2020年04月

俳優の金内喜久夫さんが亡くなりました。昨日、何気にフェイスブックで渡辺えりさんの投稿を見ておりましたら、その記述がありまして、驚いた次第です。

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『日刊スポーツ』さん。 

文学座の金内喜久夫さん死去、87歳 がんのため

文学座のベテラン俳優金内喜久夫(かなうち・きくお)さんが28日午後、がんのため亡くなった。87歳だった。30日に家族葬を行う。喪主はアニメ「サザエさん」のイクラ役で知られる妻桂玲子(れいこ)さん。

金内さんは67年に文学座の座員となり、舞台「熱海殺人事件」「飢餓海峡」などのほか、大河ドラマ「徳川慶喜」にも出演した。08年に紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞した。18年にがんが見つかり、19年春には転移したことも判明した。同年秋に出演した別役実作品「この道はいつか来た道」が最後の舞台となった。

金内さん、平成23年(2011)と翌年、渡辺えりさん作の舞台「月にぬれた手」で、主役の光太郎役を演じられました。平成23年は東日本大震災のため、途中で打ちきりとなり、翌年、再演。当方、再演の方を拝見に伺いました。

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当方、金内さんのお歳を存じ上げませんで、87歳だったというのにも驚きました。ということは当方が「月にぬれた手」を拝見した平成24年(2012)には79歳だったわけで、とてもそうは見えませんでした。戦時中の翼賛詩文を読んで、多くの前途有為な若者が死んでいったことへの光太郎の自責の念を、見事に表現されていらっしゃいました。

画像は、「月にぬれた手」のパンフレットから。下記は、光太郎終焉の地、中野の貸しアトリエに、主立ったキャストやスタッフの皆さんで行かれた際のショットだそうです。

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脚本の渡辺さん、智恵子役の平岩紙さん、息子が戦死し、戦時中に国民を鼓舞した光太郎を責める農婦役など何役も演じられた木野花さん、光太郎の母役などだった神保供子さんなども写っています。

金内さん、この年の第56回連翹忌にも、渡辺さん、神保さんとご一緒にご参加下さいました。お三方には一篇ずつ光太郎詩の朗読をお願いし、金内さんはまさしく「月にぬれた手」(昭和24年=1949)。情感たっぷりのすばらしい朗読でした。

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 わたくしの手は重たいから
  さうたやすくはひるがへらない

 手をくつがへせば雨となるとも
 雨をおそれる手でもない。
 山のすすきに月が照つて
 今夜もしきりに栗がおちる。
 栗は自然にはじけて落ち
 その音しづかに天地をつらぬく。
 月を月天子とわたくしは呼ばない。
 水のしたたる月の光は
 死火山塊から遠く来る。
 物そのものは皆うつくしく
 あへて中間の思念を要せぬ。041
 美は物に密着し、
 心は造型の一義に住する。
 また狐が畑を通る。
 仲秋の月が明るく小さく南中する。
 わたくしはもう一度
 月にぬれた自分の手を見る。


金内さん、平成5年(1993)の文学座さんの舞台、「愛しすぎる人たちよ 智恵子と光太郎と」にも出演されていました。


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その際は、元活動弁士の役でした。

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また一人、名優が亡くなったか、という感じです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】007

こゝに人あり 雪にうもれて 膝をくめり

短句揮毫 戦後期 光太郎70歳頃 

画像は花巻郊外太田村の山小屋で膝を抱える光太郎。舞台上の金内さん、まさにこんな感じの、光太郎そのもののようでした。
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ネタ不足で悩んでいるという嘆きに反応して下さり、各地から「こんな情報が」と、メール等で提供いただいています。ありがたいかぎりです。

今日は光太郎第二の故郷ともいうべき花巻からの情報です。

過日ご紹介しました、花巻高村光太郎記念館さんの手作り布マスクの件。光太郎が戦後の七年間を暮らした山小屋(高村山荘)のある太田地区の、太田小学校さん、それから西南中学校さんの、それぞれ児童生徒さん一人に一枚ということで、女性職員の皆さんが突貫作業で制作、寄贈されたそうです。

昨日、『岩手日報』さんが報じて下さいました。 

光太郎の思いマスクに 記念館が2校に寄贈西南中学校2

 花巻市の花巻高村光太郎記念会(大島俊克会長)は27日、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の顕彰活動に取り組む同市の太田小(梅木康行校長、児童97人)と同市轟木の西南中(千葉龍太郎校長、生徒138人)に手作りマスクを寄贈した。
 新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けた取り組み。太田小には新渕和子さん、高橋順子さん、井形幸江さんが訪れ、梅木校長に児童の人数分のマスクを手渡した。
 光太郎が詠んだ「非常の時」の一節が書かれたカードも添えた。1945(昭和20)年の花巻空襲で、医療活動に西南中学校1励んだ総合花巻病院の医師や看護師らをたたえた詩。新型コロナの医療現場で奮闘する医師らの思いを子どもたちに伝える狙いがある。高橋さんは「感染症が早く終息してほしいという思いを込めて作った。喜んでもらえるとうれしい」と思いを込めた。梅木校長は「子どもたちの安全が第一。貴重なマスクを使わせていただき、感染者を出さないようにしたい」と礼を述べた。


画像、上二枚は西南中学校さん、一番下が太田小学校さん太田小学校1での贈呈の様子。他紙も取材にいらしていたそうで、記事が出ましたらまたご紹介します(またこれでネタ的に助かります(笑))。

両校共に、毎年5月15日の高村祭(今年はコロナ禍のため中止となりましたが)にご参加下さり、音楽演奏や詩の朗読などで、祭を盛り上げて下さっています。

太田小学校さんは、かつて光太郎の山小屋近くにあった山口小学校を併合した関係で、山口小学校に光太郎が楽器を贈った縁を踏襲し、もちろん当時の楽器ではありませんが、今でも楽器演奏を披露して下さっています。

西南中学校さんも、光太郎が住んでいた頃の太田中学校を併合した関係で、太田中に光太郎が贈った言葉「心はいつも新しく」を歌詞に盛り込んだ「精神歌」を演奏して下さっています。

下記は昨年の高村祭です。

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それから、『岩手日報』さんでは、マスクに添えられたカードに一節が引用されている光太郎詩「非常の時」(昭和20年=1945)について、改めて新型コロナとの関連で記事にするそうで、一昨日、メールでレファレンス依頼があり、昨日、返答しておきました。こちらも記事が出ましたらまたご紹介します(これでさらにネタ的に助かります(笑))。

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花巻からはもう1件、全く別件の情報提供がありましたが、貴重なネタは小出しに、ということで、また後ほどご紹介します(笑)。


【折々のことば・光太郎】

心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する

短句揮毫 昭和24年(1949) 光太郎67歳

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上の方にも書きましたが、太田中学校に校訓として贈った言葉です。前半部分は翌年、盛岡少年刑務所さんにも贈りました。光太郎自身、気に入った言葉だったのでしょう。

雑誌の新刊です。

2020年4月25日 角川文化振興財団 定価950円(税込)

角川『短歌』は、1954年創刊の短歌総合誌。「自分だけのこの想い」を伝える究極の定型韻文詩・短歌の奥深さと楽しさをご堪能ください。

目次
グラビア うたの館めぐり さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館 今野寿美
     「明星」のビジュアルデ・ザイン
特集 日常・社会はどう歌うか
特集 「明星」創刊120年
なぜ「明星」はうまれたか? 明治のロマンの豊饒を形象した「明星」……松平盟子
「明星」の意義と対外的評価 一世紀の後……内藤 明
プロデューサー鉄幹の思想とメディア戦略〈星の子〉は「太陽」とたたかうために生まれた……太田 登
与謝野鉄幹と正岡子規 わがままな自我への反感……大辻隆弘
浪漫主義と自然主義とは何だったのか 「明星」における「浪漫主義」と「自然主義」……田口道昭
女うたの夜明けと現在へのつながり 「暗示の、ひらめきだつたのです」……今野寿美
「明星」が輩出した歌人たち
《与謝野晶子》 「身体」と「恋」と「京」……米川千嘉子
《石川啄木》 「血に染めし」から「はたらけど」へ―「明星」と石川啄木……池田 功
《吉井勇、北原白秋》 北原白秋、吉井勇―歌つくりと歌よみと……細川光洋
《森鷗外、上田敏》 「明星」の魂の父と母 森鷗外と上田敏……渡 英子
《山川登美子》 山川登美子―「明星」というるつぼで……古谷 円

「短歌を語る」 尾崎左永子 聞き手:中川佐和子
季節の歌 五月 さいとうなおこ 選
コラム うたの名言……佐佐木幸綱
エッセイ
「みじかすぎるうた」第5回…上野 誠
「かなしみの歌びとたち ―近代の感傷、現代の苦悩―」 第五回 与謝野寛と自然主義…坂井修一
「啄木ごっこ」第19回……松村正直

 

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お目当ては、「特集 「明星」創刊120年」。松平盟子様はじめ、明星研究会の皆さんがご執筆なさっています。

光太郎の本格的な文学活動の出発点となった雑誌『明星』、ということで、光太郎の名も挙げて下さっています。ただ、光太郎はその後、軸足を短歌ではなくしてしまったので、晶子や啄木、吉井勇らと異なり、「「明星」が輩出した歌人たち」の章では、項目とはなっていませんが。

グラビアページは、大阪の「さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館」さん。平成27年(2015)のリニューアルオープンで、当方、旧与謝野晶子記念館の時代には行ったことがありますが、新装後は未踏。いずれそのうち、と思っております。

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それから、「「明星」のビジュアル・デザイン」というグラビアも。

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上記リンクの公式サイトから注文できます。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

裏の山へ植林に行くようなお気持で行つてらつしやい。

雑纂「歓送の辞――永瀬清子の「アジア諸国会議」行に―― 」全文
昭和30年(1955) 光太郎73歳

永瀬清子岡山赤磐出身の女流詩人。光太郎は詩集「諸国の天女」(昭和15年=1940)に序文を書いてやるなどしています。

「アジア諸国会議」は、正確には「アジア諸国民会議」。インドのニューデリーで開催され、植民地主義、原水爆問題など、アジアに共通する問題について意見交換する趣旨だったそうです。永瀬は「詩人」としてではなく、「婦人団体代表」ということでの参加でした。

かつて自らが留学のために洋行してから約半世紀。その頃と比べものにならないほど近くなった「外国」。そういった感覚が「裏の山へ……」という一言に表されているようです。

昨日の続きです。

当方自宅兼事務所から徒歩30分ほどの、香取市佐原地区伝統的建物群保存地区とその周辺。喜多方や川越ほどではありませんが、やはり蔵が目立ちます。

圧巻はこちら。土蔵としてはおそらく日本一の建坪だという、「与倉屋大土蔵」。明治22年(1889)建造です。

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元は酒や醤油の醸造を行っていた際に使われた蔵でしたが、現在はその広さを生かし、コンサートなども開催されています。

平成27年(2015)公開の、東京美術学校西洋画科で光太郎の同級生だった藤田嗣治を主人公とし、光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)が劇中で使われた映画「FOUJITA」のロケがここで行われ、当方、そうとは知らずに映画館のスクリーンにこの蔵が映って驚いた次第です。

他にも味のある蔵がたくさん。

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左上は、夏と秋に行われる「佐原の大祭」(ユネスコ世界無形文化遺産)の山車を収める蔵です。

その他、蔵ではない住宅も何とも言えない趣に溢れています。郷土の偉人・伊能忠敬の旧宅。

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昔の市長さんの家。だいぶ以前には醸造業を営んでいたそうで、店舗の名残が残っていますが。

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このタイルが昔はモダンだったのでしょう。

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こんな家も。実に立派な屋根です。

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伝統的建造物群保存地区内では、新築や改築の際も、昔風の造りにしなければいけないという条例が施行されており、一見、古い家かと思うと新築だったりします。下の画像では新旧入り乱れています。

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そうそう、忘れてはいけないのは、洋館。純日本式家屋とはまた違った魅力があります。

こちらは旧千葉合同銀行佐原支店。昭和4年(1929)の竣工だそうで。一時、昨日ご紹介した蕎麦屋の小堀屋さんの別館として使われていましたが、現在は空き店舗です。

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左下が旧三菱銀行佐原支店。現在、耐震工事中で残念ながらこんな状態です。赤レンガ造り、屋根にドーム。たまりません(笑)。光太郎が詩集『道程』を上梓し、智恵子と結婚披露を行った大正3年(1914)の建築です。

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右上は、やはり赤レンガの建築ですが、何と、浄国寺さんというお寺のお堂です。これはかなり珍しいのではないでしょうか。明治23年(1890)に建てられたそうです。

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それから、個人のお宅。

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こちらも。こうなると擬洋館の扱いでしょうか。

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新築のビルも、やはり条例のために洋館風に。千葉商船さんの本社ビルです。

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そして、こんな建物。

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一見、洋館にしか見えませんが、後ろは純日本風の建築です。

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「看板建築」といい、店の正面だけ看板代わりに モルタルなどで豪華に作ってあるタイプです。上記はもとは家具屋さんでしたが、現在は隣接する「素顔屋(すっぴんや)」さん(こちらも昨日ご紹介しました)が使っています。ちなみにやはり映画「FOUJITA」に登場しています。


他にも完全な看板建築があと2棟。

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「方林堂」と書かれている方は、現役の薬局です。

ここまで、主に建築を紹介して参りましたが、それ以外にも街を歩けばレトロなアイテムがたくさん。

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赤丸ポストは現役です。あえてあちこちに設置しています。

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右上はたばこの看板。

看板といえば、こんなものも。

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昭和後半から平成初め、条例が施行される前に新築してしまった現代風のお店でも、ウインドーに昔のお宝を展示したりしています。「佐原まちぐるみ博物館」ということで、40軒ほどのお店などが加盟しており、新しい建物のお店も参加しているわけです。

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まだまだ紹介すべきスポットがあるのですが、先週歩いたのはこんなところでした。今回紹介しきれなかった分は、また改めまして。

こんなに趣のある、光太郎智恵子が歩いていてもおかしくない(苦しいのですが(笑))街ですが、平成23年(2011)の東日本大震災では大きな被害を受けました。

大動脈の小野川は液状化がひどく、また、瓦屋根の家屋は惨憺たるものでした。古い家屋では、瓦はしっかり固定しない造りになっています。固定すると、大地震の際、遠心力が働いて建物ごと倒壊してしまうため、あえて瓦が落ちるように作ってあるのだそうです。

下記動画、視聴には注意して下さい。3.11の午後2時46分、まさに「その時」のものです。



液状化の方はこちら。



あれから9年、この惨状から、佐原の街並みは復活しました。

そして今、新型コロナという新たな災厄……。しかし、あの大震災から復興を果たせたこの街、そしてまだ復興途上ではありますが、頑張ってきた東北の町々、そして日本全体。決して新型コロナなどには負けない、と信じています。

一丸となって、この災厄を乗り切りましょう!


【折々のことば・光太郎】

ギリシヤ時代のあの色がここにも生きてゐて愉快に思つた。

雑纂「難波田龍起個展「感想帖」より」より 
昭和28年(1953) 光太郎71歳


難波田は、光太郎の影響で美術の道に進み、さらに詩作も行った画家です。かつては駒込林町の光太郎の住居兼アトリエのすぐ裏手に住んでいました。

「ギリシヤ時代のあの色」、「不易と流行」の「不易」の部分ですね。古い街並みにはやはり「不易」の美を感じます。

昨日も書きましたが、このところのイベント等の自粛やら延期やら中止やらで、このブログのネタに困っています。仕方がないことですが、ついでに言うなら講師を仰せつかっていた市民講座等も続々中止、1年以上前から関わっていた展覧会も中止……。医療現場の最前線で闘っている病院関係の方々や、感染の恐怖におびえながらも通常通りに仕事せざるを得ないさまざまな職種の皆さんなどに比べれば、どうということはないだろう、とも思うのですが、やはり困りますね……。

さて、ネタ不足に対する苦肉の策の第二弾として、光太郎智恵子とは直接関係ないのですが、今日は散歩ネタで。先週木曜日でしたか、すこぶる陽気がよかったし、あまりに暇だったので、自宅兼事務所から徒歩30分ほどの旧市街を散歩しました。はじめに断っておきますが、田舎ですので、散歩している分には「密」の状態はあり得ません。さらにその日はどこの店にも寄りませんでした。まぁ、第一、休業している所が多いのですが……。専門家会議等の提言でも散歩はOKということでしたし。

自宅兼事務所のある香取市佐原地区、平成8年(1996)、関東地方で初めて伝統的建造物群保存地区に指定された、古い街並みが残っています。まるで光太郎智恵子が歩いていてもおかしくないような(苦しいのですが)。そこで、コロナ禍が収まったら、皆さんにどんどん観光に来ていただきたく、その参考に、というコンセプトです。

「光太郎智恵子が歩いていてもおかしくない」というか、おそらく昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)のロケも行われています。ただ、確証がありません。パンフレットには同じ千葉県北部の「佐倉」と書かれています。しかし、写真を見るとどうみても「佐原」でして。「佐原」と「佐倉」昔からよく混同されています。

佐原地区、コロナ騒ぎの前は、平日でもバスツアーなどで観光客の皆さんが多く、また、かえって平日の方が、旅番組系、ドラマやCMなどのロケが多かったのですが、さすがに閑散としていました。

少し前に放映されていた、波瑠さんがご出演なさった大同生命さんのCMは佐原で撮られました。 

 

佐原は元々、利根川支流の小野川沿いに、江戸への舟運で栄えた街です。こちらが小野川。水源から河口の利根川との合流地点までのバイアスがあまりないので、流れはゆるやか、それだけに清流、という感じではありません。ただ、川沿いの道は無電柱化が進み、その意味では景観美が確立されています。

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ところどころに古い橋も残っています。

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下の画像は「樋橋(とよはし)」。通称「ジャージャー橋」。元は農業用水を通す橋で、溢れた水が川に落ちていたので、そういう名です。現在は観光用に30分だか1時間だかに一度、機械仕掛けで人為的に落水させています。

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それから石段は「だし」。荷の積みおろしをするための船着き場です。今もあちこちに残っています。

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船宿も昔は結構あったそうですが、昨年あたりに最後の一軒、「木の下旅館」さんも旅館としては廃業、とんかつ屋さんにリノベーション。ただ、建物はそのまま残っています。

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そのあたり、リアルにそういう内容で、昨年、テレビ東京さんの深夜ドラマ「日本ボロ宿紀行」(深川麻衣さん、高橋和也さん主演)で取りあげられました。劇中歌「旅人」のPVは木の下旅館さんに泊まって作成されたという設定でした。

 

また、木の下旅館さんの対岸にある床屋さんもPVに登場。昭和レトロ感あふれる建物です。

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こちらはやはり少し前に放映されていた、故・大杉漣さん、永山絢斗さんご出演のオロナミンCのCMでも使われていました。




そうした舟運も、鉄道の普及と共に衰退。下記は舟運から鉄道への過渡期の遺構。小野川から佐原駅まで数百㍍を繋いでいたベルトコンベヤーの跡です。

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しかし、小野川沿いを中心に、江戸時代からそのまま続いている老舗もかなり健在。

元々この辺り一帯の大地主でもあった、寛政12年(1800)創業の佃煮屋さん「正上」さん。しょっちゅうテレビで取りあげられます。

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左下はお茶屋さんで「大高園」さん、明和2年(1765)創業。右下は天明2年(1782)創業の蕎麦屋の「小堀屋」さん。昆布の粉を練り込んだ真っ黒な蕎麦が名物です。

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江戸時代と同じ製法でごま油を作り続けているという「油茂(あぶも)製油」さん。このお店が現在も営業している中で最も古く、正確な年代は不明ながら350年以上だそうです。

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文化元年(1805)創業の「福新呉服店」さん。

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勝海舟も逗留したことがあるという造り酒屋の「馬場酒造」さん。創業は天保年間、煙突は明治33年(1900)の建造だそうで。

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植田屋荒物店」さん(宝暦9年=1759年~)。「荒物」は、竹や木などの自然素材で作った笊、籠、箒などのエコ商品です。

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左は「虎屋菓子舗」さん(明暦2年=1657~)。和菓子はもちろん、洋菓子も扱っています。右は陶磁器の「紀の国屋」さん。光太郎が生まれる前年の明治15年(1882)に東京から移転してきたそうです。

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これらのお店は、江戸時代や明治期からの老舗ですが、建物はそのままに、異業種に転換したというお店も少なくありません。

和風雑貨の「素顔屋(すっぴんや)」さん。元は家具屋さんでした。当方愛用の傘はここで購入。着物の際にも使える番傘風の洋傘です。

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並木仲之助商店」さん。元は荒物の卸問屋さんでしたが、現在は和紙やお香などを置いています。

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手前はアンティークショップ、奥はフランス料理店「夢時庵(むーじゃん)」さん。

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板前割烹 真亜房(まあぼう)」さん。地産地消にこだわり、ブランド肉の「恋する豚」などを使った料理がおいしいお店です。

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蕎麦屋の「香蕎庵(かきょうあん)」さん。蕎麦とフレンチを融合させ、「トリュフ蕎麦」なども人気だそうで。

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イタリアン、というか、「洋麺屋」と看板に掲げる「ワーズワース」さん。ボリュームたっぷりのパスタが人気です。尖塔のような蔵の形が面白いですね。

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小野川を運行する観光舟めぐりの事務所。

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左下はサツマイモ専門の和菓子屋「さわら十三里屋」さん。十数年前まで新刊書店の「正文堂」さんでした。しばらく空き店舗だったのが、数年前にリノベーション。

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右上が「中村屋商店」さん。元は畳屋だったのが、和風雑貨の店となり、さらに現在はホテル「NIPPONIA」さんのフロント、レストランも兼ねています。

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「NIPPONIA」さんは、古民家や蔵を改装し、宿泊施設としたちょっと変わったホテルです。現在4棟、13部屋。フロントからは徒歩で移動。「商家町全体をホテルに」というコンセプトです。上記の「並木仲之助商店」さんの一部も使われています。

それ以外には、古民家一軒まるごと借りる形の棟。

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豪商の邸宅だった棟。忍び返し的な柵が塀の上に。

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蔵を改装した棟。

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いい感じですよね。

長くなりましたので、続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

すかり秋になつて、栗がさかんに屋根に落ち、毎日栗飯を炊き、昔の目黒の料亭を時々思ひ出します。

雑纂「消息の中から」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居していた時のものです。「目黒の料亭」というのは戦前の話でしょうか。光太郎が歩いた東京の街並みも、上記佐原の街並みと似た感じだったのでは、と思われます。こじつけっぽく苦しいのですが(笑)。

仕方がないことではありますが、これだけイベント等の自粛やら延期やら中止やらが続くと、このブログで取りあげるネタに困ります。

まず、紹介するべきイベントが行われないのでその紹介が書けませんし、それからイベントに行けばレポートが書け、新聞・テレビなどが取り上げて下さればそれも使えるのですが、それもできません。

そこで苦肉の策としまして、「古いもの」を紹介します。

このブログでは、光太郎智恵子、光雲らに関する「新着情報」を中心に紹介しています。例えば新刊書籍、雑誌類は紹介して、版元等のリンクを貼っておけば、ブログを読んで下さった皆さんもお買い求め頂けるわけで。

ところが「古いもの」ですと、入手困難。そういうものを紹介するのも何だかなぁ、と思い、ほとんど取り上げてきませんでした。

しかし、冒頭に書いた通りのネタ不足。背に腹は代えられません(笑)。そこで、しつこいようですが「苦肉の策」。ネタのない時には最近入手した「古いもの」をご紹介します。

ただ、今回は「古くて新しいもの」というべきでしょうか。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』、さらにその補遺として当方がまとめ続けている「光太郎遺珠」に漏れていた、言わば新発見です。しかも、なかなかに驚くべき内容で。

光太郎ブロンズ彫刻の代表作の一つ、「手」(左下の画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです)に関してです。

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右上は、つい先頃入手した大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』(東京市本郷区根津宮永町十八番地 芸術公論社 編輯兼発行人石川勝治)第3巻第1号です。

ここに、「手紙」と題する光太郎の文章が載っていました。以下に全文を転記します。

手紙
 口村君。
 僕の近作の写真を送れといふ君の依頼によつて、素人が撮影したので甚だ不鮮明なものだが、「手」の習作を一枚送ります。此は今年の夏作つたものです。大きさは自然大の一倍半位。鋳金で黒い色に仕上つてゐます。甚だ貧しいものではあるけれども、しかしいい加減な作でないだけの自信はあります。此は自分の左の手ですが、手を作りながらいろんな事を感じました。
 自分の手をじつと見てゐると自分の手が実におそろしい程不思議に思はれました。何だか自分の手でないやうな気がしました。何か大きなものの見えない手が不意に形を現はしたかのやうに感じました。さうして自分の手の美しいのにひどく打たれました。私は自分の手を仮に仏像にある「施無畏」の印相に似た形にしてみました。私は又自分の手の威厳に打たれました。ふだん自分の手にこんな霊光のある事を感じてゐなかつた事に気付きました。私は此をどうかして自分に出来るだけの力で自分の能力一ぱいに再現したいといふ気に駆られたいのです。
 人間の手といふ者は何といふ無駄の無い、必然な者でせう。手のつけ根から五本の指の先に至るまで全く連鎖して寸分の隙もありません。五本の指を見ても人さし指のまつすぐに余り凸凹無しに直立してゐる力や、中指の根強く岩畳なのや、薬指の思慮深く沈黙したやうなのや、小指の愛らしく又敏捷な趣や、それから其四本に対して唯一本で向つてゐる親指の厚ぼつたい、重みのある気魄は全く考へさせられます。手の甲や掌の肉の起伏、骨の隠顕の微妙さも驚くばかりです。そして其の全体を支配する生きものの熱は殆ど神秘を感じさせます。
 こんな事を考へてゐると、自分の習作の「手」が自然の前にあつて如何にも貧しいのを恥かしく思はれてなりません。しかし私の身上は身上です。今日此だけしか出来ないのを無暗と悲しみはしません。今日此だけなら明日は此以上に出来ます。どこまでも出ぬけます。そして出来る限り此の無尽蔵の自然の美を汲みませう。此の手を作りながら私は奈良にある仏達の手の二三を考へ出した事がありますが、日本にもあれ程の真と美とを把握した作家があつたのだといふ事を非常に力強く思ひました。そして静かに、世間の根帯無き動揺の外に立つて、たとひ貧乏に追はれても、一足づゝ確かに歩むより外自分の行く道は無いのを感じました。私の行く道は寂しいけれども、清らかで、恍惚と栄光とに満ちてゐます。濁流の渦巻くやうな文展芸術の波は、私の足の先をも洗ひません。汚せません。此点君は私を喜んで下さる事と信じます。いづれ又後便で。

「口」は「くち」です。四角やカタカナの「ロ」ではありません。したがって、「口村君」は「くちむらくん」でしょう。珍しい苗字のように思われますが、地方によってほそうでもないのでしょうか? 同誌に翻訳「ダビデ王の一世」、随筆「予が創造芸術」の二本の記事を執筆している「口村龍皚」と思われますが、詳しい経歴等不明です。『高村光太郎全集』第21巻所収の山川丙三郎宛書簡二三九〇に、翻訳家・口村佶郎の名が記されていて、あるいは同一人物かと思われますが、不明です。情報をお持ちの方、このブログサイトコメント欄等よりご教示いただければ幸いです。

さて、どうもその口村龍皚に送った手紙そのまま、または多少の換骨奪胎があるかも知れませんが、それにしても大幅に書き換えられていることはないと思われます。

実は彫刻「手」については、光太郎本人が書き残したものは多くありません。そのため、これまで、正確な制作年代すら不明でした。さまざまな状況証拠から、大正7年(1918)だろうと推測は出来ていましたが、確証がありませんでした。そこで、当方も関わった、千葉市美術館さん他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」(平成25年=2013)の図録やキャプションでは、「1918 大正7年頃」となっていました。

それが、この文章により「今年の夏」とあるので、掲載誌の発行された大正8年(1919)1月から逆算し、やはり大正7年(1918)だったことがほぼ断定できることになりました。さすがに一年以上前の手紙を一年以上経ってから掲載するということもあまり考えにくいと思います。そうした例がないわけではありませんが、光太郎の「近作」を紹介するという趣旨での掲載のようですので、おそらく間違いないでしょう。

既知の光太郎の文章等で、「手」に触れていたのは以下くらいのものでした。

今わたくしの部屋に観世音の手が置いてある。施無畏の印相といへばどんなむづかしい、いかめしい印相かと思ふと、それはただ平らかに静かに前の方へ開いた手に過ぎない。平らに開いた手が施無畏である為にはどんな体内の生きた尺度が必要なのか。
(昭和9年=1934 散文「黄瀛詩集「瑞枝」序」より)

あの手は二つ作つたが僕のはロダンの習作と違つて制作なんだ。施無畏印相の手の形を逆にした構想で、東洋的な技法で近代的な感覚を表わした。あの人さし指は真すぐ天をつらぬいているんだ。
(昭和26年=1951 談話筆記「高村光太郎の生活」より)

雅郎 先生の「手」の彫刻はいつ頃ですか。
先生 よほど前です。
太田 先生御自身の手ですか。
先生 そうです。
(昭和27年=1952 座談会筆録「高村先生を囲んで」より)

いずれも制作からかなり年月が経ってのものでした。また、戦後の日記や書簡で、新たに「手」を鋳造することになって、その関係で事務的に触れていますが、それは割愛します。

で、今回見つけた「手紙」は、もろにリアルタイム。制作当時、光太郎がどのように考えていたのか、かなりはっきりしました。今後、「手」について論考等を書かれる方は、これを参考にしていただきたく存じます。というか、これを参考にしなければ「手」を語れませんね。

ただ、気になる点もいくつか。まず「習作」と書いていること。昭和26年(1951)には「ロダンの習作と違つて制作なんだ」と語っているのに、制作当時は「習作」と位置づけていたのか、と。しかし、ブロンズに鋳造しているということは、全くの「習作」というわけでもなさそうですし、「これから先、こういったものをどんどん作るぞ」という意味での「習作」なのかもしれません。実際、おそらくこの後、「腕」、「ピアノを弾く手」、「足」(現存確認できず)など人体パーツをモチーフとした塑造彫刻を制作しています。

ちなみに繰り返し出て来る「施無畏」は、観音像などの右手によく使われる形で、「何も畏(おそ)れることは無い」と諭す印形だそうです。観音像ではありませんが、奈良の大仏様の右手もこの形です。通常、右手で作る印形を左手として作ったので、上記「高村光太郎の生活」では「逆にした構想」と語っているのだと思われます。

ところで、『芸術公論』に載った「手」の写真がこちら。裏焼きなどのミスがないとすれば、小指側から撮った写真のようです。

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元々が光太郎の書いた通り「甚だ不鮮明」だった上に、当時の印刷技術ではこの程度が限界だったのでしょう。もう少し鮮明であれば良かったのですが、しかし、これまた現存が確認できている「手」の最古の写真、ということになるわけで、貴重なものではあります。

この写真についても気になる点が。台座の木彫部分は取り付けられているのかいないのか、何とも不明です。手首のあたりに微妙に写っているようにも見えますが。そのためなのでしょうか、通常、最初の髙村規氏撮影の画像のように立っているべき手が横になっています。このあたり、おそらくこの記事自体に光太郎の検閲は入っていないために起こったことなのかもしれません。

いずれにせよ、なかなかすごい文章が見つかったものだと思います。こういう宝探し的要素があるので、中々やめられません(笑)。

追記 下記もご高覧下さい。

ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-①。

ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-②。

【折々のことば・光太郎】

鎖国政策を望むやうな日本論には私は賛成出来ませんが(私は国民性をもつと強いものに思つてゐます)日本人としての本気な生活を建設することについては同志の一人です。最も熱心な。

雑纂「「胞珠帯」より」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「日本人としての本気な生活を建設すること」。新型コロナ禍の中、こうした点が、今、われわれに問われているような気がします。

平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に漏れている光太郎文筆作品等の紹介である「光太郎遺珠」を連載させていただいている、高村光太郎研究会さん発行の雑誌『高村光太郎研究(41)』。執筆に際しお世話になった方々にお送りしたところ、そのうちのお一人、兵庫ご在住の池田辰彦氏からメールが届きました。光太郎、それから太平洋画会で智恵子とも交流のあった画家・挿絵画家・漫画家、池田永治のご子息です。

お世話になっております。
「高村光太郎研究(41)」をお送りいただきましてありがとうございます。読ませていただきました。
ご逝去後七十年近くなりますが、ご研究のかたはししも分からぬ私にも高村光太郎先生のご功績の大きさと深さが伝わる気持ちがいたします。
お礼を申し上げるのが遅れましてたいへん申し訳ございません。

このたび、WEB版『画家池田永治の記録』を作ってみました。本の中の誤りを直したり、「作品一覧」に引用写真を増やしたりしました。
何の役にも立たぬすさびごとですが、お暇な折にご笑覧ください。


辰彦氏、父君に関するサイト「画家池田永治の記録」を立ち上げられたとのことで、早速拝見してみました。作品(洋画、俳画、漫画、挿絵、商業美術等)、年譜、写真、交流のあった人々からの書簡など、豊富な画像とともに紹介されており、クオリティの高いものです。

「光太郎遺珠」で紹介させていただいた、光太郎揮毫のチョッキ(昭和20年=1945)に関しても大きく取り上げられています。また、太平洋画会で智恵子と共に学んだことも年譜の中に記されています。

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おおむね、昨年刊行された書籍『画家 池田永治の記録―その作品と年譜―』とかぶる内容で、おそらくご出版に際しデータ化したものを使われているのだと思われます。紙媒体の書籍として残すことも大切ですが、ネット上で広く発信することも重要だと、改めて感じました。

当方、辰彦氏への返信メールには、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が折に触れておっしゃっていた「どんなにすばらしい芸術家でも作品でも、放っておいてその業績が自然と残ることはない。次の世代の人々が、その業績を正しく理解し、さらに次の世代へと語り継ぐ努力をしなければ、あっという間に歴史の波に呑み込まれ、忘れ去られてしまう」というお言葉を引かせていただきました。


もう1件、昨日、散歩中にシャンソン系歌手にして、「智恵子抄」などの光太郎詩にオリジナルのメロディーをつけて歌われているモンデンモモさんから、スマホにショートメール。

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youtubeに動画を上げた、ということでしたので、こちらも早速拝見。




第1弾は光太郎智恵子に関係ない歌でしたが、今後、「智恵子抄」系もアップされるそうで。

こうした音楽も、CD等に残すことも大切ですが、やはりネット上で広く発信することも重要だと、改めて感じました。

当ブログサイトもそうした考えのもと、今後も継続していくつもりで居りますので、よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

著者は曾て印象派を讃美した。今は通過した。

雑纂『印象主義の思想と芸術』初版序」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

『印象主義の思想と芸術』は、光太郎初の評論集として出版されました。マネ、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ドガ、セザンヌらについて詳述しています。

光太郎自身も明治末から大正初めにかけては油絵をかなり描きましたが、どちらかというとポスト・インプレッショニズム(「後期印象派」と訳されますが、「後期」というより「後継」です)的なフォービズムの影響を受けているようです。

新型コロナの影響で、関連行事や集いは中止となりましたが、昨日は光太郎の盟友・碌山荻原守衛の第110回碌山忌でした。

守衛の故郷・信州松本平地区の地方紙『市民タイムス』さん、昨日の一面コラムです

みすず野 2020.04.22

いまから110年前に、30歳5カ月の短い生涯を終えた彫刻家・荻原碌山。しかし、彼は力の限り生きて、いくつかの傑作を残した。現在の安曇野市穂高の碌山美術館で、その作品群に接することができる。中でも絶作「女」には、彼の人生のすべてが込められているとされる◆いまだ見る私たちに、さまざまな思念や解釈を呼び起こす。同美術館学芸員の武井敏さんが昨年、冊子『荻原守衛の《女》』を刊行し、実際にモデルを務めた岡田みどりという女性と、碌山が穂高時代に出会い、ずっと恋い焦がれた相馬黒光(新宿中村屋を創業した相馬愛蔵の妻)の顔写真を並べて掲載、考察した◆ことしに入り、ドイツ文学者で、松本歯科大学元教授の山下利昭さん(安曇野市)は、脚本『私の碌山劇場』を出版し、碌山の苦悩の生涯を描きながら「女」に迫った。碌山にこう言わせている。「しかし、段々と、『母』の姿が重なってきたのです。前に伸ばした手が、いつか後ろに廻って、子供を背負っているのです」◆これほど想像力をかきたてる彫刻作品がほかにあるだろうか。碌山のくめども尽きぬ魅力と言えよう。きょうが碌山忌。

例年ですと、碌山美術館さんにおいて、地元の方々による音楽演奏等や、研究発表・講演などが行われ、夜は「碌山を偲ぶ会」が行われ、光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)を参会者全員で朗読しているはずでした。

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110年という節目の年でもあっただけに、残念です。

光太郎ゆかりの人物を偲ぶ集い、ということになりますと、例年、7月に福島県川内村で開催されている「天山祭り」。当会の祖・草野心平がその祭りを愛し、心平歿後は新兵を偲ぶ集いとしての要素も組み込まれています。やはり今年で55回目という節目の年でしたが、こちらも早々に中止が決定しています。

このままダラダラと感染が続くと、懸念されている医療崩壊はもちろん、日本中で何の催しも出来なくなってしまうのではないかと、ぞっとしています。封じ込めのためには、とにかく出歩かないことなのでしょうか……。


【折々のことば・光太郎】

其の意気をうれしく思ひました。井戸は掘り抜かねばなりません。

雑纂「「同情録」より」全文 大正2年(1913) 光太郎31歳

雑誌『第三帝国』第二号に載った短文です。創刊号の巻頭言「……故に吾人は帝国主義に反対す、故に吾人は個性中心主義を主張す」を受けてのもの。光太郎自身も詩集『道程』後期の詩篇で、個の鍛冶を打ち出していた時期でもあります。

新型コロナの封じ込め、これもまた「井戸を掘り抜」くような、地道な努力の積み重ねなのかも知れません。

 新型コロナ禍の影響が続く中、外出自粛の要請のため、運動不足に陥っている方も多いのでは、と思われます。当方は、元々在宅ワークが多く、さらに自宅兼事務所周辺は田舎ですので人混みもなく、愛犬の散歩をこれまで通りに朝夕1時間弱くらいずつ行っており、それほどライフスタイルに変化もありませんが。

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そんな中、智恵子の故郷・二本松市さんのサイトに、先週、以下の案内が出ました。 

手軽にできる体操をご紹介します 筋力低下予防やこころのリフレッシュを行いましょう

新型コロナウイルス感染防止による不要不急の外出を避けることで、運動不足やストレスの蓄積が心配されます。そこで、動画を見ながら行える体操をご紹介します。からだを動かすことで、上手に気分転換を行いましょう。

ほんとの空体操
「二本松市民の歌」に合わせた健康体操です。主にストレッチ要素のほか肩甲骨まわりを動かし、肩こりの予防や姿勢全体を整えるのに効果があります。





いきいき百歳体操
介護予防を目的とした筋力アップ体操です。主に高齢者向けに開発されましたが、重りをつけることで若い方の筋力アップの効果も期待できます。




「いきいき百歳体操」は、高知発祥だそうですが、厚労省の後押しで、全国に広まっているようです。

光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を冠した「ほんとの空体操」の方は、二本松市オリジナル。作られたのは平成27年(2015)。翌年には『広報にほんまつ』に図解入りで紹介され、市役所職員の皆さんは朝礼で実施、などと報道されました(今でもこの風習は続いているのでしょうか?)

それがここに来て、予期せぬ新型コロナによる外出自粛要請にともない、市のサイトであらためて紹介されたというわけですね。

実際に動画を見ながらやってみましたが、「体操」というよりはストレッチに近いのかな、という感じです。元々が「健康な高齢者を対象に」ということでしたので、過酷な動きは取り入れられていないようです。デスクワーク等で長時間同じ姿勢をとり続けた後などにいいかな、という気はしました。最後の決めのポーズで「ほんとの空」を仰ぐのが肝のようです(笑)。

「いきいき百歳体操」の方が、「百歳」といいながら、きつい動きが入っています(笑)。まぁ、「百歳をめざすために」ということなのでしょうが。

というわけで、運動不足を感じられている皆様、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

願はくは、故国の山水、とこしなへに清からむことを。

雑纂「高村豊周『赤城山旅行記』あとがき」より
 明治39年(1906) 光太郎24歳

『赤城山旅行記』は、光太郎実弟にして、のちに家督相続を放棄した光太郎に代わって高村家を嗣いだ豊周が、十日余りの日程で赤城山を訪れた際の紀行文です。のちに鋳金分野の人間国宝となる豊周は当時数え17歳。原稿用紙40枚に旅行記をしたため、ニューヨーク在の光太郎に送り、光太郎が朱を入れ、このあとがきを添えて日本に返送しました。

「とこしなへ」は「永遠」。赤城山は留学前に光太郎もたびたび遊んだ山で、遠い異国にあって、なつかしい故国の山水を偲ぶ心境が垣間見えます。

智恵子にとってのソウルマウンテンは、「ほんとの空」の広がる安達太良山。光太郎にとっては赤城山だったのでしょう。

一昨日の『しんぶん赤旗』さんの日曜版。「たび」という連載で、福島二本松の智恵子生家とその周辺が大きく紹介されました。

たび ほんとの空がある 智001恵子の生家 福島・ 二本松

 福島二本松(にほんまつ)市を訪れました。市内油井(ゆい)の旧奥州街道沿いに、彫刻家・詩人の高村光太郎(1883~1956)の妻であり、詩集『智恵子抄』で知られる高村智恵子の生家と記念館があります。
 智恵子は福島県安達(あだち)郡油井村の大きな造り酒屋の長女として生まれ、油井小、福島高女を経て東京の日本女子大学に進学。生家の表玄関には屋号の「米屋」と酒の銘柄「花霞(はながすみ)」の看板が掲げられ、軒には新酒の醸成を伝える杉玉が下がっています。「昭和4(1929)年に長沼家が破産し人手に渡った家屋や土地を、平成初めに旧安達町が買収し、明治初期の建物を修復・保存しました」と市教育委員会文化課・池田高広さん。
 智恵子が愛聴したベートーベンの「田園」が流れる屋内は、1・2階合わせて18間もある重厚な町屋造りです。智恵子の居室は2階の2間でした。智恵子が実際に使っていた琴や蓄音機、はた織り機もあります。
 日本女子大在学中に油絵を描き始めた智恵子は卒業後、太平洋画会研究所に通い、洋画家を目指しました。光太郎と出会ったのもこのころです。
 記念館展示で特に目をひくのは、智恵子が描いた油絵「花(ヒヤシンス)」「静物」、デッサン画「男性裸像」「ミロのビーナス像」です。智恵子が統合失調症を発症し、東京のゼームス坂病院に入院したのは1935年。38年に  同病院で肺結核で死去するまで、千数百点の紙絵を制作しました。記念館は実物24点を所蔵。「通常は複製の展示ですが、春と秋期間限定で実物を10点ずつ展示します」と池田さん。
 記念館の脇道から石段を上り稲荷八幡神社へ。境内に「熊野大神」と刻まれた石碑があります。毛筆の才もあった智恵子が書いた文字です。さらに智恵子と光太郎お気に入りの散策路だった鞍石山(くらいしやま)山頂への道を登りました。一帯は「智恵子の杜公園」です。
 西に標高1700㍍の安達太良山(あだたらやま)、南に阿武隈(あぶくま)川を望む高台があります。「あれが阿多多羅山(あたたらやま)/あの光るのが阿武隈川」。光太郎の詩「樹下の二人」の舞台になった場所です。帰郷するたびに智恵子を癒やしたのが、安達太良山の上に広がる空でした。
 二本松駅前の老舗うなぎ屋で「ランチうな丼」を食べ、安達太良山麓の岳(だけ)温泉に1泊しました。
 ツルシカズヒオ
おことわり 新型コロナウイルス感染拡大防止のために、各地で外出自粛が呼びかけられています。本欄は「緊急事態宣言」発令前に取材したものです。


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同紙では、よく智恵子の生家周辺を紹介して下さっています。平成30年(2018)6月17日には「山の季 ほんとの空」という題名で、安達太良山。同年9月30日には同じ「たび」の連載で「智恵子の生家と「ほんとの空」」。それぞれ大きな記事でした。

少し前にも書きましたが、新型コロナの影響で、なかなか「ぜひ足をお運び下さい」とは書けないのですが、いずれ騒ぎが終息した後、「ぜひ足をお運び下さい」。


【折々のことば・光太郎】

凡そ何事に限らず随所随時之を筆録し置かざれば年と共に忘却する事あるを免れず。よし忘却する事なしとするも其楽ミや己れ一個人に局して他人に感ぜしむる事あたはず。されば心ある人にして日常の所見所感を筆にのこし置かざる者ある事無し。

雑纂「『大原海岸』あとがき」より 明治38年(1905) 光太郎23歳

『大原海岸』は、母・わかと弟・豊周、同じく孟彦、妹・よしの4人が房州大原(いすみ市)を旅行した際、光太郎が弟妹に命じて紀行文を書かせ、製本したものです。

要するに「日々の記録をとっておくと、備忘のために良いし、たとえ自分が忘れなくても、他人がそれを読めばその時々の感懐が共有できる」ということですね。

もうすぐこのブログも9年目に突入します。そこで、当方も時折上記のようなことを考えます。

新刊情報です。 2020年4月10日 日本近代文学館編 勉誠出版 定価2,800円+税

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文豪たちが愛した東京!

夏目漱石、森鷗外、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、泉鏡花…。
日本を代表する文豪たちは、東京のどこに住み、どんな生活を送っていたのか。
彼ら・彼女らの生活の場、創作の源泉としての東京を浮かびあがらせる。東京を舞台とした作品の紹介のほか、古写真やイラスト、新聞・雑誌の記事や地図など当時の貴重な資料と、原稿や挿絵、文豪たちの愛用品まで100枚を超える写真も掲載。現在につながる、文豪たちの生きた東京を探す。
都内にある8箇所の文学館ガイドも掲載! アクセス方法、代表的な収蔵品など、写真付きで紹介。


目次

 刊行にあたって 坂上弘
 はじめに―東京文学を歩く  池内輝雄

 生活を支えた本郷菊坂の質店―樋口一葉と伊勢屋  山崎一穎
 千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎  小林幸夫
 漱石作品における「東京」の位置―「山の手」と「下町」の視点から  中島国彦
 女性たちの東京―泉鏡花と永井荷風  持田叙子
 近代医学へのまなざし―斎藤茂吉と青山脳病院  小泉博明
 作家たちの避暑地―芥川龍之介の軽井沢体験など  池内輝雄
 伏字の話から始まって―弴・万太郎・瀧太郎  武藤康史
 林芙美子の東京―雌伏期の雑司ヶ谷、道玄坂、白山上南天堂喫茶部  江種満子
 遊び、働き、住むところ―川端康成・佐多稲子たち、それぞれの浅草  宮内淳子


[文学館記念館紹介]
 一葉記念館/武者小路実篤記念館/田端文士村記念館/世田谷文学館/太宰治文学サロン/
 森鷗外記念館/漱石山房記念館/日本近代文学館



平成25年(2013)と同28年(2016)、駒場の日本近代文学館さんを会場に、同館主宰で開催された文学講座「資料は語る―資料で読む東京文学誌」を元にしているようです。

光太郎に関しては、上智大学教授・小林幸夫氏による「千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎」。平成25年(2013)に開催された講座の第1回、「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」の内容をさらにふくらませているものでした。

中心になるのは、小林氏が『日本近代文学館年誌―資料探索 第10号』(平成27年=2015)にも書かれていた、「軍服着せれば鷗外だ」事件。事件そのものは大正6年(1917)ですが、のちに昭和に入ってから、光太郎が川路柳虹との対談で、詳細を語っています。

川路 いつか高村さんが先生のことを皮肉つて「立ちん坊にサーベルをさせばみんな森鷗外になる」といつたといふので、とてもおこつて居られたことがありましたなあ。(笑声)
高村 いやあれは僕がしやべつたのでも書いたのでもないんですよ。
川路 僕も先生に、まさか高村さんが……と言ふと、先生は「いや、わしは雑誌に書いてあるのをたしかに見た」とそれは大変な権幕でしたよ。(笑声)
高村 あとで僕もその記事を見ましてね、あれは「新潮」か何かのゴシツプ欄でしたよ。或は僕のことだから酔つぱらつた序に、先生の事をカルカチユアルにしやべつたかも知れない。それを聞いてゐる連中が(多分中村武羅夫さんぢやないかと思ふんだが)あんなゴシツプにしちやつたんでせう。それで先生には手紙であやまつたり、御宅へあがつて弁解したりしたのですが、何しろ先生のあの調子で「いや君はかねてわしに対して文句があるのぢやらう」といふわけでしかりつけられました。(笑)
(「鷗外先生の思出」昭和13年=1938)

「立ちん坊」は、急な坂の下で重そうな荷車を待ちかまえ、押してやってお金をもらう商売です。「軍服」云々は鷗外の言から引きましょう。

高村光太郎君がいつか「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」と書いたことがあるやうだ。
(「観潮楼閑話」 大正6年=1917)

それで怒った鷗外が、光太郎を呼びつけたというわけです。さすがにボコボコにはしませんでしたが(笑)。数ある光太郎の笑えるエピソードの中でも、これはかなりランキング上位です(笑)。

これを紹介する小林氏の本論考書き出しの部分もまた、笑えます。

高村光太郎は走った、と思われる。自宅からの道を団子坂に向って。何故か。その坂の上にひとりの高名な文学者が住んでいて、怒っていたからである。その文学者とは森鷗外。

どうも権威的なものには反抗しないと気が済まない我らが光太郎(笑)、東京美術学校在学中の明治31年(1898)、美学の講師として美校の教壇に立った軍医総監の鷗外にも、だいぶ反発を感じていたようで、それがすべての大元になったようです。

しかし、反発するだけでなく、鷗外が顧問格だった『スバル』では中心メンバーの一人となりましたし、明治43年(1910)、神田淡路町に光太郎が開いた画廊の店名は、鷗外の訳書から採った「琅玕洞」。鷗外は鷗外で、裏で手を回して光太郎の徴兵を免除してやったりもしています。

何とも不思議な、二人の関係です。

『ビジュアル資料でたどる 文豪たちの東京』、他に帝塚山学院大学教授・宮内淳子氏による「遊び、働き、住むところ―川端康成・佐多稲子たち、それぞれの浅草」でも、光太郎に触れられています。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

一、国史眼、史記、八犬伝等。
二、物語もの、万葉集、八代集等。
三、ロダン、ホヰツトマン、ヹルハアラン等。
四、ベルグソン、ロマン・ロラン、ヷレリイ等。
五、座右に書籍乏しく、手当たり次第。
六、聖書、仏典、ロダン等。

アンケート「私の愛読書」全文 昭和24年(1949) 光太郎67歳

設問は以下の通り。

一、二十歳以前(少年時代)には
二、二十代(青年時代)には
三、三十代には
四、四十代には
五、現在は
六、各年代を通じての座右の書は


こうして見ると、光太郎という人物を構成した要素がかなりの部分、表されているような気がします。





テレビ放映情報です。

にっぽん百名山選「安達太良山」

NHK BSプレミアム 2020年4月20日(月)19時30分~20時00分
         再放送 4月27(月)
12時30分~13時00分

3月、雪の残る福島・安達太良山(1700m)で、ウサギやリスなど春を待つ生き物の息吹に触れ、山のいで湯を堪能。さらに「霧氷」など雪山ならではの風景に出会う。

雪山の初級コースとして人気の福島・安達太良山(1700m)。早春3月、出発はあだたら高原スキー場の登山口から。雪の残る森を進み、鳥の巣作り、ウサギの足跡、リスの食べかすなどを次々と発見。山小屋で一泊し、源泉かけ流しの温泉と満天の星空を楽しむ。山頂までの斜面では雪山ならではの風景である霧氷を堪能。山頂からは磐梯山、吾妻連峰など東北の名峰を望む。また雪山で温泉の通り道を守る人々の営みを紹介する。


出演 五十嵐潤   語り 鈴木麻里子 高塚正也

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「選」とあるとおり、再放送です。初回放映は一昨年。昨年も再放送がありました。

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番組冒頭近くで、光太郎智恵子について触れて下さいます。

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ただ、光太郎智恵子がらみはここだけで、後は山岳ガイド・五十嵐潤さんのナビゲートによる1泊2日の行程が紹介されていきます。そのあたりの映像も非常に美しく感じました。

新型コロナの影響で、テレビ番組も新たな収録が大幅に減、だそうです。それでもこうした財産が各局に残っているわけですから、いいものはどんどん再放送していただきたいところです。わがままを言わせていただければ、特に光太郎智恵子に関するものを(笑)。

ところで、安達太良山といえば、山開き。昨年は一念発起、標高1,700㍍の山頂まで行って参りました。といっても、途中までロープウェイでしたが。新型コロナの影響で、今年はどうなるのだろうと思っていましたが、とりあえず今のところ予告されています。今年は5月17日(日)だそうで。

ただ、ことによるとやはり中止になるかも知れません。また詳しい情報が入りましたらお知らせします。


【折々のことば・光太郎】

体操の美には殊に感心した。人体の力の比例均衡を存分に満喫して満足した。無理のない運動の流暢さが如何に鍛錬された力の賜であるかを見た。

アンケート「「美の祭典」を観る」より 昭和15年(1940)  光太郎58歳

美の祭典」はベルリンオリンピックの記録映画です。日本での公開は4年後の昭和15年(1940)でした。光太郎、スポーツを観るにも彫刻家の眼ですね。

ご存じの通り、今年予定されていた東京オリンピックも延期。アスリートの皆さんには、くさらずに頑張ってほしいものです。

まずは残念なお知らせから……。

過日、ご紹介しました富山県水墨美術館さんで5月22日(金)から開催予定だった「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」が、新型コロナの影響で中止となりました。

まあ、ある程度は予想していましたので、驚きはしませんでしたが、やはり残念です。美術館さんとしても断腸の思いだと存じます(「中止で当然だろう」と簡単に片付けないで下さい)。あらためて開催するかどうか、未定だとのことです。ぜひこの騒ぎが終息したのち、仕切り直しで開催していただきたいものです。

2021/3/26追記 「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

緊急事態宣言が全国対象となり、ほとんどの美術館さん、文学館さんなどが既に休館となっていたり、これからなったりということになるのでしょう。本当に早く、元に復してほしいものです。

そんな中、やはり休館中の花巻高村光太郎記念館さんで、女性職員の方々が中心となって作られたグッズをいただきました。

まず、「光太郎の食卓カレンダー」。A5サイズ(開くとA4サイズ)の冊子型壁掛けタイプです。今月から来年3月まで、つまりは令和2年度としてのカレンダーになっています。

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『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんに連載中の、「光太郎レシピ」で使われた写真を元に、巻末には簡略な解説も。

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それから、手作りの布製マスク。

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添えられたカードに引用されているのは、昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲の際、自らの危険を顧みず、負傷者の看護に当たった当時の総合花巻病院の医師や看護師たちの奮闘をたたえ、終戦直後に行われたその表彰式で光太郎自らが朗読した「非常の時」の一節です。

   非常の時

 非常の時
 人安きをすてて人を救ふは難いかな。002
 非常の時 
 人危きを冒して人を護るは貴いかな。
 非常の時
 身の安きと危きと両つながら忘じて
 ただ為すべきを為すは美しいかな。
 非常の時
 人かくの如きを行ふに堪ふるは
 偏に非常ならざるもの内にありて
 人をしてかくの如きを行はしむるならざらんや。
 大なるかな、
 常時胸臆の裡にかくれたるもの。
 さかんなるかな、
 人心機微の間に潜みたるもの。
 其日爆撃と銃撃との数刻は004
 忽ち血と肉と骨との巷を現じて
 岩手花巻の町為めに傾く。
 病院の窓ことごとく破れ、
 銃丸飛んで病舎を貫く。
 この時従容として血と肉と骨とを運び
 この時自若として病める者を護るは
 神にあらざるわれらが隣人、
 場を守つて動ぜざる職員の諸士なり。
 神にあらずして神に近きは
 職責人をしておのれを忘れしむるなり。
 われこれをきいて襟を正し、
 人間時に清く、
 弱
ものき亦時に限りなく強きを思ひ、
 内にかくれたるものの高きを
 凝然としてただ仰ぎ見るなり。


今年はやはり中止となってしまいましたが、毎年5月15日に行われている花巻高村祭では、花巻高等看護学校さんの生徒さんが、この詩を必ず朗読なさっています。画像、上は花巻病院さんの古絵葉書、下は過去の高村祭です。

カードにある「3.11震災のとき、多くのボランティアの共感を呼びました」というのは存じませんでした。なるほど、そう言われてみればそういう内容ですね。そして、今、まさに最前線で新型コロナと闘われている医療関係の皆さんに、この詩を贈りたく存じます。

このカレンダーとマスク、5月14日(木)と翌日、盛岡と花巻で開催予定だった市民講座(講師は当方の予定でした)の際にセットで販売予定だったものだそうです。ところがやはり新型コロナのために講座は延期となり、品物が余ってしまっているとのこと。花巻市内で必要な方に譲られているそうですが。

そこで、「当会ブログサイトやフェイスブックで呼び掛けますから、ネット販売的にやってみてはいかがですか」と提案しました。そこで協議していただいたところ、マスクそのものはネット販売だとトラブルの元になるかもしれないということで、「カレンダーのみ」、「カレンダーとマスク型紙・素材(手ぬぐい)のセット」で注文を受けることにしたそうです。

詳細は以下の通りになります。

光太郎の食卓カレンダー 001

1冊 500円(送料込み)
2冊以上6冊まで 一冊分300円+送料180円
  (例:4冊……300円×4+180円=1,380円)

代金は郵便切手可



 

カレンダーとマスク型紙・素材(手ぬぐい)のセット

1セット 1,500円(送料込み) 手ぬぐい1枚からマスク4枚制作可 代金は郵便切手可

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申し込み方法

 品名、数量、送付先郵便番号、住所、氏名、電話番号を明記の上、代金(郵便切手可)を以下まで。

 〒025-0037 岩手県花巻市太田3-85-1 花巻高村光太郎記念館内 記念館物販担当 井形様宛

申し込み期限
 2020年5月15日(金)まで または、カレンダー、手ぬぐいの在庫(各100)がなくなり次第終了します。


お問合せ先 Eメールアドレス
 
kotarocafe30@gmail.com     花巻高村光太郎記念館内 井形様  まで


ふるって(ふるわなくても結構ですが(笑))お申し込み下さい。


【折々のことば・光太郎】

然し、光に面してゐる人のみが光を求めてゐる人達だと断言することはいけない。社会の闇の面に対し、それを正視しつゝ苦しんでゐる人達も光を求め、闇を貫いて光を求めてゐるのだと云ふことは忘れてはならない。

アンケート「闇を貫く光」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

この後の部分には、「真つ暗な不遇の境遇の真中で胸の中の小さな光を消されまいと、雄々しく闘つてゐる者もゐる」という一節もあります。

新型コロナ、最前線で身を削って闘われている医療関係の皆さん、休業や自粛で収入が激減し不安を抱える皆さん、休みたくても休めず仕事を続けるしかない皆さん、そして罹患して重症となり苦しい思いをされている皆さん、それを支える家族や周りの皆さん、あきらめることなく、闘いましょう。

最後に光太郎はこう結んでいます。「要は「光」への信仰を失はなければ、如何なる闇に向ふとも、否向ふ程、その人の光は浄く明るく輝くのだと思ふ。

定期購読しております日本古書通信社さん発行の『日本古書通信』今月号が届きました。

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同誌編集長の樽見博氏による「感謝 北川太一さん」が掲載されています。今年1月に逝去された、当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼記事的な。

同誌と北川先生は因縁浅からぬものがありました。先生の玉稿が紙面を飾ったこともしばしば。当方が同誌を定期購読するようになってからのものですと、以下がありました。

「高村光太郎凝視五十年(上)ガリ版「高村光太郎年譜」作製まで」平成11年(1999) 12月号
「      〃        (中) 全集の編纂」       平成12年(2000) 1月号
「      〃        (下) 次の時代へ」                     〃      2月号
「さらば東京古書会館」      平成13年(2001) 10月号
「無知の罪を知った『展望』」   平成17年(2005) 4月号
「『連翹忌五十年――挨拶の解説――』 平成18年(2006) 5月号
「『古書通信』の六十年」       平成24年(2012) 11月号  


このうち、「さらば東京古書会館」、「無知の罪を知った『展望』」、「『古書通信』の六十年」は、平成27年(2015)に文治堂書店さんから刊行された、北川先生の著作集『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』に転載されています。

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それから、平成6年(1994)には、同社から当時刊行されていた「こつう豆本」シリーズの一冊として『光太郎凝視』がラインナップに入りました。「こつう」は『日本古書通信』の略称「古通」、「豆本」ですので、実際にてのひらにおさまるサイズで、10㌢×7.5㌢です。内容的には既刊の書籍に発表されたものの転載ですが、「あとがき」は書き下ろし。改めて読んでみますと、樽見氏に触れられていました。こうした関係もあって、樽見氏、1月のお通夜にご参列下さいました。

樽見氏、追悼文の中で、北川先生のご著書『愛語集』に触れられています。こちらは平成11年(1999)、先生が都立向丘高校さんに勤務されていた頃の教え子の皆さん、北斗会さんの発行です。

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布装角背の上製本で、扉にはおそらく北川先生がご趣味で取り組まれていた版画。それを表紙では二分割して空押しに使っています。

内容的には、北川先生の「座右の銘」ともいうべき、先人のさまざまな言葉とその解説等。見開き2頁ずつ、右頁には先生のペン書き、左頁が解説等となっています。

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もちろん光太郎智恵子の「言葉」も収録されていますが、それは少なく、他に聖書や仏典、ゲーテ、ロダン、白居易、柳宗悦、尾崎喜八、立原道造、はては民謡など、その幅は実に広く設定されています。

先生のお人柄そのままのような、柔らかな、味わい深いペン字、そして選び抜かれた言葉の数々。樽見氏、数ある先生のご著書の中から、これを特に取り上げるあたり、「なるほど」と思わされました。

限定300部の非売品でしたので、今となってはなかなか入手困難だろうと思いましたが、東京都古書籍商業協同組合さんのサイト「日本の古本屋」で、昨日の段階で2冊、出ていました。早い者勝ちです(笑)、ぜひどうぞ。

また、『日本古書通信』さんは、日本古書通信社さんのサイトから注文可能です。


【折々のことば・光太郎】

不幸にして一つもありません、出版所が註文通りに造りません。

アンケート「装幀について」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

設問は「既刊御自著中、装幀のお気に入つた本」。昭和10年(1935)の時点では、訳書や共著を含め、光太郎の著書は10数冊。しかし、どれもこれも光太郎のお眼鏡にはかなわなかったようです。当時の日本に於ける印刷や造本の技術の問題もあったような気もしますが……。

その点、上記『愛語集』などを手がけられた北斗会さんは、会長の小川氏が特殊印刷の会社を経営されていた関係で、他の北川先生のご著書を含め、美しい装幀、造本ばかりです。

信州安曇野の碌山美術館さんから、館報の第40号が届きました。

年刊で、毎号50頁ほどのかなりのボリュームで、「館報」と言うより「研究紀要」と言った方がしっくりくるようなものです。

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毎号のように光太郎の名がどこかしらに出て来る感じですが、今号では、「昭和三十六年 皇太子ご夫妻の碌山美術館訪問」という記事の中に。

「皇太子ご夫妻」というのは、現在の上皇ご夫妻です。昨年6月のブログにちらっと書きましたが、昭和36年(1961)、開館して3年あまりの碌山美術館さんに、当時の皇太子殿下と美智子さまがご訪問された際の16ミリフィルムが見つかり、NHKさんでデジタル化、7月には上映会が開かれたそうで、そのあたりのレポートを兼ねています。

その中で、同館開館に尽力した彫刻家の笹村草家人によるご夫妻へのレクチャーが収録されていて、光太郎の名が。

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当然ながらロダン、それから、光太郎の師・与謝野寛・晶子夫妻にも触れられています。

その他、ご夫妻が熱心に見学されたり、時に鋭いご質問をされたりといったご様子がレポートされています。

それから、今年度の同館の予定表。

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ただし、印刷工程の都合上、間に合わなかったのでしょう。4月22日(水)に予定されていた碌山忌の集いは中止、さらに現在の予定では4月24日(金)まで臨時休館だそうです。

ところで、最も驚いたのは、前館長の五十嵐久雄氏がお亡くなりになっていたということ。存じませんでした……。

五十嵐氏は、連翹忌にご参加下さったこともありますし、当方が協力させていただいた平成28年(2016)の「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の際に館長さんで、大変お世話になりました。

その後、体調を崩され、館長職を辞されたとは伺っていましたが、亡くなっていたとは存じませんで……。最後にお会いしたのが一昨年の同館開館60周年記念行事の折でした。その際は車椅子で鼻には酸素吸入のチューブという状態でしたが、必ずや恢復なさると信じていたのですが……。

五十嵐氏の前任だった所賛太氏による追悼文が掲載されており、胸を打たれました。

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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

何んでもござれ。但し日本酒はそこらでうつかり飲まず。

アンケート「酒」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

この部分の設問は「現在愛飲されて居る酒の名は何ですか」。後にはビール党になる光太郎ですが、この頃はまだ「何んでもござれ」だったのですね。ただ、日本酒に関しては好みの銘柄かそうでないかがはっきりしていたようです。

今月初めの『福島民友』さんの記事です。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語が。

免許返納者に「反射缶」県内初 二本松交対協、夜間事故防止へ

 春の全国交通安全運動(6~15日)を000前に、二本松地区交通対策連絡協議会は1日、運転免許証を自主返納した二本松市の高齢者に対し、「運転者卒業記念」として夜光反射材のグッズを詰めた缶詰「反射缶」の配布を始めた。反射材の着用を促し、夜間の高齢歩行者の事故防止につなげる。二本松署によると、反射缶の配布は県内で初めて。

 同署によると、各種啓発活動で夜光反射材を配布したが、着用が進んでいない。自分の物と意識する「保有効果」により着用率を高めようと、同署は反射材を詰めた「ガチャガチャ」を交通課窓口に設置している。

 反射缶も同様の考えに基づき配布する。缶には、伸縮するたすきや靴用のシール、キーホルダーと、同市の「ほんとの空」をイメージした青いリストバンド型の反射材を詰めた。300個を用意。同署で免許証を返納した市民に贈る。

 「出るなら昼間!夜なら光れ☆」がキャッチフレーズで、配布時には、夜間の不要不急な外出を控えるよう助言し、外出時には反射材を着用するよう促す。

 配布第1号となったのは同市下長折の男性(74)。脳梗塞で右半身が少し不自由になり、中学1年になる孫から「じいちゃんの運転は怖いから乗らない」と言われ、50年以上取得した免許を返納した。佐藤祐一交通課長から反射缶を贈られ「反射材を着けて事故に遭わないようにしたい」と話した。

 同市の免許返納は年々増え、昨年は前年より70件多い225人が返納した。

こんなところでも「ほんとの空」、と、微笑ましく思いました。

当方自宅兼事務所の近辺もかなりの田舎ですので、自家用車は必需品です。また、東北や中部地方などの光太郎智恵子ゆかりの地に行く際も、公共交通機関を使うより安かったり便利だったりもします。

しかし、やはり、永久に運転もできないでしょう。いずれ返納することとなる時、車が無くても困らない世の中になっていて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

多くの場合、本郷通松屋製青色 二十字詰

アンケート「文房用品――ペン・インク・原稿用紙――」より
 昭和9年(1934) 光太郎52歳

文藝春秋社発行の雑誌『文芸通信』に載ったアンケート回答、愛用の原稿用紙についてです。

「松屋」は、光太郎が生まれた翌年、明治17年(1884)創業の紙製品店。光太郎以外にも、夏目漱石や芥川龍之介らがその原稿用紙を愛用していました。昭和30年(1955)まで存続していたそうです。

光太郎は、詩稿に限れば大正11年(1922)~昭和15年(1940)頃、確かに松屋製のものがほとんどでした。それ以前は銀座伊東屋製、それ以後、戦時中までは出版社・道統社のロゴが入ったもの(中央部分には「高村光太郎」と印刷されています)を主に使っていました。戦後はさすがに物資が不足、原稿用紙もあまり統一されることなく、いろいろな用紙を使っています。

こちらは「ほんとの空」の語の初出、「あどけない話」。

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こちらも松屋製です。

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先週の『神戸新聞』さんの一面コラム「正平調」。光太郎と、当会の祖・草野心平について触れて下さいました。

正平調2020・4・10

詩人の草野心平さんは東京で居酒屋を開いていた。品書きがしゃれている。「悪魔のこまぎれ」は酢だこのこと。スープは「白夜」で、ウイスキーは「炎」。さすがは言葉遊びの名手◆生活を支えるために始め、なじみの客には高村光太郎や佐藤春夫らがいたというが、商いとしては実際のところどうだったか。4年で閉じた店の名は「火の車」である◆作家の山口瞳さんがサントリーの社員だったころ、「バー調査」なる仕事があった。著書に書いている。夜ごと酒場に足を運んで客のふりをし、1時間でトリスは何杯売れたか、ソーダは何本…と数えたそうだ◆トリスが1杯30円の店もあった時代で、会社から500円をもらい一晩に3軒まわる。ぐびりとのどを鳴らす音が聞こえそうだが、仕事となれば苦労も多かったとか。いずれにせよ、景気のいい話には違いない◆酒場に限らず、いま町のお店で調査をすれば、聞こえてくるのは火の車の悲鳴と損失補償を求める声、声、声だろう。外出自粛の要請で客が来ない。といって店を閉めれば収入の道は途絶える。どうすりゃいい◆政府はしかし、個別の休業補償には後ろ向きという。みなが額に汗して働き、まじめに税金を納めてきたのはこういうときのためではなかったのかい。

新型コロナに伴う居酒屋等への休業要請→損失補償無し→火の車。なるほど。

概して地方紙さんは「忖度」の必要性があまりないようで、政権に対しての手厳しい論調が目立ちます。全国の52新聞社さんと共同通信さんのニュースを束ねた地方紙連合「47NEWS」のサイトには、こんな論評も。おそらく、いくつかの地方紙さんには紙面にも載ったのではないでしょうか。

いったい何だったのか「緊急事態宣言」対策失敗でも責任取るつもりない安倍首相

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、安倍晋三首相が7日に発令した緊急事態宣言。本来なら大きな局面転換のはずである。だが、結果として宣言の発令後も多くの人々が出勤などのために外出し、多くの店も営業を続けざるを得ない状況になっている。それどころか、宣言から3日を経た現在も、休業補償を要請する店舗や施設などの範囲すら分からない。「決められない政治」も極まれりである。(ジャーナリスト=尾中香尚里)

 ▽国民の痛み和らげる「補償」を否定
 緊急事態宣言とは一体何だったのか。そんな疑問がわいてくる。
 感染拡大の防止に向け、本気で国民の行動変容が必要だと首相がいうなら、まず「十分な補償によって国民の生活を守りきる」ことをしっかりと示した上で、外出自粛や休業を要請しなければならなかった。ところが首相のしたことは、逆に国会質疑や記者会見で「補償を行わない」方針を明確に伝えることだった。
 これで国民の行動変容を促せるわけがない。それどころか、このままでは感染拡大を抑えられないまま、いらだつ首相がさらなる強制力を求めて憲法改正など「不要不急」の政治案件に傾き、コロナ対策がさらに置き去りにされる、という最悪の展開になりかねない。
 今回の緊急事態宣言は、憲法改正のテーマに挙げられる「緊急事態条項」とは全く異なり、現行の日本国憲法による制約を受けている。その発令は、首相が国民に一方的に何かを求めるだけのものであってはならない。宣言発令の最大の意義は、感染拡大を食い止めるため「全ての責任を持つ」と、首相が国民に誓うことだ。
 痛みを伴う協力を国民に求めなければならない。しかし、その痛みを可能な限り和らげる責任は、自らが引き受ける。首相はそのことを誠心誠意、全身全霊をかけて国民に訴えなければならなかった。
 痛みを和らげるために最低限必要なのが「補償」である。補償によって将来への安心感が得られれば、さまざまな私権制限に対する国民の協力が得やすくなり、感染拡大の防止につながるはずだ。
 ところが、安倍首相は宣言発令に先立つ7日の衆参の議院運営委員会の質疑で、「民間事業者や個人の個別の損失を直接補償することは現実的ではない」と答弁した。むしろ「補償を行わない」メッセージを強く打ち出してしまったのだ。

▽「感染症対策」=「経済対策」なのか?
 与野党問わず多くの質問者が補償について尋ねたが、答弁は毎回、見事に同じ表現。官僚の答弁書をただ読んでいるだけだった。補償が難しいなら難しいなりに、多少なりとも苦渋をにじませる表現や表情の一つもあればまだ良かったのだが、全く無機質な答弁が、壊れたテープレコーダーのように繰り返された。
 ここで問題にしたいのは、補償を否定したこと自体ではない。その「理由」である。答弁で首相はこう言っていた。
 「直接の自粛要請の対象となっていない分野においても、売り上げや発注の減によって甚大な影響が生じていることも勘案すると、政府としてさまざまな事業活動のなかで発生する民間事業者や個人の方々の個別の損失を直接補償することは現実的でない」
 この答弁からうかがえるのは、首相は「休業補償」を「経済への悪影響を防ぐための対策」と考えており、「感染症対策」として見ていない、ということだ。
 「経済対策」と「感染症対策」は明確に違う。東京電力福島第1原発事故で「原子力緊急事態宣言」を発令した経験を持つ菅直人元首相が、8日のブログでその点を指摘している。以下に引用したい。
 「例えば夜、国民が盛り場で酒を飲むことをやめさせるためには、国民に『店に行かないように』と訴えるより、店自身に一時休業してもらう方がより確実です。こうした店に、休業に伴う減収分の補償をしっかりと約束した上で休業を要請すれば、店側も安心して従うはずです。
 総理は7日の国会質疑で『民間事業者や個人の方々の個別の損失を直接補償することは現実的ではない』と繰り返し答弁しました。理由は、経済的な影響は休業を直接要請する店だけでなく、そこに材料を卸している業者にも及ぶため、店だけを休業補償することはできない、ということのようです。
 しかし、実際に人と人が接触する場所はお店です。お店に休業してもらえば、人と人の接触は確実に減り、感染を減らすことができるはずです。補償はそのために行うべきなのです」

▽居酒屋に休業要請と補償が必要な理由
 首相は感染拡大の防止に向け「人と人との接触を8割削減する」必要があることを訴えた。そんなことを国民の努力だけに求めても無理だ。まず国として「人と人とが接触する場をできるだけ作らせない」ことに全力を挙げなければならない。例えば国民に「飲み会を避けてほしい」のなら、国民に「飲み会はやめて」と言うだけでなく、国として「飲み会を行う場所をふさぐ」ために、居酒屋に一時休業を求めるべきなのだ。
 もしそうなれば、それは居酒屋に対する大きな私権制限である。居酒屋の経営は壊滅的な打撃を受ける。だから、首相は十分に言葉を尽くして居酒屋側に休業への協力を求めつつ、同時に十分な補償を約束し、居酒屋が自発的に休業に協力しやすい状況をつくることが肝要なのだ。休業を求める期間をできる限り短くし、その間に感染拡大を抑止できるよう最大限の力を尽くすことは言うまでもない。
 居酒屋への休業補償が「経済対策」ではなく「感染症対策」であること、すなわち「人と人との接触の場をふさぎ、感染拡大を防ぐ」という目的を達成するために補償が必要なのだ、ということを明確に理解していれば、「(居酒屋の)関連業界に補償しないこととの不公平さ」を気にした答弁は出てこないだろう。
 もちろん、苦境に立つ関連業界を救うための経済対策は、別途行うべきだ。しかし、あの首相答弁は、政権が施策の目的とその優先順位を理解できていないことを露呈したという点で、大きな不安を抱かせるものだった。
 この問題に限らないが、首相は結局、今回のコロナ問題を経済問題としか考えていない気がしてならない。発想の起点がいちいち「国民の生命と健康を守る」ことではなく「景気の悪化を防ぐ」ことにあるのだ。
 だから、事業規模108兆円の緊急経済対策にコロナ収束後の観光やイベントのキャンペーン費用が盛り込まれ、その総額が国民への現金給付の規模より大きかったり、「お魚券」「お肉券」などの消費喚起策が取り沙汰されたりする。
 そう言えば、西村康稔経済再生担当相は8日、緊急事態宣言の対象7都府県知事とのテレビ会議で「休業要請の2週間程度見送り」を打診したとの報道も流れた。この件については菅義偉官房長官が9日の記者会見で「そうした事実は承知していない」と否定したが、こうした報道が流れること自体、政権がコロナ対策を「景気対策」と考えていることの証左と言えるし、政府の発信の混乱は「政権の意思決定過程がどうなっているのか」という別の不安を抱かせる。ただでさえ不安な多くの業者を、さらに混乱に陥れている。
 こんなことで、首相がうたう「2週間後には感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせる」ことが、本当にできるのか。極めて心許ない。

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 ▽この有事に、憲法改正の活発な議論?
 今懸念しているのは、こうした政権の対応のまずさによって、結果として感染拡大を防げなかった時、首相がどういう態度に出るかである。
 安倍政権がコロナ問題でこんなにも腰の引けた対応しかできないのであれば、おそらく2週間で感染拡大を食い止めるのは難しいだろう。政治決断によってこれだけ国民に多くの負担を強いておいて、感染拡大防止に失敗したのであれば、当然政治責任を負うべきはずである。だが、安倍首相は7日の記者会見で「私が責任を取ればいいというものではない」と言い放った。
 この発言だけでも衝撃的だったが、筆者が危機感を抱くのはその後である。首相が自らの政治責任を取ることなく、その座に居座った後に「緊急事態宣言には罰則規定がないから国民の外出を止められなかった」などと言って、自分たちの無策による結果を法律に転嫁し、それを改憲によるさらなる「強権」獲得への理由付けにしかねない、ということだ。
 その兆候はすでにある。記者会見に先立つ衆院議院運営委員会。安倍首相は、憲法改正による緊急事態条項の導入について質問した日本維新の会の遠藤敬氏に対し「新型コロナウイルス感染症への対応も踏まえつつ、国会の憲法審査会の場で、与野党の枠を超えた活発な議論を期待したい」と答えたのだ。
 少なくともこうしたことは、感染拡大を防ぐために「もうこれ以上の手はない」と自他ともに認めるだけのあらゆる手立てを尽くすまで、どんなことがあっても決して口にすべきではない。そもそも憲法改正といった大きなテーマの議論は、最低でも「平時」に行うべきことだ。自ら緊急事態宣言を出しているような「有事」の今、どさくさに紛れて議論すべきことでは決してない。
 今は新型コロナウイルスの感染拡大防止に全力を注ぐべき時だ。緊急事態宣言を含め、現行法で政権が現在手にしている「道具」を十分に使い切って、あらゆる対策を行うべき時だ。それをしないうちに「道具が悪い」としてさらに強力な「武器」を求めるのは、単に政権の能力不足を棚に上げているだけだ。そのことを強く自覚してほしい。


いかが思われますか?


【折々のことば・光太郎】

いろいろありますが、その一例 トルストイ著 人生読本

アンケート「家庭教育によいよみもの」全文 昭和7年(1932) 光太郎50歳

トルストイの『人生読本』は、明治20年(1887)の刊行。おそらく光太郎が読んだのは、昭和3年(1928)の八住利夫訳(春秋社)だと思われます。

アンケートに回答した昭和7年(1932)といえば、7月には智恵子が睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂も起こしました。アンケート自体は3月に発表されていますので、その少し前ですが、前年頃から智恵子の心の病は誰の目にも明らかになっており、光太郎、「人生」について色々考えるところがあったのかもしれません。

隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第18号。創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。今号は「チーズとふきのとう入り茶碗蒸し」だそうで。

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「茶碗蒸しにチーズを入れるか?」という感覚でしたが、実際、光太郎の日記(昭和21年4月3日)にそう書いてあり、意外でした。上記画像、クリックすると拡大表示されます。ちなみに今回の撮影場所は光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)の囲炉裏ばたですね。

当方、チーズもふきのとうなどの山菜も大好きですので、これは是非食べたいと思いましたが、愚妻がチーズを苦手としており、頼んでも作ってくれないでしょう(笑)。自分で自分の分だけ作るというのも何ですし……(笑)。

他に今号は「特集 花」だそうで、花巻市内いろいろな場所で撮影された花の画像がてんこ盛りです。

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都会の片隅にひっそり咲く花もいいのでしょうが、やはり花は広々とした自然の中に置いてこそ、という気がしました。

例年であれば、「ぜひ見に行きましょう」的な呼びかけをここに書くところですが、今年はそうも行きません。

昨日現在、岩手県は47都道府県で唯一、新型コロナの感染報告がありません。『産経新聞』さんのサイトにこんな記事が出ていました。 

「普段通りの春」感染者ゼロの岩手 マスク売れ残るスーパーも、にぎわう回転ずし店

 日本国内で新型コロナウイルスの感染者が増加する中、全国の都道府県で唯一「感染確認ゼロ」が続く人口約123万人の岩手県。6日には学校の新学期が始まり、通学路に子供たちの笑顔も戻った。県内では首都圏や関西圏に比べ、マスク姿もまだまだ少ない。県庁にも「なぜ岩手はゼロなのか?」との疑問が寄せられているという。「移動する人口が少ない」「まじめな県民性で手洗いを守っている」などの声もあるが、隣接する青森、宮城、秋田の3県は感染者が2ケタ台だけに、それだけでは説明がつかない。県民の暮らしぶりは-。
 「普通通りの春を迎えている」。盛岡市近郊に住む主婦(39)は、新型コロナウイルスの感染拡大が続く中での生活ぶりをこう語った。

 3月中はほとんど休みだった中学生の子供2人は、一斉休校が続く首都圏や関西圏とは違い、4月6日に新学期が始まると毎朝、学校に通っている。授業も通常通り夕方まで行われ、部活動でも何の制限もなく練習をこなしているという。

 大型スーパーでもドラッグストアでもマスクは品薄状態が続くが、街ではマスクをしていない人を多く見かける。3月中旬に一度だけトイレットペーパーの買い占めも起きたが、それ以降は普通に買えるようにもなり、特に困ったことはない。ほかの食料品の品ぞろえも豊富で、レジでも前の人や後ろの人と間隔をあけて並ぶこともない。

 「そもそも、住んでいる地域では(感染リスクが高まる密閉、密集、密接という)『3密』の場所や機会がほとんどない」(主婦)。岩手県の面積は47都道府県中、北海道に次いで2位と広く、1平方キロメートル当たりの人口密度の小ささは83・8人とやはり2位。「3密」があるのは「ボウリング場やカラオケのような娯楽施設か居酒屋、スナックぐらい」という。

 それでも、気になることがある。最近、地元のテレビ番組で首都圏から夜行バスで若者たちが帰省してきたというニュースが報じられたからだ。「頼むから、今の時期、コロナ疎開だけがやめてほしい」と眉をひそめた。

 県内で複数の店舗を展開しているスーパーの男性社員(46)によると、新幹線の駅近くや幹線道路の国道4号沿いにある店舗ではマスクがすぐに売り切れてしまうが、それ以外の店舗では1日ではけないこともしばしばあるという。

 「地元では(新型コロナウイルスの感染拡大を)まだまだ対岸の火事で見ている」と打ち明ける。

 土日になれば、国道沿いの回転ずし店の駐車場はいっぱいになり、家族連れでにぎわう。東京都内の飲食店で閑古鳥が鳴いているのに比べて「緊迫感や危機感が薄いことを物語る光景」と話す一方、「地元の人々は、岩手が日本一の『田舎』であることが証明された、と自虐的に言っている」と苦笑する。

 ただ、ご多分に漏れず高齢化が進む岩手では持病を抱える高齢者と一緒に3世代、4世代が暮らす大家族や高齢者のみの家も多く、こうした世帯の危機感は強い。男性社員は「感染者が出るのは時間の問題だと思う。高齢者が多い地区は特に心配だ」と語った。

 日本での感染拡大は、春節の時期に中国から多くの観光客が来日したのが引き金になったとの分析がある。

 岩手の場合、北海道や宮城県などに比べて台湾からの観光客が多い。台北から花巻空港への直行便もあり、台湾総督府民政長官として台湾の発展に貢献した後藤新平の記念館(奥州市)などが人気スポットだ。「中国本土からの観光客が他県に比べ少なかったからこそ、1、2月に感染が広がらなかったのではないか」との声がある。

 県庁には現在、「なぜ感染者ゼロなのか」という問い合わせが県内外から相次いでいるという。県外からの場合、そこには「特別な対策があるのではないか」というニュアンスが含まれており、ある県幹部は「東京まで新幹線の往復が3万円以上で、おいそれと遊びには行けない。まじめな県民性で手洗いを励行しているからだと思う」と分析する。

 ただ、県民が問い合わせる理由は異なる。「PCR検査の実施件数が少ないのが理由ではないのか」というのだ。

 事実、感染の有無を調べるPCR検査は10日現在で136件と全国最少。最後まで「感染者ゼロ」を争った鳥取県、島根県の対人口比検査実施件数と比べてもそれぞれ5分の1、5分の2程度に過ぎず、いずれも感染者数が2ケタ台の宮城県(660件)、秋田県(491件)、青森県(313件)の実施件数と比べても各段に少ない。

 「単に検査体制が十分に整備されていないからではないか」という疑念はある意味もっともにも見えるが、岩手県側は「必要な検査は行っている」と真っ向から否定する。

 今月7日に東京都や大阪府など7都府県に緊急事態宣言が出された直後、県は対象地域への往来自粛を呼びかけた。このまま感染者ゼロが維持されるに越したことはないが、いったん感染者が出れば、一気に拡大した時のリスクは都市部の比ではない。関係者は注意深く動向を見守っている。

どうもそう単純な話ではなさそうですが、まさしく「感染者ゼロが維持されるに越したことはない」わけで、そうなってほしいものです。

そのための対策の一環として、各種イベント等の中止は、やはり岩手県でも行われています。印刷等の関係でしょう、『マチココ』さんには予告の案内が出てしまっていますが、例年5月15日に、光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)敷地内で開催されている「高村祭」、今年は中止だそうです。その前日と、当日、盛岡と花巻で、それぞれ当方が講師を務める市民講座が予定されていましたが、それも中止。花巻高村光太郎記念館さんなども休館中だそうです。致し方ないでしょう。

毎日のように書いていますが、早くこの騒ぎが終息、収束することを祈念するばかりです。


【折々のことば・光太郎】

現代新興美術の立場より見て、古美術を否定すべきいはれ更に無し。

アンケート「古美術と現代美術」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

アンケート全体としては、いわゆる「温故知新」の精神を説いています。

 映画監督の大林宣彦さんの訃報が出ました。

『スポーツニッポン』さんの記事から。

映画監督の大林宣彦さんが肺がんで死002去 82歳 「転校生」など“尾道三部作”

 「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」の“尾道三部作”などで知られる映画監督の大林宣彦さんが10日夜、肺がんのため死去した。82歳。広島県出身。葬儀・告別式は家族葬を行い、後日お別れの会を開く。

 2016年に肺がんの宣告を受けていたが、闘病しながら撮影した「花筐 HANAGATAMI」は17年12月に公開。昨年11月には東京国際映画祭で特別功労賞を受賞。遺作となった「海辺の映画館―キネマの玉手箱」はくしくも大林さんが亡くなった10日が公開初日となる予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期となっていた。

 1938年(昭和13)1月9日生まれ。CMディレクターを経て、77年「HOUSE」で商業映画監督デビュー。その後「ねらわれた学園」「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」などを発表。92年「青春デンデケデケデケ」で日本アカデミー賞優秀監督賞。98年「SADA 戯作・阿部定の生涯」でベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞受賞。2004年に紫綬褒章、09年に旭日小綬章を受章。


大林監督、平成10年(1998)、日本テレビ系列で放映された「知ってるつもり?!」の「高村智恵子」の回にゲスト出演されました。

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司会は関口宏さん、千野志麻アナウンサー。大林監督以外のゲストは、舞台で智恵子役を演じられた女優の有馬稲子さん、智恵子に関するご著書のある沖縄国際大学教授の黒澤亜里子さん、俳人の黛まどかさん、俳優の榎木孝明さんでした。大林監督、要所要所で的確なコメントをなさっていました。

もう1点。『スポニチ』さんの記事にもある最新作「海辺の映画館―キネマの玉手箱」。昨年からこの映画には注目しておりました。というのは、戦時中の移動演劇隊「桜隊」が描かれると知ったからです。

 


「桜隊」は国威発揚を目的にした移動演劇隊。丸山定夫という俳優がリーダーでした。当時、国策にそぐわない劇団は解散させられ、わずかにこうした活動のみが許されていました。そして、「桜隊」は、慰問に訪れていた広島で被爆、リーダーの丸山は重傷を負い、終戦の翌日、息を引き取りました。最後の言葉は「やっと自由に芝居ができる」だったそうです。


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この「桜隊」を映画で描くにあたり、大林監督、昨夏には病をおして広島平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に手を合わせられたとのこと。

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くわしくは、NHKさんのサイトに載っています。

「桜隊」のリーダーだった丸山定夫は、それ以外に、ラジオ放送での翼賛詩の朗読にもかなり出演していました。光太郎の作品も複数、丸山の朗読でオンエアされています。

国会図書館さんのデジタルデータでは、「最低にして最高の道」が聴けます。詩が作られたのは昭和15年(1940)ですが、ラジオ放送は昭和17年(1942)4月が初回放送で、その後、繰り返し流されました。おそらく初回放送を録音してレコードにし、使い廻したのだと思われます。

また、こうした戦時中の放送等に関する研究成果である、坪井秀人氏著『声の祝祭 日本近代詩と戦争』(平成9年=1997 名古屋大学出版会)の付録CDには、やはり丸山の朗読による「必死の時」が収録されています。こちらもラジオ放送のためのもので、詩の制作、放送とも昭和17年(1942)でした。

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「桜隊」の追悼法要が、毎年8月6日、目黒の五百羅漢寺さんで開催されています。大林監督、やはり昨年、そちらにも参列なさったそうです。

五百羅漢寺さんといえば、当方、平成29年(2017)に開催された「第2回らかん仏教文化講座 近代彫刻としての仏像」(講師:小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員・藤井明氏)を拝聴するために伺いました。レポートはこちら。現地に行くまで「桜隊」ゆかりのお寺さんだと存じませんで、講堂的な建物の展示スペースに「桜隊」に関する資料も並んでいるのを観て、驚きました。

映画「海辺の映画館―キネマの玉手箱」では、丸山の役を窪塚俊介さんが演じられます。公式サイトのキャスト欄には、その窪塚さんと並んで、当会会友・渡辺えりさん。丸山と絡む役どころなのでしょうか。


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そういえば、えりさんのお父様は、戦時中、中島飛行機(現・SUBARU)の武蔵野工場で働いていらして、丸山も朗読した光太郎の「必死の時」をそらんじることで、空襲の恐怖におびえる気持をまぎらわせたそうです。上記予告編動画のトップに「“平和への思い”に賛同し豪華キャストが集結!」とありますが、おそらくそんな関係でえりさんもご出演の運びとなったような気がします。そのうちに訊いてみます。

ところで「海辺の映画館―キネマの玉手箱」、新型コロナの影響で、4月10日(金)予定の封切りがまだ為されていません。いつも書いていますが、この騒ぎが早く収束することを祈ります。

何はともあれ、大林監督のご冥福、謹んでお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

マルセル・マルチネ、ロマン・ロラン、又ピエル・ルヴエルヂなど。

アンケート「この人この本」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

アンケートの設問は「会つてみたい人」。「ピエル・ルヴエルヂ」は、現代では「ピエール・ルヴェルディ」と表記します。三人とも、フランスの人道派的な文学者です。

そうした人物たちに会ってみたいと書いていた光太郎が、10年後には「必死の時」……。つくづく時代の流れとは恐ろしいものです。




新刊、というか、旧刊のバージョンアップです。

孤独なる彫刻 造形への道標(みちしるべ)

2020年4月1日 柳原義達著 アルテヴァン発行 定価1,300円+税

舟越保武、佐藤忠良とともに戦後の日本具象彫刻を代表する彫刻家・柳原義達。2020年4月18日から平塚市美術館、同年6月14日から足利市立美術館にて柳原の業績を顕彰する「柳原義達展」が開催されるのにあわせ、生前、優れた美術批評家として知られた柳原のロダンやブールデル、ヘンリー・ムーア、ジャコメッティ、高村光太郎論に加え、自身の制作への思いなどを綴ったエッセイ集。一歩すすんだ彫刻鑑賞の楽しみ方に触れることのできる1冊。ジャコメッティのモデルをつとめた矢内原伊作との対談も特別収載。

目次005

 オーギュスト・ロダン
 アントワーヌ・ブールデル
 ヘンリー・ムーア
 アルベルト・ジャコメッティ
 マリーニ、ファッチーニ、グレコ
 エミリオ・グレコ
 ジャコモ・マンズー
 マリノ・マリーニ
 高村光太郎
 土方定一
 パリ=ローマ24時間
 鳩によせて
 カラス
 孤独なる彫刻
 戦後の私の彫刻観
 私と彫刻

 無題(『読売・現代彫刻10人展』図録より)
 生命の動勢《ブーシェ》
 孤独な芸術家・舟越
 孤独に生きる
 心の安らぎ大和

 対談 柳原義達 vs. 矢内原伊作
   「宇宙の中のバランス 存在するものの位置」
柳原義達年譜/出典一覧/刊行にあたって

著者の柳原義達は、明治43年(1910)生まれの彫刻家。東京美術学校彫刻科に学び、昭和33年(1958)、栄えある第一回高村光太郎賞(造型部門)を受賞しました。平成16年(2004)に歿しています。

元版は昭和60年(1985)に筑摩書房さんから刊行された『孤独なる彫刻 柳原義達美術論集』。上記目次の「Ⅰ」の部分がそれにあたり、「Ⅱ」以降が増補されているようです。

美校在学中から影響を受けていたという光太郎について、「Ⅰ」に「高村光太郎」の項を設定して論じている他、ロダンの項、「私と彫刻」の項などで光太郎に触れています。

意外だったのは、「私と彫刻」中の、光太郎との交流について書かれた箇所。『高村光太郎全集』には、柳原の名が出てこないため、当方、これまで光太郎と柳原は直接の交流が無かったものと思い込んでいました。しかし、さにあらず。昭和13年(1938)頃、柳原が自作の彫刻「仔山羊」を光太郎に見せたところ、これで頒布会をやったらいい、とアドヴァイスを受けたというのです。さらにそのための推薦文も書いてもらったとのこと。当然、この推薦文は『高村光太郎全集』に載っていません。

本書巻末の年譜は略年譜で、そのあたりの記述がありません。そこで、気になって調べたところ、三重県立美術館さんのサイトに柳原の詳細な年譜が載っており、昭和14年(1939)の出来事として、「4月 第14回国画会展に《山羊》を出品し、国画会賞を受賞する。高村光太郎の勧めでこの作品の頒布会をおこなう。」とありました。ということは、光太郎の「推薦文」も活字になったのではないかと思われます。

光太郎のこういうケースは意外と多く、同じ昭和14年(1939)には、南洋パラオに暮らした彫刻家・杉浦佐助の個展に推薦文を書いていますし、前後して水野葉舟(書)や高田博厚、難波田龍起の作品頒布会や個展にも推薦文を寄せています。その他、宅野田夫、松原友規、片岡環といった、現代ではほとんど忘れられかけている(失礼かもしれませんが)といった造形作家たちの頒布会等の推薦文も手がけています。

というわけで、柳原の頒布会のパンフレット的なもの、ぜひとも見つけようと思いました。で、いきなり人に頼るのも何ですが(笑)、情報をお持ちの方、ブログコメント欄、フェイスブックtwitter(始めました)等からお知らせいただければ幸いです。

ちなみに柳原は「高村先生の詩的推薦文は出来上がり、美しい字は、私の心をとらえた」と記しています。「「詩的推薦文」、どんなものだろう?」と気になって仕方ありません(笑)。


【折々のことば・光太郎】

午後、夜、暇あれば散歩す。散歩といふよりも疾歩に近し。心神整調によしと思ふ。

アンケート「散歩と寸言」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

当方も毎日、愛犬と共に朝夕1時間弱くらいずつ散歩しています。田舎ですから人混みもなく、相棒はもう16歳の老犬ですのでゆっくりとです。歩きながらいろいろ考えると、意外と良さげなアイディアが浮かんだりで、原稿を頼まれたりした場合、歩きながら頭の中で半分は出来上がる、といった感じです。

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昨日、高村光太郎研究会発行の年刊誌『高村光太郎研究(41)』についてご紹介しました。

今日は同誌の連載として持たせていただいている「光太郎遺珠」について。こちらは当方のライフワークでして、平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に漏れている光太郎文筆作品等の紹介です。

面白いものが多数見つかりました。

まず、評論「教育圏外から観た現時の小学校」。大正5年(1916)、『初等教育雑誌 小学校』に掲載された長いもので、手本を丸写しにさせる図画教育のありかたを徹底批判したり、子供特有の物体の捉え方(キュビスム的な)を尊重すべしといった論が展開されたりしています。面白いのは、駒込林町の光太郎住居兼アトリエの石段をめぐるエピソード。近所の子供達の格好の遊び場となっていたそうで、さすがに泥がおちて困るので「遊んだら掃除してくれ」的な張り紙と箒を用意したところ、こまっしゃくれたガキが「これは、ここで遊ぶなという意味なんだ」と、曲解したそうです。このようなひねくれた裏読みをする子供を育てる学校教育はけしからん、だそうで(笑)。

こちらは国会図書館さんのデジタルデータに新たにアップされたもので、同データの日進月歩ぶりもありがたいかぎりです。

それから、昭和20年(1945)の終戦直後、盛岡で開催された「物を聴く会」の談話筆記。これまで、そういう会があったことは知られていましたが、どんな話をしたのかは不明でした。それが地方紙『新岩手日報』に掲載されていたのを見つけました。終戦直後、花巻郊外太田村の山小屋に移る直前の光太郎の心境がよくわかります。


談話筆記としては、他に昭和28年(1953)、芸術院会員に推されたのを辞退した際のもの、同年、東京中野から一時的に花巻郊外旧太田村に帰ったときのものなど、それぞれ短いものですが、節目節目の重要な時期のものです。


また散文に戻りますが、戦時中のものも2篇。こちらはやはり「痛い」内容で……。

昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争開戦の日に予定されていた、大政翼賛会第二回中央協力会議での提案の骨子、「工場に“美”を吹込め」。こちらはまだ前向きな提言ではありますが、敗色濃厚となった昭和19年(1944)の「母」になると、いけません。「まことに母の尊さはかぎり知れない。母の愛こそ一切の子たるものの故巣(ふるす)である。」、と、まあ、このあたりは首肯できますが、「されば皇国の人の子は皇国の母のまことの愛によつて皇国の民たる道を無言の中にしつけられる。」となると、「何だかなぁ」という感じですね……。もっとも、翌年に書かれた「皇国日本の母」という既知の散文では「死ねと教へる皇国日本の母の愛の深淵は世界に無比な美の極である」とまで書いていて、それに較べれば、まだしもですが……。

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書簡類も多数。昨年から今年の初めにかけ、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎からの手紙」に出品された、当時中学生だった女性からの「ファンレター」への返信(昭和25年=1950)、亡くなる6日前の、現在確認できている光太郎最後の書簡(ただし代筆ですが)など。

さらに短句揮毫。昨年このブログでご紹介した、智恵子とも旧知の画家・漫画家、池田永治に贈った「美もつともつよし」。昭和20年(1945)5月14日、疎開のため花巻に発つ前日、おそらく池田の着ていたチョッキの背に書いたものです。また、昭和27年(1952)、盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)の卒業式に際して揮毫した色紙。「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」。このあたりは、書作品としても貴重なものです。

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他にもいろいろありますが、割愛します。

こちらの載った『高村光太郎研究(41)』、頒価1,000円です。ご入用の方、仲介は致しますので、ブログコメント欄からご連絡下さい。非表示設定も可能です。

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【折々のことば・光太郎】

思ひ出せばいろいろの場合にさう感じたことが沢山ありますが、初めてアメリカに渡つて苦学してゐる頃、時たま母から届いたカナクギ流の手紙ほど私の心を慰め、勇気を出させてくれたものはありません。

アンケート「カナクギ流の母の手紙――私がほんたうに有り難く思つたこと――」より  昭和6年(1931) 光太郎49歳


光太郎の母・わかは、大正14年(1925)、数え69歳で歿しました。わかは、決して光太郎に「死ねと教へる」ような「皇国の母」ではなかったはずだと思います。

当方も加入しております高村光太郎研究会発行の、機関誌的な年刊誌『高村光太郎研究』の41号が届きました。

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内容的には上記画像の通りですが、一応、文字に起こします。

高村光太郎が彫刻や詩の中に見つけた「生命(いのち)」とは―画竜点睛、造型に命が宿るとき― 北川光彦
高村光太郎の書について「普遍と寛容」 菊地雪渓
光太郎遺珠⑮ 令和元年 小山弘明
高村光太郎没後年譜 平成31年1月~令和元年12月  〃
高村光太郎文献目録 平成31年1月~令和元年12月 野末明
研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき  〃

北川氏、菊地氏の稿は、昨秋開催された第64回高村光太郎研究会でのご発表を元にされたもの。

北川氏は、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご子息で、ご本業は理系の技術者です。そうした観点から、光太郎の「生命」に対する捉え方が、芸術的な要素のみにとどまらず、科学、哲学、宗教的見地といった様々な背景を包摂するものであるといった内容となっています。いわば彫刻、詩、書など、総合的芸術家であった光太郎のバックボーン、「思想家」としての光太郎に光を当てるといった意味合いもあるように感じました。

菊地氏は、昨年の「東京書作展」で大賞にあたる内閣総理大臣賞を受賞なさったりしていらっしゃる書家。光太郎詩文も多く書かれている方です。図版を多用し、光太郎書の特徴を的確に論じられています。光太郎の書はこれまでも高い評価を得ていますが、ただ「味がある」とかではなく、どこがどういいのか、それが技法的な面からも詳細に語られ、眼を開かれる思いでした。当方、富山県水墨美術館さんで開催予定の企画展「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に関わらせていただいているため、特に興味深く拝読しました。

拙稿2本のうち、「光太郎遺珠」は当方のライフワーク。平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に漏れている光太郎文筆作品等の紹介です。詳細は長くなりますので、明日、紹介します。「没後年譜」は、このブログで昨年末に「回顧2019年」として4回にわたってまとめたのを骨子としています。

研究会主宰の野末氏による、「文献目録」はこの1年間に刊行された書籍、雑誌等の紹介、「研究会記録」は昨秋の第64回高村光太郎研究会に関わります。

頒価1,000円です。ご入用の方、仲介は致しますので、ブログコメント欄からご連絡下さい。非表示設定も可能です。


【折々のことば・光太郎】

小生は歌を日本ソネツトと目してゐます。従つてその形式を尊重します。

アンケート「新年に当り歌壇に与ふる言葉」より
 昭和6年(1931) 光太郎49歳

「歌」は短歌です。「ソネツト」は「ソネット」、14行で書かれる欧州の伝統的定型詩です。短歌でも独特の秀作をかなり残した光太郎。古臭いものとして排除しなかった裏には、こうした考えがありました。

新刊情報です。

荻原碌山伝記小説 我がいのち「女」へ

2020年4月22日 田丸めぐみ著 一兎舎 定価1,800円+税

彫刻家荻原碌山没後110年記念

あなたは荻原碌山こと荻原守衛をご存じですか? 彼の絶作の「女」を見たことがありますか? 彼が30歳5か月、本気で、命を懸けて生きて、芸術を全うしたことを知っていますか? 芸術とはいったい何なのか? この本で、その答えを見つけてみませんか?


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著者の田丸様(4月2日(木)開催予定だった第64回連翹忌にいらしていただけるはずでした)から一冊、ご進呈いただきまして、早速拝読しました。光太郎の親友にして、光太郎ともどもロダンに私淑、日本近代彫刻の礎を築いた碌山荻原守衛を主人公とした小説です。もちろん光太郎も登場します。

平成22年(2010)に書かれた「碌山の『女』」を加筆訂正したものだそうですが、小説ならではの特質を生かし、守衛をはじめとした登場人物たちの姿が生き生きと描かれています。史実としてでこういうことが実際にあったと確認できない事柄も、小説としてなら許されるわけで(そういうところに目くじらを立てる愚か者もいて困りますが)、特に題名にもなっている「女」の制作過程を描いた部分、「なるほど、そう描くか」と感心いたしました。

関係の皆様には、当会刊行の『光太郎資料53』などとともに、上記画像のチラシをお送りしています。そちらをご覧の上、田丸様までお申し込み下さい。

ちなみに刊行日の4月22日(水)は、守衛110回目の忌日「碌山忌」で、例年ですと安曇野の碌山美術館さんで集いがもたれるはずでしたが、今年はやはり新型コロナの影響で、中止だそうです(無料開館にはするということでしたが)。こちらも来年以降、元に復してほしいものです。


【折々のことば・光太郎】000

だんだん類の少くなる天才画家のかけ値の無い作品として、国展に出た梅原龍三郎氏の「静浦風景」。

アンケート「今年の優作を挙げる」全文
 昭和5年(1930) 光太郎48歳

梅原も光太郎の留学仲間、というか、光太郎のパリでのアトリエを帰国に際し引き継いだ経緯があります。もし守衛がこの頃まで存命で制作が続けられていたのであれば、この手のアンケートでは、光太郎は守衛の作品を第一に挙げていたでしょう。

東京駒場の日本近代文学館さん。「所蔵資料紹介の機会を増やすため、「日本近代文学館年誌―資料探索」という紀要を年に一冊刊行しております。」とのことで、館蔵資料の紹介、各氏論考、エッセイなどが掲載されている厚冊のものです。その15号が刊行されました。 2020年3月20日 公益財団法人日本近代文学館編刊 定価1,040円(税込) B5判 236頁

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2020年3月、年誌15号を刊行いたしました。
文学館の所蔵資料紹介の機会を増やすため、「日本近代文学館年誌―資料探索」という紀要を年に一冊刊行しております。
文学者の書下ろしエッセイ、館蔵資料を用いた論考、未発表資料の翻刻と解説を収録。お申し込みは文学館まで(一般1040円/会員880円)。

目次

エッセイ
ひかりの在処 三角みづ紀
与謝野夫妻の書簡と祖父古澤幸吉のこと 古澤陽子
一人の両性具有者の手記――南方熊楠とミシェル・フーコーの共振 安藤礼二
北関東のその土地へ 宮沢章夫
高村光太郎と「書」 古谷稔

論考
春のや主人/二葉亭四迷合作「新編浮雲 上篇」の書誌について 飛田良文
お縫の将来への想像力――樋口一葉「ゆく雲」精読―― 戸松泉
太宰治『お伽草紙』の本文研究――新出原稿を中心に―― 安藤宏
ひと・地域・コレクションをつなぐ――文学展「浅草文芸、戻る場所」から考える―― 金井景子
伊藤整『発掘』の原稿について――人間認識の転回―― 飯島洋
井上満 獄中の記(1936―1938) 郡司良
初期春陽堂の研究――東京芝新橋書林の時代まで 山田俊治

資料紹介
資料翻刻1 片山敏彦宛諸氏書簡(2) 石川賢・小川桃 他
資料翻刻2 内海信之宛諸氏書簡 石川賢・小川桃 他


書道史研究家で、東京国立博物館名誉館員の古谷稔氏002による「高村光太郎と「書」」。同館所蔵の光太郎の書作品のうち、3点について専門家のお立場から解説なさっています。

3点中2点は、平成11年(1999)、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご著書『高村光太郎 書の深淵』にも図版入りで取り上げられています。

戦後、花巻郊外旧太田村に蟄居中の昭和24年(1949)に書かれた色紙が2点。まず、短歌「太田村山口山の山かけにひえをくらひてせみ彫る吾は」。「山かけ」は濁点が省略されていますが「山かげ(山陰)」です。「くらひて」の「ひ」は変体仮名的に「「比」、「せみ」の「み」と「吾は」の「は」も同様に「ミ」、「ハ」と書かれています。こうした部分もアクセントになっているように当方には思えます。

「せみ」は木彫の「蝉」。大正末から昭和初めにかけ、光太郎が好んで彫った題材です。従来、4点の現存が確認されていましたが、このたび5点目が出てきまして、5月22日(金)から富山県水墨美術館さんで開催予定の企画展「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品されます。

2020/4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。

2021/3/26追記 「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。


では、戦後の太田村でも「蝉」を彫っていたのか、というと、きちんとした作000品として彫っていたわけではないようですが、手すさび、または腕を鈍らせないための修練といった意味合いで彫っていたようです。光太郎の山小屋を訪ねた詩人の竹内てるよ、地元在住の浅沼隆氏などの目撃談があります。

北川先生、『書の深淵』を書かれた当時はその目撃談の存在をご存じなかったようで、同書では「だが、「蝉」は願望の象徴にすぎず、この時点でもその後も、作品として彫られることはなかった」と解説されていましたが、その後、目撃談に気づかれ、「やはり本当に太田村でも「蝉」を彫っていたんですね」とおっしゃっていました。ただし、戦後の「蝉」の現存は確認できていません。

ちなみに古谷氏は「「蝉」は光太郎の代表作で、この時期にも数多く制作されたようである」と書かれていますが、「数多く」というのは絶対にありませんので、よろしくお願いいたします。

2点めも色紙で、光太郎が好んで揮毫した短句「うつくし001きもの満つ」。先述の「太田村……」の短歌色紙とほぼ同時に書かれたものです。

「満つ」を、やはり片仮名で変体仮名的に「ミつ」と書いたバージョンも存在しますが、こちらは漢字で「満つ」となっています。山梨県富士川町の光太郎文学碑は「ミつ」と書かれた揮毫から写されたもので、「ミつ」を「みつ」ではなく「三つ」と読んでしまい、「高村光太郎は三つの「美しいもの」を愛した。一つは何々で……二つ目は何それで……」といったトンデモ解釈が流布しており、閉口しています。

3点目は、書画帖『有機無機帖』。やはり太田村時代の昭和27年(1952)から、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京したあとも書き継がれ、昭和29年(1954)に完成しました。光太郎と親しく、岩波文庫版『高村光太郎詩集』(昭和30年=1955)の編集に当たった美術史家・奥平英雄が光太郎に乞うて書いて貰ったものです。ちなみに先述の色紙2点も奥平に贈られたものです。

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詩や短歌、「ロダンの言葉」やヴェルハーランの詩の訳、さらには智恵子の紙絵を模して光太郎が作った紙絵まで、全20面ほどの書画帖です。006

古谷氏、このうちの紙絵が附された詩「リンゴばたけに」の面について解説されています。

古谷氏は、かつて東京国立博物館さんで奥平と同僚だったそうで、奥平の歿後、日本近代文学館さんに寄贈された光太郎の書を同館でご覧になり、この稿を書かれたとのこと。同館では、光太郎書作品、展示されているわけではなく、収蔵庫に仕舞われています。ただ、事前に申請をすれば収蔵庫から出して下さって観られるというシステムになっています。

上記以外にも、光太郎の書がたくさん収蔵されていて、先ほども「蝉」の件で触れましたが、5月22日(金)から開催予定の富山県水墨美術館さんの「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品されます。上記3点はすべて出る他、短歌を大書した幅、宮沢賢治の詩の一節を書いたもの、短句揮毫の色紙など、日本近代文学館さん所蔵のものは10点並ぶ予定です。

大半は「奥平コレクション」に含まれるものです。奥平がそれらについて語った記録は、以下の書籍等に詳述されています。ご参考までに。

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『晩年の高村光太郎』 奥平英雄著  二玄社  昭和37年(1962) 
『晩年の高村光太郎 特装版』 〃   瑠璃書房 昭和51年(1976) (光太郎と奥平の対談を収録したカセットテープつき)
『忘れ得ぬ人々 一美術史家の回想』 〃 瑠璃書房 平成5年(1993)
雑誌『書画船』№1 二玄社 平成9年(1997) 

富山では、他にも、他館や個人の方所蔵の優品を、まだまだたくさん展示予定でして(また折を見てご紹介いたします)、新型コロナによる緊急事態宣言が出ましたが、始まるころにはこの騒ぎも治まり、予定通り開催されることを祈念いたしております。

4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。

『日本近代文学館年誌 資料探索 15』は、日本近代文学館さんのサイトから購入可能です。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

私には子供がありません。

アンケート「児童と映画」全文 昭和4年(1929) 光太郎47歳

『いとし児』という雑誌が実施したアンケートで、質問は「一、お子様に映画をお見せになりますか、否や、その理由。 二、月に何回ぐらゐ。 三、種類の御選択は。」。光太郎に子供がいないということも調べずに、アンケートを依頼したようです。

で、回答が上記の一言のみ。かなりムッとしている光太郎の顔が思い浮かびますが、それをそのまま載せる方も載せる方だと思います(笑)。

結局、光太郎智恵子夫妻に子供は生まれませんでしたが、単にできなかったのか、それとも、あえて作らなかったのか、何とも言えません。光雲との芸術上の確執に悩み、「親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまふ。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ。ああ、厭だ。(略)僕を外国に寄来したのは親爺の一生の誤りだった。(略)僕は今に鈴虫の様なことをやるにきまつてゐる。」(「出さずにしまつた手紙の一束」明治43年=1910)とまで書いた光太郎ですが、真相は闇の中です。

日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。先月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されていましたが、それも終わってしまいました。ところが年間購読の手続きをしていましたので、まだ届きました。しかし、「うーん、連載は終わってるんだがなぁ」と思ってページを繰ると、これまでに同誌の特集等で取り上げたさまざまな芸術家30名ほどの紹介的な記事があり、光太郎も紹介されていました。

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確かに同誌では、かつて何度も光太郎智恵子の特集などを組んで下さいました。

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No.53  2000年5月号   特集 高村光太郎の世界   No.81  2002年9月号   特集 智恵子紙絵


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No.90  2003年6月号 特集  高村光太郎 山のスケッチと手紙  No.103  2004年7月号  彫る・高村光太郎


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No.118  2005年10月号   特集 高村光太郎の絶筆  No.142  2007年10月号   特集 高村光太郎の書


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No.158  2009年2月号   特集 岩手県・花巻に高村山荘を訪ねて 高村光太郎の絶筆
No.219  2014年3月号   特集 高村光太郎詩と不即不離60年の道 松尾ちゑ子


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No.257  2017年5月号   視る 高村光太郎の書  No.258  2007年6月号~   連載 高村光太郎のことば


ありがたいかぎりです。連載「高村光太郎のことば」は終わってしまいましたが、今後も折に触れて光太郎特集などを組んでいただければ幸いに存じます。


ちなみに今号で、もう1本、光太郎智恵子がの名はありませんでしたが、こんな記事も。

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実践レッスン「レモン」をかこう」だそうで。なるほど、と思いました。

今号も含め、上記アーカイブも在庫が残っていればバックナンバーとして注文可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

果物は柑橘類が第一で、蜜柑などは一晩に一箱位平気で食べて了ふが、他人には嘘と思はれる位である。

アンケート「名士と食物」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

智恵子はレモンを好みましたが、光太郎も柑橘系が好きだったのですね。それにしても「一晩に一箱」(笑)。蜜柑に含まれるカロテンという色素が沈着し、手足が黄色くなる「柑皮症」というのもあるそうですが、大丈夫だったのでしょうか。

当会の祖・草野心平を顕彰するいわき市立草野心平記念文学館さんからご案内を頂きました。

企画展「草野心平の詩 天へのまなざし」

期 日 : 2020年4月11日(土)~6月28日(日)
会 場 : 
いわき市立草野心平記念文学館 
       福島県いわき市小川町高萩字下タ道1番地の39
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日(5月4日は開館)
料 金 : 一般 440円(350円) 高・高専・大生 330円(260円) 小・中生 160円(130円)
       ( )内は20名以上団体割引料金

草野心平の創作における代表的な主題の一つが「天」でした。
「神はおれから遠ざかり。/近づいたのは石と天。」という詩の一節も、巨視から微視まで自在に対象を射抜いたまなざしによるものです。
本展では、心平の天の詩をあらためて取り上げ、自筆原稿、随筆、書籍などの関連資料を展観しながら、作品の奥深い魅力をあらためて紹介します。

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関連行事等

 ギャラリートーク 5月9日(土) 6月6日(土) いずれも14:00~14:30
 
 同時開催 スポット展示 猪狩満直


フライヤー裏面に、心平詩集『天』の画像。昭和26年(1951)、題字揮毫は光太郎です。

心平と「天」といえば、最晩年、昭和60年(1985)発行の書道雑誌『墨』(芸術新聞社)53号「特集 高村光太郎 書とその造型」に、「光太郎書に就いての漫語」という散文を寄せ、「天」について書いています。

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「天」を愛した心平が勝手に「五001天」と命名した、敬愛する芸術家達の「天」に関する作品のコレクション五点の話が枕です。川端康成、棟方志功、村山槐多、福沢一郎、そして光太郎。光太郎のものは、詩集『天』の題字ではなく(カラー写真が掲載されているのですが)、「天人満堂」と書かれた揮毫とのこと。

心平の「天」へのこだわり、「ほんとの空」を求めてやまなかった、同じ福島出身の智恵子にも通じるような気がします。

同時開催のスポット展示で取り上げられる猪狩満直は、やはり光太郎と交流のあった詩人です。昨年もスポット展示で取り上げられていましたが、展示内容は変わるのではないでしょうか。

フライヤー、ポスター、招待券と共に、平成29年度分の『いわき市草野心平記念文学館年報』もお送り下さいました。このブログでご紹介した同年度の企画展「草野心平の詩 料理編」、その関連行事として行われた、料理研究家の中野由貴さんによる「心平さんの胃袋探訪~創作料理の試食と解説」などについて詳細な報告が為されており、興味深く拝読しました。

さて、「天へのまなざし」、会期も長いので、都合を付けて、新型コロナ感染拡大には十分気をつけた上で行ってこようと思っております。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

此の方は限定された質問ではないので、答へ易く、知人のせゐか黄瀛君にひどく嘱望してゐます。此の外にも名は挙げられますが、まだよく知らないので遠慮します。

アンケート「十四年度作品批評」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

質問は掲載紙『日本詩人』に記録されていないのですが、おそらく新進詩人に関するものだったと推定されます。ここで心平の名を挙げず、黄瀛を推しているのが意外と言えば意外ですが、黄瀛に連れられて心平が初めて光太郎に会ったのがこの年で、どうも「此の外にも名は挙げられますが、まだよく知らない」というのが心平を指しているように思われます。

例年、この時期と、秋の菊人形の時期に行われている、福島二本松の智恵子の生家、2階部分の特別公開が始まります当方、何度か智恵子の居室を含む2階に上がらせていただきましたが、まさしく智恵子の息吹が感じられる貴重な体験でした。

追記 やはり新型コロナのため、4月13日から約1ヶ月、休館だそうです。

智恵子の生家2階特別公開

期 日 : 2020年4月4日(土)~5月6日(水)の土・日・祝日
会 場 : 智恵子の生家 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 公開期間中無休
料 金 : 大人(高校生以上) 個人:410円 団体:360円 
      子供(小・中学生) 個人:210円 団体:150円

      智恵子記念館との共通観覧券 

智恵子を育んだ「生家」の2階を、特別公開します。智恵子が暮ら した旧長沼家の雰囲気をご堪能ください。5月には生誕祭を予定 しています。

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昨年までは、この時期に「高村智恵子生誕祭」として予告され、生家2階の公開もその一環という位置づけでしたが、今年は新型コロナの影響でしょうか、「生誕祭」については詳細未定のようで、生家2階の公開のみ先行して実施されるようです。ついでにいうなら、昨年まで運行されていた福島交通さんの臨時バス「二本松春さがし号」、今年はやはり新型コロナの影響で中止だそうです。

ちなみに生家2階公開の記事が載った『広報にほんまつ』の今月号、表紙を含め巻頭4ページが「ほんとの空にさくら舞う」と題し、市内の桜の名所の紹介になっています。

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智恵子生家裏の「智恵子の杜公園」006も取り上げられています。光太郎の名も。ありがたや。

「ほんとの空にさくら舞う」は、昨年4月に開催された「2019全国さくらシンポジウムin二本松」のキャッチコピーでしたが、それを転用しているようです。

桜も種類によってはまだまだ楽しめるようですし、生家2階の公開と併せ、「ぜひ足をお運び下さい」といいたいところですが、昨今、なかなか気軽にこの言葉を使えなくなってしまい、実に残念なところです……。


【折々のことば・光太郎】

大した失策をした事もないのですが、宿屋で室を間違へるのが昔からの私の癖で、十数年前、直江津の「いか権」で隣室の人のご馳走を自分の晩食と思つて喰べてしまつたり、東山温泉で芸者とお客とねてゐる室へ飛び込んだ位のところです。

アンケート「旅の失策話」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

いやいや、こういうのを「大した失策」というのですよ、光太郎さん(笑)。

同じアンケートの続きの部分では「一体宿屋の部屋位、人を馬鹿にしたものはないでせう。十六番と十七番を間違へるのに何の不思議がありますか。」と、逆ギレもしています(笑)。

新型コロナウイルスの影響で、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼様で例年執り行っておりおりました集いは中止といたしましたが、昨日、4月2日は、昭和31年(1956)に歿した光太郎64回目の命日でした。

集いに代えて、運営委員会代表ということで、当方が染井霊園・光太郎の墓にお参りさせていただきました。例年も松本楼様での集いの前に、墓参しているのですが、昨日は集いを中止にした関係上、例年よりじっくりと頭(こうべ)を垂れて参りました。

例年、この時期は花見、というか、散策に訪れている方が多い染井霊園ですが、昨日はさすがに閑散としていました。ただ、例年ですといっぱいの無料駐車場に車を駐められたのはラッキーでした。

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早くに咲いてしまった、この地原産のソメイヨシノも、まだ保(も)っていました。

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高村家墓所には、昨年は無かった、光雲・光太郎・智恵子を紹介する説明板が新設されていました。ここは光太郎一人の墓ではなく、高村家の墓所ですので、三人の紹介となっています。


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自宅兼事務所から剪(き)って持参した連翹を花立てに。

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光太郎が歿した際、その終焉の地・中野の貸しアトリエの庭に咲き、葬儀の折には愛用のビールのコップに生けられた連翹から株分けされたものです。こちらも桜同様、今年は早く花が咲き、葉も出始めています。

線香に火をともし「今年は皆さんで集まることが出来なくなってしまいましたが、それぞれの場所できっと光太郎さんを偲んで下さることと思います。来年こそはまた皆さんで集まれるよう、お力添えを」と、心の中で語りかけて参りました。

続いて、松本楼様に行かねばなりません。集いの席上で配付予定だったチラシ、招待券の類、毎年、最初の案内で松本楼様にお送りいただくようお願いしております関係上、今年も何種類か届いているとのことで、その受け取りです。

偶然なのか必然なのか、染井霊園から日比谷公園に車を進めますと、途中で、今年1月に亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生の菩提寺・浄心寺さんの前を通ることになります。同寺は先生のお通夜・葬儀の会場でもありました。

これは寄らざるをえまい、と思い、車を駐めて北川先生の墓参もさせていただきました。

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浄心寺さんは、別名「さくら寺」。1月のお通夜・葬儀の際には底冷えしていましたが、昨日はおだやかな陽気に桜が満開で、いい感じでした。

そして日比谷松本楼様。日比谷公園の桜も見事でした。しかし、やはり例年とは異なり、花見客は皆無……。

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松本楼様も、午前11時頃に着いたのですが、普段ですと行列が出来ている時間帯なのに、閑古鳥……。

留め置いていただいていたチラシ類を受け取り、さらに、いつもお世話になっているスタッフの方と立ち話させていただきました。やはりとてつもなく厳しい状況とのこと。お互いに「来年こそは」、「ええ、来年こそは」と、約して松本楼様をあとにしました。

受け取ってきたチラシ類、また、自宅兼事務所に届いたチラシ、招待券、書籍類、それから当会発行の『光太郎資料53』等、参会予定だった皆様などに、順次発送させていただきます。今しばらくお待ち下さい。


【折々のことば・光太郎】

斯ういふインスチチユウシヨンが出来たり消えたりしながら総体的に進んでゆく社会の波動に活発な力を感じます。

アンケート「詩話会解散に対する感想」より
 大正15年(1926) 光太郎44歳

「インスチチユウシヨン」は英語の「institution」。「公共団体」、「協会」といった意味合いです。「詩話会」は、光太郎と親しかった川路柳虹らの旗振りで、大正6年(1917)に結成された詩人の会。年刊『日本詩集』、雑誌『日本詩人』などを発行し、会員に名を連ねていた光太郎もそれらに寄稿しました。

このアンケートが書かれた大正15年(1926)、いわゆる民衆詩派(白鳥省吾、福田正夫、富田砕花ら)といわゆる芸術派(北原白秋、日夏耿之介、西条八十ら)との対立から、解散となりました。

光太郎はどちらに与するわけでもなく、アンケート回答にあるように、こうして世の中が進んで行くのだ、と、達観していたようです。

無理くりですが、昨日、都心を車で走りつつ、報道で見るゴーストタウンのようなパリや、野戦病院のようなニューヨークの惨状との違いに、「活発な力」を感じました。総体的に少ないものの、人も車も普通に動き(それが感染拡大につながっているといえばそれまでですが)、おそらく、今年、色々なことを断念せざるを得なかった人々も、「来年こそは」と、心に期しているのではないかとも思いました。

連翹忌の集いも、「来年こそは」です!

1007新型コロナウイルスの影響で、午後5時30分から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼様で予定しておりました集いは中止といたしましたが、今日、4月2日は、昭和31年(1956)に歿した光太郎64回目の命日です。

例年、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手花巻でも、詩碑前祭と連翹忌法要を挙行して下さっていますが、そちらも中止。

追記 「詩碑前祭」は行ってくださったそうです。

当方、皆様を代表して、駒込染井霊園の光太郎奥津城に墓参(公共交通機関は使わず、自家用車にて行って参ります)、それをもちまして第64回連翹忌とさせていただきます。皆様もそれぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければと存じます。

ちなみにその終焉の地・中野の貸しアトリエで、光太郎が息を引き取ったのは、2日の未明、午前3時45分ですので、大半の方はお休みになっている時刻かと存じます。東日本大震災のように午後2時46分に黙祷、というわけにはいきませんが、それぞれお好きな時刻に光太郎を偲んでいただければ幸いです。

ところで、連翹忌につき、先週、長野県の松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さんが、一面コラムでご紹介下さいました。   

2020.3.29 みすず野

 冬の上高地を初めて歩いたのは20年近く前だ。膝まで埋まる雪をつぼ足で踏み、徳沢の冬期小屋にたどり着いた。迎えてくれた火炉と小屋番の温かさを忘れない。静寂と景色にすっかり魅了され、翌年も翌々年も釜トンネルをくぐった◆高村光太郎の詩集『智恵子抄』にある「狂奔する牛」は大正2(1913)年夏の思い出だとか。徳沢に牧場があった。智恵子が牛の群れを怖がったのだろう。光太郎は〈今日はもう画くのを止して/この人跡たえた神苑をけがさぬほどに/又好きな焚火をしませう〉と声を掛ける◆徳沢の徳澤園に社長の上條敏昭さん(70)を訪ね、冬期小屋が5年前に閉じられたと聞いたのは昨夏だった。「気ままに文学散歩」の取材で井上靖の『氷壁』にまつわる話を伺った。その時草稿を見せてもらった『徳澤園135年史』が完成した。牧場時代からの歩みである◆絵の道具を持った智恵子が上高地にやって来る。光太郎は徳本峠を越えて岩魚止で迎えた。二人は翌年結婚する。〈智恵子は東京に空が無いといふ/ほんとの空が見たいといふ〉4月2日は光太郎が好んだというレンギョウの花にちなんで連翹忌。

一面コラムといえば、一昨日の『日本農業新聞』さんの一面コラム「四季」でも、光太郎に触れて下さいました。   

四季 2020年03月31日

 きょうは一つの区切り、年度末である。令和元年度を振り返れば、新型コロナを筆頭に重大事が相次ぐ▼小欄が担う1面コラムは新聞にとり特別な存在である。いやが応でも目に付く場所に位置する。最重要記事を掲げる1面は顔と同じ。コラムは人に例えれば口に当たる。その日のニュースが明るい暗いで口元が上下し複雑な感情を抱えながらの筆運びに。だが、志村けんさんの突然の悲報にはどんな追悼をささげればいいのか言葉を失う▼先達の力も借り切り開いてきた道を歩む。しかし、この先は自らつくらないと前に進めない。〈僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る〉。高村光太郎の『道程』冒頭の珠玉の言葉を思う。いや、昭和の歌姫・美空ひばりさんの名曲「川の流れのように」がふさわしい。〈地図さえない それもまた人生〉と胸に刻みながら▼伝説の名コラムニストで深代惇郎が浮かぶ。深い洞察力と縦横無尽の筆遣い。豊かな表現と語彙(ごい)の多さ。喜怒哀楽に深みと軽やかさが備わる。コラム書きなら必ず、その著書に目を通し味わいある作品に深く沈み込む。そして自らの筆力のなさを思い知る▼ただ、非力ならではの味わいは出ないか。小欄はタイトル同様に<四季>の彩りを感じ、朝の食卓に吹く快い“そよ風”でありたい。

両紙ともに、これまでも時折、光太郎に触れて下さっていて、ありがたく存じます。

それにしても、新たな年度となりましたが、このような形で迎える新年度、未知の領域といわざるを得ません。そういう意味では、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」でもあります。力を合わせ、新型コロナの脅威に立ち向かって行く道を作るべきかと存じます。


【折々のことば・光太郎】

かかる時代に生きる者は、心の悩を当然の事として立つ可きです。心の悩むことを忌避するのは卑怯になります。朗らかなる可きは霊魂です。霊魂は人倫を絶したものにつながつてゐます。此のみはいかなる時にも天空の清さを持つてゐます。

アンケート「懊悩と清朗」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

発表されたのは昭和2年(1927)元日発行の、智恵子の母校・日本女子大学校同窓会である桜楓会機関誌『家庭週報』ですが、執筆は前年12月と推定され、大正天皇崩御の直前、金融恐慌の気配が漂いつつあった時期です。掲載紙の「年頭言」では、同紙記者がこのアンケートの趣旨として、次のように述べています。

新しき年を重ねるに当りまして、悲しみは悲しみとして、お互に何等かの向上を希むることゝ存じます。(略)このもの騒がしい世界に面接して、自分たちは外界をどう支配して行かうか、どうしたらややもすれば引きずられ勝ちな生活を抜け切つて朗らかな心地よい生活に歩み入る事が出来るか、かういふ問題について考へますことは、どなたもが望まれることであらうと存じまして、先見の方々のお話を承り、左に掲げることに致しました。

それに対し、光太郎は上記の通り、悩むことをおそれるな、と回答したわけです。

新型コロナの脅威に対する恐怖、それはそれとして受け入れ、なおかつ朗らかなるべき魂を涵養すること、そういったことが重要なのかもしれませんね。

昨日、映画監督の佐々部清氏が亡くなったというニュースが出ました。

『日刊スポーツ』さん。

映画「陽はまた昇る」「半落ち」佐々部清監督が死去

映画「陽はまた昇る」「半落ち」などで知られる、映画監督の013佐々部清(ささべ・きよし)さんが、3月31日までに山口県下関市で亡くなったことが分かった。62歳。亡くなる2日前まで、SNSを更新していた。

山口県生まれの佐々部さんは、明大文学部演劇科を経て、84年から映画、テレビドラマの助監督を務め、キャリアを積んだ。崔洋一監督、杉田成道監督、降旗康男監督、和泉聖治監督らに師事した。高倉健さん主演の映画「鉄道員」「ホタル」の助監督も務めた。

監督デビュー作、02年「陽は-」で、日刊スポーツ映画大賞石原裕次郎賞、日本アカデミー賞優秀作品賞に選ばれた。04年「半落ち」で2度目の石原裕次郎賞に輝き、日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞した。

「シネコンでは中高年が見られる作品が少ない」と、自らプロデューサーを務めて監督した17年「八重子のハミング」では、認知症を発症した妻と支える夫を描いた。資金集めから始め、全国各地での上映会を企画し評判は口コミで広がった。8館でスタートした作品は100館以上の規模で公開された。

映画はほかに「日輪の遺産」「出口のない海」「夕凪の街 桜の国」「ツレがうつになりまして。」など、ドラマ、舞台の演出も手掛けた。

▽俳優佐野史郎(ツイッターで) 1999年、私の初監督映画「カラオケ」ではチーフ助監督を務めてくれ、2012年テレビ朝日の松本清張ドラマスペシャル「波の塔」では監督と俳優として密度の濃い時間を過ごした。本当に優しい、人情に厚い方でした。安らかにお眠りください。

◆佐々部清(ささべ・きよし) 1958年(昭33)1月8日生まれ。明大文学部演劇科を経て、84年から映画、テレビドラマの助監督を務めた。主に崔洋一、杉田成道、降旗康男、和泉聖治ら各監督に師事した。「鉄道員」「ホタル」(ともに高倉健主演)などの助監督を務めた。

記事にある「八重子のハミング」は、平成29年(2017)に全国公開。升毅さん、高橋洋子さん主演で若年性アルツハイマーを発症した夫人(八重子さん)の介護を描き、平成14年(2002)に出版されて「現代の智恵子抄」と称された陽(みなみ)信孝氏著の同名の手記を原作としていました。

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劇中、光太郎の『智恵子抄』もモチーフとして使われています。

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また、つい4日前にもご紹介した、北原白秋を主人公とし、伊嵜充則さん演じる光太郎も登場する「この道」も、佐々部監督作品でした。
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それぞれDVD化されています。
「八重子のハミング」
「この道」


亡くなる2日前まで、SNSを更新していた。」というのが、Twitterで、こちら。

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同じ山口県出身でありながら、「忖度」も「同調圧力」も関係ないのですね。その他、IR問題、マスク転売などへのツイートも。佐々部氏、これまでに手がけられた映画のラインナップを見ても、気骨の映画人だったようです。

『デイリースポーツ』さん。

佐々部清さんが死去、62歳、映画監督…東京五輪に反対

 映画「半落ち」などで知られる映画監督の佐々部清さんが山口県下関市内で死去したことが31日、分かった。62歳。1958年、山口県出身。

 佐々部さんは明治大学文学部演劇科、横浜放送専門学院(現・日本映画大学)を卒業後、フリーの助監督を経て2002年「日はまた昇る」で監督デビュした。同作で日本アカデミー賞優秀作品賞。04年、作家横山秀夫さんのミステリー小説を寺尾聡さん主演で映画化した「半落ち」がヒット。日本アカデミー賞最優秀作品賞、優勝監督賞、優秀脚本賞を受賞した。

 今月11日にブログを更新。「この国から忘れられようとしていることが残念だとずっと思っている。未だに仮設住宅が残っている。ボクが東京五輪にずっと反対だったのもそのせいだ。仙台五輪だったり東北五輪なら、ボランティアで応援したと思うけど...福島の原発だって全然コントロールなんてされていない。もちろん選手達を応援はするけど、東京で五輪を開催する意義が見つけられなかった」などと投稿していた。


志村けんさんの例もあるので、「新型コロナか?」と思ったのですが、そうではないようでした。62歳、まだまだこれからでしたので、残念です。調べてみましたところ、鹿児島を舞台とした「大綱引の恋」という映画を制作中だったそうで、撮影は終わっているとのこと。無事公開までこぎつけてほしいものです。

何はともあれ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

そんなケチな事を考へた事無し。それよりかもつと働いてもらひたい役者の事を思ひます。

アンケート「引込ませたい役者は?」全文 大正15年(1926) 光太郎44歳

演劇/映画雑誌『テアトル』に掲載されたアンケートです。佐々部監督、「もつと働いてもらひたい」監督でした……。

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