2021年06月

昨日の『朝日新聞』さん、投書欄から。

(声)若い世代 詩を通して考える大切さ実感

 学校の「いじめ問題を考える週間」は有意義なものだった。私は図書委員として、詩の朗読を校内放送で行った。私が選んだのは高村光太郎さんの「最低にして最高の道」。
 一見すると、いじめ問題と関係ないように感じるかもしれない。しかしこの詩は、人間が生じさせる怒りや憎しみなどにとらわれず、楽しく幸せに生きよう、という意味が込められていると思っている。
 詩を選ぶにあたり、「いじめ、友情って何なんだろう」と様々なことを考えた。いじめは、人間のわずかな感情のもつれから引き起こされる。つらいことがあるけど、他者を認め、まっすぐな気持ちで受け止めれば最高の道になると、高村光太郎は言っているような気がする。そんな気持ちがあれば、いじめも解決できると思う。今回、詩を通して深く考えることの大切さを実感した。
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真っ直ぐで初々しい、いい文章ですね。

「最低にして最高の道」、昭和15年(1940)の詩です。003

   最低にして最高の道
 
 もう止さう。
 ちひさな利慾とちひさな不平と、
 ちひさなぐちとちひさな怒りと、
 さういふうるさいけちなものは、
 ああ、きれいにもう止さう。
 わたくし事のいざこざに
 見にくい皺を縦によせて
 この世を地獄に住むのは止さう。
 こそこそと裏から裏へ
 うす汚い企みをやるのは止さう。
 この世の抜駆けはもう止さう。
 さういふ事はともかく忘れて
 みんなと一緒に大きく生きよう。
 見えもかけ値もない裸のこころで
 らくらくと、のびのびと、
 あの空を仰いでわれらは生きよう。
 泣くも笑ふもみんなと一緒に
 最低にして最高の道をゆかう。

光太郎詩の中では意外と有名、というか、コアなファンの多い詩といえるかもしれません。二次創作等で扱われるケースも少なくありません。

例えば、沖縄出身のJ-POPシンガーMATSURIさん。テレビ東京さん系で今春放映された連続ドラマ「私の夫は冷凍庫に眠っている」の主題歌「金魚すくい」で注目されたシンガーです。昨年、KAITOさんのという方の作曲になる「最低にして最高の道」をリリースされ、琉球放送(RBC)さんのバラエティー番組「Aランチ」のエンディング曲に採用されたそうです。


クラシック系でも、土屋光彦氏という方が曲を付けられ、平成27年(2015)、「新しい歌を求めて ~大久保豊典が歌う土屋光彦歌曲の夕べ~」というコンサートで披露されています。

エッセイストの松浦弥太郎氏には、『最低で最高の本屋』という御著書があります。タイトルからして「最低にして……」オマージュですね。松浦氏、平成16年(2004)の雑誌『ku:nel』には、この詩にからめたエッセイ「岩手・花巻の高村山荘を訪ねる」も書かれています。
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それから、平成29年(2017)テレビ朝日さんで放映の5分間番組「気づきの扉」では、松浦氏と「最低にして……」のエピソードが紹介されました。

その他、さまざまな朗読系CD等にも、けっこう採られています。

……という、「最低にして最高の道」ですが、元々は昭和15年(1940)9月の雑誌『家の光』第16巻第9号、「国のために私利を捨てん」という欄に掲載されました。

最愛の妻、智恵子を喪くして約2年。かつて智恵子と二人で実践していた、俗世間とは極力交わらず、芸術精進に明け暮れる生活が、智恵子の心の病を引き起こした一因となり、さらにそれを続けていては自分もおかしくなってしまうという危機感から、一転して社会と関わりを持とうと「改心」したことが宣言されています。しかし、その社会は泥沼の戦時体制に入っており、日中戦争は膠着状態、局面打破をはかって翌年には太平洋戦争に突入する、その前夜です。

したがって、「みんなと一緒に」挙国一致体制を支持し、神国日本に勝利をもたらそう、と、そうしたキナ臭い背景のある詩でして、当方、あまり好きになれません。そういった裏の作詩事情を抜きにして読めば、それなりによい詩だとは思うのですが……。

後に昭和17年(1942)には、光太郎の第三詩集『大いなる日に』に収録されました。
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第一詩集が、自らの道を進むことを高らかに謳った『道程』(大正3年=1914)、第二詩集が、かの『智恵子抄』(昭和16年=1941)、そして第三詩集が、すべて翼賛詩の『大いなる日に』。ちなみに第四詩集は光太郎詩集の中で最も陰惨というか、愚劣というか、年少者向けの翼賛詩を集めた『をぢさんの詩』(昭和18年=1943)、第五詩集も翼賛詩のみの『記録』(昭和19年=1944)。

こうして見ると、「最低にして最高の道」が、一つの大きなターニングポイントとなったことがよくわかります。『智恵子抄』末尾に近い「梅酒」(昭和15年=1940)では、「狂瀾怒濤の世界の叫も/この一瞬を犯しがたい。/あはれな一個の生命を正視する時、/世界はただこれを遠巻にする。」と謳っていたのが、やがてそうならなくなり、「狂瀾怒濤の世界の叫」にどっぷりはまっていくわけです。

「最低にして最高の道」。「進め一億火の玉だ」「欲しがりません勝つまでは」といった文言を使わなくても、そういった内容を表せてしまう、光太郎の詩才には舌を巻かざるを得ませんし、こうした作詩背景を無視すれば、確かに現代にも通じる詩ではありますね。上記の投書にあるように「他者を認め、まっすぐな気持ちで受け止めれば最高の道になる」というわけで。

文学作品は、自分なりの読解の仕方があっていいのだ、という論の、一つの証左となるような気もします。

【折々のことば・光太郎】

夕方佐藤弘さん花巻より帰途立寄らる。酢一升ミカキニシン三袋買つてきてくれる。酢は五十円にあがり居れり。秋には二十円なりき。


昭和23年(1948)2月28日の日記より 光太郎66歳

「佐藤弘さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓地に入った青年。光太郎がパシリにしていました(笑)。

終戦から2年半経ちましたが、まだまだ物価のインフレーションなどでの混乱は、収まっていませんでした。

昭和6年(1931)の光太郎の女川来訪を記念する「高村光太郎文学碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられたもの――の精神を受け継ぎ、費用全額を寄付で集めた「いのちの石碑」に関わります。

「時事通信」さん。

天皇陛下、国連会合で講演=「水と災害」、オンラインで

  天皇陛下は25日、オンラインで開かれた「第5回国連水と災害に関する特別会合」に、お住まいの赤坂御所(東京都港区)から参加し、基調講演された。陛下が即位後講演するのは初めて。
 陛下は「災害の記憶を伝える」と題し、約25分間、写真や図を使って英語でスピーチ。発生から10年がたった東日本大震災の記録や被災者の体験について「時代を超えて継承していくことはとても大事なこと」と述べた上で、語り部活動や震災遺構、宮城県女川町の「1000年後のいのちを守る石碑」などを紹介した。
 新型コロナウイルスについても、スペイン風邪など過去の疫病の経験を知る必要があると言及。「災害や疫病の記憶を後世に伝えつつ、その教訓を生かすべく次の災害や疫病に備えながら、誰一人取り残されることなく健康で幸せな毎日を享受できるような社会の構築に向けて、私も皆さんと一緒に努力を続けていきたい」と語った。
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「共同通信」さん。

東日本大震災陛下、国連の水会合で講演

 天皇陛下は25日、住まいの赤坂御所で、オンライン形式で開催された「第5回国連水と災害に関する特別会合」に出席された。即位後初めてとなる講演も行い、発生10年を迎えた東日本大震災での伝承活動を取り上げ、「後世まで伝えていこうとする一人一人の努力が、次の災害を防ぐ大きな力になると信じている」と訴えた。
 陛下は英語で30分近く、写真や図表を交えて講演。被災地の語り部とオンラインで交流したことを報告し、体験や教訓を「多くの人々と共有することはとても貴重なこと」と紹介した。
 震災後、宮城県女川町に建てられた避難誘導の石碑や、2016年に訪問した岩手県宮古市の震災遺構「たろう観光ホテル」、徳島県の昭和南海地震などの石碑、1771年の明和の大津波での沖縄・石垣島の被害を取り上げた。
 新型コロナウイルス禍にも言及。ワクチン接種に「暗く長いトンネルの先にようやく一筋の光明を見いだしています」と述べ、コロナ後の世界について「語り合うことは、人類の将来にとって大変重要」と指摘。スペイン風邪など過去の疫病から学ぶことも訴えた。
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「第5回国連水と災害に関する特別会合」。調べてみましたところ、以下のような要項でした。
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「いのちの石碑」プロジェクト、女川町内の全ての浜、20数カ所に設置予定で、ほぼ完了しており、今年度中には全基竣工予定であるやに聞いております。こうして天皇陛下も関心を寄せられ、海外にも広く紹介されたということで、活動にさらなる弾みがつくことを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

夕方美術学校の生徒二人(鶴田昭夫、鹿目尚之)来て、音、美両校生徒の雑誌(上野)に文章寄稿してくれといふ。結局承諾今月中位に送る事。


昭和23年2月19日の日記より 光太郎66歳

光太郎の母校・東京美術学校と、すぐ向かいの東京音楽学校が統合され、新制の東京藝術大学になったのは、翌昭和24年(1949)のことでした。

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に訪ねてきた二人の後輩のうち、「鹿目尚之」は、平成29年(2017)に亡くなったデザイナーの鹿目尚志氏の本名です。

昨日は、都内六本木の新国立美術館さんにて、書道展「第40回日本教育書道藝術院同人書作展」を拝見して参りました。
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光太郎詩が題材にされた書が、複数、入賞しているという情報を得たためです。

まず、同人の部・会長奨励賞の平井澄圓氏の作品。
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昭和10年(1935)の光太郎エッセイ「新茶の幻想」からの抜粋です。この文章、長らく初出掲載誌が不明でしたが、同年6月30日発行の『週刊朝日』第27巻第31号に掲載を確認しました。
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この年のはじめに、南品川ゼームス坂病院に入院した妻・智恵子と、この年秋に亡くなる父・光雲、自分も含め、茶が好きだった三人での新茶にまつわる回想を軸にした、実に味わい深いエッセイです。いわば『智恵子抄』を補完する位置づけのような。

五月、五月、五月は私から妻を奪つた。去年の五月、私の妻は狂人となつた。

去年」は昭和9年(1934)。かなり前から異状が見られ(詩人の深尾須磨子は、大正10年=1921には、既に智恵子の言動に異様なものを感じていました)、昭和7年(1932)には自殺未遂を起こした智恵子ですが、それでも会話が成り立っていた間は、光太郎はまだ「狂人」と認識していなかったということでしょう。「去年の五月」に、千葉九十九里に移り住んでいた智恵子の妹・セツ夫婦や智恵子の母・センの元に、智恵子を預けました。それによって、智恵子は浜に飛来する千鳥の群れと一体化し、「人間商売さらりとやめて、/もう天然の向うへ行つてしまつた」(「千鳥と遊ぶ智恵子」昭和12年=1937)、「智恵子はもう人間界の切符を持たない。」(「値ひがたき智恵子」同)状態になったのが、「去年の五月」というわけですね。

智恵子は今どうしてゐるだらう。千羽鶴は折れたか。茶の味は忘れたらうか。

痛切な結びです。ちなみにこの時点では、まだ奇跡と言われる紙絵の制作は始まっていなかったようです。

平井氏、このマイナーなエッセイを題材になさったところに、まず驚きました。それから、作品の中央、「二度ともうかへつて来ない時間といふことをその瞬間に悟らせながら」あたりをズドンと大きな字で書かれている手法。音楽で言えばサビというか、ヤマ場というか、そういう感じを視覚的に表現されたということでしょうか。
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他にも、光太郎詩を書かれた方が複数。
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同人の部・特選の石山恍遙氏。書かれているのは、御存じ「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。意図的と思われる滲みが、アクセントになっていますね。

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無鑑査出品の谷美翠氏。「狂者の詩」(大正元年=1912)。日本の文学作品で、コカコーラが登場した初のもの、とも言われている詩です。

こちらの会を創設した、故・大渓洗耳氏の遺作を集めたコーナーにも。
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ぐっと下って昭和22年(1947)作の「リンゴばたけに……」。七五調四句の今様体で書かれた即興詩で、おそらく生前には活字になることがなかったものです。

ちなみに、同じ詩の光太郎自身の揮毫はこちら。
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下の画像の方は、親しかった美術史家の奥平英雄に贈った画帖『有機無機帖』から。左端には、智恵子のそれを模して光太郎が作ったリンゴの紙絵が付されています。使っている紙は、洋モク(死語ですね(笑))の包み紙です。

その他、当会の祖・草野心平をはじめ、光太郎と交流の深かった面々、与謝野晶子、宮沢賢治、中原中也、尾崎喜八などの詩文書を書かれた作品も散見されましたし、以前に光太郎詩を書かれて、東京書作展などで入賞されたりした方々の作品(光太郎詩文ではありませんでしたが)なども出ていて、興味深く拝見して参りました。

会期は7月4日(日)まで。コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ガンジー暗殺されし由、初めてきく。


昭和23年2月1日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、まだ電線が引かれておらず、ラジオも聴けませんでした。たまたま訪ねてきた村人との世間話の中で、2日前のニュースを知ったようです。

012先月、南青山の銕仙会能楽研修所さんで、山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝見、拝聴しました。昭和32年(1957)、武智鉄二構成演出、観世寿夫らの作曲・作舞「新作能 智恵子抄」が抜粋連吟で演じられたもので。

その前後、「新作能 智恵子抄」についていろいろ調べている中で、能楽評論家の堀上謙氏著『能面変妖』(平成4年=1992 朝日新聞社という書籍に、写真が載っているという情報を得、古書店から購入しました。刊行当時の定価で5,100円もした豪華本です。帯が欠けているのと、背ヤケがあり、1,500円ほどで入手できました。

130ページあまりがカラー版で、古典から新作まで、さまざまな能面を種類別に取り上げ、面、それから演目の解説が為されています。工芸としての能面の持つ妖しい魅力に打たれます。

「新作能 智恵子抄」の面の写真、見開き2ページにわたり、ドーンと掲載されていました。分類上は「若女」面になるそうで。
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ボキャブラリーが少ないもので、陳腐な表現になり申し訳ありませんが、「幽玄」感が半端ないですね。

いつ、何処での撮影、というキャプション等がなかったのですが、演者は観世流・梅若晋矢氏。平成9年(1997)7月24日、赤坂日枝神社で行われた「日枝神社薪能」の中で「新作能 智恵子抄」が演じられた記録があり、その際に梅若氏が智恵子役をなさいましたが、本書の刊行はそれより前ですので、他の機会ということになります。
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解説がこちら。平成4年(1992)時点では、能としての上演は初演の昭和32年(1957)のみで、ダイジェスト版の「舞囃子」としてはたびたび上演されていたとのこと。したがって上記写真は、いずれかの機会で舞囃子として演じられた際のもの、ということになります。

「新作能 智恵子抄」制作に際し、多大な影響を与えたのが、古典の「安達ヶ原」(「黒塚」とも)。智恵子故郷の二本松に伝わる鬼女伝説が元となっています。今年4月に、NHK Eテレさんでオンエアされた「にっぽんの芸能 人、鬼と成る〜舞踊“安達ケ原”〜」で、面を付けない「素踊り」としての上演が放映されました。で、『能面変妖』。本来の面の写真も。
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まさに「鬼気迫る」ですね。特に完璧モンスターである上の「般若」より、下の「痩女」の方。夢に出て来そうです(笑)。演者はどちらも故・観世栄夫氏。昭和32年(1957)の「新作能 智恵子抄」初演で光太郎を演じた故・観世寿夫氏の実弟です。

こうなると、「安達ヶ原」、それからもちろん「新作能 智恵子抄」も、ちゃんとした形で観てみたいものだと思いました。そうした機会が訪れることを期待します。

今日は、都内六本木の新国立美術館さんにて、書道展「第40回日本教育書道藝術院同人書作展」を拝見して参ります。光太郎詩を書かれた作品が複数出ている、という耳寄りな情報を得ました。明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

今日、大沢温泉にゆかんと思ひしが昨夜の吹雪の為に中止。雪つもれると、まだ降雪中にて電車不便の疑あり。 枕下に雪つもる。


昭和23年(1948)2月2日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から大沢温泉に行くには、4㌔㍍ほど歩いて、当時走っていた花巻電鉄の二ツ堰駅、または神明前駅から乗車、6㌔㍍ほど山道を揺られる必要がありました。

またしてもネタ不足に成って参りまして、そういう時には「最近手に入れた古いもの」。新刊書籍等とは異なり、ここで紹介しても、同じものを皆様が入手できるとは限りませんが、苦肉の策ということでご寛恕を。

今日、明日と二回に分けてご紹介しますが、今日は智恵子関連の記事が載った古い女性雑誌を2点。

まずは昭和42年(1967)、千趣会さん発行の『COOK』という月刊誌の第10巻第2号。千趣会さんといえば、現在は大手通販会社ですが、この頃は雑誌の刊行も手がけていたのですね。

この号から「文学を味わう旅」という連載が始まり、その第一回が「「智恵子抄」愛の遺跡」。
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まずは巻頭のカラーグラビアで、福島と千葉の風景が、計7ページ。
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005中ほどに本文が10ページ。そこそこの分量です。

昭和42年(1967)というと、智恵子が数え53歳で歿して約30年。直接、生前の智恵子をご存じの方々がまだかなりご存命で、証言が掲載されています。現在では既にお亡くなりでしょうが。

そのうち、医師の古川盛雄さん。智恵子の弟・啓助の同級生でした。小学生だった明治末、啓助のところに遊びに行った際、たまたま帰省していた智恵子に絵の手ほどきを受けたという回想が載っています。

白いハンカチの上に白い卵を載せ、描け、というもので、小学生には難題だったそうです。ただ、昭和53年(1978)に刊行された、佐々木隆嘉著『ふるさとの智恵子』(桜楓社)では、このエピソードは記憶違いで、学校で教師から与えられた課題だったかも知れない、と、古川さんの証言が変化しています。

いわば「新証言」も。

赤い着物を着た女の人が通りかかったとき、智恵子さんはこう言った。「赤い着物の女の人がきたので、町がきれいになったでしょう。きれいだなと思ったら、赤い着物を着た人のいる町を描きなさい」。そしてその女の人が行ってしまうと、町が何か寂しくなっているのが、古川さんにもはっきり感じられた。

「新証言」は、他にも。明治末に智恵子生家の向かいに引っ越してきたという、佐藤りねさん。智恵子より1歳年上です。

智恵子さんはなァ、丈やからだのこっぽりした、色のそれは白い、かわいらしい子だったな。しゃり気のねえ人だったな。その時分は女の人は銀杏(いちょう)返しとか丸髷(まげ)とかを結ったもんだべ。でも智恵子さんは、今の人みたいに髪をぐるぐると巻きあげておりましたな。
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引っ越したころは、智恵子さんは東京の美術学校さ、行っていると聞いておりましたな。しかし帰郷して家におります時は、毎朝のようにあの人は、そのお花畑で花を摘んでいなさった。赤や黄色や紫の花々にかこまれてなァ、智恵子さんがたたずんでおりますと、とても美しいお人に見えました。摘んだ花を大事そうに抱えてきなさったが、たもとからこぼれた手首が、それはもう、ほっそりとしていて、雪のように白いお手でしたな。


先述の『ふるさとの智恵子』にも、佐藤さんの回想が掲載されていますが、この内容はありませんでした。「東京の美術学校」は太平洋画会(現・太平洋美術研究所)のことでしょう。

もう1冊、時代は下って平成5年(1993)発行の『週刊女性』第37巻第14号。こちらには「生きた、愛した、時代をつくった 日本を創った女たち」という連載の51回目で、「詩人・彫刻家高村光太郎の妻 高村智恵子」が6ページ。
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こちらは、よくまとまっているなとは思うものの、特に目新しいことは書かれていません。ただ、問題はドーンと大きく掲載されている、智恵子の写真。これが大きく載っているがために購入しました。
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卍繋ぎの紋様の着物を着たこの写真、『アルバム高村智恵子―その愛と美の軌跡―』(平成2年=1990 二本松市教育委員会)などの、いわばオフィシャルな書籍には載っていません。当方の手元にある中では、暁教育図書さん発行の『日本発見人物シリーズ 大正の女性群像』(昭和57年=1982)に小さく載っているだけでした。そちらと比べると、『週刊女性』の方は、顔の陰などに修正が入っているようです。
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30代から40代位でしょうか。どちらにも詳細なキャプションが無く、いつ撮影されたものかわかりません。出どころも、です。

情報をお持ちの方は、御教示いただけると幸いです。

それにしても、昔の女性誌、こうした近代文学、芸術系に関する記事がよく載っていて、あなどれません。最近のものは……ですね。たまたま光太郎智恵子に関する記事が見当たらないのでそう感じているだけかも知れませんが。

【折々のことば・光太郎】

朝ワタルさん学校の子供三人にソリをひかせて、木炭五俵届けに来らる。いつぞや十二俵(二十俵のところ)だけ届いてゐるのでその残部の由、空俵持ちゆかる。あと三俵は田頭さんから来るとの事。


昭和23年(1948)2月2日の日記より 光太郎66歳

「木炭20俵」、想像が付きません(笑)。

『読売新聞』さんの和歌山版から。

県立近代美術館50周年 コレクションの名品 <13>江戸の粋 版画にとどめ

002 画面中央に涼しげな表情をした着物姿の女性が立つ。髪に手をやり、鏡の前で身だしなみを整えている姿だろうか。背景には水路沿いの風景が、枠の中に表される。
 タイトルの「よし町」は江戸時代から続く東京の花街のひとつ。本作は、花街の女性と東京の風景を組み合わせた連作「東京十二景」のうち、最初に刊行された作品である。
 この連作は、明治時代に入り江戸の文物が失われゆくなか、浮世絵の伝統の衰退が見るに忍びない、として刊行が企画された。風情ある町に電柱が立ち並ぶ風景は、「江戸」から「東京」への移りかわりを象徴している。
 絵は石井柏亭(はくてい)(1882~1958年)が描くが、木版に起こしたのは、超絶技巧を持つ彫師の伊上(いがみ)凡骨(1875~1933年)。絵師と彫師の共作が作品の質を高めている。版元、つまり刊行を手がけたのは高村光太郎(1883~1956年)が開いた日本最初の画廊、琅玕洞(ろうかんろう)であった。
 描かれた女性は、柏亭と馴染みであった芸妓の「五郎丸」。絵からも凜(りん)とした美しさが伝わる。本作完成後、柏亭は渡欧するが、長く会えなくなる画家に対し、彼女は餞別(せんべつ)としてパレットナイフを贈った。
 画家が日々使う道具であり、ナイフと言いながら「切れない」ものであるから選んだのだという。そんな 艶(つや)やかなエピソードもまた、江戸の粋を示している。
 現在開催中の「もうひとつの世界」展で紹介している。

琅玕洞」は「ろうかんろう」ではなく「ろうかんどう」なのですが、ま、仕方ありますまい。前年に欧米留学から帰朝した光太郎が、明治43年(1910)に、自らの生活のため、また、志を同じくする芸術家仲間の作品を世に知らしめるため、神田淡路町に開いた日本初といわれる本格的画廊です。名前の由来は、アンデルセン作・森鷗外訳『即興詩人』の中に出てくるイタリア・カプリ島の観光名所から。これは現在では「青の洞窟」というのが一般的です。
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琅玕洞では、光太郎と親しかった柳敬助や斎藤与里、浜田葆光などの個展を開催したり、やはり交流のあった与謝野晶子の短冊や、工芸家・藤井達吉の作品などを販売したりましたが、経営的にはまるで成り立たず、わずか1年で画家の大槻弍雄(つぐお)に譲渡されます。光太郎は北海道に渡り、酪農のかたわら、彫刻や絵画を制作する生活を考えました。ただ、実際に札幌郊外の月寒まで行ってみたものの、少しの資本ではどうにもならないと知り、すぐにすごすごと帰京しています。琅玕洞パリ支店、という構想もあったのですが、当然、果たせませんでした。
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光太郎のエッセイ「ヒウザン会とパンの会」(昭和11年=1936)から。

 私が神田の小川町に琅玕洞と言ふギヤラリーを開いたのもその頃のことで、家賃は三十円位、緑色の鮮かな壁紙を貼り、洋画や彫刻や工芸品を陳列したのであるが、一種の権威を持つて、陳列品は総て私の見識によつて充分に吟味したもののみであつた。
 店番は私の弟に任し切りであつたが、店で一番よく売れたのは、当時の文壇、画壇諸名家の短冊で、一枚一円で飛ぶやうな売れ行きであつた。これは総て私たちの飲み代となつた。
 私はこの琅玕洞で気に入つた画家の個展を屡開催した。(勿論手数料も会場費も取らず、売り上げの総ては作家に進呈した。)中でも評判のよかつたのは岸田劉生、柳敬助、正宗得三郎、津田青楓諸氏の個展であつた。

007琅玕洞の出納簿的なものが残っており、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』別巻に、資料として掲載されています。

その中に、記事で紹介されている石井柏亭の版画「東京十二景」に関しても、記述があります。まず明治43年(1910)、柏亭に、「よし町」200枚の仕入れ代金として25円支払ったことから始まり、何枚売れたとか何枚追加で仕入れたとか。木下杢太郎、水野葉舟、柳敬助ら、親しい面々には進呈しています。武者小路実篤は、「進呈」の文字が二重線で消されており、購入してくれたようです。続いて、同じ「東京十二景」中の「柳ばし」に関しても、同様の記述。

「東京十二景」は、この後、柏亭の渡欧によって中断し、大正4年(1915)から再開します。しかし、7点が追加されたところで終わり、「十二景」には届きませんでした。

「よし町」と「柳ばし」、確かに光太郎の琅玕洞で販売されましたが、記事にある「版元」という語はちょっと引っかかるかな、という感じはします。「版元」というと、写楽や歌麿らに対する蔦屋重三郎というイメージで、販売だけでなく、プロデュースも手がけていた感じです。光太郎はそこまでは行わず、単に販売に手を貸した、というだけのように思われます。蔦重のように、「琅玕洞」のロゴを入れることもありませんでしたし。

石井柏亭、光太郎より一つ年長の画家です。芸術運動「パンの会」などを通じ、光太郎とは親しく交流しました。いわゆる「地方色論争」で光太郎とやり合い、その過程で光太郎による「日本初の印象派宣言」とも言われる評論「緑色の太陽」が書かれました。そういう意味では「論敵」ではあったものの、「仇敵」ではありませんでした。柏亭の弟の彫刻家・石井鶴三も、後年まで光太郎と交流を続けています。

「よし町」の彫師、伊上凡骨も、光太郎と親しかった人物です。「パンの会」会場の一つだった、鎧橋のメイゾン鴻乃巣のメニューは、光太郎が絵を描き、凡骨が彫っています。

明治37年(1904)には、柏亭、凡骨、光太郎、その他新詩社の面々で上州赤城山登山。
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左から、大井蒼梧、与謝野鉄幹、凡骨、光太郎、柏亭、平野万里です。また、写真は確認できていませんが、三人は大正10年(1921)の新詩社房州旅行でも同道しています。

さらに言うなら、明治38年(1905)に開催された「第一回新詩社演劇会」で、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演され、柏亭、凡骨ともに出演しています。

ここまで書いて、「あ、詩の中にも柏亭と凡骨が登場したっけな」と思いだし、調べてみました。明治43年(1910)の「PRÉSENTATION」という詩で、「パンの会」の狂騒を描いた作品です。長い詩なので、最初の三分の一ほどのみ引用します。

   PRÉSENTATION009

パンの提灯が酒壺から吹く風に揺れて、
ゆらりと動き、はらりと動く。
バルガモオの匂と、巴旦杏の匂と、
ヘリオトロオプと、ポムペイア。
味噌歯の雛妓(おしやく)が四人(よつたり)、
足を揃へて、声を揃へて、
えい、えい、ええいやさ、
と踊れば、
久菊も、五郎丸も、凡骨も、猿之助も、010
真つ赤になつて酔うたり。
歓楽の鬼や、刺青や、河内屋与兵衛や、
百円の無尽や、
生の種や、
郷土色彩(ロオカルカラア)や、坐せる女や、
綴れの錦か、ゴブランの絨毯か、
織られたり、とんからりと。

すると、これまで気がつかないでスルーしていたのですが、「五郎丸」。柏亭の「よし町」のモデルです。「おお!」という感じでした。

凡骨は「凡骨」、柏亭は「郷土色彩(ロオカルカラア)」。いわゆる「地方色論争」で、柏亭が、絵画では日本固有の色彩(地方色)を使用すべきだ、と論じたことを茶化しての表現です。ちなみに「歓楽の鬼」は長田秀雄、「刺青」は谷崎潤一郎、「河内屋与兵衛」は吉井勇です。

「古き良き時代」という感じですね。

【折々のことば・光太郎】

大正屋にてニンニク等、他にてリユツクサツク(吹張町の洋品店)バケツ等(鍛治町店)など買ひ、二時三十一分西花巻発の電車にてかへる。


昭和23年(1948)1月31日の日記より 光太郎66歳

久しぶりに花巻町中心街に出て、買い物をした記録です。蟄居生活を送っていた郊外太田村では、こんなものもなかなか入手できませんでした。

6週連続の放映です。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子

地上波日本テレビ 2021年6月30日(水)~8月4日(水) 
毎週水曜 21:54~23:00(6月30日(水)は野球中継のため22:54
23:00)

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#1 舞台(二本松)

高村光太郎・智恵子夫妻の愛が綴られた詩集「智恵子抄」。
妻・智恵子は明治19年、裕福な作り酒屋の長女として誕生。
活動的で、自由を愛した女性だった。
まだ女性に学問が不要と いわれた時代に成績優秀。
そして当時では珍しい東京の女子大学に行くことを決め、明治36年、上京する。

ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
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#1 福島・二本松 6月30日(水)
智恵子は東京に空が無いといふ 阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ

#2 フランス・パリ 7月7日(水)
私はパリで大人になった パリの魅力は人をつかむ

#3 千葉・犬吠埼 7月14日(水)
いやなんです あなたのいってしまふのが よその男のこころのままになるなんて

#4 東京・日比谷松本楼 7月21日(水)
あなたは本当に私の半身(はんしん)です 私を全部に解(かい)してくれるのはただあなたです

#5 栃木・塩原温泉 7月28日(水)
泣きやまぬ童女(どうじょ)のやうに慟哭(どうこく)する

#6 岩手・花巻高村山荘 8月4日(水)
 (オリンピック中継のためこの日は放映なし)
智恵子は死んでよみがへりわたくしの肉に宿ってここに生き かくの如き山川草木(さんせんそうもく)にまみれてよろこぶ

6分間の放送枠ですが、CMが入るので、実質2分程の番組です。一人、乃至は二人の人物にスポットを当て、ゆかりの地数カ所を紹介しながら、それぞれの人物の生き様に迫ります。二人になる場合は、与謝野鉄幹・晶子、白洲次郎・正子など、夫婦でした。昨日まで越路吹雪が取り上げられていましたが、次回から光太郎智恵子です。

一昨年、宮沢賢治が取り上げられた際に拝見し、「光太郎智恵子も扱ってほしいな」と思っておりましたところ、4月でしたか、担当ディレクターの方から連絡を頂き、協力要請がありました。まぁ、たいしたことはしませんでしたが、光太郎智恵子についての質問にお答えしたり、番組内でのナレーション等の内容チェック・校訂などをさせていただいたりしました。

したがって、まだ映像としては拝見していませんが、ナレーション原稿等見た限り、勘どころは押さえ、よくまとまっています。

ネット上の番組ガイド的なサイトでは、一部、来週の放映を「犬吠埼」としていますが、誤りで、まずは智恵子の故郷・二本松からです。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

裏の山にて先日熊狩りありし由。一頭、及笹熊をとりたりといふ。


昭和23年(1948)1月16日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、「裏山」といっても、そのまま奥羽山脈に突入し、およそ20㌔㍍先まで民家など1軒もない状態でした。現在でも熊のメッカです。
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「笹熊」はアナグマのことだそうで。

2件ご紹介します。

NHK映像ファイル あの人に会いたい「篠田桃紅(美術家)」

NHK総合 2021年6月26日(土) 5:40~5:50

今年3月に107歳で亡くなった篠田桃紅さん。「書の道」に飽き足らず水墨による抽象表現という独自の境地を開拓。その時々の心の形を限られた色彩と奔放な線で表現した。

桃紅さんは大正2年旧満州生まれ。5歳の時、父から書の手ほどきを受け、23歳で書道家として独立。しかしその独創的な文字は当時の書道界に受け入れらえず、やがて抽象表現を志向。戦後、単身アメリカに渡り抽象表現主義の隆盛を目の当たりにすると「水墨抽象画」に転じ、世界的評価を得た。その自由な生き方をつづったエッセイは多くの人の共感を呼び、そのみずみずしい感性は100歳を過ぎても新しい作品を生み出し続けた。

【出演】美術家…篠田桃紅,【語り】柘植恵水
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今年3月に亡くなった、篠田桃紅さん。「書」からスタートしましたが、伝統に囚われることなく、やがて墨による抽象表現の世界は、1950年代のニューヨークでも高く評価されました。エッセイストとしても足跡を残し、近年は満100歳を超えられてから、立て続けにエッセイ集を刊行、常に着物姿の凜としたたたずまいと相まって、人気を博しました。

篠田さんの座右の銘の一つが、光太郎の「道程」(大正3年=1914)。複数のエッセイ集にその記述が見られます。ただ、10分間の短い番組ですので、そういった話は出て来るかどうか……ですが。

この番組、「「あの人に会いたい」はNHKに残る膨大な映像音声資料から、歴史に残る著名な人々の叡知の言葉を今によみがえらせ永久に保存公開する「日本人映像ファイル」を目指す番組です。」(公式ホームページ)だそうで、直近の放映では、安野光雅さん、福本清三さん、田辺聖子さん、岡村喬生さん、坂本スミ子さんが取り上げられています。

平成17年(2005)には、当会の祖・草野心平も。サブタイトル的に「死んだら死んだで生きてゆくのだ」(いや、無理でしょう、心平さん(笑))。その他、文学方面、美術方面などで、光太郎智恵子光雲らと関わった人々が、実に多数(ざっとカウントしても数十人)。NHKアーカイブスさんのページ内は「ジャンル検索」「50音検索」などの機能が充実しています。残念ながら、光太郎本人は生前にテレビ出演をしませんでしたので、ありませんが。

もう1件。

ブレイク前夜〜次世代の芸術家たち〜 第273回 宮村弦(墨象作家)

BSフジ 6月29日(火) 21:55〜22:00

もしや、明日にでも世界へと羽ばたくかもしれない?!まさに「ブレイク前」の新人アート作家の作品、制作風景、こだわり、プライベートなどを紹介。

学生時代から書道家に憧れ、文字と向き合ってきた彼が今追い求めるのは「見る文字」ではなく、「触る文字」。点の凹凸のみで語られるメッセージ。限られた人のみが理解できるそのコミュニケーション手段はアートへと昇華することで新たな表現となる。

出演者 宮村弦(墨象作家) 吉村民
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上記「あの人に会いたい」が、「過去の人々」であるなら、こちらの番組は「これからの人々」というコンセプトですね。各界の若手注目株を取り上げる番組です。

で、宮村弦さん。平成29年(2017)から翌年にかけ、静岡の島田市博物館さんで開催された「第71回企画展 宮村弦 -モールス・コード- 新しい言葉の{カタチ}」で、「智恵子抄」オマージュの作品も出品なさいました。「モールス・コード(モールス符号)を視覚化した作品」だそうでした。

まったくの偶然ですが、篠田さん同様、宮村さんも「書」から出発し、従来の「書道」の枠組みから飛び出して、新たな抽象表現を追い求めていらっしゃいます。意識していらっしゃるかどうかはわかりませんが、篠田さんのDNAが受け継がれていると言ってもいいのではないでしょうか。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

明日もテレビ放映系、ちょっとだけ当方もお手伝いした番組をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐる顔にもちらちら雪かかる、


昭和23年(1948)1月7日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた、花巻郊外旧太田村の粗末な山小屋。壁の透き間から舞い込んだ吹雪が、うっすら布団に積もったというエピソードが有名ですが、その典拠の一つとなる記述です。

石川県から展覧会情報です。

26th year 池田コレクション

期 日 : 2021年6月26日(土)~7月25日(日)
会 場 : 石川県七尾美術館 石川県七尾市小丸山台1-1
時 間 : 午前9時〜午後5時
休 館 : 毎週月曜日
料 金 : 一般350円(280円)、大高生280円(220円)、中学生以下無料
        ( )は20名以上の団体料金

 「池田コレクション」は七尾市出身の実業家で、美術品コレクターでもあった池田文夫氏(1907~87)が蒐集した美術工芸品。生前氏が活躍した岐阜県美濃地方や出身地である石川県ゆかりの作品を中心に構成され、工芸や絵画・彫刻など多彩な顔ぶれ計289点が集います。
 当館建設の契機となり、平成7年(1995)の美術館開館後は「所蔵品の中核」と位置づけられてきた「池田コレクション」。当館とともに歩みを続け、今年で26年目を迎えました。そこで本年も同コレクションを展示する展覧会を開催し、それらの優れた美術工芸品をより多くの方々に改めてご覧いただきたく思います。
 今回の展示では、「池田コレクション」よりあわせて64点の作品をセレクトしました。いずれも池田氏が心血をそそいで蒐集したかけがえのない品ばかりであり、ぜひとも本展をつうじてその魅力にふれてください。
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002出品作の目玉の一つとして、光太郎の父・光雲作の木彫「聖観音像」がリストアップされています。

サイズは幅11.0㌢、奥行8.0㌢、高38.2㌢。昭和6年(1931)作ということで、同9年(1934)に歿した光雲晩年のものです。

同館で、昨年開催された企画展「伝えゆく池田コレクションの魅力 〈第1期〉~日本画・彫刻を中心に~/~美濃焼と漆工を味わう~」でも、この作が並びました。やはり目玉の一つということで、外せないのでしょう。

「聖観音像」は、光雲が好んで彫った図題の一つですが、他の作例と比べると、若干、スリムな感じを受けます。光背等が付随されていないせいもありましょうか。また、お顔も他の作例の方がふくよかな感じです。もしかすると工房作かな、という感じもします。

下の画像が、他の作例。左が昭和3年(1928)の作、右は光雲絶作となった昭和9年(1934)のものです。ともに撮影は、光雲令孫の故・髙村規氏。
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他に、川合玉堂、菱田春草、富岡鉄齊、上村松園らの日本画、熊谷守一、北大路魯山人らの書、彫刻では北村西望、平櫛田中らの作が並んでいます。その他、茶道具系がメインのようです。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

後北寄、西風となり、西壁上方の煙抜窓より吹雪ふきこみ、室内に粉雪入る。朝七草粥。

昭和23年(1948)1月7日の日記より 光太郎66歳

「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな 、すずしろ 、これぞ七草」。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で、この時期に、種類、量ともにどの程度「七草」が手に入ったのか、何とも言えないところですが……。

昨日は千葉市文化センターで開催された「潮見佳世乃歌物語コンサート 智恵子抄・羽衣伝説」を拝聴して参りました。
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ジャズシンガーの潮見さん、お父さまの故・高岡良樹氏が始められた「歌物語」というジャンルも引き継がれています。様々な文芸作品等をそれぞれ数十分のステージで、歌や語りで紡ぐというものです。昨日はそのうちの「羽衣伝説」と「智恵子抄」。

前半が「羽衣伝説」。現在の千葉市に残る羽衣伝説を元にしたものです。全国各地に残るそれと異なり、のちに「千葉氏」の姓を賜ったという平常将、その子・平常長ら実在の人物が登場します。
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休憩を挟み、後半が「智恵子抄」。

「歌物語」に入る前に、ア・カペラで光太郎詩の朗読二篇。昭和11年(1936)作の「鯉を彫る」と、同7年(1932)作の「もう一つの自転するもの」でした。

「もう一つの……」は、前年の満州事変勃発などを背景に、どんどんきな臭い方向に進む世情に抗し、「もう一つの自転するもの」が自分の中にあるのだ、と宣言する内容(しかし、数年後には抗しきれず、智恵子の死に伴う空虚感などもあって、一気に大政翼賛の方向に梶を切ることになりますが)。

「鯉を彫る」は、新潟長岡の素封家・松木喜之七に依頼された木彫の鯉を制作している様子を詩にしたもの。つい先だって、その関係で長岡に行って参りましたので、奇遇に驚きました。
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朗読に続いて、いよいよ歌物語。

当方、3回目の拝聴となりましたが、それぞれ伴奏の楽器が異なっていまして、曲や全体の構成は同じでも、全く違うステージという感じでした。

最初に聴いた時の伴奏はキーボードとアコースティックギター。そこで、ニューミュージックやジャズのテイストが強く感じられました。今年3月、熱海で拝聴した際には、ピアノ一本。するとクラシック音楽に近い感じでした。

今回は、ピアノ(TATOO)に加え、尺八(小湊昭尚)、そして箏(市川慎)。いやがうえにも「和」。間奏的にインストゥルメンタルの部分もかなり長くあったりし、アレンジが大変だったのでは、と思いましたが、終演後、潮見さんとお話ししたところ、そこは皆さんプロフェッショナル、ツーとカーで、けっこうひょいひょいできてしまったとのこと。素晴らしい!

箏も、当初は通常の十三弦のみの予定だったのが、十七弦も加えてみよう、ということで、市川氏、二面を行ったり来たりでした。
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全体に、かなりドラマチックな構成で、初めて聴いたと思われるお客さんが当方の周囲にいらっしゃいましたが、演者の皆さんの織り成す世界にぐいぐい引き込まれているな、というのがよくわかりました。

構成は、「樹下の二人」(大正12年=1923)、「あどけない話」(昭和3年=1928)、「千鳥と遊ぶ智恵子」/「風にのる智恵子」(昭和12年=1937/昭和10年=1935)、「値ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)、「山麓の二人」(昭和13年=1938)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)、「亡き人に」(同)。これらが、メロディーのついた「歌」、そうかと思うと「語り」のみ、また、それらを交えた形で、そして先述の通り、インストゥルメンタルの間奏(以前拝聴した2回より長いものでした)と、実に変化に富んでいました。

今後も折に触れ、演じていただきたいものです。

以上、レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

中島中将開墾地放棄の由。


昭和23年(1948)1月4日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れた村人たちとの、茶飲み話に出て来た話題です。

中島という人物、海軍中将だったそうで、ネットで調べてみたのですが、該当する人物が見つかりませんでした。下の名前も分かりません。光太郎が花巻疎開に際し、世話になった佐藤隆房の遠い姻戚らしいようです。光太郎が山小屋で暮らし始めた後、近くにの開拓地に入りました。

典型的、ステレオタイプの愚かな軍人だったようで、村人たちの助言には聞く耳を持たず、馬鹿なことをいろいろやって、自分で自分の首を絞めていたとのこと。

例えば、草を刈るにしても、軍刀を力任せに振り回して斬ろうとしていたそうで、村人が「それじゃ、切れません。片手で草を束ねて、もう一方の手に持った刃物で切れば楽に切れますよ」的なアドバイスをしても、「これがわしのやり方じゃ!」。

家を建てる際も、縄文時代の竪穴住居のように、地面に穴を掘って「板の節約じゃ!」。山の麓なのですぐ水が湧き、到底無理でした。

積極的に村人の助言を聞き、皆に敬愛されていた光太郎とは真逆ですね。結局、2年ほどで開墾地を放棄し、何処かへ消えていったようです。光太郎はこの人物を冷ややかに見ているだけでした。

こんな馬鹿な将校に率いられて進めた戦争で、先述の松木喜之七ら、徴発された兵らがあたら貴い命を落としていたわけで……。

畠山智行氏。俳優兼「津軽弁ロックシンガー」だそうです。

光太郎詩「道程」(大正3年=1914)インスパイアの曲を作られ、動画投稿サイトYouTubeにアップなさいました。
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昨年567(コロナ)が始まってあまり歌えなかったこの歌 今年も歌って行きます 津軽弁ロックシンガー始めて6年目に突入しました 色んな事がありました 全国車で下道で移動 歌も活動も全て獣道でした その思いを高村光太郎さんの道程を津軽弁で朗読し(道、津軽弁でけんどと言います)歌にしました

内容は 他人と同じ人生は嫌で生きて来た だから自分が切り開いた自分の道(人生)だ 今振り返った時辛い時苦しい時 あなたが私を支えてくれた この道はみんなの道だ こんな内容の歌です
畠山氏ブログより)


実際の投稿動画がこちら。


歌の前に、津軽弁による「道程」朗読が入ります。

わのめさけんどねぇ                                           僕の前に道はない
わの後さけんど出来ら                                       僕の後ろに道は出来る
うおりゃ!!自然よ                                                  ああ、自然よ
とっちゃよ                                                                父よ
わがおがらへでけだ                                   僕を一人立ちにさせた
うんだでぐでっけぇとっちゃよ                                      広大な父よ
わがらまなぐばはなさねんでまもてけ              僕から目を離さないで守る事をせよ
むったどとちゃの気迫ば                                            常に父の気魄を
わさぁぱんぱんにしてけ                                              僕に充たせよ
この果でねぇけんどの行ぎさぎさぁ                            この遠い道程のため
このめねぇ生様の行ぐどごさぁ                                  この遠い道程のため

その後の歌も、「going my way」的な内容で、だから最初に「道程」か、という感じでした。

津軽弁ということもあり、高木恭造の詩を想起しました。

畠山氏の作品の方が、格段にポジティブですが、DNAを揺さぶられるというか、何というか、そういう部分では同じ根っこを感じます。

ちなみに今日は、ジャズシンガー・潮見佳世乃さんの「歌物語コンサート 智恵子抄・羽衣伝説」を聴いて参ります。

こうした2次創作によって、光太郎智恵子の世界を広めていただくことは大歓迎です(健全な精神に基づくリスペクトが伴うことが条件ですが)。各分野の表現者の皆様、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】003

「智恵子抄」三冊白玉書房より届く。


昭和23年(1948)1月3日の日記より
 光太郎66歳

白玉書房版『智恵子抄』。昭和19年(1944)太平洋戦争の激化により、オリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)版元の龍星閣が休業、昭和25年(1950)に再興し、翌年には『智恵子抄』復元版を出版しますが、その間、昭和22年(1947)から白玉書房版が刊行されていました。昭和25年(1950)の第5刷まで確認できています。
 
オリジナル『智恵子抄』に、「松庵寺」(昭和20年=1945)、「報告」(同21年=1946)の2篇が補われましたでした。どちらも智恵子の命日(10月5日)に書かれたものです。
 
ただ、白玉書房社主の鎌田敬止は、そもそもの版元である龍星閣の澤田伊四郎と十分に連絡を取っていなかったようで、この出版には若干のトラブルが生じました。

昨日に引き続き、岩手花巻からの情報です。

テーマ展「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」

期 日 : 2021年6月26日(土)~8月29日(日)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松第26地割8-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 小、中学生 150円(100円) 高、学生 250円(200円)
      一般 350円(300円) ( )内は20名以上の団体割引料金

近代の花巻における鉄道開発や、それに関わった人物等を紹介し現代へと繋がる交通の拠点都市として発展した花巻の近代鉄道史を紐解きます。

主な内容 
「舟運から鉄道へ」「東北本線の開通」「岩手軽便鉄道の誕生」
「花巻電鉄と新温泉開発」

☆関連事業 7月17日(土) 講演会 7月31日(土) 学芸員講座 ギャラリートーク等
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元々、昨年開催予定だったものですが、コロナ禍のため一旦中止となり、仕切り直しての開催です。

昭和20年(1945)5月、宮沢賢治実家に疎開、同年秋から昭和27年(1952)まで郊外旧太田村での山居生活、そして翌年初冬には短期間の太田村「帰省」を果たした光太郎、その間に重要な「足」となった花巻電鉄も取り上げられます。
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展示品のうち、「岩手軽便鉄道沿線名所図絵」という古い鳥瞰図が、『広報はなまき』6月15日号に紹介されました。
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さらに、同館の「先人コーナー」。

先人コーナー展示替えのお知らせ

花巻市博物館では、花巻ゆかりの先人を紹介するコーナーを設けています。昨年度は、小原樗山、山室機恵子、工藤善太郎の3人を紹介しましたが、今年度は多くの先人のうち、渕澤能恵、佐藤隆房、薄衣八百藏の3人を取り上げました。

佐藤隆房(1890-1981)
佐藤隆房は、明治23年(1890)栃木県那須郡(現・那須町)に生まれました。大正12年(1923)、33歳の若さで「花巻共立病院」(現・総合花巻病院)を設立、外科医長を兼ねて初代院長に就任します。
慈善活動にも力を入れ、昭和8年(1933)の三陸大津波の際は救護班を沿岸に送り、昭和20年の花巻空襲の際にも陣頭指揮を執り、負傷者の救護を行いました。文化・芸術にも造詣が深く、宮沢賢治や高村光太郎など、花巻ゆかりの文化人たちとの交流がありました。
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光太郎の花巻疎開に尽力し、旧太田村の山小屋に移る直前の約1ヶ月、光太郎を自宅離れに住まわせてくれた佐藤隆房が新たにラインナップ入り。

来月には「菊池捍生誕150周年記念 旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」に行って参りますので、こちらも廻ってこようと思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午前書初。正信偈の中から選んで(「顕真実」3「金剛心」1)四枚書く。


昭和23年1月2日の日記より 光太郎66歳

正月二日に書き初めを行うのが、光太郎のルーティーンでした。「正信偈」は「しょうしんげ」。親鸞 の著した『教行信証』中の「正信念仏偈」を指します。

「顕真実」三枚中の一枚は、花巻高村光太郎記念館さん、一枚は大沢温泉さんに所蔵されています。「金剛心」も花巻高村光太郎記念館さんに納められていますが、元は光太郎に山小屋の土地を提供した駿河重次郎に贈られ、駿河はその書を拡大コピーした石碑を自宅前に立てました。
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光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻からイベント情報です。

菊池捍生誕150周年記念 旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展

期 日 : 2021年6月26・27日、7月3・4日、10・11日、17・18日
      (6月第4週~7月第3週までの土曜日・日曜日開催)
会 場 : 旧菊池捍邸 岩手県花巻市御田屋町2-9
時 間 : 10:00~16:00
料 金 : 無料

大正15年に建てられた菊池捍邸は洋館のような外観にも関わらず間取りは武家屋敷という大変貴重な建物となっている。10年ほど前まで菊池捍氏の子孫が住んでいたので内部も建築当時のままきれいに残されている。

菊池捍氏は明治3年花巻城士の子に生まれ、新渡戸稲造の勧めで札幌農学校に進学。同じく花巻出身の総長佐藤昌介と新渡戸に薫陶を受けた農業技術者だった。全国どころか、台湾やスマトラでも活躍したのち帰郷。北海道時代に見た開拓使の建物に影響されてこのような洋館風の外観で家を建てたものと思われる。

イベント当日の展示は、その菊池捍に関連する資料とその次男で、戦前戦後に活躍した写真家菊池俊吉が撮った写真、そして空襲で東京のアトリエを焼かれ、この家に疎開した娘婿で、戦前のプロレタリア美術の第一人者だった寺島貞志の絵、佐藤昌介やその妹で島崎藤村の初恋の相手佐藤輔子、佐藤輔子がのちに結婚した鹿討豊太郎の写真など、この家にまつわる方々の資料や作品となる。宮沢賢治や高村光太郎などもどうやらこの家に関わっている由。

関連行事 :
 6月26日(土) オープニングセレモニー トークイベント
  木村清且さん(木村設計A・T代表取締役社長)
  平澤広さん(花巻市立萬鉄五郎記念館学芸員)
  坂場有紀子さん(菊池捍氏曾孫)
 各日曜日 16:00~17:30 朗読会などの併催イベント
  6/27 宮沢賢治作品朗読と昔話、レコード鑑賞
  7/4   宮沢賢治作品朗読と朗読劇、レコード鑑賞
  7/11 宮沢賢治、高村光太郎詩朗読、フルート演奏
  7/18 おとなに贈るおはなし会、レコード鑑賞

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菊池捍(まもる)は、花巻出身の農業技術者。昭和19年(1944)に歿していますので、光太郎と直接の面識はありませんでしたが、その姻族の佐藤昌(元旧制花巻中学校校長)は、昭和20年(1945)の花巻空襲で、疎開先の宮沢賢治実家を焼け出された光太郎を1ヶ月近く住まわせてくれ、その後も光太郎と交流を続けた人物でした。他にも宮沢家などで、菊池の縁者の人々と同席した記録が残っています。

言い伝えによると、光太郎もこの菊池邸に足を運んだらしいとのこと。ただ、残されている日記にはその記述が見当たりません。しかし、当方が見落としていることも考えられますし、日記は昭和24年(1949)と翌年の大部分が失われていたり、その他の年も欠落している部分があったりで、その間に訪問していた可能性があります。

旧菊池邸は、大正15年(1926)の竣工。宮沢賢治の童話「黒ぶだう」の舞台である建物のモデルとも考えられているそうです。また、先日ご紹介した『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第26号の連載「光太郎レシピ」の撮影も、こちらで行われたとのこと。

古建築好きの当方としては一度行ってみたいと思っていましたし、朗読イベントで光太郎詩が取り上げられるというので、7月11日(日)にお邪魔することに致しました。皆様もぜひどうぞ。

ところで古建築というと、昨日、NHK Eテレさんで放映された「ふるカフェ系 ハルさんの休日 福島・二本松〜城郭内の素敵な洋館カフェ!」。智恵子の故郷・二本松にたたずむ、菊池邸より1年早く建てられた、「8月カフェ」さんが取り上げられました。
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この番組、ドラマ仕立てで、渡部豪太さん演じるカフェブロガー・真田ハルが、全国の「ふるカフェ」を巡り、その謎を解き明かすというスタイルです。古建築好きの当方、時折拝見しています。地元の皆さんが本人役でご出演、それが何とも言えず温かみがあっていい番組です。
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ちなみにハルが口にしているのは、手作りスコーン。
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美味しそうですね!

番組冒頭は二本松駅から。
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カフェオーナーの吉村明美さんからの調査依頼。吉村さんは元々、郡山で喫茶店を経営されていたそうですが、今年3月に娘さんとこちらにカフェをオープンなさったそうです。

賢治の「雨ニモマケズ」パロディー。
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ここで「高村光太郎の「智恵子抄」に謳われた「ほんとの空」のある二本松」といった紹介が欲しかったのですが、残念ながらそれはありませんでした。

こちらがカフェ。
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元二本松町長・田倉孝雄が建てさせた建築だそうで。
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当時の欧米で最先端の流行だった様式を随所に取り入れていました。
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光太郎智恵子がこの建物を目にした可能性もあります。

ところで、番組冒頭近く、8月カフェさんに着く前、ハルが二本松城の大手門跡の説明板を読んでいると……。
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石垣を愛でている謎の美人。石の積み方に詳しく、実にマニアックです(笑)。

最初、気がつかなかったのですが、「あれっ、佐藤さん?」。思わず叫んでしまいました。
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番組後半に再登場なさり、ここで正体が明らかに(笑)。以前、教育委員会文化課にいらした佐藤真由美さん。平成28年(2016)に、8月カフェさんすぐ近くの歴史資料館さんで開催された「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」展の際、主任学芸員としてお世話になった方です。その際には、展示品をお貸ししましたので、千葉の当方自宅兼事務所に搬入/搬出にいらっしゃいました。その後も毎年のように智恵子を偲ぶ「レモン忌」にご参加なさっています(昨年はコロナ禍で中止)。

建設の経緯などは、佐藤さんがハルに語る、という設定になっていました。出演なさるとは存じませんで、驚きました。今度お会いしたら「いい芝居してましたね」とからかってあげようと存じます(笑)。

6月20日(日) 18:30〜18:55、やはりNHK Eテレさんで再放送があります。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

お雑煮、屠蘇代りの冷酒二杯 お供へをかざり、みかん林檎を供ふ。筆、槌、コムパス、等を祭る。

昭和23年(1948)1月1日の日記より 光太郎66歳

山居生活4年目の幕開けでした。

新刊です。

マダム花子

2021年6月10日 根岸理子著 論創社 定価1800円+税

Who is HANAKO? ロダンの唯一の日本人モデル、森鷗外の小説「花子」のヒロイン、そして、世界的に活躍するアーティストの先駆者でもあるマダム花子(1868-1945)とは、いかなる女性であったのか―。

著者紹介
ロンドン大学SOAS(School of Oriental and African Studies )大学院博士課程修了。PhD。現在、東京大学教養学部LAP 特任研究員。専門は近代日本演劇。
論文・著書:「マダム花子―『日本』を伝えた国際女優―」(『演劇学論集』第53号、2011年11月)、『井上ひさしの演劇』(共著、翰林書房、2012年)、『演劇のジャポニスム』(共著、森話社、2017年)、『革命伝説・宮本研の劇世界』(共著、社会評論社、2017 年)、『漱石辞典』(共著、翰林書房、2017年)他。 
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目次
はじめに
第一章 花子の生い立ち 一八六八-一九〇二年
 見送りもない旅立ち/二〇歳上の男性に身請けされる/小泉との別れ/
 芸者としてヨーロッパへ
第二章 「マダム花子」の誕生 一九〇二-一九〇六年
 異国に一人残る/ドイツで女優としてデビュー/貴婦人たちに危機を助けられて/
 ロンドンで端役から主役へ/花子とハラキリ
第三章 ロダンのモデルとなる
 ロダンとの出会い/「死の顔」ができるまで/
 花子が見たロダンとロダンが見た花子/森鷗外の『花子』
第四章 各国の舞台に立つマダム花子 一九〇七-一九一二年
 二度のアメリカ公演/ヨーロッパでの成功/日本に伝えられた舞台の模様/
 吉川の死/夫の死を乗り越えて
第五章 名声を博したマダム花子 一九一二-一九二一年
 ロシアの演劇人たちを惹きつけた花子/映画の出演依頼と戦争の勃発/
 ロンドンでの大成功/連合国の俳優たちと共演を果たす/一四年ぶりの日本帰国/
 旅の終わり
結び 花子の縁者・澤田助太郎ご夫妻書面インタビュー

おわりに
主な参考文献


004「花子」は本名太田ひさ。確認できている限り、ロダンの彫刻モデルを務めた唯一の日本人です。日本人女優の嚆矢の一人で、明治末から大正にかけ欧米各地で公演を行い、ジャポニスムブームを背景に現地では非常に好評を博しました。しかし、日本では目立った活動を行わなかったこともあり、ほぼほぼ忘れられかけている存在です。

昭和2年(1927)、評伝『ロダン』を書き下ろしで刊行するに際し、光太郎が岐阜にいた花子のもとを訪れてインタビューも行っています。その模様は『ロダン』の最終章「十七、「小さい花子(プチトアナコ)」」として掲載されました。それに先立つ明治43年(1910)には、森鷗外が短編小説「花子」を書いてもいます。

平成20年(2008)には、一宮市尾西歴史民俗資料館さんで「特別展花子とロダン-知られざる日本人女優と彫刻の巨匠との出会い-」、平成30年(2018)には、花子の故郷の岐阜県図書館さんで「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」展が開催され、光太郎から花子に宛てた書簡や名刺なども展示されました。

これまでにも、まとまった花子の評伝等は何冊か刊行されています。

まず、花子の妹の令孫に当たる元岐阜女子大学教授の澤田助太郎氏による『プチト・アナコ』(昭和58年=1983 中日出版社)。翌年に英語版が刊行され、さらに平成8年(1996)には増補版として『ロダンと花子』と改題の上、上梓されました。

それから岐阜県さんが県として刊行した『マンガで見る日本真ん中面白人物史シリーズ3 花子 ロダンに愛された国際女優』(平成12年=2000 澤田助太郎原案 里中満智子構成 大石エリー作画)。漫画とあなどるなかれ、非常に良く描けています。平成30年(2018)には、ノンフィクション作家・大野芳氏による『ロダンを魅了した幻の大女優マダム・ハナコ』。また、評伝ではありませんが、小説『盗作か? 森鴎外の『花子』』(平成24年=2012 下八十五著 文芸社)でも、花子について紹介されています。

その他、当方未見ですが、資延勲氏という方が、『マルセイユのロダンと花子』(平成13年=2001 文芸社)、『ロダンと花子―ヨーロッパを翔けた日本人女優の知られざる生涯』(平成17年=2005 文芸社)という書籍を出されています。探せば他にもあるかも知れません。

で、今回の『マダム花子』。著者の根岸氏は演劇史がご専門ということで、当時の現地報道等を詳しく分析され、欧米各地での花子公演の様子が詳述されています。「女優」という視点で花子を見るには恰好の書と言えましょう。図版等も豊富で、これまで見たことがなかったな、というような写真も数多く掲載されていました。

花子がロダンのモデルを務めた際の記述ももちろんありますが、メインはやはり公演関係の考察なのかな、という感じでした。昭和2年(1927)の光太郎の花子訪問についても触れられていますが、2頁ほどでした(笑)。ただ、ロダン関連では光太郎の訳した『ロダンの言葉』が随所に引かれています。

花子、数奇な運命に翻弄されながらも、力強く生きた女性です。もっともっと知られてしかるべき存在とも思われます。『マダム花子』ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后雪かきを道路の外れの堰のところまでする。路に棒を立てて標にする。


昭和22年(1947)12月31日の日記より 光太郎65歳

ここまでが道だという標識としての棒ですね。そうやらないと、雪の下に埋もれている側溝などに落ちる危険性があり、雪国では現代でも行われている習慣です。

こうして花巻郊外旧太田村での蟄居生活、3年目が終わります。








定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第26号が届きました。
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巻頭特集は「高3女子のリアルトーク「花巻えもい!!」」。高田博厚作の光太郎胸像(原型・昭和34年=1959)の建つ花巻北高校さんに通う、お二人の生徒さんによる若者目線での花巻紹介です。大人が見過ごしてしまう「良さ」の取り上げ方や、「田舎あるある」的な自虐ネタなど、楽しく読ませていただきました。
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光太郎の日記等の記述を参考に、現代風にアレンジされた連載「光太郎レシピ」は、「青菜のエチュベとサヤエンドウのポタージュ」。「エチュベ」はフランスの家庭料理だそうです。
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料理好きの方、ぜひどうぞ。

編集に協力されているやつかのもりLLCさんが、やはりメニュー作成に関わられている「光太郎ランチ」。昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日だけの限定販売です。

昨日販売分がこちら。
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彩りが初夏っぽい感じを受けますね。

こちらも末永く愛されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

朝田頭さん奥さん来訪、昨夜余の夢を見て心配ゆゑ来りしとの事、弱つて田頭さんを余が訪ねし夢なりし由、元気故心配なきやう申述ぶ。濁酒三合程もらふ。

昭和22年(1947)12月24日の日記より 光太郎65歳

「田頭(たがしら)」は屋号で、旧太田村村長・高橋家です。光太郎、村民に愛されていたのがよくわかるエピソードですね。

妻が御朱印マニアでして、一緒に月一度ほどのペースで、少し離れたところにある寺社巡りをしております。ついでに当方も光太郎智恵子関連の踏査を兼ねるようにしています。

昨日は同じ千葉県内の松戸市へ。まず、妻の希望で「あじさい寺」の異名を持つ本土寺さんに参拝。その後、同じ松戸市の萬満寺さんへ。

先に萬満寺さんをレポートします。

JR常磐線各駅停車の馬橋駅にほど近い、住宅街にたたずむ古刹です。
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山門(左)と鐘楼(右)。
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山門をくぐった先にある仁王門。

こちらの仁王門に納められている鎌倉期の仁王像は、国指定重要文化財です。指定が大正5年(1916)、当時施行されていた古社寺保存法に基づく指定で、同法には「重要文化財」という枠はなく、「特別保護建造物」「国宝」の二本立てで、「国宝」の認定でした。戦後、現在の文化財保護法が制定され、「重要文化財」が新設されると、そちらに移行しています。こうした例は多く、旧古社寺保存法下での指定を「旧国宝」と称することもあるようです。

で、大正5年(1916)の旧国宝指定の際には、光太郎の父・光雲が関わっていたらしいのです。光雲は東京美術学校教授のかたわら、古社寺保存会委員、国宝保存会委員などを兼任しており、こうした指定に携わっていました。寺伝では、萬満寺さんの仁王像や、他の仏像を絶賛したそうで。

こちらが仁王像。まず向かって右側の阿形像。
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逆サイドの吽形像。
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鋼線入りのガラス越しですので、細かな部分は観察できませんでしたが、それでも全体のフォルムなど、非常にダイナミックに感じました。また、関東地方有数の古さを誇る仁王像ですので、重要文化財指定もうなずけます。伝・運慶作ということですが、これは古い仁王像に付きものでして、残念ながら信用できません。それにしても見事な作です。

驚いたことに、春と秋、それから正月三が日には仁王門のご開帳が行われ、参拝客が阿形像の股の下をくぐれるそうです。

寺伝では、大正8年(1919)に光雲とその高弟・米原雲海が、信濃善光寺さんの仁王像を制作した際、こちらの仁王像も参考にした、ということになっているようです。ただ、善光寺さんのそれとは、かなりポージングが違うのですが……。また、阿吽の配置も、善光寺さんは通常とは異なり、向かって左が阿形、右が吽形です。この配置は奈良東大寺さん南大門の金剛力士像に倣ったようです。ちなみにポージングということを問題にすると、東大寺さんのそれもまた、善光寺さんのそれとかなり異なっています。

それから、萬満寺さんには、松戸市の有形文化財に指定されている仏像が多数おわし、その中に中国明時代の鋳造魚籃(ぎょらん)観音像もいらっしゃるとのことでした。やはり光雲も魚籃観音像を複数彫っていますので、そちらも拝見できれば、と思っていたのですが、残念ながら萬満寺さん自体、この日は無人で、本堂の扉も閉ざされていました。コロナ禍のせいなのでしょうか。
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仁王門や山門の彫刻、龍の天井画など、いい感じでしたが。
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さて、こちらに行く前に参拝した、本土寺さん。
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鎌倉の明月院さんほどではありませんが、「あじさい寺」として有名です。
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広い境内に、色とりどりの紫陽花が満開でした。

妻がいただいた御朱印がこちら。
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左が通常のもの。右は季節限定あじさいバージョン(別途料金)だそうで(笑)。

この後参拝した萬満寺さんの御朱印もいただきたかったのですが、残念ながら昨日は無人。仁王像股くぐりのご縁日に、もう一度行ってみようかと思っております。

以上、千葉松戸レポートでした。

【折々のことば・光太郎】

岡本弥太詩碑「白牡丹図」を用紙に書く。二枚は弥太の署名入、一枚は署名無し。先方の選択にまかせるつもり。


昭和22年(1947)12月21日の日記より 光太郎65歳

岡本弥太(明32=1899~昭17=1942)は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、生前唯一の詩集『瀧』を光太郎に贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。そうした縁から、高知に建てられる詩碑の揮毫を光太郎が依頼され、それに関する記述です。

3件ご紹介します

にほんごであそぼ「祭りのかけごえ」

NHK Eテレ 2021年6月17日(木) 17:00~17:10(3月29日から放送時間が変わりました 木・金は夕方のみの放送となります。)

今回は、阿波踊りの掛け声をご紹介します。ほかに、博士と助詞/僕の前に道はない「道程」高村光太郎、あいだのじいさん/砂糖と塩のあいだ、はんじえ/おむすび→ごぼう、名文を言ってみよう!/雨ニモマケズ、うた「しったかぶり」。
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6月3日(木)に放映のあった回の再放送です。

新コーナー「博士と助詞」で、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が取り上げられました。
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「助詞」ということで、「に」が、次々と……
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なるほど、こうやって助詞による文脈全体の意味の違いを表そうと、そういう意図なのですね。しかし、「僕の前だけ道はない」は、ちょっと嫌ですね(笑)。

続いて、智恵子の故郷・福島二本松から。

ふるカフェ系 ハルさんの休日「福島・二本松〜城郭内の素敵な洋館カフェ!」

NHK Eテレ 2021年6月17日(木) 22:30〜22:55 再放送6月20日(日) 18:3018:55

古い建物のカフェがあれば全国どこへでも。ふだんはうだつの上がらない青年・真田ハルは実は人気のカフェブロガー!ゆったり流れる時間、地元の人たちとの出会い、全国の“ふるカフェ”の魅力を描きます。

福島・二本松城の敷地の中に見つけた、ビックリな洋館カフェ。古代ギリシャの建築様式と装飾が見事な部屋に急角度の美しい屋根。おススメのスコーン片手に大満足のハル!

明治初期、戊辰戦争の激戦地と知られた二本松城。広い敷地の中に立つ、謎の洋館付き住宅のカフェ。入ってみれば古代ギリシャの建築と装飾が随所に散りばめられている。アカンサスなど見事な室内装飾と美しいギャンブレラ屋根、そしてドイツ壁。ヨーロッパ中のおしゃれな建築様式を活かしたこの建物、一体、誰が建てたのか?店主からの依頼で、ハルが洋館を調査。果たして、謎は解き明かされるのか?探偵ハルのカフェ探検はいかに?

【出演】渡部豪太
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こんなシャレオツなカフェが、二本松にあったのか? と思って調べたところ、今年3月オープンだそうで、存じませんでした。

その名も「8月カフェ」さんだそうです。「築100年」とのことで、ぴったり100年なら大正10年(1921)竣工ということになります。

場所的には、JR二本松駅から霞ヶ城方面へ続く「久保丁坂」の途中。平成28年(2016)に開催された「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」展の会場となった、二本松市歴史資料館さんのすぐ近くです。したがって、愛車で何度もこの道を通りましたが、こんな建物があったとは気づきませんでした。
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智恵子生家/智恵子記念館も近いといえば近いところです(歩くとなるとちょっとありますが)。大正10年(1921)というと、智恵子は光太郎と既に結婚し、東京駒込林町のアトリエ兼住居で暮らしていた時期ですが、光太郎曰く「私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体が保たないのであつた。」(「智恵子の半生」昭和15年=1940)ということでしたので、この建物を目にしていた可能性もあると思います。

また、上記地図で、2本東側の亀谷坂(竹田坂)には、智恵子の母・センの生まれた安斎家がありました。

今度、二本松に行く際には立ち寄ってみようと思います。

もう1件。

開運!なんでも鑑定団【武田信玄の秘宝&巨匠の聖徳太子像に超ド級鑑定額】

地上波テレビ東京 2021年6月20日(日) 12:5414:00

■先祖がもらった<武田信玄>謎の書…ナゼ家康印が?衝撃値■近代彫刻の巨匠作…<聖徳太子>像に超絶鑑定額■昼の司会…<石井亮次>のお宝&声優も仰天…おもちゃ大会■

日本近代彫刻の巨人のお宝が登場。富山で造り酒屋を営んでいた祖父は大の骨董好きで、家にはいつもたくさんの骨董品が飾られていた。小学校高学年の頃、祖母がこのお宝を見せてくれ、「これは将来譲るからね。これを大事にすればご利益に恵まれるよ」と言われた。その後、祖父母の家に行く度、このお宝に手を合わせていたところ、第一志望だった東京大学に現役合格し、就職活動でも希望していた日本銀行に就職することができた。将来このお宝を受け継ぐことになる孫が小学校高学年になったので、改めて価値を確かめたい。果して結果は!?


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【MC】今田耕司、福澤朗  【ゲスト】石井亮次
【アシスタント】片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
【出張鑑定】おもちゃ鑑定大会 
【出張なんでも鑑定団レポーター】原口あきまさ
【出張なんでも鑑定団コメンテーター】西村知美
【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

初回放映は今年2月、その後、系列のBSテレ東さんで先月放映がありました。光太郎の父・光雲作の聖徳太子孝養像が出ます。
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ネタバレで申し訳ありませんが、鑑定価格は堂々の1,500万円。
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光雲を紹介するVが、素晴らしい出来でした。
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息子の光太郎にも触れて下さいました。
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関東地方ご在住で、まだ御覧になっていない方、ぜひどうぞ。

上記の「にほんごであそぼ」と「ふるカフェ系 ハルさんの休日」は、全国放映だと思いますので、皆ざま、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

正午に日影さしたるにより障子に日時計を改め記す。


昭和22年(1947)12月15日の日記より 光太郎65歳

日時計は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の、南側の障子に書かれていました。外側に紐で縛った石をつるし、その紐の影が障子に映る仕組みです。紐を吊す位置を前後させたりしながら、季節の変化に対応していたと思われます。
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昭和24年(1949)になって、電線が引かれ、ラジオを山小屋で聴けるようになるまで、この日時計がメインでした。

一昨日行われた、東京オリンピック聖火リレーの青森県(2日目)についての報道をご紹介します。

まず『朝日新聞』さん青森版。

聖火ようやく公道にお出まし 東北の沿岸駆ける 青森

 県内で行われている東京五輪の聖火リレーは、2日目の11日、69人のランナーの手で県南を巡った聖火が八戸市の館鼻漁港に届けられ、終了した。
     ◇
 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、1日目の全行程と2日目のむつ市、三沢市で公道での開催が中止となったため、県内で聖火ランナーが公道を走ったのは、十和田市、おいらせ町、階上町、十和田湖、八戸市のルートのみとなった。
 2日目の出発地点となった十和田市の市民交流プラザ「トワーレ」周辺には、真夏日となる暑さにもかかわらず、応援や見物に訪れた人々が多く集まり、関係者がコロナ対策のために「声を出さずに応援して」と呼びかけていた。
 午前10時13分、第1走者の金子春雄さん(70)が、トーチを手に走り始めると拍手がわき起こり、沿道の観客は手やタオルを振って応援した。中央公園の周囲2・7キロを回った聖火が十和田市現代美術館のアート広場に到着すると、市内の小学生ら約30人に拍手で迎えられた。
 聖火はその後、おいらせ町の百石高校~木内々小学校の2・5キロ、階上町の小舟渡漁港~「はしかみハマの駅あるでぃ~ば」の3・5キロ、十和田湖畔の乙女の像~観光交流センターの0・9キロを巡った。
 最終区間の八戸市では、ロンドン五輪の女子レスリング金メダリスト、小原日登美さん(40)が第1走者を務め、蕪嶋神社を出発した。最終走者は小原さんと同郷で、ロンドン五輪で同じ日に金メダルを獲得した伊調馨選手(36)。五輪4連覇を果たした伊調さんを一目見ようと、多くの人が沿道に訪れた。
 伊調さんは、沿道の市民に手を振りながらゆっくりと走った。子どもたちと家族4人で来た八戸市内に住む主婦長南愛さん(41)は「(活躍を)テレビで見て感動していたので興奮しました。コロナがなければ、もっと応援できた。でも聖火リレーを見て応援したくなりました」と話した。
 ゴール地点の館鼻漁港には、抽選で選ばれた人たちや関係者ら約700人が伊調さんを出迎え、2人が指導を受けたレスリング教室の子どもたちも伴走した。聖火皿に聖火を移した伊調さんは「感無量で、言葉にできない気持ち。楽しく走ることができました」と笑顔であいさつした。
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続いて『読売新聞』さん。

「スポーツ流鏑馬」の第一人者、ギリシャからつないだ聖火「めっちゃ気持ちよかった」

002 東京五輪の聖火リレーは、青森県内2日目の11日、十和田市から八戸市までの4市町を巡った。
 十和田湖の最終走者を務めた十和田乗馬倶楽部代表・上村鮎子さん(50)は走り終えると「晴れ渡ったロケーションで、たくさんの応援を受けて走れて、めっちゃ気持ちよかった」とすがすがしい表情を見せた。
 第2子の出産後の2000年から本格的に乗馬に取り組み、今は流鏑馬(やぶさめ)を競技化した「スポーツ流鏑馬」の第一人者として知られる。古代オリンピックもスポーツ流鏑馬も神事から発展しており、スポーツを通じて地域を明るく元気にしたいという自身の活動に通じるものを感じる。
 「ギリシャからつないできた聖火を次につないだ。その感動と経験を活動の糧にしたい」。東京五輪後は、2025年の大阪万博をスポーツ流鏑馬で盛り上げたいと考えている。これからも「人馬一体」で走り続けたい。

最後は、地方紙『東奥日報』さん。

歓喜のラン 一目でも/公道リレー 笑顔の出迎え

 東京五輪の聖火が青森県内に到着して2日目の11日、県南各地の公道を駆け巡ったランナーは熱い日差しを浴び、元気にトーチを掲げた。沿道の住民たちは集まり、大きな声援を送る一幕も。夏季五輪57年ぶりとなる一大イベントに気持ちを高ぶらせた。
 聖火リレーの最終区間となった八戸市の館鼻漁港周辺。一目見ようと沿道に多くの観客が訪れ、ランナーたちに熱い視線を送った。コース上では走者を先導するスポンサー企業の関連車が「最高の笑顔でランナーを迎えましょう」と呼び掛け。オリジナルの扇子やタオルなどを多くの観客に手渡した。
 最後の催しが行われるセレブレーション会場入り口は、五輪4大会連続金メダリストの伊調馨さん(36)の到着を見ようとする観客で混雑。午後7時40分ごろ、郷土が生んだヒロインが到着すると、沿道の盛り上がりは最高潮に達した。伊調さんと伴走した孫の応援に訪れたという同市の松田美雄さんは「この日をずっと楽しみにしていた」と感無量の様子。親子で沿道を訪れた同市白銀小6年の出貝朱(あや)さんは「二度とない貴重な場面だったし、ランナーが手を振ってくれてうれしかった」と笑顔だった。
 この日の出発点となった十和田市中心部。沿道に多くの市民が集まり、拍手や身ぶり手ぶりを交えてランナーを控えめに応援した。市民は間隔を空けて歩道に立ち、声を出さずに手を振ったり、スマートフォンのカメラでランナーを撮影したりしていた。
 前回の東京五輪が開かれた1964年に東京に就職、ブルーインパルスが青空に描いた五輪マークを見たという十和田市の米田正美さん(76)は、市街地コースの最終ランナーを迎えるイベントを観覧。「一生の思い出になる。このまま五輪をやってもらいたい」と喜んだ。
 十和田湖区間のコースでも、地元住民やランナーの家族らが応援に駆け付けた。聖火が近づいてくると大きく手を振って背中を後押しした。
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賛否両論はありましょうが、とりあえず……。

【折々のことば・光太郎】

朝弱つてゐた手桶が凍結でこはれ漏水甚しく使用できず 盥を手桶の代りに使ふ事にする

昭和22年(1947)12月14日の日記より 光太郎65歳

水は凍ると体積が膨張する、というわけですね。

昨日、東京オリンピックの聖火リレーの青森県(2日目)が開催されました。午後6時20分頃には、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」前に到着。

NHKさんの、夕方のローカルニュースから。

青森県の聖火リレー2日間の行程をすべて終える

 青森県で行われている東京オリンピックの聖火リレーは2日目の11日,十和田市やおいらせ町などの公道でリレーが行われていて、まもなく県内最後の聖火リレーが八戸市で始まります。
 青森県の聖火リレー2日目の11日は、最初のランナーが午前10時すぎに十和田市をスタートしたあと、おいらせ町と階上町をめぐりました。
 おいらせ町では前回の東京オリンピックで聖火リレーの走者の伴走を務めた一戸実さんなどが笑顔で沿道に手を振りながら走っていました。
 聖火はこのあと再び十和田市内の十和田湖周辺をめぐり、まもなく午後7時ごろから八戸市で県内最後の聖火リレーが始まります。
 八戸市では、オリンピックのレスリングで金メダルを獲得した伊調馨選手や小原日登美さんも走ります。
 最後のランナーは午後7時半ごろに館鼻漁港にゴールして、県内での行程をすべて終え、聖火は次の北海道に引き継がれます。
 県の実行委員会は、聖火リレーを観覧する場合は大声を出さずに拍手で応援したり、マスクを着用したうえで密にならないよう間隔を保ったりして、新型コロナウイルスの感染対策を徹底するよう呼びかけています。
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現地の関係者の方が撮影された画像。
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聖火到着を待つ間。沢田鶏舞倶楽部・保存会の皆さんによる「祈りの舞」。
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聖火到着。ここでの最終ランナー・十和田乗馬倶楽部の上村鮎子さんは、十和田市で受け継がれている桜流鏑馬を大きく育てた方で、十和田市のアクティビティの「顔」だそうです。
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サポートランナーである地元十和田湖中学校さんの生徒さんたちと。

司会の方のアナウンス。

乙女の像は十和田湖国立公園15周年記念として彫刻家で詩人の高村光太郎が、生涯最後に作り上げた大作です。この十和田湖の大自然に溶け込みながらも世界に向かって人間の美しさや愛、救済、命などを発信しており、平和と希望の象徴とされるオリンピック聖火と図らずも重なっています。オリンピック聖火リレーを通じて青森県が世界に誇る十和田湖の魅力を再発見、再認識していただきたいと考えております

いいですね。昨年、当方が校閲した文面です(笑)。

しかし、コロナ禍なかりせば、何の懸念もなくもっと大盛り上がりで実施できたのに、と思うと残念ですし、関係者の皆様もいろいろな配慮をせざるを得なくて大変だったでしょう。とりあえず、無事に終えることができ、喜ばしく存じます。

他の報道等でも「乙女の像」附近が報じられていましたら、明日、ご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

雪まだふつてゐる。二尺余つもる。屋根から雪がはみ出して来る。時々薄日がさしては又ふりしきる。風無し。しづかにふる雪、息をつめてふるやうに見える。
昭和22年(1947)12月13日の日記より 光太郎65歳

夜には三尺に達したそうです。

智恵子の故郷・福島二本松発のイベント情報です。

【オンライン】にほんまつで あなたのほんとうの「  」を見つけませんか?

日 程 : 2021/06/19(土)
時 間 : 13:30-15:00
場 所 : Web会議システム「Zoom」を使用します。
       Zoomの使い方につきましてはこちらの利用ガイドよりご覧下さい
料 金 : 無料
主 催 : 福島県二本松市
共 催 : 認定NPO法人ふるさと回帰支援センター

高村光太郎の妻、智恵子の出身地である福島県二本松市。「東京には空がない」「ほんとの空がみたい」という智恵子さんが想った、美しい風景が今も広がっています。

二本松市は、福島市、郡山市の間に位置する人口約55000人の都市で、安達太良山や温泉を楽しめる高原エリア、城下町の風情を残す便利な街中エリア、新規就農者も活躍している里山エリアの3つからなり、同じ市内でも様々な暮らし方が可能で、移住実績も堅調です。

今回は、元地域おこし協力隊でデザイナーの女性、テレワークで移住した子育て中の男性をゲストに迎え、移住のきっかけや、充実した暮らしについてインタビュー。当日は、キャンプ場より中継があるかもしれません。

オンラインセミナーで、ほんとうに叶えたい暮らしをみつけてみませんか?

詳細
◎二本松市移住PR動画の放映
◎先輩移住者フリートーク 「先輩移住者の話を聞いてみよう!」
【Uターン者】武藤琴美さん(ゆきしろ屋デザイナー・二本松市移住支援アンバサダー)
【子育て世代】丹治慶太さん (テレワーク勤務中)
◎二本松市の紹介など

※オンラインで質問等をお受けします。視聴のみの参加も可能です。
締め切り日 2021/06/15
お申し込み お申込みはこちらから
お問い合わせ 二本松市 秘書政策課 地方創生・新エネ推進係 電話:0243-24-7120
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似たような趣旨のイベントは以前もあり、このブログでご紹介しました。
 第1回二本松市田舎暮らし体験ツアー。(2019/6)
 智恵子の生家2階・智恵子紙絵特別公開/福島圏域合同移住セミナー。(2019/9)
ただ、コロナ禍前でしたので、その頃は実地に現地で農業体験をしたり、都内で相談会の形式で行ったり、さらにYouTube等でPR動画の公開がなされたりでした。


で、今回はZoom使用によるオンラインセミナー形式だそうで。

コロナ感染拡大で様々な「禍」が生じましたが、このようにオンライン形式でさまざまな事柄が為される体制が広まったのは、「災い転じて……」の例と言えるのではないでしょうか。ただ、何でもかんでも「オンライン」でも困りますが……。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

終日音も無く雪ふりつづく。細かきやはらかき雪、風なく静かにふりつむ。一尺余つもりたる上、尚夜に入りてもふる。明朝は相当の積雪量ならん。屋根の雪おろしせねばなるまじ。往来途絶える。


昭和22年(1947)12月12日の日記より 光太郎65歳

何気ない日記の記述ですが、詩的に感じます。のちの詩「典型」(昭和25年=1950)では、「小屋を埋める愚直な雪、/雪は降らねばならぬやうに降り、/一切をかぶせて降りにふる。」と表しています。

都下小金井市の古書店・えびな書店さんの新蒐品目録が届きました。同店、以前にもご紹介しましたが、美術系が中心で、書籍も扱っていますが、どちらかというと肉筆などの一枚物に力を入れられています。
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今号では、光太郎の肉筆色紙表装済みが出ています。
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003短歌で、「熊いちこ奥上州の山そはにひとりたうへてわれ熊となる」と書いてあります。伝統的な書き方として、濁点は省略。したがって、「いちこ」が「いちご」、「山そは」で「山そば(山岨)」、「たうへて」は「たうべて(食うべて=「食べて」の意)」です。

大正13年(1924)10月、雑誌『明星』(第二期)の第5巻第5号に「工房より」の題で発表した50首のうちのひとつです。『明星』では「山そは」は「山峡(やまかい)」となっていますが、光太郎自らが校訂をしたとされている、昭和4年(1929)刊行の『現代日本文学全集 第三十八篇 現代短歌集 現代俳句集』に再録した際に「山岨」と改訂されています。

この色紙が書かれたのも、おそらくそれほど離れた時期ではなく、大正末から昭和初め頃と推定されます。筆跡的にもその頃の特徴が表れていますし。

光太郎、明治末から戦時中にかけ、断続的に何度も上州の温泉地めぐりをしています。それもどちらかというと、人里近い温泉街は避け、山間の「秘湯」と言われるようなところを多く廻りました。『明星』にこの歌を発表した大正13年(1924)も、6月に奥上州の温泉地に行ったことが年譜に記されています。ただ、この際は具体的な行き先が不明です。

「熊いちご」は野いちごの一種。ヘビイチゴと似ていますが、もっと丈が高くなるそうです。

それにしても、惚れ惚れするような筆跡ですね。戦後の花巻郊外旧太田村での、彫刻刀で彫り込むような書と違い、あまり気負いなく、さらさらっと書いているようにも見えますが、それでも文字の配置、改行の仕方など、独特の優れた空間認識が見て取れます。

ついでというと何ですが、もう1点。少し前、今年1月にネット上に出たものですが、札幌の古書店・弘南堂さんの目録から。
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弟子屈に住んでいた詩人の更科源蔵旧蔵の、寄せ書き帳。昭和2年(1927)作の連作詩「偶作十五篇」中の2篇が書かれています。上の方が「木を彫ると心があたたかくなる 自分が何かの形になるのを 木はよろこんでゐるやうだ」、下の頁は「急にしんとして 山の匂のしてくる人がある」。

おそらく上記の「熊いちご」と、そう離れていない時期の揮毫と思われます。この書もいつまでも眺めていられそうです。

「ここにこういう光太郎の書の優品があるよ」といった情報、御教示いただけると幸いです。ただ、偽物が多いのも事実で、悩ましいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

夜土間で紙に排便。外は雪にて出られず。排便はそのまま外に持ち出す。

昭和22年(1947)12月11日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、便所は別棟で、小屋の外にありました。積雪のひどいときには、こうせざるを得なかったわけですね。

光太郎の蟄居生活、よく、「気ままでのんびりした一人暮らし」、「戦争協力への反省をしていることをアピールするポーズ」的に評したものを見かけます。豪雪の夜、土間の片隅で紙に排便をしている老いた巨軀を想像すると、当方にはそういう表現はできませんね。

智恵子の故郷・福島二本松関連の新商品等を3件。

まずは地方紙『福島民友』さんの記事から。

もちもち食感!ざくざくいなり 福島県二本松市、道の駅安達で新発売

002 二本松市の道の駅安達「智恵子の里」を運営する市振興公社は、同道の駅下り線の道ナカ食堂で、オリジナルのレトルト商品「ざくざく炊き込みご飯の素」を使った「ざくざく炊き込みいなり」(130円)を新発売した。
 ざくざくは、慶事や祭事などで食べられる同市の郷土料理。ダイコンやニンジン、ゴボウといった野菜などをざくざくとさいの目に切り、煮干しなどのだしで煮た汁物。同道の駅では食堂で提供するほか、ざくざくを取り入れたカレーやうどんなども販売している。
 新商品は、ざくざくを食べやすい創作メニューにしてさらに周知するため開発された。鶏肉やゴボウ、シイタケ、ダイコン、ニンジン、高野豆腐入りの炊き込みご飯の素を、同市産のうるち米ともち米に混ぜて炊き込みのおこわを作り、県産の油揚げに包んだ。もちもちした食感が味わえ、甘めに煮た油揚げがアクセントとなっている。1個140グラムで食べ応えもある。
 問い合わせは同道の駅下り線(電話0243・24・9200)へ。

「ざくざく」。最近は二本松の郷土料理として、大々的にアピールされるようになりました。以前はそうでもなかったのですが、地元以外の方々が「これは!」という反応を示し、地元の皆さんもその価値を再発見した、ということなのではないかと、勝手に想像しております。違ったらごめんなさい(笑)。

で、レトルトの炊き込みご飯の素。美味しそうですね。平成25年(2013)の第8回大会で1位になった「なみえ焼きそば」、翌年の第9回大会で1位の「十和田バラ焼き」のように、B-1グランプリ出場を目指しては? と思うのですが……。

続いて、やはり『福島民友』さんから。

安達東高生が作りました、オリジナル「蜂蜜」3種 道の駅で販売

004 安達東高畜産専攻班の生徒は5月31日、二本松市・道の駅安達「智恵子の里」下り線内の二本松ベーカリーで、今春採取した蜂蜜で作ったオリジナル商品「あいさつ坂~はるのそよかぜ」の販売を始めた。
 販売したのはヤマザクラとリンゴ、フジの3種類。養蜂の生産実習に取り組む畜産専攻班の2、3年生17人が5月に巣箱から採蜜した。今年は開花が早く、販売も昨年より1カ月早い。糖度は80度ほどで例年通りのおいしさに仕上がったという。今後、栗やフジと、さまざまな花の蜜でできた「百花蜜」を生産する。
 安斎息吹さん、安斎彪賀さん、中村凛々香さん、今野駿仁さんの3年生4人がヤマザクラ30個、リンゴ36個、フジ42個を納品。店頭に立ち、自分たちで作った蜂蜜を来店客にPRした。安斎息吹さんは「蜂蜜は花によって特徴が異なる。いろんな味を楽しんでほしい」と話した。
 価格は90グラム入り486円。問い合わせは同道の駅下り線(電話0243・24・9200)へ。

こちらは新商品ではなく、以前から同校で取り組んでいたものですが、季節商品ということで、今年の分の出荷、というわけでしょう。高校さんでの取り組みということは、携わる生徒さんが毎年変わっていくわけですが、伝統として受け継いでいって欲しいものです。

最後に、「共同通信」さんの関連団体「47CLUB」さんでの新商品。「47」は「47都道府県」の「47」で、52紙の地方紙が加盟する「全国の地方新聞社厳選の名産・特産・ご当地グルメ」の通販サイトです。

マグカップ そら

003「ほんとうの空」安達太良の空の色をイメージしたスカイブルーがさわやかなマグカップです。毎日お使いいただきたい商品です。

産地(最終加工地) 福島県二本松市
内容量 重さ200g
サイズ/寸法/重量 径9.5cm / 高さ7.5cm / 容量200cc
販売期間・販売数 販売数 50個
贈答用包装

中国北宋時代の青磁は、「雨過天青」と言われる雨上がりの湿った空の青色を出そうとしたものだそうですが、青磁の青よりもこちらの青の方が、「ほんとの空」(「あどけない話」昭和3年=1928)の青に近いような気がします。

それぞれぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

物音一つせぬやうに世界しづまり返り、時〻軒の雪の落ちる音がするのみなり。コンロのヤカンに湯がわいて松風の音。 何もせず、コタツにあたり、何かをよみあさる。

昭和22年(1947)12月11日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、吹雪というわけではなかったようですが、前日からの雪が屋根に20㌢以上積もっていたとのこと。雪は音を吸収しますので、ほんとうに静かだったのでしょう。いやがうえにも「自省」を強いられる日々だったのではないかと思われます。

新型コロナに振り回されてしっまたのですね……。

明治末から大正にかけ、智恵子が所属した太平洋画会の後身の太平洋美術会さん。毎年、六本木の国立新美術館さんで大規模な展覧会を行っていましたが、昨年はコロナ禍のため中止。今年は5月12日(水)~24日(月)の会期で開催できるという方向で、作品の公募、審査、そして搬入、さらに会場での展示まで済んだそうなのですが、緊急事態宣言延長の際、公立美術館等への休業要請を解除するのしないののドタバタ(5/12から再開予定が一転して5/31まで休館延長)があり、それに巻き込まれてしまって開催できずだったとのこと。関係者の皆さんの落胆ぶりが目に浮かびます。

5/12~24、今にして思えば、ピンポイントでエアポケットの時期にあたってしまったわけで、残念としか言いようがありませんね。トーハクさんで鳴り物入りで始まった「鳥獣戯画展」も影響を受けましたが、こちらはもともと会期が長い設定だったので、今月に入ってから再開できました(ちなみに常設展の方では、光雲の「老猿」、それから珍しく光太郎木彫「鯰」と「魴鮄(ほうぼう)」も出ているそうです)。
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展示の一般公開は出来なかったものの、審査まで終了していたとのことで、今年の第116回太平洋展は実施した、ということにしたそうです。

図録も制作されていまして、先日、同会事務局よりご寄贈いただきました。多謝。
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同会には、智恵子に憧れて同会に加入された、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』のご著者・坂本富江さんがいらっしゃいます。坂本さん、同展にはおおむね智恵子の故郷・二本松やその近隣地域を描いた作品を出品なさっていますが、今回も三春町の滝桜と思われる作品などを出されていました。
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それから、図録の巻末に「太平洋美術館縁の物故作家」。以前の図録では、この項は抄録的な感じで、載っている名前も少なかったのですが、同会の歴史の検証が進んだようで、ボリュームアップしていました。そして、以前はなかった智恵子の名も。
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当会顧問だった故・北川太一先生制作の智恵子年譜に拠れば、智恵子は明治40年(1907)に日本女子大学校を卒業し、太平洋画会に通い始めたとなっていますが、同会の資料では明治38年(1905)加入となっています。学生時代から通っていたということも十分考えられます。また、北川先生制作の年譜では、大正7年(1918)の項で、智恵子が彫刻制作にトライし始めた的な記述があります。この年に同会の彫刻部に加わったというのは確かなようです。

智恵子以外にも、碌山荻原守衛をはじめ、光太郎とも縁のあった名前がずらり。「えっ、この人もか」という名前もありますが、あまり詳しく書くと「お前、そんなことも知らなかったのか?」と言われそうなので、書きません(笑)。

来年以降、旧に復することを願って已みません(「いません」ではありません。「やみません」です(笑))。

【折々のことば・光太郎】

星が出ると、オリオン、大犬等の壮観、 夜半くもる。


昭和22年(1947)12月8日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。都会でも冬の星空は他の季節に比べればきれいなものですので、おそらく本当に「壮観」としかいいようのないものだったのではないでしょうか。

開催の可否自体、未だ賛否両論というところで、なかなか大々的にはご紹介しにくいのですが、東京オリンピックの聖火リレーについて。

今月10日(木)、11日(金)の2日間、青森県で聖火リレーが実施されます。国内でコロナの「コ」の字もなかった一昨年12月に発表された、当初の計画案とはだいぶ変更になり、規模をかなり縮小しての実施のようです。

6月11日(金)には、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の建つ十和田湖での開催。

『広報とわだ』今月号から。
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004午前中には十和田市役所付近の通称「官庁街通り」を進む「市街地コース」で実施され、おいらせ町、階上町を廻って、夕方から「十和田湖コース」。その後、八戸市にバトンタッチだそうです。

「十和田湖コース」、出発が十和田湖観光交流センターぷらっと。遊覧船の桟橋近くに平成26年(2014)にオープンした施設で、特産のヒメマスや、光太郎、大町桂月などについての展示が為されています(入場無料)。また、平成30年(2018)には、新たに「乙女の像」制作の際に光太郎が使用した彫刻用の巨大な回転台、青森ご出身の彫刻家・田村進氏(生前の光太郎をご存じです)制作の光太郎胸像が寄贈されました。手前味噌で恐縮ですが、内部の光太郎に関する説明パネルは当方の執筆です。そしてゴールが「乙女の像」。約0.9㌔㍍の道程です。

当初予定では、十和田湖でもミニセレブレーション(リレー走者を迎えるセレモニー)が計画されており、三村申吾青森県知事のごあいさつで、光太郎や「乙女の像」に触れられる予定でした(「これで間違ってないか」ということで、こちらにその原稿が回ってきまして、チェックさせていただきました)。また、詳細は未定でしたが、当方にも光太郎や「乙女の像」についてちらっと話をしてくれ、という依頼も。しかし、ミニセレブレーションは「市街地コース」のみ、それも関係者だけでの実施となったそうです。

同じ青森県内でも、むつ市や三沢市など10市町村では、リレーの実施が中止となったそうです。

NHKさんの5分間番組で、リレーの模様が報じられます。

聖火リレーデイリーハイライト「青森県 2日目」

NHK総合 2021年6月11日(金) 23:30〜23:35

東京2020五輪の開会式まで47都道府県を121日かけてつなぐ聖火リレー。その志あふれる走りや美しいコースの風景などその日のハイライトを5分にまとめて毎日紹介。

青森県2日目のコースはむつ市 十和田市 三沢市 おいらせ町 階上町 十和田市 八戸市。見どころは地域の人々の憩いの場であるむつ市の田名部川周辺、雄大で神秘的な自然が守られている十和田市の十和田湖など。音楽:カイト(嵐 作詞・作曲 米津玄師)。

【語り】林田理沙
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最初に書きましたように、開催の可否自体、未だ賛否両論というところで、なかなか大々的にはご紹介しにくいのですが、とりあえず……。

【折々のことば・光太郎】

葱、ハウレン草等皆雪に埋まる。 井戸のあたりの水は凍結。室内の水は朝凍り、昼間はとけきらずにゐる。


昭和22年(1947)12月5日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋での、三度目の冬。三度目とはいえ、その厳しさは変わりません。

まずは『北海道新聞』さん。一昨日の掲載でした。

卓上四季 土壇場の美

日本は建国以来、国運上の危機に不世出の大人物が現れるという。その一人が、土壇場に押し詰められたような推古天皇の時代の聖徳太子であると高村光太郎が「美の日本的源泉」に書いている▼とりわけ「日本美顕揚の御遺蹟は大和法隆寺に不滅の光を放つ」と称賛。金堂壁画は「大陸文化を摂取しながら日本独特の美の源泉を濁らしめず」と評価した。瀬戸際が浮き彫りにする人の真価だ▼それに比べて見苦しい身の処し方である。きのう議員辞職願が認められた菅原一秀前経済産業相のことだ。地元で祝儀などの名目で現金を配った疑いが報じられていた。東京地検特捜部は近く、公職選挙法違反の疑いで略式起訴する方針という▼起訴相当とした検察審査会の議決を受けた東京地検特捜部の再捜査期限が迫っていた。疑惑発覚から1年半余り。追い込まれた土壇場での辞職願だった▼菅原氏は「おわび申し上げる」というだけで説明は不十分と言わざるを得ない。国会の場で説明を尽くすべきだった▼本人は返上の意向だが、賞与にあたる期末手当の満額支給も批判の的に。過去の公選法違反事件で辞職が情状酌量による公民権停止の期間短縮につながった例もある。この期に及んでの辞職理由も説明が欠かせまい。土壇場の語源は江戸期の罪人が自らの墓穴を掘ってできる土盛り場にある。進退窮まる場面で遁走(とんそう)するようではあまりに醜い。

引用されている「美の日本的源泉」は、「日本美の源泉」の原題で、『婦人公論』の昭和17年7月号から12月号に連載された評論です。戦後、中央公論社刊の『高村光太郎選集』に収める際、光太郎の意志で改題されました。「青空文庫」さんに入っていますので、ぜひお読み下さい。引用箇所は、連載の第2回にあたる「法隆寺金堂の壁画」から採られています。
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書かれたのが戦時中、しかもミッドウェー海戦での大敗直後なので、「土壇場」の一語や、「危い、きはどい時機」、「其の禍」あたりにはそうした背景が反映されています。

コラムの後半部分で述べられている人物については、論評するのも馬鹿馬鹿しいほどなので、割愛します。一言だけ言わせていただければ、「コロナ禍」という「土壇場」、「危い、きはどい時機」に、いったい何を考えているんだか……ですね。

もう1件、光太郎には触れられていませんが、『福井新聞』さん。やはり一昨日です。

越山若水

小浜市出身の詩人で児童文学者の山本和夫さんは太平洋戦争の開戦と同時期に、ビルマ(現ミャンマー)に向かう。旧日本陸軍の報道班員で戦意高揚を求められながらも、持ち前のヒューマニズムにあふれる手記を著している▼報道班員には作家、画家らが選ばれ、同じ班員に坂井市三国町出身の小説家で詩人、高見順もいた。班員の手記をまとめ出版された「大東亜戦争 陸軍報道班員手記 ビルマ戡定(かんてい)戦」に、山本さんの「金のパゴダ」がある▼「ビルマ人の魂の故郷はパゴダである」と書き出す。パゴダは英語で仏塔のことだ。美しく輝く金の寺塔を眺めつづる。「私は戦争の破壊と悲惨のみを見に来たのでは決してない。私は日本人あるひは東洋の人の美しさを見に来てゐるのだ。私は次の時代に茂るであらう愛と平和の芽生えを見に来てゐるのだ」▼戦争末期には、朝ドラ「エール」の主人公だった古関裕而もビルマに派遣されており終戦後、自責の念にかられている。山本さんも同じく苦悩の末、児童文学の世界の扉を開く▼ミャンマーでは国軍によるクーデターから4カ月が過ぎたが、打開策は見えない。山本さんは戦後、自著の「燃える湖」で主人公の山村少尉に訴えさせている。「平和な日本を築いてくれ。おれはそういう時代がくるのを確信する」。没後25年の山本さんの願いがミャンマーにも届いてほしい。

山本和夫、光太郎と交流があり、山本の『武漢攻略戦記 山ゆかば』(昭和14年=1939)の題字を光太郎が揮毫していますし、山本が編んだアンソロジー『野戦詩集』(昭和16年=1941)に対する好意的な論評も書きました。こちらは『高村光太郎全集』解題では、当会の祖・草野心平主宰の雑誌『歴程』を初出としていますが、それ以前に『読売新聞』に発表され、『歴程』に転載されたことが判明しています。
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当方、寡聞にして戦後の山本の活動ぶりは存じませんでしたが、花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居した光太郎や、それからコラムにも名が出ている作曲家・古関裕而同様、悔恨の日々を送ったとのこと。失礼ながら、「山本和夫」、全国区では忘れられかけている名だと存じますが、故郷・福井で、顕彰の機運を高めていってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

終日雪ふる。時々霏々としてふり、遠方がけむるやうに見える。一尺近くつもる。寒さ加はる。

昭和22年(1947)12月4日の日記より 光太郎65歳

12月あたまにして、既にこの状況。やはり厳しい暮らしでした。

過日ご紹介した日本初の女性だけによる雑誌『青鞜』を創刊し、その創刊号の表紙絵日本女子大学校でのテニス仲間だった智恵子に依頼した平塚らいてうの日記について、共同通信さんの配信記事。3日ほど前、複数の地方紙等に掲載されたようです。光太郎智恵子にも軽く触れて下さいました。

元祖「#わきまえない女」、その意外な素顔とは 平塚らいてう没後半世紀、遺族が日記公開

003 女性だけの手による日本初の文芸誌の創刊、大正時代に事実婚、与謝野晶子と母子の権利について論争を繰り広げ、戦後は米国政府幹部に直談判…。すべて、女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)が実際に行ったことだ。中でも女性蔑視とは生涯闘い続けた元祖「#わきまえない女」は、5月で没後半世紀を迎えた。偏見やバッシングをものともせず、信念を貫く姿は、現代の私たちにとっても示唆に富む。最近公開された未公開日記とともに、歩みをたどった。遺族が語る彼女の素顔は、一般に思い描くイメージとは異なっていた。

▽授業ボイコット
 1886年、教育熱心な両親の元、東京で生まれた。東京女子高等師範学校付属高等女学校時代は、良妻賢母主義の教育に不満を持ち、級友と「海賊組」を結成。修身(道徳)の授業をボイコットしたこともあった。その後、17歳で日本女子大学校に進学。同窓生には、後に夫、高村光太郎の詩集「智恵子抄」で知られる長沼(高村)智恵子らがいた。
 英語や漢文、文学に関心を持つ勉強熱心な若者だったが、22歳の時に心中未遂騒動「塩原事件」を起こし、一躍有名になる。参加していた文学研究会の講師で、夏目漱石の弟子だった森田草平と家出し、栃木・那須の雪山にいたところを警察に保護されたのだ。スキャンダルとして大きく報じられ、バッシングにさらされた。
 1911年、女性だけの手による月刊の文芸誌「青鞜」を創刊し、家父長制など女性を抑圧する制度に抵抗した。創刊の辞「元始、女性は太陽であった」には同世代の多くの女性から共感の声が寄せられた。ペンネーム「らいてう」を初めて使ったのもこの時。塩原事件の後、一時、傷心の時を過ごした長野県で親しみ、心引かれた鳥の「雷鳥」から名付けた。
 パートナーは5歳年下の画家、奥村博史で、14年に「共同生活」を公表した。古い封建的な結婚制度への反発から、入籍はせず、二児をもうけた。奥村は病弱で絵はあまり売れず、家計は、らいてうの原稿収入頼み。経済的な苦労は多かった。この頃、出産、育児への国の支援の在り方について、与謝野晶子らと激しい「母性保護論争」を繰り広げた。
 「経済力を得るまでは妊娠、出産を避けるべきで、母子への特別な支援は不要」とする与謝野に対し、らいてうは「安心して産み育てるため、国に支援を求めるのは当然」と反論した。論争は「どちらの意見も大切で、対立する必要は無い」と一段落したが、らいてうにとっては、女性をめぐる社会問題に改めて向き合うきっかけになった。
 20年には市川房枝らと女性の地位向上を目指す「新婦人協会」を設立し、婦人参政権運動を展開する。戦後は平和運動にも力を注いだ。国際民主婦人連盟の副会長も引き受け、国内外に原水爆禁止や軍縮を訴えた。71年5月24日、85歳で死去した。

004▽孫が見たらいてう
 一方、肉親から見たその姿は、世間一般の「らいてう」像とはだいぶ異なる。孫の奥村直史さん(76)=東京都=は13歳まで同居し、らいてうが亡くなるまで交流があった。「身長は約145センチで同世代と比べても小柄。声は小さく内向的で言葉少ない人だった」と振り返る。奥村さんは、孫の視点から長年らいてうを研究し、5月には「平塚らいてう その思想と孫から見た素顔」(平凡社)を出版した。
 忘れられないのは、戦後、奥村さんが小学生だったころの出来事だ。板と輪ゴムで手作りしたゴム鉄砲を家の応接間に置きっ放しにしていたところ、「こんなもの置いちゃだめ。私が嫌いなものなんだから」とひどいけんまくで怒られた。「感情を強く表に出す人ではなかったから、すごく驚いた。当時は武器や軍備について、相当、過敏になっていた。孫がそうしたものに興味を持つことが納得いかなかったのではないか」
 「『女性も主体的な存在』と主張し続け、押しつけられるのを何より嫌がった。もし、らいてうが今の時代に生きていたら、東京五輪・パラリンピック組織委員会会長だった森喜朗氏の発言についても、『明治、大正の時代から何も変わってない。困ったわね』とあきれ返ったと思う」

005▽目線は世界に
 戦後、平和問題に尽力したらいてう。先日、その思いがにじむ自筆の日記が初公開された。プライベートな記載も含まれている、との理由で長年、遺族が保管したままになっていたが、孫の奥村さんの代になり、「らいてうの生涯をたどる上で貴重な資料」との思いから、公開を決めた。
 日記は48~50年の日付で小ぶりのノートに手書きで書かれていた。日々の行動記録や暮らしの様子を淡々と記す中、50年4月13日には「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない瞬間だとこの数日しきりに思ひ悩む」との記載があった。
 当時、日本は連合国軍占領下。講和条約締結に向けて再軍備も議論されていたため、戦争反対の声を上げる必要性を感じていたとみられる。
 居ても立ってもいられなくなったらいてうは、知人の女性らに呼びかけ、同年6月26日、来日中の米国国務省顧問ダレスに「夫や息子を戦場に送り出すことを拒否する」などとする声明「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」を連名で提出。当時、公職追放中だった市川房枝も全面的に協力した。
006 日記を解読した女性史研究者でNPO法人「平塚らいてうの会」会長の米田佐代子さんは、「らいてうの平和活動については『既存の政治勢力に同調した』との見方もあるが、政治的な対立に巻き込まれることなく、自ら考え、中立な立場で訴えようとしたことが日記から裏付けられた」と意義を強調する。
 声明公表日には「日本女性の意思表示を何としてもすべきだと思ひ、政治色なき何名かの婦人の賛助を得て」との記載もあった。
 日記の一部の複製は、長野県上田市にある資料館「らいてうの家」で今年10月下旬まで公開中だ。孫の奥村さんは「家に閉じこもりながらも、目線は世界に開いていた。日記を通じて、らいてうの生き方や平和への思いに関心を寄せてもらえたら」と願っている。

007当方もそう感じてこのブログに書きましたが、やはり「元祖「#わきまえない女」」ということで。そもそも、『青鞜』という雑誌名自体が、18世紀、イギリスのエリザベス・モンタギューのサロンに集まり、芸術や科学を自由に論じた女性たちが、一般的な黒いストッキングではなく、青いストッキングを穿いて「ブルー・ストッキング・ソサエティ」として世間を挑発したことに由来します(そちらが「元祖#わきまえない女」のような気もしますが)。そのエピソードが日本に紹介された当初は「紺足袋党」などと訳されていました。『青鞜』の「鞜」の字義は、厳密には「ストッキング」ではなく「くつ」なのですが、何しろ明治末、うまい漢字の当て方がなかったのでしょう。雑誌名が『青鞜』ではなく『紺足袋』にならなくて良かったと思います(笑)。

ちなみに現在のNPB北海道日本ハムファイターズさん。球団史をさかのぼると、戦後すぐ創設された球団「セネタース」に行きつきます。このセネタース、ユニフォームが青色だ008ったため、正式名称ではありませんが「青鞜セネタース」「青鞜軍」と表記される場合があったとのこと。ジャイアンツのみ現在でも「東京読売巨人軍」ですが、タイガースが「猛虎軍」、他にも「西鉄軍」、「金鯱軍」などの球団名があったそうです。「猛虎」対「青鞜」、どう考えても「猛虎」が勝つような気がします(笑)。しかし「セネタース」、かの青バットの大下弘選手が所属しており、決して弱小球団ではなかったようです。

閑話休題。らいてう没後50年のこの2021年、「#元祖わきまえない女」としての業績の数々、さらに注目されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

終日くもり、時々小雪。昨夜の積雪のとけざる上にふる。恐らく根雪とならん。

昭和22年(1947)12月3日の日記より 光太郎65歳

「根雪」。温暖な房総に暮らしている身には、無縁の単語です(笑)。

千葉県からコンサート情報です。

潮見佳世乃歌物語コンサート「智恵子抄・羽衣伝説」

期 日 : 2021年6月20日(日)
会 場 : 千葉市文化センター 6階・スタジオⅠ 千葉市中央区中央2-5-1
時 間 : 【昼の部】開場14:00/開演14:30(SOLD OUT)
      【夜の部】開場16:45/開演17:15
料 金 : 前売 4,000円 当日4,500円

出 演 : 潮見佳世乃(歌と語りと鳴り物) 
TATOO(ピアノ) 
      市川慎(箏) 小湊昭尚(尺八)


市制100周年を記念して、6月20日(日)千葉市文化センター6階 スタジオ1にて、歌物語コンサートを開催いたします。語ります物語は、千葉市の伝説「羽衣伝説」そして、高村光太郎の「智恵子抄」。歌物語で文学の名作・伝説を体感して下さい。どうかあたたかい応援をよろしくお願いいたします。只今チケット発売中です。

「歌物語」とは、父高岡良樹が創りだした、文学、演劇、音楽を融合させたこれまでにない芸能ジャンルです。琵琶法師や浄瑠璃など、物語を語る先人たちの伝統を引き継ぎながら、創作した物語に演劇的要素と音楽を取り入れ、奏でる音楽は、ジャズ、フォーク、ポップスなどを独自にアレンジしたもの。
ぜひ、この機会にご鑑賞ください。

※新型コロナウイルス感染拡大防止対策の為、定員数を減らし開催させていただきます。
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当方、潮見さんの「歌物語 智恵子抄」、2度拝聴しました。1度目は平成27年(2015)、都内大森のライブハウスで。2度目は今年3月、熱海の起雲閣さんで。どちらも素晴らしいものでした。

オリジナルの曲に乗せて、「智恵子抄」所収の詩10篇弱を、歌と語りで紡ぐという基本的な構成は変わらないのだと思いますが、今回はピアノに加え、箏や尺八と、和楽器を伴奏として演(や)られるそうです。箏は一般的な十三絃にプラスして十七絃も使ってみようか、というお話でした。当方、十七絃を使った演奏は一度、拝聴したことがありますが、単に音域が広いというだけでなく、低音域の響きがベースギターのようにしっかり支えていると感じました。

「智恵子抄」以外に「羽衣伝説」。静岡三保松原のそれが有名ですが、東京湾岸の千葉にもあったのですね。千葉県民でありながら存じませんでした(汗)。もっとも、「羽衣伝説」は日本国内だけでなく、西アジアのあたりが発祥らしく、ヨーロッパ、東南アジア、なんとアフリカや北米にもあります。そういった部分でも、非常にロマンを感じます。

新型コロナ感染症対策として、キャパを減らしての実施だそうで、既に昼の部は完売だそうですが(すみません、当方も昼の部で申し込みました(笑))、夜の部はまだ余裕があるようですし、昼の部もキャンセル等が出るかもしれません、上記リンクまでお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】

終日雨、小雪、あられ等。時々鼠出る。 朝八時頃までねすごす。


昭和22年(1947)12月2日の日記より 光太郎65歳

「朝八時頃までねすごす」。「山中暦日なし」とはいいますが、光太郎、その日の日付がわからなくなることはあっても、体内時計の時間はかなり正確で、朝寝坊はめったにしませんでした。農閑期に入り、少し気が抜けていたようです(笑)。

昨日は、新潟県長岡市に行っておりました。当方、通過したことは何度かありますが、長岡で足を止めるのは初でした。

メインの目的地は、駒形十吉記念美術館さん。
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駒形十吉は長岡経済界の重鎮で、美術にも造詣が深く、そのコレクションを収めた美術館です。

こちらでは現在「駒形十吉生誕120年  駒形コレクションの原点」展が開催中。光太郎の書や写真(それも当方未見と思われるもの)が出ているというので、拝見に伺った次第です。
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書は昭和12年(1937)、この地で「高村光雲遺作木彫展観」が開催された時のものでした。同10年(1935)に歿した光雲の作品が長岡近辺に多数あり、駒形を含む美術愛好家の団体「風羅会」が主催となって、常盤楼という料亭を会場に、一日限定で行ったものです。「駒形十吉生誕120年  駒形コレクションの原点」展を報じた新聞記事から画像を採りました。
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書き下すと、「ちちよけふ子は長岡のはつなつにいとどこほしくおん作を見し」。同作は『高村光太郎全集』第11巻に掲載されていますが、そちらでは「父」「初夏」が漢字表記です。お話しさせていただいた同館学芸員さんによると、「風羅会」メンバーそれぞれに色紙を贈ったというので、表記の異同があったのでしょう。

光太郎写真は2種類展示されており、そのうち同じ記事に掲載されたのがこちら。
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「高村光雲遺作木彫展観」の2年後、長岡を再訪した折の撮影です。場所はキャプションのとおり、長岡市郊外の悠久山公園にある蒼柴(あおし)神社さん。

もう1枚は、おそらく「高村光雲遺作木彫展観」の際、会場となった常盤楼の庭(?)で撮影された立ち姿の写真でした。

双方、撮影は松木喜之七。駒形と同じく「風羅会」メンバーで、光太郎に「鯉」の木彫を依頼した人物です。しかし「鯉」は完成せず、光太郎は代わりに「鯰」を贈りました。松木は写真撮影も趣味としていたそうです。

それから、「高村光雲遺作木彫展観」について報じた当時の地方紙『北越新報』の記事コピーも展示されていました。光太郎の談話が掲載されており、『高村光太郎全集』未収録のもので、驚愕しました。学芸員さんに頼み込んで、コピーを頂きました。来年4月発行の『高村光太郎研究』所収予定の当方の連載「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』遺漏作品の紹介)に全文を掲載します。

また、その記事には不鮮明ながら「高村光雲遺作木彫展観」会場内の写真も。これも初見で、興味深く拝見しました。

さらには展示のキャプションの中に、駒形の著書の中に光太郎に関する記述がなされているものがある、的な記載があり、帰ってから早速当該書籍を注文しました。

そんなこんなで、予想外の大収穫でした。

駒形十吉記念美術館さんに行く前、かつて常盤楼や松木喜之七宅のあったであろう辺りを廻りました。ところどころに古そうな建物も残ってはいましたが、明治・大正という感じではありませんでした。それもそのはず、この辺りが太平洋戦争時に空襲の被害が最もひどかったようでした。
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ちょうどその一角に、山本五十六記念館や、山本記念公園。山本五十六もこの地の出身で、駒形の兄は山本と同級だったそうです。美術館にも山本の書が複数展示されていました。ちなみに光太郎、戦時中の翼賛詩「提督戦死」(昭和18年=1943)、「山本元帥国葬」(同)などで山本を謳っています。

ちなみに戦争といえば、先述の松木喜之七。大戦末期に、もういい年だったにもかかわらず根こそぎ動員で徴発され、台湾沖で戦死したとのことです。光太郎は戦後になってその追悼文を書いています。

時間軸が行ったり来たりになりますが、駒形十吉記念美術館さん拝観のあと、長岡駅前から路線バスで悠久山に足を運びました。光太郎、昭和12年(1937)と同14年(1939)の2度の長岡来訪で、共にここを訪れています。
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小高い丘のような形状で、途中に蒼柴(あおし)神社さん。上記光太郎写真はここで撮影されています。
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例によってこの地の鎮護、自分のためには道中安全を祈願しました。

かたわらに「忠犬しろ神社」。長岡藩のお殿様の愛犬「しろ」が祀られていました。長岡と江戸を自主的に往復したという凄いわんこです。
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4月に17歳で逝ってしまった柴犬系雑種の愛犬を思い出し(決して「忠犬」ではありませんでしたが(笑))、「そっちにうちの犬が行ったので、よろしく」と手を合わせて参りました。

神社のさらに先、標高の高い所には、芝生の広場や小動物園、郷土資料館など。
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コロナ禍のためでしょうか、いずれも閉鎖中でした。

光太郎に「悠久山の一本欅」という随筆があります。2度目の長岡来訪のあとに書かれたもので、芝生広場のあたりで見事な欅の大木を見て、感動したという内容です。非常に目立つ独立樹だというので、探してみたのですが、それらしき木は見つかりませんでした。欅(と思われる木)は何本かあったのですが、光太郎の記述とは合いません。
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まぁ、それにしても、常盤楼のあった辺りもそうですが、80余年前、光太郎もここを歩いたのだ、と思うと、感慨深いものがありました。

この後、またバスで長岡駅まで戻り、帰路に就きました。長岡には、光太郎のブロンズを展示しているという菊盛記念美術館さんもあるのですが、そちらは割愛しました。

同じ新潟には、智恵子の足跡も残っていますし、智恵子の実家の長沼酒造を興した祖父の長沼次助は田上がルーツです。光太郎も長岡以外に赤倉や直江津、さらに佐渡にも足を運んでいます。いずれそうした関係の場所も、廻ってみたいと思っております。

以上、新潟レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

藤島宇内氏来訪。今日花巻着、関登久也氏宅に寄りて来りし由。十字屋よりバタ半斤。昭森社森谷氏よりサントリーヰスキー一本托されしとて持参。


昭和22年(1947)11月30日の日記より 光太郎65歳

藤島宇内は、当会の祖・草野心平の『歴程』同人。のちに光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作(昭和27年=1952~同28年=1953)に際し、いろいろ骨折ってくれました。この日が戦時中以来の久闊でした。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数出版して下さっている文治堂書店さん。そのPR誌的な『とんぼ』の第12号が届きました。
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当方の連載「連翹忌通信」が掲載されています。

そうそうネタがあるわけでもなく、これまでの光太郎智恵子らに関する新しい発見等で、このブログでご紹介してきたことを再編して書かせていただいております。ブログとPR誌と、どうも読者層も異なる部分があるようですので、それもありかな、と、勝手に決めております(笑)。

拙稿は、前号から継続で、光太郎塑像彫刻の代表作「手」(大正7年=1918)に関して。前号では、昨年発見しました、大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』第3巻第1号に掲載された、光太郎の「手紙」という文章について。彫刻「手」制作時、リアルタイムで自作について述べた文章でした。

今号では、さらに同じく昨年、やはり「手」について書かれた、昭和2年3月1日発行の雑誌『随筆』第2巻第3号掲載の「手」という文章について書こうかとも思ったのですが、そちらは次号に回し、『白樺』での仲間だった有島武郎と「手」について書きました。有島は「手」を入手、自殺(大正12年=1923)直前にはそれをことのほか愛でていました。この「手」は、有島没後は親しかった秋田雨雀の手に渡り、さらに現在は竹橋の東京国立近代美術館さんに収められ、時折、常設展示で出ています(今日現在も)。有島と「手」について、くわしくはこちら

他に、光太郎と交流のあった詩人・野澤一の子息で、『とんぼ』に寄稿されたこともある、野澤俊之氏の追悼文が掲載されています。ご執筆は、野澤氏と親しかった、野澤一研究家の坂脇秀治氏です。

ご入用の方、文治堂さんのサイトまで。頒価500円だそうです。

【折々のことば・光太郎】

昨夜も雪、朝小雪時々日影さし、又吹雪のやうになる。 穴掘りむつかしく思はれるにつき阿部弘さんにハガキを書き、林檎苗移植は来年にのばしてくれるやうたのむ。

昭和22年(1947)11月27日の日記より 光太郎65歳

「阿部弘」は「阿部博」の誤りです。阿部は宮沢賢治の教え子で、花巻での林檎栽培普及に大きく貢献た人物です。光太郎の山小屋前に、林檎の苗を植えたらどうか、と、提言していました。

5月30日(日)、目黒の「反転する光」展会場を後に、南青山に向かいました。次なる目的地は、銕仙会能楽研修所さん。こちらで「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝見・拝聴して参りました。


南青山ですので、瀟洒な建物が建ち並び、道行く人々も一様にシャレオツ、走る車もポルシェにアウディにフェラーリにBMW(笑)。その一角に突如、古風なたたずまい。しかし、さほど違和感はありません。
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この2階に能舞台。ここは異世界、という感じではありました。
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こちらがプログラム。
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基本、観世流シテ方の山本順之氏を中心に据えた構成で、氏が地謡(じうたい)の名手であらせられることから、謡がメイン。したがって、面を付けての能楽はありませんでした。

プログラムの最初が、いきなり「連吟 智恵子抄」。昭和32年(1957)、武智鉄二構成演出、観世寿夫らの作曲・作舞で演じられた「新作能 智恵子抄」が元になっています。「新作能 智恵子抄」は、光太郎詩歌10篇から成っていました。「僕等」、「樹下の二人」、「あどけない話」、「人生遠視」、「風に乗る智恵子」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「山麓の二人」、「レモン哀歌」、「荒涼たる帰宅」、そして短歌「光太郎智恵子はたぐひなき……」。このうち、「風に乗る智恵子」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、短歌「光太郎智恵子はたぐひなき……」が、山本氏を中心とした5人の方々の連吟で演じられました。
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日本の古典芸能には、西洋音楽のようなハーモニーという概念がないため、西洋音楽風に言えばユニゾン。しかし、5人の声質は全く同一ではないため、それが合わさることで太い川(たとえば阿武隈川)の流れのような、あるいは寄せては返す波(まるで九十九里浜)のような、そんな感じでした。そして、最初から最後までトゥッティーではなく、要所要所はソロ。それが全体の流れに変化をもたらし、メリハリがきちんと付いています。また、皆さん、当然のように暗譜。以前、アマチュア音楽活動をしていた頃、楽譜を見ながらでなくては不安でしょうがなかった自分が恥ずかしくなります(笑)。

ちなみに5人のうちのお一人、清水寛二氏は、先月、江戸川区のタワーホール船堀さんで開催された「もやい展2021東京 3.11から10年 語り継ぐ命の連綿」のステージパフォーマンスの部でも、「智恵子抄」の朗誦をなさいました。
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上記画像は、以前に入手した西洋音楽の楽譜に当たるもの。素人の当方、これを見てもよくわからなかったのですが、実際に初めて聴いてみて、なるほど、そういうことかと得心しましたし、これは凄い、と感動しました。

また、プログラムと共に受付で頂いた資料には、「新作能 智恵子抄」についての解説がかなり詳しく載っており、興味深く拝読しました。
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さらに、第二部の山本氏と竹本幹夫氏(能楽研究者、早稲田大学名誉教授)の対談の中でも、「智恵子抄」に触れられ、そちらも「なるほど」でした。例えば、「新作能 智恵子抄」では、どちらかというとシテが智恵子、ワキが光太郎だったものが、抽出して演じられる舞囃子などの形式ではそれが逆転するとか。ダイジェスト版の舞囃子としてもあまり演じられる機会が多くなく、いい作品なのに残念と思って、今回のプログラムに入れられたとか。

ただ、解説に「能形式での再演はなく、すべて舞囃子、能舞という部分演奏形式で……」とあるのですが、手元の資料に拠りますと、平成9年(1997)7月24日、赤坂日枝神社で行われた「日枝神社薪能」の中で、「新作能 智恵子抄」全体が演じられたという記録があるのですが……。

他の演目は、やはり新作系で芥川龍之介の未発表詩に曲を付けた「相聞」(山本氏独吟)、後進の方々を交えた仕舞(面を付けない演舞)で古典作品の「嵐山」「西行櫻」「井筒」「天鼓」、闌曲(らんぎょく)「玉取」(山本氏独吟)。そして第二部が対談でした。

山本氏、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)のお生まれですので、御年82歳。失礼ながら、張りのある謡のお声も、ピタリと頭を動かさない舞の所作も、それを感じさせないものでした。さすが重要無形文化財保持者と思いました。

終演後、山本氏や清水氏とお話しさせていただこうかとも思ったのですが、意外と観客が多く、密の状態が怖いので、早々に失礼しました。

今後、できれば「智恵子抄」全10曲を聴いてみたいものですし、やはり「新作能 智恵子抄」として観てみたいとも思いました。そうした機会があることを期待いたします。

【折々のことば・光太郎】

宮崎稔氏に千円小為替送り置きて買物に備ふ。油脂類を頼む。ラケットの値段を問合せる。フタバヤ指定。


昭和22年(1947)11月3日の日記より 光太郎65歳

「宮崎稔氏」は、智恵子の最期を看取った智恵子の姪で看護婦だった春子の夫。茨城取手在住で、岩手では入手出来にくいものなどを、このようにして送ってもらっていました。

で、唐突に「ラケツト」。調べたところ確かに「フタバヤ」というテニス用品メーカーがかつてあり、そこの製品のようです。なぜ岩手の山中で、数え65歳の光太郎がテニスラケットを必要としていたのかと思ったら、自分のためではなく、村の青年達に寄付するため、と、書簡に記載がありました。なぜ「フタバヤ指定」かは謎ですが。

さしもの光太郎でも「エア・ケイ」はできなかったでしょう(笑)。

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