2020年11月

昨日は上野の東京都美術館さんへ、第42回東京書作展を拝見に伺いました。
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右上は図録表紙です。

総評。
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今回は上位10点中7点が漢文系でしたが、その他3点が漢字仮名交じりで、すべて光太郎詩を書かれたものということで、実に驚きました。

まず最優秀に当たる「内閣総理大臣賞・東京書作展大賞」。中村若水さんという方で、光太郎詩「冬」(昭和15年=1940)の全文を書かれました。
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中村さんが会場にいらしていて、お話をさせていただきました。現在は川崎にお住まいだそうですが、元々は福島市のご出身、ご実家のそばには阿武隈川が流れ、ご自身、智恵子の母校である福島高等女学校の後身・福島女子高校(現・橘高校)さんを出られているとのこと。そこで、光太郎愛にあふれられているそうで、ありがたく存じました。

大書されている「精神にたまる襤褸(らんる)をもう一度かき集め、/一切をアルカリ性の昨日に投げこむ。」という一節、さらにそれに続く「わたしは又無一物の目あたらしさと/すべての初一歩(しよいつぽ)の放つ芳(かん)ばしさとに囲まれ、/雪と霙と氷と霜と、/かかる極寒の一族に滅菌され、/ねがはくは新しい世代といふに値する/清潔な風を天から吸はう。」あたり、コロナ禍による閉塞感からの脱出といった願いをオーバーラップさせて書かれたそうです。

昨年の大賞を受賞された菊地雪渓氏もいらしていて、菊地氏が中村さんをご紹介くださり、3人でひとしきりこうした光太郎話に花を咲かせました。

菊地氏、昨年は第64回高村光太郎研究会で「光太郎の書について―普遍と寛容―」と題され、実演を交えながら光太郎自身の書の特徴などを語られました。また、連翹忌レモン忌にもご参加下さっています。中村さんもぜひこちらの世界に引きずり込みたいものです(笑)。

その菊池氏の書。昨年の大賞受賞者ということで、審査対象ではない「依嘱」作品です。
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書かれているのはやはり光太郎詩で「案内」(昭和25年=1950)。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺を亡き智恵子に案内するという内容の、意外とファンの多い詩です。

続いて「東京新聞賞」。まずは長谷部華京さんという方で、「上州川古「さくさん」風景」(昭和4年=1929)。
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さらに田川繍羽さんという方の「何をまだ指してゐるのだ」(昭和3年=1928)。
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ここまでは報道や菊地氏からのメール等で存じていましたが、これ以外にもやはり光太郎詩を題材にされた方が予想通り複数いらっしゃいました。やはりこのコロナ禍の中で、ポジティブな光太郎詩が書家の方々の琴線に触れたのでしょうか。

「特選」で、野嶋謳花さんという方。「冬の言葉」(昭和2年=1927)の全文です。
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さらに審査会員の方々の作。「失はれたるモナ・リザ」(明治43年=1910)の一節を、千葉凌虹さんという方。これは大正3年(1914)の第一詩集『道程』の冒頭を飾った詩です。
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同じく岩田青波さんという方が、「後庭のロダン」(大正14年=1925)の一節を。赤い紙が鮮烈ですね。
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それから、菊地氏と同じ「依嘱」出品で山口香風さん。長大な詩「落葉を浴びて立つ」(大正11年=1922)の一節です。
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そういえば、上野公園、ケヤキやイチョウの落葉がいい感じでした。
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コロナ禍なかりせば、台東区立中央図書館さんの企画展「上野公園~近代の歩み~」など、このあともゆっくり見て回りたかったのですが、やはり第三波のただ中ですので、残念ながら早々に撤収しました。

何らの軛もなく普通に歩ける日がはやく戻ることを切に願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

朝 味噌汁 昼、おから、晩 焼豆腐の煮附。

明治37年(1904)5月2日の日記より 光太郎22歳

戦後の日記にも、その日食べたものを記録していた光太郎ですが、その習慣は青年期から既にあったようです。ただ、さすがにこれだけでは無かったと思いますが(笑)。

下記は、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの市民講座で講師を務めさせていただいた際のレジュメから。
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地方紙『岩手日日』さんの一面コラム、一昨日掲載分です

日日草 2020年11月27日

海の幸、山の幸、そして豊かな自然に恵まれている本県。県民性はと言うと、口数は少なくとっつきにくい面があるが真面目で忍耐強く、物事に動じないといったイメージが強い。東北人に共通する気質だろう▼太平洋戦争下、詩人宮沢賢治の実家を頼って東京から花巻に疎開し、その後、周辺の山村に粗末な小屋を建てて7年間過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎も詩の中で「岩手の人沈深牛の如し」と寡黙で冷静沈着、思慮深い人柄を表明している▼クラスター(感染者集団)の発生で県内でも新型コロナウイルスの患者数は増加スピードを増し、緊張感が急速に高まっている。感染拡大に歯止めをかけるには「真面目」な県民性に頼る他ない▼マスクの着用、手指消毒、室内の換気に加えイベントの自粛や密閉、密集、密接の「3密」を回避する県民の行動、それに行政や医療関係者らの献身的な取り組み。見えない「敵」の封じ込めに官民一丸となった懸命の活動が続く▼1日の感染者数の最多更新が全国で相次ぎ、飲食店の時短営業や不要不急の外出自粛も呼びかけられるなど、感染は「第3波」の様相を呈している。1人ひとりが忍耐強く真面目に対策を講じる「岩手の人」で在り続けること。それが一日も早い収束への近道だろう。

まったくもって、感染拡大が止まらない状況ですね。昨日は全国で新たに2,600人超の感染が確認されたそうで……。下記グラフは昨日時点での全国の新規感染者数です。
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また、当方だけかも知れませんが、こうした状況に対し、以前より危機感が薄くなっているような気がします。『岩手日日』さんに引用されている「岩手の人」(昭和24年=1949)にあるように、「沈深牛の如し」でなくてはいけないのではないでしょうか。「岩手の人」、全文はこちら

【折々のことば・光太郎】

あゝ人生のはかなさよ。

明治37年(1904)4月17日の日記より 光太郎22歳

東京美術学校彫刻科の同級生だった山本筍一の見舞いに行っての感懐です。この前の部分には「いたくも痩せ衰へたる様とても恢復はむつかしかるべしとは誰が胸にも浮びし所なるべし。」とあり、そして他の用を済ませて帰宅したところ、「程なきに知らせありて山本君死去! あゝ。」。

山本は、どのクラスにも一人はいる、空気が読めずに素っ頓狂な発言をして先生にこっぴどく怒られるような生徒でした。美学の講義を担当していた森鷗外には、けちょんけちょんに言われています。彫刻の技倆もはじめはまるで駄目で、同級生から小馬鹿にされていました。ところが、奈良へ修学旅行に行き、古仏の数々を目の当たりにして開眼、皆に「山本の奴は急にうまくなった」と、一目置かれるようになりました。しかし、若くして亡くなりました……。

コロナでは、相変わらず若年層の死亡はほとんどないようですが、高齢だから死んでいい、というわけでもありません。亡くなった方々の死を警鐘と捉えなければ、その方々も浮かばれませんね……。

市のサイト等に詳しい情報が出るのを待っていたのですが、まだのようで……。仕方なく見切り発車でわかっている範囲を紹介します。情報ソースは『広報はなまき』11月15日号です。

令和2年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~

市内五つの文化施設で「イーハトーブの先人たち」をテーマに共同企画展を開催します。
各施設を巡り、花巻ゆかりの先人や功績に触れてみませんか。

会期 12月5日(土)~ 令和3年1月  24 (日)

■入館料・休館日 施設によって異なります
※小中学生や、市内に在住または在学の高校生、富士大学生は「まなびキャンパスカード」や「学生証」の提示で無料。小学生と特別支援学校の児童・生徒1人につき保護者1人も無料になります。

■花巻新渡戸記念館
▽「猫塚家‐新田開発の先駆者‐」
 新田開発の先駆者として当地方の開発で活躍し、新渡戸家の新田開発の協力者でもあった猫塚家。代々受け継がれた資料から同家の業績を紹介します。
【会場】 同記念館(☎31-2120)

■萬鉄五郎記念美術館
▽「明治・大正・昭和前期のいわて近代美術館」
前衛絵画の萬鉄五郎や、西洋彫刻の長沼守敬(もりよし)、情緒的な表現で魅了する松本竣介。花巻にゆかりが深いこれらの表現者を中心に、明治期から昭和前期にかけて岩手の近代美術を形作った美術家を紹介し、その相関を検証します。
【会場】 同美術館(☎42-4402)

■花巻市博物館
▽「小野寺周徳‐花巻画人の先駆的存在‐」
医師と画人の二足のわらじを履きながらも、花巻画人の先駆者としてその名をはせた小野寺周徳。その生涯を振り返り、多彩な表現力を発揮した作品を紹介します。
【会場】 同博物館(☎32-1030)

■花巻市総合文化財センター
▽嶽妙泉寺(たけみょうせんじ)‐早池峰信仰に関わった人々‐」
江戸時代、盛岡城東の鎮山として重視された寺院「嶽妙泉寺」。早池峰山の信仰をたどり、それに関わった嶽妙泉寺の人々を紹介します。
【会場】 同センター(☎29-4567)

■高村光太郎記念館
▽「光太郎と佐藤隆房」
高村光太郎と佐藤隆房との生涯にわたる交流を各種資料で解説します。
【会場】 同記念館(☎28-3012)

スタンプラリー
共同企画展会期中、開催館5館のうち3館のスタンプを集めた人に記念品を差し上げます。さらに、開催館5館全てと次の協賛館のうち1館のスタンプを集めた人に、追加で記念品を差し上げます。
〇協賛館 宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷歴史民俗資料館、石鳥谷農業伝承館、早池峰と賢治の展示館

バスツアー
 共同企画展の開催館5館をバスで巡ります。
 □期日 ①12月10日(木)②令和3年1月14日(木)
 □時間 午前9時~午後3時10分
 □集合場所 まなび学園
 □定員 各回20人(抽選)
 □参加料・入館料 無料(昼食代は自己負担)
 □申込期限 11月30日(月)
 □申し込み 本館生涯学習課(☎41-3588)
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高村光太郎記念館さんでは、「光太郎と佐藤隆房」。
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佐藤隆房は花巻病院院長にして宮沢賢治の主治医。光太郎の花巻疎開に骨折った一人でもあります。終戦後の一時期、旧太田村の山小屋に移る前の光太郎を自宅離れに住まわせてくれたりもしました。光太郎歿後は財団法人高村記念会を立ち上げ、彼の地での光太郎顕彰に尽力してくれました。

昨年のこの企画では、「光太郎からの手紙」ということで、主に佐藤に宛てた手紙が展示されましたが、今回はどんな感じなのか、当方、関わっていないので不明です。ただ、他の用件もあり、12月4日(金)、5日(土)と一泊で盛岡、花巻に行って参りますので、その際に拝見し、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

時候あたゝかし。上野権現前清水堂側の彼岸桜は早やちらほらと笑みそめて山は今が最も風情ある時なり。


明治37年(1904)4月2日の日記より 光太郎22歳

季節外れで済みません(笑)。昔から上野公園一帯は桜の名所でした。明日は上野の都美さんに東京書作展を拝見に伺います。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻にあり、光太郎や宮沢賢治もたびたび宿泊したゆかりの宿、大沢温泉さん。当方も花巻に宿泊する際は、真っ先にここに予約。取れなかった場合などに他を当たるという習慣になっています。

先月、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)に行った際にゲットしてきたパンフレット類から。
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すべて光太郎の名を挙げて下さっています。

その大沢温泉さんで、求人です

株式会社 大沢温泉山水閣フロント係 募集要項

募集要項
 仕事詳細
  *山水閣のフロント業に従事いたします。001
  <主な業務>
  ・お客様のお出迎え、受付、案内業務
  ・各種会議、研修会場のセッティング
  ・予約受付、会計清算業務
  ・その他 付随する業務
 職種 ホテル業務
 雇用形態 正社員
 勤務地(住所) 岩手県花巻市湯口字大沢181
 屋内の受動喫煙対策 あり(禁煙)
 特記事項 館内に喫煙場所あり
 勤務時間 変形労働時間制
  変形労働時間制の単位 1年単位
  就業時間1 7時30分〜19時00分
  就業時間2 9時00分〜20時30分
  就業時間3 8時00分〜19時00分
 最寄り駅 JR東北本線 花巻駅
 最寄り駅から就業場所までの交通手段 車 所要時間20分
 給与・年収 155,000円〜180,000円(月額)
 休日・休暇
  年間休日数 96日 週休二日制 シフト制。月7日の休日を基本とする。
  他に年公休12日有(繁忙期以外で、日程相談のうえ取得)
  6ヶ月経過後の年次有給休暇日数 10日
 資格
  (普通免許自動車免許:通勤用) 普通自動車運転免許 あれば尚可(AT限定可)
 スキル・経験 必要な経験・知識・技能等 不問
 企業の特徴
  豊沢川の渓流沿いに立地し、山水閣、自炊部、菊水館と三つの異なる施設からなる。
  大浴場が五つありお風呂巡りができる。宮沢賢治、高村光太郎ゆかりの温泉でもある。
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企業情報
 会社名 株式会社 大沢温泉
 本社所在地 岩手県花巻市湯口字大沢181
 設立日 昭和22年
 資本金 3,240万円
 代表者 役職 代表取締役社長 
 代表者名 高田 貞一
 従業員数 企業全体75人 うち女性40人 うちパート10人
 事業内容 温泉旅館業
 各種保険 雇用保険,労災保険,健康保険,厚生年金

その他・PR
 雇用期間 雇用期間の定めなし
 求人に関する特記事項 従業員食堂あり 1食@100円
 年齢 年齢制限あり 年齢制限範囲〜61歳
 年齢制限該当事由 定年を上限
 年齢制限の理由 定年年齢62歳の為労働基準法第61条の深夜業務
 備考 月平均労働日数 22.4日
 賞与 賞与制度の有無 あり007
 賞与(前年度実績)の有無 あり
 賞与(前年度実績)の回数 年2回
 賞与金額 計 1.50ヶ月分(前年度実績)
 利用可能託児施設 なし
 転勤の可能性の有無 なし
 再雇用制度 あり
 上限年齢 上限 65歳まで
 育児休業取得実績 なし008
 通勤手当 実費支給(上限あり)月額17,700円

応募方法
 選考プロセス 面接(予定1回)
 採用人数 1人
 募集理由 増員
 応募資格 不問

家庭やら何やらのしがらみが一切なければ、当方も応募するところですが……。


【折々のことば・光太郎】

天の奇巧を弄ぶこそいとをかしけれ。

明治37年(1904)3月31日の日記より 光太郎22歳

この年の3月31日は十二支十干の「甲子(きのえね)」。この日が雨だとその後長雨になり、晴れればそのまま晴天が続くという俗信があるそうで、その点についての記述です。

おおいなる自然現象の不思議、ひいては詩「道程」(大正3年=1914)にも謳われた「自然」への畏敬の念が既に読み取れます。

けっこう前に始まっていたのですが……

企画展「上野公園~近代の歩み~」

期 日 : 前期 2020年 9月18日(金曜日)~10月14日(水曜日)
      中期 2020年10月16日(金曜日)~11月18日(水曜日) 
      後期 2020年11月20日(金曜日)~12月13日(日曜日)
会 場 : 台東区立中央図書館 台東区西浅草3丁目25番16号
時 間 : 月~土 9:00〜20:00 日 9:00~17:00
休 館 : 第3木曜日
料 金 : 無料

上野の山は、江戸時代、天海により寛永寺が建てられ、将軍家の菩提寺がある桜や蓮の名所として、一大行楽地となりました。上野戦争を経て、日本初の公園になると、博物館、美術館などが建てられ、現在の文化施設が集まる地域として整備されていきました。

本企画展では郷土・資料調査室で所有する浮世絵・絵はがき・地図等の貴重資料を用いて、明治初期から昭和に至るまでの上野公園の歴史をご紹介します。
みなさまのご来場をお待ちしております。
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上野といえば、東京美術学校の教授と生徒だった、光雲・光太郎父子のホームグラウンドのひとつですね。

そこで、美校として依頼を受け、光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」(明治31年=1898)が鎮座ましましています。
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遡って明治10年(1877)には、第一回内国勧業博覧会が上野で開催され、光雲は師匠・高村東雲の代作で白衣観音像を出品し、一等龍紋賞に輝きました。
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光太郎も生まれは下谷区西町三番地(現・台東区東上野)でした。

下って大正後期、光太郎は上野動物園に足繁く通い、「傷をなめる獅子」(大正14年=1925)、「苛察」(大正15年=1926)、「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)、など、連作詩「猛獣篇」所収の詩のいくつかをを構想します。
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そうした近代の上野を、当時の資料を基に紹介する展示、おもしろそうですね。

ちなみに当方、同館で平成29年(2017)に開催された同様の展示「台東区博物館ことはじめ」を拝見しました。こうした取り組みに積極的である同館の意気やよしと存じます。

コロナ禍には充分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

赤貧の醍醐味、是れだ。赤貧を何も好むでは無いが、人間の徳操、品位といふものがいかなる場合に於いても維持せられ得るものだといふ事を実験したいのだ。

明治36年(1903)7月7日の日記より 光太郎21歳

セザンヌなどとも交流があり、若い頃は「赤貧洗うが如し」だったというフランスの作家、エミール・ゾラの伝記を読んでの感想です。

光太郎が生まれた頃は、廃仏毀釈の影響で、仏師であった光雲の注文仕事は激減。酉の市の熊手や洋傘の柄などを作って凌いでいたそうです。それが、明治20年(1887)には皇居造営に伴う内部彫刻の仕事を得、さらに2年後には岡倉天心の推挙で美校に奉職。このころから一家の生活は安定していきました。

しかし光太郎はのちに家督相続を放棄。智恵子と二人、赤貧というほどではないにせよ、豊かではない生活を続けます。

そうした中でも「貧すれば鈍する」とはならなかったわけで、見習いたいものです。

来年の丑年を前に、光太郎の父・光雲による牛の木彫が出品される(されている)企画展を2件ご紹介します。

まず、埼玉で来週からのもの

遠山記念館 コレクション展 2

期 日 : 2020年12月5日(土)~2021年1月24日(日)
会 場 : 遠山記念館 埼玉県比企郡川島町白井沼675
時 間 : 10:00〜16:30
休 館 : 月曜日 祝祭日の場合は開館、翌日休館
      年末年始(12月22日(火)~1月5日(火))
料 金 : 大人 800円(640円) 学生(高校・大学)600円(480円)
      ※中学生以下は無料  ( )内は20名以上の団体料金
      ※障害者手帳をお持ちの方は200円割引

遠山記念館の所蔵品の中から、狩野晴川院養信「源氏物語子の日図」、仁阿弥道八「黒楽銀彩猫手焙」をはじめとし、干支にちなんだ彫刻や小袖類など、新春を迎えるのにふさわしい美術品を展示します。

また大河ドラマの主人公である明智光秀が所持したと伝えられる、「青磁香炉 銘 浦千鳥」を公開します。
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光雲木彫は、ずばり「牛」。大正2年(1913)の作だそうですが、当方、見たことがありません。画像も初めて見ました。

遠山記念館さん、たまたま先月に行ったのですが、光雲作品も所蔵しているというのも存じませんでした。ぜひ見に行かねばと思っております。

木目の紋様が牛の筋肉のようで、見事な表現です。それから、おそらく台座から本体まで同じ材で繋がっている一木造りでしょう。

他に仁阿弥道八の陶製の猫や、香川勝慶の金工による鼠など、愛らしい作品群。猫は13番目に神様の所に行ったので、干支には入れてもらえなかったはずなのですが(笑)。
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ロビーには、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の「女」も展示されています。

もう1件、栃木から。上記の展覧会の情報を得て、「あ、そういえば、あそこでも出すかも」と思って調べたらそのとおりでした。というか、すでに始まっていました

第4回 佐野東石美術館開館40周年記念「木彫の美」

期 日 : 2020年10月19日(月)~12月20日(日)
会 場 : 佐野東石美術館 栃木県佐野市本町2892
時 間 : 10:00~17:00
料 金 : 大人 700円 ペアチケット 1,000円 小・中・高生 300円
      団体(15名以上)の団体料金 大人 400円 小・中・高生 150円
休 館 : 色が塗りつぶされている日が休館日です。

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初代館長菊池登の愛した木彫を中心に、二代館長菊池義明、三代館長菊池宏行の蒐集した三代にわたる木彫コレクションを一堂に展示いたします。近世の円空仏から近現代の高村光雲、石川光明、山崎朝雲、佐藤玄々(朝山)、平櫛田中、澤田政廣、圓鍔勝三、長谷川昂、橋本堅太郎、現在活躍中の神保雅など選りすぐりの作品をご覧いただけます。人と自然の共生の中で生まれた芸術、木彫の美をどうぞご高覧ください。

こちらで所蔵されていて、時折、出品されている「牧童」(大正9年=1920)が展示されています。
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一度拝見して参りましたが、これまた見事な作ですね。まさしく超絶技巧。

同館では光雲の盟友、直弟子、孫弟子らの作も所蔵しており、併せて見ることで近代木彫の系譜の一端を知ることが出来ます。

コロナ禍にはお気をつけつつ、それぞれぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

尚工風あるべし。

明治36年(1903)6月11日の日記より 光太郎21歳

「なおくふうあるべし」と読みます。「まだ工夫すべき点がある」といった意味で、数ヶ月取り組んできた自作の彫刻に対する評。適当なところで「ま、いいか」としない姿勢は、若い頃からのものでした。

レジ袋有料化に伴い、マイバッグ持参の習慣がついた方も多いのではないでしょうか。

そこでおそらく新製品と思われるバッグ系。もちろんここで紹介するので光太郎がらみです(笑)。

まずエコバッグ

文学作品エコバッグ 道程モチーフ

高村光太郎の詩集『道程』の一節、「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」をイメージしたデザインです🚶🏻‍♂️🛤 シンプルで使いやすさ抜群🌟

サイズは、縦33㎝×横28㎝。ファッション誌3冊程度が楽々入るサイズです📚 持ち手も肩にかけられる便利な長さ♪お値段は書店様によって異なりますが、約100円〜150円のお得な価格で多く販売いただいております!是非シリーズコンプしてください♡

発売元/文学の雑貨  
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「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」を英訳した「No way before me./A way behind me.」という文字がプリントされています。

他に、「ウォールデン 森の生活モチーフ」、「赤毛のアンモチーフ」、「銀河鉄道の夜モチーフ」、「ハムレットモチーフ」、「こころモチーフ」。それぞれかなりシャレオツですね。
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取り扱い店舗の一覧はこちら

続いて、一回り小さく、肩に斜めがけするタイプのサコッシュ

高村光太郎/智恵子抄/山麓の二人/わたしもうぢき駄目になる/サコッシュ

素材:綿100% キャンバス 280g/㎡
本体サイズ(mm) 300 × 230 紐の長さ(mm)  1,050 容量  0.7L
価格 ナチュラル/ライトグレー ¥2,530  ブラック ¥2,770
発売元/イニミニマニモ
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発売元のイニミニマニモさん、以前にもTシャツでご紹介していました。

その後も新商品を色々出されているようで、「山麓の二人」バージョン以外に「文学者ボックスロゴ 高村光太郎」バージョン、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る-座右の銘-」バージョンで、サコッシュ、トートバッグ、Tシャツ、パーカーなど、多くのラインナップが用意されています。中には持ち歩いたり身につけたりするにはちょっと勇気が要るかな、というものも(笑)。
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勇気のある方、ぜひお買い求め下さい(笑)。

【折々のことば・光太郎】

仕事しつつ自ら己れを見るにいかにしても天才とは見がたきのみか器用ともゆるしがたし。是非もなき事なれど口惜しからでやは。さもあらばあれ、勉めて止まず、倦まず撓まずすゝみゆかば遂には彼岸に達し得ん。否達せしめからざるべからず。

明治36年(1903)4月11日の日記より 光太郎21歳

光太郎の自己に厳しい性分は若い頃から如実だったのですね。

ハードカバーの文庫化です

文字に美はありや。

2020年11月10日 伊集院静著 文藝春秋(文春文庫) 定価720円+税

文字に美しい、美しくないということが本当にあるのか――。
そんな疑問を抱いた著者が、「彼を超える書家はあらず」と言われた〝書聖〟王羲之に始まり、戦国武将や幕末の偉人、作家や芸人ら有名人から書道ロボットまで、国内外を問わず歴代の名筆をたどり、独自の視点で考察する。

取り上げた人物たち
王羲之 鑑真 空海 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 世阿弥 千利休 一休宗純 松尾芭蕉 宮本武蔵 大石内蔵助 水戸黄門 吉田松陰 高杉晋作 土方歳三 近藤勇 坂本龍馬 西郷隆盛 勝海舟 夏目漱石 正岡子規 谷崎潤一郎 永井荷風 井伏鱒二 太宰治 高村光太郎 古今亭志ん生 立川談志 ビートたけし ほか
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元版は平成30年(2018)に同社から刊行されています。
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さらに遡れば、元々は雑誌『文藝春秋』の連載で、光太郎の項「猛女と詩人の恋」は平成26年(2014)10月号に掲載されました。
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木彫「白文鳥」(昭和6年=1931)を収めるための袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌、詩「道程」(大正3年=1914)の草稿が取り上げられています。また、書論「書について」(昭和14年=1939)にも言及されています。

新刊書店で平積みになっています。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

今作りをるものは今の我にてともかくも作りをるものゝこれ亦一二週乃至一二ヶ月も立たば忽ち顧るにも堪へぬものとやなりもせん 此をおもへば我ながらあまりの甲斐なさに口惜しなどいふもおろかなる。


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伸び盛り、というわけですね。「今」の作品は「今」の精一杯のものとしながらも、少し経てばそれ以上のものが出来るはずだ、と、現状に満足しない姿勢には好感が持てます。

11月18日(水)、地方紙『岩手日日』さんの記事から

目指せ「はなまき通」 ご当地検定へ事前講習会【岩手】

 花巻観光協会主催のご当地検定「はなまき通検定」に向けた事前講習会は14日、花巻市交流会館で開かれた。受検申込者が観光ガイドを講師に花巻の民俗芸能やイベント、先人などに関して知識を深めた。
 2014年度以来、4回目となる今回の検定は45人が受検予定。希望者対象の事前講習会には午前、午後の部合わせて33人が受講を申し込み、うち午前の部は26人が参加した。
 初めに19年に211万人余りとなった観光客入り込み数、81万5700泊余りの宿泊客数の推移などを同協会職員が説明後、花巻おもてなし観光ガイドの会の高橋孝子会長が講師となって講習を進めた。
 高橋会長は検定テキストを基に花巻の歴史や花巻八景、早池峰神楽や鹿(しし)踊り、わんこそばのほか、宮沢賢治や高村光太郎などの先人についても解説。特に賢治に関しては生い立ちから亡くなる当日の様子まで詩や童話の作品を交えて詳細に伝えた。
 改めて勉強するため検定に再挑戦するバスガイドの伊藤美雪さん(27)=北上市=は「ある程度分かっているつもりでも知らないことが多く、受講して良かった。最期まで自分のことより人のためを考えていた賢治さんの話には涙が出そうになった」と話した。
 今回の検定は「初級編」として12月5日に予定され、花巻市内を中心に近隣地域、県外からも受検する。4択式の50問を出題し、100点満点で80点以上が合格になる。
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はなまき通検定」、「2014年度以来、4回目となる」そうですが、存じませんでした。

実施要項等調べてみましたところ、以下の通りでした。すでに募集期間を過ぎていますが、こういうイベントもあるんだな、ということで。

『はなまき通検定』実施のお知らせ

◆はなまき通検定とは?
花巻に関する知識の深さを認定する検定試験です。この検定を通じて、花巻の良さを再認識していただくとともに、観光に従事する方だけではなく市民皆で観光客をおもてなしできるよう、花巻の知識を習得していただくことを目的に実施します。今回は初級編の検定となります。

◆はなまき通検定の概要
日時:令和2年12月5日(土)午前10時~午前10時50分(50分間)
場所:花巻市交流会館(岩手県花巻市葛3-183-1)
検定料:500円(検定当日に会場にてお支払い)
受験資格:年齢・住所等の制限なくどなたでも
定員:申込先着70名 

◆合格特典
合格者全員に合格証と合格記念ピンバッジを進呈いたします。

◆お申込みについて
お申込み期間:令和2年10月9日~令和2年10月23日(金)
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記事にあった「検定テキスト」、PDFファイルでリンクが貼られていました。全72ページ、かなりの分量で、内容的に多岐にわたっていますし、各項目の掘り下げもかなり深いと感じました。

光太郎の項も5ページにわたっていて、花巻とは直接関わらない部分まで詳述。たしかに、なぜ光太郎が花巻に住むことになったのか、その背景を知るためには必要なのかもしれません。下記画像、クリックで拡大します。

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その他の項目の中にも、光太郎の名がちょいちょい出ています。

しかし、これで「今回は初級編」だそうですから、「中級編」や「上級編」になったらどんだけ~? という感じですね(笑)。

全国の自治体の社会教育等担当の方、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

写真より制作することを考へれば実物を写生するなどわけも無く出来ざるべからざるやの感あり。

明治36年4月6日の日記より 光太郎21歳

五代目尾上菊五郎の肖像彫刻制作について。未だ「卵」ながら、彫刻家としての矜恃が感じられます。

3件ご紹介します。

掲載順に、まず、『読売新聞』さん。11月11日(水)の夕刊一面コラム

よみうり寸評

山本周五郎の短編に、こんな台詞(せりふ)が出てくる。<もし秋だったらどんなに悲しかったでしょう。……木や草が枯れて、夜なかに寒い風の音などが聞こえたら>(「落ち梅記」)◆青々と色づいていた草木から、その色が消えてゆく。晩秋の光景に悲しみや寂しさが増すことはあっても、元気づけられるという話はあまり聞かない◆数少ない例だろう。<秋に木の葉の落ちる時、その落ちたあとにすぐ春の用意がいとなまれ……>と高村光太郎は随筆に綴(つづ)った。よく知られる英詩の一節「冬来たりなば春遠からじ」よりさらに早く、秋の落葉に春の萌芽(ほうが)があるのだと気づかされる◆これも春の兆しと受け止められよう。新型コロナのワクチンを開発中の米大手製薬会社が、臨床試験参加者の9割超で効果が確認されたと発表した。ただし安全性などで不明な点も多く、日本で接種が始まる時期は見通せない◆実用化を待ちつつ、来たる冬をしっかり耐え抜く。その覚悟を当面は固めるしかないのだろう。思えば冬を経ずに来る春はない。

引用されているのは、随筆「山の春」(昭和26年=1951)の一節です。

続いて、定期購読している、日本古書通信社さん発行の月刊誌『日本古書通信』の11月号(11月15日発行)。巻末に掲載のコラムです

談話室

▼10月9、10日、GoToを利用して花巻と盛岡に車で行ってきた。二日で走行距離一〇四三キロ、66歳になるが疲れもせず、まだ体力あるなと自信が持てた。主な目的は花巻在太田の高村光太郎山荘と、宮沢賢治生家跡、渋民村の石川啄木記念館。山荘で、光太郎は終戦前から昭和27年まで約七年間を過ごした。伊藤信吉さんが古通豆本『亡命高村光太郎』に書かれたように、戦争の痛手から再生する厳しい試練を自らに課した時間と所だ。山荘での生活は、詩「雪白く積めり」に象徴的である。当時山荘を訪ねた人は多い。七十年前どのくらい時間がかかったのか。今は花巻中心街から車で30分だが、当時は山荘から小さな鉄道の駅二ツ堰まで徒歩四キロ歩き、鉄道で花巻まで20分。東京から花巻までは充分一日を要したろう。確かに亡命に相応しい遠隔の地であった。記録は多いが実感できた。
 渋民では、啄木の「やはらかに柳あをめる」の歌碑の前に立ちたかった。啄木の「ふるさとの山」は、岩手山か、対面する姫神山か。両山だという説もあるが、姫神山はきれいな稜線だが、迫力が違う。岩手山がふるさとの山であろうと実感した。


終戦前から昭和27年まで」は誤りで、正しくは「終戦直後から昭和27年まで」です。

『亡命高村光太郎』は、光太郎と交流のあった伊藤信吉著。同社でかつてシリーズとして刊行していた「こつう豆本」の一冊で、書き下ろしではなく、雑誌『国文学 解釈と鑑賞』や、『高村光太郎全集』の月報に初出の文章を再掲したものです。
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「豆本」というだけあって、タテ10㌢、ヨコ7.5㌢の可愛らしい本です。

最後に、『日本農業新聞』さんの一面コラム。昨日の掲載です

四季 日ごと色づく木々の葉に、秋の深まりを知る

照り映える紅葉に、八木重吉の詩「素朴な琴」が重なる▽「この明るさのなかへ/ひとつの素朴な琴をおけば/秋の美くしさに耐えかねて/琴はしずかに鳴りいだすだろう」。詩人の郷原宏は、この詩を「おそらく日本語で書かれた最も美しい四行詩である」と評した。宗教詩人にして自然詩人の重吉の悲しいまでに澄んだまなざしが、 そこにある▽高村光太郎は、重吉の詩集に「このきよい、心のしたたりのやうな詩はいかなる世代の中にあつても死なない」との一文を寄せた。秋が巡るたびに、重吉の詩に浸るのをささやかな喜びとする。井上靖の詩の一節も忘れ難い。「刻一刻秋は深まり、どこかで、謙譲といふ文字を少年が書いています」(「十月の詩」より)▽北国からはもう雪の便りが届く。同じく井上に次の詩句がある。「ひしゝと迫る晩秋の寂しさを、落葉をふんでゆく母の老の姿に感ずる」(「冬の来る日」)。こちらの方が実感に近いか。 はらはら舞い落ちる落ち葉の中でも、ひときわ優美なのはイチョウである。今度は、フランク永井の歌った「公園の手品師」が頭の中で流れ始める▽<秋がゆくんだ冬がくる 銀杏は手品師 老いたピエロ>。長い影を引き連れ、散歩の足が伸びる。

光太郎の引用部分は、昭和18年(1943)に書かれた「八木重吉詩集序」から。ただ、戦時ということもあり、この時点では刊行に至りませんでした。

早世した八木重吉と光太郎、直接出会ったことはなかったようですが、当会の祖・草野心平らを通じ、その詩業に触れていたようですし、八木の未亡人・登美子とは交流がありました。

昨日までは季節はずれの暖かさでしたが、今日からは一転して平年並みの気温となっていくようです。秋も深まりつつありますね。

画像は自宅兼事務所の庭の紅葉です。
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【折々のことば・光太郎】

山岸氏の侠気は厚く謝するところなり。彫塑の上のみならず、文学上にてもかゝる方面に知人あるは最も都合よきことなればうれしともうれし。


明治36年(1903)4月2日の日記より 光太郎21歳

「山岸氏」は山岸荷葉。先日も書きましたが、光太郎より7歳年上の作家です。光太郎が五代目尾上菊五郎の肖像彫刻を作るに際し、いろいろと骨折ってくれました。

人脈が広がってゆくのを喜ぶ光太郎。当方も常々それを感じています。

11月16日(月)、福島二本松から帰ったところ、注文した書籍が届いておりました。

井原市立田中美術館さんで開催中の特別展「没後110年 荻原守衛〈碌山〉―ロダンに学んだ若き天才彫刻家―」図録です。
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題名の通り、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛を中心に据えた展覧会ですが、親友ということで、光太郎ブロンズも展示されています。

代表作「手」。台東区の朝倉彫塑館さん所蔵のもので、数少ない光太郎生前の鋳造にして、台座も光太郎が自身で彫ったものです。
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光太郎が東京美術学校彫刻科を出た際の卒業制作「獅子吼」(明治35年=1902 東京藝術大学蔵)、父・光雲像を別として、初めてきちんと依頼されて造った肖像「園田孝吉像(大正4年=1915 碌山美術館蔵)」。
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横浜から逃げてきた水商売の少女をかくまい、代わりにモデルになってもらって造られた「裸婦坐像」(大正6年=1917 呉市美術館蔵)、「手」とほぼ同じ頃造られた「」(大正7年=1918 碌山美術館蔵)。
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造花を売り歩いて糊口をしのいでた元旗本の老人をモデルにした「老人の首」(大正14年=1925 東京国立博物館蔵)。東京美術学校での恩師を造った「黒田清輝胸像」(昭和7年=1932 東京藝術大学蔵)。
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その他、守衛はもちろん、「同時代の作家」ということで、ロダン、ブールデル、マイヨール、長尾杢太郎、中村不折、小山正太郎、柳敬助、齋藤与里、朝倉文夫、戸張孤雁、中村彝、鶴田吾郎、堀進二、中原悌二郎、石井鶴三、藤川勇造。それぞれの出品作画像と作品解説、略歴。

そして「生誕130年彫刻家高村光太郎」展でお世話になった同館学芸員・青木寛明氏による長文の解説「荻原守衛の生涯」が掲載されています。

届いた封筒を手にして「おっ」と思ったのですが、この手の図録には珍しい、コンパクトなA5サイズです。それで十分だな、と感じました。同館サイトに案内が出ていますが、現金書留で手配し、入手可能。定価1,000円+送料370円です。ぜひどうぞ。

また、展覧会としては今月29日(日)までの会期となっています。

【折々のことば・光太郎】

われの短歌に題して「馬盥」といふ。最もわが意を得たり。鉄幹先生のかゝる才は驚くべきものあり。

明治36年(1903)4月1日の日記より 光太郎21歳

自身の短歌が20首が掲載された雑誌『明星』を見ての感想です。20首の総題が「馬盥(ばだらい)」。日記に有る通り、与謝野鉄幹がその題を付けたとのこと。

「馬盥」は二種類の意味があり、まず字面通りに「馬を洗う大きな盥」、それから、それに似た大きな花器を指します。ここでは後者。20首中に「馬盥」の語は使われていないのですが、20首が「馬盥」に挿された花々のようだ、という連想から鉄幹が題したわけで、光太郎はそのセンスに感服しています。

過日、ご紹介しました青森十和田湖畔でのイベント、「カミのすむ山 十和田湖 光の冬物語 2020-2021 in国立公園十和田湖 十和田神社 by FeStA LuCe」が開幕しました。

地元の報道から。まず地方紙『東奥日報』さん

多彩な光 十和田湖畔に魅力/「冬物語」開幕

「カミのすむ山 十和田湖」-。地元に残る伝説を基に夜の十和田湖畔を電飾で彩る「光の冬物語」が18日、青森県十和田市休屋地区の十和田神社をメイン会場に開幕した。参道や湖畔をイルミネーションなどで演出し、家族連れらが幻想的な空間に酔いしれた。
 十和田神社の鳥居をスタート地点に本殿、乙女の像、湖畔を巡る約1キロのコースを設定。イルミネーション、3D、レーザー、ライトアップ、プロジェクションマッピングなどを駆使し、「生の光」「風の光」「願の光」など六つのエリアを設けた。
 来場者は、光の点が雪のように舞う演出に歓声を上げながら、普段と違う雰囲気を楽しんだ。十和田湖小学校1年の森田陽菜(ひな)さん(6)と同2年の姉・真由さん(8)は「シカとかウサギとか動物がたくさん。ダイヤのような道もあってきれいだった」と話した。
 光の冬物語は、巨大雪像や連夜の花火などを展開してきた「十和田湖冬物語」のリニューアルイベント。実行委員会(中村秀行委員長)が、和歌山市などで同様のイベントを企画する団体に協力を依頼した。
 来年1月31日まで毎晩午後5-9時。中学生以上は入場料(当日1600円、前売り1200円)が必要。問い合わせは実行委(電話0176-75-1531)へ。
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続いて、ATV青森テレビさん

十和田湖の新イベント「光の冬物語」開幕

青森県十和田市で、冬の十和田湖をイルミネーションやプロジェクションマッピングで彩る新たなイベント「十和田湖光の冬物語」が11月18日に開幕しました。点灯式では、関係者や地元の人たちがイベントの開幕を祝いました。「十和田湖光の冬物語」は、毎年2月に雪像や花火などを行っていたイベントを、2020年からイルミネーションイベントに一新しました。会場の中心となる十和田神社の参道には、およそ230メートルにわたって動物をモチーフにした高さ2メートルほどの巨大なイルミネーションが10体並ぶほか、広大な空間を活用したプロジェクションマッピングも楽しむことができます。十和田湖光の冬物語は2021年1月31日まで、十和田神社を中心に十和田湖畔をおよそ1キロにわたって、色鮮やかなイルミネーションで彩ります。
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最後に、仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん

十和田湖畔彩る「光の冬物語」開幕 来年1月末まで

 十和田湖(青森県十和田市、秋田県小坂町)の冬祭り「カミのすむ山 十和田湖 光の冬物語」が18日開幕した。従来の内容を一新し、十和田神社の参道や散策路を多彩なイルミネーションで彩る。来年1月31日まで。
 湖畔に残る大蛇伝説を基に、六つのストーリーを幻想的な光と音楽で演出。参道や散策路に鹿などの像が置かれ、プロジェクションマッピングで投影された光が樹木に揺らめいた。
 地元の小学生らによる点灯式が現地であり、小山田久市長は「光をテーマに、歴史と伝統に彩られた冬のイベントが誕生した。多くの人が来ることを期待したい」と話した。
 開催は午後5~9時。小学生以下無料で、中学生以上1200円(当日1600円)。昨年までは花火大会や雪像作りなどを実施していたが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、取りやめた。
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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」もコースに入っており、ライトアップが為されているそうです。十和田奥入瀬観光機構の方から送っていただいた画像。感謝です。
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コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大体自然を性で区別すれば湖というのは女性になるが、十和田湖の場合は乙女ともいうべきもので本当に『聖』そのものだ。こんな意味を表現したモニマンであれば大自然の中にモニマンが立つていてもちつともおかしくない。


談話筆記「傑作が出来そうだ 十和田湖は乙女 
意欲に燃ゆ高村さん 十和田の水を賛嘆」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

上記「光の冬物語」を最初に紹介した日に、これを引用しようと思っていたのですが、忘れていました。

中野の貸しアトリエで「乙女の像」を制作中の光太郎を、『東奥日報』東京支局寺山記者が訪れて取った談話の一節です。確認出来ている限り、「乙女の像」に関し、光太郎自身が「乙女」という語を使った最初の記録です。ただ、像というより、十和田湖本体に「乙女」をイメージしていたという感じではありますが。

また、「乙女の像」という語は、かつては「仁王像」「騎馬像」のように普通名詞として使われていた語でもあります。

11月16日(月)、岳温泉さんをあとに、愛車を国道4号に進入。目指すは道の駅「安達」智恵子の里さん。今回の宿泊が、いろいろ物議を醸しているGoToトラベルの対象で、地域共通クーポンなるものを渡されまして、その消費のためです。

ちなみにGoToトラベル、別に最初から利用しようと思っていたわけではなく、ネットで宿泊の予約をしたら勝手に付いていた、という感じです。当方のような個人事業主的な人々は、こうした地方出張の際にもGoToトラベルを利用しているでしょうし、どうも政府の言う「観光に貢献」、コロナ感染拡大を恨めしく思う人々の「このご時世に呑気に観光かい」的な論調、どちらも的外れのように感じています。

閑話休題、道の駅に到着。
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玉嶋屋さんの羊羹、浪江焼きそばなどを買い込み、さらにこんなものも。
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7月のブログでご紹介した「アマビエ夏マスク」。まだ完売していませんでした。「智恵子抄」からヒントを得た「レモン色」(笑)。マスクで腰の負担が軽減されるのか? と疑問に思いましたが、特殊な水着の素材をマスクに転用したそうで、そのためこんなパッケージになっているようです。

しかし、こういうものの常で、もったいなくて使えません(笑)。だったら保存用と使う分と二つ買え、と突っ込まれそうですが、特殊素材の品で、一つ1,000円以上ですので……。

奥の智恵子コーナー、健在でした。
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その後、智恵子生家・智恵子記念館へ。岳温泉さんから下山する途中は霙(みぞれ)まじりでしたが、このころには快晴。「ほんとの空」となっていました。
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まずは生家を拝見。
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約一年ぶりですが、何回目かはもう忘れました(笑)。50回は来ていないとは思いますが、20回やそこらではきかないような気がします。

それだけ来ていながら、これまで気がついていなかったことがありました。なんと、展示されている箪笥に木彫の蝉があしらわれているというのです。前日、当方が講師を務めさせていただいた智恵子講座2020をご聴講くださった、都内からお越しのかたりと」のお二人(津軽三味線の小池純一郎氏、奥様で朗読家の北原久仁香さん)からお聞きしました。木彫の蝉といえば、光太郎の代表作の一つ。ただ、「光太郎のものではなさそうでした」というお話でした。それでも自分の眼で確認しないと気が済みません。二本松にも光太郎の木彫の蝉がたしかにあったという、かなり信頼出来る情報を以前に得ていましたし。

たまたま市役所の方がいらっしゃり、当方の身分を明かして座敷に上がらせていただきました。本来、この日は月曜日だったので、特別公開の日ではなかったのですが、他にお客さんもいませんでしたし(のちに当方と入れ違いに大型バスのご一行が見えましたが)、ラッキーでした。
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しかし、やはり光太郎の蝉とはだいぶ趣が異なっていました。残念。ただ、こうした意匠はあまり一般的ではないような気もします。それにしても、これまで数十回来ていながらまったく気付かなかったというのも汗顔の至りです。

その後、裏手の智恵子記念館へ。
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こちらでは、智恵子の紙絵の、複製でない実物10点が公開中です。泊めていただいた「あだたらの宿扇や」さんとこちらと、2日続けて別々の場所で紙絵の真作を拝見するとは、なんとも贅沢でした(笑)。

また、「第24回智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」の入賞作品も展示されていました。
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こうした活動が、子供たちが光太郎智恵子の世界に興味を持つきっかけになればと願ってやみません。

生家、記念館を後に、すぐそばの戸田屋商店さんへ。
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こちらの女将さんは、彼の地で、レモン忌をはじめとする智恵子の顕彰活動をなさっている「智恵子の里レモン会」のメンバーです。

以前と比べ、だいぶ店内がスッキリしていました。逆に、書籍のコーナーなどは充実。
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すると、売り物ではなく、展示しているものの中に、古い新聞の切り抜きの束が。

「これ、何ですか?」と言いつつ、手にとって見せていただくと、連載小説ではなく、連載評伝といった塩梅の、「真説 智恵子と光太郎」。
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100回分近くあったでしょうか。書かれたのは安斎宗司という方で、女将さんのお話では、二本松の人で、もう亡くなっているとのこと。帰ってから調べましたら、郷土史家的な方で、戊辰戦争などについてのご著書も出版されていました。

ざっと読ませていただきましたが、智恵子の生涯や、没後の地元での顕彰活動などについて書かれていました。単行本化などが為されず、当方、全く存じませんでした。おそらく福島の地方紙か、全国紙の福島版かに連載されたようです。

いつのもの、というのが女将さんもよく憶えていないそうでしたが、各回の裏面を見ますと、「南海の江夏」とか、「映画『日本の首領(ドン)』」などといった記述があり、これも帰ってから調べてみましたところ、該当するのは昭和52年(1977)でした。

中には、当方も見た記憶がないような写真も。
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もしかすると、エピソード的にも未知の内容が含まれているかも知れませんし、ぜひ単行本化してほしいものですが、難しいでしょうか。

その後、二本松産のリンゴを購入。道の駅には青森産のものしか置いておらず、これもラッキーでした。
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そして、帰途につきました。実り多い1泊2日でした。

以上、二本松レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

荷葉氏とはもと何等のよしみもなく一面識もなき我ながら芸術の為めとあらばさほどの欠礼はゆるさるべしと思へば一の紹介も有たずして甚だ唐突の書状は差し出したるなり。

明治36年(1903)3月30日の日記より 光太郎21歳

「荷葉氏」は山岸荷葉(かよう)。光太郎より7歳年長の小説家です。演劇評もしていたため、歌舞伎界に顔が利くというので、昨日ご紹介した尾上菊五郎像を作るため、写真を借りる伝手(つて)にしようとしたわけです。

何等のよしみもなく一面識もなき我ながら芸術の為めとあらばさほどの欠礼はゆるさるべし」当方も「あるある」です。これも昨日の記事に書いたように、「光太郎の写真もあるはずですので探して下さい」的な(笑)。

11月15日(日)、二本松市街での市民講座講師を終え、会場近くの二本松霞ヶ城を散策した後、この日の宿泊先、安達太良山中腹の岳温泉さんに愛車を向けました。昨年の安達太良山山開きの際以来です。
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今回は「あだたらの宿扇や」さんに泊めていただきました。こちらは初めてでした。
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老舗らしく、売店では戦前の絵葉書の復刻版が売られていました。
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こちらを選んだのは、光太郎の書が飾られているという情報を得たためでした。チェックインの際、フロントカウンターのすぐ向かいに、問題の書があるのに気付き、手続きを済ませ、部屋に荷物を置くとすぐにまたフロントへ。
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けつきよく谷川の一本橋もブゥルヴァルもおんなじ事だ」と読みます。漢字と仮名の使い方は異なりますが、昭和22年(1947)11月2日に作られ、翌年元日発行の雑誌『群像』に発表された詩、「脱卻の歌」の一節です。「卻」は「却」の正字です。

    脱卻の歌

 廓然無聖と達磨はいつた。001
 まことに爽やかな精神の脱卻だが、
 別の世界でこの脱卻をおれも遂げる。
 一切を脱卻すれば無価値にいたる。
 めぐりめぐつて現世がそのまま
 無価値の価値に立ちかへり、
 四次元世界がそこにある。
 絶対不可避の崖っぷちを
 おれは平気で前進する。
 人間の足が乗る以上、
 けつきよく谷川のいっぽん橋も
 ブウルバアルも同じことだ。
 よはひ耳順を越えてから、
 おれはやうやく風に御せる。
 六十五年の生涯に
 絶えずかぶさってゐたあのものから
 たうとうおれは脱卻した。
 どんな思念に食ひ入るときでも
 無意識中に潜在してゐた
 あの聖なるもののリビドが落ちた。
 はじめて一人は一人となり、002
 天を仰げば天はひろく、
 地のあるところ唯ユマニテのカオスが深い。
 見なほすばかり事物は新鮮、
 なんでもかでも珍奇の泉。
 廓然無聖は達磨の事だが、
 ともかくおれは昨日生まれたもののやうだ。
 白髪の生えた赤んぼが
 岩手の奥の山の小屋で、
 甚だ幼稚な単純な
 しかも洗いざらひな身上で、
 胸のふくらむ不思議な思に
 脱卻の詩を書いてゐる。

自らの半生を20篇の詩にまとめ、戦時中の翼賛活動への反省を綴った連作詩「暗愚小伝」を書き上げ、「あの聖なるもののリビドが落ちた。」と、盲目的な天皇崇拝から逃れることができた、と謳っています。

ブウルヴアル」は仏語「boulevard」。街路樹や側道などを備えた広い道路で、通常は片側二車線以上の広さがあって、自転車や歩行者のための側道などを伴い、街路樹など景観にも配慮がされるものです。元々は19世紀パリで構築されたシャンゼリゼ通りを代表例とするスタイルです。

それが「谷川のいっぽん橋」と同じというのは、どういうことでしょうか。ヒントは昭和28年(1953)2月に行われた中山文化研究所 婦人文化講座の講演筆録「炉辺雑感」の、次の一節にありました。

山に渓川がある。一本橋がかゝつている。僕等は平気でわたるが、東京から来る人はわたれない。あぶないと思うからわたれない。危ないと思うと落ちる。一本きりの道――これより他ないと思うとなんでもない。これより他ないと思わないと落ちる。つまり精神が遅緩していると落ちる。僕等は一本橋にいつたつて、それが道だと思うから、皇居前広場を歩くのと変らない。おつこちると大変だと思うから落つこちる。吸込まれてしまう。人間の精神が渓川の深さに幻惑されてしまう。他の事でもあんなことが沢山あると思う。

こちらでは「皇居前広場」となっていますが、同じことですね。要するに、ここしかない、という道を歩いていれば落ちることはない、と。

この書、昨年、他に光太郎の生写真などとともに、ネットオークションに出品されたもの(当方も入札しましたが、あっさり負けました(笑))です。そこで、女将さんに「他に光太郎の写真などが一括であるはずなんですが」と尋ねたところ、その時はわからない、という返答でしたが、夕食、さらに入浴後、部屋に内線電話があり、「写真がありました!」。またフロントに飛んでいきました(笑)。

そこで見せていただいたのがこちら。
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最後の写真、上記「脱卻の歌」の右に載せた写真と同じですね。上記は『高村光太郎全集』第10巻の口絵、それから昔、岩手で売られていたテレホンカードです。

この写真、いつ、誰が撮影したものかよくわからなかったのですが(もしかすると、当会顧問であらせられた故・北川太一先生はご存じだったのかも知れません)、これで判明しました。さらに言うならネガまで残っていましたので。

というのは、書や写真と共にこんなものも一括で売りに出ていまして……。
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「さいとうじゆうじゆ」とありますが、齋藤充司氏。大正11年(1923)、岩手生まれの方です。兵役を経て昭和21年(1947)から同57年(1982)まで小学校教員を務め、教員仲間(写真の女性達も?)らとたびたび旧太田村の光太郎の山小屋を訪問しました。また、日本美術家連盟会員、岩手県芸術祭洋画部門理事長、新象作家協会会員、北上詩の会会員でもありました。ご存命なのか、そこは不明です。

昭和25年(1950)3月13日、光太郎は花巻の南、黒沢尻(現・北上市)の文化ホールで講演を行っています。その筆録は『高村光太郎全集』には漏れていたのですが、平成16年(2004)、北上市教育委員会発行の『きたかみ文学散歩』という書籍に掲載されており、当方ライフワークの「光太郎遺珠」に転載させていただきました。その筆録を行ったのが齋藤氏であると、『きたかみ文学散歩』に記述がありました。

上記は筆録をまとめるのに使ったメモ。おそらく講演を聴きながら、齋藤氏がメモを取ったのだと思われます。内容的には講演筆録の内容とほぼ一致していました。ただ、筆録にない事柄も。
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写真に関し、『高村光太郎全集』に、齋藤氏宛の書簡が2通掲載されています。

1通目は昭和25年(1950)6月5日付け。

わざわざ写真を送つて下さつて感謝します。一九五〇年のいい記念になります、 並んでゐる女性のうつくしい笑ひを愉快に存じます、 山はけふ雨、ゐろりのそばで静かに蛙の声をきいています、 畑の手入が中々いそがしく、この雨がやむと又草とりをせねばなりません、トマトがだんだん育つてきました、

2通目が同年9月1日付け。

写真感謝、いい記念になります、中々よくとれるのでおもしろいです、小生のナタマメ烟管は滑稽でした、女性の円陣は壮観です、御礼まで、

このうち、9月1日付けにある「写真」が、上掲画像の写真と思われます。「烟管」はキセル。「ナタマメ烟管」はナタマメ(鉈豆)の形をしたキセルだそうです。「女性の円陣」の写真もありますね。

1通目の「写真」は、郵便物等の授受を記録したノート(通信事項)に、「齋藤充司といふ人よりテカミ(黒沢尻スナツプ写真入)」とあり、上掲写真はすべて花巻郊外旧太田村の光太郎山小屋でのものなので、一致しません。

残念ながら、昭和25年(1950)の光太郎日記は失われているので、これ以上の詳細が分かりません。書は講演をした際か、9月1日付け書簡にある写真を撮った時か、あるいはさらに後(昭和26年=1956の日記に、齋藤氏が山小屋に来た記述が2回あります)かもしれません。

いずれにしても、貴重な物が残っていて、感動いたしました。

ここで時計の針を戻しますが、飾られていた書を最初に拝見した時、ふと左の額に眼を移すと……。
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「どひゃー!」という感じでした。智恵子の紙絵の真作です。

これも、以前、ネットオークションに出ていたもので、上記の書や写真とは別に入手されていたのか、というわけでした。

他に、同じ展示コーナーには、二本松出身で、智恵子をモチーフにした絵も複数描かれている故・大山忠作画伯(女優・一色采子さんのお父さま)の絵、陶芸界で唯一「高村光太郎賞」を受賞した加守田章二や、光太郎と交流のあった濱田庄司らの焼き物などが展示されていました。
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今回お会い出来ませんでしたが、オーナーの方が美術愛好家だそうで、皆さんにいいものを見て欲しい、という意気込みだそうです。そういうわけで、二本松といえば光太郎智恵子ゆかりの地でもあり、光太郎の書や智恵子の紙絵も買われたのでしょう。死蔵にならず、いい方に買っていただいてよかったと思います。

ちなみに光太郎の著書も飾られていました。サイン入りなどではありませんでしたが。
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この夜は、幸せな気分で床に就きました。

翌朝、朝食前に朝風呂。昨夜は入浴時にスマホを置いてきたので、この時にパチリ。
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大浴場は、男湯が「光太郎の湯」、女湯は「智恵子の湯」だそうで。

その後、湯冷ましを兼ねて散歩。この朝はあいにくの雨でしたが、朝日が昇り、虹が出ていました。
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宿の近くの温泉神社さん。
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菊手水(きくちょうず)」だそうで。

こちらはかつて源泉から湯を引くのに使っていた樋。
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いい感じですね。

この後、朝食を頂き、チェックアウトして下山。途中はなんと霙(みぞれ)まじりでした。旧安達町の「道の駅安達智恵子の里」、さらに智恵子生家/智恵子記念館へ。以下、明日。

【折々のことば・光太郎】

尾上菊五郎の死、惜ミてもあまりあることなるかな。しかも我に於いて殊にしか思はるゝことのあるは、予てより、われ一生の事業としてわが認めて真に芸術家たりとなす古今東西の名士の像を作らんと心に期せしなるがこの梅幸子のごときわがその数の内の一人とて生存中なるべくは写しおかんものと思ひをりしを。

明治36年(1903)3月26日の日記より 光太郎21歳

「尾上菊五郎」は5代目。「梅幸」は菊五郎の養子です。

昨日から1泊2日で、智恵子の故郷・福島は二本松に行っておりまして、さきほど千葉の事務所兼自宅に帰投いたしました。実りの多い2日間でした。3回に分けてレポートいたします。

メインの目的は、二本松市で行われた「智恵子講座2020」。第2回の講師を拝命したもので。今年は新型コロナのためにこの手の仕事が中止や延期のオンパレードで、9月の花巻に続き、これでようやく2回目でした。

いつもですと、二本松は日帰りということが多いのですが、今回は現地調査を兼ねまして、1泊。本当は前日から宿泊したかったのですが、土曜日ということもあったのでしょうか、目的の宿がとれませんで、講座修了後に宿泊することとし、夜明け前に千葉を出ました。

この日は快晴でした。途中の安達太良SAからみた安達太良山。「ほんとの空」をバックに、さらに紅葉も彩りを添え、実に綺麗でした。
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午前9時過ぎ、講座会場の福島県男女共生センターに到着。
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二本松霞ヶ城のすぐそばで、窓からお城と安達太良山がよく見えます。SAでは気付きませんでしたが、安達太良山頂はすでに冠雪していました。
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地元の方々を中心に、20名弱の方が聴講して下さいました。内容的には光太郎の歩みを2時間程でご紹介。
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終了後、主催の「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷代表ご夫妻、それから、ご聴講下さった、都内からお越しの「かたりと」のお二人(津軽三味線の小池純一郎氏、奥様で朗読家の北原久仁香さん)と、霞ヶ城へ。
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例年ですと菊人形の時期ですが、今年はやはりコロナ禍のため、規模を縮小して入場無料の「菊花展」という形で行われていました。
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紅葉も実にいい感じ。
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元は智恵子生家にあったという藤による藤棚。久しぶりに拝見しました。
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智恵子抄詩碑。こちらも数年ぶりに拝見。
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ここまでは、以前にも何度か登ってきたことがあったのですが、今回初めて、さらに先の天守台まで足を伸ばしました。
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地元では初日の出を拝むスポットとしても人気だそうで、なるほど、眺望が素晴らしい場所です。
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見上げれば、「ほんとの空」。
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この後、宿泊する安達太良山中腹の岳温泉さんに。以下、明日。

【折々のことば・光太郎】

疑問、疑問、是れ人世の声なるか。人生れて心あり、疑無きを得ざるなり。已に疑つて此を解かんとす。疑は疑を呼び、惑はまた更に惑を生む。あゝ人生の疑問いつの世か果して之を解き尽すべき。

明治36年(1903)3月21日の日記より 光太郎21歳

このコーナー、当分の間、日記から言葉を拾います。

現存が確認出来ている光太郎日記の最古のもの。「彫塑雑記」と題され、最初のうちは単なる日記の枠を超えた、随想的な記述が目立ちます。「疑問、疑問、是れ人世の声なるか。」まさに「若きウェルテル」ならぬ「若き光太郎」の魂の叫びです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、青森十和田湖からイベント情報です

昨冬まで「十和田湖冬物語」として開催されていたイベントが、新型コロナの影響もあるのでしょう、形を変えて実施されるようです。

カミのすむ山 十和田湖 光の冬物語 2020-2021 in国立公園十和田湖 十和田神社 by FeStA LuCe

期 日 : 2020年11月18日(水)~2021年1月31日(日)
会 場 : 十和田神社 青森県十和田市大字奥瀬十和田湖畔休屋486
時 間 : 17:00~21:00
料 金 : 前売チケット おとな1,200円(税込)当日チケット おとな1,600円(税込)
      小学生以下無料

イルミネーションと光の十和田神社 あたらしい「冬物語」がはじまる!

舞台は国立公園十和田湖十和田神社。日が暮れる頃より、大きな樹木に囲まれた鳥居をくぐり、約1kmの道のりを歩いていきます。修験者が修行や祈願をしていた「開運の小径」の”6”になぞらえて、6つの光の演出を中心に、光で道を作り人々をいざなう。荒れた湖が平和で穏やかになり、人々が祈願に訪れる場所になるまでの様子をイルミネーション、3D、レーザー、ライトアップ、プロジェクションマッピング、など森に溶け込んだ光と音楽の演出で湖畔を帰る道のりまでを創ります。
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これまでは、夏期には駐車場として使われている広大なエリアを特設会場に、自衛隊の皆さんのご協力で巨大雪像が作られ、その前のステージでコンサートやプロジェクションマッピングが行われたり、花火の打ち上げがあったり、会場内にはプレハブやかまくらのブースが出たりというイベントでした。当方、平成26年(2014)平成30年(2018)にお邪魔しました。

今回は特設会場ではなく、通常の街並みが会場となるようで、「十和田神社周辺全長約1kmの道のりを、諸説語り継がれる十和田湖伝説をもとに、イルミネーションやプロジェクションマッピングを使い、神秘的な光で演出」だそうです。

また、これまでは「乙女の像」のライトアップが為されていたのですが、今回はどうなるのか、問い合わせてみます。

追記 例年通り、「乙女の像」のライトアップも為されるそうです!

夏の「湖水まつり」も、昨年までは花火大会的なイベントだったのが、今年からランタン打ち上げをメインに様変わり。冬も大きくリニューアルということで、どんな感じになるのかな、というところです。

報道等がなされましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

天性的に、生涯、童子の性情を失ひ切らぬ者がある。かゝる種類の詩人こそ、天成の童謡詩人で、童謡とは本来斯の如き詩人にのみ許された詩の一ジヤンルであつて、斯の如き詩人以外の詩人の筆のすさびに成る、童子の発想法を模倣した片言まじりの詩の如きは、極言すれば童謡の冒涜に過ぎない。


散文「藻汐帖所感」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

最近発見した童謡に関する評論です。子供向けだからといって馬鹿にするな、と、手厳しい論調になっています。くわしくはこちら

「真に実力があり、研鑚を怠らない全国の篤学の人々のため」と標榜する全国公募の「東京書作展」。今年の選考結果が発表され、最優秀に当たる「内閣総理大臣賞・東京書作展大賞」をはじめ、光太郎詩に題を採った作品が3点、上位入賞を果たしました。

上位10点中、漢文系を書かれたものが7点、その他が3点。その3点がすべて光太郎詩ということで、非常に驚いております。

まず、「内閣総理大臣賞・東京書作展大賞」。中村若水さんという方で、光太郎詩「冬」(昭和15年=1940)の全文。
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当方、書としての評は出来ませんので、上記の審査員評をご覧下さい。

詩は以下の通り。001


    冬

 新年が冬来るのはいい。
 時間の切りかへは縦に空間を裂き
 切面(せつめん)は硬金属のやうにぴかぴか冷い。
 精神にたまる襤褸(らんる)をもう一度かき集め、
 一切をアルカリ性の昨日に投げこむ。
 わたしは又無一物の目あたらしさと
 すべての初一歩(しよいつぽ)の放つ芳(かん)ばしさとに囲まれ、
 雪と霙と氷と霜と、
 かかる極寒の一族に滅菌され、
 ねがはくは新しい世代といふに値する
 清潔な風を天から吸はう。
 最も低きに居て高きを見よう。
 最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。
 ああしんしんと寒い空に新年は来るといふ。

最も低きに居て高きを見よう。/最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。」あたりは、同じ時期に書かれた詩「最低にして最高の道」にも響き合います。昭和15年(1940)ということで、既に多くの翼賛詩が発表されていた時期にあたり、それらとも通じるところがありますが、そうした点を抜きにすれば、「冬の詩人」の面目躍如、力強い詩ですね。

この「冬」、一昨年の第40回東京書作展でも、第3位に当たる「東京都知事賞」に選ばれています。中原麗祥さんという方の作でした。

続いて「東京新聞賞」。7点中の2点が光太郎詩。
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左が田川繍羽さんという方の「何をまだ指してゐるのだ」(昭和3年=1928)。大正元年(1912)に智恵子と共に過ごした千葉銚子犬吠埼で出会った「馬鹿の太郎」こと阿部清助を思い出して書かれた詩です。

右は長谷部華京さんという方で、「上州川古「さくさん」風景」(昭和4年=1929)。群馬県みなかみ市の川古温泉を訪れてものにした詩で、山奥にまで資本主義が浸蝕していた現状を憂えるものです。

お二方とも全文を書いて下さっています。

この他にも、委嘱作品で、昨年の内閣総理大臣賞を受賞された菊地雪渓氏が、光太郎詩「案内」(昭和25年=1950)を出されるそうですし、おそらく他の委嘱作品や入選作の中にも光太郎詩を取り上げて下さった方がいらっしゃるように思われます。

展覧会自体は今月末から。詳細は以下の通りです

第42回 東京書作展003

期 日 : 2020年11月26日(木)~12月2日(水)
会 場 : 東京都美術館 東京都台東区上野公園8-36
時 間 : 午前9時30分~午後5時30分
      最終日(12月2日)は午後2時30分まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 500円
主 催 : 東京書作展 東京新聞
後 援 : 文化庁 東京都

コロナ禍には十分にお気をつけつつ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

あらゆる人の手に、手そのものに既に不可抗の誘惑があるのである。


散文「手」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

つい最近発見した随筆「手」
から。

稀代の悪筆である当方にしてみれば、上記の書家の皆さんの「手」は、どういう「手」なのか、非常に興味ひかれるところです。

新刊です

分離派建築会 日本のモダニズム建築誕生

2020年10月20日 田路貴浩編 京都大学学術出版会 定価4,400円+税

内容紹介
我々は起つ。/過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために——東京帝国大学工学部建築学科を卒業した石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨己、森田慶一、山田守、矢田茂の6人は、「分離派建築会」を結成、様式に目をむけてきた建築界に抗って、彼らは建築における「芸術」を目指した。自由な芸術を求めた彼らがふたたび様式に美を見出すまでの過程を、32の論考であらゆる角度から描き出す。

目次
はじめに [田路貴浩]
I Secessionから分離派建築会へ
 分離派の誕生——ミュンヘン、ベルリンそしてウィーン[池田祐子]
 オットー・ヴァーグナーの時代の建築芸術——被覆とラウム、そして、生活へ[河田智成]
 分離派と日本 分光と鏡像——雑誌『青鞜』創刊号表紙絵をきっかけに[水沢 勉]
 はじめに
 1 『青鞜』創刊号表紙絵の基本データ
 2 イメージ・ソース
 3 もう一つの「湖水の女」の表紙絵
 おわりに
 青島とドイツ表現主義[長谷川 章]
II 結成、または建築「創作」の誕生
 分離派建築会と建築「創作」の誕生[田路貴浩]
 一九一〇年前後の美術における「創作」意識[南明日香]
 分離派建築会の「建築・芸術の思想」とその思想史的背景
——和辻哲郎との照応関係から[飯嶋裕治]
 分離派への道程——世代間の制作理念からの再考─足立裕司
III 〈構造〉対〈意匠〉?
 日本における初期鉄筋コンクリート建築の諸問題[堀 勇良]
 分離派登場の背景としての東京帝国大学[加藤耕一]
 東京帝国大学における建築教育の再読——学生時代における建築受容の様相[角田真弓]
 「構造」と「意匠」および建築家の職能の分離[宮谷慶一]
IV 大衆消費社会のなかでの「創作」
 ゼツェッシオン(分離派)の導入[河東義之]
 博覧会における建築様式——分離派建築会の前後[天内大樹]
 「文化住宅」にみる住宅デザインの多様性の意味[内田青蔵]
 大大阪モダニズムと分離派——街に浸透する美意識[橋爪節也]
V 建築における「田園的なもの」
 「田園」をめぐる思想の見取り図─杉山真魚
 瀧澤眞弓と中世主義——《日本農民美術研究所》の設計を通して─菊地 潤
 堀口捨己の田園へのまなざし─田路貴浩
 堀口捨己と民藝——常滑陶芸研究所と民藝館を糸口に─鞍田 崇
VI 彫刻へのまなざし
 大正〜昭和前期の彫刻家にとっての建築[田中修二]
 「リズム」から構想された建築造形[天内大樹]
 山田守の創作法——東京中央電信局および聖橋の放物線の出現とその意味[大宮司勝弘]
 石本喜久治の渡欧と創作——あるいは二〇世紀芸術と建築の接近[菊地 潤]
VII 「構成」への転回
 創作活動の展開[蔵田周忠]
 分離派建築会から型而工房へ[岡山理香]
 創造・構成・実践——山口文象と創宇社建築会の意識について[佐藤美弥]
 「新しき社会技術」の獲得へ向けて
——山口文象の渡独とその背景をめぐって[田所辰之助]
 表現から構成へ——川喜田煉七郎におけるリアリティの行方[梅宮弘光]
VIII 散開、そして「様式」再考
 古典建築の探究から様式の超克へ——森田慶一のウィトルウィウス論をとおして[市川秀和]
 オットー・ワグナー十年祭と岸田日出刀の様式再考
——「歴史的構造派」という視座をめぐって [勝原基貴]
 堀口捨己による様式への問いと茶室への遡行 [近藤康子]
 自由無礙なる様式の発見——板垣鷹穂・堀口捨己・西川一草亭 [本橋 仁]
おわりに
 分離派建築会以後——「創作主体」の行方[田所辰之助]
あとがき
索引
001
「分離派」は、19世紀末、ミュンヘン、ウィーン、ベルリンをそれぞれ拠点として起こった芸術運動です。フランスのアール・ヌーボーやアンデパンダンの影響を受け、保守的なミュンヘン芸術家組合からの「分離」を図った芸術家たちがまずミュンヘンでその動きを興し、それがウィーン、ベルリンに波及しました。最も有名なのがウィーン分離派。かのグスタフ・クリムトや、エゴン・シーレがその中心でした。

分野としては、絵画、工芸、建築などと多岐に亘ります。ジャポニスムの影響も夙に指摘されていますが、逆に日本に与えた影響はあまり大きくなかったというのが定説のようです。

ただ、建築の方面では、大正9年(1920)、東京帝国大学(現・東京大学)工学部建築学科卒の建築家たちが、ウィーン分離派の動向に感銘を受けて建築の芸術性を標榜し、「分離派建築会」を結成しました。メンバーは堀口以外に石本喜久治、瀧澤眞弓、森田慶一、山田守、矢田茂ら。

本書はその「分離派建築会」についてのもので、現在、パナソニック汐留美術館さんで開催中の「分離派建築会100年展建築は芸術か?」とリンクしている部分もあるのかな、という感じです。

その分離派建築会の話に入る前段で、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏がウィーン分離派と日本との数少ない関連の例として、智恵子による雑誌『青鞜』表紙絵について玉稿を寄せられています。題して「分離派と日本 分光と鏡像——雑誌『青鞜』創刊号表紙絵をきっかけに」。氏と連絡を取ったところ、贈って下さいまして、恐縮の至りです。

平成29年(2017)に水沢氏、智恵子による女神像的な『青鞜』創刊号の表紙絵(中央下画像)、ウィーン分離派のヨーゼフ・エンゲルハルトという画家の寄木細工作品(左下画像)を模写したものであることを突き止められました。詳しくはこちら
009 008 007
その件を中心に、さらに同じ『青鞜』で同一の図題ながら、若干の変更が見られるバージョン(右上画像・『青鞜』第2巻第8号 大正元年=1912)についても言及されています。

また、エンゲルハルトの寄木細工は、元々、セントルイス万博(明治37年=1904)に出品されたものですが、昭和18年(1943)に書かれたエンゲルハルトの回想文には、「いまニューヨークのある邸宅に飾られています」とのこと。未だ現存しているとすれば、是非見てみたいものです。

010その他、相模女子大学教授・南明日香氏の「一九一〇年前後の美術における「創作」意識」では、日本に於ける文芸・美術雑誌が分離派建築会に与えた影響といった観点から『早稲田文学』、『方寸』、『白樺』などに注目、それらに寄稿していた光太郎に触れられています。

これも寡聞にして存じませんで、汗顔の至りでしたが、『早稲田文学』の明治43年(1910)8月号に、神田淡路町に光太郎が開いた画廊・琅玕洞の内部を描いた正宗得三郎の挿画が載っていた由。また、左上の人物は光太郎と思われます。

ちなみに南氏、従来不明だった光太郎のさまざまな翻訳の原典を、多数突き止められている方です。

さて、『分離派建築会 日本のモダニズム建築誕生』。なかなか高価な書籍ですが、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

私の行く道は寂しいけれども、清らかで、恍惚と栄光とに満ちてゐます。


散文「手紙」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

今年発見した、ブロンズ彫刻「手」についての新発見の文章から。

大正8年(1919)といえば、智恵子もまだ健康を害しておらず、光太郎自身、彫刻家として脂ののった時期。そこで「恍惚と栄光とに満ちてゐます」。ただ、智恵子と二人、俗世間とは極力交渉を断とうとしていた時期でもあり、「寂しいけれども」なのでしょう。

大正元年(1912)の『第一回ヒユウザン会展覧会目録』に発表された詩「さびしきみち」を彷彿とさせられます。

  さびしきみち

かぎりなくさびしけれども
われは
すぎこしみちをすてて011
まことにこよなきちからのみちをすてて
いまだしらざるつちをふみ
かなしくもすすむなり

―― そはわがこころのおきてにして
またわがこころのよろこびのいづみなれば

わがめにみゆるものみなくしくして
わがてにふるるものみなたへがたくいたし
されどきのふはあぢきなくもすがたをかくし
かつてありしわれはいつしかにきえさりたり
くしくしてあやしけれど
またいたくしてなやましけれども
わがこころにうつるもの
いまはこのほかになければ
これこそはわがあたらしきちからならめ
かぎりなくさびしけれども
われはただひたすらにこれをおもふ

―― そはわがこころのさけびにして
またわがこころのなぐさめのいづみなれば

みしらぬわれのかなしく
あたらしきみちはしろみわたれり
さびしきはひとのよのことにして
かなしきはたましひのふるさと
こころよわがこころよ
ものおぢするわがこころよ
おのれのすがたこそずいゐちなれ
さびしさにわうごんのひびきをきき
かなしさにあまきもつやくのにほひをあぢはへかし

―― そはわがこころのちちははにして
またわがこころのちからのいづみなれば

全編かな書き。これは一字一句を自らの内部に刻みつけるように書いたから、とする説が有力です。

福島がらみで2件。

まずはイベント情報、当会の祖・草野心平を偲ぶ集いです。心平が亡くなったのは昭和63年(1988)の今日ですが、イベントは日曜日開催ということです。

没後33回忌 心平忌/第26回 心平を語る会

期 日 : 2020年11月15日(日)
会 場 : 草野心平生家(いわき市小川町上小川字植ノ内6-1)・常慶寺
時 間 : 13時00分~15時00分
料 金 : 無料

⑴13時〜 墓前祭  読経後、常慶寺の心平墓前にて香華、焼香
⑵14時10分〜15時 心平詩の朗読と卓話

①朗読 緑川明日香氏   いわき市生まれ。幼少の頃を小川町で過ごす。高校時代に「放送劇」と出会い、声による表現に魅せられる。現在、地元いわき市を拠点に、朗読、ナレーションなど、声による表現活動を行っている。朗読講座講師。2018年、2019年、草野心平記念文学館にてサマーナイト朗読会出演。同年11月いわきゲリゲ祭りオープニングにて心平氏の詩を朗読。

②卓話 齋藤貢氏  いわき市在住。詩人、H氏賞選考委員、歴程同人。1954年福島県生まれ。茨城大学卒。1979年に教員となり、福島県立小高商業高等学校、福島県立郡山東高等学校の校長を歴任。詩集『奇妙な容器』(1987年 詩学社)で第40回福島県文学賞。詩集『夕焼け売り』(2018年 思潮社)で第37回現代詩人賞。他の詩集には『竜宮岬』(2010年 思潮社)『汝は、塵なれば』(2013年 思潮社)など。詩誌「歴程」「白亜紀」「孔雀船」「雛罌粟(こくりこ)」同人。現在はいわき短期大学非常勤講師、福島県現代詩人会理事長、福島県文学賞審査委員。
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詩の朗読が緑川明日香さん。以前から心平詩などの朗読に取り組まれていましたし、平成30年(2018)に二本松で開催された高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会にもご出場、優秀賞を受賞なさった方です。

「卓話」は「歴程」同人の齋藤貢氏。ちなみに平成28年(2016)には当方が務めさせていただきました。

今年もお伺いしたいところですがブッキング。二本松で開催される「智恵子講座2020」の講師を拝命しており、同日でした。残念です。

もう1件、テレビ放映情報。再放送ですがよく出来たドラマです

<BSフジサスペンス劇場>『浅見光彦シリーズ22 「首の女」殺人事件』

BSフジ・181 2020年11月13日(金) 12時00分~13時58分

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は? 宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは? 浅見光彦が事件の真相にせまる !! 

原作 内田康夫
出演 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか
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初回放映は平成18年(2006)、繰り返し再放送されていますが、昨年9月以来のようです。原作は故・内田康夫氏

「ほんとの空」のある安達太良山麓・岳温泉が事件の現場の一つという設定になっていますし、ほど近い智恵子生家や岩手花巻の旧高村記念館でもロケが敢行されました。
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ご覧になったことがない方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】008

美もつともつよし


短句揮毫 昭和20年(1945) 光太郎63歳

本郷区駒込林町のアトリエ兼自宅が空襲で焼失後、宮沢賢治実家の招きで岩手花巻に疎開する前日、近所に住んでいた画家・池田永治の求めに応じ、池田のチョッキの背に揮毫した文言です。

池田についてはこちら

花巻高村光太郎記念館さんで、企画展「高村光太郎とホームスパン-山居の夢-」が開催されていますが、その関連で2件。

まず、11月5日(木)付けで地元紙『岩手日日』さんが報じて下さいました

光太郎の思い触れ 23日まで企画展

 高村光太郎記念館の企画展「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」は、花巻市太田の同館で開かれている。2016年に発見された、光太郎と妻の智恵子にとって思い入れの深いホームスパンの毛布をメインに展示。光太郎とホームスパンを巡る物語を伝えている。23日まで。
 光太郎は1945年、花巻に疎開。終戦後に暮らした現在の同市太田山口(旧太田村山口)を「手仕事で豊かにしたい」との思いから、同村をホームスパンの産地にしたいと考えていたという。
 智恵子は結婚後、芸術的センスを磨くとともに、生活を支えるために機織りや草木染めに取り組んでいた。
 今展では、智恵子が昭和初期ごろに東京で開催されたイギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952年)の作品展を観覧した際に気に入り、光太郎にねだって購入してもらった毛布を公開。智恵子が愛用し、妻亡き後は光太郎が使用していた。
 毛布は1㍍64㌢×1㍍76㌢。茶色の地に、植物で染めた青や赤、黄色の横しまがデザインされており、浮き織りや平織りなどを組み合わせている。
 会場では、本県のホームスパンの活動も紹介しているほか、同市東和町のホームスパン作家、山本実紀さんが毛布と同じように織った布や製作道具なども並べている。
 佐々木正晴館長は「光太郎のこの地への思いに触れていただければ幸いだ」と来館を呼び掛ける。
 入館料は一般350円、高校・大学生250円、小学生150円。開館時間は午前8時30分~午後4時30分。問い合わせは同館=0198(28)3012=へ。

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もう1件、光太郎とは直接の関連はありませんが、やはりホームスパンに関し、お隣北上市で開催される予定のイベントを

『homespunと手しごと』 vol.27

期 日 : 2020年11月20日(金)~11月29日(日)
会 場 : 展勝地レストハウス 岩手県北上市立花14地割21−1
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 11月24日(火)
料 金 : 無料

毎回大好評の『homespunと手しごと』 の第27弾を開催いたします。

1945(昭和20)年5月、花巻へ疎開した光太郎は、戦後7年間を稗貫郡太田村山口(現・花巻市太田山口)で過ごしました。この頃光太郎は知人への手紙にこの地で「日本最高文化の集落」を10年計画で建設すると記しており、その後、夢の実現として「太田村をホームスパンの産地にしたい、青年たちには陶芸づくりをさせる、娘たちには羊を飼わせ植物染料・手紡ぎ・手織りの本格ホームスパンを作らせる」と語ったとされています。

光太郎にはホームスパンの大切な想い出がありました。大正末か昭和初めに、東京でイギリスの著名な染織家エセル・メレの作品展が催されたとき、智恵子にこの1点だけは何としても欲しいと懇願され、ホームスパンの毛布を購入したという話です。光太郎は亡くなるまで智恵子の想い出とともにこの毛布を大切にしたといいます。

光太郎は、太田村山口をホームスパンの産地にしたいと望むと同時に、自身が身に着けるものとしてオーダーメイドでホームスパン製の猟人服を作っています。背中一面に巨大なポケットが付いていて、スケッチブックも入れられるという優れものです。(高村光太郎記念館で常設展示しています)

現在、県内では様々な形で「ホームスパン」という技術が受け継がれ伝承されています。光太郎のまいたホームスパンという夢の種は山口では花開かなかったものの、少しずつ岩手の地に広がっていったように感じます。
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県内各地のホームスパン工房の作品展なのでしょう。

光太郎とホームスパンには、不思議な機縁を感じます。

大正末か昭和初め、たまたま智恵子にせがまれて購入した毛布が英国製のホームスパンだったことにはじまり、その毛布が東京と花巻と2回の戦火をくぐり抜けて残り、たまたまホームスパン作家でもあった及川全三の弟子が太田村の山小屋近くに住んでいて、その製作過程を見、自分でもホームスパンの服を作ってもらって愛用……。

その岩手のホームスパンの伝統が脈々と受け継がれていることにも感動を覚えます。この灯を絶やさないようにしていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】003

われらのすべてに満ちあふるゝものあれ


短句揮毫 昭和27年(1952) 光太郎70歳

昭和27年(1952)3月、盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)の卒業式に際して揮毫した色紙より。同校は光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が出版していた雑誌『婦人之友』に感銘を受けた仲間が集まり、良き家庭を築く生活の知恵を学ぶ場としてスタートしたといいます。

同校では光太郎の薦めでホームスパン製作をカリキュラムに取り入れ、それが受け継がれているそうです。

大正3年(1914)に書かれた詩「晩餐」には、よく似た「われらのすべてに溢(あふ)れこぼるるものあれ われらつねにみちよ」 という一節があります。

昨日の続きで、新たに見つけた光太郎ブロンズ彫刻の代表作「手」に言及のある随筆「手」(昭和2年=1927)をご紹介します。

今日は第2段落の途中からで、いわば後半部分です。いよいよ彫刻「手」について言及されます。

手全体の形が其人に似てゐるのは誰でも気がつく事であらう。私が自分の手をモデルにして作つた手の彫刻(今秋田雨雀君所蔵のもの)を見て、水野葉舟君は私の歩く姿に似てゐると言はれた。甚だ微妙な観察であるが、此の類似点は私も確に認めるのである。

昨日ご紹介した分では、葉舟の母の実枝が光太郎の手の形状を褒めたエピソードが紹介されていましたが、息子の葉舟は彫刻「手」のフォルムが光太郎の歩く姿だ、と、ある意味、詩的な指摘(笑)。光太郎自身も、それを認めるにやぶさかでないとしています。この点もこれまでに見つかっていた作品にそういった内容はありませんでした。

秋田雨雀君所蔵のもの」は、元々有島武郎が所蔵していましたが、その自裁に伴い、秋田の手に移りました。現在、竹橋の国立近代美術館さんに収められている「手」がそれです。

この後、一旦、彫刻「手」から離れて、様々な人物の手について。

ユウゴオの手、ロダンの手、シヤヷンヌの手、皆その人の通り、その作品の通りといへる。フランソワ・コツペエの神経質な手などは可笑しい程に彼である。知人の手で深く印象に残つてゐるのは、歌人窪田空穂氏の手で、氏の手の表情は不思議な力があり、又堅靱で、しなやかで、味の深い氏の歌の姿そのままに生きてゐるかと思ふ。今から二十四五年前に見た時の氏の手さへ今だにはつきりおぼえてゐる。此は私事に亘るが一昨年死んだ母の手をあまりまざまざとおぼえてゐるので、その骨と靱帯ばかりのやうな手の事を思出すと懐かしさに胸がふさがる。あの手にもう触れないのかと思ふと堪らなく切ない気がする。今でも寝てゐる時母の手を触覚だけで感じる事がある。歌人の山田邦子さんの指先のつぼまり方の美しさもよくおぼえてゐる。信州上高地の強力嘉門次の四角な手の立派さにも打たれた。

003ユーゴー、ロダン、シャヴァンヌ、コッペ(詩人)らの手については、写真か何かで見た感想でしょうか。

山田邦子」は歌人。明治末の結婚後今井姓となり、大正5年(1916)には光太郎彫刻のモデルを務めていますが、なぜかここでは旧姓の山田で表記されています。

嘉門次」は上條嘉門次。日本近代登山の父・ウォルター・ウェストンの案内人として働いた人物です。したがって、「強力」は「きょうりょく」ではなく「ごうりき」、シェルパ的な意味合いですね。大正2年(1913)、ここにも名の出ている窪田空穂らと共に、さらに智恵子も後から合流し、光太郎は一夏を上高地で過ごしました。その際にウェストンも滞在中で、いろいろ話をしたりしたことが、随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)などに語られています。ただ、上條の名はこれまで『高村光太郎全集』に見あたりませんでした。やはり会っていたのか、という感じです。

ピヤノを弾く人の指は特別に不思議な発達をする。指の形は時として害はれるが手の甲がすばらしく美しくなる。ホヰスラアは『音楽は分からないがサラサテの指の動くのを見てゐると面白い』と言つた相だが、私も倫敦でキユベリツクのヴアイオリンを聴いた時、その独立した生物のやうな指の動きにびつくりした。指を飼つてゐる人のやうな気がした。三味線でもあの棹を往来して甲どころを押へる指を見てゐるとたまらなく深い味に誘はれる。役者では好きな故か團十郎のが眼に残つてゐる。酒井の太鼓であの柱へかけた手の形が眼前に彷彿する。五代目菊五郎の弁天小僧が例の店の場で烟草入に指をつつ込んだ左の手の美しさも忘れない。

キユベリツク」は、チェコ出身の作曲家、ヴァイオリニストのヤン・クベリーク。光太郎が在英中にその演奏を聴いたという事実も、これまでに確認できていませんでした。

十郎」は九代目市川團十郎、「五代目菊五郎」は五代目尾上菊五郎。「酒井の太鼓」、「弁天小僧」は歌舞伎の演目に関わります。光太郎、彼らの肖像彫刻も手がけましたが、現存が確認出来ていません。下の画像、左が菊五郎像(明治36年=1903)、右は「ピアノを弾く手」(大正7年=1918)です。
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この後で、再びブロンズ彫刻「手」の関連。

日本の仏像の手に美しいものの多いのは言ふまでもない。此頃写真で誰でも見る広隆寺の木彫弥勒菩薩の手は世界の彫刻の中でも稀有なものの一つである。仏の手の印相は皆神秘的で美しいが、施無畏の印相の如きは一番簡単でしかも端厳さと優美さとに満ちてゐる。真言の九字の印は皆気味の悪い程実感の強いもので、初めの臨の三昧耶の印など、何といふ犯し難い備へであらう。
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上の画像は光太郎令甥の写真家、故・髙村規氏撮影になるものですが、これが「施無畏」の相です。通常は観音像などが右手でこの形をとりますが、光太郎は自らの左手をモデルにしたので逆になっています。「一番簡単でしかも端厳さと優美さとに満ちてゐる」、なるほど。

真言の九字の印」は、真言密教に置ける邪気を払う呪文的な印相。「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」です。
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光太郎の祖父・中島兼松は香具師で、各種寺社仏閣の縁日などにも関わっていたため、こうした呪文などにも通じていたようで、光太郎詩「その年私の十六が来た」(昭和2年=1927)には「おぢいさんは闇の中に起き直つて/急急如律令と九字を切つた」という一節があります。

ここまでで、昨日から続く弟2段落です。

そして最後の第3段落。

 手にウマ手といふ手がある相である。此は先輩白瀧幾之助氏の話であるが、氏の近親が大阪のさかり場で或る料理屋をして居られたといふ事で、料理番を雇ふ時、まづその手を見るのだ相である。すらりとして器用な敏捷な指を持つ料理番よりも、むしろ、づんぐりした太い鈍い指を持つ方を選ぶといふ話で、かういふ手をウマ手と称して其方の人は珍重するといふ事である。十数年前聞いた話であるけれども暗示的なので時々思ひ出す。

この「ウマ手」に関しては、昭和15年(1940)に書かれた評論「高田君の彫刻」にも、やはり白瀧から聞いた話として同じことが書かれていました。

この名人と上手との比較話は昔から何にでもあるが、どうも動かせない真理が中にあるやうだ。昔の木彫の職人の間にも、光り手と錆び手といふ話があつたといふ事を、学生の頃父から聞いた事がある。光り手といふのは其職人の手にかかると何から何まで自然と綺麗になり、道具箱から鑿小刀に至るまでいつのまにかぴかぴか光るやうになつてしまふ人の事を指し、錆び手といふのは、あべこべに自然に何でも薄汚なくなり、鑿其他の刃物の表(おもて)(背面)が黒く錆びついて来る人の事をいふのだ相である。さうして昔からの言ひ伝へでは、光り手の人は上手になり、錆び手の人は名人になるといふ左甚五郎式通りの話である。自分の鑿が光りもせず錆びも為ない処を見ると、僕は上手にも名人にもなれないのかなと思つた事がある。

この件も、昭和13年(1938)に書かれた随筆「手」に同様の記述がありました。

最後は左利きに関して。光雲や高田博厚が左利きだったというのは、当方、存じませんでした。

左利きは器用だと昔から言ふ。親玉はレオナルド・ダ・ヸンチで、彼の手書は多く左手で逆に書いてあるので其れを読むには鏡に映して読む。デツサンの陰影の線が多く左上から右下に向つて走つてゐる。私の父も左利きだが、右手も馴らすので結局左右両手が利く訳である。宮本武蔵は左利きだつたといふ、確證が無いかしらと思ふ。私の友人では彫刻家の高田博厚君が左利きで、時としてレオナルド流に字を逆に書く。高田君の製作は、左利きに甚だ秀でた才能があるといふ事の立派な例證になる。

これで400字詰め原稿用紙7枚程の全文です。
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光太郎が「手」について、実に様々なことを考えつつ制作に当たっていたというのが、如実にわかりますね。ある意味、「手フェチ」に近いのではないかとさえ思われます(笑)。

結局、水野葉舟が指摘した通り、彫刻「手」は光太郎自身の姿の反映といった面があり、様々な手に対する思いや、自身が歩んできた歴史の結晶が彫刻「手」なのではないかと思われます。

今年4月の記事にも書きましたが、今後、彫刻「手」について論考等を書かれる方は、「手紙」、「手」の二篇を参考にしていただきたく存じます。というか、これらを参考にしなければ彫刻「手」を語ることはできませんね。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

また私は彫刻家である。だから第一部門で選ばれるならわかるが、第二部門では不本意だ

談話筆記「(芸術院会員とは)」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

12月22日『毎日新聞』東京版から。「芸術院会員を拒否 “人選に不明朗” 高村光太郎氏が批判」という記事に附された談話の最後の部分です。

記事本文は以下の通り。

彫刻家であり詩人である高村光太郎氏(七〇)は去月十三日の芸術院会員補充選挙で永井荷風氏らとともに、第二部(文芸部門)の会員に選ばれたが、現在の芸術院のあり方に対する不満から受諾を拒否している。日本芸術院では所定の手続きを経て年内にも正式に文部大臣から任命しようとしていた矢先だったので、高橋誠一郎院長ら首脳部で善後処置について協議しているが、二十一日文部省宇野芸術課長が高村氏を訪問、受諾拒否の理由を書面で芸術院あてに提出してくれるよう申入れた。
高村氏は昭和二十二年十月にも帝国芸術院(日本芸術院の前身)から会員に推挙されたが、当時は岩手県の山中にこもり再び世にでることを好まず辞退したことがあり、こんどで二度目である。この高村氏拒否の理由は芸術院がとかく“養老院”などとウワサのある折から、そのあり方に対する痛烈な批判の言として注目される。高村氏の意見は次の通り。

この後に光太郎談話が入り、さらに高橋誠一郎院長の談話なども続きますが、割愛します。同じ昭和28年(1953)12月26日執筆の「日本芸術院のことについて――アトリエにて1――」(『新潮』第五十一巻第二号)中に、次の一節があります。

世上、新聞などで、辞退の理由として、現今の芸術院会員の人選について不満があるからといふやうに伝へられたが、これは間違で、現在の人事はまづあんなものだらうと思つてゐる。補充会員の選出方法については又別に意見があるが、それには今触れない。又新聞で、私が彫刻家であるのに文学部門から推せんされたのがをかしいといふので辞退したやうにも言はれたが、これは談笑の間に私が早解りするやうに、「それでは親爺におこられるよ」などといつたからであらう。

おそらく、ここで言う「新聞」がこの記事を指していると思われます。

否定してはいますが、「私は何を措いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。」(「自分と詩との関係」昭和15年=1940)とまで自負していた光太郎。「第一部門で選ばれるならわかるが、第二部門では不本意だ」というのは本音だったのではないでしょうか。

先々週、先週と、駒場の日本近代文学館さん、横浜の神奈川近代文学館さんに調査に行きました。
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当方のライフワークは、光太郎の書き残した作品-特に筑摩書房『高村光太郎全集』に漏れているもの-を集成することです。現在、高村光太郎研究会さんから年刊で発行されている雑誌『高村光太郎研究』内に「光太郎遺珠」の題で枠をいただいております。で、そろそろ次号(2021年4月発行予定)に向け、原稿をまとめる時期なので、紹介すべき作品の発掘、さらにその裏取りです。

まず日本近代文学館さん。こちらに所蔵されている「特別資料(肉筆物など)」の中に、『高村光太郎全集』に漏れているものがあるのは以前から存じていました。ただ、「光太郎遺珠」も毎号のページ数に限りがあり、一年間でけっこう紹介すべき作品がたまるもので、これまで手を付けずにいました。次号分はまだ頁数に余裕があり、いよいよこちらの作品を発掘するぞ、というわけでした。

事前に閲覧させていただく資料名を申請しておき、当日は専用のコーナーで閲覧。

まずは散文。「リルケ全集について」という題で、400字詰め原稿用紙ほぼ一枚でした。「リルケ」はドイツの詩人、ライナー・マリア・リルケ。光太郎が敬愛していたロダンの秘書を務めていた時期もありますし、光太郎がパリ留学中に住んでいたカンパーニュ・プルミエ-ル街17番に暮らしていたこともあり(その当時、光太郎は知らなかったそうですが)、間接的には縁の深い人物です。

これまでも『高村光太郎全集』既収録作品にリルケの名は散見されましたが、ほとんどはロダンとの絡みや、同じ建物に住んでいたことについて、ちょっと触れられていた程度でした。それが原稿用紙一枚、リルケについてということで、興味深いものでした。

調べてみましたところ日本での『リルケ全集』は、光太郎生前に2回刊行されているようです。昭和6年(1931)に弥生書房から一巻もの、昭和18年(1943)に三笠書房から『第五巻』のみ(この手の全集は第一巻から順に刊行されない場合も多く、第一回配本が第五巻で、おそらく戦時中ということもあり、途絶したようです)。今回のものは使われている原稿用紙から、昭和18(1943)年版のもののために書かれたとほぼ確定出来ます。どうやら内容見本のために書かれた文章のようです。ただ、活字になったのかどうかが不明でして、今後の課題です。

それから書簡が6通。すべて葉書です。

まず独仏文学者にして光太郎らと共に「ロマン・ロラン友の会」を立ち上げた片山敏彦、光太郎に自著の題字を揮毫して貰ったり、雑誌の企画で光太郎と対談したりした高見順に宛てたものが1通ずつ。片山と高見は交流の深い人物だったのに、これまで彼ら宛の書簡は確認出来ていませんでした。

それから作詞家・童謡詩人の藤田健次に宛てたものが2通、文芸評論家・小田切進宛てが1通。両名ともこれまで『高村光太郎全集』の人名索引にその名が見えず、こういう人物とも交流があったのか、という感じでした。

そして、当会の祖・草野心平宛が1通。心平宛の書簡は既に30通あまりが『高村光太郎全集』に収録されており、それらはおそらくすべていわき市立草野心平記念文学館さんで所蔵されているはずなのですが、その間隙をぬうものでした。

日本近代文学館さんの「特別資料」については以上。

それから、それ以外に、雑誌に掲載された散文を1篇発見しました。それが本日のブログタイトル「ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2」というわけです。「その2」があれば「その1」があったわけで、「その1」については今年4月にご紹介しました。大正8年(1919)の雑誌『芸術公論』に載った「手紙」という文章です。こちらはブロンズ彫刻「手」の制作間もない時期に書かれたもので、見つけた時には驚愕しましたが、今回、間を置かずまたしても彫刻「手」に関わる文章を見つけてしまい、さらに驚いております。

問題の文章、題名はずばり「手」。昭和13年(1938)の雑誌『新女苑』にも「手」という文章が掲載され、『高村光太郎全集』に既収ですが、それとは別物です。今回のものは昭和2年3月1日発行の雑誌『随筆』第2巻第3号。原稿用紙7枚程の長い随筆です。ちなみに雑誌『随筆』からは、短いアンケートが2篇、既に『高村光太郎全集』に採録されていましたが、今回の「手」は漏れていました。

疑問点が一つ。原稿用紙7枚程の長さなのですが、3段落にしか分かれていません。したがって、一つの一つの段落が異様に長いのです。その意味では少し読みにくい感もありました。どうも編集の段階でもっと分かれていたはずの段落を結合して、改行回数を減らし、紙幅を短くしたのではないかと思われます。確証はありませんが。

で、今日は第1段落、そして第2段落の途中まで(いわば前半)をご紹介します。

全体としては、「手」に関するさまざまな思い出や蘊蓄(うんちく)などを書き連ねています。その中にブロンズ彫刻「手」に関わる記述もあるわけです。今日ご紹介する前半部分は、ブロンズ彫刻「手」についての記述の直前まで。別にもったいぶるわけではありません(笑)。長さの都合でそうなるのです。

さて、以下に引用し(固有名詞等の明らかな誤字は訂正しました)、適当な所で区切りつつ、解説を挿入します。

 私は英国に居た時、食卓でよく手をほめられた。義理にも面相がほめられないので、手がその用を勤めたのかも知れないが、その度に私は手に目をつける事が殆ど習慣になつてゐる国民もあるのだといふ事に興味を覚えた。容貌を見ると同じ様に手を見るのが日常の次第になつてゐるのを面白いと思つた。或貸間を見に行つた時、其処のミセスが入口での握手だけで『彫刻家でいらつしやるのでせう』と私に話しかけた事さへある。後できけば其は或風景画家の未亡人であつたといふ事だから、此の推察の由来も成程と思へたものの、其時は一寸びつくりした。

英国に居た時」は、パリに移る前の明治40年(1907)から翌41年(1908)にかけてです。確認出来ている限りその間に2回、居を移していて、その関係で「或貸間を見に行つた」のでしょう。「或風景画家」は誰だか分かりません。ここで挙げられたエピソード、おそらく既知の文章にはなかったように思われます。

さういふわけで其頃は、自分の容貌のゼロな事を知つてゐる私も、手にだけは大に自信を得て、人と握手するのを好み、又人の手にも強い興味を持つた。握手の時の触感によつて人の感情なり其人の為人についてかなり微妙な処まで感じられる事を知つた。手についての私の興味は其頃から急激に意識的になつて来た。日本では握手するといふやうな野蛮な習慣が無いので、触感による感知を得る事が出来ないけれど、しかし手を見る事の喜は昔日よりも一層強くなつて来てゐる。

人為」は「ひととなり」と読むべきでしょう。

日本で私の手をほめてくれたのは友人水野葉舟君のお母さま一人だけである。早春の夜、お母さまを訪ねて火鉢にあたつてゐた時、『まあ、あなたのお手はいいお手だ』とほめられたのである。男の手などについて殆ど感じを持たない日本の習慣を知つてゐたので、此時も一寸びつくりした。しかし後で考へると、このお母さまは何か淘宮術のやうな俗間信仰に凝つておいでのやうに聞いたから、その方面から特別に手を観察する習慣を持つて居られるのだらうと思はれた。この時以外では、日本で私の手が問題になる時は大抵、『君の手は馬鹿に大きいね』位なものである。
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水野葉舟君のお母さま」は水野実枝。このエピソードも当方、存じませんでした。光太郎、大正6年(1917)には実枝とその夫にして日本勧業銀行のお偉いさんだった勝興夫妻の肖像画を描いています。

淘宮術」は天保年間に横山丸三が創始した気功法にも通じる修養法。「健全な精神は健全な肉体に宿る」的な考えに基づくもののようです。のちに水野葉舟は心霊術や怪異譚などの方面に牽かれていきますが、その背景に母の淘宮術への傾倒からの影響があったのかもしれません。

『君の手は馬鹿に大きいね』。石川啄木の短歌「手が白く/且つ大なりき/非凡なる人といはるる男に会ひしに」のモデルが光太郎ではないかという説があります。

下の画像は光太郎のデスマスクならぬデスハンド。写真撮影は光太郎令甥の故・髙村規氏です。
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対象物が写っていないのでわかりにくいのですが、規氏によれば「自分の手を重ねてみると関節一つ分大きい」そうで。

ここまでが第1段落で、続いて弟2段落。

 大層手前味噌を並べたやうであるが、此は手の魅力といふものは決して変態性慾者などの目をつける単なる美形にのみあるのでなくて、私のやうな無骨(ぶこつ)なものにも亦あるのだといふ事を言ひたい為であつた。あらゆる人の手に、手そのものに既に不可抗の誘惑があるのである。私自身、手に対する執着が強く、手の彫刻習作をしばしば作るため、私の家には手首の彫刻が少くない。今後もむろん色々作るであらう。

手の彫刻習作」「手首の彫刻」には、ブロンズ彫刻「手」も含まれていると思われます。

今は別に手の持つ彫刻的要素を語るつもりでないから、その組立や幾何学的機構の美については言及しないが、何しろ圓い腕が急に平たく広がつて、その平たい場面から五本の枝が生えるのであるから、造化も其の生やし方に苦心した事であらう。全く人智を絶してゐて、親指の出方などは真に奇想天外である。私は一体、物の分岐する点を興味深く観察する者である。何故分岐するか、如何に分岐するかを検査するのは特別に面白い。人間の胴体が二本の脚に移つてゆく仕掛を見ると、その事だけで既に驚く。私がよく臍から下、腿から上の部分だけを画にかいたり、彫刻にすると、人は甚だ奇怪な推察をするが、其は全く私の此の感動を知らないからである。此の部分の持つ彫刻的魅力に一度気がつくと、さういふ不躾な観察は出来なくなるに違ひない。手の指の分岐の仕方の必然さは更に巧緻で変化があり、一日見てゐても飽きるといふ事が無い。掌は高々四五寸平方のものでありながら、その広大さは海のやうに思へる。成程孫悟空が一生懸命に馳け出せるわけで、私は自分の掌を見つめてゐると、どんな大きなものでも掴めさうな気がして来て、理窟に外れた自信が出て来る。

今は別に手の持つ彫刻的要素を語るつもりでない」と言いつつ、結構語っています(笑)。

臍から下、腿から上の部分だけを画にかいたり、彫刻にする」。残念ながら写真を含めて実作の現存が確認出来ていません。もろに下腹部なわけで、「人は甚だ奇怪な推察をする」というのもうなずけます(笑)。

昔の人が掌を見て、その中に人の運命を見ると思つたのも無理でない。私は手相術(キロマンシイ)といふものを更に信じない者だが、それでも真面目くさつていろんな意味をつけてゐるのには興味をひかれる。日本のは誰でも知つてゐるだらうが、外国でも似た事をやつてゐる。フランスでは例の三本のすぢを、上のを心情線、中のを頭脳線、親指側のを生命線といつてゐる。まんなかを縦に貫く線は日本と同じやうに運命線にしてゐる。更に七宮を作つて、親指のつけ根を金星宮、食指の根を木星宮、将指(なかゆび)の根を土星宮、無名指のを太陽宮、季指のを水星宮と称び、その下に火星宮、月宮がつゞいてゐる。そして夫々にいろんな意味をつけてゐる。しかし手相術などといふものは元来東洋の方が本家らしく、日本のものの方が遙に興味が深いかと思ふ。

手相術はインド発祥だそうですが、日本で広く行われているのはヨーロッパ経由のものだそうです。そこで占星術の要素が組み込まれ、何とか宮というのがあてられているとのこと。光太郎がやけにこのあたりに詳しいのは意外でした。
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食指」は人さし指、「無名指」は薬指、「季指」は小指です。

続いて指紋の話。

指紋の学問は近来すばらしい細密な研究にまで到達してゐるやうであるが、つひでに言ふと私の指紋は手のも足のも総流れで、中の一本は叮嚀にもぶちまけた様に左右に流れてゐる。生来の無器用を示してゐるのだ相である。手の甲の方で興味のあるのは静脈の形で、電車の中で向側の人々の其をみると千変万化だ。私のは杓子(しやもじ)型である。指の中で一番やさしいのは素より薬指であらう。紅つけ指といふ程あつて、この指の爪は大抵の人のが原型を留めてゐる。特色の一番あるのはむろん親指で、親指は多く其人の形をしてゐる。マムシの出来る人のは大抵逆に反る。私のは逆に直角に反るので粘土の塑造には甚だ都合がいい。

総流れで、中の一本は叮嚀にもぶちまけた様に左右に流れてゐる」は、指紋の種類のうちの「弓状紋」を指しているのではないかと思われます。日本人には10%しか存在しないそうですが。

杓子(しやもじ)型」は、血管2本が手首から指先にかけて広がっている形が、手の甲にしゃもじを乗せたように見える手だそうで、俗信ではこの形の手を持つ人は食うに困らない、とのこと。
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こちらは髙村規氏撮影の「手」です。ちょっとわかりにくいのですが、確かに薬指の付け根あたりに「しゃもじ」が現出しています。

マムシ」は、いわゆる短指症のずんぐりした親指をさす場合と、蝮が鎌首をもたげた姿のように親指を外側に反らせた様子の2種類の意味があって、ここでは後者でしょう。画像の親指はいわば「超マムシ」(笑)、「私のは逆に直角に反る」。これは本当です。最晩年の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作中の動画が残っていて、実際にそうなっています。
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ここまでで、第2段落の途中、全体の5分の3くらいでしょうか。この後、いよいよブロンズ彫刻「手」そのものについての言及があります(ただ、それほど長くというわけではないので、過剰に期待しないで下さい(笑))が、長くなりましたので、以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

鋼鉄の武器は取り上げられた今日、身に寸鉄帯びずといふ芭蕉の心境に入るより仕方がないので我々文化人が中心になつて本気に働かなければならんと思つてゐます。


談話筆記「新しき文化 高村光太郎氏の話 造りたい「文化村」
 必要が生み出す美」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

昭和20年8月28日『新岩手日報』から。同25日、盛岡市の岩手公会堂内多賀食堂で開催された「物を聴く会」での談話筆記です。

談話の前に以下のリード文が先行します。「真と美と」以下は、終戦の玉音放送に題を採った詩「一億の号泣」からの引用です。

戦争終結の聖断を拝して『真と美と到らざるなき我等が、未来の文化こそ』一億の『号泣を母胎としてその形相を孕まん』と新日本建設へ輝かしき示唆を与へた詩人、彫刻家高村光太郎氏を迎へて盛岡文化報国会では廿五日夕四時から県庁内公会堂多賀大食堂で物を聴く会を開催した。同氏は今春東京で戦災に遭ひ花巻町に疎開し故詩人宮澤賢治氏令弟清六氏方に滞在中、再び花巻空襲に遭遇し現在は同町南館佐藤昌氏方に滞在し自炊生活を営んでゐる。

身に寸鉄帯びずといふ芭蕉の心境」は、芭蕉の紀行文『のざらし紀行』中の「腰間に寸鉄をおびず。襟に一嚢をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有。俗にして髪なし。」からの連想と思われます。

また、「一億の号泣」にも「鋼鉄の武器を失へる時/精神の威力おのづから強からんとす」という一文があります。

都内から展覧会情報です

第87回展覧会「名作を伝える-明治天皇と美術 後期展示 明治天皇のまなざし

期 日 : 2020年11月14日(土)~12月13日(日)
会 場 : 三の丸尚蔵館 東京都千代田区千代田1-1
休 館 : 毎週月・金曜日 11月23日(月・祝)は開館、翌24日(火)休館
時 間 : 午前9時~午後3時45分
料 金 : 無料 

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明治天皇は、その御世を通して、博覧会や美術展覧会に度重ねて行幸され、美術の振興に深く心を寄せられました。このような行幸に際しては、多くの作品の御買上げが行われています。その一方で御下命による美術品製作も行われ、様々な作家たちが活躍の場を得ることにもなりました。御買上げや御下命の品々には、伝統的な様式と技法による作品のほか、西洋から取り入れた表現技法である写真や油彩画も含まれ、新しい技術、表現の試みにも広く関心を寄せられた明治天皇の眼差しを感じとることができます。
また、明治21年(1888)には明治宮殿が完成、翌年には大日本帝国憲法が発布されるなど、国家の体制が確立していく中、美術の奨励と保護のため、明治23年には帝室技芸員の任命が始まります。その後、明治30年代にかけて、天皇の勅裁のもと、宮内省が製作を主導することで明治期を代表する記念碑的な名作が幾つか生み出されました。これらの御下命製作が行われた背景には、明治の優れた技を次の時代に伝えようとした意図がうかがえます。皇室は、美術品製作に直接に関わることで、その伝統を繋ぐ、大きな役割を果たされてきたのです。
本展では当館に引き継がれた作品の中から、明治10年代から30年代にかけての御下命による作品や博覧会等での御買上げ品を中心に紹介します。皇室が護り育み、伝えてきたこれらの名作の数々から、明治美術の多彩な魅力を楽しんでいただければ幸いです。

出品作品
水晶玉蟠龍置物    精工社 明治12年(1879)
稲穂に群雀図花瓶       濤川惣助、泉梅一 明治14年(1881)
行書七言絶句「金闕暁開晴日紅」    日下部鳴鶴 明治14年(1881)頃
草書七言絶句「王家楷則定何如」    日下部鳴鶴 明治14年(1881)頃
塩瀬友禅に刺繍海棠に孔雀図掛幅    西村總左衛門(12代) 明治14年(1881)
塩瀬友禅に刺繍薔薇に孔雀図掛幅    西村總左衛門(12代) 明治15年(1882)
磐梯山破裂之図    山本芳翠 明治21年(1888)
琉球東城旧跡之眺望    山本芳翠 明治21年(1888)
熊坂長範          森川杜園 明治26年(1893)
還城楽       森川杜園 明治26年(1893)
矮鶏置物          高村光雲 明治22年(1889)
百布袋之図       河鍋暁雲 明治27年(1894)
岩倉公画傳草稿絵巻 第14・17巻    田中有美 明治23年(1890)頃
三條実美公事蹟絵巻 第24巻       田中有美 明治34年(1901)
明治12年明治天皇御下命人物写真帖『皇族 大臣 参議』大蔵省印刷局 明治13年(1880)頃
明治12年明治天皇御下命人物写真帖『皇族』『諸官省』大蔵省印刷局  明治13年(1880)頃

というわけで、光太郎の父・光雲の木彫「矮鶏置物」が出ます。こちらは一昨年に同じ会場で開催された 第82回展覧会 「明治美術の一断面-研ぎ澄まされた技と美」でも展示されました。制作やお買い上げの経緯等、その際のブログに書きましたのでご一読を。
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光雲木彫を見られる機会はあまり多くありません。ぜひこの機会にどうぞ。ただし、コロナ感染には十分ご注意を。

【折々のことば・光太郎】

まことに母の尊(たふと)さはかぎり知れない。母の愛こそ一切(いつさい)の子たるものの故巣(ふるす)である。即ち人たるものの故巣(ふるす)である。

散文「母」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

これで終わっていれば、「なるほど」なのですが、書かれた時期が時期だけに、「されば皇国の人の子は皇国の母のまことの愛によつて皇国の民たる道を無言の中にしつけられる。」といった一節もあり、残念です。

バイデン氏優位と伝えられていますが、まだまだ予断を許さない米国大統領選挙。5日付の『東京新聞』さんが、一面コラムで光太郎詩にからめて論評なさっています

筆洗

米国大統領選挙を書こうと思うのだが、浮かぶのは高村光太郎の有名な詩である。<きつぱりと冬が来た/八つ手の白い花も消え/公孫樹(いちょう)の木も箒(ほうき)になつた>(「冬が来た」)▼長い選挙戦を振り返れば、かの国の「現在」の苦悩と悲しみをのぞかせた闘いだったといえるだろう。思い出すのは醜悪なテレビ討論会か。トランプ大統領が民主党のバイデン前副大統領の発言を何度もさえぎり、持論をまくしたてる、あの場面である▼思いやりはおろか敬意もない。あったのは意見を異にする者への憎しみと怒りだけである▼それ以上にうめいた光景は投票の前日である。商店がショーウインドーや店の入り口をバリケードでふさいでいる。選挙の結果によっては起きかねない暴動や略奪をおそれての準備らしい▼分断の時代と言われて久しいが、もはや、分断を超え、選挙戦の結果さえ受け入れられぬ敵意の時代に入ったのか。それはあまりに厳しい冬である。<きつぱりと冬が来た>。あのバリケードがひどい時代を迎えた人々の冬ごもりのように見えてしかたがない▼選挙戦は大接戦となった。小欄の締め切り時間までには、明確な勝敗は定まらなかった。<冬よ/僕に来い、僕に来い>。あの詩は冬を堂々と受け止める決意の詩だった。どちらが当選するにせよ、分断の冬をどう受け止めるか。悲しいことに春の予感はしない。
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光太郎と米国大統領といえば、リンカーン。光太郎はだいぶシンパシーを抱いていたようで、随筆等で繰り返し彼の名や事績をあげていますし、ずばり「エブラハム リンコン」という詩(大正12年=1923)も書いています。

初出は雑誌『RÔMA-JI』。当時流行っていたローマ字表記運動の雑誌で、したがって、ローマ字で発表されましたが、漢字仮名交じりの異稿も存在しますので、そちらを引用します。

  エブラハム リンコン

己(おれ)はとうとう大統領になつてしまつた。
今日は三月四日だが、
まだ少し寒い。
今かうやつて坐つてゐるのが、
小さい時から、お伽噺の御城でも見る様に、003
新聞の挿画でよく見た
あのホワイト ハウスだから驚く。
己は大統領になりたかつたのだらう。
候補者になつて、あんなに演説をして、
あんなに此の位置をのぞんでゐた
シワアドを追ひ越してまで、
とうとう此の椅子に坐つたのだからな。
だが、己は本当に大統領になる事を、
こんな立派な処に坐る事を、
こんなまぶしいGloriusな目にあふのを、
曾て心から望んだか。
NO! NEVER!
此に似たものを望んだが、
此は望まなかつた。
己が望んだものは、其では何だ。
己にも、今になると、よく分らない。
余り現実の形がはつきり迫つて来ると、
名のつけられない心の影が何処かへ、
一寸した処へ隠れてしまつて、
その癖、
この現実を本当と思ふにしては、
どうも、その影の方が本当すぎる。
見えない様で見えて、
捉まうとすれば捉めない。
別の事を熱望しながら、
うかうか上を見てゐたうちに、
いつのまにか、こんな着物を、
自分でも望んで着せられた事になる。
ああ、己は変にさびしい。

ケンタツキイの材木割り。004
帽子の中をオフイスにしてゐた
ニユウ サレムの郵便局長。
スプリングフヰルドの弁護士。
己は、其間に、何をした。
あたり前過ぎる事をしただけだ。
バイブルに書いてある事の中で、
己にわかるところ、
成程と思ふところを、
むしように欲しただけの事だ。
人間は誰でも同じ様に、太陽の
日を受けて生く可きものだといふだけだ。
あとは神様次第。
己が奴隷制度に反対するのが、
何で己の手柄であらう。
誰でも心に感じてゐる事を、
己は唯一切を棄てて熱望するだけなんだ。
いつでも、子供が菓子を欲しがるやうに、
ただ良心を欲しがるだけだ。

南の人達が起す内乱はもう避け難い。
己のまはりに居るのは日和見(ひよりみ)ばかり。
軍人はみな弱い。
ただ頼みになるのは、
己と同じ様な、
あの、野山や町に居る只の人間。
まだ力と火とを心の中に持つ、
あの、己があんなに沢山会つた事のある人達だ。
己を「アンクル エエブ」といつてくれる
あの無邪気な兄弟達だ。005

ああ、演説の時間が来た。
それではみんなにしやべらう。
己のしやべる事にうそは無いが、
いつでも、しやべつてゐる事とまつたく違つた、
もつと奥の事がしやべりたくて、
そのくせ、しやべるとあれだけになつてしまふ。
今日はどうか、みんなに己の心が伝へたい、
この寂しい「アンクル エエブ」の平凡な決心が。


光太郎がリンカーンに心酔、とまではいかないのでしょうが、シンパシーを感じていたのがよくわかりますね。

画像は米国サウスダコタ州の「マウント・ラシュモア・ナショナル・メモリアル」。明治39年(1906)に渡米した光太郎を助手として雇ってくれた彫刻家、ガットソン・ボーグラムの手になる巨大彫刻で、ワシントン、ジェファーソン、ルーズベルト、そしてリンカーンの4人の大統領の肖像です。

今年7月3日(金)の米国独立記念日に、トランプ大統領はここで演説をしました。その中で、コロナ禍拡大を抑えられなかったことには言及せず、昨今、南北戦争時代の南部連合(奴隷制度推進派)の人物の彫像が各地で撤去されている現状に対し、非難したそうです。刻まれている4人のうち、ワシントンとジェファーソンは、個人で多数の奴隷を所有していたことを踏まえての発言ですね。では、リンカーンに対してはどう申し開きをするのか、興味深い所です。
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ところでトランプ氏、仮に再選したら、もしかするとこの画像のように、自分の肖像を5人目としてこの岩壁に刻ませるのではないかとさえ思えてきます。まるで、それが問題視されて追究を受けるまで平気で進めようとしていた、何処かの国の「○○○○記念小学校」のようですね(笑)。

さて、米国大統領選挙、どうなりますことやら……。

【折々のことば・光太郎】

国民士気の源泉は健康な精神生活にある、しかも健康な精神生活は身辺日常の健康美の力に培はれてゐることを見逃す事が出来ない


散文「工場に“美”を吹込め 高村氏・美術家の新奉公を促す」より
昭和16年(1941) 光太郎59歳

昭和16年12月5日の『大阪毎日新聞』に載った、おそらく談話筆記。同月8日に予定されていた第二回中央協力会議での提案「工場施設への美術家の動員」の骨子です。結局この日は太平洋戦争開戦の日と重なったため、日程が大幅に変更され、光太郎の提案は為されずに終わりました。

こういう映画があったというのを存じませんでした。

一昨日の『デイリースポーツ』さんから

「利用したことのない新幹線駅」にもドラマがある…新花巻駅誕生の「逆転劇」描いた映画が公開へ

002 岩手・新花巻駅に東北新幹線が止まる運動に奔走した地元住民を描いた映画「ネクタイを締めた百姓一揆」が6日から東京・UPLINK渋谷で劇場公開される。「請願駅」が東北新幹線の駅となるまでの14年間の実話を元にした作品だ。東京初公開を前に、地元関係者に話を聞いた。
 新花巻駅は、1971年10月に当時の国鉄が発表した東北新幹線基本工事計画では予定されていなかった。本作は「花巻市に駅の設置を」という市民運動が起こり、決定事項を覆して85年3月に開業するまでの「逆転劇」を描いた群像劇となる。
 新花巻駅設置運動史「耐雪花清(たいせつかせい)」という冊子がある。当時、花巻市役所職員として、運動史の編纂に加わった藤戸忠美さんに話をうかがった。
 「昭和46年当時、花巻市民には『新幹線が止まって当然』という思いがありました。岩手県では、盛岡と最南端の一関の中間地点にある花巻は国鉄の乗降客で盛岡に次いで県内2位であり、温泉などの観光地であることや、宮沢賢治の生誕地であったり、高村光太郎が晩年7年間を過ごしたこともあったので、新幹線が止まるものだと疑ってもいなかった。ところが、決まったのは隣の北上だった。隣町に負けたという悔しい思いがあり、花巻市民として動き出したのです」
 そう振り返る藤戸さんは、運動の中心人物を挙げた。藤戸さんは「小原甚之助さんという市民会議の議長さんです。情熱家で、花巻に新幹線の駅ができないことについて『子孫に対して申し訳ない』という思いを持たれていた。運動のスタート当時は、行政より市民の方が燃えていました」と証言する。
 新花巻駅は東北新幹線と在来線の釜石線との交差地点に設けられた接続駅。JR東日本によると、2019年度の1日平均乗車人員は891人。新幹線駅の1日平均乗車人員は900人ということで、ほぼ全国平均的な数字となる。利用者はやはり観光客が多いのだろうか。花巻市観光課の駒木裕也さんに話をうかがうと、「花巻温泉郷」の存在を挙げた。
 「花巻温泉郷は12の温泉からなり、その泉質も雰囲気もさまざまです。また、宮沢賢治や萬鉄五郎を始めとした著名な先人を輩出し、高村光太郎や新渡戸稲造ゆかりの地として知られ、偉人たちの足跡をたどることができるスポットが数多くあります」
 とはいえ、今年はコロナ禍によって観光地は全国的に打撃を受けた。花巻の場合はどうだったのか。
 「花巻は東北最大の温泉宿泊地であるため、特に宿泊施設に与える影響は相当に大きなものがあります。このため、市では独自に利用助成制度を創設しました。Go Toトラベル事業の効果もあり、9月・10月については、昨年と同様あるいはそれ以上にお客様にお泊まりいただいた状況となっておりますが、今後の情勢を引き続き注視していかなければならないと思っております」
 今回の作品公開について、駒木さんは「花巻に所縁のある方はもちろん、花巻にお越しいただいたことのない方も、本作品を通じて、故郷を思い出したり、舞台となった場所を訪れてみたいと感じていただけましたら」と歓迎。「新花巻駅は文化や産業の結節点としても重要な役割を果たしています。来年にはJR東日本の東北デスティネーションキャンペーンも予定されており、地域にとってなくてはならない存在になっています」とアピールした。
 岩手県在住の河野ジベ太監督は「実在する新幹線の1つの駅にまつわる物語ですが、同時に昭和に整備されてきた様々なインフラに込められた普遍的な物語でもあります。今の私たちにとって当たり前の便利な日本は、かつての人々の熱い思いによって実現されてきたものです」と指摘。「激動の70年代、理想と現実、人と人の思いが真っ向からぶつかった時代。不器用に間違えて回り道してぶつかって、それでもくじけず前を向くエネルギーを大切にしようと思いながら脚本を書きました。おじさんたちの映画なのに青春映画のようになっているのはきっと新しいことに挑戦したときに人は誰でも若者のようなエネルギーを持つからだと思います」とコメントを寄せた。
 ツイッターには「#利用したこと無い新幹線駅」というハッシュタグがある。投稿者が乗降したことのない駅名を列挙していて、新花巻も名を連ねている。だが、そうした「通過駅」の1つ1つにもドラマがあるのだ。
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調べてみましたところ、公式サイトがありました。それによれば映画は2017年の制作。地元・花巻はじめ各地でぽつぽつと上映会が開かれてきた他、平成30年(2018)には「門真国際映画祭2018」に参加、最優秀脚本賞を受賞しているそうです。で、都内での劇場公開が今日からだそうで

ネクタイを締めた百姓一揆

期 日 : 2020年11月6日~11月12日(木)
会 場 : UPLINK渋谷 東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル1階
時 間 : 11/6・7・9・10 13:15~ 11/8・12 13:10~ 11/11 17:40~
料 金 : 一般¥1,900/シニア(60歳以上)¥1,200/ユース(19歳~22歳)¥1,100
      アンダー18(16歳~18歳)¥1,000/ジュニア(15歳以下)¥800
      UPLINK会員¥1,100(土日祝¥1,300)ユース会員(22歳以下)¥1,000

岩手県に実在する東北新幹線・新花巻駅設置を巡る14年間の物語を、地元在住有志が一切の妥協なく撮り切った長編巨大群像劇。計画にない駅は、出来るのか。時代に翻弄される国鉄を背景に描かれるそれぞれの想い、圧巻の147分。

上映前・後舞台挨拶開催決定!!
11/6(金)【上映前舞台挨拶】登壇者:菅原修(国会議員ミツヅカ役)、菅原季咲良(録音)、河野ジベ太(監督)(約5分)

11/7(土)【上映後舞台挨拶】登壇者:小原良猛(タニカワ産業役兼プロデューサー)、堀切大地(エキストラ)、河野ジベ太(監督)(約5分)

11/8(日)【上映後舞台挨拶】登壇者:小原良猛(タニカワ産業役兼プロデューサー)、河野ジベ太(監督)(約5分)

11/11(水)【上映後トークショー】登壇者:久場寿幸、曽我真臣(共に「カメラを止めるな!」等俳優)、河野ジベ太監督(約15分)

※敬称略
※ゲストは予告なしで急遽変更になる場合や中止になる場合がございますので、ご了承ください。



上記予告編だけでもかなりのストーリーがつかめますね。まさに「長編巨大群像劇」というにふさわしそうです。かなり笑えますが(笑)。新花巻駅は、東京駅や上野駅を除いた東北新幹線の駅の中で、当方が最も多く利用している駅ですが、その背景にこういうことがあったというのも全く存じませんでした。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

東京よりもこつちの方がよい、ただ山荘は越冬設備ができていないので一週間ほど大沢温泉に泊り山荘を整理して再び東京に行きたいと思う

談話筆記「庭木に思い出新た」全文 昭和28年(1953) 光太郎71歳

昭和28年11月27日『河北新報』夕刊に載った「庭木に思い出新た 高村翁岩手の山荘に帰る」と題した記事に附された談話です。記事本文は以下の通りでした。

【花巻】昨秋岩手県稗貫郡太田村の山荘を下山して東京に戻った高村光太郎翁は二十年ぶりにノミをとった苦心の作“乙女の像”もでき上り目的の十和田湖畔に建て、一段落したというので二十五日詩人草野心平氏を伴って再び岩手県入りした。高村翁は相変らずカーキー色の詰えり服といった無造作な姿で部落内にあいさつ回りをし、さらに同村山口小学校児童たちの歓迎会にのぞんだりし、いつもながらの地元民の温情に目を細めて喜んだ。山荘に落着いた翁は庭にある植木をなつかし気になでながらつぎのように語った。

この年、10月21日に「乙女の像」除幕式のため青森十和田湖を訪れた光太郎は、25日にいったん帰京し、1か月後の11月25日から12月5日まで、旧太田村等に滞在しました。宿泊は山小屋ではせず、大沢温泉、志戸平温泉、花巻温泉松雲閣でした。滞在中の前半にはブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」の撮影がありました。記事にある「同村山口小学校児童たちの歓迎会」の模様が映画にも写されています。
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当初の計画では、冬期は東京、それ以外は太田村と、二重生活を送る心づもりもあったのですが、健康状態がそれを許さず、結局、これが最後の太田村滞在となりました。

このころの光太郎、新幹線など想像すら出来なかったことでしょう。

今月2日、政府は秋の褒賞受賞者を発表しました。このうち、当方の気付いた範囲では、光太郎関連のお仕事をなさったお二人の方が、ともに学術研究、芸術などの分野で活躍した人に贈られる紫綬褒章を受章されました。

まず、俳優の中井貴一さん。『毎日新聞』さんから

俳優・中井貴一さんに紫綬褒章 「自分の人生、間違いばかりではなかった」

9 社会派ドラマからコメディーまでこなす幅広い演技力で、40年近く日本の芸能界を支えてきた。紫綬褒章の知らせに「必死に一つの事を継続する。その結果が今回のご褒美につながったのかと、自分の人生、間違いばかりではなかったと安堵(あんど)しております」とコメントを寄せた。

 1981年のデビュー以来、多くの映画やテレビドラマに出演。数々の映画賞に彩られた俳優人生だが、「振り返ればアッという間。最近でも己の進歩の無さに愕然(がくぜん)とする事も多々あります」と謙虚に見つめる。新型コロナウイルス禍では「人の心までもが侵される事が、最も恐れるべき事」とし、「我々の仕事を通して少しでも安らぎにつながるよう、愚直に生きてまいりたい」と決意をつづった。
 父は37歳で死去したスター俳優、佐田啓二さん。「この褒章は無念にも早逝(そうせい) した父と供に受けさせていただきたい」と敬愛の念をにじませた。

中井さん、平成17年(2005)にキングレコードさんから発売されたCD「日本の詩歌 高村光太郎」で光太郎詩25篇の朗読をなさっています。
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久々に聴いてみましたが、張りのある伸びやかなお声で、丁寧に読まれています。キングさんのサイトで調べたところ、廃盤となってしまっているようですが、通販サイトなどではまだ入手出来るようです。ぜひお買い求めを。

それから中井さん、直接、光太郎には関わりませんが、昨日もこのブログで触れた、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町の復興を描いた平成28年(2016)の映画「サンマとカタール~女川つながる人々」では、ナレーションを担当なさいました。
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こちらはDVD化され、やはり通販サイト等でまだ入手可能のようです。

続いて演出家の鵜山仁さん。『朝日新聞』さんから

「多様性を発展させたい」 演出家・鵜山仁さん

AS20201101001419_comm 「舞台演出はひとりでは何もできない職業。スタッフ・キャストが集まる現場を代表していただけるのだと思う」。受章の知らせを受け、稽古場で接してきた人々の顔が浮かんだ。
 所属する文学座で38年にわたって「グリークス」などの多彩な作品を手がけ、こまつ座では「父と暮せば」「人間合格」など幾多の井上ひさし戯曲に向き合った。過去に芸術監督も務めた新国立劇場の「リチャード二世」で先月、12年かけて全5作を上演したシェークスピア歴史劇シリーズが完結。「長年継続していくと作品が違う形で見えてくる」。慶応大では合唱に打ち込み、オペラの演出も多い。
 コロナ禍の中で演出作の公演中止が相次ぎ、演劇の存在意義を改めて考えた。「一色に染まらず、違う物の見方や問題提起を打ち出せるかが勝負。多様性を発展させていければと思っています」

鵜山さん、平成23年(2011)に、光太郎を主人公とした渡辺えりさん作の舞台「月にぬれた手」の演出を手がけられました。脚本は昨年、ハヤカワ演劇文庫の一冊として上梓されています。
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初演は東日本大震災直後ということもあり、予定の回数を上演できませんで、翌年、再演されました。当方、そちらを拝見。その際のパンフレットには、鵜山さん、「再演にあたって」という文章を寄せられています。
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主人公の光太郎を演じられた金内喜久夫さんは今年お亡くなりになりましたが、空の上から鵜山さんのご受賞を喜ばれているのでは、と存じます。

というわけで、お二人の受賞、まことに喜ばしく存じますし、今後のさらなるご活躍にも期待したいところです。

ところで、こうした褒賞、さらにはやはりこの時期の文化勲章や文化功労者、叙勲なども、「総合的、俯瞰的に人選」し、あがってきた推薦名簿などからも認定を拒否して名前を除外することもあるのでしょうか(笑)。

【折々のことば・光太郎】

どういふ風な人達を私が嫌ふかはお解りの事と信じてゐます。

散文「どういふ風な人達を私が嫌ふか」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

雑誌『秀才文壇』第20年第9号に、「芸術家書簡集」の総題で、武者小路実篤、萩原朔太郎ら24名の書簡が紹介されている中の一篇です。

内容的には、大正元年(1912)に第一回展覧会を開催し、翌年、同人間の意見の相違から解散したヒユウザン会(のちフユウザン会)と、光太郎、岸田劉生らによってその後結成された生活社に関わり、大正2年(1913)の書簡からの引用と思われます。宛先はおそらく『秀才文壇』編輯に携わっていた、美術にも造詣の深かった野口安治でしょう。

芸術上の考え方については、光太郎、妥協を許さず、「こういう人達とは一緒にやっていけない」と判断すると、ばっさり切り捨てる傾向がありました。同じヒユウザン会に所属しながら『高村光太郎全集』にほとんど名前が見あたらない人々が、そういう人達なのでしょう。

宮城県震災復興本部さん発行の冊子『NOW IS.』。A4判オールカラー、表紙を含めて8ページです。「宮城県内の復興の状況や復興に向けて取り組んでいる方々の「いま」の姿を紹介する広報紙」というコンセプトで、月刊。宮城県内では、公共施設や市営地下鉄の駅などに無料で置かれています。

毎月11日発行だそうで、もうすぐ今月号の発行となりますが、先月号にあたる第53号、「井ノ原快彦in女川」ということで、V6の井ノ原快彦さんによる女川町訪問記がメインでした。
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カマボコの「高政」さん、カタールの支援で建設された冷凍施設「マスカー」、津波で倒壊し、震災以降として保存公開されている旧女川交番、そしてこのブログでたびたび紹介している、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」についても大きく取り上げられています。
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当方、震災復興本部さんに申し込んで送っていただきましたが、PDF版はweb上で公開されています。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

そして、実物を観察させるにも、子供には子供特有の見方があるから、子供自身の見方によつて見させ、その見た所を描き出せるやうにすれば、自ら描く興味も湧いて来るであらう。


散文「教育圏外から観た現時の小学校」より
大正5年(1916) 光太郎34歳

当時小学校で行われていた図画教育――大人が描いた手本通りに模写させる――に対する批判です。自分も明治期にそういう教育を受け、図画の授業にはまったくつまらなかったと述懐しています。さらに同じことは文章、ひいては芸術一般にいえる、としています。

芸術に限らず、「いのちの石碑」などのアイディアもそうでしょう。はじめ、21基の石碑建立に1,000万円かかると分かった時、大人たちはさっさと「無理だ」と決めつけたようです。しかし、子供たちは光太郎文学碑の例に倣って募金で集めると言いだし、実際に僅かな期間で達成してしまいました。

昨日に引き続き、少し前に出た書籍を

140字の文豪たち

2020年7月20日 川島幸希著 秀明大学出版会 定価909円+税

漱石、鏡花、谷崎、芥川、太宰など文豪の魅力を、史実にもとづく知られざる言葉やエピソードによって紹介するツイッターの人気アカウント「初版道」。
その文学ツイートを作家別に再構成し、解説を書き加えた。巻頭には珍しい自筆原稿や署名本のカラー画像16ページを収録する。  
近代文学研究者で古書コレクターの著者にしか書けない空前の本。
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目次
 まえがき 太宰治ツイート 中原中也・宮沢賢治ツイート 梶井基次郎・川端康成ツイート
 芥川龍之介ツイート 佐藤春夫・菊池寛ツイート 萩原朔太郎・室生犀星ツイート
 志賀直哉・武者小路実篤ツイート 谷崎潤一郎・永井荷風ツイート 泉鏡花ツイート
 夏目漱石ツイート その他の文豪ツイート 文豪のいないツイート

川島氏は千葉県八千代市にある秀明大学さんの学長。近代文学初版本のコレクターとして知られ、『日本古書通信』さんに連載をお持ちだったり、こうして初版本などに関するご著書を出されたりしています。

また、かつては同大の学祭「飛翔祭」で、ご自慢のコレクションを公開。平成26年(2014)には『道程』の特装本が展示され、拝見して参りました。その後、同大近代文学展示館が開館、そちらでもコレクションの一部が閲覧可能です。

ツイッター上では「初版道」というアカウントを展開中で、本書はそちらに掲載されたツイートを再編したもので、最近、静かなブームの各種「文豪もの」とはまた異なる趣の内容です。

「初版道」では、時折光太郎に関するツイートがあり、本書にも載っているだろうと推理して購入したところ、「その他の文豪ツイート」で、やはり光太郎を取り上げて下さっていました。
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三好達治ともども、「イタ過ぎる」翼賛詩について。まさにお説ごもっともですね。
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『道程』について。ちなみに以前にも書いた記憶がありますが、国会図書館さんのデジタルデータに登録されている『道程』は、ここにある残部の改装版です。初版は大正3年(1914)ですが、国会図書館さんのものはその翌年。奥付にその旨が記載されていないので、そうと知らなければこれが初版と思いこんでしまうかもしれません。実際、ネット上などで『道程』の発行年を「大正4年(1915)」としてしまっている記述も眼にしたことがあります。注意が必要ですね。下の画像、左は当方手持ちの初版、右は国会図書館さんのものです。
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それにしても、賢治の『注文の多い料理店』が運動会の景品だったというのは驚きでした(笑)。

『道程』に関しては、巻頭のグラビアに画像も。
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表紙に「道程」の文字が見えないのでわかりにくいのですが、上から二段目、左から四冊目の、装画のない本がそれです。ちなみに一番手前の中原中也『山羊の歌』題字は光太郎揮毫です。

他の文豪の第一詩歌集ともども、「たとえ思想的に、あるいは技巧的に未熟であっても、その1冊に青春のすべてを賭けた著者の思いが、読者の胸に響く」。けだし、その通りでしょう。

その他、光太郎と交流の深かった文学者に関する「ツイート」がてんこ盛りで、興味深く拝読。目次にない「その他の文豪」の中には、光太郎の姉貴分・与謝野晶子や、盟友・北原白秋も取り上げられています。

オンライン書店で販売中。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

又、彫刻其のものよりも彫刻した図題そのものを貴ぶ様な傾きある今日の日本彫刻界の有様から考へてみると、其の自然に対する態度に於いて学ぶべき所がありはせぬかと思はれる。


雑纂「翻訳「ロダンといふ人(JUDITH CLADEL)」前書き」より
明治43年(1910) 光太郎28歳

原典は、ロダンの秘書を務めたジュディト・クラデルによる『Auguste Rodin : l'oeuvre et l'Homme』で、明治41年(1908)にベルギーのブリュッセルで刊行されています。

ロダン語録という点では、のちの『ロダンの言葉』(大正5年=1916)に通じますが、なぜかこの訳は『ロダンの言葉』、『続ロダンの言葉』(大正9年=1920)に組み込まれませんでした。

突発的に何もなければ、今日から3日間は、少し前に出た、光太郎智恵子に関わる刊行物をご紹介します。「少し前」=「最新刊にあらず」。言い訳させていただけるなら、以前にも書きましたが、コロナ禍のため新刊書店に足を運ぶ機会が激減しましたので、見落としがいろいろありまして……。

まずはコミックです

山と食欲と私 11巻

2020年1月15日 信濃川日出雄著 新潮社 定価520円+税
 
27歳、会社員の日々野鮎美は、「山ガール」と呼ばれたくない自称・単独登山女子。変態アウトドア女子・黒蓮に誘われ、いざ東北旅へ。しかし、高速道路を使わない夜通しドライブ/適当すぎる登山計画/鮎美を置いて行動など自由奔放な黒蓮にイライラを溜める鮎美。果たして旅の最後は笑顔になれるのか――。活火山・浅間山で有名人に遭遇/ついに小松原さんに「彼」が!? キャッシュレスの波が山にまで――など、意外性強めな11巻!
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目次
 115話 軽井沢・浅間山編① 離れ山とラスク
 116話 軽井沢・浅間山編② マグマとろとろ火山丼000
 117話 軽井沢・浅間山編③ ガス抜きの浅間嶽
 118話 ひやあつ残雪そうめん
 119話 限界! ぎゅうパンチョコバナナ
 120話 巻物と履き物
 121話 恋するウドナポ
 122話 かわいいこやでむすちまき
 123話 東北ギンギン山巡り編① 無計画の佐野ラーメン
 124話 東北ギンギン山巡り編② 安定のコンビニ朝ごはん
 125話 東北ギンギン山巡り編③ 風に吹かれてずんだ餅


というわけで、山ガールを主人公としたコミックです。ウェブコミックサイト「くらげバンチ」さんに連載されているもので、溜まったところで紙の本として刊行というスタイルのようです。

で、上記目次の色を変えた2話、第124話第125話で、智恵子の故郷・福島二本松に聳える安達太良山が描かれ、光太郎智恵子に触れられてています。ただ、ウェブ上と刊行されたものとで話数にずれが生じています。スピンオフなどの影響でしょうか。
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一時、令和改元の頃は安達太良山といえば「「令和」の元ネタの『万葉集』にも謳われた」という枕詞が流行りましたが、最近はそうでもなくなったようで、また『智恵子抄』が復権(笑)。

山ガールと言えば、平成29年(2017)には山ガール向けの月刊誌『ランドネ』さんが、やはり『智恵子抄』がらみで安達太良山をご紹介下さいました。また、山ガールではありませんが、キャンプ女子を主人公としたコミック「ゆるキャン△」第5巻では、ダイヤモンド富士の見えるスポットとして山梨県富士川町の光太郎文学碑を物語の舞台の一つにして下さっています。

今後もアウトドア女子の皆さんの各方面でのご活躍に期待します。また、『山と食欲と私』、今度はぜひ信州上高地のクラシックルートも取り上げていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

賢治さんはそのほか生活の中でせられたことが全部詩となり行動そのままが詩で、ラヂウムが放射されるように体から放射された一つ一つが詩ということがこちらへ来てこまかく聞いたり、みたりしてはつきりわかつた、


談話筆記「人間的な詩人」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

岩手の、それも街なかでなく郊外の山村の風土の中で暮らすうち、宮沢賢治の精神がより一層体感出来るようになったというのです。

全国の新聞各紙から、掲載順に4件。

まず『岩手日報』さん。10月28日(水)の掲載でした。

光太郎夫妻 思い出の毛布公開 花巻でホームスパン展

 花巻市太田の高村光太郎記念館(佐々木正晴館長)は、2016年11月に見つかったホームスパンの毛布を企画展で展示している。光太郎(1883~1956年)が妻智恵子に懇願されて購入し、妻亡き後も愛用していた。2人の大切な思い出も包み込まれた毛布に、来場者はぬくもりを感じ取っている。
 11月23日まで。会期中無休。午前8時半~午後4時半。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。
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10/5に始まった、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」に関してです。

光太郎遺品の中から見つかった、光太郎智恵子愛用の毛布が、岩手県立大学さんの菊池直子教授らの調査の結果、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認され、その毛布を中心にした展示です。

会期半分ほど終わったところでこうして記事を出していただけると、これまで知らなかった皆さんが「こんなのやっていたのか」と足を運んで下さるケースがあるそうで、ありがたいところです。

続いて仙台に本社を置く『河北新報』さん。同じく10月28日(水)、短歌に関するコラムです

うたの泉(1391)

東京に<ほんとの空>はないといふ 今はほんとの夜ももうない/矢澤靖江(やざわ・やすえ)(1941年~)

 東京には<ほんとの空>がないといったのは高村智恵子。詩人高村光太郎の妻です。『智恵子抄』の中にある詩「あどけない話」を踏まえた一首は、「今はほんとの夜ももうない」と切々と歌います。コンビニエンスストアの24時間営業をはじめ、東京に限らず、全国各地から静かで真っ暗な「夜」がなくなってしまいました。便利な世の中にはなりましたが、何か大切なものを失ってしまったような気がします。歌集『音惑星』より。
(本田一弘)

矢澤靖江氏、現在もご活躍中の歌人です。解説を書かれた本多氏は佐佐木幸綱に師事された歌人だそうです。

真っ暗な「夜」」、たしかに街中では無くなりました。しかしまだまだ田舎では一歩街から外れると、まだ健在のように思われますが……。現に自宅兼事務所周辺がそうでして(笑)。

ちなみにこのコーナー、昨年は他の方の選により、光太郎本人の短歌もご紹介下さいました。

お次は全国紙で『読売新聞』さん。やはり10月28日(水)、夕刊の一面コラムです

よみうり寸評

都会を離れるか否か。葛藤する胸で二つの声がぶつかる。一方は<平原に来い>と呼びかけてくる。<透きとほつた空気の味を食べてみろ/そして静かに人間の生活といふものを考へろ>◆他方がいう。<絵に画いた牛や馬は綺麗だが/生きた牛や馬は人間よりも不潔だぞ/命の糧は地面からばかり出るのぢやない>。高村光太郎の「声」という詩である◆東京でこの3か月、転出者数が転入者数を上回る転出超過が続いている。地方の呼び声がやっと人々の胸に響き始めたようにも映る◆とはいえ、転出先には東京近県や他の大都市が目立つ。「コロナの影響で移動が減り、出ていく人が少なくなっている状況」とは島根県の担当者の分析だ。牛馬に親しむ暮らしを選ぶ人が増えたという話ではないらしい◆とはいえ、と再び書かせていただく。転出入を巡る2013年の調査からこの春まで、東京の転出超過は一度もなかった。一極集中是正のまたとない好機に今があるのは疑いなかろう。そこかしこで葛藤が始まるといい。

引用されている「声」は、明治44年(1911)の作。世界最先端の芸術を目の当たりにして、3年半に亘る欧米留学から帰朝、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界に絶望し、絶縁することを考え、北海道移住を企てたことに関わる詩です。全文はこちら。経緯についてはこちら

光太郎はこの時点では北海道まで実際に渡ったものの、少しの資本では牧畜など出来ないと悟り、また、頻発していた大火にも追い立てられ、すごすごと帰京しています。以後、昭和20年(1945)の空襲でアトリエ兼自宅を失うまで、東京暮らしでした。そして花巻に疎開、戦後は戦時中の翼賛活動への反省から、花巻郊外旧太田村で7年間の蟄居生活を送ります。

最晩年は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京、完成除幕後に短期間太田村に帰ったものの、宿痾の肺結核は山村での生活を許さず、また上京。そして、中野の貸しアトリエでその一生を終えました。結局、光太郎のトポス、アイデンティティーといったものは、いったいどこにあったのだろうと思わされます。

最後に『宮崎日日新聞』さん。こちらも一面コラムで、コロナがらみです

くろしお 正月休みの分散取得 2020年10月30日

 「冬の詩人」といわれた高村光太郎の作品に「冬が来た」というのがある。その書き出しはこうだ。「きっぱりと冬が来た」―。厳しい冬が訪れたさまを「きっぱり」という言葉が、見事に言い表している。
 冬も比較的暖かい本県は「きっぱり来る」という感じではない。ただ、年の瀬の到来はおそらくいずこも同じで「日々の生活に追われていたら、いつの間にかもうそこまで来ていた」といった具合ではないか。きのう、年賀はがきが発売され、改めてそう感じた。
 1年の大半を新型コロナウイルスの感染拡大という非常時の中で過ごした2020年。当然、年末や来年の年始も例年とは違う。西村康稔経済再生担当相が先日、年始の休暇を1月11日まで延ばすよう企業や自治体に要請すると表明。人の移動を分散させる措置だという。
 当初は「休暇の延長」と受け取られ、経済界には期待の一方で困惑の声も上がった。通常国会の召集時期など政治日程に影響するため、足元の自民党にも動揺が広がった。結果、党は火消しに走り、西村大臣は「休みを機械的に11日までとせず分散して取ってほしいということ」と釈明する事態に。
 この問題は、これで幕引きとなるのか。突然出てきた政策が二転三転するのはコロナ禍の中のデジャビュ(既視感)だ。正月休みがどういう形になるかで、予定が大きく変わる人は多かろう。「こういう方針です」と、初めから示すべきだった。きっぱりと。

これからの季節、「冬が来た」(大正3年=1914発表)などの光太郎の冬に題材を採った詩がいろいろ引用されるように思われます。というか、引用して下さい(笑)。

【折々のことば・光太郎】

われわれは彼にこそ日本に於ける預言者的詩人の風骨を見るのである。

散文「預言者的詩人 野口米次郎氏」より
 昭和18年(1943) 光太郎61歳

野口米次郎は光太郎より8歳年長の詩人。慶應義塾大学で英米文学を学び、明治26年(1893)、中退して渡米、英語で詩作品を発表。イギリスを経て同37年(1904)に帰国後は、慶応義塾で教鞭を執りました。彫刻家のイサム・ノグチは滞米中に現地の女性との間に出来た子供で、光太郎が借りる前に、中野の貸しアトリエを借りていました。

無理くりですが、当方など、光太郎にこそ「預言者的詩人」という姿を見ます。「預言者」はキリスト教などで神の言葉を人々に伝える者。ノストラダムスなどの「予言者」ではありません。

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