2023年01月

光太郎第二の故郷・岩手花巻からの情報を2件。

まず花巻市役所さんから、新たに高村光太郎記念館さんのPR動画を作成したというお知らせを頂きました。

2分足らずの短いもので、早速拝見。
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「山口山の四季」と題されていました。「山口山」は光太郎が蟄居生活を送っていた山小屋(高村山荘)裏手の山です。そこから先が奥羽山脈、まさに「山口」です。

この地で光太郎が書いた詩「案内」(昭和25年=1950)、「山のともだち」(昭和27年=1952)に乗せて、四季折々の画像。
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いい感じですね。

リンクを貼っておきます。ぜひご覧下さい。



もう1件。

去る1月29日(日)に開催された「令和4年度高村光太郎記念館講座 光太郎のそば粉おやつ教室」の画像等も届きました。

人が集まるかな、と心配していたのですが、杞憂に終わったようで、5組の親子12名様がご参加下さったそうです。
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講師を務められたやつかの森LLCさんの方からのメールの一節。

子供達は、材料の計量に慎重な手つきで、お母さんたちが見守ります。粉袋フリフリ、卵、ヨーグルト、コメ油混ぜ混ぜ、それを合わせてモミモミ。カップに絞り、ブルーベリーのトッピング。そば粉の焼パンは、光太郎レシピでおなじみのそば粉にみそ、重曹を入れてフライパンで焼くところを見学し、バターと黒蜜をかけて試食しました。そば粉の香ばしい香り、もちもちした食感と想像を超えたおいしさに皆さん感動した様子でした。これをきっかけに光太郎に興味を持ったというお母さんの言葉に、私たちは嬉しい気持ちでいっぱいになり、まだまだ頑張れる元気をもらいました。

こういうアプローチもありですね。継続しておこなっていただきたいものです。

明日も花巻系の情報をお届けします。

【折々のことば・光太郎】

小生の駄作今更紙面を汚したるを悔みて慙汗とゞめがたく候。


明治37年(1904)10月30日 与謝野寛宛書簡より 光太郎22歳

光太郎の短歌も載った雑誌『明星』の受贈に対する礼状の一節です。4年前の明治33年(1900)から断続的に光太郎短歌が誌面を飾っており、そこで「今更」。

色鉛筆と思われる絵が描かれています。
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こちらも現在、25万円で売りに出ています

昨日は都内に出ておりました。

まずは「龍星閣がつないだ夢二の心―『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点―」を拝見。『智恵子抄』初版版元の龍星閣主・澤田伊四郎と竹久夢二にスポットを当てた展示で、『智恵子抄』関連の展示はないだろうと思いこんでおりましたところ、「いや、あるよ」という情報をご提供いただきまして、伺った次第です。

会場の日比谷図書文化館さん。
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連翹忌の集いの会場としてお借りしている日比谷松本楼さんと同じく、日比谷公園内にあり、松本楼さんを横目に見ながら参りました。ちなみに今年4月2日(日)には、4年ぶりに連翹忌の集いを開催する予定で、会場は押さえてあります。詳細はまた後ほど。
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会場内、撮影可でした。

メインは龍星閣さんから千代田区さんへ寄贈された夢二作品でしたが、その前段的に、出版人としての澤田の紹介がなされ、『智恵子抄』を世に出したことにも触れられていました。
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『智恵子抄』の各種の版とともに、光太郎から澤田宛書簡も。
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平成30年(2018)、龍星閣さんから同町に光太郎関連資料が大量に寄贈された中に含まれるものでした。

図録も販売されており、このあたりも記述があります。1,500円也です。
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その後、メインの夢二関連。
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大正期に人気を博した夢二ですが、昭和に入って、戦中・戦後すぐまでは一旦、忘れられかけていたとのこと。その夢二を再発掘したのが澤田だそうで、「夢二をやる。ブームにしてみせる。見ているがいい」と、語り、画集の出版などでそれを実現させました。

それにしても、出品点数が実に多く、入場無料なのでもっと小規模な展示かと思っていたのですが、あにはからんや、でした。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

またまた老大家諸先生の御勉励には実に小生ら感憤いたさんずれば無之候。評判の象評判の如くにて候 小生らは偏に感心仕候


明治33年(1900)9月25日 加藤景雲宛書簡より 光太郎18歳

加藤景雲は光太郎の父・光雲の高弟の一人。後にこうした先輩やアカデミズム系の彫刻家の作品をけちょんけちょんにディするようになる光太郎ですが、この頃はまだ筆鋒おだやかです。

「象」は「像」の誤りでしょう。あるいはこの頃は「像」という表記がまだ確立していなかったのかも知れません。

この書簡、現在、売りに出ています。値段は88万円也です。
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宮沢賢治研究家としても有名であらせられた、詩人・仏文学者の天沢退二郎氏の訃報が出ました。

共同通信さんの配信記事から。

詩人の天沢退二郎さん死去 宮沢賢治研究、バタイユ翻訳

  フランス文学者で宮沢賢治の研究でも知られる詩人の天沢退二郎(あまざわ・たいじろう)さんが25日午後7時35分、千葉市稲毛区の病院で死去した。86歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。喪主は妻でイラストレーターのマリ林(まりりん)さん。
 幼い頃から宮沢賢治の作品に親しみ、「校本宮沢賢治全集」の編著に関わった。宮沢賢治学会の代表理事も務め、少年少女のための小説「オレンジ党」シリーズなども執筆した。
 詩集で藤村記念歴程賞、高見順賞などを受賞。ジョルジュ・バタイユやアンリ・ボスコの翻訳も手がけた。

天沢氏、賢治と光太郎についても言及していらっしゃいました。

昭和44年(1969)筑摩書房発行の『現代日本文学大系』第27巻の月報に「光太郎対賢治」と題し、大正15年(1926)の光太郎賢治の最初にして最後の出会いについて等。こちらはのち「《出会い》のななめ背後に」と解題・加筆されて、昭和53年(1978)、思潮社発行の『現代詩読本 高村光太郎』に収められました。
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また、平成8年(1996)にはやはり筑摩書房から出た増補決定版『高村光太郎全集』第19巻の月報に「《光賢太治郎》論のこころみ」と題する一文も寄せられました。題名は光太郎と賢治の名前をアナグラムにしたもので、二人の詩に共通して通底する位相について述べられています。
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『東京新聞』さんには氏の追悼記事も出ました。

【評伝】天沢退二郎さん 圧倒的に熱く語った宮沢賢治「宇宙人にも感動してもらえるように」

000 フランス文学者で宮沢賢治の研究でも知られる詩人の天沢退二郎(あまざわ・たいじろう)さんが25日、86歳で亡くなった。
 多彩な顔を持つ天沢さんには、「ダークファンタジーの傑作」と呼ばれる児童文学の著書「光車よ、まわれ!」もある。子どものころに魅了された者として、本紙エッセー「私の東京物語」の執筆を依頼できたことが光栄だった。2017年、千葉市の自宅近くのカフェで初対面。手書きの原稿を受け取りながら、その中にも登場する「光車」の物語のあれこれを尋ねた。「私の東京物語」は同年11月に掲載された。
 しかし、天沢さんが圧倒的に熱く語ったのは宮沢賢治だった。戦前の旧満州で過ごした小学生時代に夢中になり、作品を読破。34歳の時には賢治論を見込まれ、賢治の弟の清六さんから岩手県花巻市の自宅で、夢だった賢治の直筆原稿を見せてもらう。その時、清六さんに告げられた言葉が人生を決めた。「賢治の全集を作り直してほしい」
 以来、大半が生前未発表で書き直しも多く、本文が定まらない賢治の作品を「決定稿」にすべく、仏文学者の先輩である入沢康夫さん(故人)らと上野発夜行列車で花巻間を何往復もして、生原稿を分析し、校本全集を完成。その後も改訂を続けた。
 賢治に労力を注ぐ理由を尋ねると、天沢さんは事もなげに答えた。「いずれ宇宙人も賢治を読むようになると思うから、宇宙人にも感動してもらえるように」。自らも独特の作品で人々を魅了してきた詩人の言葉だと受け止めた。今は少年のような笑顔で、銀河鉄道に乗って天駆けていると思う。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

山中にて狼の糞はじめて見申候。


明治34年(1901)8月末 高村光雲宛書簡より 光太郎19歳

信州の戸隠より留守宅の父・光雲に宛てた長い書簡から。この旅では一人、野尻、上越の赤倉、また信州に戻って松本、木曽方面まで足を伸ばしました。

ニホンオオカミは明治38年(1905)、奈良の吉野で捕獲されたものを最後に絶滅したとされていますが、信州や武州秩父山塊などには未だに生息しているのではないかともいわれています。ロマンがありますね。

1月ももう終わりですが、今年のカレンダーを新たにゲットしました。

We Love Towada 2023 卓上カレンダー

青森県十和田市の春夏秋冬をイラスト化したWe Love Towada カレンダー2023卓上カレンダーです。

こちらのカレンダーは、ハガキサイズの月めくり卓上タイプで、青森県十和田市出身のデザイナー藤森加奈江さんがデザインしたものです。

お買い求めは、道の駅とわだや十和田市内各所、とわこみゅオンラインショップでご購入できます。

価格 ¥1,100円 (税込)
※オンラインで購入の場合は、別途送料300円加算されます。

販売場所
・とわこみゅオンラインショップ (販売中) → 購入ページはこちら
・道の駅とわだ (1月上旬から予定)
・十和田市観光物産センター(1月上旬から予定)
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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」がデザインされています。

まず表紙的な1枚。下部中央やや右の位置に。
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1月も小さく右の方に。
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2月は像のシルエットが大きく。
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7月は像がメインです。
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4回も使っていただき、ありがたし。

他に、奥入瀬渓流、北里大学さん、官庁街通りなどの風景や、イベントとしての桜流鏑馬、夏の花火大会などがあしらわれています。

オンラインでも注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

何卒御養生十分被遊たく存上候 東山の翠微鴨川の清流朝夕の御薬と存じまゐらせ候

明治30年(1897)頃8月9日 高村光雲宛書簡より 光太郎15歳頃

この項、今日より書簡から抜粋します。

現在確認できている3,500通余りの光太郎書簡のうち、最も古いと推定されるものから。封筒が欠けているのですが、京都に出張中の父・光雲に宛てたものです。光雲、どうも出張先で体調を崩したらしく、それを気遣う文面となっています。光太郎、この頃はまだ孝行息子でした。

003またお一人、生前の光太郎をご存じだった方が亡くなりました。

中西利一郎氏。光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエの大家さんだった中西家の子息です。昭和12年(1937)のお生まれでしたので、今年のお誕生日で満86歳になられるはずでした。

元々アトリエは氏のお父さまにして新制作派の画家だった中西利雄画伯が自宅敷地内に建てたものでしたが、画伯が急逝し、その後、貸しアトリエとなりました。光太郎の前には、やはり彫刻家のイサム・ノグチが使っていたとのこと。

光太郎がこちらに入ったのは、昭和27年(1952)10月。青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のためでした。以後、昭和31年(1956)に亡くなるまで基本的にこちらで過ごした光太郎と、氏は3年半、同じ敷地内で生活されたわけです。光太郎一周忌だった昭和32年(1957)4月2日の第一回連翹忌もこちらで行われました。そもそも連翹忌の「連翹」は、光太郎が歿した時にもここの庭に咲いていて、光太郎が愛した連翹に由来します。

そうした関係で、氏には連翹忌の集いにたびたびご参加いただきましたし、当方も三回、中野のご自宅にお伺いしました。そして、光太郎遺品の数々などを拝見。

氏が光太郎からもらったお年玉の熨斗袋(熨斗袋といいつつ、原稿用紙を折りたたんで作ったものです)それから外出もままならなくなった最晩年の光太郎が氏のお母さまに買い物を頼んだ際の膨大なメモ。

アトリエを借りることが決まった際に、蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村から氏のお母さまに宛てた葉書、氏のお母さまと光太郎の2ショット写真。

これらは光太郎に関わる企画展や、ATV青森テレビさんで放映された「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」という番組などで紹介されたこともあります。

同番組から。
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中西氏、平成13年(2001)5月15日には花巻の高村山荘敷地内で行われた第44回高村祭で「高村光太郎先生の思い出」と題し記念講演もなさいました。

その抜粋。

 昭和27年10月13日、予定通り、光太郎先生は中野においでになりました。
 レインコートにリックサックを背負って、長靴をはき、登山帽をかぶって…私は、当時、中学三年生、子供心に、大きな体の飾りけのない、えらい先生が見えたと今でも記憶に残っております。「銀河鉄道の夜」や「雨ニモマケズ」の宮沢賢治は知っていても国語で習っていないせいか、高村光太郎先生が、彫刻家で、詩人で、日本のえらい先生とは深く知りませんでした。
 ただ、えらい先生が、アトリエへ見えて、彫刻をおつくりになるのだと聞かされていました。のちに教科書や新聞、本などで知るようになったのですが、一人、家の人が増え、おじいちゃんが出来たぐらいの認識でした。
(略)
 昭和29年春頃から光太郎先生は体調のことを気にされ、肋間神経痛で痛むことを耳にするようになりました。それまでは、先生もお元気で、中野桃園通り商店街で、先生の買い物のお姿を見かけたり、肉屋さん、八百屋さん、果物屋さん、お寿司屋さんでも有名になっていました。後日談で先生にお手洗いを貸して、先生の体をささえてあげたという自転車屋さんの話を今でも聞きます。登山帽をかぶり、長靴をはいて、レインコートを着て、カゴを持った先生のお姿は体が大きいだけに、やはりめだってみえたのでしょう。
(略)
 ところが、昭和30年5月にはベッドをもとめられて、アトリエの中二階から階下で休まれるようになさいました。母がベッドの購入のお手伝いをしたようです。
(略)
 その頃から買い物は母が先生からメモ書きをお受けしてやっていたようで、そのメモが残っていて、先生の生活の一片がわかります。
 母から聞いたエピソードをちょっとお話ししてみます。「先生はお肉がお好きで、歯がないのに、じょうずにひれ肉を焼いて、きれいに食べられるのよ」とか智恵子さんの御命日には「今日は智恵子の命日だから」と言って、二人分の夕食を用意して、会話しながら食べるのだという話を母から聞いて、私は、先生の御気持ち、やさしさが充分すぎる位にわかりました。
(略)
 昭和31年三月下旬に入ると、容態が急変して、看護婦さんもつけることになりました。3月22日だったと思います。私は学校が春休みに入ること、大学受験、卒業式とでガタガタしておりましたが、心配でたまりませんでした。
 アトリエには面会謝絶の紙が貼られて、母屋には心配する見舞いの方々で大変でした。光太郎先生は何度となく喀血をくり返して、衰弱がひどくなってゆかれました。
(略)
 そして、四月一日は、寒く、午後から雪が降り出し、夜になっても牡丹雪となって、しんしんと降り続いた。夜になって草野心平先生が「酸素吸入をしている」ということで、会合を抜けて、雪の中を駆けつけてこられました。

(略)
 深夜十一時半頃、アトリエから母屋へ戻られた草野心平先生は「今夜は落ちついて、休まれているから、だいじょうぶだろう」とおっしゃって帰られて行きました。
(略)
 うとうとする一時が経ったでしょうか。アトリエからのブザーが鳴りました。
(略)
 そのブザーの音を聞いて、私たちも飛び起きました。「これは大変だ。容態が急変したのだ」と……。あとは、言いつけられるままに、私は弟と中野駅へ雪の中を走りました。
 中野駅に出ても、タクシーが思うようでなく、ガードをくぐった北口の方で、やっと一台をつかまえることが出来ました。運転手さんにすかさず、行先大久保の地図を示し、事情を告げて、急いでもらいました。
 「草野先生、草野先生、光太郎先生が……」と戸をたたいて、呼びかけました。「あぶないから」と。
 草野先生は帰られて、数時間もたたないうちに起こされたのですから、意を察して、準備され、すぐに中野アトリエへと急行です。時間は3時30分頃だったと思います。四時頃、中野に着いた時にはあれだけ降っていた雪もやんでいました。
 我が家の表門には車が一台とまっていて、降り立ったのは高村豊周先生御夫妻でした。
 光太郎先生永眠は3時45分、臨終に居合わせたのは、私の母と看護婦二人だったと聞いています。
(略)
 亡くなられた二日は、にわかに弔問客で、わけもわからず、我が家も忙しくなった。
 私達は居場所もないほど、ゴッタ返し、葬儀の準備に入り、三日を通夜、四日の告別式は青山斎場に決まった。
(略)
 私は事務進行の北川太一先生を御案内して、近くの長谷川葬儀社へ出向いて、葬儀の依頼をしたことを覚えています。いまだにその葬儀社の息子さんから、その時のことを聞かされており、オヤジさんは、それこそ、一世一代のお棺を徹夜で作ったそうです。
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 葬儀の日の祭壇は建築家の谷口吉郎先生の設計で、実にシンプルに、大谷石の台の上に、白木のひつぎが安置され、そのひつぎの上に高村規氏の撮影による光太郎先生の微笑むチャンチャンコを着た写真、コップに入った連翹の花一枝がかざられたものでした。
 葬儀も悲しみの中でとどこおりなく終わり、沢山の人におくられて、落合火葬場で、荼毘に附されました。
 私は火葬場の片隅で、煙突から出る煙をみながら、しばし、先生のお姿と、創られた詩を思い浮かべながら、偲んでいました。
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 光太郎先生は旅立たれたのだ。
 私達に素晴らしい作品を、詩や文を、そして思い出を残して。私は立ちつくし、ただ空を眺めて涙をこらえていました。
 私にとって、光太郎先生との出会いは、深い思い出となって、今も残っています。

中西氏、同様のお話を連翹忌の集いなどでお話し下さったこともおありでした。そうした際に良きおじいちゃんのようだった光太郎を偲ばれながら語られていた氏のお顔が忘れられません。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

くもり冷、 朝出血あり。 后岡本先生くる、注射 土方定一氏くる ハマクリ 斎藤新吉さんくる 玉子 〈中西夫人に三井通帳托〉


昭和31年(1956)3月30日の日記より 光太郎74歳

土方定一氏」は美術史家にして心平主宰の『歴程』同人、「斎藤新吉さん」は智恵子の妹・セツの夫です。

その死の3日前、これが光太郎の絶筆となりました。

翌日にはまだ意識があり、訪れた心平から心平編集、筑摩書房発行の『日本文学アルバム 高村光太郎』のゲラを見せられ、「That's the endか、人の一生なんか妙なもんだな」とつぶやいたそうです。

それにしても、光太郎の絶筆を紹介する日に、中西氏の訃報をお伝えすることになるとは、その奇縁に驚いております……。

横浜から能楽の公演情報です。

企画公演「能役者 鵜澤久」

期 日 : 2023年2月5日(日)
会 場 : 横浜能楽堂 神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘27-2
時 間 : 14:00~
料 金 : S席7,000円 A席 6,000円 B席 5,000円 全席指定

能役者・鵜澤久。女流という枠にとどまらず、確かな技術と曲に対する深い洞察力で、古典作品の上演だけでなく、現代演劇に参加するなど新しい試みにも積極的に取り組み続ける姿勢は、師である観世寿夫が追及した能役者の在り方というものを大いに感じさせます。本公演では、鵜澤久の身体を通じ、能の表現とは、そして能役者とは何かを問います。

演目
「プラティヤハラ・イヴェント」 鵜澤久 一噌幸弘 藤原道山
ジョン・ケージによってはじめられたチャンス・オペレーションの流れの中で、能の持つ不確定性に着目し、演奏家の「呼吸」の時間が演奏の速度や、間の長さを決めていくかたちで書かれた作品。1963年に一柳慧、高橋悠治、小杉武久、観世寿夫らにより演奏されました。

舞囃子「智恵子抄」
高村光太郎の詩集「智恵子抄」から10編の詩と一首の短歌を製作年代順に配列し、光太郎にとっての永遠の女性像としての智恵子と現実の狂気した智恵子、それを見守る光太郎を描いた新作能。1957年4月に構成・演出:武智鉄二、作曲・作舞:観世寿夫、出演:観世寿夫ほかにより初演され、その後は「千鳥と遊ぶ智恵子」を中心に舞囃子として繰り返し上演されています。
 智恵子:鵜澤光  光太郎:梅若紀彰
 笛:松田弘之  小鼓:田邊恭資  大鼓:佃良太郎
 地謡:山本順之 清水寛二 西村高夫 長山桂三 川口晃平

能「卒都婆小町」(観世流)
高野山に住む僧が都へと向かう途中、一人の老女と出会います。老女が卒都婆に腰を掛けていたため、僧たちはそれを咎め、立ち去らせようとしますが、老女は僧と卒都婆についての問答を交わし、ついには言い負かせてしまいます。実は老女は、小野小町でした。かつては美貌を誇り、歌を詠む優雅な生活を送っていましたが、今は老女となって零落し、物乞いをして歩く毎日。そのようなことを語るうち、小町の声が変わり、「小町のもとに通おう」と言い出します。どうやら、かつて小町に恋をした四位少将の霊が憑依した様子。小町に憑いた少将の霊は、生前、小町のもとに九十九夜まで通い、思いを遂げる百夜を前に死んだ「百夜通い」の有り様を再現します。これも小町の驕慢が生んだ報いなのでした。
 シテ(小野小町)鵜澤久  ワキ(僧)森常好  ワキツレ(従僧)舘田善博
 笛:一噌庸二  小鼓:鵜澤洋太郎  大鼓:國川純
 後見:梅若紀彰 清水寛二 谷本健吾
 地謡:観世銕之丞  観世淳夫  西村高夫  柴田稔  馬野正基  浅見慈一  長山桂三  安藤貴康
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解説にあるとおり、ダイジェスト版の舞囃子として、武智鉄二作の新作能「智恵子抄」が演じられます。

一昨年には、今回、地謡で出演なさる山本順之氏、清水寛二氏、西村高夫氏がやはり吟じられた「連吟 智恵子抄」を含む「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」がありましたし、さらに清水氏は現代アートのイベント「もやい展2021 東京」中のステージパフォーマンスでも「智恵子抄」朗誦をなさいました。

今回は舞囃子ということで、より原型に近いのではないでしょうか。

ちなみに「智恵子抄」の語が含まれていませんでしたが、『東京新聞』さんに鵜沢久氏の紹介を兼ねた予告記事が出ました。

<土曜訪問>捨て石よりダイヤに 性別超え評価 来月 横浜能楽堂で公演 鵜澤久(うざわ・ひさ)さん(能楽師)

002 長らく「男性の芸能」として発展してきた能の世界で、性差を超えて評価されているのがシテ方観世流(かたかんぜりゅう)の鵜澤久さん(73)だ。女性が初めてプロの能楽師と認められたのは一九四八年。今も女性の能楽師は少なく、「宗家」を継いでいるのは男性だけ。そんな男性中心の能楽界で、二月五日に横浜市で行われる横浜能楽堂企画公演「能役者 鵜澤久」は、「女流という枠にとどまらない」一人の能役者としてスポットライトを当てる。ここに至るまでにどのような日々があったのか、聞きたくなった。
 「能は男の人がやるものという概念が、いっぱいいっぱいいっぱいいっぱいあって、闘うつもりはないけど、精神的には闘わないとやっていけなかったんです」。自宅にある舞台の端に座り、居住まいを正して淡々と語り始めた。
 シテ方は「シテ」と呼ばれる主役のほかツレ(シテに付き従って出てくる役)、地謡、後見、演出、舞台のプロデュースなどを幅広く担う。二十五歳で演能団体「銕仙会(てっせんかい)」に入り「性差は単なる個性の一つ。能という表現芸術に、男性も女性もない」と信じて研さんしてきたが、男性の能楽師がどんどん会の舞台に関わって経験を積むのに対し、自身は初めて研究公演に出るまでに十年以上かかった。「地謡や後見など、シテ方の男性が若い時から当然経験していることも、ずっとできなかった」。それならばと自身で、女性の地謡の会を開いたこともある。
 女性の能楽師を下に見る空気を感じ続け「ふらふらと片足立ちで生きてきたようだった」と振り返るが、目の前の壁を押し続けるつもりで進むうちに、二〇一八年、観世寿夫記念法政大学能楽賞を受賞。外部からの確固たる評価を得て「やっと両足を大地に着けて、能役者ですと言えるようになった」とほほ笑む。
 能に惹(ひ)かれたのは、自分にとって自然な流れだった。父はシテ方観世流の鵜澤雅(まさし)。謡の稽古の声を子守歌に育った。三歳で初舞台を踏み、十三歳で初シテ。父は稽古をつけてくれることもあったが「女なんかだめだ」と能楽師になることに反対し続けた。それでも「逆境ほど力が湧いてくる人間なので」。小学五年の作文で「男になりたい。能楽師になりたいから」と書いた。中学生のころ、父が弟子の発表会に女性能楽師を呼び、黒紋付きで舞台に上がる女性を間近に見た。「いくら反対されたって、憧れないわけないですよ」
 東京芸大邦楽科に進み、大学院も出ると、当時能楽堂を立ち見でいっぱいに埋めていた能楽界の寵児(ちょうじ)、観世寿夫(ひさお)さん(一九二五〜七八年)に習うことを切望。寿夫さんのいる銕仙会に入りたいと、反対する父をかわして何度も会の稽古能を見に行った。あるときいきなり父に襟首をつかまれ、会の中心である観世銕之丞(てつのじょう)家の座敷に連れて行かれた。「こいつを今日から銕仙会に入れますから。ほら、あいさつしろ!」。うれしいよりも、急展開に驚くばかりだった。「そこまでやりたいなら、と父も思ったんじゃないかな」
 そのまま寿夫さんに面接され、かけられた言葉は「能は伝統の厳しい世界。入っても一生舞台に立てないと思いなさい。捨て石になる覚悟でやりなさい」。当時は寿夫さんに習いたい一心で、深く考えずに飛び込んだ。「後になってから、どうせ石ならただの石ころでは終わらない、金剛石(ダイヤモンド)になってやると思いました」
 年を重ねた今、感じるのは、自由な自分だ。「重力にそって力が下に落ちてきて、上の方が自由になったというか」。体に余計な力を入れずに気力を充実させられるようになった。二月の横浜能楽堂では即興的な現代音楽の演奏に全身で挑むほか、高い技術と精神性が必要な「老女物」の一曲「卒塔婆小町(そとわこまち)」を演じる。同じく能楽師として活躍する長女、光(ひかる)も舞囃子(まいばやし)で出演。「光は、私がやらなかった内弟子も経験し、多くの舞台に出ている」と頼もしげなまなざしを送る。根が男性社会であることはそう簡単には変わらないだろうと思うが「秩序を保って良い能をつくる、それだけ考えていればいい」。 

智恵子役の方がお嬢さんなのですね。

というわけで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝おき上り食事、 夕方近く喀血、草野氏、関先生、大気先生 岡本先生くる

昭和31年(1956)3月29日の日記より 光太郎74歳

光太郎の命、あと4日です。

『智恵子抄』初版の版元・龍星閣さんの創業者・澤田伊四郎に関わる企画展が開催中です。企画展自体は光太郎と直接関わらないと思いますが、関連行事が気になります。

追記:光太郎智恵子コーナーもあるそうです。

龍星閣がつないだ夢二の心―『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点―

期 日 : 2023年1月7日(土)~2月28日(火)
会 場 : 日比谷図書文化館 東京都千代田区日比谷公園1-4
時 間 : 午前10~午後7時
休 館 : 1月16日(月) 2月20日(月)
料 金 : 無料

 現在千代田区が所蔵する「龍星閣旧蔵竹久 夢二コレクション」は、元々区内にある出版社・龍星閣(りゅうせいかく)が収集した竹久 夢二に関する作品群です。龍星閣の澤田 伊四郎さんは、「埋もれたもの、独自なものを掘り出して世に送ること」を出版理念に掲げ、精力的に夢二の作品を収集し、作品集にまとめて次々と世に送り出しました。そうした澤田の取り組みが、一時下火となっていた夢二を復活させ、現在にもつながる夢二ブームを生み出しました。
 本展では、夢二ブーム再燃のきっかけを作った龍星閣の取り組みとともに、その原点となった龍星閣が築き上げた「竹久 夢二コレクション」を紹介します。コレクションの目玉である夢二の肉筆作品のほか、最初期の作品とされる「揺籃」や夢二の自伝的小説「出版」の挿絵原画なども公開予定です。また本コレクションの中から、「女性」「子ども」「植物」「船」の描かれた4つのモチーフをもとに、「大正ロマン」の象徴とされる夢二作品の面白さも紹介します。

関連講座

「龍星閣創業者 澤田 伊四郎:出版にかける情熱」
 日時:2月4日(土曜日)午後2時
 会場:日比谷図書文化館4階 スタジオプラス
 講師:安田隼人さん(秋田県小坂町立総合博物館郷土館)
 参加費:500円 (注意) 事前申込抽選制(定員40名)
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関連講座のうち、2月4日(土)開催のもの。澤田の出身地である秋田県小坂町の総合博物館郷土館さんの学芸員・安田隼人氏が講師を務められます。

平成30年(2018)、龍星閣さんから同町に光太郎関連資料が大量に寄贈されました。『高村光太郎全集』に漏れていたものも含む光太郎から澤田宛の書簡、光太郎が贈った署名本などなど。それらを拝見するために、同館を二度訪れましたが、その際に大変お世話になりました。
東北レポートその1 秋田小坂。
東北レポートその2 青森十和田湖。
GWレポート その2 小坂町立総合博物館郷土館企画展「平成29年度新収蔵資料展」。

また、その後、岩手花巻の高村山荘(光太郎が戦後の7年間蟄居生活を送った山小屋)、高村光太郎記念館さんを訪れた際、たまたま同氏も小坂町の一般の方々を引率なさって訪れられていたのにも遭遇しました。

講座の副題が「出版にかける情熱」ということですので、『智恵子抄』その他の光太郎著書についても触れられるのではないでしょうか。現物は無理としても、光太郎署名本の画像等、講座内で提示されるかも知れません。

実は申込期限が過ぎているのですが、まだ定員に達していない可能性、キャンセル等があることも考えられますので、ご紹介しておく次第です。

ちなみに企画展自体は、上記プレスリリースの通り、竹久夢二がメインです。光太郎関連は小坂町さんに寄贈されましたが、夢二関連は平成27年(2015)、千代田区さんに寄贈され、これまでも東京ステーションギャラリーさんなどで展示が為されています。

死蔵とならないようこうして機会を設けて展示する千代田区さんの姿勢にも、頭が下がりますね。ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

くもり冷 看護婦変る、 孟彦くる 新潮田中女史くる 原稿渡し 草野さんくる、 藤間節子さんくる


昭和31年(1956)3月28日の日記より 光太郎74歳

その死の5日前です。「孟彦」は実弟の藤岡孟彦、「藤間節子さん」は「智恵子抄」を舞踊化した人物。

原稿」は雑誌『新潮』に載った「アトリエにて」という連載の第10回にして最終回「焼失作品おぼえ書」です。当会の祖・草野心平の日記から。

高村さん新潮の原稿一枚書く。(アトリエにてを八枚書いてあつたが、一枚書き足す)ビツクリする。新潮社田中さんきたり原稿をもつてかへる。今日は可成り元気。NHKから来た果物を食べるといはれる。

しかし、いわゆる蠟燭の炎が消える前の一瞬の輝きだったようでした。

昭和44年(1969)開始の国民的アニメ「サザエさん」。次回放映で光太郎が取り上げられます。

サザエさん【カツオの行く道/サイフに優しいお楽しみ ほか】

地上波フジテレビ 2023年1月29日(日) 18:30~19:00
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【マスオさんにおまかせ】
マスオが突然、洗濯の手伝いをすると言い出す。「色柄物は別に洗う」「ポケットの中は確認する」「干す時にはシワをしっかり伸ばす」等、サザエから洗濯の注意点を教わる。家族は、急に家事にやる気を出すマスオに驚く。どうやら共働きの同僚に「夫婦で家事をやるのは当然のことだ」と言われ、影響されたらしい。

【サイフに優しいお楽しみ】
サザエは近所の主婦から「お金のかからない趣味は、家計に優しくて楽しい」と勧められ、手始めに野草摘みに挑戦する。空地の茂みで食用に出来る野草を探していると、たまたま野球をやっていたカツオたちに大型犬に間違えられてしまう。野草摘みをカツオから迷惑がられたサザエは、別のお金のかからない趣味を見つけると言う。

【カツオの行く道】
カツオは、高村光太郎の詩『道程』の中の一節「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」を聞き「道路工事のおじさんの詩だと思った」と言い出す。波平から「この詩中の道は、道路ではなく人生の道だ」とあきれられる。ワカメはカツオの勘違いがおかしく、笑いが止まらない。「絶対人に言うなよ」とカツオに念を押される。
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出演者
サザエ:加藤みどり カツオ:冨永みーな ワカメ:津村まこと タラオ:貴家堂子 
フネ:寺内よりえ マスオ:田中秀幸 波平:茶風林 ほか

【原作】 長谷川町子
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ちなみに、オープニングテーマソングのバックは、昭和49年(1974)から続く「サザエさんの旅」ですが、現在は北海道(冬編)です。

冒頭が、札幌大通公園。
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光太郎のDNAを受け継ぐ彫刻家の一人・本郷新の彫刻「泉の像」(昭和34年=1959)が。

もしかして以前に「青森編」があって、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」とかも取り上げられたのかな、と思って調べてみました。すると、平成10年(1998)に「青森・岩手・宮城」だったそうですが、細かな内容は確認できませんでした。実現していないということであれば、ぜひサザエさんに像の前で左手を掲げる像のポーズを取っていただきたいものです(笑)。

閑話休題、ぜひ「カツオの行く道」、ご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

くもり晴、冷 春子さん、あけみさんくる 澤田伊四郎氏くる 44800 豊周夫妻さん子さんくる 北川太一さんくる


昭和31年(1956)3月27日の日記より 光太郎74歳

その死の6日前です。この日も危篤の報を受けて多くの見舞客。「くる」と名が挙げられていませんが、当会の祖・草野心平も。その心平の日記から。

中西夫人結婚式に行かれ、あとをあづかる。北川太一君きたる。一緒に高村さんに会ふ。三日ぶり也。(略)高村豊周夫妻、令嬢きたる。「苦しいですか」「息苦しいね、息がとまりさうになることがある。八分程とまれば楽になるね。永久に」などといふ。まぶたが少しむくんでゐる。(略)関先生大気先生岡本先生来診。レントゲン写真を見せらる。健康な肺で呼吸してゐる部分なしとの由。

昨夕気がつきまして、昨日までの会期でした。残念です。ただ、「WEB開催」という形で続いてはいますのでご紹介します。

ZOKEI展 東京造形大学卒業研究・卒業制作展/ 東京造形大学大学院修士論文・修士制作展

期 日 : 2023年1月20日(金)~1月22日(日)
会 場 : 東京造形大学 東京都八王子市宇津貫町1556
時 間 : 10:00~17:00
料 金 : 無料

WEB開催 : 2023年1月22日(日)~3月31日(金)


ZOKEI展は、当該年度に本学を卒業予定の学部4年生、並びに修了予定の大学院修士課程2年生が、本学での教育研究の集大成として卒業研究・制作/修士論文・制作を一堂に出展・展示する展覧会であり、本学キャンパスにて作品をご観覧いただけます。

また、WEB展示は3月31日まで開設しています。「会場で見た作品をもう一度見たい」という方も、「WEB展示でじっくり見たい」という方も、期間中何度もお楽しみ頂けます。ぜひご高覧ください。
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デザイン学科グラフィックデザイン専攻領域の長田ひかり氏の作品が、「智恵子抄」オマージュの「白い病室」。
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高村光太郎が、妻 智恵子への思いを綴った数々の詩 智恵子の死の床である病室にはこれまで綴った高村の詩が 2人の人生のように編まれ、絡まり、繋がり、囲んでいただろう」だそうで。

インスタレーションの空間そのものが、智恵子終焉の地・南品川ゼームス坂病院の一室をイメージしているようです。そこに材質がよく分からないのですが、パーテーション用の有孔ボードでしょうか、おそらく黒っぽい糸で「智恵子抄」収録詩篇のいくつか(画像にあるのは「冬の朝のめざめ」「人に」)が刺繍のように表されているようです。ところどころに赤い糸、それが文字から文字へと繋がっているのが見て取れます。

福島二本松の智恵子生家も会場になった「重陽の芸術祭2017」で、生家二階の智恵子居室などに展示された清河あさみ氏の作品「わたしたちのおはなし」を彷彿とさせられました。

昨年の「VOCA展2022 現代美術の展望-新しい平面の作家たち-」で佳作賞を受賞なさった谷澤紗和子氏の「はいけい ちえこ さま」などもそうですが、現代アートの皆さん、意外と光太郎智恵子の世界観からのインスパイアが多いようです。明治大正期、時代を突き抜けてとんがっていた光太郎智恵子だけに、現代アートの方々もシンパシーを感じるのでしょうか。そこにリスペクトの精神さえあれば、ありがたいかぎりです。

しかし、ぜひ現物を拝見したかったものです。この展示が為されていると知っていれば、大船での高田博厚展の帰りに八王子を廻ったのですが……。

上記リンクからWEBでご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

尾崎喜八夫妻くる、アイス等、 よし田女将くる、春山菜 谷口、藤島両氏くる〈み津枝さんくる〉

昭和31年(1956)3月26日の日記より 光太郎74歳

危篤状態に陥り、一週間記載されなかった日記が復活しました。おそらく日記の中断中からでしょうが、光太郎危篤の報を受け、この後も親族や旧知の面々が続々と見舞いに訪れます。

昨日は鎌倉市大船の鎌倉芸術館さんで、「没後35年 高田博厚展」を拝見して参りました。
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夭折した碌山荻原守衛を除き、戦前に光太郎が親しく交わった唯一の彫刻家である高田。晩年に鎌倉の稲村ヶ崎にアトリエを構えていた縁での開催です。

会場に入る前に、既に高田作品。おそらくこちらに常設展示されているものでしょう。
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受付で出品目録を頂きました。
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思っていたより展示点数が多いので、驚きました。

まずは肖像彫刻群。
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武者小路実篤、萩原朔太郎など、光太郎とも交流のあった面々の姿も。

続いて、高田の代名詞ともなっているトルソの数々。
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ともに360°から鑑賞可能。

光太郎胸像は別室で、こちらはガラスケース入りでした。
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昭和35年(1960)の連翹忌で披露されたもので、同型のものは全国に存在します。キャプションに誤字が多いのが残念でしたが……。

何と、高田旧蔵の光太郎ブロンズ作品も展示されていました。大正15年(1926)作の「大倉喜八郎の首」。元々、光雲に木彫による肖像制作の依頼があり、その原型として光太郎が塑造を作ってテラコッタにしたものから、光太郎歿後に実弟の豊周が鋳造し、親しかった人々に配付されたものです。こちらも同型のものが多数存在します。
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その他、高田の素描、ロダンなどの高田旧蔵品、光太郎も写った写真パネルなども。
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なかなか充実した展示でした。

昨夜、NHKさんの首都圏ニュースで開幕が報じられました。

彫刻家 高田博厚 没後35年記念し展示会 鎌倉

 日本とフランスを拠点に創作活動を行った彫刻家、高田博厚の没後35年を記念した展示会が、晩年を過ごした神奈川県鎌倉市で開かれています。
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 高田博厚は日本とフランスを拠点に創作活動を行った彫刻家で、昭和62年に亡くなるまでのおよそ20年間を鎌倉市で過ごしました。
 鎌倉市の鎌倉芸術館では、高田博厚の没後35年を記念した展示会が開かれ、市に寄贈された肖像や胴体の彫刻作品など、およそ80点が展示されています。
 このうち、代表作の「カテドラル」は、戦争の砲弾で傷ついたフランスの大聖堂を女性の胴体として表現した、高さおよそ55センチの彫刻作品です。
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 また、肖像彫刻には、交友のあったフランスの小説家、ロマン・ロランや、詩人で彫刻家の高村光太郎のブロンズ作品が並び、訪れた人がじっくりと鑑賞していました。
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 訪れた横浜市の70代の男性は、「以前から著作を読んでいた高田さんのすばらしい作品を身近に見ることができてうれしいです。とてもいい時間になりました」と話していました。
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 鎌倉市文化課の竹下歩実さんは、「高田作品を一堂に会して展示していますので、作品のポーズの違いなどさまざまな差異を楽しんでもらいたいです」と話していました。
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 この展示会は、鎌倉芸術館で今月31日まで開かれています。

ちょうど当方が訪れたとき、カメラをセッティングし、撮影のための打ち合わせをなさっているところでした(笑)。

会期があまり長くないのですが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

はれる、まだ温、風はやむ、 朝ねてゐる時呼吸はやくなる、左右にねると直る、

昭和31年(1956)3月18日の日記より 光太郎74歳

宿痾の肺結核、とうとう呼吸困難の状態を引き起こしました。翌日から3月25日まで、1週間は日記も書けない状態だったようで、記載がありません。

昨日もご紹介した国立国会図書館さんのデジタルコレクションがリニューアルされた件。自宅兼事務所のPCから閲覧出来る資料数が飛躍的に増大し、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎文筆作品が大量に見つかっています。

すると、智恵子についても驚くべき発見が2件ありました。

まず明治44年(1911)、博文館から出版された『家庭の友 西洋料理法』という書籍。著者は智恵子の母校・日本女子大学校の教授の手塚かね子という人物です。その手塚による序文に次の一節が。

本書の装幀は、女子大学校卒業生にして、専心絵画の研究に身をゆだねられまする長沼ちゑ子女史の巧妙なる図案に成つたものでございます。こゝに厚く感謝の意を表します。

なんとまぁ、結婚前の智恵子がこの書籍の装幀を手がけたというのです。これはこれまでに全く把握していない情報でした。

智恵子による書籍の装幀は、明治40年(1907)、日本女子大学校の同窓会(イベントとしての、ではなく組織としての)である桜楓会から刊行された『三つの泉』という書籍が先例としてありますが、確認出来ているものはそれだけでした。表紙絵を描いたというだけであれば、雑誌『青鞜』も含まれますが。

ところが『家庭の友 西洋料理法』の国会図書館さんのデジタルデータ、元本の破損がひどいらしく、肝心の表紙のデータが掲載されていません。が、他のサイト等で探したところ、不鮮明ながら表紙の画像を見つけることが出来ました。
西洋料理法 家庭の友
なるほど、という感じですね。

これはぜひ現物を入手しなくては、と思っております。

もう1件。新たな、というか、これまで未知だった智恵子の写真も見つかりました。しかも撮影年月日、撮影場所が特定出来るものです。

こちらは智恵子ではなく光太郎で検索をかけた際にたどりついたもので、昭和3年(1928)5月発行の雑誌『美術新論』に載ったもの。
美術新論 3(5)(19)
キャプションの通り、光太郎の父・光雲の喜寿を祝う祝賀会での撮影、日付はこの年4月16日、場所は日比谷に現在も健在の東京会館さんです。
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美術新論 3(5)(19)-2
戦前に亡くなった智恵子の写真はこれまで30葉見つかっていたかどうか、それも少女時代のものが多く、結婚後のものは10葉足らずでしたので、仰天しました。

ちなみにこの日の様子を、光太郎は昭和5年(1930)になって「のつぽの奴は黙つてゐる」という特異な詩に書き表しています。

   のつぽの奴は黙つてゐる

『舞台が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマツクスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名誉教授で、金は割かた持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちやあ出世したもんですな。今夜にしたつて、これでお歴々が五六百は来てるでせうな。喜壽の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んぢまつたぢやありませんか。親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか。何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。万能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい気な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の余興は、結城孫三郎の人形に、姐さん連の踊ですか。少し前へ出ませうよ。』

『皆さん、食堂をひらきます。』

滿堂の禿あたまと銀器とオールバツクとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニツポン ロココ格天井(がうてんじやう)の食慾。
ステユワードの一本の指、サーヴイスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ、スピーチ。
老いたる涙。
萬歳。
痲痺に瀕した儀禮の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の崩壊。

何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
腹をきめて時代の曝し者になつたのつぽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考へてゐる。

世間的には成功者、上級国民となった父と、未だ世間には知られざる自分との対比、かつて大正初期には「僕の前に道はない/僕の後に道は出来る」と高らかに謳い、その決意は変わらねど、しかし成功にはほど遠い自らへの怒り、そして自分を認めない俗世間へのアイロニー……。

そんな生活に耐えかねた小柄な智恵子、実家の破産や生涯の仕事と定めた油絵への絶望もあり、この頃から徐々に心が毀れて行きます……。そうしたことに思いを馳せながら上記写真を見ると、感慨深いものがありますね。

というわけで、今後もさらに調査を継続します。

【折々のことば・光太郎】

后北川太一氏くる デユボンネ2本、バースデーケーキをもらふ、一緒にくふ、 辞去後椛沢さんくる、花もらふ、夕方まで、 夜食赤飯(中西さんより)その他野菜煮、

昭和31年(1956)3月13日の日記より 光太郎74歳

光太郎満73歳の誕生日、そして生涯最後の誕生日でした。

国立国会図書館さんのデジタルコレクション。所蔵資料のうち、絶版等で入手困難な資料を中心に、オンラインで閲覧が出来るサービスです。平成14年(2002)に「近代デジタルライブラリー」として始まり、幾たびかの改訂を経てきました。

以前は自宅兼事務所PCで閲覧出来る資料数に限りがあり、国会図書館さんに出向くか、提携している公立図書館さんなどでPCを借りるかして閲覧していましたが、昨年12月に大幅なシステムのリニューアルが為され、飛躍的に対象が増大(それまでは約 5 万点だったものが約 247 万点に)しました。また、「全文検索」ということで、目次に載っていない語もヒットするようになっています。
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まだ国会図書館さん内での閲覧しかできない指定になっているものが多いのですが、自宅兼事務所PCで閲覧出来るものも以前とは比較にならない数に増えています。

当方のライフワークの一つが、光太郎の書き残した文筆作品等の集成。当会顧問であらせられ、晩年の光太郎に親炙された故・北川太一先生が、「光太郎ほどの人物の書き残したものは、断簡零墨にいたるまできちんと集成し、次世代にしっかり受け継がねばならない」というスタンスで『高村光太郎全集』の編集をなさいました。ところが平成11年(1999)に増補決定版全集の刊行が終了した頃から、インターネットが普及。当方、ネットを駆使して北川先生のお手伝い――『全集』に洩れていた作品の発掘――に力を注ぐようになりました。平成18年(2006)には光太郎歿後50年を記念し、厚冊の『光太郎遺珠』を北川先生との共編で高村光太郎記念会から刊行、現在は年刊の『高村光太郎研究』に、見つかり続ける作品の紹介をさせていただいております。

さて、国会図書館さんデジタルコレクション。リニューアル後、少しずつ閲覧をしており、埋もれていた光太郎文筆作品、続々と見つかっています。

アンケートや書簡などの短いものが多いのですが、長い文章も。

大正2年(1913)発行の『大正演芸』という雑誌に載った「芸術家としての女優」。4,000字ほどのものです。当時の日本は「女優」という職業の草創期でしたが、要旨としては、もっと女優が普通の存在になり、優れた女優が出て来なければ駄目だ、という提言です。前年、自由劇場で初演されたメーテルリンク作の「タンタジールの死」という舞台に触れています。主人公の女性を歌舞伎の女形・市川松蔦が演じ、そのお付きの女性を初瀬浪子という女優が演じたことに対し、「女優よりも女形の方が甘(うま)いからと言ふ意味で、イグレーヌを松蔦にやらせ、女優にも少しは出来るのが居るからといふ意味で浪子を使つたといふのは、明らかに女優を侮辱してゐる。女優がこんな風に取り扱はれるうちは、日本の女優は駄目である。」と、ばっさり。その他、松井須磨子、山川浦路、森律子、他の散文でも触れているフランスのサラ・ベルナールなどにも触れています。演劇も好きだった光太郎だけに、的確な評です。

短いアンケートや書簡などでも、光太郎の本領発揮。製本に関するアンケートでは「小生の製本に対する希望は糸かがりの堅牢第一に候。中途半端な美本を卑しみ候。」、雑誌に載った大正13年(1924)の木村荘五宛書簡では、荘五実兄にしてかつて吉原の娼妓・若太夫を取り合った木村荘太の著書について「「バルザツク」は集め方も聡明であり、訳も立派で、毎日為事の間によんで、実に愉快に思ひました。それからうける感動が此上もなくいゝ刺激になります。荘太さんの労力に心から感謝してゐます。」。当方、この直前にやはり荘五に送られた葉書を2葉持っており、驚きました。

また、『全集』に収録されていながら不明だった初出掲載誌が判明したものもありました。『全集』第4巻所収の散文「家」。昭和16年(1941)刊行の光太郎の評論集『美について』に収められていたため、『全集』には掲載されていたものの、初出が不明でした。こちらは昭和4年(1929)発行の雑誌『家事及裁縫』中の高橋仁という人物が寄稿した「住宅知識の基調」という文章の中に、「高村光太郎氏は曾て私に次のやうな散文詩を寄せられたことがあります。」として全文が掲載されているのを確認できました。これなど、デジタルコレクションのリニューアルで全文検索が可能になったための成果です。ただ、高橋仁という人物と光太郎の関係、なぜこの散文が贈られたのかなどは不明のままですが。

全文検索、ということになりますと、今回の改訂では、書籍や雑誌の巻末に載った他の書籍や雑誌の広告まで対象になっています。すると、既知の作品に関するヒットが増え、「こんな広告まで対象にしなくていいのに……」と思ったのですが、誤りでした。広告中に載った、その書籍を評した光太郎の推薦文で、『全集』に漏れていたものも2点見つけたのです。
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今のところ、昭和の初めまでしか調査が終わっていません。おそらく今後の調査でも多くの未知の作品に出会えると期待しております。

同時に、智恵子についても少し調べてみました。すると、驚くべき発見。明日はそのあたりを。

【折々のことば・光太郎】

余もいつか養清堂にて書のてんらん会をやらんかと思ふ、

昭和31年(1956)3月11日の日記より 光太郎74歳

養清堂」は銀座に今も健在の画廊です。

特に晩年、書の世界でも優れた作品を遺した光太郎。そのため、その没後には光太郎の書にスポットを当てた書籍も多数刊行され、それらの中で、この一節は必ずと言っていいほど引用されています。

彫刻の個展にはあまり関心を示さなかった光太郎(その生涯に一度だけ、それも著書を多く刊行してくれた中央公論社への義理立てのような意味で同社の画廊を会場に)でしたが、書の個展に意欲を燃やしていたというわけです。

結局、余命1ヶ月ということで実現出来ませんでしたが、光太郎のその思いを実現するべく、昭和61年(1986)、光太郎の没後30年に合わせ、銀座の鳩居堂画廊で「「高村光太郎「墨の世界」展」が、北川先生らの尽力で開催されました。その後も静岡アートギャラリーさん、花巻高村光太郎記念館さん、そして一昨年には富山県水墨美術館さんで光太郎書の企画展示がなされました。

しかし、いずれも出品点数はさほど多いわけではありませんでした。いずれ光太郎書の全貌をくまなくうかがえる大規模な展示を実現させたいものです。

昨年暮れに出た、小説の新刊です。

名探偵の生まれる夜 大正謎百景

2022年12月19日 青柳碧人著 角川書店 定価1,600円+税

歴史的偉業の裏に「事件」あり。文豪たちによる大正浪漫ミステリ。

大正七年の秋、与謝野晶子は大阪で宙に浮かんでいた。夫である鉄幹と共に通天閣の足元に広がる遊園地「ルナパーク」を訪れたものの、夫の言葉に血がのぼり彼を置き去りにひとりでロープウェーに乗ったのだ。電飾まぶしい遊園地を見下ろし、夫婦というものの不確かさを嘆く晶子。そのとき突然ロープウェーが止まり、空中で動かなくなって……。(「夫婦たちの新世界」)

遠野には河童や山男など不思議なものがたくさん潜んでいるという。隣村を目指して朝もやの中を歩いていた花子は、「くらすとでるま…」という不思議な声を聞く。辺りを見回すと、そこには真っ赤な顔の老人がいた。かつて聞いたむかしばなしに出て来る天狗そっくりの老人から逃げ出そうとする花子だったが、今度は黒い頭巾に黒い蓑をまとった怪しい男から「面白い話を聞かせてくれないか」と尋ねられ……。(「遠野はまだ朝もやの中」)
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ほか全8篇。

目次
 カリーの香る探偵譚
 野口英世の娘
 名作の生まれる夜
 都の西北、別れの歌
 夫婦たちの新世界
 渋谷駅の共犯者
 遠野はまだ朝もやの中
 姉さま人形八景

『むかしむかしあるところに、やっぱり死体がありました。』、『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。』などがベストセラーとなった、青柳碧人氏の小説です。

8篇のオムニバスで、基本、大正時代が舞台。一部、登場人物がかぶりますが、8篇とも中心になる人物は異なります。

最終章「姉さま人形八景」で、我らが光太郎智恵子が登場します。この章のみ、昭和も舞台としており、光太郎が亡くなった昭和31年(1956)からスタート。ところが言わば倒叙法で、どんどん時代が遡っていきます。そこで、章内のチャプターの番号も「八」から始まり、「七」「六」「五」……と逆転しています。

章題にもなっている一体の古びた「姉さま人形」が、それぞれの想いを乗せて8人(組)の人々の手から手へと受け継がれて来たというストーリーで、最終(物語冒頭)の昭和31年(1956)には放浪の画家・山下清。清は新宿中村屋の相馬黒光から、以下、時計の針がどんどん戻りながら、「姉さま人形」を受け継いだ人々の物語が紡がれます。伊藤野枝有島武郎に波多野秋子、松井須磨子、光太郎智恵子、平塚らいてう尾竹紅吉。らいてうは冒頭に山下清と共に登場しており、最後に伏線回収というわけです。

その他の章でも、光太郎智恵子ゆかりの人物などがずらり。第一章「カリーの香る探偵譚」は、新宿中村屋が舞台の一つで、光太郎の親友だった碌山荻原守衛は既に亡くなっているという設定ですが、守衛を援助していた相馬愛蔵・黒光夫妻が主要登場人物です。第五章「夫婦たちの新世界」には光太郎の師・与謝野夫妻、第七章「遠野はまだ朝もやの中」で宮沢賢治

さらに、中村彝、ラース・ビハーリー・ボース、江戸川乱歩、岩井三郎(明智小五郎のモデル)、野口英世、星一(星新一の父)、芥川龍之介、鈴木三重吉、島村抱月、吉岡信敬、中山晋平、坪内逍遙、松下幸之助、上野英三郎、ハチ公、仕立屋銀次、南方熊楠、柳田国男……なんとも豪華なキャストです。

「大正謎百景」の副題通り、それぞれの章に「謎」や事件が描かれますが、血腥い事件ではないので、よい子の皆様にもお勧めです(笑)。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

奥平さん夕方来る、セキの発作のためねてゐて話せず、ぢきかへる、 夕食ハマグリ等、パン、

昭和31年(1956)3月3日の日記より 光太郎74歳

いよいよ余命1ヶ月となりました。未だ食慾はあるものの、時折、会話が困難となる日もありました。「奥平さん」は親しかった美術史家の奥平英雄です。

過日ご紹介した、千葉県銚子市犬吠埼の老舗旅館にして光太郎智恵子ゆかりの宿・ぎょうけい館さんの閉館の件につき、確認出来ている限り新聞二紙が光太郎智恵子にからめて報道して下さいました。

まず『読売新聞』さん、閉館直前の1月15日(日)の報道でした。

犬吠埼・老舗旅館 あす終了 明治7年創業 伊藤博文、島崎藤村も滞在

 創業150年近くの歴史を持ち、明治から昭和にかけて多くの著名人が宿泊したことで知られる銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」が、今月16日に旅館営業を終了し、31日に閉館する。
 同館は1874年(明治7年)創業。太平洋を一望できる水郷筑波国定公園内にあり、離島や高所を除けば日本で最も早いとされる初日の出を全客室(33)から眺めることができる。かつては伊藤博文、国木田独歩、島崎藤村ら多くの著名人が滞在。詩集「智恵子抄」を書いた高村光太郎が、後に妻となる智恵子と再会した場所とも伝えられている。過去には囲碁の本因坊戦の開催地にもなった。
 同館は株式会社「銚子暁鶏館(ぎょうけいかん)」が所有するが、1986年からは日本ビューホテルグループに運営を委託している。同グループとの運営委託契約を打ち切った。
 コロナ禍なども影響したとみられるが、銚子市を代表する観光施設の一つで、閉館を惜しむ声も聞かれる。銚子暁鶏館は、「旅館がある場所は唯一無二の景観を誇る。銚子市の貴重な資産でもあり、できればその資産を生かし続けたい」とし、再開を模索する考えも示している。


続いて『朝日新聞』さん。昨日の千葉版。

ぎょうけい館 伊藤博文らも宿泊 149年の歴史に幕 銚子・犬吠埼、観光客減り

 銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」が16日、営業を終えた。31日に閉館し、149年の歴史に幕を閉じる。伊藤博文や国木田独歩、島崎藤村ら著名人が宿泊したことでも知られるが、銚子市の観光客減少の影響を受けた。
 北海道から来た父親と宿泊した成田市の男性(32)は「初めて泊まったら最後だった。また来たかったのに残念」と話した。
 同旅館は1874(明治7)年創業。犬吠埼灯台の南側にあり、太平洋を一望できる温泉露天風呂や全33室から海が見渡せる宿として人気だった。
 詩人で彫刻家の高村光太郎は1912年、宿に泊まった折、別の宿にいた後の妻となる智恵子と再会し、写生などをして過ごした。「智恵子抄」では「運命のつながり」と書いている。
 旅館の所有者は銚子暁鶏館(銚子市)で、86年から日本ビューホテルグループに運営を委託してきた。その委託を終了した。グループ側の斉藤浩文総支配人は「歴史がありリピーターに支えられてきた。明かりはともし続けてほしい」。暁鶏館関係者は「新たな利用方法も含め検討したい」と話すが、具体策は未定だ。
 市によると、市内宿泊客数のピークは1985年の58万7千人。団体旅行の減少や東日本大震災、原発事故の風評被害、コロナ禍などが重なり、2021年は11万6千人に。犬吠埼周辺の温泉宿はかつての半分以下の4軒になる。
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3枚目の画像は館内に展示されている伊藤博文の書だそうです。下の方にはこちらで行われた囲碁の本因坊戦の写真も。

光太郎智恵子がここに泊まったのは、大正元年(1912)8月末から9月頭にかけて。光太郎は、この年秋に開催されたヒユウザン会展に出品する油絵を描くためでした。父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と訣別するため、光太郎はこの時期、彫刻より油絵制作を主に行っていました。

光太郎の犬吠行きを聞きつけたであろう智恵子が、すぐ下の妹で智恵子と同じく日本女子大学校(教育学部)を出たセキ、同じく日本女子大学校の英文科を智恵子と同じ明治40年(1907)に卒業した藤井ユウとともに、犬吠にやってきました。最初、三人で暁鶏館とは別の御風館に泊まっていたのですが、セキと藤井が先に帰京、智恵子は光太郎の泊まっていた暁鶏館に移ったといいます。

以前の通説では、この時期、智恵子に地元・福島で医師との縁談があり、煮え切らない態度の光太郎にふんぎりをつけさせるべく、智恵子は縁談を断って光太郎の元に駆けつけたとされていました。しかし、近年の研究で相手の医師にはこの時期既に妻子がいたことが分かっており、その医師との縁談があったとしてももっと前、この時期に縁談がまたあったとしても別の人物が相手、ということになります。また、この時期に縁談が、ということそのものが優柔不断な光太郎に対する智恵子の嘘だった可能性も否定できません。そうだとすると、詩「人に」(原題「N――女史に」)で「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」「小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて」と謳った光太郎、まんまとしてやられたわけですが(笑)。

光太郎の犬吠からの帰京は9月4日。翌日、編集者の前田晁に送った絵葉書の発見により、特定出来ました。
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宛名面に「犬吠でひどい風雨にあひました 昨夕帰つて来ましたら東京の静かなのに驚きました 潮の音のないのがつまりません」としたためられています。

ちなみにまさに暁鶏館で書かれたであろう8月31日付けの絵葉書も一緒に発見。
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写真は犬吠埼の北、黒生海岸のものです。

智恵子の方はというと、光太郎と共に帰京したのか、それとも前後して一人で帰ったのか、そのあたりは未だ不明です。

暁鶏館と光太郎、というと、これも以前にも書きましたが、詩「犬吠の太郎」。光太郎が犬吠を訪れた際に暁鶏館の風呂番をしていた本名・阿部清助、通称「長崎の太郎」(長崎は犬吠の南の地名ですが、それではわかりにくいので「犬吠の」としたのでしょう)をモデルにした詩です。太郎は会津藩士の息子でしたが、知的障害があり、曲馬団のビラ配りや暁鶏館での下働きなどをしていました。

ぎょうけい館さんのエントランスホールには、隣接する旭市ご出身の版画家・土屋金司氏の版画「犬吠の太郎」が飾られていたはずでしたが……。

さて、ぎょうけい館さん、上記新聞記事には「再開を模索する考え」「新たな利用方法も含め検討」という記述もありますので、このまま廃墟になったり、取り壊されて更地になったりということにはならないでほしいものです。できればやはり旅館として存続してほしいのですが……。

【折々のことば・光太郎】

今日は誰も来ず、しづかに原稿かき、「焼失作品おぼえ書」20枚かき終る、

昭和31年(1956)2月26日の日記より 光太郎74歳

「焼失作品おぼえ書」は、この年4月、5月の雑誌『新潮』に載りました。戦災や金属供出で失われた自作の彫刻の数々について、淡々と語るものです。発表された散文としては最後のものとなりました。ただし、翌月、死の4日前に追加で1枚を書き足しています。

昭和20年(1945)の空襲で駒込林町の住居兼アトリエが全焼した際は、多くの彫刻が焼失したことをむしろさばさばした思いで捉えていた光太郎ですが、もはや彫刻制作不可能となった死の床での、かつて自らの手で生み出された造型の数々に対する思いは、読む者の胸を打ちます。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんより、画像を頂きました。同社でメニュー考案にご協力なさり、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分です。猫の七福神が宝船に乗って、正月らしさを演出していますね(笑)。
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お品書きは、赤飯、白米、焼き鮭、豚肉のトマトケチャップ煮、とろろ芋の酢醤油ブロッコリー添え、赤かぶの酢漬け、塩麹入り卵焼き、デザートはパイナップルの罐詰とリンゴのコンポートだそうです。

赤飯に白米で紅白の彩り。なるほど。豚肉のトマトケチャップ煮には人参と玉葱、もち麦が入っているそうです。

毎月のことですが、光太郎日記からの引用文等を印刷したリーフレットもついています。これで税込み800円とのこと。

毎月のメニューの考案も中々大変だと存じますが、末永く愛され続けて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】000

ひる頃草野心平氏くる、写真アルバムについての質問いろいろ、今宿屋にかんづめの由、

昭和31年(1956)2月19日の日記より
 光太郎74歳

写真アルバム」は筑摩書房発行の『日本文学アルバム 高村光太郎』。前年から当会の祖・草野心平が編集、解説文の執筆にあたり、光太郎が歿しておよそ2週間後の4月20日に刊行されました。心平、何としても光太郎存命中に仕上げたかったようで、「宿屋にかんづめ」。その甲斐あってか、光太郎が歿する2日前にゲラを見せることができたそうです。

千葉県佐倉市の志津図書館さん。毎月、佐倉市近隣エリアへの「マイクロツーリズム」と題し、館内の一角で近隣地域の歴史的スポット等をパネルや映像、関連図書等で紹介なさっています。

昨年10月が富里市七栄の「国登録有形文化財 旧岩崎邸末廣別邸」、11月で佐倉市下志津原と四街道市内に残る「旧軍施設の遺構」、12月には総武本線の駅でありながら秘境感漂う「JR南酒々井駅」を起点に、地酒・甲子正宗の醸造元である「飯沼本家」がそれぞれ紹介されました。

そして今月は「日本一短い鉄道 芝山鉄道「芝山千代田駅」を起点に、成田市三里塚記念公園」。

明治の初めから三里塚の地にあって、〝桜と馬の牧場〟として長い間多くの人々に親しまれてきた旧宮内庁「下総御料牧場」は、成田空港の建設に伴い昭和44年に栃木県塩谷郡高根沢町に移転しました。
園内には、我が国の畜産振興のパイオニアとして輝かしい足跡を残してきた御料牧場の名を永くこの地にとどめるため、旧御料牧場事務所を模して建設した「三里塚御料牧場記念館」があり、御料牧場の歴史、皇室と御料牧場の関わりについての資料、御料牧場の畜産機材などが保存・展示されています。
また、各国の大公使を招待する園遊会場、皇族の宿舎として使用された「三里塚貴賓館」、大平洋戦争開戦時に、皇族〈東宮:現在の上皇〉の使用を想定して建設された「防空壕(御文庫)」があります。
広い敷地にはマロニエの並木道が続き、三里塚ゆかりの水野葉舟、高村光太郎の文学碑などもあり、市民の憩いの場となっています。
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三里塚記念公園は、宮内庁の旧御料牧場があった場所に整備されています。そこからほど近い場所に、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も訪問、詩「春駒」を作りました。昭和52年(1977)には公園内に光太郎自筆稿を元にした詩碑も建立されています。

また、昨年には公園近くの三里塚コミュニティーセンターさんで、「春駒」の一節を冠した「三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』」展も開催されました。

御料牧場だけあって、貴賓館や、戦時中にはやんごとなき方々のための防空壕も建設。そのあたりについても紹介されているとのこと。

こちらの展示、さらには三里塚公園さん自体も、ぜひ足をお運び下さい。

それにしても志津図書館さん、こうした地域の歴史をを掘り起こすミニ展示を毎月なさっているその姿勢には頭が下がります。全国の類似施設の方々、ご参考になさって下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后自由国民社の人くる、花巻温泉のこと談話筆記七枚位、


昭和31年(1956)2月15日の日記より 光太郎74歳

花巻温泉のこと」は、「ここで浮かれ台で泊る/花巻」の題で、4月発行の『旅行の手帖』第26号に掲載され、9月には『ポケット四季の温泉旅行』に転載されました。

「花巻温泉」といいつつ、花巻温泉さんだけでなく、鉛温泉さん、大沢温泉さん、台温泉さんなどにも触れ、かつて花巻郊外旧太田村に蟄居していた際にたびたび訪れた各温泉の魅力や思い出を、楽しげに語っています。

この手の談話筆記、光太郎生涯最後のものとなりました。

新刊です。

名著入門 日本近代文学50選

2022年12月30日 平田オリザ著 朝日新聞出版(朝日新書) 定価850円+税

何を読むか、どう読むか――。日本近代文学の名作にこそ現代人の原型あり。50人の名著を魅力的に読み解く第一級の指南書!
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日本近代文学は、まだ百数十年の歴史しかない。本書を通じて、そこに関わった者たちの懊悩、青臭い苦悩を感じ取っていただければ幸いだ。(「はじめに」より)
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目次
 はじめに
 【第一章】 日本近代文学の黎明  
  『たけくらべ』樋口一葉002
  『舞姫』森鷗外
  『金色夜叉』尾崎紅葉
  『内部性名論』北村透谷
  『浮雲』二葉亭四迷
  『小説神髄』坪内逍遥
 【第二章】 「文学」の誕生  
  『武蔵野』国木田独歩
  『病牀六尺』正岡子規
  『三酔人経綸問答』中江兆民
  『破戒』島崎藤村
  『坊っちゃん』夏目漱石
  『みだれ髪』与謝野晶子
 【第三章】 先駆者たち、それぞれの苦悩  
  『一握の砂』石川啄木
  『蒲団』田山花袋
  『若山牧水歌集』若山牧水
  『兆民先生』『兆民先生行状記』幸徳秋水
  『高野聖』泉鏡花
  『邪宗門』北原白秋
 【第四章】 大正文学の爛熟  
  『河童』芥川龍之介
  『城の崎にて』志賀直哉
  『雪国』川端康成
  『細雪』谷崎潤一郎
  『小さき者へ』有島武郎
  『月に吠える』萩原朔太郎
  『紙風船』岸田國士  
 【第五章】 戦争と向き合う文学者たち  
  『蟹工船』小林多喜二
  『銀河鉄道の夜』宮沢賢治
  『風立ちぬ』堀辰雄
  『智恵子抄』高村光太郎
  『怪人二十面相』江戸川乱歩
  『山椒魚』井伏鱒二003
  『浮雲』林芙美子
  『麦と兵隊』火野葦平
  『濹東綺譚』永井荷風
  『山月記』中島敦
  『落下傘』金子光晴 
 【第六章】 花開く戦後文学  
  『津軽』太宰治
  『堕落論』坂口安吾
  『夫婦善哉』織田作之助
  『俘虜記』大岡昇平
  『火宅の人』檀一雄
  『悲の器』高橋和巳
  『砂の女』安部公房
  『金閣寺』三島由紀夫  
 【第七章】 文学は続く  
  『裸の王様』開高健
  『楡家の人びと』北杜夫
  『坂の上の雲』司馬遼太郎
  『父と暮らせば』井上ひさし
  『苦海浄土』石牟礼道子
  『ジョバンニの父への旅』別役実
 おわりに
 作家索引/略歴

光太郎も登場人物の一人として名を連ねる演劇、「日本文学盛衰史」の脚本を書かれた平田オリザ氏の新著です。

元々は『朝日新聞』さんの読書面に「古典百名山」の題で連載されていたものに加筆なさったそうで。なるほど、「『智恵子抄』高村光太郎」の章、一昨年の『朝日新聞』さん掲載時より、引用部分等長くなっています。

『朝日新聞』さんに、紹介の記事も出ました。

選び抜いた古典、いまを照らす 平田オリザさん「名著入門 日本近代文学50選」

000 劇作家の平田オリザさんが、本紙読書面のコラム「古典百名山」を元にした『名著入門 日本近代文学50選』(朝日新書)を出版した。明治の樋口一葉や夏目漱石から戦後の別役実まで、小説に留(とど)まらず詩歌や戯曲まで。50人を一人1作ずつ平易な語り口で紹介すると同時に、通読すると近代文学史の流れもつかめる指南書に仕立てた。
 文学に造詣が深く、「日本文学盛衰史」(高橋源一郎さん原作)などの演出もある平田さんは、2019~22年にかけて「古典百名山」を連載。本書では大幅に加筆し、取り上げる作家も増やした。
(略)
 平田さんは「制度は変わって国家は新しくなったけれど、社会は旧態依然として差別や貧困が渦巻いていて自由も制約されている。こうした中で生まれた近代文学は、現代でも共通する様々な悩みがちりばめられた私たちの原典ともいえる」と話す。
 豊富な引用と、「非専門家の特権として」(平田さん)の、思い切った表現も魅力的。たとえば「漱石たちが発明した文体で私たち日本人は、一つの言葉で政治を語り、裁判を行い大学の授業を受け、喧嘩をしラブレターを書くことができるようになった」といった具合だ。
 平田さんは、情報化が進んだいまこそ、古典を読むことが重要だと考えている。
 「検索すれば多くが分かる社会にあって、事柄同士をつないでストーリーを作る『コネクティング・ザ・ドッツ』の能力が、入試やビジネスでも重要になっている。その能力は、野球の素振りと同じで、古典などの名作にどのくらい触れたかにかかってくると思う」
 劇団、教育機関、行政と様々な役職に就いてきた経験に裏打ちされた言葉だ。


タイトル通り、「入門」としては的確な書と思われます。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

中西夫人余を見て顔のむくみに気づく、


昭和31年2月14日(火)の日記より 光太郎74歳

「中西夫人」は起居していた貸しアトリエの大家さん。光太郎の生命の炎、燃えつきるまであとひと月半。そろそろ死相が現れ始めたのかも知れません……。

神奈川県鎌倉市から、企画展情報です。

没後35年 高田博厚展

期 日 : 2023年1月21日(土)~1月31日(火)
会 場 : 鎌倉芸術館 神奈川県鎌倉市大船6-1-2
時 間 : 午前10時から午後5時まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 本市ゆかりの彫刻家・高田博厚の没後35年を記念し、高田博厚展を鎌倉芸術館において開催します。高田博厚は、昭和41年に鎌倉市に住居とアトリエを構え、昭和62年に亡くなるまで多くの彫刻作品を創作した彫刻家です。
 本展覧会では、多くの優れた作品を生み出した高田博厚の生涯を、3つの時代(渡仏前、パリ時代、東京・鎌倉時代)に分け、それぞれの時代の作品を展示することで、作品の変遷を辿ります。中でも、生涯を通じて多数制作されたトルソを主に、高田の言葉と共に紹介することで、彼のトルソに対する想いや、個々の作品の細やかな違いを楽しめる他、作風に影響を与えたロダン等、他作家の彫刻作品も展示します。
 ロダン、ブールデル、マイヨールらヨーロッパ近代彫刻家についての研究を通じ、彫刻についての思索を深め、高い精神性が込められた作品を数多く残した、高田博厚の世界をぜひお楽しみください。
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早世した碌山荻原守衛を除き、戦前の光太郎が唯一深い交流を持っていた彫刻家・高田博厚。光太郎の援助もあって昭和6年(1931)に渡仏し、以後、光太郎と直接会うことは叶いませんでしたが、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に帰国するや、光太郎顕彰活動の一端を担ってもくれました。

帰国後にアトリエを構えていた鎌倉で開催される歿後35年記念展だそうで、光太郎胸像(昭和34年=1959)も展示される予定です。同型のものは各地に存在しますが。
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『毎日新聞』さんの神奈川版に、予告記事が出ていました。光太郎の名も出して下っています。

高田博厚の世界たどる 没後35年展、鎌倉で21日から 胴体彫刻など50点/神奈川

002 晩年を鎌倉市で過ごした彫刻家、高田博厚(1900~1987年)の没後35年展が21日から鎌倉芸術館ギャラリーで開かれる。生涯を通じて多く制作されたトルソ(胴体彫刻)のほか、西田幾多郎、萩原朔太郎らの頭像、デッサンなど約50点が展示される。
 高田は石川県生まれ。幼いころから、語学に優れ、文学や芸術に親しんだ。18歳で上京後、高村光太郎の勧めで彫刻を学び、31歳でフランスに渡った。作家のロマン・ロランや画家のポール・シニャックらと交流。第二次世界大戦中も帰国せず、新聞記者として活動し、パリ外国人記者協会の要職を勤めた。
 展示では、渡仏前▽パリ時代▽東京・鎌倉時代――の3期に分け、作品の変遷をたどる。胴体部分をクローズアップしたトルソを中心に「君は指で思索する」とロマン・ロランに称賛された高田博厚の世界が楽しめる。31日まで。無料。


ロダンやマイヨールの作も並ぶということですし、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后内田文子さん指圧の女性同伴くる、指圧をうける、


昭和31年(1956)2月8日の日記より 光太郎74歳

昭和30年代、40年代、故・浪越徳治郎氏の「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」の名言と共に展開された普及活動もあって、指圧は民間療法として流行していました。

しかし、余命2ヶ月となった光太郎には焼け石に水だったようです。

光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった髙村豊周の作品が出ています。

かねは雄弁に語りき 石川県立美術館の金属コレクション

期 日 : 2023年1月4日(水)~2月5日(日)
会 場 : 石川県立美術館 石川県金沢市出羽町2-1
時 間 : 午前9時30分から午後6時まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般600円(500円) 大学生400円(300円) 高校生以下無料 ( )内団体料金

 美術館活動の核はコレクション(収蔵品)です。日本では、全国約5700館のミュージアムがそれぞれ独自のミッションのもとで作品を収集し、研究・展示・活用を行っています。ある分野に特化した美術館も多い中、石川県立美術館のコレクションの特色は、幅広い分野・時代の作品を所蔵していることです。「石川ゆかり」をキーワードに、古美術・工芸・絵画・彫刻などを網羅する作品群が、1959年の開館以来、今日まで受け継がれています。
 このたび、当館コレクションの魅力を発信する事業として本展を開催します。「金属」というテーマのもと、古美術から現代までの作品が一堂に会します。ふだんは時代や技法ごとに別々の展示室で紹介されている作品を同時に紹介する内容は、当館としては新たな試みとなります。「用途」「技巧」「素材」という3章構成で、音や重さ、“超絶技巧”など、様々な視点から金属の魅力に迫ります。冷たい、無機質などとイメージされることも多い金属ですが、実は色彩豊かで様々な表情をみせる素材であることをご体感いただけることでしょう。
 本展は、金属の魅力を紹介するとともに、コレクションの魅力をこれまでとは異なる視点から発信する機会となります。当館コレクションを見慣れた方も、そうでない方も、新たな発見を楽しんでいただければ幸いです。
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ネット上に出品目録がアップされていました。さらに「デジタル図録」も。
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豊周作品は「朱銅三筋文花入」。昭和40年(1965)の作品です。
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それから、豊周の弟子筋にして、光太郎歿後に光太郎ブロンズ作品を多数鋳造された、故・齋藤明氏の作品も。
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左が「青銅壺」、右は「朧銀斜交細文壺」。

豊周作品、齋藤氏作品、ともに金属でありながら、不思議な温かみが感じられます。それをいえば、優れた金工作品には共通する属性なのかもしれませんが。

というわけで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる過北川太一氏くる、デユボンネ2本もらふ、 自民党某といふ人くる、病気の旨のべる、

昭和31年(1956)1月30日の日記より 光太郎74歳

デユボンネ」は、現代では「デュボネ」と表記することが多いようですが、フランス系のワインです。

自民党某」については、その場にいらした故・北川先生(当会元顧問)の証言が残っています。

あるとき、自由党の偉い人が来て、党の詩の選出を高村さんに頼みにきたことがあったんです。そのとき、晩年の高村さんは「今自分は身体が悪いから」と断ったんです。そしたら「いくつか選んでくるから、その中から一つを選んでくれればよいので」って言ったんです。それを聞いた高村さんは声を荒げて「詩の選をするなら、全部読んでその中からよいと思うものを選ぶので、君たちが選べばよいものをみんな落としてしまう」と答えた。声を荒げた高村さんはそのとき見ただけですが、上の人に対してそんな態度をとる一方で、僕ら青二才が行ってもまともに答えてくれるのは、すごい人だなと思ったんですよね。

北川先生の証言では「自由党」となっていますが、前年に「自由党」と「日本民主党」がいわゆる保守合同で「自由民主党」となり、55年体制が確立しました。

光太郎、戦前や戦時中に、雑誌の投稿詩の選者を務めたことが複数回あって、そのうち、編集部が一次審査的に選別してから光太郎に廻すというスタイルの場合もありました。それで、自分がいいと思う作品が落とされていたという経験があったのかもしれません。

それにしてもこの日の光太郎の塩対応、痛快ですね(笑)。

沖縄から企画展情報です。

美ら島おきなわ文化祭2022関連特別展「宮内庁三の丸尚蔵館収蔵品展 皇室の美と沖縄ゆかりの品々」

期 日 : 2023年1月20日(金)~2月19日(日)
会 場 : 沖縄県立博物館・美術館 沖縄県那覇市おもろまち3丁目1番1号
時 間 : 9:00~18:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般¥800(¥640) 高校・大学生¥500(¥400) 小・中学生¥200(¥160)
      ( )内は前売券または20名以上の団体料金。

 復帰50年を節目として行われる国民文化祭「美ら島おきなわ文化祭2022」の一環として、沖縄で初めて皇室に伝えられた美術工芸品の展覧会を開催します。
 宮内庁三の丸尚蔵館は、皇室に代々受け継がれてきた美術品などが平成元年(1989)に国に寄贈されたの機に、皇居東御苑に平成5年に開館した施設です。
 この度、三の丸尚蔵館が所蔵する沖縄ゆかりの油彩画や工芸品と、皇室に伝えられた名品の数々を紹介します。
 絵画や写真を通して、皇室に伝えられた沖縄の姿をご覧ください。

沖縄ゆかりの品々
 明治20年(1887)頃の沖縄を写生した山本芳翠の連作画をはじめ、旧桂宮家に伝えられた「琉球塗料紙箱・硯箱」、昭和天皇や秩父宮家に献上された沖縄ゆかりの作家による作品や沖縄に根ざした特色ある工芸品を展示します。
 また、宮内庁が所蔵する明治時代の古写真の中から沖縄ゆかりの人物写真や明治20年の沖縄を写した写真、明治34年撮影の「沖縄県内各学校写真帖」をパネルで紹介します。

皇室の美 北斎の肉筆画、沖縄で初披露
 三の丸尚蔵館が所蔵する名品から、江戸時代に活躍した円山応挙「張飛図」と葛飾北斎「西瓜図」を紹介します。
 また、明治時代初期に記録のために作成された「雅楽図」や、高村光雲・山崎朝雲「萬歳楽置物」、綴織による大型の壁掛けなど、皇室がその伝承に深く関わってこられた雅楽を主題とした作品や儀式で用いられた伝統的な装束、着物など、高貴で優美な染織美をご覧ください。
このほか、皇室の御慶事の折に記念品として作られてきた愛らしいボンボニエールなどを紹介します。
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三の丸尚蔵館さんといえば、今秋に再開館予定でリニューアル中。そこでその間、収蔵品を全国各地のこうした展覧会に出張させています。この手の展覧会で光雲作が出たものが、下記の通りです。

今回は、九州国立博物館特別展「皇室の名宝 ―皇室と九州を結ぶ美―」でも出品されたブロンズの「萬歳楽置物」(大正4年=1915)が展示されます。木彫原型が、光太郎の父・光雲と、その高弟・山崎朝雲の作、螺鈿の施された台座部分の制作者は、由木尾雪雄という蒔絵師です。大礼(即位式)に際して貴族院から大正天皇に献上されたものです。
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当方、一度、現物を拝見しましたが、実に見事な作でした。何より皇室で大切に保管されてきただけあって、状態がいかにもよく、まるで最近作られたばかりのようでした。

沖縄で光雲作品の展示というのはめったにありませんし、他にも逸品ぞろいです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

后浅沼政規氏くる、余の談話筆記の原稿をあずかる、ヰスキーソーダを出す、

昭和31年(1956)1月19日の日記より 光太郎74歳

004浅沼政規氏」は、昭和27年(1952)まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山口小学校校長を務めていた人物。光太郎にかわいがられた子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、光太郎の語り部を務めて下さっています。

余の談話筆記」は、昭和23年(1948)から同27年(1952)までの、山口小学校で行われた各種の行事や会合などでの光太郎のスピーチ、職員室での茶飲み話の際の発言などを浅沼が記録したもの。平成7年(1995)、ひまわり社さん発行の浅沼の回想録『高村光太郎先生を偲ぶ』に全34篇、50ページ以上にわたって掲載されています。高村光太郎研究会さん発行の『高村光太郎研究』中に当方編集の「光太郎遺珠」として連載を持たせていただいている中で、全篇を転載させていただきました。

浅沼は活字にすることを希望して、光太郎の元に原稿を持ち込みましたが、光太郎は個人的な発言のものであったり、必ずしも光太郎がしゃべった通りになっていなかったりということで難色を示し、光太郎生前には実現しませんでした。

成人年齢が18歳へと引き下げられたのに伴い、「成人式」という呼称が使われなくなりつつあるようですね。

地方紙『岩手日日』さんから。

感謝と決意胸に 花巻市 20歳のつどい 新たな門出晴れやか

  花巻市の2022年度20歳(はたち)のつどい(市主催)は7日、同市若葉町の市文化会館で開かれた。成人年齢の引き下げを受け、成人式から名称を変更して行われ、スーツや色鮮やかな振り袖に身を包んだ今年度20歳になる市民が、記念撮影をするなどして新たな門出を祝った。
 対象者950人のうち686人(男性360人、女性326人)が出席。式典の部では国歌斉唱と対象者代表4人による市民憲章の朗読に続き、上田東一市長が式辞、藤原伸市議会議長が祝辞を述べた。
 上田市長は式辞で高村光太郎の代表作「道程」の一節「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」を贈り、「一歩一歩進むことで道ができる。新たな未来を切り開く出発点に立つ今、目指す自分を思い描き、信念と決意を持って苦難に負けず、自分の道を進んでほしい」と前途を期待した。
 対象者を代表して2人が決意を述べ、記念事業実行委員会の金野渉真委員長(矢沢中出身)は「今の目標は花巻のために自分自身がプレーヤーとして活躍し、未来を創造すること。目標をかなえるために来年度から岩手の大学に編入し、より実践に近い形で花巻と向き合いたい。そして支えてくれた家族や友人、恩師、花巻に恩返しをしていきたい」と誓った。藤原千咲副委員長(西南中出身)は「実行委員会の活動を通して楽しませる喜び、達成感を知ることができた。この経験から誰かを楽しませたいという人生の目標が見えてきた気がする。一歩踏み出し挑戦すればきっかけをつかめる」と力を込めた。
 式終了後は「咲かせよう~最幸(さいこう)の未来の花巻を~」をテーマに記念行事が行われたほか、出身中学校ごとに記念写真を撮影した。
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おそらく全国でおこなわれた同様の催しに於いて、首長さんなり来賓の方なりのご挨拶等で、「道程」などの光太郎詩の引用が他にもあったのではないかと思われますが、やはり光太郎第二の故郷ともいうべき花巻で、というところに大きな意味があると思います。

上田市長、平成31年(2019)の成人式でもやはり「道程」を引用されてご挨拶なさいましたが、お父さまが光太郎と交流がおありだった方のそれは、ずしりと来るような気がしますね。また、参加された20歳の方々の曾祖父母、祖父母のみなさんの中には、やはり光太郎と交流があったという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

何にせよ、これからの花巻を背負って立つ皆さんの門出ですし、全国に目を向ければ、この国の将来を託す皆さんの門出でもあります。

幸多からんことを!

【折々のことば・光太郎】

后「地上」の人くる、丸山義二氏筆記、談話一時間、


昭和31年(1956)1月16日の日記より 光太郎74歳

地上」は雑誌名、「丸山義二」は兵庫県生まれの農民作家です。3月発行の『地上』第10巻第3号に「春を告げるバツケ」の題で、この日の二人の対談が掲載されました。「バツケ」は「バッケ」、岩手の方言でフキノトウのことです。その題の通り、昭和20年(1945)から同27年(1952)までの、花巻郊外旧太田村での独居自炊の生活について語られています。丸山も農民作家だけあって、話の引き出し方が的確でした。

活字になった数ある対談のうち、これが光太郎生涯最後のものとなりました。

平成30年(2018)に初演され、昨年、北海道と岩手で公演があった演劇の都内と兵庫での巡回です。登場人物には光太郎も名を連ねます。

青年団第96回公演『日本文学盛衰史』吉祥寺・伊丹公演

文学とは何か、人はなぜ文学を欲するのか、人には内面というものがあるらしい。そして、それは言葉によって表現ができるものらしい。しかし、私たちは、まだ、その言葉を持っていない。この舞台は、そのことに気がついてしまった明治の若者たちの蒼い恍惚と苦悩を描く青春群像劇である。

高橋源一郎氏の小説『日本文学盛衰史』を下敷きに、日本近代文学の黎明期を、抱腹絶倒のコメディタッチでわかりやすく綴った青春群像劇。初演時に大きな反響を呼び、第22回鶴屋南北戯曲賞を受賞した作品の待望の再演となる。笑いの中に「文学とは何か」「近代とは何か」「文学は青春をかけるに値するものか」といった根本的な命題が浮かび上がる、どの年代でも楽しめるエンタテイメント作品。
[上演時間:約2時間40分(予定)・途中休憩なし]

吉祥寺公演
 期 日 : 2023年1月13日(金)~ 1月30日(月)
 会 場 : 吉祥寺シアター 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-33-22
 時 間 : 1月13日(金) 19:00  1月14日(土) 14:00 1月15日(日) 12:30 18:00
       1月16日(月) 18:30  1月17日(火) 14:00 1月19日(木) 19:00
       1月20日(金) 19:00  1月21日(土) 12:30 18:00  1月22日(日) 14:00
       1月23日(月) 19:00  1月25日(水) 13:30 1月26日(木) 19:00
       1月27日(金) 19:00  1月28日(土) 14:00 1月29日(日) 12:30
       1月30日(月) 13:00
 料 金 : 早割(1/13〜1/15)
        前売・予約 一般:3,500円 26歳以下:2,500円 18歳以下:1,500円
        当日    一般:4,000円 26歳以下:3,000円 18歳以下:2,000円
       通常料金(1/16〜1/30)
        前売・予約 一般:4,000円 26歳以下:3,000円 18歳以下:2,000円
        当日    一般:4,500円 26歳以下:3,500円 18歳以下:2,500円
伊丹公演
 期 日 : 2023年2月2日(木)~2月6日(月)
 会 場 : 伊丹市立演劇ホール  兵庫県伊丹市伊丹2-4-1
 時 間 : 2月2日(木) 18:30  2月3日(金) 18:30  2月4日(土) 12:30 18:00
       2月5日(日) 12:30 18:00  2月6日(月) 14:00
 料 金 : 前売・予約 一般:3,000円 26歳以下:2,000円 18歳以下:1,000円
       当日    一般:3,500円 26歳以下:2,500円 18歳以下:1,500円

原作:高橋源一郎 作・演出:平田オリザ
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脚本の平田オリザ氏へのインタビューから。

 取りあげられている時代は、明治の近代文学の黎明期ですし、そこでは言文一致がキーワードのひとつになっています。そのうえ、新たに生まれた自由民権の思想などが複雑に絡みあって日本の近代文学を展開させていく。その生みの苦しみが描かれていきます。
(略)
 1場が「北村透谷(1868〜1894年)の死」、2場が「正岡子規(1867〜1902年)の死」で葬式を描いているんですけど、ここまでは文学とか日本語の話。井上さんの言葉を借りれば「ひとつの言葉で政治の話もでき、裁判もでき、ラブレターも書け、喧嘩もできるような日本語を作ることが、近代国家にとっては必須のこと」であり、だから、北村透谷も、正岡子規もそうなんですけれど、二葉亭四迷(1864〜1909年)でさえも、反権力ではないんです。みんな日本のためを思ってやっている。要するに、この時期は、近代国家の成立という国家の夢と個人の夢が重なった、古き佳き時代なんです。
 それが徐々に変質していって、最終的に大逆事件があって……だから、幸徳秋水が大事なんですけど……そこに石川啄木が関わって、「夏目漱石(1867〜1916年)の死」で明治という古き佳き時代が終わる。そこまでを直球勝負で書きたいと思って構想しました。
(略)
 最後の4場「夏目漱石の死」(1916年)になると、そのころには本が売れるようになりますから、日本が金持ちになって、大衆が文学を手に取る。円本(1冊1円の全集シリーズ)みたいなものが出てくる。そして文壇が形成されていくわけですね。しかし、それらは最終的には、約20年後、戦争協力というかたちでほとんど破滅するわけですけれども、そこを予感させて終わるという構成になっています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

晴、温、平熱 中西さん宅にて雑煮、桑原さんは見えず、 日向ぼっこ、 后高村武次さん美津枝さんくる、 夕方横臥、 夕食カニ玉、


昭和31年(1956)1月1日の日記から 光太郎74歳

光太郎が4月2日に歿する昭和31年(1956)の年明けです。「中西さん宅」は起居していた貸しアトリエ敷地内の大家さん。「桑原さん」は中西家と親しかった美術史家・桑原住雄、「美津枝さん」は光太郎実弟にして鋳金の人間国宝となる豊周の息女、「高村武次さん」はその夫。のちの岩波映画製作所社長です。たまたま同じ高村姓でした。

この年7月には、政府が経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言しました。朝鮮戦争による特需景気、その後の神武景気を経て、前年のGDPが戦前の水準を上回ったためです。国際的にも日ソ共同宣言が出され、シベリア抑留最後の引き揚げ船が到着、また、日本の国連加盟もありました。こうした年に光太郎が亡くなったというのも、何やら象徴的ですね。

ちなみにこの年の芥川賞は、石原慎太郎の「太陽の季節」。実弟の裕次郎主演で即刻映画化もされました。海外ではエルヴィス・プレスリーが人気を博していました。

新年早々残念な話題ですが……。
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千葉県銚子市犬吠埼の老舗旅館・ぎょうけい館さん。明治7年(1874)創業で、大正元年(1912)夏には、結婚前の光太郎が写生旅行のため滞在、それを追ってきた智恵子も宿泊し、愛を確かめ合った宿です。光太郎智恵子ゆかりの宿としてテレビ番組等で紹介されたこともたびたびでした。

光太郎が「智恵子抄」を執筆した宿、と紹介されることもありました。ただ、確かに犬吠から帰った直後に「智恵子抄」に収められた「或る宵」「梟の族」「郊外の人に」などの詩を発表していますが、これらをこの宿で書いたという事実は確認出来ていません。
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建物は建て替わり(明治期の生け簀の跡などは現存)、経営も代わって(現在の母体は日本ビューホテル株式会社さん)、宿の名も元々漢字だった「暁鶏館」から平仮名交じりの「ぎょうけい館」となりはしましたが、連綿と歴史を刻んで来られました。

当方、宿泊したことはありませんが、何度も訪れ、食事はさせていただいたりしました。

しかし、1月16日(月)のチェックアウトをもって、およそ150年の歴史に幕を閉じられるとのこと。残務整理等のため、1月31日(火)までは業務を続けるそうですが。
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既にレストランは営業を終了しています。

特に言及はされていないのですが、やはりコロナ禍によるところが大きいのではないのでしょうか。コロナのため全国的に大ホテルさんの営業停止が続いていますし。

どこか他の会社さんで営業を引き継いで「暁鶏館(ぎょうけい館)」の名を残していただければ、と思うのですが、難しいのでしょうね。

かえすがえす残念です。

続いて、まったくの別件ですが、テレビ放映情報です。

徹子の部屋 渡辺えり

004地上波テレビ朝日 2023年1月10日(火) 13:00~13:30

演劇の道一筋50年、渡辺えりさんがゲスト。高校卒業後は地元・山形に残ってほしかった父の反対を押し切り上京。当時、娘を心配した父からは毎日手紙が…。それほど娘を溺愛した父が昨年95歳で亡くなった。病室で最期に対面した後は葬儀までバタバタと進んだ。突然のことで気が動転する自分をなだめ、全てを取り仕切ってくれたのは弟だったという。実は父が他界する直前に足を剥離骨折した渡辺さん。自分のことまで気遣ってくれた親族のありがたさが身に沁みたと語る。

出演 黒柳徹子 渡辺えり

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ゲストの渡辺えりさん、昨年亡くなったお父さまについてのお話もなさるそうです。お父さまの渡辺正治氏、戦中、戦後と、光太郎と交流がおありでした。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃奥平さんくる、岩国のハスをもらふ、 ヒゲソリ、洗髪、 藤島さんくる、詩朗読の話、
昭和30年(1955)12月31日の日記より 光太郎73歳

昭和30年(1955)も暮れて行きました。光太郎の生命の炎、あと3ヶ月と少しです。

年末年始の新聞から、光太郎智恵子の名が載った記事、3件ご紹介します。

まず青森県の地方紙『陸奥新報』さん。俳句を紹介するミニコラムで、12月25日(日)の掲載でした。

冬野ゆく歩幅を父の鼓動とし(泉 風信子)

「歩幅」は目標へ向う意志である。父への共鳴でもある。冬野という厳しい世界を生きていく男の宿命でもある。高村光太郎の詩のフレーズが思い浮かんでくる。
 句集『遠花火』より。

句の作者、故・泉風信子(いずみ・ふうしんし)氏は、元同社常務取締役。青森県現代俳句協会会長などを歴任されたそうです。少年時代にはかの寺山修二と親交が深かったとのこと。

言わずもがなですが、「高村光太郎の詩のフレーズ」は、詩「道程」の「ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ」でしょう。

続いて『読売新聞』さん。12月28日(水)夕刊の一面コラム。

よみうり抄

高村光太郎の「花のひらくやうに」という詩にある。<ねむり足りて/めざめる人/その顔幸(さいはひ)にみち…>◆100年余り前に書かれた一節に現代人の理想が重なる。睡眠の質の向上をうたう乳酸菌飲料、スマホのアプリを使った睡眠改善プログラム…今年の話題に「睡眠市場」の活況があった◆高齢者の不眠を取り上げた数年前の記事で、専門家が語っていたのを思い出す。「治ることをあきらめることで、治ることもある」。現状を受け入れることで辛(つら)さから解放される不眠もある、と◆この1年の集大成として今がある。老化に孤独、意に沿わぬ待遇、子供の成績不振――仕事納めの職場を後にした道すがら、身辺の諸事に思いをめぐらせた方もあろう。こんなとき、先の言葉は役に立つ◆心の中の耳朶(じだ)に響く異論もある。努力と工夫で眠りが足りるに越したことはないではないか。万民が現状を受け入れるなら、政治家は要らなくなる。頷(うなず)きつつ思う。詮ないこだわりの「仕分け」を進め、新鮮な気分で年を越してみたい。
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引用されている「花のひらくやうに」は、大正6年(1917)元日発行の雑誌『感情』に掲載されたものです。

   花のひらくやうに

 花のひらくやうに
 おのづから、ほのぼのと
 ねむり足りて
 めざめる人
 その顔幸(さいはひ)にみち、勇にみち
 理性にかがやき
 まことに生きた光を放つ
 ああ痩せいがんだこの魂よ
 お前の第一の為事(しごと)は
 何を措いてもようく眠る事だ
 眠つて眠りぬく事だ
 自分を大切にせよ
 さあようく
 お眠り、お眠り

前半の睡眠の質云々はともかく、最後のあたり「万民が現状を受け入れるなら、政治家は要らなくなる。」が、この詩とどう結びつくのか、魯鈍な当方の頭脳ではさっぱり理解出来ません。

「万民よ、現状を受け入れて、政治家が不要な世の中にしようじゃないか」ということでしょうか? それとも、「万民よ、四の五の言わずに政治家の言うことに従いなさい」ということでしょうか。

最後に『毎日新聞』さん。1月4日(水)の掲載でした。

「東京には屋根がある」小池知事、太陽光推進呼びかけへ

000 小池百合子都知事は2022年12月28日、毎日新聞のインタビューに応じ、戸建て住宅への太陽光パネル設置について「機運の醸成に努めていく」と、他の道府県にも推進を呼びかけていく考えを示した。主な一問一答は以下の通り。
◇「見える化」で行動変える
 ――太陽光発電の推進は、他県にもノウハウを広げる考えはあるか。
◆10年くらい前に自宅に太陽光パネルを付けた。面白いのは、(電力消費の)「見える化」をすると生活が変わる。どの部屋の明かりを消すと、どのくらい(消費電力量が)下がるかと(考えるようになる)。大きく行動を変える。
 実は1970年代のオイルショックの頃、太陽光パネルは日本がリードして進めた技術だった。環境相の頃に補助金を予算要望したが、認めてもらえなかった。今振り返ると、気候変動についてはまさにあの時が分かれ目で、もっとやるべきだったと思う。
 なぜこの国が無理して南進して戦争に陥ったかというと、エネルギーがなかったからじゃないですか。それから状況は変わっていない。再生エネルギーは一つの選択肢。ましてや原発の問題がある中で。
 「智恵子抄」で「東京に空が無い」という言葉が有名だけれども、「東京には屋根があって、空いてるじゃないか」と強く言いたい。
 太陽光発電を付けることは防災の観点からも有効だ。近隣県との共同メッセージや、全国知事会での呼びかけなどで機運の醸成に努めていく。

◇気候変動、一気にギアを
 ――これまで知事として脱炭素化に取り組んできた。改めて、どういう東京にしたいか。
◆今、強めるところは何かというと、やはり気候変動とエネルギー不足。一気にギアを(上げて)ふかす。意志を持ってやらないといけない。その意志の源泉は何かというと、安心・安全で、世界から選ばれる街を作るということだ。
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このインタビューに対し、ツィッター上などでは、得意の論点ずらしやご飯論法を駆使し、ネトウヨが噛みついています。政府が「原発ありき」の原子力村の片棒を担いでいる現状ですから、ネットサポーターたるネトウヨにとって反原発、再生可能エネルギー推進派は国賊に同じ、という理屈ですね。

やはりツイッター上で、「本来、これは国がやるべき施策なのでは?」という至極まっとうな書き込みもありました。太陽光、こうした場合には無害で、しかも膨大なエネルギー量がほぼ無限に降り注いでいるのに、それを有効活用しない手は無いように思われますが、原子力村の村民たちには認めがたいのでしょう。

原子力に関しては、光太郎存命中の1950年代からすでに「平和利用」という「神話」が提唱され、太平洋戦争中に大本営発表にまんまと乗せられた光太郎、性懲りもなくまたうかうかとそれに乗ってしまいました。最晩年の詩「新しい天の火」、「生命の大河」(下記参照)などでそうした発言が見られます。そうした点は当方も絶対に許せません。

莫大な費用を費やしての、原子力船むつや高速増殖炉もんじゅの大失敗、東海原発での臨界事故、そしていまだ解決のめどすら立たない福島第一原発のメルトダウン、それを「アンダーコントロール」と言い放つ無節操……何度過ちを繰り返せば気が済むのでしょうか……。

【折々のことば・光太郎】

よみうりの人玄関まで、詩稿を渡す、


昭和30年(1955)12月20日の日記より 光太郎73歳

「詩稿」は、上にも書いた「生命の大河」。前日に書かれたもので、NHKさんの依頼による「お正月の不思議」とともに、光太郎最後の詩となりました。

  生命の大河

 生命の大河ながれてやまず、
 一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
 ごうごうと遠い時間の果つる処へいそぐ。006
 時間の果つるところ即ちねはん。
 ねはんは無窮の奥にあり、
 またここに在り、
 生命の大河この世に二なく美しく、
 一切の「物」ことごとく光る。

 人類の文化いまだ幼く
 源始の事態をいくらも出ない。
 人は人に勝とうとし、
 すぐれようとし、
 すぐれるために自己否定も辞せず、
 自己保存の本能のつつましさは
 この亡霊に魅入られてすさまじく
 億千万の知能とたたかい、
 原子にいどんで
 人類破滅の寸前にまで到清した。

 科学は後退をゆるさない。007
 科学は危険に突入する。
 科学は危険をのりこえる。
 放射能の故にうしろを向かない。
 放射能の克服と
 放射能の善用とに
 科学は万全をかける。
 原子力の解放は
 やがて人類の一切を変え
 想像しがたい生活図の世紀が来る。

 そういう世紀のさきぶれが
 この正月にちらりと見える。
 それを見ながらとそをのむのは
 落語のようにおもしろい。
 学問芸術倫理の如きは
 うづまく生命の大河に一度は没して
 そういう世紀の要素となるのが
 解脱ねはんの大本道だ。

いわゆるコレクション展で、光太郎木彫2点が出ています。

メナード美術館開館35周年記念展 所蔵企画 35アーティストvol.Ⅱ

期 日 : 2023年1月6日(金)~4月2日(日)
会 場 : メナード美術館 愛知県小牧市小牧5-250
時 間 : 午前10時から午後5時
休 館 : 月曜日(1月9日は開館)、1月10日
料 金 : 一般 900円 (700円) 高大生 600円 (500円) 小中生 300円 (250円)
      ( )内は20名以上の団体

開館35周年記念展の第2弾「35アーティストvol.Ⅱ」では、当館を代表する作家35人のなかから9人の作品をご紹介いたします。大胆な筆づかいと色彩による作品を描いたゴッホ、北斎の娘で美人画の名手とうたわれた葛飾応為(後期展示のみ)、戦後の日本洋画壇をけん引した梅原龍三郎、詩人としても知られる彫刻家の高村光太郎らの作品をご覧いただきます。さらには、9人を軸にゆかりのある作家たちの作品をともに展示し、より当館のコレクションをお楽しみいただけるものとなっています。

主な出品作家
フィンセント・ファン・ゴッホ、ジェームズ・アンソール、尾形光琳(前期展示)
葛飾応為(後期展示)、安田靫彦、梅原龍三郎、国吉康雄、高村光太郎、鈴木五郎ほか


初公開コレクション
ノーマン・ロックウェル《牛乳配達夫とカップル(パーティー出席者たち)のための習作》
土佐光芳《三十六人歌合帖》、鈴木五郎《石との融合 五利部椅子》


その他の出品作家          
ピエール=オーギュスト・ルノワール ポール・ゴーギャン フェルナン・クノップフ
エドヴァルド・ムンク ピエール・ボナール ジュール・パスキン 
ノーマン・ロックウェル ポール・デルヴォー アレクサンダー・カルダー
本阿弥光悦(前期展示)  俵屋宗達(前期展示) 烏丸光広(後期展示) 葛飾北斎(後期展示)
小林古径 前田青邨 安井曽太郎 岸田劉生 前田寛治 高田博厚 佐藤忠良
など

というわけで、光太郎木彫「栄螺」(昭和5年=1930)と「鯰」(同6年=1931)が展示されています。
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「栄螺」は平成15年(2003)に、約70年ぶりにその存在が確認され、大きく報じられました。
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その後、同館が買い取り、時折展示して下さっています。光太郎彫刻の中では、一つのエポックメーキングとなった作品です。これを作る前と後で、彫刻の概念そのものに大きな変化があったとのこと。

「鯰」は、複数作られたもののうち、新潟の素封家・松木喜之七に贈られたものです。松木は鯉の木彫を光太郎に依頼し、光太郎も何とか彫り上げようとしましたが、どうしても自分で納得の行く作が出来ず、代わりに、とこの鯰を進呈しました。しかしその後、松木は太平洋戦争末期、もういい年だったにも拘わらず「根こそぎ動員」に遭って出征、台湾沖で戦死してしまいました。光太郎は依頼に応えられなかったことを深く悔んだようです。
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光太郎木彫が見られる機会はそう多くありません。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜になつてから山口の浅沼菊蔵さん、重次郎さん細君忠善さん細君、佐々木といふ人とくる、昌歓寺に観音像との事、約束しがたき事告げる


昭和30年(1955)12月5日の日記より 光太郎73歳

山口」は昭和20年(1945)から同27年(1952)まで光太郎が蟄居生活を送っていた岩手県花巻郊外旧太田村山口地区。「昌歓寺」は太田村の古刹で、蟄居中に光太郎も何度か足を運んでいます。

そちらに新たに十一面観音像を奉納、その制作をお願いしたいという依頼はこれ以前からあり、おそらく来訪した面々は、見舞いがてらの催促だったように思われます。結局、それは実現出来ず、光太郎歿後になって光太郎の父・光雲の弟子筋に当たる彫刻家・森大造が光太郎の代わりに制作に当たりました。この像は同寺に現存しています。

大阪・堺から、昨日始まった展示情報です。

伊東静雄没後70年記念展示「手紙にみる伊東静雄」

期 日 : 2023年1月5日(木)~3月30日(木)
会 場 : 堺市立美原図書館 大阪府堺市美原区黒山167-14
時 間 : 火曜日から金曜日 午前10時から午後8時
      土曜日・日曜日・祝日 午前10時から午後6時
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

美原区に住んでいた浪漫派の詩人・伊東静雄の没後70年を記念して、中原中也や高村光太郎から送られた手紙の写真などを展示します。展示内容は途中で入替を行います。
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伊東静雄は光太郎より一世代後の明治39年(1906)生まれの詩人。わずかながら光太郎と交流があったようです。

今回の展示では光太郎から伊東宛の葉書の写真が展示されているようで、この一通が、伊東宛の唯一確認出来ているものです。筑摩書房さん『高村光太郎全集』には洩れていましたが、全集完結後に当会顧問であらせられた北川太一先生と当方の共編で刊行した『光太郎遺珠』に収めました。所蔵は伊東の故郷・長崎県の諫早市立図書館さんでした。

今回の開催案内には、他に萩原朔太郎、中原中也から伊東宛の葉書画像も出ていました。
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光太郎からのものは、伊東の詩集『夏花』の受贈礼状。昭和15年(1940)3月29日付けです。宛名面の伊東の住所が「堺市三国ヶ丘町」となっており、案内文の「美原区に住んでいた」というまさにその時期だったわけですね。

『夏花』に関しては、全く同じ日に詩人の富士正晴に送った葉書でも言及が見られます。曰く「昨日伊東氏より「夏花」をいただき喜びました、本も美しいと思ひました」。富士も大阪在住で、伊東と親しかったようです。

お近くの方(遠くの方も(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

后高見順氏文芸編集委員4人来訪、談話、筆記、


昭和30年(1955)11月15日の日記より 光太郎73歳

高見順は伊東と同世代の詩人。光太郎は高見のためにその詩集『樹木派』(昭和25年=1950)の題字揮毫をしてやったことがありました。

談話」は高見との対談ということで、翌年元日発行の雑誌『文芸』に「対談現代文学史(8)その頃を語る」の題で掲載されました。

福島県郡山市にある老舗デパート、うすい百貨店さんで本日から始まるイベントです。

いいもの・たくさん・集マルシェ 旅するふくしま物産展

期 日 : 2023年1月5日(木)~1月11日(水)
会 場 : うすい百貨店 10階催事場 福島県郡山市中町13-1
時 間 : 10:00~18:30(最終日は午後5時閉場)

浜・中・会津の魅力が大集合! 
主催:福島県 共催:(公財)福島県観光物産交流協会
いずれの商品も売切れの際はご容赦くださいませ。お電話でのご注文はご容赦願います。交通事情により商品が入荷しない場合があります。
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008福島の百貨店で、福島の物産展。まさに「地産地消」ですが、一口に「福島」と言ってもかなりの面積(47都道府県中、堂々の第3位)ですし、太平洋沿岸の「浜通り」、西部の山中「会津」、そして智恵子の故郷・二本松を含む中央部「中通り」と、それぞれに文化や習俗も異なります。そういう意味では同じ県内でも「こんなものがあったのか」という状況になるのではないかと思われます。

調べてみたところ、昨年から既に始まっていました。10月に会津の「道の駅あいづ」さんで、11月には浜通りで「道の駅なみえ」さんでの実施でした。で、今回が最終、中通りでの開催となるわけですが、百貨店さんが会場のため、折り込みチラシが発行され、ネットにもアップされたため、当方の検索網に引っかかりました。

検索網に引っかかったのは、「ほんとの空」の語。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来です。

安達太良山中にあるチーズケーキ工房風花さんの商品も販売され、その中に「ほんとの空のクリームソーダ 1杯 650円」。令和2年(2020)に商品化されたもので、「ほんとの空と言われる、安達太良の空。そんな空をイメージしたソーダができました。どこまでも青い空を映したような「あおぞらソーダ」爽やかなアップルソーダです。バニラアイスはまるで空に浮かぶ雲のよう。溶かしながら色の変化も楽しめます。植物由来の着色料を使った青色です。」だそうで。
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お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

テレビは機械持参したしとの事ゆゑ断る、延期して録画にしてもらふこと


昭和30年(1955)11月11日の日記より 光太郎73歳

テレビ」は、撮影です。親しかった美術史家の奥平英雄との対談を放映したいという申し出がありましたが、当時は生放送が主流で、そうなると大量の機材を貸しアトリエに運び込んで中継ということになり、それは困る、ということでした。で、一旦は、録画なら、ということになったものの、それも実現せず、結局、光太郎が生前にテレビ出演することはありませんでした。

期日的には少し先の話ですが、〆切りの日程が迫っておりまして……。

令和4年度高村光太郎記念館講座「光太郎のそば粉おやつ教室」

期 日 : 2022年1月29日(日)
会 場 : 花巻市生涯学園都市会館(まなび学園) 岩手県花巻市花城町1-47
時 間 : 午前10時30分から正午 まで
料 金 : 1,000円程度(材料代、保険料)
対 象 : 花巻市在住の小学生とその保護者5組(抽選)
       注)きょうだいなどの場合は1名まで同行できます
締 切 : 1月6日(金)
申 込 : 定員をこえる場合は抽選となります。
      定員に達しない場合は、定員に達するまで引き続き募集いたします。
      次のいずれかの方法でお申し込みください。
      花巻市生涯学習課(0198-41-3587)へお電話ください。
      専用申込フォームへアクセスし、必要事項をご入力のうえ、ご送信ください。

高村光太郎にちなんだおやつを親子で作る講座です。そば粉を使ったカップケーキを作り、光太郎と食について学びます。

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現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の関連行事です。

光太郎が昭和20年(1945)秋から、花巻郊外旧太田村の山小屋で始めた蟄居生活。光太郎は、米よりも入手しやすいそば粉を使ってパンを作ることを思いつきます。味噌を加え、重曹をいれて焼いてふくらませ、もらい物のバターや黒蜜などをつけて食べてみると、なんとも美味しかったようで、繰り返しこれを作って食べていました。

講師はやつかの森LLCの皆さん。道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」や、花巻のタウン誌『花巻散歩Machicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」のメニュー考案をなさっている方々です。それらでもそば粉のパンは取り上げられていました。

対象は花巻市内ご在住の方に限るようですが、他の自治体等の皆さん、こういう取り組みもあるよ、ということで、ご参考までに。

明日もグルメ系の話題をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

宮崎丈二氏くる、「花霞」売出しの木版びらを持参、大正十二年のものらし、

昭和30年(1955)11月6日の日記より 光太郎73歳

宮崎丈二」は詩人。この頃、よく光太郎が起居していた貸しアトリエを訪れていました。「「花霞」売出しの木版びら」は、関東大震災直後、光太郎が智恵子の実家の福島長沼酒造から銘酒「花霞」を取り寄せ、にわか酒屋を始めた際に撒かれたものです。

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宮崎がどうやってこんな古いものを入手したのか、そのあたりは謎ですが。

新刊です。

「人間ではないもの」とは誰か-戦争とモダニズムの詩学-

2023年1月7日 鳥居万由実著 青土社刊 定価3,600円+税

動物になる、人間になる、機械になる——
大正末から昭和初期、社会構造の変動と戦争の到来によって危機を迎えつつあった人間という「主体」は、モダニズムの時代と表現を作り出した。やがて詩人たちが謳いあげる人間の像も変貌していくこととなる。ときに昆虫として、工場の機械として、戦地を飛ぶ鳥として、動物園の猛獣として、おっとせいとして、「人間ではないもの」が跋扈しはじめていた。左川ちか、上田敏雄、萩原恭次郎、高村光太郎、大江満雄、金子光晴……。時代に浚われていった詩人たちの作品を渉猟し、プレヒューマンとポストヒューマンを架橋していく新たな批評がここに芽生える。卓越した詩人でもある著者による画期となる決定的著作。
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[目次]
凡例
序章
 1 人間の「主体」とイデオロギーの関係
 2 本書の構成
 3 モダニズムとは何か
 第一部 モダニズム詩における「人間ではないもの」の表象
  第一章 ジェンダー規範と昆虫――左川ちか
   はじめに
   1 「何者でもないわたし」
   2 永遠なる他者「詩のミューズ」
   3 「詩のミューズ」の殺害
   4 人間ではないものに内面を託すこと
  第二章 人間主体を抹消する機械――上田敏雄
   はじめに
   1 人間を詩から抹消する
   2 分裂する自我
   3 大衆消費社会と自己意識
    3―1 広告の影響
    3―2 劇場としての都市空間
    3―3 劇場空間への風刺
   4 『仮説の運動』
   5 「燃焼する水族館」
  第三章 主体の解体と創造――萩原恭次郎
   はじめに
   1 農村に安らう身体
   2 都市環境における身体の変化
    2―1 人工空間
    2―2 交換価値のない魂
    2―3 無用の機械としての肉体
    2―4 枯れていく自然
   3 規律を離れた無用の身体
   4 新しい主体への創造と破壊
    4―1 首のない身体――全体に従わない部分
    4―2 機械による感覚の解体
    4―3 メディアによる存在感覚の変容
   5 結び直される主体
 第二部 戦争詩における「人間ではないもの」の表象
  第一章 戦時下の理想的な人間主体
   はじめに
   1 空間軸に位置付けられる主体
   2 時間軸に位置付けられる主体
   3 個人の集合体への溶融
   4 そして沈黙が支配する
  第二章 自己と他者が出会う場所――高村光太郎
   はじめに
   1 清らか・純潔であろうとする傾向
   2 「純粋な」動物に託される自己
   3 動物園における「見る/見られる」
   4 戦争詩における動物性の反転
  第三章 戦争の中の機械と神――大江満雄
   はじめに
   1 プロレタリア詩人時代
    1―1 機械の肉体
    1―2 機械の精神
   2 転向後の変化
    2―1 故郷という原点への回帰
    2―2 「鷲」の登場
    2―3 みずから狂気を選ぶこと
    2―4 国の滅びと個人の発見
    2―5 肉体の抽象化
    2―6 機械と神が残したもの
  第四章 「人間ではないもの」として生きる――金子光晴
   はじめに
   1 抵抗詩以前の動物
   2 戦時下における権力構造と動物
    2―1 流民/苦力
    2―2 犬/天使
    2―3 おっとせい
    2―4 鮫
   3 自画像としての「人間ではないもの」
    3―1 アブジェクトとしての自画像
    3―2 へべれけの神
    3―3 「大腐爛頌」
  終章
   1 動物と機械表象が登場する詩
   2 現代とこれからの展望
参考文献一覧
初出一覧
あとがき
索引

[著者]鳥居万由実(とりい・まゆみ)
1980年東京都生まれ。文学研究者、詩人、英日翻訳家。東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程修了。博士(学術)。論文に、「金子光晴の詩集『鮫』におけるヒエロニムス・ボッシュの影響」(『言語態』2018年3月)などがある。2008年、第一詩集『遠さについて』(ふらんす堂)により中原中也賞最終候補。他に、実験的散文集『07.03.15.00』(ふらんす堂、2015年)がある。

奥付は1月7日発行となっていますが、旧臘中には届きました。

詩のモチーフとしての「人間ではないもの」(動物やら機械やら)と、詩を書く主体である「人間」とが、どう交叉し、何が仮託され、また一人の詩人の中でそれらがなぜ、どのように変容していったのか,そして「戦争」とのからみなど、鋭い視点で読み解く評論集です。

000光太郎に関しては、「第二章 自己と他者が出会う場所――高村光太郎」で詳述されている他、随所にその名が見えます。

「光太郎」「動物」とくれば、連作詩「猛獣篇」。光太郎生前に「猛獣篇」として出版されることはありませんでしたが、雑誌発表時など題名に「猛獣篇より」といった付記が添えられた詩群です。それらの中から詩篇を選択し、光太郎歿後の昭和37年(1962)になって、当会の祖・草野心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで刊行されました。印刷、製本等には当会顧問であらせられた故・北川太一先生もご協力なさいました。

著者の鳥居氏、「猛獣篇」構成詩を中心に、「智恵子抄」収録詩を含むそれ以外の詩篇や散文等も引きつつ、光太郎の内面を剔抉しようとなさっています。

氏が取り上げられた「猛獣篇」構成詩は引用順に「清廉」(大正14年=1925)、「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)、「森のゴリラ」(昭和13年=1938)、「傷をなめる獅子」(大正14年=1925)、「白熊」(〃)、「象の銀行」(大正15年=1926)、「苛察」(〃)、「マント狒々」(昭和12年=1937)、「象」(〃)。

これらの詩篇だけでも光太郎と「猛獣」の関係性がいろいろ変化していますし、「猛獣」に仮託される内容も激変しています。さらに「猛獣篇」と並行し、或いは前後して作られた詩でも、「猛獣篇」と同趣旨のものが見られ、そのあたりに関しても考察が試みられています。戦時中の翼賛詩にも「猛獣篇」の残滓が見られるという指摘にはなるほど、と思わされました。

ところで「猛獣篇」、謎の多い詩群です。

比較的有名な作で鳥居氏も引用されていた「象の銀行」は、未だに初出掲載紙が不明のままですし(情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いですが)、「猛獣篇」の指定があるものとそうでないものとの線引きが曖昧だったりもします。

そして「猛獣篇」最後の詩。現在確認出来ている光太郎自身の指定では、昭和14年(1934)、河出書房から刊行された『現代詩集 第一巻 高村光太郎 草野心平 中原中也 蔵原伸二郎 神保光太郎』で、「猛獣篇より」という項が設けられ、その最後の詩は「北冥の魚」。同年、雑誌『鵲』に発表されたもので、モチーフは何と動物ではなく潜水艦です。発表誌や遺された草稿には「猛獣篇」の指定はありませんが、なぜこれがここに置かれたのか、何とも不明です。今後の諸氏の考察を待ちたいところです。

さて、『「人間ではないもの」とは誰か-戦争とモダニズムの詩学-』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

装幀全部終る、 午后横臥、


昭和30年(1955)11月4日の日記より 光太郎73歳

装幀」は、翌年筑摩書房で刊行が始まった『宮沢賢治全集』の装幀です。中原中也『山羊の歌』など文学史に残る数々の書籍・雑誌等の装幀を手がけた光太郎でしたが、その最後の仕事がこれでした。

毎年恒例となっていますが、昨日は初日の出を拝みに、九十九里浜に行っておりました。

以前は昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が療養していた現在の九十九里町の片貝海岸まで足を伸ばしておりましたが、そちらは近年、複雑な形の巨大防潮堤が出来てしまい、味気ない感じになってしまいましたので、昨年からは自宅兼事務所のある香取市に隣接する旭市でご来光を拝んでいます。

ついでに言うと、17歳で逝ってしまった愛犬が健在だった頃は毎年連れて行きましたが、一人で行くようになって3回目でした。現在も居る愛猫ではこんな際のお供は務まりません(笑)。

今年は、昨年行った足川浜というところからさらに南の海岸で。昨年の場所は車を駐めたり出したりで少し苦労しましたので。今年はそのあたりスムーズに動ける場所を探し出しました。それでもそれなりの人出でした。
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現地に着いた午前6時過ぎ。すでに東の空は茜色。
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西高東低の冬型の気圧配置で、太平洋上には低気圧があるため水平線上には雲がかかっていましたが、その上は快晴状態。なかなかいい条件でした。

それから、ここ数年で最も気温が高かったように感じました。それを裏付けるように、海面には海霧。幻想的でした。
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それでもやはり寒いのは寒いので、流木を集めて焚き火。
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この場所から右手の方。遙か遠く霞んでいる辺りが智恵子が療養していた片貝方面です。
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さて、6時50分過ぎ、雲の上に太陽が姿を現しました。
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人々の間からは歓声も。

コロナ禍やウクライナ侵攻、むちゃくちゃな日本の政治状況など、今年は解決して良い年となるようにと祈らざるを得ませんでした。

さて、夜。BS朝日さんで放映された「暦に集う ダイヤモンド富士」を拝見。
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昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため光太郎が訪れ、それを記念して昭和62年(1987)には光太郎文学碑も建立された山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区。冬至の前後には富士山頂から日が昇る「ダイヤモンド富士」現象が見られる場所です。
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おそらく冬至の頃にロケが行われたのでしょう。アマチュアカメラマンの方々にお話を聞いていました。
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三田寛子さんによるナレーションでは昭和17年(1942)にこの地を訪れた光太郎が「こんなに立派な富士山は初めてだ」と感嘆したということに触れて下さいました。しかし、すぐ近くの光太郎文学碑は映されませんでした。

日テレさん系のニュースでも取り上げられました。光太郎の名は出ませんでしたが。

新年への願い込め…富士山の山頂から昇る“ダイヤモンド”初日の出 山梨・富士川町

 1日、山梨県富士川町では富士山の山頂から昇る初日の出に多くの人が新年への願いを込めました。
 山梨県富士川町の高下地区では毎年この時期、富士山頂から朝日が昇るダイヤモンド富士を見ることができます。
 1日は多くの人が訪れ初日の出を見ようとその瞬間を待ちました。
 そして午前7時26分ごろ、訪れた人は太陽と富士山が作る幻想的な光景に新年への願いを込めていました。
 訪れた人「20歳になって初めて見た初日の出だったのでよかった」
 訪れた人「自分は営業の仕事をしているが、去年の成績よりもことしは上を目指したい」
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かえすがえす、良い年になってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

長岡輝子さんくる、ブドウ酒2本もらふ、朗読について、


昭和30年(1955)11月3日の日記より 光太郎73歳

女優の故・長岡輝子さんが、中野の貸しアトリエを訪問なさったとのこと。長岡さんといえば、岩手のご出身で、同郷の宮沢賢治作品の朗読などでも有名な方でした。また、お父さまが光太郎と交流のあった渡辺えりさんは、長岡さんの舞台をご覧になって演劇の世界に進むことを決意されたそうです。

2023年、令和5年となりました。本年もよろしくお願い申し上げます。
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画像は今年の年賀状。竹橋の東京国立勤惰美術館さん所蔵の光太郎木彫「兎」です。

未だコロナ禍明けやらぬ感がありますが、3年間中止としてきた連翹忌の集い(4月2日(日))、今年こそは実施したく存じます。


さて、今年は明治16年(1883)出生の光太郎生誕140周年となります。これから企画展示等の計画に着手される皆様、その点を推しにしていただければと存じます。

それ以外に光太郎がらみはどんな周年になるか調べてみました。

130年前 明治26年(1893) 光太郎11歳 智恵子8歳

光太郎の父・光雲が、シカゴ万博出品作の木彫「老猿」を完成させました。また、光雲が主任となって東京美術学校として引き受けた「楠木正成銅像」の木型が完成し、宮中で天覧に供されました。

また、智恵子が数え8歳で福島県安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校に入学しました。

120年前 明治36年(1903) 光太郎21歳 智恵子18歳
東京美術学校在学中の光太郎が、海外の雑誌に載ったロダンの彫刻作品の写真を初めて目にしました。

智恵子は福島高等女学校を首席で卒業し、日本女子大学校に入学しました。

110年前 大正2年(1913) 光太郎31歳 智恵子28歳
光太郎智恵子、一夏を信州上高地で過ごし、婚約を果たしました。

光太郎は解散したフユウザン会に代わって、岸田劉生らと生活社を興しました。

100年前 大正12年(1923) 光太郎41歳 智恵子38歳
光太郎が有島武郎にブロンズの「手」を贈りました。有島もそれに応えて詩「手」を書きましたが、その後、自ら命を絶ちました。

結婚以来途絶えていた「智恵子抄」収録詩篇でしたが、「樹下の二人」が書かれ、復活しました。

9月には関東大震災。光太郎は福島の智恵子の実家・長沼酒造から酒を取り寄せ、にわか酒屋を始めました。

90年前 昭和8年(1933) 光太郎51歳 智恵子48歳
心を病んでいた智恵子の状態が芳しくなく、先に自分が逝ってしまった場合の遺産相続等を考え、光太郎はそれまでの事実婚に終止符を打ち、婚姻届を提出しました。

心を病んでいた智恵子を伴って、東北・北関東の温泉巡りをしました。廻ったのは5月には草津温泉、8月から9月にかけては磐梯川上温泉、蔵王青根温泉不動湯温泉塩原温泉でした。

9月には花巻で宮沢賢治が没。智恵子の世話にかかりきりの光太郎は、当会の祖・草野心平を自分の名代として花巻に遣りました。

80年前 昭和18年(1943) 光太郎61歳
太平洋戦争中。
黒歴史の最たるもの、翼賛詩集『をぢさんの詩』を刊行しました。

70年前 昭和28年(1953) 光太郎71歳
青森県十和田湖畔に、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が除幕されました。

というわけで、光太郎生誕140周年と共に、「乙女の像」が古稀を迎えます。そのあたり前面に押し出してのイベント等企画していただけるとありがたいのですが……。

何はともあれ、本年もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

后北川太一氏新婚の細君同伴来訪、二本松訪問の話をきく、果物、はんぺん等もらふ。

昭和30年(1955)10月27日の日記より 光太郎73歳

当会顧問であらせられた故・北川太一先生。奥様の故・節子様ともども新婚の挨拶に光太郎を訪問されました。「二本松訪問」はお二人の新婚旅行でした。

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