2022年07月

3件ご紹介します。

まず、もう今夜のオンエアですが……。

バナナマンのせっかくグルメ★日村が夏の長野へ!ギャル曽根に飯尾&ケンコバも爆食

地上波TBS 2022年7月31日(日) 18:30~20:54 

日村は長野市で夏の大自然とブランド豚ステーキ&特大㊙ハンバーグに感動★熊本阿蘇でギャル曽根あか牛爆食★バナナマンと仲良し!飯尾&ケンコバ岩手花巻で自由気まま旅

【日村さん長野市で夏の大自然&絶品飯を満喫!】
 ★味の深みがスゴイ!こだわりスープの絶品ラーメン
 ★とにかく柔らかい!ブランド豚の極上ステーキ
 ★人気ステーキハウスの炭火焼き特大㊙ハンバーグ×白米に興奮
 ★超老舗みそ専門店で絶品スイーツを堪能
 ★長野市の有名企業×せっかくグルメのコラボグッズを視聴者プレゼント!応募方法は放送内で発表するのでお見逃しなく!
【バナナマンと仲良し!飯尾&ケンコバが岩手県花巻へ】
 ★食通の二人も唸った!旨辛ニララーメン&極上ホルモン&人気町中華チャーハン
 ★温泉入浴…睡眠…軽いルール違反…制御不能の自由旅にバナナマンも爆笑!
【ギャル曽根さん熊本阿蘇でのグルメ探し続編!】
 ★老舗の極上あか牛グルメを興奮気味に爆食!
出演者
 ★MC:バナナマン(設楽統・日村勇紀)
 ★スタジオゲスト:鷲見玲奈・山下健二郎(三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE)
 ★ロケゲスト:飯尾和樹、ケンドーコバヤシ、ギャル曽根

この番組、バナナマンの日村さん、それからゲストの皆さんが日本各地を訪れ、地元の方々のお薦め情報をもとに地元グルメを堪能するというコンセプトです。

ずんの飯尾さん、ケンドーコバヤシさんが花巻に。
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メインは市街地の中華系のようです。
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飲食店以外に、円万寺観音堂さん。光太郎とも親しかった僧侶にしてチベット仏教学者の多田等観が堂守を務め、光太郎も足を運んだ場所です。
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さらに光太郎や宮沢賢治も愛した大沢温泉さん。
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続いて、8月2日(火)。

開運!なんでも鑑定団【お宝は世界を救う!美人画大作&最高峰焼き物に驚き値】

地上波テレビ東京 2022年8月2日(火) 20:54〜21:54

■盲目の子どもたちに光を…お宝は世界を救う!?<美人画大作>に衝撃値■茶人が特別に注文!?…最高峰<中国焼き物>に驚き鑑定額■福島出張鑑定…仰天<ペコちゃん人形>■

依頼人は認定NPO法人「ヒカリカナタ基金」の理事長を務めており、途上国の目の不自由な子供たちを助けるべく、日本から治療費を送る活動をしている。ご自身も8歳の時に失明し、その後盲学校の教師となった。1964年の東京パラリンピックで盲人卓球に出場し、なんと金メダルを獲得したことも! お宝は支援者の方から「NPO法人で役立ててほしい」と頂いたもの。とても大事にしてきたが、途上国の子供たちの目を助けるため手放すことを決意した。果して売却額は!?

出演者
 【MC】今田耕司、福澤朗  【ゲスト】マルシア
 【アシスタント】片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
 【出張鑑定】出張鑑定 in福島県・二本松市  【出張リポーター】原口あきまさ
 【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

鑑定士軍団
 中島誠之助(古美術鑑定家) 北原照久(「ブリキのおもちゃ博物館」館長)
 安河内眞美(「ギャラリーやすこうち」店主) 川上紳一(岐阜聖徳学園大学教授)
 山村浩一(「永善堂画廊」代表取締役) 森由美(陶磁研究家)
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「出張鑑定」が智恵子の故郷・福島二本松だそうです。このコーナー、最初に街の紹介が入りますので、光太郎智恵子、ほんとの空といった紹介がなされてほしいものです。

ちなみに平成28年(2016)12月には、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市で出張鑑定の収録が行われ、当方、拝見に伺いまして、客席に座っている姿が映りました(笑)。

もう1件、同日の放映。ただし再放送です。

再 福島をずっと見ているTV(99)「ここで生きていくことが、“復興”」

NHK Eテレ 2022年8月2日(火) 14:30~15:00

福島県川内村。原発事故で一時は全村民が避難したが、いち早く帰村を推し進めた結果、もといた住民の8割が戻ったことでも知られている場所だ。いまここで、古民家を利用し、新たな交流拠点を作ろうと奮闘しているのが、志賀風夏さん(川内村出身)。年齢も性別も関係なくみんなが集まれる場所を作りたいという志賀さんは「在りし日の“村の良さ”を取り戻したい」と語る。真の復興とは何なのか、風夏さんの姿を通じて考えていく。

出演者
【司会】箭内道彦,【出演】横田龍儀,【アナウンサー】合原明子,【語り】相沢舞
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初回放映が7月27日(水)でして、拝見しました。舞台は双葉郡川内村。当会の祖・草野心平が愛した村で、心平を名誉村民に認定して下さっています。
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冒頭近く、心平を祀る天山祭、今年7月9日(土)の映像。
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そして、志賀風夏さん。
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心平の別荘「天山文庫」、併設されている「かわうち草野心平記念館」の管理人さんです。
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志賀さん、平成30年(2018)にも、この番組で取り上げられました。

元々、川内村のご出身で、進学のため村を離れたもののUターン。亡きお父さまの跡を継いで陶芸家としてもご活動。さらにこの秋には古民家を改装してカフェを開かれるということで、村外のボランティアの方、村内の小学生親子などを巻き込んでの活動に密着取材。
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その信念は、番組サブタイトルにもなっているとおり、「ここで生きていくことが、“復興”」。頭が下がります。

スタジオゲストは、横田龍儀さん。ミュージカル「刀剣乱舞」などでご活躍中だそうですが、川内村のご出身、さらに何と、志賀さんの同級生だったとのこと。
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横田さんは横田さんで、自分がメジャーになることで、復興に関する発言に重みが増すので、それを目指しているそうです。そういうアプローチもあるのですね。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

瀬川幸蔵氏くる、阿部さんのリンゴをもらふ、夕方一緒に新宿、ビール、トンカツにて別れる、

昭和28年(1953)9月26日の日記より 光太郎71歳

「瀬川幸蔵氏」は、花巻町中心街在住の人物。光太郎の花巻郊外旧太田村での蟄居中にも交遊がありました。詳細は不明ですが、やはり光太郎と親しかった花巻の阿部博が作ったリンゴを土産に上京、中野のアトリエに光太郎を訪ねました。他にも花巻町や旧太田村の人々は、けっこう上京するたび光太郎のもとを訪れています。いかに光太郎が愛されていたかの証左ですね。

一昨日の『中日新聞』さん一面コラム。

中日春秋 2022年7月28日

 首相在任中に病に倒れ、退陣後に没した自民党の小渕恵三氏に対する国会での追悼演説は二〇〇〇年五月、野党・社民党の村山富市元首相が行った▼小渕氏が首相時代に開催地を沖縄に決めたサミットが迫っていた。氏が学生時代から通い、米国統治下の苦難を学んだ土地▼日本は東京以外でのサミット開催経験がなかったが、慎重論に与(くみ)せずあえて沖縄を選んだことを村山氏は称(たた)えた。「熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほどわかります」「沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった」▼安倍晋三元首相への追悼演説を同じ自民の甘利明氏が行う案に野党から異論が出ている。人選は遺族の意向らしい。自民党首相経験者への追悼演説は野党が行うのが慣例で、党派を超えて哀悼の意を表してきた。大平正芳氏の場合も、社会党委員長が演説した▼今回は、反発も承知で安倍氏の国葬を決めながら、追悼演説は身内…。再考した方がよさそうに思える▼村山氏は、小渕氏が愛唱した高村光太郎の詩『牛』を引用し、人柄をしのんだ。「牛は随分強情だ/けれどもむやみとは争はない/争はなければならない時しか争はない/ふだんはすべてをただ聞いてゐる/そして自分の仕事をしてゐる」。我を通すべきことの選択を誤ると、民の心も離れる。

当初、8月3日召集の臨時国会で検討されていた追悼演説は、なぜか延期の方向だそうですが、その理由の一つが、指名されたA氏が「静かな環境でやるべき」とのたまったとのことで、まさに「おまいう」(笑)。大臣室で現金を受け取った人物の発言とは思えませんね。

平成12年(2000)5月に衆議院本会議で行われた、村山富市氏による小渕恵三氏への追悼演説。光太郎に関わる部分の前後のみ抜粋します。

000 昭和三十八年の初当選以来、福田、中曽根元総理らと議席を争った厳しい選挙区環境がつくり出した庶民的な「人柄の小渕」は、総理になってからも何ら変わることはありませんでした。
 昨年、ブッチホンという流行語大賞に選ばれたほど、常に市井の声に耳を傾け、国民と同じ目線で物事を見る屈託のない姿勢は、国民の共感するところでございました。
 君がよく愛唱した高村光太郎の
  牛は随分強情だ
  けれどもむやみとは争はない
  争はなければならない時しか争はない
  ふだんはすべてをただ聞いてゐる
  そして自分の仕事をしてゐる
  生命をくだいて力を出す
君の人生はまさにこの詩のごとくでありました。
 君の人柄について語るとき、いつも謙虚であろうとした君の姿勢について触れないわけにはいきません。
 みずからが凡人であることを片時も忘れないよう心がけておられました。それは、口に出せば簡単ですが、凡人にはなかなかできないことであります。いかなる地位にあっても偉ぶらず、常に謙虚で目線を低く生きる、そして凡人だから懸命に努力する、そうした姿勢が凡庸に見えて非凡という境地を開かれたのであります。(拍手)
 その牛にも似た、地道で人知れぬ努力があったからこそ、一国の指導者にまで上り詰めたのでありましょう。
 もはやこの議場に君の温容を目にすることはできません。耳を澄ませば、今も、力強い中にも優しさのこもった声が聞こえてくるではありませんか。
 小渕君、君に課せられた宰相という厳しい重責は、君に一刻の休息も許しませんでした。本当に御苦労さまでした。

もう22年も経つか、という感じですが、この頃はこの頃でいろいろあったものの、まだ健全な世界でしたね。

「牛」全文はこちら(閲覧注意! 超長い詩です(笑))。

【折々のことば・光太郎】

午前十時頃大町桂月の長男芳文氏と文京区文化係長中出忠勝といふ人来る、メダルなど見せる、亡父によく似てゐるとの事、


昭和28年(1953)9月27日の日記より 光太郎71歳

完成作としては光太郎最後の彫刻となった小品「大町桂月メダル」。翌月行われた「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」除幕式に際し、関係者に記念品として配付されたものです。元々「乙女の像」は、十和田湖の景勝美を世に広めた桂月ら「十和田の三恩人」顕彰のためのものでした。
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原型が完成し、桂月の子息に見てもらったとのこと。なぜ文京区の役人が同席していたのかは不明ですが。ちなみに子息・芳文は農学者。光太郎実弟にして藤岡家に養子に行った同じく農学者の孟彦とは昵懇の間柄でした。

ところで9月に行われる予定の「国葬」とやら(ここへきていろいろあるD社とのズブズブぶりが報じられていますが)で、当該人物の肖像を刻んだメダルなど配付されたりはしないでしょうね(笑)。

正直、これほど早く達成するとは思っていませんでした。

信州安曇野の碌山美術館さん。64年前に建てられた煉瓦造りの本館「碌山館」の損傷が激しく、コロナ禍による入館者激減などもあり、修繕費用を募るクラウドファンディングが行われていますが、昨日、目標額の700万円に到達したとのこと。まだまだ世の中捨てたもんじゃないなと思いました。

受付の始まった7月15日(金)にこのブログでご紹介し、「まぁ、達成できるだろう」とは思っていましたが、たった2週間での目標額到達。いかに同館が地域に、さらに全国的に愛されてきたかがわかりますね。

「まぁ、達成できるだろう」とは思っていましたが、このブログでもう一押しするか、と思っていた矢先で、そのためのネタも見つけてありました。当方、クラウドファンディングには詳しくありませんが、目標額をクリアしても終わりでなく、さらに支援を受け付けるようなので、ご紹介します。SBC信越放送さんのローカルニュース、7月21日(木)のオンエアでした。

雨漏り…レンガに亀裂…「碌山美術館」ピンチ! 修繕費は500万円超…どうする? 館長 長野・安曇野市

長野県内有数の観光地・安曇野のシンボルのひとつに碌山(ろくざん)美術館があります。教会をイメージさせるレンガ造りの趣きのある建物。この建物がピンチとなっています。館長が美術館を守るため選んだ方法とは?
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安曇野市穂高にある碌山美術館。

(幅谷啓子館長)「坑夫っていうのは、パリで作ったのを持ち帰った作品、高村光太郎が絶賛して持ち帰るようにすすめてくれた作品」
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美術館には明治時代の彫刻家・荻原碌山(おぎはら・ろくざん)の代表作の彫刻15点が、展示されています。碌山は、現在の安曇野市の出身、近代彫刻の礎を築きました。
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作品が展示される「碌山館(ろくざんかん)」。
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教会をイメージさせるレンガづくりが特徴の美術館は、住民の力で造られました。建設されたのは、今から64年前の1958年のこと。「碌山の美術館を作ろう」と、地元の教員たちが呼びかけ、賛同した人々、およそ30万人からの寄付金で、誕生しました。
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その証は、今も美術館に残っています。「開館に携わって頂いた方約30万人の方たちの力で生まれましたっていうプレート」
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幅谷館長が、美術館の異変に気づいたのは、2021年の夏のことでした。「風とか雨が強い時は雨が流れ落ちる状態、こういう跡があるんですけどずっと流れたような跡があります」美術館を襲った雨漏り。
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外の壁のコンクリートやレンガにも亀裂が入っていました。「これをこのまま放置しとくとどんどんひどくなるし」
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美術館の修繕は、待ったなしの状態。ですが、500万円以上かかる費用を捻出できる状況にないのです。
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「入館者の方が減ってまして、運営面も大変になりまして預貯金を取り崩して今運営をしている状態」新型コロナの感染拡大で、来館者が激減。コロナ前は、年間、2万7千人ほどが訪れていましたが、2021年はおよそ1万5千人にまで減りました。

美術館をどう守っていけばいいのか? 幅谷館長が、7月ある挑戦を始めました。インターネットで寄付を募る「クラウドファンディング」です。
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住民の寄付で誕生した美術館。もう一度、住民の力に美術館のこれからをゆだねることに決めました。「皆さんの力で修理を始めたいと思って、碌山の彫刻をこれからもずっと長く皆さんに親しんでもらいたい、この碌山館を作品とともに長く後世に伝えたい」目標金額は700万円。
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住民の力で誕生した美術館、幅谷館長の思いは届くのでしょうか? 寄付の募集期間は、8月31日までです。
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8月31日(水)まで、寄附の受付は継続されるようです。目標金額以上、いくら集まっても困ることはないでしょう。こうなったら大台突破も有りうるかもしれませんし、ぜひよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

夜熊谷氏(AK)来訪せし由、 九時半「九十九里」放送の中に余のもの引用の由。

昭和28年(1953)9月24日の日記より 光太郎71歳

AK」はJOAK、NHKさんの東京放送ですね。昭和9年(1934)、半年あまり智恵子が療養した千葉の九十九里浜を紹介する番組内で、光太郎作品を引用するその許諾ということでしょう。当該番組、録画放映の技術はまだ確立されておらず、おそらくテレビではなくラジオだったと思われます。

類書は世に多く、しかし出版社やご著者の方のスタンスによっては、読むに堪えないものも少なからず存在するのが現状ですが、これは違いました。

この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか

2022年6月30日 奥泉光/加藤陽子 河出書房新社(河出新書) 定価968円(税込み)

今こそ、「日本人の戦争」を問い直す。日本はなぜ、あの戦争を始めたのか? なぜ止められなかったのか? 戦争を知り尽くした小説家と歴史家が、日本近代の画期をなした言葉や史料を読み解き、それぞれが必読と推す文芸作品や手記などにも触れつつ、徹底考察。「わかりやすい物語」に抗して交わされ続ける対話。「ポツダム宣言」「終戦の詔書」を読む解説コラムも収録。

著者
奥泉 光 (オクイズミ ヒカル)
1956年山形県生まれ。1986年に『地の鳥 天の魚群』でデビュー。1993年『ノヴァーリスの引用』で野間文芸新人賞、1994年『石の来歴』で芥川賞、2009年『神器』で野間文芸賞を受賞。

加藤 陽子 (カトウヨウコ)
1960年、埼玉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。専攻は日本近現代史。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』『戦争まで』『戦争の日本近現代史』など著書多数。
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目次
 はじめに(奥泉光)
 Ⅰ 太平洋戦争とは何かを考えるために
  戦争と物語
  国民統合の方法としての軍隊
  お天道様と公道
  民衆にとって天皇とは?
  自制を失う「帝国」
  主権線・利益線論と物語としての日露戦争
  不戦条約と軍隊像の転換
  リットン報告書を拒絶、そして満州事変へ ……
 Ⅱ なぜ始めたのか、なぜ止められなかったのか
  なぜ満州か
  国際連盟脱退と各国の思惑
  感情に訴える国民向けの宣伝
  陸海軍共通の仮想敵・アメリカ
  南進論と三国同盟の要点
  変わりゆく「中立」
  「もやもや」が消えてゆく
  対米開戦の裏側
  日本の勝算?
  日本的「空気」という謎 ……
 【解説コラム】「ポツダム宣言」を読む/「終戦の詔書」を読む
 Ⅲ 太平洋戦争を「読む」 
  戦争を支える気分――清沢洌『暗黒日記』
  物語を批判する小説――田中小実昌『ポロポロ』
  個人と国家の媒体なき対峙――山田風太郎『戦中派不戦日記』
  現代日本のこと?――山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』 ……
 おわりに(加藤陽子)

光太郎生誕前年(明治15年=1882)に出された「軍人勅諭」に始まり、日清・日露戦争、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争と、最新の歴史学的知見、当事者たちの書き残したものへの考察を盛り込みつつ、「この国の戦争」を語る対談です。

「なるほど、そう解釈すれば腑に落ちる」「これとこれをこう関連づけるか」という感じで、目から鱗
の連続でした。同時に愚かな為政者に対し「「困ったちゃんあるある」だなぁ」と思わせられる指摘も。

そして、戦争の遂行に果たす「文学」「言葉」「物語」の役割。

「これは!」と思った箇所をいくつか。

「戦前」体制というと、どうしても不吉な響きがしてしまうのは、二〇世紀前半の昭和「戦前」体制が、自国民だけで三百万人を超える、侵略したアジア地域や交戦国を含め二千万人もの死者を出す未曾有の厄災に繋がった記憶があるからだ。しかもいまもなお昭和「戦前」に懐旧の情を抱き、それをほとんどパロディーのごとくに再構しようと欲する政治勢力が存在するから厄介だ。だが、いま求められるべきは、昭和とは違う「戦前」、戦争をしないための「戦前」体制の構築である。
(「はじめに」)

アジア・太平洋戦争の歴史を問うことは、戦争で亡くなった方々の霊を慰める営みでもあるだろう。彼らの死を犠牲の死として捉えること。それには死者を神話的な「物語」に閉じこめてはならない。彼らを歴史のなかに、人々が対話的に交わる「場」として歴史のなかに、絶えず解放し続けなければならない。神話ではなく、対話を!
(同)

戦争一般が非合理なものをはらむのは間違いないにしても、それを超えた、戦死者の半ば以上が餓死や病死であるような作戦が立案され実行されてしまう、あるいは戦艦大和の出撃にしても、確実に沖縄までは到達できないとわかっていながら、あえて出撃して三〇〇〇人の人間が死んでしまう。そうした度を超えた非合理制にはやはり関心を向けないわけにはいかない。
(「Ⅰ 太平洋戦争とは何かを考えるために」)

政治や宗教や法律だって言葉が人を動かすのだけれども、言葉の外に力の根拠、裏付けがある。最終的には言葉ではないものが、たとえば暴力が言葉の力を支える。対して、文学は言葉それ自体が人を動かす力を持つ点が特徴です。だから政治に利用される。ずっと利用されてきたし、いまも利用され続けているわけで、だから歴史を捉えるには、それを的確に批評する作業が必要になる。
(同)

戦後まもない頃はGHQの誘導もあって、狂信的な軍部が日本を引っ張ってこういうことになっちゃったんだという説明がなされた。実際はそれですむことではないわけですが、しかしどうしてもわれわれはわかりやすい物語の中で物事を理解したいという欲望があるんですね。それが陰謀論の土壌にもなる。誰か悪い奴が厄災を引き起こしたんだということにしたくなる。単純な物語の枠にはめこんで歴史を描きたくなる。
(「Ⅱ なぜ始めたのか、なぜ止められなかったのか」)

国民の戦争へ向かうエネルギーは大変に大きかったわけで、米英との開戦からの三年八ヵ月あまりの時間は、それが敗勢のなか減衰していく時間だったと見ることもできるだろう。しかし、そのためにどれほどの犠牲を払わねばならなかったことか。
(同)

「情ニ於イテ忍ビザルモ、国家ノ為ニハ已ムヲ得ザルベシ」のように、昭和天皇自身、国家を前景化させつつ、天皇と軍人の特別な紐帯を否定しにかかったのが終戦の詔書といえるでしょう。
(同)

当時の国家の民衆に対する方針は、ようはものを考えることをさせないようにする、そういう方向です。国民の個性なんてものは一切認めない、思考することを認めない、ひたすら一元化していく。
(「Ⅲ 太平洋戦争を「読む」」)

やっぱり人々はわかりやすい物語を求めてしまうんですよ。単一の物語が欲しいんです。わかりやすい物語のなかで世界を捉えたい。それは日本だけの問題じゃないわけで、人間はそこからはなかなか逃れ難い。その欲求に応える物語がたくさん提供されてきたし、これからも提供されていくわけですが、文学はそれに抵抗しなければならない。
(同)

天皇の言葉としての勅諭や勅語が作成された時代の意義や読み方と、軍が政治化した後世の時代の読み方は異なってくる。(略)軍人勅諭の読み替えは、一九三二年の五・一五事件を契機になされ、教育勅語の読み替えは、一九四〇年の近衛新体制を契機に進んでいった。軍人勅諭、教育勅語、この二つの天皇の言葉が、時代とともに暴走していったのだ。
(おわりに)


さて、光太郎に関しては、「Ⅱ なぜ始めたのか、なぜ止められなかったのか」中で、ほんの少し。

加藤 日中戦争までは、国民の中に「もやもや」がまだあります。
奥泉 それが一気に日米戦で消えてなくなる。多くの人が一九四一(昭和一六)年一二月八日の朝の爽快感を書いていますよね。
加藤 竹内好は「歴史は作られた 世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。(中略)われらは、わが日本国と同体である」と書いています。
奥泉 高村光太郎の有名な「世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである」とかね。多くの人が似たような感想を記している。歴史の先端に立っているという感覚ですね。いま想像してみるに、ほんとうにそうだったんだろうなとつくづく思うんですよね。言葉を持つ階層の人たち、たとえば日中戦争の意味を考え悩んでいたような人たちは、とりわけ爽快に感じたんでしょう。


引用されているのは、昭和17年(1942)元日の『中央公論』に載った散文「十二月八日の記」の一節です。また、ほぼ同時に書いた詩「鮮明な冬」(同日の『改造』に掲載)には、「この世は一新せられた」、「だが昨日は遠い昔であり」の一節があります。光太郎ほどの人物でも、コピペまがいのことをやってしまっているわけで、まぁ、それを言ったら、この後発表される翼賛詩文のほとんどは、コピペとまで行かなくとも、同工異曲(この四字熟語、プラスの意味とマイナスの意味がありますが、当然ながらマイナスのベクトルです)、読むに堪えないものばかりですが……。

しかし、それが国民にうけました。こうした例が、本書両ご著者の指摘する「わかりやすい物語」の一つというわけですね。

ロシアによるウクライナ侵攻から5ヶ月。この「わかりやすい物語」の論法で行けば、「プーチン一人の狂気」のようなとらえ方が為されがちです。しかし、その背後にはさまざまな要因がからみあっているわけですし、「プーチン=悪」「ゼレンスキー=善」という単純な「わかりやすい物語」に落とし込むのは危険ですね。といって、ロシアの行為が正当化されるべきものでないことはあきらかですが。

同時に気になるのが、現状、ロシア国民がこれをどう考えているのか、です。プーチンらの提示した「わかりやすい物語」にとらわれてしまっているのでしょうか。さながら80年前の多くの日本人のように……。さらに「世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである」みたいなことを嬉々として書いている文学者が、現にいるのでしょうか。

さて、『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

夜「雁」映画を見に浅草にゆく、満員にてみられず、

昭和28年(1953)9月19日の日記より 光太郎71歳

明治後期、東京美術学校で光太郎の師であった森鷗外原作の小説「雁」。この年、豊田四郎監督、故・高峰秀子さん、故・東野英治郎さんらのご出演で映画化されました。

いわゆるライトノベルです。

小説家・芥木優之介には恋と飯が足りていない

2022年7月6日 硯昨真著 宝島社(宝島社文庫) 定価750円(税込み)

太宰治の“桜桃”、森鴎外の“饅頭茶漬け”――。謎の美女が繋ぐ“文豪グルメ”と“人の絆”。天才偏屈作家のほっこり恋物語!

芥木優之介は、大学時代に処女作で新人賞を総嘗めにし、文壇にデビューした小説家である。それから六年。全く文章を書けなくなった芥木は、古アパートで貧乏生活を送っていた。それは自身に課した「文筆業以外で稼いだ金で飯は食わない」ポリシーのため。そんな時、大家の姪という儚げな美女・こずえが現れる。栄養失調で意識が朦朧とする芥木に、“芋粥”を食べさせるこずえ。彼女にときめく芥木だが、「これからはお家賃の方をきちんとお願いします」と言われ、絶体絶命に! 偏屈で人間嫌いだった芥木だが、縁を切っていた人々と向き合うことになり……? 謎の美女が繋ぐ、“文豪グルメ”と“人との絆”。天才偏屈作家のほっこり恋物語!

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目次
 芥川龍之介の芋粥  谷崎潤一郎の小鰺の二杯酢漬け  太宰治の桜桃 前編 
 太宰治の桜桃 後編  宮沢賢治の天ぷらそばとサイダー  高村光太郎の牛鍋
 森鷗外の饅頭茶漬け  夏目漱石の落花糖


主人公・芥木優之介。その名の通り、芥川龍之介を彷彿とさせられる小説家です。しかし、芥川と違って(ある意味共通して)、いろいろ考えすぎるあまり、なかなか作品が書けない、という設定です。まぁ、一言で言うと「面倒くさい」(笑)。そうなってしまったのには、そうなってしまうだけの理由―この業界特有の―があるのですが、それは読み進めていくうちにおいおい明かされていきます。

他の登場人物は、芥木に負けず劣らず面倒くさく、彼を一方的にライバル視する作家・津島修也(いわずもがなですが、「津島」は太宰治の本名由来です)、芥木ファンが嵩じて作家デビューを果たした書店員・三鳥(「島」ではなく「鳥」です)、善人だけれどズレまくっている編集者・滝谷(しかし、欲得ずくでない仕事態度が芥木を動かし、再びペンを執らせます)、そして借家の大家にしてヒロイン的なこずえら、個性豊かな面々。

そこに目次にあるような、文豪たちが書き残したさまざまな料理や食材がからみます。そういった意味でも近代文学オマージュ的要素もふんだんに盛り込まれています。

われらが光太郎に関しては、詩「米久の晩餐」(大正10年=1921)がモチーフの「高村光太郎の牛鍋」。この章には『智恵子抄』巻頭を飾った詩「人に」(「いやなんです/あなたのいつてしまふのが」)も使われ、こずえに対して揺れ動く芥木の心情が象徴されます。特に「――それでも恋とはちがひます」というフレーズ。

作者の硯昨真氏、存じ上げない方でしたが、どうもご自身のご経験をかなり落とし込んで書かれているのでは、と思われます。作家としてデビューし、編集者との丁々発止のバトルなどの苦労等。妙にリアリティーがあります。違っていたらごめんなさい、ですが。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

中野の祭礼、みこし出てゐる、 夜在宅、 タウリンエキスをのむ、

昭和28年(1953)9月15日の日記より 光太郎71歳

中野の祭礼」は、9月半ばということで、おそらく中野氷川神社さんの祭礼と思われます。「タウリン」、この頃にはもう広まっていたのですね。1000㍉㌘かどうかはわかりませんが(笑)。

エンタメ作家・夢枕獏氏によるエッセイ集です。

仰天・俳句噺

2022年6月30日 夢枕獏著 文藝春秋刊 定価1,600円+税

ガンの病床で作ったのも、俳句でした。

俳句の話から、縄文、仏教、懐かしのプロレス話にあの人との逸話まで――縦横無尽に綴った仰天エッセイ!

リンパがんのステージⅢと診断され、ほとんどの連載もお休みに。そんな中で綴ったのは、長年秘かに続けていた俳句について。「俳句の季語は縄文である」と語る夢枕獏が、ずっと考えてきたこと、今書いておきたいことを詰め込んだ“夢枕節”炸裂の闘病×俳句(⁉)エッセイ。

【目次】
第一回  真壁雲斎が歳下になっちゃった         
第二回  尻の毛まで見せる
第三回  オレ、ガンだからって、ズルくね
第四回  「おおかみに螢が一つ――」考
第五回  翁の周辺には古代の神々が棲む
第六回  すみません、寂聴さん書いちゃいました
最終回  幻句のことをようやく
補遺   野田さん
あとがき 言葉の力・そしてあれこれ
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一言で言うと、俳句を軸とした交友録・文学論(さらには文明論)といったところでしょうか。

『陰陽師』などの大長編シリーズで有名な夢枕氏、それら長篇小説の対極ともいえる短詩系文学にも興味を持たれ、短歌には割と早くから取り組まれていたそうです。長編小説の世界観を、わずか三十一文字に落とし込む、という挑戦です。しかし、更に短い十七音の俳句でそれができるのか、というわけで、逡巡していらしたそうですが、やがてどっぷりとその魅力にはまり……。

さらにガンでの入院という経験が、俳句への指向をさらに高める要因となったともおっしゃっています。ご自作の句はあまり多く紹介されていませんが、

 点滴てんてん花冷えの夜

 赤き点滴赤き小便不思議といふほどのこともなく

 喉にゐる蛇八千匹なり月朧

 万巻の書読み残しておれガンになっちゃって

 点滴の窓に桜ラジオから昇太


など、唸らされます。脱帽です。同じ立場に立たされた時、自分に詠めるか? いや、詠めはしない(「ましかば……まし」状態)です。

極めつけは……

 黒き窓に翁いてなんだおれか

光太郎のエッセイ「珈琲店より」(明治43年=1910)の一節を想起しました。欧米留学でのフランス滞在中、パリジェンヌと一夜を過ごした翌朝の一コマです。

熱湯の蛇口をねぢる時、図らず、さうだ、はからずだ。上を見ると見慣れぬ黒い男が寝衣(ねまき)のままで立つてゐる。非常な不愉快と不安と驚愕とが一しよになつて僕を襲つた。尚ほよく見ると、鏡であつた。鏡の中に僕が居るのであつた。
「ああ、僕はやつぱり日本人だ。JAPONAIS だ。MONGOL だ。LE JAUNE だ。」と頭の中で弾機(ばね)の外れた様な声がした。

単なる人種的劣等感にとどまらず、芸術文化の部分などで、薄っぺらな日本人の自分は巨大な「西洋」に対抗出来ないという絶望が表されています。

夢枕氏、光太郎ファンでもあらせられ、おそらくこの一節を念頭においていたのでは、と思いました。違ったらごめんなさい。

交友の部分では、帯にも登場されている俳人の夏井いつき氏、故・瀬戸内寂聴氏、立川志らく氏、故・中上健次氏、嵐山光三郎氏、故・野坂昭如氏、南伸坊氏、阿川佐和子氏などなど。

そして文学論。「第四回 「おおかみに螢が一つ――」考」で、故・金子兜太氏、そして夢枕氏が傾倒なさる宮沢賢治と光太郎について、かなり長く語られています。「おれの文芸的な血と肉の中には、確実に賢治と光太郎が溶け込んでいるな」だそうで。また、夢枕氏二十代の作で、光太郎オマージュの長詩「イーハトーヴのひと」も掲載されています。いかに光太郎愛に溢れているかがわかります。

ただ、「イーハトーヴのひと」中、さらに地の文でも、一つ気になる記述が。光太郎が戦後の七年間蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に、生前の智恵子が作って置いた梅酒を持ち込んでいた、というのです。当方、そういう話は初めて目にしました。他の文献等で、そういう記述がここにある、という情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

夢枕氏、平成28年(2016)には、雑誌『サライ』さんで、賢治実弟の、光太郎とも仲の良かった清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏と、花巻で対談をなさっています。
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その中では、光太郎に関する内容も。さらに、夢枕さん、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋内部に潜入。
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この時以外にも、何度も訪れられているそうで、ありがたいかぎりです。

また、夢枕さんには、『智恵子抄』をこよなく愛する巨漢の豪傑が、淫祠邪教のカルト教団(その教祖は中原中也ファン(笑))との壮絶な闘いを繰り広げる『怪男児』という小説もあります。コミック化も為されています(途中までですが)。
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併せてぜひお読み下さい。

ところで、賢治も光太郎も、それぞれに独特な俳句をかなり遺しています。夢枕氏には、今後、賢治の句、光太郎の句にも言及していただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃、角川書店の人くる、写真一枚かす、色紙一枚「うゐのおくやま」書き渡す、

昭和28年(1953)9月10日の日記より 光太郎71歳

翌月刊行された『昭和文学全集第二十二巻 高村光太郎集 萩原朔太郎集』の関係です。貸した写真及び「うゐのおくやま」と書いた色紙は同書の口絵として使われました。
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さらに書の方は、この年から翌年にかけて全国を巡回した「角川文庫祭記念 現代文豪筆墨展」に出品されました。
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特に何もなければ、新刊書籍の紹介を今日から4連発で。この系統はつい後回しになってしまい、溜まってしまいました。

まずは岩手から届いたミニブック。

michino絵本 器と楽しむ光太郎ランチ

2022年7月 企画デザイン/文/写真/発行 やつかの森LLC 色鉛筆画/MICHINO
 料理制作/ミレットキッチン花 定価700円(税込み)


癒しの時間

色鉛筆で花の絵を描くMICHINOさん。光太郎の魅力を発信する「光太郎ランチ」の応援団になっていただきました。

毎月「光太郎ランチ」弁当を買って来て器に盛り付ける。MICHINO風楽しみ方。1年間描き続け、その絵が素敵な本になりました。心癒やされる時間をぜひどうぞ。

お申し込み先 やつかの森LLC FAX 0198-29-2672 kotarocafe30@gmail.com
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現在、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで開催中の同名の展示を、一冊の絵本にしたものです。道の駅のテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」を洒落た器に盛りつけて描いた作品群。
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メニュー及び光太郎の日記等から抜粋された食に関する一節が左側のページ、右ページには地元ご在住のMICHINOさんという方の描いた色鉛筆画。12回分が掲載されています。合間には、「光太郎ランチ」実物の写真や、花を描いたMICHINOさんの色鉛筆画など。

道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん、花巻市街のマルカンさんで販売中ですし、FAX、メールでも注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后週間サンケイより吉岡達夫氏ら三人来たり写真をとつてゆく、

昭和28年(1953)9月1日の日記より 光太郎71歳

「週間」は「週刊」の誤り。光太郎、ときどきやらかします(笑)。「写真」はこちらの記事のためのもの。この年9月27日号に掲載されました。
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昨日の新聞二紙から。

まず、「土用丑の日」だったということで、『朝日新聞』さんの土曜版から、鰻の蒲焼きについての記事。かなり長いので全文は引用しませんで、後半のみを。前半では、土用丑の日に夏ばてを防ぐため、栄養価の高いうなぎを食べる慣習について、平賀源内がうなぎ屋のために考案し、広まったという『定説』について。「裏付けとなる文献が、今のところ見つかっていない」ということで、肯定する根拠も、さりとて否定する根拠もないそうです。さらに、隅田川下流域の「江戸前うなぎ」がブランド化していった歴史、調理方法の変遷など。

そして、後半。「江戸前うなぎ」の名店の一つで、光太郎も通った「駒形前川」さんに取材。こちらは令和元年(2019)の『週刊ポスト』さんでも、光太郎にからめて紹介されていました。光太郎の父・光雲が生まれた嘉永5年(1852)に出た「江戸前大蒲焼」番付にも載った店です。また、光雲といえば、光雲の談話筆記『光雲懐古談』(昭和4年=1929)に、前川さんが登場します。

(はじまりを歩く)江戸前うなぎ 東京都 白米とみりん、客層を広げる

 昼下がりの「駒形前川」。7代目主人の大橋一仁さん(43)が、かっぽう着姿で取材に応じてくれた。もとは川魚問屋だったが、220年ほど前、初代がうなぎ料理を始めた。「目の前が大川だから、前川。浅草へ遊びに行く人が舟で乗り付け、腹ごしらえする店だったみたいです」
 しょうゆとみりんを煮詰めた「生(き)だれ」。生だれをつぎ足し、つぼに入っているのが「母(ぼ)だれ」。これが代々続く秘伝のタレだ。「生だれと母だれ、なめると味が全く違う。母だれには、積み重なってきたうなぎのうまみがつまっている」という。
 うなぎをつぼにつけるのは、さばいて、串をうち、素焼きにして、蒸しに入れ、余分な脂を落とした後の工程だ。うなぎの身が、新しい良質な脂とうまみをつぼに落とし、同時に、母だれの熟成したうまみをたっぷり吸い込んで、再び焼かれる。
 老舗の蒲焼きが、甘くないのに、うまい理由は、ここにあった。

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 先代たちの歴史は「選択」の連続だった。関東大震災、東京大空襲では、つぼを大八車に載せて逃げた。店が焼失しても、ゼロから再出発した。2011年3月、東日本大震災の大きな揺れが店を襲ったその時も、一仁さんの父で6代目の一馬さんは、客や従業員の安否を確かめながら、つぼのことを鬼気迫る表情で案じていた。一馬さんは病気で他界し、7代目となった一仁さんが、長引くコロナ禍と向き合ってきた。
 店の伝統を裏付けるような資料を残す余裕は、先代たちになかったようだ。だからこそ、番付「江戸前大蒲焼」の存在は「色んな人にうちを知ってもらえて、ありがたい」。
 江戸前うなぎに「蒸す」という調理工程が加わった背景には、江戸時代後期のコレラの流行がある、と一仁さんは考えている。「より衛生的で安全な提供方法を考えた結果、先人は蒸すことを選択した。天然か、養殖かも、選択の一つ。守るべきこと。変えるべきこと。いつの時代も、両方を考えないといけない」
 江戸時代に花開いたうなぎ文化もいま、岐路に立たされている。稚魚や親ウナギの保全、人工孵化(ふか)や完全養殖。絶滅危惧種となってしまったニホンウナギと共存するための、新たな選択肢が模索されている。
 かつては筒を沈めるだけで、ウナギがとれたという隅田川。今でも釣りスポットとして人気だが、ネット上で「隅田川の魚は食べても美味だ」と薦める人は見かけない。
 目の前の水辺にいたヘンな魚を、焼いて食べたら、うまかった。しょうゆ、山椒、みりん、ご飯をつけたらもっとうまかった。そんなシンプルな話だったのだ。ある時までは。

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「駒形前川」は、池波正太郎、高村光太郎、山田耕筰といった文化人がひいきにしていた。現在は千葉県銚子市の問屋から天然に近い環境で育てた養殖うなぎ「板東太郎」などを仕入れている。雷門通りにある「やっこ」も、ジョン万次郎や勝海舟が訪れた名店だ。
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当方自宅兼事務所のある千葉県香取市。利根川の水運の要所として、江戸時代から続く古い街並みも残る観光地です。やはり利根川の関係で鰻も昔からの名物で、旧市街には江戸時代創業のうなぎ屋さんが数店。さらに住宅街である自宅兼事務所近くにはその支店も。

以前は、遠隔地の友人、仕事の打ち合わせに訪れた方などが訪ねてきた際には、そうした店にご案内することも少なくなかったのですが、最近はとんと足が遠のいています。とにかく美味ではありますが、やはり価格の問題がありまして……。以前は二千円ほどで食べられましたが、最近は四千円台と記憶しております。記事にもあった資源としての減少の問題が大きいのでしょう。

ちなみに今年の土用丑の日は、2回。昨日と、8月4日(木)も該当します。光太郎父子に愛された「駒形前川」さん、ぜひ足をお運び下さい。

もう1件、やはり昨日の『福島民報』さん。「福島県 今日は何の日」という連載です。

「福島県 今日は何の日」 1990(平成2)年7月23日 国体スローガン 友よ、ほんとうの空にとべ!

 1995年に開催した第50回国民体育大会のテーマ(愛称)が「ふくしま国体」、スローガン(合言葉)が「友よ ほんとうの空に とべ!」に決定した。
 テーマは美しい自然など本県の持つ特性を県名に込め、平仮名で柔らかく表現した。スローガンの「ほんとうの空」は「智恵子抄」などによって県内外に知られており、本県の全体的な印象として定着していると判断した。
 4月中旬からスローガンとテーマを公募し、テーマに1万7664点、スローガンに1万4250点が寄せられた。
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平成7年(1995)の「ふくしま国体」。このテーマに「ほんとうの空」の語が使われたことで、以後、福島の形容詞として、「智恵子抄」由来の「ほんとの空」、その変形種「ほんとうの空」の語が広く使われるようになっていきました。ただ、平成23年(2011)の東日本大震災による福島第一原子力発電所のメルトダウン以後、また違った意味が付加されるようになってしまったのは残念ですが……。

ちなみに「ふくしま国体」のテーマソング、佐藤信氏作詞、林光氏作曲の「ほんとうの空へ」は、現在でも時折コンサート等で演奏されています。
「林光ソングをうたい継ぐ(5)~ほんとうの空へ(1990年代)」。
合唱団じゃがいも第48回定期演奏会 林光さん没後10年を偲んで。
こちらも末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

山口小学校長浅沼氏今朝来訪の由、又午后くるとの事、 午后東方亭主人くる、トマトをもらふ、 山口小学校長くる、自園の桃をもらふ、


昭和28年(1953)8月24日の日記より 光太郎71歳

山口小学校」は、かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった小学校。そこの先生方や子供たちとは深い交流がありました。校長・浅沼政規は光太郎に関する貴重な回想を数多く残しました。子息の浅沼隆氏は、現在も光太郎の語り部として花巻で活動されています。

東方亭」は、戦前からの光太郎行きつけのトンカツ屋。荒川区の三河島に店がありました。

まず状況をわかりやすくするために、地方紙『陸奥新報』さん記事から。

教科書掲載の作家紹介/県近代文学館

 県近代文学館で特別展「教室で出会った文学」(9月19日まで)が開かれている。国語の教科書に掲載されるさまざまな文学作品は、子どもが文学の世界に触れる入り口でもあり、大人には懐かしい青春の思い出。同展は多くの教科書で取り上げられてきた森鷗外、夏目漱石、石川啄木、宮澤賢治、与謝野晶子、芥川龍之介、高村光太郎の7氏を第1部で、太宰治、三浦哲郎、寺山修司ら本県出身作家を第2部で紹介している。また黒石高校情報デザイン科の協力を得て作家たちのイメージイラストも展示されるなど、夏休みに子どもたちが楽しむことができる内容となっている。
 第1部では、森鷗外の「中村範宛書簡」や石川啄木の「金田一京助宛葉書」、宮澤賢治の「雨ニモマケズ手帳(複製)」、芥川龍之介の「自筆短冊」、高村光太郎の「桂月メダル」などが、貴重な初版本や当時掲載された雑誌などとともに展示。本県との意外な関わりを記した紹介文も目を引く。中でも与謝野晶子のコーナーでは、板柳町の歌人・安田秀次郎らの招きで、夫・鉄幹(寛)と夫婦で本県を訪れた際に書いた自作短歌の屏風(びょうぶ)も展示。見分けが付きにくいほどよく似た夫婦の直筆による多くの歌が詠み込まれており、貴重な展示物となっている。安田は、夏目漱石とも書簡のやり取りがあり、同書簡は本展が初公開。独自の町人文化が栄えた板柳町をはじめとする本県と、中央で活躍する文人との交流の深さが、第1部の展示から想像できる。
 第2部では、新課程の教科書に登場する本県出身作家に着目し、関連資料や最新の教科書などを展示。同館が調査した結果、圧倒的な数を誇ったのは、やはり太宰治で特に「走れメロス」は中学校の教科書すべてに掲載されているため、全国の中学生のいわば必読の書とも呼べる作品となっている。
 特別展では、来館者全員に黒石高校情報デザイン科作成のポストカードがプレゼントされるほか、夏休み期間中には小・中・高校生を対象にした「太宰治と文豪の秘密ガイドツアー」を実施。他にも「あおもり文学ゼミ『教室で出会った作家と青森』」、朗読劇「教室で出会った太宰作品メドレー」などのイベントが行われる。入館無料。問い合わせは同館(電話017-739-2575)へ。

というわけで、同展の詳細。

令和4年度特別展「教室で出会った文学」

期 日 : 2022年7月16日(土)~9月19日(月)
会 場 : 青森県近代文学館 青森県青森市荒川藤戸119-7
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 7月28日(木) 8月25日(木) 9月14日(水)
料 金 : 無料

 学校で使用する国語の教科書には様々な文学作品が掲載され、時代とともに掲載される作品も変化してきました。その中で、今も昔も多くの人に親しまれている作品や作家が存在します。
 今回の特別展では、青森県出身者という視点から離れ、教科書に作品が掲載され続けてきた7人の作家❶森鷗外(もり・おうがい)❷夏目漱石(なつめ・そうせき)❸石川啄木(いしかわ・たくぼく)❹宮澤賢治(みやざわ・けんじ)❺与謝野晶子(よさの・あきこ)❻芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)❼高村光太郎(たかむら・こうたろう)を大きく取り上げ、青森県との意外な関わりについても紹介します。
 また、太宰治、三浦哲郎、寺山修司といった、教科書に作品が掲載されている青森県出身作家の関連資料や最新の教科書も展示します。

主な展示資料
 森鷗外   「中村範宛書簡」 「舞姫」初出雑誌 等
 夏目漱石  「安田秀次郎宛書簡」 前期3部作・後期3部作(初版含む初期の本)等
 石川啄木  「金田一京助宛葉書」3通(実物展示は7/16~8/24)等
 宮澤賢治  「雨ニモマケズ手帳(複製)」 『春と修羅』初版本 等
 与謝野晶子 「安田秀次郎宛書簡」 「自作短歌屏風」等
 芥川龍之介 『羅生門』再版本 『傀儡師』『芋粥』初版本 自筆短冊 等
 高村光太郎 『道程』初版本 「桂月メダル」(レリーフ) 自筆色紙 等
 教科書掲載の太宰治、三浦哲郎、寺山修司関連資料と、新課程の教科書 等
 その他、初版本や初出雑誌、自筆資料等、多数展示します。
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関連行事

来館者にポストカードプレゼント
 今回の特別展のポスター及びちらしのイメージは黒石高等学校情報デザイン科に制作していただきました。来館者の方々に、黒石高等学校情報デザイン科制作のイメージが印刷されたポストカードをプレゼントします。
※イメージを複数制作していただいたため、各作品を使用したポストカード(数種類)をご用意しています。
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第2回あおもり文学ゼミ「教室で出会った作家と青森」 令和4年7月31日(日曜日)
 今回の特別展で取り上げる7人の作家について紹介し、青森との意外な関わりを解説する講座です。
 時間:14時00分から15時00分
 会場:青森県立図書館4階研修室
 講師:青森県近代文学館室長
 参加無料 事前申込不要 当日は会場へ直接お越しください。

朗読劇「教室で出会った太宰作品メドレー」 令和4年8月21日(日曜日)
 津軽地方を中心にドラマリーディング(朗読劇)上演活動を続けている声優劇団「津軽カタリスト」が、教科書に掲載されてきた「走れメロス」や「葉桜と魔笛」等、太宰治の作品の朗読劇を行います。
 時間:14時00分から15時20分
 会場:青森県立図書館4階集会室
 当日はYouTube( 津軽カタリストのチャンネル )でLIVE配信も行います。
 観覧無料 事前申込不要 当日は会場へ直接お越しください。

夏休み企画「太宰治と文豪の秘密ガイドツアー」
 夏休み期間中(7月22日~8/23日)、毎日3回ずつ、対象年齢に合わせた展示の解説を行います。
 小学生 10時~  中学生 14時~  高校生 16時~
 ※この時間以外にも、ご希望に応じて解説いたします。
 ※保護者や教職員、一般の方もご参加いただけます。

というわけで、主に若い世代を対象とした感じですが、はるか昔に「教室」を巣立たれた皆様もぜひどうぞ(笑)。

光太郎に関しては、まず『道程』初版本。大正3年(1914)、200部ほど自費出版で作られ、光太郎によれば、嘘かまことか、書店を通じてきちんと売れたのは七冊だけだったそうで、現在残っているものは、光太郎が友人知己に献呈したものがほとんどと考えられます(当方も一冊持っていますが)。それでも残本が多く、中身はそのままに奥付と外装を換えて何度か刊行されました。国会図書館さんのデジタルデータで公開されているものは、大正4年(1915)の改装本です。オリジナルの形で残っているものは、刊行後に関東大震災や太平洋戦争があったことを考えると、数十冊あるかないかと思われます。
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「桂月メダル(レリーフ)」。昭和28年(1953)10月、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際に関係者に配付されたもの。小品ではありますが、完成作としては光太郎最後の彫刻作品です。
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それから、「自筆色紙」。こちらは詳細不明です。やはり「乙女の像」の関連で、現地の関係者に揮毫して贈呈したものかな、と思われます。

それから「等」。光太郎本人の書ではありませんが、詩「道程」を大書した作品が展示されている模様です。
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ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

十和田休屋によき敷地を見つけて台石建設の万般の手筈を終わりし由、

昭和28年(1953)8月19日の日記より 光太郎71歳

「乙女の像」についてです。原型は既に完成していましたが、設置場所は宙に浮いた格好になっていました。というのも、元々この事業に関わっていた地元の怪しげなボスと旧厚生省の外郭団体のドンが、プロジェクトから外される形となり、その腹いせに当初建設予定地の子の口(ねのくち)への設置はまかり成らん、と、横槍を入れてきたためです。いつの時代にもこういう輩がいるのですね(笑)。

それに対し、像を含む公園全体の設計を担当した建築家・谷口吉郎、光太郎の身の回りの世話等も行っていた詩人の藤島宇内が再度十和田湖に出向き、現在の設置場所である休屋御前ヶ浜にいい感じの場所を見つけ、交渉を済ませてきたというわけです。

昨日に引き続き、智恵子の故郷・福島からのイベント情報です。

プレスリリースから。

60万球が光り輝く福島の夏の風物詩「あだたらイルミネーション」7/31(土)開幕! 今年で開催10周年!カラフルなインスタ映えメニューも多数登場!

 富士急安達太良観光株式会社が展開する「あだたら高原リゾート」(福島県二本松市)では、2022年7月30日(土)~9月19日(月祝)の期間、「あだたらイルミネーション」を開催いたします。

 今年で11年目を迎える本イベントは、光の天の川を中心に花や動物などをモチーフにしたイルミネーションで輝くあだたら高原リゾートの夏の風物詩です。今年の見どころは、ゲレンデに広がる光の天の川に、わし座・こと座・はくちょう座で構成される「夏の大三角形」や「北斗七星」、「カシオペア座」といった夏の星座をイルミネーションで楽しめるほか、ここでしか見ることができない光り輝く二本松のマスコットキャラクター「菊松くん」のフォトスポットや昨年から黄色の輝きがさらにパワーアップした「光のひまわり回廊」など、夜の安達太良山を美しく彩ります。また、暗闇に光るかき氷や光るドリンクなど、イルミネーションを鑑賞しながら楽しめるひんやりメニューも登場いたします。
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 さらに、期間中の特定日には、安達太良山の夜空に願いを込めてたくさんのスカイランタンを浮かべる参加型イベント「LEDスカイランタンフェスティバル」も開催。イルミネーションの輝きと相まって、世界でここだけの幻想的な光景が広がります。

 夜だけではなく昼から来ても楽しめるあだたら高原リゾートでは、岳温泉名物の温泉たまご「とろんたま」がトッピングされた「とろんたま入り台湾風まぜそば」や、かき氷のようでかき氷ではない、アイスクリームともまた違う、雪のようなふわふわ食感の冷たいスイーツ「あだたらスノーアイス」など、夏にぴったりのメニューが新登場。ぜひ、ご賞味ください。

 あだたら高原リゾートでは、ご来場いただく全てのお客様に安心してお楽しみいただけるよう、新型コロナウイルス感染症対策を徹底しております。この夏は、阿武隈の山々を見渡す絶景の大パノラマと幻想的なイルミネーションの世界を楽しみに、「あだたら高原リゾート」へぜひお越しください。

【「あだたらイルミネーション」概要】
・開催期間  2022年7月30日(土)~9月19日(月祝)
 ※8月29日以降は、金・土・日・祝日のみの営業
・営業時間  19:00~21:00
 ※ロープウェイの上り最終20:30、下り最終20:50
・料金
  入場料:中学生以上600円、小学生以下400円
  入場料とロープウェイ乗車料のセット:中学生以上1,400円、小学生以下900円
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LEDスカイランタン【ほんとの空に願いをこめて】

 今年で3年目を迎える「LEDスカイランタンフェスティバル」がこの夏も皆様の期待にお応えし開催いたします。オレンジ、ピンク、グリーン、ブルー、レッドの5色のランタンが夜空に浮かび、ここでしか見られない幻想的で美しい光景が広がります。
・開催日 8月6日(土)、13日(土)、20日(土)、27日(土)、
     9月3日(土)、10日(土)、17日(土)、18日(日)
・時間  18:00受付開始、20:00ランタンリリース予定
・料金  3,500円(ランタン1基、イルミネーション入場料1名分含む)
・参加方法  各開催日前日までの予約申込み ※各日先着80名様限定​
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■インスタ映え間違いなしの光るメニューが登場!    
 「富士急レストハウス」では、イルミネーション期間中限定で、「光るかき氷」と「光るドリンク」を販売いたします。「光るドリンク」には安達太良山の夜空に輝く星座をイメージした「スターライト(バラフライピーシロップ入)」が新登場!キラキラと光り輝く様子はイルミネーションをさらに華やかに彩ること間違いなしです。
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■インスタグラム写真投稿キャンペーン開催!
 公式インスタグラム(@ adatara_illumination)をフォローの上、指定ハッシュタグ「#あだたらイルミ2022の思い出」をつけ、場内で撮影したイルミネーションの写真を投稿していただいた方の中から抽選で、地元特産品をセットにした賞品やリフト券&温泉入浴券セットをプレゼントいたします。この機会に、ぜひご参加ください。
【A賞】岳温泉十二支めぐり&温泉の素3種(5名様)
【B賞】桃の恵みジュース&温泉の素3種&あだたら山ピンバッチ(5名様)
【C賞】スキーリフト券&奥岳の湯入浴券セット(5組10名様)
◎賞品概要
「岳温泉十二支めぐり」は、岳温泉観光協会が企画・作成したもので、温泉街にある十二支の石柱をめぐり、ポストカードに版画を写して温泉街を巡ることができます。温泉の素は、岳温泉街にある佐藤物産館オリジナルの入浴剤で、「岳の湯」をはじめ「大玉の湯」など福島県内の温泉が再現されています。JAふくしま未来の「桃の恵み」は、桃の旨味をそのまま閉じ込めた果汁100%ジュースで、桃の名産地福島だからできた商品です。あだたら山ピンバッチは、あだたら高原リゾートオリジナル商品で、ロープウェイ山麓駅のレストハウス(売店)、「あだたら山奥岳の湯(売店)」のみでしか購入できない限定品になります。
 
■夏の爽やかメニュー多数登場!
 「富士急レストハウス」では、7月16日(土)より暑い夏にぴったりのメニューを多数販売いたします。辛いものがお好きな方に向けて、岳温泉名物の温泉たまご「とろんたま」が辛い麺と絡み合う「とろんたま入り台湾風まぜそば」や麻婆豆腐がたっぷりのった「麻婆そば」、かき氷のようでかき氷ではない、かといってアイスクリームとも違うまるで雪のようなふわふわ食感の冷たいスイーツ「あだたらスノーアイス」が新登場。お好みのソース(ストロベリー、ピーチ、チョコ)をかけて、お召し上がりください。
 さらに、昨年の夏に販売しご好評をいただいた、梅の酸味が食欲をそそる「梅とチキンのさっぱり冷やしうどん」や見た目も鮮やかでボリューム満点の「具だくさんの冷やし鶏塩ラーメン」もご賞味いただけるほか、「あだたらかき氷ソフト」と「あだたらソーダ」に今夏桃フレーバーが仲間入り。青空や緑の木々をバックに撮影すれば、インスタ映えすること間違いなしです!ぜひ、この機会にご賞味ください。
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【昼から来ても楽しめる魅力がいっぱい!】
■ロープウェイからの絶景、薬師岳パノラマパークからの雄大な景色を一望
 「日本百名山」の一つに数えられる安達太良山は、標高1,700mで夏でも涼しい環境で大自然を満喫できます。あだたら山ロープウェイに乗って約10分の空中散歩を楽しんだ後、山頂駅からは阿武隈山系や福島市街地を一望。さらに、散策道を10分程歩いたところにある「薬師岳パノラマパーク」では、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と謳ったことで知られる、青く澄みきった空と絶景の大パノラマが楽しめるほか、山肌にはハートの形を発見することができ、見どころいっぱいです。
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■絶景露天風呂「あだたら山奥岳の湯」でリフレッシュ!
 標高約950mに位置する「あだたら山奥岳の湯」は、遮るもののない眺望が自慢の露天風呂で、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と謳ったことで知られる「ほんとの空」を全身で楽しんでいただくことができます。また、内湯は「源泉かけ流し」で、泉質は全国的にも珍しいph2.5の酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われております。
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ここまで「ほんとの空」の語を連発されては、紹介しないわけにはいきません(笑)。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

群像の人くる、迎の車で西銀座「出井」といふ料亭で、金子光晴、三好豊一郎氏と三人詩の座談会、

昭和28年(1953)8月13日の日記より 光太郎71歳

「出井」はつい先頃まで健在だった割烹料亭です。この日の座談会の模様は、この年11月の雑誌『群像』に「現代詩について」の題で掲載されました。

7月16日(土)付『福島民報』さんから。

【写真展138億光年宇宙の旅】③人類宇宙探査の集大成

004 福島市のとうほう・みんなの文化センター(県文化センター)で十六日開幕する写真展「138億光年 宇宙の旅」は、高精細の天体写真で星空の美しさを伝える。監修する国立天文台上席教授渡部潤一さん(会津若松市出身)が見どころを寄稿した。

「ほんとの空がある」
 高村光太郎の妻・智恵子が、住んでいた東京にはなくて、故郷の二本松市だけに「ほんとの空」があると語った言葉から生まれた、『あどけない話』という詩である。福島にはまだ「ほんとの空」が残されている。それは夜の方がわかるかもしれない。東京では星座も結べないほど星が見えないが、福島では市街地を離れれば、まだまだ満天の星が見られるからだ。
 そんな「ほんとの空」のある福島には星を見に来る人も多いが、この夏は拍車がかかるかもしれない。最新の宇宙の写真展が福島市で開催されるからだ。展示されるのは、本紙のみんぽうジュニア新聞などでもしばしば紹介してきた驚くべき宇宙画像の数々。それらは現代の最新の観測装置群、例えばNASA(National Aeronautics and Space Administration、アメリカ航空宇宙局)のハッブル宇宙望遠鏡や数々の惑星探査機、日本の国立天文台がハワイに設置しているすばる望遠鏡や、欧米と共にチリに建設したアルマ望遠鏡など、世界中の最新鋭の望遠鏡群が撮影した画像だ。
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 百三十八億光年かなたの、宇宙の果てのかすかな銀河から、太陽系の惑星までさまざまな時間・空間スケールの異なる天体が並ぶ。美しさと鑑賞性を重視し、選び抜かれた画像群だ。宇宙から見た地球や立体的なオーロラなどの自然現象、人類の存在を示す夜景や人工建設物の造形、探査機が明らかにした驚くべき惑星の素顔の数々、そして何よりも芸術のような深宇宙の天体群の数々。可視光だけでなく、目に見えないエックス線から紫外線、赤外線までカバーして作られた疑似カラー合成画像は、美しさだけでなく、人類の宇宙探査の集大成でもある。
 これら深宇宙の天体の数々をたどり、百三十八億年の宇宙の歴史を感じていただくとともに、宇宙の中の地球という惑星に生きていることの奇跡を実感してもらえれば幸いである。

 わたなべ・じゅんいち 1960(昭和35)年、会津若松市生まれ。会津高、東京大理学部天文学科卒。東京大の大学院、東京天文台を経て、国立天文台上席教授を務めている。専門は太陽系小天体(すい星、小惑星、流星など)の観測的研究。国際天文学連合の惑星定義委員として準惑星のカテゴリーをつくり、冥王星をその座に据えた。2018(平成30)年から国際天文学連合副会長を務めている。61歳。

写真展「138億光年 宇宙の旅」についても、同紙から。

論説 【宇宙の旅写真展】地球いとおしむ機会に

 百億光年以上も離れた星々に間近に接し、想像力は果てなく広がる。きょう十六日から八月二十一日まで福島市のとうほう・みんなの文化センター(県文化センター)で開かれる写真展「138億光年 宇宙の旅」は、人類の英知を集めた最新画像で見る人を無限の時空へいざなう。地球や自らの存在を考える貴重な機会になる。
 写真展は、日本を代表する天文学者で国立天文台上席教授の渡部潤一さん(会津若松市出身)が監修した。米国航空宇宙局(NASA)をはじめ、世界の宇宙望遠鏡、惑星探査機などが捉えた写真百二十五点を大型の高品位銀塩プリントで紹介する。激しく噴き上がる太陽のプロミネンス(紅炎)、わし星雲の「創造の柱」と呼ばれる神秘的な領域など、多様な天体の姿が見られる。百三十億光年以上の距離にある銀河の写真も公開される。
 地球を捉えた写真の数々にも注目したい。月の地平線から浮かび上がる「地球の出」は、水と生命を湛[たた]える麗しさに息をのむ。地球は今、気候変動による環境破壊が進む。感染症や戦火にも脅かされている。持続可能な存在にするための国際目標(SDGs)がうたわれている。写真を通して県民が自分事と捉え、SDGsへの意識を日常の行動につなげるきっかけになればと願う。
 渡部さんは十五日付本紙への寄稿で、「福島にはまだ『ほんとの空』が残されている。それは夜の方がわかるかもしれない」と思いを伝えている。美しい満天の星空を末永く守るためにも、一人一人の心がけは欠かせない。
 宇宙航空研究開発機構(JAXA)の探査機はやぶさ2が小惑星りゅうぐうから持ち帰った砂などの試料に、「生命の源」ともいわれるアミノ酸が含まれていると分かり、世界を驚かせた。会津大や複数の県内企業がはやぶさ2のプロジェクトに深く関わっている。会場では、はやぶさ2の二分の一模型や、県内企業が手がけた人工クレーターをつくる衝突装置なども紹介される。未知の領域に挑む県人の潜在力も感じてほしい。
 渡部さんは「深宇宙の天体の数々をたどり、百三十八億年の宇宙の歴史を感じていただくとともに、宇宙の中の地球という惑星に生きていることの奇跡を実感してもらえれば」とも期待した。人種や国籍を問わず、誰もが同じ奇跡の上にあると知れば、互いを慈しむ心は深まる。未知なる宇宙の深淵[しんえん]に触れ、現在と、これからの地球を見渡す視界も広げたい。

同展詳細はこちら。

写真展 138億光年宇宙の旅-驚異の美しさで迫る宇宙観測のフロンティア-

期 日 : 2022年7月16日(土)~8月21日(日)
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 7/25(月)・8/8(月)
料 金 : 一般 1,200円 中高生 900円 小学生 600円

関連行事<講演会>
 講師 渡部潤一(国立天文台 上席教授)
 日時 7/23(土)13:30~15:00
 場所 2階会議室
 定員 200名(先着順)※定員になり次第締め切り
 申込 メールにて jigyo@fukushima-minpo.co.jp
    ※郵便番号、住所、氏名、年齢、電話番号を明記のうえお申込みください。
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コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃平凡社の美術全集よりくる、エジプト彫刻のグラビヤ解説4枚20日〆切、

昭和28年(1953)8月7日の日記より 光太郎71歳

この年9月5日発行の『世界美術全集 第4巻 古代エジプト』のための原稿です。

光太郎はプリミティブなエジプト彫刻の美を愛しました。欧米留学中の明治40年(1907)から翌年にかけ、ロンドン滞在中に大英博物館でエジプト彫刻をよく観ていたそうです。

それにしても、突然、書け、といわれても書けてしまうあたり、舌を巻かされます(笑)。
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文芸評論家の近藤信行氏が亡くなりました。『東京新聞』さんから。

近藤信行さん死去 文芸評論家

007 近藤信行さん(こんどう・のぶゆき=文芸評論家)17日、老衰のため死去、91歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。
 中央公論社で「中央公論」「婦人公論」などの編集に携わり、文芸誌「海」の編集長を務めた。「小島烏水 山の風流使者伝」で大仏次郎賞を受賞。山梨県立文学館の館長も務めた。
 登山関連の書籍を多数編さん。他の著書に「安曇野のナチュラリスト 田淵行男」など。

近藤氏、記事にあるとおり山梨県立文学館さんの館長を務められていまして、その関係もあって連翹忌にご参加下さったこともおありでした。

館長在任中の平成19年(2007)には、同館で企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催して下さいました。

その際には、関連行事として、光太郎令甥で写真家であらせられた故・髙村規氏、世田谷美術館館長・酒井忠康氏との鼎談「高村光太郎の人生 パリ・東京・太田村」をなさったり、同展図録には館長としての巻頭挨拶文「開催にあたって」、論考「高村光太郎の“戦後”」をご執筆されたりしました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

大町桂月のメダルをはじめる、


昭和28年(1953)8月4日の日記より 光太郎71歳

大町桂月のメダル」は、この年10月に開催された、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際、関係者に配られたものです。元々「乙女の像」が、十和田湖の景勝美を世に広めた大町桂月らを顕彰するモニュメントだったことに関わります。

小品ながら、完成した彫刻としては、光太郎最後の作品です。
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7月15日(金)、花巻高村光太郎記念館さん、そして高村山荘を後に、再び花巻市街へ。今回は、宿泊する大沢温泉さんにチェックインする前に、少し調べ物を、という計画を立てておりました(直前になってそう決めたのですが)。

そこで、花巻市立図書館さんへ。
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まず「郷土資料室」という部屋があり、光太郎関連で目新しい発見がないか、チェック。残念ながら、コピーを取る必要のあるものは発見出来ませんでした。

続いて「新聞資料室」。戦中・戦後の光太郎が花巻町及び郊外旧太田村にいた時期の新聞で、『高村光太郎全集』に洩れている光太郎の談話や講演筆記などが載っていないか、というわけです。ところが、光太郎がいた時期の新聞はあまりありませんでした。最も調べたいと思っていた『花巻新報』(題字揮毫、光太郎)は、光太郎帰京後の昭和30年代からのものしか所蔵されていません。それでも光太郎関係の記事は散見されるのですが、それらは既知。

しかし『岩手日報』は、昭和28年(1953)からのものが所蔵されており、そちらを拝見。光太郎、昭和27年(1952)には、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京していますが、昭和28年(1953)11月から12月にかけ、一時的に郊外旧太田村に帰っていますので、その頃の記事を調べました。

すると……
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まず光太郎が太田村に帰ってくると聞きつけた記者が、東京中野の貸しアトリエを訪問しての記事。光太郎を「六十九歳」としているのは誤りで、この時、満で70歳、数えで71歳です。光太郎の談話が笑えますね(笑)。1年ちょっとぶりに太田村に帰るということで、ウキウキしていたのかもしれません。

そして、花巻駅に下り立ったという記事。
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続いて太田村の山小屋に帰って。この時の記事が一番面積を取っていました。
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さらに、再上京についても。
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光太郎の言葉と、地の文と、もっと明確に分けて書けよ、と突っ込みを入れたくなりましたが、貴重な記録ではあります。

意外だったのは、「十和田湖畔の裸婦群像」を「みちのく」と表記していること。「乙女の像」という通称も既に使われていましたが(当初は通称というより、「仁王像」「騎馬像」のようなカテゴリを表す普通名詞でしたが、その後、「乙女の像」といえば十和田湖、となっていった感じです)、「みちのく」という愛称も既に広く使われていたのは発見でした。

それにしても、一芸術家が帰村したのしないの、また上京してしまったのと、いちいち大きく取り上げるあたり、時代背景というものもありましょうが、いかに花巻や太田村の人々に光太郎が愛されていたかの証左だな、とも感じました。また、光太郎の談話からは、逆に光太郎がどれだけ花巻や太田村を愛していたのかも読み取れますね。

この日は(というか、この日も)、花巻南温泉峡・大沢温泉さんに宿泊。
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直近2回(昨年12月今年3月)は、一人旅ではなかったため、ちょっと高級な山水閣さんに泊まりましたが、今回はホームグラウンド的な自炊部さんに。
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ちょっと高級な山水閣さんは、それはそれでいいのですが、やはり自炊部さんのこの狭さ風情がたまりません(笑)。

現代の『岩手日報』さん。花巻東高校出身の大谷翔平選手が一面トップ(笑)。
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現代の岩手人はとにかく大谷ラブなのでしょう。

そして露天風呂。
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KIMG6508何らのしがらみも無ければ、ここ(自炊部)で暮らしたいくらいです(笑)。

ちなみに廊下には、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎、海を航る」のポスターを貼って下さっていました。ありがたし。

翌日、レンタカーを新花巻駅前の営業所に返し、新幹線で盛岡へ。盛岡駅前の営業所返却にすればよかったかなとも思いましたが、今回はなかなか旅の行程を決めるのに手間取り、そうなってしまいました。

盛岡では岩手県立図書館さんへ。昨日に続き、郷土資料や昔の新聞で調査です。花巻市立図書館さんには揃っていなかった『花巻新報』もこちらではコンプリートされており、昨日同様、昭和28年(1953)の光太郎帰村前後を調べました(それ以前の号は一昨年に調査済み)。

すると、花巻市立図書館さんでコピーを取った『岩手日報』同様、やはり帰村の件が記事になっていました。
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「来春六月にはまた帰るよ」といって、再上京した光太郎。他の文献等でも、この時期、東京と岩手での二重生活を目論んでいたことが記されていましたが、それが裏付けられました。しかし、その念願は叶わず、結局は東京で療養生活を送ることになってしまい、再び岩手の土を踏むことはありませんでした。

「九州に建てる胸像」は、未完成のまま絶作となった「倉田雲平胸像」です。

また、同じく昭和28年(1953)9月の、宮沢賢治を追悼する賢治祭の記事。
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太田村在住中には、ほぼ欠かさず出席し、講話や講演を行っていた光太郎ですが、この年は上京していたため欠席。しかし、当会の祖・草野心平にメッセージの原稿を預け、心平が代読していました。『花巻新報』にこれが載っていたという情報は得ていませんでしたので、こりゃ新発見だろう、と期待しましたが、帰ってから調べましたところ、『高村光太郎全集』第8巻に「一言」の題名で載っていました。どうも心平が原稿を保存していて、全集編集に当たった当会顧問であらせられた故・北川太一先生に渡したようです。『花巻新報』に載っていたのがわかった、という意味では新事実と言える事柄ですが。

それから、岩手で出版された書籍等から、光太郎関連のいろいろな記述等を見つけました。高橋峯次郎関係、宮静枝関係など。

また、光太郎作の彫像「大倉喜八郎の首」についても、当方の知らなかった事実(とおぼしき事柄)が判明しました。
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この像、大正15年(1926)の作ですが、しばらく光太郎の手許を離れていて、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳から光太郎に返却されました。なぜ堀江が持っていたのか、その経緯を当方は知らなかったのですが、『北の文学』という地方同人誌の第3号(昭和32年=1957)に、そのいきさつが記されていました。古館勝一という人物の書いた「高村光太郎ノート」という随筆とも評論ともつかない文章でしたが、それによれば堀江が戦時中に駒込林町の光太郎住居兼アトリエを訪れた際、空襲を危惧していた光太郎が、何か作品を預かってくれと言うので、堀江が「では、これを」と預かったそうです。

上記画像はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」の一コマ。太田村の山小屋で光太郎が「大倉喜八郎の首」を手に取っているシーンです。昭和28年(1953)の帰村は、この映画の撮影のためという側面もありました。

上記『岩手日報』記事中の光太郎談話に「山口部落の人々には驚いた。残して行った作物を留守中ちゃんと置いてある。誰も持って行かない。」とあります。「作物」は「さくもつ」と読めば「農作物」ということになりますが、それでは意味が通じません。「さくぶつ」と読んで、小屋に置きっぱにしていった「大倉喜八郎の首」や、書の作品、と読めば意味が解ります。そういうことなのではないでしょうか。

さて、こうした図書館等での調査、当方は3~4時間が限界です。それ以上続けると、集中力が途切れ、大事な記述等を見落とします。集中に優れた人は丸一日でも大丈夫なのでしょうが(笑)。そこでこの日も正午過ぎに調査終了。まだ『新岩手日報』やら、当たるべき資料が結構あるので、またの機会と致します。

以上、長々書きましたが、岩手レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

岩手の佐藤ひろしさん椛澤佳乃子さんくる、一緒に新宿、火の車、吾妻橋ビヤホール、江戸ツ子天ぷらにゆき東京駅で別れる、


昭和28年(1953)7月12日の日記より 光太郎71歳

佐藤ひろしさん」は、旧太田村の光太郎の山小屋近くの開拓地に入植していた青年で、かつては光太郎の山小屋を毎日のように訪れ、光太郎のパシリ的なこともやっていました(笑)。口さがない人々は「金魚のフン」と蔑んでいましたが、光太郎はこの青年を随分とかわいがっていました。

誤解を招く書き方ですが「岩手の」が修飾しているのは「佐藤弘さん」のみで、「椛澤佳乃子さん」は東京在住。ただ、旧太田村の山小屋もたびたび訪れていましたので、佐藤青年とも顔なじみだったようです。

7月15日(金)、道の駅はなまき西南さんを後に、車で10分ほどの花巻高村光太郎記念館さんへ。
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玄関前には、花巻農業高校生徒さん、保護者の皆さんにより寄贈されたベゴニアのプランター。ありがたし。
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こちらでは、7月16日(土)から企画展「光太郎、海を航る」が始まるということで、前日ですが、準備は終了していたため拝見して参りました。

メインは一昨年、都内の方から寄贈された、光太郎から3歳下の実弟・道利に宛てた絵葉書。明治42年(1909)、留学の最後に敢行したイタリア旅行中、ローマで投函されたものです。

今伊太利旅行中。今日羅馬に来りたり。古羅馬の偉大なりしを想見して驚かざるを得ず。

 四月四日  羅馬にて  高村光太郎          光

最後の「光」はサインです。
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解説パネルは、例によって当方が書かせていただきました。

同時期のもの、ということで、当方手持ちの絵葉書もお貸ししました。
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明治41年(1908)、当時滞在していたロンドンから、パリにいた留学中間で画家の白瀧幾之介に送ったものです。共通の友人として、碌山荻原守衛や、後に妻の八重ともども、光太郎と智恵子を結びつけた画家の柳敬助の名も記されています。

新年の御慶申納候 僕の処へも荻原君から手がみがあつた。柳君の最近の手がみにある番地は矢張り618w.114stとある。此でいいのだらう。  二日 光太郎

さらに、館蔵の書幅。
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戦後の筆跡ですが、明治39年(1909)、海外留学へと旅立った船上で詠んだ短歌「海にして太古の民の驚きをわれふたたびす大空のもと」が書かれています。枯淡というか、深奥というか、戦後に光太郎がたどり着いた境地がにじみ出ている書だと思います。

肉筆物では、草稿も。
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「ミケランヂエロの彫刻写真に題す」。昭和16年(1941)8月20日(龍星閣版『智恵子抄』初版と同日)アトリヱ社刊、天田文雄編の写真集『ミケランヂエロ MICHAEL ANGELO』のために書かれたものです。

当方手持ちの同書をお貸ししまして、ガラスケースに展示。
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左は『世界美術全集17 ルネサンスⅡ 西洋十六世紀』(昭和26年=1951 3月25日、平凡社刊。下中彌三郎編)。旧太田村の山小屋(記念館さんの敷地内)で、光太郎により執筆された「ミケランヂェロ・ブオナローティ」を収める他、ミケランジエロ作品の写真版17葉の解説も、かつてイタリア各地でそれらを実際に見た光太郎が執筆しました。
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ガラスケースは一つだけ。何やら展示の準備を始めたところ、もう一つ使う予定だったケースにカビが発生していたそうで……。そこで壁面での展示が中心です。解説パネルも文字が多く、一般の方には取っつきにくいように感じます。上記『世界美術全集17』の図版などもパネルにしてくれと頼んだのですが……。
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その他、もう一つのガラスケースに入れるはずだった、留学に関わる土地や船舶の古絵葉書などは、ディスプレイで投影。
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全体にはちょっと地味というか、寂しいというか……。もう一つガラスケースを何とか手配して、展示品を増やして下さいとお願いしてきましたが、どうなることやら、です。

隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋)へ。
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北東北はまだ梅雨明けと発表されておらず、千葉の自宅兼事務所ではとっくに終わった紫陽花も咲いていました。
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山小屋内部。
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何十回目かの訪問ですが、来るたびに粛然とした気持にさせられます。

この後、市街に戻り、花巻市立図書館さんへ。光太郎が居た当時の新聞などの資料を渉猟して参りました。続きは、また明日。

【折々のことば・光太郎】

午前静子くる、ジユバン、アメなどもらふ、染井墓まゐりにゆく由、


昭和28年(1953)7月10日の日記より 光太郎71歳

静子」は光太郎のすぐ下の妹。上記の道利とは双子でした。道利は昭和20年(1945)、光太郎実家の庭に掘った防空壕に転落した事故が元で死亡。既に染井霊園の高村家墓所に入っていました。

昨日まで、1泊2日で岩手県に行っておりました。レポートいたします。

1日目、7月15日(金)。東北新幹線新花巻駅に降り立ち、例によってレンタカーを借りました。まず向かったのは、「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん。北東北はまだ梅雨明けが発表されていないということで(関東も「戻り梅雨」的様相ですが)、この日も結構降っていました。
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こちらのインフォメーションコーナー的な一角。
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過日、近くにガソリンスタンドをオープンさせた冨士見総業さんが、光太郎賢治関連書籍などをごそっと寄贈なさいました。なかなかできることではありませんね。
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書棚が3つ、約470冊、10万円相当だそうで。書棚にはガラスの戸が付いており、夜間は施錠するそうですが、日中は自由に取り出して読めるようになっています。

光太郎関連。
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図書館さんのように貸し出しをするわけではないので、ここで読むにはどうなのかな、というものもありますが、図版の多い書籍なども含まれ、いいのではないでしょうか。
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書棚の隙間には、光太郎を描いたイラストも(写真を撮り忘れましたが、賢治も)。
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こちらの元ネタは、この写真です。
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宮沢賢治関連の書籍。光太郎関連よりも賢治関連の方が、さまざまな書籍等が出ていますので、やはりスペース的に光太郎関連の倍以上。
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シリーズ物で、光太郎・賢治関連もラインナップに入っているものなども。
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これから学校さんは夏休みに入っていきますし、ぜひ小中学生さんたちにも活用していただきたいものです。

その隣では、地元ご在住のMICHINOさんという方の色鉛筆画で「器と楽しむ光太郎ランチ」。こちらの道の駅のテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」を洒落た器に盛りつけて描いた作品です。
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食欲をそそられます(笑)。

実物の写真等も。
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この日は15日で、「光太郎ランチ」の販売日でした。そこで、一つ、確保していただいておりました。
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この日のメニューは、「ごま飯・おにぎり」、「赤魚塩麹焼き」・「ズッキーニグラタン」、「野菜サラダ」、「スナップエンドウの卵とじ」、「塩麹卵焼き」、「お新香」、「茹でトウモロコシ」、「梅干し寒」。彩りも鮮やかですし、栄養バランスもしっかり考えられていますね。

と、まぁ、「賢治と光太郎の郷」という愛称通りに、さまざまな取り組みをなさっている道の駅はなまき西南さん。今後も地元の皆さん、さらに市外の方々にも愛されていってほしいものだと思いました。

この後、近くの花巻高村光太郎記念館さん、そして光太郎が7年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)へ。以下、明日。

【折々のことば・光太郎】

鶴千代是秀翁くる、 藤島さんくる、 澤田伊四郎氏土方氏くる、土方氏の出版の序文の事、転載承諾、


昭和28年(1953)7月8日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型が完成し、ほっと一息、と思いきや、千客万来です(笑)。

鶴千代是秀」は「千代鶴是秀」の誤りです。伝説的道具鍛冶で、光太郎とは戦前からの付き合い。かつて光太郎も是秀作の彫刻刀を使っていまして、昨年、東京藝術大学さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展に出品されました。
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是秀の娘婿・牛越誠夫は石膏取り職人で、「乙女の像」の石膏取りを行っています。

藤島さん」は詩人の藤島宇内。再上京後の光太郎の身の回りの世話等をよくしてくれました。

澤田伊四郎氏」は、『智恵子抄』版元・龍星閣主。「土方氏」は彫刻家・土方久功。「転載」は、この年1月の『朝日新聞』に光太郎が寄せた土方の個展評「現代化した原始美-土方久功彫刻展-」を、龍星閣から出版する土方の著書『文化の果てにて』の序文として転用するということです。

昨日から
の日程で花巻に来ております。

本日から始まる花巻高村光太郎記念館さんの企画展示「光太郎、海を航る」の展示内容確認がメインです。開会前でしたが、昨日の内に確認して参りました。

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その前後、道の駅はなまき西南さん、花巻市立図書館さんにも足を運び、宿泊はいつものように大沢温泉♨さん。

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今日は盛岡まで足を伸ばして、調べものをして帰ります。

詳しくは帰りましてから。

お世話になっております信州安曇野の碌山美術館さんから、書簡が届きました。

何かと思えばこういう内容で……。
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同館のフェイスブックにこの件が出ていました。

【予告】7月15日(金)からクラウドファンディングに挑戦します!

碌山美術館はこれまで、施設の拡大とともに碌山と関係の深い優れた芸術家たちの作品コレクションを充実させ、 日本近代彫刻の展開をご覧いただけるよう努めてきました。

しかし64年の月日による傷みが「碌山館」を侵食しています。当館の本館にあたる荻原守衛の作品を展示する「碌山館」には雨漏りが見られ、修繕は早急の課題です。本来であれば補助金や自己資金で賄うところですが、昨年から続く新型コロナウイルス感染症の影響で、収入が大幅に減少し、今はなんとか積立金を取り崩しながら運営しているのが現状です。

この状況を打破し、貴重な作品を守り未来へとつなぐ為に、クラウドファンディングに挑戦することといたしました。目標金額は700万円。目標に届かなければいただいたご支援は全て返金になってしまう「All or Nothing」というルールです。クラウドファンディングでは、公開直後の5日間でどれだけ支援を集められるかが成功のポイントだといわれております。

そこで、今回の取り組みに少しでも共感していただけましたら、公開直後のタイミングで、ぜひご支援をいただけないでしょうか?

今回皆様からいただいた資金は、碌山館の修繕費に充てさせていただき、雨漏りの修繕、扉の再塗装などもあわせておこない、美しい姿で皆様をお迎えいたします。長い歴史の中でたくさんの方々のお力をお借りしてここまでつないできた想いを後世へつないでいきたい。そのために一生懸命取り組んでまいります。

是非、ご支援ください。

▼詳細・ご支援方法は7月15日(金)以降下記からご覧いただけます。
第一目標金額:700万円
支援募集期間:7月15日(金)9時〜8月31日(水)23時

申込書を兼ねたフライヤーも同封されていました。
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同館は、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎ブロンズも複数所蔵されており、第1展示棟で入れ替えながら常設展示して下さっています。

そしてメインの建物が、碌山館。昭和33年(1958)の竣工で、ロマネスク様式の教会風。安曇野のシンボル的な建造物でもありますね。
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入り口の内壁には、守衛を支えた人物ということで、光太郎の名も刻まれています。
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内部には、国指定重要文化財の「女」をはじめ、現存する守衛彫刻の全作品。

その碌山館が、ピンチです。こんなところにもコロナ禍の影響か、という感じですが。

当会としまして、早速、3万円コースで申し込み、入金を致しました。皆様方におかれましても、是非とも御支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

午前十時半出かけ車で浴風園、レントゲン検査、結局結核性と分る、静脈瘤ではないらし、いろいろ注意をきいてかへる、


昭和28年(1958)7月6日の日記より 光太郎71歳

「浴風園」は、現在の浴風会病院さん。こちらの医師・尼子富士郎に診てもらい、正式に結核と診断されました。自覚症状もあって自分ではわかっていたはずですが、これまで対外的には認めていませんでしたが、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の原型も完成し、一区切り、ということだったのでしょう。

まず、仙台に本社を置く『河北新報』さん、先週土曜日の記事です。

小学生に人気「守ろう! みんなの東北」完結 地域課題学ぶ漫画シリーズ

 東日本大震災からの復興、人口減少…。東北が抱える難題がモンスターになった―。漫画で地域を学ぶ「守ろう! みんなの東北」全4巻がこのほど完結した。東北の小学生の間で人気が高まっているシリーズはどのように生まれたのか。(編集局コンテンツセンター・佐藤理史)
   主人公は岩手県遠野市に暮らす小学6年の石澤研治(ケンジ)。ある日、大きな地震により、異世界の東北に迷い込む。現実世界の東北の人たちの怒りや不満、不安から生まれたモンスター(「もんのけ」と呼ばれる)がケンジに東北の諸課題を突きつけ、対応を迫るというファンタジーアドベンチャーだ。
 巨大なこけしのもんのけは「なぜ人間は昔ほどこけしを買わぬ? 作らぬ?」「よいのか!? 東北の文化が消え去っても」と詰め寄る。ケンジがインターネットを活用した魅力発信など、自分たちにもできることを提示すると、もんのけは笑顔になって消える。
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 発行したマイクロマガジン社(東京)の第一編集部リーダー岡野信彦さん(53)は「これまで地域学習漫画は郷土の文化や特産品の紹介にとどまっていた。本作は社会問題に踏み込んでいるのが特徴だ」と話す。
 各巻のテーマは「自然と伝統文化」「復興と気候」「人口減少とお祭り」「東北の未来」。東京電力福島第1原発事故で国内外でいまだ残る風評被害をどう払拭するか。再生可能エネルギーの推進と自然環境の保護をどう両立するか。大人も明快な答えを出せない大きなテーマをあえて選び「視野を広げるきっかけにしてほしい」と狙いを語る。
 読者と想定するのは地域探究学習が始まる小学5、6年。2010、11年度に生まれた子どもだ。「東北の未来をつくるのは震災を経験していない世代。風化させず、まずは事実を知ってもらいたい」と岡野さん。
 1巻の冒頭、巨大地震に襲われたケンジが冷静に避難行動を取り「東北で育った子どもはみんな知っている。地震の恐ろしさや『防災』の大切さを!」と語る場面は印象的だ。復興をテーマにした2巻では、女川中(宮城県女川町)の卒業生らが津波の記憶を後世に伝えるため「女川いのちの石碑」を21基建立した取り組みを紹介する。
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 人口減を扱う3巻では「おぬしらも大人になれば東北を出て行くのだろう?」ともんのけに問われ、子どもたちの意見は分かれる。考えの違いを受け入れる大切さが込められており、岡野さんは「自分だったらこうしたい、こうした方が面白いという風に、ケンジたちと一緒に考えながら読んでほしい」と期待する。
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 昨年9月に1巻を発売。3カ月おきに続編を出し、今年6月の4巻で完結した。各巻の初版は8000部。図書館の蔵書検索サイト「カーリル」によると、東北の135館が所蔵する(7月現在)。21年度の青森県推奨図書に選ばれ、学級文庫にも多く採用されており、順番待ちができている学校もあるという。
 仙台市図書館で借りた市内の小学5年女子は「キャラクターがかわいくて、一気に読めた。東北の伝統工芸が危なくなっているのは初めて知った」と話した。
 A5判、全カラー。各巻1100円。東北の地域活性化のための調査研究などを行う公益財団法人「東北活性化研究センター」(仙台市)が監修した。

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[マイクロマガジン社]1984年設立。人気作「転生したらスライムだった件」に代表されるライトノベルや絵本を中心に出版。2007年に始まった「これでいいのか地域批評シリーズ」は全国各地の県民性や課題をまとめる。「まんが地域学習シリーズ」1作目の本作の舞台に東北を選んだのは「課題先進地」であることに加え「地域批評の反応、売れ行きが良かったから」だという。

『守ろう! みんなの東北』全4巻。第2巻の「復興と気候編」で、宮城県女川町に21基建てられた、津波からの避難のランドマーク「いのちの石碑」が紹介されています。同じ女川町の光太郎文学碑(平成3年=1991建立)に倣って、1,000万円といわれた設置費用を募金でまかなったというプロジェクトです。中心人物の一人、鈴木智博さんは、かつて複数回、光太郎を偲ぶ女川光太郎祭にご参加下さり、光太郎詩文の朗読をなさっていただきました。
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このシリーズの何巻目かに「いのちの石碑」が紹介されているという情報は得ていたのですが、何巻目だかがわからず、書店で探してもみたのですが見つからず、というわけで未入手でしたが、『河北新報』さんの記事で第2巻だったとわかり、早速Amazonさんで購入しました。

守ろう! みんなの東北 ②復興と気候編

2021年12月9日 原作 青木健生 漫画 藤原ちづる 監修 東北活性化研究センター
マイクロマガジン社 定価1,000円+税

もうひとつの東北を舞台に、子どもたちが現実の東北で起きているさまざまな社会問題を探究する、まんが地域学習シリーズ第二弾! 今回は、復興と気候編! 子どもたちは次々とおそいかかる『地域問題』をどう解決するのか? キミならどうする?

現実の東北とそっくりだけど東北とは違う不思議な世界、バケモノが暮らす「もうひとつの東北」に飛ばされた、岩手の少年・石澤研治、青森の少女・玉神むつみ、福島の少女・花咲ななえの3人は、現実の東北の怒り・不安・不満によって生み出された「もんのけ」が突きつけてきた難題を見事解決してみせた。だが、彼らの「もうひとつの東北」をめぐる冒険はまだまだ始まったばかり。舞台は岩手を飛び出し、宮城、そして山形へ!  

行く先々で研治たちの前に新たな「もんのけ」が立ちふさがる。彼らが突きつけるのは東北にまつわるまた別の難題。研治たちは「もんのけ」の怒りにどう向きあっていくのか? 宮城、山形、秋田から新たな仲間を加え、東北を救う冒険の第2章がいま、スタートする! 

様々な問題を考えながら、東北の未来を考えてみませんか! ?
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東北6県の抱える課題、そしてそれらを解決していこうという地道な取り組みなどがわかりやすく語られ、これは日本全国の子供たちに読んでほしいものだな、と感じました。

お子様、お孫さんをお持ちの方、ぜひどうぞ。また、学校関係、図書館関係の方々も、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

来週金曜頃松方三郎氏くる由、


昭和28年(1953)6月20日の日記より 光太郎71歳

松方三郎氏」は、日本電報通信社(現・電通)取締役にして、登山家、ジャーナリストでもありました。父は明治の元勲・松方正義。かつて光雲・光太郎父子がその像を制作しています。実兄は松方幸次郎。上野の国立西洋美術館さんの礎となった「松方コレクション」を集めた人物です。

実際、翌週の金曜には、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエに松方がやって来ましたが、その用件は光太郎日記には記されていませんでした。それにしても、光太郎人脈の広さの一端が垣間見えます。

京都精華大学ギャラリーさんで開催中のリニューアル記念展「越境ー収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座」の展覧会評が、7月6日(水)、『毎日新聞』さんの大阪夕刊に載りました。

今、11作家が問う「越境」 京都精華大ギャラリーでリニューアル記念展

 人やモノが日常的に国境を越えるグローバル化社会の風景を、新型コロナウイルス禍は一変させた。ロシアによるウクライナ侵攻は、今この瞬間も新たな悲劇を生んでいる。人類の歴史の中で繰り返されてきた「越境」だが、個人の人生に目をやれば、解放や成長をもたらす行為でもある。誰もが経験し直面する「越境」をテーマに据えた展覧会が、京都精華大学(京都市左京区)で開かれている。
 今年2月にリニューアルされた「ギャラリーTerra-S(テラス)」の開館記念展。大学が収蔵するコレクションの中から塩田千春ら6人のアーティストと、2000年代以降に活動を開始した若手ゲスト作家5人の作品を展示する。

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 前身の「フロール」から1・5倍の広さになったギャラリー中央のスペースには、「個と社会(ジェンダー/アイデンティティ/歴史/身体(からだ))」のサブテーマのもと、女性作家4人の作品が並ぶ。陶芸や切り紙のインスタレーションを手がける谷澤紗和子(1982年生まれ)による「はいけいちえこさま」(2021年)は、近年取り組んでいる高村智恵子へのオマージュ作だ。
 高村光太郎の「智恵子抄」で知られる智恵子だが、谷澤は、夫の目を通した智恵子像ではなく、切り紙作家としての智恵子個人に光を当てる。「はいけい―」は谷澤の智恵子への手紙などを切り絵にした6枚の連作。智恵子作品のモチーフを取り入れた1枚は、中央部分に目や口が表現されている。谷澤が、自身の言葉で語る智恵子を想像したという。6枚とも、額には解体された家屋の建材を利用。「家」に縛られてきた女性にとっての越えがたい境界が浮かび上がってくるようだ。
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谷澤紗和子「はいけいちえこさま」(2021年、部分)

 さまざまな角度から越境について考える展示を締めくくるのは、潘逸舟(はんいしゅ)(87年生まれ)によるユニークな作品だ。タイトルは「あなたと私の間にある重さ―京都」。円形に並べられたカラフルなはかりには食器が置かれ、箸やしゃもじで隣のはかりとつながれている。目盛りはそれぞれ数値を示しているが、果たしてそれは何のどの部分の重さなのか。
 上海出身で幼少期に青森に移住したというバックグラウンドを持つ潘は、体を使ったパフォーマンスで、社会と個の関係に感じた疑問や自身のアイデンティティーの揺らぎを表現してきた。今回もサブテーマ「身体/アイデンティティ」のコーナーに、自分と同じ重さの石をテーマにした映像作品「呼吸―蘇州号」(13年)が展示されている。「人間の重さは、自分だけの重さなのかと考えるようになった」。潘は同展の公開トークイベントで、「呼吸―」から「あなたと私の―」に至る数年の変化について語った。「自分の中には量れない重さ、どこかとつながっている部分がある。はかりが示しているのは、フィクションでもあると考えるようになった」
 展覧会を企画したのは、芸術学部の吉岡恵美子教授とギャラリーの伊藤まゆみキュレーター。準備中にウクライナ侵攻が始まり、期せずして「越境」はさらなる注目を集めることになった。「人類にとって、良い意味でも悪い意味でも重要なテーマであり続けてきた。一方で、潘さんの作品からもわかるように、境界はあると思えばあるし、ないと思えばない、曖昧なものでもあると思う」と吉岡教授。
 ギャラリーは同大明窓館3階。23日まで(075・702・5263)。日曜休館。入場無料。教員ら総勢22人が「『越境』を考えるためのおすすめ情報」として書籍や映画、音楽などを紹介する大学ならではの試みも。詳しくは展覧会特設サイト(https://gallery.kyoto−seika.ac.jp/exhibition/220617/)。

谷澤紗和子氏の「はいけいちえこさま」に関しては、以下もご覧下さい。

VOCA展2022 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─/「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 - 」。
都内レポートその2「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」。

京都精華大学さんでの展示は7月23日(土)まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后五時半千光園ほととぎす行、 青森県副知事、佐藤春夫夫妻、土方定一氏、小坂氏、藤島氏、草野心平氏、谷口吉郎氏集る、


昭和28年(1953)6月16日の日記より 光太郎71歳

千光園ほととぎす」は、当時中野区にあった「黄檗流普茶料理」と掲げる料亭。現在、中野区産業振興センターのある場所です。

この日は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の原型完成記念報告会が催されました。

7月9日(土)、神楽坂の矢来能楽堂さんでの「癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い CD発売記念コンサート in矢来能楽堂」、神保町の東京古書会館さんでの「七夕古書大入札会一般下見展観」に向かう前、まず最初に訪れたのが台東区の谷中霊園さんでした。最近、こちらに光太郎の父・光雲作の、当方が知らない銅像があるという情報を得まして、拝見に、というわけです。

この日は公共交通機関での移動で、JR日暮里駅にて下車、紅葉坂を上って園内へ。目指す銅像は徳川慶喜の墓所近くということで、そちら方面を目指しました。

途中には、谷中の五重塔跡。
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徳川慶喜墓所。
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さて、目指す銅像はこの近く、ということなのですが、なかなか見つかりません。というのも、慶喜の墓所敷地がかなり広大で、「近く」の範囲も相当なものだからです。

関係ない渋沢栄一の墓所などが見つかりました。
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それでも、ようやく発見。
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2体並んでいるうちの、左の方です。
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「初代 小川源兵衛之像」というキャプション。背面には「高村光雲作」の銘。

小川源兵衛は、嘉永三年(1850)年生まれ(光雲より2歳年長)。日本橋で「近江屋」という店を構えていた織物商です。屋号は出身地の近江に由来します。光雲は、この手の実業家等の銅像を全国でいくつか手がけており、不思議ではありません。ただ、どちらかというと、光雲個人の作というより工房作かな、という感じです。それにしても愚劣な立体写真的な像とは一線を画していますね。

中には原型を光太郎が代作したものも2体。宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられた「青沼彦治像」(大正14年=1925)。岐阜県恵那郡岩村町の「浅見与一右衛門像」(大正7年=1918)。いずれも戦時の金属供出で像本体は失われてしまいました。この「小川源兵衛之像」は、それらとは異なり、光太郎イズムは感じられませんし、光太郎が描き残した文章にもこの像の話は出て来ません。

さらに言うなら、この像の建立の経緯はまったくわかりません。その人物の追悼録的な書籍が刊行されていれば、そこに詳細が記されることが多いのですが、そうした書籍も見つけられていません。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

また、こんな都心にあって戦前の作であるにもかかわらず、金属供出を免れている点も謎です。同じ谷中霊園内の「川上音二郎像」は、おそらく供出されたのでしょう。現在は台座だけが空しく残っています(左下画像)。
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ちなみに2体並んでいる右の方は、「二代目小川源兵衛」の像。背面の銘(右上画像)によると、山本稚彦による昭和48年(1973)の作だそうです。山本稚彦は、光雲の高弟の一人・山本瑞雲の子息。光太郎とも交流がありました。

昭和48年(1973)であれば、もはや金属供出は関係ないわけで、もしかすると左の初代の像も、一旦は金属供出に遭ったものの、戦後になってから保存されていた原型を元に新たに鋳造されたのかも知れません。やはり原型光雲作で、愛媛県新居浜市の広瀬公園にある「広瀬宰平像」などはそのパターンです。あるいは金属供出を免れるため、遺族が像本体を戦後になるまで秘匿していたという例(光太郎の親友・碌山荻原守衛作の「宮内良助像」など)もあり、そういうケースも考えられます。

さて、「小川源兵衛之像」、谷中霊園、正確にはその中の東京都ではなく寛永寺さんが管理している一角にあります。そのため「甲の何々」「乙のいくついくつ」という表示のないエリアです。
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ご興味のおありの方、ぜひ探してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

石膏とりつづき午后終、小坂さん粘土かたつけ、二時過運送屋三輪車で牛越さん等と一緒に石膏型を持ち去る、牛越さんの家までの由、


昭和28年(1953)6月9日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」、石膏取りも終わり、石膏型が中野の貸しアトリエから運び出されました。これで、光太郎の手を離れた、ということになるわけです。それにしてもオート三輪で、というのが時代を感じさせますね(笑)。この光景、見てみたかったものです(笑)。

小坂さん」は制作のため雇った助手・小坂圭二。「粘土かたつけ」は、石膏型を取り終わった後、中から原型の粘土を掻き出したりする作業で、七尺もの巨像となると、光太郎一人では不可能だったでしょう。

牛越さん」は石膏取り師の牛越誠夫、道具鍛冶千代鶴是秀の娘婿です。

7月9日(土)、神楽坂の矢来能楽堂さんで開催された「癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い CD発売記念コンサート in矢来能楽堂」に向かう前、久々に神田の古書街を歩きました。

まず向かったのは東京古書会館さん。こちらでは7月8日(金)、9日(土)の二日間、明治古典会さん主催の「七夕古書大入札会一般下見展観」が開催されていました。
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国内最大規模の古書市で、出品物を手にとって観ることができる催しです。コロナ禍のため、一昨年は中止、昨年は勝手に「今年も中止だろう」と思いこんでいたら、実は規模を大幅に縮小して開催されていました。そんなわけで、3年ぶりでした。

今年も昨年並みに縮小しての開催だったようです。以前は4フロアぐらい使って出品物を所狭しと並べていたのですが、今年は2フロアのみ。「文学」カテゴリと「美術」カテゴリ(一部)が同じフロアという、以前では考えられない寂しさでした。昨年もこんな感じだったのでしょう。目録も昨年同様、以前の半分以下の薄さでした。

今回は光太郎メインの出品物はなし。目録掲載品以外の「追加出品」があった年もあり、会場の方に訊いてみましたが、今年はそれも無し。

間接的に光太郎智恵子に関わるものとして、光太郎が題字を揮毫した中原中也の『山羊の歌』(昭和9年=1934)、篠田桃紅さんの書で松竹映画「智恵子抄」の題字等。
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『山羊の歌』はガラスケースに入っていました。係の方にお願いすればケースの鍵を開けて出して下さるのですが、まぁいいや、と思い、ケースの外から拝観。

篠田さんの書は、額に入って壁に掛けられていました。入札最低価格が80万円、ネームバリューの割に安いな、と思っていたのですが、見て納得。ちょっと状態が良くありませんでした。それでも大きな書で、いかにも篠田さんという素晴らしい墨痕。軸装にでもして、二本松の智恵子記念館さんあたりに収蔵展示されればいいのにな、と思いました。

その他、大正から昭和初期のマイナーな映画雑誌などがまとめて出ており、もしかすると光太郎の寄稿があるかも、と、一冊ずつ目次を確認しましたが、残念ながら有りませんでした。

余談になりますが、昨年の七夕古書大入札会で出品された、光太郎から和歌山の編集者・東正巳という人物に送られた葉書21通、個人の収集家ではなく、業者さんが落札したようです。
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そしてその業者さん、ネットオークションで1通ずつ小出しにして分売しています。光太郎の直筆葉書なら欲しい、しかし個人では数十万円で数十通という出品物には手が出ない、という方々のニーズに合致しているようで、一通数万円程度で落札されているようです。昨年の入札最低価格は20万円、それでは落ちなかったと思いますが、そのでもこのように分売して1通数万円で売り続けられれば、業者さんは大もうけでしょう。参考までに。ちなみに当方、『高村光太郎全集』等に掲載済みで、内容が分かっているものは入手しない方針でいます。

古書会館さんを後に、靖国通りの古書街へ。
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光太郎をメインに扱った書籍はほとんど入手済みですし、そうでないものも図書館さん、文学館さん等でデジタル資料なり紙の実物なりをコピーして、必要な部分を入手するのが主流となっており、以前より足を向けなくなっていましたが、時折、面白いものが手に入ります。

この日、入手したのは下記の2冊。

まずは『《挨拶》草野天平の手紙』(昭和44年=1969 弥生書房)。
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当会の祖・草野心平の実弟にして、やはり詩人だったものの、数え43歳で早世した草野天平の書簡集です。大部分は心平ら家族・親族、当方の知らなかった友人宛のものでしたが、戦後、光太郎に宛てた書簡も3通掲載されていました。うち1通(昭和22年=1947)は巻頭口絵として画像も。
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この時期の光太郎への来翰は、ほぼすべて当会顧問であらせられた故・北川太一先生が保管されていたはず、と思っておりましたところ、案の定、後記的な箇所に、北川先生から提供を受けて掲載した旨の記述がありました。

天平、兄の心平よりマトモな人物(笑)というイメージでしたし、実際そうだったのでしょうが、意外と歯に衣着せぬ物言いもしていたんだな、という感じでした。特に光太郎が自らの戦争責任を自省して書かれた連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)への感想など、光太郎を思う余り、かなり手厳しい文言も。曰く「先生、何故このやうな詩をお書きになつたのですか。あれは詩ではありません。」「戦争中、皆立派ではありませんでした。たとへ先生がどんなことを戦争中に書かれたにしろ、戦争中にこの国の米を食つたものは、又はこの地に足をつけてゐた者は、一言たりとも何も言へない筈です」云々。

その他、心平や、天平の妻・梅乃による回想等もなかなか興味深く、これは一冊丸ごと読んでもいいなと思い、購入いたしました。

さらにこちら。
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山梨県立文学観さんで、平成4年(1992)に開催された企画展「与謝野晶子と「明星」」の図録です。同館では晶子メインで平成25年(2013)にも「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を開催していまして、拝見して参りましたが、それ以前にも晶子展をやっていたとは存じませんでした。

「「明星」の人々」ということで、光太郎に関しても出品物があり、図録でも5ページ、光太郎に割いて下さっていました。特に目新しいものは有りませんでしたが、一点だけ、「おっ」と思ったのが、明治33年(1900)、光太郎数え18歳のスケッチ。父・光雲を描いたものです。
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『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973 春秋社)に、小さくモノクロの画像が載っていましたが、こちらはそれより大きく、細かな部分が観察出来ます。

北川先生による『高村光太郎 造型』の解題から。

 明治三十三年五月の日付を含むスケッチブックが現存する。表紙裏を含めて一二〇頁ほどのものだが、主として鉛筆、時に墨、色鉛筆、水彩着色等で、人物、風景、フランス語の断片等が書き込まれている。数え年十八歳、美術学校二年、まさに歌人砕雨が誕生するあたりの習作

砕雨」(さいう)は、『明星』に短歌を寄稿の際、光太郎が使った号です。

このスケッチブックは、平成2年(1990)、茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光太郎・智恵子 その造型世界」展に出品され、一部は拝見しましたが、全貌は当方も未見です。他にも光太郎のスケッチ類はいろいろ残っており、全体を複製して出版するなり、スケッチや絵画に特化した企画展なりが開催されてもいいような気もします。

この手のちょっとした掘り出しものがあるので、やはり神田古書街あなどりがたし、ですね。

この日はさらに、神田古書街へ向かう前に谷中霊園を訪れました。そちらについては、明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

小雨つつく、 奥平さんくる、午前石膏屋さん2人くる、


昭和28年(1953)6月7日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏による型取りが始まりました。「奥平さん」は親しくしていた美術史家の奥平英雄です。見物というか見学というかに来たのでしょう。

昨日は都内に出、3件ほど用件を済ませて参りました。

メインは新宿区の矢来能楽堂さんで開催された「癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い CD発売記念コンサート in矢来能楽堂」拝聴でした。

若干早く最寄りの神楽坂駅に着いてしまったので、駅近くでたまたま見つけた書店兼ギャラリー兼カフェに。中に入ると、「あれっ、ここ、来たことあるな」と思い出しました。平成26年(2014)、こちらで開催されていた「えがく展 7人の絵描きと10冊の本」で、『智恵子抄』も取り上げられていたので拝見に来ていました。こういうこともあるのですね。

とにかく暑かったので、アイスコーヒーを頂き、汗を引かせてから会場へ。
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まず楽屋に寄り、和編鐘奏者の有機音(ゆきね)さんにご挨拶。さらに客席へ。今回、「智恵子抄より「愛はすべてをつつむ」」がプログラムに入っていて、その演奏前に「高村光太郎連翹忌運営委員会代表の方が会場にいらして下さっています」的な紹介をするというので、司会の方などと打ち合わせ。そんな大した者ではないのですが(笑)。

舞台には既に和編鐘がセッティングされていました。
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鋳金製の鐘が39個。音域的には3オクターブですね。これをマレットで叩いて音を鳴らす仕組みです。昨秋、代々木能舞台さんでの「和編鐘コンサート in 代々木能舞台 響きにつつまれていのちの煌めきの中へ 智恵子抄 愛と絆の調べ」の際に初めて拝聴しましたが、楽器でありながら自然の音に近いような感もありましたし、かなりの音量になりながら耳に優しいという不思議な楽器です。

その後、受付でパンフレットを拝受。
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さらに今回の演奏会が「CD発売記念コンサート」と銘打っていまして、チケットが「CD付」と「CDなし」の2種。当方は「CD付」を購入していましたので、下記のCDを拝受しました。
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こちらには「智恵子抄」系は収められていませんが。キングレコードさんから先月のリリースです。

さて、開演。2部構成で、第Ⅰ部は「鐘(和編鐘)シンフォニー」。昨秋の代々木でのステージにも出演された河崎卓也氏の朗読で、古典や近現代の短歌、そしてそれらからインスパイアされた和編鐘の調べ。鐘の音が時に風のように、また川のせせらぎのように、さらには海の波のようにという感じでした。
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休憩を挟んで第Ⅱ部。こちらでは3曲演奏され、冒頭が「智恵子抄より「愛はすべてをつつむ」」でした。
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語りは菜月ひとみさん。光太郎詩の朗読は「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)一篇で、それ以外は光太郎智恵子の半生的な説明調。彼らについてあまりご存じない方には親切だなと思いました。

さらに「額田王歌物語より「煌めく歌人」」。第Ⅰ部にも登場された河崎さんが朗読、そこにまつながまきさんという方の舞。飛鳥時代ということで、高松塚古墳の壁画のような衣装が印象的でした。最後は「呂律の調べ」。はし本はるえさんという方の十七絃箏とのコラボ。いろいろバリエーションに富んだ構成でした。

終演後。
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左からまつながまきさん、河崎卓也さん、菜月ひとみさん、有機音(ゆきね)さん、はし本はるえさん。皆さんの今後のご活躍にも期待いたします。

今後といえば、有機音さん、今秋にも神戸で智恵子抄系をプログラムに入れた演奏会をなさって下さるそうで、ありがたいところです。詳細がわかりましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

午后「毎日グラフ」の人3人くる、撮影、談話、

昭和28年(1953)6月6日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型が完成したという話を聞きつけて来たようです。7月1日発行号に大きく写真が載りました。除幕前にネタバレ的に出してしまってよかったのかな、という感じですが。
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土曜美術社出版さん発行の雑誌『詩と思想』。今月号は光太郎と交流のあった詩人・高祖保の特集で、光太郎にも触れられています。
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特集部分の目次はこちら。

 ◆ 高祖保アルバム
 ◆ メール対談 外村彰×青木由弥子 高祖保について――外村彰さんに聞く
 ◆ 評論
  外村彰 高祖保 生涯と詩想
  萩原健次郎 不滅の審美――高祖詩の現在
  國中治 高祖保式詩作装置
  江田浩司 高祖保の詩、歌、句の関係性
  澤村潤一郎 湖べりの去年の雪――高祖保と彦根の詩景
  大塚常樹 高祖保を育てた「椎の木」
  宮崎真素美 高祖保の「詩」――戦時下の振幅から
  島田龍 高祖保と左川ちか――「椎の木」の頃から「念ふ島」へ
  扉野良人 『をぢさんの詩』のこと
 ◆ エッセイ
  漆原正雄 ひきあげてゆくものは、詩の精神による補ひでなければならない。
  木下裕也 詩集『獨樂』を読む
  高嶋樹壱 全身のごとく、全行で受ける力
  田中さとみ 「Kool Snow in the dome」
  重光はるみ 高祖保の家族愛
 ◆ 資料篇
  友森陽香 特別展「生誕一一〇年 雪の詩人 高祖保展」を開催して
  清須浩光 郷土出身の詩人・高祖保顕彰活動
  高祖保略年譜/附・ブックガイド
  青木由弥子 書評・『牛窓 詩人高祖保生家 念ふ鳥 補記』


高祖保(明治43年=1910~昭和20年=1945)は、岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)の生まれ。父の死後、9歳で母と共に母の実家のあった滋賀県彦根に移り住みました。旧制中学時代から詩作に親しみます。國學院大學師範部を卒業し、横浜で叔父の経営する貿易会社に入社、のち、社長となったものの、昭和19年(1944)に出征し、翌年にはビルマ(ミャンマー)で戦病死しています。

昭和初め、光太郎も稿を寄せていた雑誌『椎の木』に寄稿したあたりから、光太郎との交流が生まれたようで、その後、高祖の個人雑誌に近かったという『門』に、確認出来ている限り光太郎は2回寄稿しています。また、昭和18年(1943)には、光太郎の年少者向け翼賛詩集『をぢさんの詩』の編集に高祖があたりました。光太郎本人による同書の序文には「なほこの詩集の出版にあたつて一方ならず詩人高祖保さんのお世話になつた事を感謝してゐる。」と記されています。

平成25年(2013)の明治古典会七夕古書入札市で、光太郎から高祖に贈られた識語署名入りの『をぢさんの詩』他が出品され、驚きました。
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献呈署名に曰く、

此の詩集の成る、 まつたくあなたのおかげでありました 印刷の字配り、行わけ、の比例から校正装幀などの御面倒まで見てくださつた事世にも難有、茲に甚深の謝意を表します
  昭和十八年十一月   一十六歳 高村小父  高祖保雅友硯北

難有」は「ありがたく」、「茲に」は「ここに」と読みます。「雅友」は「風流な友達」、「硯北(けんぽく)」は手紙の脇付決まり文句で、「机下」「座下」などと同義です。「一十六歳 高村小父」は、この詩集が年少者向けのものだったことに関わる、数え61歳の光太郎の洒落ですね。

高祖に宛てた葉書も同時に出品されました。昭和18年(1943)7月27日付けでした。

おたより拝見、又々御入院のことを知り、驚きました。今度は十分御療養なされて無理をされぬやう申しすすめます。
此前はまだ出あるきに無理だつたのだと推察されます。御送付の校正刷は別封で御返送いたします。一箇所かなをなほしました。
尚つひでに「某月某日」を同封いたしました、おんつれづれの時にでも御披見下さい。すべてゆつくりやつて下さい。

校正刷」は『をぢさんの詩』のためのものですね。

『詩と詩人』に載った年譜に拠れば、高祖はこの年5月中旬から肺炎のため入退院をくり返し、約三ヶ月の闘病生活を送ったそうです。また、翌年4月頃には、肺炎と腸チフスを併発しています。にもかかわらず、7月には召集を受け、南方戦線へ。そして昭和20年(1945)1月、ビルマでマラリア罹患に急性腸炎を併発し、戦病死しています。

光太郎はその後、戦後になって高祖の死を知り、追悼文を書きました。

 召集せられて出てゆかれたときいた時、ちよつと不安を感じた。あのデリカな健康で、おまけにかなりな病気をしたあとで、たとへどのやうな任務にしろ、軍隊生活をするのは無理だと思つた。あの細い指に軍刀をつかませるのは無残な気がした。ビルマのような暑い土地に送つて此の有為な若い詩人を死なしめた乱暴な、無神経な組織体そのものをつくづくなさけないものに思ふ。その粗剛な組織体がともかくも日本から消え失せるやうな事になつた今日、高祖保さんのやうな詩人こそ今居てもらひたいといふ循環心理がぐるぐるおこる。つい二年程まへに私の詩集「をぢさんの詩」を編纂してくれた彼がもう居ない事を此の奥州の山の中で考へるのはつらい。人里離れた此の小屋の炉辺に孤坐して彼を思ふと、その風姿が彷彿として咫尺の間に迫る気がする。彼のしんから善良な生れつきと、高雅清純な育ちと、繊細微妙な神経の洗練と、博くして又珍らしく確かな教養とをつぶさに観たのは、此の「をぢさんの詩」編纂に関してたびたび私の書斎に彼が来てくれた時の事であつた。実に労を惜しまぬ、心を傾けての彼の尽力にはただ感謝の外なかつた。そして一切を委せて安心出来た。わたくし自身のやり得る以上の事をやつてくれた。組方から、校正から、かな使ひから、装幀から、その隅々にまで彼の神経が行きわたつた。昔郷里の江州に居た頃高祖保さんが出してゐた詩誌にわたくしが「その詩」と題する詩一篇かを寄稿した事を徳として、その事を忘れず、死の運命のひそかに近づいてゐたあの頃、わたくしへの報恩の意をそれとなく尽してくれたもののやうな気がする。まだ夜陰の風は肩にさむい。炉の火に柴を加へて彼の冥福をいのるばかりだ。
 彼の詩そのものについては、それを語るわかい友人が多いことと思ふ。今わたくしは別に述べない。


昭和21年(1946)5月、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれたこの読む者の胸を打つ文章は、終戦直後の出版事情の混乱により、光太郎生前は活字になることがありませんでした。

さて、『詩と思想』の特集、かなりの分量でして、まだ読破しきっていません。したがって、上記追悼文に触れられているかどうかは不分明です。『をぢさんの詩』についての文章はありましたが。本日、公共交通機関を使っての移動がありますので、その間に読了したいと存じます。

ロシアによるウクライナ侵攻というこのご時世こそ、無謀な戦争で死んでいった詩人の生の軌跡に学ぶところが多いのではないでしょうか。オンラインで注文可です。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前午后仕事、顔其他、一応出来上る、


昭和28年(1953)5月31日の日記より 光太郎71歳

仕事」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作です。この後も若干の手直しが入りますが、一応の完成を見ました。遺された完成記念報告会のためのメモでも、この日を完成としています。

昨日は、埼玉県に行っておりました。

メインの目的は、同県東松山市の生涯教育施設「きらめき市民大学」さんでの講座。同市の教育長を永らく務められた故・田口弘氏が生前の光太郎と交流があったため、そのご縁です。田口氏は市内の小学校に光太郎碑を建てられたり、同じく光太郎と交流のあった高田博厚とも親交を深め、光太郎胸像を含む高田の彫刻作品群からなる「高坂彫刻プロムナード」整備にも骨を折られたりしました。また、亡くなる前に光太郎からの書簡や書などを市に寄贈。現在、市立図書館さんで「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」として展示されています。

午前10時半開講ですが、圏央道を使って約1時間半、途中、事故渋滞でもあったらアウトなので、余裕を十分にもって自宅兼事務所を出発。結局、何事もなかったためかなり早く着きました。こうした場合に、東松山市は時間がいくらでもつぶせる街です。

まず市役所さん。ロビーに高田の彫刻を新たに展示し始めたというので、拝見。
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やはり光太郎と交流のあった詩人・中野重治の像でした。高田を紹介する解説版には光太郎の名も。
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高坂彫刻プロムナードの案内。
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まだ時間がありましたので、市立図書館さんへ。久しぶりに「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」を拝見。
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光太郎から贈られた品々、光太郎歿後に田口氏が集められた品々など、出品物を替えながら展示されています。
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最も目を引くのは、聖書の一節を書いた光太郎の大きな書。敬虔なキリスト教徒でもあられた田口氏のご子息誕生祝いに、光太郎から贈られました。曰く「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」。聖書の文言を大書したものは他に類例がなく、昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品させていただきました。ただし、こちらで展示されているのは、後の書簡を含め、複製です。
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光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)詩碑拓本。
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光太郎から田口氏宛書簡類。
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その他の書など。
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光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の風景を描いたスケッチ。
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智恵子及び生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のためのデッサン。
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これから光太郎について語る上で、これらを見てテンション爆上がりとなりました(笑)。

そして会場に。
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パワーポイントのスライドショーを使いながら、約90分。前半は光太郎の人となり、休憩を挟んで後半は田口氏や高田との関連で、東松山市と光太郎のご縁について。皆さん、熱心にお聴き下さいました。有り難うございました。

講座修了後、そのまま帰らず、少し足を延ばしました。目指すは同じ埼玉県比企地域のときがわ町。東松山から20数㌔というところです。

目的地は正法寺さんという寺院。鎌倉時代創建の古刹です。
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本堂前には、もうすぐ咲きそうな蓮の花。いい感じでした。
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こちらには、光太郎筆の般若心経を陶板焼成した衝立が納められています。平成11年(1999)、同じ埼玉の川越市に本社がある光兆産業株式会社さんの代表取締役・渡瀬武夫氏の寄進で、陶板制作は大塚オーミ陶業さん、額の制作は全国建具組合連合会特選理事・技術委員長(当時)の原口竹春氏です。

当方、寄進された頃(まだ「ときがわ町」が「都幾川村」でした)にも一度拝見に伺いましたが、20数年ぶりにもう一度見ておこうと思い立ち、お邪魔いたしました。ご住職に「これこれこういう者でして、拝見させて下さい」と申し上げると、快く見せて下さいました。20数年前に対応して下さったのはご先代で、今回はその息子さんでした。
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20年以上経っても色あせず、鮮やかです。

もとになった般若心経は、大正13年(1924)、光太郎の実弟にして鋳金分野の人間国宝となった豊周の子供が夭折した際、光太郎が豊周に「これ、霊前に」といって持ってきたもの。般若心経がらみの書籍などで、よく取り上げられる筆跡です。
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ちなみに、のちに昭和37年(1962)の第6回連翹忌で、光太郎の七回忌記念ということで、高村家から大塚巧藝社さんによる複製が配布されました。

本堂の外には、石川九楊氏による解説板。平成11年(1999)に寄進された際に作られたリーフレットに掲載されたものと同一でした。
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帰りがけ、気さくなご住職、「こんな山の中までご苦労様です」と、ペットボトルの麦茶をお渡し下さいました。多謝。また、「展覧会等にお貸し願うことは可能でしょうか」と問うと、「全然かまいませんよ」とのこと。実は上記の「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際に、お借りできるものならお借りしようかとも考えたのですが、複製であることがネックで、その際は候補から外した経緯があります。今後、複製であっても構わないという展示等をお考えの関係の方、よろしくご検討下さい。

遅めの昼食を正法寺さんの近くの、古民家を改修した手打ちうどんのお店・「やすらぎの家」さんで。
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事前に調べていったわけではありませんで、たまたまこういうお店があったので入りました。「ふるカフェ系 ハルさん」ではありませんが、古建築好きの当方としましては、またまたテンション爆上がりでした(笑)。
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もちろん、手打ちうどんも美味しく頂きました。

さて、東松山市光太郎関連各所、ときがわ町正法寺さんなど、ぜひ足をお運び下さい。また、このあたり、比企郡ということで、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」関連でも盛り上がっています。

【折々のことば・光太郎】

夕六時半南江氏の車迎にくる、日比谷公会堂アンダソン夫人独唱会、


昭和28年(1953)5月25日の日記より 光太郎71歳

「南江氏」は南江二郎、詩人にして人形劇研究家でもありました。「アンダソン夫人」はマリアン・アンダーソン、アメリカの歌手で、黒人として初めてニューヨークのメトロポリタン・オペラの舞台で歌い、人種差別撤廃のための活動を行いました。

テレビ放映情報です。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2022年7月8日(金) 17:58〜19:00

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

「東京アンナ」大津美子
「ダイナ」ディック・ミネ
「ダイアナ」鈴木ヤスシ
「硝子のジョニー」谷龍介無題
「傷だらけのローラ」高道(狩人)
「シェリー」九重佑三子、田辺靖雄
「ジョニィへの伝言」ペドロ&カプリシャス
「メリー・ジェーン」つのだ☆ひろ
「サチコ」ニック・ニューサ
「ひとみちゃん」神戸一郎
「そんな夕子にほれました」増位山太志郎
「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ
「お吉物語」天津羽衣
「おーい中村君」若原一郎
「ハチのムサシは死んだのさ」セルスターズ
「姿三四郎」姿憲子
「与三さん」照菊

<司会>合田道人

過去の映像の再放映ですが、一昨年に亡くなった二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(昭和39年=1964)がラインナップに入っています。智恵子の故郷・二本松では防災無線正午のチャイムがこの曲でしたが、現在もそうなのでしょうか。
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ローズさん、ご存命のうちはアメリカにお住まいで、時折帰国してコンサートやテレビ出演をなさっていました。そこで、かえって亡くなってからの方が、たびたびこの手の番組で過去の映像が使われるようになりました。

ところで当方、昨秋だったと思いますが、ローズさんのサイン色紙を入手しました。
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ローズさんの唄う「智恵子抄」の歌詞ではなく、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)から。正確には「ほんとうの空」ではなく「ほんとの空」なのですが、仕方ありますまい。

価格は3,220円。この世界、性善説でいると手痛い目に遭うこともあるのですが、おそらく本物でしょう。サイン部分の筆跡が実に書き慣れた感じですし、ニセモノ特有の卑しさが感じられません。

さて、「プレイバック日本歌手協会歌謡祭」、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ブリヂストンより岩佐、青木両氏くる、映画撮影の下相談、


昭和28年(1953)5月21日の日記より 光太郎71歳

映画」はブリヂストン美術館(当時)制作の美術映画「高村光太郎」。この時制作中だった生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作の様子や、この年の秋、一時的に花巻郊外旧太田村に帰った時の様子などが撮影されました。
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現代でも各種企画展の折に流されていますし、花巻高村光太郎記念館さんでは特別な場合を除き、常時館内で放映しています。

昨日の地方紙『岩手日日』さんから。

道の駅利用者に役立てて 市へ書籍470冊寄贈 賢治、光太郎関連など 市へ書籍470冊寄贈 冨士見総業・GSオープン記念

 冨士見総業(本社青森県弘前市、福士誠代表取締役社長)は4日、花巻市轟木に整備したガソリンスタンド「リベルタはなまき西南SS」のオープンを記念し、宮沢賢治の童話や高村光太郎などに関連した書籍470冊(100万円相当)を同市に寄贈した。
 ガソリンスタンドは、県道盛岡和賀線沿いにある道の駅はなまき西南の北側にオープン。関係者ら約50人が出席し、神事に続き、記念品の贈呈、テープカットを行い開所を祝った。
 書籍は、道の駅の愛称「賢治と光太郎の郷(さと)」にちなみ、道の駅利用者に花巻の先人を知ってもらおうと寄贈。同社の福士悟代表取締役会長と書棚を提供した藤正建設の照井正樹代表取締役がそれぞれ上田東一市長に目録を手渡した。
 寄贈された書籍は「道の駅文庫」として同道の駅情報スペースに配置。福士代表取締役社長は「今後も寄贈を続け、一人でも多くの人に手に取ってもらえたらうれしい」と話す。
 上田市長は「西南地区は店が少なく、道の駅、隣接するコンビニエンスストア、ガソリンスタンドは地域の悲願だった。交通量も多く道の駅は通行する人の憩いの場にもなっている」と寄贈に感謝した。

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こういう取り組みには、本当に頭が下がります。

そういえば光太郎も、花巻郊外旧太田村に蟄居中、出版社から送られてきた雑誌や書籍を村の青年会や学校などに寄贈して、「高村文庫」として利用されていたっけ、と思い出しました。

同じ「道の駅はなまき西南」さんの情報スペースで、光太郎がらみのミニ展示が予定されているそうです。MICHINOさんという方の色鉛筆画で「器と楽しむ光太郎ランチ」。こちらの道の駅のテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」を洒落た器に盛りつけて描いた作品とのこと。7月9日(土)からだそうです。

来週末、花巻高村光太郎記念館さんの企画展「光太郎、海を航る」の関係であちらに行って参りますので、寄贈書籍、「器と楽しむ光太郎ランチ」、それぞれ拝見して参ります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后日比谷行、ニユートーキヨー、ピカデリーで「越境者」日劇でストリップ、新宿ビヤホール、ドレスデン、よしの、十時半かへる、 ドレスデンでアブサン一ぱいのむ 一ぱい220円なり、

昭和28年(1953)5月17日の日記より 光太郎71歳

越境者」は昭和25年(1950)公開のイタリア映画。続いてまたしてもストリップ鑑賞、さらに呑み歩いています。「ドレスデン」はひらがなの「どれすでん」として、新宿に現在も健在です。

前年にはこんな詩も発表している光太郎ですが、がっつり東京の夜を満喫しちゃっています(笑)。

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 あなたのきらひな東京へ
 山からこんど来てみると
 生れ故郷の東京が
 文化のがらくたに埋もれて
 足のふみ場もないやうです。
 ひと皮かぶせたアスフアルトに
 無用のタキシが充満して
 人は南にゆかうとすると
 結局北にゆかされます。
 空には爆音、
 地にはラウドスピーカー。
 鼓膜を鋼で張りつめて
 意志のない不生産的生きものが
 他国のチリンチリン的敗物を
 がつがつ食べて得意です。
 あなたのきらひな東京が
 わたくしもきらひになりました。
 仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう、
 あの清潔なモラルの天地で
 も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。

キーワード「高村光太郎」で新着情報の検索をかけている中で、ヒットしました。

明治期に光太郎も中心人物として参加した芸術運動「パンの会」会場となり、婚約前の光太郎智恵子が訪れて、ハイカラな「氷菓」を食し、そしてコロナ禍前には光太郎を偲ぶ連翹忌の集いの会場として使わせていただいていた、日比谷松本楼さんでの求人情報です。

転職情報サイト「マイナビ転職」さんから。

明治から続く老舗洋食レストラン「松本楼」のサービスを提供していただく仲間を募集します

本店レストランやブライダル&バンケット、各支店など、様々な活躍の場で上質のサービスを提供しませんか?

日比谷公園内に店舗を構え、110年以上の歴史を重ねながら国内外のお客様に愛されてきた洋食レストラン「日比谷松本楼」。その歴史に裏打ちされた数々の料理、そしてそれを提供するサービススタッフのホスピタリティに対するファンも多く、自粛要請期間が明けてからは多くのお客様にご利用いただいています。今回は2022年4月より再開した各支店を含め、松本楼のサービスを多くの方に提供するスタッフを募集します!

創業は明治36年。日本でも有数の歴史を重ねてきた老舗レストラン・日比谷松本楼。多くの文化人をはじめとするお客様からの支持を受けながら、110年以上の歴史を重ねてきた実績は私たちの誇りです。

2021年に三井不動産との資本業務提携を結んだことで、今まで以上に安定した経営基盤の構築を実現。より安心して働ける環境が整ったことにより、さらなるサービスクオリティの向上に努めるようになりました。

これまで私たちが世代や国内外を問わず、多くのお客様から厚い支持を寄せられている背景には、会社全体でみんな一緒に協力しながら、お客様に喜んでいただけるサービスを提供する文化があります。

当社は人数がそこまで多いわけではないため、みんな顔と名前がわかるほどお互いが近い関係があります。だから担当フロアや部署が異なっていても、ちょっと大変だなと思ったらすぐにヘルプに入る。そんなチームワークの良さが私たちの最大の武器とも言えるのです。

ちなみに本店においては、日比谷公園のイベントにも積極的に参加。特に盆踊り大会(今年度は中止)は私たちが主催者となり、みんなが一丸となって成功に向けて力を発揮しています。

──来る2023年、松本楼は創業120年を迎えます。この新しい時代を迎えるにあたり、あなたと一緒に次の歴史をつくりたいと思います。

ご応募、お待ちしております。
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仕事内容
日比谷本店のレストランフロアをはじめ、あなたの希望する活躍の場で松本楼のサービスを提供していただきます★チームワークを発揮して働けます。具体的には以下の担当部署にて、それぞれのサービスを提供していただきます。原則として経験・スキルを考慮した上であなたの希望を優先します。

◎「ボア・ド・ブローニュ」
 ・オープン前の準備
 ・オーダーテイク001
 ・料理や飲み物の配膳
 ・会計業務 など
◎宴会サービス
 ・小規模個室から大宴会場でのサービス業務
 ・レストランウエディングなどでのサービス業務
◎各支店 ※店長候補として配属します
 ・ホールおよび会計業務
 ・売上や予算管理
 ・スタッフのシフト管理
 ・宴会のご案内 など
その他、キッチンカーの運営に携われる機会もございます。

対象となる方
★未経験・第二新卒歓迎★明るく楽しい雰囲気づくりが得意な方!何かしらのサービス経験をお持ちの方は即戦力としてお迎えします!

募集要項
 雇用形態 正社員
 勤務時間 10時~21時 【シフト制(実働7時間45分)】配属先部門によって異なります
 勤務地  ◎転勤なし
  本店:東京都千代田区日比谷公園1-2 
  東京ビッグサイト店:東京都江東区有明3-11-1 東京ビッグサイト 1F レストラン街
  東大工学部2号館店:東京都文京区本郷7-3-1 東京大学 工学部2号館1階
  学習院大学店・目白倶楽部:東京都豊島区目白1-5-1 学習院大学 中央教育研究棟12階
  立教大学セントポールズ会館店:
東京都豊島区西池袋3-34-1 立教大学 セントポールズ会館1階
  東京女子医大店・グリーンテラス:
東京都新宿区河田町8-1 東京女子医科大学総合外来センター3階
  杏林大学病院店・ガーデンテラス:
東京都三鷹市新川6-20-2 杏林大学医学部付属病院 外来棟6階
  横浜ジョイナス店:神奈川県横浜市西区南幸1-5-1 ジョイナス地下1階

給与
【月給】30万円~40万円+賞与年2回
 ※前職給与・経験・スキル・年齢等を考慮のうえ、決定します。
 ※賞与は業績に応じて支給します。
 ※試用期間3ヶ月あり(待遇面の変更はなし)
 ※上記には月42時間分の固定残業代(70,200円~)を含み、超過分は別途支給いたします。
 初年度の年収  400万円~550万円002
 昇給・賞与  昇給/年1回
 賞与/年2回  ※業績による
 諸手当  交通費全額支給
 休日・休暇  週休2日制(シフト休/月8日以上休み)
 有給休暇  慶弔休暇
 ★希望が通れば、日曜日や祝日も休暇取得可能です!
 福利厚生 各種社会保険完備
 健康診断(年1回) 国内研修 社割あり
 ⇒自社レトルト製品を社販価格で購入可能!自分用・ギフト用など、気軽に利用している社員が多数います!

マイナビ転職編集部より
 日比谷公園でレストラン事業を展開し、来年で創業120年を迎える松本楼。夏目漱石や高村光太郎、孫文などの著名人をも魅了した味とホスピタリティあふれるサービスは、今も世代を超えた支持を集めている。その松本楼の最大の強みは、そこで働く人たちのチームワークにある。連携しながらサービスの本質を極め、さらなる成長を目指したい方には理想的な職場だろう。未来志向の方は、ぜひ応募を検討していただきたい。

毎年4月2日の光太郎忌日、松本楼さんで開催していた連翹忌の集い。コロナ禍のため一昨年の第64回以来、開催できていません。来年こそは、と思っておりますが、またしてもBAナントカ変異株により、じわりじわりと感染が増加中。ほんとうにいいかげんにしてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

石塚友二氏等三人くる、デツサン一枚かす、南北と揮毫 雑誌表紙用、


昭和28年(1953)5月12日の日記より 光太郎71歳

石塚友二」は編集者。「南北」は石塚が関わって、この年9月に発刊した雑誌です。「デツサン」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のために描かれたもの。
南北1 南北2
左は創刊号、右は昭和31年(1956)の第7輯。デッサンは同一ですが、光太郎揮毫の題字が異なります。こんな字も、なかなか書けそうで書けない字だと思います。

生涯教育系講座です。

現代の詩と詩人

期 日 : 2022年7月9日(土) 8月6日(土) 9月10日(土)
会 場 : 河北TBCカルチャーセンターエスパル教室
      宮城県仙台市青葉区中央1丁目1-1 仙台ターミナルビル5F(エスパル本館)
時 間 : 13:00~14:30
料 金 : 3カ月3回8,580円(入会金別)
講 師 : 宮城教育大学名誉教授 渡辺善雄氏

茨木のり子は川崎洋と詩誌『櫂』を創刊し、谷川俊太郎、大岡信、吉野弘らと戦後詩の新しい流れを作りました。この講座では茨木のり子を中心に、茨木が『うたの心に生きた人々』(ちくま文庫)や『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)で論じた金子光晴、山之口貘、石垣りん、高村光太郎、与謝野晶子、黒田三郎、川崎洋らを取り上げます。戦争、貧乏、酒、恋愛などに翻弄される詩人たち。その哀歓を詩と逸話によって語ります。
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講師の渡辺善雄氏、平成29年(2017)にはNHKカルチャーさんの仙台教室で「東北ゆかりの作家たち」という講座もなさっていました。

今回は「茨木のり子を中心に」ということだそうです。茨木のり子は大正15年(1926)、大阪の出身。光太郎とは直接の面識はなかったようです。詩集『自分の感受性くらい』などで有名ですが、講座の案内にあるとおり、『うたの心に生きた人々』、『詩のこころを読む』など、近現代の詩人の評論なども遺しました。当方、2冊とも持っていたはずなのですが『詩のこころを読む』が見つかりません(笑)。

『うたの心に生きた人々』は、平成6年(1994)、ちくま文庫の一冊として刊行されました。元版は昭和42年(1967)、さ・え・ら書房さんから出ています。与謝野晶子、光太郎、山之口貘、金子光晴の4人の評伝集です。元々ジュニア向け的なところもあり、平易な語り口ですが、おさえるべきところはきちんとおさえ、入門編としては好著です。

光太郎の項の扉には「日本の詩に新しい道をひらき、「現代詩の父」とあおがれながら、戦争賛美詩も書いたが悪びれず反省し責任を負った古武士のような詩人。」とあります。言い得て妙、ですね。
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ちくま文庫版は絶版のようですが、童話屋さんでは、『うたの心に生きた人々』を、取り上げられた4人それぞれ1冊ずつの分冊として刊行しています。光太郎の巻は『智恵子と生きた-高村光太郎の生涯-』というタイトルです。

さて、講座「現代の詩と詩人」、お近くの方、ぜひどうぞ。

余談になりますが、今週木曜には、当方も市民講座講師を仰せつかっております。埼玉県東松山市の「きらめき市民大学」さんというところでのクローズドの開催なので、一般の方はご参加いただけません。同市の教育長を永らく務められた故・田口弘氏が生前の光太郎と交流があり、そのご縁で、同市と光太郎、さらに彫刻家・高田博厚との関係でお話をさせていただいております。毎年生徒さんが変わるということで、ほぼ同じ内容。楽をさせていただいて申し訳ないのですが(笑)。

他の自治体さん、各種団体さん、日程さえ合えば(さらに交通費くらいは出していただければ(笑))光太郎に関する講座講師、お受けいたしますので、コメント欄等からご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

北川太一氏来訪の由、抹茶、玉露、菓子「老松」等もらふ、


昭和28年(1953)5月6日の日記より 光太郎71歳

当会顧問であらせられた故・北川太一先生。この頃は日本橋にお住まいだったはずですが、なぜか京都の銘菓「老松」をご持参。京都へ行かれるご用事でもあって、京土産だったのでしょうか。

日本最大の古書市、「七夕古書大入札会」。都内の古書籍商の皆さんで作る明治古典会さんが主催で、我々一般人は加盟店さんに依頼、入札するシステムとなっています。一昨年はコロナ禍のため、中止。昨年は規模を大幅に縮小しての開催でした。

出品された品の基本的に全品を手にとって見ることが出来る一般下見展観が行われます。ただ、どうも昨年同様、かつての規模ではないような感じです。

七夕古書大入札会2022 一般下見展観

期 日 : 2022年7月8日(金)・7月9日(土)
会 場 : 東京古書会館 東京都千代田区神田小川町3-22
時 間 : 7/8 10:00~18:00  7/9 10:00~16:00
料 金 : 無料
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一昨日でしたか、ネット上に出品目録が出、拝見。驚きました。今年は光太郎の肉筆等が出品されていません。当方、昭和の終わり頃からの、冊子になった目録をほぼすべて入手していますが、毎年、光太郎の書幅やら書簡やら署名本やら、何かかんかは必ず光太郎の肉筆物が出品されていました。時には『高村光太郎全集』未掲載の書簡等が出ている年も。逆に、以前から古書店さんが在庫として持っていたものだけで、目新しい物はなかったという年もあれば、とんでもないニセモノが掲載されていた年もありましたが、それにしても光太郎の名がないという年はありませんでした。当方が冊子目録を入手していない年もありますので、その中で掲載がなかった年もあったかもしれませんが。

規模が大幅に縮小された昨年ですら、複数の出品があったのですが、まぁ、光太郎の名が忘れられてしまって……というわけではなく、たまたまだと信じたいところです。

その中でも、一応、光太郎に関わるものをご紹介します。

まず、光太郎が題字を揮毫した中原中也の詩集『山羊の歌』。やはり光太郎と交流のあった堀口大学宛ての献呈署名が入っています。ビッグネームからビッグネーム宛てということで、そこそこの価格になっていますね。
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それから、昨年亡くなった篠田桃紅さんの書。
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過日、BS松竹東急さんでテレビ放映して下さった、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん丹波哲郎さん主演)の題字です。
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上記画像は公式パンフから。
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こちらは映画の冒頭。ところが、よく見ると一致しません。篠田さん、横書きのバージョンと、縦書きのそれと、二種類書かれたようです。今回の出品物はパンフレットなどに使われた横書きのもの、映画冒頭のものは、他にポスターなどにも使われたもので、縦書き、というわけです。
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今回の出品物には光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節を書かれたものも。こちらの筆跡は初めて拝見しました。

篠田さんの回顧展的な展覧会、すでに複数回開催され(現在も虎ノ門の菊池寛実記念 智美術館さんで開催されています)が、この「智恵子抄」題字は出品されないなぁ、と思っていたら、まさか売りに出されるとは、という感じでした。

ところで、七夕古書大入札会。存命の人物に関わるものはほとんど出品されません。かつて吉本隆明氏が亡くなった後、草稿やらが結構出るようになり、改めて「ああ、吉本氏も亡くなったんだなぁ」と思いましたが、今回もそんな感じでした。いずれ瀬戸内寂聴さん、高良留美子さん、半藤一利さん、西村賢太さんあたりのものが出て来るようになるのでは、と思っております。

当方、9日(土)に観て参ります。目録に載っていない追加出品で光太郎関連が出ることも有り得ますし、他の文豪のものすごいものの出品はありまして、それが手にとって見られる機会です。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

春子さんより速達にて稔氏胃潰瘍の由、夜十時電報、今日午后八時半死去の由、

昭和28年(1953)4月27日の日記より 光太郎71歳

春子さん」は、看護師の資格を持つ智恵子の姪で、南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期を看取った宮崎(旧姓・長沼)春子です。「稔氏」は詩人の宮崎稔。光太郎が取り持って春子と結婚しました。その後、光太郎生前最後の詩集『典型』の編集などに当たっています。深酒がたたっての胃潰瘍、そして死でした。

ちょいちょい話題にしておりました花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎、海を航る」。市のHPで詳細が公開されましたので、ご紹介します。

令和4年度高村光太郎記念館企画展「光太郎、海を航る」

期 日 : 2022年7月16日(土)~9月30日(金)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一 般 350円/高校生・学生 250円/小・中学生 150円

彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、明治39(1906)年から明治42(1909)年にかけてアメリカ、イギリス、フランスに留学しました。留学中、光太郎は現地の美術学校で彫刻やデッサンを学ぶ一方、農商務省の海外実業練習生として欧米の様々な応用芸術を調査していました。

本企画展では、留学中に差し出された手紙や執筆した散文を中心に紹介し、渡航で乗船した貨客船など、当時の海外渡航事情に関連した資料を併せて展示します。
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フライヤー裏面に紹介されている絵葉書は、一昨年、都内の方から寄贈されたものです。寄贈受け渡しの際には当方も同席、現物を拝見しましたが、驚きました。

まず、明治42年(1909)のものですから、100年以上経っている訳で、その点が一つ。そして何と言っても、宛先。光太郎実弟・道利宛なのですが、確認出来ている限り、道利宛の書簡はこれが初めての発見でした。

道利は光太郎のすぐ下の弟。高村家次男です。三女・しづと双子でした。光太郎より3歳年下の明治19年(1886)生まれなので、智恵子と同年です。
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左画像では、左から道利、しづ、光雲、光雲に抱かれているのは三男・豊周、そして光太郎。右画像は道利です。

光太郎もかなり変わった人物でしたが、道利は光太郎以上の変人と言われていました。東京外語学校を卒業したのですが、軍人になることを志望。しかし、父・光雲に反対されます。明治42年(1909)、留学から帰朝した光太郎が見るに見かね、翌年、神田淡路町に開設した画廊・琅玕洞の名目上の店主に据え、店番をやらせます。ところが道利は商売に対する熱意はまるでなく、あまっさえ、訪れた客に「あなたにこの絵の価値は分かりませんよ」などと言ったり、閉店時間になれば客がいようがいまいが照明を落としてしまったりしていました。そんなことも一因で、琅玕洞は経営が行き詰まり、わずか一年で譲渡されることになってしまいます。

さらに道利は、ドイツ語の個人教授をしていた近所に住む歌手・関鑑子と結婚したいと申し出ますが、これも光雲に却下されます。すると、半ば自暴自棄となり、大正10年(1921)、ふいっと渡欧してしまいました。しばらくは手紙が届いていたそうですが、やがて音信不通に。それが、光雲没後の昭和10年(1935)になって、フランスの日本大使館から、慈善病院のようなところに入院しているが、日本に送還するので引き取って欲しい、と高村家に連絡があり、光太郎が神戸まで迎えに行ったそうです。帰国後は豊周が家督を継いだ光太郎実家に住み、豊周から頼まれた翻訳などをしていたのですが、昭和20年(1945)、自宅敷地内に作った防空壕に誤って転落、それが元で亡くなりました。

寄贈された光太郎からの絵葉書。光太郎が欧米留学の最後に、ミケランジェロやダ・ヴィンチなどの作品を見ておこうと、約1ヶ月歩いたイタリア旅行中のものです。写真は、ローマのフォロ・ディ・トライアーノ。西暦紀元112年建設の公共広場です。

道利の住所は「横須賀要塞砲兵第二聯隊第三中隊四給養班」となっています。従来、道利が軍隊にいたという記録は確認できていません。徴兵されていたか、また「給養班」は将兵の食事を作る部署で、アルバイト的にここで働いていたのかも知れません。そういうことが可能だったのかどうか、当時の軍制に詳しい方、御教示いただければ幸いです。

寄贈されたこの絵葉書のお披露目が中心の企画展ですが、その他にも光太郎の海外留学等に関する資料がならびます。「そちらの所蔵品のうち、これこれを展示したらどうですか」という提案をさせていただきましたし、「こんなものを持っていますからご自由にお使い下さい」と、当方手持ちの資料もお送りしました。どの程度それが並ぶかわかりませんが、開幕の頃、行って観て参ります。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

余の作ピアノの手の鋳金持参の人あり、八王子の人といふ、余の作と確認す。誰かにかしたもの也。

昭和28年(1953)4月22日の日記より 光太郎71歳

問題のブロンズはこちらです。
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大正7年(1918)の作。ブロンズの代表作「手」と同時期のものです。

一昨日、横浜及び都内を歩いておりました。

まず、横浜の日本郵船歴史博物館さん。こちらでは、過日ご紹介した企画展「郵船文芸譚 -機関誌 『海運報國』をひもとく-」が開催されており、雑誌『海運報国』には光太郎も複数回寄稿していますので、光太郎関連の展示も為されているのではと思って拝見に伺いました。

10年前にもお邪魔し、その際は常設展示のみだったように記憶していましたが、それにしても10年経つか、と、ちょっぴり感慨にひたりました。
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常設展示の一角に、企画展「郵船文芸譚 -機関誌 『海運報國』をひもとく-」のコーナーという形でしたが、残念ながら、光太郎に関する展示はありませんでした。
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『海運報國』は文芸誌的な要素も含んでいました。このころ日本郵船の嘱託だった内田百閒の随筆をはじめ、船旅の思い出、海にまつわる掌編や、新造船披露航海の感想文など、作家や著名人による寄稿が誌面を飾りました。」という触れ込みだったので、そういうことなら光太郎は外せないだろ、と思っていたのですが……。

とりあげられていた文士等は、日本郵船さんの嘱託だった内田百閒をはじめ、宮城道雄、米川正夫、吉屋信子、岩田豊雄、津田青楓、西条八十、林芙美子、鈴木信太郎、辰野隆、小堀杏奴、深尾須磨子、田中貢太郎。それはそれで興味深く拝見しましたが……。

なぜここに光太郎の名がないのか、次のような理由が考えられます。

① 担当された方が光太郎の名を誌面に見つけたものの、「高村光太郎? 誰、それ? 知らん!」とスルー。
② 担当された方が誌面に光太郎の名を見つけたものの、「こいつは3流だから」とパス。
③ 担当された方が誌面に光太郎の名を見つけられなかった。
④ その他。


①、②であってほしくないものです(笑)。最も考えられるのは③かな、と。

ただ、④の可能性もなきにしもあらず。例えば、光太郎、『海運報国』には確認出来ている限り4回寄稿していますが、そのうち3回、「乏しきに対す」(第3巻第7号  昭18=1943 7/15) 、「決戦時生活の基礎倫理」(第4巻第1号  昭19=1944 1/15)、「神裔国民の品性」(第4巻第2号  昭19=1944 2/15)は、コッテコテの大政翼賛文。おそらく最初の寄稿の「海の思出」(第2巻第10号 昭17=1942 10/15)    は、戦争とはほとんど関係ないものの、日本郵船さんの船名を誤記していることなどが無視された原因かも知れません。

光太郎、明治42年(1909)5月、3年余に及ぶ欧米留学を切り上げ、イギリスのテムズ河口から日本郵船さんの「阿波丸」 に乗り込んで、帰国の途に就きました。当時書かれた文章にはちゃんと「阿波丸」と書かれています。ところが、約30年後に書かれた「海の思出」では「松山丸」と書いてしまいました。日本郵船さんには「松山丸」という船舶もありましたが、欧州航路で使われたものではありません。

ちなみに下記は光太郎が乗った「阿波丸」。最近手に入れた古絵葉書です。
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常設展示の方で、この手の昔の航路について、その歴史や背景などが詳しく説明されており、そちらも興味深く拝見いたしました。

上記絵葉書等、7月16日(土)から花巻高村光太郎記念館さんで開催される企画展「光太郎 海を航る」(仮称)で展示予定です。同展、今日付の『広報はなまき』で告知されているかな、と思ったのですが、ありませんでした。何だかなぁ……という感じですが……。また詳細が出ましたらご紹介します。

KIMG6381横浜を後に、都内へ。続いて向かったのは、九段下の昭和館さん。こちらは「昭和10年頃から昭和30年頃までの国民生活上の労苦を伝える実物資料を展示」ということで、主に戦時中のいろいろな品々を全国から寄贈を募り、展示している施設です。ただ、現在は映像、図書のみ寄贈を受け付けているそうです。

時間の都合もあり、展示は拝見しませんで、図書室に向かいました。こちらの図書室、なかなかのものです。開架でもかなりの数の図書がありますし、閉架(書庫)の蔵書数もすごいようです。そして、検索システムが素晴らしい!

特に利用者登録も必要なく、自宅兼事務所のPCからアクセスし、「フリーワード」の項に「高村光太郎」と入力、検索をかけると、目次に光太郎の名が記された資料がダーッと出て来ます。それだけなら他の館でもそうなのですが、こちらのシステムは、おのおのの図書の目次が詳細に表示されるのです。さらに「フリーワード」で入力した「高村光太郎」の文字がハイライト表示で、長い目次の中でもすぐに見つけられます。その意味では国会図書館さんの「デジタルコレクション」とよく似ています。ここまでやってくださると、研究者にとっては「ありがたい」の一言です。
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007ただ、国会図書館さんのそれとは異なり、デジタルデータでそのページを閲覧することは出来ませんので、出向いて閲覧するという訳です。そこで、事前に調べた結果、残念ながら『高村光太郎全集』未収録の光太郎本人の文筆作品等は見つかりませんでしたが、光太郎について書かれた諸家の文章等で未知のものがあり、閲覧、さらにコピーを取って参りました。

中には光太郎の似顔絵が入ったものも。昭和16年(1941)ですから、光太郎59歳。当時の光太郎にしては少し髪が多すぎるようにも思えますが(笑)。

昭和館さん、他にも映像・音響室なども充実しているようですし、通常の展示ももちろん拝見しようと思いますので、また機会を見つけて足を運ぼうと思いました。何かお調べになりたいという方、ぜひ当たってみて下さい。

一昨日は、もう1箇所廻ろうかとも思っていたのですが、またじわりとコロナ感染者数が上がってきましたし、加えて殺人的な暑さ。またの機会に致します。

【折々のことば・光太郎】

夜十時頃水谷八重子、草野心平、松竹の人三人くる、「智恵子抄」の事については再考を求める、十二時過辞去、承諾保留、


昭和28年(1953)4月18日の日記より 光太郎71歳

e28cae2a水谷八重子」は初代・水谷八重子。光太郎は遠く大正9年(1920)に、子役時代の水谷が出演した舞台「青い鳥」(メーテルリンク作)を観ています。その後、友人の田村松魚に送った葉書には「チルチルになつた子は大変声の美しい子でした。ちよいと抱いてやりたい気のする子でした」と書いています。

智恵子抄」は、光太郎とも交流のあった劇作家・北条秀司の脚本。結局、光太郎生前には舞台化は実現せず、初演は光太郎歿後の昭和32年(1957)でした。光太郎、自分が俳優によって演じられるのに難色を示したようです。光太郎訳は新派の大矢市次郎でした。

北条の「智恵子抄」は、水谷/大矢の後、富司純子さん/故・高島忠夫さん有馬稲子さん/故・高橋昌也さんでも公演がなされました。そして昨秋、「朗読劇 智恵子抄」として、一色采子さん、横内正さんでも。

また後ほど詳しくご紹介しますが、「朗読劇 智恵子抄」は、今秋、再演が決定しました。光太郎役は松村雄基さんだそうです。

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