2021年04月

まずは再放送ですが、光太郎智恵子に触れられる番組から。

にっぽんトレッキング100「絶景満載!峡谷のクラシックルート〜長野・上高地」

NHK BSプレミアム 2021年5月1日(土) 15:57~16:26

北アルプスの玄関、長野・上高地。今ではバスで直行できるこの場所も、かつては徒歩で二日かけて歩いた。そんなクラシックルートを辿り、知られざる穂高岳の絶景に出会う。

穂高や槍ヶ岳の玄関口として知られる上高地。そこへ向かうかつての登山道は、今「クラシックルート」と呼ばれ、脚光を浴びている。目の当たりにしたのは、七色に染まる峡谷の山肌。日本の近代登山の父と呼ばれるウォルター・ウェストンは、それを「驚嘆すべき色彩の響宴」と評した。さらにその先には「日本で一番雄大な眺望」とたたえた絶景が待っているという。著名な登山家たちが愛した風景を辿り、手付かずの大自然を満喫する。

【出演】仲川希良 【語り】渡部紗弓
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初回放映は平成29年(2017)1月。人気の高い回だったのか、その後、何度か再放送され、また久々に放映されます。
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大正2年(1913)、上高地で一夏過ごし、ここで婚約を果たした光太郎智恵子が歩いた、上高地のクラシックルートが紹介されます。

続いて、地上波テレビ東京さんで2月に放送されたもの。系列のBSテレ東さんでの放映です。

開運!なんでも鑑定団【武田信玄の秘宝&巨匠の聖徳太子像に超ド級鑑定額】

BSテレ東 2021年5月6日(木) 19:49~20:49

■先祖がもらった<武田信玄>謎の書…ナゼ家康印が?衝撃値■近代彫刻の巨匠作…<聖徳太子>像に超絶鑑定額■昼の司会…<石井亮次>のお宝&声優も仰天…おもちゃ大会■

日本近代彫刻の巨人のお宝が登場。富山で造り酒屋を営んでいた祖父は大の骨董好きで、家にはいつもたくさんの骨董品が飾られていた。小学校高学年の頃、祖母がこのお宝を見せてくれ、「これは将来譲るからね。これを大事にすればご利益に恵まれるよ」と言われた。その後、祖父母の家に行く度、このお宝に手を合わせていたところ、第一志望だった東京大学に現役合格し、就職活動でも希望していた日本銀行に就職することができた。将来このお宝を受け継ぐことになる孫が小学校高学年になったので、改めて価値を確かめたい。果して結果は!?
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出演者
【MC】今田耕司、福澤朗  【ゲスト】石井亮次
【アシスタント】片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
【出張鑑定】おもちゃ鑑定大会 
【出張なんでも鑑定団レポーター】原口あきまさ
【出張なんでも鑑定団コメンテーター】西村知美
【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

光太郎の父・光雲の木彫が出ました。依頼人は富山県ご在住の男性。
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このあと、光雲の紹介。国指定重要文化財の「老猿」(明治26年=1893)はじめ多くの光雲作品画像が的確なコメントと共に使われていて、感心しました。
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京都知恩院さんの聖観音像(明治25年=1892)、元々は料亭の主人に頼まれて彫った「団扇に眠る猫」(昭和7年=1932)。
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オリジナルは皇居造営に伴い納められた「鞠に遊ぶ狆」(明治35年=1902)、徒弟時代の習作ながら光太郎が最も絶賛し、これだけは生涯手元に置いていた「洋犬の首」(明治10年=1877)。
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宮内庁三の丸尚三館さん所収の「矮鶏」(明治22年=1889)、パリ万博出品作「山霊訶護」(明治32年=1899)。
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さて、盛り上がってきたところで、鑑定。鑑定士は日本大学芸術学部教授・大熊敏之氏。
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依頼人の本人評価額は100万円。「一桁違うぞ、光雲なめんなよ!」と思いながら(笑)見ていましたが……
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さらに驚きの1,500万円。
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光雲作のものの中でも、傑作と言えるものという評価だそうで。

ちなみにこの番組、地上波テレビ東京さんでの4月20日(火)放送分でも、ちらっと光雲が取り上げられました。北海道小樽の似鳥美術館さんの紹介の中ででした。
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また、1月に亡くなった、光雲の孫弟子にして、二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」、安達駅前の智恵子像「今ここから」の作者・橋本堅太郎氏の木彫が出ました。
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モデルを務められたのが、若き日、無名時代の高畑淳子さんだったそうで。
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鑑定額は700万円でした。

この回も2ヶ月遅れくらいでBSテレ東さんでの放映があるかと存じます。また近くなりましたらお知らせいたします。

さて、それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

三人来訪。一人は新潟よりの高橋康夫、他の二人は横スカ ヨコハマの水野富美夫、仝陽美といふ兄弟、富美夫氏は油画〻家の由。他は学生。三時頃まで談話。

昭和22年(1947)8月20日の日記より 光太郎65歳

水野富美夫は、後にアフリカの風景を描いて有名になった画家。弟の水野陽美は詩人になりました。演出家の蜷川幸夫の妹と結婚し、息女は女優の蜷川有紀さんです。

昨日のこの項でご紹介しましたが、前日には国語学者となった学生時代の故・宮地裕氏が来訪。二日続けてのちに各界で名を成す人物が訪ねてきています。彼等が各界で名を成すに到ったのは、光太郎との出会いによって受けた影響も、少しはあったのではないか、と言うと、身贔屓に過ぎますかね。

昨日、『広報にほんまつ』5月号を取り上げた中で触れた件などにつき、地方紙2紙でも記述がありましたので、ご紹介します。

まず、『福島民友』さん、昨日の一面コラム。

【4月28日付編集日記】智恵子抄

二本松市の小高い里山にある智恵子の杜公園を訪れ、高村光太郎と智恵子が肩を並べて散策したという山道をたどった。見晴らしが良い場所もあり、野鳥のさえずりが響く。2人は当時、どのような時間を過ごしたのかと、思いをめぐらせた▼光太郎が亡き妻への思いを込めて出版した「智恵子抄」にある詩「樹下の二人」は100年ほど前、現在の公園がある場所から眺めた安達太良山や阿武隈川の風景が題材とされる。真筆を刻んだ詩碑は、公園のシンボルとして全国のファンが訪れる▼光太郎と智恵子の顕彰活動を進める同市の市民団体が今月から、「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」と題し、好きな詩への投票を募っている。智恵子抄の出版80周年を記念し、「智恵子抄その後」も含め、作品の魅力と2人の生涯に理解を深めてもらう▼二つの詩集から候補作とした36編には教科書をはじめ、さまざまな機会に読んだ記憶がある作品が目に付く。初めて詩集を手にした10代のころ、純愛を貫いた2人に憧れたことが懐かしく思い出される▼公園内には石碑や彫刻作品も並ぶ。2人が思い出を刻んだ地に足を運び、今も輝きを放つ詩集の世界に浸り、心に響いた作品を選ぶのもいい。

同じ『民友』さんで、遡って一昨日の記事。

智恵子創作の紙絵展示 記念館で生誕祭、5月30日まで

 二本松市の智恵子の生家・智恵子記念館は、同市出身の洋画家高村智恵子が生まれた5月20日にちなみ、今年も生誕祭を繰り広げる。トップを切り24日、同記念館で、智恵子が病床で創作した紙絵の実物展示を始めた。展示は5月25日まで。
 智恵子はゼームズ坂病院に入院した2年間、千数百点の紙絵を制作した。同館は高村家から譲り受けた24点を収蔵する。
 ただ紙質が悪く、照明などで劣化しやすいために通常は複製を展示。このため年2回、収蔵品から10点を選び、実物を公開している。今回は「青い魚と花」や「菊」「小鉢」などを展示した。
 開館時間は午前9時~午後4時30分(最終入館は同4時)。水曜日休館。入館料は高校生以上410円、小・中学生210円。
居室を特別公開 
 智恵子の生家では、普段公開していない智恵子の居室の特別公開と、同市の伝統工芸品「上川崎和紙」を使った紙絵の制作体験を実施する。
 居室の公開は29日に始まり、5月30日まで大型連休中と土、日曜日など実施。紙絵体験は5月15~30日の土、日曜日に行い、智恵子の作品を題材にカードやしおりを作る。参加費は入館料に含まれる。開館時間は午前9時~午後4時。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。
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別件で、同じ二本松市の大山忠作美術館さん関係。

大山忠作美術館、5月1日から特別企画 絵はがきプレゼントなど

 文化勲章受章者で、二本松市出身の日本画家大山忠作の誕生日5月5日にちなみ、大山忠作美術館は5月1~5日、二本松市の同館でゴールデンウイークイベントを展開する。
 期間中、来館者に「智恵子に扮する有馬稲子像」や「遅日」「古壁群相」など大山作品をプリントした絵はがきをプレゼントする。また5日には、未就学児と団体以外の来館者に「鯉魚絵付飾大皿『游』」の絵柄をデザインしたマグネットを数量限定で贈る。問い合わせは同館(電話0243・24・1217)へ。
カーネーション販売会
 併せて同館を運営するNPOまちづくり二本松は1日午前10時から、二本松市市民交流センターで、安達東高生が栽培したカーネーションの販売会を開く。限定100鉢でなくなり次第終了する。問い合わせは同センター(電話0243・24・1215)へ。
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故・大山忠作画伯は、女優の一色采子さんのお父さま。同郷の智恵子をモチーフにした絵を複数描かれています。そのうち、記事にある「智恵子に扮する有馬稲子像」は、昭和51年(1976)、新橋演舞場で開催された「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の中で、北條秀司作「智恵子抄」の智恵子を演じた有馬稲子さんをモデルにして描かれたもの。同館の目玉作品の一つでもあります。

続いて、『福島民報』さん。以前にご紹介した「アマビエマスク」シリーズの新作だそうで。

新型アマビエマスク発売 富樫縫製と民報印刷 福島県内4市で

 ウイルス飛沫(ひまつ)などの微粒子を医療用マスク並みに防御できるフィルターを内蔵し感染予防機能を強化した地域限定デザインマスクの販売がいわき、福島、二本松、会津若松の四市で始まった。
 いわき市のいわき・ら・ら・ミュウでは、フラダンスを踊るアマビエ「フラビエ」、サーフ板を持つアマビエ「サーフビエ」の二種類を販売。福島市のラヴィバレ一番丁では、クロマグロを担ぐアマビエの「アドリアちゃん」を扱っている。二本松市の道の駅安達上下線では五月二十日に生誕百三十五年を迎える「智恵子抄」で知られる市内出身の洋画家・高村智恵子をモチーフにした「檸檬(れも)ビエhyper」、会津若松市のトラッドハウス「フキヤ」では、オリジナルデザインの赤べこの「ナノクラスブロッカー」を売っている。福島市の県観光物産館では、新型アマビエマスク「ナノビエブロック」のアマビエデザインとべこビエデザインの販売を開始した。
 富樫縫製(二本松市)と民報印刷(福島市)がフィルターの世界的な専門メーカー・ヤマシンフィルタ(横浜市)と連携し開発した。フィルターは一般財団法人カケンテストセンターによる微粒子捕集効率(PFE)試験で、0・1マイクロメートルの微粒子を99%カットした。一枚千百円(税込み)。
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「Hyper」ではないプロトタイプの「檸檬ビエマスク」は、既に昨秋、販売が開始されていたようです。「Hyper」はその名の通り、ウイルス等のシャットアウト機能が更にパワーアップしたものだそうで。デザイン的にはプロトタイプと同一のようです。
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泉下の智恵子は苦笑しているような気がしますが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

花巻より青年二人(東京と黒沢尻の人)来る。宮沢清六さんより委托のトマト一個、金瓜一個、胡瓜、せんべい等もらふ。二時過ぎまで談話。辞去、宮沢賢治研究者。

昭和22年(1947)8月19日の日記より 光太郎65歳

「青年二人」、氏名は書かれていませんが、「東京」の方は、のち、国語学者となった宮地裕(みやじゆたか)氏です。氏のエッセイが、以前、光村図書出版さん刊行の中学校用の国語の教科書に掲載されていて、この際のエピソードが記されていました。平成9年(1997)~同13年(2001)に「言葉はどこからどこへ」と題し3年生用、ほぼ同一の内容で「胸の底の人と言葉たち」の題で同18年(2006)~同23年(2011)の1年生用

それによれば、まず花巻町の宮沢家を訪れた宮地氏たち、郊外太田村の光太郎の山小屋にも足を運ぼうとしたところ、未知の人物が訪ねていっても光太郎に追い返されることがよくある、とわかっていた清六が野菜類などを持たせ、それを届けるという名目を与えてくれたとのこと。泣かせるエピソードですね。

ところで、この項を書くために調べていたところ、宮地氏、今年2月に逝去されていました。存じませんでした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

智恵子の故郷、福島県二本松市の広報紙『広報にほんまつ』の5月号、智恵子の名が18回も出てきました(笑)。

まずは1月に亡くなった同市名誉市民にして、光太郎の父・光雲の孫弟子にあたられた彫刻家・橋本堅太郎氏の遺作となった智恵子像「今ここから」除幕について。智恵子の名がまず2回。
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次に、同市で智恵子顕彰にあたられている「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催の「智恵子抄総選挙」の件で、7回。
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続いては、「高村智恵子生誕祭」。特に式典等があるわけではないのですが、智恵子生家で紙絵の制作体験と、裏手の記念館で通常は複製が展示されている紙絵の真作の展示と、これをもって「生誕祭」と称しています。このところ、それぞれ年中行事となっています。なぜか生家2階部分の限定公開は別枠です。
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005ここで「智恵子」が8回。ここまでで累計17回。最終18回目は、裏表紙のカレンダー欄に1回。これで18回です。

それから、ついでというと何ですが、「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」(「あどけない話」昭和3年=1928)と謳われた、日本百名山の一座・安達太良山の山開きの件も紹介されていました。

ただ、以前は必ずといっていいほど「ほんとの空」の語を配して下さっていたのですが、このところお見限りのようで(笑)。
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また、昨年に続き、コロナ禍のため山頂イベントは中止だそうです。残念ですが致し方ありませんね。

公式フライヤーはこちら。こちらも「ほんとの空」の語はなし。
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おそらく画像は一昨年のものと思われます。この中に当方もいるかも知れません(笑)。またこの頃のように、山頂での山開きがにぎわってほしいという願いが込められているのでしょう。まさしく当方もそうであってほしいと祈るばかりです。

【折々のことば・光太郎】

十一時頃分教場行、郵便物。 ひるかへると、あとからワタルさんに案内されて水沢の大川英八といふ(画家か)人子息と共に来訪、濁酒一升もらふ。フナ雀やき少〻、いろいろ話。

昭和22年(1947)8月11日の日記より 光太郎65歳

「ワタルさん」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山小屋近くの住民、「大川英八」は画家で、橋本八百二の師にあたる人物。萬鉄五郎とも交流があったそうです。

「雀やき」の語で、「えっ?」と思いました。当方自宅兼事務所のある千葉県香取市佐原地区の名産品だからです。ちなみに友人(地元の名士ですが)がこの手の店を経営していたりします。「雀やき」と言っても、雀を焼くわけではなく(京都伏見では本当に雀を焼いた料理があるそうですが)、川魚です。名の由来は諸説あるようですが、電線に並んでとまっている雀の姿に似ているためとか、江戸時代のお殿様が雀と勘違いしたからとか、いろいろ言われています。
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一度、青森の方にお送りしたことがあります。半分は「えっ、雀?」という反応を期待してのことでしたが、まんまとその通りのリアクションで、してやったり、でした(笑)。

それにしても光太郎の日記に出てくるということは、昔は意外と一般的だったのかな、と思いました。また、日記のこの部分をして、「光太郎は山小屋生活で雀まで食べていた」と勘違いしないで下さい(笑)。

状況をわかりやすくするために、KFB福島放送さんのローカルニュースから。

宮沢賢治直筆の手紙も展示 収蔵資料展「寺田弘」

福島県郡山市出身の詩人故寺田弘(てらだ・ひろし)さんの直筆の詩などを集めた資料展が開かれています。

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会場には遺族から寄贈された資料など140点が展示されています。
寺田さんは著名な詩人たちと交流していて16歳で同人誌を創刊するなど早熟な詩人として知られています。
中には宮沢賢治が、亡くなる16日前に書いた手紙や高村光太郎から贈られた掛け軸など貴重な資料も展示されています。
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資料展はこおりやま文学の森資料館で開かれています。
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一昨年、寄贈の際の報道があり、そのうちに展示があるだろう、と思っておりましたところ、おお、いよいよか、というわけでした。

しかし、報道の映像を見て、唖然としました。
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「高村光太郎から贈られた掛け軸」として紹介されたうち、向かって右、「あれが阿多多羅山 あのひかるのが阿武隈川」と、詩「樹下の二人」(大正12年=1923)の有名なリフレインが書かれたもの、これは完全に複製です。

元は、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、詩集『智恵子抄』の見返しに揮毫してもらったもの。
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上の画像は、平成28年(2016)、二本松市の歴史資料館さんで開催された「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」の際の展示です。
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光太郎歿後に、そこから版を起こし、色紙や軸装のものなどの複製が作られました。軸装の方は、やはり二本松市の智恵子生家の座敷にも、複製だと判った上で掲げられています。また、二本松霞ヶ城にある昭和35年(1960)建立の智恵子抄碑のブロンズパネルも、ここから文字を起こしました。
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もう1点の「いくら廻されても針は天極をさす」の方は、真筆であることを期待します。

光太郎、この短句を好んで書き、類例の画像がいくつか手元にあります。下のものが最も有名なもので、昭和44年(1969)、求龍堂さんから刊行された『高村光太郎賞記念作品集 天極をさす』の題字もここから採りました。こちらは「まはされても」のくだりが仮名書き。「針は」の「は」が変体仮名風にカタカナの「ハ」。
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郡山で展示されているものは、「廻されても」と、漢字、「は」は「は」で平仮名になっています。そこで、上記の書からの複製ではないことが判ります。

ただ、昭和55年(1980)に、六耀社さんから「いくら廻されても……」の書幅複製が販売されたという記録があり、「廻されても」と漢字になっているのが気がかりです。もしかすると、これなのかな、と。

近いうちに行って確認してみたいと思っております。

展示についての詳細は、以下の通り。

収蔵資料展「寺田 弘」

期 日 : 2021年4月24日(土)~6月13日(日)
会 場 : こおりやま文学の森 郡山文学資料館 福島県郡山市豊田町3-5
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 〈個人〉一般 200円 高校・大学生等 100円         
              〈団体〉一般 150円 高校・大学生等  70円
                中学生以下・65歳以上・障害者手帳をお持ちの方は無料

こおりやま文学の森資料館には数多くの文学資料が収蔵されています。収蔵資料展は、新たに購入したものや寄贈されたものなどの未公開資料を中心に選出し、普段目にする機会が少ない貴重な資料を広く市民に紹介するものです。
 
今回は、郡山市出身の詩人で平成 25年に死去した寺田弘の資料を、ご遺族からの寄贈により収蔵した原稿や詩集を中心に、宮沢賢治の書簡、高村光太郎の掛け軸などを紹介します。

【折々のことば・光太郎】

深澤さんに「ホメラレモセズ苦ニモサレズ」揮毫を渡す。龍一氏よりたのまれしもの。
昭和22年(1947)8月9日の日記より 光太郎65歳

「深澤さん」は、画家の深澤紅子。この日、盛岡「婦人之友」友の会の女性陣40名程と共に、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村を訪れました。

「龍一氏」は、深澤紅子子息。東京美術学校彫刻科に在籍されていた昭和18年(1943)、学徒出陣に際し、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を三人の先輩方と共に訪れ、激励の言葉をもらったそうです。光太郎はその際の様子を、同年、詩「四人の学生」に綴りました。

海軍で各地を転々とされた龍一氏、最終的には人間魚雷「海龍」を擁する特攻隊に配属されたそうですが、出撃命令が出る直前に終戦となり、無事、復員しました。

龍一氏、平成27年(2015)の連翹忌にご参加下さりましたが、平成30年(2018)に亡くなられました
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こちらが深澤家に残されている光太郎の書。日記にある書か、或いはのち、昭和25年(1950)に光太郎が深澤家を訪問した際に書かれたものと思われます。

昨年、富山県水墨美術館さんで開催予定だった「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展にて、本邦初公開の筈でしたが、コロナ禍のため中止。展示作品の選択、借り受け交渉など、1年以上にわたって協力させていただいただけに、実に残念に思っておりましたところ、今年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。こちらも出品されるはずです。

昨日は、1月に亡くなった父親の納骨のため、茨城県の取手市に行っておりました。

時間を間違えまして、かなり早く到着。何を間違えたのか(時間を間違えたのですが(笑))、14時からの筈が11時からと思いこんでおり、お寺さんに着いてから気がつきました。

時間を潰すため、うろうろしました。まずはお寺さんの近くにある市立の埋蔵文化財センターさん。
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当方、そちら方面にも興味がありますし、ここは思い出の地でもあります。平成13年(2001)の8月に、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご講演が行われ、拝聴に伺いました。光太郎の書も展示された「取手ゆかりの人びとの書」という企画展の関連行事でした。
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すると20年ぶり。ついこの間のような気もしていましたが……。

現在は「取手の発掘50年史」という企画展で、市内各地の遺跡から発掘された縄文~平安の出土品のうち、特に珍しいもの、資料的価値の高いものをセレクトしての展示で、興味深く拝見しました。
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それから、入り口付近に、過去の企画展の簡易図録がずらっと並べられ、無料で配付されていました。大量に余らせても仕方がないし、リサイクルに出すのも……というわけでしょう。「ほう」と思いつつ、手にとって眺めていると、一昨年に開催された「大正時代の取手―明治と昭和をつなぐ時代―」という展示の簡易図録に、光太郎の名。
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画像は昭和23年(1948)に建立された「開闡(かいせん)郷土」碑。取手駅近くの長禅寺さんの石段脇に現存するものです。よくある郷土の開拓、発展の歴史を振り返り、功労者を顕彰する的な碑ですが、その題字「開闡郷土」を光太郎が揮毫しました。
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こちらは平成28年(2016)に当方が撮影したもの。この時点ではこの碑、繁茂する篠竹に覆われて、もはや普通に見ることが出来なくなっていましたが、竹をかき分けて撮影しました。

上記簡易図録に載っている画像は、おそらく建立当時ものと思われ、これは初めて拝見しました。

その後、玄関付近に「本日は旧取手宿本陣染野家住宅も公開中です。ぜひ足をお運び下さい」的な掲示が為されており、そちらにも行ってみることにしました。車で10分足らずの場所ですが、車を駐めにくいところでして、これまで未踏の場所でした。
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ここでいう本陣、旧街道沿いで、江戸時代、参勤交代等の際に、お殿様などが宿泊するための施設です。取手は旧水戸街道の交通の要所でしたので、本陣が設けられていました。
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意外と質素な表門。
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本陣母屋。萱葺きの屋根が特徴的です。
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脇には蔵。

無料で母屋内部の見学が出来ました。
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基本、殿様が宿泊するとはいえ、宿屋というわけではなく、土地の有力者の邸宅の一部です。福島二本松の豪商だった智恵子の生家と似ている、と感じる部分がありました。
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しかし、商家ではありえない造作も。例えば、床下には曲者の侵入を防ぐ工夫。
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そうかと思うと、竈も同じ棟にあったりしました。
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明治になって、本陣としての役目を終えてから、この家の持ち主の染野家が、一時、郵便業務を行っていたそうで、その名残。
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草創期の郵便配達夫は拳銃を携行していたと、これは意外と有名な話ですね。
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現物は先ほどの埋蔵文化財センターさんに展示されていました。

裏手の高台には、ここに宿泊した徳川斉昭(大河ドラマ「青天を衝け」では、竹中直人さんが熱演(怪演?)なさっていましたね)の書を刻んだ碑。
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母屋の玄関部分には、取手の古写真等もパネル展示されていました。その中で出典が『取手たより』となっていたものが複数在りました。どうも古い地方紙のようですが、当方、寡聞にしてその存在を知りませんでした。

「もしかすると」と思い、本陣近くの取手市立図書館さんへ。何が「もしかすると」なのかといいますと、「開闡郷土」碑と同じ長禅寺さんにある蛯原萬吉像に関して、情報が得られるかも、というわけです。

蛯原萬吉像、以前にも書きましたが、初代は昭和8年(1933)の建立。その後、戦時中に金属供出にあって喪われ、2代目が昭和50年(1950)に復元されました。その2代目の建立の際に付けられたプレートに、初代の像が光太郎の作であったと明記されていましたが、こちらではその像の制作に光太郎が関わったという情報は一切ありませんでした。

そこで、国立国会図書館さん所蔵の『蛯原萬吉伝: 財界の偉傑』を千葉県立東部図書館さんのパソコンで拝見、それから、先月、父親の四十九日の法要の際に、やはり取手市立図書館さんで『取手市史』をあたりましたが、初代の像の作者名は不明のままでした。
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『取手市史』には、現在も刊行が続く『茨城新聞』(当時の紙名は『いはらき』)の記事が引用されていましたが、作者名は書いてありませんでした。

そこで取手の地方紙『取手たより』なら、と思い、探したところ……。
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やはり作者名は無し。

先述の『蛯原萬吉伝: 財界の偉傑』、遺っている初代の像のプレートも同様で、そうなると、この時期に一応彫刻家として名を成していた光太郎の作であれば、考えにくいというのが結論です。やはり、2代目の像のプレートに初代の像の作者が光太郎、とあったのはガセなのかな、という感じですね。もう少し調査は続けてみますが……。

ところで『取手たより』で、これまた長禅寺さんに建つ、「小川芋銭先生景慕之碑」の除幕(昭和14年=1939)に関しての報道を見つけました。
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「開闡郷土」碑同様、題字のみ光太郎が揮毫したものです。

そういう意味では収穫無し、という事態には成らずに済みました。

それから、昼食のために立ち寄った本陣のすぐ近くの蕎麦屋さん。注文したカツ丼(冷たいミニたぬき蕎麦付き)を待つ間、テーブルに置いてあった『茨城新聞』を読んでいると……。
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読者投稿欄です。奇縁に驚きました。

どうも取手に足を運ぶといろいろ奇縁があります。2月の父の葬儀の帰りには、それまでその所在地が不明だった光太郎揮毫の墓石(初代取手市長・中村金左右衛門の子息二人=共に戦死)を偶然に見つけたりもしました。

いずれ、不明である初代蛯原萬吉像の作者も判明することを祈っております。

以上、長くなりましたが、取手レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

雨つよし。終日雷鳴を伴ふ豪雨ふりつつき殆と止まず。到るところ水、水

昭和22年(1947)8月2日の日記より 光太郎65歳

上記『茨城新聞』の投稿句にもある、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の茅屋。元々は鉱山の飯場小屋を移築した粗末なものですし、山の麓で、おそらく斜面を滝のように水が流れ落ち、こうした豪雨の際は生きた心地がしなかったのではないでしょうか。光太郎は元々、幼少時から大の雷嫌いでしたし(笑)。

昨日は演劇公演を見に行っておりました。過日ご紹介した「ひなた村劇団第40回公演「青鞜の女たち」」。4月はじめに申し込んだ時点では満席とのことでしたが、一昨日になって、キャンセルが出たと連絡が入り、伺った次第です。
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会場は、町田市の「ひなた村」さんという、自然体験などのできる施設内に設けられたカリヨンホール。コロナ禍明けやらぬ中ですし、公共交通機関ではなく、愛車を駆って行きました。
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13:00と16:00の2回公演で、当方は16:00の方を拝見。

明治末、智恵子も参加した『青鞜』をめぐる群像劇ということで、同じ趣旨の二兎社さんの公演「私たちは何も知らない」などが頭にあって、女性だけの芝居なのかと思っていました。実際、フライヤーには以下のように印刷されていましたし。
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ところが、さにあらず。この女性たち以外にも、光太郎を含め、それぞれの周辺にいた男性陣もしっかり描かれていました。
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概ね史実に則りつつ、ただし時系列的にはいろいろ改変を加えながら(個々のメンバーの『青鞜』加入時期など)、それぞれの人生を描くといったものでした。
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左から、神近市子、智恵子、平塚らいてう、伊藤野枝。智恵子と野枝は入れ替わりに『青鞜』に参加しましたが、そういった細かな部分は考慮しない、というスタンスの脚本でした。

「ひなた村劇団」さんというのは、「町田市文化事業の一環として町田市青少年施設「ひなた村」で17年間に亘り開催された初心者演劇教室(講師:髙垣葵氏)の卒業生を中心に構成されている町田の市民劇団」(公式HP)だそうで、基本、アマチュアです。

そういうわけで、ちょっとしたトラブルもいろいろありましたが、皆さん、一生懸命演(や)られていました。「活動理念」として、「市民劇団として、子供から大人まで、今まで芝居を見たことのない観客にもわかりやすく楽しめる芝居を提供できるように取り組む」(同)という、それは達成できていたな、という感じでした。

ただ、ストーリー的には、少し手を広げすぎかなという感もありました。与謝野鉄幹と晶子に山川登美子、島村抱月で松井須磨子、岡本一平(東京美術学校での光太郎の同級生です)・かの子、大杉栄には神近市子及び伊藤野枝、平塚らいてう&奥村博史、そして光太郎智恵子……。それぞれのカップル(三角関係も含め)の愛憎や苦悩を細かなエピソードで描き、その分、2時間以上の長い舞台になっていました。

まぁ、それだけに、「新しい女」を目指しながら、皆、それを果たせず挫折した女たち、といった点は強調されましたが。

光太郎智恵子に関しても、大正元年(1912)の犬吠埼(具体的な場所は特定されませんでしたが)でのエピソード以外にも、智恵子が心を病んでからの九十九里浜(こちらも九十九里浜とは明言されませんでしたが)での様子も描かれました。
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まぁ、そうした中で、世間の偏見や因習と戦い続け、刀折れ矢尽きた女たち、的な感じが鮮明に描かれることにはなり、それを狙ったのだろうと思いました。
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8月には、「第29回たちかわ真夏の夜の演劇祭」というイベントに参加なさり、再演されるそうです。
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また近くなりましたら、ご紹介いたします。

それにしても、東京都は新型コロナによる3度目の緊急事態宣言が今日からということで、昨日の会場のひなた村さんも今日から閉鎖だそうです。1日ずれていたために休演にならずにすんで、よかったと思いました。本来、この公演、一年前に予定されていたものでしたので……。まったく、いつまで続くコロナ禍ぞ、という感じですね……。

【折々のことば・光太郎】

井戸の水急にふえる。稍濁る。 後刻水汲みの時、鼠一匹井戸の中に溺れてゐるのを発見、引き上げて南瓜の肥料に埋める。多分薬をくつた鼠ならん。井戸の蓋を必ずする事にする。


昭和22年(1947)7月23日の日記より 光太郎65歳

蟄居していた花巻郊外旧太田村の山小屋での生活、こうしたエピソードからも、壮絶なものだったことがうかがえます。







智恵子の故郷、福島二本松関連で2件。

まずは例年、春と秋に行われている、智恵子生家の2階特別公開について。二本松市さんの広報紙『広報にほんまつ』から。

智恵子の生家2階特別公開000

期 日 : 2021年4月29日(木)~5月30日(日)
     の土日・祝日
会 場 : 智恵子の生家
福島県二本松市油井漆原町36
時 間 : 9:00~16:00
料 金 : 大人(高校生以上) 410円(360円)
      子ども(小・中学生) 210円(150円)
      ( )内団体料金 含智恵子記念館観覧料

智恵子を育んだ「生家」の2階を、特別公開します。智恵子が暮らした旧長沼家の雰囲気をご堪能ください。

建物内では係員の指示に従って下さい。

来館の際にはマスクの着用と検温の実施にご協力下さい。

平成27年(2015)から始まったこの企画、当方も何度かお邪魔しました。その年によって、「高村智恵子生誕祭」の一環として行ったり、そうでなかったりといろいろですが、昨年と今年はコロナ禍の影響もあって、生誕祭とは切り離しての実施のようです。

平成27年(2015)秋のレポートですが、こちら

コロナ感染にはお気を付けつつぜひ足をお運び下さい。

それから、やはり二本松がらみということで、昨夜、NHK Eテレさんで放映された「にっぽんの芸能 人、鬼と成る〜舞踊“安達ケ原”〜」を拝見しました。
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今年3月に国立能楽堂で行われた公演の録画です。

舞方は3人。
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シテ、ワキ、ツレ、そしてシテが「実は○○だった」と、伝統的な能の形式に則っていますが、面を付けない「素踊り」。
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久しぶりにこの手の番組を拝見し、新鮮でした。

遡りますが、本編の前に、イラストを使ってのあらすじ紹介。ここで物語の舞台としての二本松の紹介があればなおよかったのですが、残念ながらそれはありませんでした。
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結局、鬼女は、山伏の法力で折伏させられます。

意外に思ったのは、鬼女がなぜ鬼女になってしまったのかの説明が無かったこと。

二本松に伝わる伝説では、鬼女の名は「岩手」。元は京の都で公家に仕えていた女房だったのですが、その家の姫が重い病となり、それを治す薬は人間の胎児の生き肝と知り、それを求めて各地を転々。やがてカモとなる若い妊婦に出会って殺し、胎児の生き肝を手に入れたものの、殺した妊婦は自分の娘だった、というわけで、岩手は錯乱して鬼女に成り果て、殺戮を繰り返していたというのです。

当方、寡聞にして存じませんが、能の「黒塚」でもこの辺りの経緯は語られていないのでしょうか。

さて、「にっぽんの芸能「人、鬼と成る〜舞踊“安達ケ原”〜」」、4月26日(月)、やはりNHK Eテレさんで再放送があります。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

畑手入。草とりは暑熱と坊主蚊とに恐れて中〻出来ず。


昭和22年(1947)7月21日の日記より 光太郎65歳

草取りは本当に大変ですね。自宅兼事務所の庭も、芝生が芝生ではなく、雑草の方が多い状態で、このところ、夕方や曇りの日を狙って、電気式の草刈用バリカンで刈っていますが、中々進みません。意外と腕力を使いますし、かがんでの作業が腰に来ます。

本来、昨春に開催予定だった企画展ですが、コロナ禍のため1年延期となって、明日開幕です。

春の特別展「『白樺』創刊110年 文学の道」13年5ヶ月の軌跡

期 日 : 2021年4月24日(土)~6月13日(日)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1-8-30
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日 (5月3日開館 5月6日(木)振替休館)
料 金 : 大人200円 小中学生100円

1910年(明治43年)、実篤や志賀直哉ら学習院の同窓生を中心に同人雑誌『白樺』が創刊され、1923年(大正12年)の関東大震災までの13年5ヶ月の間、刊行が続けられました。「他のものにあきたりないので、自分で、自分の要求する文学をうみ出さう」という若い情熱が集った『白樺』は、実篤、志賀に加え、有島武郎や里見弴、木下利玄、長與善郎など日本近代文学史に名を残す文豪たちの出発点でもあります。
本展覧会では『白樺』の足跡を辿りながら、この雑誌が当時の日本文壇に与えた衝撃と影響をご紹介するとともに、その個性豊かな同人たちの作品をご覧いただきます。
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関連事業 文学講座「『白樺』派評価の大きな転換点-本多秋五の批評を中心に-」
 講師 瀧田浩氏(二松学舎大学教授) 日時 5月30日(日) 13:00~15:00
 会場 調布市東部公民館 調布市若葉町1丁目29-21 参加費 220円

 申し込み 往復葉書で実篤記念館まで

光太郎も寄稿し、いわゆるその「人道主義」や、西洋美術の紹介などで注目を集めた『白樺』。昨年が創刊110年ということで、それを記念する企画展示です。

美術方面については、昨秋「秋の特別展 『白樺』創刊一一〇年 美術への情熱-一六〇冊に込めた思い-」が開催されました。で、今回は文学方面にスポットを当てています。

早速、同館から図録を頂いてしまいました。多謝。章立ては以下の通り。それがおそらく展示の構成にもなっているのでしょう。全23ページです。光太郎の名も散見されます。

・『白樺』創刊への道―学習院という空間―001
・『白樺』創刊への道―回覧雑誌の時代―
・『白樺』創刊
・『白樺』創刊―草創期―
・文壇変遷期―自然主義と新たな波―
・『白樺』同人達のあり方―“国民的”と“世界的”―
・『白樺』同人と演劇・脚本―旧劇と新劇―
・同人の変遷―人道主義―
・『白樺』同人―文壇での評価―
・『白樺』十周年
・大正12年『白樺』終刊―有島武郎の死―
・大正12年『白樺』終刊―関東大震災―
・同人の代表作
・『白樺』の文学―作家への影響―


ついでにというと何ですが、昨秋の「秋の特別展 『白樺』創刊一一〇年 美術への情熱-一六〇冊に込めた思い-」の図録も同封されていました。ありがたし。こちらは全34ページ。
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・挿絵と美術紹介
・『白樺』同人が見た美術
・白樺主催泰西版画展覧会
・ロダンからの贈りもの
・白樺主催第四回美術展覧会
・公共白樺美術館の設立に向けて
・第八回白樺美術展覧会
・為白樺美術館設立ヸリアム・ブレーク複製版画展覧会
・白樺美術館第一回展覧会
・若手芸術家の発表の場
・『白樺』の文学と美術
・作品にみる友情
・創刊一一〇年『白樺』表紙しおり


コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

夜蚊帳を初めてつる。安眠。


昭和22年(1947)7月20日の日記より 光太郎65歳

蚊帳は、開拓で近所に入ってきた青年が配給で受け取ったもの。そちらには元々あったらしく、光太郎が譲り受けました。

智恵子の故郷、福島二本松に伝わる鬼婆伝説。能「黒塚」の原作となり、広く知られています。

舞台となった場所は、二本松市北部の安達ヶ原。現在は「安達ヶ原ふるさと村」という施設が出来、隣接する観世寺さんには、鬼婆が住んでいたという岩屋や、少し離れた場所には鬼婆の墓といわれる「黒塚」も残っています。

大正9年(1920)、智恵子の父・長沼今朝吉の三回忌法要のため、光太郎も智恵子の実家を訪れ、先に帰省していた智恵子と合流しました。この際に実家附近を二人で歩き回り、その体験が、詩「樹下の二人」(大正12年=1923)のモチーフとなったようです。歩いた場所は、智恵子実家の裏山や、安達ヶ原。「樹下の二人」には詩本体の前に「みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ」という短歌一首が附されています。また、最晩年の「高村光太郎聞き書」には、当会顧問だった故・北川太一先生の「「樹下の二人」も『明星』ですね。その頃のことをうかがいたいのですが」という問いに対し、「「樹下の二人」の前にある歌は安達原公園で作ったんです。僕が遠くに居て智恵子が木の下に居た。」と答えています。光太郎智恵子が安達ヶ原を訪れたのは間違いありません。

光太郎、その折にでも、鬼婆伝説のことを聞いたのかもしれません。あるいは既に能「黒塚」を知っていて、予備知識があったとも考えられます。のちに智恵子の心の病が昂進してからの詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)では、「意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて/のがれる途無き魂との別離」と、唐突に「鬼」の語が現れますが、あるいは安達ヶ原の鬼婆が頭をかすめたのではないでしょうか。

さて、鬼婆関連。

まずはテレビ放映の情報です。

にっぽんの芸能「人、鬼と成る〜舞踊“安達ケ原”〜」

NHK Eテレ 2021年4月23日(金) 21:00~21:55
再放送   2021年4月26日(月) 12:00~12:55

福島県・二本松市、安達ケ原に伝わる鬼女の伝説を舞踊にした作品「安達ケ原」を、3月に行われた特別日本舞踊公演からお送りします。出演は花柳寿楽、若柳壽延、猿若清三郎ほか。シテ(老婆実は鬼女)を演じた花柳寿楽のインタビューを交えてお楽しみいただきます。歌詞や演出は能「黒塚」から取られており、振り付けは二世花柳壽楽。前半は改心を見せている鬼の姿をしっとりと、後半は怒りに満ちた様子を描いた、舞踊の大作です。

【司会】高橋英樹,【アナウンサー】中條誠子,
【出演】花柳寿楽,若柳壽延,猿若清三郎,杵屋勝四郎,杵屋巳之助,杵屋勝四助,
    杵屋栄八郎,松永忠一郎,杵屋勝十朗,福原百七,堅田新十郎,堅田喜三郎,
    住田長十郎
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物語の舞台としての二本松の紹介の中で、光太郎智恵子に触れていただければありがたいのですが……。

舞踊で「安達ヶ原」といえば、一昨年には、「にほんまつart fes」というイベントの一環で、親しくさせていただいている女優の一色采子さん(お父さまが二本松ご出身で智恵子の絵も複数描かれている故・大山忠作画伯)と、福島市出身の舞踊家・二瓶野枝さんによるコンテンポラリーダンス「妖艶 Bewitching」の公演があったりもしました。この際は、当方、これを観に行く途中で愛車が故障、泣く泣く引き返し、後に報道で様子を知った次第です。

また、平成28年(2016)には、現代アートの「福島ビエンナーレ」の一環として、智恵子生家を会場に、小松美羽さんによるインスタレーションが行われ、やはり鬼婆伝説がモチーフとされました。

平成30年(2018)には、二本松で公開収録されたNHKさんの「民謡魂 ふるさとの唄」で、「あまちゃん」や「八重の桜」、「いだてん」などにもご出演された大方斐紗子さんが鬼婆役でご出演。ただし、この鬼婆は智恵子と光太郎の仲を取り持とうとする、いい鬼婆(笑)でした。
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さて、「にっぽんの芸能」、ぜひご覧下さい。

さて、やはり鬼婆がらみの別件、地方紙『福島民友』さんから。

怖くて...うまい!「おにばばソフト」 「酪王いちごオレパフェ」も

007 二本松市振興公社は今月から、二本松市の安達ケ原ふるさと村と道の駅安達「智恵子の里」下り線で、独自商品の「酪王いちごオレ」ソフトクリームをベースにした新スイーツを発売した。
 ふるさと村は、「安達ケ原の鬼婆」伝説をモチーフにしたオリジナル商品開発の第3弾となる「おにばばソフト」(600円)。「怖くて...うまい!」をキャッチフレーズに、出刃包丁や骨の形をしたクッキーをトッピングし、血をイメージしたいちごソースを使った。食事処のよってっ亭で販売している。
 道の駅では、いちごオレのパフェを考案した。酪王いちごオレソフトに、カラフルな色合いのあられの一種「おいり」をトッピングし、かわいらしいスイーツに仕上げた。あられの食感がおいしさを引き立てる。道ナカ食堂で400円で販売している。
 同公社は「同じソフトクリームをベースにする商品のギャップを楽しんでもらいたい」としている。

同じ件、福島テレビさんでも報じられていました。

恐怖を覚えるおいしさ!?鬼婆伝説の地・安達ケ原に誕生したソフトクリーム

二本松市振興公社・吉清水朋子さん:「安達ヶ原の鬼婆は、この土地ではとても有名で、この鬼婆伝説を皆さんに知って頂きたいと」
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福島県二本松市の『安達ヶ原ふるさと村』
この地に伝わる鬼婆伝説をPRし、コロナ禍で減少した観光客を呼び戻そうと令和2年8月8日に、「オニババプロジェクト」が立ち上がった。
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鬼婆のリアルさ怖さを、ありのまま売り出していこうというプロジェクトで、第1弾は、トートバッグや缶バッジを制作。第2弾は、出刃包丁を模したハンバーグがのっている「オニババ出刃ーグカレー」
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そして、第3弾。4月5日に発売されたのが…
黒い角に白い髪の毛、しわしわで牙のはえたこわ~い表情!血のついた出刃包丁や骨…その名も「おにばばソフト」。
◇「おにばばソフト」600円(税込)
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二本松市振興公社・吉清水朋子さん:「ふるさと村で大人気商品の『酪王いちごオレソフト』を土台にして、鬼婆の顔をプリントしたクッキー、生クリームで表現した鬼婆の髪の毛、角、出刃包丁のクッキー、骨のクッキー、意味ありげに赤いソースがかかっています」
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試行錯誤を重ね、出来上がるまでに4ヵ月ほどかかったそう。
二本松市振興公社・吉清水朋子さん:「鉛筆で何度もデッサンをして、クッキーに焼いたときにいかに簡単にきれいに顔にでるかっていうのを何枚も何枚もクッキーを作って、型を作ってプリントクッキーが仕上がりました」
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二本松市振興公社・吉清水朋子さん:「”おにばばソフト”を知って頂いて、鬼婆っているんだってこと、それがさらに二本松のPRにつながることが一番だと思っています。『怖くてうまい!』ソフトクリームを楽しんで頂けたらと思います」
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<二本松市の安達ヶ原に伝わる鬼婆伝説>
病を抱えるお姫様の乳母だった女性は、お姫様を助けるためには妊婦のお腹の中にいる子どもの生き肝を飲ませる必要があった。ある日やってきた妊婦のお腹を切りましたが、なんとその妊婦は自分の娘だったのです…ショックのあまり、鬼婆になってしまったという…
<安達ケ原ふるさと村> 福島県二本松市安達ケ原4-100

当方は「ちょっと、無理……」という感じですが、度胸のある方、ぜひどうぞ(笑)。

【折々のことば・光太郎】

「展望」に原稿着の由にて臼井吉見氏より一五、〇〇〇圓小為替により送り来る。

昭和22年(1947)6月23日の日記より 光太郎65歳

「原稿」は、自らの生涯と戦争責任を綴った連作詩「暗愚小伝」です。「臼井吉見」は掲載紙『展望』の編集長でした。

「暗愚小伝」、18ページに亘る掲載ではありましたが、その稿料が15,000円というのは、当時の物価から換算すれば破格の金額のように思われます。当方、現代でも15,000円の原稿料を貰えることはほとんどありません(笑)。

宮城県から展覧会情報です。今日開幕だそうで。

島川コレクション 春の展覧会 『横山大観から現代アートまで』

期 日 : 2021年4月21日(水)~6月20日(日)
会 場 : 島川美術館 宮城県仙台市青葉区本町2-14-24
時 間 : 5/5まで10:00~16:00 5/6以後10:00~17:00
休 館 : 毎週火曜日
料 金 : 一般 1,200円 高校生 500円 小・中学生 300円 ※団体割引あり

2020年3月から臨時休館していました「島川美術館」は、今年から春と秋に約2ヶ月間の期間限定で開館いたします。

近代日本画壇の巨匠、横山大観が1936年、巨大な画面に描いた「霊峰不二」(131.9×200.3cm)。藤田嗣治の人気版画シリーズ「猫十態」の原画1点「猫」(1928年)、小磯良平がバレリーナを真上から描いた「踊り子」、加山又造「青富士」・「不二」(1984年)、森本草介「フランスパンのある静物」(1990年)、野々村仁清「色絵牡丹文中次」、他に、草間彌生「イエロースポット」など、現代アートの作品も多数、初展示いたします。

更に、高橋由一「江ノ島図」、青木繁「海」、岸田劉生「麗子像」、林武「薔薇」、安井曽太郎「立像」、梅原龍三郎「富士山図」、佐伯祐三「白い道」、荻須高徳「街角」、橋本関雪「玄猿」、田中一村「蓮上観音像」、速水御舟「芙蓉」・「八重椿」、東山魁夷「春梢」・「湖静寂」、加山又造「しだれ桜」・「猫」、前田青邨「春暖」、平山郁夫「マルコ・ポーロ東方見聞行」・「流沙浄土変」、中島千波「白牡丹」・「赤牡丹」、マルク・シャガール「サンポールドヴァンスの恋人たち」など。

陶器、樂茶碗、西洋ガラスも含め、合わせて150点程度展示いたします。
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002案内文にはありませんが、光太郎の父・光雲の木彫「聖観音像」も展示されています。光雲が最も得意とした図題の一つで、柔和なお顔のいいお作ですね。

島川美術館さん、健康食品販売メーカー「ジャパンヘルスサミット」という会社の島川隆哉社長のコレクションが根幹の美術館です。以前は同じ宮城県内の蔵王町の遠刈田温泉さんにありました。その頃の名称は「エール蔵王 島川記念館」。それが、一昨年、仙台市に移転して改称されたそうで、それは存じませんでした。

当方、平成29年(2017)に、遠刈田温泉さんを超えた先の青根温泉湯元不忘閣さん(昭和8年=1933、光太郎智恵子が逗留)に泊めていただきました。その際には「エール蔵王 島川記念館」さんが美術館だとは知らず、スルー。帰ってから程なく、そちらに光雲の聖観音像も展示されていたことを知り、「ぬがーっ」(笑)。

間抜けな当方の身には、時折そういうことが起こります。島根県の出雲に行った際も、帰ってきてから、出雲大社内の彰古館に光雲作の恵比寿様と大黒様の木彫が展示されていると知って、「ぐわーっ」(笑)。

閑話休題。島川さん、コロナ禍のため休館中だったのが、今日から再オープンだそうですが、当面は通年開館ではなく、春秋の期間限定開館だそうです。上記案内文を読むと、錚々たる顔ぶれの出品。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

晴れて、ますます痛快な好晴となる、風あり、青嵐の趣あり、


昭和22年(1947)6月22日の日記より 光太郎65歳

その前2日間は雨。貴重な梅雨の晴れ間でした。「青嵐」は青葉の頃に吹く少し強い風。当方自宅兼事務所のある千葉県北東部、今朝もですが、このところ時折そんな感じです。

まずは4月14日(水)付けの地方紙『岩手日日』さんの記事。

賢治の世界観触れる 新入社員が施設見学 観光協会セミナー

  花巻観光協会主催の新入社員セミナーが13日、花巻市内で開かれ、会員企業に入社した新入社員らが市内の観光施設を見学。宮沢賢治の世界観や食文化など多彩な花巻の魅力に触れた。
 市内2事業所から22人が参加。宮沢賢治記念館、宮沢賢治童話村、花巻新渡戸記念館、ワインシャトー大迫、成島毘沙門堂、高村山荘・高村光太郎記念館などを訪ね、花巻おもてなし観光ガイドの会の高橋孝子会長から、各施設の概要や見どころを聴き、昼食にはわんこそばも体験した。
  このうち宮沢賢治童話村では、賢治童話の世界が体感できる「賢治の学校」や、 賢治童話に登場する植物、動物、星、鳥、石について学ぶことができる7棟のログハウス「賢治の教室」などを見学。花巻温泉に今春入社した滝沢市の髙橋桃子さん(18)は「自分も楽しめたので、お客さまに聞かれたときには、この楽しさを伝えられるようにしたい」と話していた。
 セミナーは、花巻を訪れた人が必要とする観光情報などについて対応できる人材育成が目的。講師を務めた観光ガイドの髙橋会長は「花巻を訪れた観光客がまた来たい、行って良かったと思えるガイドを心掛けている。セミナーの参加者一人ひとりがその担い手になってくれればうれしい」と話していた。 19日と26日にも同様の日程でセミナーを開く予定。
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途中入社の方とかもいらっしゃるかも知れません。だから「新社会人」ではなく「新入社員」の語になっているような気がします。ただ、画像で見る限りは皆さんお若い方ばかりですね。

皆さんには、賢治や光太郎の世界について広める役割を期待したいところです。

花巻ではこんな取り組みも。花巻市さんのホームページから。

【令和3年4月1日から】教育旅行で花巻市内に宿泊していただくと、花巻市所管の対象施設を無料でご利用いただけます

花巻市外の学校が、学校行事の一環として花巻市内の宿泊施設での宿泊を伴う教育旅行を実施し、同教育旅行期間中に花巻市が所管する対象施設を利用した際、学校の児童、生徒、学生及びその引率者を対象とし、市施設入館料等を全額免除いたします。
 
実施期間 令和3年4月1日(木曜)から11月30日(火曜)まで
対象施設一覧(全10施設)
 宮沢賢治記念館 宮沢賢治童話村 花巻新渡戸記念館 萬鉄五郎記念美術館
 高村光太郎記念館 花巻市博物館 石鳥谷歴史民俗資料館 花巻市総合文化財センター
 大迫郷土文化保存伝習館 石鳥谷農業伝承館
ご利用の際の条件等
【利用対象者】学校行事の一環として花巻市内の宿泊施設での宿泊を伴う教育旅行を実施する花巻市外にある学校の児童、生徒、学生及びその引率者。(学校:小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学、高等専門学校及び専修学校)
【宿泊施設】市内の旅館業法第3条第1項に規定する許可を受けた者又は住宅宿泊事業法第2条第4項に規定する住宅宿泊事業者が営む施設に宿泊すること。
【その他】施設予約及び旅行日程表の提出が事前に行われていること。

▽手続きの流れ、連絡先等につきましては、下記チラシをご覧ください。
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ある意味、英断ですね。ダンピングのような気がしないでもありませんが、リピーターとして再度訪れてくれたり、口コミで各施設の評判を広めてくれたりすれば、採算は取れるのかな、とも思われます。

全国の学校関係者の皆さん、旅行業に携わる方々、ご一考を。

ところで、最近の高村光太郎記念館さん周辺の風景、4月13日(火)に送られてきた画像でご紹介します。
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例年5月15日(光太郎が花巻に向けて疎開に出発した日を記念して)に開催されてきた、高村祭は、昨年に引き続き、やはりコロナ禍のため中止となりましたが、感染防止に努めつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

畑に蟲多く、大根苗、ホウレン草その他半分以上くはれて消える。


昭和22年(1947)6月21日の日記より

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋前に開墾した畑の様子です。本格的に農業を初めて2回目の夏、それでもまだこんな状況だったのですね。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第25号が届きました。
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光太郎の日記等の記述を参考に、現代風にアレンジされた連載「光太郎レシピ」は「じゃがいものニョッキと蜂蜜レモン紅茶」だそうで。
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「蜂蜜レモン紅茶」は、まさにそのまま、花巻郊外旧太田村の山小屋で賞味していました。あのボロボロの小屋と、ハイカラな飲み物のギャップがすごいと思います。

巻頭の特集は、「桜の風景」。花巻の桜の名所がふんだんに紹介されています。岩手では、これから盛(さか)りでしょうか。
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他に、宮沢賢治の足跡を追う「賢治の散歩道」という連載では、花巻中心部の仲町にあった「精養軒」が紹介されています。
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こちらは北上市の中村邸とともに、賢治の「注文の多い料理店」のモデルの一つと言われているそうです。昭和27年(1952)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京する光太郎の壮行会が、ここで開かれています。

マチココさん、オンラインで定期購読の手続きが取れます。ぜひどうぞ。

それから、毎月15日は、「光太郎レシピ」と関連する「光太郎ランチ」の日。昨年開業した道の駅はなまき西南さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで、豪華弁当「光太郎ランチ」が限定販売されています。

今月の光太郎ランチの画像等が、花巻から送られてきました。
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こちらでもジャガイモ。やはり新じゃがの旬だということでしょうか。

白玉団子までついていて、少しカロリー高めかな、という気がしないでもありませんが、これは満足の弁当ですね。

特に急な話題が入らなければ、明日も花巻ネタで。

【折々のことば・光太郎】

つゆをミヅにてつくる。ミヅは朝仁太郎翁が持つてきてくれたり。


昭和22年(1947)6月20日の日記より 光太郎65歳

「ミヅ」は「水」ではなく、山菜の名前です。以前のマチココさん「光太郎レシピ」で「山菜ミズのたたきとウコギのホロホロかけご飯」として取り上げられたりもしました。
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昨日の朝刊を開き、劇作家の清水邦夫氏の訃報が出ていて、驚きました。

劇作家の清水邦夫さんが死去 蜷川幸雄さんとコンビ

001 若者の苦悩やいら立ちを描いて人気を集めた劇作家の清水邦夫(しみず・くにお)さんが15日午後0時46分、老衰のため死去した。84歳。新潟県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。
 1960年代後半から70年代初めにかけて、演出家の蜷川幸雄さんとのコンビで「真情あふるる軽薄さ」「ぼくらが非情の大河をくだる時」などの作品を発表し、全共闘世代の熱い支持を得た。
 妻で俳優の故松本典子さんらと演劇企画集団「木冬社」を結成。戯曲の代表作に「タンゴ・冬の終わりに」「エレジー」「弟よ」などがある。
 岸田国士戯曲賞、泉鏡花文学賞などを受賞。小説も執筆し、芥川賞候補にも挙がった。
(共同通信)

清水氏、平成3年(1991)には、光太郎智恵子の物語「哄笑―智恵子、ゼームス坂病院にて―」を、記事にもある木冬社さんの公演として実施されました。演出も同氏でした。
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平成5年(1993)には再演。
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その後、各地で巡回公演もされたようです。

いずれも光太郎役は小林勝也さん、智恵子役は清水氏の奥様だった故・松本典子さんでした。

脚本は、平成4年(1992)刊行の『清水邦夫全仕事 1981~1991』(河出書房新社』に掲載されています。智恵子が心を病んだ昭和初期のきな臭い世相を背景に、虚実の入り乱れた不思議な世界でした。

また、昭和58年(1983)初演の『いとしいとしのぶーたれ乞食』でも、光太郎智恵子に触れられていたようです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

サダミさん宅の幸子さん来て、ドンといふ米のアラレ菓子、鰯の生干などもらふ。廿三日節句の菖蒲湯に来よとの事。

昭和22年(1947)6月19日の日記より 光太郎65歳

「ドンといふ米のアラレ菓子」、「ポン菓子」という呼称が一般的でしょうか。圧力を掛けて開放、膨張させたものです。

当方、最近、朝食(パン食)には、これを欠かしません。グノーラ的に牛乳をかけていただいています。光太郎が食べたものと全く同じかどうかわかりませんが。
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一昨日、千葉東葛地区の柏市で「熱血の旅行作家 山本鉱太郎展」を拝見して参りましたが、先週は隣接する野田市に行っておりました。行き先は、茂木本家美術館さん。

続けて同じ地域に行ったのは、まったくのたまたまです。この日は、御朱印集めを趣味としている当方の妻が、「野田の櫻木神社さんに行きたい!」と言いだし(というか、前々から言っていたのですが)、じゃあ行くか、ということになって、では近くに茂木本家美術館さんというのがあるはずだから、そちらも、となった次第です。

同館、醤油メーカーのキッコーマンさんの創業家の一つ、茂木家の十二代目・茂木七左衞門氏のコレクションを根幹に、平成18年(2006)に創設された美術館です。光太郎の父・光雲の木彫も常設展示されているらしいという情報を得、以前から行ってみようと思っておりました。
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右下に変なものが写っていますが、気にしないで下さい(笑)。
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「ファウンダーズ・ルーム」という展示室に、光雲作の木彫が展示されていました。フラッシュをたかなければ撮影可。ありがたし。
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キャプションによれば、大正12年(1923)作の「孔子椅座像」。久しぶりに光雲木彫の現物を見ましたが、いつみても舌を巻くような精緻さです。

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隣り合わせで、光雲の高弟の一人、平櫛田中の木彫も。
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さらに、光雲の孫弟子・宮本理三郎。これも一つの材から彫り出した木彫です。
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他には、梅原龍三郎、小倉遊亀らの絵画等。

続いて、「ギャラリー1」という部屋。こちらは富士山を描いた日本画、洋画。
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やはり梅原や、中島千波氏らにまじって、親しくさせていただいている女優の一色采子さんのお父さま、故・大山忠作画伯の絵も。
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その奥の「ギャラリー3」では、「広重の富士 不二三十六景を中心に」展。
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北斎の「富岳百景」の、まあ、悪く言えばパクリ、よく言えばインスパイアされた広重の浮世絵です。基本、嘉永5年(1852)に出されたものだそうで、この年は光雲の生まれた年です。

途中途中で、光太郎と交流の深かった、舟越保武のブロンズ。
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この後、屋外の庭園へ。
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おそらく、隣接する茂木家の住宅の一角と思われる稲荷神社があり、受付のお姉さんが「江戸時代の彫刻があるのでご覧下さい」とおっしゃっていましたので、行ってみました。

まずは社殿。漆喰の鏝絵ですね。
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脇の手水舎には木彫。
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稲荷神社だけに、狐の嫁入り。洒落が利いています。いずれも作者は不明のようですが、名のある職人の手によるものと想像できました。もしかすると、木彫の方は光雲の系譜(高橋鳳雲、高村東雲など)に関連があるかもしれません。

美術館はこんな感じ。眼福でした。

ついでですので、妻が行きたがっていた櫻木神社さん。
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当方、その存在を存じませんでしたが、御朱印マニアの間では有名だそうで。

ご神木はその名の通り、桜の老木でした。それも珍しいのかな、と思います。
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ご神木の花や、境内各所のソメイヨシノ系は既に散ってしまっていましたが、種類によってはまだ満開の桜も。

それぞれ、コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

夕方血がのどから出る。わたのやうな形のものまじる。蒲団をしいて横臥。


昭和22年(1947)6月17日の日記より 光太郎65歳

明らかに結核の自覚症状があったはずなのですが、診療はかたくなに拒否。ある意味、自殺行為に近いようにも思えます。

題名に記しました「千葉東葛(とうかつ)地区」とは、千葉県の北西部、元は東葛飾郡と言っていた地域で、現在の松戸市、柏市、流山市、野田市などを指します(茨城県の一部も含むようですが)。「葛飾」という地名は東京都葛飾区が有名ですが、本来はかなり広いエリアで、北は埼玉県で「北葛飾郡」が現存していますし、東は千葉県の東葛飾郡だったわけです。

さて、その東葛エリアに、先週、それから昨日と、2回に分けて足を運びました。自宅兼事務所のある千葉県香取市からは車で1時間半くらいのところです。

時系列とは逆に、まず昨日。柏市に行っておりました。

きっかけは、一昨日の『朝日新聞』さん千葉版。「温泉本・グルメ…多彩な足跡 旅行作家の草分け・山本鉱太郎さん、柏で作品展」という記事が出まして、拝読し、「あっ、これは行かねば」と思った次第です。
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山本氏、平成元年(1989)初演の「オペラ智恵子抄」の脚本を書かれた方です。作曲は仙道作三氏、そして監修は当会顧問であらせられた、故・北川太一先生でした。
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その山本氏の足跡を辿る展示がなされているということで、当方、仙道氏、それから智恵子役を演じられた本宮寛子さん、和田タカ子さんとも親しくさせていただいておりますが、山本氏とはお会いしたことがなく、おそらく会場にいらっしゃるのではなかろうかと思い、行ってみた次第です。

会場は柏市の花井山大洞院さんという寺院内の「大洞院ギャラリー」。柏でも古くから栄えていた地区、野田方面に延びる旧道から少し入ったところにあります。
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立派な本堂。
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その前には、イチョウの巨木。神社ではないのでご神木、というわけではありませんが、江戸時代には既にランドマークだったそうです。色づいたらさぞ見事でしょう。
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ギャラリーは本堂と繋がっていました。
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一室のみで、あまり広くはありません。その空間に、山本氏の足跡が、これでもかとてんこ盛り。
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「オペラ智恵子抄」関連の資料も複数、並んでいました。
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KIMG4966山本氏直筆の脚本原稿、何度か各地で公演されたその時々のパンフレットやチラシ、ポスターなどなど。

案の定、山本氏がいらしていたので、お話しをさせていただきました。まずは北川太一先生のこと。山本氏、千駄木の北川先生宅にも行かれたそうで、そうした思い出など。

それからもちろん作曲の仙道氏についても。山本氏、「オペラ智恵子抄」以外にも、仙道氏とタッグを組んでのお仕事をなさっています。

そして、話は宮城県女川町に。女川町でも「オペラ智恵子抄」が上演されたことがあり、その際、山本氏も女川に行かれていたそうで、勧進元だった故・貝(佐々木)廣氏のお話、オペラ上演のきっかけとなった女川町の光太郎文学碑の話などなど。

また、山本氏、最近は女川に行かれたことはないそうで、東日本大震災から10年経って、女川がどう変わったのかなども。スマホでこのブログから、最近の女川の様子をお見せすると、興味深そうにご覧下さいました。
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こちらが山本氏。

「オペラ智恵子抄」以外にも、山本氏の筆は光太郎に及んでいます。ご自身、流山ご在住で、やはり東葛エリアの手賀沼関連。ここには光太郎も名を連ねた『白樺』の面々が移り住み、一種の芸術村が形成されました。
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その関連の展示。

こちらは山本氏ご著書『白樺派の文人たちと手賀沼 その発端から終焉まで』
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特に、バーナード・リーチとのからみで、光太郎について詳述されています。

あつかましくもこの書籍を持参、サインしていただきました(笑)。
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「オペラ智恵子抄」の楽譜にも。

さて、展覧会の詳細をご紹介します。

熱血の旅行作家 山本鉱太郎展

期 日 : 2021年4月10日(土)~4月18日(日)
会 場 : 大洞院ギャラリー 千葉県柏市花野井1757
時 間 : 10:00~16:30
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

旅行作家山本鉱太郎の著作やそれに関連したものの展示をします。4月11日は「人生思い立った日が青春」の朗読と講演を行います。4月18日は山本さんの台本によるラジオ放送劇「宮沢賢治」の一部の朗読、趣味のハーモニカ演奏などを楽しみます。
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会期残り僅かとなってのご紹介で面目次第もありませんが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

十時頃、花巻の子供賢治の会の連中(二十人余)来る。照井氏と同夫人とが引率。


昭和22年(1947)6月15日の日記より 光太郎65歳

「花巻賢治子供の会」は昭和22年(1947)に結成され、第一回公演が光太郎の山小屋前の野外。以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続けました。会の命名も光太郎だそうです。賢治実弟・清六息女の潤子さんなどもメンバーでした。

太田村での公演は、光太郎の慰問がメインの目的だった部分もあったようです。
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当方も加入している高村光太郎研究会発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』の第42号が届きました。

今号は、昨年1月に逝去された、当会、そして高村光太郎研究会の顧問であらせられた故・北川太一先生の追悼号。
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研究会主宰の野末明氏をはじめ、7名の研究会員による追悼文等が掲載されています。当方も拙稿を寄せました。
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その他、盛岡大学教授・矢野千載氏による「高村光太郎と中村不折の書道観―明治・大正の六朝書道を中心として―」など、5本の「論文」。

盛りだくさんとなったため、当方が連載として持たせていただいている「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』に未収録作品の紹介)、「光太郎歿後年譜」はカット。原稿を送ってから、「今回は紙幅の都合で載せません」と返答があり、カチンときたのですが、まぁ、いたしかたないでしょう。

それから、追悼といえば、やはり研究会員であらせられた、群馬県立女子大学教授・杉本優氏。昨年9月に亡くなられたということで、その件にも触れられています。

当方、そうとは知らずに今年の年賀状を差し上げたところ、追って、奥様から亡くなったという報を頂き、驚いた次第でした。まだお若かったはずでしたので。
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杉本氏、平成27年(2015)刊行の『近代文学草稿・原稿研究事典』で、光太郎の項、4ページをご執筆なさったほか、共著の研究書、各種雑誌の光太郎智恵子特集にもいろいろ寄稿なさいました。
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平成9年(1997)刊行の『詩う作家たち 詩と小説のあいだ』(野山嘉正編)。
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平成10年(1998)発行の『国文学 解釈と鑑賞』「特集 高村光太郎の世界」。
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昭和63年(1988)発行の『彷書月刊』「特集 高村智恵子」。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、『高村光太郎研究』。ご入用の方は、最上部に奥付画像を載せておきましたので、そちらまで。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」への追加詩二篇清書。「報告」「松庵寺」。


昭和22年(1947)6月5日の日記より 光太郎65歳

ここで言う「智恵子抄」は、戦後の一時期刊行されていた白玉書房版です。

都内から演劇公演の情報です。

ひなた村劇団第40回公演「青鞜の女たち」

期 日 : 2021年4月24日(土)
      東京都町田市本町田2863
時 間 : Aキャスト13:00~ Bキャスト16:00~
料 金 : 無料(要予約)

明治44年、日本初の女性の手による女性の為の雑誌「青鞜」が発刊された。「元始女性は太陽であった」
中心となった人物が、フェミニスト、平塚雷鳥。そして、彼女の思想に賛同した、神近市子、長沼智恵子、伊藤野枝、物集和子らとともに活動を開始する。
そこに、目をつけたのが、評論家の生田長江。彼の紹介で、歌人の与謝野晶子、女優 松井須磨子、作家 田村俊子などを巻き込み、雑誌「青鞜」は華々しく創刊するが…。
明治の後半、欧米ではフェミニズムが叫ばれていた時代、日本では、女性には良妻賢母の道しかなかった。
そんな時代に彼女たちは、何を感じ、何を考え立ち上がったのか。
社会の風に逆らいながらも強く光り輝く女性たちの物語。

《ご予約方法》
コロナ感染拡大防止の為、席数を制限しております。
観覧ご希望の方は、お手数ですが次のいずれかの方法で事前予約をお願い致します。
①ひなた村劇団員・舞台出演者に直接予約
②メールで予約 info.hinatamuragekidan@gmail.com
③電話で予約 050-5896-1376
尚、コロナ感染症の状況によってはチラシ記載事項に変更がある場合がございます。
ホームページ、ツイッターなどでご確認ください。
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というわけで、智恵子も登場。『青鞜』メンバーを描く舞台等の場合、その最初期だけ関わった智恵子はあまり登場しないのですが、今回はしっかりキャストに入っています。ありがたし。

この公演、元々は昨年5月に予定されていたのですが、新型コロナのため延期となり、1年越しで実現することになりました。ただ、客席数を減らす対応をなさるそうで、先日、予約の電話を入れた際には既にキャンセル待ち、ということでした。

とりあえずこういう公演があるんだよ、という情報としてご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

「展望」へ十五日まで詩稿を送る旨ハカキ速達 分教場にゆきしが配達夫既に来てしまひたり。ハカキをあづける。


昭和22年6月1日の日記より 光太郎65歳

何気に書かれていますが、「詩稿」は、自らの生涯を振り返り、戦争責任を省察した連作詩「暗愚小伝」です。

001当会発行の冊子『光太郎資料』55集、完成し、各所には概ね発送し終えました。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)に、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、平成5年(1993)、36集までを不定期に発行されていたものです。平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、当会として会報的に年2回発行しております。

北川先生の時代、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、そのあたりは受け継がせていただいております。表紙の「光太郎資料」の文字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。


その手作り感も踏襲し、現在はパソコンで原稿を作成、印刷(両面コピー)のみ地元の印刷屋さんに頼み、経費節減のため丁合(ページごとに紙をまとめること)、ホチキス留め製本は一冊ずつ当方が行っています。それでも一号分の印刷費、送料、ラベルや封筒などの消耗品で10万円ほどかかっています。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第十九回 音楽・映画・舞台芸術
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、音楽・映画・舞台芸術に関する散文、雑纂、書簡等のうち、明治大正期のものを集成しました。
 アンケート 初めて蓄音機を聞いた時(大正11年=1922)
 アンケート 我が好む演劇と音楽(明治44年=1911)
 散文 辞書を喰ふ女優(大正8年=1919)
 散文 外国映画と思想の輸入(大正9年=1920)
 書簡 田村松魚宛2通(大正8年=1919、大正9年=1920)
 書簡 吉村幸夫宛(大正11年=1922)

光太郎、サブカルチャー的な方面にもいろいろ興味があったようで、蝋管式蓄音機の話や、好きな芸能人の話など。長唄の六代目芳村伊十郎、ロシア人女優アラ・ナジモワ(光太郎はニューヨーク留学中に舞台を見ています)、フランスの女優メアリー・ガーデンとジョーゼット・ルブラン、子役時代の初代水谷八重子、音楽はフランス音楽、戯曲でメーテルリンク等々。

000・光太郎回想・訪問記  「千鳥と遊ぶ智恵子さん」  北条秀司
これまであまり知られていない(と思われる)、光太郎回想文を載せているコーナーです。「「光太郎遺珠」から」を「音楽・映画・舞台芸術」としたので、劇作家の北條秀司の文章から。戦時中、駒込林町のアトリエを訪れた際の回想、光太郎最晩年に「智恵子抄」舞台化を企画し、そのために智恵子役の初代水谷八重子が、中野の貸しアトリエに光太郎を訪れた件、結局光太郎が歿した翌年に上演された舞台「智恵子抄」の話などです。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 彰義隊
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』昭和4年(1929)1月『江戸文化』第三巻第一号。光雲を含む各界の著名人等による座談会筆録です。慶応4年(1868)、江戸城無血開城後の上野戦争で、薩長相手に奮戦した彰義隊に関する元隊士の回想等が語られます。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第十九回  磯部温泉(群馬県)
現在も使われている温泉記号「♨」発祥の地とも言われる、群馬県の磯部温泉を紹介しました。確認できている限り、明治42年(1909)と大正15年(1926)の2回、光太郎がここを訪れています。
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・音楽・レコードに見る光太郎 「初夢まりつきうた」(その三)
昭和25年(1950)、当時あった地方紙『花巻新報』や、花巻商工会議所などから依頼されたと思われる、花巻商店街の歌的な「初夢まりつきうた」についての三回目。昨年、盛岡の岩手県立図書館さんで調査した結果、新発見がいろいろあり、それをまとめました。
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・高村光太郎初出索引(年代順 三)
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では明治44年(1911)から同45年(1912、大正改元前の7月)までに初出があったものを掲載しました。
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ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーもご希望があれば)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお振り込み下さい。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい(このブログのコメント欄(非表示可)、当方フェイスブック等からでも)。
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【折々のことば・光太郎】

晴、朝もや美し。 坂上まで散歩。うぐひすしきりなり。アマドコロ、チゴユリなどとつて写生。

昭和22年(1947)5月28日の日記より 光太郎65歳

「坂上」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋裏手、光太郎歿後「智恵子展望台」と呼ばれるようになったところでしょう。「アマドコロ」は、遠く明治末、智恵子が『青鞜』の表紙にあしらった花です。この絵、以前はスズランと言われていましたが、どうみてもアマドコロですね。

光太郎、智恵子がアマドコロを描いていたのを知っていたのか、知らなかったのか、何ともいえないところですが……。左が智恵子のアマドコロ、右が光太郎のアマドコロです。
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詩人の宮尾壽里子さんから近著を頂きました。多謝。

詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer

2021年3月31日 宮尾壽里子著 夢月堂発行 定価2,000円+税

目次 
序詩 海から生まれしもの
Ⅰ 誰かが啄んだ夢のように
 片夢/午後/氷雨の記憶/水空/水の時間/遠雷/花闇/花刑/薔薇によせて/夜の魚
Ⅱ 風花のように 消えて
 絵の記憶/ピアノの時間/庭/楽茶碗/幼い日のオルゴール/そのうた/伴侶
 夢見坂ケアハウス/空の家/風鈴
Ⅲ どこかで砂の零れる音がする
 どこへ/羊の行方/蛾/残蝉/無題 あるいはオメガという猫
 無題 あるいはカーリーという小鳥/無題 あるいはマッキーという鼠/静かなとき
 そのとき/海からきた猫
あとがき

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「水空」という詩が、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)へのオマージュともなっています。

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 夕立のあとの 水溜り
 空を映して雲がゆっくりと流れていく
 水面から外れれば
 行き場を失い消える

 都会の片隅 刹那を映して
 水を囲う

 未来の形を映しても
 切り取られた時間のなかで漂白する
 行きつく先も知らぬまま

 早足に通り過ぎる命の切れ端に似て
 場所を失くすとまた音もなく消える

 果てなく彷徨う雲を千切り 千切り
  *智恵子は東京に空がないという
   ほんとの空が見たいという

 ほんとの空はどこにあるのだろう

 みあげても みあげても
 ビルの透き間の空ばかり

 乾くまでのひととき
 水溜まりに浮かぶ霞んだ空を抱きしめる

 水を掬えば 欠片のように壊れて
 指の透き間から乾いた今日が零れていく

   *高村光太郎『智恵子抄』より「あどけない話」部分


PV的な動画がYouTubeにアップされています。


各詩篇は、カバーデザインと同じように、透明感に溢れたセルリアンブルーのイメージ。失礼ながら、年輪を重ねられてきた中でのさまざまなご遍歴を両の手で掬い取り、「指の透き間」からこぼれ落ちた感情を、みずみずしい感性で宝石のように輝く言葉にし、紡いでいらっしゃる感じでした。

ちなみに、表題作が「海からきた猫」ですが、宮尾さんのフェイスブックを拝見しますと、時折、飼われている複数の猫ちゃんたちが登場します。

宮尾さん、詩人の他にもいろいろなお顔をお持ちです。

文芸同人誌『青い花』の同人として、同書に詩やエッセイを寄稿され、特にエッセイでは連翹忌のレポートや、光太郎が暮らしたパリの街の紀行などを書かれ、当会宛贈って下さっています。

それから朗読。都内等でたびたび朗読の公演に出演されているほか、平成30年(2018)には、福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」に出場され、みごと大賞に輝かれました。動画でもご自身で朗読されていますね。

さらには、女優として舞台にも立たれているそうで、そのマルチぶりには脱帽です。上記動画も、マルチなご活動の中でのお仲間を巻き込んで(笑)作られたもののようで。

上記、夢月堂さんサイトから連絡が取れそうです。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

南瓜追〻に出る、ジヤガイモもたんたん出てくる。

昭和22年(1947)5月26日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた、花巻郊外旧太田村の山小屋前の畑の様子です。

当方自宅兼事務所のベランダでも、プランターにジャガイモの芽が出始めました。収穫して食べようという気もあまりないので(肥料などもほとんどやらないので大きく育ちません)、専ら薄紫の花の観賞用になってしまっています。光太郎に怒られそうです(笑)。
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お世話になっている福島県いわき市の草野心平記念文学館さんから、年報の第21号が届きました。多謝。発行が2020年3月31日ということで、1年前のものですが、なぜか毎年、この時期に1年遅れで届きます。
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内容的には平成30年度(2018年度)の事業報告的なところがメインです。そこで、当方も拝見に伺った、光太郎にも関わった企画展「宮沢賢治展 ―賢治の宇宙 心平の天―」、「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」等について、詳述されていました。
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また、「火の車……」の関連事業として開催された、料理研究家の中野由貴さんによる「居酒屋「火の車」一日開店」について、4ページ。
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さらに、当方は欠礼しましたが、企画展の関連行事等ではなく単独で開催された、当会会友・渡辺えりさんによる「文芸トーク 東北の文学 光太郎・賢治・心平」の筆記録も、5ページにわたって掲載されています。
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渡辺さん、これまでも各地でのご講演や、テレビ番組等で、お父様の正治氏と光太郎の交流について語られてきまして、ここでもそうした内容の部分があります。ところが、ある程度の長さが活字になっているものはこれが初かな、という感じです。その他、スペイン・ゲルニカ平和博物館のレポート的な内容や、東京や花巻でのご体験、心平や賢治へのまなざしなど、興味深く拝読しました。

その他、栗原敦氏(実践女子大学名誉教授)、牛崎敏哉氏(宮沢賢治記念館学芸員)、和合亮一氏(詩人)、安斉重夫氏(彫刻家)のご講演や対談等も活字になっています。

ご入用の方、同館までお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】

朝八時頃阿部弘さんと瀬川孝蔵氏と同道来訪、クキの生きてゐるのを数尾持参。此所で料理されて朝食。生の石たたき。酢みそつけ。塩焼。ヰロリの火にかざしてやく。二尾生かしておく。クキの鱗に霰縞あり、美し。


昭和22年(1947)5月21日の日記より 光太郎65歳

「クキ」は川魚の「ウグイ」のことです。当方は「塩焼」が非常に美味しそうに感じます。

鱗の模様に美を見いだすあたり、光太郎の本領発揮ですね。

今年、2021年は詩集『智恵子抄』発刊80周年ということになり、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰活動をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ」さんの主催で、さまざまな記念事業が計画されています。そのうちの「「智恵子抄」総選挙」について、今月3日の『読売新聞』さん福島版の記事。

「智恵子抄」推し作品求む 詩集出版80年を記念 二本松の団体

 詩人で彫刻家の高村光太郎が妻・智恵子への思いをつづった詩集「智恵子抄」出版から今年で80年となるのを記念し、智恵子が生まれた二本松市の団体「智恵子のまち夢くらぶ」が、詩集の中から最も心に残った作品を決める「総選挙」を開催する。光太郎の命日の2日、募集を始めた。同団体代表の熊谷健一さん(70)は「多くの人に楽しんで応募してほしい」と呼びかけている。
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 同団体は、市内や関東圏などに住む50~80歳代の男女25人で活動。智恵子ゆかりの地を観光客に案内するツアーや、高村夫妻についての勉強会を開くなど顕彰活動に取り組んでいる。智恵子の生誕120年や没後70年といった節目には、朗読会やコンサートといったイベントも企画してきた。
 今年は「智恵子抄」出版から80年だが、コロナ禍で大勢の人が集まる活動は難しく、全国に投票を呼びかける「総選挙」を計画した。「おうち時間で詩集をゆっくり読んで、2人の波乱万丈の人生から、それぞれの生き方のヒントを得る機会にしてもらいたい」という。
 募集対象は、出版社・龍星閣の「智恵子抄」と続編「智恵子抄その後」の36作品。最も印象に残った1作品を選び、郵便はがきに〈1〉作品名〈2〉選んだ理由(100文字以内)〈3〉氏名〈4〉住所〈5〉電話番号〈6〉年齢――を書き、「智恵子記念館」(〒969・1404 二本松市油井漆原町36)に送る。二本松市本町の市民交流センターには、手作りの投票箱と用紙が置かれており、直接応募できる。締め切りは10月31日(消印有効)で、応募は1人1回まで。抽選で80人に、光太郎と智恵子の記念品を贈る。
   開票結果は、同団体が11月21日に開く予定の第2回全国「智恵子抄」朗読大会で発表される。熊谷さんは「応募してくれる方々がどのような作品を選ぶのか興味深い。まだ読んだことがない方にも、この企画をきっかけに作品のファンになってもらえたらうれしい」と話している。
 問い合わせは、熊谷さん(090・7075・6743)へ。
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龍星閣版の『智恵子抄』、それから『智恵子抄その後』の詩篇が対象で、新潮文庫版などには掲載されているものの、龍星閣版にはない「涙」、「からくりうた」、「松庵寺」などはエントリーされていません。

どの詩が第1位になるか、興味深いところです。何となく、「これかな、いや、こっちも有り得るな、待てよ、こいつも捨てがたい」という予想はできますが、明言は避けましょう。また、福島の団体が主催というのも、カギになるような気もしています。

夢くらぶさん主催の「「智恵子抄」出版80周年記念事業」、他にもいろいろ計画されています。
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また近くなりましたら詳しくご紹介しますが、10月には「「智恵子抄」安達太良キャンプ」(当方、パネルディスカッションのパネラーをを頼まれております)、11月には「第2回全国「智恵子抄」朗読大会」だそうです。

ともあれ、まずは総選挙。「投票された方から抽選で80名様に記念品をプレゼントいたします」だそうで、おそらく、結果如何に関わらない抽選でしょう(当方、勝手に便乗して胴元となり「3連単」とか「オッズ何倍」とかやりたくなってしまいますが(笑))。ふるってご応募下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前八時頃定見さん宅にゆき、ホームスパン見学。土沢の及川善三氏方に居らるる福田春子さんといふ女の人講師なり。織り終りあり。仕上げの縮絨といふ工作の見学、手伝ひ。
昭和22年(1947)5月20日の日記より 光太郎65歳

「及川善三」「福田春子」は、それぞれ正しくは「及川全三」「福田ハレ」。それぞれホームスパン作家として活躍しました。光太郎愛用の猟人服は、のちに福田が織った生地を使って作られています。

この日、光太郎が蟄居生活を送っていた太田村山口地区に、福田が講師として来、村人にホームスパン制作の講習を行ったとのこと。光太郎の興味深く見学、さらには「手伝ひ」とまで書かれていますね。

さらに講習終了後、福田に、智恵子遺品にして、イギリスの染織工芸家エセル・メレ作のホームスパン毛布を見せてあげています。

東日本大震災後、宮城県女川町で建設が続く、津波対策として避難の目印となるランドマーク「いのちの石碑」。同町に平成3年(1991)に立てられた光太郎文学碑を範とし、建設費用は募金で集めたもので、いわば光太郎文学碑の精神を受け継ぐ活動です。

先月中旬の『毎日小学生新聞』さんで、そのプロジェクトが大きく取り上げられました。

東日本大震災10年 「あの日」に学ぶ 国語<上> 悲しみや希望を言葉に/女川一中で俳句の授業 佐藤敏郎さん

 東日本大震災と防災について考える「『あの日』に学なぶ」第5回は、「国語」<上>、「被災者の心」です。震災の後、被災した人たちは、思いを俳句や作文などの言葉ことばで表現することで、「あの日」の出来事や大切な人との別れ、自分の内面と向き合いました。それらの言葉は、震災が被災者の心に刻んだ傷の深さと、人の強さを教えてくれます。【百武信幸】
 
五七五で向き合う
 宮城県女川町は、津波で町の建物の7割が完全にこわされ、ほとんどの人が被災者になりました。灰色の景色の中で新学期をむかえた町立女川第一中学校(現・女川中学校)の全校生徒は2011年5月、心にうかんだものを自由に詠む俳句づくりに挑みました。先生も生徒もおそるおそる取り組んだ授業でしたが、生徒たちはすぐに五七五の言葉探しを始めました。
 生まれた句の一つが「見上げれば がれきの上に こいのぼり」です。句を詠んだのは当時は中学3年生だった原泉美さん(24)。津波で家が流され、ショックや落ち着かない避難所生活で、体調をくずしていた時のことでした。
 その少し前、車の窓越しに見た景色が頭にうかびました。港の近く、父親がぎりぎり助かった観光物産施設「マリンパル女川」の上に泳ぐこいのぼり。教室には家族を亡くした同級生が何人もいて、かける言葉が見つからない日々が続いていました。自分もつらい。でも「家しかなくしていない私」が詠むならと考え、「見上れば」に「ポジティブ(前向き)に『上を向いて生きよう』との思いを込めた」と言います。
 自らを奮い立たたせる句でもあったそうです。その後、NHKラジオの国際放送で海外に発信され、はげましを込めた詩が世界中から集まりました。
 泉美さんは今、被災後の経験から体の健康について学び、東京都内の保育園で栄養士をしています。
句碑で避難呼びかけ
 その他の句も震災の年の5月か11月に詠まれたものです。「女川一中生の句 あの日から」(小野智美編)という本に、句が詠よまれた一つ一つの背景が書かれています。当時の中学生たちはその後、「1000年後の命を守りたい」と募金活動をして、町内全21地区に高台への避難を呼びかける石碑を建てています。地区によって違う俳句を選び、あの時、震災と向むき合った子どもたちの思いも未来に伝えようとしています。
▽見上げれば がれきの上に こいのぼり
▽ただいまと 聞きたい声が 聞こえない
▽夢だけは 壊せなかった 大震災
▽工事中 沈む私の 応援歌
▽うらんでも うらみきれない 青い海
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<イラスト・にしむらかえ>

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俳句が刻まれた「女川いのちの石碑」を見つめる中学生たち
=宮城県女川町で2013年11月
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津波の被害にあった宮城県女川町で、街を見つめながら歩く人たち
=2011年3月14日

004みんなで共有できる
 国語科教諭として、女川一中での俳句づくりの授業を担当しました。そのころはまだ東日本大震災の発生直後で、自分も次女を亡くしていたから「今の状況を言葉にさせていいのか」という思いがありました。けれどみんな、すぐに指を折り始め、ぴたっと合う言葉を探し出した。生徒が詠んだ句の中で、「見たことない 女川町を 受けとめる」は「受け入れる」ではちょっと違うし、「ありがとう 今度は私が 頑張るね」も「頑張るよ」ではないところに気持が表われている。言葉ってすごいなと思いましたね。
 震災後に気づいたのは、実は震災後にみつけようとした言葉は教科書にあった、ということです。「夏草や 兵どもが 夢の跡」も「国破れて山河あり」も、がれきだらけの女川の風景と同じ。当時使っていた中学3年ねんの教科書の始まりは、中島みゆきさんの「永久欠番」の歌詞で「どんな立場の人であろうと いつかはこの世におさらばをする」とか「順序にルールはあるけど ルールには必ず反則もある」なんて書いてある。被災した後、特別な授業をしなきゃ、なんてあまり考える必要はないのかもしれない。
 俳句は短いから、みんなで共有できるのがいい。彼らが高校生になった時に聞いてみると、俳句づくりの授業を通じて「1人じゃない」とか「こんなふうに考えてもいいのか」と思えたと言っていました。つらい経験は言葉にしてもいいし、しなくてもいい。ただ、言葉にしたい時にできる機会を作るのが学校の役割りです。
 ただし、これは震災が起きてからすることです。起きる前にどうするか。高知県でいっしょに防災教育の講演をした慶応大学の大木聖子准教授は、「防災小説」というユニークな取り組みをしています。防災小説は、子どもたちに災害が起きたと想像してもらい、自のがたりにするというもの。防災ぼうさいは「みんな助かってよかった」というハッピーエンドじゃなきゃだめなんです。
プロフィル
 1963年、宮城県石巻市(旧河北町)生まれ。震災で石巻市立大川小学校6年生だった次女を亡くしました。2015年3月に教員を退職。「大川伝承の会」共同代表として地元で語り部活動に取り組み、全国で講演をしています。

確かに、「言葉」というもの、不思議な力がありますね。悲しみや苦しみ、悩みなどを言葉として吐き出せば楽になることもあれば、逆に改めて言葉にして感情を確認することで、よりその感情が昂ぶることもあるような気もします。

記事で紹介されている『女川一中生の句 あの日から』についてはこちら。

【折々のことば・光太郎】

午前校長さん宅訪問、 大正屋にておみやげをかふ。


昭和22年(1947)5月18日の日記より 光太郎65歳


「校長さん」は佐藤昌。昭和20年(1945)の花巻空襲により、疎開先の宮沢賢治実家を焼け出された光太郎を、その直後から約1ヶ月、住まわせてくれた人物です。旧制花巻中学校の元校長でした。

「大正屋」は、花巻町中心街・若葉町にあった「大正屋果実店」。生前の宮沢賢治が、自分で作った野菜を買い取ってもらっていたのが、ここではないかという説があります。
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笑っちゃうしかありませんでした。

先月中旬、FNN系のニュースから。

ニセ日本人の怪しい商売 中国で問題に 現地取材でわかった事実

中国で大人気商品となった、日本の伝統技術で作ったという鉄の鍋をPRする人物。4代目家主・伊藤慧太と表示されている。ところが、動画の内容はでたらめ。4代目というのも、日本の伝統技術というのも、うそ。しかも話をよく聞いてみると、「鉄鍋は生活必需品として、人々の生活に便利をお配りしました」などと、日本語がおかしい。
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実はこの人物、中国人の俳優。中国メディアによると、この会社は、日本の伝統技術で作られた鉄の鍋と称して、ネット通販で2020年12月までに5億円近くを売り上げていたとされている。

でたらめなのは、ほかにも...。紹介されている初代と2代目の写真。初代を小説家の志賀直哉と重ねると、ぴったり。さらに2代目には、詩人で彫刻家の高村光太郎と思われる写真が使われている。
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鍋は高いもので、およそ2万円ほどで販売されていた。箱には、すべて日本語で、「日本製輸入品」の文字と、住所には、富山県に実在する地名が書かれている。しかし、富山・射水市に問い合わせると、会社の法人登記はなく、地域で鍋が有名ということも聞いたことがないとのこと。
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一方、上海にあるとされる関係先の住所のオフィスビルを訪ね、警備員に話を聞いてみたが...。警備員「鉄の鍋? 炒めたりするやつ? ここの中にはないね」はたして、ここに関係先はあったのだろうか。

中国メディアによると、中国当局は産地を偽装した鍋を販売した疑いで、2020年12月に関係先の倉庫を封鎖。今も調査が続いているという。


というわけで、笑っちゃうしかありませんでした。光太郎も草葉の陰で苦笑しているのではないでしょうか(笑)。

【折々のことば・光太郎】

宮沢邸の昼食に招かる。珍しき握寿しの御馳走。

昭和22年(1947)5月16日の日記より 光太郎65歳

この前日、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から花巻町に出て来て、総合花巻病院長・佐藤隆房邸に宿泊していました。さすがに山小屋生活では握り寿司を食する機会はなかったのでしょう。

先月から今月にかけ、各種報道で光太郎の名がいろいろ出たりしていたのですが、3.11関連を続けて取り上げたり、速報性が重要な情報を先にご紹介したりで、申し訳ないと思いつつも、後回しにしていた件が結構あります。数日間、その関係でいきます。

まずは青森の地方紙『デーリー東北』さん、先月初めの記事。

郷土教育に「あおもりアッテラ」 はちつぶ(八戸)が十和田の小学校に寄贈/青森

 青森県内40市町村の祭りや名産品などが描かれた絵合わせカードゲーム「あおもりアッテラ!」を考案した、八戸市の情報発信メディア「はちつぶ」(大山知希代表)は3日、郷土教育の教材として活用してもらおうと、十和田市教委を通じて市内16小学校に寄贈した。
 カードは全54枚。3種類の遊び方ができ、県の魅力を子どもから大人まで楽しく学べるゲームとなっている。同市を代表する絵柄には、十和田湖と「乙女の像」が描かれている。
 この日は、大山代表のほか、同ゲームのデザインなどに携わった、デーリー東北新聞社の社内分社「東北のデザイン社」の担当者らが市役所を訪問。市教委教育総務課の白山利明課長補佐に目録を手渡した。白山課長補佐は「いろんな面で使えるゲームなので大事に活用したい」と話した。
 大山代表は「(同ゲームの)遊びを通じて、青森県の名産品や地域に興味を持つきっかけになってほしい」と語った。
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絵合わせカードゲーム「あおもりアッテラ!」。調べてみましたところ、昨年には既に販売が開始されていました。

あおもり絵合わせカードゲーム「あおもりアッテラ!」

あおもりを遊んで学ぼう!
 ★ 遊びながら青森を学べる絵合わせカードゲームが誕生
 ★ 青森県内40市町村の祭りや文化、名産品をイラスト化
 ★ 作画はニシワキタダシさん 幅広い年代が一緒に楽しめる
 ★ お土産に 知育玩具に 郷土教材にも
 ● ルールは3通りでいずれも簡単。
 ● トランプとしても遊べる。
 ● 絵合わせゲームのため、年齢、性別、国籍に関係なく楽しめる。
 ● 家庭での知育玩具として、また 幼保園・小学校での郷土教育の教材として。

カードは全54枚。青森県内40市町村の祭りや文化、有名人、名産品などをピックアップし、イラストレーターのニシワキタダシさんに作画を依頼。ニシワキタダシさんの作風と青森の朴とつとしたイメージが相まって、とてもステキなカードができました。

3歳以上からお年寄りまで楽しめる簡単なルール。遊び方は、絵を合わせるだけなのでとても簡単。 基本的なルールは3通りで、年齢、性別、国籍に関係なく、誰でもすぐに覚えられ、一緒に楽しめます。トランプとしても使えます。

カードゲームは対面コミュニケーションがベースとなるため、子どもの対話力や社会性、思考力、想像力を育む効果があると言われています。青森の魅力を知るお土産としてだけではなく、コロナ禍でステイホームが日常になる中、家庭での知育玩具として、また幼保園や小学校での郷土教育の教材として、「アッテラ!」をぜひご活用ください。

イラストレーター■ ニシワキタダシ氏
イラストレーター。1976年生まれ。なんともいえないイラストやモチーフで、書籍や広告、グッズなど幅広く活動中。著書に『かんさい絵ことば辞典』(パイ インターナショナル)、『えでみる あいうえおさくぶん』(あかね書房)、『ぼくのともだちカニやまさん』(PHP研究所)、『かきくけおかきちゃん』(大福書林)、『くらべる・たのしい にたことば絵辞典』(PHP研究所)などがある。

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なるほど、青森県の名物いろいろの絵を担当させていただきました。関西在住なので「なるほど」「へぇ~」と青森を感じながら描いていました。子どもたちがゲームを通じて、自分の育つ場所のことを自然と覚えられるのはとても素敵だなと思います。それを担う絵で関わらせてもらえてうれしいことですし、子どもに限らず大人や他府県の人たちにも青森の色が広がるゲームになればうれしいなと思います。
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なるほど、という感じでした。これなら小さいお子様でも楽しめそうですね。さらに、自然と青森の郷土遺産、特産品などに詳しくなれそうです。

上記『デーリー東北』さんの記事にありましたが、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をあしらったカードも入っています。ありがたし。
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他に「リンゴ」、「弘前城」、「太宰治」、「遮光器土偶」、「津軽三味線」などなど。しかし、「何じゃ、そりゃ?」というものも(笑)。「なぜに青森で自由の女神?」、「よもぎたトマト四姉妹って誰?」、「スチューベンって、何?」という感じです。不勉強で申し訳ありません(笑)。

ニシワキタダシ氏のほっこりしたイラストもいいですね。それにしても上記商品説明欄中の氏の紹介で、「なんともいえないイラスト」って、「なんとか形容しなさいよ!」と突っ込みたくなりましたが(笑)。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ホロホロを採取。宮沢さんへおみやげの為。タランボは院長さん宅へのつもり。

昭和22年(1947)5月15日の日記より 光太郎65歳

「タランボ」は「タラの芽」、「ホロホロ」は正確には料理の名前なのですが、どうやら「ウコギ」のことのようです。

「宮沢さん」は賢治の父・政次郎や、実弟清六らの一家、「院長さん」は佐藤隆房です。光太郎が疎開してきてちょうど2周年記念ということもあり、この日から4泊5日で花巻町の佐藤邸に滞在しました。

智恵子の故郷・福島県二本松市の広報紙『広報にほんまつ』今月号に、『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)に由来する「ほんとの空」の語が、ドーンと。
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同市はここのところ、「桜の街」としてもPRに力を入れており、一昨年には「2019全国さくらシンポジウム」の会場となりました。「ほんとの空にさくら舞う」は、その際のテーマでしたが、その後もこうして使用され続けています。昨年の『広報にほんまつ』4月号にも同趣旨のページがありました。

ただ「桜がきれいだよ」だけより、美しい青空を背景に、と売りにできるのは、二本松市の強みというか、ある意味、ずるいというか(笑)。

で、市内の桜の名所がいくつか紹介されています。ところが、市内に桜の名所、名木が多すぎて、昨年とはまた違ったラインナップになっています。昨年は智恵子生家/智恵子記念館裏手の智恵子の杜公園が取り上げられましたが、今年は智恵子と直接関わる場所は紹介されていないようです。もっとも、古木であれば、生前の智恵子が見た可能性は否定できませんが。

広報紙には掲載がありませんでしたが、同市の公式フェイスブックでは、智恵子の杜公園の桜も紹介されていました。
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それから、智恵子の母校・油井小学校の桜も。
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少し前にも書きましたが、同市在住の友人によれば、今年はかなり早く咲き始めているとのことで、いかに東北とはいえ、ぼやぼやしていると散ってしまいそうですね。

ライトアップやら、いろいろと関連イベントがあるようですので、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

朝夕美しく巧妙な囀りをする小鳥あり、ツグミか。 油蛇を見る。


昭和22年(1947)5月13日の日記より 光太郎65歳

翌年、光太郎は「クロツグミ」という詩を作りました。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村に生息していたのですね。クロツグミは夏に日本にやってくる渡り鳥。その声を光太郎は「こつちおいで、こつちおいでこつちおいで。/こひしいよう、こひしいよう、」と表しました。ある意味、光太郎自身の心の声のようでもあります。

「油蛇」は、どうもジムグリの方言のようです。全長1㍍ほどにもなる蛇です。

4月2日(金)、第65回連翹忌の日の『岩手日報』さん。連翹忌に触れてくださいました。

風土計 2021.4.2

〈僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る〉。高村光太郎「道程」は、旅立ちの季節が似合う。9行の口語自由詩が、初めの一歩を後押しする▼新たな学校、新たな職場。期待と不安が入り交じる中、「初めまして」もマスク越し。人の顔を覚えづらいのは厄介だ。会釈され知り合いと気づくこともあろう。まずは挨拶から。少しずつ心を通わせ、もどかしさを補いたい▼疎開した花巻で7年間を過ごした光太郎。「岩手の人」では〈沈思牛の如し。/地を往きて走らず、企てて草卒ならず、つひのその成すべきを成す〉と県民性をたたえた。丑(うし)年の今年、きょうが命日だ▼生前好んだ花にちなむ「連翹(れんぎょう)忌」法要は、新型コロナウイルスの影響で昨年に続き中止となった。高村記念会山口支部(照井康徳支部長)は、ささやかな集いで遺徳をしのぶという▼71歳の照井支部長は今も、幼少時に見かけた大柄な姿を忘れない。「先生のおかげで地域が活性化した」と感謝。「正直親切」「心はいつでも新しく、毎日何かを発見する」の金言を胸に刻む▼コロナ禍、東京五輪・パラリンピックの行方等、震災10年を経てなお、先の見通せない日々。こんな時こそ、自ら道を切り開く光太郎の精神に学ぶところは大きい。「希望」はレンギョウの花言葉。困難が待ち受けていても、決して失わずにいたい。

紹介されている「連翹忌法要」は、都内での当会が主催する集いではなく、やはり4月2日の光太郎忌日に、花巻市の松庵寺さんで開催してくださっている、花巻としての法要です。こちらも昨年に引き続き、中止のやむなきに至ったそうで……。

連翹の花言葉が「希望」とは存じませんでした。もっとも、「花言葉」というのは随分いろいろ種類があるようですが……。なぜなのでしょうね。

続いて、『朝日新聞』さん。「マダニャイ とことこ散歩旅」という夕刊の連載、3月23日(火)の掲載分です。

マダニャイ とことこ散歩旅:568 清洲橋通り:18 赤玉石

■「名石の庭」で輝く緋色
 清澄庭園(東京都江東区清澄3丁目)には、三菱財閥が集めた全国の有名な石があり、「名石の庭」「石の博物館」とも評される。正門左手奥の大正記念館近くに緋色(ひいろ)の石がある。雨にぬれるとルビー色に輝く石がずっと気になっていた。
  佐渡赤玉石で、高さ60センチ、横120センチ、幅80センチ。いつから庭園に置かれているかはっきりしていない。
 赤玉石は掘り尽くされてしまい、産地だった新潟県佐渡市赤玉地区で1982年に採掘を終えた。かつて赤玉石を一手に扱っていた立脇隆彦さん(68)は「もう二度と手に入らない名石です」と語る。
 歌人で彫刻家の高村光太郎は、大戦末期の空襲で東京・駒込のアトリエとともに彫刻など数多くの作品を失った。「石くれの歌」と題した、こんな詩がある。
 《石くれは動かない/不思議なので/しやがんで/いつまでも見てゐた/あかい佐渡石が棄(す)てたやうに/小径(こみち)のわきに置いてある/これひとつだけが/この林泉の俗をうけない》
 研究者に尋ねたが、「あかい佐渡石」と庭園の赤玉石の関連は分からなかった。ただ、石を見つめていると、不思議と、すべてを失った光太郎の気持ちが分かる気がする。
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引用されている「石くれの歌」は、光太郎生前には活字になった記録がなく、残された草稿も「原稿」とも言えないメモ書きのようなものです。
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制作年も不明。昭和20年(1945)の太平洋戦争末期に、筑摩書房から『石くれの歌』という詩集の刊行を希望していたことがわかっており、その頃の作かもしれません。また、戦後の昭和22年(1947)に書かれた他の詩の原稿用紙の裏面にもこれが書かれており、この時期の作の可能性もあります。

従って、光太郎が見た「あかい佐渡石」、昭和20年(1945)頃の作であれば、東京で見たもの。戦後の作ならば、花巻で見た可能性もあります。光太郎の日記や書簡、エッセイ等、あるいは周辺人物の回想等に、もしかするとモチーフになった石のことが書かれているかもしれませんが、とりあえず、ぱっと思いつくものはありません。当会顧問であらせられた北川太一先生の書かれた、『高村光太郎全集』や『高村光太郎全詩稿』の解題にも、そうした記述は見当たりません。

記事にある「研究者に尋ねたが」の「研究者」は当方でして(笑)、この記事を書いた記者氏から電話での取材で、「清澄庭園に立派な佐渡の赤玉石があるんだが、光太郎の「石くれの歌」に出てくる石はこれなのではないか?」という趣旨でした。そこで、上記のように、この詩の制作状況が不詳であることをお伝えし、「江東区なら、光太郎のホームグラウンドの下町なので、可能性はありますが、清澄庭園のものがこの詩に謳われているとは断言できませんね」とお答えしました。

それにしても、赤玉の佐渡石というのが、そんなに稀少価値のあるものとは存じませんでした。調べてみましたところ、佐渡のものはもう採掘禁止、最近は津軽産のものが出回っているようです。昔採掘されたものは、ホテルニューオータニさんの庭園にもあるそうで、こちらは日本一の大きさと言われているとか。

しかし、「石くれの歌」の詩句「あかい佐渡石が棄(す)てたやうに/小径(こみち)のわきに置いてある」からすると、それほどの巨石でもなさそうな感じはしますね。

文京区千駄木やら、花巻市中心街やらの光太郎ゆかりの場所で、昔からここに佐渡赤玉石がある、という情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃分教場行、芝林の畑山氏、田頭さん等校庭に来る。花見宴をはじめられ、招かれる。畑山氏湯口村の上田氏といふ人、その弟さん工藤さんといふ人をつれてくる。

昭和22年(1947)5月9日の日記より 光太郎65歳

岩手の山村、5月はじめに花見なのですね。「湯口村の上田氏」は、おそらく現花巻市長の上田東一氏の父君か、ご縁者だと思います。

この後、他の村人や、たまたま光太郎を訪ねて北海道からやって来た詩人の更科源蔵も加わり、宴も酣(たけなわ)となりました。酔って人に絡み出す人が出てきた頃、光太郎はこっそり退散しています(笑)。

都内から現代アートの展覧会情報です。

もやい展2021東京

期 日 : 2021年4月1日(木)~4月8日(木)
会 場 : タワーホール船堀 東京都江戸川区船堀4丁目1-1
時 間 : 10:00~20:00 7日(水)21時まで 8日(木)17時まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

3.11 そして福島原発事故から10年。 絵画、彫刻、写真、 映像、そしてパフォーマンス… 表現は未来へ何を語り紡ぐのか? 金沢21世紀美術館で好評を博した「もやい展」が 2021年春、東京にあらわる! そして、立ち寄ったあなたも未来への表現者の一人となる。
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出展作家:安藤榮作/ウッキー富士原/大塚久/片平仁/金原寿浩/加茂昂/加茂孝子/小林桐美/小林憲明/鈴木邦弘/津島佳子/中筋純/fuu/矢成光生/山内若菜

基本、現代アートの展覧会ですが、展示室に於いてステージパフォーマンスも行われます。
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明日、4月5日(月)、19:00からは、「高橋アキ(ピアノ)×清水寛二(能楽、謡)」。

4月5日(月)開演:19:00@タワーホール船堀2F ”瑞雲”
高橋アキ:サティ、シューベルト、湯浅譲二、武満徹
清水寛二:観世元春「隅田川」より謡 柳田國男「遠野物語」より朗誦
     高村光太郎「智恵子抄」より朗誦
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能楽師・清水寛二氏による朗唱「「智恵子抄」より」。清水氏、銕仙会さんご所属だそうで、そうなると、同会の祖とも言うべき観世寿夫昭和32年(1957)に新作能「智恵子抄」を上演しており、そのあたりとも関係があるのかな、と思いまして調べたところ、平成22年(2010)6月にあった公演「観世寿夫三十三回忌 観世雅雪二十三回忌 追善能」で、清水氏が地謡を務められていました。

高橋アキさんという方のピアノ。郡山ご出身の
湯浅譲二氏の作品がプログラムに入っています。湯浅氏といえば、「二本松市民の歌」の作曲者ですし、平成28年(2016)には、郡山市制施行90周年・合併50年を記念する「あれが阿多多羅山 バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の2人』による」も作曲されています。今回の演奏曲目は不明ですが。

メインの現代アート展示の方も、「ほんとの空」を希求して已まない、福島の人々の声なき叫びの代弁、といった趣の作品が多く出ているようです。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山口部落のスケツチをする。「至上律」に送る淡彩画にするため。 山桜美しく赤らむ。
昭和22年(1947)5月5日の日記より 光太郎65歳

『至上律』は、北海道で開拓に当たりながら詩作を続けた更科源蔵を中核とした雑誌です。「淡彩画」は、この年11月発行の第2輯にカラーで掲載されました。
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現物は花巻高村光太郎記念館さんの所蔵です。

昨日は光太郎65回目の忌日、連翹忌だったため、都内に出ておりました。レポートいたします。

まずは、豊島区の染井霊園にて、光太郎の墓参。コロナ禍なかりせば、夕方から日比谷松本楼さんでゆかりの方々にご参集いただき、連翹忌の集いでしたが、そちらは昨年に続き、遺憾ながら中止。当方が代表しての墓参で、第65回連翹忌とさせていただきました。

染井霊園一帯は、ソメイヨシノ発祥の地。最近は地球温暖化の影響でしょうか、連翹忌当日には、霊園の桜もほとんど散ってしまっています。
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KIMG4893自宅兼事務所の、光太郎が愛でた連翹の子孫もかなり散ってしまっており、まだ花が多く残っていた別の株(福島の花見山で購入した苗から育ったもの)の連翹を剪って持参し、手向けました。

二本松の友人によると、やはり今年は例年になく桜や連翹が早く咲いたそうで、寒い東北でも散り始めているとのこと。ある意味、無気味です。将来的に、連翹忌の日に連翹が咲いていない、ということにならなければいいのですが……。缶ビールと連翹以外の花は、当方が着く前にどなたかがお供えしたものです。ビールは光太郎の好物でした。
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昨日も自家用車でして、この後、愛車を北区赤羽に向けました。目指すは絵本専門店・青猫書房さん。こちらでは、3月31日(水)から、郡山ご在住の絵本作家・ノグチクミコさんの「鉛筆で描かれた絵本の原画展「ほんとうの空の下で」」が開催中で、染井とそれほど遠くもないので、行ってみました。
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絵本『ほんとうの空の下で』は、平成29年(2017)の刊行。福島県浪江町で愛犬と共に自給自足の生活をされ、東日本大震災後、平成28年(2016)に亡くなった川本年邦さん(享年86)と、愛犬のシマを主人公とした実話です。
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40ページあまりの原画、おそらく全てが展示されていました。
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CG全盛のこの時代、鉛筆で描かれた絵は、ノスタルジックな雰囲気とともに、実に温かみを感じさせます。「絵本」というジャンルは、やはりこうであってほしいものだと思いました。

ノグチさんがいらっしゃれば、サインを頂こうと思い、絵本をカバンに入れていったのですが、残念ながらいらっしゃらず。会場内にはサイン本が販売されていますし、4月18日(日)にはノグチさんのトークショーが開催されるそうです。原画展の会期は4月26日(月)までです。

続いて、最終目的地、文京区の浄心寺さん。
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昨年1月に亡くなった、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の菩提寺です。別名「さくら寺」。しかし、やはりソメイヨシノ系はもうほぼ終わっていました。ただ、八重桜系はみごとでした。
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昨年もそうしましたが、今後、4月2日は染井霊園と浄心寺さんと、墓参のハシゴがルーティーンになるのでしょう。北川先生のお墓にも、光太郎にお供えしたのと同じ連翹を一枝。髙村家の墓参はいつも厳粛な気持ちにさせられますが、北川先生のお墓に詣でると、なぜかほっこりしてしまいます。手を合わせつつ「先生、染井にお参りしてきましたよ」、と語りかけ、「今年も連翹忌の集まりは出来ませんでしたが、来年こそ出来るように、お力添え下さい」とお願いして参りました。

繰り言のようになりますが、本当に来年こそ、連翹忌の集いの復活できることを切に願う次第です。

以上、都内レポート、おわります。

【折々のことば・光太郎】

晴、うすぐもり。温くなる。 坂の上まで散歩、草〻の芽を見る、コブシがまだ白く咲いてゐる。

昭和22年(1947)5月4日の日記より 光太郎65歳

「坂の上」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の裏手、現在、「智恵子展望台」と呼ばれているところではないでしょうか。

本日、4月2日(金)は、高村光太郎65回目の命日、連翹忌です。

今から65年前、昭和31年(1956)4月2日(月)午前3時45分、不世出の巨星・高村光太郎は、東京中野桃園町の貸しアトリエ(昭和23年=1948に急逝した水彩画家・中西利雄が建てたもの)で、宿痾の肺結核のため、天然の素中に還りました。

当会の祖・草野心平による「終焉日記」から。挿入されている「註」の部分は、『わが光太郎』(昭和44年=1969)掲載時に補われた部分、(注)は当方が書きました。

四月一日
 十二時中西宅へ電話。コップ一杯またはいた由。二時半電話。呼吸苦しき由、岡本先生、関先生(注・ともに医師)来診の由。二時半からトミーで現代詩人会総会、また幹事長にさせられる。八時頃中西宅へ電話、サンソ吸入ときき、現代詩人会の懇親会をこっそりぬけてかけつける。雪。ななめ、クリーナア(注・車のワイパー)、
 高村さん鼻にゴム管サンソキュウニュウ、(午后七時十五分頃から)八時二十五分に小生到着。今日より看護婦二人、看護婦と堀川さん(注・光太郎が雇っていた家政婦さん)と中西夫人とボクの五人。雪ふりつづける。苦しそう。高村豊周(注・光太郎実弟)夫妻と令息たち、鋳金の伊藤(注・十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の鋳造を担当した伊藤忠雄)、奥平(注・美術史家・奥平英雄)、難波田氏(注・画家・難波田龍起)など見えた由。
 朝、今日は気持ちがよいから早くたべたいとスパゲティとスープとウヰンナアソーセーヂ、木の芽あえをたべたいと言ったが、それを用意して持って行ったら、喀血、その前にスワンのブリのスープ、これは毎日お茶代りにのんでいた。夜はすしとサンドウヰッチを食べる予定だったが、結局朝から夜までスープだけしかのどを入らない。
 豊周氏に今日は苦しいから話ししないと言われた由、
 これを書いているの九時。三十分ほどだが、ずいぶん永い時間の気がする(酸素吸入は、自分でしたいと言われた由)
 アトリエの台所で私独りだけ、しずかにのむ。写真アルバム(注・
前日にはそのゲラを見た筑摩書房刊行『日本文学アルバム19高村光太郎』)「どうでもいいよ、一生があればっかりかと思ったら、でも面白いね。」
 看護婦(加藤( )さん(注・( )内空欄)、小野瀬鈴子さん)
 十時、電気をくらくする。「そこにいるの草野君?」と看護婦にきく、そうですというと、「今日一日胸が苦しくってね」という「苦しいでしょう。」というと「うん。」
 十時半、「僕もそろそろ死に近づいているんだね。」眠り薬をのまる。
009註・二度目に電話したのは水道橋のグリルトミーからだった。私は当時現代詩人会の幹事長をしていたので、この日のH氏賞の決定の詮衡(せんこう)と引続いて年一回の総会にはどうしても出席しなければならなかった。H氏賞は鳥見迅彦の『けものみち』に決り(その題字は高村さんがかいたもの)総会もすんだ。それから懇親会に移ったが、折を見て中西さんへ電話すると酸素吸入をしているとのことでビックリした。
 この日はひるまから雪だったが、夜になってもやまなかった。大きな牡丹雪だった。
 運転台のガラス窓にふきかかる雪が、どうしたことか私に思いもよらない聯想を呼びおこさした。ゴッホの最晩年の「鴉のいる麦畑」の、あのむらがる鴉なのだ。そのむらがりをクリーナーが左右にはじく、むらがる、はじく。私はただなんとなくクリーナーだけを信ずるような気持ちだった。
 アトリエのなかは薄暗かった。電気になにかをかぶせたのか普通よりずっと薄暗かった。両方の鼻の穴から二本のゴムのくだがのびフラスコのなかはブクブク泡立っていた。吐く息も吸う息も苦しそうだった。安楽死、ふとそんなことがあたまをかすめた。看護婦が一人ふえているのが無気味だった。元からいた看護婦が冷蔵庫から玉ずし(注・アトリエ近くの寿司屋の折り詰め)を台所に持ってきて
「もう今晩はとてもあがれませんから、あがって下さい。」
 と私に手渡した。私は一つだけつまんだ。
020 写真アルバムについての「どうでもいいよ、一生があればっかりかと思ったら、でも面白いね。」この言葉を、高村さんがいつ言われたのだったか、私の記憶はぼんやりしているが、この言葉は高村さんの話し方で書かれているから、その晩に言われた言葉だったことはたしかである。
 私は時たま、台所からアトリエをのぞいた。看護婦が椅子にかけてうしろの方に近づくと、その気配で察したのか、
「そこにいるの草野君?」
 と高村さんが看護婦にきいた。
 看護婦がそうですと答えると、高村さんは「今日一日胸が苦しくってね」と喘ぎながら言われた。苦しいでしょうと、私がいうと「うん。」といわれたまま、それっきりまた喘ぎがつづいた。私は二十分ほどつったっていたが、
「僕もそろそろ死に近づいているんだね。」
 と私に言うとも誰に言うとも独り言とも思えるように言われた。私はギョウ然としたまま何も言えなかった。それからまた十分ほどして「あだりんを飲もう」といわれた。睡眠剤は、どんな場合にも適量以上にはのまれなかったそうである。その時も普通の意味での「アダリン」だったと思うのだが――。けれどもそれから以後、高村さんの口からはなんの言葉も洩れなかった。高村さんが薬をのまれてから私は無言のまま台所にもどり、しばらくいた。そしてしずかにドアをあけて雪のなかにでた。

四月二日
 3時半頃起こされる 中西家の令息たちに、あぶないから――
 3時45分永眠、まにあわず高村豊周夫妻、4時かけつける、関先生岡本先生。
註・夜中の三時半頃ドンドンドアを叩かれた。ハッと思った。起きてみると案の定中西さんの二人の令息がたっている。その頃はもう雪はやんでいたと思う。待たしてある自動車にのって桃園町にかけつけた。
 たばこ屋の角を曲ると、中西家の前に自動車が一台とまっていて、ドアがあくところだった。すぐ高村豊周氏夫妻であることが分った。中西家は母屋からアトリエのドアまで明けっぱなしになっていた。私のすぐ前を豊周氏夫妻がアトリエにはいった。つづいて私。関先生と岡本先生がぼんやりたっていた。誰も最後には間に合わなかった。


感情を表す語を極力廃し、淡々と事実のみを記述していますが、それでも溢れ出る哀惜の念を隠しきれないところが、光太郎に対する草野心平です。

この時、貸しアトリエの庭には連翹の花が咲き誇っていました。まだ少し元気だった頃の光太郎、「連翹」という名を知らず、アトリエの大家だった中西夫人に、「何という花ですか」と尋ねたとのこと。そして「あれは「連翹」という花ですよ」との答えに「かわいらしい花ですね」。
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4月4日、青山斎場で執り行われた葬儀の際は、その連翹が一枝、光太郎愛用のビールのコップに挿され、棺の上に飾られました。
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そこからの発想で、光太郎忌日を「連翹忌」と命名したのは、心平と同じく、光太郎と親しかった佐藤春夫。第一回連翹忌は、光太郎の亡くなった中野のアトリエで行われ、光太郎を偲ぶ人々が集い、以後、何度か会場を変えながら、平成11年(1999)から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんに会場が落ち着きまして、現在に至ります。

平成23年(2011)の第55回は東日本大震災のため、昨年の第64回はコロナ禍のため、それぞれ集いは中止。そして今年もコロナ禍明けやらず、2年続けての中止といたしました。残念です。

今日は、当方自宅兼事務所に咲いている中野アトリエの連翹の子孫を剪って、駒込染井霊園の髙村家奥津城に手向けて参り、それを以て第65回連翹忌とさせていただきます。
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皆様におかれましては、それぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければ、と存じます。

【折々のことば・光太郎】

朝食前部落の青年達多勢来てヤトヂをとり除き、萱を背負ひかへる。六時のサイレンが鳴る。茶を出す。前の田で萱の大焚火をたく。


昭和22年(1947)5月3日の日記より 光太郎65歳

「ヤトヂ」は雪よけのため家屋の回りに巡らす萱(かや)の束です。花巻郊外旧太田村、5月はじめまでそれが必要だったのですね。
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これを燃やせば確かに「大焚火」でしょう。

今年1月にご逝去された、日展彫刻家にして光太郎の父・光雲の孫弟子にあたられた橋本堅太郎氏の遺作「今ここから」が、3月28日(日)、JR東北本線安達駅前に除幕されました。

画像は三保恵一二本松市長さんのツィートから。
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除幕前の3月18日(木)、『福島民報』さんの記事。

【橋本氏の功績】遺作にも古里への思い

 二本松市ゆかりの彫刻家で文化功労者の橋本堅太郎さんの遺作となるブロンズ像の除幕式が二十八日、市内で行われる。同郷の画家の高村智恵子を題材にしており、二本松市が生んだ偉大な芸術家二人が共鳴する意義深いモニュメントが誕生する。
 一月三十一日、九十歳で亡くなった橋本さんの功績は枚挙にいとまがない。日展を舞台に木彫作品を発表し、一九九六(平成八)年に日本芸術院賞を受賞、日本芸術院会員に推戴された。日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の五部門で構成する国内最大の公募展・日展の理事長を九年間にわたり務めた。本県の美術振興にも情熱を注ぎ、県展の審査を長く担当した。
 JR安達駅近くに設置される智恵子の像は二本松市の依頼を受け、制作にかかった。家族によると、昨年十一月に集中的に取り組んだ。祖母から伝え聞いた智恵子の印象を膨らませ仕上げたという。直後に療養生活を強いられ、退院さえかなわず不帰の人となった。遺作と呼ぶにふさわしい、まさに渾身[こんしん]の思いがこもった一点だ。智恵子が愛した安達太良山を背景にすることを思うと、なお感慨深い。
 会津若松市の鶴ケ城に二〇一三年(平成二十五)年に設置された「八重之像」も古里への思いが結実した作品だ。NHK大河ドラマ「八重の桜」の放映が決まると、数人の彫刻家が制作を思案していることを聞き及んだ。「八重さんだけは必ず自分の手で作る」と心に決めたそうだ。
 建立予定地に何度も足を運び、構想を固めていった。橋本さんへの報酬はなく、制作実費を市と市内経済界、住民有志が寄せ合うという画期的なプロジェクトでもあった。新島(山本)八重を顕彰する貴重な像が、一人の作家の信念で会津に残されている。
 最初にお目にかかったのは一九八四(昭和五十九)年、福島市の中合で開かれた父・高昇さんとの親子展だ。当時、東京学芸大の教授でもあり、学究肌のもの静かな振る舞いが忘れられない。敬愛する奈良、京都にある古仏の話も取材の際、たびたびうかがった。プロ野球のファンで応援するチームが躍動するや、子どものように破顔した。
 東京都小平市の平櫛田中[でんちゅう]彫刻美術館で九月から作品展を開くことが既に決まっていた。東京芸大で師事した恩師の記念館であり、故人にとって無念の極みだろう。木の風合が生かされた木彫の作品群が並ぶはずだ。県内で鑑賞できる数々の名作とともに、巨星が残した美の軌跡を末永くしのびたい。

除幕を報じた『福島民友』さんの記事。

「市民に夢を」安達駅に智恵子像 彫刻家・橋本堅太郎氏遺作

002  二本松市名誉市民で1月31日に死去した文化功労者、彫刻家橋本堅太郎氏の遺作となった智恵子像「今ここから」が二本松市のJR安達駅西口に設置された。28日、現地で除幕式が行われ、市民にお披露目された。
 智恵子像は高さ約1.8メートル。同市出身の洋画家高村智恵子の青年期の清純なイメージを着物姿のブロンズ像に仕上げた。市が同駅の東口整備と新駅舎の完成を記念して、橋本氏にシンボル像の制作を依頼。昨夏から制作が始まったが、今年1月初めに石こう像が完成した時に橋本氏の体調が悪化し、他界した。
 作品は、新しい駅舎の完成を機に未来に向かって発展してほしいという願いや、駅という場から旅の始まりなどの意味が、夢や希望にあふれる青年期の智恵子の姿と重ねて命名された。橋本氏は生前、「市民や駅利用者に夢を与える作品にしたい」と話していたという。
 三保恵一市長や橋本氏の妻芳子さんらが除幕。出席者が橋本氏をしのびながら完成を祝った。
 三保市長は「今ここから市民の幸せな人生、新たなまちの発展を願う」とあいさつした。芳子さんは式後、「(除幕式に出席できずに)主人は無念だと思う。二本松には作品がたくさんあり、ここに来ると主人がまだいるように思える」と話した。

橋本氏、ご自身は東京のお生まれですが、お父さまが二本松ご出身ということで、福島との関わりは深いものがあり、県内各地に作品が設置されています。以前にも書きましたが、安達駅の一つ手前の二本松駅前には、平成21年(2009)制作のやはり智恵子像「ほんとの空」。
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昨年の3.11には、浪江町に東日本大震災犠牲者追悼のための「母子像」が除幕されています。
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それから、上記『福島民報』さんの記事にある、「八重の桜」の新島八重像(平成25年=2013)。

さらには二本松霞ヶ城箕輪門前の二本松少年隊群像。
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他にもいろいろあるのでは、と思われます。

ご遺作が智恵子像、というところにも不思議な因縁を感じますね。近いうちに拝見に伺おうと思っております。皆様もあちら方面にお越しの際にはぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

みぞれ止まず。風も相当につよし。冷。


昭和22年(1947)4月23日の日記より 光太郎65歳

青森に住んでいる学生時代の友人が、「GWまでは冬用タイヤを交換できない」と言っていましたが、岩手の山村でもそうなのですね。

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