2020年10月

京都知恩院さんのライトアップ。光太郎の父・光雲原型制作の聖観音像もライトアップされます。毎年、春秋2回行われていたのですが、今春はコロナ禍のため中止。一年ぶりの開催となります

秋のライトアップ二〇二〇

期 間 : 2020年11月7日(土)~11月29日(日)
時 間 : 17時30分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       三門下周辺、友禅苑、女坂、国宝御影堂
料 金 : 大人500円(高校生以上) 小人300円(小・中学生)

この世の苦しみにあえぐあらゆる人々に寄り添いたい。阿弥陀如来は修行時代にそう願ったと『無量寿経』に記されています。浄土宗では八百年以上にわたりこの願いを語り継いできました。
ライトアップの煌めきは未来を照らす祈りの灯火。御影堂に響くお念仏の声は日々を粛然と生きる願い。
知恩院で過ごすひとときがコロナ禍の心にやすらぎをもたらすよう祈念いたします。
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主な見どころ

国宝 御影堂
寛永16(1639)年、徳川家光公によって建立されました。
間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
御影堂の夜間の内部拝観は平成23 年以来9年ぶり。
御影堂の落慶後、初めてのライトアップとなります。

国宝 三門
元和7(1621)年、徳川秀忠公が建立した 高さ24m、幅50mの日本最大級の木造二重門。悟りの境地に到る「空門」「無相門」「無願門」(三解脱門)を 表すことから三門といいます。※楼上には上がれません。

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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001※ライトアップ期間中、白寿庵にて笙の音色を聞くことができる日があります。(不定期で5日間ほど)

聖観音菩薩像、明治25年(1892)の作で、東京美術学校として依頼を受けたものです。木造原型は美校の後身・東京藝術大学さんに収蔵されています。

関連行事として、法話「“今”だからこそ伝えたい仏教(こと)」、限定御朱印「円光大師」授与、フォトコンテスト、川柳コンテスト等が企画されています。例年ですと、さらにコンサートなども開催されていたのですが、やはりコロナ禍を意識してそのあたりは自粛なのでしょう。

例年と異なるといえば、入場料。「御影堂落慶の喜びをより多くの方に感じていただきたく、本年は特別料金となっております」だそうで、調べてみましたところ、昨年までは大人800円、子供400円だったのが、それぞれ500円、300円とのこと。

コロナ禍といえば、今回のライトアップ開催にあたって、いろいろ意見もあったようですが、コロナ禍の今だからこそ、多くの方々を癒やしたいと考え、実施に踏み切られたそうです。詳しくは下の動画をご覧下さい。


というわけで、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

人間には自己表現の本能があり、青少年期に達し自己表現の道を与へないと自己を破壊する

散文「工場の美化運動」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

戦時下の荒んだ世相の中、光太郎は人心が荒廃することを懸念していました。多くの翼賛詩も、それを防ごうと書かれたものです(中には鬼畜米英殲滅すべし、的なものもありますが)。

コロナ禍の現在にも通じるところがありますね。「自己破壊」の最たるもの、自ら死を選ぶ芸能人の皆さんのニュースが多く、心が痛みます。コロナ禍と無縁ではないでしょう。

そして、こんな時だからこそ、寺門を開くという知恩院さんの取り組み、評価したいと思います。

福島県から作品募集の案内です

【作品募集】第6回 ふくしま 星・月の風景 フォトコンテスト

ほんとの空”のあるふくしまの星・月の風景をあなたの感性で捉えて下さい。

 郡山市ふれあい科学館では、星や月の輝く夜とともに、福島県の豊かな自然・そして人の暮らす風景を捉えた写真作品を募集し、広く全国に紹介することを目的に「ふくしま 星・月の風景 フォトコンテスト」を開催いたします。

 星や月の輝く夜空と地上の夜の景色の融合した風景、月明かりに照らされた幻想的な夜の風景など、あなたの視点での「星・月の風景」を撮影してご応募ください。

 応募締切は、2020年11月8日(日)です。みなさまの感性で捉えた作品をお待ちしております。

作品テーマ 福島県内で撮影された、星・月の風景
※星空や月と風景を併せて写した「星景写真」
※月の光を効果的に生かして撮影された「月光写真」や、湖面に映る星などを捉えた写真など、"星や月を感じられる"風景写真を広く対象とします。

【注意】比較明合成を含め、画像合成などの加工を施した写真は今回の募集対象外です。(カメラの撮影モードで、上記と同様の処理がなされた作品も対象外となります。)
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応募締切 2020年11月8日(日) ※消印有効

送 付 先
〒963-8002 福島県郡山市駅前二丁目11番1号
郡山市ふれあい科学館 ふくしま星・月の風景フォトコンテスト係
※直接持参される場合は開館日の10時~17時の受付となります。

審 査 員
【全体審査】
 鈴木 一雄 氏 (自然写真家/福島県出身)
 渡部 潤一 氏 (天文学者/福島県出身)
 郡山市ふれあい科学館長
【特別賞審査】
 松本 零士 名誉館長 (名誉館長特別賞選定) ほか

選 賞
【大賞】1点(副賞5万円) 
【名誉館長特別賞】1点(副賞3万円)
【審査員特別賞】2点(副賞3万円) 
【特別賞】5点程度  
【入賞】30点程度
※表彰者には、作品写真集を贈呈いたします。

応募規定/応募形式
・カラープリント 四つ切(254×305mm)、ワイド四つ切(254×365mm)、A4サイズ、B4サイズ
※今回から応募はプリントのみの受付となります。
※トリミングの有無を応募用紙に記入してください。
※画像処理による被写体自体の加工、極端な色彩の変更を加えた作品は失格とします。また、倫理に反する(立ち入り禁止区域での撮影、木の枝を折るなどの行為による)作品は、判明次第失格とします。

・応募点数に制限はありません
※発表済みの作品でも応募可とします。ただし他のコンテストで発表の場合、当該コンテストの規定等をご確認の上で応募ください。

・応募者のプロ・アマを問いません。モラルとマナーを守って、自然や周囲に配慮しての撮影をお願いします。

応募方法
作品1点ごとに、必要事項を記入した応募票を、作品の裏側にセロハンテープでとめて応募ください。

作品の返却
プリントの返却はいたしません。

作品の著作権
応募いただいた作品の著作権は、基本的に撮影者に帰属するものとします。ただし、以下の点において、主催者が作品を使用する権利を有するものとします。
・写真展での展示(今後予定している巡回展を含む。)
・主催者が本事業に関連して発行する刊行物および雑誌・新聞等への掲載、インターネットへの掲載
・科学館事業における写真使用
・今後の本事業のための宣伝・広告のための印刷物への掲載
このほか(本企画の趣旨に合致した事業を実施するために行う展示への貸し出し、およびその宣伝広告のための印刷物への掲載許可など)については、その都度協議の上で対応するものとします。

選考と発表
選出作品については、新聞紙上・カメラ雑誌・郡山市ふれあい科学館ウェブサイトなどで氏名とともに発表いたします。また、令和2年度以降に郡山市ふれあい科学館で行う写真展、および作品写真集「ふくしま 星・月の風景 Vol.6」に掲載します。

※選考後に、作品原版(ポジ・データ)の提出をお願いする場合があります(原版は一定期間後に返却いたします)。また、応募時より詳細な撮影データ(特に撮影地と撮影年月日)についても、お伺いすることがあります。

※2020年12月以降に、各受賞者へ審査結果を通知いたします。

個人情報の取り扱い
応募に際していただいた個人情報は、郡山市ふれあい科学館が管理し、本コンテストの実施運営に関わる作業のみを目的として使用いたします。個人情報は、契約に基づく委託先を別として断りなく第三者には提供いたしません。

審査結果を発表する際には、表彰者の賞名、作品、作品タイトル、氏名、住所(市町村まで)を公表いたします。

主 催 郡山市ふれあい科学館(公益財団法人郡山市文化・学び振興公社)
    郡山市 郡山市教育委員会
協 賛 (株)シグマ (株)ケンコー・トキナー
後 援 福島県 一般社団法人郡山市観光協会 福島民報社 福島民友新聞社 
    朝日新聞福島総局 毎日新聞福島支局 読売新聞東京本社福島支局 NHK福島放送局
    福島テレビ 福島中央テレビ 福島放送 テレビユー福島 ラジオ福島
    ふくしまFM 郡山コミュニティ放送ココラジ
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前回は平成29年(2017)に募集があった第5回ですので、約3年ぶりとなります。さらにその前の第4回の際は、当方、郡山で入賞作品展を拝見して参りました。

かなりのハイレベルですが、腕に覚えのある方、ぜひ福島の「ほんとの空」(ただし「星・月の風景」ですから基本的に夜間でしょうが)の素晴らしさを広めるためにも、お力をお貸し下さい。


【折々のことば・光太郎】gp15411

目がさめたらおきたまへ

短句揮毫 時期不明

都内の古書店さんの在庫目録に載ったものです。

薄鶯色漉模様入りの短冊にしたためられています。

筆跡的には光太郎に間違いないのですが、書かれた時期、経緯等不明です。また、「目がさめたらおきたまへ」、意味もよく分かりません。もしかすると光太郎が訳した外国の小説や戯曲などの一節かも知れません。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生は現物をご覧になったそうで、あとで当方に「意味がよく分からないよね」とおっしゃっていたのを昨日のことのように思い出します。

ところで、ネットオークションにはしょっちゅう、というか常に、光太郎書の偽物が出品されています。現在は、このブログにかつて本物の画像を掲載したものを真似て書いたものも出品されています。出品者が偽物制作に関わっているのか、偽物と知らずつかまされたものを出品しているのか、何とも言えませんが……。

また、だいぶ前に、疑問点を投稿し、答えて貰う的なサイトに、光太郎書の画像が出、「これは何と読むのでしょうか?」と質問が。そこで、「それはこう読むのですよ」と解答したところ、すぐに質問自体が削除されました。普通、「ありがとうございました」的な返信があるのですが、それもなく、「?」と思っていましたら、程なくその文言を書いた偽物が、やはりネットオークションに出品されました(笑)。それ以来、基本的にその手のサイトには光太郎に関する質問が出ても答えないことにしています。

それにしても、「光雲作」と謳っている木彫にしてもそうですが、レベルの低い偽物(少し前にも書きましたが、富山県の悪徳業者が大量に出しています)が横行しています。それでもけっこう売れているのが不思議なのですが、どうもやはり悪徳骨董業者が偽物と知りつつ買っているようですね。結局、最後は誰かをだまして売りつけるのでしょうが、そのための偽物も自分で作るのは面倒なので、ネットで購入しているのだと思います。なげかわしいかぎりです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の建つ十和田湖でのイベントです。

状況をわかりやすくするため、地方紙「東奥日報」さんの報道から

霊場を空中散歩、岩登りも/十和田湖「自籠岩」へガイドツアー/東京の企業が実証実験、11月8日まで

 十和田湖の中山半島にある霊場の一つで、昔修験者がこもったと伝わる自籠岩(じごもりいわ)へのガイドツアーの実証実験が24日から現地で始まる。ワイヤと滑車を使った滑空や岩場を登るクライミングを組み合わせた企画。森林を活用した自然共生型アウトドアパークを運営する企業「パシフィックネットワーク」(東京)が主催し、環境省が協力。11月8日まで実施する。23日に報道機関向け内覧会を行った。
 同社はアウトドアパーク「フォレストアドベンチャー」を国内34カ所で運営している。東北での活動は初の試み。十和田八幡平国立公園管理事務所が「国立公園満喫プロジェクト」の「十和田八幡平国立公園ステップアッププログラム2020」の取り組みとして協力する。十和田信仰に触れる場所として自籠岩の散策路活用の可能性を模索する。
 ツアーは乙女の像を出発点に、1時間半~2時間で巡る。コース上に長さ10~60メートルのワイヤを張り、滑車で移動する5カ所のポイントを設置した。十和田湖伝説の南祖坊(なんそぼう)が修行したとされる自籠岩は、湖面からの高さが40メートル以上。登り口から20メートル以上をはしごやワイヤロープを使って登頂する。山頂からは休屋地区の桟橋が望め、湖面など雄大な景色が楽しめる。
 ツアーは毎日3回(午前10時、正午、午後2時)行う。1回の参加は最大7人まで。身長140センチ以上、小学4年生以上、体重100キロ以下で18歳未満は保護者同伴が条件となる。参加費は1人3千円。申し込みは予約優先で、ツアー専用アドレス(https://www.facebook.com/viaferrata.towadako)か同社(電話080-7357-5259)へ。
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コミュニティFM局「鹿角きりたんぽFM」さんでも報じています

空中散歩ツアー」を実証実験 十和田湖

 秋田と青森にまたがる十和田湖で、ロープにつり下がって滑走する遊びなどを楽しむツアーが企画され、そのコースが報道陣に公開されました。
 これは、十和田湖を世界級の国立公園にするための国の取り組みの一つで、休屋地区にある登山道を観光で使う道を探ろうと、実証実験のガイドツアーが企画されました。
 この登山道は人気スポット「乙女の像」から、十和田湖伝説に登場する修行僧がこもったといわれる「自籠岩(じごもりいわ)」までのおよそ500メートルで、地元の人によりますと現在通る人はいませんが、そのストーリー性やロケーションが着目されました。
 今回のガイドツアーではその登山道に、ロープにつり下がって滑走する場所や、自籠岩を登るクライミングのコースが設けられました。
 その開始を前に23日、ツアーで使うコースが報道陣に公開されました。
 ロープにつり下がって滑走する場所は5か所あり、湖の10メートルほど上を渡る場所や、70メートルほどの距離を一気に滑走する所などがあり、スピード感とスリルが楽しめます。
 またクライミングのコースは、初心者でも昇り降りできるようにはしごなどが設けられていて、冒険気分を味わいながら登った、高さおよそ40メートルの岩の頂点では、湖や紅葉の森の絶景が広がっています。
 全国で冒険の森の施設を展開し、今回のガイドツアーを受託した会社「パシフィックネットワーク」の伊藤智幸ディレクター(52)は、「紅葉の中の滑走や、岩のてっぺんからの絶景を多くの人に楽しんでほしい」と話しています。
 環境省は今回の実証実験の結果を基に、実現性について探ることにしています。
 このツアー「十和田湖自籠岩・空中散歩ツアー」は24日から来月8日まで、毎日3回行われ、小学4年生以上の人が、1回3千円で参加できます。

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というわけで、ツアーの概要

⼗和⽥湖⾃籠岩・空中散歩(ヴィアフェラータ)ツアー

⼗和⽥湖の霊場の⼀つで、昔修験者が籠もったことからその名がついたと⾔われる「⾃籠岩(じごもりいわ)」へのガイドツアーです。岩までのアプローチはチロリアントラバース(※1)で空中を滑空し、岩にはヴィアフェラータ(※2)の⼿法を⽤いて登っていただきます。⾃籠岩の頂上から⼗和⽥湖を眺める景⾊をぜひお楽しみください。
(※1)チロリアントラバースとは、ジップラインとも呼ばれる滑⾞を使った空中滑空の⼀種です。
(※2)ヴィアフェラータとは、ワイヤーロープやはしご、⾜場など⼈⼯的な設備を設置することで経験の少ない登⼭者でも岩場や崖の上のルートを安全に登頂できる登⼭コースです。

○営業案内
 1. 営業期間︓2020 年 10 ⽉ 24 ⽇(⼟)から 11 ⽉ 8 ⽇(⽇)まで
 2. 催⾏回数︓毎⽇3回(10:00、12:00、14:00)
 3. 催⾏⼈数︓1 回あたり最⼤ 7 名まで(1 名から催⾏します)
 4. 利⽤条件︓⾝⻑ 140cm かつ⼩学 4 年⽣以上、体重 100kg まで
       18 歳未満は要保護者同伴
 5. 参加料⾦︓3,000 円/名
 6. 参加⽅法︓WEB もしくはお電話にてお申し込みください ※予約優先制
        https://www.facebook.com/viaferrata.towadako
        TEL︓080-7357-5259(10 ⽉ 12 ⽇〜11 ⽉ 8 ⽇のみ繋がります)
 7. ツアー詳細
 ・不整地の遊歩道を歩くハイキングと岩場に登るクライミングが融合したツアーです。
 ・ツアー⾏程は 1 時間 30 分〜2 時間程度となります。
 ・運動のできる服装と、⾜が完全に覆われた靴でお越しください。
 ・軍⼿等の⼿袋が必要となります。(現地受付で販売あり)
 ・⾬天は⾜元が滑りやすくなるため、ツアーの催⾏が⾒合わせとなる場合があります。
 ※感染症対策のため、マスクを着⽤していただきますので、ご持参ください。

本ツアーは、環境省が推進している「国⽴公園満喫プロジェクト」の中の、「⼗和⽥⼋幡平国⽴公園ステップアッププログラム 2020」において、⼄⼥の像から⼗和⽥信仰の重要な位置を占める⾃籠岩へと繋がる⾃籠岩歩道の活⽤を模索するための期間限定の実証実験として催⾏されます。

参加される⽅は、参加時に参加誓約書に署名いただくとともに、終了後アンケートへのご協⼒もお願いします。
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なかなか気分がよさそうですし、スリルもありそうです。アクティブであることを自認される140㌢以上100㌔㌘以下の方(笑)、ぜひどうぞ。

ちなみに例年2月に行われている「十和田湖冬物語」。今シーズンはコロナ禍のため、形態を変えて来月中旬から開催されるそうです。また近くなりましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

人を感動せしむるものは説にあらず。その節の由来にあり、人に在り。

散文「ある日の日記」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

昨日幕を開けた国会でのかみ合わない論戦(もどき)を見ていても、つくづくそう思いますね。

3件ご紹介します。

まず、『読売新聞』さんの朝刊一面コラム、10月24日(土)の掲載分

編輯手帳

来年の干支(えと)「丑(うし)」にちなんだダルマ作りが神奈川県平塚市の製作所でピークを迎えているという。本紙オンラインが着色の済んだ縁起物の写真を掲載していた◆「牛の歩みのように、ゆっくりでも前に進める年に」と主人の荒井星冠さん。まさにそうですねと相づちを打ちつつ、高村光太郎の詩「牛」が頭に浮かんだ。<牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く>と始まる◆のろのろとさえ行きたいところへまっすぐに進めなかったのが、残り2ヵ月となった2020年だろう◆春先を振り返ると、本当にあったことなのかと疑いたくなる。学校が休みになり、家から出るなと言われ、患者数の増加や亡くなる方の訃報に触れて過ごす日々――一時はみんなで迷子になったかのような不安が暮らしを取り巻いた◆コロナ禍はまだ去ってはいないものの、何とかすべく足を踏み出していることは確かだろう。光太郎の詩には次の一節がある。<ひと足、ひと足、牛は自分の道を味はつて行く>。のろのろであれ、歩いてよかったと思える来年になるといい。

同じ読売さん、夕刊の一面コラム「よみうり寸評」でも、先月、「牛」を取り上げて下さいました。引用されている詩「牛」全文はこちら。全部で115行もある長大な詩です。

続いて『日本経済新聞』さん。舞踊家・俳優の麿赤兒さんご執筆のコラム的記事。10月22日(木)に掲載されました。

ジャポニズムあれこれ 舞踏家 麿赤兒

昔見た映画でちょっとした感慨を覚えた事がある。イギリス映画だ。おそらく、ロンドン、パリ万博辺りの時期が舞台となっているようだ。ある演出家が、何やら自分の創作意欲も失せて落ち込んでいた。見かねた奥さんが、気晴らしに博覧会に行こうと誘う。渋々連れ立って出かけたが、何を見ても興味を唆らない。その内、日本の芝居を演っている場所に来た。少しは惹(ひ)かれたか、しばらくボンヤリ観ていると、コレだと何やら閃(ひらめ)いた。突然、明日からレッスンだ準備にかかる!と急ぎ足。

翌日、稽古場に呼ばれたのは昨日の舞台に出ていた端役の娘たち。島田髷(しまだまげ)に粗末な着物、素足に日和下駄。なんのことやらと、手を口元にモジモジと恥ずかし気。その姿をじっと見ていた例の演出家、娘たちにそのまま向こうからこちらに歩いてくれと指示を出す。言われた通り、カラコロカラコロ内股小走りに、中腰ナヨナヨ柳腰。そこに同じく集められた、タイツにレオタード姿のバレエダンサーたち数人。演出家が、娘たちのステップと動きをマスターせよと指示を出した。長い足、腰の高い彼女たちにはなかなか難儀だが、一心不乱の姿はなんとも微笑ましくも滑稽だ。この演(だ)し物が喝采を浴びたかどうか、おそらく成功しなかっただろう。残念ながら映画としての最後も記憶していない。

だが私は、この演出家の視点は好ましく面白いと思った。娘たちの歩行や姿態を舞踊の1メソッドとしてとらえようとしていたからだ。より追求すればチュチュ姿でも異化効果を起こし、斬新な技法のひとつになったかも知れぬ。娘たちにとっては日々の生活習慣のなかで無意識に会得された様態だ。和服としての着物の拘束があり、裾が乱れないためには自然に内股で小幅の一歩一歩が求められる。親の躾(しつけ)もさることながら、何かと恥じらう娘の年頃にもなれば自ずとそうなる。演出家もそこまで思い至らなかった。そこで私は土方巽が、秋田の農民の「ガニ股」をメソッド化して、世界のダンスシーンに衝撃をもたらしたことを連想したのだ。

ロンドンやパリでの万博を機に、鎖国久しい謎の国からベールを脱いだ出品物はエキゾチシズムをかき立て、それ以上にジャポニズムなる言葉を生み出すほどの熱を帯びだした。工芸品は職人たちに、浮世絵は錚々(そうそう)たる画家たちに深く影響を及ぼした。それからは文明開化の波に乗り、欧米への芝居、舞踊の興行も敢行された。川上音二郎、貞奴を先駆けに数年後、花子の劇団が渡欧し各地で公演、喝采を浴びている。これらにも名だたる芸術家が立ち会っている。「フジヤマ」「武士」「ゲイシャ」は北斎、広重の絵、音二郎、貞奴の芝居等で日本の象徴になる要因にもなったとも言える。

マルセイユでロダンが花子の芝居を見て、その苦悶(くもん)の表情に心打たれ、モデルとして招き、作品をいくつも制作した。ちなみにロダンは、その何年か前に貞奴にもモデルを頼んだがすげなく断られたそうだ。いずれにせよ彼を惹きつけた引力の秘密には興味が湧く。他の名だたる芸術家にもそれは言えることだ。そういえば、映画監督の岩佐寿弥氏によるTVドラマ「プチト・アナコ~ロダンが愛した旅芸人花子」(1995年)に我が舞踏団の舞姫であった古川あんずが花子の役で出演した。私は高村光太郎役でチョット、ヨロシク。

そして私は、引力の秘密は何か、と問い続けている。100

花子」は本名太田ひさ。確認できている限り、ロダンの彫刻モデルを務めた唯一の日本人です。そのため、昭和2年(1927)、ロダンの評伝を書き下ろしで刊行するに際し、光太郎が岐阜にいた花子のもとを訪れてインタビューも行っています。平成30年(2018)には、岐阜県図書館さんで「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」展が開催され、光太郎から花子に宛てた書簡や名刺なども展示されました。その折りに、関連行事として、上記『日経』さんで紹介されている、平成7年(1995)テレビ朝日さん制作の「プチト・アナコ~ロダンが愛した旅芸人花子~」の上映があり、当方、拝見して参りました
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それにしても麿さん、川上貞奴がロダンのモデル依頼を断ったというエピソードをよくご存じだな、と感心しました。

明治43年(1910)、雑誌『婦人くらぶ』に掲載された光太郎の散文(談話筆記?)「美術家の眼より見たる婦人のスタイル」より。

ロダン先生とマダム貞奴について面白い話を聞きました。ロダンといふ人は誰れにも知られてゐるとほり近代の大彫刻家ですが過般(いつぞや)例の女優の貞奴を彫刻にしたいと云ふことでそれを申込んだのです。ところが、貞奴はその画室に招かれることを厭(きら)つたのか其れとも他に事情があつた為ですか、兎に角断わつてしまつたと云ひます。大変に惜しいことをしました。ロダン先生の手で、日本人を彫刻にしたと云へば、如何(どんな)に興味の深いものだつたでせう。私どもから云へば、ロダン先生が東洋の人種を芸術の上に如何(どう)観られるか、どんなに表はされるかが知りたかつたにも拘はらず、永久に失望しなければならぬやうになりました。

実はこの時すでに花子がロダンのモデルを務めていたのですが、光太郎はこれについてはまだ知らなかったようです。

さて、もう1件。10月21日(水)、『千葉日報』さんから

【千葉まちなかアート】「千葉発祥の地」でアートと歴史堪能 亥鼻山の彫刻・石碑 (千葉市中央区)

 千葉県文化会館を核に文化施設が集まる亥鼻山(千葉市中央区)には、有名彫刻家が手掛けた屋外彫刻や石碑が点在。木々に囲まれた自然の中を散策しながら、アートと歴史を堪能できる。
 同会館の西側玄関前の広場で目を引くのは、カラスをモチーフにしたブロンズ像「道標」。柳原義達(1910~2004年)の著名なシリーズ作品で、荒々しく形作られた体や存在感のあるくちばしには、野鳥ならではの生命力の強さがみなぎる。風雨にさらされ経年劣化も激しいが、かえって命の凄みが強調されて見えるから不思議だ。
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 階段を上って庭園に出ると、耽美(たんび)な雰囲気にあふれた膝立ち姿の裸婦像に出合う。これはロダンの影響を強く受けた荻原守衛(1879~1910年)の最晩年の作品「女」(10年)。東京国立博物館所蔵の原型は国の重要文化財に指定されている。なお、台座は千葉大教育学部跡記念碑で、この地が同学部の創設の地であったことを伝える。
 庭園には佐藤忠良(1912~2011年)のブロンズ像「女・夏」、同じく佐藤作品で教育関係者の慰霊碑「教育塔」と一体となった「冬の子供」もある。
 隣接する亥鼻公園に抜けると、小田原城をモデルにした市郷土博物館の傍らで、この地に居城を構えた千葉氏の中興の祖、常胤の騎馬像が風格を放つ。近くの甘味処で名物の団子とお茶を味わいながら、この文化の薫る地が「千葉発祥の地」でもあることに思いを馳せるのも悪くない。

昨日も触れました、光太郎の親友・碌山荻原守衛の代表作「女」。いくつも鋳造されていまして、そのうちの1点が千葉市でも屋外展示されています。

柳原義達佐藤忠良は、光太郎より一世代あと、直接光太郎に師事したわけではありませんが、光太郎のDNAを受け継いだと言っていいでしょう。

亥鼻山、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】004

思想の伸張、輿論指導などに新聞の果す使明と影響は極めて大きいものがあるが小新聞にはこうした編集方針と全然変つた行き方を望みたい


散文「希望 親切な案内役を」より
 昭和23年(1948) 光太郎67歳

地方紙『花巻新報』に掲載されたもの。同紙は『岩手自由新聞』『岩手大衆新聞』『読む岩手』を統合して誕生した地方紙ですが、戦前にあった『花巻新報』の名を踏襲しました。その創刊号(というか復刊第一号というか)に載ったおそらく談話筆記です。「使明」は明らかに「使命」の誤植です。

題字は光太郎が揮毫し、昭和35年(1960)の終刊号まで使われました。創刊号(復刊号)のコラム「伯楽茸」でこの題字に言及されています。

◆本紙の題字は高村光太郎先生の筆だが、先生は本職の木彫のほか詩文、書画にも最高境地を示す日本文化界のえがたい宝だ◆稗貫郡太田村山口部落の山中に農民の飾りない敬いと親しみをうけて手作りの小家で天地草鳥を見つめ世界の大勢を案じている姿には大芸術誕生の脈動を感ずる◆所が世間はガサツなもので「私は遠方の者ですが、今度この辺へ用字があつて来たので一寸ツイデに寄りました」ナドと、寸暇をおしんで芸術に精進する老先生の大切な時間をムダにさせる文化人があるなどは、同じ「文化人」でも原子爆弾と竹ヤリほどのちがい

「用字」は「用事」の誤植ですね。

10月25日(日)、東松山市の市総合会館で開催されている「高田博厚展2020」拝観に伺う前に、隣接する比企郡川島町にある遠山記念館さんに立ち寄りました。
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こちらは日興證券(現・SMBC日興証券)創業者の遠山元一(明治23年=1890~昭和47年=1972)の旧邸宅を利用して建てられた施設で、遠山のコレクションを根幹とする美術館を併設しています。
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で、最近、こちらに光太郎の親友・碌山荻原守衛の代表作「女」(明治43年=1910)が所蔵・展示されているという情報を得ました。そこで、東松山に行くついで、というと何ですが、併せて拝見しておこうと思い立って立ち寄った次第です。

こちらが正面の長屋門。門だけでも当方自宅兼事務所を凌駕する大きさです(笑)。
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門をくぐると右手に美術館。
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拝観後に知ったのですが、扉上部のレリーフは、やはり光太郎と交流のあった笹村草家人の作だそうです。
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ロビーに「女」。
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本家の碌山美術館さんをはじめ、各地で「女」を拝見しましたが、何度見てもいいものです。

なぜここにこれがあるのか、と申しますと、先述の遠山元一が、昭和33年(1958)の碌山美術館開館に際し出資をしたということで、その際に新たに鋳造された10点の内の一つを贈られたのだそうです。鋳造は山本安曇。守衛と同郷で、明治期に「女」の最初の鋳造を手がけました。鋳金分野の人間国宝だった光太郎実弟の髙村豊周と同じ津田信夫門下で、豊周も最初の「女」鋳造に参加しています。
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白いブルーズ姿が山本、その後が豊周、明治43年(1910)の写真です。

先述の笹村草家人の作があるのも、同じ理由です。笹村は碌山美術館開館に尽力した人物です。

その他、現在の展示は「近代の皇室と茶の湯」。
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大正天皇の后、貞明皇后が天皇没後、本格的に茶道に取り組み、その関連の品々です。ただし、皇室旧蔵品は空襲により焼失、「控え」として作られた同工の作品が中心でした。

拝観後、受付兼ミュージアムショップで、一昨年に開催された特別展「遠山元一と美術」図録を購入。「女」や笹村の作品について言及されていましたので。
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今回、実物は見られませんでしたが、笹村による遠山の肖像彫刻も所蔵されているとのこと。

美術館をあとに、隣接する旧遠山邸へ。こちらも全体ではありませんが、公開されています。
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入っていきなり畳の配置が物凄いことになっていて、驚きました。昭和11年(1936)竣工で、90年前にこんなことをやっていたのか、と思ったのですが、そうではなく、川島町に居を構えていた彫刻家・長澤英俊の「作品」でした。
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ここ以外は、基本的に昔の通り。本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎実家に隣接する旧安田楠雄邸などもそうですが、古建築好きにはたまらないと思います。
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以上、埼玉レポートを終わります。
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【折々のことば・光太郎】

針は北をさす  短句揮毫 
終戦直後? 光太郎65歳頃

一見、色紙のようですが、粗悪なボール紙です。戦前から交流のあった詩人・佐伯郁郎に贈られた物で、岩手県奥州市の佐伯生家「人首文庫」さん所蔵です。

よく似た「いくら廻されても針は天極をさす」の句はしばしば揮毫されていますが、これは他に類例が確認できていません。

言わずもがなながら、「針」は光太郎自身の暗喩ですね。

昨日は埼玉県に行っておりました。2回にわけてレポートいたします。

メインの目的は、東松山市で開催中の「高田博厚展2020」拝観及び関連行事としての講演会拝聴でした。

彫刻家・高田博厚(明33=1900~昭和62年=1987)は、夭逝した碌山荻原守衛を別として、光太郎がほぼ唯一認めていた同時代の彫刻家でした。それもまだ海のものとも山のものともつかぬ本格的デビュー前からその才を見抜き、昭和6年(1931)の高田渡仏に際しては、「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会」を立ち上げ、その趣意書で広く援助を募るなどしました。そして実際に高田は国際的な彫刻家として大成しました。
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光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に帰国した高田は、当会の祖・草野心平、当会顧問であらせられた故・北川太一先生らと手を携え、光太郎顕彰活動にも取り組みました。そして光太郎を偲ぶ連翹忌会場で、やはり光太郎と交流があり、同市の元教育長を永らく努められた故・田口弘氏と意気投合。同市で展覧会を開いたり、彫刻を寄贈したりしました。それが現在の東武東上線高坂駅前の光太郎胸像(昭和34年=1959)を含む「彫刻プロムナード」として結実しています。

そうした縁から、鎌倉のアトリエにあった高田の遺作、遺品類などが同市に寄贈され、そのコレクションを根幹とした企画展示が毎年為されています。ただ、昨年は同市では台風19号による浸水被害等が深刻な状況で、中止となりました。

メイン会場は市役所向かいの総合会館1階。2年ぶりにお邪魔しました。
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鎌倉のアトリエから譲り受けた作品が中心。一角にはアトリエの一部を再現したコーナーも。
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具象彫刻の王道、といった感があります。

光太郎胸像は寄贈された中に含まれていませんで、高坂駅前の彫刻プロムナードに関するパネル展示で触れられていました。
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その後、第二会場的な「ギャラリー&カフェ亜露麻」さんへ。車で5分ほどでした。こちらでは高田の素描が展示されています。
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亜露麻さん、1階はおしゃれなカフェ、2階がギャラリーとなっていました。
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光太郎にしても、ロダンにしてもそうですが、卓越した彫刻家で素描が下手、ということはあり得ませんね。高田も例外ではありませんでした。

メイン会場の市総合会館に戻り、午後2時から、4階のホールで関連行事としての講演会。講師は高田の彫刻のモデルを務められた元NHKアナウンサー・室町澄子さんでした。本来、昨年行われるはずでしたが、先述の通り台風19号により中止となっていました。
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中止といえば、10月2日(金)には、同じく関連行事で、やはり室町さんや当方がパネリストのシンポジウムも開かれる予定でしたが、こちらはコロナ禍のため中止。来年に期待したいところです。

ちなみに室町さんは昨年、ご自身がモデルを務められた高田の彫刻と素描、それ以外にもアトリエでご覧になって気に入った素描、計7点を同市に寄贈なさいました。平時は1階で展示されていますが、昨日は講演会場の4階に運び上げられていました。
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森田市長のご挨拶に続いて、最初の60分ほど、室町さんがピンで、モデルを務められたきっかけとなった高田の番組出演や、その後の高田との交流などについて。
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その後、寄贈に対する表彰状の贈呈。
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さらに、森田市長と対談形式で30分ほど。
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印象的だったのは、ご自身の彫刻が、初めは「私にそっくりだ」と感じられたのに、制作が進むにつれて、だんだん自分に似なくなっていったというご感想。それに対し高田は、「10年後、20年後のあなたの顔と比べてご覧なさい」的なことを言ったそうです。光太郎も散文「彫刻十個條」で、「似せしめんと思ふ勿れ。構造乃至肉合を得ばおのづから肖像は成る。通俗的肖似をむしろ恥ぢよ。」と書いていまして、それを連想させられました。似ているか似ていないかは問題ではないのだ、ということです。ただ、だからといって何でもありというわけではなく、対象とした人物の精神性、内面、そういったものをきちんと表現すべしということでもありましょう。

同じことは高田作の光太郎胸像にも言えるようにも感じています。8月末に安曇野市の豊科近代美術館さんで拝見してきましたが、写真のように似ているわけでなくとも、光太郎そのもの、という感をあらためて抱かされました。

オフィシャルなプログラムは、ここまで。

この後、関係者のみにクローズド的に声がけがなされた、ノンフィクション作家・神山典士氏のトークイベントがありました。
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さらに会場を移して夕食を兼ねた懇親会。思いがけず旧知の方々にお会いできたり(特に今年は連翹忌の集いもコロナ禍で中止しましたのでなおさらでした)、新たに色々な方とつながりが出来たりと、実に有意義でした。

明日は、東松山に行く前に立ち寄った場所についてレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

天文学者が空をのぞいて計算を行ひ物理学者が原子を砕いて物質を変へ、彫刻家が木石を刻んで形象を起し、画家が絵具を費消して幻像をゑがく。いづれも一歩でも未知の世界に踏み入りたいばかりの人間の行状と思ひます。

アンケート「a.画家が描くといふ事を如何にお考へになりますか b.画家に何を要求なされますか」より  昭和14年(1939) 光太郎57歳


設問「a」に対する回答です。設問「b」へは「従つて画家に要求するところはやはり一歩でも未知の世界をひらいてくれる事です。」となっています。

設問が画家を指定してのものなので、画家が中心となっていますが、彫刻家は彫刻家で同じように木石を刻みつつ「一歩でも未知の世界」を追求すべしということですね。

高田博厚もこうした光太郎の精神を受け継いだと言えるのではないでしょうか。

智恵子の故郷、福島二本松から市民講座の情報です

智恵子講座2020

期 日 : 2020年11月3日(火・祝) 11月15日(日) 11月23日(月・祝) 12月20日(日)
会 場 : 福島県男女共生センター 福島県二本松市郭内一丁目196-1
時 間 : 11/3のみ14:00~ 他は10:00~
料 金 : 通しで4,000円 各回1,000円
主 催 : 智恵子のまち夢くらぶ
申 込 : 熊谷 090-7075-6743



テーマ 「高村光太郎の人生と芸術」
彫刻家であり詩人で智恵子の夫の高村光太郎。十和田湖畔の裸像や詩集「智恵子抄」「道程」は余りにも有名。智恵子と共に美と愛を貫いたその人生と芸術に迫ります。 参加者に「智恵子抄」をプレゼント。

講師
11/3   西浦基  (高村光太郎研究会)
11/15 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
11/23 熊谷健一 (智恵子のまち夢くらぶ代表)
12/20 澤正宏  (福島大学名誉教授) 
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というわけで、当方も講師に名を連ねさせていただいております。当方はパワーポイントのスライドショーを使い、光太郎の生涯を総合的、俯瞰的に紹介する予定です。

コロナ禍でいろいろ中止になるイベントが多い中、貴重な機会です。1回のみの参加も可。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

教わつてできたものではなく、こつちが圧倒される、賢治の詩を本当に読める人は偉いものだ

講演筆録「岩手は日本の背骨 後編 ノロイが堅実」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

9月28日の地方紙『花巻新報』第115号に掲載された文章から。9月21日、賢治祭に因んで花巻文化劇場で開催された講演の筆録です。2回に分けての掲載で、10月7日発行の第116号に掲載された後編のみ、『高村光太郎全集』第20巻に収められていますが、それに先立つ前編を数年前に発見しました。

ある種、難解なところもある宮沢賢治の詩。わかったつもりでいる人が多いけれど、上っ面だけの理解にとどまっているのではないか、という箴言ですね。

地方紙『福島民友』さんの記事から

高村智恵子の紙絵、実物10点展示 11月24日まで二本松の記念館

000 二本松市出身の洋画家高村智恵子が病床で制作した紙絵の実物展示は11月24日まで、同市智恵子記念館で開かれている。紙の色合いや質感といった本物だからこそ分かる作品の魅力を味わえる。
 智恵子は精神を病み、入院先のゼームズ坂病院での2年間の闘病生活で千数百点の紙絵を制作した。作品は智恵子の才能が開花したなどと高く評価された。同館では高村家から譲渡を受けて24点を収蔵している。
 紙絵の紙質が悪く、照明などで劣化しやすいため同館は通常、複製を展示する。このため本物に触れる機会を―と年2回、収蔵品の中から10点を選び、実物を展示。今回は「青い魚と花」や「菊」「小鉢」が展示され、来館者が「奇跡」ともいわれる智恵子の紙絵に触れている。
 開館時間は午前9時~午後4時30分(最終入館は同4時)。水曜休館。入館料は高校生以上410円、小・中学生210円。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。

記念館に隣接する智恵子の生家では、智恵子の居室を含む2階部分の特別公開も実施中。『民友』さんでは過日、その件を報じて下さいましたが、今度は記念館での紙絵実物展示の件。一度に紹介してしまえばいいような気もしますが、もしかすると当ブログ同様、「ネタは小出しにする」ということなのかもしれません(笑)。
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以前にも同じようなことを繰り返し書いていますが、実物の紙絵は厚さ1㍉にも満たない中で、紙の重なりが微妙な立体感を生み出しています。これは精巧な複製であっても表現できないことで、やはり実物を見ていただきたく存じます。

実物展示は11月24日(火)まで(水曜休館)。併せて生家2階の公開にも足をお運び下さい。ただ、そちらは土日祝日のみですのでご注意下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然に帰れ、芸術は絶対である、純一である。

散文「貧弱なる個性の発露」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

心を病み、夢幻界の住人となった智恵子の紙絵。究極の自然に帰った芸術と言えるような気がします。

『朝日新聞』さんの岩手版に載った記事から。10月21日(水)の掲載だったようです

花巻の自然・動物パチリ 元教諭が写真展

003 花巻市の自然を中心に撮影を続けている同市下幅の元県立高校教諭、瀬川誠孝さん(82)の作品を集めた「残したい花巻の自然・写真展」が同市四日町1丁目の花北振興センターで開かれている。動物の生態や自然風景などを写した約30点が、高村光太郎ら岩手ゆかりの先人の言葉とともに展示されている。11月30日まで。
 水鳥を捕らえたタカの仲間のノスリや、卵塊の泡にまみれたモリアオガエル――。自然の一瞬をとらえた作品の数々は、北上川や周辺の山々を毎日歩き続けて見つけた光景を記録したものだ。写真の傍らに、瀬川さん自身が墨書した高村光太郎の「心はいつでもあたらしく……」や、石川啄木の「ふるさとの山に向ひて言ふことなし……」などの言葉が、語りかけるように掲げられている。
 瀬川さんは県立高校で40年以上化学の教諭を務めた。写真撮影を始めたのは40代からで、オオルリやハクビシンなどの生態をとらえた作品は、たびたび朝日新聞などで紹介されてきた。瀬川さんは「自然の中から生まれた先人の言葉に学び、新しいものを発見してきました。自然と人間の生き方について考えるきっかけにしていただければうれしい」と話している。

光太郎や啄木の言葉を添えて、というのがいいですね。調べてみましたところ、花巻市の花北地区コミュニティ協議会さんのページに案内がありました

残したい花巻の自然・写真展

期 日 : 2020年10/1(木)~11/30(月)006
会 場 : 花北振興センター ギャラリー 
      岩手県花巻市四日町一丁目1-27
時 間 : 午前9時~午後9時
休 館 : 期間内無休
料 金 : 無料

長年、花巻の自然を撮り続けている瀬川誠孝さん(82歳、下幅)の写真の中から、「残したい自然」として30点を選んでいただき、写真展を開催します(内容 野鳥11点、動物7点、祭り4点、風景8点)。

お近くの方、ぜひどうぞ。

もう1件、同じ日に載った記事。過日ご紹介した道の駅はなまき西南さんで販売が始まった「光太郎ランチ」について地元紙では既報ですので、後追い記事といったところです。

高村光太郎にちなんだ豪華弁当 花巻の道の駅で限定販売

 岩手県花巻市轟木に今夏オープンした道の駅はなまき西南に、彫刻家で詩人の高村光太郎の食事をヒントにした手作り弁当「光太郎ランチ」が登場した。毎月15日の1日限定で販売する。
 終戦後の7年間、同市太田の山荘で暮らした光太郎にちなみ、地元の女性グループ・ミレットキッチン花が、財団法人花巻高村光太郎記念会の協力で地元の食材を使って創作した。
 今月15日の第一弾は「牛肉ステーキきのこ添え」や「枝豆ご飯」など9品入りの豪華版で一食800円。「林檎(りんご)汁1瓶、牛肉百匁(もんめ)、納豆2最中7個などもらう。夜牛鍋」(1947年10月22日の光太郎日記)などの記述を参考にした。グループ代表の本舘博子さんは「光太郎さんはグルメとは聞いていたが、あの時分に牛肉を食べていたとか新たな発見で驚いた。光太郎さんを知ってもらうきっかけになれば」。
 光太郎が花巻に疎開するため東京を出発した1945年5月15日にちなみ、毎月15日に10食限定で発売する。季節の食材を使い、メニューは月替わりという。

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ちなみに10月15日(木)の販売分10個、花卷高村光太郎記念館さんの方によれば、あっという間に完売だったそうです。

コンビニ弁当などと比べると、800円というのは安くないと思いますが、素材がいいものですし(もちろんお味も美味にござりました)、手間も格段にかかっているわけで、やはりいいものはいい値段でも売れるということでしょう。他のメニューもありますし、10個限定というのがまたマーケティング的にはいい線なのかも知れません。

今後も完売状態が続いて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

制作の苦心は一口にはいえないが同じ像を二つならべるといふ行き方は若い人には無理で、老人の私だからやれたと考えている。

談話筆記「間に合つてよかつた 寒くなつたら山へ帰りたい」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」序幕式(昭和28年=1953の10月21日)に出席するため青森入りした際の談話の一節です。
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NHKさんで現在放映中の連続テレビ小説「エール」。作曲家・古関裕而をモデルとするドラマです。コロナ禍で収録が中断、再放送が為されていましたが、先月半ばから再開しました。

先週土曜日の『朝日新聞』さんの一面コラムで、最近の「エール」について記述がありました

天声人語 朝ドラの凄惨

朝ご飯を食べながら読んでいる方もいるだろうと思いながらいつもコラムを書いている。残酷な描写はできるだけ避けているが、あえて書く場合もある。戦争の悲惨さを伝えたいときだ▼NHK連続テレビ小説「エール」の作り手も同じことを考えたのではないか。今週放映された太平洋戦争の戦闘場面はあまりに凄惨(せいさん)だった。主人公の作曲家、古山(こやま)裕一が慰問先のビルマで銃撃に巻き込まれ、兵士たちの死を目の当たりにする▼古山のモデルは作曲家の古関裕而(こせきゆうじ)で「六甲おろし」「長崎の鐘」などで知られる一方、戦中は多くの軍歌を作った。ドラマで戦場の主人公は、戦争の現実を「何も知らなかった」と半狂乱にになる。自分の曲が若者を戦争に駆り立て、命を奪ったと悩む▼実際の古関は実践には巻き込まれなかったが、慰問などで3度従軍し襲撃を受ける寸前まで行った。自分の曲を口にしながら戦った人のことを思い「胸が痛む」と語ったこともある。ただドラマのように激しく自分を責めたのかは、自伝では判然としない▼芸術家や文学者、マスコミの戦争協力は何度も反芻(はんすう)せねばならないテーマだ。自責の念にさいなまれた人も、そうでなかった人もいる。ドラマは、もしかしたら古関の内面にあったもの、あるいはこうあってほしかった古関の姿を描こうとしているのではないか▼フィクションはときに歴史の本質に迫る力を持つ。戦後の古関は人々に希望を与える曲を作り続けた。来週以降どう描かれるかが楽しみだ。
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先週から今週にかけての「エール」、戦争を真っ正面から描き、実にいろいろ考えさせられました。窪田正孝さん演じる主人公・古山裕一の姿に、光太郎がダブるようでした。

裕一のモデルだった古関は音楽、光太郎は詩文と、ジャンルこそ違えど(光太郎にも戦時歌謡の作詞が数曲ありますが)、国民の士気を鼓舞するための作品を大量に世に送り出した点は同じです。
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そして裕一は、ビルマ(現在のミャンマー)へ。そこで、森山直太朗さん演じるかつての恩師と再会します。恩師は予備役の将校として駆りだされていました。
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即席の楽団を編成し、慰問演奏会を開こうとするものの、敵襲。銃弾を受けた恩師は裕一の腕の中で息絶えます。
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ちなみにこの戦場のシーン、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市での撮影でした。
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そして終戦。さらに裕一の元に、ショッキングな知らせ。二階堂ふみさん演じる妻の音(おと)の主宰する音楽教室の元生徒で、裕一を慕っていた近所の少年が戦死とのこと。少年は「若鷲の歌」に触発されて予科練に入隊していました。
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このあたり、光太郎が戦後に書いた連作詩「暗愚小伝」の構想段階で書かれた断片「わが詩をよみて人死に就けり」を彷彿とさせられます。

自責の念から作曲が出来なくなった裕一に、 北村有起哉さん演じる劇作家の池田(菊田一夫がモデルですね)が詰め寄ります。
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こうして生まれたのが、「鐘の鳴る丘」。史実では、もっと早く作曲を再開しているのですが、このあたりはドラマ上の演出ということで。
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さらには「長崎の鐘」、夏の甲子園のテーマ曲「栄冠は君に輝く」と繋がっていくのですね。

智恵子を既に喪い、独り身の光太郎は、戦後、花卷郊外旧太田村の粗末な山小屋で7年間の蟄居生活を送り、それを「自己流謫(るたく)」と称しました。「流謫」は「流罪」に同じ。公的には戦犯とされなかった光太郎でしたが、自らを罰したのです。

詩作は続けましたが、自ら「私は何を措いても彫刻家である」と宣言していた彫刻は封印。考え得る最も過酷な罰だったのではないでしょうか。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」で、その封印を解くまでに7年。長かったのか、短かったのか……。

戦時中、翼賛活動に関わったすべての芸術家が、心の中ではすべてそうだったと思いたいものです。

ちなみに先述の通り、「エール」のビルマでの戦闘シーン、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市での撮影でしたが、まだ戦前だった先月の放映では、自宅兼事務所から車で5分ほどの寺院でのロケがありました。音の妹・梅(森七菜さん)と、のちに夫となる五郎(岡部大さん)のシーンです。のべ3日間、使われました。
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こちらがその寺院、妙光山観福寺さん。
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こちらは平成26年(2014)のやはり朝ドラ「花子とアン」(吉高由里子さん主演、そういえば窪田正孝さんもご出演なさっていました)でもたびたび使われましたし、本堂は平成25年(2013)の大河ドラマ「八重の桜」(綾瀬はるかさん主演)で、京都の会津藩本陣・金戒光明寺として使われました。

郷土の偉人・伊能忠敬の参り墓(地元の遺族がお参りするための墓。正式な墓は都内です)などもあり、いいところです。昨日ご紹介した、新たに重要文化財に指定される犬吠埼などとも同じ圏内、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】009

日本の芸術といへば外国人はすぐに浮世絵とか三味線といつたものを連想する、珍しいもの、変つたものだけが日本の芸術だと思つてゐる

談話筆記「(日本の芸術といへば)」より
昭和16年(1941) 光太郎59歳

日本にも素晴らしい芸術がたくさんあるんだ、と、まあその通りですね。

ここで終わっていればいいのですが、この後、「これだから日本の国威が外国に宣揚されないのです、もつと日本芸術の本当の厚みとか深さといふものを彼等に知らせて精神的な圧力を加へてやりたい、このために日本芸術による国威を海外に示したいものだ」と続き、やはり戦時だなぁ、と思わせられます。

昨日、旧神奈川県立近代美術館の重要文化財指定についてご紹介しましたが、同時に千葉銚子の犬吠埼も指定される見通しとなりました。

『朝日新聞』さんの千葉版から

犬吠埼灯台が国の重要文化財に指定へ

014 千葉県銚子市の犬吠埼灯台と近くの旧霧笛(むてき)舎・旧倉庫を重要文化財(建造物)にするよう、国の文化審議会が文部科学相に答申した。その報もあってか、17日は冷たい雨にもかかわらず、観光客が次々と灯台を訪れていた。今回の指定で、県内の重要文化財の建造物は29件となる見込み。
 県教委などによると、灯台は太平洋に突き出た犬吠埼に位置し、全体的に白く塗られたほぼ円筒形で高さは約31メートル。船舶が北太平洋を安全に航行できるようと建造された。今も現役で、36キロ先まで光が届く。
 19世紀に日本で多くの灯台の建設に携わった英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンが設計し、1874年に初めて点灯した。点灯は日本で24番目。
 地震の多い日本で耐震性を高めるため、二重にれんがを積んだ技術が優れていることや、近代の航行の歴史を知る上で価値が高いとして評価された。
 旧霧笛舎は、海上に霧が広がり、視界が悪い時に屋根から伸びたラッパ状の筒から音を鳴らす。船が座礁しないように陸地の位置を知らせていた。
 灯台は海上保安庁が所有し、2010年に登録有形文化財になった。
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015 犬吠埼灯台は全国でも比較的交通の便がよく訪れやすい灯台として、長く銚子観光の中心にあった。だが近年、銚子観光はじり貧の一途だった。国の重要文化財という「格」を得ることで、観光復興のシンボルとしての期待が高まる。
 全国の灯台ファンも喜ぶ。「灯台マニア」を自認する東京都小平市の会社員平塚よう子さん(37)もその一人で、犬吠埼灯台を「3高」と評する。「岬にシュッと立ち、歴史があり、多くの人が訪れてお金を落とす人気者」と、かつての「もてる男子」の3条件になぞらえる。重文指定で「もっと大事にされてほしい」と話す。
 銚子海上保安部OBで計10年、同灯台の保守を担った銚子市の浦島弘巳さん(67)も感慨がひとしおだ。「5月にはこいのぼりを灯台の上から万国旗のようにはためかせてね。地震に強く、大地震でも水銀灯の水銀が少しこぼれるだけだった」と懐かしむ。続けてきた観光ガイドや灯台内部の清掃などの活動にも、いっそう力が入りそうだ。
 犬吠埼灯台や旧霧笛舎は、これまでは国の登録有形文化財だった。国の重文に指定されると、できる限り公開に努めることを課せられる。一方で、今も投光する現役の灯台でもある。
 市民グループ「犬吠埼ブラントン会」の仲田博史・代表幹事(72)は「耐震のために覆ってしまったコンクリートを一部でも壊し、建築当時のれんがの二重壁を見せるとか、霧笛を再開するかとか、議論が必要だろう。灯台本来の役割と文化財としての役割の両立が、これからの課題になる」と話す。

犬吠埼といえば、大正元年(1912)、光太郎が油絵制作のための写生に訪れ、それを知った智恵子がすぐ下の妹で智恵子と同じく日本女子大学校を出た・セキ、同じく藤井ユウと共に追って現れた場所です。

当方手持ちの戦前の絵葉書。
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宛名面には解説文。
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光太郎が泊まり、智恵子がのちに合流した旅館・暁鶏館から望む灯台。暁鶏館は建物や経営者は変わりましたが健在です。
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暁鶏館と灯台の中間あたりに、最初に智恵子が泊まった御風館。こちらは現存しません。
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旅館二軒は灯台の南側ですが、北側には二人で歩いた君ヶ浜。
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眺め自体は、現在もあまり変わっていません。

やはり戦前の観光案内パンフレット的なものも持っています。そちらには鳥瞰図が掲載されていました。
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灯台のすぐ下に「胎内クグリ」の文字があります。海蝕洞穴のようなものと思われますが、現在は見られないようです。

「犬吠」と書かれている左側の建物が暁鶏館。浜には生け簀が描かれています。現在は使用されていませんが、石組みは現存します。

その上(方角的には南になります)には「長崎」の文字。ここは光太郎詩「犬吠の太郎」(大正元年=1912)のモデルとなった、暁鶏館の下働き、阿部清助が住んでいた場所で、その墓も残っています。

犬吠と長崎の中間あたりに「外川」。市街銚子駅から伸びる銚子電鉄さんの終点で、現在、NHK BSプレミアムさんで再放送中の連続テレビ小説「澪つくし」の舞台の一つとなっています。イラストマップなので、若干、位置関係がおかしいのですが。

下の方(方角としては北)に目を転じると、君ヶ浜の南に「海鹿島(あしかじま)」。「プール」とありますが、海水を引き込んで造られたもので、当方の幼い頃にはまだ使われていました。

さて、これを機に、犬吠埼灯台、上記記事に有るとおり、観光再生の核となってほしいものです。さらには「光太郎智恵子純愛の故地」的な紹介のされ方も、もっとあっていいように思われます。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

パリが世界の魅力といふのは、パリといふものはフランスではない。フランスでもないしドイツでもない。どこでもない。パリといふものなのです。本当のフランスといふものは、フランス魂は田舎にある。

座談会筆録「現代詩の再出発」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

地方の風景を見て、「これが日本の原風景だ」と感じる感覚と同じでしょうか。

当方の住む千葉県北東部はそれなりの田舎でして、「日本の原風景」と感じるような場所も多くありますが、先週行って参りました光太郎第二の故郷ともいうべき花卷などもそうですね。

花卷といえば、NHK BSプレミアムさんで放映されている「にっぽん縦断 こころ旅」。火野正平さんが、視聴者の方々からの手紙を元に自転車で日本各地を訪れる番組ですが、今日の放映が花卷。午前7時45からの「朝版」は、冒頭部分、光太郎と交流のあった僧侶・多田等観が暮らし、光太郎も訪れた円万寺観音堂でのロケでした。ここからのビューは、花卷の観光案内などでよく使われます。
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これもある意味、「日本の原風景」ですね。
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この番組、「朝版」と、午後7時00分からの「とうちゃこ」に分かれていますが、「とうちゃこ」ではこの後に火野さんが宮沢賢治童話村に訪れるはずです。10月24日(土)にも再放送があります。ぜひご覧下さい。

ちなみに平成30年(2018)の放映では、光太郎が暮らした旧太田村の法音山昌歓寺さんが大きく取り上げられました。光太郎もたびたび訪れた古刹です。

新たに光太郎智恵子ゆかりの建造物が2件、重要文化財に指定される運びとなりました。

先週の『朝日新聞』さん記事から

京都・八坂神社本殿が国宝へ 重文に16件 文化審答申

 文化審議会は16日、京都市の八坂(やさか)神社本殿を国宝に、旧神奈川県立近代美術館(同県鎌倉市)など16件の建造物を新たに重要文化財に指定するよう文部科学相に答申した。

 八坂神社は疫病退散を祈願する祇園(ぎおん)信仰の総本社。今の本殿は1654年に、江戸幕府の4代将軍徳川家綱によって建てられた。通常、神社では参拝者が本殿の外からお参りするが、八坂神社は本殿の中に参拝者が礼拝する「礼堂」があり、供え物を置く棚もある。文化庁によると、この構造は鎌倉時代の資料や室町時代の図面にも記され、中世の信仰儀礼と建物の関係を示している。屋根の三方にはひさしが付いており、これは建物の面積を広げる平安時代の工法だという。同庁の担当者は「祇園祭を担う京都の人々が積極的に費用を出し維持に関わってきた点にも、文化史的意義がある」と話す。

 重要文化財に答申された旧神奈川県立近代美術館は、鶴岡八幡宮の境内にあり、日本初の公立近代美術館として1951年に建設された。モダニズム建築の巨匠・ル・コルビュジエに師事した坂倉準三(1901~69)が設計し、「日本の戦後モダニズム建築の出発点」として評価される。
 2016年の閉館後は存続が危ぶまれたが、土地を所有する八幡宮が改修し、昨年「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として開館した。保存のめどが立ち、答申となった。
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 北太平洋航路のための最初の灯台となった犬吠埼(いぬぼうさき)灯台(千葉県銚子市)など明治初めに建てられた4カ所の灯台も、重要文化財(重文)に指定される見通しになった。海上保安庁が管理する現役灯台では初めて。2018年の文化財保護法改正で、修理手続きなどが一部緩和されたことが後押しとなったという。

 重文の新規・追加指定は次の通り。文化審議会は、重要伝統的建造物群保存地区の選定も答申した。

 【重要文化財】旧札幌控訴院庁舎(札幌市)▽犬吠埼灯台(千葉県銚子市)▽明治神宮(東京都渋谷区)▽旧神奈川県立近代美術館(神奈川県鎌倉市)▽旧山岸家住宅(石川県白山市)▽旧中村家住宅(長野県塩尻市)▽坂戸橋(同県中川村)▽八勝館(名古屋市)▽紅葉谷川庭園砂防施設(広島県廿日市市)▽六連島灯台(山口県下関市)▽角島灯台(同)▽犬伏家住宅(徳島県藍住町)▽部埼灯台(北九州市)▽旧伊藤家住宅(福岡県飯塚市)▽西海橋(長崎県佐世保市、西海市)▽旧綱ノ瀬橋梁(きょうりょう)及び第三五ケ瀬川橋梁(宮崎県延岡市、日之影町)◇追加指定として八坂神社の疫神社本殿など(京都市)、遠山家住宅の米蔵など(京都府亀岡市)

 【重要伝統的建造物群保存地区】高岡市吉久伝統的建造物群保存地区(富山県)▽津山市城西伝統的建造物群保存地区(岡山県)▽矢掛町矢掛宿伝統的建造物群保存地区(同)


まず、鎌倉の旧神奈川県立近代美術館。
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昭和26年(1951)に開館、光太郎と交流の深かった土方定一が2代目館長を務め、光太郎が歿した昭和31年(1956)には、初の「高村光太郎・智恵子展」が開催されました。

永らく「カマキン」の愛称で親しまれましたが、平成28年(2016)に惜しまれつつ閉館。最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」では、光太郎作品も複数展示して下さいました。

コルビジェに師事した板倉準三設計のモダニズム建築ながら、土地の使用権の問題などもあったため、一時は建物の存続も危ぶまれていたのですが、無事、残ることとなりました。喜ばしいかぎりです。現在は鶴岡八幡宮さんに所有が戻り、「鎌倉文華館鶴岡ミュージアム」として運用されています。

『毎日新聞』さんの神奈川版から

近代建築の出発点 「旧県立近代美術館」国重文に 鎌倉・鶴岡八幡宮境内 撤去の危機乗り越え /神奈川

 鎌倉市の鶴岡八幡宮境内にある「旧県立近代美術館」が国の重要文化財(建造物)に指定される。設計は近代建築の巨匠、ル・コルビュジエに師事した坂倉準三(1901~69年)。撤去の計画もあったが、美術ファンらの要望で当地に残され、現在は「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として公開されている。モダニズム建築の傑作は撤去の危機を乗り越え、新たな歴史を刻む。【因幡健悦】

 旧県立近代美術館は日本初の公立近代美術館として51年11月に鶴岡八幡宮境内の一角に建設された。白い箱を柱で持ち上げたような外観が特徴で、59年に開館したコルビュジエ設計の世界遺産、国立西洋美術館(東京・上野)にも影響を与えたとされる。展示企画にも意欲的で、ムンクやクレーを紹介し人気を集めたが、県立近代美術館の葉山町移転などに伴い、2016年の閉館が決まった。敷地が境内にあるため、美術館としての役割を終えた後は、更地にして鶴岡八幡宮に返却される予定だった。 
 しかし、美術ファンや県民から存続を求める声が相次ぎ、鶴岡八幡宮が建物を引き取り、耐震補強など必要な工事を進めることになった。 工事は17年秋に始まり、坂倉のオリジナルデザインの再現を基本に進められた。モノトーンが流行した91年の大規模改修で、グレー主体に塗り替えられていた柱や扉はオリジナルに近い66年当時の茶色に戻されている。
 国の文化審議会では「戦後モダニズム建築の出発点となる建物として重要」と、その意匠が評価された。鎌倉市の国指定重文(建造物、国宝含む)はこれで23 件目となるが、近代建築の指定は初めて。

もう1件、大正元年(1912)に光太郎智恵子が訪れ、愛を誓った千葉銚子の犬吠埼に聳える犬吠埼灯台も指定される見通しですが、そちらについては明日。


【折々のことば・光太郎】018

何時頃出来上るか……それは同じ大きさのもので三ヶ年かゝるものもあれば一月(ひとつき)位で出来るものもあり、まだ、其んな事は一切考へてゐません。

談話筆記「(成瀬先生の)」より
 大正8年(1919) 光太郎37歳

「成瀬先生」は、智恵子の母校・日本女子大学校創設者の成瀬仁蔵。その胸像の制作依頼を学校から受けた際の談話の一節です。

像は光太郎自身が納得のいくものがなかなかできず、作っては壊し、造っては毀し、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。

画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影です。

先週の『福島民友』さんから。過日ご紹介した智恵子の生家2階部分の特別公開に関して報じて下さっています。

高村智恵子の居室特別公開 二本松の生家、当時の様子のままに

 二本松市出身の洋画家高村智恵子の生家を復元した智恵子の生家は10日、普段は見学できない智恵子の居室がある2階の特別公開を始めた。福島高等女学校を卒業するまで過ごした智恵子の少女期に思いをはせることができる。
 智恵子は、銘酒「花霞」を醸造した造り酒屋に生まれた。家族や使用人と共に暮らした家の2階のうち9畳と4畳半の2部屋を使っていて少女期はもちろん、夫で詩人、彫刻家の高村光太郎と結婚した後も帰省するとこの部屋で過ごしたといわれている。
 9畳の居室には、九谷焼で作られた電灯のローゼットが展示され、智恵子が中庭の花を眺めていたとされる連子窓も当時のまま。女学校で答辞を述べるなどした智恵子の暮らしぶりがしのばれる。
 特別公開は11月23日までの毎週末と祝日に行われている。時間は午前9時~午後4時。入館料は高校生以上410円、小中学生210円。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。
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九谷焼で作られた電灯のローゼット」は、天井に電灯を取り付ける器具。カバー部分が陶器製で、花柄があしらわれています。このブログ内で画像を探したのですが見つけられず(既に20,000枚を超えていますので(笑))、坂本富江さん著『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』から画像等拝借します。
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これを取り外しての展示なのかなどは不明なのですが……。

花巻高村光太郎記念館さんで、チラシをゲットして参りました。
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隣接する智恵子記念館での紙絵実物展示(通常時は複製のみ)についても案内が。

裏面は周辺地図等。
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毎年恒例とはなっていますが、やはり貴重な機会です。ぜひ足をお運びください。当方は来月、行って参ります。


【折々のことば・光太郎】

書を持っていると、そのことをいいことにしているような人には書きません。
談話筆記「高村光太郎先生説話 三四」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳

浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995)掲載の「高村光太郎先生説話」からの抜粋、今日で終わりです。

故・浅沼氏は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)近くの山口分教場が小学校に昇格した際、校長として赴任してきました。当時同校の児童だった子息の隆氏は今も光太郎の語り部としてご活躍されています。浅沼校長は折に触れ、光太郎の語った言葉を筆録していました。

最後の「三四」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京する直前のものです。「記念に何か書いてくれ」という要望が多かったのですが、「自分の書を持っていることを自慢するような魂胆の人には書かないよ」と、ちょっとドキッとさせられる発言ですね。

10月15日(木)、花巻高村光太郎記念館さんで企画展示「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」を拝見した後、レンタカーを道の駅はなまき西南さん(愛称・賢治と光太郎の郷)に向けました。10分足らずで着く距離です。
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こちらのテナントの一つ、ミレットキッチン花(フラワー)さんで開発された新メニューの弁当「光太郎ランチ」のお披露目会に呼ばれていました。
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レポートする前に、状況をわかりやすくするため地方紙二紙の記事をご紹介。

まずは『岩手日日』さん 

光太郎の好物弁当に 毎月15日「ランチの日」 10食限定 道の駅はなまき西南

 花巻市轟木の道の駅はなまき西南で15日から、花巻ゆかりの彫刻家高村光太郎が好んで食べていた物を入れた手作り弁当の販売が始まった。光太郎が花巻へ疎開するため東京をたったのが1945年5月15日だったことから、毎月15日を「光太郎ランチの日」とし10食限定で提供する。
 同道の駅には「賢治と光太郎の郷」の愛称があり、構内に併設されている食品加工女性グループ「ミレットキッチン花(フラワー)」(本舘博子代表)が開業前から、光太郎に結びつくメニューを考えていた。市の委託を受けて高村光太郎記念館(同市太田)を運営する「花卷高村光太郎記念会」の女性スタッフが4年ほど前から光太郎の食事を再現し、研究しているのを知った本舘代表が提案し、今年8月下旬から打ち合わせや試食などを重ね、協力して販売にこぎ着けた。
 同記念会では、光太郎が花卷で過ごした7年間のうちに残した日記や手紙にあった食に関わる記述を参考に、出来るだけ近づけて試作していた。
 弁当には地元産の食材をふんだんに使用。メニューは毎月変更予定で、第1弾は▽枝豆・青のりごはん▽ブリの醤油(しょうゆ)麹(こうじ)焼き▽牛肉ステーキのキノコ添え▽大豆のトマト煮▽キュウリのつくだ煮-など。光太郎が好んだ牛肉やキノコ、リンゴ、マメのほか、自分で栽培していたトマトやキュウリも取り入れた。
 15日には同道の駅でお披露目会が行われ、関係者ら10人余りが弁当を味わった。
 本舘代表は「光太郎がグルメだったことはあまり知られていないのではないか。弁当を通じて光太郎の意外な面に触れてもらえたら」と期待。同記念館女性スタッフの井形幸江さんは「戦後の食糧難の中、光太郎は健康な体をつくるため食べることを大事にしていた。道の駅に寄る地域内外の人に食べてもらい、光太郎の人柄や功績の普及につなげたい」と話していた。
 1食800円(税込み)。毎月午前11時ごろには店頭に並ぶ。問い合わせはミレットキッチン花=0198(29)5522=へ。

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続いて『岩手日報』さん 

「光太郎ランチ」始めました 花巻・道の駅で毎月15日、限定販売

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が、花巻市西南地区で過ごした際の日記を基にした「光太郎ランチ」弁当(800円)を地元の女性グループが開発した。
 「ミレットキッチン花(フラワー)」(本舘博子代表)が15日、同市轟木(とどろき)の道の駅はなまき西南で初めて販売。西南地区の食材をふんだんに使った。光太郎が花巻に向けて東京を出た45年5月15日にちなみ、毎月15日に限定10食を販売する。
 次回は来月15日午前10時半ごろから販売する。
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というわけで、お披露目会に参加して参りましたので、レポートします。

早く着いてしまったので、道の駅内をうろうろ(笑)。写真を撮り忘れましたが、先月は建設中だったファミマさんが敷地内にオープンしていました。
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JAいわて花卷さん直営の産直コーナー「すぎの樹」さん。平日でしたがにぎわっていました。
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その奥にミレットキッチン花(フラワー)さん。
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「光太郎ランチ」、お披露目会の前に既に販売されていました(笑)。
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視線を上げると壁に光太郎肖像画。先月は気付きませんでした(笑)。
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お披露目会会場のインフォメーションスペースへ。
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ハロウィン仕様です。
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すでにテーブルに「光太郎ランチ」。見るからにおいしそうです(笑)。
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参加者名簿も。当方、上田市長、道の駅代表取締役の根子氏と同じテーブルでした。
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やがて時間となりまして、開会。上記記事にありましたミレットキッチン花(フラワー)代表・本舘さんのご挨拶。
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そしていよいよ、待ちに待った「いただきます」(笑)。
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色どりもいい感じですね。

メニューが箸袋の中に。
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隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの連載「光太郎レシピ」にしてもそうですが、実際の光太郎日記などの記述から、現代風にアレンジして作られています。
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意外とボリューミーでしたし、品数が多めで飽きさせない工夫がされているな、と感じました。そしてやはり手作り感。お世辞抜きで(笑)美味しくいただきました。参会の皆様も同様だったようです。また、800円(税込み)という価格も妥当だろうと感じました。
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当方、食べるのに夢中で、皆さんの写真を撮るのを忘れており(笑)、正方形の写真は花巻高村光太郎記念館の方の撮影です。

自分の名が冠された施設で、自分の名が冠された弁当……泉下の光太郎も苦笑しつつ喜んでいるのではないかと思いました。「光太郎ランチ」、末永く愛されてほしいものです。

以上、花卷レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

開発も道路からでなくてはならないと思います。道路は誰かが一心になって、働きかければできないことはないのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 三三」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳

道の駅はなまき西南さん、広い県道13号沿いに作られました。この県道も道の駅も、地元の皆さんがその必要性を訴え、整備されたのでしょう。

光太郎、詩の代表作「道程」(大正3年=1914)でも謳ったように、「道」を絶えず意識する、「求道者」の生涯でした。

10月14日(水)、東京藝術大学さんで「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」を拝観後、上野駅から東北新幹線に乗り、一路、花卷へ。

午後2時半過ぎ、北上駅で新幹線を降り、レンタカーを借りて今宵の宿にして光太郎もたびたび宿泊した大沢温泉さんへ。
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湯治屋(自炊部)で、六畳一間。
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部屋の中になぜかコンロ。ガスの自販機付きです。炊事場にあるのは知っていましたが、これまで泊まった部屋にはありませんでした。
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窓を開けると豊沢川の清流。
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早速ひとっ風呂浴び、腰に手を当ててコーヒー牛乳の一気飲み。正しい「温泉あるある」です(笑)。

その後、8月にオープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんへ。
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テナントに入っている焼肉店「味楽苑」さんで、花巻高村光太郎記念館の皆さんと夕食。
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1ヵ月分くらいの肉を賞味しました(笑)。

宿に帰り、また温泉に浸かってぐっすり就寝。翌朝も暗いうち、起床と同時に露天風呂。命の洗濯です(笑)。
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売店で買い込んでおいたパンで朝食を済ませ、チェックアウト。花巻高村光太郎記念館さんを目指しました。
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先週から企画展示「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」が始まっています。花巻市総合文化財センターさんにお勤めの佐藤幸泰氏が中心となって構成されています。

光太郎遺品の中から見つかった、光太郎智恵子愛用の毛布が、岩手県立大学さんの菊池直子教授らの調査の結果、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認され、その毛布を中心にした展示です。
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昨年、2日間限定で、盛岡市の赤レンガ伝統工芸館にて展示されましたが、こちらでは初公開です。

光太郎生前の写真でこの毛布が写っているものがあり、提供しました。中央の横長2枚です。
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大正末か昭和初め、智恵子にせがまれて買い、2度の戦火(東京駒込林町、花卷宮沢家)をくぐり抜けて奇跡的に残った逸品です。

その他、直接光太郎に関わるものとしては、岩手ホームスパンの父、及川全三に贈った鎌倉書房『高村光太郎詩集』新装版(昭和26年=1951)。
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及川の弟子で、太田村山口出身の戸来幸子(正しくはサツ子)あての光太郎葉書(昭和25年=1950)。
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無事御帰国のおハガキを先日拝見しました、父上からもお便りをいただき恐縮に存じます、
御健康と存じますが、小生も相変らず元気でゐます。
この辺でももう田植がはじまりかかつてゐます、皆忙がしさうです。
ホームスパンを立派に織れるやうになつた技術は今後もすてずに大成されるやうに念じ上げます、御両親によろしく、

戸来は光太郎に山小屋の土地を提供した駿河家の血縁。光太郎の山小屋に再三届け物などで訪れ、光太郎の日記にその名が頻出します。駿河家でホームスパン製作や講習に取り組んでいましたが、戸来は北海道に嫁ぎ、旧太田村ではホームスパンが根付かなかった一因となったように思われます。

智恵子と織物に関しても触れて下さっていました。
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岩手は元々ホームスパンの産地として名高く、その伝統は現代まで受け継がれており、その辺りに関する展示も充実していました。
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ミュージアムショップでも関連商品。上の方の画像で一筆箋とポストカードのものがありますが、それも販売されています。
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展示は11月23日(月)まで。ぜひ足をお運びください。
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その後、道の駅はなまき西南さんでのイベント(「光太郎ランチ」お披露目)に参加しましたが、その前に時間がありましたので、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)とその周辺を散策。
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「雪白く積めり」詩碑。この地下には光太郎の遺骨ならぬ遺髯(ひげ)が埋まっています。

裏手の智恵子展望台。
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柱には生々しい熊の爪痕。
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そちこちに、光太郎が愛したキノコや栗。自然が豊かだというのがよく分かりますね。
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そうこうしているうちに時間となり、道の駅へ。以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

やはり知ることが根本になります。どしどし取り入れて見ききを広くしなければなりません。見るといっても、それはただ上っ面を見るだけでなく、もっと深く掘りさげて、そのなかにある根本をつかむことです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 三二」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳

なるほど。

一昨日から昨日にかけ、1泊2日で岩手花巻に行っておりましたが、その前に上野の東京藝術大学大学美術館さんで「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」を拝見してから行きました。

平時であれば招待券を頂いてすぐ伺うところなのですが、やはりコロナ禍、できるだけ外に出る機会は減らしたいので、花巻行きにかぶせました。

本日は藝大さんのレポートを。
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朝10時の開館と同時に入館。

平時であれば、2フロア使われている同館ですが、やはりコロナ禍のためでしょうか、今回は地下の1フロアのみ。

まず第1部「「日本美術」を創る」。
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004いきなり重要文化財の「鮭」。明治10年(1877)頃、高橋由一による日本最初期の油彩画です。その両脇を黒田清輝「婦人像」と原田直次郎「靴屋の親爺」が固めています。

ちなみに右は、無料配付の簡易図録。お一人様一部です。「鮭」が表紙を飾っています。

その後は「年代記(クロニクル)」というコンセプトに従い、藝大さん前身の東京美術学校初代校長岡倉天心らによる参考資料としての古美術コレクション、泰西画家の模写を含む西洋画科関係者の作品、明治33年(1900)のパリ万博関連、平櫛田中のコレクションによる彫刻作品群、さらに「官展出品・政府買上作品」と「特別出品」いうことで、上村松園「序の舞」や狩野芳崖「非母観音」、鏑木清方「一葉」など、教科書にも載るような作。眼福でした。

そして「年代記(クロニクル)」とは別枠で、光太郎木彫「蓮根」(昭和5年=1930頃)。
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画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。
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昨年、藝大さんに寄贈されました。「令和元年度 新収蔵品紹介」という枠で、「とんでもない逸品が寄贈されたから、ついでというと何だけど、一緒に展示しよう」というコンセプトだと思われます。別枠扱いなので、上記簡易図録には記述がありませんでした。

平成28年(2016)、信州安曇野の碌山美術館さんで開催された「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」で拝見して以来、4年ぶりでした。

作品を収める絹製と思われる袋も一緒に展示されていました。こうしたものの通例で、おそらく智恵子が縫ったものでしょう。そしてこれも通例で、光太郎詠歌が墨書でしたためられています。曰く、

揚げものにあげるをやめてわが見るはこの蓮根のちひさき巻葉

中央やや下よりの節の部分に巻葉が彫られ、さらにそれをついばもうとするカタツムリも添えられています。智恵子の心の病が誰の目にも明らかになる少し前と思われる頃、光太郎が彫刻家として最も脂ののっていた時期の作で、こうした遊び心にもそれがうかがえます。

第2部は、「自画像をめぐる冒険」。
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藝大さんの伝統で、卒業制作に描かれた自画像の数々。

第一号が、光太郎の留学仲間・白瀧幾之助。その他、光太郎智恵子と関わりのあった作家のそれも多く、興味深く拝見しました。熊谷守一、山本鼎、南薫造、藤田嗣治、岡本一平、近藤浩一路、山脇信徳、萬鉄五郎、中西利雄などなど。
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また、「この人も藝大卒だったのか」という発見もありました。その人々の研究者やファンにとっては当たり前のことなのでしょうが。

花卷へは、上野駅から東北新幹線です。まだ時間がありましたので、大学美術館さん向かいの陳列館も拝観。こちらでは在校生、教員の方々による屏風絵等の展示が行われていました。
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陳列館の入り口には、ロダンの出世作「青銅時代」(明治10年=1877)。ここにこれがあるということは、当方、寡聞にして存じませんでした。
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同様に、屋外展示で光太郎作の光雲胸像もあるのですが、そのエリアはコロナ禍のため、現在は学外者立ち入り禁止です。

まだ時間がありましたので、すぐ近くの黒田記念館さんへ。現在、特別室は閉鎖中で、「湖畔」などの大作は見られませんが、光太郎作の「黒田清輝胸像」(昭和7年=1932)は常設です。
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「蓮根」とほぼ同時期、こちらの方が若干あとです。木彫も造り、塑像の肖像彫刻も手がけ、まさに脂がのっていたのですが、智恵子の心の病の顕在化により、この後、光太郎の彫刻制作は激減します。

さて、上野駅に戻り、新幹線に乗って、北へ。花卷レポートは明日以降お届けします。


【折々のことば・光太郎】

僕は入学した当時のことは忘れません。あのときの靴の匂いは。鉛筆や本などをカバンに入れて学校に行って、それを机にしまうときの匂いはいまも忘れません。それから墨汁の匂いです。机のわきに掘りつぼがあり、そこにせとが入って、そのせとに先生が墨汁を注いでくれます。そのときの墨汁の匂い。
談話筆記「高村光太郎先生説話 三一」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳

「入学」は、東京美術学校ではなく、近くにあった練塀尋常小学校の話です。明治21年(1888)、光太郎数え6歳でした。「せと」は「瀬戸」、陶器のことですね。

なぜか嗅覚で記憶が彩られているのが不思議なところです。

昨日から一泊で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に来ております。

昨日は都内台東区の東京藝術大学大学美術館さんに寄り、「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」を拝見。光太郎木彫「蓮根」を久しぶりに拝観しました。

その後、一路花巻へ。宿泊している花巻南温泉郷大沢温泉さんにチェックイン。
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早速ひとっ風呂浴びた後、8月にオープンした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)へ。花巻高村光太郎記念館さんの方々と、テナントに入っている焼肉店「味楽苑」さんで夕食。
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今日は、まず記念館さんに行き、企画展示「高村光太郎とホームスパンー山居に見た夢ー」を拝見します。

その後、再び道の駅に。テナントの「ミレットキッチン花」さんで販売される手作り弁当「光太郎ランチ」のお披露目会に参加して参ります。

詳細は帰りましてから。

今日明日と1泊で、光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花卷に行って参ります。

まず、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」を拝見。それから、8月に記念館近くにオープンした道の駅はなまき西南(愛称「賢治と光太郎の郷」)さんでのイベントに参加して参ります。

花卷といえば、このブログでも2ヵ月に1度、欠かさずご紹介しています隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。第22号が届きました。
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平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で「光太郎レシピ」という連載が為されていますが、今号は「カレイの青菜ソースとキガラチャ飯」。
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「キガラチャ飯」は「黄枯ら茶飯」のようです。「醤油と酒などとを加えて炊いた飯」だそうで、存じませんでした。「
黄枯ら茶」は色の名前で、「黄唐茶」とも書き、薄い藍色を帯びた薄茶色とのこと。そういう色になっているので「黄枯ら茶飯」なのでしょう。

毎号、このように光太郎が実際に作ったメニューを元に現代風にアレンジしたりしたレシピが掲載されていますが、今までに紹介された「光太郎レシピ」を取り入れた「光太郎ランチ」なる新メニューが、道の駅はなまき西南さんのテナント「ミレットキッチン花」さんでお披露目されます。

今のところの予定では、毎月15日に限定10食販売する予定だそうです。毎年5月15日、旧太田村山口地区の光太郎が暮らした山小屋敷地で、「高村祭」が開催されている(今年はコロナ禍で中止でしたが)ことにちなみ、15日だとのこと。また、別途予約注文の場合は、5日前までに数量申し込みで受注可能だそうです。

そのお披露目会に呼ばれましたので、行って参ります。

ちなみに道の駅はなまき西南さんに関し、先月、地方紙『岩手日日』さんに記事が出ましたが、ご紹介するタイミングを失っていましたので、これ幸い、ここでご紹介します 

道の駅はなまき西南 花巻市西南地区に道の駅がオープン

県道13号沿い、花巻市轟木に市内4番目となる道の駅が8月にオープンした。駅内は24時間利用可能なトイレや駐車場、インフォメーションスペースを完備し、テナントとして産直施設「すぎの樹」と、地元で長年愛されている焼肉店「味楽苑」が移転したほか、地域のお母さんたちで立ち上げた加工グループ「ミレットキッチン花(フラワー)」が入居。産直では採れたての野菜や花をはじめ、同グループ手作りの弁当や総菜、パン、加工品、宮沢賢治や高村光太郎に関連したお土産やグッズも販売している。田畑に囲まれた交通量の多い地域とあって、住民やドライバーが待ち望んでいた道の駅。買い物や休憩に立ち寄る人で連日にぎわっている。
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偉人ゆかりのスポットにも近く、「賢治と光太郎の郷」を愛称にオープン。

産直にはアスパラやズッキーニ、トマトなどの新鮮な野菜がずらり
産直にはアスパラやズッキーニ、トマトなどの新鮮な野菜がずらり。

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地元産の雑穀や野菜を使ったミレットキッチン花の「弁当」(500円)。
高齢者世帯への配達も行っている。

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地元で人気の焼肉店「味楽苑」が移転入居。焼き肉やラーメン、定食などが味わえる。

味楽苑の看板メニュー「笹間ホルモン」(500円)
味楽苑の看板メニュー「笹間ホルモン」(500円)。

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オープンを機に開発された新商品「智恵子のレモンキャンディ」(350円)

詳しくは帰りましてからレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

僕は東京でもひとりでいるのがよかったし、そんなことで、山口にやって来ているので、できれば誰も来てもらいたくないのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 三〇」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳

太田村山口に来て、村人たちに敬愛されていた光太郎でしたが、本来あまり人付き合いは得意な方ではありませんでしたし、「厚かましい」ことは自分がするのも、他人にされるのも大嫌いでした。

それでも村人と酒を酌み交わしたり、近くの山口小学校で茶飲み話をしたりはしていたわけですが、それすらもかつての光太郎からすれば、あり得ないようなことでした。ただ、やはり自分のテリトリーである山小屋にはあまり来てほしくなかったようです。

先日もちらっと書きましたが、智恵子の故郷・福島県二本松でのイベントです 

当商工会議所では、あだたら商工会と合同で霞ヶ城公園菊花展の開催期間に合わせ、全市内を対象としたスタンプラリーを実施します。岳温泉宿泊券や家電製品、地場産品など豪華賞品が抽選で当たりますので、奮ってご応募下さい。新型コロナウイルス感染症拡大の影響に苦しんでいる地元のお店を利用して応援しよう!!

開催期間 令和2年10月1日 (木)~11月30日 (月)

応募方法
期間中、参加店で500円以上お買い物をして、応募はがきにスタンプ(参加店番号)を押してもらって下さい。参加店のスタンプが5つ集まったら、応募はがきに必要事項を明記のうえ、63円切手を貼ってご応募下さい。

注意事項010
スタンプの押印は1回のお買い物につき、応募はがき1枚に限定されます。
同一店舗のスタンプが2つ以上あった場合は、無効となります。
1人何通でも応募できます。
参加店はこのポスターが目印です!!

応募締め切り 令和2年12月2日(水) 当日消印有効

抽選日 令和2年12月下旬(予定) ※厳選に抽選します

当選発表 賞品の発送をもってかえさせて頂きます。

参加店等詳細については、下記をご覧下さい。

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地方紙『福島民友』さんに記事が出ていました 

【二本松】買い物してスタンプGET! 124店舗参加、抽選で賞品

001 二本松商工会議所とあだたら商工会は1日、二本松市の参加店でスタンプを集めると総額100万円の賞品が抽選で当たる「オールにほんまつスタンプラリー2020」を始めた。11月30日まで。
 新型コロナウイルス感染症の影響を受ける会員事業所を支援するため、あだたら商工会合併15周年記念と銘打ち実施、小売店や飲食店など124店舗が参加した。市、福島民友新聞社などの後援。
 スタンプは500円以上の買い上げで一つ押印し、利用者は5店舗分を集めると抽選に応募できる。賞品は岳温泉ペア宿泊券(2組)や加湿空気清浄機(1組)など。12月2日(当日消印有効)まで受け付けた後、同月下旬に抽選会を開く。
 スタート後初の週末となった3日、参加店は買い物客でにぎわった。
 時計や眼鏡、装飾品販売を手掛けるリュクレ石沢でも多くの買い物客が訪れ、支払いの際に店員らからスタンプを押してもらっていた。
 問い合わせは二本松商議所(電話0243・23・3211)か、あだたら商工会(電話0243・23・5854)へ。

智恵子生家/智恵子記念館に隣接する戸田屋商店さん、道の駅「安達」智恵子の里さんなども参加なさっています。
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その他、参加店一覧はこちら。クリックで拡大します。
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当方、来月には二本松に参りますので、スタンプを集めるつもりでおります。「コードレススティックサイクロン掃除機」に触手が非常に動いています(笑)。

皆様もふるってご応募下さい。

【折々のことば・光太郎】

結局、平凡なことですが、「正直」というのを採りました。正直は一番根本になると思いますし、正直はそのときは損なようでも、永い間には得になるのです。それに「親切」を加えました。そういうわけで、あの書「正直親切」をあげた次第です。
談話筆記「高村光太郎先生説話 二九」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花卷郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校で開催された学芸会に呼ばれ、児童たちに語った言葉の一節です。校訓として贈った「正直親切」の語について、解説しました。
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この文字を刻んだ碑は、山口小学校跡、光太郎も通った東京の第一日暮里小学校さん、埼玉東松山の新宿小学校さんにそれぞれ建てられています。

奈良県から展覧会情報です 

期 日 : 2020年10月19日(月)~11月8日(日)
会 場 : 天理図書館 奈良県天理市杣之内町1050
時 間 : 9時00分~15時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 今秋、天理図書館は昭和5年の開館より90年の星霜を数えます。この期を祝して「天理図書館開館90周年記念展-新収稀覯本を中心に-」展を開催いたします。これは、平成22年に催した「天理図書館開館80周年記念特別展」に次ぐもので、それからの10年間に収蔵した資料に焦点をあてました。館蔵の国宝・重要文化財に指定されている資料の断簡、書簡や原稿などの自筆資料、また絵画や地図など、国内外の様々な分野の資料を展示いたします。これらをご清覧いただくことで、古典への関心を呼び起こし、書物文化の奥深さをより身近に感じていただくとともに、本館の活動にさらなるご理解を賜れば幸いです。
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出品目録
1   南海寄帰内法伝 巻第三断簡 奈良時代後期写
2   大鏡 巻中之上断簡 建久3年写
3   大鏡 巻第五断簡 千葉本 鎌倉時代写
4   本朝書籍目録 室町時代写
5   和名集 有坂本 室町時代後期写
6   梁塵秘抄郢曲抄 江戸時代後期写
7   舞楽帖 [土佐光起]画 江戸時代前期写
8   宇治拾遺物語 古活字版 寛永期頃刊
9   徒然草寿命院抄 古活字版 秦宗巴著 慶長6年跋刊
10  着到和歌断簡 後土御門天皇ほか自筆 室町時代中期写
11  後撰和歌集 甘露寺親長筆 明応4年写
12  宗祇座像  江戸時代初期写
13  賦何人連歌 [宗長]筆 長享2年写
14  連歌新式追加并新式今案等 里村玄仍筆 慶長2年写
15  発句帳 古活字版 寛永期頃刊
16  松花堂行状記 [佐川田昌俊]筆 寛永期写
17  石清水八幡献物帳 松花堂昭乗自筆 寛永16年写
18  音羽桜 松永貞徳ほか自筆 江戸時代前期写
19  「いきみ玉」発句画賛 野々口生白画 野々口立圃賛 江戸時代前期写
20  新撰都曲 池西言水編 元禄3年跋刊
21  我身皺 池西言水編 宝永4年序刊
22  いねあけよ 鬼貫初懐紙 爛々斎阿貢編 宝永6年序刊
23  仙家之杖 塘潘山編 寛保3年跋刊
24  花頂山中高徳院発句会「時雨」句 与謝蕪村自筆 明和8年写
25  「かはらけ売」自画賛 与謝蕪村自画賛 江戸時代中期写
25参 「炭売に」自画賛 与謝蕪村自画賛 江戸時代中期写
26  河内老嫗火近江手孕村 敵討両輌車 前編 稿本 山東京伝自筆 文化2年写
27  春雨物語 羽倉本 上田秋成自筆 文化6年奥書写
28  滝沢馬琴書簡 小津桂窓宛 滝沢馬琴自筆 天保7年写
29  半魚譜 森立之編 安政6年自序写
30  出島厨房図 [川原慶賀]画 江戸時代後期写
31  飼育場図 [川原慶賀]画 江戸時代後期写
32  西洋婦人馬上の図 石川大浪画 江戸時代後期写
33  永井荷風書簡 新延修三宛・日高基裕宛 永井荷風自筆 昭和11年
34  悪妻の手紙 原稿 川端康成自筆 昭和15年
35  えにしあらば 原稿 室生犀星自筆 昭和17年
36  文学の師医学の師 原稿 斎藤茂吉自筆 昭和17年
37  日本美の源泉 原稿 高村光太郎自筆 昭和17年
38  [J.レメリン] 小宇宙鑑 [ウルム] 1613年刊
   付:小宇宙の解説 [アウスブルグ] 1614年刊
39-1  [R.ダッドレー] 日本と蝦夷および朝鮮国と周辺諸島の図 
39-2  [R.ダッドレー] 中国沿岸、台湾および日本の南方諸島の部分図
39-3  [R.ダッドレー] 蝦夷の東部およびアメリカと蝦夷間の海峡の図
   『海の秘密』第3巻所収 フィレンツェ 1647年刊   
40  A.キルヒャー シナ図説 オランダ語版 アムステルダム 1668年刊
41         E.ケンペル 日本誌 ロンドン 1727-1728年刊 
42  C.ワーグマン ジャパン・パンチ 創刊号・第2号 横浜1862年[5]・6月刊

天理図書館さん、内外の稀覯書、肉筆物等005の蒐集に力を入れていて、これまでもこうした展覧会をたびたび開催されています。

右は、平成4年(1992)に開催された「天理秘蔵名品展」に出た光太郎草稿。大正2年(1913)3月、雑誌『趣味』に掲載され、翌年刊行の詩集『道程』にも収録された詩「カフエ・ライオンにて」。カフェ・ライオンは現在も続く銀座のビヤホール・ライオンの前身です。 

で、今回は、出品目録で「日本美の源泉 原稿 高村光太郎自筆 昭和17年」。

「日本美の源泉」は、昭和17年(1942)の7月から12月にかけ、中央公論社から発行されていた雑誌『婦人公論』に全6回で連載された美術評論で、その草稿を同社編集者の栗本和夫が和綴じに仕立て、保管していました。

昭和47年(1972)には、中央公論美術出版さんが、それをそのまま復刻し、二重函帙入り別冊解説付き限定300部・定価15,000円で刊行しました。別冊解説は当会顧問であらせられた故・北川太一先生でした。北川先生曰く「実用の文字であるだけに、かえってその人を見るような強靱な意力をひめ、刻み込むような筆力をもって終始たゆまぬ筆蹟」。まさしくその通りです。
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B4判の原稿用紙34枚を二つ折りにして和綴じにしてあり、内容的にもさることながら、その味わい深い文字、見ていて見飽きることがありません。
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その後、他の栗本の蔵書などと共に、財団法人栗本図書館(長野県諏訪郡富士見町)に収められていたのですが、そちらが閉館ということで、天理図書館さんの方に所蔵が移ったのだそうです。天理さんならこのように展示公開もなさって下さいますし、いい所に収まったと思います。

ところが、栗本が和綴じに仕立てた時点で、第四回の冒頭部分一枚が失われていました。復刻出版のその箇所は、仕方がないので活字で。
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ここに入るべき失われた一枚が、昨年、ネットオークションに出品され、驚愕しました。
神護寺湯川龍造
栗本と同じ中央公論社の編集者だった湯川龍造の旧蔵ということで、なるほど、そういうことだったか、という感じでした。湯川も他の作家の草稿などを多数所蔵していたとのこと。栗本にしても湯川にしても、それはネコババというわけではなく、戦時中の中央公論社の「自主廃業」に関わります。そのあたり、昨年のこのブログに書きましたのでご参照下さい。

今回の天理さんの展示、最初は湯川旧蔵のこの一枚が出るのかと思ったのですが、問い合わせてみましたところそうではなく、栗本旧蔵の方とのことでした。しかしそれはそれで名品であることに変わりはありません。

その他、上記出品目録の通り、なかなかの逸品が並ぶようです。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

天才は偉いのではありません。かえって欠点のある人の方がいいのです。天才は狂っているのです。頼まれないのにできるのですから。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二八」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

「天才は狂っている」、たしかに、ものすごいことが努力無しに出来てしまうというような、そういう存在は理屈に合わないといった意味ではそうかも知れませんね。

コロナ禍のため、不要不急の外出はまだ避けていますし、公共交通機関を使っての遠出も少なくなりましたので、そのお供として持参する頭を使わなくて済む時代小説、推理小説等を購入しなくなり、新刊書店に行く機会がめっきり減りまして、出版事情に疎くなっている部分があります。

で、近々、花卷に参りますので、お供の書籍を探そうと久々に行った新刊書店で見つけた新刊……といっても発売から3ヵ月経っていました 

2020年7月3日 中川越著 海竜社 定価1,400円+税
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夏目漱石、太宰治、宮沢賢治、与謝野晶子、ドストエフスキーなどの文豪や、ダーウィン、ゴーギャン、良寛、渥美清などの世界・日本の偉人たち。彼らは、親しい人に手紙でどんな言葉を書き送ったのでしょうか?
本書では、恋人、妻や夫、家族、弟子や師匠などに宛てた愛情あふれる手紙を紹介。「さすが!」と驚嘆する卓越した表現があるかと思うと、ときには率直で心を射貫く言葉があったり、やきもちや未練がバレバレの憎めないセリフがあったりと、引き込まれる文章が満載です。
本書で「相手の心をつかむ言葉」を学ぶもよし、文豪・偉人の意外な素顔を楽しむもよし、手紙を通じて彼らの人生を共有し、励まされるもよし! 楽しみ方はいろいろです。

目次
 はじめに
 第一章 恋愛の決めゼリフ
  パズルの最後のワン・ピースを手に入れた島崎藤村
  ピュアーにまっすぐプロポーズした芥川龍之介
  ラブレターの最高傑作を欄外に書いた太宰治
  いたずらなお願いで楽しく困らせた立原道造
  斬新な理由で恋文の筆を止めた内田百閒
  いつになく遠回しな言い方を避けた竹久夢二
  愛の楽章を文章で奏でたベートーヴェン
  箇条書きの質問形式で求愛した平塚らいてう
 第二章 夫婦愛の決めゼリフ
  二人称代名詞一語を名詩に変えた南極越冬隊員の妻
  身勝手な言い訳で呆れさせたゴーギャン
  惚れた弱みを隠すぞぶりでたっぷり甘えた国木田独歩
  遠隔愛撫の方法を知っていた徳富蘆花
  届きにくい反省を努めて届けたドストエフスキー
  空白の十年を美しく諦めた九条武子
  一日千秋の思いを笑話に託した和辻照(和辻哲郎夫人)
 第三章 友愛の決めゼリフ
  哀切な近況報告を美しく通知した梶井基次郎
  友情色に恋愛色が混ざる言葉を告白した武者小路実篤
  失礼なあいさつで親愛を深めた夏目漱石
  傷心への寄り添い方を知っていた宮沢賢治
  言葉の霊力を信じた「日本語の番人」新村出
  嫉妬と祝福を同時に感じ苦悶した若山牧水
  友と恋人を等価値と知らせた永井荷風
 第四章 家族愛の決めゼリフ
  〈母宛〉いちばん大事なことしか書かなかった渥美清
  〈子宛〉千尋の谷に突き落とす覚悟を報知した福沢諭吉
  〈子宛〉たどたどしく詩的に懇願した野口シカ(野口英世の母)
  〈父宛〉興奮を伝え元気を証明したダーウィン
  〈妻宛〉不機嫌を報告し溺愛をあらわにした森鷗外
  〈甥宛〉大愚をやさしく説き処世訓とした会津八一
  〈弟宛〉放蕩は死を招く凶器と警告した良寛
 第五章 師弟愛の決めゼリフ
  高らかに女々しく恋慕した萩原朔太郎
  貶めて紹介し優遇を求めた芥川龍之介
  ビスケット話で親愛をたっぷり送った夏目漱石
  太宰に厳しく弟子には優しかった志賀直哉
  けなされた人の心理に優しく寄り添った正岡子規
  詩作の秘密をていねいに詩的に説いたリルケ
  軽妙な俳味を披露し心中を食い止めた夏目漱石
 第六章 別離の決めゼリフ
  別れた妻の再婚と幸福を願った伝四郎
  別れたくて別れたくなかった北原白秋
  愉快な悪口で鬱憤を晴らした八重次(永井荷風の元妻)
  あっさりと謝り肩すかしを食らわせた与謝野晶子
  冷厳な決別の中に永遠の愛をひそませた高村光太郎
 人物一覧/引用・参考資料

著者の中川越氏、昨年刊行された『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』も書かれていて、装幀や構成がよく似ているので同じシリーズかと思っていましたが、『言い訳』は新潮社さん、こちらは海竜社さんと、版元が違っていました。

店頭で見つけた時、「あ、中川さんの新著か、光太郎に触れてくれているだろうな」と思いつつ、手に取りました。光太郎で「愛の手紙」となると、大正2年(1913)の、結婚前の智恵子に送った手紙か、昭和9年(1934)、九十九里浜で療養していた智恵子に送ったハガキが紹介されているだろうと予想していました。しかし、目次を見ても「第一章 恋愛の決めゼリフ」に光太郎の名が無く、「第二章 夫婦愛の決めゼリフ」にもありません。第三章以下は「友愛」「家族愛」「師弟愛」……あまり光太郎には関係がなさそうで、実際やはり光太郎の名は見えず。「あれっ、今回は光太郎はスルーか?」と思ったところ、最後の最後、大トリが光太郎でした。

002「冷厳な決別の中に永遠の愛をひそませた高村光太郎」。目次を見て、「おお、これを持ってくるか」という感じでした。

「手紙」ではなく、昭和29年1月に雑誌『婦人公論』に発表された詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」です。

  十和田湖畔の裸像に与ふ

 銅とスズとの合金が立つてゐる。
 どんな造型が行はれようと
 無機質の図形にはちがひがない。
 はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
 きたならしさはここにない。
 すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
 天然四元の平手打をまともにうける
 銅とスズとの合金で出来た
 女の裸像が二人
 影と形のやうに立つてゐる。
 いさぎよい非情の金属が青くさびて
 地上に割れてくづれるまで
 この原始林の圧力に堪へて
 立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をモチーフにした詩で、像が亡き智恵子の顔を持つことから、亡き智恵子への「別離」の「手紙」とも読めますね。


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光太郎と交流のあった詩人・伊藤信吉は、その著書『詩のふるさと』(昭和43年=1968 新潮社)の中で、「投げつけるようなこの言葉は哀惜の反語である。同時に生涯の愛の表現を完了したことの嘆息である。」としています。言い得て妙、ですね。

この詩を引用する前の部分で、智恵子との日々についても、『智恵子抄』所収の詩を引用しつつ、アウトラインが紹介されています。

『愛の手紙の決めゼリフ』、こうした書籍の通例ですが、光太郎智恵子と交流の深かった面々も多数登場します。平塚らいてう、武者小路実篤、宮沢賢治、森鷗外、与謝野晶子など。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

人をよく知り、世界をよく知ると、自分の国ばかりほめたりしません。心の広い立派な人になります。
談話筆記「高村光太郎先生説話 二七」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花卷郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校で行われた、稗貫郡PTA講演会で語った一節です。かつて自らもその愚に囚われていた自国第一主義、国粋主義への警句ですね。

都下小金井市の古書店、えびな書店さん。美術系が中心で、書籍も扱っていますが、どちらかというと肉筆などの一枚物に力を入れられています。

先月届いた在庫目録に、光太郎関連が多数出ていました。
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まずは「新蒐品」で、どちらも筑摩書房さんの『高村光太郎全集』既収のものですが、光太郎書簡が2点。
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まずは光太郎の父・光雲の高弟の一人だった加藤景雲にあてた墨書のもの。明治32年(1899)4月と推定されています。光太郎、数え17歳です。ただ、封筒が欠損しており、あるいは1、2年の前後があるかも知れないとのことです。

 長々ありがたう御座りました。御蔭様で自殺詩人の厭世観を精読いたす事が出来ました。序に外のも読みまして大層おもしろくおぼえました。本をだいなしにいたしましたのは御免ください。漸く春の景色になつたとおもふまに咲いたもさいたも隅のすみまであまり一時でいまさらさうやけに咲かないでもほんとに惜しいやうです。日曜の夜にはいつも大抵内ですから御暇の時には御はなしにおいでください。このごろは月もあります。これは言文一致で書いたのです。
   六日                                  光太郎
  景雲様 梧下


「自殺詩人」は北村透谷、借りたという書物は明治27年(1894)刊行の『透谷集』と推定されます。「これは言文一致で書いたのです。」というのが笑えますね(笑)。

もう1点は、詩人・新聞記者で、光太郎彫刻のモデルも務めた中野秀人あて。昭和2年(1927)1月の発信で、当時、中野はロンドンに居ました。
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ロンドンの中野にあてた書簡11通が、昭和59年(1984)の明治古典会七夕古書入札会に出品されましたが、今回のものもそのうちの1通、最初のものです。どうもバラバラに散逸してしまったようですね。

長い手紙なのでこちらは全文引用しませんが、「あなたがだんだん英国の空気の中に浸潤してゆき、又其処で成長し、あなた独自の世界を造り上げる事を見るのが実にたのしみです」とか、「此から折々に消息を下さい。つまらないと思ふ事でも書いて来て下さい。そちらでつまらないと思ふ事がこちらで中々つまらなくない事が沢山あるものです」、「遠く離れてゐると何よりもまづ健康が気になります。外に気をつける人も居ない事でせうから自分でよくからだを大切にして下さい。よく睡眠して下さい。猛烈な勇気で毎日を送つて下さい」などと、後輩(中野は15歳年下)への慈愛に溢れた文言が並んでいます。

続いて、光太郎自身のものではありませんが、光太郎について書かれた原稿。作家の十和田操によるものです。題して「高村さんのことば ある資料断片」。
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当方、寡聞にして「十和田操」の名は存じませんでした。『高村光太郎全集』にもその名は見えません。どういった内容なのかなど、これから調べようと思っています。

えびなさん、「新蒐品」以外にも、以前からの在庫品を2割引だそうで、めぼしいものがピックアップされていました。

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明治44年(1911)の詩「鳩」を書いた色紙、大正13年(1924)頃に詠んだ蝉の短歌をしたためた短冊、おそらく智恵子を詠んだと思われ、昭和5年(1930)頃の筆跡と推定される短歌「北国の女人はまれにうつくしき歌をきかせぬものゝ蔭より」、大正13年の雑誌『人間生活』に載った米詩人ウォルト・ホイットマンの翻訳「エブラハム リンカンの死」。さらには光雲の筆跡も。

今回ご紹介したものには、以前、他店で売られていたものが結構あります。昨日ご紹介した光雲木彫同様、収まるべきところに収まってほしいものですが、なかなかそうもいかないようですね……。


【折々のことば・光太郎】

書は日によって書けないときは、どうしてもだめなものです。いいときにはよくできます。いま東京からも頼まれています。東京ではすぐ簡単に書けるように考えているらしいのです。こっちは身を削られる思いで書くのですがね。
談話筆記「高村光太郎先生説話 二六」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

上記の色紙や短冊等も、いいかげんな気持ちで書かれたものではないのでしょう。

このブログでたびたびご紹介しておりますアートオークション大手の毎日オークションさん。時折、光太郎や光太郎の父・光雲関連が出品されます。

今月開催の「第650回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」、「第651回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」で、光雲の作品が出ます

まず第650回、うっかりしていまして、もう今日です。

第650回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

日 程 : 2020/10/9(金) 14:00~ Lot.1~ 2020/10/10(土) 11:00~ Lot.391~
会 場 : 毎日オークションハウス 東京都江東区有明3-5-7
下見会 : 2020年10月8日(木)・10月9日(金) 10:00~18:00

光雲木彫の「大聖像」が出ています。「大聖」は孔子、光雲が好んで彫った題材の一つで、類例は複数確認できています。
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これ以外に、木彫を原型とする観音像の鋳造も出ていますが、現代の鋳造のもの――いわば工芸品――のようですので割愛します。

ちなみに、地上波テレビ東京さんで放映されている「所さんのそこんトコロ」9月4日(金)の放映分開かずの蔵を開けろ!」というコーナーで、長野県の旧本陣だった旅館の蔵から光雲作の木彫を原型としたブロンズが出て来たところが紹介されました。
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「造立」ではなく「造之」、漢文的に読んで「之(これ)を造る」なのですが……。

光雲生前に、その監督のもとで鋳造されたということであれば、工芸品という扱いではなくなります。ただ、これが鋳造ではなく木彫原型だったらとんでもない値段になるのは言わずもがなですね。

閑話休題、毎日オークションさんにもどります。来週開催の回にも光雲作品

第651回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

日 程 : 2020/10/17(土) 13:00~
会 場 : 毎日オークションハウス 東京都江東区有明3-5-7
下見会 : 2020年10月15日(木)・16日(金)10:00~18:00 10月17日(土)  10:00~12:30

こちらの光雲作品は2点。

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出品3点で、だいぶ予想価格に差がありますが、保存状態と、それから工房作なのか光雲個人の作なのかといったところで評価が分かれます。最も高額な「聖観音像」は弟子の手が入って居らず、保存状態も良好ということですね。技術的にもとんでもない超絶技巧です。

ポイントは像の持物(じもつ)。「大聖像」と「聖徳太子像」の笏(しゃく)はそれほどでもありませんが、「聖観音像」の蓮華はなまなかの技倆では不可能です。同様に衣の処理も、「聖観音像」は際立って難しいことに挑戦しています。

それぞれ、収まるべきところに収まってほしいものです。最近、ネットオークションに出た光太郎の肉筆物の逸品2種類、収まるべきところに収まったことが判明しまして、安心しております。うち1種類は来月拝見してくる予定です。

【折々のことば・光太郎】

山口ではそんなことはやらないので、いいのですが、僕は商店で買いものをするとき、ある店でいかがわしいことがあると、絶対に行かないことにしています。花巻ではそういう店があります。一度、今度のようなことをしたところへは、もうこれからは行きません。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二五」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

最後の「今度のようなこと」は、承諾無しに光太郎の名を講演会のプログラムに入れたことを指します。たしかにとんでもありませんね(笑)。

前半の「いかがわしいこと」は具体的にはわかりませんが、花卷中心街には光太郎の怒りを買うような商売をしていた店があったようですね。光太郎が暮らしていた山口地区ではそういうことはなかったそうですが。

ところで、現代のオークション系でも「いかがわしいこと」がよくあり、閉口しています。ネットオークションはまさにその宝庫で、光雲作という木彫で本物が出てくることはまずほとんどなく、「彫刻」とさえ言えないような稚拙なものを光雲、あるいはその高弟の作として出品している例がほとんどです。なぜか富山県の業者が多く(というか同一の業者が複数のアカウントを使い分けてやっているようですが)、富山県の名折れだと思います。

それでも買い手が付くのが不思議なのですが、どうも悪徳骨董業者が偽物と分かっていて買っているように思われます。結局は誰かをだまして売りつけるわけですが、その偽物も自分で作るのは面倒なわけで、偽物の仕入れ先として手軽なネットオークションが重宝がられているのではないかと思います。

同様のケースは古書店等の在庫目録にも散見されます。現在も神保町の有名な古書店が、光太郎肉筆なるものの偽物を堂々と出しています。当方、光太郎ではありませんが、もうその店からは絶対に買わないことに決めました。以前は有料で目録を取り寄せていたのですが、その更新手続きも断りました。

昨日に引き続き、智恵子の故郷、福島二本松ネタで。

まずは例年行われている、生家の2階部分の特別公開について、『広報にほんまつ』さんから

智恵子の生家2階特別公開

通常、非公開としている生家2階の一部を公開します。また、立ち入りを制限している座敷等を開放します。ぜひ、足をお運びいただき、当時、智恵子が暮らした旧長沼家の雰囲気を堪能してください。

会 期 10月10日(土)~11月23日(月・祝)のうち土日祝日の16日間 9:00~16:00
※2階を除く智恵子の生家・智恵子記念館は、通常通り平日も開館しています。(水曜日休館)
入館料金 
 大人(高校生以上) 個人:410円 団体:360円 
 子ども(小・中学生) 個人:210円 団体:150円
※団体料金は20人以上の利用で該当します。
※身体障害者手帳、精神障害者保健福祉手帳または療育手帳をお持ちの方は、無料です。(手帳をご提示ください。)
・来館の際にはマスクの着用と検温の実施にご協力ください。
・来場者が多い場合には、皆さまに安全で安心して観覧していただくため、人数制限をさせていただく場合があります。
◎問い合わせ… 智恵子記念館☎(22)6151文化課文化振興係 ☎(55)5154 Fax(23)1326

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それから、広報には記載がなかったのですが、隣接する智恵子記念館では、智恵子の紙絵の実物の公開も始まります(通常は複製の展示のみ)。今日、10月8日(木)~11月24日(火)までだそうです。

続いて、夏場にも行われていた観光タクシーの半額キャンペーン。地方紙『福島民友』さんの記事から

【二本松】秋の二本松、名所巡りやすく 観光タクシー通常の半額

 秋の観光シーズンに合わせ、二本松市では10月、公共交通機関が充実され、市内を訪れる行楽客に錦秋に彩られた二本松の魅力を味わってもらう。
 市内の観光名所を巡る「観光タクシー」を通常の半額で利用できるサービスを開始。観光タクシーの料金は一般利用の運賃よりも割安に設定されているが、その半額を二本松市が助成してさらに利用しやすくする。
 JR二本松駅と岳温泉を発着で市内を巡る10コースを想定。小型(4人乗り)の場合、二本松駅発着で霞ケ城公園や智恵子の生家記念館などを巡る「智恵子抄探訪」は5千円(通常1万円)、岳温泉発着で両施設に加え、東北サファリパークなどを訪れるのが6千円(同1万2千円)など。
 運行する昭和タクシーと丸や交通に予約する。二本松駅の乗降客は、駅構内のタクシー運転手に相談してもらえば対応する。来年2月28日まで。
 予約、問い合わせは昭和タクシー(電話0243・22・1155)か、丸や交通(電話0243・22・2744)へ。

他に、こんな記事も

【二本松】安達太良山の紅葉楽しんで 二本松駅と岳温泉、奥岳を結ぶ臨時バス

000 秋の観光シーズンに合わせ、にほんまつ観光協会と福島交通は3日から11月3日までの土、日曜、祝日に限り、安達太良山の紅葉を楽しむ行楽客のために、JR二本松駅と岳温泉、奥岳登山口を結ぶ臨時バス「奥岳臨時便」を運行する。
 臨時便は、同駅~岳温泉~奥岳登山口で運行する1便と、岳温泉~奥岳登山口を結ぶ往復計4便。
 運賃(中学生以上)は、二本松駅~奥岳登山口が800円、同駅~岳温泉が500円、岳温泉~奥岳登山口が300円。
 問い合わせは同協会(電話0243・24・5085)か、同社二本松営業所(電話0243・23・0123)へ

コロナ感染には十分気をつけつつ、ぜひご利用下さい。

さらに、市内各所の店舗が参加してのスタンプラリー(
総額100万円の賞品が抽選で当たるそうで)も開催中。そちらについてはまた改めてご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

今月はまたフランスでも革命記念日があり、お祭りの月です。フランスも盛んです。街の道に舞台を作って、そこで楽隊が音楽を始めます。また、踊りも始まります。フランスでは誰でもが楽器をやれるというほどに、大衆のものになっています。
談話筆記「高村光太郎先生説話 二四」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

「今月」は7月です。およそ40年前、パリで過ごした日々を懐かしみ、もう一度行きたいと思い続けながら40年、しかしもう二度と行けないだろうという寂しさも裏側に隠されているような気がします。

一昨日、10月5日(月)は智恵子忌日「レモンの日」でした。例年ですと、それに最も近い日曜日というわけで、今年なら10月4日(日)に、智恵子を偲ぶ「レモン忌」の集いが開催されるはずでしたが、やはりコロナ禍のため中止……。

しかし、「レモンの日」に合わせて智恵子の故郷・福島の地方紙『福島民友』さんが長い記事を掲載して下さいました

【高村光太郎の詩集】智恵子抄 心にずっと...古里の『ほんとの空』

「これがほんとの空だよ」
 こんなテレビCMが2007(平成19)年1~3月に放映されたのを覚えているだろうか。
 女優の宮崎あおいさんが出演したNTTドコモ東北の人気シリーズの第3弾。水面がきらめく阿武隈川の悠久の流れと、青空に稜線(りょうせん)が映える安達太良山の遠景を一緒に望める二本松市の智恵子大橋で、携帯電話を手にする愛らしい姿が記憶に残る。
000 「ほんとの空」。今では本県の豊かな自然を表す言葉だが、本来は安達太良山上空に広がる青空を指す。同市出身の洋画家高村智恵子の死後、夫で詩人、彫刻家の高村光太郎が著した詩集「智恵子抄」に収録された「あどけない話」に由来する。東京での暮らしに疲れた智恵子が古里への思いを吐露した時に言った。

 智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空がみたいといふ。
 (中略)
 阿多多羅山の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ。

古里に深い愛
 智恵子抄は、光太郎が亡き妻への鎮魂の思いを込め1941(昭和16)年出版した。智恵子との純愛が詩と散文でつづられ、この中で光太郎は、彼女が一年のうち3、4カ月は郷里に帰っていたことを述懐し、病気をしても実家に帰省することで平癒したと書いている。その彼女が東京と古里の違いを表現したのが青い空。あどけない話からは、智恵子が古里を深く愛していたことが感じ取れる。
 光太郎はほんとの空をどんな思いで見たのだろうか。
 同じ智恵子抄の詩「樹下の二人」には「みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ」の歌が添えられており、詩の舞台がどこかという論争もあった。しかし研究が進み旧油井村(二本松市油井)の智恵子の生家に近い鞍石山に落ち着いた。
 光太郎と智恵子は1919(大正8)年、彼女の父長沼今朝吉の一周忌法要に参列するため、彼女の生家から山向かいの長沼家菩提寺(ぼだいじ)「満福寺」まで、鞍石山の山道を歩いている。
 智恵子の顕彰活動を展開するレモン会長の渡辺秀雄さん(88)=二本松市=は、寺の近くに住む知人が祖母から聞いたという話を紹介してくれた。「棒を持った大柄な人(男性)がいて驚いた。しゃがんでいたので気付かなかったが、洋服を着た女の人がすっと立ち上がったからまたびっくりした」と。それがその時の光太郎と智恵子だった。

赤子のように
 鞍石山には智恵子の杜(もり)公園が整備され、二人が歩いた道程のうち生家から山頂までが「愛の小径(こみち)」と命名された。光太郎の気持ちを感じてみようと、その道を妻と一緒に歩いてみた。
 公園入り口の急な石段を上ると、稲荷八幡神社に出る。境内には智恵子が「熊野大神」と揮毫(きごう)した石碑がある。境内奥の道に進むと、木立が優しく包んでくれた。木々の息吹を感じながら歩く緩やかな坂道は、優しい気持ちになる。少し疲れた様子の妻に歩調を合わせた。二人で雑談を交わしながら歩いたはずの光太郎も、病気がちの智恵子を気遣い、ゆっくりと歩を進めたに違いないと想像できた。
 鞍石山の頂上に、光太郎の直筆を刻んだ「樹下の二人」詩碑がある。木々の青葉の向こうに遠く安達太良山が望める。振り返ると阿武隈川もわずかに眺めることができた。

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。
 (中略)
 ここはあなたの生れたふるさと、
 この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。

 思い詰めると他の一切を放棄しても悔やまない性格で、自分への愛と信頼の深さが乳飲み子のよう。これが光太郎の智恵子像。その異常なまでの純真さにひかれた。この実感が樹下の二人の詩を生んだ。
 造り酒屋に生まれ、何不自由ない生活を送った智恵子が、光太郎と結婚し明日の食べ物にも困る苦しい生活を強いられた。光太郎の創作に邪魔にならないよう、自分の芸術活動を削り家事に尽くした。誰もが清純で純愛に生きた女性だと理解する。
 でも渡辺さんは「智恵子は恋の駆け引きができた人」と話す。渡辺さんによると、光太郎が千葉県の犬吠埼に写生に出掛けた時、智恵子は妹らと3人で追い掛け、滞在先を突き止めると、妹たちに「帰っていいよ」と言った。渡辺さんは「妹をだしに使った」と考えていて「光太郎の気持ちをつなぐ作戦だった」と指摘する。智恵子の意外な一面に驚かされた。
 智恵子は亡くなる数時間前、光太郎が持参したレモンを喜んで食べた。だから10月5日は「レモン忌」。きょうは82回目の智恵子の命日だ。智恵子抄を開いてゆかりの地を探してみるのもいい。

 【アクセス】智恵子の生家・智恵子記念館と、智恵子と光太郎が歩いた「愛の小径」がある智恵子の杜公園へは、車の場合、東北道二本松インターチェンジから国道4号を経由して約10分。鉄道、バスの場合は、JR二本松駅から八軒まで約10分。
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 【高村智恵子】1886~1938年。明治時代末期から大正時代にかけての、当時としては珍しい女流洋画家で、1911(明治44)年創刊の平塚らいてうらによる婦人運動の雑誌「青鞜(せいとう)」の表紙絵を描いたことでも知られる。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)と結婚後も油絵などの創作活動を続けた。病に侵されてからは病院で千数百点に上る紙絵を制作、智恵子の名を広く知らしめた。
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 【智恵子の生家、智恵子記念館】油井村漆原(現・二本松市油井)の造り酒屋で生まれた智恵子。生家は、屋号が「米屋」で、清酒「花霞」を醸造した。生家は智恵子の父の死後、事業の不振などで廃業したが、明治初期に建てられた当時の面影をそのままよみがえらせ、一般公開している。10日~11月23日の毎週土、日曜と祝日は智恵子の部屋がある2階が特別公開される。生家の裏庭には今、酒蔵をイメージした智恵子記念館がある。奇跡といわれる智恵子の美しい紙絵や当時の女性としては珍しい油絵などを展示する。8日~11月24日には「青い魚と花」など紙絵の実物が公開される。
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冒頭に紹介されているNTTさんのCM、以前のこのブログでご紹介しましたが、動画と画像をコピペしておきます。

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ガラケーが一周回って逆に新鮮ですね(笑)。

智恵子生家裏山の
「愛の小径」、「熊野大神」碑、「樹下の二人」碑など、昨年のレモン忌の後に歩きました。レポートはこちら。レモン忌は中止となってしまいましたが、来月には市民講座(上記CMにも出演されている「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催)講師をやることになっており、久々に行って参ります。

レモン忌を主催されている智恵子の里レモン会・渡辺会長の談話がいいですね。「智恵子は恋の駆け引きができた人」(笑)。千葉銚子の犬吠埼についても触れて下さり、ありがたく存じます。はじめに智恵子が妹・セキ、友人・藤井ユウとともに泊まったのが御風館、元々光太郎が滞在していて、のちに智恵子も同宿したのは暁鶏館です。

智恵子生家2階部分の公開等については、明日のこのブログにてご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

山口はなかなかいいところです。人里からあまり遠くもないし、そばだと困りますが、ちょうどいいところで、とてもいい感じです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二三」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

「山口」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花卷郊外旧太田村山口地区。たしかに「山奥」というほどの場所ではありませんでした。

おそらく光太郎、ここにも「ほんとの空」があると感じていたのではないでしょうか。

10月4日(日)、北鎌倉の笛さんに伺う前、同じ鎌倉市内の川喜多映画記念館さんで「【特別展】生誕100年 激動の時代を生きた二人の女優- 原節子と山口淑子」を拝見しました。
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原節子さんは、昭和32年(1957)公開の東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)で、智恵子役を演じられました。光太郎役は山村聰さんでした。

山口淑子さんは、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエを光太郎の前に借りていた彫刻家イサム・ノグチの妻。戦後、大陸で日本に協力した中国人・李香蘭として処罰されそうになった際、日本人であることを証明して助命に寄与したのが、当時、中国国民党の将校だった黄瀛。中国人の父と日本人の母を持ち、光太郎や草野心平、宮澤賢治と親しかった詩人でもありました。また、光太郎自身も、写真で見た山口さんの風貌に、彫刻を作りたいと感じていたそうです。

そのお二人の企画展ということで、興味深く拝見。

原さんの「智恵子抄」に関しては、縦に二枚つなげる立看用のポスターが展示されていました。展示の撮影は禁止だったので、下の画像、当方手持ちの同じものです。
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南品川ゼームス坂病院で紙絵を制作する智恵子です。そういえば昨日は智恵子忌日・レモンの日でした。

ちなみに自宅兼事務所には、これ以外にもポスター、プレスリリース、チラシ、シナリオ、パンフレット、スチール写真、当時の雑誌など、小規模な「原節子と「智恵子抄」展」が開催できるくらいの数があります。やるというならお貸ししますので、関係の方、ご検討下さい。

「智恵子抄」は、同館で今月末から来月はじめにかけ、上映されます。
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ところで、原さんといえば、現在NHKさんで放映中の連続テレビ小説「エール」。昨日の放映分に原さんの名前が出て来ました。

昭和18年(1943)、作曲家・古関裕而をモデルとする主人公・古山裕一(窪田正孝さん)の元へ、映画プロデューサーが訪ねてきまして、映画の主題歌を作曲してほしいと要請。
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この映画、実在のもので、原さんがご出演なさっています。監督は渡辺邦夫。配給は東宝でした。
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内容的にはざっくり言うと、上記プロデューサーのセリフ通りです。

で、主題歌が「若鷲の歌」。下記画像はおそらく明日か明後日の放映分の「エール」。先月の番宣番組から採りました。
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「エール」については、また改めて光太郎の翼賛詩文とのからみで記事を書きたいと思っております。

川喜多映画記念館さんでの展示では、残念ながらこの「決戦の大空へ」についてはほとんど触れられていませんでした。ただ、原さんにとっての「黒歴史」だから隠蔽、というわけではなく、同様の国策映画「新しき土」(昭和12年=1942)、「ハワイ・マレー沖海戦」(昭和17年=1942)については詳しく扱われていました。

山口淑子さんの「李香蘭」時代の活動を含め、国策映画、恐ろしいものだと感じました……。

ところで、先週の「エール」には、こんなシーンもありました。
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二階堂ふみさん演じるヒロインが、軍需工場などの慰問演奏を行う「音楽挺身隊」に参加し、しかし呑気に考えていたところ、投げつけられたセリフです。

音楽、それから映画、そして詩歌や小説、さらには絵画彫刻などの造形芸術も、「軍需品」だったわけで……。そういう時代に戻してはならないと、改めて感じました。

さて、川喜多映画記念館さんでの展示、12月13日(日)までです。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

僕は個人に寄付するのは好みません。特定の人にだしたくないのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二二」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

詩集『典型』が読売文学賞に選ばれ、その賞金10万円をまるまる寄付してしまった光太郎。ただし、個人に対しては行わず、山小屋近くの山口小学校、地元青年会などに寄付しました。

昨日は神奈川県鎌倉市に行っておりました。

メインの目的地は、北鎌倉。「あじさい寺」として有名な名月院さん近く(「徒歩365歩」だそうです(笑))のカフェ兼ギャラリー・笛さん。光太郎のすぐ下の妹・しづの婚家で、令孫の山端夫妻が経営されています。
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こちらでは、毎年この時期に、光太郎に関わる展示をなさってくださっています。昨年は当方がバタバタしており伺えなかったのですが、今年はご案内もいただきまして、昨日の初日にお邪魔して参りました。
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近くに、光太郎と親交の深かった詩人の尾崎喜八が住んでいて、その尾崎の結婚(妻は光太郎の親友だった水野葉舟の娘・實子)祝いに光太郎が贈ったブロンズ(大正13年=1924)です。ミケランジェロの「聖母子像」の模刻ですが、石膏原型は既に喪われ、鋳造もこれ一点しか確認できていない貴重なものです。

平成26年(2014)にお邪魔した時には、尾崎夫妻ご息女の故・榮子様がご健在で、ちょうどいらしていて、子供の頃、智恵子に抱っこされた思い出など、貴重なお話を伺うことができました。ちなみに今日、10月5日は智恵子命日「レモンの日」です。

その他、複製が中心ですが、智恵子の紙絵や光太郎デッサンなどなど。書(色紙)は複製でない光太郎肉筆のものが一点飾られていました。
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また、展示されていなかった古写真も拝見。
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昭和18年(1943)、「笛」オーナーの山端夫妻のご両親である敏夫氏(しづ四男)・静江様ご結婚の折の記念写真だそうです。

光太郎も写っています。珍しく(笑)ネクタイ姿です。
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最後列一番右が光太郎(長男)、その前に実弟・豊周(三男)夫妻、豊周の右隣は藤岡家に養子に行った孟彦(四男)と思われます。次男・道利はなぜか写っていないようです。

こんなものも展示されていました。
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東大地震研究所さんで作った光太郎木彫「鯰」のレプリカ。昭和45年(1970)、同所の創立45周年の記念品です。言わずもがなですが、「地震」で「鯰」、洒落が利いています。当方は5年後に作られた同50周年記念のものを持っていますが、そちらは樹脂で周りを固めたペーパーウェイトになっています。
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さて、「笛」さんでの展示、11月22日(日)までです。ただし、火・金・土・日のみですので、ご注意を。

「笛」さんにお邪魔する前、同じ鎌倉の川喜多映画記念館さんで、「【特別展】生誕100年 激動の時代を生きた二人の女優- 原節子と山口淑子」を拝見しました。明日はそのあたりを。


【折々のことば・光太郎】

僕は上等な料理よりも栄養のある料理のほうがいいのです。上等な料理は体裁がよくても、栄養がないということが多いのです。臓物や尾などの捨てるところに栄養があるのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二一」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

光太郎、当時は精肉店などで捨てられていた牛のシッポを貰ってきて、オックステールスープを自作していたそうで……。

テレビ番組の再放送をご紹介します

にほんごであそぼ「過ちて…」

NHK Eテレ 2020年10月7日(水) 6時35分~6時45分/17時00分~17時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。今日は…野村萬斎/過ちて改めざる これを過ちという「論語」、名台詞かるた・ひつじのメェ~台詞/僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る「道程」高村光太郎、あいだのじいさん「車のサイドミラーのあいだ」、うた「たのしやかぶき~夏祭~」

出演
美輪明宏 野村萬斎 中村勘九郎 中村勘太郎 中村いてう 中村仲助 池田鉄洋 万作の会
中尾隆聖 ほか

9月23日(水)に本放送がありました。
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光太郎詩「道程」(大正3年=1914)の書き出し「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。まずは「名台詞かるた」というコーナーで。

続いて「ひつじのメェ~台詞」というコーナーでも。
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ひつじ役は俳優の池田鉄洋さんなのですが、なぜひつじなのか、よくわかりません(笑)。

続いてBS放送で、昨年、初回放映があったものです

偉人たちの健康診断 選「東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」

NHK BSプレミアム 2020年10月8日(木)  23時45分~24時45分

太平洋戦争前夜の1941年、一冊の詩集「智恵子抄」がベストセラーとなった。彫刻家・高村光太郎が、画家を目指す妻・智恵子との出会いから死別までの27年間の愛の軌跡をつづった純愛詩集だ。そこには、夫・光太郎をこよなく愛しながらも数奇な運命に見舞われた智恵子の、心と体が発するSOSが記されていた! そして、ついに心を病んでしまった智恵子の心を、夫のもとにつなぎとめた奇跡の○○○とは? 時代を超えた純愛物語!

出演 関根勤 カンニング竹山 榊原郁恵
解説 郷原宏 河村正二 宮崎良文 池淵恵美
司会 渡邊あゆみ
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全体としては非常にいい作りになっていたのですが、「智恵子が色覚異常であった」と、ほぼ決めつけてしまっていたのが残念でした。

再現ドラマなどの部分は、当方も制作のお手伝いをさせていただき、平成27年(2015)にNHKさんの地上波総合テレビで放映された「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」とのシェアで、前田亜季さんが智恵子役でした。
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ぞれぞれご覧になっていない方(既にご覧になった方も)、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

「詩を見てください」とよく頼まれます。しかし、僕は見ないことにしています。利己的で自分を認めてほしいというのかもしれません。「どこかに紹介してください」という虫のいい話をする人もいます。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二〇」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

素人の詩など読んでいる暇はない、というより、静かに暮らしている山小屋まで押しかけてくる厚かましさへの辟易でしょう。

新刊です。分類上は雑誌なのでしょうが、保存版的な

9月20日(日)の地方紙『石巻かほく』さんに紹介記事が出ていますので、まずそちらから

「石巻学」第5号が完成 文学特集、震災後の動きも紹介

 「石巻と文学」を特集した地域誌「石巻学」の第5号が完成した。石巻を舞台に作家ドリアン助川さんが書き下ろした小説をはじめ、詩人の吉増剛造さんが石巻について語った特集もあり、充実した内容になっている。ページ数も192ページと前号より約40ページも増加。港町・石巻が育んだ文学文化の魅力を伝えると同時に、東日本大震災と文学を考える1冊が誕生した。
 発行したのは「石巻学」プロジェクト(大島幹雄代表)。文学特集にふさわしく吉増さんとドリアンさんが登場。巻頭を飾っているのが「吉増剛造「『石巻』を語る」。吉増さんは昨年夏のリボーンアート・フェスティバルをきっかけに、石巻に足繁く通うようになった。詩人の目が捉えた石巻が語られている。
 ドリアンさんは大島さんと親交があり、小説の依頼を快諾。掲載されたのが「宿題」。ドリアンさんが震災後、門脇地区を訪れていた体験を下に書き上げた短編で、新しい震災文学が生まれた。
 石巻と文人たちとの出合いを振り返ったルポや回想は文学資料としても貴重。(1)結婚したばかりの吉村昭と津村節子夫妻の石巻での行商生活(2)石巻市が生んだ芥川賞作家辺見庸と門脇の思い出-を紹介している。
 高村光太郎や坂口安吾、北杜夫ら石巻地方を旅した作家や詩人は多く、その旅人たちに焦点を当てたのが「紀行文を旅する」。コロナ禍の今、旅の気分を味わえる読み物。紀行文に紹介された石巻の風土や暮らしに思いをはせながら石巻地方の魅力を再発見できる。
 震災後の動きにも着目。短歌集団「カプカプ」の短歌や、中学1年生の少女が亡き姉への思いをつづったメルヘン小説を掲載。第5号は地域から全国に向け発信する文芸誌の一面も備えた1冊になった。
 震災直後、俳句で心に抱いた思いや悲しみなどを表現した女川一中生の9年後を追ったルポや、震災後に読んだ本の中で印象に残った1冊について市民に聞いたアンケートも興味深い。震災を体験した市民や子どもたちに、俳句や読書がどのような役割を果たしたかを考えさせられる。
 代表の大島さんは「日和山にはたくさんの文学碑がある。松尾芭蕉や宮沢賢治、石川啄木ら多くの文学者が訪れ、石巻について書いている。特集は石巻と文学を巡る過去と今がダイナミックに交錯する中身の濃い内容となった。震災と文学の問題にも迫ることができた」と自負する。
 「石巻学」は2015年12月に創刊。これまで「映画」や「鯨」「音楽」などを切り口に、港町・石巻の魅力をさまざまな角度から探り、石巻の文化の奥行きの広さ、深さを発掘してきた。
 第5号は定価1700円(+税)。A5判。こぶし書房(東京都)発売。ヤマト屋書店TSUTAYA中里店などで扱っている。

石巻学VOL.5

2020年9月20日 石巻学プロジェクト編 こぶし書房 定価1,700円+税

「歩く 見る 聞く 石巻」をモットーに、石巻ならではの話題を特集してきた雑誌『石巻学』第5号発刊!

【特集 石巻と文学】
インタビュー 吉増剛造「石巻」を語る
ドリアン助川 宿題
大谷尚文 南浜町の辺見庸さん
大島幹雄 終着駅からの出発――吉村昭・津村節子のふたり旅のはじまり
古関良行 紀行文を旅する
近江瞬 言葉で見つめる
短歌部カプカプ短歌集
 伊藤成美 まちでまなぶ/岩倉曰 わだのは/加藤奨人 綺麗
 阿部達人 雀島トワイライト・ゾーン/岩崎綾 融けるのを待つ
 齋藤麻理奈 知らない道/千葉楓子 七歳までは夢の中/近江瞬 サイレンの尾
佐藤珠莉 真っ白な花のように
伊藤唯 愛すべき未来のために我が道を
阿部一彦 伊藤唯さんと女川1000年後のいのちを守る会
小野智美 言葉を杖に立ち上がる――『女川一中生の句 あの日から』十四歳の九年後
大島かや子 「言葉」でつなぐ3・11――国語教育と震災
アンケート 震災後に読んで、心に残った本は何ですか?
「石巻と文学」ブックリスト
梅里石雪 日和山慕情
【連載】
高成田享 石巻さかな族列伝5 漁師支えて三陸からトンガへ
本間英一 本間家蔵出しエッセー5 「橋本学」石巻を知る多才な郷土史家
大島幹雄 岡田劇場物語5 コロナ危機の中で
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上記目次で、色を変えてある項が、光太郎に関わります。

まず、河北新報社生活文化部長・古関良行氏による「紀行文を旅する」。石巻と、隣接する女川町を題材とした古今の紀行文の紹介です。最初に取り上げられているのが光太郎。昭和6年(1931)の『時事新報』に連載された紀行文「三陸廻り」のうち、石巻と女川の項について述べられています。女川の項では、この紀行文が機縁となって光太郎文学碑が建立されたり、女川光太郎祭が開催されるようになったりした経緯、それらのために奔走なさりながら、東日本大震災の津波で還らぬ人となった故・貝(佐々木)廣さんについて、さらに今夏、光太郎文学碑が再建されたことなどについて言及されています。さらに当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書『光太郎 智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(二玄社 平成24年=2012)についても。

光太郎以外には、河東碧梧桐、瀧井孝作、臼井吉見、坂口安吾、田山花袋、白鳥省吾、北杜夫、三浦哲郎、井伏鱒二、池内紀らのそれが紹介されています。

下の方の「愛すべき未来のために我が道を」から「「言葉」でつなぐ3・11――国語教育と震災」が、石巻に隣接する女川町に、大津波の際、避難すべき高さの目安となるランドマークとして建設され続けている「いのちの石碑」関連。先述の光太郎文学碑が「100円募金」によって建てられた故事に倣い、こちらも建設費用は募金でまかなわれています。

ちなみに先月2日の『朝日新聞』さんの投書欄に、「いのちの石碑」の話題が載りました。
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『石巻学』では、碑の建立に携わっている若者たち自身の寄稿もありますし、彼らを見守り続けてきた『朝日新聞』さんの小野智美記者(連翹忌にもご参加下さいました)、阿部一彦先生など。主に、「いのちの石碑」に刻まれている、震災直後に中学生だった若者たちが詠んだ俳句(小野さんの編集で「女川一中生の句 あの日から」としてまとめられています)を軸にしています。

感心したのは、単なる「美談の紹介」的なスタンスではなく、若者たちがプロジェクトの進行中も、時にネガティブになってしまうこともあったことを、赤裸々に紹介している点。あれだけの大災害を目の当たりにし、大切な人を喪い、むべなるかな、です。しかし、だからこそ、彼らの石碑建立にかける思いがより鮮やかに際立つようにも感じられました。

そうした描かれ方は、昨年、NHKさんで初回放映のあったスペシャルドラマ「女川いのちの坂道」でもなされていました。今回執筆されている伊藤唯さんという方、どうも平祐奈さんが演じた主人公のモデルのようです。

さて、『石巻学』。それ以外にも、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を書かれた芥川賞作家の津村節子さんと、ご主人の故・吉村昭氏ご夫妻と石巻の関わりを追った「終着駅からの出発――吉村昭・津村節子のふたり旅のはじまり」なども載っています。他の小説、レポート等もなかなか読みごたえのあるものでした。

また、詩人の吉増剛造氏(表紙の写真が氏です)へのインタビューでは、宮沢賢治と石巻について、詳述されています。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

そのころ、草野心平君が『春と修羅』を持ってきました。此の本は僕のところにも届いていたので、荷をといて読んでみました。すばらしいものがありました。
談話筆記「高村光太郎先生説話 一九」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

「その頃」は大正13年(1924)。本当にこの通りだったとすると、心平に薦められるまで、送られてきた『春と修羅』を読んでいなかったわけで、光太郎、チョンボでしたね(笑)。

001当会発行の冊子『光太郎資料』54集、完成しました。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、36集までを不定期に発行されていたものです。平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、当会として年2回発行しております。北川先生の時代には、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、そのあたりは引き継がせていただいております。表紙の「光太郎資料」の文字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。

現在はパソコンで原稿を作成、印刷(両面コピー)のみ地元の印刷屋さんに頼み、経費節減のため丁合(ページごとに紙をまとめること)、ホチキス留め製本は一冊ずつ当方が行っています。それでも一号分の印刷費、送料、ラベルや封筒などの消耗品で10万円ほどかかっています。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第十八回 父母弟妹・親族・姻族(二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、親族や姻族に宛てた書簡等を載せました。

明治42年(1909)、欧米留学の末期に1ヵ月ほど旅して歩いたイタリアから実弟の道利に送った絵葉書(今年、花巻高村光太郎記念館さんに寄贈されました)、同じく花巻高村光太郎記念館さんに平成26年(2014)に寄贈された、実弟豊周の妻、美和にあてた書簡などを載せています。

・光太郎回想・訪問記  宝川温泉にちなんだ話 高村光太郎氏訪れる 鈴木重郎
これまであまり知られていない(と思われる)、光太郎回想文を載せているコーナーです。平成26年(2014)公開の映画「テルマエ・ロマエⅡ」(阿部寛さん主演)のロケ地にもなった群馬県の宝川温泉を光太郎は2度訪れていますが、その際の思い出を、同温泉主が回想した文章です。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の防御線――見附の話(その二)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第3巻第7号(昭和4年=1929)。光雲を含む各界の著名人等による座談会筆録です。底本には、平成18年(2006)柏書房発行、『大江戸座談会』を使っていますが、同書の監修に当たられた竹内誠氏(元江戸東京博物館館長)が、先月、亡くなっています。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十八回  宝川温泉/湯の小屋温泉(群馬県)
上記「光太郎回想・訪問記」とリンクさせました。宝川温泉は、かつては「熊と一緒に露天風呂に入れる温泉」というのが売りでした。光太郎が泊まった当時の建物、部屋が現存しているようです。
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さらに宝川温泉と同時期に訪れた湯の小屋温泉についても。

・音楽・レコードに見る光太郎 「初夢まりつきうた」(その二)
昭和25年(1950)、当時あった地方紙『花巻新報』や、花巻商工会議所などから依頼されたと思われる、花巻商店街の歌的な「初夢まりつきうた」についてです。確認できている限り、光太郎が歌詞として作った最後の作品です。

・高村光太郎初出索引(年代順 二)
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号は明治42年(1909)と翌43年(1910)に初出があったもの。

ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーもご希望があれば)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお振り込み下さい。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

他金融機関からの振り込み用口座番号

〇一九(ゼロイチキュウ)店(019) 当座 0782139


【折々のことば・光太郎】

よく「田舎に住みたい」という人がいます。しかし、ほんとうに田舎の生活が出来る人は少ないと思います。一カ月もしたら耐えられなくなってしまうでしょう。
談話筆記「高村光太郎先生説話 一八」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

「田舎」の定義にもよりますが……。光太郎が住んでいた当時の花巻郊外旧太田村、闇屋の買い出しさえ来なかったという場所でしたので……。

岡山県から展覧会情報です

特別展「没後110年 荻原守衛〈碌山〉―ロダンに学んだ若き天才彫刻家―」

期 日 : 2020年10月9日(金)~11月29日(日)
会 場 : 井原市立田中美術館 岡山県井原市井原町315
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、祝日の場合は開館し、翌日が振替休館)
料 金 : 個人:800円(640円)( )内は前売券、および20名以上の団体

 荻原(おぎはら)守衛(もりえ)(号 碌山ろくざん、1879~1910)は、長野県南安曇郡東穂高村(現 安曇野市穂高)に生まれ、留学先のパリでロダンの《考える人》に接し彫刻家になることを決意します。帰国後は、ロダンの影響を受けながら独自の彫刻を模索し、文展に《文覚》や《北条虎吉胸像》などの意欲的な作品を発表しましたが、30歳の若さで没しています。

 明治時代後期に登場した荻原守衛は、帰国後わずか2年の活動期間ながら、日本彫刻界にロダニズムの新風を吹き込みました。荻原と親交のあった高村光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎といった同時代の彫刻家たちも、ロダンと荻原の存在によって自己の芸術を開花させ、大正期の彫刻界で頭角を現していきます。

 本展では、荻原守衛の全彫刻15点を始めとするブロンズ、素描、油彩画を展示し、彼の追求した芸術を検証すると共に、同時代に活躍した彫刻家、画家の作品をご覧いただくことにより、明治後期から大正へと続く日本近代美術の流れをたどります。

出品作品
 荻原守衛《デスペア》公益財団法人碌山美術館蔵
 荻原守衛《女》公益財団法人碌山美術館蔵
 荻原守衛《文覚》公益財団法人碌山美術館蔵
 荻原守衛《北条虎吉胸像》東京国立博物館蔵
 ロダン《考える人》 おかざき世界子ども美術博物館蔵
 高村光太郎《手》 台東区立朝倉彫塑館蔵
 中原悌二郎《若きカフカス人》東京国立近代美術館蔵
 中村 彝《少女習作》 株式会社 中村屋蔵
 朝倉文夫《吊された猫》台東区立朝倉彫塑館蔵
  他 ブールデル、マイヨール、戸張孤雁など 展示作品総数 71点
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001かつて「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の巡回先だった、岡山の井原市立田中(でんちゅう)美術館さんでの特別展です。同館は、基本、光太郎の父・光雲の高弟の一人、平櫛田中の個人美術館ですが、このように時折、関連する作家の展覧会なども開いて下さっています。

守衛の親友だった光太郎の作品も出ます。ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)。台東区の朝倉彫塑館さんの所蔵で、光太郎生前に鋳造されたと確認できている3点のうちの一つです。したがって台座の木彫部分も光太郎の手になるもので、他の2点(竹橋の国立近代美術館さん、髙村家)に伝わるものと比べ、高さが高いのが特徴です。ご覧になる方は、この台座にも注目して下さい。

それ以外に、以下の光太郎作品も出るそうです。すべてブロンズです。

・「獅子吼」(明治35年=1902 東京藝術大学蔵)
・「裸婦坐像」(大正6年=1917 呉市美術館蔵)
・「腕」(大正7年=1918 碌山美術館蔵) 
・「老人の首」(大正14年=1925 東京国立博物館蔵)
・「黒田清輝胸像」(昭和7年=1932 東京藝術大学蔵)


追記 電話で問い合わせた際に教えていただいたのは6点でしたが、図録には更に「園田孝吉像(大正4年=1915 碌山美術館蔵)」も掲載されていました。

というわけで、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

金閣寺には美術品がそんなにありませんが、襖の絵にはいいものがあったと思います。金箔を塗った建物というので珍しいのですが、金箔を塗ったものに、本当に優れているものは少ないのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 一七」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

金閣寺が放火で焼失した翌日に語った内容です。中尊寺金色堂にしてもそうでしたが、光太郎、金ピカの建造物や造形作品にはあまり価値を見出していませんでした。クリムトについても今のところ言及した文章等は確認できていません。

ところが、この2年後には、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作にかかり、その案はすぐに撤回したものの、当初は像に金箔を焼き付け、湖水の中に沈めるという構想もありました。


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