2022年02月

テレビ再放送の情報です。

プレミアムカフェ (1)旅のチカラ ミケランジェロの街で仏を刻む 松本明慶(2013年)(2)世界 わが心の旅 ロダンが愛したハナコに会いたい 里中満智子(2001年)

NHK BSプレミアム 2022年3月4日(金) 9:00~11:00  再放送 23:45~01:45

番組内容
(1)旅のチカラ ミケランジェロの街で仏を刻む〜松本明慶・イタリア〜(2013年)仏師・松本明慶さんが、ミケランジェロの代表作・ピエタと向き合うためイタリアへ。
(2)世界 わが心の旅 フランス ロダンが愛したハナコに会いたい 漫画家 里中満智子(2001年)近代彫刻の巨匠ロダンのモデルになった「ハナコ」は、女優としてパリやロンドンの舞台で活躍した。里中満智子さんが、ハナコの足跡を追う。

出演者
(1)【出演】松本明慶,【語り】渡邊あゆみ,
(2)【出演】里中満智子,【語り】秋吉久美子,
【スタジオゲスト】横浜美術大学学長…宮津大輔,【スタジオキャスター】渡邊あゆみ

「プレミアムカフェ」は、NHKさんがBS放送で放映した番組の中から要望の高かったものを再放送するというコンセプトです。ずばり光太郎で、「名作をポケットに 高村光太郎 智恵子抄」(初回放送:平成13年=2001)なども取り上げて下さいました。

「世界 わが心の旅 フランス ロダンが愛したハナコに会いたい」。やはり「プレミアムカフェ」として、昨年、放映がありまして、拝見いたしました。
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ご出演は漫画家の里中満智子さん。
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テーマは、ロダンの彫刻モデルを務めた日本人女優・花子
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里中さん、平成12年(2000)に岐阜県さんが県として刊行した『マンガで見る日本真ん中面白人物史シリーズ3 花子 ロダンに愛された国際女優』で、「構成」としてクレジットされています。作画は大石エリーさんという方。当方、てっきり、里中さんは監修的なお立場で、制作実務にはあまり関わられていなかったんでは、と思いこんでいましたが、さにあらず。
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「原作・脚本・絵コンテを担当」ということは、最終的な作画のみが大石さんで、ほぼほぼ里中さんの作品と言っていいものでした。

ちなみにイケメンの光太郎も登場します。花子が女優を引退し、郷里・岐阜に帰ってからの昭和2年(1927)、光太郎が書き下ろし評伝『ロダン』執筆のため、花子を訪ねた際のシーンです。
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残念ながら番組内では、光太郎が花子を訪ねたエピソードは紹介されませんでしたが。

全体によく描かれている漫画でしたが、里中さん、決して満足されていなかったようで……。
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というのも、パリでの花子について、現地調査無しで描かざるをえなかったためです。さすがに県の依頼とはいっても、そこまでの予算はつかなかったのでしょう。

そこで、パリ郊外ムードンのロダン美術館、花子が実際に舞台に立ったホールなどが廻られます。
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ロダンが制作した「花子の首」を手に取られる里中さん。

こうして得られた新たな啓示を元に、改めて絵コンテが描かれます。
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やはり現地を訪れる、というのは大切なことですね。そう考えて、当方も光太郎の足跡を辿り続けています。

さて、今回の「プレミアムカフェ」、彫刻つながりで2本立てです。前半は「旅のチカラ ミケランジェロの街で仏を刻む 松本明慶」。初回放映は平成25年(2013)だそうです。こちらは現代の仏師・松本明慶氏がイタリアを訪問。
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欧米留学中に光太郎も見に行った、ミケランジェロの作品などが紹介されます。

こちらも見応えのある構成でした。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

清水観音さま行、 サイドカーで迎へにくる、恭三さんと同行、寺に村会議員、役場の人等集まり居る、東雲作観音の開眼供養、


昭和27年(1952)5月17日の日記より 光太郎70歳

006清水観音さま」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村にある寺院です。花巻出身で、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる佐藤瑞圭作の仏像等も納められています。

東雲」は、光雲の師匠・初代髙村東雲の孫。それまで「晴雲」と号していましたが、この頃、三代東雲を襲名しました。「観音」は、前年に、三代東雲が一時暮らしていた北海道から帰京する途中、光太郎の山小屋に立ち寄って、贈ったものです。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展示「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」で展示されています。

それにしても、光太郎がお寺までサイドカーに乗せられて行ったというのも面白いですね(笑)。

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新刊です。

マンガ 教科書に出てくる美術・建築物語 ② 日本の美術 下

2022年3月1日 芳賀靖彦編 学研プラス 定価3,600円+税

葛飾北斎《富嶽三十六景》、黒田清輝《湖畔》、東京駅など、日本の美術と建築を、オールカラーのマンガで紹介。作品の制作背景や込められた意味、作者の生涯を分かりやすく解説し、作品への感動が深まる。美術や社会の教科書に掲載の作品も、多数収録。


目次
 葛飾北斎「富嶽三十六景」  作画・糸貫律
 歌川広重「東海道五十三次」  作画・糸貫律
 高橋由一「鮭」  作画・灰木辰也
 辰野金吾「東京駅」  作画・雁川せゆ
 黒田清輝「湖畔」  作画・飯田要
 岸田劉生「麗子五歳之像(麗子像)」  作画・灰木辰也
 高村光雲「老猿」  作画・雛川まつり
 速見御舟「炎舞」  作画・大福もち子
 上村松園「序の舞」  作画・ノガミ陽
 岡本太郎「太陽の塔」  作画・灰木辰也
 コラム 日本美術史の流れ 江戸時代後半~現代
 コラム 浮世絵絵を楽しもう  
  
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日本近現代の美術作品等10点を、それぞれ10ページから16ページの短編漫画(オールカラー)で紹介しています。

光太郎の父・光雲の「老猿」(12ページ)。昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』を下敷きにし、光雲の生涯を追っていますが、色々小ネタもはさみ、感心させられました。

ちなみに語り手は光雲作の木彫「団扇に眠る猫」(昭和7年=1932)。
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漫画ならではの技法ですね。

「マンガ 教科書に出てくる美術・建築物語」は全5巻、こちらは第2巻の扱いです。他の巻は、「① 日本の美術 上」(鳥獣戯画、俵屋宗達《風神雷神図屏風》、法隆寺五重塔など)、「③ 仏教の美術」(東大寺大仏・金剛力士像、興福寺阿修羅像、法隆寺釈迦三尊像ほか)、「④ 世界の美術」(モナ・リザ、ダヴィデ像、落ち穂拾い、星月夜、考える人、サグラダ・ファミリア)、「⑤ 聖書の美術」(最後の晩餐、受胎告知、ピエタetc)。いずれも小学校高学年を対象に、ということですが、第2巻を見た限り、大人でも十分鑑賞にたえます。

やばい、目次を見ていると、他の巻も欲しくなってきました(笑)。特に「④ 世界の美術」。光太郎ががっつり影響を受けたロダンの「考える人」が取り上げられてしまっていますので。

ちなみに同じ学研さん刊行で、光太郎の章もある「マンガ名詩・短歌・俳句物語」と同じ体裁です。

全国の学校さん等で、ぜひ揃えてほしいものですね。

【折々のことば・光太郎】

山口小学校運動会、1000円寄附、十一時出かける、午后二時小屋にかへる、

昭和27年(1952)5月8日の日記より 光太郎70歳

山口小学校」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から1㌔㍍弱のところにあった小学校です。

日記が喪われている昭和25年(1950)の運動会では、光太郎、老人の部のビン釣り競走に出場しています(笑)。当時の校長・浅沼政規の回想『山口と高村光太郎先生』(平成7年=1995)より。

 午後の競技が開始。年長組の《びん釣り競争》となりました。この競技へ先生の参加をお願いすると、快く出場して下さいました。競技が始まりました。
 ひときわ会場が賑やかになり、拡声器の音も、先生への応援も大きくなりました。
 一等、二等とゴールしてきます。先生は少し手間取ったようでしたが、釣れたびんを手に、大股で走ってゴールインしました。一同からすごい拍手です。
 そして先生もみんなと一緒に会長席に向かい、会長から賞品を受け取られました。
 「しばらくぶりで走ってみましたが、にわかに走ったものですから、遅れてしまいました。でも、みんなと走れて愉快でしたよ。」と、おっしゃいました。
 この時の先生の姿に接した部落の人たちは、自分たちと親しく交わって下さろうとするお気持ちに、感謝の念を深くしました。

都内から演奏会情報です。

朝岡真木子 歌曲コンサート 第5回

期 日 : 2022年3月13日(日)
会 場 : 王子ホール 東京都中央区銀座4-7-5
時 間 : 14:00開演
料 金 : 4,000円(全席自由)

昨年の延期公演です。出演者、曲目が少し変更になりました。

出演者 : 内田もと海 黒川京子 品田昭子 福成紀美子(以上S)
      清水邦子Ms 吉田伸昭T 馬場眞二Br 朝岡真木子(作曲・p)
曲 目 : 
 組曲〈智恵子抄〉より「人に」 詩:高村光太郎
 組曲〈あなたへ〉より「あなたへ」「夢とおく」 詩・星乃ミミナ
 組曲〈きらり きーん〉より「さくら」他 詩・矢崎節夫
 「ママへ」「今をしむ」「しだれ桜」 詩・岡崎カズヱ
 「菜の花時雨」 詩・木下宣子
 「メヌエット」 詩・立原道造
 「灯台への道」「春満開」 詩・柏木隆雄 (新作初演)
 「確かな一歩」「やさしい歌」 詩・柏木隆雄
 まど・みちおの詩による組曲「リンゴをひとつ」全7曲 (新作初演)

お申し込み : エンゼル音楽事務所(angelongaku@gmail.com, 090-1703-5387)
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曲目はすべて、朝岡真木子さんとおしゃる方の作曲だそうです。個人的には存じ上げない方なのですが、「組曲 智恵子抄」を作曲され、令和元年(2019)には全曲の改訂初演が行われていますし、昨年も抜粋で「レモン哀歌」が演奏されています。

今回は「人に」が、東京二期会さん所属、メゾソプラノの清水邦子さんという方の歌唱でプログラムに入っています。清水さん、9月には「組曲 智恵子抄」の全曲を歌われるそうです。

コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

十時公会堂にて国分知事等とあひ独立記念式、後講演一時間ばかり。後カホクといふ料亭にて御馳走になる、国分知事、阿部副知事等、


昭和27年(1952)5月3日の日記より 光太郎70歳

「独立」は、第二次大戦正式終結のためのサンフランシスコ講和条約関係。前年9月8日が調印式で、この年4月28日に発効しています。その結果、GHQによる占領体制が解除、日本の主権が回復しました。

「国分知事」は国分謙吉。初の民選知事でした。国分と光太郎は、昭和25年(1950)に新聞社の企画で対談を行っています。「公会堂」は盛岡の県公会堂。前日から盛岡入りし、定宿の菊屋旅館(現・北ホテル)に宿泊していました。

この際の講演の筆録等も未発見です。

キーワード検索「ほんとの空」でヒットしました。登山ツアーの案内です。

「ほんとの空」安達太良山

期 日 : 2022年3月3日(木) 早朝現地集合
形 態 : 日帰り
料 金 : 18,000円(税込み) お支払いは 当日現金払い または 後日銀行振り込み
定 員 : 4名(2022/02/25現在、あと1名)
集 合 : (1)JR二本松駅 6:40 (2)岳温泉バス停(福島交通 岳温泉駅) 7:20
      (3)あだたら高原スキー場レストハウス 8:00 のいずれか
解 散 : あだたら高原スキー場16:00頃
      または 岳温泉バス停(福島交通 岳温泉駅)  17:20頃
参加条件 : 雪の山での登山経験があること (標高や行程は問いません)
       以下に記載する「持ち物」を揃えられること
       補足・雪山用アウター上下/雪山用登山靴/アイゼン
          ピッケルかトレッキングポールのどちらか


3月は暦の上では春ですが、東北の山はまだまだ雪山シーズン。
ここ安達太良山も例外ではなく、本格的な雪山を楽しめます。レベルとしては技術的に困難な箇所はほぼない雪山初級者クラスです。

タイトルの「ほんとの空」は高村光太郎の詩集『智恵子抄』にある以下の一節にでてくる言葉です。

 智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。
 私は驚いて空を見る。
 智恵子は遠くを見ながらいふ。
 阿多多羅山(あだたらやま)の山の上に毎日出ている青い空が智恵子のほんとの空だといふ。
 あどけない空の話である。

そんな「ほんとの空」を見に雪の安達太良山にチャレンジ!

北横岳や奥多摩などでアイゼン歩行の経験がある方は次のステップにちょうどよい雪の山。ただしひとたび風が吹けば体感気温はぐーっと下がり、目の前が真っ白になる"ホワイトアウト"になるのもこの山の怖いところ。晴れたら晴れたで「ほんとの空」が。ちょっと崩れたら崩れたでそんなちょっと怖い体験が。でもそんな体験もきっと今後の登山の糧となります!

山小屋泊を伴わないので、寝袋やマット等が不要で軽い荷物で登れます。 岳温泉への前泊もおすすめです♨

スケジュール :
 6:40   JR二本松駅 集合(1) 6:45発のバスに乗車(バス代各自払い)
 7:20   岳温泉バス停 集合(2) タクシー乗車
 7:50頃  奥岳登山口到着
 8:00   あだたら高原スキー場レストハウス 集合(3)
 8:20~    奥岳登山口~勢至平~くろがね小屋~山頂~五葉松平~奥岳登山口
 ~16:00頃 あだたら高原スキー場に下山
 16:50    タクシー乗車
 17:20    岳温泉バス停(福島交通 岳温泉駅) 着 解散
 ・登山届けの提出はガイドが行います。
 ・前泊の手配は各自でお願いします。

主 催 : マツウラ企画 長野県塩尻市大門1058-14-509 
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安達太良山、イメージ写真ですが、この季節、こんな感じなのでしょう。単なる安達太良山ガイドツアーでしたらご紹介しませんでしたが、「ほんとの空」の語を使われては取り上げないわけにはいきません(笑)。

昨年、NHK BSプレミアムさんで放映された「山女日記3」で、工藤夕貴さん演じる主人公・立花柚月が、全国の山々でこの手のツアーガイドを務めているという設定でした。実際、こういう会社さんがあるんだなという感じでした。

奥岳登山口から、ロープウェイを使わず歩いて上るコースですが、8時間位で往復できるのですね。個人的に登られるという方も、上記スケジュール表、参考になるのではないかと思われます。

「ほんとの空」のある福島、コロナ禍のため、レモン忌など光太郎智恵子がらみの大きなイベントもしばらく行われておらず、もう1年以上行っていません。福島を通り過ぎて十和田や花巻には行っておりますが。早いところのコロナ禍収束・終息を切に望みます。

【折々のことば・光太郎】

よみうり新聞の人来り、九左衛門さんの細君のお婆さんと対談をさせられる、

昭和27年(1952)4月27日の日記より 光太郎70歳

九左衛門さん」は、戸来九左衛門。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で、村会議員、助役、村長、収入役などを務めた人物です。

「対談」は、おそらく『読売新聞』に掲載されたのでしょうが、全国版のデータベースには見あたりません。となると岩手版ということになり、見つけられないでいます。

過日ご紹介した、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」、昨日開幕しました。

今朝の地方紙『岩手日日』さんから。

髙村光雲 系譜に焦点 光太郎記念館企画展 門下作品含む12点公開

001 花巻市太田の高村光太郎記念館で23日、2021年度企画展「光雲の鈿女命(うずめのみこと)―受け継がれた『形』―」が始まった。光太郎の父で彫刻家髙村光雲(1852~1934)の木彫像「鈿女命」をはじめ、門下の作品などを紹介し、その系譜と表現にスポットを当てている。5月15日まで。
 光雲は近代木彫に大きな業績を残した彫刻家。幕末の江戸に生まれ、1863年から11年間、仏師・髙村東雲の下で修業し、髙村姓を継いだ。87年には当時造営中だった皇居・化粧の間の装飾彫刻を担当、89年から東京美術学校に勤務し翌年には教授に就任、帝室技芸員にも推挙され、シカゴ万博に出品した「老猿」は国重要文化財に指定されている。
 企画展では、令和に入り新たに寄贈された光雲作の「鈿女命」「准胝(じゅんてい)観音」や光太郎に関係する品など12点を公開している。
 「鈿女命」は2021年9月の初公開に続き「もう一度見たい」という来館者のリクエストに応えた展示。日本神話で天照大神が天の岩屋戸に隠れた際に、半裸で舞って神々を笑わせて大神を誘い出したとされる巫女(みこ)が題材で、穏やかな顔立ちや、流麗で繊細な髪型や衣紋の表現が目を引く。
 「准胝観音」は、東京都文京区の金龍山大圓寺に寄進された7体ある観音像のうちの一つの胎内に収められた小仏像を、銅製の鋳造仏として模造したもの。観音像は戦火で焼失したが、小仏像の模造は建立の際に寄進者や檀家らに配られたと見られ、精巧に鋳出された像容が分かる。
 このほか、光雲に木彫の手ほどきを受けた髙村晴雲(1893~1969年)が手掛けた聖観音像、光雲が制作で中心的な役割を果たした皇居前広場の「楠木正成像」や上野公園の「西郷隆盛像」に題材を取った錦絵なども会場を彩る。
 光雲の孫弟子に当たる佐藤瑞圭師作の清水寺(同市太田)に安置された十一面観音像(写真パネル)、光太郎が気に入って使っていた「彧彧」という文字を板書したコート掛けと看板、翻訳家として英文学者長沼重隆に宛てた光太郎の直筆はがきなどもある。
 同館の佐々木正晴館長は「光雲の鈿女命を中心に光雲から弟子の作品を展示している。受け継がれてきたさまざまな形を解説しているのでぜひご覧いただきたい」と話している。
 開館時間は午前8時30分~午後4時30分。


当初予定されていた、関連行事としての当方の講座は、やはりコロナ禍のためリモートでの開催ということになりました。その収録もあり、当方、来週末に行って参ります。

皆様も、コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

駐在巡査が岩谷堂町の依田養七氏といふ老人を案内してくる、家族のため持参の色紙に明治天皇のうたを一枚揮毫す、


昭和27年(1952)4月22日の日記より 光太郎70歳

岩谷堂町」は現在の奥州市。奥州市になる前は江刺市で、「依田養七」は昭和9年(1934)~13年(1938)、同20年(1945)~21年(1946)、さらに同29年(1954)から最後の岩谷堂町長を三度にわたって務め、そのまま江刺市になって、初代市長となりました。

余談になりますが、インターネットとは本当に便利なものですね。このように光太郎日記等に名が出て来る人物で、その素姓を知らなかった場合でも、調べればわかることが往々にしてあります。依田養七もそうでした。

作家が紡いだ言葉が、まさしく食べ物が如ごとく体を構築する感覚を、もっとダイレクトに感じることが出来るイメージティー」だそうで。

YOU+MORE!×フェリシモミュージアム部 日本近現代文学の世界に浸る 文学作品イメージティーの会

心震わす言葉を飲み干して

大正から昭和、近現代日本で生まれた文豪の作品に着想を得て作り上げたイメージティー。本を読んで作品の魅力を知る。その先に進んでみたくて、嗅覚や味覚から作中に登場するモチーフを感じられるのはもちろん、一部は視覚でも楽しめるよう、作品を象徴する色に着目したお茶をご用意しました。
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月1セット ¥1,800(+10% ¥1,980) 1セットだけ(1ヵ月だけ)の購入も可能です。

■セット内容 / 1gまたは2g入りテトラティーバッグ17個、箱
■サイズ / 箱:縦約15cm、横約10.5cm、厚さ約3.5cm
※この商品は書籍ではありません。 ※箱に直接食品を入れないでください。 ※写真は作品をより楽しむための調理例です。
●毎月1回、4種類の中から、1種類ずつお届けします。(全種類届くと、以降はストップします)
(原産国名:ドイツまたは日本〔原料原産地名(茶葉):中国〕)

※2022年4月分(2022年3月下旬~2022年4月下旬)からのお届けになります。2022年3月分でお申し込みの場合、2022年4月分のご予約として承ります。
※各種キャンペーン・送料計算の対象はお届け月分になります。ご注意ください。
※各種W便・追加便などのお申し込みはできません。

※この商品は特性上、不良品・お届け間違い以外の交換・返品はお受けできません。不良品・お届け間違いの交換・返品は、期限内(商品到着後10日以内)にご返送ください。

■ マークの数字の回数だけ届くと、自動的にお届けが終了します。
■ 掲載画像の中から、毎月1種類をお届けします。
■ お届けする順番はフェリシモにおまかせください。
■ 1回だけのご注文も可能です。
ストップする場合は、お届け後にストップの連絡が必要です。

〈高村光太郎著『智恵子抄』× 天のものなるレモンの紅茶〉
私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ 「智恵子抄」より
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高村光太郎著の詩集『智恵子抄』に綴られた一編・レモン哀歌よりイメージした、「わたしの手からとったひとつのレモン」をモチーフにした紅茶です。

表紙側には高村光太郎の妻・智恵子が恋焦がれた、彼女の故郷にある「阿多多羅山」と、その上に広がる「ほんとの空」を。また、トパアズの香りを漂わせるレモンをデザインに取り入れ、思わずはっと目が覚めるような爽やかな色合いにまとめました。
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裏表紙側は病床の智恵子が作った「切り絵」をテーマに、二人の出会いを象徴する花・グロキシニヤで飾りました。光太郎のアトリエを訪ねる際に、智恵子がグロキシニヤの大鉢を持ってきたと光太郎は書き残しています。

《作品をもっと楽しむために…》
香りがはじけるように立ち上る、新鮮なレモンをトッピングして。まるで自身の半身のようにも思える大事な人と、一緒の時間を過ごしたい。そんな時におすすめなアレンジです。
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イメージティーを納めた本型パッケージは文庫本と同じサイズで、本好きのこころをくすぐります。

なるほど、いい感じですね。

他のラインナップは〈中島敦著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶〉〈室生犀星著『蜜のあわれ』× 燃えている金魚のように赤いお茶〉〈江戸川乱歩著『孤島の鬼』× 宝石より魅力的なチョコレートの紅茶〉だそうです。

で、こちらのセットは「パート2」だそうで、既に「パート1」が出ていました。そちらは〈芥川龍之介著「蜘蛛の糸」×蓮が香る紅茶〉〈夏目漱石著「虞美人草」×アイスクリームが香る紅茶〉〈坂口安吾著「桜の森の満開の下」×桜が香る緑茶〉〈宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」×苹果(りんご)が香る紅茶〉だそうです。
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ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

白瀧幾之助氏よりヘラ十数本送り来る、


昭和27年(1952)4月10日の日記より 光太郎70歳

白瀧幾之助は光太郎より10歳上の画家。東京美術学校西洋画科出身で、光太郎の先輩です。遠く明治38年(1905)、ニューヨークに留学。翌年、やはり渡米してきた光太郎を迎え、いろいろ世話を焼いてくれました。さらに光太郎より一足早くロンドンに移り、ここでもあとを追ってきた光太郎の面倒を見てくれました。ロンドンではもう一人、画家の南薫造を交え、3人でつるんでいたそうです。禿頭で大男の白瀧は「入道」、小柄な南は「アンファン(仏語「enfant」=「子供」)」と呼ばれていました。光太郎はどんなあだ名だったか不明ですが。

その後、白瀧はパリへ。当方、その頃、ロンドンの光太郎からパリの白瀧へ送ったハガキをたまたま入手しました。

そして、またまた光太郎も白瀧に続いてパリ入りします。ただ、帰国は光太郎の方が早く、白瀧は明治44年(1911)までパリにとどまっていました。

しばらく途絶えていた二人の交流が、戦後のこの時期になって突如、復活。さらに光太郎帰京後の昭和29年(1954)には、白瀧が光太郎のアトリエを訪問しています。






今月初め、大阪に鳴り物入りで新たに開館した中之島美術館さん。光太郎の父・光雲の木彫が1点、出品されています。

Hello! Super Collection 超コレクション展 ―99のものがたり―

期 日 : 2022年2月2日(水)~3月21日(月)
会 場 : 大阪中之島美術館 大阪府大阪市北区中之島4-3-1
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(3月21日は開館)
料 金 : 日時指定事前予約優先制 一般1500円(1300円)高大生1100円(900円)

1983年に構想が発表されてから約40年。大阪中之島美術館のオープニングとなる本展では、これまでに収蔵した6000点を超えるコレクションから約400点の代表的な作品を選び一堂に公開します。3つの章により当館の収集活動の特徴を紹介し、国内第一級の質を誇るコレクションについて存分にご堪能いただける機会とします。

本展では、コレクションに親しみを持っていただけるよう、作品にまつわる99のものがたりもあわせて紹介。「99」は未完成であることを意味しており、皆さんの100個目のものがたりで展覧会は完成します。本展が大阪中之島美術館のコレクションを楽しみ、末永く愛していただくはじめの一歩となれば幸いです。

第1章「Hello! Super Collectors」では、「山本發次郎コレクション」をはじめ「田中徳松コレクション」、「高畠アートコレクション」を紹介します。第2章は「Hello! Super Stars」。美術館が誇る膨大な近代・現代美術コレクションから代表的な作品を紹介します。第3章「Hello! Super Visions」では、約200点のグラフィック作品と立体とのコラボレーションを見ることができます。



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光雲作品は、「砥草刈(とくさがり)」(大正3年=1914)。もと、大阪市立美術館さんに収められていたもので、平成29年(2017)、北海道立函館美術館さん他を全国巡回した「ニッポンの写実 そっくりの魔力」展などに貸し出されました。
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その他の出品目録はこちら

今週末というか来週頭というか、2月27日(日)、NHK Eテレさんの「日曜美術館」で、同展が取り上げられます。

日曜美術館「大阪中之島美術館〜蒐(しゅう)集もまた創作なり〜」

NHK Eテレ 2022年2月27日(日) 9:00~9:45 再放送 3月6日(日) 20:00~20:45

今月2日、大阪に新たな美術館が誕生した。大阪中之島美術館、19世紀後半から現代まで数々の名作や近現代デザインなどを堪能することができる。誕生のきっかけは100年前のある大阪商人のコレクション。戦時中も美術品収集に情熱を傾け、関西に美術館を作りたいと願っていた。彼の夢は時代を超えて多くの人に受け継がれ美術館へと結実していく。知られざる100年の物語。


【出演】大阪中之島美術館館長…菅谷富夫,【司会】小野正嗣
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ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

青森県副知事横山武夫氏一行来訪、酒その他のものをもらふ。十和田湖の件、十二時辞去。

昭和27年(1952)4月2日の日記より 光太郎70歳

3月21日にやってきた藤島宇内、谷口吉郎に続き、青森県の正式な使者として、副知事・横山武夫が来訪。十和田湖畔にたてる国立公園指定15周年記念モニュメントの制作を、改めて依頼しました。

横山は一貫してこのプロジェクトに携わり、光太郎との交渉などについて、貴重な回想を残しています。


京都から企画展示情報です。

明治・大正時代の木彫

期 日 : 2022年3月5日(土)~5月29日(日)
会 場 : 清水三年坂美術館 京都市東山区清水寺門前産寧坂北入三丁目337-1
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月・火曜日(但し、祝日は開館)
料 金 : 一般800円/大学・高校・中学生500円/小学生300円

 日本では古くから木製の仏像・置物・細工物などが盛んに作られてきました。明治は社会変動に伴い、それら木彫を取り巻く環境が変化した時代です。とくに西洋の「美術」および「彫刻」といった概念の流入は、木彫界にも大きな影響を及ぼしました。帝室技芸員として知られる高村光雲・石川光明らはこの激動の時代に台頭し、明治から大正にかけて指導的役割を果たしました。
 明治・大正時代には、木彫の近代化を目指して様々な試みがなされた一方、前近代から存続してきた置物や細工物の世界においても森田藻己の木彫根付など、高い技術力を駆使した名品が作られました。また光雲・光明・藻己ら東京を拠点とした作家のみならず、大阪などの地方でも木彫の作家たちが活躍しました。
 このたびの展示では、当館が誇る近代の細密工芸のコレクションから、多彩な顔ぶれによる木彫作品を紹介します。幅広い近代の木彫の世界をどうぞお楽しみください。
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◆主な出品作品
《鍾馗》石川光明(1852~1913) 高 21.6㎝/大正2年(1913)

《月宮殿》高村光雲(1852~1934) 高 11.3㎝/大正7年(1918)

《龍自在置物》穐山竹林斎(1891~1937) 長 68.0㎝

《根付 薪束》森田藻己(1879~1943) 3.0×5.5×3.7㎝

《童と犬》山崎朝雲(1867~1954) 童 41.5×15.0×22.0cm 犬 15.5×20.5×18.0㎝ 大正8年(1919)

いわゆる「超絶技巧」系の工芸を中心とした清水三年坂美術館さん。木彫のコレクションも充実していて、これまでも光太郎の父・光雲作品を複数展示した企画展をたびたび開催して下さいました。

平成23年(2011) 「帝室技芸員series3 彫刻 高村光雲と石川光明
平成27年(2015) 「明治の彫刻
令和元年(2019) 「帝室技芸員の仕事 彫刻編

今回も光雲作品、複数並ぶことと思われます。「主な出品作」として挙げられているのが「月宮殿」(大正7年=1918)。愛らしい作品ですね。
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他にも関西方面で見ておきたいもろもろがありまして(おいおい紹介しますが)、来月末くらいに拝見に伺おうかと思っております。

コロナ感染には十分お気をつけつつ、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今夕公民館にモンブランの演奏会ある由にて一旦菊屋にかへり、公民館にゆく。九時過終わる。 菊屋にかへり、吉田幾世さん他三四人と演奏会の話、


昭和27年(1952)3月30日の日記より 光太郎70歳

モンブラン」は、フランスのヴァイオリニスト、レイモン・ガロワ=モンブラン。東宝映画「花の中の娘たち」の音楽を担当し、この年と翌年、来日していました。

佐藤隆房編『高村光太郎山居七年』から。

 その日、県公会堂で音楽会が開かれていました。全国主要都市で演奏をし、盛岡に来たモンブラン一行のフランス演奏団の音楽会です。幾世さんは職員にも頼み、いろいろ探してやっと切符一枚を得て先生に上げましたところ大変喜び、急いで会場に車を走らせました。会場の係の人が気をきかせて、一番いい席へ先生を案内しました。
 久しぶりにフランス人の演奏をきくことのできた先生は、いいようのない興奮の中にジイッときき入っておったのですが、終ると感激の拍手をおくり、しばらくは席にじっとしていたということです。
 菊屋旅館に夜九時頃帰りました。そして何か輝かしい目をしながら幾世さんたちに「モンブランに感謝の挨拶をしたかったです。僕はフランス語もできるし。だがこの服装では失礼になるので出ることはできなかった。」とまことに残念そうにいいました。
 あとで、モンブラン一行の人が、「あの前の席にいたおじいさんの熱心なききぶりは普通の人ではない、余程すぐれた人にちがいない。」ともらしていたということです。


単にガタイがでかくて目立っただけのような気もしますが(笑)。

新聞二紙から。

まずは『朝日新聞』さんの読書欄。当ブログサイトで今月初めにご紹介した、宮内悠介氏著『かくして彼女は宴で語る』の書評が出ました。

かくして彼女は宴で語る 明治耽美派推理帖 宮内悠介氏〈著〉 「牧神(パン)の会」舞台にアシモフ倣う

001 アメリカの作家、アイザック・アシモフに『黒後家蜘蛛(くろごけぐも)の会』というミステリがある。名士たちが食事会の傍ら未解決事件を推理する連作だ。最後に謎を解くのは名士たちではなく後ろで話を聞いていた給仕、というのがお決まりの形式。
 その『黒後家蜘蛛の会』を宮内悠介が明治末期の東京に甦(よみがえ)らせた。舞台となるのは実在した団体〈牧神(パン)の会〉。木下杢太郎や北原白秋、石井柏亭ら若き芸術家たちが結成したサロンだ。
 彼らは定期的に西洋料理屋に集い、自らが体験した謎や事件を語る。誰も真相を突き止められない中、最後に店の女中が「わたしからも一言よろしゅうございますか」と真相を言い当てる――と、本家に倣った短編が6話収録されている。
 個々の謎解きに膝(ひざ)を打つのはもちろんだが、本書は他にもさまざまな楽しみに満ちているのが特徴だ。
 まず事件の舞台が、団子坂や浅草十二階、上野で開催された勧業博覧会、ニコライ堂など、時代を色濃く映した名所であること。
 次いで綺羅星(きらほし)の如(ごと)き登場人物たち。前述の面々に加え、石川啄木が参加する回もあれば森鷗外が登場することもある。彼らが生き生きと闊歩(かっぽ)する様が浮かぶ。
 そしてこの時代ならではの事件の真相。それは時として彼らが挑む〈美〉の意味を問い、時として社会のありようを映し出し、さらには現代をも照射する。特に最終話がもたらす衝撃には思わず声が出た。
 場所、人、時代が三位一体となり、読者を物語に誘(いざな)う。明治の東京の温度や匂いまでもが立ちのぼるようだ。アシモフに倣って各編につけられた著者の覚え書きを読めば、著者が膨大な史料を下敷きにし、史実を絶妙に物語に生かしたことがわかる。軽やかな謎解き合戦を下から支えるのは、歴史と先人たちへの、著者の敬意に他ならない。
 SF作家と称されることの多い著者の、真正面からの本格ミステリである。歴史好きにもお薦めの一冊。
    ◇
みやうち・ゆうすけ 1979年生まれ、作家。2017年に『彼女がエスパーだったころ』で吉川英治文学新人賞。

同書の新聞広告には「まさに和製“黒後家蜘蛛の会” !! 本家と違う、耽美で複雑な雰囲気が日本!という感じがして面白い」とあり、元になった小説があったのだろうとは思っていましたが、上記の評を読んで納得しました。アメリカのアイザック・アシモフの推理小説だったのですね。当方、海外の本格ミステリー的なものはあまり読んだことがなく、存じませんでした。また、アシモフの名はSF作家として記憶していまして、推理小説も書いていたのか、という感じでした。それを言うなら著者の宮内氏も「SF作家と称されることの多い著者」だそうで、そういった部分も含めてのオマージュなのかと思いました。
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以前も書きましたが、「パンの会」は、光太郎も参加した芸術運動。しかし、本書は光太郎が欧米留学から帰する3ヵ月前の明治42年(1909)4月10日で終わっています。ぜひとも続編を執筆していただき、光太郎を登場させていただきたいものです。

ところが、各話の謎解きをする「彼女」の正体が、光太郎智恵子(特に智恵子)と関係の深かった、あの才媛だったということが最終話で明らかになり、続編が作りにくい構成。そこでいっそのこと、「彼女」を、初代「彼女」の後輩で、福島弁でボソボソと語尾の消えてしまうようなしゃべり方をし、着物の裾を長く引きずるようにして歩く丸顔の女性に交替させてしまってもいいのかな、などと思いました(笑)。ついでに言うなら、狂言廻しの役も、木下杢太郎だったのを光太郎に代えて(笑)。

もう1件。『読売新聞』さんの「読売俳壇」から。
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投稿句自体ではなく、正木ゆう子氏の選評に光太郎の名。「足跡が付いて初めてそこが道だとわかる雪野。高村光太郎の詩「道程」の一節「僕の後ろに道は出来る」を思わせる」。

この冬は珍しく、温暖な千葉県でも3回ほど雪になりました。下の画像は1月7日(金)の明け方。自宅兼事務所近くの公園です。こうなったのは数年ぶりでした。
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この頃、ツィッターなどで、おそらく関東南部のあまり雪が降らない地方の皆さんが、やはり「道程」の一節を引用しつつ、雪景色を投稿されていました。雪国の方々には珍しくもない風景なのでしょうが。

ところで、今日は雨が降っています。また雪になるかな、と思ったのですが、今のところその気配はありません。2月も下旬となり、このまま春になってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

午前十時仙北町生活学校卒業式にゆく。談話一席、午食、


昭和27年(1952)3月30日の日記より 光太郎70歳

仙北町」は盛岡市仙北町。「生活学校」は現・盛岡スコーレ高校さんです。光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が出版していた雑誌『婦人之友』に感銘を受けた吉田幾世らが、良き家庭を築く生活の知恵を学ぶ場としてスタートしたといいます。同校では光太郎の薦めでホームスパン製作や果実ジュース作りをカリキュラムに取り入れ、それが受け継がれているそうです。

佐藤隆房編『高村光太郎山居七年』から。

 その頃の卒業式に招かれて来た高村先生は、職員室で
「この学校はアメリカのフロンティヤの開拓当時の学校によく似ています。今そのことを思い出しました。この開拓精神で農村に入っていくんですね。生徒は讃美歌を歌っているが、宗教学校ではないけれども身が引きしまる。フロンティヤの人達が開発に大いに努力して文化を築き上げたのだが……頼もしい感じがします。」
 吉田幾世さんはこのことばに深く感激しました。
(略)
 式に臨んで先生は
「岩手の女性は逞しいです。岩手山のように。日本人のバックボーンです。人間は誰でも詩人であり、又画家にもなれます。そのためには物を正しくみることです。正しく深く究めることによって誰でもかけるものです。」


下記は、この日、同校に贈られた色紙です。現在も同校に大切に保管されています。
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曰く「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」。大正3年(1914)に書かれた詩「晩餐」には、よく似た「われらのすべてに溢(あふ)れこぼるるものあれ われらつねにみちよ」 という一節があります。

誠に遺憾ながら、本年4月2日(土)に予定しておりました、第66回連翹忌の集い、今回も中止とさせていただきます。

昨秋から年末にかけ、新型コロナ新規感染者数がほぼゼロとなり、今年こそは、と思っていたのですが……。その後、オミクロン変異株による感染爆発が起こり、本日現在、その収束が見通せない状況が続いています。
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「ピークアウトはしたのではないか」という見方がある一方、新規感染者数が激減するということもなく、頼みの3回目ワクチン接種も遅々として進んでいません。

また、会場とすることを予定していた日比谷松本楼さんが、感染の最も多い東京都内であること、全国規模の催しであるため長距離・長時間の移動が必要な方々もいらっしゃることなど、不安要素は尽きません。さりとて会食を伴わない形での開催も趣旨になじまないでしょう。

あまり考えたくはありませんが、来年以降も、皆様が安心して集まれる状況にならないかぎり、開催を見送り続けるしかないのかな、と思っております。そうならないことを切に祈念いたしておりますが……。

既に昨年12月、文治堂書店さん発行のPR誌『とんぼ』第13号で開催案内を出していただき、早々にお申し込み下さった方もいらっしゃいまして、申し訳ありませんが、来年の第67回分の参加費ということで、プールさせていただきます。

一昨年昨年同様、4月2日当日は、正午頃、当方が代表して駒込染井霊園の光太郎奥津城に香華を手向け、それをもって第66回連翹忌とさせていただきます。屋外であっても密の状態は避けたく存じますので、皆様方におかれましては、それぞれの場所にて、光太郎を偲んでいただければと存じます。

新刊紹介です。

齋藤孝の小学国語教科書 全学年・決定版

2022年1月20日 齋藤孝著 致知出版社 定価2,600円+税

子供たちに一生の宝となる日本語力を身につけ、知性を身につけてもらう。それこそが次の世代にできる最高の贈り物である――。

そんな信念のもと、著者が渾身の思いを込めて作った理想の小学国語教科書。手に取られた方はその分厚さに驚かれ、子供には難しいのではと感じられるかもしれません。しかし子供が難しく感じないようにという大人の一方的な配慮で作られた教科書からは、古典などの硬い読み物が減り、子供の国語力もどんどん低下してしまっているのが現状です。

一方、「国語力を向上させる最も効果的な学習は名文に親しむこと」という方針に沿い本書に収録したのは、夏目漱石や芥川龍之介、シェイクスピアなど文豪の名作、『源氏物語』『徒然草』などの古典、宮沢賢治や金子みすゞの詩歌、坂本龍馬が姉に綴った手紙、松任谷由実、米津玄師などの歌詞まで約百三十作品。すべての漢字に読み仮名を振り、語彙力や漢字力を鍛えるとともに、設問や丁寧なポイント解説を加えることで、読解力や考える力が身につく内容になっています。

約五百五十頁もある教科書を小学校六年間で読み切ったという体験はその後の人生を歩んでいく支えともなることでしょう。大人の学び直しにもおすすめしたい、全国民に贈る教科書です。
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目次

 音読力をつけよう
  「いろはにほへと ちりぬるを」−いろは歌
  「あめんぼ あかいな アイウエオ」−五十音 北原白秋
  「青いお空の底ふかく、海の小石のそのように」−星とたんぽぽ 金子みすゞ
  「私は不思議でたまらない」−不思議 金子みすゞ
  「われは草なり 伸びんとす」−われは草なり 高見順
  「どっどど どどうど どどうど どどう」−風の又三郎 宮沢賢治
  「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く」−枕草子 清少納言
  「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」−道程 高村光太郎
 速音読トレーニング
  「つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが…」−注文の多い料理店 宮沢賢治
  「めんどなさいばんしますから、おいでんなさい」−どんぐりと山猫 宮沢賢治
  「眼や額からぱちぱち火花を出しました」−セロ弾きのゴーシュ 宮沢賢治
  「百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中」−名人伝 中島敦
  「一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた」−羅生門 芥川龍之介
  「ではおれがいいことを一つ教えてやろう」−杜子春 芥川龍之介
  「知らざあ言って聞かせやしょう」−白浪五人男 河竹黙阿弥
  「月日は百代の過客にして」−おくのほそ道 松尾芭蕉
  「山路来て 何やらゆかし すみれ草」−俳句松尾芭蕉
  「瘦蛙 まけるな一茶 是に有」−俳句小林一茶
  「菜の花や 月は東に 日は西に」−俳句与謝蕪村
  「ふるさとの 訛なつかし 停車場の」−短歌石川啄木
 感性を磨こう詩・歌
  「蜂と神さま」 金子みすゞ
  「リンゴ」 まど・みちお
  「ひばりのす」 木下夕爾
  「倚りかからず」 茨木のり子
  「表札」 石垣りん
  「母音−ある寂しい日私に与えて」 新川和江
  「糸」 中島みゆき
  「やさしさに包まれたなら」松任谷由実
  「秋桜」 さだまさし
  「ヨイトマケの唄」 美輪明宏
  「猫」 萩原朔太郎
  「およぐひと」 萩原朔太郎
  「月夜の浜辺」 中原中也
  「汚れつちまつた悲しみに…」 中原中也
  「生徒諸君に寄せる」 宮沢賢治
  「あすこの田はねえ」 宮沢賢治
  「落葉」 新美南吉
  「初恋」 島崎藤村
  「初恋」 村下孝蔵
  「百年後」 タゴール
 国語の世界を味わおう(1)日本文学・歌・評論
  「野ばら」 小川未明000
  「鼻」 芥川龍之介
  「女生徒」 太宰治
  「駈込み訴え」 太宰治
  「銀の匙」 中勘助
  「風琴と魚の町」 林芙美子
  「檸檬」 梶井基次郎
  「レモン哀歌」 高村光太郎
  「檸檬」 さだまさし
  「Lemon」 米津玄師
  「渋江抽斎」 森鷗外
  「歴史」 宮本浩次
  「草枕」 夏目漱石
  「陰翳礼讃」 谷崎潤一郎
  「四規七則」 千利休
  「茶の本」 岡倉覚三
  「新茶」 岡本かの子
  「画」 正岡子規
  「子規の画」 夏目漱石
  「平家物語」
  「耳なし芳一」 小泉八雲
  「怪談牡丹灯籠」 三遊亭圓朝
  「余が言文一致の由来」 二葉亭四迷
  「福翁自伝」 福沢諭吉
  「氷川清話」 勝海舟
  「夢酔独言」 勝小吉
  「論語物語」 下村湖人
  「論語」
  「論語と算盤」 渋沢栄一
  「おもろさうし」 沖縄古代民謡
  「アイヌ語のおもしろさ」 知里真志保
  「梟の神の自ら歌った謡『銀の滴降る降るまわりに』」作者不詳 知里幸恵・訳
  「方言」 ありがとう/おめでとう/がんばる/さようなら
 国語の世界を味わおう(2)世界の名作文学
  「赤毛のアン」 L・M・モンゴメリ
  「シャネル−人生を語る」 ポール・モラン
  「変身」 カフカ
  「ドン・キホーテ」 セルバンテス
  「レ・ミゼラブル」 ヴィクトル・ユーゴー
  「ファウスト」 ゲーテ
  「ベートーヴェンの生涯」 ロマン・ロラン
  「オイディプス王」 ソポクレス
  「罪と罰」 ドストエフスキー
  「カラマーゾフの兄弟」 ドストエフスキー
  「真夏の夜の夢」 シェイクスピア
  「ヴェニスの商人」 シェイクスピア
  「ロミオとヂュリエット」 シェイクスピア
  「ハムレット」 シェイクスピア
  「オセロー」 シェイクスピア
  「マクベス」 シェイクスピア
  「リヤ王」 シェイクスピア
  「第一之書 ガルガンチュワ物語」ラブレー
  「百年の孤独」 ガルシア=マルケス
  「真の独立への道」M・K・ガーンディー
 自分の気持ちを伝えよう(1)手紙・日記
  「にあんちゃん」 安本末子
  「字のない葉書」 向田邦子
  「息子・野口英世あての手紙」 野口シカ
  「ゴッホの手紙」
  「姉・坂本乙女あての手紙」坂本龍馬
  「わがいのち月明に燃ゆ」 林尹夫
  自分の気持ちを伝えよう(2)演説・宣言
  「ジュリアス・シーザー」シェイクスピア
  「北条政子の詞−『吾妻鏡』より」 北条政子
  「ゲティズバーグ演説」 リンカーン
  「我々の自由への行進は後戻りできない」 ネルソン・マンデラ
  「国連本部でのスピーチ」 マララ・ユスフザイ
  「そぞろごと」 与謝野晶子
  「元始女性は太陽であった。−青鞜発刊に際して」 平塚らいてう
 言葉の魅力を味わおう 和歌・漢詩
  「百人一首」
  「古今和歌集仮名序」 紀貫之
  「万葉集」
  「独楽吟」 橘曙覧
  「静夜思」 李白
  「春暁」 孟浩然
  「偶成」 西郷隆盛
  「春望」 杜甫
  「将に東遊せんとして壁に題す」 釈月性
  「雑詩 十二首(其の一)」 陶淵明001
 考える力をつけよう哲学
  「ソクラテスの弁明」 プラトン
  「方法序説」 デカルト
  「善の研究」 西田幾多郎
  「ツァラトゥストラ」 ニーチェ
  「パンセ」 パスカル
 もう一段上の日本語力
  「あさきゆめみし」 大和和紀
  「源氏物語」 紫式部
  「簡潔の美」 上村松園
  「葵上」 三島由紀夫
  「貧窮問答歌」 山上憶良
  「枕草子」 清少納言
  「徒然草」 兼好法師
  「土佐日記」 紀貫之
  「更級日記」 菅原孝標女
  「風姿花伝」 世阿弥
  「うひ山ぶみ」 本居宣長
  「独行道」 宮本武蔵
  「五輪書」 宮本武蔵
  「柴五郎の遺書」 石光真人・編
  「直訴状」 田中正造
  「国語の自在性」 西田幾多郎
 おわりに
 主要参考・引用文献
 コラム
  聞き上手になろう
  説明上手になるには
  新聞って面白いよ
  コメント力をつけよう

NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」の監修もなさっている齋藤氏、類著も多いのですが、「決定版」と謳われています。

光太郎作品は2篇、ともに詩で「道程」(大正3年=1914)、「レモン哀歌」(昭和14年=1914)。「レモン哀歌」に関しては、前後にレモンをモチーフにした他の作品を配しています。 梶井基次郎の小説「檸檬」(大正14年=1925)の全文、続いて「レモン哀歌」が挟まり、さだまさしさんの「檸檬」(昭和53年=1978)と来て、米津玄師さんの「Lemon」(平成30年=2018) 。

その意図はこういうことだそうで……
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確かにレモンという果実には「人間の情緒に深く訴えかける不思議な魅力」がありますね。同じ柑橘系でも「蜜柑哀歌」や「ゆず哀歌」ではさまになりませんし、ましてや他の果物では……。林檎あたりはまだポエムになりそうですが、例えばスイカ。「かなしく白くあかるい死の床で」智恵子がスイカにかぶりついたらギャグでしかありませんし、スイカを丸善の棚に置いたり、聖橋から投げたりしたら、超迷惑です(笑)。意味が解らない方は、ぜひ本書をお読み下さい(笑)。

【折々のことば・光太郎】

松雲閣別館。 昨夜はビールの御馳走になる。 ひる頃真壁氏との対談(朝の訪問三十日)録音をすます。放送局より謝礼をもらふ。


昭和27年(1952)3月27日の日記より 光太郎70歳

松雲閣別館」は、花巻温泉に現存します。「真壁氏」は詩人の真壁仁。「朝の訪問」は当時、NHKラジオで放送されていた番組です。この際の録音がNHKさんに残っており、市販CD化もされましたし、平成28年(2016)には「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス」という番組でオンエアされました。

神奈川県から演奏会情報です。

午後の音楽会 第136回プレミアムコンサート 宮本益光×加藤昌則 デュオリサイタル

期 日 : 2022年2月24日(木)
会 場 : 横浜市栄区民文化センター リリスホール 神奈川県横浜市栄区小菅ケ谷1-2-1
時 間 : 13:15開場 14:00開演
料 金 : 全席指定 2,500円
出 演 : 宮本益光(Bar) 
加藤昌則(Pf)
曲 目 : 
 加藤昌則/宮本益光 詩:もしも歌がなかったら 
詩がある 桜の背丈を追い越して
 加藤昌則/高村光太郎 詩:レモン哀歌
 加藤昌則/たかはしけいすけ 詩:ぼくの空 他

月に1度、特別な時間をお届けする「午後の音楽会」シリーズ。平日の午後に、いつもより少しだけおしゃれをして、コンサートに出かけてみませんか?

オペラ界のスター宮本益光とクラシック講座でお馴染み加藤昌則が「午後の音楽会」シリーズに登場
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加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」がプログラムに入っています。ピアノは加藤氏ご自身。同曲、令和元年(2019)に目黒で開催された「4人のバリトンコンサート ハンサムなメロディー」、福岡と豊洲で公演のあった「加耒徹バリトンリサイタル2019 〜歌道Ⅱ」で、それぞれ演奏されました。加藤氏曰く「その死への美しすぎる情感を、敢えて後年に浄化したものとして捉えて書いた」。

コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前宮城県白石町より紙布製造の人佐藤忠太郎といふ老人来訪、片倉小十郎時代よりの紙布の話をきく、見本をもらふ、


昭和27年(1952)3月22日の日記より 光太郎70歳

佐藤忠太郎は明治34年(1901)、白石の生まれ。すると、この時点で50歳ちょっとのはずで、「老人」というには当たらないような気がしますが、紙布(しふ)織りに取り組んでいた人物、ということで間違いないでしょう。その工房は現在も続いています。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第30号が届きました。

隔月刊誌で通巻30号ということは、30号÷年6回で、ちょうど5周年。そこで、特集が「感謝の5周年」。
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誌上アーカイブ的に、こんなことをやってきたよ、という振り返り。
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平成30年(2018)2月の第6号の特集は、「賢治の足跡 光太郎の足跡」でした。

5周年を期に、次号でリニューアルを行うそうです。
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これまでの隔月刊から季刊に変更、サイズを一回り大きくするとのこと。

光太郎の日記や書簡等から、光太郎が食べていたメニューを現代風にアレンジして紹介する連載「光太郎レシピ」はそのまま継続されるようです。

で、今号の「光太郎レシピ」。「ボロネーゼとカフェノワールエスプレッソ仕立て」だそうで。
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パスタは光太郎書簡に「ヌイエット」があることからのインスパイアとのこと。

さて、メニューの考案、調理等に当たられているやつかの森LLCさんで、もう一つ手がけられているのが、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」。

今月分は……
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ちらし寿司など、一足早くひな祭りっぽい感じですね。

こちらの「光太郎ランチ」も、末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

(藤島宇大氏 谷口吉郎氏)来訪、十和田湖記念碑彫刻の件をはじめてたのまれる。談話をいろいろきく。


昭和27年(1952)3月21日の日記より 光太郎70歳

「藤島宇大」は「藤島宇内」の誤りですが、「とうとう来たか」という感じです。当時の青森県知事にして、太宰治の実兄・津島文治の発案による、十和田湖周辺の国立公園指定15周年記念モニュメント制作の依頼。これが生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として結実することになります。前年から青森県では佐藤春夫ら、中央の著名文化人等に相談するなど、いろいろと段取りを立て、この日の二人の訪問に至ります。二人には佐藤からの丁重な手紙が託されていました。

光太郎第二の故郷とも云うべき岩手花巻から、企画展情報です。

第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」

期 日 : 2022年2月23日(水)~5月15日(日)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円(300円)高等学校生徒及び学生 250円(200円)
      小学校児童及び中学校生徒 150円(100円)( )は20名以上の団体

光太郎の父・光雲作の木彫「鈿女命」や、新たに寄贈された光太郎や光雲に関係する作品を公開します。

関連行事 講座「光雲と東雲の彫刻(仮)」
 期 日 : 2022年3月6日(日) 
 会 場 : 花巻高村光太郎記念館
 時 間 : 10:00~12:00 
 料 金 : 受講料無料 (要観覧券)
 定 員 : 15名 (花巻市内在住・在勤者 要予約・抽選)
 講 師 : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
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「第二弾」とあるのは、一昨年、同館で開催された「高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと)」展が「第一弾」という位置づけのためです。

この際に、光雲四男にして、藤岡家へ養子に入った孟彦(植物学者 明治25=1892~昭和52=1977)の子息であらせられる、横浜ご在住の藤岡貞彦氏(一橋大学名誉教授)から寄贈のあった、光雲作の木彫「鈿女命像」の展示が行われましたが、会期が20日間程しかとれず、「見逃した」「もう一度見たい」的な声があったため、再び同像をメインに据えたわけです。

他にも花巻市に寄贈のあった品々なども、一緒に展示する予定です。

やはり光雲がらみで、銅製の懐中仏「准胝(じゅんてい)観音像」。ちなみに「準提」とも表記されます。

由来がちょっと複雑なのですが、そもそもは東京都文京区の金龍山大圓寺さん。こちらに光雲とその高弟・山本瑞雲、三木宗策の手になる七体の観音像が寄進されました。光雲晩年の昭和4年(1929)から同8年(1933)にかけてのことです。
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その際、各像に、胎内仏としてそれぞれの像のミニチュア版的なものが納められました。そして大圓寺さんで、それを鋳銅仏として複製し、寄進者や檀家などに配付した記録が残っています。
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左下が、準提観音の胎内仏(撮影・髙村規氏)、右下が今回寄贈されたものです。
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この七観音の鋳銅懐中仏、時折、ネットオークションに出ていて、保存状態のいいものであれば、数万円で落札されています(当方、いつも負けています(笑))。できれば七観音コンプリートを目指したいのですが。

で、全く同じ準提観音の鋳銅懐中仏が、全く別々のお二人の方から、ほぼ同時に寄贈されたとのこと。「仏様同士が呼び合ったみたいだ」と、花巻市の担当の方も驚いていらっしゃいました。

それから、光太郎がらみで、英文学者の長沼重隆に送った葉書。長沼訳のホイットマン詩集『草の葉』を贈られた礼状です。『高村光太郎全集』及びその補遺「光太郎遺珠」に、長沼宛の書簡は既に5通採録してありますが、こちらは未収録のものでした。
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さらに、光太郎の書を写した品々。書を贈られた佐藤隆房が院長を務めていた花巻病院で使われていたものとのこと。
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ついでに当方手持ちの、光雲が主任となって作られた皇居前広場の「楠木正成像」、上野公園の「西郷隆盛像」の明治期の錦絵を七枚ばかりお貸ししまして、そちらも展示されるそうです。

更に言うなら、手前味噌で恐縮ですが、関連行事として当方の講座が予定されています。ただ、コロナ禍のため、リモートになる可能性も。

今回は会期が長いので、それだけ多くの方々にご覧頂きたく存じます。コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前九時半川口村の公民館帷子敏雄といふ人来訪、公民館図書館の看板の字をかいてくれとの事、鈴木彦次郎氏のテガミ持参、承諾。二枚の板を置いてゆく。

昭和27年(1952)3月20日の日記より 光太郎70歳

詳細はこちら

今日はSt.Valentine's Dayだそうで……。

昨日の『東京新聞』さんから。

亡き夫へのバレンタイン 書家・根岸君子さん 思いつづった詩集出版

005 国内外で高い評価を受ける足利市在住の書家、根岸君子さん(85)が亡夫への愛情を切々とつづった詩集「半夏生(はんげしょう)−受取人のない八十歳のラブレター−」を今月、出版した。闘病、死別、その後の五年間に感じた失意、孤独、寂寥(せきりょう)の思いを飾らない言葉で紡ぐ。三年前の展覧会で詩の一部を紹介したところ、「現代の智恵子抄のよう」と圧倒的な共感を得、多数の支援者に背中を押された。
 「誰(た)が為(ため)に生きるのかこの空虚(むなし)さ」「チョコレート供えて食べてと言う我に黙せし君のヴァレンタインデー」−。収録された二百五点の詩。九百点を超える作品の中から支援する編集者とともに厳選した。
 時間を追って詩が並び、微妙な心情の変化も伝わる。最後は「追憶の人とは言わせじわが胸の君は永遠なる我が恋人ぞ」で終わっている。題名の半夏生は夏場に白い花を付ける雑草。根岸さんは「静かに凜(りん)と生きる姿にひかれて」と言う。
 根岸さんは公務員などを経て五十五歳の時、前衛書家の茂木良作さんに師事。同市を拠点に心象風景を毛筆で表現する「墨象」で、フランスの国際公募展「ル・サロン」「サロン・ド・トーヌ」などに数多く入選している。夫の会社員の英次さんとは一九六三年に結婚。二〇一六年に死別した。
 二〇一九年六月、足利市内で開いた展覧会の際、「受取人のないラブレター」コーナーとして一部の詩を紹介したところ、二日間で約八百人が訪れる人気になった。連れ合いを亡くした高齢者や若いカップルが涙を流していたという。
 「心を整理して一歩を踏み出すために言葉をつづっただけ。本にするのはためらった」という根岸さん。「大切な人との時間はかけがえのないもの。本が改めて考えるきっかけになればうれしい」と願った。
 千三百二十円(税込み)。同市の岩下書店(通二)で販売している。郵送購入希望者は渡良瀬通信=電0284(72)6867=へ。

残された奥様の立場から、ということで、「逆・智恵子抄」とでも云うべきかと思いますが……。

本にするのはためらった」というくだり、光太郎の本家『智恵子抄』にも通じますね。

初版『智恵子抄』刊行を光太郎に進言した、出版社龍星閣主・澤田伊四郎の息女・城子氏の『智恵子抄の五十年』(平成3年=1991)から。

 こうして一冊にまとめたものを澤田が光太郎に届けたのは、『彼女の半生』を読んで一週間とたたぬうちであった。(略)光太郎は、一瞬「ギョッとした」表情を見せ、「明らかに好意を持たぬ顔つき」だった。(略)それから「内容順序表」を見て、感心したような、たまげたような感じで「ほうっ」という表情を見せた。澤田は「いけるな」と思った。
 光太郎は「預かっておきましょう」というような言葉を返した。すぐに許諾が得られるなどと思っていない澤田は、ひるまずに、このリストに洩れているような詩篇、未発表作品をいただきたいこと、制作年月日も教示してほしいことを申出て、その日は帰った。
(略)
 十日に一遍ぐらい 、様子を見ることを兼ねながらの澤田の訪問は続けられた。光太郎は「こういうものは今の時局に出せない」とか「愛情を売りものにしたくない」などと、しきりに拒絶をくりかえした。日中戦争は五年目に入り、太平洋戦争突入を控えて、国家総動員法のもとで日本全土は緊迫していた。一方、戦地と銃後、引き裂かれている夫と妻たちの関係など、道徳的な乱れもあらわれていた。
 この時こそ「男女の拠り所」「五臓六腑をさらけ出した愛情」の書物、「一般女性に対する男性のバイブル」、「女の一生の愛されている聖書」として、読む人をして感動にまきこまずにはおかぬ長篇詩集であると、澤田は自分がまとめた詩集の持つ意義とその不変の価値を光太郎に「百の言葉で説得した」。光太郎の心は澤田の説得にゆれながらも、いつもの拒絶に戻る日が続いた。
 ある時は「あれを出そうじゃないか」と許諾の電話が入って、澤田があわてて駈けつけて行くと、「君が団子坂をのぼってくるころいやになった。智恵子が可哀そうになった。やめようじゃないか」ということだった。

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この場面、平成9年(1997)刊行の『小学館版学習まんが人物館 高村光太郎・智恵子』(杉原めぐみ氏シナリオ/村野守美氏作画)ではこのように描いています。
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この後、結局は、澤田の提案を受け入れ、『智恵子抄』出版に踏み切ります。その裏側には、同書に収められた「智恵子の半生」(原題「彼女の半生」 昭和15年=1940)にある、次のような考えがあったのではないでしょうか。

大正昭和の年代に人知れず斯ういふ事に悩み、かういふ事に生き、かういふ事に倒れた女性のあつた事を書き記して、それをあはれな彼女への餞する事を許させてもらはう。一人に極まれば万人に通ずるといふことを信じて、今日のやうな時勢の下にも敢て此の筆を執らうとするのである。

ちなみに、『小学館版学習まんが人物館 高村光太郎・智恵子』、監修は当会顧問であらせられた、故・北川太一先生でした。

その北川先生による解説「詩集『智恵子抄』が語るもの」の一節。

 当時の日本は、中国大陸で始めた長い戦争のさなかにあって、すべてのものがその目的のために向けられていた時代でした。
 自由なものの考え方はおさえられ、素直な愛の表現すら、はばかられる日びのなかで、たくさんの若者たちが大陸で戦い、そして死んでゆきました。
 この年の十二月には、アメリカやイギリスを相手に、新しい戦争が始まろうとしていました。
 そんな若者たちが思いがけず手にしたこの詩集は、はじめ、くらべようもない愛の詩集として受けとられました。
 たしかにこれは一組の男女が生涯をかけ、さまざまな障害を越えてつらぬいた、そのいちずな愛の姿によって、戦いにあけくれた毎日に強い希望を与えたのです。
 しかし、いつか若者たちは、この詩集がただの愛の詩集であることの意味をはるかにこえて、もっと深く重い意味をもつことを感じ始めていました。
 私は卒業も近い旧制中学校の五年生でした。この国を守るために二十歳(はたち)になったら戦場に行くに違いないと信じこんでいた、私たち十代後半の若者は、この詩集をよみながら人間の意味について、生きること、死ぬことについて真剣に考え始めたものです。
 戦争の正しさを大声で押しつける、中身のない宣伝文句より、人と人との大きな愛のやりとりの大切さを語り、人間へのたしかな信頼をうたうこの詩集は、思想や風俗についての、ますます厳しい取りしまりにもかかわらず、戦争の時代をたえず読みつがれて、一九四四年までのわずか三年の間に、十三回も印刷されています。


北川先生は、この後、入学した東京物理学校を昭和19年(1944)に繰り上げ卒業、海軍省から技術見習尉官に任官され、浜名湖海兵団を経て、四国の松山海軍航空隊宇和島分遣隊に配属。本土決戦に備えてご自分より若い予科練の少年たちと共に、山中に塹壕掘りをしつつ敗戦を迎えられました。終戦時の位階は海軍技術少尉でした。

『智恵子抄』の出版は、澤田や光太郎の思惑も超えて、当時の若者たちに多大な影響を及ぼしたことがわかります。

しかし、その一方で光太郎は、「戦争の正しさを大声で押しつける、中身のない宣伝文句」のような詩文(それこそが光太郎詩の真髄、と、涙を流して有り難がる愚か者が現代でもいて、辟易しますが)も大量に書き殴りました。戦後になって、それを真摯に反省し、花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を送ったわけです。

さて、いろいろ書きましたが、泉下の光太郎も、もはや今となっては、冒頭『東京新聞』さんで紹介された根岸さんのように「大切な人との時間はかけがえのないもの。本が改めて考えるきっかけになればうれしい」と思っているのでは、と感じました。

【折々のことば・光太郎】

宮澤清六氏内村皓一氏来訪、岩手川一升豚鍋の材料いろいろもらふ。豚鍋をして岩手川をのむ。

昭和27年(1952)3月2日の日記より 光太郎70歳

寒い時には鍋パーティー(笑)。賢治実弟の清六、気鋭の写真家・内村皓一、そして光太郎。何とも面白いメンバーです。

福島大学うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)さんの主催により、これまでも全国各地で開催されてきた東日本大震災からの復興支援シンポジウム。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「ほんとの空」の語を冠して下さっています。

今回は、当初予定では福島市での公開開催とオンライン参加のハイブリッドでしたが、やはりコロナ禍のため、オンラインでの開催のみに変更となりました。

福島大学うつくしまふくしま未来支援センターシンポジウム~ほんとの空が 戻る日まで~

期 日 : 2022年2月17日(木)
会 場 : ホテル福島グリーンパレスよりオンライン配信
時 間 : 13:20~16:00
料 金 : 無料

東日本大震災・原子力発電所事故からの地域復興に向け取り組んできた福島大学うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)のこれまでの取組み及び福島大学の震災復興に向けての今後の取組みについて発信するとともに、福島県被災地域のこれからについて考える。

挨拶及び講演 
 「福島大学の震災復興に向けての取組みと今後」
 福島大学学長 三浦浩喜

基調講演
 「震災復興の中で福島大学うつくしまふくしま未来支援センターが果たした役割」

福島大学名誉教授・初代FUREセンター長 山川充夫
講演
 「これからの福島大学に期待すること」 川内村村長 遠藤雄幸


うつくしまふくしま未来支援センター活動紹介
 子どもたちに寄り添って-こども支援活動の歩み-  FUREこども支援部門長  中村恵子
 地域復興支援から未来への継承 FURE地域復興支援部門長 吉田樹
 食と農の再生-放射能汚染対策から新しい産地形成へ-  食農学類教授 小山良太
 相双地域支援サテライトによる支援活動 FURE相双地域支援サテライト長 仲井康通

対談 「これからの福島大学の取組み」 三浦浩喜学長×山川充夫初代センター長
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参加申し込み締め切りが2月10日となっておりますが、まだ受付中のようです。あと一月足らずで3.11ということもあり、多くの方々のご参加を期待します。

【折々のことば・光太郎】

真壁仁氏来訪、山形の干柿をもらふ、夕方まで談話、ちゑ子について其他、煮小豆御馳走、

昭和27年(1952)2月17日の日記より 光太郎70歳

真壁仁は山形出身の詩人。昭和20年(1945)、東京の空襲が激化してきた際、智恵子の遺作紙絵を焼失から守るため、光太郎は千数百枚の紙絵を三つに分けて疎開させました。そのうちの1箇所が、山形の真壁のところでした。








J-pop系の新盤LPレコードです。

Love Logic<Clear Pink Vinyl/限定盤>

発売日 2022年2月16日005
アーティスト Minuano
レーベル Be Thankful Records
収録曲
 レモン哀歌
 春宵の哀しみ
 果てるともなく続く宙
 それいゆ
 午后の翼
 恋人たちの雨
 裸足のシルエット
 雨色日記
 恋、咲き初めり
 陽だまりの午後に


昨今、アナログレコードの人気が再燃しているとのこと。音楽はデータ配信で購入するのが当たり前、CDの市場もどんどん先細り、という時代なのに、です。価値観が多様化していることの表れの一つなのでしょうが、「データ配信では得られない、手で触れられる“新しい”価値」「デジタルにはない柔らかな音質」「インテリアとしても美しいジャケット」といった点で、若い世代にも浸透してきているそうです。
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最近は、あえてアナログレコードでしか新譜をリリースしないアーティストまでいるそうですし、過去の作品のリマスターなどもCDではなくアナログレコードで、というケースも目立ちます。

そうした流れの中での発売なのでしょう。「Minuano」というユニットの「Love Logic」というアルバム。平成21年(2009)にCDが発売されていましたが、限定版としてLPレコードが海外で生産され、逆輸入の形で販売されるとのこと。YouTubeにもアップされているのに販売するあたり、コアなファンの存在を見越してのことなのでしょうか。

「Minuano」に関しては、令和元年(2019)の『CDジャーナル』に以下の紹介。

パーカッショニストの尾方伯郎が主宰するプロジェクト。Lampの榊原香保里をヴォーカルにフィーチャーし、MPB、ジャズ、シティポップ、ソフトロック、クロスオーヴァーなどを現代的に再解釈したポップスを追求。2009年に1stアルバム『Love Logic』、翌2010年に2ndアルバム『ある春の恋人』を発表。2012年のデジタルEP『夏の幻影 EP』を経て、2019年に3rdアルバム『蝶になる夢を見た』をリリース。

ここに記述はありませんが、ボサノバ的なテイストも盛り込んでいるようです。1曲目、「レモン哀歌」。イントロのフルートがそんな感じです。



歌詞は光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)そのままではなく、それからのインスパイア。

 トパァズ色の香気 哀しくとろけて007
 囓りかけた愛を追いやる夕闇
 なまぬるい風が 辺りに一面
 窓硝子越しの季節がふるえた

 夜に揶揄われて 二人は有耶無耶な儘
 時間だけが過ぎてゆく 蝕むように

 月あかり照らす 老頭児たちの群れ
 手招きするように 二人を誘う

 夜に揶揄われて 二人は有耶無耶な儘
 時間だけが過ぎてゆく 蝕むように

 空想に耽る 遠い日々を想って
 嗚呼、溜め息一つ 静かな遊泳

 月あかり照らす 老頭児たちの群れ
 懐かしい音楽に 縺れて踊る


「智恵子抄」インスパイアの楽曲、米津玄師さんの「Lemon」などもそうだそうですが、過去にもさまざまなアーティストの方々が取り組んで下さっています。こうして復刻されることも喜ばしいことですし、さらにいろいろと新作が出ることも期待します。

【折々のことば・光太郎】

終日雪ふつてゐる、風なし、夜より朝にかけますます厳寒、0下15度、 ひる頃更科源蔵氏来訪、一時頃辞去。ヰスキー、チーズ等もらふ。


昭和27年(1952)2月5日の日記より 光太郎70歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、断熱材などの防寒設備などまったくないあばら屋でした。昭和20年(1945)から数えて7度目の冬とはいえ、老躯にはこたえたことでしょう。

更科源蔵は、北海道弟子屈在住だった詩人。同じ北国の更科も、光太郎の暮らしには驚いたのではないでしょうか。

2月5日(土)に亡くなった芥川賞作家・西村賢太氏と、氏が「没後弟子」を自称し、光太郎がその代表作『根津権現裏』の題字揮毫を担当した大正期の作家・藤澤清造関連。

『山形新聞』さんが一面コラムで取り上げました。

談話室

▼▽アパートの家賃を4年余りも払わなかった。酒に酔って暴行を働き、警察の厄介になったこともある。すると周りの人も離れていく。そんな時に支えになったのは、大正末-昭和初めに活動した藤沢清造の小説だった。
▼▽西村賢太さんが作家になる前の逸話である。清造作品の登場人物は社会の底辺で鬱屈(うっくつ)した心を抱える。作者自身、42歳だった昭和7年1月、奇行の末に公園で凍死した。恵まれない少年時代も似ており、「涙がでてくる程身につまされ」た。随筆「清造忌」でそう振り返る。
▼▽清造の「没後弟子」と称し、傾倒した。彼を巡る物語を多くつづってきただけではない。月命日のたび、石川県七尾市の菩提(ぼだい)寺にある清造の墓に詣でた。29歳から始めて25年。芥川賞を得て人気作家になってからも、毎月の七尾行を続けた。清造の脇に自らの墓標も立てた。
▼▽先月中旬、書評紙に載った対談では執筆の原動力を聞かれ「清造がいるからこそ、いまも小説を書く意地を持続できています」。変わらぬ思いを語った。それから1カ月足らず、まだ54歳の西村さんが急死したのは清造没後90年の命日直後である。奇(くす)しき縁(えにし)と言うほかない。

「清造没後90年の命日」に関して、先月の『中日新聞』さんが報じていました。

清造先生 見守ってて 芥川賞・西村賢太さん 合掌

 七尾市出身の作家、藤沢清造(せいぞう)(一八八九〜一九三二年)の没後九十年の命日の二十九日、「清造忌」が同市小島町の菩提(ぼだい)寺・浄土宗西光寺で営まれ、藤沢に心酔する芥川賞作家、西村賢太さん(54)が墓前に手を合わせた。
 藤沢は同市馬出町に生まれ、高等小学校を卒業して上京。一九二二年に貧困と病苦の中に生きる主人公を描いた長編私小説「根津権現裏」を発表した。島崎藤村らに評価されたが、その後は作品に恵まれない生活を送り、困窮の果てに東京・芝公園で凍死した。
七尾に26年墓参「おかげで食えてる」
 西光寺には五三年に藤沢の墓碑が建立され、当時の住民有志が一度だけ追悼会を開いた。西村さんらはその意思を継ぎ、途絶えていた追悼会を二〇〇一年に「清造忌」として復活させた。命日に毎年一、二人が参列している。西村さん自身は、月命日と命日に欠かさず墓参りを始めて二十六年目。〇二年には藤沢の墓の隣に自らの生前墓を建てた。
 午後四時半すぎ、墓を訪れた西村さんは缶ビールや酒などを供え、手を合わせた。墓参りを終え「最初に来た時は二十五年前で、俺も年をとったが、清造先生も遠くに行きましたね」としのび、「作家になる前から毎月(墓参りを)やっていたから小説で食っていけているんじゃないかと思う。清造先生のおかげ」と話した。
 西村さんは今夏にも藤沢清造の随筆集を出版する予定という。
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そして同じく『中日新聞』さん、西村氏の訃報を受けて。

「賢太さん 若かったのに」 訃報受け 生前墓に七尾市民 西光寺の高僧住職「真面目で紳士 残念で仕方ない」

 五日に五十四歳で亡くなった芥川賞作家の西村賢太さんの訃報から一夜明けた六日、西村さんが生前建てた墓がある七尾市小島町の西光寺(さいこうじ)には、墓参りに訪れる市民の姿があった。「若かったのに」「信じられない」。早すぎる別れを惜しむ声が聞かれた。
 「先週来たばかりだったんでしょ。本当に信じられない」。午前十時すぎ、同市栄町の永田房雄さん(73)は墓に積もった雪を手ではらうと、近くの和菓子店で購入した草餅を供え、静かに手を合わせた。
 西村さんは七尾出身の作家藤沢清造(一八八九〜一九三二年)に心酔。二〇〇二年に藤沢の墓の隣に自身の生前墓を建てた。藤沢の命日の一月二十九日を「清造忌」とし、月命日の墓参を欠かさなかった。先月も缶ビールや酒などを墓前に供えたばかりだった。
 永田さんは「お酒は隣にあるから、甘いものを味わってもらえたらと思って」としみじみ。西村さんに会ったことはないが、一一年に芥川賞を受けた「苦役列車」は手に取ったことがある。「難しくて理解できなかった気がする。改めてじっくり読み返そうと思う」
 住職の高僧英淳(こうそうえいじゅん)さん(69)は「西村さんは七尾の人よりもしょっちゅう寺に来てくれた。二月も二十八日に来ると話したばかり。いつもと同じ様子だったからびっくり。根は真面目で紳士。若すぎる。残念で仕方ない」と肩を落とした。寺に連絡があれば、遺骨を受け取りに行くという。
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西村氏の生前墓については、亡くなってから知りました。そして毎月墓参に訪れていたということも。その心酔ぶりは半端ではありませんね。

これを期に、また藤澤に脚光が当たることを期待するとともに、改めて西村氏のご冥福を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

午前十一時頃村会議員等10人余恭三さんの案内で来訪、小屋を見てゆく。一緒に小学校にゆく。一時間はかり座談。村長も来てゐる。後酒食。午後四時頃辞去、小屋にかへる。

昭和27年(1952)1月29日の日記より 光太郎70歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活も6年以上が過ぎ、今さら感がありますが、もしかすると新しく議員になった人々が挨拶に、という趣旨だったのかも知れません。

秋田県から企画展情報です。

近美彫刻セレクション-塊の生命力-

期 日 : 2022年2月12日(土)~4月17日(日)
会 場 : 秋田県立近代美術館 秋田県横手市赤坂字富ヶ沢62-46
時 間 : 9:30〜17:00 
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 本展では、当館に収蔵されている約200点の彫刻作品から、舟越保武、峯田敏郎、高田博厚、皆川嘉博など、近現代の彫刻作家の作品をセレクトして展示します。
 「塊」の芸術である彫刻は、作家の思想や生き様、コンセプトといった要素と、モチーフや素材、技術が複雑に絡み合い作品として生み出されました。
 ブロンズや石膏などの多彩な素材で表現され、作家の思いが込められた立体の生命力と美しさを、様々な角度からご鑑賞いただきます。

ギャラリートーク 3月27日(日) 午後2時開始(30分程度)
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光太郎「が」制作した彫刻は出品されませんが、光太郎「を」制作した作品が出ます。

光太郎との交流から、彫刻家となることを決意し、光太郎等の援助で渡仏、彼の地で名声を獲得するに至った高田博厚作の光太郎像(昭和34年=1959)。
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高田は昭和6年(1931)の渡仏後、第二次大戦中も欧州にとどまり、昭和32年(1937)まで帰国しませんでした。その間、光太郎と書簡のやりとりはありましたが、光太郎とは会っていません。帰国したのは光太郎が歿した翌年でした。

この像は帰国後の昭和34年(1959)に制作され、翌年、高田も途中から選考委員となり、全10回限定で開設された造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」贈呈式に合わせて発表されたものです。

高田は滞仏中に一度、光太郎像を制作しました。ところが、帰国に際し、彼の地での作はすべて破棄してしまったため、光太郎が歿してからの帰国後にもう一度作ったということになります。

したがって、高田は晩年の光太郎の顔を直接は見ていません。像になったのは、写真で見た晩年の光太郎の「印象」です。そこで、光太郎にそっくりか、といわれると、答えは「否」。しかし、この像はまぎれもなく光太郎の精神性をしっかりと表現したものとなっています。

高田滞仏中の「ある詩人へ」(昭和25年=1950)から。

 お別れしてから二十年のあいだに数えるほどしか便りをしなかった。無精からではなくて、東洋人的なもっと奥の気持が働いていたようだ。随分前にあなたが私のことを書かれて、「こうして書いていると、会って話したくなる。やっぱりパリは遠いな……」と言って居られたのを、おくれて読んだ時、私は一層安心した。このあいだ日本から来た文芸雑誌『群像』にあなたの写真が出ていた。久しぶりで、年をとられたあなたを見たのだが、その時も日頃便りをしないでいるのを、悪いことをしたという気持とは逆に感じた。全く過ぎ去り失(な)くなったと思う過去が、今一層に生きているのと同じであろう……。ただ過去が生きるようになるには、どれだけの費(ついえ)があったことか!
 私もようやく五十歳になり、これからなんとか仕事できるかと思っている時、あなたに育てられた私の若い時代が、予想もできなかったような意味を以て、よみがえってくる。十五、六も年下の私を、あなたは同輩の友情を以て迎えてくれた。十九の年齢(とし)にあなたを識って、十年私達は親友だった。私の過剰な、気を負って、「形」を為していぬ仕事に、あなたは気付いていても、私には一言も言わなかった。それから私がフランスへ来てからの年月は、あなたが私を迎えてくれたそれのもう二倍になる。そしてこの二十年で、あなたが黙って私を見ていてくれたことの意味が解ってきた。私は日本で美術家の友達はごく少なかった。ただあなとだけ、世間気を避けて、孤独を愛していたのを、いまどのように幸いに思っていることか……。
(中略)
……こんな地味な話を、山の奥に独り引籠っているあなたとしたい。元来が孤独で静かなのが芸術なのに、なぜこの頃の日本の美術家は騒がしいのであろうか? けれどもあなたに会えたら、私達の談話はそのようなことに少しも触れないであろう。「孤独の道に於てのみ、真に共通の思念に遭遇する」(アラン)のだから。これが芸術の特権なのだから……


高田の光太郎胸像には、「孤独の道に於て」「遭遇」した「真に共通の思念」が、あますところなく表現されているように感じられます。

ちなみに同じ像、少し前に書きましたが、埼玉県東松山市の東武東上線高坂駅前から伸びる、彫刻プロムナードで野外展示されています。

秋田の企画展示、他に、舟越保武柳原義達等、やはり光太郎と交流を持ち、そのDNAを受け継いだ部分もある作家の作が並びます。コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今年はキツツキあまり来らず、兎の足あとも少きやう。狐のはまだ見ず、犬、猫、鼠、鳥などの足あとのみ。


昭和27年(1952)1月19日の日記より 光太郎70歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、かえって猫がうろついていたというのが意外でした。

2月5日(土)付けの『毎日新聞』さん、「今週の本棚」欄。

堀江敏幸・評 『写文集 我が愛する詩人の伝記』=室生犀星・文、濱谷浩・写真 詩人たちの横顔を捉えた卓抜な批評

001 室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』は、一九五八年一月から十二月にかけて『婦人公論』に同題で連載された文章をまとめたものである。犀星没後六〇年として編まれた本書が写文集と題されているのは、初出時に犀星の散文に寄り添っていた濱谷浩の写真を呼び寄せているからだ。じつは写真の方も『詩のふるさと』として、犀星の本と同時に世に出ていた。
 濱谷浩の写真は、その清潔な構図と節度のある抒情(じょじょう)をもって、輪郭のない犀星の散文をみごとに支えている。詩人たちのゆかりの土地を訪ねて切り取ってきた鮮やかな映像と選ばれた詩との相乗効果で、収められた十二篇は文学紀行にもなっている。  北原白秋と柳河、高村光太郎と阿多多羅山・阿武隈川、萩原朔太郎と前橋、釈迢空と能登半島、堀辰雄と軽井沢・追分、立原道造と軽井沢、津村信夫と戸隠山、山村暮鳥と大洗、百田宗治と大阪、千家元麿と出雲、島崎藤村と馬籠・千曲川、そして作者犀星と金沢。濱谷浩の写真と並べると、詩の言葉に、書き手が触れた土地や人肌から発せられる気のようなものが含まれていることに気づかされる。
  しかし本書の真の魅力は、独特の律動を持った犀星の、手びねりの文章にある。純真で遠慮のない子どもとずる賢い大人が共存しているまなざしで捉えられた詩人たちの横顔は、いったんゆがみ、しばらくすると元にもどってあたらしい真実となり、知らぬ間に卓抜な批評として読者の心に焼き付けられるのだ。
 たとえば師の白秋が、詩誌『朱欒(ザムボア)』に投稿された犀星の詩について、十年後に酒の席でその原稿の字のひどく拙かったことを「ひときわ真面目な顔付」で指摘し、ではどうして採用してくれたのかと問われると、「字は字になっていないが詩は詩になっていたからだ」と答えた話。白秋の慧眼(けいがん)は犀星の文学の根を簡潔に言い当て、犀星はその現場の空気を逃さず、ぎゅっと拳に包む。白秋は犀星を「故郷の郷という字も碌(ろく)にかけない男だ」と評しているのだが、最もよく知られた犀星の詩「小景異情」の、遠きにありて思うものとしてのふるさとは、漢字が書けない男だから生まれたのだとつい言いたくなる陽性の逸話だ。
 犀星とおなじく白秋の雑誌の投稿者として親友となった萩原朔太郎との関係も控えておきたい。「私がたちの悪い女で始終萩原を追っかけ廻(まわ)していて、萩原もずるずるに引きずられているところがあった」。酒を飲み、口論して別れた晩の犀星は恋人に振られたように黙して「何処(どこ)に行ってもおちつきがなかった」という。理に立つ男と理を拒む男の、隔たりがあるからこその愛憎が、危うい譬(たと)えの中で小説の一場面になる。
 高村光太郎を智恵子に照らした一節にも、残酷な性愛の匂いがある。「かれが死ぬまで、智恵子の肉体がかれのお腹(なか)のうえにあって、かれの胃と腸をあたためていた」。「かれ」を無造作に繰り返すこんな寸評に触れると、光太郎の詩にはやわらかい腹部があって、大きな手がその上で見えない言葉の卵を包んでいるとしか思えなくなってくるだろう。その卵を孵化(ふか)させるのが詩の器だとすれば、愛する知友について四苦八苦しながら、字になっていない字で綴(つづ)っていた犀星こそ、真正の詩人と呼ばれるべきかもしれない。

写文集 我が愛する詩人の伝記』の書評、先月には和合亮一氏のそれが、『産経新聞』さんに掲載されましたが、今度は堀江敏幸氏の評。同書、錚々たる方々の歓心を買っているようです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

東京より毎日新聞出版部の三井良尚といふ人来訪、土方定一氏の紹介状持参、「日本の詩歌」総論執筆の件。結局承諾。


昭和27年(1952)1月15日の日記より 光太郎70歳

002『日本の詩歌』は、毎日新聞社から昭和29年(1954)4月に刊行されました。

その年1月の『毎日新聞』に連載された光太郎の評論「日本詩歌の特質」(日記にある「総論」でしょう)を巻頭に置き、その他、「日本の詩歌の系譜」(吉田精一)、「現代詩概観」(三好達治)、「近代短歌」(木俣修)、「近代俳句」(加藤楸邨)から成ります。
 
光太郎が編者となっていますが、実務は毎日新聞社図書編集部でした。

どうした事情があったのか不明ですが、依頼から執筆、刊行までけっこうなタイムラグがありました。

芥川賞作家の西村賢太氏の訃報が出ました。

時事通信さん。

西村賢太さん死去、54歳 私小説作家、芥川賞「苦役列車」

002 「破滅型」といわれる作風の私小説で知られ、「苦役列車」で芥川賞を受賞した作家の西村賢太(にしむら・けんた)さんが5日午前、東京都内の病院で死去した。
 54歳だった。関係者によると、4日夜にタクシー内で意識を失い、病院に運ばれたという。
 1967年、東京都生まれ。中学時代に不登校となり、高校進学はせず、港湾荷役や警備員などの仕事をしながら古書店に通った。私小説にのめりこみ、大正期の作家で同じく破滅型といわれた藤澤清造に心酔した。
 2003年、同人雑誌「煉瓦(れんが)」で小説を書き始め、翌年発表の「けがれなき酒のへど」が文芸誌「文学界」に転載。その後、相次いで作品を発表し、07年には「暗渠(あんきょ)の宿」で野間文芸新人賞を受賞した。
 11年、日雇い労働で糊口(ここう)をしのぐ若者の屈折を描いた「苦役列車」で芥川賞を受賞。翌年に映画化もされた。
 藤澤の菩提(ぼだい)寺の浄土宗西光寺(石川県七尾市)への墓参を続けた。後年まで「藤澤らの私小説に救われてきた」との思いを強く抱き、代表作「根津権現裏」を復刊させたほか、短編集の編集も担当した。

西村氏、記事にある通り、大正期のマイナー作家・藤澤清造に光を当てたことで、当方は記憶していました。

藤澤の代表作とされる『根津権現裏』(大正11年=1922)は、題字の揮毫が光太郎です。
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装幀は工芸家の広川松五郎で、木版画は広川の手になるもの。函の「根津権現裏」という題字と、作者名「藤澤清造」が光太郎の筆です。
根津権現裏扉
こちらは同書の扉ですが、函の光太郎揮毫を広川が木版に写し取ったと推定されます。

光太郎と藤澤、直接の交流のあったことは確認できていません。ただ、光太郎と広川はいろいろな場面で繋がっており、どうも広川経由で光太郎への題字揮毫依頼が実現したものと思われます。

西村氏、この『根津権現裏』復刊を新潮社さんに働きかけ、平成23年(2011)に、氏の解説で文庫化されました。当方、その際にちょっとしたニュースになったのを記憶していました。

翌年にはやはり氏の解説、編集で、『藤澤清造短編集』も新潮文庫の一冊として刊行されています。また、『藤澤清造全集』の刊行も予告されましたが、そちらは頓挫。今後に期待したいところです。それから、こちらは存じませんでしたが、西村氏、令和元年(2019)には講談社さんから『藤澤清造追影』という書籍も刊行されています。

氏の藤澤評。

この人の、泥みたような生き恥にまみれながらも、地べたを這いずって前進し、誰が何と言おうと自分の、自分だけのダンディズムを自分だけの為に貫こうとする姿、そして、結果的には負け犬になってしまった人生は、私にこれ以上とない、ただ一人の味方を得たとの強い希望を持たせてくれたのである。

結果的には負け犬になってしまった人生」は、心を病んだ末、昭和7年(1932)、芝公園で凍死し、身元不明行旅死亡人として荼毘に付され、死後、遺品から藤澤だったと判明したことなどを指しています。

生き恥にまみれながらも、地べたを這いずって前進し、誰が何と言おうと自分の、自分だけのダンディズムを自分だけの為に貫こうとする姿」あたり、もしかすると光太郎もシンパシーを感じたかもしれません。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

昨日あたりよりタバコをやめる事にしたり。実際うまくなし。


昭和27年1月12日の日記より 光太郎70歳

1012光太郎、喫煙を始めたのは意外と遅かったようです。大正14年(1925)、数え43歳の時に回答したアンケート「紫煙問答」では、以下のように書いています。

小生、大ていのものはいけますが、タバコだけは生来甚だ不調法で、たまに試るときつと目をまはすか、胸をわるくするといふ次第故残念ながら何も申上げる資格がございません。

で、ここにきての禁煙宣言。しかしそれも守られなかったようで、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後の、中野の貸しアトリエで撮られた写真には、パイプをくわえたショットなども現存します。肺病病みのくせに、自殺行為ですね(笑)。





2月5日(土)、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんで、第114回企画展「写真で見る近代詩—没後20年伊藤信吉写真展—」を拝見する前、安中市の磯部温泉に寄り道をしていきました。寒いので温泉であたたまりたい、というのももちろんですが、光太郎が足を運んだ温泉地、ということで。

ちなみに磯部温泉は、万治4年(1661)、土地の境界をめぐる訴訟があり、このときに幕府から出た判決文的なものに描かれた地図に、現在も使われている温泉記号「♨」が書かれており、おそらくこの記号の最も古い使用例ということで、「温泉マーク発祥の地」として宣伝されています。

温泉街の足湯。
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また、明治の児童文学者・巖谷小波は舌切り雀の伝説が伝わるという磯部を訪れ、舌切り雀の昔話(日本昔噺)を書き上げました。同様の民話は各地に昔からあるものの、巌谷が児童文学として活字にしたことにより、磯部温泉は「舌切雀伝説発祥の地」とされています。

確認できている限り、光太郎の足跡は、明治42年(1909)と大正15年(1926)に、残されています。

まず明治42年(1909)8月、親友だった水野葉舟に送った書簡から。

実は磯部へ一寸遊びに行つたのだが、其の地形や宿が気に食はなかつた処へ、汽車の窓から赤城のあの裾野を引いた山の形を見て矢も楯もたまらず、とうとう磯部を一晩で御免蒙むつて、前橋で一泊して、二十五日の未明から郡役所の用達に荷を担がして大洞に登つたのだ。

大洞」は赤城山中の地名です。

さらに大正15年(1926)7月、やはり水野へ送った絵葉書から。

老人や女達を送りに一寸磯部に来ました、東京と同じやうに暑いので驚きました。湯だけハまことに霊泉です。雷をふくんだ雲が妙義山の方をこめてゐます。 十六日 高村光太郎
 
老人」は、おそらく父・光雲、「女達」は、智恵子、母・わか、あるいいは妹たちも含まれているかもしれません。「湯だけハ」の「」は漢数字の「八」ではなくカタカナの「ハ」。光太郎、ときおり平仮名に片仮名を混ぜる癖がありました。

手がかりはこれだけで、光太郎が複数ある温泉旅館のどこに泊まったのか、不明です。そこで事前に、「老舗」と云われる宿の位置は調べておき、歩きました。

明治12年(1879)創業の小島屋旅館さん。
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その上にある、旭館さん。こちらも明治期の創業。
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磯部館さん。老舗宿の鳳来館(現存せず)から大正期にのれん分け、だそうで。
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その先にある桜や作右衛門さんは明治3年(1870)創業だそうです。

おそらくこのあたりの何処かに、光太郎が泊まったと推定されます。各所、歩いて行ける距離です。ただ、どこも建物は建て替わっているようでした。

ちなみに磯部館さんの元となった鳳来館、当方手持ちの古絵葉書です。
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「舌切雀のお宿 ホテル磯部ガーデン」という大きな温泉ホテルもあり、こちらも鳳来館の流れを汲んでいるとのこと。

ところで、この鳳来館の創業者・大手万平は、詩人の大手拓次(明治20年=1887~昭和9年=1934)の実祖父だそうで、拓次も鳳来館で産まれたとのこと。拓次は光太郎の朋友・北原白秋に師事し、萩原朔太郎、室生犀星とともに白秋門下の三羽烏と称されることもありました。ただ、朔太郎、犀星は二人揃って駒込林町の光太郎アトリエを訪れるなどしていましたが、拓次と光太郎の直接の交流は確認できていません。拓次にコミュ障的な部分があったらしいので……。

『高村光太郎全集』で、拓次の名はその没後に3回出て来るのみ。いずれも昭和22年(1947)に書かれ、詩人仲間などに送った書簡中で、拓次の詩集が再刊されるそうで楽しみだ、といった内容です。それでも嫌いなものは嫌いと公言する光太郎ですので、拓次の詩は認めていたことは伺えます。

光太郎が2度目に磯部を訪れた大正15年(1926)には、拓次の詩作がなされていましたが、鳳来館が拓次の生家であると光太郎が知っていたかどうか、微妙なところですね。

磯部館さんの裏手に、拓次の詩碑。
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温泉街のはずれにある赤城神社を中心とした磯部公園。
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こちらには、拓次をはじめ、数多くの文学碑が。先述の白秋、朔太郎、犀星以外にも、歌人の吉野秀雄も光太郎と交流がありました。

赤城神社。
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大正15年(1926)、光太郎と共に父・光雲も磯部に来ていたとすれば、絶対に参拝したはずです。赤城神社は髙村家の産土神(うぶすながみ)という扱いでしたので。

拓次の詩碑。
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犀星(左)と、吉野秀雄(右)。
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朔太郎。
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それから、温泉マークの碑、こちらにもありました。さらに拓次の祖父・万平の胸像も。
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さて、温泉。コロナ禍のため、温泉旅館さんはどこも日帰り入浴を断っているということで、共同浴場・恵みの湯さんへ。
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クセのない泉質で、長湯していても疲れない感じでした。
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駐車場には紅梅も。

群馬には、磯部以外にも光太郎が足を運んだ温泉地が数多く存在します。草津、法師、湯檜曾、川古、宝川、湯の小屋など。中には詩の舞台になっていたり、温泉宿の主人が光太郎回想文を残したりしているところも。ただ、磯部以外はどこも奥まったところで、当方、草津の他は未踏です。いずれ折をみて、その他の温泉地も訪ねてみようと思っております。

以上、群馬レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

夜コタツ、(ニカワを煮て大倉翁のテラコツタを修繕、)


昭和27年(1952)1月10日の日記より 光太郎70歳

「大倉翁のテラコツタ」は、光太郎が磯部温泉を訪れた大正15年(1926)に制作された「大倉喜八郎の首」。昨年の大河ドラマ「青天を衝け」にも登場した実業家・大倉喜八郎に、光雲が肖像彫刻制作を依頼され、光太郎がその原型として作ったものです。

いったん光太郎の手を離れたのですが、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳が持っていたことがわかり(どういう経緯か不明ですが)、光太郎の手に戻りました。戻ってきた時に既にそうだったのか、その後、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋でやっちまったのか(笑)、像の左耳の部分が破損していたため、修繕したという記述です。
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画像は翌年、ブリヂストン美術館さんが制作した「美術映画 高村光太郎」から。手は光太郎の手です。

昨日は群馬県に行っておりました。

メインの目的は、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんで開催中の第114回企画展「写真で見る近代詩—没後20年伊藤信吉写真展—」の拝見。先月から始まっていたのですが、昨日、関連行事として写真家の小松健一氏のご講演があり、それに合わせて行って参りました。
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伊藤信吉は、初代同館館長。明治39年(1906)現・前橋市生まれで、戦前から同郷の萩原朔太郎をはじめ、朔太郎つながりで室生犀星、一時期群馬に住んでいた当会の祖・草野心平、そして戦後は光太郎などと深い交流がありました。

そして日本近代詩史に関し、厖大な評論等を残した他、実際に日本全国の近代詩「歌枕」を訪れ、写真を撮影、紀行文も書いています。今回の企画展は、その「写真」をメインに据えたものでした。
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展示会場に入ってすぐ正面、伊藤の著書、編著等の書誌が巨大なパネルに。主要なものは書影写真入りで、見応えがありました。光太郎に関するそれも非常に多く、当方もそれらからどれだけ啓示を受けたか知れません。このパネルは今回だけのものではなく、永久保存していただきたいものだと思いました。

入って右手に伊藤の年譜。光太郎との関わりにも言及されていました。

そしてメインの写真系。

前半「伊藤信吉が旅した近代詩の世界」は、写真の他に、光太郎を含む18人の詩人について主要作品の抜粋と、昭和41年(1966)に刊行された『詩のふるさと』、同45年(1970)の『詩をめぐる旅』から、伊藤の紀行文の一節がパネル展示。
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光太郎に関しては、『詩のふるさと』に書かれた、智恵子の故郷・福島二本松を紹介する「樹下の二人」。
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18人中、光太郎を含む8人(他に朔太郎、島崎藤村、室生犀星、中原中也、峠三吉、北原白秋、伊藤自身)のパネルは、図録(500円)にも転載されていました。
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後半は「カメラを通して語られる伊藤信吉の抒情風景」と題し、写真のみずらっと30葉ほど。
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このうち№28の「岩手県花巻市にて 餓死供養碑」は、光太郎詩碑も三基ある、花巻市街の松庵寺さんでの撮影で、「ありゃま、松庵寺さんだ」という感じでした。

写真系は壁面を使っての展示でしたが、フロアにはガラスケースに収められ、伊藤の著書、原稿、愛用のカメラ・ニコンF、取り上げられた各詩人の書簡、草稿などが展示されていました。
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光太郎から伊藤宛の葉書も3通。すべて『高村光太郎全集』所収のものですが、「ほう」という感じでした。

それにしても、伊藤の事蹟をたどることが、イコール日本の近代詩史を俯瞰することにもつながると、改めて実感させられました。

展示を拝見後、関連行事としての、写真家・小松健一氏のご講演を拝聴。小松氏、やはり群馬で育たれ、伊藤とも交流が深く、そうしたご縁などについて語られました。また、伊藤の『詩のふるさと』、『詩をめぐる旅』同様、日本近代詩の「歌枕」をめぐる写真集の決定版的なものもいずれ出版したい、ということでした。既に平成11年(1999)には、『詩人を旅する』という写真集、さらに一昨年には『写真家の心 詩人の眼』という書籍も出されていますが、期待したいところです。
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明日も群馬レポートを続けます。

【折々のことば・光太郎】

厳寒、凍結、0下10度4分 ねてゐるうち黒沢尻の教員斎藤氏及女性来訪、ねてゐて挨拶、そんまま帰る、せんべいもらふ、


昭和27年(1952)1月9日の日記より 光太郎70歳

黒沢尻の教員斎藤氏」は、斎藤充司。斎藤の旧蔵の光太郎写真、書など、智恵子の故郷・二本松の岳温泉にある「あだたらの宿扇や」さんで入手され、展示されています。

斎藤は、ほぼ1年前の昭和26年(1951)1月8日にも光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪ねていますが、この時も「ねてゐうちち黒沢尻より斎藤充司氏他4人の小学教師遊びにくる」ということで、光太郎の寝込みを襲う(笑)常習犯だったようです。光太郎が宵っ張りの朝寝坊だったのかもしれませんが(笑)。

小説の新刊です。

かくして彼女は宴で語る 明治耽美派推理帖

2022年1月25日 宮内悠介著 幻冬舎 定価1700円+税

明治末期に実在した若き芸術家たちのサロン、その名も「パンの会」。隅田川沿いの料理店「第一やまと」に集った木下杢太郎、北原白秋、石井柏亭、石川啄木等が推理合戦を繰り広げる。そこに謎めいた女中・あやのも加わって――。鬼才・宮内悠介の新境地!

目次
 第一回 菊人形遺聞 団子坂
 第二回 浅草十二回の眺め 浅草
 第三回 さる華族の屋敷にて 高輪
 第四回 観覧車とイルミネーション 上野
 第五回 ニコライ堂の鐘 お茶の水
 第六回 未来からの鳥 市ヶ谷台
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先週土曜の『朝日新聞』さん読書面に、半ページ費やしての大きな広告が出ていました。
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001「ありゃま」という感じでした。「杢太郎、白秋、柏亭、啄木、パンの会」と来れば、光太郎も登場するか、と、一瞬期待しましたが、それなら光太郎の名も出すはず。すると、光太郎が欧米留学から帰国する明治42年(1909)7月以前の話か、と思いました。

購入し、読了。果たして明治42年(1909)3月で話が終わっていました。そこは予想していましたが、それでも登場人物たちの会話の中に光太郎の名が出て来ないかな、と期待していました。関川夏央氏原作、故・谷口ジロー氏作画の『かの蒼空に』(「坊ちゃんの時代」第三部)でそうなっていましたので。

ところが残念ながら、そういう場面はありませんでした。続編に期待したいところです。すると、続編が出るためには本編の売れ行きが良くなければならないでしょう。そこで皆様、こちらをぜひともご購入下さい(笑)。

ところで本作、幻冬舎さん刊行の雑誌『小説幻冬』に連載されていたそうですが、存じませんでした。今後、同誌を気にかけてみようと思います。「続・かくして彼女は……」を期待しつつ(笑)。

さて、物語は宣伝文にある通り、明治末の芸術至上主義運動「パンの会」が舞台でした。目次で「第○話」とか「第○章」ではなく、「第○回」となっているのは、同会の開催回を表しています。

同会は案内状を発送し、各界から大人数の参加を募って実施した「パン大会」と、少人数で集まって開かれた例会的なものがありました。最初の「大会」は、これも光太郎帰国前の明治42年(1909)4月10日。その後、春秋二回の「大会」を開催しようと企図されました。

それに対し、少人数での例会的なものは、明治41年(1908)12月12日に始まっています。会場は隅田川沿いの料理屋「第一やまと」。物語はこの日から始まり、翌年3月の第6回までとなっています。

それぞれの回の参加者は、おそらく史実通り。そして第六回までの「皆勤」だった(笑)木下杢太郎と石井柏亭のうち、杢太郎を主人公としています。毎回、参加者の誰かが近頃起こったという設定の未解決事件等の噂話や調査依頼を持ち込み、各回の参加者が頭をひねって謎解きに挑む、という趣向になっています。目次にある「団子坂」等の地名は、その事件現場です。その事件関係者ということで、森鷗外や与謝野晶子も話の中に登場します。さらには時空を飛び越えて、三島由紀夫まで。

ちなみに六回までのパンの会参加者は以下の通り。

木下杢太郎、石井柏亭、北原白秋、吉井勇、山本鼎、森田恒友、磯部忠一、平野万里、長田幹彦、栗山茂、フリッツ・ルンプ、石川啄木、倉田白羊、田中松太郎、荻原守衛、島村盛助

光太郎の親友・荻原守衛を含む最後の三人は、第六回だけ、しかも遅刻してきたため「推理」には参加していません。もっとも、杢太郎らがああでもない、こうでもない、と「推理」しつつもおよそ役に立たず、結局ほぼ毎回、最後に快刀乱麻を断つごとく鮮やかに謎解きをするのは、「第一やまと」の女中「あやの」。そこで、題名が「かくして彼女は宴で語る」となっているわけです。

そして第六回では、「あやの」の素姓が明らかに。何と、女中というのは世を忍ぶ仮の姿で、その正体は、光太郎智恵子(特に智恵子)と関係の深かった、あの才媛! これには「やられた」と思いました(笑)。

というわけで、ぜひご購入ください。光太郎が登場するであろう続編のためにも(笑)。

【折々のことば・光太郎】

肋間神経痛は去年の今頃より始まりたり。今まだ異常感覚のこり居れど苦しきほどではなし。力仕事のあとの息切れの方が目立つ。


昭和27年(1952)1月5日の日記より 光太郎70歳

光太郎の胸の疼痛は結核性のでしたが、不思議なことに、この年は前年よりその痛みが治まっていました。それが、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を決意することに繋がります。

新刊詩集、ご紹介します。

詩集 美しいとき

2022年2月5日 若松英輔著 亜紀書房 定価1,800円+税

悲しみとは 何かを愛した証し

悲しみ、祈り、愛すること。暗闇で手探りするように、一語一語、つむがれた言葉の捧げ物。
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著者の詩人・若松氏、これまでも『詩と出会う 詩と生きる』(令和元年=2019 NHK出版)、『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる』(平成30年=2018 同)などで光太郎に触れて下さっていますが、今回は詩集です。

ただ、詩本体では明確に光太郎智恵子の名などは出て来ません。問題は(別に問題でもないのですが(笑))、「あとがき」。今回の詩集のコンセプト、ご自身の詩作態度の根源的なことがらが語られており、その中に光太郎。

 若い頃から彫刻を見るのが好きだった。詩を書くようになって発見したのは、詩と彫刻の関係が著しいまでに近いことだった。高村光太郎は、自分はどこまでも彫刻家であり、彫刻を純化するために詩を書くとも述べているが、後世の人は、彼をまず、詩人として記憶し、彫刻もまた、愛するのではないだろうか。
 詩とは、言葉によって世に目には見えない、意味の彫刻を生むことである。この詩集を編みながら、そんなことを感じていた。
 光太郎に魅せられ、彫刻の道を歩き始めた舟越保武は、彫刻とは石で、何かを表現するというより、石に眠っている何かを彫りだすことであると述べているが、同様の手応えは詩を書いているときにも存在する。言葉を彫琢する、という表現もあるように、書くと彫るという営みには、単に似ているという以上の共振がある。
 だからこそ、高村光太郎が訳した『ロダンの言葉』も、彫刻という領域を超え、文学を含めて広く芸術を愛する人たちに、熱く受け入れられたのだろう。
 舟越は、石工に弟子入りしたこともある、石彫りの名手だった。粘土から作るブロンズとは違って、石に彫る場合、一度、誤って鑿を入れるだけで、その作品をだめにしてしまうことがある。
 奇妙に聞こえるかもしれないが、詩を直しているときにも、同様のことを経験する。不用意に一つの言葉を書いたために、どうあがいても仕上がらない、という場合がある。途中まではこれまでに感じたことのない手応えを覚えていたはずなのに、世に送り出すという地点には至らない。そうした作品が手元に、詩集数冊分ある。
(以下略)


若松氏、「詩とは、言葉によって世に目には見えない、意味の彫刻を生むこと」と定義し、「書くと彫るという営み」に「単に似ているという以上の共振」を感じ、「言葉を彫琢する」ことを目指されているというわけですね。

蓋し、光太郎も似たようなことを感じていたのではないかと思われます。そこで、若松氏がシンパシーを感じ、さらに後世の評者の多くが光太郎詩をして「彫刻的である」としているのではないでしょうか。

ところで若松氏、オンライン会議アプリzoomを使用したリモート講座「若松ゼミ」を主宰されています。その中で、「あとがき」でも触れられている光太郎訳の『ロダンの言葉』も扱われるそうです。また期日が近くなりましたら、詳しくご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

仙台から資福寺の坊さんといふ人来訪、五月に晩翠の観音画を石碑にするにつき、余に平和の詩碑を並べて作つてくれとの事、返事を保留す。父の木彫釈迦を本尊とする寺の由、

昭和27年(1952)1月4日の日記より 光太郎70歳

仙台の資福寺さんについてはこちら。当方、光太郎日記にこの記述があったことを失念したまま訪れていました(笑)。

1ヵ月以上経っていますが、昨年12月、『朝日新聞』さんの鹿児島県版に載った記事。志學館大学の原口泉教授の寄稿です。

(維新、それから 歴史新発見:29)泉芳朗、未発表の遺稿発見

001 1953年12月25日、奄美群島が日本に復帰した。20万余の島民の悲願が達成された日である。復帰運動を主導したのは当時の名瀬市(現奄美市)の泉芳朗市長。詩人でもあった泉は、復帰の悲願を詩につづり続けていた。その多くは『泉芳朗詩集』(59年)に収められている。
 今年、おいの宏比古氏が神奈川県内の自宅にあった泉の遺稿を、NHKの記者と私に見せてくださった。多くの未発表の詩と日記があり、全国ニュースとなった。泉の復帰運動は、署名活動や断食祈願を世界世論に訴えたように、非暴力と不服従に貫かれていた。「奄美のガンジー」と呼ばれるゆえんである。
 05年、現在の伊仙町の生まれ。24年に鹿児島県立第二師範学校を卒業し、大島郡赤木名小学校を振り出しに教職の道を歩み始めた。詩作への思いもだしがたく、28年に上京、詩文学活動へと羽ばたいた。11年後、病のため徳之島に帰郷を余儀なくされ、小学校教育に携わっていた。46年2月、奄美群島が本土から分離され、米軍施政下になった5年後、奄美大島日本復帰協議会議長となった。
 大学ノートに「牛歩」と題した日記は、名瀬市長になった52年9月16日~11月上旬の約2ヶ月間ある。
 「牛はのろのろと歩く 牛は野でも山でも道でも川でも 自分の行きたいところへは まつすぐに行く」
 泉が一時親交のあった高村光太郎の詩「牛」の書き出しである。この時期、奄美全島が国連の信託統治下に置かれるとか、沖永良部島と与論島が分離されて返還されるとか、様々な臆測が飛び交っていた。国連の信託統治になると、返還には国連加盟国の多数の承認が必要で、米ソ冷戦下にあっては事実上不可能のおそれがあった。しかし高村の詩に「牛の眼は叡智(えいち)にかがやく」とあるように泉の眼は不屈の精神で輝いていた。

 泉の代表作に「島」がある。
 「わたしは島を愛する 黒潮に洗い流された南太平洋のこの一点の島を 一点だから淋しい 淋しいけれど 消え込んではならない」で始まり、「わたしはここに生きつがなくてはならない人間の灯台を探ねて」で終わる有名な詩である(『詩集』P18~20)。
 自筆原稿とは表現が違っているので、刊行に当たって推敲したと思われる。最大の相違点は7行抜けていること。「かつてイギリス海峡のゲルンシーで 人類の悲哀を絞り切って書きつづられたレ・ミゼラブルを 敗戦国民ビクトル・ユーゴーが ぼろぼろの余命を託して探ねあぐんだものは何であったろうか」
 復帰運動を詩によって進めた泉の詩に圧倒的に多い言葉は「民族・歴史・世界史」である。奄美が米軍施政下にある現実を世界史の悲劇ととらえていた。
 遺稿には「蕃衣を着て」と題する短編小説の原稿もある。30年に日本統治時代の台湾で起こった「霧社事件」がモチーフ。なぜ泉は台湾の先住民に対する弾圧の実情を知っていたのか? 「民族詩人」「民衆詩人」にとって、芸術と生活とは切り離せないものだった。敗戦直後の詩「名瀬町風景」には、生活派の詩人の姿が見える。


『高村光太郎全集』には、泉の名は昭和27年(1952)12月14日の日記で一度だけ出てきます。

田村昌由、泉芳郎、上林猷夫、竹村さんといふ女流詩人くる、一時間ほど談話、泉氏は俺美大島の村長

「芳郎」は「芳朗」の、「俺美大島」は「奄美大島」、「村長」は「市長」の誤りです。

昭和27年12月といえば、光太郎は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、終焉の地となった中野の貸しアトリエに入って間もない頃。今回見つかった泉の日記は、その前月までのものだそうで、この日の会見の部分は入っていないのでしょう。

また、たまたま手元にあった白鳥省吾主宰の詩誌『地上楽園』の第3巻第29号(昭和3年=1928)に、光太郎と泉、双方が寄稿していました。光太郎は詩、泉は評論。こういう例は他にもありそうです。
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奄美群島の米軍統治、そして泉のような存在、もっと光が当たっていいような気がします。

【折々のことば・光太郎】

くもり、夜はれる、少し寒くなる、 朝の年賀ハカキ放送をきく、 雑煮、


昭和27年(1952)1月3日の日記より 光太郎70歳

「朝の年賀ハカキ放送」は、おそらく前月に盛岡で録音した、光太郎自身が出演した番組でしょう。この際のテープなども未確認です。

昨日は信州松本平の『市民タイムス』さんの一面コラムをご紹介しましたが、仙台に本社を置く『河北新報』さんでも一面コラムで光太郎に触れて下さっていました。

河北春秋(2/1):高村光太郎がビールの喉ごしをつづっている…

高村光太郎がビールの喉ごしをつづっている。「一杯ぐっとのむとそれが食道を通るころ、丁度(ちょうど)ヨットの白い帆を見た時のような、いつでも初めて気のついたような、ちょっと驚きに似た快味をおぼえる」▼思わずぐっとやりたくなる一節。随筆『ビールの味』から。「ロンドンの食卓でスタウトを強いられてからビールを飲みおぼえた」とあるから110年ほど前の留学時のようだ▼英政府中枢にもビール好きは多いのだろうか。新型コロナ対策のロックダウン(都市封鎖)中に首相官邸で飲み会が繰り返された疑惑。ロンドン警視庁が捜査に乗り出し注目を集めている。一部出席を認め謝罪したジョンソン首相。屋内集会禁止の時期に誕生会が開かれていたことも判明し、逆風が強まるばかり▼日本でも4年前に似たようなことが。西日本豪雨が迫る夜、議員宿舎であった「赤坂自民亭」なる会合。当時の首相や閣僚らが地酒を楽しんだ。共通するのは政治の「たるみ」か▼ビールのうまさを記した光太郎。「ふだんは別に飲みたくもない。(中略)いつに限らず昼間は絶対に飲まない」とも書いている。昼食時のアルコール習慣もあるという英官邸にこの戒めを送ろう。ただ、小欄は冒頭の描写が忘れられない。今夜も麦の芳香を味わうとしよう。(2022.2・1)
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引用されている随筆「ビールの味」は、昭和11年(1936)に雑誌『ホーム・ライフ』に発表されたもの。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第20巻に収められているほか、昨年、平凡社さんから刊行されたアンソロジー『作家と酒』などにも採られています。

また、令和元年(2019)には、文京区立森鷗外記念館さんで開催されたコレクション展「文学とビール―鷗外と味わう麦酒(ビール)の話」でも、このエッセイが取り上げられました。

それにしても、ロックダウン下で宴に興じていたという英国首相、わが国でも緊急事態宣言可発令中に政治資金パーティーが堂々と開かれていたという報道もありましたし、何やってんだ……という感じですね。

【折々のことば・光太郎】

鉄砲うち二人窓前を通り山の方にて時々音がする、


昭和27年(1952)1月2日の日記より 光太郎70歳

「鉄砲うち」はハンターですね。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋付近、猟を副業にしていた地元民もいたようですし、時に東京などからもハンターがやってくることがありました。

社団法人東京都猟友会理事だった宮本甲治氏(おそらく故人)のエッセイ集『猟銃と歩いた旅』(昭和52年=1977 欅出版)に、光太郎の山小屋近くへ都内から友人らと三人で猟に出かけ、光太郎と知らずに遭遇していろいろ話を聞いたエピソードが語られています。
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 渓流を渡り、小高い山の麓に出た。
 前方は見渡す限り、茫々たる一面の荒野が広がっている。そこに、ポツンと一軒の家がある。農家にしては粗末で小さく、掘立小屋といったほうが適当なくらいのチッポケな家であった。小屋の北側の方には、萱束で囲って寒風を防いであった。
 その家の中から老眼鏡をかけ六十を過ぎたぐらいの爺さんが、のこのこと私の方に向って来た。これを見て、私はハッとした。清流の脇で撃った銃弾が、小屋へも流れたかと思ったからだ。
「どうです、獲れましたか」
と、老人は聞いた。特大のゴム長靴を履いて、古びたカーキ色の国民服を着た大男で、白い無精髭をはやし、写真でみた乃木将軍のような風体をした人であった。
 この老人の手を見て驚いた。それは、ありふれた先細の貧弱な手ではなく、永い間重労働で荒れた手とも違う。ちょっと類のないガッチリした、握力の強そうな厚味のある巨手であった。老人は、
「どこから鉄砲撃ちに来たか」
と聞いた。友人が東京の谷中だというと、
「ほう東京。わたしも東京生まれで、東京の人に会うのは、懐かしいなあ」
といった。そして私達をしげしげと見ながら、
「谷中はどの辺ですか」
と重ねて友人に尋ねた。谷中の天王寺近くで、彫刻家の朝倉文夫氏宅の附近だと、松村氏が応えると、
「朝倉君は、懇意な友人ですよ」
といった。この人も彫刻師だという。


その後、宮本氏一行は小屋に案内されて茶を饗され、老人と談話。

 一見したところ、この人は独り暮らしらしい。御家族はと尋ねると、
「妻は死んでしまい、一人残って……」
と大きな掌を顔にあてて悲しげにボソボソと小声で言った。こんな山の中での独り暮らしでは、さぞかし、心細いでしょうと慰めると、
「いやあ僕は、東北地方の純朴さが、とても好きだから、人が思うほど淋しくはない」


しばらくの談話の後、山小屋を辞した一行……

 彫刻師の職業では、辺鄙なこんな山中の家では、不便で職が成りたつまい。一体あの老人は何者だろうと私達は噂話をし合ったが、もとより、老人の素姓は誰も知らなかった。
 ただ老人の人並みはずれた、巨大な手だけが、強く印象に残っていた。


そして……

 それから数年経った。一九五二(昭和二十七)年十月のある日、都下の新聞は紙面に大きく、ゴム長靴を履いた、チャンチャンコ姿の老人の写真を掲載した。
 こんど国立公園の十和田湖畔に建立される、裸婦像制作のため高村光太郎氏が、詩想と芸魂をやしなっていた岩手の山中から、十年振りに帰京したことを一斉に報じた。
 私達がお茶の接待をうけた、山小屋の主人は、この高村光太郎であったのだ。


後になって、あれは高村光太郎だったんだ、という、特異な回想文です。

長野県松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さん、昨日の1面コラムです。

2022.1.31みすず野

 詩人の草野心平は48歳のとき、6畳間ほどの居酒屋〈火の車〉を開いた。狭い店では客同士のけんかが絶えなかったという。稼ぎのほどは分からないが、心平が28歳で始めた屋台の台所事情は本当に火の車だった◆素人商売だから、翌日の酒を仕入れる金が手元に残らない。酒が無い焼き鳥屋に客は来ない。1年で店じまいしている。高村光太郎が屋台の様子を見に来た。心平は詩誌を通して宮沢賢治と手紙のやり取りがあった。彼らの交流は、北条常久さんが綿密な取材を基に著した心平の伝記『詩友/国境を越えて』に詳しい◆火の車だろう。本県にも「まん延防止等重点措置」が適用され、飲食店の苦境が続く。店の存続を見据えて休業したり、酒類の提供を控えたり。現状の施策や、先が見えない状況へのいら立ちが紙面から伝わる。春までには感染が落ち着いてほしい―観光事業者の談話は祈りのよう◆賢治の遺稿を詰めたトランクから手帳が取り出され、心平と光太郎が〈雨ニモマケズ〉に感歎の声を上げる。〈火の車〉は4年で畳まれた。作家の島田雅彦さんは『空想居酒屋』に〈屋号はよくよく考えなければ〉と書いている。

居酒屋・火の車についてはこちら。「心平が28歳で始めた屋台」については、新潮文庫版『智恵子抄』(昭和31年=1956)の解説として心平が書いた「悲しみは光と化す」に記述があります。

新宿の紀伊國屋裏に古びた家があつて、人の住んでゐないやうな大きな門前の石畳のところが空(あ)いてゐた。麻布十番で半年程やつたあと、屋台をそこにひつぱつてきて据ゑおきにした。或る晩、よしず張りののれんの間から鳥打帽がぬうつと出て高村さんが現はれた。続いて智恵子さん。油のしみた紺のごつい前垂れをしめて私はコンロを渋団扇であふいでゐた。高村さんは度々だつたが、智恵子さんはその時が初めてだつた。不意に現はれたので吃驚してゐる私に、智恵子さんはただ微笑んだだけだつた。五六本あがると、無口な智恵子さんとしては珍らしくきつぱりと
「タレを見せて下さい」
といつた。私はカメを斜めにした。智恵子さんはのぞきこむやうにして見てゐたが
「ほう、おいしさう」
と、また感心したやうな声でいつた。
この時が、それまでと変りのない智恵子さんを見た最後だつた。

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北条常久さんが綿密な取材を基に著した心平の伝記『詩友/国境を越えて』」についてはこちら

さらに「賢治の遺稿を詰めたトランクから手帳が取り出され……」についてはこちら

それにしても、本当にいつまでコロナ禍が続くのか、と、黯然とした想いにさせられます。このままの感染状況が続けば、今年の連翹忌の集いも中止せざるを得ないような……。もう少し、様子を見てから決めようとは思っていますが……。

【折々のことば・光太郎】

昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。


昭和26年(1951)12月26日の日記より 光太郎69歳

数ある光太郎の笑えるエピソード中、かなり高位にランクされます(笑)。

光太郎の推測通り、犬かもしれませんし、キツネかタヌキかもしれません。熊は冬眠中でしたが。

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