2022年01月

昨日の『東京新聞』さん。新宿中村屋サロン美術館さん所蔵の、光太郎油彩画「自画像」(大正2年=1913)をメインに取り上げて下さいました。

<カジュアル美術館>自画像 高村光太郎 中村屋サロン美術館

000 横目でこちらに鋭い視線を向ける男。三十歳になるかならないかの高村光太郎。口を固く結んで、いかにも不機嫌そうだ。
 近くで見ると、筆致を大胆に残し、頬の部分には肌色や白、黄色系の色が何重にも塗られているのが分かる。キャンバスに激しく筆をたたきつけて描く光太郎の姿を想像してしまう。欧米に留学してロダンら近代彫刻の巨人の傑作に触れ、帰国後に華々しく彫刻家デビューするはずが、このころの光太郎は彫刻界に背を向け、油絵を熱心に描いていた。「彫刻を作っても発表する場がない」と。
 一八八三(明治十六)年に木彫作家・高村光雲の長男として生まれた光太郎は、九八年に東京美術学校彫刻科に進学。そして一九〇四年、雑誌に掲載されたロダン作「考える人」の写真を目にして衝撃を受ける。「生きもののような気がした」という感激ぶりだった。
 〇六年から三年間の洋行を終え、帰国した光太郎は、旧態依然とした日本の彫刻界に失望する。伝統彫刻は前時代からの木彫が幅を利かせ、洋風彫刻も表面ばかりが「洋風」な重鎮が君臨していた。光太郎は「卑屈な事大主義」「けち臭い」などと舌鋒(ぜっぽう)鋭く批判。「自画像」にはそのころの、とんがった内面がにじみ出ている。
 光太郎は遊学先で荻原守衛(おぎはらもりえ)(碌山(ろくざん))と出会う。信州・安曇野出身の荻原は画家を志したが、パリのサロンで「考える人」を見て魂を揺さぶられ、彫刻家志望に転向した。ロダンに人生を変えられた者同士、意気投合して親交を深めた。 帰国した二人は東京・新宿で再会する。荻原は同郷の相馬愛蔵が開くパン・和菓子類の製造販売店「中村屋」に出入りし、光太郎も誘われた。芸術文化に理解のある愛蔵を慕い、多くの若い芸術家が集って語り合い、高め合う「中村屋サロン」だ。
001 荻原は文部省美術展覧会(文展)に仏留学時代の「坑夫」を出品。光太郎が「ロダンの影響がまざまざと見える」として、石こうにとって日本に持ち帰るよう勧めた作品だった。表面の肉付けの凹凸は、「自画像」の筆致のように、荻原の手の動きを跡付けたように波打って躍動している。だが審査員からは未完成とみなされ落選する。
 「表面は人の手が加わってないように滑らかであることが求められた。それは彫刻が家具や建築物、銅像のようなモニュメントと同一視されていたから。彫刻を芸術として認められるために何とかしたいと闘っていた。その気持ちが『自画像』の目力に表れている」と中村屋サロン美術館の太田美喜子学芸員。
 「自画像」発表の年、光太郎は智恵子と婚約する。翌年には「僕の後ろに道は出来る」とうたった詩「道程」を発表し、一人で近代彫刻の道を切り開くことを宣言。次第に彫刻に専念し、ロダンを意識した作品を続々と発表する。
◆みる 中村屋サロン美術館(東京都新宿区)はJR新宿駅東口から徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線新宿駅A6出口直結。新宿中村屋ビル3階。問い合わせは同美術館=電03(5362)7508=へ。「自画像」「坑夫」は「コレクション展示」で展示中。2月13日まで。開館は午前10時半〜午後6時(5時40分最終入館)。火曜休館。入館料300円、高校生以下無料。

西洋と日本、前近代と近代の狭間でもがく若き日の光太郎を、「自画像」の鋭い眼差しにからめて的確に紹介して下っています。ありがとうございます。

ただ、共に手を取り合って、日本の彫刻界を牽引していこうと目論んでいた碌山荻原守衛が、明治43年(1910)、数え32歳の若さで逝ってしまい、光太郎が孤軍奮闘を強いられることになった件についても触れていただければなおよかったのですが。

記事にあるとおり、光太郎の自画像、中村屋サロン美術館さんで現在開催中のコレクション展に展示中ですし、同館の目玉収蔵品の一つということで、概ね常時展示されています。

コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

朝東京より太田和子さんといふ女性たづねてくる、朝飯を一緒にとり、九時過の電車、太田さんは小屋を見にゆき、余は花巻行、

昭和26年(1951)12月24日の日記より 光太郎69歳

前日から一泊した大沢温泉菊水館での話。

太田和子は、光太郎も寄稿した雑誌『いづみ』の記者です。翌年の光太郎帰京後は、足繁く中野のアトリエを訪ねています。

Yahoo!さんのニュースサイトから。

2021年に登られた「東北エリアの山」ランキングNo.1が決定! 

 ​登山に使いやすい地図GPSアプリ「YAMAP」を運営するヤマップは、2021年に「もっとも登られた山」のランキングを発表しました。このランキングは、「YAMAP」に投稿された活動日記数が多かった山をエリア別に集計したものです。
 今回はその中から、自然も豊かで登りやすい山も多い「東北エリア」のランキングを紹介します。2021年多くの登山客を集めたのはどの山だったのでしょうか。それではさっそく、ランキングをTOP2から見ていきましょう。
(出典:ヤマップ「2021年に『登られた山』ランキング」)
●第2位:月山(山形県)
 第2位は「月山」でした。月山は山形県の中央部にある標高1984メートルの山。山岳信仰が盛んなことで知られる「出羽三山」の一つで、「日本百名山」にも選ばれています。山頂には月山神社本宮があり、参拝へ向かう観光客をはじめ毎年多くの登山者が訪れます。リフトが使える登山コースもあり、冬から春にかけてはスキーを楽しむこともできます。
●第1位:安達太良山(福島県)
 第1位は「安達太良山」でした。安達太良山は福島県中部にある標高1699メートルの活火山。ロープウェイを使えば約1時間半で登りきれるため、初心者でも登りやすい山として人気があります。中腹には温泉施設もある「くろがね小屋」があり、宿泊や日帰り入浴を楽しむことができます。管理人が代々レシピを受け継いできた夕食のカレーも名物です。
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[ 調査期間:2021年1月1日〜2021年11月31日 / 期間中の登頂数をエリア別に集計し人気指数としてスコア化:1位の登頂数を100ptとし2位以下を相対評価 ]

東北エリア
1位 安達太良山(あだたらやま) 福島 1699m・100pt
2位 月山(がっさん) 山形 1984m・66.3pt
3位 栗駒山(くりこまやま) 岩手・宮城・秋田 1627m・64.5pt
4位 磐梯山(ばんだいさん) 福島 1816m・62.3pt
5位 一切経山(いっさいきょうざん) 福島 1949m・54.9pt
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智恵子が「ほんとの空」があると語った安達太良山が、東北エリア堂々の1位。ありがたい話です。

ただ、やはりコロナ禍のため、一昨年、昨年と、毎年5月恒例の山開きも規模を縮小しての実施となったりでしたし、おそらく登山客全体の落ち込みも激しかったことでしょう。

今年5月くらいには、コロナ禍もピークアウトしていることを切に望みます。

【折々のことば・光太郎】

午后一時近く公民館にゆく、稗貫青年協議会の会員等十余人に日本間で談話、四時過終り、駅より大沢温泉行、菊水館に泊る、 マツサージをたのむ、風呂よろし。

昭和26年(1951)12月23日の日記より 光太郎69歳

大沢温泉菊水館さん、築160年以上の萱葺きの棟です。その昔は南部の殿様も泊まったとか。
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当方もかつて定宿としていましたが、平成30年(2018)、台風のためこちらに通じる道路の法面(のりめん)が崩れ、食材等の搬入が困難となり、宿泊棟としては休業となってしまいました。

その後、「ギャラリー茅(ちがや)」として活用されている他、冬期のギャラリー閉鎖中も夜間は明かりを灯し、建物として死なないように配慮して下さっています。

また宿泊棟として甦ることを祈念しております。

都内から写真展の情報です。

髙村達写真展「髙村光雲の仕事」

期 日 : 2022年2月3日(木)~2月9日(水)
会 場 : 日本写真会館 東京都新宿区四谷1丁目7番地12
時 間 : 午前 10 時~午後 6 時(最終日は午後 3 時終了)
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

石膏作品に当たる光と影が微妙なディテールを表現し同じ素材である石膏のペーパーに表現を残していく。
フレスコ画でも有名なインクジェットペーパーによる表現になります。彫刻作品と写真作品を表現できるのか?写真家として残すべきことが私の道程である。
曾祖父「髙村光雲の仕事」では石膏原型から木彫まで道具も含めレンズを透した写真作品を展示いたします。
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家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ、実弟にして鋳金分野の人間国宝髙村豊周の令孫(=光雲の令曾孫)・髙村達氏の写真展です。

上野の東京藝術大学さんで昨年開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展で、光雲・光太郎・豊周それぞれの作品、石膏原型、道具類などが並び(達氏の写真もタペストリーなどで展示)ましたが、今回はそれらを撮影した写真がメインのようです。

コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

選集第三回分を尾崎喜八、宮崎稔氏、田口弘氏宛の小包をつくる、


昭和26年(1951)12月22日の日記より 光太郎69歳

選集第三回分」は、中央公論社版『高村光太郎選集』第三回配本の第五巻「随筆(上)」。当会の祖・草野心平による編集に協力した、元埼玉県東松山市教育長・田口弘氏にも贈られました。

田口氏、書籍本体はもちろん、この際の小包の包装紙まで大事に保存。亡くなる前に他の光太郎関連の品々と共に同市へ一括して寄贈され、現在は同市の市立図書館内に設けられた「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」で展示されています。
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光太郎第二の故郷、岩手花巻で光太郎顕彰に当たられている、やつかの森LLCさんよりの情報ご提供で……。

まず、同社がメニュー作成に関わり、
道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」の今月発売分について。
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イカめし、時々無性に食べたくなります。そば粉のパンケーキは、光太郎の得意料理の一つです。

つづいて、同じくやつかの森LLCさんが、光太郎の日記等を元にメニュー考案に関わり、隔月刊誌『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』さんに連載中の「光太郎レシピ」について。来月10日発売の号が通算30号だそうで、それを記念して花巻高村光太郎記念館さんで撮影が行われたとのこと。
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ドカ雪ですね。
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メニューはパスタをメインに、
コーヒー、アップルパイ、ほうれん草のスープの組み合わせとのこと。「坪内逍遥のシェークスピアの本も添えて一人読書の雰囲気を」だそうです。

『マチココ』さん、花巻市内各所の協力事業所等で販売されている他、最近は盛岡市、北上市の書店さんなどでも取り扱っているようですし、オンラインで年間購読申し込みも可です。
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都内東銀座にある県のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」さんあたりでも、取り扱いが始まるとなお良いのですが……。

最後に、IBC岩手放送さんで1月19日(水)に放映された「わが町バンザイ!」のDVDも送って下さいましたので、ご紹介します。
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光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村を含む花巻西南地区をぶらり散歩、ということで、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんからスタート。
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まずは撮影交渉。本当にアポなしなのでしょうか(笑)。
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壁の上部に光太郎肖像。
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安藤駅長、快くOK。
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タイトルコール。
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光太郎、賢治についての展示もあるインフォメーションスペース。
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ただ、安藤駅長が光太郎賢治について語った部分はカットされたそうで(笑)。

マルカン大食堂関連など、新商品等の紹介。
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これは存じませんでした。

道の駅テナントの焼肉店・味楽苑さん。
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光太郎が蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)も紹介されました。
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そうでもないのですが(笑)。
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いい感じですね。

その他、光太郎も足を運んだ音羽山清水寺さん。
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さらに地元の農業法人さんや個人商店さんなどが取り上げられていました。

オンエアのあった日、当方、青森に行っておりました。宿泊した十和田市のポニー温泉さんでテレビをつけると、何とまぁ、9チャンネルだか10チャンネルだかが、IBC岩手放送さんでした。「ありゃま、十和田でも映るんだ」と、これは存じませんでした。オンエアされた時間帯には、もう青森を後にしていましたので、リアルタイムでは拝見できませんでしたが。

花巻といえば、詳細はまだ非公表ですが、来月下旬から花巻高村光太郎記念館さんで企画展示が予定されており、また協力させていただいております。一昨年に開催された企画展示で出品した、光太郎の父・光雲作の「天鈿女命像」を軸に、その他の新規寄贈品等も展示することになります。詳細が公表されましたら、またご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

午后一時ラジオ婦人の時間で余の詩の朗読あり、きく、草野君解説、石黒達也朗読。

昭和26年(1951)12月13日の日記より 光太郎69歳

「草野君」は当会の祖・草野心平、「石黒達也」は俳優。

現在、NHKさんではラジオ第一放送で月1回、「保管されている貴重なラジオ放送音源やエッセンスをあらためてご紹介・再発見する番組」ということで「発掘!ラジオアーカイブス」という番組をオンエアしています。光太郎がらみではありませんが「婦人の時間」も取り上げられています。

この日の放送分が残っているかどうか不明ですが、他に光太郎の肉声が収められた「朝の訪問」などは残っており、ぜひ放送していただきたいものです。






放映順で3件ご紹介します。

まずは光太郎の父・光雲の代表作「老猿」(明治26年=1893)。

びじゅチューン!「老猿は主役じゃなくても」

NHK Eテレ 2022年1月28日(金) 15:55〜16:00 1月31日(月) 05:50〜05:55

発想の源は、高村光雲「老猿」(東京国立博物館)。この彫刻は、そのまわりだけ空気がちがうような、圧倒的な「ドラマ性」を感じさせます。もし脇役としてキャスティングされたとしても、その存在感の強さで主役を食ってしまうでしょう。「白雪姫」の小人C役、「桃太郎」のサル役…。たまたま脇役として起用されて現場のパワーバランスをおかしくさせてしまうストーリー。「老猿」と周囲とのギャップを楽しんでください。

【出演】井上涼,【声】ジョリー・ラジャーズ

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本放送が1月25日(火)にあり、拝見しまして、笑いました。

なぜか「老猿」、芸能界にいて、しかしその圧倒的な存在感ゆえ……。
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あらゆる場面で主役を喰ってしまうという設定。

白雪姫の小人Cの次は、「ドラマスペシャル桃太郎」(笑)。
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さらに羽毛布団のCMでも。
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このCMを見たネット民がざわつき、バズり……(笑)
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そこで所属事務所も考えて……
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アニメーションと歌の作者、井上涼さんによる解説は、的確です。
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息子の光太郎にも触れて下さいました。
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実はアニメーションでも光太郎が登場。
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ありがとうございます。

続いて歌謡番組。昨年からくり返し再放送が為されています。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2022年1月28日(金) 17:58〜19:00

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

楽曲
「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ
「東京のバスガール」初代コロムビア・ローズ&二代目コロムビア・ローズ
「ガード下の靴みがき」大石まどか
「アルペン・ミルクマン(山の人気者)」関大八
「巴里の空の下 セーヌは流れる」かいやま由起
「枯葉」美川憲一
「個人授業」晃(フィンガー5)
「可愛い真珠」西崎緑
「黒ネコのタンゴ」皆川おさむ
「おんなの出船」松原のぶえ
「男の港」鳥羽一郎
「女の港」大月みやこ
「舟唄」八代亜紀

<司会>合田道人 伍代夏子
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もう1件。

にほんごであそぼ「日本全国いいとこコンサート in 福井」(3)

NHK Eテレ 2022年2月2日(水) 08:2508:35  再放送 17:00~17:10

日本語の豊かな表現に慣れ親しむ番組。今週は、福井県からコンサートをお届け!今回は…「ベベンの冬が来た」高村光太郎「冬が来た」より 作曲:うなりやベベン、「スキー」作詞:時雨音羽 作曲:平井康三郎 編曲:ASU、「北風小僧の寒太郎」作詞:井出隆夫 作曲:福田和禾子 編曲:ASU。ほかに「切れ者寿限無」「超切れ者寿限無」。福井県坂井市 文化の森・YURI文化情報交流館ハートピアホールで公開収録
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「うなりやベベン」こと、浪曲師の故・国本武春さんによる「ベベンの冬が来た」、子供たちの歌とダンスで。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜早くねる、 やはり自分の小屋がよし。

昭和26年(1951)12月9日の日記より 光太郎69歳

前々日は花巻台温泉松田屋旅館、前日は盛岡菊屋旅館(現・北ホテル)に宿泊。その間にラジオ出演などを済ませています。移動はほぼタクシーでした(この頃の光太郎は各種印税などで使い切れないほど現金があったようです)が、当時の道路事情では、長時間の乗車は疲れたのではないでしょうか。


もう半月ほど前の話ですが、1月12日(水)、埼玉県東松山市で市民講座の講師をやって参りました。光太郎自身は東松山に足跡を残していませんが、意外と縁の深い土地です。

会場は市立の「きらめき市民大学」さん。
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シニアの方々向けに、各種の講座を行っている生涯教育の施設です。

そもそもの縁は、戦時中から光太郎と交流のあった、故・田口弘氏が永らく教育長を務められていたこと。

田口氏、師範学校生だった昭和18年(1943)、俳人・柳田知常に光太郎を紹介されました。卒論が「高村光太郎研究」だったそうで。翌年、南方に出征する前に、本郷区駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、書や詩集『記録』を貰ったそうです。ところが、氏の乗った輸送船がバシー海峡で撃沈され、九死に一生。光太郎から貰った品々は海の藻屑に……。

戦後、復員して中学校教諭となり、昭和22年(1947)と同24年(1949)には、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪問、再び書を貰いました。その後、光太郎に食料、日用品などを送り、光太郎からはやはり書などを贈られるというやりとりが続きました。

昭和25年(1950)には、学生時代に作成した光太郎スクラップブックを当会の祖・草野心平に貸し、それが心平編集の中央公論社版『高村光太郎選集』全六巻の資料として大いに役立ったそうです。

昭和31年(1956)、光太郎が歿すると、その葬儀に参列、以後、忌日の連翹忌の集いには30回ほどもご参加下さいました。

その後、教育長になられた田口氏、昭和58年(1983)、同市に新たに開校した新宿小学校さんの校庭に、光太郎の筆跡を用いた「正直親切」碑を建立。「正直親切」の言葉は、元々、太田村の山口小学校に校訓として贈った言葉で、光太郎母校の荒川区立第一日暮里小学校さん、廃校となった山口小学校跡地にもにも同じ筆跡を使った碑が建立されています。

ちなみにきらめき市民大学さんの担当の方が、小学生だった折に除幕が行われ、児童代表でご挨拶をなさったとのこと。その際の写真を見せていただきました。
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田口氏、おそらく連翹忌の席上で、光太郎との交流から彫刻家となった高田博厚と知り合い、意気投合。同市で高田の個展を開催するのに奔走した他、東武東上線高坂駅前に高田の彫刻をずらっと並べた「彫刻プロムナード」整備にもあたられました。こちらには光太郎胸像も含まれています。

亡くなる前年、平成28年(2016)には、光太郎から贈られた品々などを同市に寄贈、現在は市立図書館さんで「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」として無料公開されています。

また、高田博厚の鎌倉アトリエにあった品々も、平成29年(2017)に田口氏との縁で同市に寄贈され、同市では毎年、それらを公開する「高田博厚展」を開催しています。

さて、当方の講座、「高村光太郎と東松山」と題し、前半は光太郎の人となり、後半は上記の内容を語らせていただきました。
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こちらでこの話をさせていただくのは、平成31年(2019)に続いて2回目でしたし、市立図書館さんでも2回、同じような話をさせていただいております。

終了後、受講生の方の一部と懇談。その方々が「高田博厚と遊ぼう会」なるグループを結成され、高田についていろいろ調べたり、実際に高田の作品を多数所蔵・展示なさっている長野の豊科近代美術館さんを見に行ったりされているそうです。
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今後は、彫刻プロムナードを地域の有用なコンテンツとして活用することを念頭に、さらに活動の幅を広げたいとのこと。泉下の田口氏も喜ばれていることでしょう。

ちょっと前のものですが、昨年9月に発行された『Earth Signal Tokainaka Journal』という冊子の第9号も頂いて参りました。「埼玉トカイナカエリアの鉱脈発掘魅力発信マガジン」だそうで。
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4ページにわたり、彫刻プロムナードを紹介する記事も載っています。

さらに会の方々と、昼食。指定されたレストランはもろに彫刻プロムナード沿い、しかも光太郎胸像の設置場所すぐ近くでした。店内にも高田の小品が。
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ちなみに、「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」のある市立図書館さん、「正直親切」碑の立つ新宿小学校さん、高坂彫刻プロムナード、地図に表すと以下の通りです。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜妓のうたをきき二時にねる、 花巻温泉まで歩き、花巻より盛岡までタキシ(2000円)、よきドライブ。 多賀園にて支那料理をくひ、その間に余は放送局にゆき新年放送年賀の言葉を録音。


昭和26年(1951)12月8日の日記より 光太郎69歳

お供は当会の祖・草野心平。前夜に心平と共に台温泉松田屋旅館に宿泊し、盛岡行でした。

合唱曲楽譜の新刊です。

愛のうた―光太郎・智恵子―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために[ピアノ・リダクション(四手連弾)版]

2022年1月15日 高村光太郎作詞 新実徳英作曲001
 全音楽譜出版社 定価2,700円+税


高村 光太郎の詩集「智恵子抄」より5篇を選び作曲。
委嘱:慶應義塾ワグネル・ソサィエティー 
初演:2022年1月10日 東京藝術劇場 
指揮:佐藤正浩 管弦楽:ザ・オペラ・バンド 
合唱:慶應義塾ワグネル・ソサィエティー

I. 山麓の二人          7’10”
II. 千鳥と遊ぶ智恵子      7’20”
III. 値(あ)ひがたき智恵子  2’30”
間奏曲 ー哀しみの淵へー   5’30”
IV. レモン哀歌        7’40”
V. 元素智恵子         4’50” 

トータル 35’00”

商品説明にあるとおり、慶應義塾ワグネル・ソサィエティーさんの委嘱作品で、今月10日の同団第146回定期演奏会において初演が為されました。

その際はオケ伴でしたが、発売されている楽譜の伴奏譜(最近は「伴奏」という言い方もあまりしなくなってきましたが)はピアノ2台の設定です。練習の際、あるいは本番でも、オーケストラを雇う予算など無い、という場合にはこの構成で十分可能です。ちなみにオケ譜は全音さんでレンタルして下さるそうです。

合唱でピアノ2台という楽譜、おそらく初めて目にしましたが、1段(ホモホニックな部分)ないしは2段(ポリフェニー的な部分)で4パートが押し込んであるので、歌う方としてはちょっと見にくい感じです。その分、ユニゾンの部分も結構あったりしますが。
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といって、T1、T2,バリトン、ベースで4段にすると(歌う方としてはその方がありがたいのですが)、ページ数が倍増以上となり、とんでもないことになるでしょう。現状でも100ページ超と、この手の楽譜としては厚めです。

もっとも、1段に押し込んである方が、自分のパートと他パートとの関係性がよりわかりやすい、という声もありましょうが。

ところで、どんな感じかな、と、各曲の主旋律的なパートやヤマ場と思われる箇所では和音をキーボードで弾いてみました(初演のDVDを注文してあるのですが、まだ届きませんで)。智恵子の心の病を強調した部分では不安を煽るような半音進行など、いかにも、という感じでしたし、そうかと思うと素直なメロディーラインの部分もあったり、不協和音の連続からきれいに解決していく過程に妙味があったりと、唸らされました。

リズム的にも複雑(8分の6拍子で4連符と2連符に分けてあるなどの箇所が平気で出てきます(笑))、全体に音域が高め(T1にH音!)だったりもし、ある程度ハイレベルの合唱団でないと歌いこなせないような気がしますが、抜粋してコンクールの自由曲などにはいいのかも、という感じです。ただ、7分程の演奏時間の曲はギリギリかな、と思いますし、四手連弾を伴うため、少人数の団では無理でしょう。

巻頭に作曲者、新実氏の言葉。

 男声合唱ファンの皆さんが「一生に一度は歌いたい」と思ってくださるような曲をものしたい、そんな不遜な思いを心に暖めながらこの曲を書き続けたのでした。
 男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラ、という夢のような編成、そこにどうのような世界が誕生するのか。書き手にとっては想像の翼がどこまでも広がっていくチャレンジングで楽しい時間を過ごしたのです。
 指揮者の佐藤正浩さんからいくつかのテキストを提案いただいたのですが、最終的に高村光太郎の詩集『智恵子抄』にしよう、と考えが一致し、2020年後半にその詩集から5篇を選び、構想を練りました。
 2021年2月くらいから作曲に取りかかり足かけ半年、7月末にやっと全体が出来上がりました。全体とはすなわちオーケストラ版、それとピアノ連弾伴奏版の二つのヴァージョンで、実はこの2種のヴァージョンをほぼ同時に作り上げるのが、なかなかに手のかかる仕事でもあったのです。連弾版を作っておけば、練習の時に便利ですし、オーケストラ版ではできない時に使うこともできる、そう考えたのです。
 時間がかかったもう一つの理由は、光太郎の智恵子への想いをできるだけ深く読み取り音化したかった、言葉の背後にあるものを感じ取り自分のものにしたかった、そんなこともあったのでした。
 人間は誰しも青春を生きている、僕はそう思う。ましてや青春そのものを生きている大学生や若者たちは『智恵子抄』から大きなものを受け取ることになるだろうし、そうあって欲しい。
 この作品は決して易しくはない。が、歌うことを通じ、聴くことを通じ、「青春」にあるすべての方々に届くものでありますよう、願って止まない。
 最後にこの貴重な機会を下さった佐藤正浩さんはじめ、OBや大学の関係各位の皆さま方、そして初演に取り組んでくださる大学生の皆さんにこの場をお借りして心よりの謝意を表します。


青春そのものを生きている大学生や若者たちは『智恵子抄』から大きなものを受け取ることになるだろうし、そうあって欲しい。」まさにその通りですね。そういう考えからの二次創作は大歓迎です。音楽に限らず、演劇、文芸作品、造形作品、映像作品などなどでも。ただし、健全なリスペクトとある程度妥当な解釈に基づいてもらわないと困りますが……。

さて、興味のある方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前東京より横田正治、佐藤文治といふ二人の青年学徒来訪、 そのうち草野心平氏来訪、昨夜関登久也氏宅泊りの由、いろいろのもらひもの、ヰロリで暫時談話、 後洋服をあらためて一緒に出かけ、花巻伊藤屋にて四人でビール等、草野氏と共にタキシで台温泉松田家にゆき一泊、ビール等〈(あんま)〉
昭和26年(1951)12月7日の日記より 光太郎69歳

横田正治」は、正しくは「横田正知」。のち、宮沢賢治や若山牧水らについての書籍を執筆しています。「伊藤屋」は、建物は建て替わっていますがJR東北本線花巻駅前に健在です。

台温泉松田家」は「松田屋」の誤り。松田屋旅館さんは当時の建物のまま健在です。

先月刊行の新刊です。著者は元文藝春秋副社長の西川清史氏。

文豪と印影

2021年12月15日 西川清史著 左右社 定価2,200円+税

秘蔵写真多数! 170の印影から見える130人の文豪の素顔
かつて本には「検印」が捺され、 作品を書き上げたあと文豪たちの「一番最後の仕事」は自分の本にハンコを捺すことだったーー。
病床でも「印譜」を見たいと話した夏目漱石や、遺書にも「印鑑」について記した芥川龍之介。 大好きな荷風にとっておきの「印鑑」を贈った谷崎潤一郎に、「検印」の小説を書いた菊池寛など 130人の文豪たちの170の印影をエピソードとともに収録。
「ハンコ文化」が失われつつある今、「ハンコと文豪」の切ってもきれない関係に迫る。

※検印:書籍の奥付に著者が発行部数を検する(印税計算の基準数を証する) ために押す印。
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目次
はじめに 森鷗外 芥川龍之介 坂口安吾 太宰 治 川端康成 大岡昇平 三島由紀夫 葛西善藏 コラム ハンコの誕生は恐るべき昔 檀一雄 大原富枝 舟橋聖一 原田康子 米川正夫 壺井榮 五味康祐 三浦哲郎 小島政二郎 立野信之 中里介山 新田次郎 吉川英治 海音寺潮五郎 子母澤寛 永井龍男 福原麟太郎 福田恆存 高濱虛子 薄田泣菫 井上靖 直木三十五 幸田露伴 嘉村礒多 正宗白鳥 牧野信一 金子光晴 内田魯庵 金田一京助 山崎豊子 松本清張 久生十蘭 上林暁 安倍能成 田宮虎彦 阿部次郎 三浦朱門 石川達三 尾崎士郎 谷川俊太郎 今日出海 高見順 火野葦平 荻原井泉水 日夏耿之介 岡本綺堂 大佛次郎 安岡章太郎 正岡子規 島木健作 丹羽文雄 和田芳恵 土岐善麿 森田草平 永井荷風 谷崎潤一郎 泉鏡花 野村胡堂 木下杢太郎 齋藤茂吉 高村光太郎 久保田万太郎 稲垣足穂 横光利一 林芙美子 武田泰淳 中原中也 織田作之助 夏目漱石 島崎藤村 室生犀星 岡本かの子 與謝野晶子 志賀直哉 武者小路実篤 北原白秋 佐藤春夫 宇野浩二 國木田獨歩 井伏鱒二 コラム 印表をじっくり味わおう 村松梢風 安藤鶴夫 岸田國士 津村節子 倉橋由美子 椎名麟三 中野好夫 川口松太郎 水上勉 伊藤整 有吉佐和子 三好達治 梶井基次郎 小林秀雄 横溝正史 山田風太郎 丸谷才一 中勘助 内田百閒 徳田秋聲 江戸川乱歩 吉井勇 司馬遼太郎 菊池寛 廣津和郎 石川淳 宮本百合子 開高健 中野重治 山本周五郎 石原慎太郎 獅子文六 池波正太郎 柴田鍊三郎 吉行淳之介 堀辰雄 大江健三郎 幸田文 瀧井孝作 花田清輝 澁澤龍彥 佐多稲子 あとがき

基本、書籍奥付に貼られた検印紙に捺された印章を紹介するものです。検印紙の制度については、本書「はじめに」に詳しく語られています。

 出版社が著者に支払う印税(著作権使用料)に正確を期すためである。出版社は著者に対して、千部印刷して売りに出せば千部分の、一万部売りに出せば一万部分の印税(定価の一割前後)を支払わねばならない。その売り出し部数に正確を期すために検印制度が導入されたわけである。つまり、出版社が千部と言っておきながら、ちゃっかり二千部を売りに出していたりすることがないようにという、実に散文的な事情で誕生した制度なのである。

なるほど。

光太郎の日記にも、検印紙に捺印しまくって手が痛くなった的な記述が散見されます。

しかし、中には悪徳出版社もあったようで、光太郎とも交流のあった式場隆三郎によれば……

 いつか私の本で、検印紙を半分に切ってはったものがあった。つまり著者に知らせた二倍の部数が、でていたのを知った。また無検印の本が、かなり出ていたことがある。もっとひどい出版社では、検印を偽造して、何千部かさばいていたことがわかった。

文士たちも自衛策を講じます。

 そこで著者はそんじょそこらにはないハンコを誂えるようになった。ハンコはどんどん洗練され、審美的な色彩を帯びてくる。印影まで含めて作品なのだ、とでもいうように。

というわけで、「洗練され、審美的な色彩を帯び」た「そんじょそこらにはないハンコ」の数々が、本書では紹介されています。

必ず肖像写真と印影の画像が載っていますが、人によってページ数、内容が異なります。1ページだけの者、数ページ費やして複数の印影が紹介されている者などなど。
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われらが光太郎は見開き2ページ。
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昭和15年(1940)、詩人の宮崎丈二を通じて依頼した、中国の斉白石制作の印が紹介されています。また、印とは関係がないのですが、稲垣足穂の回想文からの抜粋。

百数十名の印影、見ているだけで楽しいものです。ただ、危惧も感じます。

光太郎の印は、検印紙だけでなく、色紙揮毫、書籍の見返しに書いた献呈署名などにも使われています。そこで、この印まで含めての偽物が作られ、売りに出ていることがあるのです。まあ、当方など、よく見れば偽物特有の卑しさが溢れていてわかるのですが、騙される人もいるでしょう。

他の作家でも、各種の揮毫などにここで紹介されている印を使っている場合があるとしたら、この書籍を参考に偽物制作にかかる不届き者がいるのではないかと、心配になります。まあ、偽物特有の卑しさに気づかず買ってしまうのは自業自得かも知れませんが、それが悪徳業者を潤す結果になるのはいただけませんね。

何はともあれ、『文豪と印影』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

盛岡放送局より鈴木寛アナウンサー来訪、新年の放送につき依頼、此は断る、

昭和26年(1951)12月6日の日記より 光太郎69歳

「鈴木寛アナウンサー」は、正しくは「鈴木豊アナウンサー」。この際にはラジオ出演を断った光太郎ですが、その後、鈴木の上司の放送課長に懇願され、根負けして二日後に録音に応じています。

この前後、昭和24年(1949)と昭和27年(1952)に収録・放送されたものは、その内容が分かっているのですが、この時のものはどんな話だったのか不明です。

古今東西の美術作品を、ゆるいうたとアニメーションで紹介する5分間番組「びじゅチューン! 」。新作で光太郎の父・光雲の代表作「老猿」(国指定重要文化財)が取り上げられます。

びじゅチューン!「老猿は主役じゃなくても」

NHK Eテレ 2022年1月25日(火) 22:45〜22:50  再放送 1月28日(金) 15:55〜16:00

発想の源は、高村光雲「老猿」(東京国立博物館)。この彫刻は、そのまわりだけ空気がちがうような、圧倒的な「ドラマ性」を感じさせます。もし脇役としてキャスティングされたとしても、その存在感の強さで主役を食ってしまうでしょう。「白雪姫」の小人C役、「桃太郎」のサル役…。「たまたま脇役として起用されて現場のパワーバランスをおかしくさせてしまうストーリー。「老猿」と周囲とのギャップを楽しんでください。

【出演】井上涼,【声】ジョリー・ラジャーズ

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前後して、旧作の「指揮者が手」の放映も。こちらは光太郎ブロンズの代表作「手」がモチーフです。初回放映は平成30年(2018)でした。

びじゅチューン!「指揮者が手」

NHK Eテレ 2022年1月25日(火) 22:50〜22:55

古今東西の美術作品を井上涼のユニークな発想でうたとアニメーションに。今回は、高村光太郎の彫刻「手」(東京国立近代美術館)。この彫刻は、指をやんわり曲げていたり親指が反り返っていたりと、細かいニュアンスを伝えようとしているみたいに見える。これは、オーケストラを動かす指揮者なのかもしれない!「て」という音を効果的に取り入れた歌詞で、左手一本で音楽を自由にあやつる孤高の指揮者を歌う。

【出演】井上涼,【声】ジョリー・ラジャーズ

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父子競演ですね(笑)。

一昨年発売され、「指揮者が手」を含む『びじゅチューン! DVDBOOK 5』に、実は「老猿」がちらっと登場していました。「特典映像」中の「トーハクトラベル」というコーナーの中ででした。
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いずれ本編で扱って下さるかな、と思っていたら、実現しました。

光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」も、さらにちらっと。
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こちらも本編で扱っていただきたいものです。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

山口小学校紀念会にゆく、2000円キフ。学芸会を見て三時過ぎかへる、ソバを御馳走になる。


昭和26年(1951)12月2日の日記より 光太郎69歳

山口小学校は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにありました。2年前の学芸会にはサンタクロースに扮してサプライズ登場した光太郎でしたが、この年は大人しく参観したようです(笑)。

寄付が2000円。この年に出たハードカバーの創元社版『高村光太郎詩集』が260円、中央公論社版の『高村光太郎選集』第一巻が340円でした。現在の5分の1くらいでしょうか。

まず、一昨日の『朝日新聞』さん。

天声人語

雨の擬音語は、ざあざあ、しとしと、ぴちぴちなど色々あるが、雪はそういうわけにはいかない。自ら音を発せず、むしろ音を吸い込む。それを「しんしん」の語が言い表している▼いつも以上に雪の多さが伝わってくる冬である。湿った重い雪に悩まされているという札幌市の話が、本紙北海道版にあった。雪が解けないこの地では、除雪だけでなく、その雪をダンプで運び出す「排雪」という作業が欠かせない。この冬は重い雪ゆえに除雪に労力がかかり、排雪になかなか手が回らないという▼のけられた雪が道路脇に積み上がり、車の通行が滞っているらしい。大寒のきょうも、日本列島の広い地域で雪になりそうだ。雪かきや車の運転では、事故のないよう十分な注意を▼詩人の高村光太郎は、岩手県の山あいの小屋に一人で暮らしていた時期がある。冬の日のことを「雪白く積めり」の詩にした。〈雪林間の路をうづめて平らかなり。/ふめば膝(ひざ)を没して更にふかく/その雪うすら日をあびて燐光(りんこう)を発す〉▼〈十歩にして息をやすめ/二十歩にして雪中に坐(ざ)す〉。雪の美しさと過酷さを伝える詩は、自分と向き合う生活から生まれた。もう6度目になる感染拡大により、雪のある地域もそうでない地域も家にこもる時間がまた増えそうだ▼手元の辞書では「しんしん」は漢字で「深深」あるいは「沈沈」と書く。雪以外に使うなら「しんしんと冷える」あたりか。いかにも冬型という天気図をながめながら、寒波に身を構える。

引用されている「雪白く積めり」は、昭和20年(1945)12月の作。花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を始めて間もない頃の詩です。全文はこちら
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光太郎自筆の原稿用紙を元に、実弟にして鋳金の人間国宝となった豊周によるブロンズパネルの詩碑が作られ、山小屋近くに設置、地下には光太郎の遺髯が納められています。コロナ禍前は、毎年5月15日(疎開のため光太郎が東京を発った日)に、花巻高村祭が開催されていました。
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今年こそは復活を望みます。

それにしても、排雪の大変さ。過日行って参りました青森でもそんな感じでした。道路脇は随所で人間の背丈以上に雪が積まれている状態でしたので。

続いて、少し前ですが、『静岡新聞』さん。1月14日(金)の掲載分。

大自在

〈八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。〉で始まる高村光太郎の詩「米久の晩餐[ばんさん]」(1922年)は、東京・浅草に明治時代初めに開業した牛鍋店のにぎわいを活写する。牛鍋は文明開化の申し子だった。
 作者は友人と〈いかにも身になる山盛牛肉をほめたたへ…不思議な溌剌[はつらつ]の力を心に育み…〉。米久創業者で時之栖会長の庄司清和さんが82歳で旅立った。65年に沼津市で物置を借りて焼き豚製造を始めた商店の屋号のルーツは、大学卒業後に1年半勤めた東京の食肉卸会社「米久食品」や牛鍋の老舗にさかのぼれる。
 大消費地で食文化の変化や食肉業界の伸びしろを確信したのだろう。明治以来の「米久」ブランドを使わせてもらえれば商売がしやすいと考えたと語っている。創業4年目には肉のブロックの形をそのままハムにした達磨[だるま]ハムで業績を飛躍的に伸ばした。
 富士山の伏流水を生かしたいと考えていた94年にビールの年間最低生産量の規制が緩和されると地ビール醸造に乗り出した。先見性と臨機応変に時代も追い風を吹かせた。
 誕生の舞台裏を取材した相原恭子さんは、庄司さんの起業の原動力は「ワクワクするような衝動」だろうと書いている。経営者とスタッフに「マンツーマンの意識ができている」のが強みとも(「あ! ビールだ‼ やってみるか―。御殿場高原ビール」)。
 「醸す」には醸造のほか、気分や雰囲気を徐々につくりだす、物事を起こす・もたらすという意味がある。経営者として、地域経済のリーダーとして、庄司さんは多くを醸してくれた。

一面コラムにその訃報が取り上げられるくらいなので、庄司清和氏という方、静岡では有名だったのでしょう。「時之栖」さんというのは、静岡県内でリゾート施設などを運営する会社だそうです。また、光太郎が詩に詠んだ浅草の牛鍋屋「米久」さんからブランド名をもらって、スモークハムなどの販売も手がけたとのこと。

詩「米久の晩餐」、全文はこちら

最後に昨日の『福島民友』さん。光太郎の名は出て来ませんが、当会の祖・草野心平がらみです。

編集日記

いわき市出身の詩人草野心平に、川内村から手紙が届いたのは、終戦から4年たったころだった。手紙の主は同村・長福寺の和尚。「モリアオガエルが見たい」と随筆で書いた心平を「村の平伏(へぶす)沼にいる。いらっしゃい」と招待した▼これがきっかけで心平の川内村通いが始まった。心平が贈った本を収蔵するため、村が建てた天山文庫は彼と友人、住民たちが集う場になった。この交流は、詩人没後の今も続いている▼その川内村で以前会った若者が、地元で古民家カフェの開業を計画し、浜通り復興を後押しする財団の支援も決まった。もちろん、多くの人々を村へ招くためだ。頼もしい。ただ人の往来が難しいコロナ下での起業は大変だろう▼正直そう思っていると、心平の詩集「蛙(かえる)」に、こんな一節を見つけた。「素直なこと。/夢をみること。/地上の動物のなかで最も永い歴史をわれわれがもっているということは平凡ではあるが偉大である。」(「ごびらっふの独白」より)▼心平が川内を初訪問したのは、和尚の手紙から4年後。天山文庫完成は、さらに13年後だった。しかし詩人と村の付き合いは形を変え今も続く。気長に夢みて平凡に。そんな声が、聞こえる気がする。

やはりコロナ禍前は、心平の関係で川内村にもたびたびお邪魔していましたが、そちらもとんとご無沙汰となっています。今年こそは、と思っております。

平伏沼に関してはこちら、天山文庫はこちらをご参照下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜より雪、今日終日降り二尺ほどつもる、風なし、


昭和26年(1951)11月27日の日記より 光太郎69歳

この冬初の本格的な雪だったようですが、いきなり二尺も積もったのですね。それもまだ11月に。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋が、如何に過酷な環境だったかが垣間見えます。

青森レポートの2回目です。
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1月19日(水)朝、宿泊させていただいたポニー温泉さんを後に、この日も十和田湖奥入瀬観光機構の方の車に乗せていただき、青森市を目指しました。

途中で見た八甲田山。この日も快晴で、「こんなにきれいに見えることはめったにありませんよ」だそうで。
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車は奥入瀬渓流からその八甲田山中に入り、徐々に山頂が近づいてきました。
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山頂付近には樹氷。沿道の木々も樹氷に近い状態。
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全県一円が東京スカイツリーより低い(笑)千葉県民には、実に新鮮な風景です。

峠を越えると、津軽富士こと岩木山もその偉容を現しました。
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最初の目的地、国際芸術センター青森[ACAC]さんに到着。やはり雪に覆われていました。
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こちらで、彫刻家・小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」が開催中です。
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八甲田山の南北に位置する、2つの近代彫刻、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」と、大熊氏広作の「雪中行軍記念像(歩兵第5連隊遭難記念碑)」へのオマージュです。

「雪中行軍」というと、我々の世代は、新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』や、それを原作とした高倉健さん主演の映画「八甲田山」などで、概略を存じていますが、光太郎の東京美術学校在学中の明治35年(1902)、青森の陸軍第8師団の歩兵第5連隊が雪中行軍演習中に遭難し、210名中199名が凍死した事件です。

ちなみにこの日、八甲田山を越えて青森市に入った当方ですが、遭難現場周辺も通りました。関連施設などもあるそうでしたが、冬期閉鎖ということでした。

大熊氏広作の「雪中行軍記念像(歩兵第5連隊遭難記念碑)」は、生存者の一人、後藤房之助伍長をモデルにしたものです。後藤は雪中で直立したまま仮死状態で発見され、その後、一命はとりとめたとのこと。
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会場に入ってすぐ、やはり生存者の一人・小原忠三郎伍長の義手(後藤も小原も救出後、壊死した手を切断したそうで)と、乙女の像のポストカードが並べられていました。これにより、展覧会全体の概要を象徴する、という意図なのでしょう。
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会場手前の方は、「雪中行軍記念像(歩兵第5連隊遭難記念碑)」関係が中心。
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十和田湖観光交流センターぷらっとさんに光太郎胸像を寄贈された、田村進氏作の模刻も展示されていました。
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所狭しと並んだ角柱状の作品は、遭難死した兵士たちの墓標をモチーフにしたもの。「幸畑墓苑」の名で、遭難現場近くに実物が現存しているそうです。現在は雪に埋もれていますが。
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後半は乙女の像関連を中心に。やはり土産物のミニチュアに混じって、十和田湖の像の除幕後、光太郎から青森県に寄贈された小型試作(右手後方ガラスケース内)も並んでいました。鋳造は像本体と同じく伊藤忠雄です。
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赤く光っているのは、一昨年、東京藝術大学大学美術館陳列館での「PUBLIC DEVICE -彫刻の象徴性と恒久性-」に小田原氏が出品された作品。
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光太郎の訳著『ロダンの言葉』普及版(昭和4年=1929)の表紙に用いた、ロダンの素描がモチーフです。
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光太郎、同じデッサンを、遡って明治43年(1910)、親友の水野葉舟の小説集『おみよ』のカバーにも使おうとしました。ところが同書はこのデッサンのために「風俗壊乱」とされて発禁処分(笑)。

ところで本展、大熊氏広と光太郎という、ほぼ一世代異なる二人の対比、という側面も強調されていました。
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大熊は日本近代彫刻の黎明期、工部美術学校に学び、わが国銅像のほぼ最初の作「大村益次郎像」を作ったことで歴史に名を残しました。大熊らの世代はロダンを学ばず、その前の世代のきれいな彫刻を範としていました。そのため、光太郎の大熊評はさんざんです。ちなみに千葉の当方自宅兼事務所から徒歩10分程のところに、大熊作の郷土の偉人・伊能忠敬像が現存しています。

さて、皆様、ぜひ足をお運び下さい、と言いたいところですが、新型コロナ変異株の蔓延による措置として、2月13日(日)までの開催予定だった同展、1月23日(日)で閉幕だそうです。まったく、いつまで続くコロナ禍ぞ、ですね……。それにしても、打ち切り前に拝見できたのはラッキーでした。

その後、当初予定にはなかったのですが、時間があったので市街に出て、棟方志功記念館さんに案内していただきました。
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志功と光太郎、直接の交流はなかったようですが、当会の祖・草野心平は志功とのコラボがたくさんありました。

館内、志功作品は撮影可。
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それから撮影不可でしたが、光太郎と関係の深かった高田博厚作の志功銅像がありました。それは存じませんでしたし、つい最近、高田にも関わる市民講座の講師を務めたばかりでしたので(後ほどレポートいたします)「おお」という感じでした。

昼食後、ここから羽田へ飛んで千葉に帰る手筈で青森空港さんへ。

昨年、除幕披露された三沢市ご出身の森本千絵氏による幅11メートルの大型ステンドグラス「青の森へ」を拝見するのも今回の青森行の目的の一つでした。
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中央付近、乙女の像もあしらってくださっています。ありがたし。
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同行して下さった十和田湖奥入瀬観光機構の方によれば、「下の方の四角は湖水でしょうかね」。なるほど。

というわけで、昨日レポートした「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第2章 光の冬物語」、上記の「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」、「青の森へ」と、乙女の像三昧の1泊2日でした(笑)。

来年、2023年は、乙女の像除幕から70周年となります。ついでにいうなら、光太郎生誕140周年でもあります。光太郎、蟄居生活を送っていた最中も「70歳になったらほんとうの彫刻を始める」と言っており、数え70歳で乙女の像に取りかかったため、そうした周年になるわけです。

そこで、地元で乙女の像の古稀にあわせ、記念イベントを、ということで関係の皆さんに発破をかけさせていただいて参りました。実現することを強く望みます。

以上、青森レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

穴ぐらの整備にかかり、かたづけもの、 校長さんが生徒三人に薪をかついでよこす。

昭和26年(1951)11月24日の日記より 光太郎69歳

「校長さん」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長・浅沼政規。「穴ぐら」は野菜などの貯蔵庫です。冬籠もりの準備に追われていた光太郎、「70歳になったらほんとうの彫刻を始める」と言ってはいたものの、一年後には乙女の像制作にかかっているとは、思っていなかったことでしょう。

一昨日、昨日と、青森県を廻っておりました。今回は光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」三昧でした。2回に分けてレポートいたします。

1月18日(火)、東北新幹線七戸十和田駅へ午前10時半過ぎに到着。予想はしていましたが、かなりの積雪でした。
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ただ、2日間とも好天に恵まれ、雪が舞っている時もありましたが、吹雪には遭遇せずに済んでラッキーでした。

十和田湖奥入瀬観光機構の方に迎えに来ていただき、十和田湖へ。公共交通機関としては、八戸駅からバスが日に1便だけ出ているのですが、千葉の自宅兼事務所最寄り駅を始発で発っても、それには間に合いません。当初予定では七戸十和田駅から十和田市街まで路線バス、そこからタクシーと覚悟していたのですが、迎えに来ていただけることになり、さらに青森市を廻った翌日もずっと車に乗せて下さいまして、実に助かりました。

途中の奥入瀬渓流。
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そして十和田湖到着。
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遊覧船が係留されていますが、運休中です。

十和田湖観光交流センターぷらっとさん。平成30年(2018)以来、3年ちょっとぶりです。
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2階が光太郎や、十和田湖を紀行文で世に知らしめた明治の文豪・大町桂月の資料展示コーナーとなっています。入場無料です。
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平成26年(2014)のオープン以来展示されている、乙女の像除幕の日に書かれた、光太郎を初めとする関係者一同の寄せ書き色紙。さらに乙女の像台座に使われた岩手県一関市産折壁石の見本。ともに乙女の像序幕の際に工事監督だった元青森県の土木技師・小山義孝氏の寄贈です。
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像を含む周辺一帯の設計をした建築家・谷口吉郎が「福島産の折壁石」とあちこちに書き記してしまったため、福島産と思われてきましたが、折壁石というブランド名は岩手県東磐井郡室根村(現・一関市)の折壁地区で採れたことに由来します。ところがネット上ではいまだに「福島産」となっているサイトが多く、閉口しています。

同じくオープン以来展示されている、光太郎の「大町桂月記念メダル」。
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乙女の像序幕の日に、関係者に記念品として配付されたもので、小品ながら完成した彫刻としては光太郎最後の作品です。こちらもネット上に「乙女の像が光太郎最後の作品」という記述が目立ちますが、それも誤りです。

平成30年(2018)に寄贈披露会が行われた、光太郎胸像(生前の光太郎をご存じの田村進氏作、題字は当会顧問であらせられた北川太一先生揮毫)と、乙女の像制作時に使われた回転台
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さらにその後購入された、乙女の像小型試作。ただし光太郎歿後に鋳造されたものです。
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昨年、当方が寄贈した『婦人公論』。詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」初出の昭和29年1月1日号です。
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書籍といえば、図書コーナー的なところにこんな書籍も置いてありました。
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昨年行われた東京五輪の聖火リレー記念誌。乙女の像前でもセレモニーがあり、その写真も。
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1階には、平成24年(2012)の朝ドラ「梅ちゃん先生」でテーマ曲バックのジオラマを作成された山本高樹氏作のジオラマ。乙女の像もちゃんとあります。
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その後、歩いてリアル乙女の像を見に行きました。
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考えてみると、この季節、昼間に乙女の像を見るのは初めてだったような……。以前に開催されていた「十和田湖冬物語」の際は、2回ともライトアップされている夜間でしたので。
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再びぷらっとさんに戻り、地元の観光関係の皆さんと懇談。久しぶりにお会いする方もいらして、懐かしゅうございました。
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そして日が暮れ、「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第2章 光の冬物語」を拝見。イルミネーションやプロジェクションマッピング等を駆使したイベントです。
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会場は、十和田神社さんから乙女の像までの範囲で、ぐるっと回って1㌔㍍弱というところでしょうか。まぁとにかく幻想的な世界でした。
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イルミネーションは、エリアごとにどんどん内容が変わり、飽きさせません。また、積雪をうまく活用しているのにも感心しました。
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十和田神社さんの境内では、社殿をスクリーンにしてのプロジェクションマッピング。
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乙女の像もライトアップ。
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像からは、来た道を戻るのではなく、湖畔方面へ別のルートが延びています。途中で元の道に合流しますが。
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平日でしたので来訪者は少なかったのですが、それでもカップルなどがちらほら。「いい思い出になるだろうな」と思いました(笑)。

その後、再び車で十和田市街まで送っていただき(本当に感謝です)、宿泊。

続きは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

旧小屋の薪を整理して軒下を歩けるやうにする、雪の時の準備。


昭和26年(1951)11月23日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺も、厳冬期には半端ない積雪となります。そのための準備ですね。

実際、一昨日あたりの山小屋周辺は、新たに数十㌢の積雪があったそうです。

昨日から一泊二日の日程で、青森県に来ております。

東北新幹線🚄で七戸十和田駅に下り立ち、十和田湖奥入瀬観光機構の方に迎えに来ていただき、十和田湖へ。
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早速、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」と久しぶりに対面。
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その後、十和田湖観光交流センターぷらっとさんで、地元の観光関係の皆さんと懇談。
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日が暮れてから、イルミネーションのイベントカミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第2章 光の冬物語」を拝見しました。
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「乙女の像」もいい感じにライトアップ。
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宿泊は十和田市街に戻り、「ポニー温泉」さんで。

今日は青森市に移動し、国際芸術センター青森[ACAC]さんで、彫刻家の小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」を拝見します。

さらに青森空港で、昨年2月に序幕された、三沢市ご出身の森本千絵氏による幅11メートルの大型ステンドグラス「青の森へ」も拝見、そのまま羽田に飛ぶ予定です。

詳しくは帰りましてから。

現在発売中の『週刊新潮』さん1月20日号。巻末近くのグラビア的な記事のページに光太郎の名と写真――という情報を、お世話になっている坂本富江様から御教示いただき、早速買って参りました。
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「没後100年「森鷗外」 文豪の”顔は履歴書”」という3ページの記事で、文京区立森鴎外記念館さんで開催中の特別展「写真の中の鴎外 人生を刻む顔」とリンクしたものです。
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光太郎と鷗外の出会いは、光太郎が東京美術学校在籍中だった明治31年(1898)と推定されます。この年、鷗外が美学の講師として美校の教壇に立ち、光太郎もその講義を受けました。もっとも、鷗外邸と光太郎の実家は指呼の距離でしたので、それ以前に道端ですれ違ったりしていた可能性もありますが……。

光太郎には、軍医総監だった鷗外の講義ぶりなどが権威的に感じられ、あまり親しめなかったようです。後に鷗外が自宅で開いた観潮楼歌会、呼ばれても1度かそこらしか顔を出しませんでした。そして「軍服着せれば鷗外だ」事件

一方の鷗外。明治末、留学から帰った光太郎が徴兵免除になったのは、光雲に頼まれた鷗外が裏で手を回したからという説があります。
 
光太郎は鷗外を尊敬しながらも反発し、しかし頭が上がらず、鷗外は光太郎を「しょうもない奴だ」と苦笑しながらもかわいがる、といった関係でした。

で、『週刊新潮』さんに載った、光太郎も写っている写真。
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場所は上野の精養軒さん、時は明治44年(1911)、光太郎の師・鉄幹与謝野寛の渡欧送別会の席上です。昭和59年(1984)刊行の『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』等にも掲載されており、初見ではありませんが、ドンと大きく載っていたので「おお」という感じでした。

前列中央で膝掛けをしているのが鷗外、一人置いて右から二人目が主賓の鉄幹です。光太郎は後列左から4人目(『週刊新潮』さんでは「後の口髭は高村光太郎」と書かれています(笑))。左隣は佐藤春夫、右隣に江南文三、万造寺斉、北原白秋、木下杢太郎と続き、中々錚々たるメンバーです。ちなみにオリジナルはもっと横長の写真で、右端に『野菊の墓』の伊藤左千夫も写っていますが、『週刊新潮』さんではカットされています。

鴎外記念館さんで開催中の特別展「写真の中の鴎外 人生を刻む顔」では、この写真も出品されているのでしょう。

興味のある方、足をお運びいただき、さらに『週刊新潮』さんもお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

院長さんの息進さんと熊谷さん父子来訪、山鳥一羽、カリフラワ、セロリ、砂糖等もらふ、新小屋で談話、夕方学校まで送る、ダツトサンで帰らる、


昭和26年(1951)11月21日の日記より 光太郎69歳

「院長さん」は、花巻病院長・佐藤隆房。光太郎歿後は花巻高村記念会を立ち上げ、永らく会長を務められました。「息進さん」は、隆房の子息にて、花巻病院長、花巻高村記念会長を嗣いだ佐藤進氏です。

先月刊行された児童向け書籍です。

日本の文学者36人の肖像(上)

2021年12月20日 宮川健郎編 あすなろ書房 定価3,500円+税

明治・大正・昭和・平成の150年間に活躍した、日本の文豪の生涯とその代表作をぎゅっと凝縮した近代文学入門書です。教科書に登場する作家を中心に大きな肖像写真で紹介します。
印象的な写真から、その人の人生も文学も、生きた時代の空気まで感じられることでしょう。

目次000
 はじめに
 森鷗外   医学でも文学でも大きな仕事を残す
 二葉亭四迷 言文一致体で近代文学を創り出す
 樋口一葉  近代女性作家の誕生
 島崎藤村  近代詩のはじまりの詩人
 上田敏   翻訳で近代詩の世界をひらいた
 正岡子規  俳句と短歌の改革者
 夏目漱石  江戸の文化が育んだ明治の文豪
 与謝野晶子 情熱の歌人
 北原白秋  永遠の童心をうたった
 石川啄木  早熟・夭折の天才
 志賀直哉  「小説の神様」と呼ばれた作家
 有島武郎  「近代」と向き合い続けた作家
 芥川龍之介 エゴイズムの追求
 高浜虚子  俳句の伝統を守り、後進を育てた

 高村光太郎 近代詩の父
 萩原朔太郎 革新者であり続けた詩人
 小川未明  日本児童文学の父
 浜田広介  善意の文学


各人、4ページずつ。最初のページは略年譜、見開きで2ページ目が、紹介文にもある「大きな肖像写真」、めくって3ページ目に代表作の抜粋(光太郎は「レモン哀歌」)、最終ページで「作品解説」およびちょっとしたエピソードを紹介するコラム(光太郎の項では「光太郎と宮沢賢治」)。
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版元の想定では「対象:小学校高学年」ということですが、中学生くらいでも十分使えそうです。

ちなみに上下巻で、下巻で扱われているのは以下の通りです。当方、購入していませんが。

宮沢賢治/江戸川乱歩/草野心平/金子みすゞ/井伏鱒二/梶井基次郎/川端康成/中原中也/新美南吉/椋鳩十/中島敦/太宰治/三島由紀夫/寺山修司/まど・みちお/茨木のり子/吉野弘/井上ひさし

教育関係の方、お子様をお持ちの皆さん、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

毛皮に腰のひもをつける、 下水吸込を拡大の為穴掘、北の窓をふさぐ。


昭和26年(1951)11月19日の日記より 光太郎69歳

「〽ふーゆーがー、来っるっ前っにー」ですね(笑)。

5件ご紹介します。

まず、今日の放映。

にほんごであそぼ「日本全国いいとこコンサート in 福井」

NHK Eテレ 2022年1月16日(日) 15:30〜16:15

日本各地の“いいとこ”を訪ねるコンサート、今回は福井県です。福井の名産にちなんだコーナーや会場のみんなで作るコーナー、番組の人気曲や冬の歌をお楽しみください。

曲は「小さき者へ」「日本全国むかし歩き」「うなりやベベンの魚づくし」「ベベンの冬が来た」「スキー」「北風小僧の寒太郎」「切れ者寿限無」「恋そめし 福井方言バージョン」「でんでらりゅうば」「ベベンのたいづくし」ほか。“越前ガニコンビ”によることばあそびクイズや、観客の皆さんに聞いた身近にあるたのしみを紹介するコーナーもお楽しみください。福井県坂井市YURI文化情報交流館(ハートピア春江)で収録

【出演】おおたか静流,柳家わさび,ラッキィ池田 ほか

光太郎詩「冬が来た」(大正3年=1914発表)に、浪曲師の故・国本武春さんが「うなりやベベン」名義で曲を付け、自らも歌っていらした「ベベンの冬が来た」が演奏されます。
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明日以降、分割して放映され、「ベベンの冬が来た」は、第3回の放映分に含まれます。

にほんごであそぼ「日本全国いいとこコンサート in 福井」(3)

NHK Eテレ 2022年1月19日(水) 08:2508:35  再放送 17:00~17:10

日本語の豊かな表現に慣れ親しむ番組。今週は、福井県からコンサートをお届け!今回は…「ベベンの冬が来た」高村光太郎「冬が来た」より 作曲:うなりやベベン、「スキー」作詞:時雨音羽 作曲:平井康三郎 編曲:ASU、「北風小僧の寒太郎」作詞:井出隆夫 作曲:福田和禾子 編曲:ASU。ほかに「切れ者寿限無」「超切れ者寿限無」。福井県坂井市 文化の森・YURI文化情報交流館ハートピアホールで公開収録


続いて、2時間ドラマの再放送です。

ミステリー・セレクション・湯けむりバスツアー桜庭さやかの事件簿1 露天風呂に浮かぶ遺体の謎…22年ぶりの兄妹対面で起こった兄殺し 欲望渦巻く故郷で迎えた驚愕の結末とは!!

BS-TBS 2022年1月17日(月) 09:59〜11:55

高校生の娘と中学生の息子を持つシングルマザー・桜庭さやかは、ベテランバスガイド。しっかり者の子供たちに今日も起こされ、元気いっぱい仕事へと飛び出していく。今回のツアーは、猪苗代湖〜安達太良山〜会津若松を巡り、山形へと向かう旅。大盛り上がりのサンライズ商店街御一行様を前にさやかの名調子が冴える。ツアー客の中にはフラワーショップを営む佐野雄二と香織の兄妹も参加していた。2人はツアーの途中で22年ぶりに兄・修一に再会できることを楽しみにしていた。しかし、その兄が安達太良山で死体となって発見される。

【出演】 萬田久子、葛山信吾、酒井美紀、石橋保、大浦龍宇一、未來貴子、伊藤洋三郎、斉藤暁、徳井優、竜雷太(他)
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初回放映は平成21年(2009)でした。最初の事件現場が安達太良山、という設定で、「智恵子抄」が枕に使われます。ロープウェイ山頂駅近くの薬師岳パノラマパーク周辺などでロケを敢行。
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事件の鍵を握るフラワーショップ経営者役の酒井美紀さん、昨年、BS朝日さんで放映された「ゆるっと山歩(さんぽ)に行こう ▽登山を始めたい方必見!絶景やグルメも堪能!」にもご出演、この際、初めて山頂まで登られたということでしたが、当然「湯けむりバスツアー桜庭さやかの事件簿」のことも思い出されたことでしょう。

もう1件、安達太良山関連。

MY BEST WAY #124福島県・1泊2日ドライブ 後篇

BSテレ東 2022年1月18日(火) 20:49〜20:54

毎週、女性タレントがお気に入りのドライブコースを紹介します。旬なドライブスポットやサービスエリアのオススメグルメなど、ドライブに行きたくなる情報をお届けします。

今回、塩川菜摘さんがご案内するのは、福島県猪苗代町です。まず、国内で4番目の大きさを誇る「猪苗代湖」で、志田浜から雄大な景色や、観光船のはくちょう丸とかめ丸を眺めました。その後、雄大な安達太良山を一望することが出来る「東北道 安達太良SA下り」に立ち寄り、「あだたらラーメンミニ醤油ヒレカツ丼セット」を味わいました。
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基本、猪苗代湖ですが、東北自動車道安達太良SAも紹介されるとのこと。下記画像は一昨年、当方の撮影です。
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たしかに雄大な眺めですね。

こちらには光太郎智恵子、「智恵子抄」に関わる案内板もあるのですが、それが紹介されてほしいものです。ただ、5分間番組ですので、微妙なところですが……。
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最後に1件、岩手県での限定放映ですが、ご紹介しておきます。

わが町バンザイ【花巻市】

IBCテレビ 2022年1月19日(水) 19:00〜19:57

花巻市の西南地区をぶらり旅。道の駅で偶然の出会い!吉本新喜劇の横地眞平さんと一緒に水耕栽培の巨大ハウスを訪問!パクチーのお味は…?「たばこや」さんで編み物を?!地元で人気の焼肉店で絶品ホルモン&ラーメンに舌鼓!訪問した美容室で繰り広げられる爆笑トーク!花巻市の魅力を再発見する行き当たりばったり旅!

出演者 神山浩樹、甲斐谷望(IBCアナウンサー)
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一昨年7月の放映回「花巻南温泉峡」では、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)、さらに隣接する花巻高村光太郎記念館さんを大々的に取り上げて下さいました。今回も高村山荘が映るようですし、「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんが取り上げられ、インフォメーションスペースの光太郎、賢治に関わる展示が紹介されるそうです。

視聴可能な方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

三時半の電車、二ツ堰より山口行のトラツクに乗せられる。開拓事務所に醤油の荷を運ぶトラツク。小屋に早くつく。


昭和26年(1951)11月17日の日記より 光太郎69歳

花巻町に買い出しに行った帰り、花巻電鉄の二ツ堰駅から、思いがけずトラックに乗せてもらったとのこと。おそらくたまたま通りかかったか、駅周辺に停まっていたトラックの運転手が、約4kmあるので、「高村先生、乗ってくなんしょ(乗って下さい)」と声をかけたのでしょう。

そしてやはりおそらく、遠慮して断った光太郎を、半ば無理矢理乗せてくれたのではないでしょうか。そこで「乗せられる」。そうだとすれば、微笑ましいエピソードですね。

まさか、荷台に乗せられたわけではないとは思いますが(笑)。

都内から朗読系の公演情報です。

第2回 JILA朗読芸術祭

期 日 : 2022年1月21日(金)
会 場 : すみだトリフォニーホール 小ホール 東京都墨田区錦糸1-2-3
時 間 : 開演18:30(開場18:00)
料 金 : 3,500円(全席自由・税込)

出演/曲目
 レディー・マクベス
  原作:W.シェークスピア/音楽:安藤由布樹 
  作詞:W.シェークスピア、橘麗  脚本:橘麗  ピアノ:野嶋さやか
  朗読・歌:橘麗(マクベス夫人) 朗読:小島裕史(マクベス)
 おたよの恋
  作:宇野千代/音楽:服部和彦  朗読:桜さゆり  ピアノ:樋口真千子
 藤壺
  作:紫式部/音楽:服部和彦  朗読:杉浦貴子  フルート:片切葉子
 智恵子抄 より
  作:高村光太郎
  荒涼たる帰宅 ほか 朗読:小林己恵子  梅酒 ほか 朗読:鈴木裕美
 衝立の女
  作:小泉八雲  朗読:岩井奈美
 赤いろうそくと人魚
  作:小川未明/音楽:服部和彦  朗読:倉地ひとみ  ピアノ:森本理奈
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お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

集配人くる、新年ハガキ100枚引受、払ひズミ、


昭和26年(1951)11月15日の日記より 光太郎69歳

いわゆるお年玉付き年賀葉書のようです。翌年、昭和27年(1952)の新年用ですね。当方、この前年、昭和26年(1951)用のお年玉付き年賀葉書で光太郎が送ったものを持っています。ただし3月の発送で、余った年賀葉書を使ったという感じですが。
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今年は、明日、1月16日(日)が当選番号の発表ですね。当方、亡父の喪中だったため、今年は個人の方々には年賀状を出しませんでした。その分、届いた年賀葉書も例年の半分以下。切手シートの1枚でも当たればいいかな、と思っております。

1月11日(火)、『毎日新聞』さんの岩手版から。

「わんこそば」発祥は花巻 40年歴史追い続け結論 花巻の泉沢さん、研究成果自費出版 /岩手

000 「はい、じゃんじゃん!」。給仕の掛け声で、次々とおわんにそばが入れられる岩手名物のわんこそば。花巻市の泉沢善雄さん(68)はその歴史を約40年追い続けた。発祥の地を巡り「盛岡説」と「花巻説」で論争が続いたが、泉沢さんは自身の調査で「100%花巻」と結論付けた。
 花巻説は江戸時代前期の盛岡藩主・南部利直が花巻に寄った際、献上されたそばがおわんに盛られていたことに、盛岡説は大正時代の首相、原敬=盛岡市出身=が同市に墓参りで帰省した際に「そばは椀コに限る」と言ったことに由来。両市は互いに「発祥」を譲らなかった。
 泉沢さんは、店主らの聞き取りや郷土史の文献調査などで、明治時代に初めてわんこそばという名称で提供したのが花巻の「大畠家」だと突き止めた。一方、盛岡で広まったのは、戦後、盛岡のそば屋が大畠家を参考にして始めたことがきっかけだった。
 さらに盛岡で普及する前の1946年、詩人高村光太郎が知人に送った手紙に「花巻のワンコソバでも早く復活すればいい」という記述を見つけたのが決定打となった。「重要な証拠。2年ほど前に古本屋で偶然見つけたときはうれしかった」
  泉沢さんは県内の高校を卒業後、上京し銀行に勤務した。そばとの関わりは79年、体調を崩した母親のため25歳で花巻市のそば屋に転職したことから始まる。「いろいろな巡り合わせでそばと出合った」と懐かしむ。仕事にも慣れた83年ごろ、調査を始めた。
 研究成果をまとめた本を2021年8月に自費出版。「わんこそばの調査は終えた」と肩の荷を下ろす。今後は従来、関心がある宮沢賢治研究にいそしむつもりだが「新事実を見つければまた調べ始めるかも」。わんこそばとの縁は切れそうにない。

泉沢氏とわんこそばの件につきましては、昨年11月に『日本経済新聞』さんに取り上げられまして、このブログでも紹介させていただきました。

日経さんには、戦後、花巻の老舗そば店・嘉司屋さんに光太郎が訪れていたという記述があった程度でしたが、今回の記事によると、光太郎の書いた書簡にわんこそばに関する記述があって、それが花巻発祥説の根拠となったそうで、驚きました。

となると、泉沢氏のご著書にも光太郎に関する記述があるだろうと思い、調べてみました。題名は『わんこそば―その歴史と文化―』。昨年8月の刊行でした。県内の図書館さんやそば店さんに寄贈された他、花巻のマルカンビルさんや賢治の学校さんで販売、とのこと。先月、マルカンビルさん、賢治の学校さん双方に立ち寄りましたが、気づきませんでした。もう売り切れていたのか、そちらで販売されていることを知らなかったので見落としたのか、というところです。

また3月に花巻行きの予定ですので、その際に探してみようと思っております。地元の方々は、その前にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

弘さんに風呂桶進呈の約束、


昭和26年(1951)11月13日の日記より 光太郎69歳

弘さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた、花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓地に入植した青年。「風呂桶」は、昭和23年(1948)、村人や宮沢家の厚意で光太郎に贈られた物でしたが、薪を大量に使わなければならず、結局、あまり使われませんでした。

花巻に現存し、平成29年(2017)、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻の湯」で展示されました。
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『毎日新聞』さん東京版で、昨年12月から今年の1月8日(土)にかけ、3回に分けて連載された記事です。少し前には東北版にも掲載されたようです。

ぐるっと東日本・くつろぎの宿 青根温泉 湯元不忘閣

伊達政宗がつかった石風呂でゆったり 文人も愛した名湯の宿
000 温泉につかれば、名将政宗の気分――。東北きっての武将といえば伊達政宗である。政宗ら仙台藩主御用達の温泉宿が宮城県にある。青根温泉の湯元不忘閣だ。幾多の歴史を刻み、文化財級の建物が林立する名宿はかつて文人にも愛された。政宗もつかった名湯の宿とは――。
  ◇一番の自慢は「歴史と温泉」
 伊達政宗をこれほどまでに身近に感じたことがあっただろうか。「政宗も入った石組みの湯船」で温泉につかると、ゆったりとした気分とともに「政宗と裸の付き合いに……」と変な感慨が増してくる。
 青根温泉は、宮城と山形にまたがる蔵王山麓(さんろく)に位置し、湯元不忘閣は歴代仙台藩主の保養所だった。1606年に滞在した政宗が「この感激と喜びを忘れないように」と「不忘」と名付けたことがその名の由来とされる。008
 湯守(ゆもり)と関守を務めた不忘閣当主は代々、佐藤仁右衛門(にうえもん)を襲名してきた。訪れると、現在の21代当主に代わり、妻でおかみの真由美さん(57)が対応してくれた。
 おかみによると一番の自慢は「歴史と温泉」だという。
 初代・佐藤掃部(そうぶ)(後に仁右衛門を名乗る)が青根温泉の発見者の一人とされる。1528年の発見当初から「手付かずの天然温泉」と言われるのは、湧き出た源泉がそのまま注がれ続けてきたからだ。
 風呂は全部で六つある。
 その一つ「大湯 金泉堂(きんせんどう)」が「政宗の湯」の看板を掲げる。薄暗い建物内にある細長い石風呂だ。
 共同浴場としても使われてきたが、建物の老朽化で2006年に閉鎖。伝統工法を用い、青森ヒバと土壁で造った建物が08年に完成した。002
 1546年に石工30人が組み上げた湯船はそのままで、かすかに温泉臭のする透明な湯が、「ざばざば」と絶え間なく注がれる。水面に反射した光が、屋根裏に架けられた青森ヒバの丸太に揺らめく。
 また、「蔵湯浴司(よくす)」は、三の蔵のうち穀蔵の2階の床を取り払い、ヒノキ風呂を置いた。「蔵の前の石畳のたたずまいをお客さんにも楽しんでほしい」。真由美さんが発案し、仁右衛門さんの設計で2006年に完成した。
 豪華旅館と思われがちだが、歴史を刻み昭和をほうふつとさせる古い木造建築の温泉旅館だ。「秘湯」と呼ばれることについて、おかみが言う。
 「大好き。ひなびたイメージがいい」

◇タイミング、94段の階段…
 大湯は時間制で男女入れ替えだが、蔵湯は貸し切りだ。建物から草履に履き替えて石畳を歩く。三つの蔵の間に大崎八幡宮の小さなほこらがあった。一番奥の蔵の重たい引き戸を開けると、吹き抜けの空間にヒノキ風呂が置かれ、脱衣場がある。蔵の静けさの中で湯の注がれる音だけが響く。荘厳な雰囲気だ。
 ただ、蔵湯に入るのは、なかなか難儀する。旅館の受付脇に置かれた青森ヒバ製の「蔵湯 貸切札」だけが「空き」の目印だからだ。30センチほどの札を持って蔵湯へ行き、「30分以内の入浴」を終えたら札を元の場所に戻す。タイミングが合わず、一度も蔵湯に入れない客もいるらしいが、おかみの真由美さんはこう説明する。004
 「空きを電光掲示板で表示することもできますが、秘湯の温泉らしく、あえて木札にした」
 また、受付を真ん中にして、六つの風呂が点在している。
 「風呂を行ったり来たりしていれば、いつかは札に出合えます」
 「御殿湯」の大と小(時間制で男女入れ替え)、共同浴場としても使われた「新湯」(同)、先々代の当主の幼名をつけた「亥之輔(いのすけ)の湯」(貸し切り風呂)――。風呂巡りが楽しい。
 新湯は石組みの湯船が大湯に次いで古い。11年完成の亥之輔の湯は、茶室のような入り口をかがみながら入ると、小さな石風呂がある。半露天で、江戸時代の石垣を見ながら湯船につかれる。
 風呂を堪能したら、もう一つ難儀なことが待っていた。山の斜面に造られた客室の最上階に泊まると、受付から数えて94段の階段を上り切らなければならない。風呂はすべて1階にあり、蔵湯の木札を「ちょっと見に行く」などとても無理で、息が切れてしまう。
 でも、天気がいい日には仙台の街明かりが展望できる。1階には風呂の合間の休憩所「喫茶去(こ)」があって地酒の振る舞いもあり、難儀なことも報われる。
 「客室を造るか、蔵湯と大湯を造るか、どちらにお金をかけるか迷いました。豪華なお風呂は家にはありませんので」
 温泉旅館の誇りに懸けて蔵湯と大湯に資金をつぎ込んだ選択は正しかったようだ。

 ◇国登録の文化財が目白押し
007 「ひなびたイメージ」とおかみが謙遜する秘湯の名宿だが、伊達政宗ら仙台藩主の御殿湯だった490年超の足跡は確かに残る。
 離れの建物や門、1896年ごろに建造された蔵湯の建物を含む蔵三つ、会食室として使われている1907年建造の木造2階建て本館、そして、仙台藩主が泊まった建物を32年に復元した木造2階建て入り母屋造りの青根御殿――。2014年にこれらの建造物が国登録の有形文化財となった。
 うち、青根御殿には、仙台藩ゆかりの書画骨董(こっとう)と江戸時代の古文書が展示されている。3000点もの古文書があり、東北大学の寄付研究部門による解読文書も一部添えられている。
 おかみは毎朝、館内歴史ツアーのガイド役も務める。
 政宗の父輝宗が着用したとされる鎧兜(よろいかぶと)、仙台藩主が狩りで使った弓矢、お姫様の鏡台、弁当箱、狩野探幽の掛け軸、欄間には伊達家の三引(みつびき)両紋と竹に雀(すずめ)紋……。「お殿様が置いていったものがほとんど」だという。蔵王の山麓にあって交通の便も良くないが、文人にも愛された。003
 与謝野鉄幹・晶子夫妻は2度訪れ、歌を詠んだ。芥川龍之介は菊池寛のすすめで1カ月間、座敷蔵に滞在したという。斎藤茂吉、高村光太郎・智恵子夫妻、吉川英治、川端康成、古賀政男が宿泊した記録も残る。
 山本周五郎が歴史小説「樅(もみ)ノ木は残った」を完成させたのは青根御殿の部屋で、窓からは今もモミの木が見える。
 同小説が70年にNHKの大河ドラマになった際に「樅ノ木ブーム」が起き、宿泊客からの要望で始まったのがこの館内歴史ツアーだという。
 ただ、文化財にもなった貴重な古建築を維持するのは苦労も多い。「ご先祖様がここまで守ってきたのだから、自分の代で消したくはない」。次代に向けて政宗ゆかりの名宿は歩みをとどめることはない。005

 ◇メモ
 東北新幹線の白石蔵王駅からミヤコー路線バスで約50分、仙台駅からはミヤコー高速バスで約60分。どちらも「遠刈田温泉、アクティブリゾーツ宮城蔵王」行きで終点まで。アクティブリゾーツ宮城蔵王からは宿の車で送迎してくれる。駐車場あり。予約は湯元不忘閣のホームページから。 電話0224・87・2011。
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光太郎は、昭和8年(1933)、心を病んだ智恵子の療養のため、各地の温泉巡りに智恵子を連れ歩きます。初夏には草津、そして8月24日から9月上旬にかけ、東北と北関東の温泉地。裏磐梯川上温泉を皮切りに、青根温泉、再び福島に戻り土湯温泉の奥にある不動湯、最後は栃木の塩原温泉

当方、このうち、草津にはだいぶ前に2度訪れました。裏磐梯川上温泉は近くを通ったことはありますが、ここが光太郎智恵子の泊まったところだ、という場所は未踏です。不動湯は、平成25年(2015)に焼失する前に1度、それから焼失直後、さらに日帰り温泉施設として復活してからも訪れました。塩原にも1度足を運びました。

そして、青根温泉。もう5年近く経つか、という感じですが、その際のレポートがこちら。宿泊させていただきましたので、記事にある各湯にゆったりつかり、不忘閣の館内歴史ツアーも体験しました。またぜひ泊まってみたい宿の一つです。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

盛岡より宮静枝さん、甥(千葉氏)の人と子供二人つれてくる、新小屋。ライカにて撮影いろいろ、宮さんにカーテンぬつてもらふ。


昭和26年(1951)11月11日の日記より 光太郎69歳

宮静枝は詩人。光太郎とは戦前から交流があり、昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた宮沢賢治追悼の会(この席上で、有名な「雨ニモマケズ」が書かれた手帳が「発見」されました)に、光太郎ともども参加しています。下の画像、前列左から二人目が宮、四人目が光太郎、その隣が賢治実弟の清六です。
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宮は平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』(熊谷印刷出版部)を刊行し、第33回土井晩翠賞に輝きました。この詩集は全編光太郎訪問を元にしたもので、巻頭のグラビアページには、日記にある「ライカにて撮影いろいろ」という写真が14葉も載っています。また、盛岡市立図書館さんには、写真そのものも寄贈されています。
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珍しい光太郎の後ろ姿も。
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2件ご紹介します。

まず、一昨日の『茨城新聞』さんの一面コラム。

いばらき春秋

連日氷点下の厳しい朝が続く県内。6日に降り積もった雪がなかなか解け切らず、いまだに日陰で残っている所も多いだろう▼下館駅前のビルにある筑西支社からは関東平野の眺めが素晴らしい。快晴の日には冠雪した富士山や日光連山、時には浅間山もよく見え、真冬ならではの景色が楽しめる▼この時季にふさわしいのは高村光太郎の「冬が来た」という詩である。「きつぱりと冬が来た」という勇ましい書き出しで始まり「きりきりともみ込むような冬が来た/人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た」と厳しさを描く▼草木に背かれ、と詩人は表現しているが、この寒さが春の桜の開花には大事な条件だという。冬に入る前に休眠状態に入った花芽は一定期間低温にさらされることで目を覚まし、開花の準備を始める。それを「休眠打破」と呼ぶのだそうだ▼作品の主人公は前向きだ。「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」と力強い。真正面から受け止め、立ち向かう覚悟を示す▼寒さがなければ春は来ない。それは分かっているけれど寝床からなかなか抜け出せない。そんなとき、休眠を打破するために詩の一節をつぶやいてみよう。春はもうすぐだ。(飯)

温暖な千葉県に住んでいますと、冬の寒さには弱くなります。1月も半ばとなると、もう冬はいいから、早く春になってくれ、という感じです(笑)。「冬よ/僕に来い、僕に来い」という光太郎の気が知れません(笑)。

しかし、「休眠打破」だそうで、この寒さが植物の生育には欠かせないとのこと。まぁ、それも頭では分かっているのですが……(笑)。

ちなみに「6日に降り積もった雪」とありますが、千葉でも積雪となりました。降り始めた6日の昼頃。
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翌朝、裏山の中腹から。ここまで積もったのは数年ぶりでした。
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昨年4月に17歳で逝ってしまった愛犬と毎日行っていた公園。
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愛犬が生きて元気だったら、転げ回って喜んでいたでしょう。
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もう1件、『産経新聞』さんの読書面、1月8日(土)の掲載でした。

本ナビ+1 詩人・和合亮一 『写文集 我が愛する詩人の伝記』 心突き動かす詩人の「生気」

009 新しい年に、ふと…。そもそも詩人とは、どんな人間なのだろうと考え込んでしまった(私も一応、詩人ではあるのだが)。それはあらためて、自分自身を知りたいという気持ちと似ている。だからなのかもしれない。この本を手に取ったとき、一瞬にしてこみあがるものを感じた。簡単には言明できない何かを。
 本書は北原白秋、高村光太郎、萩原朔太郎、立原道造…。12の詩人をめぐる室生犀星による伝記である。例えば朔太郎は前橋、立原は軽井沢…、故郷や生活した土地とそれぞれの人物のエピソードと、地の風土を鮮明にとらえた濱谷浩の写真が並ぶ。深い親交のあった犀星にしか語れない挿話の数々は、人物をあらゆる角度から、新しく、時には丸裸にしていて面白い。
 生々しい逸話に垣間見える横顔にくすりと、そしてほろりとさせられる。伝説の詩人たちもただの人間だったんだなあと呟(つぶや)きたくなる。あとがきに「若(も)し少しでも生気が溜(た)まっていたら嬉(うれ)しい、その生気のみがこの書物のたすけになるからである」と。なるほど。詩人のもたらす「生気」に初めから私は突き動かされたのかもしれない。本の中の息づかいに耳を澄ますようにして読み進めると近代詩と詩人の全景が立体的に見えた気がした。
 そして生ばかりではなく死の場面にも触れている。どの詩友よりも生きのびてこれを書いていると語る犀星の切ない姿が随所に見受けられる。
 「詩というものは先(ま)ずまねをしなければ伸びない、まねをしていても、まねの屑(くず)を棄(す)てなければならない」という一節に詩作の秘訣(ひけつ)を教えられた思いがした。日本の詩の礎を築いたいわば開拓者たちの言葉と人生をあらためて堂々と真似(まね)てみたいと思った。

詩人の和合亮一氏が、先月刊行された『我が愛する詩人の伝記』(室生犀星 文/濱谷浩 写真 中央公論新社)の書評を寄せられています。さすがに和合氏、的確な評ですね。

これ以外にも、まだ各紙で光太郎の名を出して下さっています。明日のこのブログも、その辺で。

【折々のことば・光太郎】

笹間の猟師が青猪の毛皮を持つてくる、スルガさんに見てもらふやうにいふ。スルガさん毛皮持参、6000円の分を求める事にする。中々よろし。スルガさんに托して背中に着られるやうにしてもらふことをたのむ。


昭和26年(1951)11月10日の日記より 光太郎69歳

笹間」は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の隣村。「青猪」は「あおしし」と読み、カモシカのことです。光太郎の山小屋付近にも時々現れました。

スルガさん」は、光太郎に山小屋の土地を提供してくれた駿河重次郎、あるいはその子息。猟師から直接買うのではなく、いったん、詳しい地元民に相場等を聞いて購入したのでしょう。
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上記画像がおそらくこの時の毛皮です。翌年の詩「山のともだち」に、「角の小さいカモシカは/かわいそうにも毛皮となつて/わたしの背中に冬はのる。」という一節があります。

群馬県から企画展情報です。

第114回企画展「写真で見る近代詩—没後20年伊藤信吉写真展—」

期 日 : 2022年1月15日(土)~3月13日(日)
会 場 : 群馬県立土屋文明記念文学館 群馬県高崎市保渡田町2000
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 火曜日
料 金 : 一般410(320)円、大高生200(160)円 ( )内は20名以上の団体割引料金
      中学生以下、障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名は無料

前橋市出身で詩人・評論家として活躍し、当館の開館時館長を務めた伊藤信吉は、昭和30年代末から約10年をかけて、全国の詩人ゆかりの地を訪ねました。それは、詩人としての伊藤の人生に大きな視点の変化をもたらすものでした。
本展では、高度経済成長期の激変する社会の中で伊藤が見、写真に残した風景を、その土地と詩人との結びつきに着目した紀行文とともに展示します。令和4年の新春は、文学館で名詩を巡る旅に出かけてみませんか。
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関連行事

記念講演会1「写真家の心 詩人の眼 —伊藤信吉さんのこと」
 令和4年2月5日(土)14:00~15:30  講師 小松健一 氏(写真家)
 定員100名 無料 要事前申込

記念講演会2「《ひらく》詩の世界 —伊藤信吉、旅の先にあるもの—」
 令和4年3月5日(土)14:00~15:30  講師 東谷篤 氏(日本社会文学会理事)
 定員100名 無料 要事前申込

展示解説
 1月15日(土)、1月30日(日)、2月19日(土) 各日14:00~(20分程度)要観覧料 申込不要

同館初代館長で、生前の光太郎とも交流の深かった伊藤信吉。展示解説にあるように、昭和30年代末から約10年をかけて、全国の詩人ゆかりの地を訪ね、写真を撮影し、紀行文にまとめました。

まず、昭和41年(1966)の『詩のふるさと』、同45年(1970)には『詩をめぐる旅』。共に新潮社さんから刊行されました。
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『詩のふるさと』の目次は以下の通り。

 さいはての町 釧路(石川啄木)     雪の曠野の旅 空知川(石川啄木)
 砂山の思い出 函館(石川啄木)     ふるさとの歌 渋民村(石川啄木)
 空知川の岸辺 歌志内(国木田独歩)   情感の物語 小樽(伊藤整)
 浜風のなでしこ 塩谷・忍路(伊藤整)  花の田舎唄 津軽(福士幸次郎)
 湖畔の乙女像 十和田(高村光太郎)   樹下の二人 阿多多羅山(高村光太郎)
 山麓の二人 裏磐梯(高村光太郎)    自己流謫の地 岩手(高村光太郎)
 北上川の畔 花卷(宮沢賢治)      地人・土地の愛 花卷(宮沢賢治)
 古城にうたう 仙台(土井晩翠)     懐郷の国語読本 上小川(草野心平)
 利根のアカシヤ 前橋(草野心平)    波宜亭の秋 前橋(萩原朔太郎)
 追憶の古き林 前橋(萩原朔太郎)    おだまきの花 山科(萩原朔太郎)
 山脈の方へ 三国峠(高橋元吉)     雲に寄せて 大洗(山村暮鳥)
 蓮に書ける歌 不忍池(与謝野鉄幹)   都会の触手 東京(萩原恭次郎)
 「はけ」の村の記憶 多摩(村野四郎)  旅人かえらず 相模川(西脇順三郎)
 湖畔の亡命者 山中湖(金子光晴)    湖に凍る歌 山中湖(金子光晴)
 秋の夜をこめて 甲府盆地(尾崎喜八)  高原に立って 美ヶ原(尾崎喜八)
 浅間山麓の村 追分(立原道造)     生涯の秋の歌 追分(立原道造)
 林檎の花の慕情 馬籠(島崎藤村)    千曲川のほとり 小諸(島崎藤村)
 伝説の荒い海 親不知(中野重治)    荒涼の旅情 親不知(中野重治)
 裏日本の村 生地(田中冬二)      湖面の星座 松江(田中冬二)
 犀川のほとり 金沢(室生犀星)     雪に萌える春 金沢(室生犀星)
 朝明けの空の雁 洲崎(室生犀星)    切なき思いぞ 軽井沢(室生犀星)
 砂丘の夜の流星 内灘(井上靖)     薬種商の町で 富山(井上靖)
 豪奢なる亡び 京都(村山槐多)     「葦の地方」で 大阪(小野十三郎)
 市民精神の歌 堺(与謝野晶子)     追憶の夜の雨 奈良(西条八十)
 紀の国の五月 新宮(佐藤春夫)     「愚者」の墓地 新宮(佐藤春夫)
 名も知らぬ花 犬吠岬(佐藤春夫)    金釘流の母たち 播磨(坂本遼)
 一輪の花の幻 広島(原民喜)      人間を返せ! 広島(峠三吉)
 水は流れて…… 長門峡(中原中也)   ふるさとの風 湯田(中原中也)
 GONSHAN.GONSHAN. 柳川(北原白秋) 水の上の廃市 柳川(北原白秋)
 利休鼠の雨 城ヶ島(北原白秋)     落葉松の林 軽井沢(北原白秋)
 泥海の物語 有明海(伊東静雄)     帰郷者の墓 諫早(伊東静雄)
 殉教者たちの声 長崎(大江満雄)    山村の天主堂 大江(木下杢太郎)
 雨の放牧場で 草千里浜(三好達治)   二十年の回憶 草千里浜(三好達治)
 西南戦争の後に 阿蘇(落合直文)    叢の中の礎石 都府楼址(伊藤信吉)

同じく『詩をめぐる旅』。

 北海の日の在処 オホーツク(北原白秋) 渚の黒い人影 北見・網走(中野重治)
 「海の捨児」の碑 塩谷(伊藤整)    シャコタン紀行 古平(吉田一穂)
 修道院の鐘の音 当別(吉田一穂)    月夜の連絡船(吉田一穂)
 星形の洋式城趾 五稜郭(秋山清)    最北端の夏の海 野寒布岬(草野心平)
 十三の砂山唄 北津軽(草野心平)    花輪の中の富士 荒川土堤(草野心平)
 雪国のオルガン 岩根沢(丸山薫)    まんさくの花 岩根沢(丸山薫)
 牧歌的な聖地 小岩井農場(宮沢賢治)  畦道の墓花 雫石(宮沢賢治)
 鹿踊りの高原 種山ヶ原(宮沢賢治)   濃霧の夜の航路 三陸海岸(高村光太郎)
 千鳥の足あと 九十九里浜(高村光太郎) 国境の工事現場 清水トンネル(高村光太郎)
 冬の夜の火星 駒込台地(高村光太郎)  若菜の萌える春 仙台(島崎藤村)
 「椰子の実」の歌 伊良子岬(島崎藤村) 松山のひぐらし 平潟(西條八十)
 生と死の荒海 銚子君ヶ浜(三富朽葉)  郷愁をこめて 水郷潮来(野口雨情)
 沖に鳴る石臼 房州布良(金子光晴)   燈台の物語 房州白浜(金子光晴)
 潮流の連絡船 関門海峡(金子光晴)   早春の芽立ち 荒川(森山啓)
 葉ざくらの陰に 東京九段(白鳥省吾)  もろこし村の秋 河口湖(堀口大学)
 霜の溶ける「声」 鎌倉円覚寺(高見順) 峠路の道しるべ 飯能・入間(蔵原伸二郎)
 家郷への渇き 品川沖(萩原朔太郎)   監獄裏の雑木林 前橋(萩原朔太郎)
 敗亡者の墓銘 国定(萩原朔太郎)    海水旅館の灯 鯨波海岸(萩原朔太郎)
 出稼ぎの別れ 赤城山麓(萩原恭次郎)  望郷の山上湖 榛名湖(山村暮鳥)
 風の町の思い出 高崎(福永武彦)    漁師町の年月 戸田(福永武彦)
 蒟蒻村紀行 下仁田(西脇順三郎)    「分去れ」の歌 追分(立原道造)
 北佐久の「村人」 佐久(佐藤春夫)   高原牧地の憂愁 野辺山(尾崎喜八)
 旅の途次の音楽 安曇野(尾崎喜八)   山の抒情日誌 戸隠(津村信夫)
 啄木鳥の橡量り 野麦街道(田中冬二)  風車をまわして 糸魚川(田中冬二)
 失われた砂山 新潟(市島三千雄)    松林の蔭の尼寺 金石(室生犀星)
 粉雪の舞う港 能登七尾(室生犀星)   古都漂泊の歌 西陣(室生犀星)
 砂山に描く面影 利根河畔(室生犀星)  昔の日の暮れ 福井(中野鈴子)
 断崖の水仙花 三国(三好達治)     志賀高原の四季 発哺・上林(三好達治)
 旅の終りの鷗鳥 伊豆西海岸(三好達治) 砂浜の網の花 安乗崎(伊良子清白)
 壁にのこる楽書 尾張一宮(佐藤一英)  物質的な感動 飛騨(小野十三郎)
 火を噴く砂丘 鳥取(小野十三郎)    別離を思う旅 日の御碕(木下夕爾)
 中国山脈の野分 伯耆大山(井上靖)   幻の石楠花の花 比良(井上靖)
 煙まやまやと 神戸(八木重吉)     海図の導く死 小豆島(生田春月)
 ふるさとの墓山 宿毛(大江満雄)    街の石油ランプ 宿毛(大江満雄)
 「新しき村」の歌 日向(武者小路実篤)

これらの中から、パネル展示などがなされるようです。ぜひ光太郎も取り上げていただきたいところです。

それから関連行事の講演会。2月5日(土)の講師を務められる写真家の小松健一氏、伊藤の著書と同じようなコンセプトの『詩人を旅する』という書籍を刊行されています。平成11年(1999)、草の根出版会さんの「母と子でみる」という叢書の一冊です。

こちらの目次は以下の通り。

 啄木の流離を巡る北の旅006
 啄木が青春を謳歌した盛岡
 啄木、中学生の時の思い出
 賢治の感性を育んだイーハトーブ
 茂吉のこころ映す最上川の急流
 自己を罰した奥羽の山小屋
 牧水が好んだ上州「枯野の旅」行
 赤城おろしの中にきく望郷歌
 雨あがりの浅間山麓の虹
 藤村を酔わした千曲川の蒼き流れ
 木曽谷・大妻籠の夜明け
 遠きふるさと 能登・犀川の原風景
 春夫が愛した五月の紀の国
 晶子を育てた自由都市・堺
 にんげんをかえせ 峠の叫び聞く広島の夏
 中也20歳 詩人への宣言
 白秋詩歌の母体 水郷柳川
 火の国・阿蘇 雨の草千里浜

色を変えておきましたが、「自己を罰した奥羽の山小屋」の章が、光太郎関連。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋が中心ですが、智恵子の故郷、福島二本松も扱われています。

小松氏、光太郎の代わりに髙村家を嗣いだ実弟の豊周令息の故・髙村規氏と、日本写真家協会の役員を共に務められるなど、旧知の仲だったそうで、氏のブログには昨年末に開催された東京藝術大学大学美術館正木記念館さんでの「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展レポートなども載っていました。

これは行かざあなるめい、ということで、講演の拝聴申し込みを致しました。後ほど、展示と併せてレポートいたします。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

塩がまの人佐久間氏といふ人新婚にて花巻松雲閣より八重樫マサさんの案内で来訪、前田夕暮の弟子の由。


007昭和26年(1951)11月9日の日記より 光太郎69歳

八重樫マサ」は花巻温泉松雲閣の仲居さん。たびたび光太郎訪問客の案内役を務めたそうです。

佐久間氏」は仙台ご在住の佐久間晟氏。永らく警察庁技官を務められたかたわら、光太郎とも交流のあった前田夕暮に師事して短歌に親炙し、宮城県歌人協会会長、NHK仙台ラジオ歌壇・『毎日新聞』宮城歌壇選者などを務められました。夫人のすゑ子氏も歌人で、ご夫妻で歌誌『地中海』同人でした。右画像、左から八重樫マサ、光太郎、佐久間夫妻です。

平成17年(2005)、同誌にこの日の光太郎訪問記等がすゑ子夫人のご執筆で掲載され、その後、当方、仙台でご夫妻と面会、詳しくお話を伺うことができまして、その際の聞き書きを『高村光太郎研究』第28号(平成19年=2007、高村光太郎研究会)に寄稿いたしました。

008それによれば、光太郎の山小屋の書棚に白い皿へ置かれたレモンがあって印象的だったとか、新小屋の掘りごたつにはラジエントヒーター(ニクロム線が渦巻きになってついている鍋用の電熱器)が入っていたなど、細かな様子まで覚えておいででした。

光太郎の話も、「風呂の湯から智恵子が飛び出してくる幻を見た」とか、外出から帰ると智恵子が居るような気がしてつい「ただいま」ということがあるとか、しんみりさせられるものだったそうです。

話は戦前のことにも及び、駒込林町のアトリエでは、階上の智恵子を呼ぶのに大声をあげたくないので、土鈴を鳴らして呼んでいたとか、ゼームス坂病院に持って行ったレモンは懇意にしていた銀座のレストランの厨房から頒けてもらっていた(当時、青果店にはほとんど売っていなかった)など、他の資料にはほぼ見あたらない内容も含まれていました。

山形県から演奏会情報です。

合唱団じゃがいも第48回定期演奏会 林光さん没後10年を偲んで

期 日 : 2022年1月15日(土)
会 場 : 山形市民会館 大ホール 山形市香澄町2-9-45
時 間 : 14:30 開演 (14:00 開場) 
料 金 : 一般 1,500円/学生 800円/高校生以下 無料

林光さん 没後10年を偲んで
芸術監督 林 光 さんと一緒に演奏した初演作品などを中心に演奏します。
●令和三年度県民芸術祭特別参加 ●山形市芸術祭参加

作曲:林光 指揮:鈴木義孝
ピアノ:郷津由紀子 クラリネット:郷津 隆幸 ヴァイオリン:茂木 智子

宮沢賢治詩華集
 序詞 海だべがど 「無声慟哭」から ポラーノの広場のうた ほか
谷川俊太郎詩華集
 空に小鳥がいなくなった日 三つのイメージ 死んだ男の残したものは
 歩くうた ほか
佐藤信詩華集
 三十五億年のサーカス ほんとうの空へ うた ねがい ほか
そのほか
 ソング・劇中歌など
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プログラムに入っている「ほんとうの空へ」は、平成7年(1955)に福島県で開催された、第50回国民体育大会(キャッチフレーズ「友よ ほんとうの空に とべ!」)のために作曲された「ふくしま国体讃歌」です。開会式で、福島県内の高校生による合唱、福島県警察音楽隊によって演奏されました。

林氏が没後10年ということもあり、また演奏される機会が増えてきたようで、昨年は独唱歌曲のコンサートで取り上げられています。

光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」、あるいは「う」を補っての「ほんとうの空」(できれば光太郎が書いた通りの「ほんとの空」で統一して欲しいのですが……)という語、特に東日本大震災による福島第一原発のメルトダウン以後、福島県を語る枕詞的によく使われるようになりました。しかし、林氏の「ほんとうの空へ」もそうですが、その使用例は意外と古く、昭和54年(1979)には、福島県と福島県観光連盟が「観光ふくしま」キャンペーンのキャッチフレーズに使ったあたりからではないかと思われます。

昨年12月22日(水)の『福島民報』さん。

「福島県 今日は何の日」1979(昭和54)年12月22日 「“ほんとの空”があるふくしま」 決定

 県と県観光連盟が「観光ふくしま」のキャッチフレーズを発表した。全国から2920点の応募があり、高村光太郎の「智恵子抄」から引用した“ほんとの空”を使い、澄んだ青空を持つ本県のイメージを表現した。
 当選作に応募したのは東京都の主婦。この他、「やまといで湯と歴史が招く」「もうひとつのふる里」が優秀賞だった。

昭和54年の紙面の画像も載っていました。
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「ほんとの空」、末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

十一月三日頃が紅葉の頂上と見ゆ、美しさ限りなし。ウルシ、ハゼは既に散れど 楢、ツツジ等紅、栗黄色となる、一体に金茶いろ。


昭和26年(1951)11月3日の日記より 光太郎69歳

「ほんとの空」の下、安達太良山の紅葉も見事ですが、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺も、秋本番には美しい紅葉に覆われます。

今年のカレンダー、光太郎に関係するものを入手していますのでご紹介します。

まず、光太郎第二の故郷、岩手花巻で光太郎顕彰に当たられている、やつかの森LLCさん発行のものが2種類。いずれもB3判の1枚物で、12ヵ月分です。
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左上は、昨秋刊行された写真集『山からの贈り物 やつかの森の四季』から写真を採ったもので、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋と、その周辺の風景です。
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右上は、『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』さんに連載中の「光太郎レシピ」から。リーフレットもついていました。
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いずれも「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんで販売中です。

もう1点。東京都立川市に本店を置く、多摩信用金庫さんのカレンダー。系列のたましん美術館さんの収蔵品をあしらったものです。

A2判で、すべて彫刻が使われています。表紙には中国六朝時代の「東魏二尊仏」、1~3月(初めて見ましたが、3ヵ月で1枚です)が、光太郎の盟友・荻原守衛の「女」(明治43年=1910)。
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4~6月に、光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)。
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7~9月は、光太郎に影響を受けた中原悌二郎の「若きカフカス人」(大正8年=919)、そして10~12月で、光太郎が敬愛したロダンの「カレーの市民」(明治17年=1884)。
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彫刻フリークにはたまらないと思います(笑)。

当方、ネットオークションで入手しました。今日現在、まだ出品されているようですし、たましんさんでも配付しているかもしれません。

それにしても、光太郎智恵子がらみのカレンダー、毎年のように入手はしていますが、結局、勿体なくて使えません(笑)。今年の3点も大事に保存します。

【折々のことば・光太郎】

山口小学校のため揮毫、「正直親切」と横にかく。


昭和26年(1951)10月25日の日記より 光太郎69歳

「正直親切」。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近く(といっても1キロメートル弱)の山口小学校に、校訓として贈った言葉です。
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12月には同校の学芸会に招かれた光太郎、児童たちにこの言葉について、こう語りました。

結局、平凡なことですが、「正直」というのを採りました。正直は一番根本になると思いますし、正直はそのときは損なようでも、永い間には得になるのです。それに「親切」を加えました。そういうわけで、あの書「正直親切」をあげた次第です。

書は、戦後風に左から右に書き、さらに低学年でも読めるようにと新仮名遣いでルビを振っています。

この文字を刻んだ碑は、山口小学校跡、光太郎の母校である東京都荒川区の第一日暮里小学校ん、光太郎と交流のあった田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市立新宿小学校さんにそれぞれ建てられています。

余談ですが、1月12日(水)には、東松山市で生涯学習講座の講師オファーがあり、行って参ります。

2件ご紹介します。

まずは2時間ドラマの再放送。

おかしな刑事8 居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査!東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!

地上波テレビ朝日 2022年1月10日(月) 13:54〜15:48

ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田”という名字が気にかかり…

◇出演者 伊東四朗、羽田美智子、石井正則、小倉久寛、辺見えみり、山口美也子、
     木場勝己、小沢象、丸山厚人、菅原大吉 ほか

初回放映は平成23年(2011)、その後、年に1、2回、くり返し再放送されています。つい先週も系列のBS朝日さんで放映があったばかりです。
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事件関係者の一人が二本松出身という設定で、『智恵子抄』詩篇がモチーフとして使われています。
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番組後半には、二本松ロケのシーンも。
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ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。

もう1件、くり返しご紹介している「いのちの石碑」関連です。東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の精神を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続け、昨秋、当初予定の21基目が除幕された「いのちの石碑」

25歳〜情熱の起点〜

地上波テレビ朝日 2022年1月12日(水) 23:10〜23:15

世界を舞台に活躍する各界のトップランナーに注目。25歳という年齢・時期が彼らにとってどんな意味を持つのか?未来を切り開こうとする挑戦者たちの人間像に迫ります!

小学6年生の時、東日本大震災を経験。宮城県・女川町21カ所の津波の最高到達点付近に「いのちの石碑」を建てる…山下脩さんにとって“25歳”という年齢はどんな意味を持つのかをインタビュー!

ナレーション 内藤剛志
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「いのちの石碑」中心メンバーのお一人、山下脩さんがご出演。現在、23歳だと思われますが、高校生の頃から海上保安官を目指す、ということで、メディアに取り上げられていました。その夢が叶い、現在は気仙沼海上保安署に勤務されているそうです。

こちらもぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐるうち八時頃東京より面白クラブといふ雑誌の記者遠藤氏といふ人来訪、智恵子の事をいろいろたづねらる、伊丹監督の細君が智恵子に似てゐると語らる。

昭和26年(1951)10月21日の日記より 光太郎69歳

伊丹監督」は、伊丹万作でしょう。「面白クラブ」は『面白倶楽部』、光文社さんの刊行でした。おそらく光太郎訪問記が載ったのではないかと思われますが、未確認です。

明治大学さん主催の市民講座です。

公開講座「映画で旅する昭和 よみがえる風景の記憶」

期 日 : 2022年1月13日(木)~2月10日(木) 毎週木曜日
会 場 : 明治大学駿河台キャンパス 東京都千代田区神田駿河台1-1
時 間 : 13:00~14:30
料 金 : 通常会員料金 13,200円 明大カード・福利厚生会員料金 11,880円
      学生・生徒・教職員会員料金 6,600円 法人会員料金 10,560円
講 師 : 中村実男 (ナカムラ ミツオ) 元明治大学商学部教授


映画は「風景の記憶装置」です。失われた昭和の風景が、画面のなかで登場人物と共に息づいています。本講座では、数多くの映画を通して、昭和の街と風景の変遷をたどります。第1回・第3回・第5回では、2019年度の春期講座の続編として、北海道・東北、鎌倉・京都、四国・九州・沖縄を取り上げます。第2回では浅草に加えて、木場、千住、四つ木など、隅田川・荒川以東の東京下町を初めて取り上げます。第4回では、戦前の「特急三百哩」から昭和50年の「新幹線大爆破」まで、昭和の「鉄道映画」の系譜をたどります。紹介する主な作品は下記の通りです。

01/13 映画のなかの北海道・東北
    夕陽の丘、幸福の黄色いハンカチ、駅 STATION、馬、警察日記、北上夜曲、
    乱れる、乱れ雲、智恵子抄、ほか
01/20 映画のなかの東京下町
    綴方教室、稲妻、洲崎パラダイス、下町、抱かれた花嫁、東京さのさ娘、
    見上げてごらん夜の星を、ほか
01/27 映画のなかの鎌倉・京都
    祇園の姉妹、山の音、夜の河、舞妓はん、古都、ツィゴイネルワイゼン、
    寅次郎あじさいの恋、早春物語、ほか
02/03 鉄道映画の世界
    特急三百哩、点と線、天国と地獄、大いなる旅路、特急にっぽん、喜劇急行列車、
    新幹線大爆破、洋画のなかの鉄道、ほか
02/10 映画のなかの四国・九州・沖縄
    陸軍、長崎の鐘、二十四の瞳、空の大怪獣ラドン、永遠の人、張込み、旅の重さ、
    男はつらいよ ハイビスカスの花、ほか
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講師の中村氏は、都市交通論、都市交通史、都市史などがご専門とのことで、「数多くの映画を通して、昭和の街と風景の変遷」をたどるというコンセプト。

第一回「映画のなかの北海道・東北」中に、「智恵子抄」。昭和32年(1957)、東宝さんが山村聰さん、原節子さん主演で製作した熊谷久虎監督作品の方か、昭和42年(1967)、松竹さんの丹波哲郎さん岩下志麻さん主演、中村登監督作品の方か、あるいはその両方か判然としませんが。

ご興味のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夜六時半公民館の賢治子供の会の劇を見る、


昭和26年(1951)10月19日の日記より 光太郎69歳

「花巻賢治子供の会」は、宮沢賢治記念館の初代館長も務められた故・照井謹二郎氏が昭和22年(1947)に立ち上げ、第一回公演は光太郎の山小屋前の野外で行われました。以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続けました。会の命名も光太郎だそうです。賢治実弟・清六息女の潤子さんなどもメンバーでした。

都内からコンサート情報です。

慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団 第146回定期演奏会

期 日 : 2022年1月10日(月・祝)
会 場 : 東京芸術劇場 東京都豊島区西池袋1-8-1
時 間 : 17:00開場 18:00開演
料 金 : S席 3,000円 A席 2,000円 B席 1,000円(全席指定)
オンライン配信 : 1月 10日 (月) 18:00~1月13日(木)23:59 1,500円

曲 目 :
 男声合唱組曲『クレーの絵本 第2集』
  作詩 谷川俊太郎  作曲 三善晃  指揮 浜田広志

 『Cole Porter Song Album』
  作詞 Cole Porter  作曲 Cole Porter  編曲 前田勝則  指揮 佐藤正浩
  ピアノ 前田勝則 ソプラノ 藤谷佳奈枝

 『Paul Hindemith – A Composer’s World in His Works for Male Chorus –』
  作詩 Bert Brecht 他  作曲 Paul Hindemith  指揮 田中裕大(学生)

 『愛のうた ― 光太郎・智恵子 ―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラの
  ために』<委嘱初演>
  作詩 高村光太郎  作曲 新実徳英  指揮 佐藤正浩  管弦楽 ザ・オペラ・バンド
  1.山麓の二人
  2.千鳥と遊ぶ智恵子
  3.値ひがたき智恵子
  間奏曲―哀しみの淵へ
  4.レモン哀歌
  5.元素智恵子
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メインの第4ステージが、委托初演『愛のうた ― 光太郎・智恵子 ―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために』。オケ伴か、と驚きました。

作曲は新実徳英氏。当方、最近やめてしまいましたが学生時代から本格的に合唱をやっており、学生時代に、故・川崎洋氏の詩に曲を付けた氏の合唱組曲を歌いました。その印象から、新実さんが智恵子抄か、という感じでいます。

楽譜が全音さんから発売予定です。104ページと、かなり分厚いものですね。伴奏は四手連弾のピアノ・リダクションだそうです。Amazonさんでも扱っており、早速予約しました。

東京芸術劇場さんのチケットは完売のようですが、オンライン配信があります。また、のちにCD、DVD、BDも販売とのこと。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

よみうりの記者くる、東京本社より余が重態とのデマあるにつき訪問せよとの電話ありし由。写真とつてかへる、


昭和26年(1951)10月17日の日記より 光太郎69歳

どこからそういうデマが発生したのでしょうか(笑)。

昨日の『上毛新聞』さんから。

古道保全へ調査 赤城、榛名で日本山岳会 歴史や価値、成果公開

 日本山岳会群馬支部(根井康雄支部長)は、赤城山と榛名山で使われていた古道を調査し、インターネット上で公開する。同会が創立120周年を迎える2025年に向け、21年度から全国規模で始めた山岳古道調査プロジェクトの一環。古くから山岳信仰の対象とされてきた両山を歴史や文化、地理的側面から調べ、古道の保全につなげる。結果は今年夏にもウェブ公開し、観光や教育など他分野で活用してもらう。
 同会によると、40年ほど前に文化庁が手掛けた「歴史の道」事業が古道調査として知られるが、対象は平地の街道が中心だった。各地で個人や団体による調査が行われてきたものの、全国の多くの山岳古道を調べるのは初とみられる。
 調査対象の古道については、既に赤城山や榛名山などを含む全国59カ所を選定済みで、3月末までに120カ所を決める。調査が終わった古道から順次、道の成り立ちや変遷、文化的価値などをウェブサイトで公開し、最終的には書籍化も予定する。
 本県では同支部が21年6月、古道調査のモデルを示すため、全国の他地域に先んじて赤城山での調査を開始した。21年度内に赤城、榛名の両山とも、山頂へ向かう6ルートを調べる。赤城山は前橋市のほか、渋川や桐生、沼田の各市から、榛名山は高崎市を中心に渋川市、東吾妻町から登るルートを想定する。
 22年度以降は、戊辰(ぼしん)戦争で官軍が通ったとされる尾瀬を越えて福島県へと続く会津街道、中之条町の四万温泉から新潟県へと抜ける古道などを調査対象とする。
 赤城、榛名の古道はいずれも麓から山頂近くの神社に向かっており、山岳信仰と密接に関係するのが特徴。山ごもりを通じて悟りを得る修験道を実践する山伏も通ったとされる。戦後も利用されていたというが、高度経済成長期に自動車が普及したことで使われなくなった。
 赤城山の古道では、三夜沢赤城神社の北側に櫃石(ひついし)という巨大な石があり、古墳時代に祭祀(さいし)場として使われるなど信仰の名残がある。赤城山を愛した文人の高村光太郎や志賀直哉らも、古道を利用した可能性があることから、山岳信仰や歴史、文化的な価値にも光を当てる。
 現地調査では、古い文献や地図の情報を基に、スマートフォンで得られる衛星利用測位システム(GPS)データ、コンパスと照らし合わせながら古道を見極めている。道の形がはっきりしない場所も多いため、植物の生え方、地形、石積みといったかすかな痕跡を考慮に入れ、総合的に判断しているという。
 根井支部長は「古道調査を通じていにしえの人々の思いを掘り起こし、貴重な歴史的遺産として後世に伝えていきたい」と話している。
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光太郎の名を挙げて下さいました。

光太郎は赤城山を非常に愛し、生涯に何度も訪れています。明治37年(1904)には、5月から6月にかけてと、7月から8月にかけての2回、計40日ほどを赤城に過ごしています。この際には親友だった水野葉舟も同行していました。また、あとから合流した与謝野鉄幹ら新詩社同人のガイド役も買って出ています。
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その2年後、明治39年(1906)から、約3年半の欧米留学。帰国直後の同42年(1909)にも赤城山に登りました。

また、昭和4年(1929)にも、草野心平、高田博厚らを引き連れて登っています。この時同行した詩人の岡本潤の回想に拠れば、光太郎は下駄履きで登っていったとのこと。ちなみに前橋駅で落ち合った萩原朔太郎は登らなかったそうです。そして確認できている限り、最後の赤城行は昭和6年(1931)。この際には父・光雲も一緒でした。
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それら赤城行の際に拠点としたのが、猪谷旅館。ここが実家の猪谷六合雄は日本スキー界の草分けで、さらに子息の千春氏は光太郎が歿した昭和31年(1956)、コルチナ・ダンペッツォ五輪で、日本人初の冬季五輪メダリストとなりました。
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こちらが猪谷旅館。当方手持ちの古絵葉書です。

『上毛新聞』さんで「赤城山を愛した文人の高村光太郎や志賀直哉らも、古道を利用した可能性がある」としているのは、おそらく明治37年(1904)のことでしょう。約40日の滞在で、周辺をかなりくまなく歩いたようです。この際に光太郎が描いたスケッチ帖が、光太郎歿後になって『赤城画帖』の題で龍星閣から刊行され、それを見ると、いかにも古道、というような場所でのスケッチも含まれています。
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また、明治38年(1905)3月の『明星』には、赤城山を舞台にし、『伊勢物語』を下敷きにして歌物語風に構成した連作短歌「毒うつぎ」を発表しましたし、翌月に同じ『明星』に載った戯曲「青年画家」も、ヒロインは赤城山出身の女性という設定です。

地元で土地勘のある方々が読めば、『赤城画帖』、「毒うつぎ」とも、「ああ、この場所だ」というのがよく分かるような気がします。

下記は猪谷旅館発行の地図。おそらく細い線で書かれているのが「古道」なのではないでしょうか。
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光太郎もこの手の地図を懐に、赤城の山々を歩いたのでしょう。

ちなみに赤城山中には氷室があったそうで、光太郎はそこの番人だった「大さん」という不思議な老人と意気投合したとのことです。

上記地図は、高村光太郎研究会員・佐藤浩美氏著『光太郎と赤城―その若き日の哀歓―』(平成18年=2006、三恵社)から採らせていただきました。佐藤氏、さらに続編とも言うべき『忘れえぬ赤城―水野葉舟、そして光太郎その後―』(平成23年=2011、同)も書かれていて、この地と光太郎の関連を知るには好個の書です。
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今回の日本山岳会さんの調査により、さらに詳しく光太郎の足取り等が明らかになるといいのですが……。

【折々のことば・光太郎】

晴れる、前の田の刈入はじまり。


昭和26年(1951)10月7日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、稲刈りは10月初旬なのですね。当方自宅兼事務所のある千葉県北東部は早場米が中心で、8月末には稲刈りです。

展覧会自体は先月から始まっていますが、光太郎の父・光雲の木彫が今日から展示です。

特別展 和歌山と皇室―宮内庁三の丸尚蔵館名品展― 後期

期 日 : 2022年1月4日(火)~1月23日(日)
会 場 : 和歌山県立博物館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9時30分~17時
休 館 : 月曜日   ※ただし、1月10日(月・祝)は開館し、1月11日(火)は休館
料 金 : 一般520円(420円)、大学生310円(250円)
       ( )内は20人以上の団体料金 1月9日(日)は無料

 紀の国わかやま文化祭2021(第36回国民文化祭・わかやま2021、第21回全国障害者芸術・文化祭わかやま大会)を記念して、宮内庁三の丸尚蔵館の名品を紹介する展覧会を開催いたします。
 本展では、三の丸尚蔵館が引き継いだ皇室コレクションの中から、和歌山県にゆかりのある作家による絵画や工芸品、そして県内の名勝地を主題とした作品を紹介いたします。また、明治23年(1890)に明治天皇へ遣わされたトルコ皇帝の使者一行が帰国する際に、紀伊大島沖で暴風に遭遇して沈没したエルトゥールル号の救助にあたった和歌山県の人々による尊い行いに思いをはせる作品も紹介いたします。
 出品目録
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【関連行事】 

講演会「紀の国を旅する」 講師:朝賀 浩 氏(宮内庁長官官房参事官)
 日時:1月8日(土)午後1時30分~3時
 会場:和歌山県立近代美術館(博物館となり)2階ホール  ※事前申し込み制 先着50名
 (12月4日(土)9:30より電話(073-436-8670)にて申し込み受付開始)
       ※新型コロナウイルス感染症拡大の状況により、中止となる場合があります



光雲の木彫は「猿置物」(別名「猿・三番叟」 大正12年=1923)。写真は故・髙村規氏によるものです。
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猿本体は桜材、台の部分は桑の木だそうです。光雲円熟期の傑作の一つといっていいでしょう。当方、三の丸尚蔵館さんや東京藝術大学大学美術館さんなどで、三回ほど拝見しましたが、実に精巧なものでした。

三の丸尚蔵館さんといえば、来年秋に再開館予定でリニューアル中。そこでその間、収蔵品を全国各地のこうした展覧会に出張させています。昨年、この手の展覧会で光雲作が出たものが、下記の通りです。
九州国立博物館特別展「皇室の名宝 ―皇室と九州を結ぶ美―」
宮城県美術館「宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 皇室の名品展 皇室の美-東北ゆかりの品々」
宮崎県立美術館「皇室と宮崎~宮内庁三の丸尚蔵館収蔵作品から~」


今後もこうした取り組みを継続してほしいものですね。

【折々のことば・光太郎】

終日創元社の検印紙捺印にかかる、(2000)夕方終り、包装。 その間に朝日新聞記者来て近況談話。

昭和26年(1951)10月6日の日記より 光太郎69歳

この時代の全国紙地方版に載った記事、なかなか見つけられずにいます。この際の「近況談話」もそうです。何か上手い方法はないでしょうか。

大晦日の地方紙『デーリー東北』さんの記事から。

「乙女の像」制作中の写真、七戸に 助手務めた彫刻家・小坂の親戚、宮沢さん方 

001 十和田湖のシンボルで、詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年に手掛けた「乙女の像」は、野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二が助手を務めて仕上げた高村の最高傑作と言われる作品だ。制作中の写真は、これまでごく一部の関係者しか持っていないとみられていた。だが、今年に入り、小坂と家族ぐるみの付き合いしをしてきた七戸町の宮沢弘子さん(72)方から1枚が見つかった。関係者は十和田市や野辺地町以外での発見に驚いている。
 乙女の像は1953年、十和田八幡平国立公園の指定15周年を記念して作られた。高村が自分の命が残り少ないと予期しながら手掛けた最後の作品で、東京で小坂と共に制作した。
 今回、見つかった写真は、像に針金を巻き付けた場面で、これから本格的な作業に入ることをうかがわせる一枚。高村と小坂が像を挟むように並んで写っている。
 乙女の像の調査などに携わった、十和田奥入瀬観光機構の山本隆一事務局長は、撮影時期は「完成前の53年3月ごろのものではないか」とみる。高村の日記にあった記述とも一致するという。
 山本事務局長もこの写真自体は資料として残っているとしつつ、「七戸で見つかったことは思わぬ発見」と驚く。
 宮沢さんによると、写真は親戚関係に当たる小坂が過去に送ってきた物という。これまで他の作品などと共に長年、保管してきた中、「実は制作途中の写真が残っていること自体が貴重なのでは」と気付き“発掘”したという。
 宮沢さんは今月、七戸町に写真のコピーを寄贈。東北新幹線駅の七戸十和田駅が十和田湖の玄関口の一つであることから、駅への展示を提案した。
 写真について宮沢さんは「(圭二)おじちゃんが七戸にもゆかりがあることが分かるきっかけになる」と強調。「七戸との縁は知られていない。十和田湖への観光客や地元の人に、少しでも知ってもらえたらうれしい」と話している。


今回見つかったという写真と同じものは、当会顧問であらせられた故・北川太一先生もお持ちで、既に昭和59年(1984)刊行の『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』や、平成27年(2015)、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんが出され、当方も3分の1ほど執筆させていただいた『十和田湖乙女の像のものがたり』などに掲載されています。

ただ、北川先生旧蔵のものがキャビネ版程度の大きさでしたし、助手を務めた小坂本人の遺品であるということ、一般にはあまり知られていない写真という意味でも、貴重なものといえるでしょう。

左下が問題の写真。右下は少し前に撮られたと見られるもので、やはり北川先生がご提供下さって『十和田湖乙女の像のものがたり』に掲載されている写真です。どちらもおそらく詩人の藤島宇内の撮影と思われます。藤島は当会の祖・草野心平の弟子筋で、像の制作に当たってあれこれ世話を焼いてくれました。
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両方とも十和田湖畔の「十和田湖観光交流センターぷらっと」さんに、タペストリーにプリントされて展示されてもいます。
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タペストリーは、「乙女の像」完成後に小坂がもらい受け、さらに小坂の弟子筋の彫刻家、北村洋文氏の手に渡った「乙女の像」制作時に使われた回転台(左上写真にも写っています)が、「ぷらっと」さんに寄贈された平成30年(2018)に、新たに作られました。

記事にある山本氏によると、小坂は七戸町の宮沢家(宮沢賢治とは無縁だそうです)から小学校に通っていたとのことでした。

その山本氏から頂いた、一昨日、令和4年元日の「乙女の像」画像。
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「最低気温-16℃、最高気温-6℃」だそうで、いやぁ、「寒い」などというものではないでしょうね(笑)。

今月中旬には現地に行く予定でおりますが、心して行って参りたいと思います。

【折々のことば・光太郎】

(智恵子命日)レモンを供へる。
 
昭和26年(1951)10月5日の日記より 光太郎69歳

昭和13年(1938)に亡くなった智恵子の命日。回忌の数え方でいうと、十三回忌は前年でした。ただ前年の日記は失われており、残念です。

「供へる」と言っても、おそらく手元に智恵子の遺影は無かったはず(昭和20年=1945の空襲で焼けてしまったため)。

そして「乙女の像」。光太郎自身、オフィシャルな場ではそう明言しませんでしたが、その顔は明らかに智恵子の顔、と言われています。

上記、藤島宇内の回想文「逝ける詩人高村光太郎」(昭和31年=1956 6月、『新女苑』第234号)より。

 製作にかかる時、
「智恵子さんの写真もなにも戦災でなくしたのに、どうやってその何十年も前に見た顔をつくるんですか、」ときくと、高村さんは、
「この手に智恵子のかたちがのこってるんですよ。」
と、あの子供の頃から彫刻できたえ上げた大きな両手で、空間に形を示しながら答えていました。


泣けるエピソードですね。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに行きました。

例年ですと、昭和9年(1934)、智恵子が療養していた九十九里町の真亀地区、国民宿舎サンライズ九十九里さんのあたりで遙拝していましたが、今年はずっと北の旭市で。まぁ、同じ九十九里浜の一部ですから、勘弁して下さい、という感じです(笑)。

ちなみに千葉県民あるあるで、「チーバくんの後頭部あたり」などと説明するのですが、千葉県民以外には通じません(笑)。
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チーバくん」は千葉県のゆるキャラ。
決してメタボ犬ではありません。第一、犬ですらなく「不思議ないきもの」です。JR東日本さんの「Suica」も手掛けられた坂崎千春氏のデザインですが、「Suica」も西の方の人には通じません(笑)。


九十九里町には巨大防潮堤が出来てしまい、波打ち際の辺りはそうでもないのですが、どうも風情に欠ける感じになってしまいましたし、遠方からも初日の出を見に来る皆さんが多く、密の状態に成りかねないと判断したため、今年は旭市に。

昨日行った場所は、足川浜、矢指ヶ浦と呼ばれる辺りで、九十九里浜の北端に近いゾーンです。九十九里町と異なり、自動車専用道がこの辺りまでは延びてきていないので、都内からの初日の出参拝客などはほとんどいなかったようですが、それでも地元ナンバーの車で駐車場等はいっぱいでした。
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サーファーの皆さんが、既に波乗り初め。
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南の方、智恵子が療養していた九十九里町方面。
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6時46分、水平線から太陽が顔を覗かせているはずですが、この季節、西高東低の冬型の気圧配置のため、絶対といっていいほど、水平線上には雲がかかっています。
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6時50分頃、その雲の上に太陽が。
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海面に反射して、きれいです。

コロナ禍完全収束、そして一昨年、昨年と開催できなかった光太郎智恵子関連もろもろの諸行事等が、今年こそは元に戻せますようにと、祈願しました。
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希望を感じさせてくれる、美しい初日の出でした。空振りに終わらないことも祈ります。

【折々のことば・光太郎】

蠅とり茸で蠅がとれる。 昭和26年(1951)9月30日の日記より 光太郎69歳

「蠅とり茸」は「ハエトリシメジ」。その名の通り、このキノコをなめたハエが死ぬ(実際には仮死状態になる)という特性があるそうです。ところが食用として料理に使われ、味もよいとのこと。ただし、やはり大量に摂取すると人体にも毒だそうです。
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一昨年、花巻在住の方に茸を大量に頂き、煮物や茸ご飯にしていただきましたが、このハエトリシメジも入っていたように思われます。たしかに美味でした。

2022年、令和4年となりました。
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個人としては、当方、喪中ですので、個人の皆様への年賀状は欠礼させていただきましたが、法人、団体様へは、こちらも公人として上記をお送りいたしました。画像は光太郎、東京美術学校在学中の彫刻で、「虎の首」。上野動物園(または浅草花やしき)に通って作ったものです。

動物をモデルにすればモデル代がいらないので、よく上野動物園や浅草の花屋敷に時間より早く入れてもらひ、檻のそばでお客の来ないうちに油土で作つた。象、獅子、虎、熊、猪、鷲、鶴などが常連であつたが、虎には油断するとよく尿をひつかけられた。人をめがけて放尿する癖が虎にはある。
(「モデルいろいろ」昭和30年=1955)


ところで、昨年は『智恵子抄』発刊80周年でしたが、今年はその辺り、どんなものだろうと思って調べてみました。

130年前 明治25年(1892) 光太郎10歳(数え年。以下同じ) 一家が今も髙村家の続く本郷区駒込林町155番地(現・文京区千駄木)に引っ越しました。

120年前 明治35年(1902) 光太郎20歳 雑誌『百虹』に、現在知られている最も古い詩「なやみ」が掲載されました。

110年前 明治45年/大正元年(1912) 光太郎30歳 この年はいろいろありました。まず、実家にほど近い駒込林町25番地に、光太郎アトリエが竣工しました。続いて、前年に知り合った智恵子への最初の詩「N――女史に」(のち「人に」と改題)を書きました。その智恵子と、銚子犬吠埼で愛を誓い合ったのもこの年。そして秋には岸田劉生、斎藤与里らとヒユウザン会を結成、第一回展に油絵を出品しました。

100年前 大正11年(1922) 光太郎40歳 眼を病み、医師から彫刻も執筆も読書も禁じられました。

90年前 昭和7年(1932) 光太郎50歳 心を病んでいた智恵子が自殺未遂……。一命は取り留めました。

80年前 昭和17年(1942) 光太郎60歳 前年の『智恵子抄』に続く第三詩集『大いなる日に』を刊行しました。戦時中ということで、全篇、翼賛詩です。

70年前 昭和27年(1952) 光太郎70歳 生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を後に、中野桃園町の貸しアトリエに移りました。

ちなみに「来年の話をすると鬼が笑う」と申しますが、来年、2023年は、光太郎生誕140年に当たります。ちょっと中途半端な周年ですが、関係の方々、今から来年に向け、生誕140周年記念のなにがしかを企画していただきたいものです。協力は惜しみません。

というわけで、本年もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

朝ラジオで年賀ハカキ放送をきく。一日ラジオをかける。 雑煮、抹茶、 元村長さん宅から餅少々もらふ。


昭和27年(1952)1月1日の日記より 光太郎70歳

上にも書きました通り、70年前の今日、光太郎70歳の元日です。

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