2021年05月

昨日は、およそ1ヶ月ぶりに都内に出ておりました。

まずは目黒。現代アートのインスタレーション、毒山凡太朗氏の「反転する光」を拝見。
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会場は「LEE SAYA」さん。目黒不動さんのすぐ近く、元は一般の商店だったような建物を、ギャラリー的な展示スペースにしたといった感じでした。

毒山さんのインスタレーション拝見は、平成27年(2015)、いわき市で開催された「今日も きこえる」以来、2度目でした。

今夏開催される予定の、福島の帰還困難区域ツアープロジェクト「IGENE」のプロモーションを目的としており、福島出身の智恵子、その夫・光太郎が象徴的に使われています。
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富岡町の「夜の森」をあしらった「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」。このゲート、いろいろな意味で、原発事故の象徴として使われていますね。
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光太郎筆跡による青い文字は、LEDでしょうか、ネオンでしょうか、とにかく明滅するように出来ています。
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ちなみに、元ネタの光太郎筆跡はこちら。大正3年(1914)、詩集『道程』出版に際し、版元の抒情詩社に送られたものです。
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「夜の森」周辺、昨年には「帰還困難区域」から「特定復興特定復興再生拠点区域」に変更になりましたが、まだ海側には「帰還困難区域」が残っているようです。
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それにしても、ネット検索で上記の地図にたどりつくまでに、ものすごく苦労しました。古い情報がずっと残っていたり、せっかく見つけたと思ってアクセスしてもなかなかダウンロードされなかったり……。当方の検索の能力不足や古いPCを使い続けているためなのでしょうが、何だか「陰謀論」的に情報の隠蔽がなされているんじゃないかと、下衆の勘ぐりをしたくなりました。

結局、撤去されたゲートもあれば、新設されたゲートもあるようで、現状、どうなっているのかよくわかりません。そういった意味で、現状を知ってもらいたいと、帰還困難区域のツアープロジェクト「IGENE」ということなのかもしれません。

さて、他の作品。
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パンフにあるように「福島を代表する作家の高村智恵子に、ひとしおの思いを寄せる毒山が、「レモン哀歌(智恵子抄)」を手がかりに新作群を発表」というわけで、映像作品「Energy」及びオブジェ「Energy[capri]」。

パンフの表紙や公式サイトのサムネイル的にに使われている、花巻高村山荘脇の便所「月光殿」の透かし彫りをモチーフとした作品。
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今回のインスタレーション全体のタイトルと同じく、「反転する光/Reversing Light」と題されています。
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人里離れた山奥の薄暗いトイレの中から、「反転した光」の先に映る「反転した社会」を、彼はどのような思いで眺めていたのだろうか」。そういう思いからのネーミングだったのか、と、納得しました。

戦時中の「覆滅鬼畜米英」から、戦後の「明るい民主主義」と、180度「反転」した社会の中で、7年間の蟄居生活を送った光太郎。それでも「反転」した社会の先に、「光」を追い求めたのではないかと思われます。

未だに「原子力 明るい未来の エネルギー」と信じている(そこから脱却できない、または脱却したくない、あるいは脱却するわけにはいかない)人々の多い多い中、さらに「コロナ禍」という新たな災厄の中、どんな「反転」が、この後起こるのか、起こらないのか、いろいろと考えさせられる展示でした。

会期は6月20日(日)まで。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

当方、この後は表参道の銕仙会能楽研修所さんに移動。「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝見して参りました。そちらは明日。

【折々のことば・光太郎】

夜コタツ、宮本百合子の「道標」(「展望」十月号)をよみかける。


昭和22年(1947)11月20日の日記より 光太郎65歳

作家・宮本百合子(明32=1899~昭26=1951)は、焼失した本郷区駒込林町25番地の光太郎アトリエ兼住居のすぐそば(同21番地)に住んでいました。

「道標」は、雑誌『展望』昭和22年(1947)10月号から同25年(1950)12月号まで連載された長編小説です。

3日程前の『岩手日報』さん。

【花巻】挑戦する人から刺激

 花巻支局に着任した初日、支局駐車場の前でキツネを見掛けた。JR花巻駅近くの市街地にもかかわらず、ひょっこり現れた野生動物。驚きと共に、これまでに出合ったことのない新たな土地だと再認識させられ心が躍った。
 県内で暮らした市町村は花巻市で5カ所目。温泉や食事に何度も訪れているが、勤務するのは初めて。周囲からは保守的な町と聞いていたが、着任間もなくから既存の施設や文化を生かして新たな挑戦をする人に出会い刺激を受けている。
 同市東和町では、空き店舗で多様な店が定期的に出店し起業家も育成するイベントが開催されている。発案者らは、今後も多様なアイデアで市内外から集客する計画だ。
 さらに中山間地で地元住民が運営するスーパーの開業、彫刻家で詩人の高村光太郎を顕彰する女性たちによる起業など従来の考えに縛られない新しい動きが活発化している。
 宮沢賢治の作品に「雪渡り」という童話がある。キツネに対する古い考えを払拭(ふっしょく)するために、子ギツネが人間の子どもたちを啓発しようとする物語だ。
 伝統や文化が色濃く残る地が、どのように変わっていくのか-。作品に描かれた情景のような真っ白な気持ちで見つめていきたい。

花巻市で起業された「やつかの森LLC」さんが紹介されています。合わせてこちらもご覧下さい。
「やつかの森LLC」さん。
光太郎の食卓再現。

それにしても、『岩手日報』さんの花巻支局、まさしく花巻駅に近く、大通りに面している場所ですが、令和の現代でも、あんな立地のところにキツネが現れるのか、と思いました。花巻、おそるべしですね(笑)。
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記事にもある宮沢賢治の童話に、キツネがよく登場しますが、花巻で生まれ育った賢治にとってはなじみ深い動物だったということなのでしょう。

光太郎が戦後の7年間を暮らした、郊外旧太田村の山小屋周辺は、光太郎がいた当時からキツネが生息していましたし、今も普通にいるようです。
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こちらは上記「やつかの森LLC」さんのサイトから。光太郎が暮らした山小屋近く、キツネだそうです。

光太郎詩にも、キツネがたびたび登場します。

部落の畑の尽きるあたり、/狐とマムシの巣だといはれる草場の中に/クリの古木にかこまれて/さういふおれの小屋がある。(「山口部落」昭23=1948)

金毛白尾の狐さへ/夕日にきらきら光りながら/小鳥をくはへて畑を通る。(「別天地」同)

また狐が畑を通る。/仲秋の月が明るく小さく南中する。(「月にぬれた手」昭25=1950)

変らないのはウグイス、キツツキ、/トンビ、ハヤブサ、ハシブトガラス。/兎と狐の常連のほか、このごろではマムシの家族。(「山のともだち」昭27=1952)


当方、野生のキツネにお目にかかったことは、おそらくありません。ただ、生活圏内でタヌキはしょっちゅう見かけます。

一度、夜間に狭い道で車を走らせていたら、道の真ん中に亀の子ダワシのような形状、大きさのものが5、6個。「誰が何のために道のど真ん中にタワシを置いてんだ?」と思いつつ近づくと、タワシたちがむっくり起き上がり、道の端へとことこと移動。何と、子ダヌキの群れでした(笑)。

その他、愛犬の散歩中に出くわしたこともたびたび。

すると、2週間程前、自宅兼事務所の庭にも現れました。
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ただ、タヌキにしてはちょっとシュッとした体型で、あとになってから「もしかするとアナグマかも」とも思いました。目の周りが黒いのは共通していまし、また、完全にアナグマと思われるやつにも、一度、自宅兼事務所の近くで遭遇しましたし。どちらなのか、判断が付きませんでした。

いずれにしても、自宅兼事務所の敷地内で見たのは初めてでした。以前は柴犬系雑種の愛犬が庭にいたので、恐れて近づかなかったのかもしれません。愛犬は先月、17歳で逝ってしまいましたので……。

ちなみに自宅兼事務所周辺では、他にもイノシシ、野ウサギ、イタチ、それから一部で「幻の蛇」と言われているシロマダラと思われるヘビなどにでくわしました(笑)。

上記動物の画像、Facebookに上げたところ、智恵子の故郷・二本松在住の方から、うちの近くにもいるよ、的なコメントが寄せられました。すると、1週間程前、公益財団法人福島県観光物産交流協会さんの観光情報サイト「ふくしまの旅」に、智恵子生家にほど近い上川崎地区のタヌキ情報がアップされたりもしました。

光太郎や賢治が愛した、この手の野生動物が普通に歩いている自然環境、残していきたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

初雪、昨夜より降り始め午前中はチラホラシ、午后やみ、日も出る。


昭和22年(1947)11月12日の日記より 光太郎65歳

11月中旬に初雪とは、これも花巻恐るべし、ですね(笑)。

NHK Eテレさんで放映中の「にほんごであそぼ」。「日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。」というコンセプトです。時折、光太郎詩を取り上げて下さっていますが、来週の放映でも。

にほんごであそぼ「祭りのかけごえ」

NHK Eテレ 2021年6月3日(木) 17:00~17:10(3月29日から放送時間が変わりました 木・金は夕方のみの放送となります。)

今回は、阿波踊りの掛け声をご紹介します。ほかに、博士と助詞/僕の前に道はない「道程」高村光太郎、あいだのじいさん/砂糖と塩のあいだ、はんじえ/おむすび→ごぼう、名文を言ってみよう!/雨ニモマケズ、うた「しったかぶり」。
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「道程」(大正3年=1914)は、これまで、子役さんたちの朗読や、坂本龍一さん作曲の歌で取り上げられてきましたが、どんな感じになるのでしょうか。

ところで、同じ番組で少し前に当会の祖・草野心平の詩「誕生祭」に、尺八奏者の藤原道山さんが作曲した歌が取り上げられました。


7:27頃から。

この歌について、『山形新聞』さんが一面コラムで紹介しています。

談話室

▼▽〈びがんく/びがんく〉〈があんびやん/があんびやん〉―。NHK・Eテレの子ども向け番組でオノマトペだらけの一風変わった歌を耳にした。草野心平の詩「誕生祭」の後段にある擬音部に曲を付けたものだった。▼▽草野は「蛙(かえる)の詩人」と呼ばれるほど蛙の世界をテーマにした作品を作り続けた。この詩もその一つだ。金だらいのような月が昇る頃、生まれたことを祝う蛙たちの歓喜の合唱が水辺に響き渡る場面を表現したとされる。詩人は交錯する鳴き声を独特の感性で言葉に変換した。▼▽26日夜、3年ぶりに日本で皆既月食が観測された。夜空に目を凝らした方も多かろう。筆者も自宅近くの田中でその時を待った。薄い雲が広がり、おぼろな月影が食によるものかどうか判然としない時間が続いたが、雲が切れると田の水鏡にも赤銅色の月が小さく浮かんだ。▼▽〈蛙よ/口笛をふいて/寂しい月蝕(しょく)をよべ/花火をかこんで/青い冷や酒を傾けよう〉。草野はこんな詩も書いている。騒々しい蛙の声に囲まれての観測は約30分で終了。〈びがんく〉とも〈があんびやん〉とも聞こえなかったが、天体ショーを喜んでいるふうではあった。

ありがとうございます。

皆既月食の件にも触れられていますが、都内ではほぼ見えなかったようです。すると、Facebookやtwitterでは、「東京に空が無い」と、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)にかけた投稿が散見されました。喜んでいいのかどうか(笑)。

さて、「祭りのかけごえ」の回、ぜひご覧下さい。それにしても、「3月29日から放送時間が変わりました 木・金は夕方のみの放送となります。」だったのですね。以前は平日の毎朝夕、2回放送だったのですが。

001【折々のことば・光太郎】

岩田豊蔵氏の息来訪。(自転車)、「雑草社」の看板の字を持参の朴の板に書く。草といふ字を間違へしにより、も一度削つて持参の事をたのむ。


昭和22年(1947)11月9日の日記より 光太郎65歳

「岩田豊蔵氏」は、宮沢賢治の妹・シゲの夫。アマチュア洋画グループ「雑草社」を結成し、光太郎にその看板の揮毫を頼みました。しかし、光太郎、「草」の字の最後の縦棒を「日」の部分から突き抜けさせてしまい、「また書くから削って消してきてくれ」。

翌年、もう一度書いたのですが、やはり「草」の字を書き誤りました。結局、「これはこれでおもしろい」と、開き直り(笑)。現物は現在、花巻高村光太郎記念館さんに所蔵されています。

いわゆる「ゲシュタルト崩壊」を起こしたのではないかと思われます。




当会顧問であらせられ、昨年1月に亡くなった、故・北川太一先生最後の御著書『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』を前面に押し出すチラシが完成したそうで、版元の文治堂書店さんからメールでPDFファイルが添付されてきました。
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もう1冊、一昨年刊行の『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』も紹介されています。

裏面下部が注文用紙となっており、「郵送かFAX又は電子メールでお送り下さい。◆本ご注文用紙でご注文の場合に限り、送料弊社負担とさせていただきます。」だそうです。上記画像、プリントアウトしてお使い下さい。電子メールの場合はスキャンするなりしてくれということでしょうか。

ついでに云うなら、「◉上記①②以外の書籍をご希望の場合は下記に書籍タイトル及び注文冊数をご記入の上、お送り下さい。」とのことです。それぞれ平成27年(2015)刊行の『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』も、北川先生のご著書。この機会にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

途中紅葉の山々美し。山口山の雑木の紅葉殊にめざまし。早池峰も遠くかすんでゐる。

昭和22年(1947)11月4日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、片道4㌔㍍ほどの隣村の郵便局に歩いて行った際の記述です。「山口山」は、山小屋裏手の低山群の総称です。
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昨日もちらっとご紹介しましたが、都内北区の田端文士村記念館さんでの展示です。

心豊かな田端の芸術家たち

期 日 : 2021年6月1日(火)~9月19日(日)
会 場 : 田端文士村記念館 東京都北区田端6-1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日と水曜日が休館)
      祝日の翌日(祝日の翌日が土・日曜日の場合は翌週火曜日が休館)
料 金 : 無料

田端は、明治中期より若い芸術家たちが集うようになり、やがて“芸術家村” を形成しました。「創作」と「生活」という二つの環境を共有した芸術家たちの間には、絵画・彫刻など、表現方法の枠を超え、豊かな交流が育まれていきます。
本展では、田端ゆかりの芸術家たちが生み出した作品の数々と、田端での暮らしぶりについてご紹介します。
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田端は、光太郎の住居兼アトリエのあった駒込林町にほど近く、光太郎や父・光雲らゆかりの人物が多数居住していました。そのうち、主に美術方面の人々の交友関係等に着目した展示のようです。

フライヤーの人物相関図にある人々と、光太郎等との関わりを簡略に記すと、以下の通り。

石井柏亭(明15=1882~昭33=1958)
画家。光太郎とは「パンの会」などで親しく交流。明治期、「地方色」のあり方を巡って光太郎と論争、光太郎が「日本初の印象派宣言」と言われる評論「緑色の太陽」(明43=1910)を書くきっかけを作りました。

石井鶴三(明20=1887~昭48=1973)
彫刻家。柏亭の弟。戦後、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れています。信州安曇野の碌山美術館開館に向け、光太郎の協力を仰ぎました。

小穴隆一(明27=1894~昭41=1966)
画家。どういったつながりがあったのか不明なのですが、光太郎から小穴あての書簡(昭和21年=1946)一通が、『高村光太郎全集』に収録されています。その時期、小穴も岩手に疎開していたようです。小穴は芥川龍之介著作の装幀で有名ですが、宮沢賢治著書の挿画も手がけており、あるいはそういった関係かもしれません。

小杉放菴(明14=1881~昭39=1964)
画家。彫刻も行い、大町桂月・武田千代三郎・小笠原耕一の「十和田の三恩人」顕彰のために作られた光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称乙女の像)」(昭27=1952)制作に先立ち、十和田湖に近い蔦沼の薬師堂の本尊薬師如来像(光太郎も拝観)、大町桂月像を制作しました。大正11年(1922)には、大町桂月に伴われて十和田湖周辺を歩いています。

村山槐多(明29=1896~大8=1919)
画家。光太郎はその特異な才能に注目し、「火だるま槐多」と称しました。

山本鼎(明15=1882~昭21=1946)
版画家。村山槐多の従兄。東京美術学校卒。新詩社、パンの会、琅玕洞などで光太郎と縁。母は光太郎の朋友・北原白秋の妹。

南薫造(明16=1883~昭25=1950)
画家。東京美術学校西洋画科卒。明治末、ロンドンで共に留学生仲間だった光太郎と親しく交わりました。

板谷波山(明5=1872~昭38=1963)
陶芸家。東京美術学校彫刻科卒。在学中、光雲に師事しました。

香取秀真(明7=1874~昭29=1954)
鋳金家。光太郎の実弟・豊周の師です。

香取正彦(明32=1899~昭63=1988)
鋳金家。秀真の子息。豊周の盟友。豊周と共に日本鋳金家協会を立ち上げました。

建畠大夢(明13=1880~昭17=1942)
彫刻家。京都市立美術工芸学校を経て東京美術学校彫刻科に編入し、光太郎と面識がありました。

建畠覚造(大8=1919~平18=2006)
彫刻家。大夢の長男。東京美術学校彫刻科卒。昭和47年(1972)、最後の高村光太郎賞を受賞しました。

とりあえず、人物相関図にある人々と光太郎一族の関わりで、思いつくのはこんなところです。精査すればまだあるかもしれませんが。

また、今回は造型美術方面の人々にスポットを当てているので、相関図にはありませんが、室生犀星、萩原朔太郎、平塚らいてうなども田端文士村の一員で、光太郎と関わった面々です。彼等は常設展示等で詳しく紹介されているのでしょう。

東京都の緊急事態宣言、どうも延長の方向だそうで、この展示もどうなるか未定ですが、一応、紹介しておきました。

【折々のことば・光太郎】

夕方弘さんタバコ葉持参、もらふ。


昭和22年(1947)11月2日の日記より 光太郎65歳

「弘さん」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓地に入植した青年。「タバコ」は配給でしょうか。あるいは「葉」とあるので、製品化されていない葉っぱでしょうか。そうだとすると違法行為ですが、戦後の混乱期、そういったことがあったかもしれません。

光太郎、喫煙を始めた年齢は早くありませんし(40代?)、最終的にはやめていますので大好きとかヘビースモーカーではありませんでした。それでもキセルやパイプに火を付けているところの写真が残っていたりします。

没後50年を迎えた平塚らいてう(智恵子の先輩)について、昨日のこのブログで、最近の報道、新聞複数紙の一面コラム等をご紹介しましたが、昨日、『山陽新聞』さんでも一面コラムでらいてうを取り上げました。

滴一滴

「わきまえない女」の先駆者だろう。平塚らいてうが、女性だけで作る日本初の文芸雑誌「青鞜(せいとう)」を立ち上げたのは25歳のとき。有名な創刊の辞は一晩で書き上げたものという▼〈元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依(よ)って生き、他の光によって輝く、病人のやうな蒼(あお)白い顔の月である〉▼110年前の明治期の終わり。控えめで自我を持たないことが女性の美徳とされた時代である。高らかに自立を呼び掛けて女性たちの共感を得たものの、猛烈な批判も浴びた。「社会の風紀を乱す」と雑誌が発禁処分になったこともある▼らいてうといえば、女性解放運動家で強い人というイメージだが、孫の奥村直史さんの著書を読むと印象が変わった。身長約145センチと小柄。物静かで、大きな声を出すのが苦手だったという▼そんな実像とは違い、残された文章はいま読んでも力強い。世の中を変えるためには沈黙していてはいけないと、声を上げる勇気を持ち続けた人なのだろう。女性参政権運動や平和運動に力を注ぎ、1971年5月24日、85歳で亡くなった。没後50年になる▼社会はどこまで変わったろうかと考えさせられる。コロナ禍で浮き彫りになったのは非正規雇用が多い女性の苦境である。沈黙していてはいけない問題が社会にはまだまだある。

当方、昨日のブログには「元祖「#わきまえない女」とでもいいましょうか」と書きましたが、やはりみなさん、同じように感じるのですね。

一面コラムといえば、遡って今月9日(「母の日」)の『毎日新聞』さん。らいてうがメインではありませんが。

余録

親しみやすいメロディーの「おたまじゃくしはカエルの子」。原曲は南北戦争の北軍愛唱歌「リパブリック賛歌」だ。「グローリー・グローリー・ハレルヤ」の歌詞に聞き覚えがある人も多いだろう。作詞した女性詩人、ジュリア・ウォード・ハウは米国で「母の日」を提唱した先駆者だ。戦争後、夫や子を二度と戦場に送らないと「母の日宣言」を発表した▲同時代に「母の日ワーククラブ」と名付けたボランティア組織で、乳児の死亡率低減や戦傷者救済に取り組んだ女性社会活動家がアン・ジャービスだ。その娘のアンナが「母の日」の創設者とされる。母の遺志を継いで政府を動かした。1914年にアンの命日(5月9日)に近い5月第2日曜が「母の日」と定められた▲イラク戦争で息子を亡くして米軍撤退を求め「反戦の母」と呼ばれたシンディ・シーハンさんは、平和を希求したハウ以来の女性の活動を「母の日の永続的な遺産」とたたえた▲日本の女性運動の草分けで、戦後は平和運動に取り組んだ平塚らいてうも「母こそ平和の力です」と訴えた。子を思う母の気持ちは世界共通だ▲だが、紛争地では今も受難が続く。軍事クーデターが起きたミャンマーでは多くの子どもが国軍の弾圧の犠牲になった。対テロ戦争の舞台となったアフガニスタンでは乳児が20人に1人の割合で命を落としている。実に日本の25倍だ▲日本は戦後、平和を享受してきた。コロナ禍の「母の日」。改めて平和の意義を考える機会にしてはどうだろう。

なるほど、という感じです。

らいてう没後50年と云えば、都内北区の田端文士村記念館さんで、以下のミニ展示が為される予定です。

平塚らいてう没後50年特別展~らいてうの軌跡~

期 日 : 2021年6月1日(火)~9月19日(日)
会 場 : 田端文士村記念館 東京都北区田端6-1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日と水曜日が休館)
      祝日の翌日(祝日の翌日が土・日曜日の場合は翌週火曜日が休館)
料 金 : 無料

「原始女性は実に太陽であった」という、今も語り継がれる名文を残した平塚らいてうは、本年、没後50年の節目を迎えます。本展では、らいてうが田端で過ごした時代を中心に、その社会的な活動から家庭的な一面までをご紹介します。
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同館、5月16日(日)には市民講座「平塚らいてう没後50年~青鞜から新婦人協会までの軌跡~」を予定していましたが、コロナ禍のため中止。さらに現在、緊急事態宣言発令中ということで、休館しています。一応、6月1日(火)から再開となっていますが、宣言延長の場合にどうなるかはよくわかりません。

こちらはミニ展示。メインの展示は「心豊かな田端の芸術家たち」。光太郎、光雲らと関わった面々が多く取り上げられます。こちらの紹介は明日。

【折々のことば・光太郎】

朝霜白し。今日も上天気、一片の雲をも見ず、風なく小春日和。 フトン干。オサツ干。

昭和22年(1947)11月1日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、11月ともなると霜が降りるのですね。日中はおだやかだったようですが。

「オサツ」は「お札」ではありません(笑)。サツマイモです。乾燥イモを作るため、干していたのです。サツマイモは幼少時からの大好物でした。

日本初の女性だけによる雑誌『青鞜』を創刊し、その創刊号の表紙絵を智恵子に依頼した平塚らいてう。智恵子と同じ日本女子大学校家政学部で一学年上、テニス仲間でもありました。

そのらいてう、昨日が忌日、しかも没後50年ということで、いろいろなところで取り上げられています。

まず『朝日新聞』さん。5月21日(金)の掲載でした。

没後50年の平塚らいてう、日記ににじむ平和への信念

 女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971)の未公開の日記が見つかり、一部を長野県上田市の資料館「らいてうの家」で公開している。女性が平和問題に積極的に声を上げるべきだ、との信念がうかがえる。24日で、らいてう没後50年となる。
 日記は48~50年の日付でノートに書かれ、らいてうの孫にあたる東京の男性が自宅で保管していた。主に文筆活動や生活についてつづられ、その一部のコピー数点を展示している。
 戦後の連合国軍占領下の50年4月13日には、「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない瞬間だとこの数日しきりに思い悩む」と吐露。こうした意思は同年6月、女性の立場からいかなる戦争にも加担しないことを宣言した「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」の公表につながった。
 女性史研究で知られ、NPO法人「平塚らいてうの会」(東京)の米田佐代子会長(らいてうの家館長)によると、50年当時は講和条約の締結に向けて政治的な発言をする女性はほとんどいなかったという。「再軍備か非武装かの議論の分かれ道で、戦争でつらい体験をした女性こそが、戦争反対の声をあげる重要性を発信したかったのだろう。記述からは、1人でもんもんと考えていた様子が見て取れる」と読み解く。
 こうした大まかな経緯については、らいてうに関する書物で明らかになっているが、米田会長は「らいてうの直筆資料で裏付けられた意義は大きい」と指摘。7月11日に、米田会長がらいてうの家で資料の解説を予定している。
 らいてうの家は冬季閉鎖し、今年は4月24日にオープンした。毎週土、日、月曜の午前10時半~午後4時(夏季は午後5時まで)に開館。入館に500円程度の運営協力金を求めている。
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同じ件、共同通信さんは、既に先月、報じていました。

長野・上田市の記念館 らいてうの未公開日記を公開

 女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)の足跡をたどる記念館「らいてうの家」(長野県上田市)が冬季休館を終え、24日開館した。例年期間限定でオープンしている。らいてうの死去から5月で半世紀となる今年は、平和問題に対する考えをつづった未公開の日記の複製が初めて公開されており、注目を集めそうだ。 
 日記の50年4月13日の欄には「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない〇〇(判読不能)だとこの数日しきりに思ひ悩む」と、平和問題に対して女性が声を上げる必要性を記していた。
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見出しだけ読んだ時点で、「『青鞜』創刊の頃の日記で、智恵子や光太郎に言及されているといいな」と思ったのですが、残念ながら戦後のものでした。それでも一級の資料ですが。

同じ共同通信さんで「平塚らいてう、没後50年 別姓先駆者、抑圧と闘う」という記事も出ているのですが、ネット上では閲覧できませんでした。

らいてうの女性問題に関する活動等についても、いろいろと。

『高知新聞』さん一面コラム。昨日の掲載です。

小社会 110年前の主張

 平塚らいてうは明治から昭和にかけ、女性解放運動で活躍した。特に「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった」の評論はよく知られる。
 明治末期の1911年、女性のための文芸誌「青鞜(せいとう)」の創刊号に発刊の辞として掲載された。「今、女性は月である。他に依(よ)って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼(あお)白い顔の月である」と続く。
 女性が男性に依存せざるを得ない、病んだ世と訴えたかったのだろう。ちょうど110年になる。成熟した国なら歴史的な主張になっていなければならないが、現実は衝撃的だ。いまの日本社会にもそのまま通用してしまう。
 世界経済フォーラムが公表する経済や教育などによる国際的な男女格差比較。日本は今春も先進国最低の120位だった。しかも、事態はより深刻になっているのではないか。コロナ禍で失業を余儀なくされた女性は男性よりもはるかに多いからだ。
 ドメスティックバイオレンス(DV)相談件数も昨年度急増し、過去最多になった。内閣府の有識者研究会は、コロナ禍で増える女性のDV被害や自殺への対策を早急に強化するよう政府に提言している。
 らいてうは主張の最後をこう締めくくった。「烈(はげ)しく欲求することは事実を産む最も確実な真原因である」。1世紀以上欲求しても遅々として改善しない格差。いま変える気がなければ、未来も変わらない教訓である。きょうはらいてうの没後50年。

『日本農業新聞』さん、同じく昨日の一面コラム。

四季 「元始、女性は太陽であった」

「元始、女性は太陽であった」と、平塚らいてうが人間としての女性の解放を唱えてから今年で110年、亡くなってからきょうで50年になる▽出産・育児を体験し「次世代を産み育てる労働には経済的裏付けがもてないという社会の現状に疑問」を抱いたと、孫の奥村直史さんが『平塚らいてう その思想と孫から見た素顔』につづる▽ これが、家庭労働に経済的価値を認め育児に国が報酬を、との主張につながった。新憲法下「育児の社会化」は進んだが、コロナ禍は子育て中の女性の雇用と収入の不安定さをあぶり出した▽農村はどうか。『農家女性の戦後史 日本農業新聞「 女の階段」の五十年』は、財布を握るしゅうとからミルク代をもらえず子どもの命を守るために「ミルク泥棒」をしたことや、臨月でも休めず稲刈りをしたその晩に出産したことなど「農家女性が抱える不条理さ」を記録。著者の姉歯曉駒沢大学教授は「 程度の差こそあれ、今もなお、女性たちを苦しめ続ける日本社会の宿痾(しゅくあ)そのもの」と記す▽らいてうは亡くなる年の正月、色紙にこう書いた。「命とくらしをまもる みんなのたたかいの中から 平和な未来が生まれる 新しい太陽がのぼる」。「みんな」に男は入っているか。自問する。

元祖「#わきまえない女」とでもいいましょうか、らいてうの提唱した様々な課題や提言は、現代まで連綿と受け継がれているような気がします。しかし、それが実現されているかというと、否、ですね。

五輪に関しても、元トップが女性蔑視発言で辞任し、鳴り物入りであとを継いだ女性新会長もすっかり影が薄く、さらに新会長の元のポストの後任も女性ですが、こちらは頓珍漢(「漢」は「おとこ」ですが(笑))。しかし、「だから女性は……」ではなく、個人の資質や体制の問題のように思われます。

らいてう没後50年を機に、こうした議論が高まることも期待したいものです。

【折々のことば・光太郎】

古代錦のやうな秋晴のケンランな完全な一日。風なく、空気うつとりとしづまる。山の紅葉さびて青天に映え、日光あたたかに草を色に染めてゐる。

昭和22年(1947)10月31日の日記より 光太郎65歳

何気ない自然の描写も実に詩的ですね。

昨日の関東は、およそ1週間ぶりに晴れました。既に近畿・東海までは入梅しており、先週の様子では、関東も実は梅雨入りしてるんじゃないの? と思っておりましたが、まだ梅雨の走りだったようでした。今日も晴れています。

久しぶりの好天に誘われて、昨日は自宅兼事務所から車で15分ほどの水郷佐原あやめパークに行って参りました。市立の水生植物園です。かつてはずばり「水生植物園」という名称でしたが、平成29年(2017)、園内の一部リニューアルと同時に改称されました。「佐原」は合併前の市名です。ときおり、テレビの旅番組系などでも「さはら」と平気で読んでいてムカッとしますが、「さわら」です。沙漠ではなく真逆の水郷地帯です(笑)。
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利根川が運んできた土砂が堆積して出来た大きな中州(地元民は「新島(しんしま)」または単に「島」と呼んでいます。もとは「十六島」とも呼ばれていました)にあり、広大な敷地内にハナショウブを中心とした花々が植えられています。ハナショウブの見頃はこれからで、今週末からは「あやめ祭り」と称し、様々なイベントも。そうなると入園者数も増加しますので、その前に行っておこうと思った次第です。600円→800円と、入園料金も上がりますし(笑)。

ちなみにハナショウブとアヤメは、似て非なる植物です。こちらではハナショウブが中心ですが、「ハナショウブパーク」ではわかりにくいので、「あやめパーク」なのでしょう。

早咲きのものは、既にいい感じに咲いていました。
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ハスやスイレン(この二つも、似て非なる植物です)も。
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さらに、こちらはそろそろ見頃が終わりという感じでしたが、薔薇。
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園内を周遊する舟廻りのサッパ舟(有料・500円)。「サッパ」は「笹の葉」の転訛です。舟の形状に由来します。
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001昨日、こちらを訪れたのは、何も花々を見るためだけではありませんでした。

話せば長いことながら、先週、旧市街の古書店さんに行ったところ(最近、店を閉めていることが多いのですが、前を通りかかったら久々に開いていましたので)、右の書籍があって、購入してきました。江戸川大学教授・鳥海宗一郎氏著『文学の旅・千葉県』(龍書房)。平成15年(2003)の刊行ですので、「古本」というほどの「古本」ではありません。

平成3年(1991)から同11年(1999)まで、『朝日新聞』さんの千葉版に連載されたものに加筆訂正、千葉県内の文学史跡がほぼほぼ網羅されています。光太郎智恵子に関しても、九十九里成田三里塚銚子犬吠埼と、三箇所で言及。その部分では、特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、光太郎と交流の深かった面々が、千葉にどんな足跡を残しているかをもっと知りたいと思い、大枚500円(笑)をはたいて購入しました。

すると、自宅兼事務所のある佐原の項で、光太郎と親しかった北原白秋の詩碑が、あやめパーク内に建っているという記述。地元でありながら、これは存じませんでした。元々手元に『北総の文学碑』という、佐原周辺限定で文学碑の数々を紹介した書籍もあったのですが、そちらには記述がありませんでした。

それもそのはず、『北総の文学碑』は昭和61年(1986)の刊行、白秋碑の建立はそのあとの平成2年(1990)でした。

というわけで、白秋詩碑。実は10年程前にもここを訪れていながら、その際には気づきませんでした(笑)。
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昭和4年(1929)刊行の詩集『海豹と雲』に収められた、「水村の春」という詩の一節が刻まれていました。下記の色を変えた部分です。先に書いておきますが「田螺」は「タニシ」です。念のため。

  水村の春 KIMG5050

  一
水車のまはる樋口に
窗障子あくる子のあり。
春はまだしか、芽麦に
はだら雪など光れり。

  二
春雨けぶる小がはに
板橋わたす里かや。
この田かの田の下萠え、
簑笠つけて早や鋤く。

  三
ひとむら萠えしなづなを
朝出て食(は)むや雌(め)の牛、
沼の田べりはわづかに
降りつぐもののにほへり。

  
かはづの啼くはころころ、
田螺の啼くはころろよ、
ころころ、ころろ、ころころ、
萠え来(こ)よ、春の下(した)ん田(だ)。

  五
蛙が啼くよ、沖田にKIMG5046
芽柳もなびくよ。
誰(た)ぞや、こぬかの小雨(こさめ)に
今朝あかあかと火を焚く。

  六
春はまだ浅き水田の
根芹は馬に食まれぬ。
ゆきかへりつつ、鋤きつつ、
ひと日は雨に暮れたり。

  七
ふたもと高い葉楊、
鍋底こする舟の子、
つん抜け土間の藁家は
燕の飛ぶにまかせぬ。

  八
夜明けの靄にめざめて、
渡るは雁か、くぐひか、
早や榜(こ)ぎいでよ、作舟、
沖田あたりは晴れうよ。

  九
耕作舟につむもの、
犂、鍬、黒の雌(め)の牛、
朝靄がくり棹さす002
娘のあかい細帯。

  十
せんだんの実もさみしや。
蓆機織る藁家は、
日がな日ぐらし音して、
日がな日ぐらし雨ふる。

  十一
藁すぐる子の目見(まみ)ゆゑ、
沼のあかりがしむかよ。
ときたま鳴けよ、鳰鳥、
昼間の月も渡るよ。

  十二
前ゆく蝶のつばさに
土のしめりはながれぬ。
まことに春は田の面の
末より野路(のぢ)ににほひぬ。

「青空文庫」さんから取らせていただきました。この詩は、「水郷の早春」という小題でまとめられた四篇のうちの一つでした。碑陰記には「水郷をうたつた白秋の長詩水村の春十六島の一節」とあります。白秋で「水郷」というと、故郷の福岡柳川が思い浮かびますが、「水郷の早春」中の「朝靄の中」には「ここは潮来の出はづれ、沼から沼へとかよふ水路だ。」というフレーズがあり、柳川ではなく、「ちばらぎ」の水郷であることは明白です。「潮来」は茨城県に属し、あやめパークのある佐原の新島地区と隣接、同じように水路が張り巡らされています。同じ水郷風景と云うことで、白秋も親近感を抱いたかも知れません。

また、『海豹と雲』には、「早春 香取神宮」という詩も収められていますが、「香取神宮」も佐原です。ちなみに香取神宮には、光太郎の彫刻のモデルを務めた歌人・今井邦子の歌碑、香取神宮の一の鳥居がある利根川河畔のかつての河岸(かし=船着き場)には、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の歌碑が、それぞれ建てられています。

邦子や晶子の足跡があることは存じていましたが、白秋も佐原に来ていたんだ、と、それは存じませんで、汗顔の至りです。ただ、手元にある書籍や、ネット上の情報では、それがいつなのかはっきりしません。御存じの方、御教示いただければ幸いです。

さて、「水郷佐原あやめパーク」、もうすぐ園内のハナショウブが満開となります。コロナ感染にはお気を付けつつ、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】003

草野君の詩集の為「蛙(かへる)」といふ題字を書く。


昭和22年(1947) 10月29日の日記より

翌年に刊行された『定本 蛙』のためのものです。

同じ蛙でも、白秋の手にかかれば「かはづの啼くはころころ」とかわいらしく、心平が謳えば「ぎゃわろ、ぎゃらろ、ぎゃわろろろろり」(笑)。面白いものです。

それにしても、この字もなかなか書けない凄い字だと思います。「蛙(かへる)」を三つ、絶妙のバランスで並べるこの感覚、脱帽です。心平の原稿の書き方にも影響されているかも知れませんが。

光太郎第二の故郷とも云うべき岩手県花巻市で起業された「やつかの森LLC」さんに関する報道。『岩手日報』さんには一週間程前に出ましたが、『岩手日日』さんで、一昨日報じられました。内容的にはかぶりますが、ご紹介します。

光太郎の食卓再現 顕彰合同会社やつかのもり 日記、書簡基にカレンダー

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の顕彰活動などに取り組む花巻市轟木の合同会社やつかのもり(藤原正代表)は、「光太郎の食卓カレンダー」を作製した。カレンダーには光太郎の食卓を再現した写真、エピソード、食を通じた相関図を掲載。同社ではカレンダーが光太郎に親しみを持つきっかけになることを願う。
 光太郎は1945(昭和20)年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に宮沢賢治の実家を頼り花巻に疎開。終戦後は旧太田村山口の山小屋で約7年間、 独居自炊の生活をしながら住民と交流した。
 同社は藤原代表(69)と地元の女性社員8人で組織。アカシアの天ぷら、 ショートケーキ、トマトケチャップを使った鍋など、カレンダーに掲載されている料理は光太郎の日記や書簡に残っている記録からイメージして再現した。
 光太郎は欧米への留学経験もあることから、オリーブオイル、オーストラリア産のチーズ、アンチョビなど当時の花巻としては珍しい食材も出てくる。光太郎に手作りジャムやケーキを届けた盛岡スコーレ高校の創立者である吉田幾世さんら、食を通じて交流した県人も紹介している。
 藤原代表は「当時の文献 を見ると高村光太郎は牛肉なども食べており、かなりの食通だったことが分かる。カレンダーで高村光太郎をより身近に感じてもらい、記念館などに足を運ぶ人が増えてくれれば」と期待する。
 カレンダーは5月始まりで、見開きA3判、税込み800円。作製した500部のうち、限定100部を販売。道の駅はなまき西南で購入できる。
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記事にある「光太郎の食卓カレンダー」は、花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」に使われた写真を元に構成されたもので、光太郎の日記や書簡、随筆、周辺人物の回想文に出てくるものを、現代風にアレンジしたもの。

『マチココ』さん連載に関しては、時折、当方にレファレンス依頼があり、その意味ではちょっとだけ関わらせていただいております。

少し前には「「醢」って何ですか?」。光太郎の日記に「醢」という文字があるそうで。
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調べてみましたところ、「醢」は「かい」と読み、「兎醢」で「とかい」と読むようです。訓読みでは「ししびしお」、「しおから」などと読むとのこと。中国料理系で、「醢」は魚肉、鶏肉、獣肉などを塩と麹に漬けて発酵させたものだそうです。元々は原材料名+「醢」と表記したそうで、日本の平安時代の文献にも「兎醢」「魚醢」「鹿醢」「宍醢」(宍=肉)などの語が見られるということです。どんな感じの料理なのか、今一つイメージが湧きにくいのですが……。塩辛に近いものなのでしょうか。身が兎肉で。

「魚醢」は「魚醤」とほぼ同義だそうで、「魚醤」は醤油のルーツの一つとされ、当方生活圏内の銚子市などでも販売されています。読み方は「ぎょしょう」ですが、「ひしお」と読む場合もあります。

ところで、当方、ワープロソフトは昭和のフロッピーディスクの頃から(笑)「一太郎」を使い続けています。文書作製の際の細かな設定等は「ワード」だと、やってやれないことはないのでしょうが、当方、そのスキルがありません。「一太郎」はかなり極めたので、ほぼお手の物です。最近のニュースでは、法案の作成ミスが、官公庁で「すでに民間では“過去の遺物”となった「一太郎」をまだ使っている」ことが原因だ、というのがありましたが。「一太郎」だろうが「ワード」だろうが、ミスは生じると思うのですが……。

したがって、当方の使っている日本語辞書は「ATOK」。別にジャストシステムさんを擁護する訳ではありませんが、明らかに日本語変換に関しては「IME」より数段上です。上記の「醢」も、「ATOK」では「ひしお」と入力して変換すれば、初期設定の時点で「醤醢」が出て来ます。「IME」では出来ませんでした(何か方法があるのかもしれませんが)。なぜか最も一般的でないであろう「醓」は出て来ます。
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まぁ、はっきり言うと、光太郎等、近代の文献の引用を行うためには、「IME」は使い物にならないという感じですね。一般の方々が普通の文書を作成する分には問題ないのでしょうが。

閑話休題、「光太郎の食卓カレンダー」、「やつかの森LLC」さんサイトから注文できます。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后サダミさんと同道及川善三氏来訪、茸狩の由。初対面、メーレー夫人の毛布を見らる。

昭和22年(1947)10月26日の日記より 光太郎65歳

「及川善三」は「及川全三」の誤りです。岩手にホームスパンを根付かせた及川の弟子の一人が、「サダミさん」こと駿河定見(光太郎の山小屋近くの住人)の姪、戸来サツ子でした。サツ子から、光太郎が所蔵するエセル・メレ作の毛布のことを聞いた及川が訪ねてきたというわけですね。

まずプレスリリースから。

​​明治の洋館で楽しむドリンクフェア「文学浪漫巡り」、6月1日より提供開始

~浪漫を味わうひとり時間 レトロなドリンクフェア~

明治の洋館でカフェ・レストラン・ホテル等を経営する株式会社長楽館(京都市東山区円山町、総支配人:吉田 重人)は、「デザートカフェ長楽館」にて2021年6月1日(火)より「Drink Fair ―文学浪漫巡りー」を開催いたします。

デザートカフェ長楽館は、1909年に建てられた京都市指定有形文化財である洋館「長楽館」の、それぞれ内装の異なる7種のお部屋で、スイーツや軽食、ドリンクを提供しております。

この度、建物と同じく明治時代に生まれた文豪の詩や小説の一節を添えて、夏にぴったりのドリンク5種をご用意しました。太宰治・宮沢賢治・吉井勇・高村光太郎・中原中也の5人の文豪の作品の一節から着想を得たドリンクです。

■背景
昨今のコロナ禍で、旅行の機会の減少、緊急事態宣言に伴う美術館や博物館などの休業により、非日常や歴史浪漫を楽しむ機会が減少する一方で、「ひとりで過ごす時間」は増加の傾向にあります。それを受けて、明治時代の調度品が飾られた洋館内のカフェで、ドリンク1杯から気軽に非日常や歴史浪漫を味わっていただきたいと考えました。

■フェア詳細ページ

■ドリンク紹介(メイン画像:上段左より順に)

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・コーヒーゼリーフロート ¥1,300
「愛は、この世に存在する。きっと、在る。見つからぬのは、愛の表現である。その作法である。」 太宰治『思案の敗北』
長楽館オリジナルブレンドのアイスコーヒーとコーヒーゼリーにミルクを加えたバニラアイスのフロート。
・パイナップルソーダ ¥1,200
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』 宮沢賢治『やまなし』
生のパイナップルから絞った果汁を炭酸水で割った、パイナップルの果肉のはじけるソーダ。
・ストロベリー・ラ・テ ¥1,200
いのち短し、戀せよ、少女 吉井勇『ゴンドラの唄』
自家製のストロベリーベースにミルクを加え、甘酸っぱいフレッシュないちごを添えたラ・テ。
・シトラスジュレのゆずジュース ¥1,200
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた 高村光太郎『智恵子抄』
レモン・オレンジ・ライム・バジルを煮出したジュレと、ゆずとレモンのすっきり爽やかなジュースにバジルとミントを添えて。
・すももともものティーソーダ ¥1,200
アメリカの国旗とソーダ水とが恋し始める頃ですね 中原中也『初夏』
自家製のすももシロップと、桃のフレーバーティーのティーソーダ。すっきりしたヨーグルトクリームに、フレッシュな桃とピンクペッパーを添えて。

■開催概要
開催店舗:デザートカフェ長楽館
開催期間:2021年6月1日(火)~8月31日(火)
※定休日:6月9日(水)、7月7日(水)・26日(月)~30日(金)、8月25日(水)
営業時間:11:00~18:30(18:00L.O.)
※料金は税込金額です。別途サービス料10%を申し受けます。
※写真は一例です。食材の入荷状況により変更の可能性がございます。
※情勢により、営業時間の変更の可能性がございます。最新の営業時間・休業日はホームページをご確認ください。

■会社概要
商号            : 株式会社長楽館
所在地           : 〒605-0071 京都市東山区八坂鳥居前東入円山町 604
設立            : 1954年9月
事業内容          : レストラン、カフェ、ホテル、宴会場の運営及び結婚式・宴会の企画
煙草王と呼ばれた明治時代の実業家である村井吉兵衛の別邸「長楽館」(1909年竣工)は1986年に京都市有形文化財に指定されています。往時の洋館建築の造りをそのままに、カフェ・レストラン、バー、スイーツブティック、そして隣接する新館にホテルを設けています。
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長楽館の新型コロナウイルス感染症対策について:
 https://www.chourakukan.co.jp/news/post-11706.html
長楽館公式ホームページ:https://www.chourakukan.co.jp/ 

長楽館さん、当方は前を通ったことがあるだけで、入ったことはありません。知恩院さんや祇園さん(八坂神社さん)にほど近く、実に味のあるたたずまいです。光太郎が3年半に亘る欧米留学から帰朝した明治42年(1909)の竣工。昨年、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」で取り上げられ、興味深く拝見しました。

そしてシャレオツなドリンク。
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この画像では、左から「すももともものティーソーダ/中原中也『初夏』」、「シトラスジュレのゆずジュース/高村光太郎『智恵子抄』」、「ストロベリー・ラ・テ/吉井勇『ゴンドラの歌』」、「コーヒーゼリーフロート/太宰治『思案の敗北』」、「パイナップルソーダ/宮沢賢治『やまなし』」。多少の無理くり感がぬぐえませんが(笑)、いずれもこの季節にぴったりですね。

「智恵子抄」からのインスパイアというドリンク類、これまでも各地で饗されてきました。「日本酒オリジナルカクテル「ほんとうの空」」(福島県)、「自家製レモンシロップのレモンスプマンテ」(東京都)、それからドリンクではありませんが「安達ハチミツと有機レモンのドレッシング」(福島県)。

今後もこうした取り組み、どんどん為されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

燈下の関係上、明るいうちに何でもしてしまふ事。


昭和22年(1947)10月24日の日記より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村での蟄居生活、すでに丸2年となりましたが、この時点ではまだ山小屋に電気が通じていません。電線が引かれ、ランプ生活から解放されるのは昭和24年(1949)に入ってからです。

夏場はまだ日が長いのでよかったのでしょうが、10月末とも成ると日没が早まり、大変だったと思われます。

現代アートのインスタレーション情報です。

毒山凡太朗 「反転する光」

期 日 : 2021年5月22日(土)~6月20日(日)
会 場 : LEE SAYA 東京都目黒区下目黒3–14–2
時 間 : 12:00~19:00(日~17:00)
休 館 : 月、火、祝
料 金 : 無料
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毒山凡太朗(どくやま・ぼんたろう)は 1984年福島県に生まれ、2011年3月11日に発生した東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故をきっかけに、作家活動を開始し、「六本木クロッシング 2019:つないでみる(森美術館)」や「あいちトリエンナーレ2019 : 情の時代(四間道・円頓寺エリア、名古屋市)」をはじめ、国内外を問わず精力的に活動を続けてきました。

記憶に新しい昨年開催されたLEESAYAでの個展「SAKURA」では、時代によって「公共」のために利用されてきた桜のもつ、歴史的重層性と政治的多義性に焦点を当て、ナショナル・アイデンティティ、戦争、経済、五輪など様々なテーマに鋭くアプローチした作品群を発表し、大変ご好評をいただきました。

本展は今夏に行われる帰還困難区域ツアープロジェクト「IGENE」のプロモーションを目的とした展覧会です。毒山が作家活動を始めるきっかけとなった原発事故から、9年が経った昨年、初めて故郷・福島の帰還困難区域に入域しました。その経験から、いかにメディアや社会、自分自身がアップデートされていない情報で区域内や原発、福島について語っていたかを痛感し、ツアーの開催を決意しました。参加者と共に各所を巡り、現状についてより理解を深め、リアリティのある議論を交わしたいという作家の想いに弊廊も賛同し、ツアーのプロモーションを助成することといたしました。

展覧会ではツアー内容が垣間見える映像作品と、福島を代表する作家の高村智恵子に、ひとしおの思いを寄せる毒山が、「レモン哀歌(智恵子抄)」を手がかりに新作群を発表いたします。また、ツアーに関する詳細情報の案内や、チケット販売も行う予定です。

ツアーの内容から、公的な助成金などを得ることが難しいため、全て作家が自弁で行う予定です。一人でも多くのお客様にご賛同と温かいご支援を賜りたく、毒山凡太朗の「反転する光」を是非ともご高覧ください。
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毒山凡太朗さん。平成27年(2015)に、福島県いわき市で「毒山凡太朗+キュンチョメ展覧会「今日も きこえる」」が開催された際、拝見に伺いまして、お会いしました。福島県田村市のご出身だそうですが、二本松市にお住まいだった時期もおありで、小学校は智恵子の母校・油井小学校さんに通われていたそうです。そこで、「福島を代表する作家の高村智恵子に、ひとしおの思いを寄せる」なのでしょう。

いわきの展覧会もそうでしたが、原発事故にさらされた福島への思いを、一貫して作品制作への一つの契機となさっていて、今回のインスタレーションも、今夏開催される帰還困難区域へのツアープロジェクト「IGENE」のプロモーションを兼ねているそうです。

イメージ画像に使われているのは、光太郎ファンにはおなじみの、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)脇に作られた便所の壁に、光太郎自らが彫った明かり取りの穴。まさに「反転する光」ですね。

当方、来週末には「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」のため上京しますので、こちらも廻ってこようと思っております。コロナ感染にはお気を付けつつ、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

朝弘さん花巻から帰つて来て酢一升買つてきてくれる。「モロツコ」を見、昨夜一泊の由。今日の青年には「モロツコ」は大して面白くなきやうなり。Morocco1930


昭和22年(1947)10月21日の日記より 光太郎65歳

「弘さん」は、山小屋近くの開拓地に入植した青年です。光太郎に心酔し、光太郎もこの青年をかわいがり、時にはこのようにパシリにしていました(笑)。

「モロツコ」は「モロッコ」、昭和5年(1930)公開のアメリカ映画で、マレーネ・ディートリヒ、ゲーリー・クーパーらが出演していました。光太郎は前の週に花巻町に出て、当時あった映画館・文化劇場で観ています。

新刊ムックです。

& Premium特別編集 あの人の読書案内。

2021年6月1日 株式会社マガジンハウス 定価1,500円+税

菊池亜希子、皆川 明、河瀬直美、高山なおみ、綿矢りさ……あの人がもう一度読みたい本。絵本が教えてくれたこと、ときめくマンガ。全439冊、総勢144人が薦める読書ガイド。


本誌の創刊号からこれまでの「読書」にまつわるコンテンツから、本好き144人のおすすめを1冊にまとめました。もう一度読みたい小説やエッセイ、ときめきたいときに読み返すマンガ、思い出の絵本など、素敵な人生の道しるべとなる本が詰まった1冊です。

本誌は『&Premium』2019年10月号「あの人が、もう一度読みたい本」を中心に、2015年2月号「センスのいい人は、何が違う?」、2017年1月号「贈り物と、絵本」、2018年10月号「素敵な人になるために、どう生きるか」、2018年12月号「エレガンス、ということ」、2020年2月号「心と体が、あったまること」に掲載した読書企画を再編集・増補改訂したものです。
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目次

HER/HIS FAVORITE BOOKS あの人の愛読書。
 フグ田サザエ、ガブリエル・シャネル、マリリン・モンロー、 デヴィッド・ボウイ、
 ウォルト・ディズニー、樹木希林

LIBRARY of SENSE センスを磨く読書案内。
 細川亜衣、土岐麻子、渡辺有子、熊谷隆志、松浦美穂、寺尾紗穂、原川慎一郎、
 石塚元太良ほか

TO BE ELEGANT 私に、エレガンスを教えてくれた本。
 江南亜美子、西田尚美、木村綾子、石村由紀子ほか

Long-Sellers 世代を超えて読み継がれる、20世紀の良書。
 『夜と霧』『悲しき熱帯』『センス・オブ・ワンダー』ほか

Books That Inspired Me 私が、もう一度読みたい本。
 高山なおみ、綿矢りさ、皆川明、菊池亜希子、河瀨直美ほか

Reviews 名著を読み解く、読書感想文。
 塩川いづみ、中村佳穂、大森克己、轟木節子、外山惠理、ユザーン

BOOKS for a BETTER LIFE 7歳から45歳、そして人生最期。そのときに読みたい本。
 中野京子、鴻巣友季子、甲斐みのり、いか文庫、森岡督行、最果タヒ、河野通和、
 江南亜美子

Talking About “The" Books 「大人になった今だからわかる本」座談会
 宇多丸、しまおまほ、古川耕

Treasured Magazines 捨てられない雑誌。
 青柳文子、山崎まどか、平野紗季子、森本千絵ほか

Illustrated Cookbooks キッチンで読み返したい、料理の図鑑。
 戸木田直美、鈴木めぐみ

My Inspiring MANGA ときめきたいときに、このマンガを読み返します。
 栗山千明、松田青子、岩井俊二、星谷菜々、光浦靖子、山本浩未、渡辺ペコ、福田里香、
 宇垣美里、片桐仁、武田砂鉄、角田光代、植本一子ほか

MY FAVORITES 29人の、私の思い出の絵本。
 山戸結希、井出恭子、岡尾美代子、川内倫子、柚木麻子、さかざきちはる、安藤美冬、
 石川直樹ほか

Picture Books ぬくもりを感じる、いい絵本。
 末盛千枝子

絵本が教えてくれる大切なこと。
 穂村弘、星野概念、ひうらさとる、美村里江ほか

同じマガジンハウスさん刊行の雑誌『&Premium』に掲載された記事等を再編したものだそうで、雑誌本体が「衣、食、住、カルチャー、それぞれに自分なりの選び方がある大人の女性たちの為の雑誌。クオリティライフ誌・素敵に暮らしている人・上質なものを足していく・大人の女性のため。」というコンセプトなので、執筆者も大半は女性、薦められている「全439冊」も女性向けのものが多い感があります。もっとも、昨今はジェンダー的な部分で「女性向け」「男性用」といった区分には神経質に成らざるを得ませんが(笑)。

デザイナーの皆川明氏が、光太郎の『智恵子抄』(龍星閣新版・昭和26年=1951)、光太郎実弟・豊周の編集による智恵子の紙絵作品集『智恵子の紙絵』(社会思想社・昭和41年=1966)を取り上げて下さっています。
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皆川氏、平成25年(2013)に都内乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)さん他で開催された、建築家の中村好文氏による、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を含むさまざまな「小屋」を取り上げた「中村好文展 小屋においでよ!」展に関わっていらっしゃいました。

関連行事として中村氏と皆川氏の対談「小屋から学ぶこと」が、巡回展の金沢21世紀美術館さんで行われましたし、展覧会とリンクして出版された『小屋から家へ』(TOTO出版)の中にもお二人の対談が収録され、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋も紹介されています。

中村 岩手県の花巻に、高村光太郎がひとり暮らしをしていた小屋が残っていて、それこそ粗末な小屋なんですけど、「人の暮らしの気配のようなもの」がひしひしと感じられます。必要最低限のものしかない暮らしぶりがとてもいさぎよく感じられ、「これでいいじゃないか、これで十分じゃないか」と納得してしまうのです。小屋の定義のひとつに、「すまいの原型が見えること」という項目を加えてもいいかもしれません。
皆川 その感じ、よくわかります。小屋の空間の中には最低限の必要なものだけが納まっているということで、余計にそういう気分になれそうな気がしますね。

『智恵子の紙絵』は、この手の書籍としては昭和32年(1957)に筑摩書房さんから出た『智恵子紙絵』(こちらも豊周の編集)に次ぐ初期のものです。

豊周による解説文から。

 智恵子という人が、このような工芸的なものについてどのくらい才能を持っているか、僕は全然知らなかった。兄にとっては、自分の最愛の人であり奥さんでもある人のものだから、惚れ込むのはあたりまえだが、僕には、はたして兄が評価するほど高く評価できるかどうか、絶対的な評価として、いったい兄がいうほど正当なものかどうかということに、一抹の不安があったのだ。(略)ところが、実物を見てこの不安は全く消え去った。日本にいままで例のないユニークさに、まず心を打たれた。(略)そこにあるものは非常にすぐれた工芸家の作品といっても、ちっともさしつかえないものだった。(略)実を言うと初めは、兄が少し手を入れているのではないかとさえ思った。(略)高村光太郎の最愛の妻であったというひとつの仮定を除いて、裸で放り出して見ても、絶対的価値は決して下がらないと思う。

ちなみに今日、5月20日は智恵子の誕生日です。

『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』に戻りますが、末盛千枝子さん、森本千絵さん、栗山千明さんなど、このブログで取り上げさせていただいてきた方々もご執筆。

さらに、宮沢賢治や武者小路実篤など、光太郎と関わった人々の作品も。
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また、絵本や漫画の項も充実しています。美術書、写真集の類も。

ただ、近代のものよりは、現代の書籍の紹介がメインです。そうした意味で、光太郎智恵子らに関わらない書籍はあまり読まない当方としては、インチキですけれど、それぞれの書評を読んで、それらを読んだ気にさせてくれるのでありがたく存じました(笑)。

それにしても、紙の書籍の衰退が叫ばれて久しく、電子書籍的なものの台頭にもめざましいものがありますが、まだまだ紙の書籍も健在、それが無くなることはないのだろうな、と思わせられました。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

晴、フトン干、 文部省へ芸術院会員断りのハカキを書く。


昭和22年(1947)10月20日の日記より 光太郎65歳

この後、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後の昭和28年(1953)にも、芸術院会員への推薦を断っています。











昨日の『福島民報』さんから。

【にほんまつ検定】身近な産業に関心を

 二本松商工会議所は初のご当地検定「にほんまつ検定」の問題を募集している。歴史や文化だけでなく、会社自慢なども可能なのが特徴だ。子どもに古里への関心と郷土愛を高めてほしいとの願いを込めた。問題を通して地元の企業や産業の発信にもつながる。広がりを期待する。
 検定問題の応募は商工会議所の観光振興委員会が二十日まで受け付けている。歴史、文化・芸能、産業、食、観光、言葉、自然、地理、スポーツなどが対象でジャンルを問わない。四者択一の形式とする。応募作を基に委員会が問題を作成し、子どもが取り組みやすいよう「二本松の提灯祭り」などに合わせた検定実施を検討している。
 委員会は作問例を挙げている。「二本松市名誉市民ではない人は誰?(答え・高村光太郎)」「二本松市でお祭りの際などによく作られる郷土料理はどれ?(答え・ざくざく汁)」といったオーソドックスな問題から「二本松御苑は提灯祭りの時に毎年若宮地区で出店を出しているが、一番人気の商品は何か?(答え・デニッシュバー)」など地域の生活や出来事に密着した問題も募るとしている。
 松坂豪智委員長は「検定を受けた子どもが家庭で親に尋ねれば、親も調べるようになる。まず地元の人間が知ることが大切」と話す。提灯祭りの七町の太鼓台が奏でる多彩な祭りばやしの名前や特徴など、答えは学校の授業では分からない。古里に興味を持ち、地域の話題に詳しい子どもが鼻を高くできる問題になるだろう。
 商工会議所が実施するからには、家具や菓子など、二本松が誇る産業の問題も多く組み込んでほしい。名品の製法や匠の技は、日本が誇る「手わざ」に関心を持つきっかけになる。酒造業や醸造業に関する問題も、伝統産業や発酵文化への理解を深める。街に並ぶさまざまな店の自慢の一品なども面白い。
 ものづくり振興の観点からは、工業系の問題をぜひ入れたい。身近な工場でつくられる製品の特徴や、それらが県外・海外に輸出され多くの人の役に立っているのを知ることは、地元企業への就職意欲を高めるに違いない。工業に欠かせない数学の素養では、江戸・明治期に算術の問題図を記して市内の神社や寺に奉納された「算額」という歴史的な遺産があり、問題の素材になりそうだ。
 足元にある知識や素材を掘り起こし、毎年新しい検定問題を作っていけば、時代に合わせて長く魅力を放つ企画になるだろう。
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最初に見出しを見て、「おお、二本松でもご当地検定をやったのか」と思いましたが、さにあらず。これから実施するので、その問題募集だそうで。

そこで問題の例として光太郎の名。ありがとうございます(笑)。調べたところ、同市の名誉市民は、次の通りでした。光太郎の孫弟子にして、霞ヶ城の二本松少年隊像二本松駅前安達駅前の智恵子像などを作られた故・橋本堅太郎氏。女優・一色采子さんのお父さまにして、智恵子をモチーフにした絵も複数描かれた故・大山忠作画伯。そして、放射線医学の世界的権威、故・高橋信次氏。ちなみに福島出身の文化勲章受章者は5人。そのうち2人、大山画伯と高橋氏が二本松名誉市民ということで、二本松率が高いのは驚きです。余談ですが(笑)5人の中には当会の祖・草野心平も含まれます。

各地で、官民問わずご当地検定がいろいろ為されていますね。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻で昨年実施された「はなまき通検定」では、光太郎がらみの問題が複数出題されました。また、実施後だいぶ経ってから気づいたので、このブログではご紹介していませんでしたが、群馬県のNPOが主催している「赤城山検定」でも、光太郎の名が、複数年、複数級(3級:入門編、2級:上級編、1級:達人編)の問題に散見されます。
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そして、平成30年(2018)、やはり二本松で開催された「智恵子検定 チャレンジ! 智恵子についての50問」。当方も問題作成にあたりました。

探せばもっといろいろあるのでしょう。

さて、「にほんまつ検定」、ぜひとも光太郎智恵子がらみの設問をお願いしたいところですね。続報が出ましたらまたご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

不在中、バケツの中に松茸入れてあり。 夕方サダミさん立寄り、ウエツコをもらふ。「御霊前へ」二包みお渡しす。(二百円)。 夜松茸ウエツコ油いため。中〻美味なり。

昭和22年(1947)10月15日の日記より 光太郎65歳

一週間程山小屋をあけて、花巻町中心街に滞在し、帰って来た時の記述です。松茸を置いて行ってくれた村人がいた、と、何とも気前のいいことで(笑)。「ウエツコ」は岩手の方言でシメジのことです。

昨日の『福島民友』さんから。

残雪踏みしめ頂へ、安達太良山で山開き 山頂でのイベントは中止

 二本松市などにまたがる安達太良山(1700メートル)は16日、山開きが行われた。県内外から詰め掛けた登山客が山頂を目指し、夏山シーズンの到来を告げる日本百名山の登山を楽しんだ。
 新型コロナウイルスの感染防止のため、昨年に続き山頂での行事は全て中止に。安全祈願祭は、山頂の代わりに奥岳登山口で行った。
 低気圧の影響であいにくの曇り空となり、詩集「智恵子抄」につづられた「ほんとの空」も顔をのぞかせなかったが、登山客は残雪を踏みしめるなどして山頂に到達。仲間と共に弁当を広げるなど思い思いに過ごし、山開きを満喫した。
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昨年に引き続き、コロナ感染対策として、山頂イベントが中止ということでしたので、スルーしようと思っていたのですが、「智恵子抄」、「ほんとの空」の語を使われてしまっては、紹介しないわけにはいきません(笑)。

続いて『福島民報』さん。それらの語は出てきませんが。

安達太良で山開き 新型コロナ受けイベントは中止

 日本百名山の一つ、安達太良山は十六日、山開きした。登山者が互いに間隔を空けながら山歩きを楽しんだ。
 新型コロナウイルス感染拡大防止のため昨年に続いて規模を縮小し、ミズあだたらコンテストなど山頂での行事を中止した。二本松市などでつくる安達太良連盟による安全祈願祭があだたら高原スキー場ランデブーで行われた。
 七カ所の登山口のうち、メインの奥岳登山口からはマスク姿の登山者がロープウエーや徒歩で山頂を目指した。ショウジョウバカマの桃色のかれんな花やハクサンシャクナゲのつぼみを眺め、残雪を踏みしめながら一歩一歩登った。
 標高約千七百メートルの山頂付近は霧が流れ、雄大な景観は望めなかったが、登山者は歩く喜びを満喫した。福島市の会社員紺野徹也さん(58)は家族三人で登頂し「昨年も登ったが今年は雪解けが早い。山は風が通り、ソーシャルディスタンスも取れるのでいい」と話していた。
 山開きの記念ペナントは密を避けるため、前日から配布した。
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山頂でのイベントは中止となったものの、入山規制がかかっているわけではないので、登られた方は多かったようですね。

「屋外だから」と油断せず、楽しんでいただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】003

午前買物、モノゲンを見つけ買ふ、高価なれど(百匁一五〇円)品質よささう。悠文堂にて新約聖書を求める。


昭和22年(1947)10月14日の日記より
 光太郎65歳

「モノゲン、懐かしい!」と思ったら、ところがどっこい(死語ですね(笑))、いまだブランド名は存続していました。ただし、現行のものは液体洗剤のようですが。画像を見て「懐かしい!」と言えるのは、一定以上の年代の方でしょう。ただ、昭和20年代にこのヒツジのイラストがあったかどうかまでは調べていませんが。

悠文堂」は書店でしょうか。調べたのですが、わかりませんでした。

直接、光太郎智恵子らには関わりませんが……一昨日の『福井新聞』さん記事から。

東日本大震災の津波で流された旧JR女川駅を精密復元 福井県の模型作家

 福井県福井市在住のミニチュア模型作家タカマノブオ(本名高間信夫)さん(58)が、東日本大震災で津波により流された旧JR女川駅(宮城県女川町)の模型を制作し現地に贈った。被災者を元気づけようと、同町で模型展を開いたのが縁。高間さんは「町の玄関口である駅舎での楽しかった思い出を懐かしんで、笑顔になってもらえたら」と願いを込めている。
 高間さんは、アニメや映画に登場する建物の模型を制作する作家として活動している。
 福井地震から70年を迎えた2018年6月、当時の被害を伝える新聞記事を読み、東日本大震災の被災地で展示会を開こうと思い立った。地震や水害など災害に苦しんだ福井という街に住むだけに、東北地方の被害が人ごとでないと感じたという。「模型を見て、ほんのひとときでも笑顔になってもらいたい」との思いで今年3月、仙台市と女川町で模型展を開いた。
 女川町での開催へ協力を得ていた関係者から昨秋、「女川町にまつわる建物の模型を作ってほしい」との依頼を受けた。当初は「惨劇を今すぐにでも忘れたいと思う人もいるであろう中、模型を制作していいのか」と迷ったという。しかし「駅には誰もが楽しい思い出があるはず」と思い直し、旧女川駅の復元模型の制作を決めた。
 約1カ月間かけて図面を作り、今年1月から制作を開始。より正確に再現しようと連日、現地の人たちと連絡を取り意見を求めた。
 模型は45分の1の縮尺。土台は約60センチ四方で、駅舎の高さは22センチ。瓦屋根一つ一つなど駅舎の外観や内部が精密に作られているのはもちろん、駅の前に駐車するタクシーや駅舎内の自動販売機なども作り、当時と同じ位置に設置している。
 記憶をたどって懐かしんでもらおうと、震災前にSLホエール号がJR石巻線の小牛田―女川間を記念走行したことを表すプレートを、模型の背面下に備え付けた。
 完成した模型は今月初めに送り、13日に東北電力女川原発・地域総合事務所へ届いた。今後、同発電所や町内の行事などで展示される予定。
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画像と動画を見て、「おお、懐かしい!」と思いました。

平成3年(1991)に建立された光太郎文学碑を見るため、同6年(1994)頃、当時は高速道路等も未整備で、公共交通機関で女川に参りました。光太郎智恵子の足跡を辿る旅の一環で、栃木の那須や福島二本松を廻ったあとで、小牛田から女川行きの石巻線に飛び乗ったのがもう宵の口。ワンマンカーで料金後払い、いざ、女川駅に着いて支払おうとしたら、財布には万札しかなく、運転手さんに「えー、お釣りありませんよ」と言われました。「じゃ、そこらで崩してきます!」というわけで、一旦駅から出て細かいお金を作って支払った記憶があります。

その際に駆け下りた階段。
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「ああ、こんなだった」と、涙が出そうになりました。その夜は女川の旅館に飛び込みで一泊、翌朝、光太郎文学碑を拝見しました。

その他、駅の正面玄関など。
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こちらは現在の女川駅に掲示されている、震災前の写真です。
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記事にもあるとおり、タカマさん、これまでに仙台と女川で展示会を開催されたそうで、そちらはアニメ等に登場する建物だったとのことですが、そうなると、我が町のモニュメントを、というのは人情ですね。

震災から10年、もう、あの日々は戻ってきませんし、タカマさんもおっしゃるように「惨劇を今すぐにでも忘れたいと思う人」にとっては、辛い記憶を呼び覚まされるかもしれませんが、美しい回想、楽しい思い出も、きっと甦るはず。

今後のこの模型の有効活用を願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

夕方六時頃夕食にしてもらひ、食後すぐ出かけて清六さん方にゆき、清六さんの案内にて郡農会にゆく。「レコードコンサート」、会衆三、四十人。電圧低きためか、レコードの音あまり良からず。久しぶりにブランデンブルグをきく。

昭和22年(1947)10月13日の日記より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋を1週間程あけ、花巻町桜町の佐藤隆房邸に厄介になっていた時の記述です。

「清六さん」は賢治実弟の宮沢清六。「ブランデンブルグ」はJ・S・バッハの名曲ですね。光太郎はことのほかこの曲を好み、花巻郊外旧太田村の山小屋周辺を歩いている時に、幻聴でこの曲を聴いたというエピソードがありますし、後に詩「ブランデンブルグ」(昭和23年=1948発表)も書いています。

昨日の『岩手日報』さんから。

光太郎の魅力広める起業 花巻・記念館で勤務した女性ら 活動充実へ合同会社 カレンダー販売や展示

 花巻市で暮らした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の顕彰活動を続ける女性らが、合同会社「やつかのもり」(藤原正代表社員)を設立した。光太郎の食卓を再現した写真を使ったカレンダー販売や、道の駅はなまき西南(同市轟木)での展示、ブログ運営などを展開。本県を愛した光太郎の魅力を広く発信する。
 同社は同市太田の高村光太郎記念館で勤務した女性8人と「賢治と光太郎の郷(さと)」と銘打ち関連グッズも販売する道の駅の役員藤原代表社員(69)の計9人で組織。市内外で顕彰活動を進めようと4月に設立し、光太郎が過ごした山荘に自生するハンノキの方言「やつか」を社名にした。
 事業第1弾となるカレンダーは光太郎が宮沢賢治の家族に振る舞ったとされるアカシアの花の天ぷらなど、文献から推測して再現した料理の写真を掲載した。見開きA3判で500部作製し、800円。
 道の駅では賢治と光太郎に関連した展示を企画。月に1度販売する弁当「光太郎ランチ」の基となる資料提供も行う。
 光太郎ゆかりの場所を歩くブログ「こうたろう散歩道」を運営し、盛岡市でのイベント開催も検討する。
 藤原代表は「多くの人を巻き込み、郷土が誇る偉人の魅力を発信したい」と意気込み、記念館で30年勤務し、光太郎が校訓を贈った旧山口小学校に通った新渕和子副代表(69)は「校訓『正直親切』は、平和を願う気持ちそのもの。その精神をしっかり伝えていきたい」と誓う。
 カレンダーは道の駅などで販売。Eメール(kotarocafe30@gmail.com)でも申し込みを受け付ける。

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というわけで、昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんを拠点に、さまざまな光太郎顕彰活動を事業化する会社「やつかの森LLC」さんが立ち上がりました。

まず、記事にある通り、光太郎の食卓カレンダー花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」に使われた写真を元に構成されています。
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こちらに10部贈って下さいまして、保存用を除いた残り9部をフェイスブックで「送料のみでお分けします」と書き込みましたところ、即日完売。購入して下さった方々から好評でした。

さらに、昨年から行われている「光太郎ランチ」。道の駅のテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんとのコラボです。毎月15日、10食の限定販売だそうで、昨日の販売分がこちら。
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上記画像、後に写っているのは道の駅はなまき西南さんのインフォメーションスペース。光太郎、賢治に関する説明パネルがあり、さらに以前にはなかった光太郎詩「岩手の人」(昭和24年=1949)の書額。光太郎の筆跡ではなく、現代の方が書かれたもののようですが。

今後、さらにいろいろと事業が展開されていくようで、頑張っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

午前、二階で揮毫、「雨ニモマケズ」の後半を横にかく。一枚書き損じ、二枚書く。尚、板の小額に「彧彧」と書く。院長さん得意の文句。面白く書けたり。

昭和22年(1947)10月10日の日記より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋を1週間程あけ、花巻町桜町の佐藤隆房(院長さん)邸に厄介になっていた時の記述です。

「雨ニモマケズ」後半の書はこちら。
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前日には前半も書いています。
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001これらは佐藤隆房邸、宮沢賢治詩碑近くの桜地人館さんで展示されています。

「彧彧」は右の画像。佐藤隆房の回想を引きましょう。

 私は杉の木の並び立つ姿を表現する最もよい字がないかと漢和大辞林を始めから終わりまでくって遂に「彧」の字を探し出しました。先生が山から来たとき私が
「いつかの『ちくちく』(矗々)の字は落第したようですから、漢和大辞林からこういう文字を探しました。」
と紙片に書いたのを出し
「『或』(あるいは)のひっさげ一本のところが三本になってい、これは『エキ』又は『イク』と読んで、『彡』で引くのです。玉蜀黍(とうもろこし)などが繁茂した姿で、『馥郁』の『郁』という字の古文字だそうです。これでどうですか。」
(中略)
「ホウ成程。面白いですね。イクイク、エキエキですか。ここではエキエキですね。その中(うち)書きましょう。」
 先生は墨痕あざやかにその額板にたてに書きました。私はそれをいただいて、潺湲楼の脇床の正面のなげしの上にかけました。先生は坐ってそれを眺めて
「これはよくできた。三本のひっかけは本当に玉蜀黍が風になびいているようだ。」

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こちらは佐藤邸の離れ(潺湲楼)にしばらく掲げられていましたが、現在は花巻高村光太郎記念館さんの所蔵となっています。

都内から能楽系の公演情報です。

山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会

期 日 : 2021年5月30日(日)
会 場 : 銕仙会能楽研修所舞台 東京都港区南青山4-21-29
時 間 : 13時15分開場 14時開演
料 金 : 3,000円
主 催 : 順翁会 稲門観世会

第一部
 ★連吟 智恵子抄
  山本順之 清水寛二 西村高夫 安藤貴康 高橋輝久
 ★独吟 相聞 山本順之
 ★仕舞 嵐山 安藤貴康
 ★仕舞 西行櫻 清水寛二
 ★仕舞 井筒 山本順之
 ★仕舞 天鼓 西村高夫
 ★独吟 玉取(闌曲) 山本順之

第二部
 対談 舞台への思いを聞く 竹本幹夫 山本順之
 
「連吟 智恵子抄」。光太郎が歿した翌年、観世寿夫、武智鉄二により作られた新作能「智恵子抄」が元になっています。
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最晩年の光太郎、「智恵子抄」を能にすることに興味をそそられ、結局、実現はしませんでしたが、面を自分でデザインしようと描いたスケッチが残っています。
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近年はダイジェスト版ともいうべき舞囃子として演じられることが多いそうですが、さらに今回は謡のみの連吟で、動きはないのだと思います。

山本順之(のぶゆき)氏は、観世寿夫に師事し、銕仙会さんの理事を務められている重鎮です。やはり観世寿夫、それから山本氏に師事した清水寛二氏は、先月、江戸川区のタワーホール船堀さんで開催された「もやい展2021東京 3.11から10年 語り継ぐ命の連綿」のステージパフォーマンスの部でも、「智恵子抄」の朗誦をなさいました。

その際は、当方、都合がつかず観に行けませんでしたし、平成30年(2018)に国立能楽堂であった公演「国立能楽堂夏スペシャル 開場35周年記念」で舞囃子「智恵子抄」が演じられた際は、申し込んだところ既に満席。結局、この系列の「智恵子抄」はまだ観たことも聴いたこともありません。そこで、今回の公演を申し込みまして、コロナ感染には十分気をつけつつ、行って参ります。

拝見後、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

午前八時院長さんと同道、光徳寺にゆく。英霊二百数十柱遺骨伝達式なり。遺族多く集まる。

昭和22年(1947)10月10日の日記より 光太郎65歳

光徳寺さんは、光太郎ゆかりの松庵寺さんのすぐ隣です。遺骨伝達といっても、遺骨そのものが戻ってきたわけではなく、死亡が判明し公報が出た戦死者の遺族に神道式の霊璽(仏式の位牌にあたるもの)などが渡されたという取り組みです。敗戦から2年あまり、まだまだ戦争の傷跡は深かったというのがわかりますね。

光太郎、自らの翼賛詩文を読んで戦地に赴き、散っていった多くの若者がいたことを、改めて噛みしめたのではないでしょうか。

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん、一昨日の夕刊のコラムから。

河北抄(5/12)

 終戦直前の花巻空襲。宮沢賢治の実家に疎開していた高村光太郎は、負傷者の救護に当たった医師や看護学生たちの奮闘をたたえ、詩を贈った。
 <非常の時 人安きをすてて人を救ふは難きかな。非常の時 人危うきを冒して人を護るは貴いかな>。どこかコロナ禍と闘う医療従事者の姿に重なる。
 労災による医療・介護従事者の感染は4234件(4月23日時点)。全体の約8割に上る。それでも「戦線」は病棟のみならず、ワクチン接種や五輪・パラリンピックへの協力へと広がる一方だ。
 仙台市は高齢者へのワクチン接種の完了目標を当初より1カ月早い7月末に前倒しし、人材確保を急ぐ。国は接種の加速や五輪会場の医療スタッフに「潜在看護師」を活用する方針だという。さながら「総動員」といった様相に、当事者たちはどんな思いを抱いているだろう。
 どうか、忘れないでほしい。「犠牲なき献身こそ真の奉仕」。近代看護の礎を築いたナイチンゲールの言葉にある。
 きょう12日は「看護の日」。彼女の誕生日にちなんで定められている。

昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲に際し、自らの危険を顧みず、負傷者の看護に当たった花巻の医療関係者を讃え、その表彰式で贈られた詩「非常の時」を引用して下さっています。

ほぼ一年前、『岩手日報』さんが「「非常の時」共感呼ぶ 高村光太郎が花巻空襲後に詩作 勇敢な医療者たたえる」という記事を載せて下さいました。その前後、岩手では「非常の時」が「コロナ禍と闘う医療従事者の姿に重なる」と話題になり、各種メディアで取り上げられました。

手作り光太郎マスク寄贈。
「「非常の時」に将来重ね 花巻高看 高村光太郎学ぶ」。
「非常の時」/「雲」 『岩手日日』さんから。
IBC岩手放送「わが町バンザイ」。

今回、地元岩手ではなく、宮城発のメディアで光太郎詩を取り上げて下さったのはありがたいのですが、こうしてみると一年前と何ら状況が変わっていない気がして、複雑な思いです。

とりわけ、医療従事者の皆さんの一年以上にわたる奮闘ぶりには、まったくもって頭が下がります。本当に、少しでも早く、この状態の収束・終息することをねがってやみません。

ちなみに、もう少し後で詳しくご紹介しようと思っておりますが、光太郎が歿した昭和31年(1956)に発行された、花巻病院さんの絵葉書セットを入手しました。

その中に、昭和20年(1945)に光太郎から贈られた「非常の時」が書かれた書の写真を使ったものも含まれていました。
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詩を活字で記した紙片も同封。誤植が多いのが残念ですが。
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この書は現在、花巻高村光太郎記念館さんで展示されています。コロナ終息・収束後、ゆっくり落ち着いてご高覧いただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

午前九時松庵寺にゆく。院長さん奥様も一緒に来らる。寺に宮沢老人あり。余と三人。読経十一時頃終る。母二十三回忌法事。母の事をいろいろ思出す。暫時寺にて談話。

昭和22年(1947)10月9日の日記より 光太郎65歳

母・わか、大正14年(1925)9月10日。父・光雲、昭和9年(1934)10月10日。妻・智恵子、昭和13年(1938)10月5日。最も近しい三人の命日が9月、10月に固まっていたため、毎年、三人を供養する法事の類はこの時期にまとめておこなってもらっていました。この年は、特に母・わかの23回忌ということで、それがメインでした。

花巻中心街の松庵寺さんには、この際に光太郎が詠んだ短歌「花巻の 松庵寺にて 母に会ふ はははりんごを たべたまひけり」が刻まれた碑が立っています。

「院長さん」は、「非常の時」を贈られた佐藤隆房医師、「宮沢老人」は賢治の父・政次郎です。

長野県の松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さんが、昨日の一面コラムで光太郎智恵子に触れて下さいました。

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先週のゴールデンウイークとその延長の週末、案の定、北アルプスなどでの登山者の遭難事故が起きた。春山と言っても、風雪は冬山同様である。まれに軽装で登って行って動けなくなり、助けを求める人がいるけれど、山はまさに大自然、常に険しく、厳しい◇「人はなぜ山に登るのか」の哲学的な問いはさておき、古今東西、人はそこにある山に分け入り、登り、祈り、ルートを切り開いてきた。岳人のみならず、文人もかつてはよく登り、小説、詩、エッセーなどに残した。山と対峙することで、自己再生を期し、創作意欲をかき立てたのだ◇高村光太郎もその一人。光太郎は東京生まれで、彫刻家を志し、ニューヨーク、ロンドン、パリに留学するなど、極めて都会的、先進的な若者だったにもかからわず、心に屈託を抱え、73年の生涯で3度、山に向かい、自分を見つめ、生きる力を得た。最初はかの智恵子を知った後の上高地滞在である◇次は智恵子が発症してからの東北めぐり。そして最後は敗戦後、戦争責任を痛感しての岩手・花巻郊外の山小屋独居生活。これは晩年の7年に及んだ。人と山を考える一つの典型がここに。

73年の生涯で3度、山に向かい」というのがちょっと引っかかります。光太郎は山好きで、ここにあげられた3度以外にも、いろいろ山歩きをしていますので。

たとえば上州赤城山。留学前の明治37年(1904)には5月から6月と、いったん帰京した後の7月から8月、つごう2ヶ月間も滞在しましたし、留学から帰った年の明治42年(1909)、それから昭和4年(1929)には当会の祖・草野心平らと、さらに昭和6年(1931)には父・光雲と訪れています。
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また、同じ上州山中のいわゆる秘湯と呼ばれる温泉を、大正から戦時中にかけ、かなり踏破しており、それも「山歩き」です。今で言うトレッキングに近い形だったようですが。

信州も大正2年(1913)の上高地滞在だけではありませんでした。数え19歳の明治34年(1901)8月から9月には、戸隠、野尻、松本、木曽福島、御嶽山、さらに新潟にも足を伸ばし、赤倉や妙高山も訪れています。

遡って明治32年(1899)には、祖父・中島兼吉(通称・兼松)と共に富士山にも登っています。

ただ、それらは人生の転機という時期ではなかった部分もあり、その意味では、『市民タイムス』さんが取り上げた「3度」とは、確かに意味合いが異なるかも知れません。

ちなみに2度目として位置づけられている「次は智恵子が発症してからの東北めぐり」。昭和8年(1933)の話ですが、その中で訪れた福島の土湯温泉の外れにある不動湯温泉さんが、昨夜、BS TBSさんで放映された「美しい日本に出会う旅▼福島 花めぐり湯めぐり 絶景の桃源郷と山桜のはちみつ酒」で取り上げられました。

一昨年、初回放映があったものの再放送でしたが、初回放映の際には気づきませんで、昨夜、初めて拝見。事前に出た番組説明の中に「山道をゆけば、土日限定の日帰り湯を発見!」というくだりがあって、もしかすると不動湯さんかな、と思いましたら、ビンゴでした。残念ながら、「光太郎智恵子ゆかりの温泉」という紹介は為されませんでしたが。

5/14追記 土湯温泉さんの紹介の中で、光太郎智恵子に触れて下さっていました。
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ただ、「何度も」は訪れていませんが……。
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そして3度目、「敗戦後、戦争責任を痛感しての岩手・花巻郊外の山小屋独居生活」。昨日も書きましたが、今週末の5月15日は、昭和20年(1945)、駒込林町のアトリエ兼住居を空襲により焼け出され、疎開のため花巻へ向かった日ということで、例年であれば花卷高村祭が行われるはずでした。山小屋のあった花巻郊外旧太田村に移ったのは、終戦後の10月ですが、ぜひ、この機会に光太郎の山小屋生活に思いを馳せていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

智恵子祥月命日。線香をたく。


昭和22年(1947)10月5日の日記より 光太郎65歳

南品川ゼームス坂病院で、粟粒性肺結核のため智恵子が亡くなったのは、昭和13年(1938)10月5日でした。

003やはりコロナ禍のため、各種イベントの中止/延期、或いは内容変更等が相次いでいます。予定通り実施されれば、「光太郎歿後年譜」に記載となるはずでしたが……。

例を挙げますと……

・ 日経カルチャーツアー「ほんとの空」に咲き誇る桜(福島県二本松市)
 当初予定 2021年4月18日(日) → 中止

智恵子実家の長沼家菩提寺である、二本松市の満福寺さんを会場としたイベントの予定でした。昨年、二本松で開催された「智恵子講座2020」で当方が講師を務めさせていただいた折、ご聴講下さった、都内からお越しの「かたりと」のお二人(津軽三味線の小池純一郎氏、奥様で朗読家の北原久仁香さん)による「智恵子抄」朗読等が組まれていました。都内出発のツアーで、やはりコロナ禍のためでしょう、最小催行人数に達せず、中止となりました。

・第111回碌山忌(安曇野市碌山美術館)
 当初予定 2021年4月22日(木) → 関連行事等中止、入館料無料措置のみ

光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の忌日イベント。例年であれば、館内グズベリーハウスで懇親会。光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)の全員での朗読から始まっていました。

・芸能福島県人会 40周年記念 ふるさと特別公演(福島市とうほう・みんなの文化センター)
 当初予定 2021年4月30日(金) → 延期(詳細日程未定)
福島県出身・ゆかりの芸能人らでつくる芸能県人会の設立40周年記念ふるさと特別公演。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故発生から10年の節目に、復興への祈りを込めた音楽を県民に届ける。初代会長を務めた作曲家・古関裕而(福島市出身)、二代目会長の作詞家・丘灯至夫(小野町出身)らの名曲を披露する。

昨年亡くなった二代目コロムビア・ローズさんのヒット曲「智恵子抄」がプログラムに入っていました。
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・歌曲集『智恵子抄』独唱会(世田谷区響堂ホール
 当初予定 2021年5月8日(土) → 延期(秋以降) 
清水脩:歌曲集『智恵子抄』他 中村 仁(テノール)/石川奈々歩(ピアノ)

・高村祭(花巻市高村山荘敷地内)
 当初予定 2021年5月15日(土) → 中止

昭和20年(1945)、光太郎が花巻に向けて疎開のため東京を発った日を記念してのイベント。例年通りであれば、記念講演、地元の小中高生、看護学校生による詩朗読等が行われていました。

・安達太良山山開き(福島県二本松市)
 当初予定5月16日(日) → 規模縮小して実施

智恵子の故郷・二本松に聳える安達太良山の登山シーズンオープン。これも例年であれば、山頂で各種イベントが開催されていましたが、登山口で関係者のみ出席の安全祈願祭だけとなりました。
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・ 田端文士村記念館ひととき講座「平塚らいてう没後50年~青鞜から新婦人協会までの軌跡~」(北区田端文士村記念館)
 当初予定 2021年5月16日(日) → 中止

智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』がらみの市民講座でしたが……。

それぞれ、企画して下さったことに感謝し、ご紹介いたしました。一度「中止」となったものも、再度復活することを望みますし(富山県水墨美術館さんで、昨年、「中止」と発表された「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は、今年、10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。同様の措置を期待します)、逆に「延期」となったものが、「再延期」や「中止」とならないように祈るばかりです。

【折々のことば・光太郎】

豊沢川畔にて院長さん宅よりもらひし弁当をたべる。中島橋の仮橋無事。


前日の賢治祭のため、花巻町中心街に出ていた帰り。中島橋は花巻電鉄の二ツ堰駅があった近くです。その数日前、豪雨で豊沢川が氾濫していました。
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都内から演奏会の情報です。

平松混声合唱団 第36回定期演奏会 明日へ向かって発つ~心ひとつに~

期 日 : 2021年5月21日(金)
会 場 : 渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール 東京都渋谷区桜丘町23-21
時 間 : 開場 6:15pm 開演 7:00pm
料 金 : ¥3,000(全席自由)

指 揮 : 平松剛一  合唱 : 平松混声合唱団   ピアノ:金井信

第36回定期演奏会は感染症に対策しつつ開催いたします。

曲目
 群青(福島県南相馬市立小高中学校平成24年度卒業生/詩) 小田美樹/曲
 景色がわたしを見た 寺島尚彦/曲
 混声合唱組曲 「レモン哀歌」 より 平吉毅州/曲
 カイト 米津玄師/曲
 旅立ちの日に 坂本浩美/曲
 You Raise Me Up R. Lovlant/曲
 瑠璃色の地球 平井夏美/曲  
  他
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平松混声合唱団さんは、昭和57年(1982)に結成されたアマチュア合唱団ですが、これまでに全国合唱コンクール金賞受賞、海外での公演も行うなど、ハイレベルな団です。

故・平吉毅州氏による混声合唱組曲「レモン哀歌」は、同団の委嘱作品として作曲され、「あどけない話」、「山麓の二人」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、そして「レモン哀歌」の全4曲です。
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全4曲の初演は平成5年(1993)。その後、音楽之友社さんから楽譜集、フォンテックさんからCDも発売されました。
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楽譜集に掲載された、作曲者、故・平吉毅州氏の言葉「哀切なる,その愛」。

 平松混声合唱団の主宰者であり指揮者である平松剛一氏から、新作依嘱のお話をうかがった時、詩は作曲者が選んでよい、とのことだった。
 その条件は、作曲する側にとってとても嬉しいことであると同時に、仲々厄介なことでもある。
 世の中に、素晴らしい詩は沢山あるのだけれど、いざ、合唱組曲のための……となると、その選択は容易でない。極端な云い方をすれば、詩が決まった時点で作曲の仕事の半分は出来たみたいなもの、なのである。
 この曲の場合も、詩が最終的に決するまでに多くの時間を必要とした。
 詩を、小説や評論などと共に乱読したのは、私の場合、10代から20代にかけての頃だったように思う。その後も、今に至るまで、年に一度くらいは、新宿の紀伊国屋あたりで何時間も立ち読みをしては、1冊2冊と買い込んできてしまう。
 しかし、やはり若い頃に読んだもの程心の中に残っているようで、特に「智恵子抄」は、いつか、作曲してみたい、と思い続けてきた詩である。
 「そんなにも、あなたはレモンを待っていた……」の一節は、ずっと私の胸の中にすみついていたような気がする。
 光太郎の詩は、決してきれいごとではない、日常生活における生身の人間の、痛切な愛をうたったものである。作曲するにあたって、あらためて「智恵子抄」を読み通し、最終的に選んだ4篇を、彼等夫婦の、人生の景色の順序に従って組曲とした。光太郎の世界にどこめで踏み込めたのかどうか、私にはわからない。しかし、私なりに充実した仕事をさせていただいたという実感は確かにある。
 智恵子の作った数々の紙絵の、その見事なかたちと色彩は、今も私の網膜に鮮やかに写っている。時に口汚く声高に夫を罵しるかと思えば、療養地で作りためたそれらの紙絵を、はにかみながらそっと夫に差し出す智恵子の姿が、夫婦の間の、愛憎の葛藤に身を灼かれているようで、何とも痛々しい。
 狂気と正気の間を生き抜いた智恵子、それを一緒に生きた光太郎。哀切としかいいようがない。
 おわりに、この曲を書かせて下さった平松剛一氏と、感動的な初演をして下さった平松混声合唱団の皆さん、そして出版に御尽力いただいた音楽之友社の市川徹氏に、心からの感謝の意を表する次第である。


ひさしぶりにCDを聴いてみました。

めまぐるしく変わる拍子とテンポ、散りばめられた複雑な和音(時に不協和音)、非常に細かく指示されたディナミーク、いかにも現代音楽ふう、と思いきや、M1「あどけない話」からM4「レモン哀歌」まで一貫してイ短調(終末部はハ長調)、「なるほど」と思いました。

また、平吉氏がこだわったであろう「狂気と正気の間を生き抜いた智恵子」を表すような、不安定な音型が随所に現れ、逆にありのままの智恵子の一切をを包み込む光太郎を表現したであろう部分では、ポリフォニーを避け、ホモホニックな展開。難易度はなかなか高めです。

さて、今回の演奏会。「混声合唱組曲 「レモン哀歌」 より」となっていますので、抜粋での演奏なのでしょう。

会場の渋谷区文化総合センター大和田さくらホールさん、キャパは367席だそうですが、コロナ感染対策として50㌫までの入場制限とのこと。感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

四時半頃賢治の会会場にゆく。「生必」二階。余も十五分ばかり話。会衆多し。後鹿踊を前庭にて見る。


昭和22年(1947)9月21日の日記より 光太郎65歳

昭和8年(1933)のこの日に亡くなった宮沢賢治を偲ぶ賢治祭。岩手在住時の光太郎、ほぼ毎年欠かさず参加していました。

「生必」は「生活必需品組合」。戦時中に全国的に組織された、配給等を管轄するためのもののようです。戦後も配給制度が続いたため、まだ存続していたのですね。

テレビ放映情報です。

美しい日本に出会う旅▼福島 花めぐり湯めぐり 絶景の桃源郷と山桜のはちみつ酒

BS TBS 2021年5月12日(水) 21:00〜21:54

瀬戸康史さんが案内する福島の春。遅い春を迎え、山も里も花盛りです。春の名所・花見山、実は花木農家が手塩にかけて育てた「畑」って、ご存知でしたか?今も進化を続けています。福島ではずせないのは温泉めぐり。こけしブームに盛り上がる土湯温泉に、岳温泉。山道をゆけば、土日限定の日帰り湯を発見!自慢は湯とおかみさん。人気の秘密とは? 知られざる絶景が、桜峠。山全体に植えられた山桜が色とりどりに咲き誇ります。その桜から生まれるはちみつが、世界最古の酒に変身?しだれ桜咲く町・喜多方は、実はレンガの町。モダンなレンガ造りの蔵があちこちにあるのです。これも喜多方名物!さらに、このレンガが生む美味がレンガ焼きのせんべいでした。福島の絶景と、訪ねたくなる湯の町めぐり。お楽しみに!

旅の案内人・語り:瀬戸康史

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初回放映が一昨年5月だったそうで、その際には気づきませんでした。

花の名所、福島市の花見山が取り上げられる他、「ほんとの空」があると智恵子が言った安達太良山麓の岳温泉さんも紹介されます。
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宿泊されるのかどうか不明ですが、取り上げられる宿は花かんざしさん。当方、宿泊したことはありませんが、日帰り入浴をさせていただいた記憶があります。

それから、番組説明の中で気になるのが「山道をゆけば、土日限定の日帰り湯を発見!」というくだり。もしかすると土湯温泉の山中にある不動湯さんかな、と思いました。

不動湯さんは、昭和8年(1933)、心の病が昂進した智恵子の療養のため、東北と北関東の温泉巡りをした際に二人で泊まった宿です。
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かつてはその際の宿帳が現存し、光太郎智恵子が泊まった部屋ともども拝見させていただいたのですが、平成25年(2013)に火災で全焼、建物も宿帳も灰燼に帰しました。その後、残った露天風呂を使って、土日祝日限定の日帰り温泉施設としてリニューアル。当方、平成29年(2017)、よく調べずに行ってみたところ、平日だったので入浴は出来ませんでした。

番組説明の「山道をゆけば、土日限定の日帰り湯を発見!」が、不動湯さんであることを祈ります。違ったらごめんなさい(笑)。まぁ、岳温泉さんは必ず取り上げられますので、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

右眼結膜に白点あり、トラならずやと思ふ。尚坊主蚊に眼のふちをくはれ、はれる。

昭和22年(1947)9月19日の日記より 光太郎65歳

「トラ」は眼病の「トラコーマ」、別名「トラホーム」です。現代の日本ではほとんど聞かなくなったと思われます。それがすぐわかってしまうのは、当方の年代のせいでしょう(笑)。

ちなみに光太郎のトラ疑惑は杞憂に終わったようでした。

5月2日(日)の『読売新聞』さん岡山版から。

田中美術館 スケール大きく 新館建設始まる 井原の彫刻家顕彰 アトリエなど検討

 「おとこざかりは百から百から」としたため、86歳で完成させた代表作「鏡獅子」(木彫彩色)で知られる井原市出身の彫刻家・平櫛田中(ひらくしでんちゅう 1872~1979年)を顕彰する市立田中美術館の新館建設工事が始まった。現在、休館中の同美術館敷地内で進められている。開館は2023年4月予定で、地元ファンは「田中のスケールの大きな生き方と作品は市民の誇り」と開館を待ち望んでいる。
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 新館は3階建て延べ3600平方㍍で、彫刻制作の体験教室を開催できるスペースや、プロの彫刻家が制作できるアトリエなどを検討している。休館中の建物(3階建て)も一部を改装して新館と接続し、使用する。事業費約14億円。
 手先が器用だった田中は、13歳まで後月郡(現・井原市)で育ち、大阪の小間物問屋に奉公に出た。やがて、大阪の人形師に師事。20歳代半ばで上京し、彫刻家・高村光雲に教えを請うた。
 鋭い観察眼で人間味あふれる作品を多く制作。1944~52年には東京美術学校(現・東京芸術大)の教授も務めた。
 現在、東京の国立劇場ロビーに飾られる「鏡獅子」(高さ約2㍍)は、六代目尾上菊五郎をモデルにした大作で、視線の向きなどを変えながら納得のいく形を追求し、制作に約20年を費やした。「2億円で買い取るという申し出を断り、国に寄贈した」とのエピソードも残る。
 故郷への思慕は強く、井原市内の学校に自作を贈るなどし、後に知られる「いま やらねば いつ できる わしが やらねば たれが やる」の書が掲げられた学校もあったという。
 小学校でこの言葉を学んだという井原鉄道・井原駅の市観光案内所勤務の北田利恵さん(56)は、「この言葉は、幼い頃から私たちを奮い立たせてくれました。私たちの誇りです」と話す。
 市立田中美術館は、田中が90歳で文化勲章を受章した後の69年に前身の田中館として開館。73年に現在の名称に改め、83年に今休館中の建物をオープンさせた。
 木彫や石こう像、ブロンズ像など所蔵作品は、ゆかりの品を含め約1000点で、年間約1万3000人が訪れる。老朽化が進んだことから、新館建設や改装が決まった。
 工事の安全祈願祭が4月14日にあり、くわ入れをした大舌勲市長は「新しい美術館が井原に生まれ育った人たちの誇りとして伝えられ、一度行ってみたいと言われる美術館にしたい」とあいさつした。
 井原駅のギャラリーでは、「鏡獅子」の原型となった石こう像など4作品が展示されている。同美術館学芸員の青木寛明さん(50)は「いいものを作る努力を惜しまず、107歳まで現役を貫いた。尊敬できる人物です」と話す。
 同美術館は昨年末から休館中。問い合わせは同館(0866・62・8787)へ。


岡山県井原市の市立田中美術館さん。光雲に師事した平櫛田中の作品群を常設展示するほか、やはり彫刻の企画展が多く、平成25年(2013)には「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」を他2館との巡回で、昨年には「没後110年 荻原守衛〈碌山〉―ロダンに学んだ若き天才彫刻家―」を単独で、それぞれ開催して下さっています。

新館の開館はまだまだ先のようですが、いずれはまた光太郎、それから田中の師である光雲がらみの企画展等が開催されることを期待します。

【折々のことば・光太郎】

朝八時過、朝日新聞記者自転車でくる。中島橋渡れず、県道の報から来た由。今朝五時に起きて来たとの事。新岩手日報にたのまれて廿一日の賢治の命日の為に賢治について談話筆記したしといふ。三十分ばかり話す。


昭和22年(1947)9月17日の日記より 光太郎65歳

この談話筆記、『高村光太郎全集』には漏れていましたが、数年前に見つけました。
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「中島橋渡れず」は、この数日前までの豪雨のせいでした。

先月24日の『読売新聞』さん。おそらく東北各県版での連載と思われます。

とうほく名作散歩 詩集智恵子抄 福島県二本松市 愛する妻思う青い空

 福島県二本松市は、詩人で彫刻家だった高村光太郎の妻・智恵子(1886~1938年)が生まれた土地だ。
 生家に近い鞍石山の周辺は「智恵子の杜公園」として整備され、光太郎の詩碑が建つ。4月上旬に訪れると桜がちょうど満開で、残雪を抱く安達太良山(標高1700㍍)が西の方角に見えた。頭上は雲一つない青空が広がっている。
 〈智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。(中略)阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。〉(あどけない話)
 高校の教科書にも掲載されている詩集「智恵子抄」に収められた作品の有名な一節。東京で妻が思いをはせた遠い古里の空を、光太郎はそう詠んだ。
 17歳で上京した智恵子は日本女子大学校(現在の日本女子大)に入学し、卒業後、洋画家の道に進む。知り合いの紹介がきっかけで光太郎と出会い、28歳で結婚した。
 ところが、東京の生活は順風満帆とはいかなかった。都会暮らしになかなか慣れず、展覧会に出した自身の絵画が落選したこともあって、気分はふさぎがちだった。年に数か月は二本松の実家で過ごし、たまに光太郎も一緒に滞在した。
 「智恵子の苦悩をよく理解した上で、光太郎はあえて直接書かずに『あどけない』と表現した。そのことが詩に深みを与えている気がする」。地元の市民団体「智恵子のまち夢くらぶ」の代表、熊谷健一さん(70)はそう語る。
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 造り酒屋だった生家は現在、1階が一般公開されている。台所や居間のほか、少女時代に使用していた琴や、光太郎の影響でベートーベンの交響曲第6番「田園」を好んで聞いたという蓄音機を展示。戦前の瀟洒(しょうしゃ)な暮らしぶりがうかがえる。
 生家の隣には酒蔵をイメージした智恵子記念館がある。ここで目を引くのは、色紙を切ってつくる「紙絵」の作品群だ。心の病を患い、52歳で亡くなる智恵子が晩年に病室で創作にのめり込んだ。
 「千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない」と光太郎は随筆で書いている。
 智恵子の解説本の編さんに関わった二本松市教育委員会の元職員、根本豊徳さん(69)は「残された紙絵はどれも素晴らしく、やはり天性の才能があったことを思わせる。光太郎は詩で、智恵子は紙絵で、それぞれ夫婦愛を表現したのでしょう」と指摘する。
 作品に登場する智恵子は優しくて、はかない印象だった。だが、生まれ育った二本松を歩いてみると、自然豊かな土地で芸術家としての感性を磨き、生きることに最後まで無器用だった一人の女性の姿が浮かび上がってきた。
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心に残る詩「総選挙」
 「智恵子抄」は太平洋戦争が始まった1941年に出版された。明治から昭和にかけて高村光太郎が妻への思いを詠んだ詩29編のほか、短歌などが収められた。光太郎の研究で知られる文芸評論家・北川太一は「若者の心をとらえ、さまざまな形で絶えることなく読みつがれ、人々の心に浸みとおっていった」とつづっている。繰り返し映画やテレビドラマにもなった。
 二本松市ではさまざまな顕彰活動が展開されている。
 「智恵子のまち夢くらぶ」は、生家沿いの県道の名称を全国から募集し、「智恵子純愛通り」と命名。出版から80年となる今年は光太郎の詩から最も心に残った作品を決める「総選挙」を10月まで実施している。
 生家のそばにある「戸田屋商店」は30年前にスーパーを改装し、高村夫妻の著書や土産品を置くようになった。店主の服部弘子さん(75)は「せっかく二本松に来てくれた人に、少しでも智恵子さんのことを覚えて帰ってもらいたい」と話す。店内には客が持ち寄った智恵子の写真や新聞記事の切り抜きなどが並ぶ。
 市教委は「智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」を毎年開催している。福島県内と、光太郎ゆかりの地・岩手県花巻市の小学生が参加できる。

メモ
 智恵子の生家と智恵子記念館は、JR東北線安達駅から徒歩で20分。東北自動車道・二本松インターチェンジからは車で10分。
 生家では、智恵子の誕生日の5月20日に合わせ、「高村智恵子生誕祭」を毎年開催する。今年は4月24日からで、2階居室を特別に公開するほか、智恵子の紙絵をモチーフにした切り絵体験もできる。両施設の入館料は共通で、小・中学生210円、高校生以上410円。開館時間は午前9時~午後4時半。毎週水曜と年末年始は休館。
 智恵子の杜公園の入り口までは生家から歩いて5分ほど。2人が散歩した山道を30分ほど登ったところに、光太郎の詩碑「樹下の二人」がある。詩の描写そのままに、安達太良山や阿武隈川が眼下に望める。
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昨日ご紹介した「詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む」と同じ、「とうほく名作散歩」という連載の一環です。同じ作家が続けて取り上げられるのは珍しいような気がします。もっとも、今回は光太郎より智恵子がメインですが。

「「智恵子抄」総選挙」に関してはこちら戸田屋さん小学生紙絵コンクール生家2階居室の特別公開紙絵の制作体験についても、それぞれリンクをご参照下さい。

【折々のことば・光太郎】20a98038

姉咲子の命日、 今日も雨やまず、ふつたりやんだり。


昭和22年(1947)9月9日の日記より
 光太郎65歳

光太郎の長姉・(さく/咲子)が亡くなったのは明治25年(1892)、咲は数え16歳、光太郎はその時同じく10歳でした。55年も前のことを、日記に記しているのですね。もっとも、母・わかの命日が翌日なので、セットで記憶していたのでしょう。わかが亡くなったのは大正14年(1925)でした。

狩野派の日本画を学び、将来を嘱望されていた咲。幼い光太郎にとっては自慢の姉でした。

牽強付会のそしりを受けそうですが、同じく絵画の道を志していた智恵子に、光太郎は咲の俤を見たのかもしれません。

先月2日の『読売新聞』さんから。おそらく東北各県版での連載と思われます。

とうほく名作散歩 詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む

 12年に1度、岩手の人びとが持ち出す詩がある。高村光太郎(1883~1956)の「岩手の人」だ。
 「『岩手の人沈思(ちんしん)牛の如(ごと)し。(中略)地を往きて走らず、企てて草卒ならず、つひのその成すべきを成す。』牛は岩手の象徴であり、丑(うし)年は岩手の年です」
 1月4日、達増拓也知事が年頭訓辞に引用し、新型コロナウイルス対策や東日本大震災からの復興に力強く取り組む決意を述べた。
 宮沢賢治や石川啄木を生んだ岩手で、彫刻家で詩人の高村光太郎だ戦火を逃れ、晩年を過ごしたことはあまり知られていない。
 1945年、東京・駒込のアトリエを焼け出された光太郎は、賢女の弟・清六に招かれて疎開。太田村山口(現・花巻市太田)の山小屋で暮らし始める。
 「岩手の人」が収められ、読売文学賞を受賞した詩集「典型」の表題作や連作詩「暗愚小伝」などは、この山中で書かれた作品だ。
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 光太郎が住んだ山小屋は、「高村山荘」として現地保存され、当時の暮らしを伝えている。隙間風の吹き込む夜が容易に想像でき、「自己流謫(るたく)」(流刑)と言われる厳しい生活がしのばれる。
 一方、光太郎は地域の人びととも親しく交流した。当時、小学生だった高橋征一さん(78)は「近寄りがたい人ではなかった」と振り返る。小学校の運動会に参加したり、開校記念日にサンタクロースに扮(ふん)してお菓子を配り、一緒に踊ったり。「偉い人なんだなあと思っていたが、こういう先生だとは思わなかった」。典型で得た賞金は、同校に寄付した。
 光太郎の詩に、牛をモチーフにしたものが多いことについて、花巻高村光太郎記念会事務局の高橋卓也さん(44)は「牛歩の歩みであっても、『力強く確実に』という、県民気質を感じたのでは」と分析する。
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 八幡平市在住の絵本編集者、末盛千枝子さん(80)が生まれた時、父の彫刻家、舟越保武(1912~2002)は、光太郎に娘の命名を願った。
 光太郎の影響で彫刻家を志した岩手県出身の舟越が1941年、アトリエを訪ねて頼み込むと、光太郎は「(亡くなった妻の)智恵子しか思い浮かばないけれど、悲しい人生になってはいけないので、字だけは替えましょうね」と答えたという。その年「智恵子抄」が刊行された。
 末盛さんは長年、複雑な思いを抱えてきたが、「私は今やっと『(中略)本当に有り難(がた)く、とても大切に思います』と心から言える」と自著で述懐している。舟越は「日本二十六聖人殉教記念碑」で62年、高村光太郎賞を受賞した。
       ◇
 「岩手の人」はこう結ばれる。「斧をふるつて巨木を削り、この山間にありて作らんかな、ニツポンの脊骨岩手の地に 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。」。岩手に「日本のメトロポオル(中心)」を見いだした、光太郎らしい言葉かもしれない。
 連翹(れんぎょう)を愛した光太郎は、その黄色いかれんな花が咲く頃、静かに眠りについた。4月2日は連翹忌。

絵描いた温泉客室を移築
 高村山荘から北に8㌔、花巻市湯口の大沢温泉山水閣では、光太郎が愛用した「牡丹(ぼたん)の間」が今も宿泊客を受け入れている。
 大沢温泉は、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷(えみし)との戦いで受けた毒矢の傷を癒やしたとの伝説に始まる。宮沢賢治や光太郎も何度か訪れたが、その理由について、高田貞一(さだかず)社長は「やはり泉質でしょうね」と言う。
 「昔の温泉は治療の場でもあった。家で風呂に入るには井戸から水をくんで、薪(まき)でお湯を沸かさなければならなかったから、好きな時に入れる温泉はぜいたくでした」と高田さん。今も長期滞在者のため、大沢温泉には自炊部があり、布団を持ち込み、自分で料理や掃除をすれば、2000~3000円台で泊まることができる。
 牡丹の間は、10畳、6畳、3畳の三間続きの角部屋。豊沢川の流れに面し、光太郎がこの部屋で牡丹の絵を描いたことから名付けられた。山水閣の建て直しを経て、現在は光太郎が宿泊した当時の床の間や欄間、床板などの内装を移築し、当時の雰囲気を残している。
001
メモ
 高村光太郎記念館は、JR東北線花巻駅から12㌔、タクシーで15~20分。東北自動車道花巻南インターチェンジ(IC)からは11㌔。「道程」などの代表作4編の詩や、「少年の首」「十和田裸婦像試作」などの彫刻作品を展示しているほか、書や草稿、服や靴からは、当時の息づかいが感じられる。すぐ隣に高村山荘がある。
 両施設共に入館料は、小・中学生150円、高校生、学生250円、一般350円。開館時間は午前8時半~午後4時半。年末年始休館。
005
かなりスペースを割いていただき、花巻郊外旧太田村での光太郎を語って下さいました。

冒頭近くの達増知事の訓示、詩「岩手の人」などについてはこちら。当時の光太郎をご存じの高橋征一さんについてはこちらなど。平成30年(2018)の高村祭では、当方が聞き手となって、高橋さんほか4名の方々の、光太郎の思い出を語ってもいただきました。お元気そうで何よりです。

末盛千枝子さんについても、久しぶりにお名前を拝見しました。引用されている御著書は『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』。平成28年(2016)の刊行です。

一点、苦言を。大沢温泉さんの「牡丹の間」紹介の中で、「光太郎がこの部屋で牡丹の絵を描いたことから名付けられた。」とあるのは誤りで、この部屋に複製が飾られている光太郎の牡丹の水彩画は、昭和20年(1945)、旧太田村に移る前、最初に疎開した宮沢家で描かれたものです。光太郎、この時点ではまだ大沢温泉さんは未踏の地でした。
004
003昨日も書きましたが、今月末から来月初めにあちらに行くことになりそうなので、彼の地の初夏の空気を堪能してきたいと思っております。

明日は同じ「とうほく名作散歩」、「智恵子抄」で。

【折々のことば・光太郎】

曇、涼、 トマト倒れたのを直す。実つきすぎて重く軸のもぎれかかつたのもあり。


昭和22年(1947)9月7日の日記より 光太郎65歳

上記「とうほく名作散歩」、花巻郊外旧太田村での光太郎が、このようにがっつり農耕にもいそしんでいた記述があれば、なおよかったと思いました。

昨日は、県立図書館さんに行っておりました。自宅兼事務所や近隣の図書館さんですと、ネット上のデータベースでの調査に限界があるためです。

『読売新聞』さんの地方版記事で、光太郎智恵子光雲がらみがいろいろありましたので、しばらくはそちらをご紹介します。

まず、4月2日、岩手版の記事。「うめえなっす」という連載の一環のようです。

うめえなっす 賢治の注文料理堪能 天ぷらそばとサイダー やぶ屋(花巻市)

002 天ぷらそばと三ツ矢サイダー。一見、珍しい組み合わせが「やぶ屋」の看板メニューだ。花巻市出身の詩人・宮沢賢治(1896~1933年)が好み、「賢治さんのセットをください」というファンが相次いだことから、いつからか「賢治セット」と呼ばれるようになった。 まずはサイダーで喉を潤してから、麺をすする。そばは、県産のそば粉のみを使った二八のひきぐるみで、香り豊かだ。かつお節で取っただしに、1923年(大正12年)に創業した時から代々引き継いでいる「かえし」を加えた、濃厚なつゆが麺によく絡む。
 エビと季節の野菜の天ぷらは、創業時からの衣の大きい「草履揚(ぞうりあげ)」を貫き、見た目も派手だ。つゆと油を堪能したところで、再びサイダーをグイッ。冷たい気泡が食道を通り、すっきりすると、更に箸が進んだ。
 やぶ屋は、創業者が仙台市の同名の店で修業したことにちなむ。賢治は、英語で「BUSH(ブッシュ)」と呼び、同僚や教え子と度々訪れた。賢治が「一杯やろう」と言えば、お酒ではなく、サイダーだった。彫刻家で詩人の高村光太郎が通った、という証言も残されている。
 営業部長の笹川博之さんは「全国からたくさんのファンが来る。賢治人気に驚くばかり」と話す。笹川さんによると、20年以上前、花巻でサイダーの売り上げが伸びていたため、生産するアサヒ飲料(東京)が店を訪ねてきた。理由を知った同社は、広告で賢治のエピソードを用いるようになったという。
 木造2階建てだった店舗は、現在4階建てになり、宴会場も含めて600席ある。新型コロナウイルスで席数を減らしたが、メニューは普段通り。苦難の中でも、伝統と味を守り続ける構えだ。
思い巡らせそばを食す
 宮沢賢治には筋金入りのファンが多い。笹川さんは客から「賢治さんはそばから食べたの? それともサイダーから?」と聞かれて戸惑った。記録は残っていないので、実際にどう食べたかはわからない。
 訪れるファンの世代や性別は様々だが、皆、賢治に思いを巡らせながら、そばを食べるのだろう。自分も想像しながら食べてみた。「うめえなっす!」と言う賢治の姿が、浮かんだ。
メモ
 「天ぷらそばとサイダー」は1000円。「わんこそば」は中学生以上3000円、小学生2500円、小学生未満2000円(いずれも税別)。仕出しや出前も可能。月曜定休。
 花巻総本店は、JR花巻駅から徒歩10分、JR新花巻駅から車で15分。JR盛岡駅の駅ビル「フェザン」にも店舗がある。問い合わせは、花巻総本店(0198・24・1011)へ。

花巻市のやぶ屋さん。賢治が天ぷらそばとサイダーをよく注文していたというエピソードは、比較的有名ですね。当方も何度か訪れ、このセットを頂きました。

魚乃目三太さん著のコミック『宮沢賢治の食卓』でも、当然のように紹介されています。
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賢治がまだ健康だった花巻農学校の教師時代、そしてやぶ屋さんが創業した大正12年(1923)頃のエピソードです。

ちなみに光太郎も登場する同じ魚乃目三太さん著の『続 宮沢賢治の食卓』でも、やぶ屋さん。
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002「雨ニモマケズ」を手帳に記す少し前、昭和6年(1931)という設定です。死も覚悟しつつ東京に向かう直前に、ふと、やぶ屋さんに立ち寄ったと描かれています。当方、寡聞にしてこれが史実かどうか存じませんが。

読売さんの記事に、「彫刻家で詩人の高村光太郎が通った、という証言も残されている。」とありますが、「証言」というより、戦後の光太郎自身の日記に、何度もやぶ屋さんで食事をしたことが記録されています。右は、昭和12年(1937)頃のやぶ屋さん。賢治が通っていた頃と、光太郎が足を運ぶようになった時期の、ちょうど中間くらいですね。「祝南京陥落」という幟(のぼり)が生々しい感じです。

それからこれも読売さんの記事にある、アサヒ飲料さんの「広告で賢治のエピソード」は、こちら。
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同社のサイトにも、賢治とサイダーのエピソード。
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光太郎が昭和20年(1945)に花巻に向けて疎開のため東京を発った日を記念して、毎年5月15日に行われてきた、高村祭。昨年に続き、今年もコロナ禍で中止となりましたが、当方、今月末か来月初めにあちらに行くことになりそうなので、機会がありましたらまた賢治セットを頂いてこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

竹内てるよさんとは初対面なり。大変肥えて丈夫さうに見える。しかしどこか病的なり。元気よき話いろいろ。此所の空気の甘さ、気圧のよさ、空気の乾き等述べらる。持参の五目寿司をいただき午食。

昭和22年(1947)9月6日の日記より 光太郎65歳

竹内てるよは明治37年(1904)生まれの詩人。突然、光太郎の山小屋を訪れました。

戦前には重度の脊椎カリエスにかかり、当会の祖・草野心平らが「竹内てるよを死なせない会」を作り、光太郎も加盟し援助しました。また、確認できている限り、てるよの著書5冊の題字を光太郎が揮毫しています。そんなわけで、てっきり面識があったはずと思っていましたが、意外や意外、戦後になって初対面だったとのこと。

この際のてるよの回想も残っています。それによれば、この時、山小屋に蝉の彫刻があったとのこと。他にも目撃証言がありますし、きちんとした作品としてではなかったものの、手すさびや腕を鈍らせないための修練のような意味合いで、蝉の制作をしていたことは間違いないようです。


情報を得るのが遅れまして、始まってしまっている企画展示の情報です。

2021年 第1回企画展 -駒形十吉生誕120年 駒形コレクションの原点-

期 日 : 2021年3月24日(水)~6月13日(日)
会 場 : 駒形十吉記念美術館 新潟県長岡市今朝白2丁目1番4号
時 間 : 午前10:00~午後5:00
休 館 : 月・火曜日
料 金 : 一般 500円 団体(1名様) 400円  ※団体は20名様以上
      大学・高校生 300円 中学・小学生 100円

1901年生まれの駒形十吉は本年生誕120年に当たります。そこで、1年を通して駒形コレクションを初期から順次ご覧いただきたいと思います。第1回展は、「駒形コレクションの原点」。駒形の美術への思いをお伝えできたらと考えております。

情報はTwitterを調べている中で得ました。同館の昨日のツイートでした。

新緑の美しい季節となりました。美術館の庭は、ツツジ、石楠花、ヤマボウシでにぎやかです。
高村光太郎氏が父高村光雲の遺作展の際長岡に来られた時の写真を展示いたしました。悠久山の風景を気にいっていたとか。この時駒形は、光太郎氏から色紙を書いて頂いています。
002
「ありゃま」と思い、調べてみると、同展の情報に行き当たりました。そして「作品リスト」を拝見すると、光太郎の書も出ているとのこと。
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「父よ今日」、短歌を揮毫した色紙です。

当該の短歌は昭和12年(1937)の作。『高村光太郎全集』第11巻に掲載されています。

父よけふ子は長岡の初夏にいとどこほしくおん作を見し

こほしく」は古語で「こひしく」に同じ。漢字仮名交じりで書けば「恋しく」です。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生による「解題」には、

五月二十三日、長岡市で同地の風羅会が主催して「高村光雲遺作木彫展観」が催された時のもの。揮毫から採録。

とあります。どうも展示されている色紙はこれのようですね。そして、北川先生、かつて実物を御覧になったのでしょう。

高村光雲遺作木彫展観」は、光雲没後の昭和12年(1937)5月23日、一日限定で長岡市の常盤楼という料亭を会場に開催されました。光雲に関しては、生前に個展が開催された記録が見当たらず、確認できている限り最初の個展です。

その作品目録に光太郎が一文を寄せています。

父の遺作がどの位世上に存在するかは関東大震災があつた為にその調査が中々困難である。今度長岡市有志の方々が長岡市所在の父の遺作を一堂に集めて展観せられるといふ事を知つて喜びに堪へない。かねてから同市には父の第一品が多いと聞えてゐるので之は見のがし得ない催であると思ひ、感謝と期待とを以て其日をたのしみにゐる。

これも北川先生による「解題」によれば、

明治三十五年の「聖観音」から昭和九年の「木賊刈り」まで木彫二十六点、ほかに遺墨数点が展示された。次の主催者の言葉を添える。

余花さへも既に地に収まりて心やうやうにしづかなる折柄、明治大正昭和の三聖代にわたる彫塑の巨匠高村光雲翁、二重橋前の大楠公像、上野公園の大西郷像の作者光雲翁、更に上野帝室博物館に見る木彫の神品、老猿の作者光雲翁、この名人の制作のわが長岡の地に蔵せらるゝもの三十点に垂んとする喜びを翁逝いて三年の今日、一室に集ふて心ゆくばかり堪能せんとの念願に幸に大方の御意を得度吹聴すること如斯。


そして光太郎、この遺作展観を見に、長岡に行きました。上記ツイートにある光太郎の写真というのは、この時に撮影されたものでしょうし、展示されている短歌の色紙も、この際に揮毫されたものなのでしょう。同館は、長岡経済界の重鎮だった駒形十吉のコレクションを基幹とする美術館だそうですが、駒形は「高村光雲遺作木彫展観」主催の「風羅会」のメンバーでした。そういうことを考えると、色紙も間違いないものなのでしょう。当方、どちらも現物を見たことがありませんし、画像等も未見です。非常に気になります。

ちなみに、光太郎、昭和14年(1939)にも長岡を訪れています。この時は、やはり長岡の素封家だった松木喜之七を訪問しています。松木は光太郎に鯉の木彫を依頼。光太郎、制作にかかりましたが、どうにもこうにも自分で納得のいく鯉が作れず、その言い訳と、代わりに木彫「鯰」(現在・愛知県小牧市のメナード美術館さん所蔵)を贈るためでした。

光太郎はその後も鯉に挑戦し続けますが、結局、未完。そうこうしているうちに松木は出征し、南方戦線で戦死。光太郎は依頼に応えられなかったことを深く悔恨したようです。
005
松木のもとを訪れた際には、長岡市内の悠久山にも足を伸ばしたようで、その後雑誌『改造』に「悠久山の一本欅」というエッセイを寄稿しています。そこで、上記駒形十吉記念美術館さんのツイートに「悠久山の風景を気にいっていたとか。」という記述があるのでしょう。

コロナ禍明けやらぬ中、なかなか難しいところがありますが、折を見て拝見に伺いたいものです。

【折々のことば・光太郎】

七時過出かけて圓次郎翁宅に行く。一緒に二ツ関に出て、余は郵便局にて小為替五〇〇円つくり、翁に案内されて観音山の多田等観氏を訪問。山の坂登り相当なり。汗になる。山上は涼し。 等観氏新宅ヰロリ辺にて談話、中食、酒、御馳走になる。

昭和22年(1947)9月5日の日記より 光太郎65歳

多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、その間に、隣村の旧太田村に疎開していた光太郎と知り合い、交流を深めています。

この日に先だって、等観が光太郎の居た太田村を訪れ、この日、逆に光太郎が等観のもとへ初めて足を運びました。当方も一度、麓から歩いて登りましたが、たしかにかなりの山道でした。

その分、山上からの眺望は良く、花巻の観光案内、テレビ番組等ではここからの眺めがよく使われています。
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地方紙の記事から3件ご紹介します。

まず一昨日の『福島民報』さん。

智恵子の居室特別公開 30日まで二本松

 高村智恵子生誕祭は二本松市油井の智恵子の生家・智恵子記念館で三十日まで開かれている。生家二階の「智恵子の居室」を特別公開し、繊細な美しさの紙絵の実物を展示している。
 五月二十日の智恵子の誕生日に合わせた事業。居室は光太郎と結婚後の帰郷の際などにも過ごしたとされ、当時の状態で保存されている。公開は一~五日、八、九、十五、十六、二十、二十二、二十三、二十九、三十日。
 紙絵は智恵子がゼームズ坂病院での闘病中に制作した「青い魚と花」などの実物十点を二十五日まで公開している。紙絵をモチーフとするカード、しおり作りを十五、十六、二十二、二十三、二十九、三十日に実施する。
 入館料は高校生以上四百十円、小中学生二百十円。
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少し前にご紹介した、智恵子生家の2階部分の特別公開、それから紙絵の実物展示と制作体験を紹介して下さいました。

続いて、ちょっと前になってしまいましたが、4月22日(木)付けの『中日新聞』さん。

蓮如像包む八重桜 あわらで満開

 浄土真宗の中興の祖・蓮如上人が道場を開いたとされる、あわら市の吉崎御坊跡(吉崎御山)で、八重桜が満開を迎えている。蓮如上人の肖像画「御影(ごえい)」が京都市の東本願寺とあわら市の真宗大谷派吉崎別院(吉崎東別院)を往復する御影道中が県内入りした二十一日も、美しいピンクの花々が咲き誇っていた。
 八重桜は毎年四月中旬から下旬にかけて見頃を迎えている。地元住民が植樹し、敷地内にはカンヒザクラやソメイヨシノも植えられている。
 蓮如像は、彫刻家の高村光雲(一八五二〜一九三四年)が造ったもので、一九三四(昭和九)年に完成。高さは台座部分も含め約十二メートルある。
 今年は吉崎御坊開山五百五十年の記念の年。二十三日には御影道中が吉崎東別院に到着し、法要が営まれる。 
002
 光太郎の父・光雲作という蓮如上人像。福井県あわら市の吉崎御坊跡に建っています。

この像は、彼の地の観光情報等にいろいろ記述があって、名所の一つとなっているようなのですが、その成り立ち等、当方、寡聞にして存じません。

平成11年(1999)中教出版さん刊行の『髙村規全撮影 木彫 髙村光雲』、平成14年(2002)三重県立美術館さん他刊行の『高村光雲とその時代展』図録に掲載された光雲の年譜を見ても、一切、記述がありません。

福井の観光情報的なサイトでは「光雲四大傑作の一つとして有名」的な記述が目立つのですが、「光雲四大傑作」というのも、他では一切見たことがありません。「誰が決めたんだ?」という感じです(笑)。

また、像の除幕は昭和9年(1934)10月となっていますが、まさに光雲が亡くなったのがこの年、この月。2月には既に東京帝国大学病院に入院しています。まぁ、それ以前に原型を完成させていたとも考えられますが。それから、光雲最晩年は、高野山金剛峯寺さんから依頼のあった本尊薬師如来(阿閦如来(あしゅくにょらい)とも)の制作にかかっていました。同時にそんな大作の仕事を受けるものでしょうか?

さらに言うなら、福井の観光情報的なサイトには、蓮如像の除幕は大谷光暢が導師となって執り行われた的な記述がありますが、この時大谷は満で言うと30歳そこそこ。これも変ですね。

まぁ、ガセとは言いませんが、どうにもわからないことだらけです。ただ、高野山の如来像についても上記光雲年譜には記述が無く、どうも光雲の事績、まだまだ細かな点の調査が為されていないという感じです。

蓮如上人像と光雲の関わりについて、詳細情報をご存じの方、ご教示いただければ幸いです。

最後に一昨日の『神戸新聞』さんから。直接、光太郎智恵子光雲には関わりませんが……。

街のモニュメントなぜ女性の裸体?「公共の場にこれほど多いのは日本だけ」

006 街角で目にするモニュメントについて、「中には理解できないものや、不気味なものもあるけど、誰がどのように決めて設置するの?」という疑問が、神戸新聞の双方向型報道「スクープラボ」に寄せられた。特に神戸の街には女性の裸体彫刻が多く、改めて考えると不思議だ。なぜ、公共空間に女性の裸体を置きたがるのか。取材を進めると、戦後日本の歩みに深く関わっていることが分かった。
 神戸・三宮のフラワーロード。三宮駅北側から東遊園地東側にかけて、35の彫刻作品が点在する。うち女性裸体像は13点で4割近い。男性裸体像は1点なので、明らかに多い。
 帽子をかぶり体をくねらせる女性、直立してこちらを見つめる女性、座って体を洗っているように見える女性…。いずれも全裸だ。
 神戸市文化交流課によると、市内にある銅像やモニュメントは500点以上。多くは1960年代後半以降の一時期に集中して設置されたという。戦災から復興し、「彫刻の街」を目指した同市は大規模な彫刻展を何度か開いて入選作を買い取り、神戸ゆかりの彫刻家からも寄贈を受けた。
 しかし、なぜ裸の女性なのか。担当者は「裸婦像には平和の象徴のような意味合いがあったと聞いています」と話した。どういうことなのか。専門家に取材することにした。
     ◇
 インターネットで「裸婦像 平和」を検索し、たどり着いたのが亜細亜大国際関係学部の高山陽子教授(文化人類学)だ。専門の記念碑研究の傍ら、15年ほど世界各地の銅像を見て回っている。
 「公共の場に、これほど若い女性の裸体像が多いのは日本だけ」と高山教授。数年前に「国内でも多いと聞いた」神戸も実地調査した。公共空間の女性彫像についての考察を2019年にまとめた。
 高山教授によると、いわゆる「銅像」が輸入されたのは明治以降。軍国主義が進むと軍人像が増えたが、戦中の金属供出や、戦後、軍国主義の排除を目指したGHQの政策で大半が撤去された。代わって登場したのが、歴史性、政治性の薄い「乙女の像」だという。
 日本で初めて公共空間に置かれた女性裸体像は東京・三宅坂の「平和の群像」(1951年)で、以前は陸軍出身の首相寺内正毅の像があった場所。高山教授は「ここで平和の意味付けがなされた」と指摘する。
 70年前後には地方自治体が都市整備事業の一環で設置を進め、高山教授は「駅前などに脈絡なく女性裸体像が立つことが増えたのではないか」と説明する。
 ちなみに、欧州では少女の裸体像は美術館などの屋内や庭園など私的空間に限られるというが、日本では少女と分かる像も公共の場にある。こうしたことから、90年代には公共空間への設置を批判する運動も起きた。
 高山教授は「裸体像は性的ないたずらで触られたり壊されたりすることが多く、そういう様子が見る人に嫌悪感を抱かせることもある。裸体だけに、清掃などの手入れも地域住民などに委ねづらい面もあり、厄介な存在になっている」としている。
 神戸市では銅像へのいたずらはあまり把握していないという。同市文化交流課は「数年前にTシャツを着せられた程度。手入れも、彫刻を学んだ女性たちがボランティアで磨いている」としている。

ここで言う「乙女の像」は、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」ではなく、「騎馬像」「仁王像」といったレベルでの普通名詞としての「乙女の像」ですね。

たしかに裸婦像の屋外彫刻、各地で見かけます。そしてそのほとんどが、記事にあるように「理解できないもの」、「駅前などに脈絡なく」立つもの、ですね。

光太郎の「乙女の像」は、十和田湖の荒々しい大自然の中に置かれ、人間の持つ原始の力の象徴として、必然的に着衣でなく裸体が選択されてます。あの場所に着衣像では、却って「脈絡」がありません。
007
しかし、コンクリートとアスファルトに固められた空間に、突如として現れる裸婦像、たしかに違和感がありますね。元首相の女性蔑視発言への反発のうねりなど、ジェンダー格差を問題視する声が高まっている昨今(昨年は「美術館女子」とかいう頓珍漢なプロジェクトも立ち上がりましたが、早々にSNSで炎上し撤退に追い込まれましたね)、その点でも今後、批判が起きそうな気がします。

ちなみに記事にある「日本で初めて公共空間に置かれた女性裸体像」である「東京・三宅坂の「平和の群像」」の作者は菊池一雄。病を抱えていた光太郎が、「乙女の像」制作に際し、自分が途中で制作不能になった場合の代わりの作者として指名していた彫刻家です。光太郎は、菊池が都心に裸婦群像を作ったという情報を得ていたはずで、それも「乙女の像」制作の後押しになったと思われます。

また、裸婦像に限らず、公共の場に意味不明の彫刻(彫刻もどき)が多いのも、遺憾ながらこの国の現状ですね。「現代アート」という言葉が免罪符になってしまっているような……。「その場所にはそれしかありえない」ものの設置を望みます。すると、国民全体の審美眼の向上、といったことが求められるわけで、こうなると、100年前に光太郎があちこちで提言していたことでもあります。残念ながら、それがまだ果たされていないわけで……。

皆様は如何思われますか?

【折々のことば・光太郎】

仁太郎さん細君配給酒四合持つて来てくれる。(三五円六〇也札なく四〇円六〇さし上げる)

昭和22年(1947)8月26日の日記より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活、蟄居とは言う条、酒好きの光太郎、禁酒まではしていませんでした。

1ヶ月程経ってしまいましたが『週刊新潮』さん、4月8日号。漫談の綾小路きみまろさんによる「実況中継 コロナ禍の中高年にエール 公演中止「綾小路きみまろ」が誌上漫談」という記事が載りました。
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インタビューを元に、ライターの方がまとめた記事なのでしょうが、コロナ禍の最中でも明るく生きようという提言が基本です。「自粛疲れに負けるな!」というわけで。

例えば「いまは飛沫感染とかで、中高年が声を出して思い切り笑うことすら憚られる状況でしょう。本当はステイホーム中でも笑えばいいんですよ。それこそ、自分の顔を鏡に映して「いやねぇ、こんなにシワが増えちゃって。ウフフ」ってね。それくらい気持ちを軽くしてもらいたいなぁ」。なるほど。

それから「公演が中止や延期に追い込まれた去年の3月以降は、ちょうど畑を耕す時期と重なった。山梨県の富士河口湖町に自宅があるので、そこにこもってカボチャやナス、ニンジン、大根、ニガウリにハーブまで育てるようになりました。(略)種を蒔いて、収穫する頃まで公演が止まっていたので、200坪近い畑を回って愛情込めて育てましたよ。濃厚接触じゃなく“農耕接触”ですね。ある意味で、コロナがそういう時間をもたらしてくれたとも感じます。あなたは十分に駆け足で生きてきたじゃない、ここらでひと休みしなさいよ、と。そう自分のなかで切り替えることができたのがよかった。「ローマの休日」ならぬ“老婆の休日”といったところです」。笑いました。しかし、きみまろさんの農耕生活、ある意味、戦後の光太郎の花巻郊外旧太田村での生活も彷彿とさせられますね。

その中で、光太郎もネタに使って下さいました。
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長い下積み時代を経て、50歳を過ぎてからブレイクしたきみまろさんの言葉だけに、実感がこもっています。

たとえ中高年でも、年齢を言い訳にしないで頑張れば……」。当方、きみまろさんと違ってブレイクはしていませんが(笑)、平成24年(2012)の3月、不惑を過ぎてから思い切って前職を辞し、この光太郎顕彰をメインにすることとしました。幸い家族の理解は得られたものの、周囲からは「何を考えているんだ?」という声も少なくありませんでした。しかし、自分の中ではそうすべきだという潮時でして……。

そして約1ヶ月後の5月3日、このブログを始めました。昨日で満9年、1日も休まずに書き続け、今日、10年目に突入。それまで日記などというものは、小中生の頃の宿題で仕方なく書いたことがあった程度でしたが、日記にこだわらず、好きな方面のことを書くのなら出来てしまうのだな、と思っております。誰もほめてくれませんので、自分で自分をほめたいと思います(笑)。まぁ、きみまろさん風に言えば「内容が無いよう」なので、出来てしまったのかも知れませんが(笑)。

さて、この後、何年続きますことやら(笑)。とりあえず引き続きよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

バケツ井戸に落ちる。引揚げられずに終る、


昭和22年(1947)8月25日の日記より 光太郎65歳

光太郎の「あ゙あ゙ー!」という声が聞こえてきそうです(笑)。

写真は蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋脇の井戸。昭和26年(1951)、カメラマンの阿部徹雄による撮影です。
光太郎井戸脇042

花巻から届きました。
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「光太郎の食卓カレンダー」。昨年も発行されましたが、新バージョンで、今月から来年4月までの1年間分です。

各月見開き2ページ、『花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」に使われた写真を元に構成されています。

昨年との大きな違いは、まず、大きさ。昨年はA5判で、開いたらA4判でしたが、今年は倍のA4判、開くとA3判となりました。001

メニュー的には以下の通り。

5月 ウコギのホロホロかけご飯
6月 カフェドシトロンとサヤエンドウのサラダ
7月 アカシアの天ぷら
8月 アンチョビサンド
9月 支那料理風甘酢あんかけ
10月 カレイの青葉ソースとキガラチャ飯
11月 林檎とサツマイモのケーキ
12月 ラムチョップ
1月 豚肉とキャベツのケチャップ鍋
2月 イングリッシュブレックファスト
3月 そば粉ガレット
4月 チーズとフキノトウ入り茶碗蒸し

料理は、基本、花巻疎開後の光太郎の日記や書簡、随筆、周辺人物の回想文に出てくるものを、現代風にアレンジしたものです。レシピは載っていませんが、元にした文章が各月とも掲載されています。

販売は、昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんで店頭販売、それから発行元の「やつかの森LLC」さん(花卷高村光太郎記念会の元職員の方々で作った会社)のサイトから申し込めます。頒価税込800円、送料370円だそうです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午後少し横になる。田口弘氏来訪に起こされる。木村知常氏の教子。フイリツピン ジヤヷの話等。

昭和22年(1947)8月23日の日記より 光太郎65歳

故・田口弘氏は、のちに埼玉県東松山市の教育長を務められました。国内最大級の国際的ウオーキング大会「日本スリーデーマーチ」の東松山市への誘致・運営、東武東上線高坂駅前に延びる「彫刻プロムナード」(やはり光太郎と交流の深かった高田博厚の作品群)整備など、大きな足跡を残されました。

昭和19年(1944)、氏が南方に出征する際、駒込林町のアトリエで光太郎に著書や色紙を贈られました。しかし、氏の乗った輸送船がバシー海峡で撃沈され、氏は命からがらの目に遭います。貰った著書や色紙は海の藻屑となりました。

収容所生活を経ての復員後のこの日、光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村を訪れ、改めて揮毫をして貰いました。その後も交流は続き、氏が貰った品々、現在は東松山市立図書館さんで、「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」として無料公開されています。

昨年1月に亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生のご遺稿を含む書籍が刊行されました。

遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集

2021年4月30日 北川太一著 小山弘明/北川光彦監修 文治堂書店 定価1,500円+税

高村光太郎研究の第一人者、北川太一の遺稿。賢治「デクノバウ」と光太郎「暗愚」の思想的背景、両者の心の葛藤を独自の視点で書き留め、この文が絶筆となった。
太一ゆかりの人々による追悼・回想文も収める。
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目次
Ⅰ 遺稿をめぐって
 「デクノバウ」と「暗愚」(遺稿)  北川太一
  はじめに/光太郎と賢治「玄米四合の問題」/賢治――コスモスの所持者――
  光太郎、三陸の旅/「記録」の思想/心平と光太郎と賢治と智恵子
  「注文の多い料理店」/光太郎の「人の首」/「第二次大戦下の光太郎」
  花巻、そして太田村山口へ/「暗愚小伝」/「雨ニモマケズ」の反語性
  光太郎 その後 死

 「没我利他」の系譜 賢治・光太郎、そして北川太一  
                小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 「雨ニモマケズ」の評価と受容について  
佐藤映二 (元宮沢賢治研究会会長)

Ⅱ 追悼 北川太一
 北川太一先生を偲んで         大島俊克(花卷高村光太郎記念会会長)
 あの日の言葉――北川太一先生への感謝の手紙――       服部剛(詩人)
 北川太一先生と父と光太郎             渡辺えり(劇作家・女優)
 「道しるべの恩」~北川太一先生を偲んで~   佐藤雅彦(文京区浄心寺住職)
 北川太一先生ご逝去の報に涙して         野澤俊之(詩人野澤一子息)
 月の人                          市川恵子(詩人)
 私の北川太一印象記                   前木久里子(詩人)
 うしよあゆめいのちもやし                 曽我貢誠(詩人)

Ⅲ 回想 北川太一
 先生に牽かれて――想い残るいくつか――   高原二郎(元都立向丘高校教諭)
 出逢いと別れ                     竹鼻倭久子(北斗会)
 北川太一先生の思い出             大島裕子(高村光太郎研究会)
 やがて光と――北川太一氏の思い出――     佐藤浩美
(高村光太郎研究会)
 北川太一先生から学んだこと           野末明
(高村光太郎研究会)
 出会いの頃             高松源一郎(美術企画「晴耕雨読」主宰)
 悲しみは光と化す―北川太一は生きている―わが北川太一先生のご逝去に際して
                           佐々木憲三(美術史家)
 北川先生を悼む                   本宮寛子(藤原歌劇団)
 北川様と私                  福田悠子(香川県丸亀市在住)

あとがき ――父、太一が伝えたかったこと――  北川光彦
 

北川先生、ご生前最後の著作集となった『光太郎ルーツ そして吉本隆明ほか』(平成31年=2019 文治堂書店)の「あとがきのごときもの」で、以下のように記されていました。

 それでも、まだ書き残したいくつものことが心に残る。その一番大きな残念は、宮沢賢治の「デクノボー」(「雨ニモマケズ」)と光太郎の「暗愚」(「暗愚小伝」)のかかわり方だ。賢治が「デクノボートヨバレ」たいと書いたのは昭和十二年、中国との戦争が始まったそんな時代だ。
 『雨ニモマケズ』を流布することによって、ここに表むきかたち作られたのは、そんな政治体制のなかで、とりあえず利用できる最も都合のいい人間像としての解釈だ。しかし賢治は、大正十二年の最初の童話集『注文の多い料理店』にそえた解説のパンフレットで、これらがその頃の政治体制にもっとも叛逆するはげしい社会思想に貫かれていることを自ら書き記している。そんな賢治が、死さえ予感しながら、このときにあえて「デクノボートヨバレ」たいと書いた意味は、なんだったのだろうか。
 光太郎が戦後、自らの生涯を、あえて「暗愚」と要約したのは昭和二十二年のことだった。しかしそこで光太郎は賢治没後の宮沢家を訪ね、はじめて「雨ニモマケズ」の草稿を見、筆写し、賢治の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」て生きる生活を痛切に批判して語った。その両者の関わりについても、どうしても書いておかなければならない、と思いながら、その時間がまだあるかどうか。九十四年近く使い古した肉体が、いま、このこのあとがきに近いものを、わずかに書かせる。


先生が亡くなった時、この一節を思い出し、「ああ、結局、これは果たされないまま終わってしまったんだなぁ」と思いました。

しかし、あにはからんや、その後、文治堂書店さんから、「賢治と光太郎に関する北川先生の遺稿を預かっている。そのまま一冊にして刊行するには短いので、解説のようなものを書き足してくれないか」との連絡。仰天しました。

ほどなく送られてきたのが、本書冒頭三分の一ほどの「「デクノバウ」と「暗愚」(遺稿)」。最後に附されたメモによると、「令和元年五月一日二十四時 初稿 擱筆 九十五枚 太一、数え年九十五歳也 前著『光太郎ルーツ そして吉本隆明』(平成三十年三月刊)「あとがき」に記した公約として。」。「先生、書いてらしたんだ……」と、万感の思いがこみ上げました。ちなみに「令和元年五月一日」、ちょうど2年前ですね。奇縁を感じます。

そこで依頼された「解説のようなもの」を書いて送りましたが、「まだ一冊にするには足りないから、ゆかりの人たちに自由に書いて貰う。それから、PR誌の『トンボ』に載せた各界からの追悼文も載せる。ついては史実などの明らかな誤り等を正して欲しい」とのこと。そんなこんなで当方、「監修」としてクレジットされています。表紙にある当方の名は帯に隠れて見えませんが(笑)。

「史実などの明らかな誤りの訂正」、意外と大変でした。何だかんだで一年近く関わったように記憶しています。実は、北川先生のご遺稿の中にもそれがあり、「先生、ここ、一年ずれてますよ(笑)」と、心の中で呟きながら朱筆を入れたり……。しかし、北川先生最後のご著書に、こんな形でがっつり関わらせていただけたのは、望外の喜びです。

ところで、「Ⅱ 追悼 北川太一」中の「北川太一先生ご逝去の報に涙して」を書かれた野澤俊之氏。光太郎と交流のあった詩人・野澤一の子息で、連翹忌にはほぼ毎回ご参加いただいていましたが、今年2月に亡くなったと、奥様よりご連絡を頂きました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』、文治堂書店さんのサイトから注文できると思われます。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

小屋前の胡瓜一本生にてくふ。

昭和22年(1947)8月21日の日記より 光太郎65歳

念のため書いておきますが、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の自分の山小屋で栽培していた胡瓜です。泥棒ではありません(笑)。

当方、基本的に生野菜がダメで、特に胡瓜はその匂いからしてまったく苦手です。昨日の昼食、途方はカルボナーラ、妻は冷やし中華。その胡瓜の匂いが気になり、別々の部屋で食べました(笑)。

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