2021年12月

今年も最後の一日となりました。

昨日までのこのブログで、今年1年を振り返ってみましたが、昨年ほどではなかったものの、やはりコロナ禍前よりは紹介した事項が少なかったという感じでした。徐々に元に戻りつつはありますが、以前に行われていた大きな行事等のうち、今年も行えなかったこともありました。

4月2日の当会主催の連翹忌の集い、5月15日で花卷高村祭、8月9日に行われてきた女川光太郎祭、10月第1週の智恵子を偲ぶレモン忌、11月で高村光太郎研究会など。来年は、これらも元通りに開催できる事を切に願います。

また、コロナ禍前には、例年、1年間で皆様から頂いた郵便物に貼ってあった切手をJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)さんに寄付していましたが、整理するボランティアさんの密を避けるということで、来年3月まで受け付け停止中。昨年末もそうでしたので、2年分、ごっそり溜まっています。来年末には3年分、ごっそり贈らせていただきます。
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同様にベルマークは、ベルマーク教育女性財団さんの方で受付中でしたので、先月半ばにお送りしましたところ、寄贈者名簿に当会の名を記載して下さっています。受取証的な文書も届きました。
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さて、明日は2022年元日。そして元日といえば初日の出。当方、例年、昭和9年(1934)、智恵子が療養していた九十九里浜に初日の出を観に行っており、明朝もその予定です。ただ、かつて行われていた九十九里町の元旦祭は、やはりコロナ禍で中止と発表されています。

ところで今日未明は、にわか雨ならぬにわか雪。道路に積もる程ではありませんでしたが、家々の屋根や車にはうっすら。その後はからりと晴れました。明朝も晴れて欲しいものです。
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以前にもご紹介しましたが、九十九里浜以外にも、光太郎智恵子ゆかりの地で、初日の出スポットとして有名な場所がいくつかあります。

同じ千葉県で、大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子市の犬吠埼。緯度と経度の関係で、離島や高山を除いて日本一早い初日の出が拝めます。
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智恵子の故郷・福島二本松では、このところ、二本松霞ヶ城の天守台址が初日の出スポットとして注目されています。下記は『広報にほんまつ』2022年1月号(二本松市さんでは、毎月末に翌月号をネット上にアップしています)から。
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そして、山梨県南巨摩郡富士川町上高下地区。昭和17年(1942)に光太郎がここを訪れたことを記念して建てられた文学碑のそばが、富士山頂から初日の出が上がるダイヤモンド富士の鑑賞ポイントとして有名です。
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さらに、宮城県女川町のショッピングモール、シーパルピア女川さん(女川光太郎祭の会場となり、こちらにも光太郎文学碑があります)。こちらも初日の出スポットとして、近年、有名になりつつあります。

というのも、東日本大震災で壊滅した町中心部に新たに建設され、JR石巻線の女川駅から女川港に向かうメインストリートの延長線上に初日の出が上るためです。計算してそう設計したわけではないのでしょうが、すごい偶然ですね。下記写真は女川町の「女川町民カレンダー」令和3年度版から。
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ちなみにシーパルピア女川さん、既存の施設をそのまま道の駅として認定されたりもしています。
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九十九里浜で迎える予定の明日の初日の出、来年1年にかける様々な願いを込めて、見てきたいと思っております。寝坊しないように気をつけます(笑)。

【折々のことば・光太郎】

夜ラジオをきき、除夜の鐘をきいてからねる、


昭和26年(1951)12月31日の日記より 光太郎69歳

この項、昨日までの流れですと、まだ9月なのですが、少し順番を入れ替えました。

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で迎える7度目の大晦日。聞こえた除夜の鐘は、昌歓寺さんでしょうか、それとも清水寺さんでしょうか。8度目の大晦日をここで迎えることが無くなるのを、光太郎はまだ知りません。

この項、最終回です。

10月2日(土)
沖縄県立芸術大学音楽学部第32回洋楽定期公演~沖縄から発信する現代の音楽~」が、那覇市の沖縄県立芸術大学奏楽堂ホールさんで開催されました。江幡侑奈氏作曲の「《冬が來た》高村光太郎の詩による」が演奏されました。
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10月2日(土)~11月14日(日)
二本松市の智恵子生家二階部分の特別公開、智恵子紙絵の実物展示が行われました。

10月3日(日)
文芸誌『ウルトラ』第17号が発行されました。詩人の木戸氏による安達太良山を謳った詩 、と、エッセイ「百千倍のアトムその充填――智恵子抄を離れて――」が掲載されています。
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10月5日(火)
当会から冊子『光太郎資料』第56集を発行いたしました。

10月6日(水)
つむぎ書房さんから野樹優氏著の小説『非愛の海』が刊行されました。光太郎智恵子に触れられています。
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10月8日(金)~10月10日(日)    
東京都北区の北とぴあドームホールさんを会場に、演劇公演「小夜なら×表現集団蘭舞 あの夕暮れをもう一度」が行われました。4本立ての内の「金魚鉢の夜」で、光太郎智恵子に触れられていました。

10月8日(金)~10月30日(土)
東京都港区のCLEAR GALLERY TOKYOさんで、現代アート作家来田広大氏のインスタレーション「あどけない空#2 The artless sky #2」が開催されました。
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10月8日(金)~11月23日(火)
鎌倉市のギャラリー笛さんで「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その8」が開催されました。
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10月8日(金)~11月28日(日)
富山市の富山県水墨美術館さんで「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」が開催されました。

10月9日(土)~11月3日(水)
宮崎市の宮崎県立美術館さんを会場に開催された「皇室と宮崎~宮内庁三の丸尚蔵館収蔵作品から~」の前期日程で、光雲の木彫「文使」(明治33年=1900)が展示されました。
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10月12日(火)~12月26日(日)
兵庫県三田市の兵庫県立人と自然の博物館さんで「身近な海のベントス展」が開催されました。光雲の弟子であった故・小林三郎氏旧蔵の、光太郎が留学のため横浜港を出航したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアンの船上で詠んだ短歌 「海を観て太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」(明治39年=1906)を揮毫した短冊が出品されました。

10月16日(土)
福岡県太宰府市の太宰府市文化ふれあい館さんで「第6回太宰府学講座 日本近代木彫史と山崎朝雲、冨永朝堂」が開催され、光雲にも触れられました。講師は田鍋隆男氏(元福岡市博物館学芸課長)でした。

10月20日(水)
生活の友社さんから雑誌『美術の窓』№458 2021年11月号が発行されました。富山県水墨美術館さんの 「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に関し、記事が2本載りました。まず、同館館長であらせられる中川美彩緒氏が「和魂洋才-書画のススメ」というコーナーで、展示中の光太郎画帖「有機無機帖」について。さらに拙稿「五匹目の「蝉」」。
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10月21日(木)~11月23日(火)
青森県十和田市の十和田湖畔休屋地区で「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第1章 光の紅葉物語」が行われました。イルミネーションを中心としたイベントで、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されました。

10月23日(土)
テルミン奏者大西ようこさんによる「第12回RCAテルミンの夕べ ウルトラマンが読む「智恵子抄」」がオンラインでライブ配信されました。初代ウルトラマンのスーツアクターを務められた古谷敏氏による「智恵子抄」朗読が為されました。
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同日、石川県金沢市のNigiwaiSpace新保屋さんで「金沢ナイトミュージアム 秋色探し朗読会 」が開催され、こちらでも「智恵子抄」朗読がプログラムに入りました。
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10月27日(水)
講談社さんから小田原のどか氏著『近代を彫刻/超克する』が刊行されました。「光太郎とロダン」という章を含みます。

10月29日(金)~11月21日(日)
東京都港区六本木の国立新美術館さんで、第8回日本美術展覧会(日展)が開催され、第5科・書部門で、光太郎詩文を書いた作品が入選し、展示されました。
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10月30日(土)
大分市のiichiko総合文化センターさんで第74回全日本合唱コンクール全国大会 高等学校部門が開催され、高等学校部門Bグループ九州代表として出場の鹿児島高等学校音楽部さんが、西村朗氏作曲の「千鳥と遊ぶ智恵子」を自由曲で演奏、みごと銀賞に輝きました。

同日、吉夏社さんから髙橋純氏編訳『高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡 回想録『分水嶺』補遺』が刊行されました。光太郎にも触れられています。
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10月31日(日)
東京都渋谷区の代々木能舞台さんで「和編鐘コンサート in 代々木能舞台 響きにつつまれていのちの煌めきの中へ 智恵子抄 愛と絆の調べ」が開催され、ゆきね氏の和編鐘演奏、河崎卓也氏の朗読により、「第二部 智恵子抄 愛はすべてをつつむ」が上演されました。

同日、NHK BSプレミアムさんで「プレミアムドラマ山女日記3」の「第三話 あどけない空・安達太良山」が放映されました。再放送が11月7日(日)でした。
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11月3日(水)
ハピネット・メディアマーケティングさんから 朗読CD「朗読喫茶 噺の籠 ~あらすじで聴く文学全集~ 坊ちゃん/耳なし芳一・雪女/詩集「生きる」」がリリースされました。光太郎詩詩「道程」(大正3年=1914)、「冬が来た」(同)が含まれています。朗読は、声優の豊永利行さんでした。
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11月5日(金)~11月28日(日)
京都市の知恩院さんで「秋のライトアップ二〇二一」が行われ、光雲作の聖観音像のライトアップも為されました。
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11月8日(月)
二本松市の智恵子顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ」さんが投票を募っていた「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」の結果発表がありました。最多得票は「レモン哀歌」(昭和14年=1939)でした。
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同日、『毎日新聞』さんに「美とあそぶ 秋川雅史さん/1 これまでで一番の自信作」が掲載され、テノール歌手秋川雅史氏が、光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠木正成像の模刻作品により、第105回記念 二科展彫刻部門で入選を果たした件について語られました。
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11月9日(火)
作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。複数のご著書で光太郎智恵子にも触れられていました。

11月10日(水)
幻冬舎さんから湊かなえ氏著『残照の頂 続・山女日記』が刊行されました。「プレミアムドラマ山女日記3」の原作です。「武奈ヶ岳・安達太良山」の章で、「智恵子抄」がモチーフに使われています。
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11月13日(土)11時~11月30日(火)
花巻市のいわて花巻空港で、光太郎が終戦後に7年過ごした高村山荘(同市太田)周辺を撮影した写真や、光太郎の詩をしたためた書作品など約20点の展示「高村光太郎と花巻」が開催されました。
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11月15日(月)
樹海社さんから間島康子氏著『ハユラコ hajurako 間島康子随想集』が刊行されました。「智恵子の空」というエッセイを含みます。
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11月19日(金)
マガジンハウス社さんから雑誌『 & Premium no.97 January 2022 PEACEFUL MOMENTS 静かに過ごす時間が、必要です。』が発行されました。「あの人が愛した、静かな時間。」という項で智恵子が紹介されました。

11月20日(土)
BS朝日さんで「ゆるっと山歩(さんぽ)に行こう ▽登山を始めたい方必見!絶景やグルメも堪能!」が放映され、安達太良山の紹介の中で「智恵子抄」が取り上げられました。出演は女優の酒井美紀さん他でした。
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11月21日(日)
東日本大震災の津波により甚大な被害を受けた宮城県女川町で、光太郎文学碑の精神を受け継いで募金で建設費用を集め、町内の各浜、21箇所に津波の際の避難の目安となるランドマークとして建てられ続けてきた「いのちの石碑」最後の1基が完成 ・除幕されました。
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11月22日(月)
虹色社(なないろしゃ)さんから、なみ氏編のアンソロジー『近代文学叢書Ⅲ すぽっとらいと 珈琲』が刊行されました。明治43年(1910)の雑誌『趣味』に発表された光太郎エッセイ「珈琲店より」を含みます。
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12月3日(金)
福島二本松の智恵子顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ」さんから『「智恵子抄」出版80周年記念文集』が刊行されました。
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12月4日(土)~2022年2月20日(日)
青森県十和田市の十和田湖畔休屋地区で「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第2章 光の冬物語」が開催中です。イルミネーションを中心としたイベントで、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されています。
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12月4日(土) ・12月12日(日)
松竹さんプロデュースの「朗読劇 智恵子抄」が、東京音中央区銀座の銀座ブロッサム中央会館さん、二本松市の安達文化ホールさんで、それぞれ上演されました。光太郎役は横内正氏、智恵子役が一色采子さんでした。
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12月5日(日)
地上波フジテレビさんで「正しく学んで福招き!おてらツアーズ」の放映があり、信州善光寺さんの光雲とその高弟米原雲海による仁王像が取り上げられました。
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12月10日(金)
文治堂書店さんからPR誌『とんぼ』第13号が発行されました。巻頭に、光太郎終焉の地・中野のアトリエの持ち主でいらっしゃる中西利一郎氏の玉稿。光太郎がここで暮らした最晩年の回想や、北川先生がここを訪れ、光太郎に親炙するに至った経緯などが書かれています。文治堂書店主・勝畑耕一氏は、「小川義夫さんを悼む」という一文。ご生前の北川先生を支え、各種出版のサポート等をなさっていた、北斗会(北川先生が高校教諭だった頃の教え子さん達の会)会長であらせられた、故・小川義夫氏の追悼文です。巻末近くに、北川先生のご遺著『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」』書評が4本。さらに当方の連載「連翹忌通信」も掲載されました。
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同日、中央公論新社さんから、室生犀星 文/濱谷浩 写真の『写文集 我が愛する詩人の伝記』が発行されました。昭和33年(1958)、『婦人公論』に連載されたものから、犀星の文章のみで『我が愛する詩人の伝記』、濱谷の写真集として『詩のふるさと』として二分冊で刊行されたものを一冊にまとめ、犀星没後60年記念出版という位置づけで「完全版」として出版したものです。

12月10日(金)~12月19日(日)
東京藝術大学大学美術館正木記念館さんを会場に、「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」が開催されました。
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12月12日(日)
詩人の高良留美子さんがご逝去されました。女性史に関する複数の御著書で智恵子に触れて下さっていました。

12月15日(水)
 マガジンハウス社さん刊行の『BRUTUS』2022年1月1日・15日合併号が発行されました。「百読本 何度でも読む。読むたびに知る」という特集で、各界著名人等の愛読書が紹介されています。デザイナーの皆川明氏が、『智恵子抄』をご紹介下さっています。
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12月17日(金)
あすなろ書房さんから、宮川健郎氏編『日本の文学者36人の肖像(上)』が刊行されました。当方、未入手でして、手に入り次第改めてご紹介します。

12月19日(日)
名古屋市の電気文化会館さんで「日本歌曲コンサート~朝岡真木子の歌曲を中心として~」公演があり、朝岡真木子氏作曲「 ”智恵子抄”より レモン哀歌」が演奏されました。
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12月20日(月)
『週刊現代』さん12月25日・1月1日合併号に、「巨弾ノンフィクション 丹波哲郎は二度死ぬ 大スターはなぜ晩年に「大霊界」へ傾斜したのか」の第4回として、「岩下志麻と共演した『智恵子抄』に秘められた真実」という記事が載りました。

12月22日(水)
左右社さんから西川清史氏著『文豪と印影』が刊行されました。目次に光太郎の名が見えますが、こちらも未入手でして、手に入り次第改めてご紹介します。
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12月23日(木)
東京都八王子市の八王子市芸術文化会館大ホールにおいて「こうもりクラブプロデュース 星降る夜のクリスマスオイリュトミー」が開催されました。光太郎・相田みつを・茨木のり子らの詩がモチーフとして使われました。

12月25日(土)~2022年2月13日(土)
青森市の国際芸術センター青森[ACAC]さんで、彫刻家の小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」が開催中です。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の小型試作、「乙女の像」オマージュの作品等が展示されています。
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12月(日付不明)
文芸誌『風越(かざこし)―詩とエッセイの同人誌―』第5号が発行されました。詩人の小山修一氏による「「道程」から考える詩の追求」が掲載されています。
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それから、その都度の月日に載せませんでしたが、「光太郎レシピ」が連載されている『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』さんが隔月刊で発行されました。また、毎月15日には、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで豪華弁当「光太郎ランチ」が限定販売されました。
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昨年同様、コロナ禍が猛威を振るった一年でしたが、秋以降、それも収まりつつあり、昨年よりも多くの事項をご紹介する事ができました。特に、美術館さん等での企画展示、音楽/演劇系の公演、各種市民講座等、昨年は中止に追い込まれたものがまた開催されるようになり、喜ばしい限りです。

来年はさらにそれが拡大し、コロナ禍前の水準まで復して欲しいと思う今日この頃です。

【折々のことば・光太郎】

晴れ、雲あり、涼、 栗落ちはじめる


昭和26年(1951)9月27日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺、栗の木が多く自生しており、その実は貴重な食材となりました。

今年1年を振り返る企画、7月から9月です。

7月2日(金)・3日(土)
東京古書会館さんに於いて、明治古典会さん主催の古書市「七夕古書大入札会2021」の下見展観が行われ、光太郎自筆の書・書簡等が出品されました。
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7月9日(金)~8月22日(日)
京都国立近代美術館さんで、「モダンクラフトクロニクル―京都国立近代美術館コレクションより―」が開催され、光雲、旭玉山、石川光明、大谷光利、香川勝廣、加納鐡哉、加納夏雄、柴田是真との合作「福禄封侯図飾棚」(明治16年=1883)、光太郎実弟の豊周による「蝋型朧銀筒形花生」(昭和38年=1963)が出品されました。

7月16日(金)~12月18日(土)
花巻市高村光太郎記念館さんで、コロナ禍による中断期間を挟み、企画展「光太郎の三陸廻り」が開催されました。
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7月17日(土)
第23回比較文学研究会が、オンラインで開催されました。中里まき子氏(岩手大学)、エリック・ブノワ氏(ボルドー・モンテーニュ大学)による「高村光太郎『智恵子抄』仏訳(TAKAMURA Kôtarô, Poèmes à Chieko)の刊行をめぐって」が含まれていました。

同日、『朝日新聞』さんの読書面で劇作家・平田オリザ氏による連載「古典百名山+plus 平田オリザが読む」で、光太郎の『智恵子抄』を取り上げて下さいました。題して「高村光太郎『智恵子抄』 妻亡き後の絶望と諦念」。

7月19日(月)
BSフジさんで、「ニッポン美景めぐり 十和田・奥入瀬」が放映され、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が紹介されました。11月7日(日)、11月28日(日) 、そして来年1月3日(月)にも再放送があります。
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7月20日(火)~8月29日(日)
皇室の名宝 ―皇室と九州を結ぶ美―」が、福岡県太宰府市の九州国立博物館さんで開催されました。光雲作の木彫「松樹鷹置物」(大正13年=1924)、そしてブロンズの「萬歳楽置物」(大正5年=1916)が出品されました。
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7月22日(木)~8月22日(日)
東京都台東区の東京藝術大学 大学美術館さんで「藝大コレクション展 2021 I 期 雅楽特集を中心に」光雲木彫の「蘭陵王」(明治37年=1904)が展示されました。

7月29日(木)~9月26日(日)
山口市の中原中也記念館さんで、特別企画展「書物の在る処――中也詩集とブックデザイン」が開催され、光太郎装幀・題字揮毫の『山羊の歌』(昭和9年=1934)についても詳しく取り上げられました。
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7月31日(土)~9月20日(月)
二本松市のあだたら高原リゾートで「あだたらイルミネーション」が開催されました。併せて『智恵子抄』で謳われた「ほんとの空」をイメージした「あだたらソーダ」の販売も行われました。
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8月1日(日)
新潮社さんから末盛千枝子氏著『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』が新潮文庫の一冊として発行されました。平成28年(2016)に同社からハードカバーで刊行されたもので、末盛さんの父君、彫刻家の舟越保武が光太郎に「千枝子」の名をつけてもらったエピソードなどが紹介されています。
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8月3日(火)
論創社さんから『吉本隆明 全質疑応答Ⅰ 1963~1971』が刊行されました。吉本の講演「高村光太郎について―鷗外をめぐる人々 」(昭和41年=1966年4月2日、日比谷図書館)、「詩人としての高村光太郎と夏目漱石」(昭和42年10月24日、東京大学三鷹寮)が収録されています。

8月3日(火)~15日(日)
北海道深川市のアートホール東洲館さんで「第一回 土井伸盈 書の個展 挑戦。――ここから」が開催され、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)を書いた書などが展示されました。
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8月7日(土)
立川市のたましんRISURUホールさんで「第29回たちかわ真夏の夜の演劇祭」が開催され、劇団ひなた村さんが4月に初演した「青鞜の女たち」が再演されました。

8月7日(土)~8月13日(金)
宮城県女川町の女川つながる図書館さんで「詩人 光太郎と啄木~東北のゆかりを訪ねて~」展が行われました。
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8月15日(日)
文芸社さんから伊原勇一氏著『明治画鬼草紙』が刊行されました。幕末から明治初年の江戸・東京を舞台とし、奇想の画家・河鍋暁斎を狂言回しとしたもので、若き日の光雲が登場します。

8月17日(火)
当会顧問であらせられた故・北川太一先生が都立向丘高校さんに勤務されていた頃の教え子の方々、北斗会さんの会長を永らく務められ、北川先生のご出版等にご協力を惜しまなかった、小川義夫氏が亡くなりました。ご本業の印刷会社経営のかたわら、演歌歌手としてもご活躍でした。
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8月21日(土)
近代東アジア書壇研究プロジェクトさんの主催で、「国際シンポジウム 近代書壇の誕生―東アジア三地域の比較から―」がZOOMによりオンラインで開催されました。矢野千載氏(盛岡大学教授)の「中村不折と高村光太郎に見る六朝書道」が含まれました。

8月30日(月)
ミネルヴァ書房さんより石川九楊氏著『思想をよむ、人をよむ、時代をよむ。 書ほどやさしいものはない』が刊行されました。「彫刻的筆画」、「やみがたくして道はゆくなり――高村光太郎」の項で光太郎に触れられています。
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8月31日(火)
東京都豊島区の東京芸術劇場さんで「東京混声合唱団特別演奏会~田中信昭と共に~東混オールスターズ」が開催され、西村朗氏作曲「混声合唱とピアノのための組曲『レモン哀歌』」より「レモン哀歌」が演奏されました。
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同日、小学館さんから『小学8年生』10・11月号が発行されました。「文豪探偵の事件簿」という連載小説で「山の中の芸術家」と題し、光太郎が取り上げられました。

9月1日(水)
古美術・骨董愛好家対象の雑誌『小さな蕾』さん、2021年9月号に光雲「聖徳太子像」(大正元年=1912)が紹介されました。古美術研究家・加瀬礼二氏という方のご執筆でした。
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同日、花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさん編で、写真集『山からの贈り物 やつかの森の四季』が刊行されました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺を撮影したものです。

9月1日(水)~9月13日(月)
岡山市の 丸善岡山シンフォニービル店ギャラリーで「浜口陽三とパリの芸術家たち展」が開催され、
光太郎の短歌揮毫色紙「天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」、明治43年(1910)、鉄幹与謝野寛の歌集『相聞』の挿画として制作された『幼き QLAUAPATRAT』の木版画が展示されました。

全く同じ日程で、東京都港区の国立新美術館さんで「第105回記念 二科展」が開催され、テノール歌手秋川雅史氏が、光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠木正成像の模刻作品により、彫刻部門で入選を果たしました。
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9月3日(金)~9月6日(月)
静岡県舞台芸術センターSPACさんの主催で「でんわde名作劇場」が開催されました。電話を使ってのオンライン朗読で、池田真紀子さんによる「◉高村光太郎 作『智恵子抄』より」がプログラムに入っていました。
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9月14日(火)~9月26日(日)
THE EXPO 善光寺2021~甲信越戦国物語~特別展」が、長野市立博物館さんで開催されました。光雲とその高弟・米原雲海の手になる、善光寺さんの仁王像の試作(ひな形)が展示されました。

9月15日(水)~12月5日(日)
東京都新宿区の中村屋サロン美術館さんで「自身への眼差し 自画像展 Self-Portrait」展が開催され、光太郎作の油絵「自画像」(大正2年=1913)も出品されました。 
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9月18日(土)~10月10日(日)
宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 皇室の名品展 皇室の美-東北ゆかりの品々」が、仙台市の宮城県美術館さんで開催され、光雲作の「養蚕天女」(大正13年=1924)が出品されました。

9月22日(水)
平凡社さんから同社編でアンソロジー『作家と酒』が刊行されました。光太郎随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)が収められています。
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9月25日(土)
東京都江東区の古石場文化センターさんで、「第 43 期江東シネマプラザ」の一環として、昭和32年(1957)に封切られた、原節子さん主演の「智恵子抄」が上映されました。
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9月26日(日)
東京都文京区の旧安田楠雄邸庭園において「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」が開催されました。朗読が北原久仁香氏(語りと和楽の芸人衆 かたりと)、講話を当方が務めさせていただきました。

同日、青森県弘前市の弘前学院大学さんで「日本語・日本文学科 2021年度第3回オープンキャンパス(来校型)」が開催され、「詩の世界-宮沢賢治・草野心平・高村光太郎について-」という公開講義が行われました。

9月30日(木)
月曜社さんから谷川渥氏著『孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり』が刊行されました。「レオナルド・ダ・ヴィンチと日本近代文学」という項で、光太郎に触れられています。
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次回は最終回、10~12月を。

【折々のことば・光太郎】

花巻行。 カーテンの材料、タオルねまき等をかふ、 ビール2本、 高橋精一氏にあふ。理髪、 かなり重いリユツクを背負ひてかへる。


昭和26年(1951)9月25日の日記より 光太郎69歳

カーテンの材料」は、増築された新小屋のためのものでした。しかし光太郎、料理の腕はそれなりでしたが、裁縫は意外と苦手で、結局、11月に来訪した詩人の宮静枝に縫って貰いました。
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今年一年を振り返る第2回です。本日は、4月から6月の事項。05b72b5d-s

4月2日(金)
光太郎65回目の忌日・連翹忌でしたが、残念ながらコロナ禍のため、昨年に引き続き、日比谷松本楼さんでの集いは中止としました。全国の皆様を代表して当方が光太郎奥津城に墓参、それをもって第65回連翹忌に代えさせていただきました。

同日、高村光太郎研究会さんから『高村光太郎研究』第42号(北川太一先生追悼号)、当会から『光太郎資料』第55集が刊行されました。
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さらに同日、『読売新聞』さん東北各県版での連載「とうほく名作散歩」で、「詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む」と題し、光太郎が大きく取り上げられました。
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4月5日(月)
4月1日(木)から東京都江戸川区のタワーホール船堀さんで開催されていた「もやい展2021東京」の一環として、能楽師・清水寛二氏による朗唱「「智恵子抄」より」が上演されました。昭和32年(1957)、武智鉄二構成演出、観世寿夫らの作曲・作舞で演じられた「新作能 智恵子抄」を元にしたものでした。
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4月10日(土)~4月18日(日)
千葉県柏市の大洞院ギャラリーさんにおいて、「熱血の旅行作家 山本鉱太郎展」が開催され、山本氏脚本、北川太一先生監修、仙道作三氏作曲の「オペラ智恵子抄」(平成元年=1989)関連資料等が展示されました。

4月15日(木)
筑摩書房さんから長山靖生氏著『日本回帰と文化人─昭和戦前期の理想と悲劇』が刊行されました。第「三章 戦意高揚する詩人たち」中の「高村光太郎──軍神を讃えねばならぬ」、「終章 それぞれの戦後」内の「死んだ者、生き残った者」で光太郎に触れられています。
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同日、劇作家の清水邦夫氏が亡くなりました。清水氏、平成3年(1991)には、光太郎智恵子の物語「哄笑―智恵子、ゼームス坂病院にて―」を、劇団木冬社さんの公演として実施されました。演出も同氏でした。平成5年(1995)には再演も為されました。

4月21日(水)~6月20日(日)
仙台市の島川美術館さんで「島川コレクション 春の展覧会 『横山大観から現代アートまで』」が開催され、光雲作の「聖観音像」が出品されました。
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4月24日(土)
『読売新聞』さん東北各県版での連載「とうほく名作散歩」で、「詩集智恵子抄 福島県二本松市 愛する妻思う青い空」と題し、光太郎智恵子が大きく取り上げられました。

同日、町田市子ども創造キャンパスひなた村カリヨンホールを会場に、ひなた村劇団第40回公演「青鞜の女たち」が行われました。キャストに光太郎智恵子も含まれていました。
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4月24日(土)~5月30日(日)

二本松市の智恵子記念館において、通常は複製が展示されている智恵子紙絵の実物公開が為されました。併せて4月29日(木)~5月30日(日)まで、隣接する智恵子生家の2階特別公開も行われました。

4月29日(木)
花巻市で光太郎顕彰にあたる「やつかの森LLC」さん から「光太郎の食卓カレンダー」が発行されました。
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4月30日(金)
文治堂書店さんから、昨年1月に亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生のご遺稿を含む書籍『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』が刊行されました。
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5月12日(水)
BS TBSさんで、「美しい日本に出会う旅▼福島 花めぐり湯めぐり 絶景の桃源郷と山桜のはちみつ酒」が放映され、安達太良山麓土湯温泉、不動湯温泉の紹介の中で、光太郎智恵子に触れられました。
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5月20日(木)
祥伝社さんから志川節子著の小説『博覧男爵』が刊行されました。明治初期、東京国立博物館や国立科学博物館、恩賜上野動物園等の礎を築いた田中芳男を主人公とし、光雲も登場します。
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5月21日(金)
平松混声合唱団さんの「第36回定期演奏会 明日へ向かって発つ~心ひとつに~」が、渋谷区文化総合センター大和田 さくらホールで開催されました。平吉毅州作曲「混声合唱組曲  レモン哀歌」 より抜粋で演奏がありました。
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5月22日(土)~6月20日(日)
現代アートのインスタレーション「毒山凡太朗 反転する光」が、東京都目黒区のLEE SAYAで開催されました。福島の帰還困難区域ツアープロジェクト「IGENE」のプロモーションを目的とし、福島出身の智恵子、その夫・光太郎が象徴的に使われました。
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5月30日(日)
山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」が東京都港区の銕仙会能楽研修所舞台で開催され、能楽師・山本順之氏らによる「連吟 智恵子抄」が演じられました。
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6月1日(火)
マガジンハウスさんからムック『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』が刊行されました。デザイナーの皆川明氏が、光太郎の『智恵子抄』(龍星閣新版・昭和26年=1951)、光太郎実弟・豊周の編集による智恵子の紙絵作品集『智恵子の紙絵』(社会思想社・昭和41年=1966)を取り上げて下さっています。
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6月1日(火)~8月31日(火)
明治の洋館を改装した京都市のカフェ「デザートカフェ長楽館」で、「明治の洋館で楽しむドリンクフェア「文学浪漫巡り」~浪漫を味わうひとり時間 レトロなドリンクフェア~」が開催され、『智恵子抄』をイメージして作られた「シトラスジュレのゆずジュース」がメニューに入りました。
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6月3日(木)
NHK Eテレさんで「にほんごであそぼ 祭りのかけごえ」が放映され、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が取り上げられました。再放送が6月17日(木)にありました。
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6月10日(木)
論創社さんから根岸理子氏著の『マダム花子』が刊行されました。ロダンのモデルを務め、その思い出を光太郎に語った日本人女優・太田花子の評伝で、光太郎にも触れられています。
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同日、文治堂書店さんからPR誌『とんぼ』第12号が発行されました。光太郎と交流のあった詩人・野澤一の子息で、『とんぼ』に寄稿されたこともある、野澤俊之氏の追悼文が掲載されています。ご執筆は、野澤氏と親しかった、野澤一研究家の坂脇秀治氏です。他に当方の連載「連翹忌通信」も掲載されています。

6月11日(金)
東京オリンピックの聖火リレーが、青森県十和田湖の、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に到着しました。
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6月20日(日)
潮見佳世乃歌物語コンサート「智恵子抄・羽衣伝説」が、千葉市文化センターを会場に開催されました。
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6月23日(水)~7月4日(日)
六本木の新国立美術館さんにて、書道展「第40回日本教育書道藝術院同人書作展」が開催されました。同人の部・会長奨励賞の平井澄圓氏の作品が、昭和10年(1935)の光太郎エッセイ「新茶の幻想」からの抜粋でした。他に光太郎詩文を題材とした作品が複数入賞・展示されました。

6月26日(土)~7月18日(日)
花巻市の旧菊池捍邸で「菊池捍生誕150周年記念 旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」が開催され、戦後、光太郎も訪れた古建築が一般公開されました。関連行事として、光太郎詩の朗読会等も行われました。
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6月26日(土)~7月25日(日)
石川県七尾美術館さんで「26th year 池田コレクション」が開催され、光雲作の木彫「聖観音像」が出品されました。

6月26日(土)~8月29日(日)
花巻市博物館さんでテーマ展「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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6月30日(水)
左右社さんから岡本勝人著『1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄』が刊行されました。「高村光太郎の造形芸術」という項を含みます。
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6月30日(水)~8月11日(水)
地上波日本テレビさんで「心に刻む風景 高村光太郎・智恵子」が、オリンピック中継による中断を含み、6回にわたり放映されました。6回の内訳は、「#1 福島・二本松」「#2 フランス・パリ」「#3 千葉・犬吠埼」「#4 東京・日比谷松本楼」「#5 栃木・塩原温泉」「#6 岩手・花巻高村山荘」でした。
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6月(日付不明)
  仏訳智恵子抄『 Poèmes à Chieko』が、中里まき子氏の翻訳によりフランス・ボルドー大学出版会より刊行されました。
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明日は7月から9月分を。

【折々のことば・光太郎】

昨夜新小屋にねる。もう湿けず。カヤなくてよろし。


昭和26年(1951)9月24日の日記より 光太郎69歳

新小屋」は、この年6月に完成した、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋増築部分です。竣工当初は材木の湿気が気になり、就寝も元々のあばら屋でしていましたが、この日から機密性の高い新小屋で寝ることにしました。

こちらが現在の新小屋。現在は数十㍍移動され、倉庫として使われています。
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このブログ、年末恒例の1年間の回顧です。

初めに断っておきますが、出来る限り情報を集めはしましたが、抜けも多いことと存じます。「こんなこともあったけど、書いてない」ということがありましたら、御教示いただけると幸いです。

1月1日(金)
2021年、丑年がスタートしました。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県では、県として「いわてモー!モー!プロジェクト 2021」を開始し、光太郎にもからめて、様々な事業を展開しました。
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同日、『盛岡タイムス』さんに「困難の中でも希望見いだして 若い人たちへの手紙」という記事が載り、光太郎が大きく取り上げられました。
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この頃、丑年ということで、新聞各紙等で光太郎詩「牛」(大正2年=1913)などが数多く取り上げられました。

1月7日(木)~3月14日(日)
岐阜県大垣市守屋多々志美術館第82回企画展「どうぶつ集合!」が開催され、日本画家守屋多々志による「智恵子と光太郎」と題した絵も展示されました。
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1月12日(火)
評論家・半藤一利氏が亡くなりました。平成18年(2006)刊行の文春新書『恋の手紙 愛の手紙』(文藝春秋)、平成27年(2015)、ポプラ社さん刊行のエッセイ集『老骨の悠々閑々』などで光太郎智恵子に触れて下さっていました。

1月14日(木)
NHK Eテレさんで「にほんごであそぼ 日本全国いいとこコンサート 新潟・村上(4)」が放映され、「ベベンの冬が来た」(詩:高村光太郎 作曲:うなりやべベン)が取り上げられました。再放送は1月28日(木)でした。
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1月28日(木)~2月1日(月)
劇団空感演人の演劇公演「チエコ」が、両国・エアースタジオで行われました。平成25年(2013)、平成30年(2018)にも同じ会場で上演されたものの再演でした。
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1月31日(日)
ソレイユ出版さんから宮沢賢治実弟・清六の令孫である宮沢和樹氏著『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』が刊行されました。随所で光太郎に触れられています。
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同日、春陽堂書店さんが根本知氏著『書の風流 近代藝術家の美学』を出版しました。「高村光太郎   書と造型」という章を含みます。

さらに同日、彫刻家の橋本堅太郎氏が亡くなりました。
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智恵子の故郷・二本松にルーツをお持ちで、二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」を作られました。

2月10日(水)
光太郎実弟にして鋳金の人間国宝となった髙村豊周が、昭和初期に蝋型鋳造で手掛け、歌人の尾山篤二郎が碑文を揮毫した大伴家持歌碑の碑文銅板が、富山県高岡市の万葉歴史館さんに寄託されました。
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2月20日(土)~4月4日(日)
黒田大スケ氏による現代アートの個展「未然のライシテ、どげざの目線」が、京都芸術センターさんで開催され、《高村光太郎のためのプラクティス》と題された映像作品も出品されました。
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2月20日(土)~4月11日(日)
東京ステーションギャラリーさんで、「没後70年 南薫造」展が開かれました。南は光太郎の留学中間の画家で、光太郎から南宛の書簡も展示されました。その後、4月20日(火)~6月13日(日)に広島県立美術館さん、7月3日(土)~8月29日(日)で久留米市美術館/石橋正二郎記念館さんを巡回しました。

2月23日(火)
テレビ東京さん系「開運!なんでも鑑定団」に光雲作の聖徳太子孝養像が出品され、1,500万円の鑑定額がつきました。BSテレ東さんでの放映が5月6日(木)、地上波での再放送が6月20日(日)でした。
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2月24日(水)
青森空港で、幅11メートルの大型ステンドグラス「青の森へ」の完成披露除幕式が挙行されました。三沢市出身のアートディレクター森本千絵氏の作品で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」もあしらわれています。
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2月26日(金)
コールサック社さんから鈴木比佐雄氏著の詩集『千年後のあなたへ ―福島・広島・長崎・沖縄・アジアの水辺から』が刊行されました。『智恵子抄』オマージュの「「ほんとの空」へ」という詩を含みます。
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2月末
盛岡市の桜城小学校さんに、光太郎の書幅「詩魂萬機」が寄贈され、3月10日(水)まで一般公開されました。
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3月1日(月)
株式会社トゥーヴァージンズさんから3枚組朗読CD「【近代文學の泉】 普及版 朗読で味わう文豪の名作4 太宰治・島崎藤村・高村光太郎」がリリースされました。一昨年、全13巻で発行されたものの分売で、寺田農さんによる「「智恵子抄」より」が収められています。

同日、美術家の篠田桃紅さんが107歳の大往生を遂げられました。エッセイ『百歳の力』(平成26年=2014 集英社新書)、『一〇三歳になってわかったこと』(平成27年=2015 幻冬舎)などで光太郎に触れて下さっていました。
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3月8日(月)
NHK Eテレさんで「にほんごであそぼ 日本全国いいとこコンサート 福島・楢葉(1)」が放映され、坂本龍一氏作曲の「道程」が演奏されました。再放送は3月20日(土)でした。
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3月11日(木)
3月12日(金)~30日(火)
上野の森美術館を会場に、現代アートの展覧会「VOCA展2021 現代美術の展望-新しい平面の作家たち-」が開催され、光雲作「老猿」もモチーフとして使われた、尾花賢一氏による《上野山コスモロジー》も展示されました
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3月17日(水)
NHKさんのラジオAM第1・第2、それからFMの5分間番組「音の風景」で、光太郎詩の朗読がありました。その後、放送時間の異なる地方局を含め、繰り返し放送されました。サブタイトルが「朗読シリーズ うた景色~高村光太郎~」。『智恵子抄』から、「あどけない話」(昭和3年=1928)、「樹下の二人」(大正12年=1923)、「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)、そして短歌「光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき」(昭和13年=1938)が、松重豊さんの朗読で放送されました。
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3月24日(水)~6月13日(日)
新潟県長岡市の駒形十吉記念美術館さんにおいて、「駒形十吉生誕120年  駒形コレクションの原点」が開催され、光太郎から地元の美術愛好家グループ「風羅会」に贈られた短歌揮毫の色紙が展示されました。
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3月26日(金)~4月4日(日)
京都市の知恩院さんで「春のライトアップ二〇二一」が行われ、光雲作の聖観音像のライトアップも為されました。
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3月28日(日)
静岡県熱海市の起雲閣さんで「潮見佳世乃起雲閣コンサート「歌物語×JAZZ」」が開催されました。
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同日、1月31日(日)に亡くなった橋本堅太郎氏遺作の智恵子像「今ここから」が、JR東北本線安達駅前に除幕されました。

3月30日(火)
千代田区の紀尾井ホールでコンサート「蒔田尚昊 歌の世界〜アヴェ・マリアからウルトラマン賛歌まで〜」が開催されました。独唱歌曲「智恵子抄 より」中の「樹下の二人」「レモン哀歌」が演奏されました。
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3月31日(水)
夢月堂さんから宮尾壽里子氏の『詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer』が刊行されました。「水空」という詩が、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)へのオマージュともなっています。
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3月31日(水)~4月26日(月)
東京都北区の青猫書房さんで「鉛筆で描かれた絵本の原画展「ほんとうの空の下で」」が開催されました。絵本作家のノグチクミコさんによる『ほんとうの空の下で』は、平成29年(2017)の刊行。福島県浪江町で愛犬と共に自給自足の生活をされ、平成28年(2016)に亡くなった川本年邦さん(享年86)を主人公とした実話です。
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1月から3月、この時期はコロナウィルスがまだ猛威を振るっていた時期でしたが、それなりにいろいろとありましたね。
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明日は、4月から6月の事項を振り返ります。

【折々のことば・光太郎】

かたづけ、学校行、創元社の詩集十冊くる、

昭和26年(1951)9月21日の日記より
 光太郎69歳

創元社の詩集」は、9月15日刊行の『高村光太郎詩集』。当会の祖・草野心平の編集です。

心平は戦後、鎌倉書房の『高村光太郎詩集』(昭和22年=1947)を皮切りに、中央公論社の『高村光太郎選集』(昭和26年=1951~)、昭和31年(1956)の角川文庫『高村光太郎詩集』(角川書店)など、たてつづけに光太郎詩集等の編集を手掛け、その作品を後世に残すよすがとしてくれました。

3件ほど、ご紹介します。

まずは2時間ドラマの再放送

おかしな刑事〜居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査 「東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!」

BS朝日 12月28日(火) 20:00〜21:54

テレビ朝日系列で2011年に放送された第8シリーズ。ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田”という名字が気にかかり…。

出演者
伊東四朗、羽田美智子、石井正則、小倉久寛、辺見えみり、山口美也子、木場勝己、小沢象、丸山厚人、菅原大吉 (他)

智恵子の故郷・二本松が事件に関わる舞台の一つという設定で、智恵子生家や安達太良山でロケが行われました。年に1、2度、再放送が繰り返されています。
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あとの2本は、光太郎らに触れられるかどうか、というところですが……。

耳をすませば「女の道、切り開いて〜橋田壽賀子・篠田桃紅〜」

地上波NHK総合 12月29日(水) 06:10〜06:39

今年4月に亡くなった脚本家・橋田壽賀子さんと3月に亡くなった美術家・篠田桃紅さん。時代の風潮に逆らい、女性の生きる道を新たに切り開いた二人の言葉に耳を傾ける。

橋田さんは女性初の脚本部員として松竹に入社するが、男社会の壁にぶつかり退社。フリーの脚本家として、テレビで辛口ホームドラマという新たなジャンルを開拓。「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」などの名作を手がけた。父の反対を押し切り書道家になった篠田さん。名筆を写すことをよしとする書道界に反発し「水墨抽象画」という独創的な手法を確立。どの美術団体にも属さず自由な生き方を貫き、100歳を過ぎても創作を続けた。

【出演】美術家…篠田桃紅,脚本家…橋田壽賀子,【語り】加賀美幸子
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今年3月に亡くなった、篠田桃紅さん。「書」からスタートしましたが、伝統に囚われることなく、やがて墨による抽象表現の世界は、1950年代のニューヨークでも高く評価されました。エッセイストとしても足跡を残し、近年は満100歳を超えられてから、立て続けにエッセイ集を刊行、常に着物姿の凜としたたたずまいと相まって、人気を博しました。
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篠田さんの座右の銘の一つが、光太郎の「道程」(大正3年=1914)。複数のエッセイ集にその記述が見られます。

6月にもNHKさんで篠田さんの追悼的に過去の番組のアーカイブ放映がありましたが、その際は10分間の短いもので、残念ながら「道程」がらみの話は出て来ませんでした。今回は尺が多少長そうなので、期待しております。

もう1件。

ゆく年くる年

地上波NHK総合 12月31日(金) 23:45〜00:15

今年もコロナ禍が続き、経済や暮らしが大きな影響を受けた一年。「来年こそは笑顔を取り戻したい」という願いを全国各地から生中継でお伝えします。


コロナ禍2度目の年越し。東京「浅草寺」と京都「清水寺」や長野「善光寺」岩手平泉の「中尊寺」など各地の名所を生中継で結び、新型コロナ感染の終息を願う人々の様子を伝える。さらに今回、終夜体制で飛行機の整備を行う羽田空港の格納庫にもカメラが入る。また、来年本土復帰50年を迎える沖縄は、基地と隣り合わせの神社から平和への祈りをお届けする。

キャスター 高瀬耕造 桑子真帆
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大晦日の風物詩ですね。

信州善光寺さんからの中継も。昨年、国の登録有形文化財に指定された仁王門に納められている仁王像は、光太郎の父・光雲と、その高弟・米原雲海の作です。一昨年が開眼百周年ということで、本格的な学術調査等も行われたりもしました。今回、仁王門が取り上げられるかどうか、微妙なところですが……。

ところで善光寺さんの仁王像と言えば、今月初め、地上波フジテレビさん系列で放映された「正しく学んで福招き!おてらツアーズ」。
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こちらでは、善光寺さんの仁王像の謎について取り上げられました。ただし、光雲らの作であるという紹介はスルー。
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一般的な寺院の仁王像と、阿形、吽形の配置が逆になっている理由について。
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この問いに対し、アイドルグループ・NMB48のメンバー渋谷凪咲さんは……
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笑いました。まぁ、光雲におっちょこちょいの一面があったことは否定できませんが(笑)。

正解として紹介されたのが……
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たしかにこういう説がありますが、これが「定説」というわけでもなく、他にやはり阿吽が通常と逆の東大寺南大門の仁王像(金剛力士像)に倣ったという説もあります。テロップででも「※諸説あります」と出してほしかったところです。

ところで、テレビ番組で彫刻といいますと、12月14日(火)、地上波TBSさん系で放映された「マツコの知らない世界」。ご自身でも彫刻制作に当たられている俳優の片桐仁さん(多摩美術大学卒)がご出演、彫刻についてさまざまな面から語って下さいました。

その中で、光太郎も。

各地の公共彫刻を紹介する中で、大阪の御堂筋が取り上げられました。
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こちらには、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作が「みちのく」の名で設置されています。片桐さん、「みちのく」もご紹介下さいました。ありがとうございます。
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まぁ、メインは光太郎も敬愛していたロダンでしたが。
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この放映直後、ツイッター上では「大阪に高村光太郎か、すげーな」的な投稿が相次ぎました。

「おてらツアーズ」にしても「マツコの知らない世界」にしても、系列外の地方局等で番販の形による遅れての放映があるかも知れませんので、紹介しておきます。

さて、これから放映の「ゆく年くる年」等、ぜひごらんください。

【折々のことば・光太郎】

十一時頃盛岡より深沢省三氏来訪。岩手川一升(美校より)ハムをもらふ。仙台市にて紙絵展の事たのみに来られしなり。一度断り、又宮崎稔氏でも看視するならと返事す。

昭和26年(1951)9月17日の日記より 光太郎69歳

智恵子遺作の紙絵展、盛岡、花巻、それから都内などでも相次いで開催され、人々に驚きを持って迎えられました。そこで仙台でもぜひ、という話が持ち上がったのですが、残念ながら仙台展は実現しませんでした。

過日届いた、都下小金井市の美術系専門古書店、えびな書店さんの新蒐品目録。光太郎の書(軸装された歌幅)が写真入りで紹介されています。
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書かれているのは、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で詠まれた短歌で、「太田村やまく(ぐ)ちやまの山かけ(げ)にひえをくらひて蝉彫る吾は」。

001光太郎自身、この短歌が気に入っていたようで、複数の揮毫例が存在しますし、日記にも「誰々のために蝉の歌を揮毫」的な記述が散見されます。

駒場の日本近代文学館さんには、色紙に書かれたものが所蔵されており、10月から先月末にかけ、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で展示されました。

えびな書店さんの方では平仮名だった「やまく(ぐ)ちやま」が、こちらでは「山口山」と漢字表記です。

おそらく、ですが、用紙の縦横のバランスを考え、そうしたのではないかと考えられます。基本は「山口山」と漢字表記にするところを、えびな書店さんの方では、色紙より横に長い用紙のため、平仮名を使って字数を増やしているように思われますが、どうでしょうか。書家の方々のご意見を伺いたいものです。

ところで、近代文学館さんの色紙も載っている「画壇の三筆展」の図録、会期終了後に、まだ残部があればお分け下さい、とお願いし、15部入手しました。来春開催予定の第66回連翹忌にて販売予定ですが、どうしても早く手に入れたい、という方、当ブログコメント欄(非表示設定可)、当方フェイスブック、ツイッター等からご連絡下さい。代金+送料で2,570円となります。また、富山県水墨美術館さんに直接申し込まれても入手できるのではないでしょうか。
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【折々のことば・光太郎】

中原さん一年の間に大層年よりじみ、皺など目立つ。胃酸過多といふ。そのためか。顔いろもあし。

昭和26年(1951)9月15日の日記より 光太郎69歳

中原さん」は、昨日もこの項で紹介た、歌人の中原綾子。光太郎とは智恵子存命中からの知り合いでした。

一年の間に」ということは、前年にも、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に中原が訪ねてきたということになります。ところが、昭和24年(1949)、25年(1950)の日記はそのほとんどが失われており、光太郎側の資料では詳細不明です。

平成14年(2002)、中央公論事業出版さん発行、松本和雄編著の『歌人 中原綾子』には、以下の記述があります。

 綾子は昭和二四年(一九四九)、五一歳の一一月二六、二七日、「スバル」創刊号への題字依頼を兼ねてこの山小屋を訪ねた。
 宿泊は太田村村長宅。「雪の中に埋っている小さい、小さい小舎に泊めて下さるとばかり思っていたのに、夜通しお話がしたかったのに、先生は提灯さげて私を村長さんの家につれてゆかれました。」


そして、その折に詠まれた綾子の短歌。
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そして、光太郎日記に残っている昭和26年(1951)の再訪時。
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光太郎、ストイックもいいのですが……。やはり亡き智恵子に対する想いは強かったのでしょうし、数え69歳の身では、もはや「据え膳喰わぬは……」という感じでもなかったのかも知れません。

それにしても、日記。公開を前提としていない日記とはいえ、「大層年よりじみ、皺など目立つ」まで書くか、と思いますね。綾子は満で53歳、まだまだ十分に「女」だったはずですが。

最近刊行された雑誌を3件ご紹介します。ネタに困っている時には3回に分けるところですが……。

まず、マガジンハウス社さん刊行の『BRUTUS』、2022年1月1日・15日合併号。

巻頭特集が「百読本 何度でも読む。読むたびに知る」。各界著名人等の愛読書が紹介されています。
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デザイナーの皆川明氏が、『智恵子抄』をご紹介下さっています。
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皆川氏、5月に発売されたムック『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』でも、『智恵子抄』をご紹介下さいました。

紹介の理由として、「開くだけで、外界から離れて自分の世界に。」と記されています。パリへのご出張の際にも、スーツケースに入れられるそうで、「カフェに座ってこれを読んでいると落ち着く、というと簡単な表現ですが、頭の中には好きな世界が広がって、外側には違うカルチャーがある。それが案外心地いい」、「字間が少し開いた旧仮名遣いのやや大きな字が並び、ページに広がる空いた空間も読みやすい」とのこと。

当方もいずれ、パリのカフェで『智恵子抄』を繙いてみたいものです(笑)。いつになることやら、ですが(笑)。

他の方々は、以下の通り。敬称略で、すみません。

フワちゃん(タレント)/『窓ぎわのトットちゃん』 黒柳徹子
平野紗季子(フードエッセイスト)/『たんぽるぽる』 雪舟えま
熊木幸丸(ミュージシャン)/『クリエイティブ・マインドセット』 トム・ケリー他
乗代雄介(小説家)/『「岩宿」の発見』 相沢忠洋
神田伯山(講談師)/『師匠、御乱心!』 三遊亭円丈
石沢麻依(小説家)/『七つのゴシック物語』 イサク・ディネセン
按田優子(料理家)/『生き物としての力を取り戻す50の自然体験』
 Surface&Architecyure
平野啓一郎(小説家)/『マイルス・デイビス自叙伝』 マイルス・デイビス他
紺野真(料理人)/『レネ・レゼピの日記』 レネ・レゼピ
小林エリカ(作家)/『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』 コナン・ドイル
斉藤壮馬(声優)/『煙か土か食い物か』 舞城王太郎
佐藤健寿(写真家)/『三国志』 横山光輝
白石正明(編集者)/『社交する人間』 山崎正和
小林快次(恐竜学者)/『荒野へ』 ジョン・クラカワー
佐藤亜沙美(ブックデザイナー)/『檸檬』 梶井基次郎
岸本佐知子(翻訳家)/『十二神将変』 塚本邦雄
磯野真穂(人類学者)/『見知らぬものと出会う』 木村大治
兼近大樹(お笑い芸人)/『黒いマヨネーズ』 吉田敬
前田司郎(劇作家)/『赤毛のアン』 モンゴメリ
渡邉康太郎(コンテクストデザイナー)/『人間の土地』 サン・テグジュペリ
藤岡弘、(俳優 武道家)/『武士道』 新渡戸稲造


特別定価800円です。

続いて、『週刊現代』さん、12月25日・1月1日合併号(特別定価550円)。
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短期集中連載と思われますが、「巨弾ノンフィクション 丹波哲郎は二度死ぬ 大スターはなぜ晩年に「大霊界」へ傾斜したのか」の第4回として、「岩下志麻と共演した『智恵子抄』に秘められた真実」が、4ページにわたって掲載されています。ご執筆はノンフィクションライター野村進氏。
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松竹映画「智恵子抄」で、光太郎役を務められた丹波さんと智恵子役で共演なさった岩下志麻さん、テレビドラマでの丹波さんの代表作「Gメン'75」で共演された原田大二郎さんへのインタビューなどで構成されています。

私生活でも丹波さんと親しくされていた岩下さん(今号ではハワイで偶然に丹波さんと出会ったエピソードなども紹介されています)、以前から、丹波さんが「智恵子抄」の光太郎役が自分の中で一番印象に残っているとおっしゃっていたと紹介されていましたが、原田さんも同じような発言をなさっています。原田さんご自身のご感想ですが。
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そして、丹波さんの「智恵子抄」への思い入れや、のちの霊界への傾倒は、難病で亡くなった貞子夫人の存在が大きい、と、野村氏。その告別式での丹波さんの言葉。

「しみじみと感じますのは、夫婦というものは、半世紀以上も一緒におりますと、ふたりがまさにひとりになってしまっているんです」

まるで、智恵子を亡くした光太郎ですね。もっとも、光太郎智恵子の結婚生活は20数年でしたが。

ところで、野村氏、岩下さんへの取材の際に、松竹映画「智恵子抄」のスチール写真を御持参なさったそうです。その写真の画像も載っていますが、こちらです。
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当方手持ちのスチール写真をスキャンしました。

岩下さん、これを御覧になって、「これは、智恵子が精神病院から逃げ出して、うちに帰ってきたところですね。『もう病院には戻りたくない。おうちにいたい』と光太郎の絵の具をめちゃくちゃにしたあと、ワァーワァー泣き出して、そんな智恵子を光太郎が抱きしめているシーンです」。

ところが、残念ながら岩下さん、勘違いなさっています。上記は磐梯山のシーン。詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)で謳われた、「わたしもうぢき駄目になる」と取り乱す場面です。

同じシーンの別のスチール写真がこちら。こちらでしたら磐梯山だとすぐわかります。
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ちなみに磐梯山ではこんなカットも。
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岩下さんがおっしゃった、病院から抜け出して、のシーンはこちら。
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丹波さんも岩下さんも、特にこのシーンでは鬼気迫る演技でした。

岩下さん、当方もお世話になっております信州安曇野の碌山美術館さんで、光太郎のブロンズ代表作「手」を御覧になって、丹波さんを思い起こされたそうです。碌山美術館とは書いてありませんが、まず間違いありません。
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ご一緒したかったな、と思いました。

最後にもう1冊。一般書店で販売されていない、文芸同人誌です。
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ご執筆なさっている、詩人の小山修一氏からいただきました。『風越(かざこし)―詩とエッセイの同人誌―』第5号。

小山氏の玉稿は「「道程」から考える詩の追求」。大正3年(1914)、まず雑誌『美の廃墟』に発表され、同じ年に刊行された第一詩集『道程』の表題作となった、「道程」に関してです。意外と有名な話ですが、「道程」、3月の雑誌初出時には102行もある長大なものでした。それが同じ年10月刊行の詩集『道程』に収録された際、現行の9行の形に改変されています。

この改作に関し、小山氏、「その長詩を表舞台からひっこめ、九行の詩に熟成完結させた事実は、詩をつくるものの一人としておおいに理解できるし、その潔さには驚愕するばかりです」「一度雑誌に発表した作品の圧倒的部分を切り捨てるなんて、そうそうたやすくできるものではありません」としています。

詩の実作者としての立場からのご発言ゆえ、重いものがありますね。ちなみに小山氏、今年度、「第37回三木露風賞」で最優秀に輝かれています。

『風越』、奥付画像を載せておきます。ご入用の方、下記まで。
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【折々のことば・光太郎】

午前花巻にゆかうとしてゐる時、中原綾子さん突然来訪。ダツトサンで来た由。花巻行を中止、中原さん今夜田頭さんに泊まる事になり、夕方まで談話。
昭和26年(1951)9月14日の日記より 光太郎69歳

中原綾子は歌人。智恵子存命中から光太郎と交流があり、美人すぎる歌人でもあったこと、智恵子の心の病の状況を唯一詳しく手紙に書き送った相手であることなどから、口さがない人々は光太郎の愛人だったのではないか、などとも噂しました。

田頭さん」は屋号で、旧太田村村長だった高橋家です。

詩人の高良留美子さんの訃報が出ました。

『朝日新聞』さん。

高良留美子さん死去

002 高良留美子さん(こうら・るみこ=詩人、評論家、本名竹内留美子〈たけうち・るみこ〉)12日、膵臓(すいぞう)がんで死去、88歳。葬儀は近親者で行った。喪主は長女小松美穂子さん。
 詩人としてH氏賞、現代詩人賞を受賞。97年に女性文化賞を創設し、私費で賞金を授与。17年に女性史研究者の米田佐代子さんに賞の運営を引き継いだ。

『読売新聞』さん。

詩人の高良留美子さん死去…女性史研究にも力注ぐ

001 詩人で、女性史研究者としても知られた高良留美子(こうら・るみこ、本名・竹内留美子=たけうち・るみこ)さんが12日、膵臓(すいぞう)がんで死去した。88歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は長女、小松美穂子さん。
 東京都出身。大学時代から文化総合雑誌「希望」に参加し、1963年に詩集「場所」でH氏賞、88年に詩集「仮面の声」で現代詩人賞を受賞。女性史研究にも力を注ぎ、97年には、女性の文化向上に貢献した人に贈る「女性文化賞」を個人で創設した。アジア・アフリカの詩人とも交流し、翻訳にも取り組んだ。また、本紙で83年から98年まで、詩の投稿欄「女の詩・女のうた」の選者を務めた。

『読売』さんの見出しに「女性史研究にも力注ぐ」とありますが、当方、その関係の御著書を一冊、所蔵しております。

平成21年(2009)、學藝書林さん刊行の『恋する女 一葉・晶子・らいてうの時代と文学』。
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サブタイトルが「一葉・晶子・らいてうの時代と文学」で、その3人がメインですが、帯文にある通り、智恵子の章も設けられています。

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久しぶりに読み返してみました。

黒澤亜里子氏の先行研究などを踏まえ、基本、ジェンダー論に立脚されたものですが、ヒステリックに光太郎の悪行を糾弾する、というスタンスではなく、新しい男女の姿を追い求めながら、刀折れ矢尽きていく二人の姿を追っています。そこに、智恵子の親友だった田村俊子とのからみも。

当時の一般的な男性と較べ、ジェンダー平等の観念の部分では進んでいた光太郎も、所詮は「良妻賢母」を無意識に求める部分があったという指摘、絵画については才能溢れる、とまではいかなかった智恵子が、画業に見切りをつけ「偉大な芸術家の妻」という道を選択したこと、そしてそれに伴う悲劇として、心の病は必然的に訪れた、といった論は、うなずけるものがありました。

曰く

彼女は絵を描きつづけながらも、〈我をすて〉ようとしていたのだ。しかしひとたび自我に目覚めた人間にとって、それは衰弱へ向かう道であり、とくに智恵子のような強烈な自我意識をもっていた人間にとって自己破滅へ向かう道であった。

もう一冊、部分的なご執筆で『『青鞜』を読む』。平成10年(1998)、やはり學藝書林さんの刊行で、「新・フェミニズム批評の会」の編著です。
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高良さん、こちらでは、「成瀬仁蔵の女子教育思想と平塚らいてう」の題で、30ページ程。

智恵子が創刊号の表紙絵を描いた『青鞜』。発起人や社員の中に、らいてうをはじめ、日本女子大学校出身者が多数いたことから、同校創立者の成瀬仁蔵の思想が彼女たちにどう影響を及ぼしたか、という趣旨です。

2冊とも、Amazonさん等で入手可能です。

さて、改めまして、高良さんのご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

たえ子さん立ちよる、コーヒー御馳走。


昭和26年(1951)9月13日の日記より 光太郎69歳

たえ子さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の婦人。

光太郎がふるまった「コーヒー」は、おそらくインスタントでしょう。過日、久々に光太郎の山小屋に入れていただいた際、作り付けの棚にネスカフェの瓶がありました。
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「吉原レポート」と言っても、風俗店の突撃取材ルポではありませんのでよろしく。

過日書いた花巻レポートと前後しますが、12月12日(日)、上野の東京藝術大学さんで「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展を拝見した後、方角的に近いので、台東区の千束地区、いわゆる吉原をぶらぶら散歩しました。

欧米留学から帰朝した明治42年(1909)末か、翌年の初めくらいから、光太郎が通い詰めた「河内楼」という妓楼があった場所です。
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 「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷に結つてゐた。元禄髷といふのは一種いふべからざる懐古的情趣があつて、いはば一目惚れといふやつでせう。参つたから、懐ろからスケツチ ブツクを取り出して素描して帰つたのだが、翌朝考へてもその面影が忘れられないといふわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描かうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結つてゐないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已むを得ず昨夜のスケツチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでせう、といふことになつた。
 いはばそれが病みつきといふやつで、われながら足繁く通つた。お定まり、夫婦約束といふ惚れ具合で、おかみさんになつても字が出来なければ困るでせう、といふので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習はせるといつた具合。
(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)

光太郎が通っていた「河内楼」のあったあたり、これまで一度も行ったことがないので、この機会に、と思い、行ってみました。10月に、NHKさんの「歴史探偵」で吉原遊郭が取り上げられたのを拝見し、「ほおお」という感じでしたし、谷川渥氏著『孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり』を読んだこともきっかけとなりました。

頼りにしたのは、明治27年(1894)の古地図。光太郎が通っていた頃と、ほぼ同じ配置のはずですので。
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上野から地下鉄日比谷線で2駅の、三ノ輪駅で下車、歩きました。

標柱が立っており、いよいよ吉原ゾーン。河内楼のあった「京町通」で、上記地図で言うと左下の方です。
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ほどなく、吉原で一、二を争う規模だった、角海老楼のあった場所。
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そういう場所である、ということで、吉原遊郭全体の説明板が立っていました。
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角海老楼は、明治期に当時としては珍しかった時計塔が据えられていた大店でした。
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その前を通り過ぎ、河内楼があったはずのあたり。
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何だかサイケデリックな(死語ですね(笑))ビルが建っていました。光太郎がここいらに立って、懐からスケッチブックを出し、若太夫を描いたのか、と思うと、感慨深いものがありました。

こちらが明治末の河内楼。角海老楼ほどではありませんでしたが、それなりの格式の店だったようです。
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若太夫は、本名・真野しま。名古屋の出身でした。光太郎はその風貌をモナ・リザに例えています。

光太郎が若太夫に入れあげているのを知った阿部次郎や木村荘太(光太郎とも親しかった画家・木村荘八の実兄)などが、あえて若太夫を指名し、通うようになります。

 ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通つたらしいが、結局、誰のものにもならなかつた。
(同)

そのため、木村と光太郎は決闘寸前まで行ったとのこと。

しかし、当の若太夫は、やはり誰にも本気だったわけではなかったようで、年季が明けると郷里に帰っていきました。

 若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。
(同)

そして、明治44年(1911)、吉原大火。河内楼も角海老楼も灰燼に帰しました。このあたり、木村の小説『魔の宴』に詳述されています。

さて、河内楼址を後に、ぶらぶら散歩。

メインストリートの仲之町通りを歩き、吉原神社さんへ。
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かつて若太夫ら遊女たちもお参りしたのかな、などと考えながら、参拝。

仲之町通りを逆に歩くと、かつてのメインゲート・大門のあったあたり。
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今も通りには柳の並木があり、風情が感じられます。
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右上は、かつて吉原全体をぐるりと取り囲んでいた、「お歯黒どぶ」だった道。今も周囲より一段低くなっています。

大門のちょっと先には、吉原土手のあった辺り。
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空襲や区画整理を免れたであろう古い町家があって、いい感じでした。

テキトーに歩きながら、三ノ輪駅に戻る途中、偶然にも……。

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吉原ゾーンに入る前、町名が「竜泉」でしたので、一葉が暮らしていたのはこの辺だったはず、とは思っていましたが、こんなふうに道端に碑が立っているとは存じませんでした。

光太郎と一葉、直接の交流はありませんでしたが、光太郎は、明治25年(1892)、肺炎のため数え16歳で早世した長姉・咲(さく)の面差しが、一葉そっくりだったとくり返し書いています。

面差し、といえば、やはり気になるのが、光太郎をしてモナ・リザを彷彿とさせられたという、若太夫。どこかに写真が残っていないか、常に気になっています。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

晴時々小雨、涼、 雨のあと、紙屑四俵を畑でやく、

昭和26年(1951)9月10日の日記より 光太郎69歳

灰は肥料になるとはいえ、「紙屑四俵」……(笑)。

青森から彫刻の個展情報です。

小田原のどか「近代を彫刻/超克するー雪国青森編」@ 国際芸術センター青森

期 日 : 2021年12月25日(土)~2022年2月13日(土)
会 場 : 国際芸術センター青森[ACAC]展示棟ギャラリーA
       ⻘森市⼤字合⼦沢字⼭崎152-6
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 12月29日(水)~1月3日(月)、1月14日(金)~1月16日(日)、
      1月28日(金)~1月30日(日)
料 金 : 無料

公共空間に置かれた彫刻を歴史や社会を批評的に読み解くメディアと捉える小田原のどか(1985年宮城県生まれ)は、彫刻家としての制作活動のみならず、複数の媒体での執筆連載、出版社「書肆九十九」の運営など、多岐にわたる活動を展開している。これまでに『小田原のどか作品展《↓》』(同志社女子大学mscギャラリー、2014)、『STATUMANIA 彫像建立壁』(ARTZONE、2017)、『近代を彫刻/超克する』(トーキョーアーツアンドスペース、2019)といった個展のほか、『群馬青年ビエンナーレ2015』(群馬県立近代美術館)、『ゲンビどこでも公募2015』(旧日本銀行広島支店)、『あいちトリエンナーレ2019』、『PUBLIC DEVICE -彫刻の象徴性と恒久性-』(東京藝術大学大学美術館 陳列館、2020 ※共同キュレーターを兼任)などで作品を発表。主な著書に『近代を彫刻/超克する』(講談社、2021)、また、自身が経営する版元から『原爆後の75年:長崎の記憶と記録をたどる』(長崎原爆の戦後史をのこす会編、書肆九十九、2021年)、共同の出版プロジェクトから『彫刻の問題』(白川昌生、金井直、小田原のどか著、トポフィル、2017)、『彫刻 SCULPTURE 1──空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』(小田原のどか編著、トポフィル、2018)などを出版。そのほか、東京新聞、芸術新潮、ウェブ版美術手帖で連載を担当、群像、現代思想などに寄稿多数。

本展では、『表層/地層としての野外彫刻 プロジェクト2021「ここにたつ」』の2021年度の試みとして、小田原が青森県内の野外彫刻を実際にリサーチし、雪深い冬季に屋外の彫刻が見られなくなってしまうという環境にも着目しながら、大熊氏廣《雪中行軍記念像(歩兵第5連隊遭難記念碑)》や高村光太郎《乙女の像》、高村のアシスタントを務めた野辺地出身の小坂圭二をはじめとする青森ゆかりの彫刻家を調査した成果を発表する。小田原は、大熊氏廣と高村光太郎のふたりを「欧化と国粋のはざまで揺れ続けた、この国の近代彫刻史のおもてと裏」と捉え、八甲田山の両側に立つふたつの彫刻の足元に、「創造的断層」、「ありえたはずの彫刻史の分岐点」を見る。そして、本展において、《乙女の像》のために高村光太郎が残した「十和田湖畔の裸像に与ふ」という詩の一節に対しても応答を試みる。
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彫刻実作のかたわら、『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』(部分)、『近代を彫刻/超克する』(全体)などを執筆され、近代彫刻史のご研究もなさっている、小田原のどか氏の個展です。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」オマージュの部分もあるということですし、光太郎彫刻自体も展示されるそうです。これはぜひ拝見に伺わねば、と思っております。

この展示のために、土産物として販売されていた(現在もされているのでしょう)「乙女の像」のミニチュアを貸して欲しい、とのことです。
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当方、ご協力したいのはやまやまですが、この手のものは手元にありません。サンリオさんのハローキティ十和田湖乙女の像バージョンのグッズは各種取り揃えましたが、ちょっと趣旨が違うようですし……。また、昔のテレホンカードも数十枚。こちらはいずれ十和田湖観光交流センターぷらっとさんあたりにでも寄贈しようかな、と思っています。

というわけで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

忠善さんの奥さんくる、ビール瓶進呈の事きめる、忠雄さんとりにくる 廿数本。米糠のあたらしいのをくれる。


昭和26年(1951)9月8日の日記より 光太郎69歳

ビール党だった光太郎、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋でも、何だかんだでビールを入手できていたようです。おそらく当時は瓶を換金できたのでしょう。代わりに米糠、村人との微笑ましい交流ですね。

一昨日から昨日にかけ、光太郎第二の故郷・花巻に行っておりました。レポートいたします。

今回は、特に現地で何かのイベント等があるために行ったわけではなく、友人3人を案内するというのがメインの目的でした。あとはついでに花卷高村光太郎記念会さんなどと、事務的な手続き、相談等もありましたが。

18日(日)朝、東京駅に集合し、東北新幹線で一路、花巻へ。雪が心配でしたが、花巻の積雪はほとんどありませんでした。
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今年の花巻のトレンドと言えば……。
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他にも菊池雄星選手ら、花巻東高校さんや富士大学さんの関係で、ゆかりのプロ野球選手がたくさん。新花巻駅の待合室、観光案内所を兼ねた展示スペース「ステップイン・はなまき」です。
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レンタカーを調達し、市街へ。

まずは光太郎ゆかりの松庵寺さん。光太郎歌碑、詩碑が計3基。
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その後、周辺を歩きました。

少し前にこのブログでご紹介した、嘉司屋さんで昼食。
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左上は光太郎揮毫の賢治詩碑拓本の縮小版。右上は店内にあった書籍の一節。そう遠くないところにかつてあった支店の方に、光太郎が訪れていたということでした。ただ、残念ながら「四代目の佐々木喜太郎さん」の名は、『高村光太郎全集』に見あたりませんでした。またお店がすいている時にでもお邪魔し、何か光太郎ゆかりのものをお持ちでないかどうか訊いてみようと思いました。

続いて、「賢治の広場」。どうも宮沢家の親戚で、さらに賢治の妹のシゲ(光太郎とも交流)が嫁いだ岩田家の関係で作られた施設のようです。
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宮沢家の親戚筋などに保存されていたとおぼしきいろいろなものも展示されていました。

そして、マルカンビル。大食堂で、名物の10段巻きソフトクリームに挑戦。当方、2度目でしたが、作法通りに割り箸を使って(笑)美味しく頂きました。女性陣はお二方で一つをシェア。実はお一人ずつでも食べられそうでしたが(笑)。
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腹もふくれたところで、再びレンタカーで、花巻南温泉峡。宿泊させていただく大沢温泉さんを一旦通り過ぎ、「山の駅 昭和の学校」さんへ。
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廃校になった小学校を使い、昔の商店街を再現し、レトロな昭和グッズを大量に展示しています。
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現役の小学校だった頃、卒業記念として昔の児童さん達が作ったらしい、大きな銅板のプレート。地元ゆかりの偉人ということでしょう、光太郎詩「道程」がモチーフです。
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南下して、大沢温泉山水閣さん。

当方、大沢温泉さんでは、かつては菊水館さんを定宿としていましたが、平成30年(2018)、台風による土砂崩れで物資搬入が不可能となり、現在休業中。その後は自炊部に泊まり続けています。今回、お連れしたのはセレブの方々ですので、さすがに自炊部というわけにはいかず、通常の温泉ホテル形態の山水閣さんにしました。自炊部は自炊部で非常に風情があるのですが、裏を返せば風情しかありません(笑)。自炊部ではこの季節、コタツも有料。コタツの台とコタツ布団は常備ですが、頼んで別途料金を支払わないと、コードを貸してくれません(夏場は扇風機も有料だったはず)。一人旅ならそれがいいのですが……。

ただ、館内でつながっていますので、温泉は自炊部棟の温泉にも入れます。
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自炊部棟にある、大露天風呂「大沢の湯」。当方、ここに入らないと気が済みません(笑)。女性専用の時間帯もあり、同行のレディーたちにも気に入っていただけたようです。

豪華な夕食をいただき、就寝。この夜は10㌢くらいの雪が降ったようでした。

翌朝の窓外の風景。眼下には豊沢川の清流。木々は樹氷のように見えました。
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朝食後、光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村(現・花巻市太田地区)の高村光太郎記念館さんへ。
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この周辺は、だいぶ道路にも積雪がありました。レンタカーがセダンタイプで、屋根に積もった雪がずり落ちてトランクの上に溜まり、後ろが見えなくなったりもしました。いつもワンボックスで、雪はすぐ落ちるのためそういうことはなかったのですが、セダンだとそうなるんだ、と初めて知りました。

こちらで、企画展「光太郎の三陸廻り」の際にお貸ししていた鳥瞰図や古絵葉書などを返していただき、ありがたいことにその分のギャラが出て、拝受。さらに事務的な相談を少々。その間に友人達には展示を見て貰いました。

隣接する光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)へ。
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これでもまだ雪が少ない状態です。来月には1メートル以上積もるでしょう。そうなるとここに近づけません。
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中尊寺金色堂のように、二重の套屋(カバーの建物)の中に、山小屋が保存されています。通常非公開ですが、久しぶりに山小屋内部に入れてもらいました。この季節に中に入ったのは初めてかもしれません。
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光太郎の蟄居生活、それを「単に戦争責任を反省しているポーズにすぎなかった」的な論調を眼にしますが、「そう思うならここでこの季節に一晩でもすごしてみろ」と言いたくなります。

駐車場にはジャンボレトロタクシー、どんぐりとやまねこ号。現在は1日3,000円で、ここや賢治記念館などを廻っているそうです。
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その後、ほど近いところに昨年オープンした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。
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光太郎グッズコーナー。新製品も。
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インフォメーションスペースには、いわて花巻空港さんに先月まで展示されていた写真パネルなども。
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こちらで、地元の関係者の皆さんとお会いし、また事務的な話など。
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お土産を大量に頂いてしまいました。多謝。

そして最後の目的地、宮沢賢治記念館に。

と、その前に、予定にはありませんでしたが、花巻駅近くの公民館的な「市民の家」に寄り道。元の花巻町役場を移築したものです。
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敷地内には、光太郎も乗った花巻電鉄デハ3型
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そして、新花巻駅近くの宮沢賢治記念館へ。
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こちらは平成27年(2015)にリニューアルされましたが、新しくなってから初めて足を踏み入れました。リニューアル後の展示については、賛否両論いろいろです。賛否両論いろいろだろうな、というのがわかる感じでした。

敷地内の「注文の多い料理店 山猫軒」さんで昼食。
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レンタカーを返却し、帰途につきました。

細かくレポートする余裕がなく、アバウトに辿っただけでしたが、心も胃袋も満腹の1泊2日でした。コロナ禍も漸く落ち着きつつあり、観光客も戻ってきています。皆様もぜひどうぞ。また、依頼があって、日程的な都合などかみ合えば、今回のようにツアーガイド的なことも致します(笑)。

【折々のことば・光太郎】

昨日式場から Black & White ヰスキーをもらふ。


昭和26年(1951)9月5日の日記より 光太郎69歳

式場」は式場隆三郎。精神科医でしたが、文学にも関心が強く、戦前には白樺派の面々と親しく交わり、この頃は『日曜日』という雑誌を主宰?していました。同誌には光太郎の山小屋の訪問記も写真入りで掲載されています。

Black & White」は高級ウイスキーですね。

昨日から一泊二日の日程で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に来ております。
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今回は、普段の単独行ではなく、友人3名と共に、です。
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何やら珍道中ですが(笑)、詳しくは帰りましてからレポート致します。

定期購読しています『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』さんの第29号が届きました。
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裏表紙に連載中の「光太郎レシピ」。今号は「チキンソテーのきのこソース&林檎と胡桃のサラダ」。
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チキンときのこの組み合わせ、あまり見かけないような気がしますが、実に美味しげですね。

その他、巻頭特集は「橋のある風景」。光太郎が暮らした郊外旧太田村方面の「高村橋」が取り上げられていないのが残念ですが……。

「光太郎レシピ」企画に携わられているのが、やつかの森LLCさん。道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」などにも関わられています。

今月15日に販売の分。
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マチココさんの「光太郎レシピ」、「光太郎ランチ」ともども、光太郎の日記や書簡、周辺人物の回想等から、光太郎が作ったメニューを分析、現代風にアレンジというコンセプトです。

それぞれ、末永く続いて欲しいものですね。

当方、今日、明日と一泊で花巻に行って参ります。

【折々のことば・光太郎】

日報の祓川氏来訪 講和の詩七日までにとの事。岩手川特撰一本もらふ。

昭和26年(1951)9月3日の日記より 光太郎69歳

日報」は岩手日報、「講和」は第二次大戦正式終結のためのサンフランシスコ講和条約を指します。9月8日が調印式でした。

」は、「岩盤に深く立て」。講和条約調印により、GHQによる占領体制が解除、日本の独立国家復帰がなされることを念頭に書かれました。

  岩盤に深く立て
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 四ツ葉胡瓜の細長いのをとりながら
 ずゐぶん細長い年月だつたとおもう。
 何から何までお情けで生きてきて
 物の考へ方さへていねいに教えこまれた。
 もういい頃と見こみがついて
 一本立ちにさせるという。
 仲間入りをさせるという。
 その日が来た。
 ヤマト民族よ目をさませ。
 口の中からその飴ちよこを取つてすてろ。
 オツチヨコチヨイといわれるお前の
 その間に合わせを断絶しろ。
 その小ずるさを放逐しろ。
 世界の大馬鹿者となつて
 六等国から静かにやれ。
 更生非なり。
 まつたく初めて生れるのだ。
 ヤマト民族よ深く立て。
 地殻の岩盤を自分の足でふんで立て。

世界の大馬鹿者となつて/六等国から静かにやれ。」あたり、戦犯として訴追されかねなかった自らに対する叱咤のようにも読めますね。

岩手川」は、地酒。まさかこれがギャラだったわけではないと思いますが(笑)。 

本日も新刊紹介で……。

写文集 我が愛する詩人の伝記

2021年12月10日 室生犀星 文/濱谷浩 写真 中央公論新社 定価3,500円+税 

詩人は友を追慕し写真家は〈詩のふるさと〉を訪う 1958年『婦人公論』同時連載のエッセイとグラビアを併せた完全版 収録写真104点

白秋の柳川、朔太郎の前橋、犀星の金沢……親しき友人たちを詩人が追慕し、ゆかりの地を写真家が訪ね歩く。写真集『詩のふるさと』と併せた、ありし日の日本の詩情を捉えた写文集。

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目次

北原白秋―柳河 高村光太郎―阿多多羅山・阿武隈川 萩原朔太郎―前橋
釈迢空―能登半島 堀辰雄―軽井沢・追分 立原道造―軽井沢 津村信夫―戸隠山
山村暮鳥―大洗 百田宗治―大阪 千家元麿―出雲 島崎藤村―馬籠・千曲川
室生犀星―金沢
『我が愛する詩人の伝記』あとがき 室生犀星
濱谷浩さんのこと 室生犀星
『詩のふるさと』あとがき 濱谷浩
作品リスト


帯文にある通り、昭和33年(1958)、『婦人公論』に連載されたものから、犀星の文章のみで『我が愛する詩人の伝記』、濱谷の写真集として『詩のふるさと』として二分冊で刊行されました。それを一冊にまとめ、犀星没後60年記念出版という位置づけで「完全版」として出版したそうです。

『我が愛する詩人の伝記』の方は、のちに中公、角川、新潮の各文庫にも組み入れられ、最近も講談社文芸文庫の一冊で再刊されています。また光太郎の項は、光太郎の研究書『高村光太郎と智恵子』(昭和34年=1959 筑摩書房)、『文芸読本 高村光太郎』(昭和54年=1979)にも採用され、意外と有名な文章となっています。

同時代を生き、浅からぬ交流のあった犀星の観た光太郎。さすがに鋭い視点で、なるほど、と思わせられる部分も多く、光太郎研究の上では必読の一文かも知れません。

ここでの犀星の光太郎への眼差しは、一貫してシニカルと言うか、アイロニカルと言うか、厳しいものです。書き出しからして「高村光太郎の伝記を書くことは、私にとって不倖な執筆の時間を続けることで、なかなかペンはすすまない、高村自身にとっても私のような男に身辺のことを書かれることは、相当不愉快なことであろう。」と始まります。

犀星をしてこのように書かしめたのは、一つはライバル意識でしょうか。窮乏生活をさまざまな詩に書いた光太郎に対し、こんな立派なアトリエで暮らしているくせに、何が貧乏だ、的な記述がありますし、商業資本の大雑誌より、仲間内の同人誌的なものに好んで寄稿したことなども、ある種の「構え」と評しています。そして6歳下の自分が、まだ詩壇で認められていない、という妬みも。さらには筆鋒は智恵子にも及び、光太郎の留守(居留守?)にアトリエを訪れたところ、智恵子に冷たく追い返されたエピソードが語られ、「夫には忠実でほかの者にはくそくらえという眼付」としています。

ところが、同じ犀星が書いた光太郎回想でも、まったく逆に、手放しで光太郎を称賛している一篇も存在します。改造社から昭和4年(1929)に刊行された随想集『天馬の脚』。この中に「人物と印象」という章があって、「高村光太郎氏」という項が設けられています(国会図書館さんのデジタルデータで公開中。165コマめからです)。盟友の萩原朔太郎と共に、光太郎のアトリエを訪れた際のことが中心で「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騒がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、青年の峠を通り抜けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出来であつた。」とまで書いています。

『天馬の脚』の方は、光太郎生前の出版なので「忖度」があり、それに対し『我が愛する詩人の伝記』は光太郎が歿してからの執筆で、気兼ねなく本音が書けた、ということかもしれません。または、両書の間の約30年で、光太郎に対する見方が変わったのかもしれません。まぁ。そちらが強いのかな、という気がします。

それにしても、『天馬の脚』所収の「高村光太郎氏」、光太郎研究書の『高村光太郎読本』(昭和31年=1956 河出書房)、『高村光太郎資料 第五集 論と印象』(昭和50年=1975 文治堂書店)にも採られていますが、ほとんど注目されていないような気がします。『我が愛する詩人の伝記』の方が、インパクトが強いせいでしょうか。

ところで、『我が愛する詩人の伝記』、論考等に参考にしたり引用したりする際には、注意が必要です。ここに挙げられている光太郎のエピソードのうち、どうもここにしか書かれていないこと、それも事実かどうか不明なことがけっこうあるからです。

例えば、光太郎智恵子の生活。

夏の暑い夜半に光太郎は裸になって、おなじ裸の智恵子がかれの背中に乗って、お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた。

犀星がこの場面を実際に目撃した訳ではなく、あくまでも伝聞のはずです。それも、光太郎以外からの、と思われます。光太郎本人からそう聞いたなら、そう書くでしょうし。これを「事実」として、論考等の中に「こういうことがあった」と書くと、問題がありますね。実際、そういう話が聞こえてきて、辟易しています。まぁ、「火のないところに煙は立たぬ」とは言いますが……。

他にも戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中のエピソードなどにも、ファンの少女が訪ねてきたことを、さも見てきたかのように事細かに描写していますが、これなどもやはり伝聞に基づくもので、注意が必要です。

……という、『我が愛する詩人の伝記』ですが、光太郎をディすることに終始している訳ではなく、結局、「いろいろ書いたけれども、やはり高村光太郎は凄い人物だった」というスタンスです。

そして濱谷の写真。光太郎の項は、「阿多多羅山・阿武隈川」とサブタイトルにあり、智恵子の故郷・二本松の写真が使われています。ただ、それだけでなく、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の内部や周辺、さらに昭和24年(1949)に、濱谷が『アサヒカメラ』の取材で生前の光太郎を訪った際に撮ったポートレートも載っています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

村役場の書記折居氏といふ人くる、国税庁で余の完納三ヶ年を表彰する由にて年齢其他をきくため。暫時談話。


昭和26年(1951)9月1日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。文字通りの寒村で、光太郎は村一番の高額納税者でした。

新刊書籍です。

近代文学叢書Ⅲ すぽっとらいと 珈琲

2021年11月22日 なみ編 虹色社(なないろしゃ) 定価2,500円+税

文芸作品と写真を集結
芳醇にして、つややかな闇 ―<珈琲>―
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【収録作品】
珈琲店より/高村光太郎 甘話休題/古川緑波 あばばばば/芥川龍之介
砂糖/永井荷風 大阪の憂鬱/織田作之助 鼻/ニコライ・ゴーゴリ
失われた半身/豊島与志雄 コーヒー五千円/片山廣子 田巻安里のコーヒー/岸田國士
白い門のある家/小川未明 雪の夜/織田作之助 カフェー/勝本清一郎
コーヒー哲学序説/寺田寅彦 判官三郎の正体/野村胡堂 老人と鳩/小山清
妙な話/芥川龍之介

いわゆるアンソロジー系、テーマは「珈琲」です。

光太郎作品は、明治43年(1910)の雑誌『趣味』に発表されたエッセイ「珈琲店より」。前年まで滞在していた、パリでの苦い思い出が綴られています。

初めにことわっておきますが、どこまでが実体験なのか、全てかもしれませんし、逆に、まったくの妄想かもしれません。または話半分かも……。モンマルトルの繁華街での深夜に、イカした(死語ですね(笑))三人の美女を見かけ、ふらふらと後をつける光太郎。女たちの入ったカフェに自分も入り、女たちと呑み始めます。「珈琲店」には「カフェ」とルビが振られていますが、酒がメインの店です。ひとしきり、女たちと盛り上がった後、そのうちの一人と一夜を過ごし……。

翌朝、コーヒーを飲みながら、目を覚ました女の青い瞳に、さまざまな物を連想します。インド洋の紺青の空、エーゲ海の海の色、ノートルダム・ド・パリのステンドグラス、モネの絵画、サファイア……。

そして自分も起き上がり、洗面台へ。すると……

熱湯の蛇口をねぢる時、図らず、さうだ、はからずだ。上を見ると見慣れぬ黒い男が寝衣(ねまき)のままで立つてゐる。非常な不愉快と不安と驚愕とが一しよになつて僕を襲つた。尚ほよく見ると、鏡であつた。鏡の中に僕が居るのであつた。
「ああ、僕はやつぱり日本人だ。JAPONAIS だ。MONGOL だ。LE JAUNE だ。」と頭の中で弾機(ばね)の外れた様な声がした。

3年半にわたる欧米留学で、最初の一年余を過ごしたニューヨークと較べ、パリでは人種差別的な扱いを受けることはなかったようですが、庶民一人一人の生活にまで「芸術」がしっかり根付いているフランスと、「芸術」を見る眼がまるで進んでいない旧態依然の日本との、目のくらむような格差には日々打ちのめされ続けていました。さりとて、故国を捨て、軸足をフランスに据え、完全にとけ込むことも、光太郎には出来ませんでした。

「珈琲店より」と同じ頃のエッセイ「出さずにしまつた手紙の一束」には、こんな一節も。

僕には又白色人種が解き尽くされない謎である。僕には彼等の手の指の微動をすら了解することは出来ない。相抱き抱擁しながらも僕は石を抱き死骸を擁してゐると思はずにはゐられない。その真白な蝋の様な胸にぐさと小刀(クウトウ)をつつ込んだらばと、思ふ事が度々あるのだ。僕の身の周囲には金網が張つてある。どんな談笑の中団欒の中へ行つても此の金網が邪魔をする。海の魚は河に入る可からず、河の魚は海に入る可からず。駄目だ。早く帰つて心と心をしやりしやりと擦り合せたい。

しかし、そうして帰った日本にも、「目覚めてしまった」光太郎には居場所がなく……。

まぁ、この辺りを論じだしたらきりがありませんし、ここではそれが目的ではありませんので、この辺にしておきます。

他に14人、15篇(芥川の作品が2篇ですので)の、「珈琲」にまつわる珠玉の名文集です。ところどころに挿入されている、「珈琲」がらみのモノクロ写真もいい感じで、シャレオツな一冊となっています。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜ビールをのむ。 松雲閣別館、 夜あつし。 午前より談話速記。今泉氏の質問に答へる形。

昭和26年(1951)8月27日の日記より 光太郎69歳

フランスではアブサンなども呑んでいた光太郎でしたが、後半生はビール党でした。「松雲閣別館」は、花巻温泉の高級旅館。建物は現存し、平成30年(2018)には国の登録有形文化財指定を受けました。

今泉氏」は、美術評論家の今泉篤男。この際の談話は、この年10月と11月の『中央公論』に、それぞれ「青春の日」「遍歴の日」の題で掲載されました。「青春の日」中には、やはりパリでの体験等が語られています。

去る12月4日(土)の銀座公演に続き、12月12日(日)に二本松公演が行われた、「朗読劇 智恵子抄」。地元紙『福島民報』さんが報じています。

女優一色采子さんが”古里”で熱演 朗読劇「智恵子抄」 福島県二本松市

 高村光太郎と智恵子の夫婦愛を描く朗読劇「智恵子抄」は12日、二本松市安達文化ホールで開かれた。女優の一色(大山)采子さんが初めて智恵子役を務め、葛藤と純愛を熱演した。
 光太郎の詩集「智恵子抄」の出版80周年記念。光太郎を横内正さんが演じた。一色さんは、芸術と愛の間で苦しみ「二本松に行きたい」と故郷を思い続ける姿、無邪気に切り絵を作る様子、山にこもった光太郎の心に雪と共に現れる幻想的な情景を表現し、大きな拍手を受けた。「あどけない話」「樹下の二人」「レモン哀歌」などの朗読が織り込まれた。2人の友人の草野心平と柳敬助を喜多村次郎さん、柳八重を山吹恭子さんが演じた。
 松竹の主催、市教委の共催。上演後のトークショーで一色さんは「智恵子の古里で智恵子を演じるのは夢のよう」と感激を表し、父で同市出身の日本画家・故大山忠作さんの思い出も披露した。横内さんは智恵子抄の発刊と同じ1941(昭和16)年に生まれた縁を明かし、「温かく包み込む拍手をいただいた」と感謝した。
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続いて『福島民友』さん。

朗読劇「智恵子抄」熱演 福島・二本松、一色采子さんと横内正さん

 詩集「智恵子抄」の出版80周年を記念した朗読劇「智恵子抄」の二本松公演は12日、高村智恵子の古里・二本松市の安達文化ホールで開かれた。同市出身の日本画家大山忠作の長女で女優の一色采子さんが高村智恵子役を演じ、詩集に込められた智恵子、光太郎の夫婦愛を伝えた。
 朗読劇は、劇作家の北條秀司(1902~96年)が智恵子抄を舞台化した戯曲が原作。構成と演出の成瀬芳一さんが「樹下の二人」や「あどけない話」などの詩を織り交ぜ、光太郎と智恵子の夫婦愛を描く朗読劇に仕立て直した。一色さんのほか、光太郎役を「水戸黄門」の初代格さんなどで知られる俳優の横内正さんが演じた。
 一色さんは「智恵子のピュアなところを表現した」と、心の病を患った智恵子を少女のように演じるなど、横内さんと共に2人の愛を表現した。
 終演後、一色さんと横内さんによるトークショーが開かれた。一色さんは「智恵子の古里で、その役を演じられるのは夢のような出来事」「朗読劇は新しい演劇形式。動きなどにめりはりを付けるなどしてやらせてもらった」など裏話などを披露した。
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さらに、一色さんのフェイスブック投稿から。

おかでさまで 朗読劇「智恵子抄」
東京公演、二本松公演、好評を頂きまして無事に終える頃が出来ました。
この成功にご尽力をいただきました全ての皆様、応援してくださった全ての皆様に、心からの御礼を申し上げます。
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松竹さんのプレゼンツでありながら、出演者は4人だけ、こぢんまりとした舞台でしたが、それだけに手作り感溢れる、温かみのある公演でした。そしてベテランの皆さんの確かな演技、安心して観ていられました。

関係者の方々の、さらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

弘さんクリーム西瓜持参、一緒にくふ。


昭和26年(1951)8月26日の日記より 光太郎69歳

当方、寡聞にして「クリーム西瓜」って何? 状態でした。調べてみましたところ、果肉が黄色い西瓜のことだそうで、そういう名前だったとは存じませんでした。これって常識なのでしょうか?

音楽系の公演情報を2件。

まずは名古屋から、独唱歌曲系です。

日本歌曲コンサート~朝岡真木子の歌曲を中心として~

期 日 : 2021年12月19日(日)
会 場 : 電気文化会館 ザ・コンサートホール 愛知県名古屋市中区栄2丁目2-5
時 間 : 13:15開場 14:00開演
料 金 : 全自由席 3,800円 ※当日券の販売はございません。
      チケットをお求めの上ご来場いただきますようお願いいたします。

監 修 : 関定子
出 演 : 石川能理子、加川文子、鎌田哲、久保田道子、鈴木寿恵、鈴木啓之、冨田美穂、
      夏目久子、野瀬洋子、藤田桂子、水谷友香、森口紀代美、若狭真美
ピアノ : 山下勝

曲 目 : 
 朝岡真木子 : 私に歌があればこそ/なぎさ/”智恵子抄”より レモン哀歌
         ”あなたへ”より 生命の彩り
 橋本國彦 : 斑猫


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作曲家・朝岡真木子さんによる「レモン哀歌」がプログラムに入っています。

一昨年、やはり名古屋の同じ会場で開催された「伊藤晶子ソプラノリサイタル ~演奏生活70周年を記念して~」では、この曲を含む「智恵子抄」五曲が演奏されました。

もう1件、東京都八王子市から。こちらはどちらかというと舞踊系のようです。

こうもりクラブプロデュース 星降る夜のクリスマスオイリュトミー

期 日 : 2021年12月23日(木)
会 場 : 八王子市芸術文化会館大ホール いちょうホール 東京都八王子市本町24-1      
時 間 : 18時半開演(開場は開演の30分前 / 受付は45分前開始)
料 金 : 全席自由  前売り 3,000円 当日 3,500円

”クリスマスとは、ちょっとした余分のことを誰かのためにしてあげること。”  
–  チャールズ・シュルツ

歩んできた道を、そっと振り返る季節。あなたには想いを伝えたい人がいますか。クリスマスの夜に響く美しい音楽とよろこびの言葉。さあ、長いトンネルをくぐり抜けて、クリスマスを祝おう!

【構成 演出】野口泉
【音楽群舞オイリュトミーフォルム・振付】定方まこと
【出演】
 三上周子(こうもりクラブ) 清水矢須江(こうもりクラブ) 野口泉(こうもりクラブ)
 角田萌果(劇団青年座) 清水隆陽路 尾崎梓(Lands and Skies) 
 尾崎行輝(Lands and Skies) 定方まこと 
【ピアノ演奏】  島岡多恵子 橋本祐子

【演目】
 J.S.バッハ『楽しき狩りこそ我が喜び』より第9曲「羊は憩いて草を食み」(bwv208)
 ルドルフ・シュタイナー『魂のこよみ』より第38週 「聖夜の情景」
 ショパン ピアノソナタ3番第3楽章
 ブラームス ピアノソナタ3番第3楽章
 ショパン ノクターン8番 Op.27-2 他
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オイリュトミー」は、オーストリアの教育家、ルドルフ・シュタイナーによって始められた、「運動を主体とする芸術」。

出演される角田萌果さんという方のTwitter投稿に、「高村光太郎・相田みつを・茨木のり子さんらの詩を組み合わせた、若手オイリュトミスト:清水隆陽路さんとのコンビ作品もあります。」との記述がありました。
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それぞれご興味のある方、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃高村晴雲夫妻来訪、北海道よりの帰途の由。夕方まで談話、ビール2本、のり、牛かん2もらふ、一緒にビール。短冊5枚かく、観音木彫をもらふ。

昭和26年(1951)8月12日の日記より 光太郎69歳

高村晴雲」は、光太郎の父・光雲の師匠・髙村東雲の孫で、のちに三代髙村東雲を名乗ります。しばらく北海道にいたようですが、この年帰京し、北区十条に居を構えました。令孫・三代晴雲氏は鎌倉ご在住で、今もご活躍中です。

この折に光太郎が貰ったという観音像、花卷高村光太郎記念館さんに残されています。
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昨日は、上野の東京藝術大学さんで、「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展を拝見して参りました。
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光太郎の父にして、近代彫刻界の泰斗・髙村光雲、その子・光太郎、そして鋳金分野で人間国宝となり、家督相続を放棄した光太郎の代わりに髙村家を嗣いだ三男・豊周、三人の制作の舞台裏を展示するものでした。

会場は、正木記念館
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ふと、視線を感じ、振り返ると……。
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閑話休題、正木記念館は、東京美術学校第5代校長・正木直彦(光太郎在学中に着任)を顕彰するためにその名を冠し、昭和10年(1935)、作品陳列館として建てられました。

その正木像。一見、木彫に見えますが、陶製です。作者は美校出身で、のち、母校で教鞭を執った沼田一雅。
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いざ、2階の会場へ。残念ながら、内部は撮影禁止でした。

畳敷きの大広間二つをぶちぬきにして、周縁に展示物。反時計回りに進みました。

まずは光雲、光太郎、豊周の順に、使っていた道具類、スケッチ帖・作品下図や習作の小品などがまとめてありました。

興味深かったのは、彫刻刀などの類。光雲のものは200本程、光太郎のそれは150本くらい展示されていました。両者共に木彫を手掛けていたので、種類的に重なるものも多かったのですが、明らかに違うと感じたのは、篦(へら)。光雲は、柄の先に輪になった針金を付けた搔き篦(下の画像のタイプ)を多用していましたが、光太郎の道具の中に、それは見あたりませんでした。
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光太郎の使用していたという篦は、下記のタイプ。それもけっこう大きなものでした。
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光雲は、仏像等ではない、あまり作り慣れない物をモチーフにする際には、粘土や石膏で原型を作り、星取りの技法で木に写していたようですが(そのための鹿の彫刻の石膏原型が2点、星取り器も展示されていました)、やはり根本は木彫伝来の「カーヴィング」(削り取る技法、いわば「マイナス」)。それに対し光太郎は、ロダンから学んだ「モデリング」(積み重ねるやり方、言い換えれば「プラス」)が中心だったことが、篦一つとってもわかります。

先月お会いした彫刻家の吉村貴子さんもこの展示をご覧になり、同じことを感じられたとメールに書かれていました。実作者もそう感じるんだな、と思い、嬉しくなりました(笑)。

ところで、光太郎の彫刻刀の中に、一本、「千代鶴是秀作」とキャプションのついたものがありました。柄の部分まで鉄で出来ている特徴的なもので、「やはり是秀作を使っていたか」という感じでした。

彫刻刀以外には、光雲の使っていたものとして玄翁や墨壺、焼き印、光太郎使用ではチョークや鉛筆、さらに回転台なども展示されていました。豊周は鋳金家でしたので、二人とはだいぶ異なる道具でした(鏝や火箸、デバイダなど)。

それぞれに、彼らの息づかいが伝わってきそうで、感無量でした。

会場右手が道具類の展示でしたが、正面と左手は、作品が中心でした。といっても、完全な完成作はほとんどなく、石膏原型など。かえって、普段あまり観る機会のないもので、興味が尽きませんでした。

光雲の石膏原型は、フライヤーに使われている宮内庁三の丸尚蔵館さん所蔵の「鹿置物(キャプションは「秋の鹿」)」(大正9年=1920)、それとは別の「鹿置物」(昭和3年=1928)、「春の鶏」、「元禄若衆」(大正14年=1925)、「三番叟」(大正11年=1922)、「郭子儀」。また習作と思われる木彫の「魚籃観音」(大正8年=1919)も展示されていました。

また、展示という訳ではないのですが、もともとある会場の欄間。こちらも光雲の手になる物だそうです。下記はネット上にあった画像を拝借しました。
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こちらにはキャプションがなされておらず、光雲作と分からない人には分からないのですが……。

さらに、道具類と共に並べられていた、光雲のスケッチ帖の類も興味深く拝見しました。まず、人体解剖図的なもの。下記は平成14年(2002)、茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」図録から。
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その他、信州善光寺さんの仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像の下絵なども。

ちなみに仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像に関しては、現・髙村家当主の写真家・髙村達氏撮影の写真が、大きなタペストリーで壁面に飾られていました。

010光太郎の石膏原型は、「虎の首」(明治38年=1905)と「野兎の首」(制作年不詳)。「野兎の首」の石膏には驚きました。もしオリジナルのものであれば、豊周の弟子筋の故・西大由氏がボロボロのテラコッタから苦労してとったものです。

豊周の作は、完成品の「朱銅花入」が二点。それぞれに見事な作です。うち一点は、光太郎が使っていたという彫刻用の回転台の上に置かれており、いい感じでした。

さらに、光雲が守り本尊的に大切にしていた仏像も展示されていました。江戸時代の仏師・松雲元慶の作になる聖観音像。光雲がまだ徒弟修行中の明治9年(1876)頃のこと。当時はいわゆる「廃仏毀釈」の時代で、本所にあった(現在は目黒に移転)羅漢寺境内の栄螺堂が取り壊され、堂内に安置されていた観音像百体が焼却されることになり、その直前に、光雲や師匠の髙村東雲が救い出したうちの一体です。

青空文庫さんに、そのエピソードがアップされています。

本所五ツ目の羅漢寺のこと 蠑螺堂百観音の成り行き 私の守り本尊のはなし

画像は平成7年(1995)3月の『芸術新潮』から。光雲の特集「これが日本の木彫だ! 高村光雲」が組まれていました。

当方、これの実作はおそらく初めて拝見しましたが、やはり後の光雲の作に通じると感じました。

また、東雲のさらに師匠・高橋鳳雲の兄で、これも仏師だった高橋宝山の小品「亀」と「文殊菩薩」も。こちらも初見でした。

なかなか玄人好みの展示で、あまり一般向けではないかも知れませんが、彫刻史を考える上では非常に貴重な機会です。会期が12月19日(日)までと短いのですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】011

夜「天」といふ字を書く、草野君のため。


昭和26年(1951)8月10日の日記より
 光太郎69歳

当会の祖・草野心平の詩集『天』が翌月刊行されましたが、その題字です。

光太郎、これ以外にも心平詩集の題字を多く手掛けましたが、心平自身はこの「天」の字が、最も気に入っていたようです。


このブログでたびたびご紹介している、宮城県女川町の「いのちの石碑」。東日本大震災直後に中学校に入学した若者たちが、津波の際の避難の目安にと、町内の浜の高台に建て続けてきたものです。中学校での授業の中でその設置を考え、費用は同じ女川町の光太郎文学碑(平成3年=1991竣工)に倣って、募金で賄われました。
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先月、当初予定の全21基の最後となった碑が除幕されましたが、その時の様子や、これまでの活動、そして立役者の若者たちの現在の様子などを、一昨日、NNN系ミヤギテレビさんが報じました。題して「女川いのちの石碑10年 その先の夢」。ネット上でもその動画(8分ほど)が見られまして、拝見しました。

これまでの活動について。
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きっかけは、震災直後、社会科教諭だった阿部一彦先生の授業。
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最初の企画書。ここに光太郎文学碑に倣って募金で費用を賄う旨、記載されています。
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町関係者へのプレゼン。
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募金活動。映像はおそらく町内でのものでしたが、彼らは修学旅行先でも募金を呼びかけました。
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そして、あっという間に目標の1,000万円を集め、年に2基くらいずつ、町内の各浜の高台に碑が建てられていきました。
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各碑には、大地震の際には、この碑より高い場所に逃げるようにということなどが記されています。また、佐藤敏郎先生の国語の授業で彼らが詠んだ俳句も刻まれています。

そして、先月、最後の21基目が除幕。
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中心になって活動した、何人かの若者の現在が紹介されました。
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橋梁建設等の会社に就職した渡邊滉大さん。
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上京し、ダンサーを目指しているという伊藤唯さん。
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地元で語り部的な活動を続けている鈴木智博さん。
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今秋、女川を修学旅行で訪れた栃木県の中学生に、講演。
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女川では、毎年8月9日に、女川光太郎祭が開催されています(昨年と今年はコロナ禍で中止)。先述の光太郎文学碑が除幕された翌年の平成4年(1992)に始まりました。かつては当会顧問であらせられた、故・北川太一先生が講演を務められ、その後、当方が引き継ぎました。それ以外に、県内外の皆さんによる光太郎詩文の朗読が為されています。

つい先日、昔の女川光太郎祭パンフレットを引っ張り出して見たところ、かつて鈴木さんがその詩文朗読をなさっていたことがわかり、驚きました。それも、震災翌年の平成24年(2012)から同26年(2014)まで、3回も。もしかすると、それ以前にもやって下さっていたかも知れません。

平成24年(2012)。町営野球場に建てられた仮設住宅内の坂本龍一マルシェが会場でした。
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同25年(2013)、かつてあった仮設商店街に会場が移りました。当時のこのブログを見たところ、鈴木さんが写っている画像がありました。
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翌26年(2014)には、長い紀行文の朗読を担当して下さっていました。
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当方、この当時は鈴木さんのことを存じ上げませんでした。

ぜひまたお願いしたいものです。

ミヤギテレビさんでは紹介されませんでしたが、活動に携わってきた若者の中にはJリーガー海上保安官になった方もいらっしゃいます。
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彼らの未来に幸多かれ、ですね。

【折々のことば・光太郎】

夕方たえ子さん砂糖持参 配給


昭和26年(1951)8月9日の日記より 光太郎69歳

女川の光太郎文学碑の由来となった、新聞『時事新報』の依頼による紀行文「三陸廻り」のため、光太郎が東京を発ったのが、昭和6年(1931)8月9日。その日を記念して、8月9日に女川光太郎祭が行われています。

その丁度20年後の8月9日の日記から。何気なく書かれた一節ですが、終戦後6年経とうとしていたこの時期に、まだ配給があったのか、と、意外でした。調べてみますと、煙草は昭和22年(1947)まで、酒は同24年(1949)まで、衣料は翌25年(1950)まで、それぞれ切符による配給が続けられていたとのこと。もっとも、物によっては配給制も有名無実化していたようですが。

仙台から、書道展の情報です。

第68回河北書道展

期 日 : 前期 2021年12月11日(土)~12月14日(火)
      後期 2021年12月17日(金)~12月20日(月)
会 場 : TFUギャラリーミニモリ 仙台市宮城野区榴岡2-5-26 
時 間 : 午前10時~午後5時 (最終日12月20日(月)は午後4時まで)
料 金 : 一般・大学生500円(消費税込み)/高校生以下無料

「河北新報社」主催の東北最大級の公募書道展です。今回、東日本大震災10年の節目に「墨魂 東北の力」を冠として開催します。
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008「第4部 近代詩文」の区分で、東松島市の浅野沙都美さんという方の作品「高村光太郎のうた」が、東北電力賞に選ばれています。

書かれているのは短歌です。

太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは

この短歌の正確な制作年月日は不明ですが、昭和21年(1946)頃には既に詠まれているようです。「太田村」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)。「山口山」は、光太郎の山小屋の裏山一体の俗称です。

光太郎自身、この短歌が気に入っていたようで、人に贈る書などで、この短歌を揮毫することが多くありました。

富山県水墨美術館さんで、先月末まで開催されていた「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」でも、日本近代文学館さん所蔵の、この短歌を書いた色紙が展示されました。

ところで、太田村での7年間の蟄居生活中、光太郎は、きちんとした「作品」としての彫刻を一点も発表しませんでした。昭和23年(1948)、盟友の武者小路実篤に送った書簡には、「やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎない」とあり、その「板彫とか小さな帯留め程度のもの」も、実作の現存が確認できていません。

ただ、蝉に関しては、昭和22年(1947)に山小屋を訪れた竹内てるよや、地元在住の浅沼隆氏の、山小屋で蝉の彫刻を見た、という証言がありますし、和歌山県の東正巳から、彫刻材として椿の木片や、珊瑚の一種である「ヤギ」というものが贈られ、それで蝉を彫りたい、的なことを礼状にしたためています。

それにしても、あくまできちんとした「作品」というわけではなかったようで……。

ちなみに山小屋での彫刻というと、光太郎歿後に、山小屋の囲炉裏の灰の中から野兎の首を作ったテラコッタが発見されました。これも、作品として発表したものではなく、手すさびに作った、というようなものですが。

さて、「第68回河北書道展」、浅野さんの作が出るのは後期日程で、12月17日(金)からです。また、来年2月9日(水)~13日(日)には、大崎市民ギャラリー緒絶の館で大崎展も開催されるとのこと。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前盛岡から、市立第一高女の生徒三人来り、新聞班の訪問記事をとる、ひる辞去。


昭和26年(1951)8月7日の日記より 光太郎69歳

「市立第一高女」は、現在の盛岡市立高校さんです。昭和23年(1948)には学制改革で「盛岡市立女子高等学校」と改称、さらに翌年には盛岡市立女子商業高等学校と合併し、盛岡市立高等学校となっています(共学化はさらに後)。昭和26年(1951)には既に高等女学校ではなくなっていましたが、慣習的に昔の呼称で記したのでしょう。

こうした高校生らの訪問記、意外と数が残されているようですが、その性質上、あまり外部に公開されていることが多く、当方も未見のものがほとんどです。

1ヵ月前ですが、先月11日の『日本経済新聞』さんの文化面。花巻そば友の会元副幹事長・泉沢善雄氏の署名記事です。

「はい、ジャンジャン!」おかわり自由 わんこそばの謎 独特の掛け声で知られる岩手名物の歴史、四半世紀かけて調査

 「はい、ジャンジャン、はい、ドンドン!」。こうした給仕の掛け声とともに、一口大のそばを何杯もおかわりする岩手名物わんこそば。石川啄木や宮沢賢治の作品・日記にも、わんこそばらしきものを食べる記載がある。なぜこうした食べ方が生まれたのか。長く花巻のそば屋に勤めた私は、この謎を追い続けて四半世紀以上になる。
 意外に思われる方も多いだろうが、掛け声の中で食べる現在のスタイルが定着したのはそう古いことではない。1980年代前半、東北新幹線の暫定開業に合わせ、テレビ局が盛岡のそば店「東家」に取材に来た。静かにそばを給仕していると、ディレクターが掛け声を要望。女将さんがアドリブでやった「はい、ジャンジャン」がその後、定番となったのである。なお、全く同じではつまらないと、アレンジした掛け声を使う店も多くある。
 私は花巻の老舗「やぶ屋」に定年まで勤め、57年開始の「わんこそば全日本大会」にも裏方として長く関わった。若い頃から、大会の準備や打ち上げでご一緒した先輩方の話を書き留め続けた。今では亡くなった方も多く、貴重な記録になったと思う。
 90年代以降は図書館で古い文献を調べたり、花巻や盛岡の老舗を何件も訪ねて話を聞かせてもらったりと調査を続けた。花巻と盛岡にはそれぞれにわんこそば起源説がありライバル関係にあるともいえるが、純粋に謎を追っていることを伝えると皆さん快く話を聞かせてくれた。
 私が調べたところでは、わんこそばをメニューとして最初に出したのは花巻の「大畠家」。江戸時代から代々御用そばを任され、殿様や城代などにそばを提供した。明治になり、町民から「お殿様が召し上がったそばを食べてみたい」との希望があり、これに応えて提供したのがわんこそばの始まりとみられる。
 対して、盛岡で最初にわんこそばを出したのは「わんこや」(既に廃業)。戦後間もなく、何か名物をと考え、花巻に珍しい食べ方があると聞いて大畠家を視察している。大畠家の女将さんによると、作り方や給仕の方法を教えてあげたという。その後、盛岡のそば組合で「加盟店みんなで売ろう」という動きがあり、容器をそろえて売り出した。1杯いくら、ではなく食べ放題方式も盛岡で導入されたようだ。
 国分謙吉・岩手県知事(在任1947~55年)の時代に、県の要請で東京の物産展にわんこそばを出すようになり、岩手名物として全国に認知が広がった。こうした経緯を踏まえ、わんこそばの発祥は花巻、発展させたのが盛岡、と私は結論づけている。わんこそばの起源が、親戚が集まった席でおなかいっぱいになるまでそばをごちそうする「そば振る舞い」にあったのも間違いない。
 調査結果をまとめた本を2001年に出版。出版にあたっては、宮沢賢治や高村光太郎も訪れた花巻の老舗「嘉司屋」の4代目社長、佐々木喜太郎氏が強く応援してくれた。自分たちのしてきたことを後世に伝えたいという思いもあったろう。今夏には、新たな調査結果を加えた増補改訂版を出したところだ。
 わんこそばと似た食文化は全国のそば名産地にみられる。新潟県三条市の「サイメン」、長野県松本市の「とうじそば」、島根・出雲の「カケソバ」などなど。本で紹介する際、各地の詳しい方に手紙や電話でお話は聞いたが、コロナ禍もあり実際に訪れることはできていない。いつかは食べに行きたいものだ。
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花巻出身の力士も参加した1960年、第4回のわんこそば大会(岩手県花巻市の嘉司屋)

嘉司屋さんは、花巻市中心街・東町(マルカンビル裏手)にある、創業明治37年(1904)の老舗のそば屋さん。大正15年(1926)には、少し離れた末広町に支店も開店したそうです。昭和20年(1945)の花巻空襲で、本店が焼失、しばらくは支店のみで営業を続けていたとのこと。平成8年(1996)に元々本店があった現在地に戻ったそうですが、そうすると、記事にある「高村光太郎も訪れた」は、支店時代のことということになります。

このブログで毎日、最下部に書いています【折々のことば・光太郎】のために、岩手時代の光太郎日記を読み返しているのですが、残念ながら嘉司屋さんの名が見つかっていません。読み飛ばしてしまったか、読み返していない部分に記述があるのかも知れません。また、日記も脱落している部分が多いので(昭和24年=1949と25年=1950のほとんど、その他にもところどころ)、たまたまその間に嘉司屋さんに行ったとも考えられます。嘉司屋さんについて「ここに書いてあるよ」という情報がありましたら、御教示下さい。

来週末にまた花巻に行って参りますので、その際は嘉司屋さんに寄ってみようと思っております。もしかすると何か光太郎関連のものが残っているかも知れません。ちなみに光太郎が、わんこそばに挑戦したという記述は、日記以外の文献等も含めて見当たりません(笑)。

当方、学生時代に初めて花巻を訪れた際に、やはり老舗のやぶ屋さん(こちらは光太郎日記に頻出します)で、わんこそばにチャレンジしました。結果は61杯でリタイア。胃のキャパとしては、もう少しいけたような気がしますが、同じ味が延々続くのが耐えられなかったという感じでした。薬味やおかず的なものも饗されるのですが、それを早々に消費してしまったのが痛かったと思います(笑)。現在はどうだか存じませんが、当時のやぶ屋さんでは、わんこそば10杯が、通常のそば1杯ぶんだということでしたので、それでも6杯ぶんは食べたことになります。ちなみに仲間内で一番食べた男は、111杯でした(笑)。

胃腸に自身のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

十時頃校長さん平賀さん迎にくる、学校にゆく、CIEの映画につづきて余の談話一時間。聴衆は湯口、太田のP・T・A・の会員達其他、


昭和26年(1951)8月2日の日記より 光太郎69歳


学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から1㌔㍍弱の山口小学校。「CIE」は、GHQの部局の一つ、「民間情報教育局 (Civil Information and Education Section)」です。「Education Section」ということで、教育・宗教・芸術などの文化戦略を担当し、メディアの検閲や教育基本法制定に関与したそうです。映画の制作なども行っていたのですね。

まずは12月1日(水)の『読売新聞』さん夕刊。一面コラムです。

よみうり寸評

高村光太郎は冬という季節に格別の感情を抱いていたらしい。詩を読んで思う。◆たとえば〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉(『冬が来た』)。あるいは、〈冬の寒さに肌をさらせ/冬は未来を包み、未来をはぐくむ/冬よ、冬よ/躍れ、叫べ、とどろかせ〉(『冬の詩』)◆凡俗の身には同じく縁遠いと思わせる言葉に、「歳寒(さいかん)の松柏(しょうはく)」がある。どんな苦境にも節操を失わないさまをいうが、由来は松などの常緑樹が厳寒にも色を変えないことにある◆田中修著『植物のすさまじい生存競争』によれば、常緑樹でも夏の葉をそのまま低温下に置くと凍って枯れる。そうならぬよう葉は冬に向けて糖分などを蓄え、凍るのを防ぐという。12月、気象庁の季節区分でいえば冬がその幕を開けた◆餌食にするのは無理にしても、葉っぱに倣い、やり過ごせるだけの体力気力を秋の名残のあるうちに養っておきたい。原油高に新しい変異株ときて、降雪量多しの予報もある。この冬、結構な難物かもしれない。

おおむね毎年、この時期になると、各紙の一面コラムなどで光太郎の冬の詩からの引用が為されますが、今年もお約束で。寒さに弱い身としては、冬の寒さは暗鬱な気分にさせられるのですが……(笑)。

同じく一面コラムで、『山陰中央新報』さん。昨日の掲載分です。昨日も同様の件をご紹介した、太平洋戦争開戦の12月8日にからめてですね。

明窓・日米開戦から80年

早朝の臨時ニュースに続いて、午後に戦況が伝えられると、国民の多くが狂喜したという。当時、大学生だった作家の故阿川弘之さんは、下宿でラジオを聞いて「涙がポロポロ出て来て困った」と振り返っている。この日、開会中だった島根県議会も議長の発声で万歳の後、「県民の覚悟の決議」を満場一致で採択したそうだ▼1941年12月8日、日米開戦の口火となる真珠湾攻撃当日の出来事だ。日中戦争のこう着状態が続く中、経済制裁の影響も重なり、国民の反米感情は高まっていた。2日後には当時の松江市公会堂で、日露戦争開始以来となる「必勝祈願県民大会」が開かれた▼緒戦勝利の感激は当時の作家たちも同じ。阿川さんによると、志賀直哉、武者小路実篤、谷崎潤一郎、吉川英治、高村光太郎らも、その感激を文章や詩歌にしたという。街中には「屠(ほふ)れ米英我等の敵だ 進め一億火の玉だ」の言葉があふれた▼一方で、庶民の暮らしには既に大きな影響が出ていた。生活必需品の配給制に加え、金属製品の供出が始まり、バスの燃料も木炭や薪(まき)に。「産めよ殖やせよ」の国策に沿い島根県が、男子25歳、女子19歳の「結婚適齢者登録」を始めた、との記事も残る▼日米開戦から80年。スローガンで敵視された「米英」も「贅沢(ぜいたく)(は敵だ)」も、今では敵ではなくなった。時代の流れとはいえ、変わり身の早さに複雑な思いがする。

「綸言汗の如し(りんげんあせのごとし)」という格言があります。元々は中国原産で「皇帝が一旦発した言葉(綸言)は取り消したり訂正したりすることができないという」意味ですが、皇帝に限らず、特に社会的地位のある人の発言には、そういう面がつきまといます。80年経っても、光太郎の翼賛詩がやり玉に挙がるのも仕方がないでしょう。逆に現代において「これぞ皇国臣民の鑑」と、大音量で軍歌を流す街宣車よろしく、SNS上にアップして悦ぶのは愚の骨頂ですが。

ちなみに阿川弘之が挙げたという光太郎以外の4人の文学者の中に、光太郎同様、翼賛作品を大量に発表しながら、後に刊行された『全集』に、そうした作品が一切載せられていない人物がいます。「あれは無かったことにしよう」という意図がありありと見え、呆れます。『選集』ならともかく、それを『全集』と称していいのでしょうか? それが本人の意志なのか、取り巻きの「忖度」なのか、そこまでは存じませんが、「綸言汗の如し」の言葉を贈りたいと思います(笑)。同様に「誤解を与えたとすれば訂正し、取り消します」とのうのうと発言する現代の政治屋にも、ですが(笑)。

「負」の部分で、もう1件。『東奥日報』さんから。

店舗撤去、明け渡しを/十和田湖畔・休屋/国が景観改善へ提訴

 青森県十和田市の十和田湖畔・休屋地区の国有地にある休廃業施設が景観を損ねている問題で、国が、同地区で休憩所などを営業していた会社に対し建物の撤去と土地の明け渡しを求め、青森地裁十和田支部に提訴したことが3日分かった。国による同様の訴訟は4件目。第1回口頭弁論は来年2月25日。
 明け渡しを求められたのは、十和田湖畔で「ひめます商店」「ギャラリーぶなの森」を経営していた「有限会社えびすや」。訴状によると、2019年6月に破産手続き開始の決定を受けていた。
 えびすやの旧店舗は国が管理する十和田八幡平国立公園内にある。
 国は訴状で、えびすやが今年3月末までに土地の使用許可を更新しなかったため、現在は権限もないのに国有地を占有していると主張している。
 環境省十和田八幡平国立公園管理事務所の深谷雪雄所長は取材に、「旧店舗は十和田神社や乙女の像に近い場所にあるため、観光を盛り上げるためにも景観改善に優先的に着手した」と述べた。
 休屋地区を含む十和田八幡平国立公園は、国の「国立公園満喫プロジェクト」のモデル対象。同地区では休廃業施設が廃れた印象を与えかねないとの懸念があり、景観向上に向けた対策実施を掲げていた。

現在、「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第2章 光の冬物語」が開催されている、十和田湖畔休屋地区。バブルがはじけた頃から空き店舗等が目立つようになり、やがてシャッター街、さらに廃墟となってゴーストタウンに近くなっている区画もあります。それを「経営努力が足りない」と叱責するつもりもありませんが、果たすべき責任はきちんと果たして欲しいものですね。

暗い話題で終わるのも何ですので、もう1件。『福島民報』さんから。

一色采子さん、朗読劇「智恵子抄」アピール 12日に福島県二本松市で 

008  女優の一色采子さんは8日、福島民報社の取材に応じ、12日に福島県二本松市で出演する朗読劇「智恵子抄」に向け「感動を味わっていただきたい」と意気込みを語った。
 高村光太郎と智恵子の夫婦愛を描く作品。「演技もあり、朗読が立体的に伝わると思う。来て良かったと思っていただけるようにしたい」と話した。
 二本松市の安斎文彦にほんまつ観光協会長、国田屋醸造代表の大松佳子さんが同席した。
 一色さんは同日、福島県庁に内堀雅雄知事も訪ねた。
 朗読劇「智恵子抄」は12日午後2時からと午後4時30分からの2回、安達文化ホールで開かれる。松竹の主催、市教委の共催。前売り券は3000円、当日券は3500円(全席指定)。午後2時からの回は完売した。問い合わせは二本松市教委文化課へ。

12月12日(日)に開催される「朗読劇 智恵子抄」二本松公演に関してです。先週行われた銀座公演とは異なり、ネットや電話等でチケットが購入できないとのことで、「販売に苦労しているらしい」と、一色さんがこぼしてらっしゃいましたが、午後2時からの部は完売だそうで、喜ばしく存じます。午後4時からの部も満席となって欲しいものですね。

お近くの方、ぜひどうそ。

【折々のことば・光太郎】

午后小憩、「文化の諸様式」をよむ、「源氏」をよむ、


昭和26年(1951)7月31日の日記より 光太郎69歳

午前中は洗濯にいそしみ、午後は読書。「文化の諸様式」は、アメリカの人類学者ルース・ベネディクトの評論、「源氏」は谷崎潤一郎訳の「源氏物語」で、共に中央公論社から、この年に再刊されました。

70近くになって、こういった書物を愛読していた光太郎。教養人の鑑ですね。

80年前の今日、昭和16年12月8日は、日本時間で真珠湾攻撃がなされた日、すなわち太平洋戦争開戦の日です。80年というきりの良さもあり、今年は例年に較べ、メディア等で大きく扱われているように感じます。

それに触発されているのでしょうか、幼稚なネトウヨは、ツィッター上などで光太郎の翼賛詩を引用し、喜んでいます。まるで大音量で軍歌を流す街宣車のようだと感じます。これも、例年そうなのですが、今年は特に目立ちます。

光太郎の翼賛詩、張作霖爆殺のあった昭和3年(1928)には既に書かれ始めていますが、目立つようになるのはやはり日中戦争開戦後の昭和12年(1937)以後、心を病んだ智恵子が、南品川ゼームス坂病院で、紙絵を作っていた頃からです。智恵子はその翌年には結核のため歿します。

芸術家あるあるで、俗世間とは極力交渉を持たず、芸術のためにはさまざまなことを犠牲にし、貧しい生活も厭わないという、「孤高の境地」を気取っていたそのスタイルが、同居する智恵子を追い詰めたという反省、そして最愛の妻・智恵子を喪った空虚感を埋めるためにも、光太郎はそれまでとは一変し、積極的に世の中と関わろうとします。ところが、その世の中は、皮肉なことに十五年戦争の泥沼の中でした。

意識の境から最後にふり返つて
わたくしに縋る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた

「智恵子抄」中の絶唱の一つ、「山麓の二人」(昭和13年=1938)の終末部分です。「二人をつつむこの天地」=「十五年戦争の泥沼」ですね。

泣くも笑ふもみんなと一緒に
最低にして最高の道をゆかう。

最低にして最高の道」(昭和15年=1940)の、やはり終末部分です。

さらに翌昭和16年(1941)になると、さらに具体的に……。「百合がにほふ」から。

私は最低に生きよう。
そして最高をこひねがはう。
最高とはこの天然の格律に循つて、
千載の悠久の意味と、
今日の非常の意味とに目ざめた上、
われら民族のどうでもよくない一大事に
数ならぬ醜(しこ)のこの身をささげる事だ。

それでもまだ、「山麓の二人」にあった、「二つに裂け」た心の片方は、かつて健康だった頃の智恵子との思い出の中に生きていました。

亡き智恵子が遺した梅酒を見つけ、一人味わうという内容の「梅酒」(昭和15年=1940)から。

狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。

ところが、やがて「世界はただこれを遠巻」にしなくなります。

きっかけは、80年前の今日の、真珠湾攻撃でした。

  真珠湾の日009

宣戦布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキにかけられ、
咋日は遠い昔となり、
遠い昔が今となつた。
天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
子供の時のおぢいさんが、
父が母がそこに居た。
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた。
私の耳は祖先の声でみたされ、
陛下が、陛下がと
あえぐ意識は眩めくるめいた。
身をすてるほか今はない。
陛下をまもらう。
詩をすてて詩を書かう。
記録を書かう。
同胞の荒廃を出来れば防がう。
私はその夜木星の大きく光る駒込台で
ただしんけんにさう思ひつめた。

戦後に蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれた連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の一篇です。

自分自身、これから先に書くであろう詩は「詩ではない」というのです。言い換えれば、「芸術至上的な部分は捨てる」ということにもなりましょうか。または「甘美な情調、情感、そういったものは謳わない」という宣言ともとれます。

実際、詩の中で智恵子が謳われることは、開戦前の8月に刊行された『智恵子抄』のために書き下ろされた「荒涼たる帰宅」を最後に、無くなりました。再び詩の中に智恵子が現れるのは、戦後の「松庵寺」(昭和20年=1945)です。おそらく、最愛の妻の死を謳うことで、それまでの自分と完全に訣別し、「泣くも笑ふもみんなと一緒に/最低にして最高の道をゆかう。」と決心したのでしょう。

戦後になって、このように「詩をすてて詩を書かう。/記録を書かう。」として書かれた詩については、やはり「暗愚小伝」中の「おそろしい空虚」という詩の中で、「乞はれるままに本を編んだり、変な方角の詩を書いたり、」としています。

作者自身がのちに「変な方角の詩」とした翼賛詩の数々を、現代において「これぞ大東亜臣民の真髄!」と有り難がり、大音量で軍歌を流す街宣車のようにSNSにアップして悦に入る神経は、とても理解できません。また、何だかよく分かりませんが「詩をすてて詩を書かう。」が大好きな頓珍漢も見うけられます。その姿勢はのちに光太郎自身が「あれは誤りだった」と否定しているのに、です。無論、戦時の極限状態下で「詩をすてて詩を書かう。」と考えてしまったのは、ある意味、仕方がなかったのかも知れませんが。

それにしても、「詩をすてて詩を書」き、多くの前途有為な若者を死地に追いやったということを恥じ、反省し、悔やみ、懺悔し、戦後、岩手の寒村で7年間もの蟄居生活を送った光太郎の心境がまるでわかっていないと言わざるを得ません。

さて、前置きが長くなりましたが(ここまでは前置きだったのです(笑))、今朝の『毎日新聞』さんから。

余録 「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである…

 「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである」。「智恵子抄」の詩人、高村光太郎(たかむら・こうたろう)は対米英戦開戦の日の感慨をこう書いた。日中戦争の泥沼化で鬱屈した空気を吹き飛ばすような強大国への挑戦だった▲もちろんまったく異なる受け止め方をした人々もいる。当時、米映画の配給会社にいた淀川長治(よどがわ・ながはる)は号外を見て、「『しまった』という直感が頭のなかを走り、日本は負けると思った」と回想している▲名高いのは後に東大学長となる南原繁(なんばら・しげる)が開戦の報に詠んだ歌、「人間の常識を超え学識を超えておこれり 日本世界と戦ふ」である。では「えらいことになった、僕は悲惨な敗北を予感する」と沈痛な表情を浮かべたのは誰だろうか▲2カ月前に日米交渉を打開できぬまま辞任した前首相、近衛文麿(このえ・ふみまろ)だった。それより前に南部仏印進駐で米国を対日石油禁輸に踏み切らせて対米戦争への扉を開き、前年に米国に敵視と受けとられた日独伊三国同盟を締結した人である▲開戦日には、その三国同盟を「一生の不覚」と嘆いた人もいた。同盟の立役者で締結当時の外相、松岡洋右(まつおか・ようすけ)である。米国の参戦を防ぐつもりが「事ことごとく志とちがい、僕は死んでも死にきれない」。腹心に語り、落涙したという▲緒戦の大勝に熱狂する世論、米映画通が予感した敗戦、知や合理性を超えた政府決定にあぜんとする学者、そして戦争への道を開いた当事者らの暗鬱な予言……。学ぶべき教訓は尽きない開戦80年である。

なるほど。

さらに『東京新聞』さん(系列の『中日新聞』さんも)。作家の澤地久枝さんへのインタビューです。

日米開戦から80年

008 開戦当時、満州(今の中国東北部)の吉林にいました。十一歳、国民学校の五年生です。その日は朝起きてすぐにラジオの臨時放送があって、開戦を知りました。私は精神的に早熟だったと思いますが、どう考えたらいいか分からなかった。実は米国のことも英国のこともよく知らなかったのです。
 戦争はそれから四年続くわけですが、当時の私は本当にばかな軍国少女でした。この戦争に勝つと素直に信じていた。昭和十九(一九四四)年、特攻に行く若者たちの最後の言葉がラジオで放送されました。ドラマだったはずなのに、実際に死んでいった若者の肉声だと信じてしまった。皆が死んでいくなら自分も死ななければならないと思い込むようになりました。
 死ぬためには飛行機に乗るしかない、予科練(海軍飛行予科練習生)に行きたいと思ったんです。予科練の検査を通るために体を軟らかくする体操までしていましたよ。もちろん海軍は女を取らないわけで、同じ思いの友人と「残念だ」といつも話していました。
 やがて兵器などの材料用に金属の回収が始まり、街頭の赤い郵便ポストも消えました。母が「ポストまで持って行くようじゃ、この戦争は負けね」と言ったことがあります。「反戦主義者」か「非国民」か、そんな言葉でなじりましたよ。母は何も言わず黙った。
 私のように、よく考えない、でも熱中する女の子は国家には都合のいい人間だったでしょうね。戦場を知らない、空襲などの攻撃も受けたことのない思春期の少女の夢物語は、敗戦であっさり消えました。
 つくづくばかな子でしたね。本当に恥ずかしい。でも、それがなければ今の私もないんです。ばかなことを言ったり、したりしたことの責任を問う人は誰もいませんが、私はあの時の自分を許せない。間違いから逃げまいと思って生きてきた。それが戦争に関して調べ、書いてきた理由です。
 当時を知らない人たちは、どうして無謀な戦争を始めたのかと思いますよね。私の実感でいうと、国民が戦争を選んだんじゃないんです。ある日突然、降ってきたのよね。高村光太郎や斎藤茂吉のように熱狂した人もいましたが、それは一握り。黙って「そうか」と思っている人たちの方が多かった。
 ただ、軍人の独断専行だけでは歴史が動かなかったことは確かです。彼らを支持して同調する、もっといえば彼らに先立って動くような人たちがいて、こうなった。
 今、私は同じ空気を感じるのです。憲法を守ろうという人は少数派になったといわれ、変えようという人たちが声高になってきている。それに対して、今の国民はどうか。国の運命は偉い人が考えることと思っていないでしょうか。世の中は皆が知らない間に変わってしまうのに。そういう意味では、日本は八十年前と変わっていない。
 今の北朝鮮や中国の動向について不安を感じる人がいるのは分かります。私のように「憲法を守る」「自民党に反対」と言うと孤立することは自覚しています。でも、声高に言う人たちの意見が本当に多数派なのか。
 安倍(晋三元首相)さんの言うことを支持すれば、日本は憲法を変えて戦争できる国になる。戦争って遠くの出来事じゃない。日常的なことなんですよ。食べるものがなくなり、愛している人が殺される。それに耐えられますか? そう尋ねると、皆「嫌だ」と言いますね。
 こういう私の意見が真っすぐ受け止めてもらえたら心配はしませんが、今はそうじゃない。頑張って生きて、言い続けなければと思っています。 (聞き手・大森雅弥)
<さわち・ひさえ> 1930年、東京都生まれ。菊池寛賞の『記録 ミッドウェー海戦』など著書多数。近著は中村哲氏との共著『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』(岩波現代文庫)。

当時を知る人の、貴重な証言ですね。

光太郎同様、戦時中は翼賛作品を書きまくっていた、光太郎より一つ年上の斎藤茂吉の名も挙げられています。そこで、光太郎とセットで論じられることも結構あります。その部分での好著が、昭和54年(1979)、清水弘文堂から刊行された大島徳丸氏著『茂吉・光太郎の戦後――明治人に於ける天皇と国家――』。絶版ですが、古書市場では容易に入手できます。ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后大村服飾学校の生徒十名ほど来訪、新小屋にて休憩、一時間位にて辞去。皆井戸水にたかる。食パンバタをもらふ。


昭和26年(1951)7月29日の日記より 光太郎69歳

大村服飾学校」は、盛岡で「オームラ洋裁教室」として健在です。この年1月には、光太郎が花巻町の佐藤隆房邸に滞在していた時に、創始者の大村次信が、やはり生徒を連れて訪問しています。

智恵子の故郷・福島二本松の智恵子顕彰団体智恵子のまち夢くらぶさんから、冊子が届きました。題して『「智恵子抄」出版80周年記念文集』。
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A4判66ページ、カラー写真もふんだんに使われています。

例年、B4判カラーコピーの手作りの活動報告的なものが届いていたのですが、今年はきちんと印刷屋さんに頼んで作ったものでした。

二本松市長・三保恵一氏、同教育長・丹野学氏、智恵子の里レモン会長・渡辺秀雄氏の「祝辞」、会員諸氏や関係の方々の寄稿、同会が主催して行った「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」報告など。

驚いたのは、平成4年(1992)に、智恵子生家/智恵子記念館が、旧安達町により修復公開される以前、智恵子生家を所有していた二階堂家に残されていた「芳名帳」に関する報告。二階堂家では、修復公開以前から私的に見学に訪れた人々を受け入れており、芳名帳に名前を書いて貰っていたとのことでした。昭和42年(1967)から平成2年(1990)までの間に、800名超の名が記されているということで、そのごく一部が抜粋されています。

生前の光太郎と交流のあった人々では、当会顧問であらせられた、故・北川太一先生、光太郎が蟄居生活を送っていた当時の花巻郊外旧太田村の高橋雅郎村長(
お嬢さんの故・愛子さんは光太郎の語り部として永らく活動された方です)、智恵子の里レモン会創設者・伊藤昭氏、舞踊「智恵子抄」の公演を行った黛(藤間)節子……。それから、光太郎とは直接会っていないようですが、昭和51年(1976)に北條秀司脚本「智恵子抄」公演で智恵子役を演じられた有馬稲子さんなどの名も。当方が見れば、「ああ、この人も」というのがもっとありそうな気がします。

北川先生は、昭和61年(1986)5月20日、智恵子生誕百周年の日に訪れられていました。
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冊子以外に、A3判二つ折りのパンフレット的なものが2種。ともに二本松の智恵子ゆかりの地の紹介で、一つは平成28年(2016)に作成された「智恵子のまちガイドマップ」でしたが、もう一つの「二本松市にある智恵子ゆかりのモニュメント~ガイドナビ +(プラス)」という方は、新しく作られたもののようです。1月に亡くなった橋本堅太郎氏の遺作である智恵子像「今ここから」が紹介されています。
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ご入用の方、「智恵子のまち夢くらぶ」さんまでご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

デパート、明治屋、小田島薬局により理髪、やぶにてビール食事、タキシにてかへる、タキシ750円、

昭和26年(1951)7月25日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、花巻町中心街に出た時の記述です。

デパート」は当時あった寿デパート、「明治屋」はおそらく現在も花巻で総菜販売店として、営業を続けています。「小田島薬局」も健在。「やぶ」は宮沢賢治の御用達でもあった「やぶ屋」さんです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、青森県十和田湖休屋地区で、10月21日(木)~11月23日(火・祝)に開催されていた「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第1章 光の紅葉物語」に続き、「第2章 光の冬物語」が始まりました。第1章同様、「乙女の像」のライトアップも為されているようです。

まず地方紙『東奥日報』さん記事。

十和田湖畔に幻想的な光/フェスタ第2章開幕

 十和田湖畔を光で彩る「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe(フェスタ・ルーチェ)2021-2022」の第2章が4日、始まった。雪が舞う寒空の下、地元に残る伝説を表現した幻想的な光が十和田神社周辺を包み込んだ。
 神社や乙女の像付近を回る約1キロのコースに「生の光」「風の光」など六つのエリアを設定し、イルミネーションやプロジェクションマッピングを生かして伝説の世界観を演出した。
 姉妹と一緒に訪れた十和田湖小学校2年の森田陽菜さんは「神社のプロジェクションマッピングの模様にびっくりした。いろいろな光があって楽しい」と話した。この日は音楽に合わせて花火が上がり、会場を盛り上げた。
   フェスタは十和田湖冬物語実行委員会(中村秀行実行委員長)が主催。11月23日まで行われた第1章に続く第2章は4日から来年2月20日(12月29、30日を除く水・木曜日休業)まで、時間は午後5時半~同9時。
 花火は土日祝日限定(24日は実施、1月1、2日はなし)で、観覧できるのは各日先着1500人。イベントのチケットがない人は予約が必要。問い合わせは十和田奥入瀬観光機構(電話0176-24-3006)へ。
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続いて『デーリー東北』さん。

雪景色彩る幻想的な光/十和田湖畔ライトアップ

 光の祭典「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe(フェスタルーチェ)2021―2022」の第2章「光の冬物語」が4日、十和田神社周辺で開幕した。雪に包まれた夜の湖畔は色とりどりのイルミネーションに彩られ、訪れた人たちが、光と自然が織り成す幻想的な世界に酔いしれた。来年2月20日まで。
 フェスタルーチェは十和田湖冬物語実行委員会が主催。従来の雪祭りをリニューアルしたイベントとして昨年度初めて開催した。本年度は2章立てとし、秋に第1章の「光の紅葉物語」を実施していた。
 冬を迎えた湖畔の神社周辺約1キロの参道は、十和田湖伝説をモチーフにライトアップされ、神社本殿ではプロジェクションマッピングの投影が行われた。期間限定の花火や津軽三味線の演奏も来場者を楽しませた。
 開催時間は午後5時半~9時。入場料は前売り券1200円、当日1600円、小学生以下無料となる。
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開催要項等は、下記の通りです。

カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第2章 光の冬物語

期 日 : 2021年12月4日(土)~2022年2月20日(日) 水・木曜休み
会 場 : 青森県十和田市大字奥瀬十和田湖畔休屋地区 
時 間 : 17:30– 21:00
      
1月・2月の土日祝日は花火が上がり終了時間を21:30まで延長(1/1・2を除く) 
料 金 : 前売券 1,200円 当日券 1,600円 パスポート 3,000円
      ※小学生・未就学児のご入場は無料。
      ※パスポートはオンラインでのみ販売。イベント期間中は何回でも入場可。
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昨年の様子がこちら。


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ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昌歓寺に立つ放光塔といふ字をかく約束す、


昭和26年(1951)7月19日の日記より 光太郎69歳

法音山昌歓寺さんは、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から4㌔ほどの場所にある、曹洞宗の寺院です。光太郎は当時の住職と親しい間柄でした。

どうも境内に建てる石碑の文字の揮毫を頼まれたらしいのですが、この約束は空手形に終わったようです。同じ昌歓寺さんの十一面観音像を彫るという約束も同様で、こちらは光太郎歿後、光太郎と交流があった彫刻家・森大造が代作しました。

昨日は、「朗読劇 智恵子抄」銀座公演を拝見して参りました。

東京メトロ浅草線を東銀座駅で降り、地上へ。若干、早めに着いてしまったので、駅前(地下鉄の場合も「駅前」と言うんでしょうか?)のいわて銀河プラザさんへ。岩手県のアンテナショップで、時々立ち寄らせていただいております。
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花巻の新しい観光パンフレットをゲット(無料)。表紙に「高村光太郎」の文字があったら、入手しない訳にはいきません(笑)。
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それから、妻の好物のゆべしを購入。コロナ禍収束しつつある昨今、また家を空ける機会が増えてきましたので、ご機嫌取りです(笑)。

銀座も、一本裏通りに入ると、空襲や再開発を免れた古い建物が。
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古建築好きにはたまりません。

町中華で昼食後、会場の銀座ブロッサムさんへ。
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開場前に会場入りしたのですが、すでに同じように開場待ちの方々がずいぶんいらっしゃいました。老婆心ながら、観客動員数を気にしていたのですが、結局、かなりの入りで、杞憂でした。皆さん、コロナ禍の間、こういう機会に飢えていたのかな、と思いました。
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午後2時開演。メインの朗読劇は70分程でした。通し稽古を拝見していたので、内容は分かっていましたが、やはり、ちゃんとしたステージで演じられると、また違って見えました。稽古の際には割愛されていたエコーなどの音響効果も入り、「おお」という感じでした。

原作の北條秀司脚本にある、ゼームス坂病院の斎藤医師とのエピソードや、智恵子の姪にして智恵子を看取った春子とのからみなどは、大胆にカット。動きの少ない「朗読劇」ですので、その辺りまできちんと描こうとすると、ダレてしまうかな、という感じで、尺としては70分位でちょうどよかったと思いました。外せないシーンは外してありませんので、充分に内容は伝わりましたし。

そしてキャストの皆さん、舞台公演の敬虔な方々ばかりですので、テレビや映画とはまた違う、生の演技実にさまになられていましたし、広い会場をものともしないお声(補助的にマイクも使われてはいましたが、あくまで補助的にという感じでした)が素晴らしいと感じました。

メインの朗読劇終演後、一旦、緞帳が下がりましたが、またすぐ間を置かず、横内さん、一色さん、そしてプロデューサーの松本氏が司会を務められて、約20分程のトークショー。
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朗読劇本体が悲劇でしたので、明るくざっくばらんなトークで救われたかな、という感じもしました。今回の公演は「智恵子抄出版80周年」という冠もついていましたが、何と横内さんも、『智恵子抄』が出版された昭和16年(1941)のお生まれだそうで、本編を含めての張りのある若々しいお声からは意外な感を受けました。

最後のカーテンコール。
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全て終演後のホワイエ。
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一色さんと再会を約し、開場を後にしました。

12月12日(日)には、二本松での公演(14:00~と16:30~の2回)があります。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

郵便局にて中央公論社へ校正刷全部第四種速達書留にて送る、尚同社に振替にて源氏全巻一時払を送る。


昭和26年(1951)7月17日の日記より 光太郎69歳

校正刷」は、この年10月に同社から刊行が始まった『高村光太郎選集』(草野心平編)のゲラです。

源氏」は、おそらく谷崎潤一郎訳の『源氏物語』。戦前に刊行されていたものの復刊です。

当会顧問であらせられ、昨年、逝去された北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数刊行して下さっている文治堂書店さん。そのPR誌的な『とんぼ』の第13号が届きました。
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今号は光太郎がらみ、北川先生関連の文章が多く掲載されています。

まず巻頭に、光太郎終焉の地・中野のアトリエの持ち主でいらっしゃる中西利一郎氏の玉稿。光太郎がここで暮らした最晩年の回想や、北川先生がここを訪れ、光太郎に親炙するに至った経緯などが書かれています。

文治堂書店主・勝畑耕一氏は、「小川義夫さんを悼む」という一文。ご生前の北川先生を支え、各種出版のサポート等をなさっていた、北斗会(北川先生が高校教諭だった頃の教え子さん達の会)会長であらせられた、故・小川義夫氏の追悼文です。

巻末近くに、北川先生のご遺著『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」』書評が4本。どれも的確な評でした。

『とんぼ』には掲載されていませんが、新聞各紙に載った同書の書評のコピーも同封されていました。全国紙と一部の地方紙に載った書評は当方も把握しておりましたが、地方紙のそれの中には未見のものもあり、有り難く存じました。

最も驚いたのが、『北海道新聞』さん。当会会友にして、同書に北川先生追悼文も寄せられた、渡辺えりさんが執筆された、長いものでした。
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それから、『山梨日日新聞』さんと『信濃毎日新聞』さんも。
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『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」』、お読みになっていない方、文治堂書店さんのサイトからご注文下さい。

話を『とんぼ』に戻します。あとは、光太郎関連では、拙稿「連翹忌通信」の連載が載っております。こちらもご入用の方、文治堂さんのサイトからお願いいたします。頒価500円です。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃東京より帝大文科の生徒山口三夫といふ人来訪、宮沢さんに寄つた由、二時過ぎ辞去、

昭和26年(1951)7月15日の日記より 光太郎69歳

山口三夫」は、のち、フランス文学者(特に光太郎も敬愛していたロマン・ロラン研究)となる人物です。調べてみましたところ、山口には『遍歴』という雑誌に載った「高村光太郎の悲劇」という文章があり、調べてみようと思いました。

以前にも書きましたが、のち、様々な分野で活躍する人々が、無名時代に光太郎の元を訪れ、薫陶を受けたという例が結構あったようです。

テレビ放映の情報です。

正しく学んで福招き!おてらツアーズ

地上波フジテレビ 2021年12月5日(日) 16:05〜17:20

 田村淳先生の面白ウンチクを知れば、絶対にお寺を参拝したくなる!今回は知っているようで意外と知らない情報満載の東京・浅草寺、柴又帝釈天、長野・善光寺を訪ねます。
 東京のお寺を巡るのは、田村淳先生と草刈民代、とよた真帆、井森美幸、そして鷲見玲奈の5人。浅草寺でお馴染みの雷門は、正式名称でないのをご存じでしたか?冒頭から知って自慢したくなるウンチクが盛り沢山です!超最先端のある技術が江戸時代の匠の技と融合した美しい建物、本堂の他にも絶対に立ち寄っておきたい隠れご利益スポットがあるなど、いつもの浅草寺参りでは知ることのできない情報が次々と飛び出します。
 さらに柴又帝釈天では、映画「男はつらいよ」の寅さんが活躍したおなじみの風景の数々のほか、全国でも珍しい姿だというご本尊に、一同大興奮!浅草名物の超高級うな重、寅さんの愛した天丼、絶品グルメをかけた恒例の復習テストでは、まさかのあの人が大失態!?
 そして「遠くとも一度は参れ」と言われるほど、ご利益が期待できるうえに、来年は7年に一度の御開帳の年と、まさに今最も注目すべき長野の善光寺・訪ねるのは、紺野美沙子、とよた真帆、アンミカ、渋谷凪咲。門でお寺を守る仁王像。実は、通常とは左右逆に立っているという奥深き理由を淳先生が熱弁。また、ある物を一周させれば、大変な功徳が得られるという知られざるスポットにも紹介します。さらには本堂のお参りは正面よりも、ある向きにお願いする方が良いのだとか!?絶品の信州牛とマロンスイーツを掛けた復習テストに答えられるのは誰!?


出演者 田村淳(ロンドンブーツ1号2号) 
【東京】井森美幸 草刈民代 鷲見玲奈 とよた真帆 
【長野】アンミカ 紺野美沙子 渋谷凪咲 とよた真帆
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三箇所の寺院が紹介されますが、まず注目すべきは、信州善光寺さん。昨年、国の登録有形文化財に指定された仁王門に納められている仁王像は、光太郎の父・光雲と、その高弟・米原雲海の作です。一昨年が開眼百周年ということで、本格的な学術調査等も行われたりもしました。

テレビ番組で善光寺さんが取り上げられる機会は意外と多いのですが、仁王像を紹介する例はほとんどなく、残念に思っておりましたが、今回は「通常とは左右逆に立っているという奥深き理由を淳先生が熱弁」だそうで、ありがたく存じます。

左右逆」というのは、多くの寺院の仁王像が、向かって右に口を開いた阿形像、左に口を閉じた吽形像と配しているのに対し、善光寺さんではそれが逆になっているということです。その理由、諸説あるようですが、東大寺南大門の仁王像(金剛力士像)もそうなっており、それとの関連が指摘されています。また、冬至の日の朝日と夕日の関連で、という説もありますが……。

その他に取り上げられる、浅草寺さんには、手水舎にやはり光雲作の沙竭羅龍王像が鎮座ましましています。番組説明中の「本堂の他にも絶対に立ち寄っておきたい隠れご利益スポット」の一つとして、紹介していただきたいところです。

ちなみにこの像は、明治期に浅草寺さん境内にあった噴水の上部に据えられていたものです。下記は当方手持ちの古絵葉書、いわゆる手彩色です。
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また、柴又帝釈天(題経寺)さん。こちらも彫刻のお寺として有名です。つい先だっても、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」で取り上げられました。同番組では、「新」になる前の平成28年(2016)にも、帝釈天さんの彫刻が扱われています。

というわけで、「正しく学んで福招き!おてらツアーズ」ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

しう雨、晴、夕方雷雨、夜くもり、むしあつし。旧小屋の杉皮ふき。大工さん雨を冒してやる。

昭和26年(1951)7月11日の日記より 光太郎69歳

前日に、村人が馬車で運んできてくれた、屋根用の杉皮。この日は大工さんが、雨の中、葺き替え作業をしてくれました。その作業中は、増築された新小屋に待機していたのでしょう。

都内から展覧会情報です。

髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料

期 日 : 2021年12月10日(金)~12月19日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 正木記念館2F 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 午前10時 ~午後5時
休 館 : 12月13日(月)
料 金 : 無料

本展では髙村光雲(1852~1934)・光太郎(1883~1956)・豊周(1890~1972)が制作時に使用した原型、道具、下図・スケッチ類を展示公開します。光雲は、生涯木彫制作を中心に創作活動を行いました。その制作方法は、髙村東雲工房で学んだ仏師としての直彫りによる方法から、明治30年以降に米原雲海(1869~1925)と共に始めた油土・石膏原型を使用する星取り法へと変化していきます。本展で展示する光雲が制作した石膏原型類からは、油土で造られた原型を石膏像に起こし、星取りをする過程を知ることができます。また、あわせて光雲・光太郎が使用した箆、彫刻刀類と豊周の制作道具類も紹介します。光雲工房の制作方法と光太郎の制作手法についてその有様と変化を見ることができるでしょう。

展示協力 髙村達、加藤恵美子、山田亜紀
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関連行事

「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展 関連講演会
 ※事前予約制(定員80名)
 予約フォーム:https://forms.gle/LGaHyQXk7pghp3tD7
 日時:12月11日 13時(開場は12時30分)
 会場:東京藝術大学美術学部 中央棟1階 第一講義室
 内容:
 ・藤曲隆哉「髙村光雲資料と制作背景について」30分
 ・髙村達「レンズを通じてみた光雲・光太郎・豊周」30分
 ・田中修二(大分大学)
「近代日本彫刻史における髙村光雲の位置─彫刻史を創った彫刻家」30分
 ・藤井明(小平市平櫛田中彫刻美術館)「髙村光雲の周辺-平櫛田中を中心に―」30分
 ・座談会 「髙村光雲・光太郎・豊周研究のこれから(仮)」15:30~
   毛利伊知郎(美術史家・前三重県立美術館長) 高村達 田中修二 藤井明 藤曲隆哉(司会)

彫刻の原型や道具類など、いわば制作の舞台裏に関する展示が中心のようですが、普段、眼にする機会の少ない分野で、いわば玄人好みという感じですが、非常に興味深いところです。

フライヤーに使われているのは、宮内庁三の丸尚蔵館さん所蔵の「鹿置物」(大正9年=1920)の石膏原型。
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星取りを行って、木彫に仕上げたわけですが、当方、恥ずかしながら光雲が星取りを実践していた事は存じませんでした。

ちなみに星取りというのは、こういうことです。
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東京都小平市さんで発行している『田中彫刻記』から。

その他、光太郎の彫刻でも、石膏原型が出品されるようです。
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こちらは藝大さんの構内に立っている、「光雲一周忌記念胸像」(昭和10年=1935)。この石膏原型は当方、未見です。

追記・これは展示されていませんでした。すみません。

会期が短いのが残念ですが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

屋根囲の杉皮30本哲夫さんが馬車で運びくる、


昭和26年(1951)7月10日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、増築が為されましたが、そのついでに、元々の小屋の方も手を入れることになりました。屋根は瓦やスレートなどではなく、杉皮葺きで、その杉皮を交換するというのです。

KIMG553011月29日(月)、上野の東京都美術館さんで、第43回東京書作展を拝観後、銀座の東劇ビルさんに。

こちらで行われていた、「朗読劇 智恵子抄」(銀座公演・12月4日(土)、二本松公演・12月12日(日))の稽古を拝見して参りました。

光太郎役に横内正さん、智恵子役は一色采子さん。日本女子大学校での智恵子の先輩だった(脚本では同級生)柳八重に山吹恭子さん。その夫で光太郎の留学中間だった柳敬助と、当会の祖・草野心平の二役を喜多村次郎さんがそれぞれ演じられます。

公演は様々なものを観てきましたが、稽古というものは、当方、初めて拝見しました。もう本番が近いので、だいぶ出来上がっている感じでしたが、演出家の方が、「ここはもっとこう」「この時の姿勢はこんな感じで」と、いろいろ指示を出すのを聞きつつ、「なるほど」と思いました。
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それにしても、役者の皆さんのお声の良さ(特に横内さん)、立ち居振る舞いの美しさ(「朗読劇」ということで、最小限の動きだけなのですが)には、ほれぼれしました。

原作は、光太郎と交流のあった北條秀司作の脚本です。北條は光太郎の生前から執筆に着手し、昭和28年(1953)に上演にこぎ着ける希望でした。その際の智恵子役は、初代水谷八重子さん。

そこで、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型が完成した直後の同年8月、心平に連れられた水谷さんが、中野の貸しアトリエを訪問しています。

水谷さんの回顧談。

一等最初は、草野(心平)さんに連れて行っていただいて、『智恵子抄』をやりたいとお話ししたのですが、「前にもそんな話があったとき、それは詩を踊るだけだからかまわないといったけれども、どうも芝居で現実に出てくるのは……」とおっしゃりながらもいろいろと智恵子さんのお話をして下さったんです。先生が女人像を作っていらっしゃるときでした。お話を伺っているうちに、先生の思っていらっしゃる智恵子さんを現実に私たちがこわすことは大変すまないような気がして、「それじゃあきらめます」といって、引き下がったんですが、帰りの車の中で、草野さんに一ペンやろうと思ったことをほんとうにやりたいなら、何故もっとたのまないのかって叱られちゃって。それからまた一年ほど経って伺ったんです。そのときには、「あなたは顔やなんかが智恵子に似てるから智恵子をやっていただくのはかまわないが、ただ自分の出てくるのがいやだから、出来た脚本(ほん)を見てからにしよう」とおっしゃったんです。そのうち北条先生が脚色することになり、でもその時には高村先生は、もう脚本(ほん)を見ないでもいいとおっしゃっていました。
(「座談会 三人の智恵子」 昭和32年(1937)6月1日『婦人公論』第四十二巻第六号)

結局、光太郎生前にはこの公演は実現せず、初演は光太郎が歿した半年後、昭和31年(1957)11月のことでした。

KIMG5537北條の脚本は、それに先立って、『婦人公論』の6月号に発表されています。帰ってから、改めてそれと、後に『北條秀司戯曲選集』に収められたものとを読み返してみました。以前に読んだものでしたが、細かなところは忘れており、「あのシーン、ここに書いてある通りだったんだ」という感じでした。というのは、結構、史実とは異なる部分があったからです。まあ、それでも光太郎智恵子の鮮烈な生の軌跡は存分に表現されていますし、あくまで二次創作、ということで、それもありかな、と思います。

ただ、詩の朗読の中で、「あれっ?」と思うところがあり、台本を確認させていただくと、完全に誤植でしたので、そこは稽古中に訂正してもらいました。それ以前に、一色さんから「この漢字はどう読む?」という質問を受け、お答えしたりもしましたので、少しはお役に立ったかな、という感じです。

稽古終了後、近くのルノアールで一色さんとお茶。感想等求められましたので、述べておきました。また、差し入れに、花巻で販売されている「智恵子のレモンキャンディ」を持って行ったところ、大好評で、あと5缶欲しい、と言われ、早速手配しました。

ちなみにYouTube上に、二本松公演のプロモーション動画がアップされています。


銀座、二本松、お近くの方に、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

承諾無きうちに講演などと発表すること岩手の習慣らし、かかる時余は出席せず。

昭和26年(1951)7月7日の日記より 光太郎69歳

光太郎本人の承諾を得ぬまま、講演会の講師として名前を出されることが、複数回ありました。この時も、新聞にそう載っている、と、村人に教えられて知ったようです。今ではとても考えられない話ですね。

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