2020年06月

智恵子の故郷、福島・二本松に聳える安達太良山。やはり新型コロナの影響で、今年はいろいろと例年どおりではありません。

二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』の7月号、5月17日(日)に行われた第66回山開きについて報じています。 

第66回安達太良山山開き 神事で登山客の安全を祈る

 今年の安達太良山山開きは、規模を縮小し、5月17日、あだたら高原スキー場ランデブーで神事のみが行われました。
 この日は、福島県で新型コロナウイルス特措法に基づく緊急事態宣言が解除された後の初めての日曜日で、例年に比べると登山客の姿は少なかったものの山登りを楽しむ姿が見られました。


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新聞報道はこちら

もう1件。「オンライン」やら「リモート」やらが流行ですが、安達太良山でも。 

安達太良山好き必見!5月にオンラインで開催した「スナックひかりと」、第2回は千功成とくろがね小屋のコラボです⛰✨

先代からの思いを引き継いで完成した銘柄「甑峰」について、山小屋の仕事について… 一緒に楽しくトークしましょう🥰

▽ゲスト 檜物屋酒造 社長・杜氏 齋藤一哉さん くろがね小屋小屋番 田畠翔さん
▽MC 二本松市地域おこし協力隊 丸田陽加里(ひかりママ)
▽日時 7/10(金)19:30〜21:30
▽定員 40名(先着順で受付いたします)
▽ご参加にあたって(必ずお読みください)
・参加者は「檜物屋酒造のお酒」もしくは、二本松の酒造産のお酒を出来るだけご用意して飲み会にご参加ください。
・Zoomオンラインでの開催です。先着40名様に当日、飲み会IDとパスワードをお送りします。
・ご利用環境等は参加者ご自身にて設定してください。設定等のお問い合わせはご遠慮ください。
・参加者はオンライン飲み会のマナーを厳守の上、ご参加ください。

▽お申し込み 
下記フォームよりお申し込みください。 https://forms.gle/ddADPMTk1uysjWRn7

▽「スナックひかりと」とは?
地元の人と「ヨソモノ」の交流の場を作りたい!という思いから、岳温泉で地域おこし協力隊として活動する、お酒好きのまるちゃんこと丸田ひかりがママをつとめる一日限定スナック。今年2月に第1回を開催しましたが、コロナウイルスの影響で現在開催を延期しています。5月にオンラインで大七酒造とコラボトークを行いました。

▽ひかりママからメッセージ
コロナウイルスの影響でFace to Faceのコミュニケーションが難しい状況ですが、逆に普段話せない人とも繋がることができるのが、オンラインの良いところでもあります。ぜひこの機会に二本松の魅力をよりディープに知っていただくと共に、アットホームな人との繋がりを感じられるイベントにできれば嬉しいです😊

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ご興味のある方、ぜひどうぞ。

上記、岳温泉観光協会さんのサイトで見つけた情報ですが、同じサイト内でこんなページも。 

智恵子抄に詠われた「ほんとの空」がクリームソーダになりました😊💕

どこまでも続く青空と雲をイメージして作られています☁チーズケーキ工房カフェ風花にてぜひお試しください🥤✨

阿多多羅山の上に毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
 高村光太郎「智恵子抄」より

ほんとの空と言われる、安達太良の空。そんな空をイメージしたソーダができました。どこまでも青い空を映したような「あおぞらソーダ」爽やかなアップルソーダです。バニラアイスはまるで空に浮かぶ雲のよう。溶かしながら色の変化も楽しめます。植物由来の着色料を使った青色です。

甘酸っぱいクランベリーソーダを使った「ゆうぐれソーダ」も😘

カフェ・テイクアウト両方で販売中です🥤

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チーズケーキ工房カフェ風花」さんは、岳温泉か003ら土湯温泉さん方面に向かう「ミドルライン」(国道459号線)沿い。岳温泉さんの中心街からはやや離れた場所です。住所は二本松市大関438-7。

秋には市民講座の講師を仰せつかっていますので、二本松に参ります。その際にでも堪能してこようと存じます。


【折々のことば・光太郎】

動勢  短句揮毫 昭和初期 光太郎45歳頃

筑摩書房さん『高村光太郎全集』、それからその補遺たる「光太郎遺珠」、ともに「短句」という項を設けています。主に書作品として色紙などに揮毫されたものから採っています。

基本方針としては、単語一語のみのものは除外、詩文から抜粋したものも除外、その色紙なら色紙にしか書かれていないというものを登録しています。

ただ、この「動勢」は例外としました。単語一語のみですが、この「動勢」という語、『ロダンの言葉』の翻訳に際し、仏語の「mouvement」の訳語として光太郎が創出した語です。「動き」、「流動感」といった意味と、彫刻の周囲を回ることで刻々変化する輪郭線を表すのにも使われています。

右は光太郎の実弟・豊周と親しかった染色工芸家・広川松五郎の旧蔵で、広川が軸装したものです。

『毎日新聞』さんで昭和29年(1954年)3月から続く読者投稿コラム。「日常の出来事やうれしかったこと、悩みや願い。「時代の心を映す鏡」が読者の高い支持を集めています」だそうです。

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6月17日(水)の掲載分に光太郎の名が。

女の気持ち 道程 山口県下松市・濱田道子(78歳)

 コロナ禍の中で最近亡き父のことをよく思い出す。父は田舎の寺に生まれた。7歳前後の時にスペイン風邪が流行し、病人を寺で看病していたらしく、まず父の父親が、そして1週間後に母親も亡くなった。両親を亡くした父のその後の苦労は想像もできない。
 父は分校の教師の頃、理科の授業で芋あめをなめさせてくれたり、星座を教えてくれたりした。本校に勤める頃は、おんぼろ自転車で1里半の道を通っていた。小学5年生の私は、学校に遅れそうになっては毎日のように途中で父の自転車に乗せてもらっていた。同級生との写真を見せると私が一番素直な顔をしていると母に言ってくれた。 父の弟は海軍の軍人だったが、父は高齢の祖父母の介護をしていて赤紙は来なかった。産めよ増やせよの時代で、8人の子供に赤貧の中で教育を受けさせ、すべて結婚させた。寺があったので、平教師のままで定年を迎えた。
 退職金でしたことは念願の本を何十万円も買うこと。仏教書が多かった。あの時のうれしそうな父の顔は忘れられない。後に母に全部目は通したよと話していた。一生に一度のぜいたく。しかし間もなく、がんを患って亡くなった。 私は端正でありながら、生気のある父の字が大好きである。長男が小学校入学の時に書いてくれた高村光太郎の「道程」の額を見上げながら、コロナ禍が収まる日を祈るように待っている。

このように、光太郎詩は、市井の人々の何気ない日常を支える役割も担ってきたのだな、と、感懐を覚えました。また、改めて、光太郎顕彰への使命感的なことも感じております。


【折々のことば・光太郎】

明治十六年三月、東京下谷に生る。東京美術学校彫刻科出身。与謝野寛氏に就き短歌を学ぶ。一九〇六年三月より一九一〇年迄、紐育巴里等に滞在す。詩集『道程』訳詩集『明るい時』及『ロダンの言葉』等の訳著がある。

雑纂「略歴」全文 昭和4年(1929) 光太郎47歳

改造社発行の『現代日本文学全集第三十七篇 現代日本詩集 現代日本漢詩集』の「現代日本詩家年譜」収録。序文には「著者八十五人の略伝は故人以外その自記を請うたが、編輯の都合上止むを得ず添削案配するところがあつた。記して諸家の寛恕を乞ふ次第である。」と記されています。

光太郎も自分自身を市井の一芸術家と捉えていたようです。「一九一〇年」は明治42年(1909)の誤りです。

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例年ですと、この時期に古書業界最大の市(いち)、七夕古書大入札会が行われています。古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)など数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。出品物全点を手に取って見ることができる下見展観もあり、ここのところ毎年お邪魔していました。

 「明治古典会七夕古書大入札会2019」レポート。

ところが今年は、例の新型コロナの影響で中止です。主催者サイトから。

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むべなるかな、という感じですね。

代わりといっては何ですが、最近、自宅兼事務所に届いた各古書店さんの目録から。

まずは美術専門店のえびな書店さん。小金井の在です。

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表紙にドーンと光太郎の色紙。

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戦後の筆跡ですね。光太郎が好んで揮毫した文言で、花巻高村光太郎記念館さんには軸装された他の作品が所蔵されています。

昭和3年(1928)、当会の祖にして光太郎と最も交流の深かった詩人・草野心平の第一詩集『第百階級』の序文に、「詩人とは特権ではない。不可避である。」と書きました。その頃からの「持論」なのですね。

続いて、本郷の森井書店さん。近代文学、山岳系の古書を扱っているお店です。

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こちらも表紙に「高村光太郎書簡」の文字。画像は井原西鶴ですが。

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大正11年(1922)、日本女子大学校の智恵子の先輩・小橋三四子にあてた長い書簡です。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第21巻に収録されていますが、画像で見るのは初めてで(全部は載っていませんが)、興味深く拝見しました。

上記色紙ともども、味のある字です。

それから、先月、神保町の近代文学系専門古書店さんから届いた目録にも、光太郎筆という短冊が掲載されていましたが、そちらはどうもいけません。はっきり言えば、光太郎筆ではないだろうと思われます。似せて書こう、だまくらかしてやろう、という匂いが、写真でも伝わってきます。「××堂さん、こんなもの扱っちゃうのか」と、残念でした。

もっとも、上記の七夕古書大入札会でもそういうものが出品された年もありまして、わかっていて出しているのか、鑑定する力がないのか、何ともいえないところですが……。

それはともかく、来年以降、また七夕古書大入札会、復活することえお願ってやみません。


【折々のことば・光太郎】

画の話は一体、作品を目にせずしては聞くものが途方に迷ふものである。けれども、自由を貴んで大抵の極端なことには驚かぬ巴里のまんなかで、此程世人を騒がしてゐる画だと思へば、およそ其の極端さ加減も想像ができよう。

雑纂「HENRI-MATISSE(アンリイ、マチス)の画論㈠[前書き]」より
明治42年(1909) 光太郎27歳

雑誌『スバル』に掲載されたマチスによる画論翻訳の序文から。

マチス(マティス)は、確認できている限り唯一、光太郎と手紙のやりとりがあった当時の一流フランス人画家です。

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『日本農業新聞』さんの一面コラムに、光太郎の短歌。6月25日(木)の掲載です。 

四季 厄災の中で詩歌がどれほど心を慰めてくれることか 000

厄災の中で詩歌がどれほど心を慰めてくれることか。岩波文庫別冊『声でたのしむ 美しい日本の詩』で、改めて実感した▽編者は最高の“ 目利き”の大岡信、谷川俊太郎ご両人で、肝は〈声でたのしむ〉。谷川さんは末尾で「つい百年前まで詩は吟じるのが当たり前だった」と説く。確かに声を出すのと、ただ字面を目で追うのとは感じ方、体感する言の葉の響きが違う▽和歌から近・現代詩まで幅広い。珠玉作をいくつか。〈うらうらに照れる春日に雲雀(ひばり)あがり情悲しも独りおもへば〉( 大伴家持)。〈海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと〉(高村光太郎) 。〈マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや〉(寺山修司)。既に万葉の時代に情を〈こころ〉と読む。光太郎の歌は青年の大志と不安を指す。寺山の〈身捨つる祖国〉の大胆な表現に驚く▽ちょうど「青嵐(せいらん)」の時分で詩は茨木のり子「六月」がいい。〈どこかに美しい人と人との力はないか〉と問い〈したしさとおかしさとそうして怒りが鋭い力となってたちあらわれる〉と結ぶ。与謝野晶子の〈君死にたまふことなかれ〉。副題は「 旅順口包囲軍の中に在る弟を歎(なげ)きて」。代表的な反戦歌でもある▽朗読こそが詠み人の魂に近づく道かもしれない。

引用されている光太郎の短歌は、明治39年(1906)、3年半にわたる欧米留学の旅立ちに際し、横浜港から乗船したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアン船上で詠んだものです。引用元の『声でたのしむ 美しい日本の詩』の編者のお一人・故大岡信氏が、『朝日新聞』さん紙上で連載されていた「折々のうた」の、記念すべき第一回に取り上げられもしました。

光太郎自身は、「此の歌、余の代表作の如く知人の001間に目され、屡〻(しばしば)揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。雑誌『キング』第5巻第9号 昭和4年=1929と書いていますが、なかなかどうしてやはり「秀歌」といっていいものだと思います。

ちなみに『声でたのしむ 美しい日本の詩』、このブログではご紹介しませんでしたが、岩波書店さんから今年初めに刊行されています。

是非お買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

上州と聞けば赤城山 高橋成重、萩原恭次郎

アンケート「上州とし聞けば思ひだすもの、事、人物」全文
 昭和10年(1935) 光太郎53歳

雑誌『上州詩人』第17号に掲載されました。「高橋成重」は、高橋元吉が一時期使っていた筆名「高橋成直」の誤植です。

昨日ご紹介したアンケート「山と海」でも、山としては何度も訪れた赤城山を挙げ、海ではアセニアン船上での太平洋航海を語っています。

半年経っていますので、「新刊」と言っていいものかどうか……。過日、都内に出た際に新刊書店で入手しました。 

2019年11月30日 週刊朝日編集部編 朝日新聞出版 定価1,500円+税

週刊朝日の人気連載(2017年11月〜2019年5月まで)だった「文豪の湯宿」を再編集して収録。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、森鴎外ら文豪が宿泊した温泉宿を、当時のエピソードとともに見開きで紹介する。温泉ガイドとしての情報も満載なのでこれからの温泉シーズンにぴったり。

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目次
 小林一茶 湯田中湯本(長野県・湯田中温泉)門弟が営む宿で酒をおねだり
 森鷗外 緑霞山宿 藤井荘(長野県・山田温泉)購入を持ちかけて断られた宿
 正岡子規 鷹泉閣 岩松旅館(宮城県・作並温泉)疲れ切ってたどり着いたら長階段の湯
 国木田独歩 上会津屋(栃木県・塩原温泉)若き独歩が恋人と逃避行した宿
 高浜虚子 ふなや(愛媛県・道後温泉)供されたステーキに馴染めなかった虚子
 泉鏡花 まつさき(石川県・辰口温泉)愛する叔母に会うための宿
 幸田露伴 満寿家(栃木県・塩原温泉)暑い夏を避け、生涯何度も訪れた定宿
 夏目漱石 湯回廊 菊屋(静岡県・修善寺温泉)「修善寺の大患」大吐血の舞台
 志賀直哉 三木屋(兵庫県・城崎温泉)列車事故の傷を癒やした城崎の宿
 久米正雄 旅館 花屋(長野県・別所温泉)支払いを忘れて、仲間とともに放蕩
 宇野浩二  聴泉閣 かめや(長野県・下諏訪温泉)思い焦がれた芸者に会うために通った宿
 室生犀星 香嶽楼(新潟県・赤倉温泉)友・朔太郎と小競り合いした思い出
 若山牧水 ゆじゅく金田屋(群馬県・湯宿温泉)鮎料理を“お代わり”して大いに飲食
 田山花袋 依山楼 岩崎(鳥取県・三朝温泉)小声で歌って湯でリラックス
 有島武郎 ゆとうや旅館(兵庫県・城崎温泉)心中の1カ月前に訪れた温泉場
 吉川英治 越後屋旅館(長野県・角間温泉)全財産を投じて籠もった修業の地
 葛西善蔵 湯元板屋(栃木県・奥日光湯元温泉)悲惨な生活から遁走した宿
 川端康成 湯本館(静岡県・湯ヶ島温泉)10年間、ツケ払いで暮らした伊豆の宿
 芥川龍之介 新井旅館(静岡県・修善寺温泉)風呂嫌いで有名な文人も喜んだ湯
 武者小路実篤 いづみ荘(静岡県・伊豆長岡温泉)初めて絵を描いた記念の宿
 谷崎潤一郎 陶泉 御所坊(兵庫県・有馬温泉)原稿料の前払いを求めた書簡の残る贅の宿
 林芙美子 塵表閣本店(長野・上林温泉)子供を預けて執筆した疎開の宿
 井伏鱒二 古湯坊源泉舘(山梨県・下部温泉)神経痛を養生した釣りの基点
 直木三十五 岸権旅館(群馬県・伊香保温泉)謎の戯れ歌を残した雨の伊香保旅
 小林多喜二 福元館(神奈川県・七沢温泉)特高から身を隠した宿
 コラム 文豪たちが残した書画
 与謝野晶子 大丸旅館(大分県・長湯温泉)「旅かせぎ」で訪れた人気の炭酸泉
 高村光太郎 柏屋旅館(栃木県・塩原温泉 塩の湯)智恵子と最後の2人旅をした宿
 斎藤茂吉 わかまつや(山形県・蔵王温泉)書の“三無い”をすべて破った宿
 坂口安吾 あさま苑(長野県・奈良原温泉)肺病の親友とともに長期滞在した秘湯
 横光利一 瀧の屋(山形県・あつみ温泉)夫婦水入らずの“あて”が外れた宿
 尾崎一雄 上高地温泉ホテル(長野県・上高地温泉)オフシーズンに格安で連泊
 山岡荘八 和泉屋旅館(栃木県・塩原温泉郷福渡温泉)宿主と義兄弟の契りを交わした宿
 石坂洋次郎 今井荘(静岡県・今井浜温泉)健康づくりの拠点にした宿
 太宰治 旅館 明治(山梨県・湯村温泉)毎日必ず袴を着け執筆した宿
 獅子文六 松坂屋本店(神奈川県・箱根芦之湯温泉)名作の“ネタ元”となった宿
 佐藤春夫 佐久ホテル(長野県・旭湯温泉)帰京を勧められても断った疎開中の縁
 火野葦平 葉隠館(熊本県・杖立温泉)“戦犯作家”の汚名を返上した復活の原点
 高見順 仙郷楼(神奈川県・箱根仙石原温泉)画を描いて心身を癒やした箱根の宿
 吉村昭 北温泉旅館(栃木県・北温泉)大病から生き延びた自分を見つめた宿
 田宮虎彦 藤三旅館(岩手県・花巻温泉郷鉛温泉)スランプ脱出のきっかけをつくった宿
 井上靖 白壁荘(静岡県・伊豆天城湯ヶ島温泉)命名の約束を果たせなかった故郷の宿
 丹羽文雄 積善館(群馬県・四万温泉)同人仲間と楽しく騒いだ四万の夜
 石川達三 強羅環翠楼(神奈川県・強羅温泉)親睦会で無邪気に遊んだ社会派作家
 内田百閒 皆美館(島根県・松江しんじ湖温泉)“乗り鉄”がたどりついた宍道湖の名宿
 山本周五郎 湯元不忘閣(宮城県・青根温泉)名作のヒントをつかんだ一本の木
 新田次郎 旅館二階堂(福島県・微温湯温泉)名物の“ぬる湯”を沸かして入った
 松本清張 ゑびす屋(京都府・木津温泉)『Dの複合』執筆のため2ヵ月過ごした宿
 開高健 環湖荘(群馬県・丸沼温泉)掃除の従業員も断り籠もった宿
 草野心平 神泉亭(福島県・高野鉱泉)いつまでも庭を眺めた「僕の部屋」
 小林秀雄 みなとや旅館(長野県・下諏訪温泉)“先生”が何度も満室で断られた名宿
 あとがき

版元の紹介文にあるとおり、『週刊朝日』さんで為されていた連載「文豪の湯宿」を再編集したものです。

光太郎の項は、同誌平成31年(2019)2月22日号に「高村光太郎・智恵子×栃木県・塩原温泉塩の湯 柏屋旅館」として載りました。塩原は顕在化した心の病がどんどん進行し、自殺未遂まで起こした智恵子を連れ、恢復への一縷の望みを託して東北から北関東で湯治旅行をした最後の投宿地です。

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その他、光太郎以外の人物の項で、光太郎も泊まった宿が何ヶ所か。花巻の鉛温泉藤三旅館さん、四万温泉積善館さん、蔵王青根温泉・湯元不忘閣さんなど。

それから、光太郎と交流の深かった人物の項も充実。当会の祖・草野心平、光太郎の姉貴分・与謝野晶子、東京美術学校での「恩師」・森鷗外、『白樺』での盟友・有島武郎や武者小路実篤など。

このブログで『週刊朝日』さんの連載を紹介した際、「ぜひ単行本化していただきたいものですね。」と書いたのですが、単行本化されていました。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

次には大正二年信州上高地にて相愛の女性と共に山岳写生に送りし一夏。

アンケート「山と海」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

設問は「山の思ひ出・水の思ひ出」。

智恵子との最後の旅が塩原を含む湯治行脚でしたが、最初の旅は、ここに言う大正2年(1913)の上高地でした。その前年、光太郎が滞在していた千葉銚子犬吠埼に、智恵子があとを追って押しかけたことがありますが、これはしめしあわせてのことではなかったので除外します。

新刊書籍です。 

2020年6月20日 渡邊毅著 ナカニシヤ出版 定価3,000円+税

道徳教育の教材として偉人伝を用いることの効果は大で、その証を渉猟するなかで、道徳教育思想史を併進して眺めることとなる。
本書人名索引に登場する数、研究者を除いて850余名。各々とその関係者である。道徳教材として偉人から学ぶ教育的効用を述べることが本義であることは勿論、その歴史資料渉猟の結果を眺めるだけで道徳教育思想史が学べる。

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目次
 はじめに
 凡例
 第一章 道徳教育における人物伝教材の有効性
  はしがき
  第一節 先行研究の検討
  第二節 人物伝教材による教育的効果
  第三節 活用の歴史から検証する人物伝教材の有効性
  第四節 江戸時代の人物伝教材とその教育
  第五節 戦前期の人物伝教材とその教育
  むすび
 第二章 国定修身教科書における人物伝教材
  はしがき
  第一節 〝共通の価値〟を示す郷土の偉業 宮古島の人々 「博愛」(第四、第五期)
  第二節 工藤少年の〝手本〟 工藤俊作と上村彦之丞 「博愛」(第二~第四期)
  第三節 一夜の感動が大著を生む 本居宣長 「松阪の一夜」(第五期)
  第四節 徳望と度量を備えた英雄 西郷隆盛 「度量」(第三、第四期)
  第五節 「忠誠心」は普遍的道徳的価値 楠木正成 「忠孝」(第二、第三期)
  第六節 慈愛と権威とを有する天使 昭憲皇太后 「皇后陛下」(第二期)
  第七節 師への敬愛を教える 上杉鷹山と細井平洲 「先生をうやまへ」(第四期)
  第八節 摂生を心がけ学問に励む 伴信友 「身體」(第二~第四期)
  第九節 下言容れ採用 松平定信 「きそくをまもれ」(第四期)
  第十節 近世万葉学の金字塔 鹿持雅澄 「雅澄の研究」(第五期)
  第十一節 国家維新作用をなした作品 北畠親房 「日本は神の国」(第五期)
  第十二節 世界で注目を集める報徳思想 二宮尊徳 「学問」「勤勉」「孝行」他
       (第一~第五期)
  むすび
 第三章 偉人に学び生きた偉人たちの群像
  はしがき
  第一節 天下万民のために忠節を尽くす ―諸葛孔明と管仲・楽毅
  第二節 義のため直言をはばからず ―韓退之と孔子
  第三節 正気によって苦境を乗り越える ―藤田東湖と文天祥
  第四節 偉人の志をわが志としてなされた世界的発明 ―御木本幸吉と二宮尊徳
  第五節 永遠に後世に伝えられる二人の偉人物語  ―ヘレン・ケラーと塙保己一
  第六節 古人の求めたる所を求めよ ―松尾芭蕉と西行
  第七節 僕の後ろに道は出来る ―高村光太郎とオーギュスト・ロダン
  第八節 風に立つライオンたち ―柴田絋一郎とアルベルト・シュバイツァー
  むすび
 第四章 人物伝教育を推進する学校
  はしがき
  第一節 毎朝校舎に響く賀茂真淵の教え 静岡県浜松市立県居小学校
  第二節 橋本左内の生き方に倣い〝立志〟を教える 福井県福井市明道中学校
  第三節 師弟とともに吉田松陰に学び合う学校 山口県萩市立明倫小学校
  第四節 三百数十年のときをへて「藤樹学」を教える 滋賀県高島市立青柳小学校
  第五節 「先人教育」を推進する町、そしてその学校  岐阜県恵那市立岩邑小学校
  第六節 「われらのてほん 尊徳先生」と教える学校 神奈川県小田原市立桜井小学校
  第七節 地域の偉人たちに興味を持つ園児たち 水天宮保育園(福岡県久留米市)
  むすび
 あとがき
 初出一覧
 註
 索引

著者の渡邊毅氏は、元中学校教諭にして現皇學館大学教育学部教育学科准教授。「現場」でのご経験から、「徳育の王道は、人物伝による教育である」(「はじめに」)という結論を得たそうで(異論もありましょうが)、そのため、人物伝教育の歴史や、光太郎やロダンを含む取りあげるべき偉人の例などをまとめた書籍です。

ちなみに義務教育に於ける「道徳」は、「特別の教科」として、小学校では平成30年度から,中学校では平成31年度から位置づけられるようになりました。それ以前は、「各教科、道徳、特別活動」という枠組みで、「道徳」は「教科」には入っていませんでした。それが「教科」に含まれることとなり、評価の対象にもなっています。ただ、「特別の」ですので、通常の教科のような3段階、5段階の評価ではないようですが。

それに伴って、以前は「副読本」という位置づけだったテキストが、「教科書」となり、そうなると、各学校や教員が独自の教材を使用することは難しくなっているのでは、という気もします(特に教育界が保守的な都道府県――昔は「西のA県、東のC県」と言われていましたが、今はどうなのでしょうか――では)。

ところで、光太郎、「副読本」の時代から取りあげられていましたし、現行の「教科書」でも題材になっているようです。


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『道徳教育における……』でもそうですが、明治末から大正初め、ロダンの薫陶を受け、この国に近代彫刻を根付かせるため、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と意気込んで奮闘した頃の光太郎が取りあげられます。

たしかにこの時期の光太郎の姿は、若い世代に共感を持って受け入れられる部分はあるでしょう。しかし、光太郎の真価は果たしてそこなのでしょうか? 仮に当方が中学校で光太郎を扱う道徳の授業をやれ、といわれたら、そこではなく、戦時中、ズブズブの翼賛活動に身を投じて多くの前途有為な若者を死に追いやり、しかし、戦後になってそれをきちんと懺悔した、という部分を扱いたいと思います。

ま、この国の公教育では、こうした部分はある種のタブーとなっているようですので、ほぼほぼ無理でしょうが……。

閑話休題、『道徳教育における……』、ネット通販で入手可です。是非お買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

新しい人が現はれるたびに詩は必ず一つの冒険を行ふ。

散文「島田正詩集『結婚』序」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

島田は北海道出身と思われる詩人ですが、詳細がよく分かりません。光太郎歿後に光太郎の序文なるものを載せた詩集も刊行していますが、そちらはどうも眉唾ものの序文のようでして……。

詳しい経歴等、ご存じの方はご教示いただけると幸いです。

NHK Eテレさんで放映されている「にほんごであそぼ」。時折、光太郎の詩文を取り上げて下さいますが、今週金曜日にも。 

にほんごであそぼ「草にすわる」

NHK Eテレ 2020年6月26日(金) 6時35分~6時45分 再放送 17時00分~17時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。

今日のひこうき山陽は「草にすわる」です。各コーナーの内容は…文楽/いやなんです…「人に」高村光太郎、うた「どすこい!すもうの決まり手」、ひこうき山陽たんけん隊/わたしのまちがいだった「草にすわる」八木重吉、名文を言ってみよう!「いろは」、うた「日本全国むかし歩き」

出演 美輪明宏 神田山陽(三代目) 竹本織太夫 鶴澤清介 三世桐竹勘十郎 小錦八十吉
    おおたか静流 
白A 中尾隆聖 ラッキィ池田 ほか

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「人に」は、詩集『智恵子抄』(昭和16年=1941)の冒頭を飾った詩。元々は大正元年(1912)の雑誌『劇と詩』に「N―女史に」の題で発表されたものです。

「にほんごであそぼ」では、これまでにも何度か取り上げて下さっています。

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このあたりの過去の映像の再編なのか、新作なのか、何とも不明ですが、とりあえず。

過去の映像の再編、といいますと、テレビ東京さん系列の「新美の巨人たち」。やはり新型コロナの影響で、新作の制作が難しい中、「今こそアートのチカラを」と銘打ったシリーズで、過去の映像から再編して放映しています。6月13日(土)に地上波テレビ東京さん(系列のBSテレ東さんでは6月20日(土))で放映された「希望を与え続けてきた『ノートルダム大聖堂』復活への祈り」、昨年、火災に遭ったノートルダム・ド・パリが取りあげられました。

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今回はすべて過去の映像というわけではなく、新しい映像も。まずは昨年の火災。

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ノートルダム大聖堂が被災するのはこれが初めてではなく、過去にもペストやフランス革命などで大きな被害を受け、しかし、その都度、人々の手で復活を果たしてきたという話の流れ。今回の火災、それから新型コロナによる復旧工事の中断も乗り越え……。番組最後では……。

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中間部分では、火災前のアーカイブ映像をふんだんに使い、大聖堂の魅力が様々な角度から紹介されました。
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そして終盤近く、40秒ほど、光太郎の話題に。ありがたし。

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13日の地上波本放送を見逃し、21日のBS再放送で気がつきました。本放送を見ていれば、21日のBSをご覧下さい、と、事前に紹介できたのですが……。面目ありません。

見逃した、といえば、先月10日(日)の日本テレビさん系「笑点」。小遊三さんが光太郎の名を出して下さったそうで……。これも見逃したのですが、いろいろ情報をご提供して下さる方がメールでご教示下さいました。

【司会/春風亭昇太】005
大喜利二問目です。昨年、美空ひばりさんがAIでよみがえり大変話題となりましたが、こんな人がAIでよみがえったら何を言うか、「笑点」流にお答えください。

【回答者/林家木久扇】
もし宮沢賢治がAIでよみがえったら・・・雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケず、コロナニモ負ケズ 、ケバケバパパーヤ。

【回答者/三遊亭小遊三】
もし高村光太郎がAIでよみがえったら・・・君になんかこうたろう(買ってやろう)

ありがとうございます(笑)。

いつも書いていますが、「高村光太郎? 誰、それ?」ということにならないよう、今後も顕彰活動に努めて参りたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

美はもともと健康であることを正常とします。健康であることに対する人間の讃歎(さんたん)が美の感覚として意識に上つて来るに過ぎません。これが一番根本的な美の性質であります。ひねくれたやうな美や、裏道(うらみち)のやうな美や、装飾(さうしよく)だくさんな俗つぽい美はみな正常とはいへない変形の美と目すべきであります。

散文「新しい女性美」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

光太郎の「美」に対する考えが端的に表されています。ただ、戦時中の文章なので、この後の部分で、「だから健康的な女性のモンペ姿も実に美しい」的な話になり、「何だかなぁ」という感じではありますが。

昨日の『朝日新聞』さん、高知版から。 

高知)「客が一人でも上映」 山の中の映画館・大心劇場

 ウグイスのさえずりが里山に響く。周囲1キロに000集落もない。「山の中の映画館」と呼ばれる「大心(だいしん)劇場」(高知県安田町内京坊)を館主の小松秀吉さん(68)は38年間、続けてきた。なぜ、そんな不便な場所で営業を続けるのか。
 ――開館のきっかけは
 父親が約2キロ先の街中で、1954年から映画館を経営していた。テレビの普及で利用客が減り、休館状態となった。当初は取り壊す予定だったが、父親が自宅の敷地内に移築すると決断した。82年に「大心劇場」の名で開館。30歳だった自分が館主となった。
――なぜ移築したのですか
 昭和の映画館を残すのと、映画館が好きな息子の私のためという二つの思いが、父親にあったのだろう。以前の映画館では、3歳のころからステージや客席が遊び場。中学、高校時代は夏、冬休みにアルバイト感覚で、自分でフィルムを借りて上映していた。大阪の大学に進学後も、映画館巡りは欠かさなかった。
 ――よく開館に踏み切った
 最初は、昭和の映画館を体感できる博物館を始めるつもりだった。映写機やスクリーン、昭和の映画のポスターも200枚は集めていたから。旅先でここを知った旅行客に寄ってもらえるかもって。でも、県内で次々と単館の映画館が姿を消すのを見ちゃうとね。設備がそろっているのに、なぜ上映しないのかと、思うようになった。
 ――経営はどうでしたか
 当初は父親の印鑑の営業などを手伝い、上映で赤字が出てもその収入で補?(ほてん)した。10年ぐらい前から黒字になり、次回のフィルム代くらいは出るようになった。
 ――どうやって黒字に
 人とのつながりだ。大学時代に映画館ともう一つ夢中になったのがギターの弾き語り。「豆電球」の名前で地域の秋祭りなどで歌っている。そこで知り合った人に映画館を紹介する。そのうち、来館者が県内外に100人できた。
 家族経営なのでかかるのは電気代やフィルム代。一週間の上映で100人入れば黒字。客が足らないと「あんたが100人目よ」と100人の誰かに連絡すると、本当に来てくれる。
 ――音響がいいと聞きました
 フィルム映写機のドキュメンタリー映画「旅する映写機」で取材を受けた時、音響スタッフが館内のスピーカーや新しいアンプなどを使ってドルビーデジタルサラウンドを出せるよう再構築してくれた。館は木造で音の反響が柔らかい。大音量で音が外に漏れても文句をいう家はない。
 ――新型コロナウイルスの影響で休業3カ月後の今月、再開。最初の上映映画は「上を向いて歩こう」でした
 お客の顔を見ると本当にうれしかった。(坂本)九ちゃんの歌が流れた時は、涙も出たし、これからも上映する覚悟が持てた。知らない者同士が、同じ空間の中で映画から一人ひとり力をもらう。映画館の醍醐(だいご)味やね。(今林弘)
     ◇
 こまつ・しゅうきち 高知県安田町出身。映画館とその隣で喫茶「豆でんきゅう」を経営。大心劇場(0887・38・7062)は、懐かしい日本映画を中心に1作品約1週間の期間で1日2回(午後1時、7時)、月2作品を上映。客席84席。次回上映は6月27日~7月4日の「智恵子抄」。詳細はホームページ(http://wwwc.pikara.ne.jp/mamedenkyu/別ウインドウで開きます)。


5月のこのブログでご紹介
させていただいた、高知県安田町のミニシアター、大心劇場さん。コロナがなければ3月に昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)を上映して下さる予定でした。今月から営業を再開され、最初は昭和37年(1962)の日活映画「上を向いて歩こう」(舛田利雄監督・坂本九さん主演)を上映。続く再開2本目が、延期措置となった「智恵子抄」だそうです。 

昭和の名作。感動の大公開!! 智恵子抄002

期 日 : 2020年6月27日(土)~7月4日(土)
会 場 : 大心劇場 高知県安芸郡安田町内京坊992-1
時 間 : 1回目昼1時より 2回目夜7時より
料 金 : 1,500円

<監督>中村 登 <原作>佐藤 春夫/高村 光太郎
<出演者>岩下 志麻、丹波 哲郎、ほか
<作品紹介>美しく清らかな純愛をうたう感動無限の最高名篇

画像は3月公開予定時のものです。日程ご注意ください。

光太郎役の故・丹波哲郎さんは、ご自分で最も気に入っていた出演作の一つだそうですし、若き日の岩下志麻さん演じる智恵子の鬼気迫る様子、見応えのある作品です。

また、個人的な理由になりますが、おそらく当方自宅兼事務所のある千葉県香取市佐原地区でもロケが行われており(冒頭近くの「パンの会」のシーン)、感慨深いものがあります。

それにしても、『朝日新聞』さんの記事を読み、経営されている小松秀吉氏の「意気」に感動しました。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

言葉はまた着物の裂れ地と同じく、聯絡や関係が大切なのであつて、一部分のものではない。前後の関係、時間の関係に依つてその美が生れるのだから、その均衡に対する鋭い感じがないと、たていとばかり利いて横糸の弱いものが出来上つたりしてしまふ。

談話筆記「ことばの美に就いて」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

彫刻家としての造型感覚が、言葉を紡ぐ上でも有効に作用していた光太郎ならではのとらえ方ですね。

直接光太郎智恵子には関わりませんが……。 

"部分日食"北海道でも観測…厚い雲間から太陽下欠ける様子 観光名所「幣舞橋 乙女の像」と幻想的共演も

 6月21日午後、太陽の一部が月に隠れる部分日食が見られました。北海道釧路市のシンボル「幣舞橋」では、四季を表す乙女像との幻想的なコラボレーションが楽しめました。
 部分日食は太陽と月と地球が一直線上に並び、太陽の一部が地球から見て隠れる現象で、日本で観測されるのは2019年12月以来約半年ぶりです。
 釧路市では午後4時30分ごろ、観光名所「幣舞橋」の欄干に設置された四季を表す乙女像の奥に、厚い雲間から“欠けた太陽”が姿を現しました。
 北海道で次に日食が観測できるのは10年後の2030年6月1日で、太陽がリング状に見える金環日食だということです。

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ローカルテレビ局、UHB北海道文化放送さんのニュースから。

キーワード検索「乙女の像」でヒットし、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」かと思ったのですが、北海道釧路市の幣舞(ぬさまい)橋に設置された「道東四季の像(四季の乙女の像)」(昭和50年=1975)でした。

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光太郎のDNAを受け継ぐ4人の彫刻家の競演。左から、「春」が舟越保武、「夏」は佐藤忠良、「秋」を柳原義達、そして「冬」で本郷新。それぞれ高村光太郎賞の受賞者だったり、審査員だったりし、光太郎と交流のあった面々です。

元々「乙女の像」という言葉は、「仁王像」「騎馬像」などと同様、彫刻のモチーフを表す普通名詞だったようです。ところがその意味での使用例が減少し、「乙女の像」といえば「十和田湖」という感じになってきているのかな、と思われます。

さて、部分日食、千葉県の自宅兼事務所では残念ながら厚い雲に遮られ、見られませんでした。ただ、その時間、通常の曇りの日に比べて暗かったように感じました。確か平成24年(2012)の金環日食は息子と二人で見た記憶がありまして、その時もだいぶ暗くなったように感たことを覚えています。

次回、日本で全国的に日食が見えるのは2030年6月1日だそうで、その頃は自分は一体どうしているのかな、などとも思いました。あまり変わらない生活をしているような気もしますし、そうであってほしいのですが(笑)。


【折々のことば・光太郎】

いくら平気でゐるつもりでも強い電燈の光を横から浴び、向ふにレンズがねらつてゐると思ふとやはり無心にはなり得ないものだと感じた。

散文「仕事場にて」より 昭和15年(1940) 光太郎68歳

雑誌『新女苑』第四巻第五号のグラビアページから。登山家の木暮理太郎の塑像(現存は確認できず)を制作している際の話です。さしもの光太郎も、カメラを向けられると緊張したようで(笑)。
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演劇の公演情報です。新型コロナによる緊急事態宣言もとりあえず解除され、少しずつこうしたものも復活しつつあるようです。 

期 日 : 2020年6月27日(土)・28日(日)
会 場 : パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』 
       東京都新宿区山吹町361 誠志堂ビル
時 間 : 27(土)15時/19時 28(日)13時/17時 上演時間90分(休憩込)
料 金 : 3,700円(ワンドリンク付)

高村光太郎の妻 『智恵子抄』の智恵子 そんなあたしは こう生きた……

作:野田秀樹 出演・演出:角田佳代

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「売り言葉」、平成14年(2002)、野田秀樹氏の脚本、主役・大竹しのぶさんで初演されました。登場人物は智恵子のみの一人芝居です。翌年に新潮社さんから出版された野田氏の脚本集『二十一世紀最初の戯曲集』に収められた後、プロアマ問わず全国で取り上げられています。昨年は確認できている限り6件の公演がありましたし、今年に入っても、コロナ禍がひどくなる前に、2件の公演がありました。

コロナ禍といえば、今回の公演、だいぶ感染予防等には注意を払って行われるようです。

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まあ、暫くの間は、この手の公演などはこんな感じなのだろうと思います。それでも上演されるだけまだいいかな、と感じます。

少し前、渡辺えりさんと電話でお話する機会があったのですが、3月くらいから演劇公演等は軒並み自粛、特に若い役者さんたちには死活問題だそうで……。

ちなみに当方も講師を依頼されていた市民講座等、上半期はすべて中止or延期となり、まぁ、死活問題とまでは行きませんが、結構困りました。その分、秋口にはかなり依頼が入っています。ただ、それも第二波、第三波によって無くなるかもしれず、何とも言えません。

早く旧に復して欲しいものですが、まだまだ予断を許さない状況が続きそうですね……。


【折々のことば・光太郎】

どんな時にも光を見失はず いたづらに人生に対して駄々をこねず 勇猛に前進する気魄を言葉の節奏に感じました。

散文「詩集“陽とともに”を読む」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

『陽とともに』は、ともに北海道出身の詩人・枯木虎夫と山内栄二の共著詩集です。

「どんな時にも光を見失はず いたづらに人生に対して駄々をこねず 勇猛に前進する気魄」。コロナ禍の今こそ、こうした精神が必要なのかもしれませんね。

栃木県小山市の広報誌『広報おやま』の今月号に、光太郎の名。 

シリーズ小山の歴史199 紀元二千六百年 昭和15(1940)年

 「日本書紀」の記述を西暦におきかえると、神武天皇が東征して大和(やまと)を平定し、橿原(かしはら)宮で即位したのが紀元前660年にあたります。昭和15年は神武天皇の即位以来2600 年にあたる年だとして、奉祝記念行事が行われました。神話に登場する神武天皇が、 建国の神祖として称揚されました。泥沼化した日華事変(日中戦争)で国力を消耗し、 予定されていたオリンピックも万国博も返上した日本が、内外に向け国威発揚を企図したこの「紀元二千六百年奉祝」でした。
 日華事変下の奉祝昭和15年は紀元二千六百年一色に染め上げられた一年でした。「〽金鵄(きんし)輝やく日本の栄えある光身にうけていまこそ祝えこの朝(あした)紀元は二千六百年ああ一億の胸はなる」と、奉祝国民歌「紀元二千六百年」がラジオから流れていました。またこの年、高村光太郎作詞の「歩くうた」も、戦時下に歩くことが奨励され、シンプルな文句をリズミカルな曲で、かなりのヒット曲となりました。神武天皇即位の聖地・畝傍山(うねびやま)(奈良県)の麓の橿原宮では社殿が修復され、「建国奉仕隊」と称する勤労奉仕団が全国からくり出し、その数は延べ百二十万人に達しました。約50万平方メートルの敷地をもつ神宮外苑が造られ、橿原文庫、大和歴史館、総合グラウンド、森林公苑などがここに生まれました。

(以下略)
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長いので全文は引用しませんが、この後、小山市での紀元2600年の様子が少し紹介され、さらに皇居での式典の様子が述べられています。

その枕として、この年のヒットソングというわけで、光太郎作詞、飯田信夫作曲、徳山璉(たまき)歌唱の「歩くうた」が取りあげられています。当時はオリコンチャート○位、といったものはなかったと思われますので、どの程度のヒットだったのかは何ともわかりませんが……。ただ、確認できている限りレコードはインスト版も含め、4種類も発売されています。ま、何はともあれ、光太郎の「負の遺産」の代表格ですね。

作曲者・飯田信夫は、他に同じ徳山が歌った「〽とんとん とんからりと 隣組 」の「隣組」(岡本一平作詞)などでも有名な作曲家です。現在、NHKさんで放映中の連続テレビ小説「エール」の主人公、窪田正孝さん演じる古山裕一のモデル、古関裕而とも交流があり、ドラマでも取りあげられた古関作曲による早稲田大学応援歌「紺碧の空」のレコード(戦後の昭和26年=1951)は、飯田が編曲しています。

「エール」といえば、現在は新型コロナの影響なのでしょう、今週からスピンオフ的な回が続いていますが、おそらく、今後、戦時の話となり、古関作曲の「負の遺産」である「露営の歌(〽勝ってくるぞと勇ましく……)」、さらには「若鷲の歌(予科練の歌、〽若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨……)」なども取りあげられるのではないかと思われます。既に伏線は張られているようです。二階堂ふみさん演じる裕一の妻・音の実家「関内馬具店」が軍用の馬具を制作しているという話の流れで、音は間接的に戦争に荷担していることにしこりを感じ、裕一は「でも、馬具が兵隊さんを守ってくれてるんだから……」的なことを言って慰めるシーンがありました。おそらく後の軍歌や戦時歌謡を暗示していたのでしょう。

また、やはり「エール」と言えば、昨日放映のスピンオフ「環のパリの物語」では、「智恵子抄」を連想してしまいました。音の師にして、三浦環をモデルとする双浦環(柴咲コウさん)の若き日の物語。オペラ「蝶々夫人」の主役の座を射止めた環に対し、恋人の売れない画家・嗣人(金子ノブアキさん)は売れない画家のまま……。嗣人は環の成功を素直に喜べず、あまっさえ嫉妬したり、環に歌をやめてくれと身勝手な懇願をしたり……。音楽と絵画、ジャンルは違えど同じ「芸術」という土俵にいる者同士で結ばれてしまったがゆえの悲劇でした。

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無論、すべての芸術家カップルがそうだとは言いませんが、光太郎智恵子の場合も、似たようなことがあったように思われます。彫刻家として、詩人として、徐々に世に認められてゆく光太郎に対し、やはり売れない画家だった智恵子も嫉妬を感じていたことは想像に難くありません。それが心の病を引き起こした要因の一つと言ってしまっても過言ではありますまい。

ちなみに光太郎、明治末に三浦環の公演をその目で観ています。が、そちらは改めてご紹介するとして、今日はこの辺で。


【折々のことば・光太郎】

御企てについての印刷物拝誦、良心と精覈とを以て事に当らば十分意義ある仕事と存じます、しかし経済的に成立せしめるには余程の手腕がいる事と考へられ、御志を壮とします。

散文「創刊に寄する諸家の言葉」全文 昭和12年(1937) 光太郎55歳

昭和12年(1937)8月22日発行『詩報』第一年第一号(二)面に掲載された短文です。『詩報』は「全日本/詩人の新聞」の副題を持ち、のちに光太郎が題字を揮毫した詩集『山川秘唱』(昭和19年=1944)の著者・村上成實が編刊にあたっていました。

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ちなみにこの項、筑摩書房さん『高村光太郎全集』第一巻から言葉を拾い続けて参りましたが(日記、書簡、翻訳、短歌、俳句等は割愛)、少し前に最終巻の別巻まで拾い尽くし、その後、『全集』未収録の座談会筆録、談話筆記を文治堂書店さん『光太郎資料』第三巻、第六巻から拾い、そして、それらの補遺たる『光太郎遺珠』から拾い始めました。したがって、当分の間、『高村光太郎全集』に漏れていた新発見作品から引用していきますのでよろしく(何が「よろしく」なのだかよく分かりませんが(笑))。

雑誌の新刊です。 

2020年6月5日 鹿砦社 税込定価600円

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 新型コロナ禍のなかで爆発した検察庁法改正案。時の内閣が検察の人事をコントロールするものだとして批判が集まり、コメント数一千万、数百万人ともいわれる人々が参加したツイッターデモの影響もあって法案は見送りとなりましたが、この騒動はあらためて総括する必要がありそうです。まず確認しておきたいのは、2014年に創設された「内閣人事局」にみられるような、内閣が行政トップの人事権を握るやり方が、すでに安倍政権の常套手段となっていること。本誌2月号の「天木直人×木村三浩対談」でも指摘されていますので、ぜひお読みください。
 
 そして、公訴権を一手に握る検察という組織そのものについても、彼らがただ政権に翻弄される存在ではないことを、強調しておきたいと思います。黒川弘務元東京高検検事長の賭け麻雀問題は、検察の現実の一端を見る良い機会だったとすら言えます。実際、検察はこれまでたびたび暴走してきました。最も有名なのが2009年の郵便不正事件。主任検事らの証拠捏造により村木厚子・元厚生労働省局長が冤罪逮捕されましたが、これを主導し、逮捕された大坪弘道氏は、本誌発行元の出版社・鹿砦社への、いわゆる出版弾圧事件の中心になった検事でした。大手パチンコ企業等を批判する書籍が名誉棄損にあたるとして、鹿砦社代表が逮捕。すでに出版されている本の内容が問題、つまり証拠隠滅や逃亡のしようがないにもかかわらず逮捕という、検察の弾圧目的が垣間見える事件でした。その詳細は、5月号(本誌15周年記念号)の特集にまとめています。起訴する権利を一手に握るということは、冤罪が起きれば責任が問われるべきですが、検察組織をチェックするようなシステムはありません。また、いま政治の不正として検察の動向が伺われるのが、自民党の河合案里参院議員の選挙違反事件ですが、仮に逮捕までいったとしても、今回の騒動が片付いたように見せるためのスケープゴートにすぎないのかもしれません。
 
 前号に引き続き、「新型コロナと安倍失政」特集第3弾としました。特に「専門家会議」に焦点を当てています。5月末には「メンバーの了解」のもと、議事録が作成されていなかったことが明らかになりましたが、検証を阻害する点で政府を批判すべきである以上に、再現性を無視する態度はとても専門家のものとは思えません。本誌では、彼ら「感染症専門家」(と政府・マスコミ)のそもそもの誤りを指摘しています。さらに、尾身茂副座長の要請により加えられた「経済専門家」メンバーについても、5月号に続き再登場いただいた藤井聡・京都大学大学院教授(元内閣官房参与)が分析しています。
 
 さらに、コロナ禍を7月の選挙に向けてのアピールとした小池百合子東京都知事、なぜか人気の吉村洋文大阪府知事についても論考を掲載しました。とくに大阪の「医療崩壊」に維新政治があることは、決してスルーしてはならない事実です。詳細にわたりレポートしています。ぜひご一読をお願いいたします。  

「紙の爆弾」編集長 中川志大

目次
 検察庁法改正案「見送り」の舞台裏 黒川“賭けマージャン”直撃 自民党ガタガタ内情
 特集第3弾 「新型コロナ危機」と安倍失政
 政府・専門家会議・マスコミ 素人たちが専門家を僭称して
 経済専門家会議にみる政府の中小企業切り捨て
 コロナ禍利用し“事前運動”小池百合子と東京都知事選
 吉村洋文知事に騙されるな 維新が招いた大阪・医療崩壊
 「感染対策に“緊急事態条項”必要」という改憲勢力の嘘
 「自粛」から「強制」へ 進行する監視社会
 誰がPCR検査を妨害したのか 隠された数万人「肺炎死」
 日本を包み込む「東京五輪バイアス」
 東京五輪「延期」でさらに泥沼 「東京ビッグサイト」使用停止が生む巨額損失
「ロックダウン」と「解除後」 マレーシアから見た日本の“異常” 
 日米安保60年と安倍無責任政権 検察庁法改正案の語られざる「本質」 
 前立腺がん患者をモルモットに 滋賀医大病院事件「疑惑の判決」
 ビートたけし・岡村隆史・手越祐也 本当に自粛すべきはこの芸能人たち
 永田町アンタッチャブル アベ・カポネを嗤う
〈連載〉
 あの人の家   NEWS レスQ   
コイツらのゼニ儲け 西田健  
 「格差」を読む 中川淳一郎
 ニュースノワール 岡本萬尋   シアワセのイイ気持ち道講座 東陽片岡
 村田らむ キラメキ★東京漂流記   マッド・アマノの裏から世界を見てみよう
 権力者たちのバトルロイヤル 西本頑司   広島拘置所より… 上田美由紀
 元公安・現イスラム教徒西道弘はこう考える   まけへんで!! 今月の西宮冷蔵


精神科医・評論家の野田正彰氏による「政府・専門家会議・マスコミ 素人たちが専門家を僭称して」という稿の終末部分、光太郎の名が。

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新型コロナウイルス感染症が発生して以来、国の取ってきた対応のまずさを、これでもかと列挙しています。特に、現場の医療機関には必要な情報がおりて来ず、それぞれが手探りで対処するしかなかったという現状。なるほど、そうだったのか、と、いろいろ腑に落ちました。

そして、青少年にとって、この現状が社会を認識するための格好の教材になりうる、という提言。戦時下の大本営発表を鵜呑みにしていた光太郎らの愚を繰り返すまじ、ということでしょうか。

その他の記事を読んでも、なかなか気骨のある雑誌です。「タブーなきラディカルスキャンダルマガジン」と謳っているのもうなずけます。

オンラインで入手可。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

列車の上の大立廻りなどは痛快で面白いけれども、その根柢に何物もないので、私は常に遺憾に思つて居る。

散文「外国映画と思想の輸入」より 大正9年(1920) 光太郎38歳

この部分、アメリカ映画に対しての批判です。100年前からそうだったのですね(笑)。

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愛知県小牧市のメナード美術館さんからご案内を頂きました。当初、3月開始だった企画展が新型コロナのため延期となり、6月5日(金)から始まっています。すべて館蔵品によるコレクション展ですので、そのまま会期をずらすことが可能だったようです。ただ、チラシは既に印刷済みだったため、3月からになっていました。 

期 日 : 2020年6月5日(金)~9月6日(日)
会 場 : メナード美術館 愛知県小牧市小牧五丁目250番地
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 900(700)円 高大生 600(500)円 小中生 300(250)円 ( )内団体料金

明治維新とともに日本では近代化が進み、急速な西洋文化の流入が始まりました。日本人の画家たちもまた、ヨーロッパの文化や芸術に衝撃を受け、自身の作品に多かれ少なかれ取り入れていくことになります。本展では、日本の洋画家たちの作品を中心とした約55点により、彼らがヨーロッパに抱いた憧れや葛藤の念から生み出した表現の数々をご覧いただきます。
画家たちそれぞれが感じた「欧羅巴(ヨーロッパ)」を、その作品の魅力とともにお楽しみください。

※7/20に一部展示替を行います

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展示構成

憧れの欧羅巴
日本洋画の黎明期であった明治時代。渡欧した画家たちは新しい美術の動向を日本に持ち帰り、自身の制作に活かしました。また、雑誌『白樺』(1910年創刊)ではルノワール、セザンヌなどが紹介され、日本の美術界に大きな影響を与えるとともに、画家たちに西洋美術に対する大きな憧れを抱かせました。しかし、画家たちは西洋から多くを吸収しつつも、同時に日本人であるという自己を見つめ直すことを忘れていませんでした。渡欧経験の有無に関わらずヨーロッパに憧れを抱き、その芸術や文化に学びつつも、日本人としての油彩画の表現を追求していったのです。

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ゴッホと日本
19世紀後半のパリで流行したジャポニスム。ゴッホは浮世絵などの日本美術に強く心酔しました。一方で、日本の洋画家たちはゴッホが日本に紹介されて以降、彼の作品や人生に魅了されていきます。ここでは、ゴッホからさまざまな形で影響を受けた洋画家たちの作品をゴッホの作品とともにご紹介します。さらに、ゴッホが模写をした浮世絵として知られる歌川広重《名所江戸百景・亀戸梅屋舗》を併せて展示します。

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仏蘭西(フランス)に集った画家たち
ヨーロッパ文化の中心となったフランス。とりわけ、1920年代のパリにはさまざまな国から画家たちが集います。主にモンマルトルやモンパルナスを活動拠点とし、「エコール・ド・パリ」と呼ばれました。日本からも明治時代以降、多くの洋画家たちが憧れを胸にフランスに渡りました。終生この地で活躍した画家、短い滞在ながらフランス美術に大きな影響を受けた画家、改めて自身の制作を見直すきっかけとした画家など、その関わり方はさまざまですが、いずれも日本洋画の発展に貢献しました。

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「憧れの欧羅巴(ヨーロッパ)」の項で、光太郎の木彫「鯰」(昭和6年=1931)が出ています。やはり同館所蔵で、これまでもたびたび展示されてきたものです。

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それから、昨日ご紹介したたましん美術館さん同様、光太郎と交流のあった作家の作品もずらり。ロダン、高田博厚、舟越保武、藤島武二、岡田三郎助、中村彝、安井曾太郎、梅原龍三郎、岸田劉生、藤田嗣治……。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本画はめちやめちやだと考へます。なぜ日本画々家は斯(か)う気取て居るのでせう。

散文「日本画はめちやめちや」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

当方はそうも思わないのですが、どうも光太郎、同時代の日本画にはまったく価値を認めず、目の敵にしていました。

昨日は都内に出ておりました。

メインの目的は、都内在住の方から花巻高村光太郎記念館さんに、光太郎の書簡が寄贈されることになって、その贈呈に立ち会うことでした(当方が仲介したもので)。内容等、公表されましたらまたご紹介しますが、明治末、光太郎が欧米留学の最後にイタリア旅行をした際に、ローマから日本に送った絵葉書で、資料価値的には極めて高いものです。

そちらの用事が午後からでしたので、午前中、今月開館した立川市のたましん美術館さんに足を運びました。「開館記念展Ⅰたまびらき―たましんの日本近代美術コレクション―」が開催されています。当初予定では先月からのはずでしたが、コロナ禍によりずれ込みました。

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「たましん」は「多摩信用金庫」さん。元々昭和49年(1974)に、メセナ(企業による文化芸術方面への社会貢献活動)の一環として、本店ビルに「たましん展示室」をオープン、その後、国立支店には「たましん美術サロン」(のち「たましん歴史・美術館」)、その分館として青梅市に「たましん御岳美術館」などが設置されてきましたが、それらを統合して生まれたのが「たましん美術館」さんです。

収蔵品は三つの柱で構成されています。まず、近代日本美術の名品、次に東洋古陶磁、そして地元作家の作品です。

今年度は開館記念ということで、それら三本柱の一つずつ、開館記念展Ⅰ、Ⅱ、Ⅲとして展示するとのこと。

で、まずは「日本近代美術コレクション―」。さらに前後期に分け、現在は前期です。


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画像はそれぞれクリックで拡大します。001

目玉の一つとして、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)。ただし、あたらしい鋳造のようでした。

「手」は、都内では竹橋の東京国立近代美術館さん、台東区の朝倉彫塑館さんなどにも所蔵されていますが、常に展示されているわけではありません。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛の絶作「女」(明治43年=1910)、それから光太郎、守衛とも交流のあった中原悌二郎の「若きカフカス人」(大正8年=1919)も並んでいました。

その他、絵画では、やはり光太郎と交流のあった面々――岡田三郎助、岸田劉生、椿貞雄、山下新太郎、梅原龍三郎、安井曾太郎、斎藤与里、藤田嗣治ら――の作品を、興味深く拝見しました。

前期は7月5日(日)まで、後期は展示替え期間を挟んで7月11日(土)~8月23日(日)です。光太郎「手」、守衛の「女」などは通期展示となっています。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

いい方がおかしいが、岩手の冬は人を殺さない。非人間的な冬と、人間的な冬の限界のところにあるのだと思う。この冬にきたえられて、時にぽかつと、すごい精神的な天才的な人間が出てくるのだと思う。なまぬるいものではない。この冬のきびしさが賢治や啄木も生み、原敬なども生んだのだろうと思う。
談話筆記「緑陰に語る」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「非人間的な冬」として挙げている例はシベリアなど。なるほど、言いたいことはよくわかります。

『毎日新聞』さん。「文化の森 Bunka no mori」欄に、「今よみがえる森鷗外」という連載が為されています。「2022年に没後100年を迎える森鴎外。毎回筆者とテーマを変えて、作品に現代の光を当て読み解きます。」というコンセプトだそうで。

6月14日(日)の第15回は、島根県立石見美術館専門学芸員・川西由里氏による「美術界に残した足跡 一歩退き冷静に見つめ」でした。

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ご覧の通り長いので、全文は引用しませんが、東京美術学校で鷗外の「美学」の講義を受けた光太郎に関わる部分のみ。

 また鷗外は、大正六年発表の「観潮楼閑話」において、彫刻家、高村光太郎と交わした議論の一部を次のように記した。
 「君は多く捨てて少く取り、わたくしはこれに反しているだけである。それゆえ君の目から見れば、わたくしは泛(はん)なるが如(ごと)くに見ゆるであらう。君の愛する所の『全か無か』の如きは、わたくしと雖(いえども)又愛する」、「併(しか)し人の製作品を鑑賞することとなると、一歩退いて看(み)なくてはならない。そうでないと展覧会などは成立しない」。
 宮も高村も、大正期の新思潮の中で新しい表現を模索した、鷗外から見れば次の世代だ。かつて原田とともに、血気盛んに論戦に挑んだ経験があるからこそ、若者たちの苛立(いらだ)ちも理解できたのだろう。表現者として、美術家への共感も
示されている。
 その一方、「M君」に語った台詞(せりふ)からは、若い芸術家を育てようとする気持ちと、自分の判断に対する謙虚な姿勢がうかがえる。そして高村に向けた言葉からは、審査委員という立場で
芸術振興を担う者としては、 たとえ生ぬるいと思われたとしても、寛容を旨として作品と向き合う姿勢が読みとれる。
 こうした心構えが、展覧会運営や作品批評にとって重要であることは、今
も変わりない。 感情的、反射的な批判が飛び交い、「全か無か」を迫られがちな現代こそ、「一歩退いて看」る鷗外の態度に学ぶところは大きいのではないだろうか。


高村光太郎と交わした議論」は、大正6年003(1917)、元々は光太郎が自分の悪口を言いふらしている、と聞いた鷗外が、光太郎を呼びつけたことに始まります。時に光太郎数え35歳、血気盛んな青年でした。対する鷗外は同じく56歳、晩年にさしかかる頃です。

」、「M君」は宮芳平。光太郎とも交流のあった画家です。光太郎に関する部分の前に、宮と鷗外の関わりが述べられており、ざっくり要約すれば、鷗外が審査員を務めていた文展で、宮が落選となり、納得行かなかった宮が観潮楼に乗り込んだという件に関してです。宮は光太郎より10歳年下でした。

そういえば、偶然ですが、このブログで一昨日、昨日とご紹介した信州安曇野の豊科近代美術館さん、宮の作品を多数所蔵、常設展示で出しています。宮は永らく信州諏訪で美術教師を務めていました。下の方に同館パンフからスキャンしたものを載せておきます。

ところで鷗外、光太郎が私淑したロダンにも興味を持ち、ロダンが唯一モデルにした日本人・花子(太田ひさ)をめぐる短編小説「花子」(明治43年=1910)も書いています。光太郎は評伝『ロダン』(昭和2年=1927)執筆のため、花子に会いに岐阜へ行きました。今後の「今よみがえる森鷗外」の中で、そのあたりにも触れていただければ幸いなのですが……。

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【折々のことば・光太郎】

人から助けられるのがきらい、自分のことは自分でやる、出来ないことはやらないまでだ。

談話筆記「おめでとう記者訪問」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での発言です。村人の様々な援助、「ありがた迷惑だからほっといてくれ」というより「申し訳ないから遠慮します」というニュアンスです。「身の丈にあったことさえできればいいので」的な。

もっとも、少しは「ありがた迷惑だからほっといてくれ」も無きにしもあらず。村人が光太郎にアトリエを寄贈する、などという不確かな話が新聞に載ったりしましたので。

それにしても、「出来ないことはやらないまでだ」という開き直り、若者がこうでは困りますが、齢(よわい)69歳ともなると、深い一言ですね。

昨日ご紹介した、安曇野市豊科近代美術館さんの「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」に関し、報道が為されています。

信州松本平地区の地方紙『市民タイムス』さん。 

高田博厚の思索に触れる 豊科近代美術館で生誕120年展

 世界的な彫刻家・高田博厚(1900~87)の作品を常設展示する安曇野市豊科の市豊科近代美術館で、高田の生誕120年を記念した企画展「パリと思索と彫刻」が開かれている。彫刻を中心に収蔵作品の8割に当たる約150点を展示し、平成4(1992)年の開館以来、展示の根幹を担ってきた高田の作品と生涯に光を当てた。8月30日まで。
 高田博厚は石川県生まれ。若い頃から哲学と語学に秀で、18歳で上京後、彫刻家の高村光太郎らと交流を深めつつ独学で彫刻を始めた。30歳の時に単身渡仏し、第2次世界大戦を挟む26年間をパリで過ごして新聞記者、翻訳、著作の執筆の傍ら彫刻を作り続けた。
 企画展では特に、高田に大きな影響を与えたフランス滞在時代に重点を置いている。大展示室にはフランスで出会った人たちの肖像彫刻が並ぶ。どんな立場の人であろうとモデルに対して誠実に向き合った高田の制作姿勢を感じてもらおうと、交流があったフランスの文豪ロマン・ロランや、インド独立の父マハトマ・ガンジーら著名人と高田の恋人や友人を同じ空間に配置した。代表作でもある女性のトルソー「カテドラル」や渡仏前後の作品もあり、制作活動の変遷をたどることができる。
 学芸員の塩原理絵子さんは「高田の彫刻かは、自身や他人の思想や内面に触れようとする深いまなざしが感じられる。久々に展示した作品もあるので、改めて鑑賞してほしい」と呼び掛けている。
 午前9時から午後5時までで月曜休館。入館料は520円(大学生と高校生310円、中学生以下と市内在住の70歳以上は無料)。
 問い合わせは豊科近代美術館(電話0263・73・5638)へ。


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それから、YouTubeには、同館制作のPV的な動画も。

追記 会期終了後、動画は削除されたようです。

バックに流れるピアノ演奏は、高橋在也氏。高田や光太郎とも交流のあった詩人、高橋元吉のご子孫に当たられる方です。

こちらの動画を見て、ますます行きたくなりました。コロナ禍が落ち着いたら、行って参ります。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

また春から秋にかけては茸や木の芽、山草など豊富で、栗など朝、裏山に出ると一升ぐらいは訳なく拾える。こんなふうで配給でやつていけるし東京などで生活のため悶え苦しんでいるよりどんなに恵まれているか分かない。

談話筆記「太田村にて」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

コロナ禍で、東京一極集中に対する批判や反省が、また強くなってきましたね。

光太郎が戦後の七年間を過ごした花巻郊外旧太田村ほどではありませんが、当方自宅兼事務所もなかなかの田舎です。慣れてしまえば田舎暮らしもそれはそれでいいものですよ。

信州安曇野で現在開催中の企画展情報です。 

期 日 : 2020年6月2日(火)~8月30日(日)
会 場 : 安曇野市豊科近代美術館 長野県安曇野市豊科5609-3
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日、祝日の翌日
料 金 : 大人520(410)円 大高生310(200)円 ( )内団体料金

 「仕事をする」ことは「生きる」こと。今年生誕120年を迎える彫刻家・高田博厚が生涯貫いた言葉です。高田の彫刻には、著名人の肖像、男女のトルソ、そして女性像があり、そのどれもが高田にとって重要なテーマでした。高田の制作人生は「東京時代」、「フランス滞在時代」、「帰国から晩年」の三期に分けられます。
 18歳で上京し、高村光太郎に出会って彫刻を始め、岩波茂雄などの知識人と交流を深めました。30歳の時、「これ以上貧乏するなら独りで貧乏しよう」と家族を残し彫刻を学ぶためにフランスへ渡ります。パリでは偉大な彫刻家たちに圧倒され、ロマン・ロランらの作家と交流を深めました。第二次世界大戦中、ドイツでの滞留を経て再びパリへ。1957年、日本へ帰国します。帰国後は制作や執筆活動、大学の講師などをし、鎌倉でその生涯を閉じました。
 高田は、渡仏前は翻訳、渡仏後は、語学力と人脈を生かして日本へ情報を発信し、生活の糧を得ていました。しかし彼にとって「仕事」つまり「生きる」とは、どのような環境にあっても彫刻を作り続けることでした。
 本展では、開館以来、収蔵品の充実に努めてきた高田作品のうち、約150点を展示し、作品の魅力をエピソードとともに紹介いたします。

関連企画:10月、元NHKアナウンサー室町澄子氏講演会開催予定


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高田は、明治末に早世した碌山荻原守衛を除けば、光太郎が唯一高く評価した同時代の邦人彫刻家です。光太郎は、高田の無名時代からその才能をいち早く見抜き、渡仏のための援助等も惜しみませんでした。

彫刻家高田君とは私も長い間交つてゐるが、まだ彼が外国語学校伊語科の生徒であつた頃から今日までの発達の為かたを考へると、此の人こそ何処までものびる生命力を内に持つて生れた人だと思はずには居られない。ただの外的衝動や小さな慾で生きてゆく人でなく、独自の、一本立ちの、内からの要求で育つてゆく人である事に間違ひは無い。
(「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会趣意」より 昭和5年=1930)


高田は高田で、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に帰国すると、全10回限定で開設された造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」審査員を務めるなど、光太郎顕彰に取り組んでくれました。

同館では、これまでも常設展示で、光太郎肖像(昭和34年=1959)を含む高田の作品を多数出していましたが、今回、さらにコレクション展的に充実させた展示を図っているようです。光太郎肖像はもちろん目玉の一つとして並んでいますし、2通のみ現存が確認されている、光太郎から高田宛の書簡も、常設ではコピーの展示でしたが、現物が出ているそうです。

高田と光太郎の交流については、こちらをご覧下さい。高田同様、光太郎と交流のあった故・田口弘氏が永らく教育長を務められた埼玉県東松山市でも、氏のお骨折りにより高田の顕彰活動がいろいろ進められており、その一環として当方が講師を務めさせていただいた市民講座のレポートです。

さて、同館から招待状も頂いてしまいました。会期が長いのが幸い、コロナの状況を見つつ時間を見つけて行って来ようと思っております。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

十和田湖はお母さんのやうな所で、芸術を包んで余りあると思つたんです。

座談会筆録「自然の中の芸術」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関する発言です。富士山の頂上のような荒涼たる景色には彫刻はそぐわないが、十和田湖のような景観なら、という話の流れでした。

ちなみに高田は「乙女の像」について、「やたらにある日本の銅像の中で、これだけ『品格』の高いものがあるか?」「あらゆる文学的感傷を除外して、この像は『自然』の中に調和していて、自然を裏切らない。このことは技術のせいでも、知恵のせいでもない。高村光太郎の『人格』が出ているからである。」(『思索の遠近』昭和50年=1975)と述べています。やはりわかる人にはわかるのですね。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第20号が届きました。

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平成29年(2017)の創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」。今号は「山菜ミズのたたきとウコギのホロホロかけご飯」。美味しそうです。

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「ミズ」はイラクサ科ウワバミソウ属。よく似た名の「ミズナ」とは別物で、きれいな沢沿いなど湿った場所に生える山菜です。当方も花巻でよく饗されます。

花巻郊外旧太田村における光太郎の好物の一つで、昭和22年(1947)にはずばり「山菜ミヅ」という詩も書いています。

   山菜ミヅ

 奥山の渓流に霧がこもつて
 岩の間にミヅが生える。山菜づくし
 ウハバミとまではゆかないが
 大きなシマヘビがぬらぬら居る。
 岩手の人はこの不思議な山菜を
 暗いうちから一日がかりで採つてくる。
 山の匂が岩手の町にただよつて
 ミヅは吸物となり煮びたしとなり
 なんだかしらないどろどろな
 白緑いろのソースとなる。
 岩手の人は夏がくると
 何よりさきにミヅを思ひ出す。
 ぬめりがあつてしやきしやきして
 どこかひいやり涼しくて
 風雅なやうで精気絶倫。
 配給などとけちは言はず002
 山の奥にはウハバミサウが
 ぬるぬるざわざわ生えてゐる。

右の画像は光太郎の残した「ミズ」のスケッチです。書き込みは以下の通り。

ミズ 西鉛温泉ニテ 昭和二十年六月二十日  
○花 淡緑  ○根もと 淡紅  ○葉 鮮緑
 ウラ 白緑  ○総丈 一尺五寸位 


花巻郊外旧太田村に移る前、花巻町中心街の宮沢賢治実家に厄介になっていた頃、結核性の肺炎で1ヶ月臥床した予後を養うため滞在した西鉛温泉で書かれたものです。


さて、『マチココ』さん。第20号記念と言うことで、特集は「20歳のころ」。花巻のさまざまな皆さんにインタビューか寄稿してもらうかしたようで、20余名の方々の「20歳のころ」が掲載されています。

で、花巻高村光太郎記念会の高橋事務局長をはじめ、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフの皆さんの「20歳のころ」も多数掲載されています。それぞれ「なるほどね」という感じでした。

『マチココ』さん、オンラインで定期購読の手続きが可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

第一次大戦当時のスペイン風邪みたいに、例えば、アブストラクトが、全世界をふきまくるのではありますまいか。

座談会筆録「敗けた国の文化――東西美術・工芸の交流――」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

昨今のコロナ禍にともない、約100年前のスペイン風邪のパンデミックがまた脚光を浴びていますね。光太郎自身は罹患しませんでしたが、光太郎が将来を嘱望していた画家の村山槐多はスペイン風邪で死亡しています。また、光太郎の師・与謝野寛、晶子夫妻は家族が次々感染、大変な思いをしたそうです。

「アブストラクト」は「抽象芸術」。彫刻でも絵画でも主に具象を主戦場としてきた光太郎ですが、その勢いは無視できないものとなっていたようです。

それにしてもその例えが、40年近く前のスペイン風邪。よほど印象に残っていたのでしょう。

このブログでたびたびご紹介しておりますアートオークション大手の毎日オークションさん。時折、光太郎や光太郎の父・光雲関連が出品されます。

今月開催の「第641回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」では、光雲の作品が出ます。

第641回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

日  程 : 2020年6月19日(金) 14:00~  6月20日(土) 12:00~
会  場 : 毎日オークションハウス 東京都江東区有明3-5-7
下見会 : 2020年6月18日(木)・19日(金) 10:00~18:00

さて、光雲作品。

まずは木彫丸彫の「翁舞」。衣の紋様まで細かに彫られています。まさに超絶技巧。

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同じく「大聖像」。ほぼ同型の作品が、現在、千葉そごうさんの美術画廊で開催中の「近代木彫秀作展」に展示販売されています。

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丸彫りの二点とも、千葉そごうさんに出ているものと比較すると、かなりの安値です。「作品詳細」欄にあるとおり、それぞれ、若干、状態がよくない点があるためでしょうか。それにしても、画像で見る限り目立つ瑕疵ではないので、もう少し値がついて落札されるような気がします。

続いて、手板浮彫(レリーフ)の小品で「月宮殿」。月で餅を搗く愛らしい兎です。

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最後に彫刻ではなく、書。雄渾な文字ですね。

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それぞれ、おさまるべきところにおさまってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

だからぼくのは出すたびにやられるので弱つていたもんです。非詩だつて、そう感じるんだからしようがないというので書いていたもんです。

座談会筆録「現代詩について」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

半世紀近く前の明治末、詩集『道程』所収の詩篇を作っていた頃の回想です。口語自由詩はまだ一般的でなく、しかもある意味醜い自己の内面をさらけ出した光太郎の詩は、時代を突き抜けていたといえましょう。

まず、キーワード検索「智恵子」でヒットした、智恵子の故郷、福島二本松の道の駅「安達」智恵子の里さん関連の報道を2件。ともに『福島民友』さんの記事です。 

【二本松】幽玄な光「瓢箪ランプ」 道の駅で高野さん作品展

 ひょうたん工房002「孝瓢(こうひょう)」を開く福島市飯野町の高野孝夫さんは15日まで、二本松市の道の駅「安達」智恵子の里上り線内にある市和紙伝承館で作品展を開いている。

 ヒョウタンに穴を開けて内側から発光ダイオード(LED)電球などをともすことできれいな模様を浮かび上がらせる「瓢箪ランプ」をはじめ、縁起物のひょうたん飾りなどを数多く展示。販売も行っている。時間は午前9時~午後5時。問い合わせは同館(電話0243・61・3200)へ。
(2020/6/8) 

温泉×地酒「フェイスパック」発売 二本松ブランド確立へ

 観光資源を生かした二本松市の経001済振興、交流人口の拡大などを進める「にほんまつDMO」は、市内観光の代表的素材の温泉と地酒を組み合わせた新商品「岳温泉×日本酒フェイスパック『肌とうじ』」を発売した。
 同市のブランド確立を目指す取り組みの一環。市内には「美肌の湯」として人気のある岳温泉、地酒も江戸、明治時代から続く奥の松酒造、大七酒造、檜物屋酒造店、人気酒造の4蔵元がある。これらを合作することで相乗効果を生み出し、同市の代名詞となる土産物にしようと企画開発した。
 新商品は、いずれも保湿効果が高いとされる岳温泉の天然湧泉と、4酒蔵の純米酒を配合。パックを顔に当てると各蔵元の特徴ある香りが漂うという。商品名の「肌とうじ」は「湯治」と「杜氏(とうじ)」に由来する。
 価格は1枚350円。各蔵元の4枚セットは1箱1280円。各蔵元をはじめ、岳温泉観光協会、二本松駅観光案内所、道の駅「安達」智恵子の里などで取り扱っている。問い合わせはにほんまつDMO(電話0243.22.0785)へ。
(2020/6/9)


続いて、美容研究家の佐伯チズさんの訃報。『日刊スポーツ』さんから。 

佐伯チズさん逝く「あきらめません」涙の闘病宣言も

テレビなどでも活躍した美容家の佐伯000チズ(さえき・ちず)さんが5日午後4時59分、筋萎縮性側索硬化症(ALS)のため東京都内の自宅で死去した。76歳。葬儀・告別式は親族で行った。喪主は長男佳之(よしゆき)氏。
佐伯さんは今年3月、公式サイトや動画を通じ、ALSを公表した。昨年秋から右足に違和感があり、同年末には思うように動かせなくなったという。動画では「私はまだまだ負けない。決してあきらめません。頑張ります」と、時折涙を見せ話していた。
個人事務所関係者によると、佐伯さんの希望で自宅療養を続けていたという。最近まで取材を受けたり、7月に発売する著書「夢は薬 諦めは毒~あなたに寄り添う33の言葉」の打ち合わせをするなどして過ごしていた。最期は佳之さんをはじめ、近しい人たちで見送ったという。お別れの会については、新型コロナウイルス感染拡大が収まってから開催を検討するとした。
滋賀県生まれ。フランスの化粧品メーカーを定年退職後、エステサロンを開業。03年に発表した著書「佐伯チズの頼るな化粧品! 顔を洗うのをおやめなさい!」がベストセラーに。エステティシャンとして活動しながら、講演やメディアで活躍した。
◆筋萎縮性側索硬化症(ALS) 手足、のど、舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がやせて力がなくなっていく国指定の難病。運動をつかさどる神経が障害を受け、脳からの「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなる。大リーグで2130試合連続出場のルー・ゲーリッグ内野手(ヤンキース)が患ったことから「ルー・ゲーリッグ病」とも言われる。宇宙物理学者スティーブン・ホーキング博士や「クイズダービー」で知られる篠沢秀夫名誉教授らも闘病。米では14年にALS支援運動、アイス・バケツ・チャレンジが広まった。

佐伯さん、平成28年(2016)8月、BS日テレさんで放映された「イチオシ!2泊3日の旅 青森・奥入瀬~八甲田…水と緑の絶景!」に、フリーアナウンサーの南美希子さんと共にご出演。お二人で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の前で、お約束のポーズをなさって下さいました。

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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

すこし細かく自然をみていますと、同じ日は決してありません。面白いことです。
座談会筆録「南沢座談抄」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

よく「一期一会」と申しますが、光太郎の場合、農作業に従事していた経験から、このように感じていたようです。

講談社さんから発行されている総合文芸誌『群像』の今月号を入手しました。  2020年7月1日(6月7日発売) 講談社 税込定価1,300円

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 〈創作〉
  とんこつQ&A  今村夏子
  膨張  井戸川射子  
 〈第63回群像新人文学賞発表〉
  〈優秀作〉四月の岸辺  湯浅真尋
   受賞の言葉 選評 柴崎友香、高橋源一郎、多和田葉子、野崎歓、松浦理英子
 〈批評総特集〉「論」の遠近法
  考えることを守る  東浩紀
  井筒俊彦――ディオニュソス的人間の肖像  安藤礼二  
  ふたたび世界へと戻ってくるために――崔実『pray human』論  江南亜美子
  非人間  大澤信亮
  彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎から回路をひらく  小田原のどか
  自分が死ぬとはどういうことか?――の変遷  樫村晴香
  コロナウイルスと古井由吉  柄谷行人 
  戦争の「現在形」――七〇年代生まれの作家たちの戦争小説  高原到
  ポシブル、パサブル――ある空間とその言葉  福尾匠
  ばば抜きのゴッサム・シティ  古川日出男
  パラサイト――やがて来る食客論のために  星野太
  ぶかぶかの風景――乗代雄介「最高の任務」  町屋良平
  ピンカーさん、ところで、幸せってなんですか?  綿野恵太
 〈連載評論〉ショットとは何か〈2〉  蓮實重彦
 〈ノンフィクション〉 2011―2021 視えない線の上で   石戸諭
 〈短期集中ルポ〉ガザ・西岸地区・アンマン⑤
   「国境なき医師団」を見に行くいとうせいこう
  〈追悼 井波律子〉 破壊と創造の女神  三浦雅士
 〈連載〉
  ゴッホの犬と耳とひまわり〔7〕  長野まゆみ
  鉄の胡蝶は夢に記憶に歳月に彫るか〔23〕  保坂和志
  二月のつぎに七月が〔28〕  堀江敏幸
  ブロークン・ブリテンに聞け Listen to Broken Britain〔29〕  ブレイディみかこ
  ハロー、ユーラシア〔2〕  福嶋亮大
  薄れゆく境界線 現代アメリカ小説探訪〔2〕  諏訪部浩一
  「近過去」としての平成〔4〕  武田砂鉄
  「ヤッター」の雰囲気〔4〕  星野概念
  星占い的思考〔4〕  石井ゆかり
  所有について〔5〕  鷲田清一
  辺境図書館〔5〕  皆川博子
  LA・フード・ダイアリー〔10〕  三浦哲哉
  現代短歌ノート〔122〕  穂村 弘
  私の文芸文庫〔7〕  綿矢りさ
  極私的雑誌デザイン考〔6〕  川名潤
 〈随筆〉
  変なTシャツを着ている  imdkm
  腰田低男氏の人生 上野誠
  さよりとこより 長田杏奈
  彼女の本も旅にでる 清水チナツ
  確率を上げる(鷺ノ山)  長谷川新
  かさぶたは、時おり剥がれる  堀江栞
 〈書評〉
  このパパを見よ!(『パパいや、めろん』海猫沢めろん 6月22日頃刊行)  野崎歓
  異人に向かう優しい眼差し(『よそ者たちの愛』テレツィア・モーラ)  池田信雄
  知と戯れる「物理の聖典」(『帝国』花村萬月)  豊﨑由美 


彫刻家・小田原のどか氏の評論「彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎から回路を開く―」が14ページにわたって掲載されています。

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加藤典洋氏は、昨年亡くなった文芸評論家。『敗戦後論』(平成9年=1997)が特に有名ですね。思想的な系譜としては、当会顧問であらせられた故北川太一先生の盟友・吉本隆明のそれを受け継いでいるとってもいいでしょう。

そして吉本が初めて著した作家論が『高村光太郎』(昭和32年=1957)。吉本は戦時中、光太郎の翼賛詩文に多大な影響を受け、戦後になってからは、光太郎を通じて「あの戦争は何だったのか」という思索の道に入っていきました。

そして戦時中、大政翼賛会中央協力会議議員や、日本文学報国会詩部会長などを務めた光太郎。他の彫刻家とは異なり、「爆弾三勇士」的な愚劣な彫刻は作りませんでしたが、詩文では最も翼賛活動に資する役割を果たしました。

小田原氏、一昨年に編刊された『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』でも、戦争と彫刻の関わり、特に彫刻の持つモニュメンタルな部分について、様々な論者の方々と論じられていましたが、今回のものもその一連の流れに沿うものです。

特に興味深かったのは、光太郎最後の大作(ちなみに小田原氏は「絶作」としていましたが、それは誤りです)「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を、戦後の平和主義の敷衍に伴う、さまざまな場所に建てられた裸婦像の流れの中で捉えていること。

ただ、そうした有象無象の裸婦像は人々の記憶から薄れ、極論すれば光太郎の「乙女の像」のみが「生き残って」いるように感じるのですが。

さて、『群像』。大きめの書店さんでしたら店頭に並んでいるでしょうし、オンラインでも入手可です。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

今日の所ではこつちにゐたくないな、どうも。彫刻のためにこつちへ来たんだから……。あつちでは畑をやるが、畑をやるといふことは、僕の彫刻だ。

座談会筆録「湖畔の彫像」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「彫刻」は「乙女の像」、「こつち」は東京、「あつち」が花巻郊外旧太田村です。

以前にも書きましたが、この年、「乙女の像」制作のため帰京したものの、完成後にはまた太田村に帰るつもりでいた光太郎、住民票はそのままでした。実際、像の除幕式(昭和28年=1953)の後、一時的に太田村に帰りましたが、もはや健康状態が過酷な寒村での生活に耐えられず、三度(たび)、東京の人となり、そのまま亡くなりました。

地方紙『岩手日日』さんに載った記事を2本。

まずは何度かお伝えしている、花巻高村光太郎記念館さんの女性スタッフの方々による手作り光太郎マスクの件で、6月6日(土)の掲載です。 

共感呼ぶ「非常の時」 手作りマスク人気 高村光太郎記念館 一節印字した紙片同封も 【花巻】

 緊急事態宣言解除など002を受け1日から再開した高村光太郎記念館(花巻市太田)で、同館スタッフ手作りのマスクが人気を集めている。花巻空襲時の救護者をたたえた光太郎詩「非常の時」の一節を印字した紙片を同封し、コロナ禍という「非常の時」を生きる来館者の感動を呼んでいる。
 同館では2019年秋、光太郎が山口小学校(現在は花巻市立太田小学校と統合)に贈った「正直親切」の文字とイラスト、館名などを染めた手拭いを製作。今春のコロナ休館期間を利用し手拭いを裁断、各地で品不足となっていたマスクに作り替えた。
 製作に当たったスタッフ9人は、感染拡大という混乱を戦時下の苦難になぞらえ、紙片同封を発案。11年の東日本大震災発生時にも人々の共感を呼んだ「人安きをすてて人を救ふは難いかな 人危きを冒して人を護るは貴いかな」の文字で、奮闘する医療者らに感謝を伝えている。
 手拭いのデザイン画は、花巻高村光太郎記念館職員の三上昭子さんが担当。消しゴムはんこの技法で描かれた図柄がかわいらしく、手拭い裁断の位置によっては「正直親切」の文字がマスク上できれいに確認できる。「職員全員で意見を出し、何パターンも試作して出来上がった。コロナが流行し始めた頃から『非常の時』とリンクする部分を皆が感じ、製作することになったマスク。リピーターも多い」と喜ぶ。
 マスクは1枚300円。開館は午前8時30分~午後4時30分。問い合わせは同館=0198(28)3012まで。

この記事が載ったことで、「さらに相乗効果的に売り上げが伸び、翌日には15セットも売れたそうです。

「非常の時」と手作りマスクに関しては、以下の過去記事をご参照下さい。

 光太郎の食卓カレンダーとマスク型紙・素材(手ぬぐい)セット。もう1件、昨日も同じ『岩手日日』さんに光太郎がらみの記事が出ました

高村光太郎詩「雲」掲載 70年以上前の雑誌発見 【花巻】

 花巻ゆかりの詩人で彫刻家003・高村光太郎作の詩「雲」が掲載された雑誌が花巻市内で見つかり、関係者の関心を集めている。発行から70年以上が経過したとは思えないほど保存状態が良く、資料的価値も高いとみられている。
 雑誌は1946(昭和21)年7月発行の「週刊少国民」。紙面はカラーページやイラスト、写真も多く、明るさを取り戻しつつある戦後世相を感じさせる。花巻市内の民家で発見されたことから、全国的に見ても相当数が発行されていたことが推測される。
 「雲」は、同年6月14日光太郎の制作とされる詩。20行足らずの短さだが「太陽に色どられた空中のパレツト」「光とかげとの運動会」といったイメージ豊かな表現が印象に残る。発見に携わった同市中北万丁目のAct21主宰・菅原唯夫さん(71)は「70年前にこのような作品を生み出したことがすごい」と話す。
 昭和21年の光太郎は、同詩のほか「絶壁のもと」などを制作。光太郎の体調が思わしくなかった頃で、比較的詩作の少なかった年という。


ニュースバリューということを問題にすると、ものすごく稀少な雑誌ではないので、それほどの件ではないのですが、「発行から70年以上が経過したとは思えないほど保存状態が良く」というあたり、それから、作品が書かれた花巻で見つかったというあたりに価値があるような気がします。

『週刊少国民』、「少国民」の語からして怪しさが漂いますが、お察しの通り、戦時中に創刊された子供向け雑誌です。版元はなんとまあ、朝日新聞社さんでした。戦時中から光太郎はたびたび寄稿していました。確認できている光太郎の寄稿は以下の通りです。



このうち、「神風」のみ散文で、あとは詩です。当然のように戦時中のものは、少年向けの翼賛詩。「君たちも早く成長してお国のために命を捧げなさい」的な……。残念ながら読むに堪えない「痛い」ものばかりです(ところがこの手の詩こそ光太郎の真骨頂だと、涙を流してありがたがる愚か者がいまだにいるのですが)。

さすがに「雲」は戦後の作で、翼賛色はなくなっています。ただ、戦後になって「少国民」でもあるまい、ということで、この年の9月には廃刊となっています。あるいはGHQの指導が入ったかもしれません。

記事の最後に「昭和21年の光太郎は、同詩のほか「絶壁のもと」などを制作。光太郎の体調が思わしくなかった頃で、比較的詩作の少なかった年という。」とあり、確かにそういう面もあったとは思いますが、それよりも、翌年に発表した己の半生を綴りつつ戦争責任を懺悔した、20篇からなる連作詩「暗愚小伝」の構想、執筆にかかっていたのも、発表作の少なかった理由と考えられます。

そうした思いを抱きつつ、光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)、そして隣接する花巻高村光太郎記念館さん、6月1日(月)から再開しました。コロナ禍が落ち着いたら、ぜひ足をお運びいただき、光太郎の思いに触れていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

ぼくは、あそこでだんだんやつているうちに、これが本当の生活で、東京の連中は、みんなうその生活をしている。ここが世界の中心だと思うようになり、あそこを世界のメトロポリスにしようと考えた。それであそこに短波を備えつけて、どことでも通信できるようになれば、東京にいるよりもよほどいいと思つた。

座談会筆録「詩の生命」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「あそこ」が、花巻郊外旧太田村です。「短波を備えつけて」云々は、いわば「テレワーク」、「リモート会議」といったことに繋がるでしょうか。そういう部分での先見性も、光太郎は持ち合わせていました。

まずは『読売新聞』さんの一面コラム、6月4日(木)の掲載分です。 

編集手帳

詩人の高村光太郎は彫刻家でもあった。後者の職業の視点だろう。「顔」と題する小文に、顔ほど人を語るものはないと書いている◆仙人のような風貌(ふうぼう)でも内心俗っぽい者は俗っぽさが顔に出る。欲張りな者にも人情に厚い人がいて、それが顔に表れる。誠実であろうとするあまり無理をする者は、その無理を顔に隠せないと例を連ねている◆この論に従えば、顔は大事な表現手段になり得る。東京地裁での殺人事件の裁判員裁判で、弁護人がマスク着用を拒否した。表情を裁判員に見せなければ全力での弁護が困難との考えかららしい◆正義や熱意をお顔に貼り付けるタイプの弁護人なのだろう。裁判は裁判員と弁護人の間にアクリル板を設置し、2時間半遅れで開廷した。といっても被告はマスクをしていたという。裁判員は真実を見極めるのに、被告より弁護人の表情に目を奪われぬよう注意しなければならない◆光太郎の顔論には社会で地位を築く人への戒めのような一節もある。〈お山の大将はお山の大将〉。今は法律にないルールが多くある。考えや気持ちを柔軟にして山を下りねばならないことがある。

ルイ十六世気取りの「お山の大将」いや、「裸の王様」にも「山を下り」てもらいたいものですが(笑)。

続いて福岡に本社を置く『西日本新聞』さんに載った記事。美術評論家の椹木野衣(さわらぎのい)さんによる連載です。 

近代秀作木彫展遮られる世界 パンデミックとアート <14>【連載】芸術にとっての手や顔 不気味さに向かっていた高村光太郎の著名な彫刻

 新型コロナウイルス感染症がアートに与える影響は、遠隔型のアート(メディア・アートの伸張)のようなわかりやすい対症療法だけでなく、より根源的な次元にまで及んでいるように考えられる。
たとえば、芸術家にとっての手や顔の位置付けがこれにあたる。人類が手を駆使して道具を操り、文明を築いていったことや、鏡に写る自己像を認識し、個人という枠組みが形成されていったことを思い起こそう。あらためて確かめるまでもなく、手や顔は芸術にとって、技芸や内省といった成立条件そのものに関わる器官なのだ。
 ところが、新型コロナウイルスがヒトに宿す場所は、 まさしくこの手と顔にほかならない。ウイルスは手によって媒介され、顔の粘膜から体内に侵入する。徹底した手洗いとマスク(顔を触らない)がなにより奨励されるのは、そのためにほかならない。
 私たちはこれまで、自分の手や顔が身体のなかで、もっとも危険な場所だなどとは、よもや認識してこなかった。むしろ逆だろう。手や顔は自分にとって、もっとも親密な場所だった。新型コロナウイルス感染症では、それが逆転してしまう。手や顔が、自分にとって最大の警戒すべき対象となる。場合によっては敵となる。
 このことが、アーティストたちにとって、たいへん大きな価値観の転倒に繋(つな)がらないはずがない。もはや手は技芸の味方ではなく、これまで通り絵を描くにせよ、最先端の装置を操るにせよ、つねに清潔に保たなければならない危ない他者性を帯びてくる。同時に顔では、 ときにやさしく(それこそ)手で慰撫し、表現する主体の実在を確かめるにも気を使わなければならなくなる。
 アーティストにとって新型コロナウイルスの蔓延( まんえん)は、以後、避けることができない自己の分裂が生じることを意味するのだ。
 人間の器官を扱った彫刻では、三木富雄の巨大な耳の彫刻がすぐに思い浮かぶ。
 耳をかたどった三木の彫刻の不気味さは、そもそも彫刻の主題として耳を前面化するアーティストが過去にいなかったことに多くを負っている。耳は音楽にとってはしごく身近でも、美術にとってそれほどまでのことはない。美術には、視覚をつかさどる眼がなんといっても根本的なのであって、ゆえに肖像画の主題は同じ顔でもひときわ目に集中している。耳は物理的にも意味的にも脇役だ。三木はそれを主題化した。
 ところが新型コロナウイルスが蔓延した状況では、耳のように、表現の対象としてわざわざ意識をめぐらす必要のなかった手こそが、最大限に不気味な対象となる。
 たとえば高村光太郎の彫刻に「手」がある。だが、その著名さとは裏腹に、その不自然さは、ふだん手が取るポーズではない。ゆえにこの作品への解釈はこれまでも様々( さまざま)だった。だが、高村の意識が手の不気味さそのものに向かっ向かっていたのはあきらかだ。
 なぜ高村は、手をこれほどまでに不自然視したのだろう。この作品の制作年は確定していないものの、一般に1918年頃とされている。 私たちはいまでは、この年号から、ただちにスペイン風邪によるパンデミックを連想する。むろん、高村の制作時期がスペイン風邪の蔓延と重なっているかはわからない。また、手がウイルスを媒介する最大の感染源という認識があったかどうかも不明だ。
 だが、少なくとも私たちは、これらのことを通じ、高村によるこの手の彫刻に、かつてない意味を見出すようになっている。

光太郎ブロンズの代表作「手」001大正7年=1918)を引き合いに出してくださいました。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

この手の形は、観音菩薩像の「施無威」の相。まぁ、仏像の手印ですから「不自然」といえば「不自然」ですが、一見ものすごく「不自然」に見える親指のそり工合は、粘土で塑像を作る際の光太郎の親指の形そのままです。下の方の画像はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」から。最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作風景です。

そう考えれば、この形もそれほど「不自然」ではありませんし、ましてや「高村の意識が手の不気味さそのものに向かっ向かっていた」とか「高村は、手をこれほどまでに不自然視した」というのは意味不明なのですが……。

また、最後に「少なくとも私たちは」とありますが、「少なくとも私は」としていただきたいものです。

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ただ、ブロンズ「手」が、スペイン風邪の流行した大正7年(1918)の作だという指摘は、ほう、と思いました。しかし、そこに意味を見出すのは牽強付会に過ぎるように思われますが……。

明日も新聞記事からご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

僕は芸術だつてエネルギーだと思うんですよ。エネルギーの発散が芸術だと思うんです。

座談会筆録「簡素生活と健康」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

まさに最後の大作「乙女の像」制作にかかろうという時期の発言です。

30余年前の「手」も、こうしたエネルギーの発露として、ポジティブに作られたものだと思うのですが……。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数出版して下さっている文治堂書店さん。そのPR誌的な『トンボ』の第10号が届きました。


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表紙に大きく書かれているとおり、今号は北川先生の追悼特集です。


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様々な皆さんが、北川先生への追悼詩文を書かれています。

「追悼 北川太一」と括られた部分で、花巻高村光太郎記念会長・大島俊克氏、劇作家・女優の渡辺えりさん、北川先生の菩提寺・浄心寺さんのご住職の佐藤雅彦和尚、光太郎と交流のあった詩人・野澤一ご子息・野澤俊之氏、詩人の服部剛氏、同じく曽我貢誠氏と市川恵子氏、アーティストの前木久里子氏。

それ以外の部分でも、文治堂社主の勝畑耕一氏、服部氏はさらに追悼詩、北川先生ご子息の北川光彦氏、それから当方も書かせていただいております。

若き日の先生のお写真も。

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皆さんの北川先生に対する思いの丈に接し、心打たれるとともに、先生の業績の偉大さ、そして人間的な懐の深さなどを改めて痛感いたしました。同時に、その先生を喪った深い悲しみがまたぞろ思い起こされ、複雑な心境です。

当会にて10月発行予定の『光太郎資料』(北川先生より名跡をお譲りいただいたものですが)をお申し込みいただいている方には、併せてお送りしますが、それ以外の方、それからすぐに読みたいという方は、文治堂書店さんまでお申し込み下さい。一応、定価500円+税ということになっています。


【折々のことば・光太郎】

とにかく、十和田湖というふうな大自然の中へ、大胆に放り出されちやうのだから、そして十和田湖自身が、日本だけのものではなくてスイツツルやイタリアの、僕たちの頭にある湖の風景とくらべて遜色ない、いまに世界的の観光地になるにきまつているから、いい加減なくだらないものは置かれない。相当の覚悟がいるのです。僕は死んだつて構わないという覚悟でやる気なんです。

座談会筆録「美と生活」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見に訪れた十和田湖の、宿泊した東湖館で為された座談会から。その同じ夜、座談会終了後に、ぼそっと「智恵子を作ろう」と呟いたそうです。

このところ、展覧会系をご紹介しておりますので、もう1件。 

期 日 : 2020年6月2日(火)~8月23日(日)
会 場 : たましん美術館 東京都立川市緑町3-4 多摩信用金庫本店1階
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 月曜日、展示替え期間(7月6日~7月10日)
      ただし8月10日(月・祝)は開館、8月11日(火)を閉館。
料 金 : 一般500円(400円) 高大生300円(200円)( )内20名以上の団体

令和2年(2020)5月、多摩信用金庫(たましん)は新たに美術館をオープンいたします。たましんが長年貫いてきた多摩地域の文化振興への貢献という姿勢は、ここにきて美術館という形で結実することになりました。

さかのぼれば昭和49年(1973)にたましん旧本店・本部棟ビルが完成した時、同ビル内に「たましん展示室」が併設されました。それから47年の時を経て、立川市の新街区GREEN SPRINGSへの本店・本部棟の移動にともない、新たに誕生するのが「たましん美術館」です。

初年度は、たましんが誇る優れた美術コレクション(たましんコレクション)を一挙にご紹介します。たましんコレクションは大きくは三つのジャンルに分類することができ、ひとつは近代(明治時代以降)の洋画や彫刻の名品。次に中国・朝鮮・日本の貴重な古陶磁。そして多摩地域を中心に活動してきた作家たちの作品となります。その中で、新美術館の幕開けを飾る開館記念展Ⅰでは、たましんコレクションの中から選りすぐった日本近代(明治、大正、昭和)の洋画・彫刻の名品を並べます。

明治最初の洋画団体である明治美術会、ヨーロッパから鮮やかな外光表現を持ち帰った白馬会、アカデミズムに与せず個性の表出を重視した白樺派や草土社、若き才能が集まり切磋琢磨した中村屋サロン、より挑戦的な作風を発表するために官展から脱却して生まれた二科会や独立美術協会などの作家たち、そしてそのどこにも属さない独自性を求めた作家たちの作品も含めて展示いたします。新美術館のこだわりのつまった展示空間で、日本近代美術史の豊かな流れを味わっていただければ幸いです。

003

たましん美術館さん。前身は青梅市にあった「たましん御岳美術館」さんと、旧本店にあった「たましん展示室」。平成29年(2017)に、新美術館構想が報じられ、昨秋には「たましん御岳美術館」さんが閉館し、移転が終了したようです。

画像にあるとおり、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が出ます。元々「たましん御岳美術館」さんで展示されていたものです。ただ、新しい鋳造のものだと思われます。

それから、光太郎の親友だった荻原守衛の「女」(明治43年=1910)も画像にありますね。

『読売新聞』さんでは都内版で報じています。 

たましん美術館が開館 立川新街区 高村光太郎作品など

 JR立川駅北口の新街区「グリー001ンスプリングス」で、多摩信用金庫(立川市)が収集してきた美術品などを展示する「たましん美術館」が2日、開館した。
 美術館は、5月中旬に新街区に移転した同金庫本店1階。展示室の広さは207平方メートルで、同金庫が1950年代から収集してきた「日本近代美術」「東洋古陶磁」「多摩の作家」に関する所蔵品約5000点を順次、展示する。
 この日始まった開館記念展「たまびらき」では、詩集「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)のブロンズ像「手」(高さ37センチ)や、洋画家の岸田劉生りゅうせい(1891~1929年)の油彩画「初冬の田畑」(縦45・6センチ、横53・2センチ)など、日本近代美術の所蔵品計23点を展示している。
 たましん美術館の学芸員、斉藤全人まひとさん(41)は「展示スペースは小さいが、良質なコレクションを地域の人に広く知ってほしい」と話している。今後、所蔵品以外の企画展も開催される予定。
 開館記念展前期は7月5日まで。後期は展示作品を入れ替えて、7月11日~8月23日に開催する。入館料は一般500円、高校、大学生300円、中学生以下無料。原則月曜休館。


暇を見て拝見に伺おうと思っております。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

日本人はみんな歌とか俳句とかをやる方がいゝと思ひます。

座談会筆録「大東亜文化建設の課題」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

「五七五七七」あるいは「五七五」という音律の制約、さらに短い中に深遠な心情、情趣を象徴的に含ませなければならない短詩系文学としての短歌や俳句。光太郎自身も優れた作をたくさん残しましたが(このブログの平成28年=2016では【折々の歌と句・光太郎】ということで、366首/句のそれらを紹介しました)。

歌人や俳人からすると、自由詩は「散文を行分けしただけじゃないか」だそうで、確かに悲しいかな、そういう作品も多く存在します(というか、現在氾濫している「詩集」なるもの、ほとんどがそうだと感じます)。しかし自由詩であっても、「内在律」ともいうべきリズム感、象徴性、その他、自由詩でなければ出来ないことがあるはずで、光太郎などはそれを実現できていたと言っていいのではないでしょうか(戦時中の愚にもつかない駄作も多いのですが)。

緊急事態宣言の解除を受け、休業していた商業施設等も再開が相次いでいますが、百貨店そごう千葉店さんも今月から営業再開となりました。

現在、本館七階の美術画廊さんで、光太郎の父・光雲の木彫が展示即売されています。 

近代秀作木彫展

期 日 : 2020年6月2日(火)~6月8日(月)005
会 場 : そごう千葉店 本館七階美術画廊
       千葉県千葉市中央区新町1000番地
時 間 : 10:00~19:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

高村光雲や平櫛田中など近代に活躍した彫刻家から大仏師松本明慶まで、秀作木彫作品30余点を一堂に展観いたします。
心と技が一体となって制作された仏さまやぬくもりあふれる木彫作品の数々をご覧ください。

画像:松本明慶「子安観音菩薩」


生活圏ではありませんが、同じ県内ですので、早速拝見に伺いました。

003

「30点余」とのことでしたが、ほとんどは現代の京仏師・松本明慶氏の作。光雲作は3点、それから関連する作家として、光雲の師・髙村東雲の孫・髙村晴雲と、光雲の弟子・平櫛田中の作が1点ずつ出ていました。

002

光雲の作品、まずは「孔子像」と題された像高20㌢ほどのもの。通常、「大聖像」とされることが多いのですが、「大聖」=「徳を積んだ人物」、具体的には孔子ですので、誤りではありません。光雲が得意とした題材の一つで、複数作品の現存が確認できていますし、時折、アートオークションに出品されています。今回は即売を兼ねての展示で、900万円の値が付けられていました。

「孔子像」より若干大きめの「大国主命」。因幡の白ウサギの神話を図題にし、大国主命の足元にかわいらしい兎。この図題は初めて拝見しました。こちらは何と1,800万円。

もう一点は、短冊形の細長い板に彫られた富士山と雲。「瑞雲」と題されていました。丸板や扇形の板に彫られたものは拝見したことがあります。下記は京都の清水三年坂美術館さん蔵のもの。これを長方形の短冊様にしたと思って下さい。小品ということで、しかしそれでも150万円でした。

001


髙村晴雲の作は、「釈迦如来像」。こちらは坐像002で像高15㌢ほどだったでしょうか。350万円。晴雲はのちに祖父の名跡を継いで三代東雲と名乗りますが、その前の作。おそらく戦前のものでしょう。

平櫛田中の作は、彩色彫刻で、田中が得意としたユーモラスな大黒天像でした。右は同趣意の作。小平市平櫛田中彫刻美術館さん蔵のものです。


久しぶりに木彫のいいものを拝見でき、眼福でした。

これも新型コロナの影響なのか、元々そういう予定だったのか、会期が来週月曜までと、短いのですが、ぜひ足をお運び下さい。さらに懐に余裕のある方は、お買い求め下さい。当方は逆立ちしても無理です(笑)。


【折々のことば・光太郎】

油絵には他の材料ではとても出来ない強い、深い、意味のある特別な味がある。今やつて居る人達は大抵他の材料でも出来るやうな仕事をやつてゐる。

座談会筆記「奉祝展洋画と彫刻」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

なるほど、油絵なら油絵でなければ出来ないことをやるべきですね。彫刻も然り。木でなければ出来ないこと、粘土でなければ出来ないこと、そういったことが考えられて当然でしょう。どうもそのあたりがどうなのかな、という、「現代アート」なるガラクタが幅を利かせているような気もします。

緊急事態宣言の解除を受け、各地の美術館さん等の再開があいついで居ます。ところが、なかなか旧に復するには至らないようで、「そう来るか」というものも……。

神戸市の兵庫県立美術館さん。まずは状況をわかりやすくするために、昨日の『毎日新聞』さん神戸版から。 

超・名品展が開幕 ファン来場多く 県立美術館で7日まで /兵庫

 県立美術館(神戸市中央区脇浜海岸通1)で2日、「開館50周年 超・名品展」(毎日新聞社など主催)が開幕した。新型コロナウイルスの影響で同美術館はこの日から再開。会期は大幅に短縮されたが、初日から多くの美術ファンらが訪れている。7日まで。

 1970年に県立近代美術館としてオープン以来、節目ごとに名作展などを開催してきた。 今回は「名品とは、時の流れや見る人によって変化する」との視点で、「復活」した作品や「誰も知らない」ものにも光を当てた。絵画、彫刻、版画、写真など多彩なジャンルや時代の約100点を展示。作家は東山魁夷、小磯良平、高村光太郎、草間彌生ら多岐にわたる。
 来館した伊丹市の大学教員、 香曽我部秀幸さん(70)は「見応えのある作品が多い」と楽しそうに鑑賞していた。 混雑緩和のため、観覧は県立美術館のホームページから事前予約が必要。【木田智佳子】

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会期は大幅に短縮された」とあり、「どのくらいだ?」と思ったところ、何とまあ、たった6日間の開催だそうです。

早速、同点について調べてみました。 

期 日 : 2020年6月2日(火)~6月7日(日)
会 場 : 兵庫県立美術館 神戸市中央区脇浜海岸通1-1-1(HAT神戸内)
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : なし
料 金 : 一般 1,300円 大学生900円 高校生以下無料

令和2(2020)年は、当館の前身である県立近代美術館が開館して50年目にあたります。本展はこれを記念して開催するものです。
開館以来の50年。この間、日本全国のみならず世界規模で見ても、美術の概念や社会における美術に対する期待のあり方は大きく変わりました。その中で、新たに発見・発掘された名品、解釈がかわることで新たな魅力が付与された名品があり、一方、オーラの幾分かが減少することで評価の核心が見えにくくなった名品の存在があります。また、全国各地で美術館・博物館建設が進み、それらの施設が地域とのかかわりを探る中で、地域ならではの価値が見出されて名品となった作品もあることでしょう。
本展は、そのような作品の評価の変遷や、受容のされ方、あるいは作者と作品への関心が遠のくさまにも注目しながら、名品とは何か、何であったのか、そして美術館および観覧者にとって、どのような可能性を持ちうるのかを探ろうとするものです。扱う時代区分としては、当館が前身の近代美術館時代から収集や展覧会開催の対象としてきた近代を扱うこととし、各作品の開館当時の美術状況と評価の地平を探る意図から、下限を近代美術館開館の1970年前後に設定したいと思います。また、この期間の美術の流れが概観できる構成とし、あわせて県内の美術を考える上で重要な作品、当館収蔵品のうち、50年の歩みの中で評価が確立した名品なども紹介することとします。※新型コロナウイルス感染防止のため、会期変更となりました。


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当初予定では4月11日(土)からでしたが、6月1日(月無題2)まで休館を余儀なくされ、その後、会期は変えずに6月7日(日)までとのこと。当然、この後の特別展、企画展等の予定も組んであるわけですから、これも苦渋の決断なのでしょう。たとえ6日間の開催でも、せっかく企画したからにはやるぞ、と、いうことでしょうか。

作品リストもネット上に出ており、それによれば光太郎作品は大正6年(1917)の「裸婦坐像」。ブロンズの小品です。信州安曇野の碌山美術館さん、花巻の髙村光太郎記念館さん、二本松の智恵子記念館さん、神奈川県立近代美術館さん、千葉県立美術館さんなど、各地に同型のものが所蔵されていますが、こちらは京都国立近代美術館さん所蔵のもの。おそらく、滋賀の銀行家だった野田守雄が光太郎に直接注文し、渡されたもので、数少ない大正期の鋳造です。

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その他、リストを見ると、確かに「超・名品」の名に恥じぬ作品の数々。光太郎とも親交の深かった作家の作品も多数出ており、首都圏開催でしたらすぐにでも見に行きたいところです。

同館蔵のものより借り受けた作品の方が多いかな、という感じで、これだけのものを借りるだけ借りて結局展示できませんでした、ではたしかにもったいないと思います。たとえ6日間の展示でも。

観覧には予約が必要とのことですが、ぜひにという方、同館までお問い合わせ下さい。


【折々のことば・光太郎】

分らなくても宜いのか、或は分らない程宜いのか知らないが、政治家の言葉をもつとずつと分る言葉にして呉れると宜いですね。聴けば一般の人が分るやうにね。今のでは聴いただけでは分らない。

座談会筆録「芸術と生活を語る」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

80年前からそうだったのですね。「真摯に受け止めて……」「任命責任は私にあると痛感……」「国民の皆様には丁寧な説明を……」「説明責任を果たして……」「誤解を与えたとすれば発言は撤回……」「印象操作はやめていただきたい……」「××には当たらない……」(笑)。さすがに「募ってはいるが募集はしていない」「森羅万象すべて担当しておりますので」というような、まったくもって意味不明の発言はなかったと思いますが(笑)。

今年一月、新国立劇場で上演された「鈴木勝秀×る・ひまわり第3弾公演『る・ぽえ』」がDVD化されるそうです。

発売元で、昨年亡くなった滝口幸広さんが出演された「智恵子抄」を含む朗読劇、「僕等の図書室」(平成24年=2012)も手がけられた「る・ひまわり」さんのサイトから。 

『ウエアハウス-double-』『る・ぽえ』DVD発売決定のお知らせ

2020年1月25日(土)~0022月2日(日)に新国立劇場小劇場にて公演された鈴木勝秀×る・ひまわり第3弾公演舞台『ウエアハウス-double-』と『る・ぽえ』のDVD発売が決定しました。
 
6月8日(月)12:00 より、る・ひまわりオンラインショップにて販売いたします。是非、お求めくださいませ。
 
<発売日>
6月8日(月)12:00 より、る・ひまわりオンラインショップにて発売。

『る・ぽえ』DVD
<販売価格> 6,500 円(税別)
<収録内容>本編映像:約91分
      特典映像:約5分(キャスト座談会)
<上演台本・演出>鈴木勝秀
<出演>碓井将大、辻本祐樹、木ノ本嶺浩、林剛史、加藤啓
<内容>
 高村光太郎「智恵子抄」をモチーフにした夫婦の話
 萩原朔太郎「月に吠える」をメインにした多趣味な朔太郎の奇想天外な話
 中原中也の人生と恋愛を通して描くダイアログ
 “詩”を通して描く3人の詩人の物語。

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ご興味のある方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

立派な詩を書くにはもつと自由が許されなければならぬのではないでせうか……

座談会筆録「詩と文学」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

最愛の妻・智恵子が亡くなって2週間後に行われた座談会での発言から。

前年には日中戦争が勃発、光太郎も「智恵子抄」所収の珠玉の詩篇と並行して徐々に翼賛詩に傾倒していった時期で、自分の詩を「戦争詩」とは呼ばないで欲しい、銃後の国民の心構えを謳ったもので「銃後詩」とでも呼んでほしい、などといった発言も見られます。

そうした流れの中で、検閲等のため「負傷兵が倒れてゐるところなんか普通には書いていけない」という現状に対し、上記の発言が為されました。

テレビ放映情報です。 

にっぽん百名山 安達太良山

チャンネル銀河(CS 305) 2020年6月7日(日) 午前10:00~10:30

山を知り尽くしたガイドに導かれ、主観映像で山登りを“疑似体験”していく紀行番組/福島の安達太良山で、荒々しい火山と、みちのくの穏やかな自然を体感する/2015年

福島の安達太良山(1700m)、荒々しい火山と、みちのくの穏やかな自然を体感する山旅。登山口の野地温泉からブナなど広葉樹の紅葉に彩られた登山道を抜け、森林限界の低い偽高山帯と呼ばれる見晴らしの良いりょう線へ。最高峰の箕輪山(1728m)を経て、温泉のある山小屋で一泊、翌朝、乳首山とも呼ばれる安達太良山の山頂をめざす。智恵子抄のエピソードや登山家の田部井淳子氏の誕生秘話も紹介する。


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このブログでは、基本的にCS放送の番組はほとんどご紹介してきませんでしたが、CSの場合、各月第一日曜日に、番組によって無料放送が組まれており、これは無料枠での放映です。受信には衛星用アンテナは必要ですが。ちなみに7月9日(木)にも「安達太良山」の回が再放送されますが、そちらは有料枠です。

元々はNHK BSプレミアムさんで平成27年(2015)に初回放映があり、その後何度か再放送されてきたものです。登山系の番組ですので、山岳ガイドの方の案内でトレッキングルートを紹介するのがメインコンセプトですが、「智恵子抄」ゆかりの山ということで、途中約2分間、光太郎智恵子がらみの内容となっています。二本松の智恵子の生家等も取りあげられます。

ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

書というのは、いきばって書けば、いきばった書がかける。自然な気持で書けば、自然な書がかける。見ればわかるものです。ともかくその人間以上のものは出るはずがないんだから。

談話筆記「高村光太郎聞き書き」より 昭和31年(1956) 光太郎74歳

聞き手は当会顧問であらせられた、故・北川太一先生。前年から断続的に、最後は光太郎の亡くなる1ヶ月前まで聞き書きが行われました。

同じ聞き書きの少し前の部分では「書はやっぱり最後の芸術だな」とも発言しています。

キーワード検索「乙女の像」でヒットしました。おそらく新商品だと思われます。 

スコップ三味線「乙女の像」(シングル)オリジナル15 鉄製 スコップ三味線ストラッププレゼント中!

〜話題のスコップ三味線〜
1本1本手作りで制作しております。専用スタンド、バチはサービスでお付け致しております。
通信販売はヤフーショッピングでのみ販売中。ご注文はヤフーショッピングよりお願いいたします。

【カラー】
  取っ手:パープル+ブラック
  金具:グリーン+ブラック
  柄:焼き目
  スコップ面:ブルー+絵柄
【サイズ】 約(高さ)100×(最大幅)26cm
【重量】 約2.1kg

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そもそも「スコップ三味線」とは何か? といいますと、津軽三味線の楽曲に合わせて、雪かき用のスコップを三味線に、鉄製の栓抜きをバチに見立て、スコップを叩いて演奏するというジャンルです。

1980年代に生まれ、のちに世界大会まで開かれるようになりました。



エアギターと似た、あくまで「シャレ」の世界ですが、エアギターと異なり、実際に音を出す点はパーカッションに近いのかな、という気がします。したがって、上記画像でペグ(弦を締めたり緩めたりするネジ)も写っていますが、実際に弦は張られていないので、これは無意味な飾りです(笑)。

また商品説明欄に「バチはサービスでお付け致しております」とありますが、つまりそれは栓抜きだろ? と、まぁ、突っ込みどころ満載ですね(笑)。

で、「乙女の像」。最近はただのスコップでなく、デザイン性を重視し、「津軽」、「八甲田」などの「号」をつけたものがいろいろ出ているようです。笑えますね。それにしても光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を使っていただき、ありがとうぞざいます(笑)。

興味のある方、ぜひどうぞ(笑)。


【折々のことば・光太郎】

およそ学の庭にていとも楽くかつは勇しくしかも互の交誼をますます厚くむすばるゝは修学旅行にまさるものあらじ。

雑纂「日光遠足の記」より 明治31年(1898) 光太郎16歳

この年10月の、東京美術学校本科一年彫刻科の修学旅行について書かれた未完の文章の書き出しです。2泊3日の行程で、行き先は日光でした。

全国の学校等、今日から再開というところも多いようですが、今年度は大変ですね。授業の遅れを取り戻すために行事等の削減もかなり進むでしょうし、そうなると子供たちにとっては味気ない学校生活となりかねませんし……。

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