくつてたまらなかつた。と思ふと目が覚めた。深更であつたが両側の室にはまだ燈火がついて居た。
 丁度その時刻に荻原氏は死んだのであつた。後になつて考へると実に恐くつてたまらぬ、実に今度こそ非常な経験をしたものだと言つたさうだ。
 奈良から帰つた高村君は信州に行つた。その途から自分に当てられた端書及び帰つて来てからの端書にも、非常に興奮して居る様子であつた。自分は平常沈んだ心の静かなこの友人が、このやうに興奮したので自分にも重いものを負つて居るやうに心を動かされた。


奈良の宿屋でのエピソード、現在確認できている限り、光太郎自身は書き残していません。それを自ら公表するのも不謹慎だと思ったのでしょうか。

ところで、守衛の「北条虎吉像」も重要文化財指定を受けていますので、上記「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」に展示されます。

「智恵子抄」がらみの演奏会等情報を2件。

まずは都内から。

朝岡真木子歌曲コンサート第6回

期 日 : 2023年3月21日(火・祝)
会 場 : 王子ホール 東京都中央区銀座4-7-5
時 間 : 14:00開演
料 金 : 全席自由 4,500円

曲 目 
 「春を待つ歌」(新作初演) 詩:こわせ・たまみ 
 「わたしは魔女」( 〃 ) 詩:こわせ・たまみ
 「わたしが一番きれいだったとき」「吹抜保」 詩:茨木のり子
 「そのとき十八の春」「梅干し」 詩:岡崎カズヱ
 「きつねのよめいり」 詩:野上彰
 「春満開」 詩:柏木隆雄
 「海の宵待草」 詩:こわせ・たまみ
 「さくらと はなびら」 詩:まど・みちお
 組曲〈あなたへ〉より「あこがれ」「あなたへ」「夢とおく」 詩:星乃ミミナ
 組曲〈智惠子抄〉より「千鳥と遊ぶ智恵子」「値ひがたき智恵子」 詩:高村光太郎
 他

出 演
 木内弘子(ソプラノ) 黒川京子(ソプラノ) 品田昭子(ソプラノ)
 福成紀美子(ソプラノ) 前澤悦子(ソプラノ) 清水邦子(メゾ・ソプラノ)
 馬場眞二(バリトン) 朝岡真木子(作曲・ピアノ)

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作曲家・朝岡真木子氏の歌曲作品のコンサートです。

昨年9月、旧東京音楽学校奏楽堂さんにおいて行われた「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」で演奏された「組曲 智惠子抄」から抜粋で「千鳥と遊ぶ智恵子」と「値ひがたき智恵子」が演奏されます。歌唱は同じく清水邦子氏、ピアノは朝岡氏ご本人です。

昨年11月には、今回と同じ王子ホールさんで「えつ子とまき子のコンサート 2022秋」が開催され、その際にはやはり清水氏が「組曲 智惠子抄」から抜粋の「あどけない話」と「レモン哀歌」を歌われました。

清水氏、すっかり「智恵子抄」の世界に嵌ってしまわれ、「組曲 智惠子抄」のみを収めたCDをリリースされます。ちなみに当方、ライナーノートを書かせていただきました。また改めてご紹介いたしますが、今回のコンサート会場で販売されるようです。また、日比谷松本楼さんで行う4月2日(日)の第67回連翹忌の集いにも朝岡氏、清水氏がご参加下さり、「組曲 智惠子抄」から抜粋で演奏をしていただきますし、会場内でCDの販売も行います。

もう1件。こちらはサブタイトルに光太郎詩「あどけない話」由来の「ほんとうの空」(本当は「ほんとの空」ですが……)の語を冠してくださっています。

第16回 声楽アンサンブルコンテスト全国大会 - 感動の歌声 響け、ほんとうの空に -

期 日 : 2023年3月16日(木)~19日(日)
      3月16日(木)中学校部門 3月17日(金)高等学校部門
      3月18日(土)小学生・ジュニア部門、一般部門
      3月19日(日)各部門金賞受賞団体による本選、表彰式
会 場 : ふくしん夢の音楽堂(福島市音楽堂) 福島県福島市入江町1-1
時 間 : 各日、開場9:30 開演10:00
料 金 : 各部門予選  前売り 1,500円 当日 2,000円 
      本選     前売り 2,500円 当日 3,000円
      4日間通し券 前売りのみ 8,000円

このコンテストは、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」に焦点をあて、全国からトップレベルの声楽アンサンブルグループが福島に集い、日本の合唱レベルの向上を図るとともに、音楽文化の振興発展に寄与し、歌うことの楽しさを全国に発信するコンテストです。
青く澄みわたる“ふくしまの空”に、皆さんの心のハーモニーを響かせてください。
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この大会、平成20年(2008)から行われているものですが、平成23年(2011)の第3回大会は東日本大震災のため中止。復活した翌年の第4回大会から、サブタイトルに復興の思いも込めてでしょう、「感動の歌声 響け、ほんとうの空に。」と冠して下さるようになりました。

その後、令和元年(2019)に第12回大会までは順調に開催。だんだん規模も大きくなり、海外からの参加やゲスト団体によるスペシャルコンサート、参加団体での交流会なども催されていました。ところが令和2年(2020)の第13回大会はコロナ禍のため中止、令和3年(2021)の第14回大会は無観客で規模を縮小して実施、昨年の第15回大会は、またもや直前に福島で起こった地震のため中止……。紆余曲折を経て今回に至ります。

コロナ禍からの復興という意味合いも含め、「感動の歌声 響け、ほんとうの空に。」を実現させてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

驚きて走せ帰りたり。今より信州に遺骨を訪ふつもり、そんな事でもせずては荻原君の死んだのが本当に思へず、奈良の感興もめちやめちやなり


明治43年(1910)4月25日 水野葉舟宛書簡より 光太郎28歳

光太郎の親友・碌山荻原守衛の死はこの年4月22日。光太郎はこの時、奈良に旅行中でした。もう一人の親友、水野葉舟も後から奈良で合流する予定でした。

その葉舟の回想「日記の中より(故荻原守衛氏に対する記憶)」から。

 明治四十三年四月二十三日。この日は自分たちにとつて、記憶すべき日となつた。荻原氏の逝かれたのは、後で聞いたのではたしか其の前日であつたと思ふが、自分が此の意外な報道を見たのは此日であつた。
 この朝、自分は平常のやうに目を覚した。この頃は自分の心の中(うち)に、奈良旅行の計画と、その為めに順序を立てゝある仕事とで、占領され尽して居た。
(略)
 この旅に一緒に行かうと約束をした高村光太郎君は、一週間も前に、既に東京を発つてしまつた。自分はたゞ自分の仕事の上で気が急けるばかりで、早くこの旅に出たいといふばかりで、その朝も眠りから覚めたのであつた。
 で、起きると枕元に置いてある新聞を取つて広げて見た。すると荻原守衛氏逝くと書いた標題が目に入(い)つた。
 自分はまだ寝起きの極めてぼんやりした心持に、尚ほ微かに茫然とした。実に思はざる事だ!……
 暫くその標題を見詰めて居たが「偽だ!」と言ふやうな心持が、反抗的に胸に起つた。急いで、ありたけの新聞を広げて見たが、どれにも、明かに氏の逝かれたと言ふ事が書かれてあつた。とも角この三四十時間前に、此一芸術家が此世から去たと言ふ事が事実であつたらしい。
 自分はすぐ床を出た。そして書斎に入つて来ると、前夜までに仕かけた仕事が、ちやんと机の上に置いてある、それを見ながら、その前に坐ると、たゞ寞然と考へた。「荻原氏が死んだ!」と、はてしもなく考へた。
 先づ、第一に胸に起つたのは、奈良に行つて居る高村君はこの報道を聞くとすぐ引き返して来るだらう。吾々の奈良行きもこれで駄目だ……と言ふ事だつた。この考へがすぐ胸に来た。続いて、心が次第に氏の死なれたと言ふ事に集つて来た。
 道を歩いて居る人が倒れた。今迄、自分の目の前に確実(たしか)な足どりで道を歩いて居た人が、ばたりと倒れた。それと同時に、その人の思想も、手も、口も力が落ちた。自分は今、此偶然で、且驚く可き事実を眼前に見て居る。心が漸く沈んで深い暗いものに対して居るやうに思はれて来た。


予期せぬ急逝の報に接した場合の混乱がよく表されていますね。自分の生活は昨日までとまったく同じ延長線上にあるのに、他人の身の上に理不尽とも思える死が突然襲ってくる、という……。

当方も、1月に突然母を亡くしまして、同じような感懐を持ちました。

今日、3月13日は光太郎の誕生日です。満140年ということになります。

それを記念して、岩手県内の一部郵便局で今日販売が始まるオリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」が、花巻市に贈呈されました。

地方紙『岩手日日』さん。

光太郎生誕140年を記念 フレーム切手13日から販売 花巻

 日本郵便東北支社は、生誕140年を迎える花巻ゆかりの先人・高村光太郎を題材としたオリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」を作製した。切手には光太郎の写真をはじめ、高村山荘、詩碑や彫刻などの写真がデザインされ、花巻市内や近隣市町の郵便局で、光太郎が誕生した13日に販売を開始する。  
 生誕140年の節目に、光太郎と花巻を広くPRしようと制作。日本郵便が、市と高村光太郎記念会、光太郎の顕彰団体「やつかのもりLLC」と協力してデザインした。
 表題には光太郎が長年過ごした高村山荘の写真と、光太郎と妻智恵子のキャラクターを使用。切手は光太郎本人がトマトを手入れする姿や冬の高村山荘、山荘で初めて迎えた冬に生まれた作品「雪白く積めり」の詩碑などの写真を採用した。
 台紙には、光太郎がデザインした山口小学校の校章や同校に贈った校訓「正直親切」、地元の子供たちと写真を撮るサンタクロースに扮(ふん)した光太郎の写真など、花巻で過ごした日々が紹介されている。
 10日には市役所でフレーム切手の完成披露が行われ、上田東一市長は「素晴らしい切手を発行してもらい市民も喜ぶと思う。改めて注目する機会になる。ありがたい」と感謝。日本郵便県西部地区連絡会統括局長の齋藤一志水沢大町郵便局長は「光太郎は宮沢賢治が世に広まるきっかけとなった人物。切手の発行に合わせて光太郎の人柄などにも触れるきっかけになれば」と述べた。 フレーム切手は1シート1690円(税込み、84円切手×10枚)で、計700シートを発行。13日から花巻、北上、奥州、西和賀、金ケ崎各市町の70局、15日からインターネットで販売する。
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同じく『岩手日報』さん。

高村光太郎との縁、切手に 日本郵便東北支社、生誕140年で発売

 日本郵便東北支社(仙台市、小野木喜恵子支社長)は13日、高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年を記念したオリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」を発売する。
 花巻市役所で10日に贈呈式を行い、同市や奥州市の郵便局長らが出席。県西部地区連絡会統括局長の斎藤一志(ひとし)水沢大町郵便局長が上田東一花巻市長に切手シートを手渡した。
 1シート1690円で、84円切手10枚がセットになっている。同市で7年間過ごした高村の農作業姿や暮らした山小屋(高村山荘)、自筆の詩などの写真を用いた。
 花巻、北上、奥州、金ケ崎、西和賀の5市町の70郵便局、日本郵便のウェブサイトで700シート限定で販売する。
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オンラインでの販売は明後日からだそうです。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

例の彫刻は出来た相だな。つひ忙がしいので御無沙汰してゐる。僕は四月の中旬に関西へ出懸る。 店はまだ出来ぬ。いつかの子供の首を鋳金にして呉れないか。鋳金料は報知次第早速御届けする。 その内、君の画や何か借りに出懸ける。

明治43年(1910)3月27日 荻原守衛宛書簡より 光太郎28歳

留学仲間で親友だった碌山荻原守衛に宛てた葉書から。
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例の彫刻」は守衛の絶作にして代表作「女」、「いつかの子供の首」は、前年に守衛が制作した塑像「小児の首」。「店」は翌月開店した神田淡路町の画廊・琅玕洞。光太郎は実弟の道利を名目上の店主にします。当初予定では守衛の個展を開いたり、そうでない時にも守衛作品をバンバン売る予定でした。

ところが光太郎が「四月の中旬に関西へ出懸」けているうちに(4月22日)、守衛は急逝してしまいます。

昨日は3.11でした。あの日から12年……。

あの日、津波に呑まれて亡くなった、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で光太郎文学碑の建立に尽力され、「女川光太郎祭」を主催なさっていた貝(佐々木)廣氏を偲ばせていただきました。

12年前の春に自宅兼事務所に植えた桜の樹。3.11には咲いているものを、と思い、早咲きの品種にしました。今年も満開です。ついでにいうとその隣のミモザも。
小山弘明 PXL_20230311_231411589.PORTRAIT
さらについでにいうと、連翹(光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに咲いていて、「連翹忌」命名の由来となった連翹の子孫です)やユキヤナギもぽつぽつ咲き始めました。
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春ですね。

『毎日新聞』さん、今朝の紙面から。俳人・坪内稔典氏による「季語刻々」という連載コラムです。

季語刻々 春の水小さき溝を流れけり 高村光太郎

小さな溝を流れている水、その水を春の水だと思うと、流れのさま、水音、水の色などにまさに春を感じるのだ。そして、小さな何げない溝がとってもすてきな場所に転じる。作者は詩人、彫刻家のあの光太郎である。上手な句とはいえないが、数多い「い段」の音が響いて流れが速いことを感じさせる。雪解けの水がさらさらと流れているのだろう。<坪内稔典>

明治42年(1909)、欧米留学末期のイタリア旅行中に詠まれた光太郎のこの句、このコラムで取り上げられるのは2回目です。最初に紹介されたのは平成29年(2017)でした。

もう1件、和歌山県の地方紙『日高新報』さんの一面コラム。昨日の掲載分です。メインは光太郎を敬愛していた宮沢賢治ですが、光太郎もちらっと。

日高春秋 詩の言葉が持つ強い力

年度末が近づくと、毎年発行されている日高地方小中学生の詩集が本社に届けられる。例年文芸欄で、原則として全文を順次紹介している◆日本では近世まで詩といえば漢詩を指し、現代のような詩は近代以降、高村光太郎や萩原朔太郎、中原中也らが隆盛させた。11日で東日本大震災から12年が経ったが、岩手県が生んだ童話作家の宮沢賢治は詩人でもあった◆今年で没後90年。生前出版された詩集「春と修羅」には、彼がイーハトーブと名づけた岩手県の荒々しく美しい自然、ひたむきに取り組んだ農作業、教員を務めた花巻農学校の生徒たちへの想いが表現されている◆卒業シーズンになると思い出す彼の詩がある。表題は「生徒諸君に寄せる」。「諸君はこの颯爽たる/諸君の未来圏から吹いて来る/透明な清潔な風を感じないのか」「新しい時代のコペルニクスよ」「新しい時代のダーウィンよ」「新たな詩人よ/雲から光から嵐から/新たな透明なエネルギーを得て/人と地球にとるべき形を暗示せよ」◆言葉には力がある。心を動かすという力だ。人の心が動けば、深い部分で物事を変えられる。論旨ではなく、言葉そのものがダイレクトに人の心を打つのが詩という自由な表現だ◆日高地方小中学生の詩集「子ども日高」は、もう20年以上読み続けてきた。当然だが一つとして同じものはない。言葉を操り始めて間もない小学生の作品には、初めて出会うものたちへの驚きがストレートにあふれている。中学生の作品は、その年代ならではの、大人が及ばない鋭敏で繊細な感性と発想で見事に構成され、読む人の心に若い情熱を伝えてくる◆若い世代の力の片鱗を感じるのは、頼もしく心躍ることだ。宮沢賢治が「新たな詩人」にエールを送ったように。

「岩手」、「3.11」といえば、昨日のWBCで先発し、見事に4回途中1失点8奪三振の快投を見せた日本代表の佐々木朗希投手

『スポーツ報知』さんのサイトから。

東山紀之、世界デビューの佐々木朗希に万感…「3・11に佐々木朗希投手が投げることに大変な意味があります」

004 俳優の東山紀之が12日、MCを務めるテレビ朝日系「サンデーLIVE!!」(日曜・午前5時50分)に生出演した。
 番組では、「カーネクスト2023 WBC東京プール」で11日に日本が1次ラウンド(R)第3戦のチェコ戦に臨み、ロッテの佐々木朗希投手)が快投で世界デビューを果たしたことを報じた。
 初回に失策絡みで1失点したが、3回2/3で被安打2、8奪三振。東日本大震災から12年たったその日にWBCでは日本人最年少での勝利投手となり、故郷・岩手に、被災地に勇気を与えた。打線は同じく岩手出身のエンゼルス・大谷翔平投手が打球速度約191キロの弾丸適時二塁打を放ち、3連勝に貢献。12日のオーストラリア戦に勝てば、B組1位での準々決勝進出が決まる。
 東山は3連勝の侍ジャパンを「大谷選手を始め、すべての選手が躍動しています」と絶賛。11日のチェコ戦をドームで観戦したことを明かし、佐々木の投球を「160キロ台の速球がビシビシ決まった」と感嘆していた。
 さらに「3・11のこの日に佐々木朗希投手が投げることに大変な意味があります」とし「震災を経験されて。地元の人に伺うと風化していくのが一番恐ろしいので、佐々木投手が投げるたびに風化させない思いが強くなると思います」とコメントしていた。

御存じの方は御存じでしょうが、佐々木投手、あの日、お父さまとお祖父さま、お祖母さまを津波で亡くされています。その13回忌に、何よりのご供養となったように、テレビ中継を見ながら感じました。

これからも、被災地の、そして日本全体に希望を届ける牽引役として頑張っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

来月は僕も“LES IMPRESSIONS DES WONNAS”といふ長い詩を出すつもりです。或る人にデヂケエトするのです。


明治43年(1910)3月10日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳

前年の欧米留学からの帰朝以来、旧態依然の日本美術界への失望は、光太郎をしてデカダン生活に追い込みます。吉原河内楼の娼妓・若太夫にのめり込み(「或る人」は若太夫です)、鬱屈した心境を詩に吐き出します。「LES IMPRESSIONS DES WONNAS」は、翌月の雑誌『スバル』に「LES IMPRESSIONS DES OŨONNAS」と解題されて発表されました。4篇の詩から成る連作です。

『週刊朝日』さんの3月17日号、作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」の中に、光太郎の名。
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ときめきは前ぶれもなく 岩手に惹かれる

 二月二十七日の朝日新聞夕刊によれば、NYタイムズ「今年行くべき五十二カ所」で、日本の盛岡市がイギリスのロンドンに次いで二番目に紹介されているという。ロンドンは首都で、今年はチャールズ国王の戴冠式などで注目度が高いことはわかる。
 では、盛岡はなぜ? 人口三十万人弱、みちのくの地方都市なのに。日本ではこれまで東京・京都・大阪などが選ばれたのは当然として、なぜ今年選ばれたのか。
 名物のわんこそばに挑戦する楽しさが一つ。「盛岡は人が良く、自然もきれい。ごはんもおいしい」とオーストラリアから来た若い観光客は言う。
 NYタイムズは、盛岡が選ばれた理由をいくつも挙げている。混雑を避けて歩いて楽しめる場所。山に囲まれていくつもの川が流れる豊かな自然がある。盛岡城跡や赤レンガの岩手銀行旧本店本館など和洋折衷の伝統的建物が並ぶ。東京から新幹線で約二時間と近い……など。
 盛岡駅そばのジャズ喫茶「開運橋のジョニー」など秋吉敏子さんも演奏する「和ジャズの聖地」。岩手大学近くの「ナガサワコーヒー」。生豆の仕入れと焙煎で評判だ。
 盛岡の魅力を私がつけ加えるとしたら、手織りのホームスパンの生地を織る工房。日本古来のものを受け継ぐ伝統工芸品はあるが、ホームスパンという羊の毛で織った西洋の生地はなんとも手ざわりが良く素朴で暖かい。注文してから時間のかかる生地を、白黒の縦縞模様と濃紫の無地、二着分を織ってもらい、つれあいのジャケットと私のツーピースに仕立てた。四十年前なのに、今も大切に着ている。
 わんこそばでいえば、量で勝負出来ぬ私は、そばに酒をかけて楽しむ酒そばを食べる。講演会の会場の隣にあった不来方城(盛岡城)跡の丘に寝そべった春の日ののどけさ。街はなぜか西洋の香りがしておしゃれである。ここで東京から移り住み、木馬を作っている友人にも出会った。
 JTBが出していた「旅」という雑誌があった。戸塚文子という女性の名物編集長がいて、ある時グラビアと読み物で、母娘旅をして欲しいと言われた。照れ屋の私は母と二人旅などしたくなかったが、母にいちおう聞いてみた。「どこへ行きたい?」
 すると即座に「岩手県」という返事。理由は、宮沢賢治と石川啄木、それに高村光太郎であった。若い頃文学少女だった母は短歌を作り、賢治の詩が大好きだった。
 「参ったなあ」と思いながら賢治の故郷へ。なぜ賢治の作品が西洋風の不思議な世界なのか、その謎が少し解けた。
 欧米の人々が岩手県に惹かれる理由もわかる気がする。光太郎が智恵子なき晩年を過ごした雪深い小屋にも光太郎の詩のノートや、彫刻家として作ったトルソーなどがあった。ここにはどこにもない不思議な世界が広がっている。
 そういえばコロナの初期の頃、陽性者が毎日増え続ける中で、岩手県だけが0を続けていた。

下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中

NYタイムズさんの「今年行くべき五十二カ所」に盛岡が選ばれた件、ある意味、衝撃的でしたね(笑)。しかし、記事にもあるとおり、わんこそばホームスパンなどの名物、赤レンガ伝統館などのたたずまいなど、たしかに素晴らしいものがあります。岩手を「イーハトーブ」とした賢治や、「岩手は日本の背骨」と言い切った光太郎にしてみれば、当然だという感覚かもしれません。

ただ、下重氏、記憶違いをなさっているようで、光太郎にはトルソの作品は現存しませんし、「詩のノート」というのも花巻には無いはずです。一応、指摘しておきます。

ところで、岩手といえば、今号の表紙は女優ののんさんで、東日本大震災にからめた「3.11被災地の歩み 「あまちゃん」放送10周年 のん “私は太陽”自分の魅力を発掘し続ける」という記事がトップでした。言わずもがなですが、「あまちゃん」の主要な舞台の一つが岩手県だったわけで、それに伴い、達増知事へのインタビュー記事「岩手県は自信をもらった」なども掲載されています。
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また、「あまちゃん」や舞台「私の恋人」で共演された、当会会友・渡辺えりさん(来る4月2日(日)の第67回連翹忌の集いにもご参加予定です)に関する記述も。のんさん曰く「尊敬する大先輩なのに、同じ目線で接してくれる。私がツッコミを入れると、「のんちゃんのバカ!」なんて言う。一緒に映画「レ・ミゼラブル」を見たときには隣で号泣しちゃう。無邪気なところがすてきです

というわけで、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

先夜木曜のパンの会につひ行きはぐれ大きに残念いたし候。


明治43年(1910)1月15日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳

パンの会」は雑誌『方寸』、『スバル』の同人らを中心に起こった芸術至上主義的運動で、石井柏亭、北原白秋、木下杢太郎、そしてこの書簡の宛先である長田秀雄らが中心メンバーでした。光太郎の海外留学中に始められ、帰朝後の光太郎も早速参加しています。

3月13日(月)は、光太郎の誕生日です。存命であれば満で140歳となります。

だから、というわけでもないのでしょうが、その日とその翌日に、「智恵子抄」系の朗読公演。

まずは大阪から。昨秋上演予定だったのが、関係者にコロナ感染が出たため、延期となっていたものです。

至高の華 ~舞と語り~<振替公演>

期 日 : 2023年3月13日(月)
会 場 : 大槻能楽堂 大阪府大阪市中央区上町A-7
時 間 : 18:30~
料 金 : S席 8,000円 A席 6,000円

演 目 : 語り「初代 梅若実」 桂南光(新作落語 本邦初演)
      舞踊詩劇「智恵子抄」 梅若実桜雪/藤間勘十郎/高橋惠子 ほか
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「舞踊詩劇 智恵子抄」。昭和32年(1957)初演の新作能「智恵子抄」をベースに、人間国宝の能楽師・梅若実桜雪氏と舞踊家の藤間勘十郎氏が光太郎智恵子として舞われ、女優の高橋惠子さんが朗読なさるそうです。

平成18年(2006)以来、何度か上演されたそうですが、当方、寡聞にして存じませんでした。今回は令和初の公演、「さらに進化した智恵子抄」だそうで。

続いて北海道札幌から。

マンスリー朗読ライブ VOL.26 智恵子抄を語る

期 日 : 2023年3月14日(火)
会 場 : 岩本珈琲 札幌市白石区栄通18丁目4-1 アン・ロワイヤル 1F
時 間 : 19:30~
料 金 : 1,800円(ワンドリンク付)

出 演 : 石橋玲(朗読)  つくね(音楽)
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せつなくも愛情たっぷりの「智恵子抄」から数篇をメドレーでお届けします✨」だそうです。

それぞれお近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

わざわざ例会の御案内にあづかりありが度く存上候。当日遺憾ながら約束事の為め欠席仕るべくこの段御返事まで


明治42年(1909)12月3日 森鷗外宛書簡より 光太郎27歳

例会の御案内」は、鷗外が自宅で開いていた観潮楼歌会のそれです。光太郎、一度だけ参加しましたが、その後は逃げ回っていました(笑)。同趣旨の断りの書簡があと三通、確認できています。

光太郎、東京美術学校時代の恩師でもある鷗外に対しては「敬して遠ざける」的な部分があり、それが後の「サーベルさせば鷗外だ」事件にもつながります。

この年8月に受けた、留学のため先延ばしにしてきた徴兵検査は、軍医総監だった鷗外が裏で手を回し、徴兵免除となったのに、です。

明日、お披露目です。

オリジナル フレーム切手「高村光太郎と花巻」の販売開始および完成披露のお知らせ

日本郵便株式会社東北支社(宮城県仙台市青葉区、支社長 小野木 喜惠子)は、下記のオリジナル フレーム切手の販売を開始します。

このオリジナル フレーム切手は、生誕140年を迎える高村光太郎を題材としたもので、下記の郵便局で限定販売します。

商品名 高村光太郎と花巻 
販売/受付開始日 2023年3月13日(月)
販売/受付開始日(Web) 2023年3月15日(水)午前 0時15分
申込受付数 400セット
販売郵便局
 岩手県の花巻市,北上市,奥州市,和賀郡西和賀町,胆沢郡金ケ崎町内の郵便局(70局)
 ※上記地域内の簡易郵便局でも販売する場合があります。
商品内容 フレーム切手 1シート(84円切手×10枚) B5台紙 1枚
商品属性 店頭販売商品
販売単位 セット単位で販売します。
販売価格(税込) 1セット 1,690円
送料 「郵便局のネットショップ」でお取扱いする場合は、
   販売価格のほかに郵送料等が加算されます。

贈呈式
 日 時 : 2023年3月10日(金)午後 1時30分~
 場 所 : 花巻市役所 本庁舎本館2階 応接室
 受贈者 : 花巻市長 上田東一(うえだ とういち )様
 贈呈者 : 水沢大町郵便局長 齋藤一志(さいとう ひとし)
 備 考 : 当日は「完成披露」として実施いたします。
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光太郎肖像が切手になるのは、平成12年(2000)に発行された「20世紀デザイン切手」シリーズ第9集以来です。
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なお、4月2日(日)に日比谷松本楼さんで開催予定の第67回連翹忌の集いにご参加下さる方は、会場内で販売しますので、そちらでお求め下さい。あくまで参加者限定ということで、この切手だけ買いに来るというのはお断り申し上げます。

明日には花巻市役所で上田市長に贈呈式が挙行されるとのこと。報道されましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

実は磯部へ一寸遊びに行つたのだが、其の地形や宿が気に食はなかつた処へ、汽車の窓から赤城のあの裾野を引いた山の形を見て矢も楯もたまらず、とうとう磯部を一晩で御免蒙むつて、前橋で一泊して、二十五日の未明から郡役所の用達に荷を担がして大洞へ登つたのだ。


明治42年(1909)8月28日 水野葉舟宛書簡より 光太郎27歳

前月には3年半の欧米留学を終えて帰国した光太郎。留学前に何度も登った懐かしい赤城山に早速行きました。

今年も3.11が近づいて参りました。「あの日」から丸12年ですので、亡くなられた方々の十三回忌ということになります。その中には、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で「女川光太郎祭」を主催なさっていた貝(佐々木)廣氏も含まれます。

『毎日新聞』さん、2月19日(日)の記事から。女川町に建てられ、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」に関わります。

「記憶のない私は何もできない?」 母と向き合った14歳の決意

 宮城県石巻市立桃生(ものう)中学校2年の武田瑚白(こはく)さん(14)は、夏休みに書いた作文に胸の内をつづりました。まだ2歳だった「あの日」の記憶はほとんどありません。
 東日本大震災の発生から間もなく丸12年になります。この春からは小学校の全学年が「震災後生まれ」です。当時を知らない世代にも震災を身近な出来事と受け止めてもらい、将来の災害から命を守るためにはどうすればいいのでしょうか。
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  瑚白さんが生まれ育った石巻市は2011年3月11日の大震災で津波にのまれたり、避難生活で体調を崩したりして、約4000人が犠牲になりました。当時、暮らしていたアパートは津波の被害を免れ、両親とも無事でした。でも、隣町の女川町にあった母志乃さん(45)の実家は流され、同じ町に住んでいた曽祖父母や叔母らが亡くなりました。
 テレビで震災特集が始まると「見たくない」とチャンネルを変え、街に流れる防災サイレンの音を聞き「思い出す」と体をビクリと反応させる母。そんな様子を見て、いつしか「震災には、触れちゃいけないのかな」と思うようになりました。
 被災地の人たちは、日ごろから震災について語り合っているわけではありません。多くの人が心に傷を負っただけに「思い出したくない」「思い出させて、傷つけてしまうかもしれない」との不安があり、震災を話題にしづらい空気もあるのです。
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東日本大震災の津波で被災した宮城県女川町の実家跡地で長女瑚白さんと話す武田志乃さん

ありのままに伝えることで
 瑚白さんに昨年7月、転機が訪れます。それは桃生中の阿部一彦校長(56)が「より深く震災のことを理解するきっかけになれば」と初めて企画した社会科見学での体験でした。まずは海から約1キロにあり、教室などが黒焦げのままの石巻市立門脇(かどのわき)小学校の被災校舎を訪ねました。当時の惨状を語ったのは、伝承活動を支援する団体「3・11メモリアルネットワーク」の藤間千尋さん(44)です。
 3階建て校舎には1階天井に近い高さ約1・8メートルまで津波が襲いました。街では車のガソリンなどが流れ出して「津波火災」が起き、校舎も火災に。校内の児童224人と教職員は高台に避難し助かりましたが、下校した児童7人が犠牲となりました。
 震災の惨状をありありと語る姿に瑚白さんは「石巻で被災した人だろう」と思い込んでいました。でも藤間さんは神奈川県出身。1995年の阪神大震災の時、高校2年生で被災者の救援に駆けつけられなかった後悔がありました。そんな思いが背中を押し、震災後に石巻でボランティアを始めて移住した人でした。
 藤間さんは、被災者や語り部の体験に耳を傾け、その言葉や思いをありのままに伝えるよう努めたといいます。「経験していなくても伝えられることはある。みんなも伝える一人になって」との言葉が、瑚白さんの胸に刺さりました。
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門脇小学校の被災校舎前で藤間千尋さん(中央)の説明を聞く桃生中学校の生徒ら

「生きて戻ってきて」校長の言葉の意味
 その後、女川町立女川中学校(震災当時は女川第一中学校)の旧校舎の脇にある「女川いのちの石碑」を訪ねました。阿部校長は、震災時に社会科教諭としてこの中学に勤めていました。校内にいた生徒たちの命を守った一方、自宅に帰った生徒2人が犠牲になりました。学校再開後も生徒たちに街の様子を見せるか迷い教室のカーテンを閉めたこともありました。窓から見える一面のがれきの中で遺体を捜す人もいたからです。
 阿部校長は、教え子たちが「1000年後の人にも震災の教訓が伝わるように」と、この石碑を建てたことを説明。そして「命って一つしかない。一人一人の命が大事だよ」と力を込めました。桃生中で阿部校長は連休前の集会の時に「生きて戻ってきてください」と話していました。その言葉の意味が瑚白さんには実感をもって伝わってきたそうです。
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石巻市立桃生中学校の阿部一彦校長(右)から震災体験を聴く生徒たち。
後方にあるのが「女川いのちの石碑」

 「私たちは震災を経験した人から話を聞ける世代。被災した人の気持ちを100%理解できなくても『もっと知ろう』と聞くことで少しずつでも近づけるはずだ」。そう感じた瑚白さんは「少年の主張」大会に向けて作文に書こうと決め、震災体験を志乃さんに聞くことにしました。
 でも、志乃さんは戸惑います。「もう、あんな思いを誰にもしてほしくない」と経験を伝えたい気持ちがある一方、思い出したくない記憶でもあったからです。それでも、我が子が熱心に相談を持ちかける姿を見て「もう中学生だし、娘の手伝いができたら」と話すことにしました。
 震災直後、瑚白さんの妹の瑚志(こゆき)さん(11)の出産予定日が迫る中、女川の実家が跡形もなく流され、がれきの街で両親を捜し回ったこと。出産後は物資不足でミルクさえ手に入らずに不安だったこと……。話したことで心が少し整理され「私も前を向かなきゃ」と思えたそうです。
 志乃さんはこうも言います。「震災を経験したからこそ簡単には伝えられないこともある。『責任を持って伝えたい』という娘の姿は頼もしく、娘たちが体験者の話を心で受け止めたことを、年の近い世代に伝える方が響く気がします」
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火災が発生した住宅街=宮城県石巻市で2011年3月11日

「命のバトンを終わらせたくない」
 桃生中では、昨夏の社会科見学後、昼休みや放課後を利用した自主学習活動に、「いのちの大切さを考える会」が加わりました。瑚白さんはリーダーを務めています。震災後生まれの最初の世代である妹に、いつか自分の言葉で語り継ぐことが目標になったそうです。作文の最後にはこう書きました。<命のバトンを、絶対にここで終わらせたくない>
 被災地では、災害を体験した人たちが、その記憶や教訓を伝える「語り部」をしています。当事者の声は心に訴える力があり、各地の震災遺構や伝承施設で聞くことができます。被災地に足を運べなくても、文部科学省の「学校安全ポータルサイト」で、若い語り部による「東日本大震災の教訓を語り継ぐ動画教材」が見られます。
 文科省は12年に閣議決定された「学校安全の推進に関する計画」で、東日本大震災では徹底した防災教育により危険を免れた学校などがあったことに触れています。その上で「地域で語り継がれてきた災害教訓の中には、地域の特性によらない普遍的な内容も含まれており、それを受け継いでいく中から具体的な対策が見いだされることもある」として、児童・生徒らによる語り継ぎが重要だと指摘しています。
 被災地では学校で「語り継ぎ」を進める取り組みも始まっています。宮城県気仙沼市立鹿折(ししおり)中学校は、生徒が震災を体験した地域の人たちにインタビューした内容をまとめ、地元の小学生や大人たちに発表。生まれる前の災害でも、身近な人に聞くことで自分のことと捉えやすくなります。
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津波で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町の街を歩く人たち=2011年3月14日

「誰でも語り継げる」
 02年度に開設された兵庫県立舞子高校の環境防災科で、初代科長を務めた諏訪清二さん(62)=防災教育学会会長=は「1期生は阪神大震災があった時、まだ小2でした。授業で『語り継ぐ』をテーマに作文の課題を出したところ、親に初めて体験を聞いた生徒も多くいました。語り継ぐ役割を親だけに期待せず、学校がきっかけを作り、自然と親子で語らうことが大事です」と言います。
 その上で、学校教員に対しても「自分は経験していないからと引いてしまうのではなく、先生も、生徒も『誰でも語り継げるんだ』ということを一緒に学んでほしい」と話します。

12年が経とうとし、震災を直接知らない世代が増える中、いかに伝えていくかというのは本当に大切な課題ですね。

【折々のことば・光太郎】

五月十五日に倫敦からこの阿波丸にのり込んで今は地中海の上に居る。七月一日頃神戸着の由。二ヶ月間のうちには君にも会へる訳である。碧い空と紫の水とを見て愉快に日を送つて居る。


明治42年(1909)5月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎27歳

明治39年(1906)2月に横浜を出航し、カナダのヴァンクーヴァーから大陸横断鉄道でニューヨークへ。翌年には豪華客船オーシャニックでロンドンに。さらにその翌年、英仏海峡を渡ってパリ。それぞれの都市で約1年ずつを過ごし、最後はおよそ1ヶ月間のイタリア旅行。3年余りの留学も終わりを告げ、ぐるりと地球を一周して日本に帰ります。

昭和48年(1973)竣工で、智恵子の紙絵を原画として使用した巨大壁画をもつ神戸文化ホールさんにつき、仙台に本社を置く『河北新報』さんが取り上げています。
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東京エレクトロンホール宮城(宮城県民会館)さんの移転にともなう跡地利用等の問題の参考に、というコンセプトの記事ですが。

存続求める根強い声<Re 杜のまち 他都市の「跡地」(中)神戸・文化ホール>

 仙台市青葉区から移転することが決まっている東京エレクトロンホール宮城(宮城県民会館)の跡地活用に注目が集まる。杜の都を象徴する定禅寺通から消えるにぎわいの拠点。「その後」を一体どうするのか。公的施設の老朽化に直面し、まちの再構築に取り組む他都市に学ぼうと、広島、神戸、秋田3市の現場を歩いた。
 視線の先に巨大なアジサイの壁画が現れた。高村智恵子作の紙絵がモチーフで、高さ10メートルを超える。9月で開館50年を迎える神戸市の神戸文化ホールの象徴だ。
 年間45万人が利用する音楽や演劇の拠点だが、2017年に移転話が浮上。市は「30年度以降」をめどに、中心地のJR三ノ宮駅前に大・中ホールを移す。ただ跡地は建物を解体するか、残すかも含めて検討が始まっていない。
 訪れたのは1月下旬。地域の人が跡地についてどう考えているかを聞こうと、向かいのラーメン店に入った。ホール利用者やコンサートの観客が大勢来店するそうで、店の休みは休館日に合わせている。
 「ホールのように人が集まる施設であればいいが、どうなるのだろう」。父の代から約20年、この地で営業する大谷祐己さん(40)は影響を測りかねていた。
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■にぎわいづくりに軸足
 市は移転理由の一つに施設の老朽化を挙げる。18年には劣化した天井の板が落下するなどしたため、3カ月の休館に追い込まれた。
 運営する市民文化振興財団常務理事の須藤晃司さん(55)は「幸いけが人はいなかったが、移転するまで気を抜けない」と言う。
 海外オーケストラの公演会場だった文化ホールでは近年、兵庫県内に大型ホールが複数できたこともあって、中高生の部活動や市民サークルが成果を発表する機会が増えた。
 隣の公園は演奏会の時、練習や昼食の場所として定着した。「移転する都心部に、こういう所があるだろうか」。須藤さんは不安を口にした。
 移転先の環境はどうか。大ホールが移る中央区役所などの跡地は、建物の解体工事が進んでいた。西側の土地には中ホールが移転する。ともに交通量の多い国道2号に面した一等地。屋外で練習するのは難しいだろうと率直に感じた。
 市は新ホールを「国際都市にふさわしい芸術文化施設」と位置付け、新バスターミナルや商業施設、オフィス棟、図書館、ホテルとの複合施設にする方針。
 「ホール移転は都心部再整備の目玉。来た人が周辺も歩く回遊性を持たせたい」。市文化交流課の担当者の説明を聞き、移転計画は街中のにぎわいづくりに軸足を置いていると思った。
 市の方針に、県内の文化芸術団体の関係者らでつくる市民団体「神戸をほんまの文化都市にする会」(神戸市)は異を唱える。
 代表の竹山清明さん(77)は「中途半端に造っても大阪に都市間競争で勝てない。文化芸術活動を活発にするため、現ホールを改修して、市民向けに開放するべきだ」と存続を求める。
 都心部のにぎわいか、市民や生徒らの活動の場の確保か-。
 神戸文化ホールの移転計画は、まちづくりの重要な課題を示している。50年の歳月が培った文化は地域に根付く。仙台市青葉区の東京エレクトロンホール宮城(宮城県民会館)の跡地活用を検討する際も、その視点を忘れてはならない。

[神戸文化ホール]2017年に大規模改修ではなく、建て替えを前提に検討する方向性をまとめた。現在の大ホール(2043席)と中ホール(904席)をJR三ノ宮駅前の再整備地区に移転し、多目的の大ホール(約1800席)と音楽や演劇に対応する中ホール(約700席)とする。市が21年8月に改定した整備計画で、跡地活用の記載は「全市的な視点により再整備の検討を進める」などにとどまる。

色即是空、諸行無常。形あるものはいずれ無に返るものではありますが……。

ところで、別件ですが、智恵子つながりでテレビ番組の再放送情報。もう今夜のオンエアです。

おかしな刑事〜居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査

BS朝日 2023年3月7日(火) 19:00〜20:54

「東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!」▽テレビ朝日系列で2011年に放送された第8シリーズ。

ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田”という名字が気にかかり…

◇出演者
伊東四朗、羽田美智子、石井正則、小倉久寛、辺見えみり、山口美也子、木場勝己、小沢象、丸山厚人、菅原大吉 ほか
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初回放映時のサブタイトルが「地上333メートルの殺意!! ホームレスが隠した事件の謎!? 安達太良山で待ち受ける真実!! 『智恵子抄』に秘められた想いとは…」。

つい先月20日にも地上波テレ朝さんで再放送があったばかりですが……。ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

僕は来月あたり船にのりこんで帰途につくかも知れない。金の都合で一寸わからない。

明治42年(1909)4月27日 水野葉舟宛書簡より 光太郎27歳

その言葉通り、5月15日にはいったんパリからロンドンに渡り、テームズ河口から日本郵船の阿波丸に乗って帰国の途に就きます。

モデルの指の動き一つすらその真意を了解不可能な西欧に居続けるより、早く帰って日本に新しい芸術を根付かせる魁けたらんという決意、さらには徴兵検査を先延ばしにしていたことも理由の一つです。

3月2日(木)付けの『読売新聞』さん東京版から。

光太郎先輩「手」作ったよ 卒業前の小6夢を実現 荒川の母校

000 荒川区立第一日暮里小学校6年の児童が、同小OBで詩集「智恵子抄」などで知られる詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)によるブロンズ像の「手」をモチーフにした作品づくりに挑戦した。卒業を間近に控えた子供たちは、紙粘土などを使って思い思いに将来の夢や目標を形に表現していた。
 現在の台東区で生まれた高村は1890年に同小に転入し、卒業までの約2年間を過ごした。同小は創立100周年を迎えた1985年、高村が晩年暮らした岩手県の小学校に贈った「正直親切」と言う言葉を校訓に採用しており、東側の校門前には校訓を彫った記念碑も建てられている。
 同小では毎年3学期に「先輩光太郎に学ぶ」と題し、6年生の児童が高村の生涯や作品を調べる卒業学習に取り組んでいる。「手」は高村が欧米留学から帰国後の18年に制作したもので、児童らは昨年9月に東京国立近代美術館(千代田区)で見学していた。
 2月27日に行われた作品づくりには児童24人が参加。手の形に曲げたアルミの棒に紙粘土で肉づけするなどし、約3時間かけて完成させた。人さし指で天を示す形に「部活動で活躍したい」という思いを込めたりし、多彩な作品がそろった。
 何かをつかもうとする形に仕上げたという小沢羽子(はね)さん(12)は将来、保育士になりたいといい、「困難なことがあっても努力を続け、夢をつかみたい」とできばえに満足そうだった。


記事には記述がありませんが、同小に隣接する太平洋美術会さん(かつて智恵子が所属し、油絵を学びました)がご協力なさり、指導に当たられたとのこと。「おお、まだ続けて下さっているのか」と思いました。平成30年(2018)、この授業を見学させていただきましたので。ちなみにこの年には別の授業でゲストティーチャーを務めさせていただいたりもしました。

調べてみましたところ同小の学校便り「正直親切」の今月号にも紹介されていました。ところが昨年、一昨年のそれには記述が見当たらず、やはりコロナ禍の影響もあって数年ぶりの実施だったのかなと思いました。

記事にある「「先輩光太郎に学ぶ」と題し、6年生の児童が高村の生涯や作品を調べる卒業学習」。「手」の制作もその一環ですが、調べ学習でのレポートの制作もすばらしいものがあり、今後も継続していただきたいものですし、全国の学校さんで参考にしていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

金が無くなつたから帰つて来たり。帰つて来たら君の葉書が来て居た。


明治42年(1909)4月26日 津田青楓宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行、さすがに懐が保たなかったようです。

淡交社さん発行の『月刊なごみ』。女性向け茶道の雑誌です。早稲田大学名誉教授にして国語学者の中村明氏の連載「手紙の風景 作家のセンスを学ぶ」という連載が為されており、今月号は「弥生の便り 高村光太郎から北原白秋へ」。ちなみに表紙は牧瀬里穂さんです。
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大正2年(1913)3月23日の光太郎書簡の一節が紹介されています。

全文は下記の通り。『高村光太郎全集』に掲載されていました。『なごみ』には色を変えた部分が引用され、中村氏の解説がついています。

大変御無沙汰いたして居ります 先日は「桐の花」を御送り下さつてほんとにうれしく存じました 私達の命は日に日に歩んでゆきます 其故周囲に対する心も日に日に移り変つてゆきますが あなたの芸術に接すると不思議に私の心は如何なる時にも動揺を感じます そしてあなたも(恐らくは)自覚なさらない或る大きな力が私の命に手をかけます 私はいつでもあなたの芸術の尊敬者であり得る事を喜んで居ます もう春が来ました あなたの御健康を心から祈ります 三月二十三日 高村光太郎 北原白秋様机下

白秋の第一歌集『桐の花』の受贈礼状です。巻紙に墨書されています。ちなみに『桐の花』、最初の一首が有名な「春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕」です。

光太郎と白秋、与謝野夫妻の『明星』以来、さらに光太郎が欧米留学から帰国した直後の「パンの会」などでの付き合いでしたが、光太郎は明治44年(1911)には白秋の詩集『邪宗門』の第二版の装幀、挿画を手がけたり、その後も折に触れ、白秋に関わる文章を執筆したりしています。もちろん昭和17年(1942)に白秋が亡くなった際も追悼文を複数書いています。

短歌も。

白秋がくれし雀のたまごなりつまよ二階の出窓にてよめよ

雀のたまご」は本当の卵ではなく、大正10年(1921)に刊行された白秋の歌集『雀の卵』です。上記『桐の花』同様、白秋から贈られた際に、礼状としてこの短歌のみをしたためて返礼としました。粋ですね(笑)。「つま」はもちろん智恵子です。「二階の出窓」は駒込林町の自宅兼アトリエのそれでしょう。

他にも『高村光太郎全集』には、計23通の白秋宛書簡が掲載されています。そのうち21通は明治末から大正末までのもの。明治45年(1912)3月の葉書には、光太郎の自画像も描かれています。
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光太郎、白秋ともども「パンの会」の主要メンバーだった木下杢太郎の戯曲『十一人の偏盲』にふれたものです。杢太郎、この中で光太郎を「二十四歳。また極めて穎悟にして才学あり。諸国の語に通じたれども、黠詐の性格にして一事に固執し難く且自らを優良に観せむとする不断の懸念あり。体格長大にして白皙の美男子。言語動作も亦円滑にして、往々婦女の如き媚容を為す」とおちょくっています。そこで「こん度杢さんに会つたらポカリとひとつ頭をぶたうと思つてます」。

文豪達の若き日の微笑ましい交遊のさまが見て取れますね。

その後、期間が空いて昭和4年(1929)が1通、同15年(1940)で1通です。昭和に入ると光太郎と白秋、それまでより疎遠になったのでしょうか、それとも見つかっていないだけで、まだまだ白秋宛書簡、何処かに眠っているのでしょうか。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

さて、『なごみ』3月号、ぜひお買い求めを。電子版もあるそうです。

【折々のことば・光太郎】

羅馬よりナポリに遊びに参り候。明日はヹスヸオ登山の積り。ホテルの窓より見れば暗き夜の空に大きなる篝火を焚き居る如き火の山に候。明日の好運を祈りて寝ね申すべく候。


明治42年(1909)4月15日 与謝野寛宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行も終盤です。「ヹスヸオ」はヴェスヴィオ山。活火山です。書簡の通り、登ったのかどうかは不明なのですが、およそ40年後の昭和23年(1948)に書かれた詩「噴霧的な夢」では、亡き智恵子とこの山に登った夢を見たことが記されています。曰く「あのしやれた登山電車で智恵子と二人、/ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。/夢といふものは香料のやうに微粒的で/智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。/ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは/ガスの火が噴射機(ジエツト・プレイン)のやうに吹き出てゐた。

新刊です。

びじゅチューン!DVD BOOK 7

2023年2月27日 井上涼+NHK びじゅチューン!制作班 小学館発行 定価2,970円(税込)

アーティストの井上涼が、古今東西の有名な美術作品をモチーフに作詞、作曲、歌唱、アニメーション制作のすべてを手がけるユニークなテレビ番組「びじゅチューン!」(NHK Eテレ)。「鶴下ウェイ」から「検証・モネの筆」まで最新の17曲を収録した、待望のDVDBOOK第7弾が登場!

●DVD
「書記に必要なギャルの精神」「スタイリングbyキトラ」などの人気作品を含む新曲全17曲を、スタジオ解説・うた(コーラス・バージョン)・カラオケ付きで収録。

特典映像1 ワンポーズクリエイターR外山晴菜による振り付け映像「おどってみよう!『老猿は主役じゃなくても』

特典映像2 『MIXびじゅチューン!』3タイトル 「西暦1500年をつなげる」「春は世界にあふれてる」「シルクロードをたどる」

●BOOK
収録曲の制作のひみつ、テーマになった美術作品解説を掲載。井上涼の手書きの創作企画書や、細かな作り込みの裏話など、徹底取材に基づく情報がズラリ。さらに、コーラスの解説記事、「おどってみよう!ポイント解説」、「MIXびじゅチューン!」収録密着取材記事など特集も盛りだくさん。

もくじ
 01. 鶴下ウェイ
 02. 書記に必要なギャルの精神
 03. 玉虫の家庭教師が玉虫厨子
 04. スパイゴッデス
 Making of びじゅチューン!① 「MIXびじゅチューン!」収録現場に潜入!
 05. アルノルフィーニ夫妻のベルト防衛戦
 06. 焔のお習字教室
 07. 銅鐸仮面舞踏会
 08. 葉が地に着くその前に
 Making of びじゅチューン!② 吉岡弘行さんに聞きました! 音楽とコーラスのひみつ
 09. 海の幸のチューン
 10. 猫の手もアダムの手も借りたい 
 11. バベルの塔にカフェOPEN
 12. 老猿は主役じゃなくても
 おどってみよう! ワンポーズクリエーター外山晴菜レッスン♪
  「老猿は主役じゃなくても」ふりつけガイド

 13. スタイリングbyキトラ
 14. 染める蛇使い
 15. 土偶迷路
 16. 窓ごしの孔雀明王
 17. 検証・モネの筆
 井上涼のことば
 作品が収蔵されている〈美術館・寺院・博物館〉ガイド 美術作品を観に行こう!
ふろく
 びじゅチューン! キャラクター大集合図鑑シート

〈 編集者からのおすすめ情報 〉
大人気「びじゅチューン!DVDBOOK」シリーズ、待望の第7弾!今回の特典付録は、びじゅチューン!のキャラが大集合した図鑑シート。大人も子どももぜひ手にとってくださいね!
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NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」で放映された作品をまとめたDVDブック、第7弾です。

昨年1月に初回放映のあった「老猿は主役じゃなくても」が収録され、しかも表紙を飾っています。
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DVDでは、テレビ版本編に加え、特典映像的に「おどってみよう! 老猿は主役じゃなくても」。
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BOOKには本編の解説や、「おどってみよう! 老猿は主役じゃなくても」の振り付けガイド。

さらに特典付録は「びじゅチューン! キャラクター大集合図鑑シート」。
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「老猿」、そして平成30年(2018)に放映され、『びじゅチューン! DVDBOOK 5』に収められている「指揮者が手」の「手」も。
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さらにAmazonさんで購入すると、Amazonさん限定特典で「オリジナルビッグぬりえシート」も付いてきます。
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ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

幾年もの間写真に見てゐた「カペラ、シスチイナ」のミケランジエロの例の壁画を今朝はじめて見た。たゞ驚いて仕舞つた。今日一日実に愉快に日が送れる。

明治42年(1909)4月7日 水野葉舟宛書簡より 光太郎27歳

「カペラ、シスチイナ」はシスティーナ礼拝堂、「ミケランジエロの例の壁画」は「天地創造」。「壁画」というより天井画ですが。
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日本人で実物を見たのは、光太郎が初めてに近いのではないかと思われます。

今日は3月3日、桃の節句ですね。

智恵子の故郷、福島二本松の『広報にほんまつ』今月号から。

ひとつひとつに想いを込めてつくる つるし雛かざり

 子ども達の健やかな生長を願って手作りでひとつひとつ作られるつるし雛。市内各所で「おひなさま」や「つるし雛かざり」が飾られます。

 大平地区で活動している「ゆんたく」。平成22年に「手芸サークルをやりたいね」と話していたところ、翌年3月に東日本大震災が発生。大平地区にも多くの方が避難するようになりましたが、その年の秋に、浪江町の方も一緒に「手芸ボランティアサークル『ゆんたく』」として活動を始めました。
 活動としては、手芸のほか、社会福祉協議会の配食サービスに併せてプレゼントをしたり、地元の小学生に「ぞうりストラップ」をプレゼントしたりと、自分たちも楽しみを持ちながら「半分ボランティア半分たのしみ」として活動しています。
 つるし雛かざりは、半年ほど掛けて作っていきます。毎月集まって作り方を学び、翌月までに、宿題のようにつるし雛作りを進めてきます。
 桜まつりや曼珠沙華まつりの時期には、安達ヶ原ふるさと村の古民家にも、このつるし雛が飾られ、訪れる観光客の皆さんの目を楽しませてくれています。
 今年のテーマは「智恵子の折り鶴」。毎年テーマを決めていて、多い人では、今年で12個目のつるし雛かざりになります。大平住民センターでは、廊下や階段に、見る人を圧倒するほどたくさんのつるし雛が飾られます。
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今年のつるし雛かざりのテーマは?
 今年のテーマは、震災からの復興と新型コロナウイルスの収束を願って「智恵子の折り鶴」です。智恵子が病院で多くの紙絵を作成していた時、夫の光太郎は病院に多くの折り紙を差し入れ、また、智恵子もたくさんの鶴を折りました。そんな智恵子が愛した二本松、青い空を大平からご覧ください。
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楽しいところは?
 みんなで集まる機会があるのがよいところだと思います。コツコツと裁縫をしながらも、和気あいあいとした雰囲気でやっています。ひとりだとなかなかできないと思いますが、みんなでやるから何とかできています。つるし雛のほかにバッグなんかも楽しく作っています。
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難しかったところは?
 コロナの影響で、活動自体が難しい時期もありました。それでも、集まりを2部制にしてみたり、いろんなコロナ対策をしてみたりして、続けています。
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見てもらいたいところは?
 毎年、その年のテーマに向かって頑張って作っています。そうしてできあがったつるし雛をみなさんに見てもらうことが楽しみです。

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二本松市内では、各所でつるし雛かざりが為されているそうですが、そのうち、智恵子生家/智恵子記念館さんにほど近い大平地区の大平住民センターさんでは、「智恵子の折り鶴」をテーマにしたつるし雛かざりだそうです。

南品川ゼームス坂病院での智恵子、有名な紙絵制作を始める前、最初は折り鶴作りから始めたそうです。光太郎の随筆「智恵子の切抜絵」(昭和14年=1939)から。

 精神病者に簡単な手工をすすめるのはいいときいてゐたので、智恵子が病院に入院して、半年もたち、昂奮がやや鎮静した頃、私は智恵子の平常好きだつた千代紙を持つていつた。智恵子は大へんよろこんで其で千羽鶴を折つた。訪問するたびに部屋の天井から下つてゐる鶴の折紙がふえて美しかつた。そのうち、鶴の外にも紙燈籠だとか其他の形のものが作られるやうになり、中々意匠をこらしたものがぶら下つてゐた。すると或時、智恵子は訪問の私に一つの紙づつみを渡して見ろといふ風情であつた。紙包をあけると中に色がみを鋏で切つた模様風の美しい紙細工が大切さうに仕舞つてあつた。其を見て私は驚いた。其がまつたく折鶴から飛躍的に進んだ立派な芸術品であつたからである。私の感嘆を見て智恵子は恥かしさうに笑つたり、お辞儀をしたりしてゐた。

他にも道の駅「安達」智恵子の里さん、安達ヶ原ふるさと村さんなどでも、それぞれに地元の皆さんが手間をかけて作られたつるし雛かざりが展示されているとのこと。
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ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに自宅兼事務所の雛かざり。自分のために出してあると勘違いしているやつが毎年よじ登ります(笑)。
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【折々のことば・光太郎】

旅は面白きものなり。僅か日の一旬あまりに過ぎざるに我の見、遇ひ、考へ、感じたる事の何ぞ多き。 今日羅馬に来れり。此処に暫く停まらん。


明治42年(1909)4月4日 山下新太郎宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行中、留学仲間の画家・山下新太郎に宛てた絵葉書から。

新知見を得られる旅の醍醐味を見事に言い表していますね。




動画配信を予定しているというので、それがアップされたら一緒に紹介しようと思っていたのですが、遅れていますので、見切り発車です。先月、花巻市で開催された「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」の報道を。

まず、仙台に本社を置く『河北新報』さん。

高村光太郎はなぜ岩手・花巻へ? 研究家ら対談、宮沢賢治との関連探る

  詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と宮沢賢治(1896~1933年)とのつながりを考える対談「なぜ光太郎は花巻に来たのか」が14日、岩手県花巻市のなはんプラザであった。
 東京を拠点に顕彰活動をする「高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」代表の小山弘明氏(58)と、賢治の弟清六さんの孫でカフェ林風舎(花巻市)社長の宮沢和樹氏(58)が登壇。手記や作品を基に、光太郎と賢治との出会いや互いの印象を紹介した。
 東京大空襲でアトリエを失った光太郎は1945年、賢治の実家に疎開。防空壕(ごう)をつくるよう助言した。和樹氏は「清六は避難に備えて、賢治の原稿や手紙をまとめた。資料が残っているのは光太郎の助言があってこそだ」と語った。
 同年の花巻空襲で宮沢家が焼失した後は花巻市太田に山荘を構え、7年半の隠居生活を送った。小山氏は、光太郎が戦意高揚の詩を創作したことに触れ「多くの若者を犠牲にさせたことに後悔し、自ら罰を与えたのではないか」と推察した。
 対談は光太郎の生誕140年を記念し、太田地区振興会が主催。市民約200人が参加した。
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続いて『岩手日報』さん。

花巻での光太郎追う 生誕140年記念対談講演会

 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は14日、同市大通りのなはんプラザで高村光太郎生誕140年記念事業・対談講演会「なぜ光太郎は花巻に来たのか」を開いた。
 約200人が参加。彫刻家で詩人の光太郎(1883~1956年)を研究する小山弘明さん(58)=千葉県=と宮沢賢治(1896~1933年)の実弟・清六さんの孫で林風舎代表取締役の宮沢和樹さん(58)が対談した。
 光太郎が宮沢家を頼り同市に疎開し、宮沢賢治全集の出版に助力した逸話などを当時の写真も用いて説明。和樹さんは「光太郎先生が(宮沢家の)自宅に防空壕を設けるアドバイスをしたことで、原稿などが花巻空襲を免れた」と紹介した。
 光太郎が花巻で過ごした7年について、小山さんは「戦争に加担する詩を書いた自らを罰する気持で山荘にこもったのではないか」と持論を述べた。
 同市太田の阿部正文さん(73)は「光太郎先生と幼少の頃に会った記憶がある。名作が世に出る秘話が知れた」と満足した。

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『岩手日日』さん。

宮沢賢治との逸話披露 高村光太郎生誕140年記念講演 

  花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)による講演会「なぜ光太郎は花巻に来たのか」は14日、同市大通りのなはんプラザで開かれた。高村光太郎生誕140年記念事業として初めて開催され、市民ら約200人が来場。高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表(58)と、宮沢賢治の弟清六の孫で林風舎代表取締役の宮沢和樹さん(58)が、賢治と光太郎が知り合うきっかけや逸話を披露した。
 光太郎は1945(昭和20)年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に賢治の実家を頼り花巻に疎開。終戦後は旧太田村山口の山小屋で約7年間、独居自炊の生活をしながら住民と交流した。
 詩人・草野心平が光太郎に賢治の存在を伝えたことが交流のきっかけになったという。賢治が上京した際、アポイントなしで光太郎のアトリエを訪れたが、小山代表は「(光太郎は)仕事が忙しく、明日また来てくれといって賢治はすぐに帰った。次の日に賢治は来なかった。光太郎もいきなり賢治が訪問してきて、面を食らったのではないか」と推測した。
 光太郎は賢治の実家に疎開した際に、清六に「日本中に爆弾を落とされてもおかしくない。防空壕(ごう)を作るべき」と提言したという。和樹さんは清六に語られた話を思い出しながら「防空壕があったおかげで原稿が戦火から免れた。光太郎先生が祖父に提言しなければ、全て焼けてしまっていた」と説明した。
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動画配信が為されましたら、また改めてご紹介させていただきます。

【折々のことば・光太郎】

今日羅馬に来りたり。古羅馬の偉大なりしを想見して驚かざるを得ず。


明治42年(1909)4月4日 高村道利宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行中、すぐ下の弟・道利に宛てた絵葉書から。この葉書は昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎、海を航る」で展示されました。
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京都と岡山から音楽公演の情報を。

まず京都。

東日本大震災復興支援ライブ「琵琶もの語り」

期 日 : 2023年3月4日(土)
会 場 : Caffe flook 京都市西京区大枝西長町7-21
時 間 : 15:00~
料 金 : ワンオーダー&投げ銭(義援金)

演 奏 : 宇佐美周子(筑前琵琶)

演目は本曲より「関ヶ原」、高村光太郎詩「雪白く積めり」。

演奏は3月で京都は梅が咲き陽光も春っぽい頃ですが、今年の1月に京都(にしては)も大雪に見舞われました。冬が好きで花巻に関連のある高村光太郎を紹介するなら今回!という思いです。

皆様のお越しをお待ちしております。
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筑前琵琶の演奏で、光太郎詩「雪白く積めり」。原詩は昭和20年(1945)、光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に移った最初の冬に書かれた作品です。オリジナルの曲が付けられているのでしょう。
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奏者の宇佐美周子さんという方、花巻の宮野目地区ご出身だそうで、彼の地で市民講座講師などもなさったことがおありとのこと。そういう関係もあって「東日本大震災復興支援」と冠されているのだと思われます。

右は『広報はなまき』令和元年(2019)10月号より。

当方、琵琶の生演奏は一度だけ拝聴したことがあります。もう6年前になりますが、千葉県の柏市で開催された「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」でのことでした。

偶然ですが、その際に大久保光哉氏という方が歌われた「智恵子抄三章」という歌曲がプログラムに入った演奏会が岡山で開催されます。

佐々木英代の日本のうた講座【最終話】第30話 岡山の作曲家と歌手の選んだ名曲編

期 日 : 2023年3月5日(日)
会 場 : 天神山文化プラザ 岡山市北区天神町8-54 
時 間 : 13:30~
料 金 : 一般1,000円 中学生以上、学生500円 小学生以下無料

「日本のうた」の隠れた名曲や、知らなかった秘密を解き明かすおはなしを楽しむレクチャーコンサート。2008年から始まったシリーズの最終話となる今回は、岡山の作曲家から、米倉由起、青木省三、上岡洋一の3人をご紹介します。聴きどころや、作曲家の身近なエピソードを交えながら生演奏でお届けします。音楽が好きな方はもちろん、どなたでもお気軽にご参加ください!

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フライヤー等に演奏曲目が入っていないのですが、中国二期会理事長でテノール歌手の松本敏雄氏が「智恵子抄三章」を歌われるそうです。

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

ダンテ、ヸンチ等の曾て吸ひし空気の中に来りたる事を思ひて嬉しきこと限りなく候。 フイレンツエは美しき街、なつかしき街に候。街ゆく女の美しさはヹニスとは又異りて、風俗の都めきたるが心を惹き申し候。女の美しき街ならでは世に美しき街は有之まじく候。


明治42年(1909)4月1日 与謝野寛宛(推定)書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行。ダンテやダ・ヴィンチが居た街としてフィレンツェをほめ、さらに道行く女性の美しさに鼻の下を伸ばした光太郎でした(笑)。一転、3ヶ月後に帰国した日本では、日本女性に失望させられます。

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