2020年03月

昨日の『毎日新聞』さん朝刊、「歌壇/俳壇」のページから。明星研究会等でお世話になっている、歌人の松平盟子氏の玉稿です。

「「明星」創刊120年 理想の火、俊秀集め=松平盟子002

 もし与謝野鉄幹という詩人が出現しなかったら。もし「明星」という文芸美術誌が鉄幹によって創刊されなかったら。歴史に「もし」はないが、そう仮定したくなるのは、二十世紀初頭を彩るこの雑誌から優れた詩人・歌人を多く輩出したからだ。与謝野晶子、石川啄木、北原白秋、吉井勇、高村光太郎。名を列挙するだけで納得されよう。
 では、なぜ「明星」にかくも俊秀たちが集まったのか。

 創刊は一九〇〇(明治三十三)年四月。ただしページ数も限られたタブロイド版で、雑誌形態に移行したのは同年九月。 ここから「明星」は飛躍的に読者を増やす。それは形態の違いによるものではなく、雑誌本体が画期的であったからだった。
 まず表紙画に読者は驚倒しただろう。瞼(まぶた)を伏せ髪を長く垂らした若い女性は乳房もあらわな半裸。しかし片手に持つ白百合が聖女の面持ちを演出し、その周囲には大小の星が輝く。フランスのポスター画家ミュシャの模倣ではあったが、まさに西洋の匂いが横溢( おういつ)する。
 次に注目すべきは鳳(のちの与謝野)晶子の歌の鮮烈さだろう。鉄幹との恋愛以前にあって、こんな歌が掲載されている。
 ・病みませるうなじに細きかひなまきて熱にかわける御口(みくち)を吸はむ
 鉄幹が多忙で発熱したと知り、ではあなたの首に腕をまき口づけして差し上げましょうの意。この大胆さは翻訳文学の影響下にあってのものだろう。「明星」は創刊号から外国文学の紹介にページを割き、留学などで欧州にある画家の滞在記が載った。西欧の美術本からの図版とおぼしき作品も数多く本誌を飾ることになる。鉄幹に宛てた晶子、山川登美子らの私信さえも掲載され、リアルタイムのSNSにも似た様相を呈する。
 重要なのは十項目余の「新詩社清規」だろう。「明星」の発行母体は東京新詩社。ゆえに同社の規則である。虚名のために詩を書かない。過去の詩歌の模倣ではなく、新しい「国詩」を目指して互いに「自我独創」の詩を楽しむべし。交情はあっても師弟の関係はなし。このような理想の火が燃やされた。
 二十世紀スタート直前。日清戦争に勝利し自己肯定感を抱く日本人は、新世紀をときめきつつ迎えようとしていた。鉄幹の野心は新時代の詩歌を「明星」で展開することにあり、その勢いと華やかさに惹(ひ)かれた若者たちが続々と集まったのである。(まつだいら・めいこ=歌人)


新詩社発行の雑誌『明星』が創刊されたのが明治33年(1900)なので、今年はちょうど120年という節目の年です。

光太郎作品が同誌に初めて載ったのは、創刊の年10月の第7号でした。この時光太郎、数え18歳でした。

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本名ではなく、「篁(たかむら)砕雨(さいう)」の号を使用しています。青年らしい気概に溢れている点など、後の口語自由詩にもつながる要素が見て取れます。ただ、留学以前の掲載作は、与謝野寛(鉄幹)の添削が激しく入り、光太郎は「自分の作とは言えない」という感覚もあったようです。

光太郎の文筆作品は、これ以前にも『東京美術学校校友会雑誌』に短歌、『読売新聞』に俳句、そして雑誌『ホトトギス』にも俳句が載りましたが、それらは単発だったり、一投稿者としての掲載だったりでしたので、光太郎の本格的文学活動の出発点は、やはりこの『明星』と言っていいでしょう。

この後、光太郎は明治40年(1907)までの間に、短歌やエッセイ、戯曲などを断続的に寄稿しています。同39年(1906)からは、留学先のニューヨークからの寄稿でした。

下記画像は明治34年(1901)1月、新詩社の「鎌倉小集」という集まりでの記念撮影。由比ヶ浜で焚き火をして20世紀の迎え火としたそうです。

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後列左端が光太郎、同じく後列右から二人目が与謝野寛、前列の右端が、光太郎の親友だった水野葉舟です。光太郎、数え19歳ですが満ですと17歳。まだ若干のあどけなさが残っていますね。

松平氏を中心とする明星研究会さんでは、毎年春に「与謝野寛・晶子を偲ぶ会」を開催されていて、今春は3月20日(金)に「明治浪漫主義の鮮やかなる狼煙~「明星」創刊120年」と題し、講演や対談が予定されていたのですが、新型コロナのために中止となってしまいました。

これも毎年、秋には研究会が持たれていますので、そのころにはコロナ騒ぎも収束し、例年通り開催できることを切に祈っております。


【折々のことば・光太郎】

三、酒を少しのむといゝ気持になります。友達と麦酒をのむのは楽しみです。
四、自然に任せて節酒などしてゐませんが、おのづから矩を踰えずです。

アンケート「名士の飲酒所感」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

「三」は「酒が身体に齎(もたら)す御体験について。」、「四」が「飲酒或は節酒に対して何か御自身で御実行になつてゐらるゝことはございませんか。」という問いへの回答です。

当方、アルコールを摂取する習慣がほぼほぼ無くなりましたが、雰囲気で酔えますので、「三」の回答には賛成します。ただし、「おのづから矩(のり)を踰(こ)えず」(『論語』からの引用で、「自分の思うがままに行動しても、正道から外れない」の意)ではない人が同席するのは勘弁こうむりたいですね(笑)。

東京都の小池知事は、新型コロナ感染予防のため、「若者はカラオケ・ライブハウス、中高年はバー・ナイトクラブなど接待を伴う飲食店を控えて」と要請しています。この状況下では仕方がないでしょう。もっとも、自粛要請など何処吹く風、の「ワーストレディー」も居るようですが。

光太郎の父・光雲関連で、福岡に本社を置く『西日本新聞』さん、先週の記事です。

「直方碑」に再び光を 炭鉱王・貝島太助が建立に尽力

 福岡県直方市の産土神(うぶすながみ)、多013賀神社から市石炭記念館への歩道に、地元の歴史を伝える「直方碑」が立つ。隣接する市有地に、市は炭鉱労働者を表現した「坑夫の像」の移設計画を進める。同市出身の炭鉱王、貝島太助が建立に尽力しながら市民にもなじみのない碑を、直方郷土研究会の牛嶋英俊会長とともに訪ねた。
 碑の建立は1894(明治27)年。糸島産の野北石を使った本体は高さ4・6メートル、台座まで含めた全体は6・5メートルあり、まっすぐにそびえ立つ印象だ。設計者は明治期の彫刻家として名高い高村光雲。漢文で書かれた碑文を作成したのは漢学者の宮本茂任(しげとう)という。
 そばには、建立資金を提供した人々や団体の名前が刻まれた碑が置かれている。貝島太助、弟の六太郎…。牛嶋さんは「九州の片田舎の碑でありながらも、非常に質の高い人たちが手掛けた。中央政界にも通じた太助の人脈、彼が強力なリーダーシップを持っていたことが分かる」と話す。
 碑文は現代風に書くと、「直方は昔、東蓮寺(とうれんじ)と呼ばれ、新入村の一部で村里はなく、高い山と広い野原があるだけだった」と始まる。福岡藩初代藩主の黒田長政の遺言で、四男高政が初代東蓮寺藩主として治め、商工業者が集まってまちができたことや、明治維新後にまちが大きく発展したことなどが書かれている。
 建立の由来として「黒田氏が基を開かなかったら、まちはこれほどにならなかった。直方に住んで恩恵を受けている者は、歴史をよく知っておくべきだ」と記す。故郷の歴史や先達に敬意を抱き、後世にも向けた太助の呼び掛けだろう。
 牛嶋さんは「明治20年代は筑豊地域の炭鉱が栄え、直方が急速011に発展していた。殿様がいた城下町で、長い歴史をもち、他地域とは異なる由緒があることを伝えようと、当時の人々の胸には熱いものがあったのではないか。碑は時代の反映でもあった」とみる。
 市石炭記念館は、筑豊石炭鉱業組合直方会議所だった本館や救護練習所模擬坑道が国史跡となった。館内には「鉱山保安の父」とされる石渡信太郎(いしわたりのぶたろう)の胸像があり、敷地内には蒸気機関車(SL)2両がたたずむ。直方碑から歩き、運炭の大幹線だった筑豊本線を跨線橋で渡れば、ほどなく多賀町公園に立つ貝島太助像。跨線橋は旧国鉄直方機関区の転車台の一部を利用する。石炭でつながる、直方ならではの「まち歩き」のルートだ。
 市は直方碑や「坑夫の像」の由来について「平易な言葉で書いた説明板を設け、一体を見栄え良く整備する」としており、牛嶋さんは「地域の歴史に人々の目が向けられることになれば、意義がある」と話す。歴史遺産に光を当てて物語をつむぎ、誇りを持って発信するのも市の役目だ。 (安部裕視)

 「坑夫の像」移設 像は高さ2・4メートルのコンクリート製。直方市出身の彫刻家、故花田一男さんが制作し、削岩機を手にした炭鉱労働者を表現する。1954年に国鉄(現JR)直方駅前に設置され、96年の駅前ロータリー改修に伴い、市が遠賀川河川敷の中之島公園に移設。旧産炭地に対する歴史認識や地域再生などを巡り、さまざまな意見が交錯する時期だった。2018年に市民グループが移設を求め、費用の一部を寄付。市は20年度当初予算に移設費496万円を計上した。



皇居前広場の楠木正成像、上野公園の西郷隆盛像などを手がけた光雲、その他にも全国各地に建てられた銅像類に関わりましたが、銅像以外のモニュメントにも関係しています。静岡県袋井市の「活人剣の碑」、芝増上寺さんの「台徳院殿霊廟」模型など。

「直方碑」もそうしたものの一つといえましょう。記事にあるよう017に、碑文は漢文で書かれているそうで、確かに明治期などの大きな石碑にはそういうものが多いような気がします。となると、現代ではまず余程のことがないと碑文を読もうという気になりませんね。自宅兼事務所から徒歩15分ほどの公園にも、日露戦争に関係すると思われる乃木希典題字揮毫の碑がありますが、やはり説明板も何もなく、地元民にもほとんどその存在すら知られていません。たまたま当方、愛犬の散歩中に発見した次第です。しかしやはり漢文の碑文、しっかり読もうという気になりません。

とはいえ、地元の歴史に関わる貴重なものであるわけで、記事にあるように「平易な言葉で書いた説明板を設け、一体を見栄え良く整備する」のは必要なことと思われます。

ちなみにもう一つ触れられている「坑夫の像」。コンクリートだそうです。作者は花田一男だとのことで、花田は光雲に学んだ平櫛田中に師事しています。つまりは光雲の孫弟子というわけです。

こうした近代の碑や銅像などの類、それほど古いわけでもなく、といっても新しいものというわけでもなく、その中途半端さが災いし、文化財指定等からは漏れ、人々の記憶からも薄れてしまっているのでしょう。まずは各地域でしっかり光を当てることが大切だと思われます。


【折々のことば・光太郎】

西町から仲御徒町通にかけての、河内山宗俊が住んでゐるなどといふやうな町の空気の中。コツクリさん。おばけの出る牛乳屋の西洋館の前の柳。後には谷中の墓地のバツタ採り。

アンケート「美術家の生ひ立ちと其環境」より
 大正14年(1925) 光太郎43歳

「御生育地の四囲の風物情景を簡単に」という問いに対しての回答です。「西町」は下谷西町、現在の台東区東上野。光太郎は明治16年(1883)にここで生を受けました。その後、同19年(1886)にはすぐ近くの仲御徒町、同23年(1890)にはこれもほど近い谷中に、一家で転居しています。

いかにも「明治」ですね。

3月27日(金)、NHK BSプレミアムさんで放映された「クラシック倶楽部 小林沙羅&山本耕平 デュオ・リサイタル~福島県棚倉町公開収録」。NHKさんの動画配信サービス「NHK オンデマンド」で、単品220円(税込み)でダウンロードできるようです。4月9日(木)までの期間限定だそうですが。

当方、オンエアを録画して拝見しました。

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ご出演は、ソプラノ・小林沙羅さん、テノール・山本耕平さん、ピアノ・河原忠之さん。曲目は、1月に行われた公開収録の中から抜粋でした。

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小林さんの歌、河原さんの伴奏による、光太郎詩「或る夜のこころ」(大正元年=1912)に、中村裕美さんという方が作曲なさったものはカットされずに放映され、ラッキーでした。

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平成27年(2015)9月、晴海の第一生命ホールさんでの「ライフサイクルコンサート 雄大と行く 昼の音楽さんぽ 第3回 小林沙羅 麗しきソプラノの旅」で、この曲をを拝聴した際にも感じましたが、ドラマチックな構成と、小林さんの圧倒的な歌唱力で、歌曲と言うよりはオペラのアリアのようでした。

この曲を含む小林さんのアルバム「日本の詩(うた)」が発売中です。是非お買い求めを。

他に、山本さんのソロや、お二人のデュエット。

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合間にお三方でのトーク、棚倉町の紹介なども。

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ご覧になっていない方、最初に書きましたが、NHKさんの動画配信サービス「NHKオンデマンド」をご利用下さい。


【折々のことば・光太郎】

所帯じみない妻君。永遠に心若く溌剌とした女性。

アンケート「永遠に若き人――妻として何ういふ女性を求むるか――」全文
大正14年(1925) 光太郎43歳

そう言う意味では、光太郎にとっての智恵子、理想の妻だったのではないでしょうか。「或る夜のこころ」執筆から十数年経た大正末の段階でも、智恵子は「所帯じみ」ることなく「心若く溌剌とし」ていたように思われます。

ただ、昭和に入ると、実家の造り酒屋の経営が決定的に傾き、その心労が智恵子を蝕んで行くこととなります。

雑誌『明星』、芸術運動「パンの会」などを通じて、光太郎と朋友であった北原白秋関連の情報です。まずは映画。新型コロナによる延期とか中止という情報は出ていませんので、実施されるのでしょう。

シネマサロン 夢町座 名画上映会「この道」

期 日 : 2020年3月28日(土)~4月4日(土)
会 場 : 夢町座(ミニシアター) 
       静岡県静岡市清水区真砂町2-31 (JR清水駅前銀座入口)
時 間 : 11:00~/15:00~/19:00~
料 金 : 1,000円


上映作品 「この道」 2019年 105分 日本  監督 佐々部清

出演
大森南朋(北原白秋) AKIRA(山田耕筰) 貫地谷しほり(菊子) 松本若菜(松下俊子)
柳沢慎吾(鈴木三重吉)  松重豊(与謝野鉄幹)  羽田美智子(与謝野晶子) 津田寛治(菊池寛)
升毅(秦彦三郎) 近藤フク(石川啄木) 稲葉友(室生犀星) 佐々木一平(萩原朔太郎)
伊嵜充則(高村光太郎) 松本卓也(大手拓次)

清水駅前にある夢町座、今回の名画上映会は、「この道」を上映。大正7年(1918)、北原白秋は新進気鋭の音楽家・山田耕筰と出会う。山田はドイツ留学を経て日本初の交響楽団を結成した男で秀才音楽家と謳われ、一方、北原は、人妻に手を出すなど破天荒で自由奔放な男。だが、独創的な作風で天才詩人と称されていた。当時子どもの歌は、ドイツ童謡を日本語訳にしたものか、日本の伝承のわらべ歌しかなかった時代。二人は、日本の子どものために日本初の童謡の創作に乗り出すのであった。波乱に満ちた北原白秋の人生を、山田耕筰との友情を軸につきあった女性たちとともに描くヒューマンドラマ。監督は、「半落ち」「カーテンコール」など数々の名作を放つ佐々部清。※北原白秋は、昭和2年頃、静岡鉄道の依頼をうけ、静岡に逗留し「チャッキリ節」を作詞。他、清水商業高校校歌も作詞。


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会場の夢町座(ミニシアター)さんは、何と座席数18席。「日本一小さな映画館」などと称されることもあるそうで、営業は月に8日間だけ、「こだわりの一本」を上映するというユニークな館です。

上映される「この道」は、昨年1月に封切られた作品で、白秋を主人公とし、朋友・光太郎も登場します。

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一昨年にはノベライズ、昨年9月にはBlu-rayとDVDも発売されています。

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白秋と、それからもう一人の主人公的な扱いだったのが、EEXILEのAKIRAさん演じる山田耕筰。戦前には白秋とタッグを組んで童謡の名曲をたくさん作りましたが、戦時中には光太郎同様、翼賛活動に邁進しました。陸軍省から将官待遇を得、軍服姿でさまざまな活動。この点は、東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生だった藤田嗣治にも通じます。

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山田と同じく、戦時に翼賛歌曲を大量に作曲したのが、古関裕而(光太郎や白秋、山田の一世代あとですが)。その古関をモデルにしたのが、来週からNHKさんで始まる連続テレビ小説「エール」。

4月2日(木)に放映される第4回の告知では、白秋の名が。

【連続テレビ小説】エール(4)「初めてのエール」

NHK総合  2020年4月2日(木) 8:00~8:15017
      再放送 12:45~13:00
NHK BSプレミアム  同 7:30~7:45
      再放送 23:00~23:15
         4月4日(土) 10:30~10:45

裕一(石田星空)は小学5年生になり、音楽教育に力を入れる藤堂先生(森山直太朗)が担任になる。ある日、藤堂先生が北原白秋の詩に曲をつける宿題を出す。クラスメートの佐藤久志(山口太幹)は、普段から西洋音楽を聴いている裕一ならきっと作曲できると言う。裕一は母・まさ(菊池桃子)と、川俣にある母の実家を訪ねる。祖父の権藤源蔵(森山周一郎)と祖母の八重(三田和代)、伯父の茂兵衛(風間杜夫)が出迎えるが…。


出演 石田星空 清水香帆 山口太幹 菊池桃子
    光石研 森山直太朗 田中偉登 三田和代
    森山周一郎 風間杜夫 唐沢寿明


のちのち、戦時中の翼賛活動についても描かれるそうで、それならば半年間見てみようと思っております。有名な「露営の歌」(〽勝って来るぞと 勇ましくちかって故郷を 出たからは)は、古関の作曲です。

朝ドラ、なかなか光太郎智恵子自体は登場しませんが、関わりのあった人物が登場したり触れられたりする作品など(「あまちゃん」―宮沢賢治、「花子とアン」―村岡花子、「あさが来た」―広岡浅子平塚らいてう、「とと姉ちゃん」―大橋鎭子平塚らいてう)は見るようにしていましたので。

ちなみに当方手持ちの、光太郎作詞の翼賛歌曲が載った楽譜集を見てみますと、山田や古関の名もバンバン出て来ます。中には白秋作詞のものも。白秋は戦争が激化する前、昭和17年(1942)に歿しましたが、それ以前に既に翼賛歌曲の作詞を手がけていました。

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このあたりを「この道」ではかなり掘り下げて描いていましたが、「エール」ではどうするのか、興味深いところです。

ちなみに古関は智恵子と同じ福島中通り出身ということもあり、その意003味でも興味深く存じます。みなさまもぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

小生、大ていのものはいけますが、タバコだけは生来甚だ不調法で、たまに試るときつと目をまはすか、胸をわるくするといふ次第故残念ながら何も申上げる資格がございません。
アンケート「紫煙問答」全文 
大正14年(1925) 光太郎43歳


大正末、40代初めの段階では、光太郎、喫煙の習慣はなかったようです。しかし、この後、マドロスパイプで刻みタバコをたしなむようになっていきます。普通は逆(若い頃は吸っていて、歳をとったらやめる)ですが……。結核の自覚症状もかなり早くからあったはずですし……。さすがに最晩年になってからはやめたようです。

2020/4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。

2021/3/26追記 本展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。


富山県から企画展情報です。チケット販売会社さん等のサイトには、既に今月初めくらいから記述がありましたし、ポスターやフライヤー(チラシ)は既にこちらに届いていたのですが、正式な館のHPに昨日アップされましたので、解禁かな、というわけで。新型コロナの関係で延期とか中止とか、そうならないかと思っていたところ、とりあえず予告が出まして、ほっとしています。

チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展

期 日 : 2020年5月22日(金)~7月12日(日)
会 場 : 富山県水墨美術館 富山市五福777番地
時 間 : 午前9時30分~午後6時00分
休 館 : 月曜日
料 金 : 前売り一般1,000円 当日一般1,200(1,000)円 大学生1,000(700)円 ( )内20人以上の団体


「書は最後の芸術である」――高村光太郎のこの言葉に引き寄せられるように、「画壇の三筆」と題して、熊谷守一(画家)、高村光太郎(詩人・彫刻家・画家)、中川一政(画家)の三人展を開催します。明治・大正・昭和へと連なる日本の近代美術の展開のなかで、ほぼ同時代を生きた三人の芸術家。その作品は、<西洋>化する日本の美術と<東洋>的な精神との折衝のなかから出現した、《模倣を嫌う》確固たる日本人の絵であり、彫刻であり、その書にはそれぞれの芸術感がよくあらわれています。本展では、書作品に、日本画、墨彩画、彫刻、陶芸を加えて、三人の芸術の足跡を辿ります。生涯にわたって美の理想を問い続けた三人の日本人芸術家が到達した、究極の表現世界をご鑑賞ください。

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関連行事

映像で見る三巨人 会場:映像ホール 各日①11:00~ ②14:00~ 各回先着100名

 Ⅰ.「モリのいる場所」          5月23日(土)  6月21日(日)
     熊谷守一夫妻の日常を描いた傑作。 出演:山崎努 樹木希林
 Ⅱ.「高村光太郎」             5月24日(日)  6月27日(土)
     ブリヂストン美術映画シリーズより
 Ⅲ.「中川一政生誕百年 記念番組」 5月31日(日)  6月20日(土)
     制作:北陸放送・北陸スタッフ

ギャラリートーク 会場:展示室1.2 要観覧券
 ① 5月30日(土) 講師:徳井静華氏(白山市立松任中川一政記念美術館学芸員)
 ② 6月14日(日) 講師:高松源一郎氏(ギャラリー晴耕雨読代表)
 ③ 7月5日(日)   講師:富山県水墨美術館学芸員 


光太郎、熊谷守一、中川一政、三人の書作品を軸とする展覧会です。

このうち熊谷と中川の書は、ほぼほぼまとめて所蔵されているところからの借り受けだそうでしたが、問題は光太郎。駒場の日本近代文学館さん、花巻高村光太郎記念館さん、そして今年1月に亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生宅以外は、どこにどういう書作品が所蔵されているのか、よくわからないとのことでした。

そこで当方の出番となりました。全国のめぼしい光太郎書作品、それから彫刻や絵画も出したいというので、そうしたものの所蔵先(団体・個人)を紹介したり、ところによっては借り受けの交渉に同行したりしました。

これがなかなか大変でした。まず、熊谷、中川の書は、大きい作品をたくさん出すということで、光太郎についても基本的には大きな書、という制約(結局は色紙や短冊も出しますが)。次に、せっかく素晴らしい大きな書を持っている館さんでも「うちでは他館さんへの貸し出しは行っていませんので……」と断られることも。そして、やはり現実的な問題として、借り受け金額の問題。それで折り合いが付かず、断念したケースもありました。

そうしたハードルを何とか乗り越え、かなりの優品が集まりました。関係各位には大感謝です。また改めて詳細をご紹介しようと思っておりますが、本邦初公開(つまりは世界初公開)のものも複数ありますし、通常は各所蔵先の収蔵庫に入っていて、滅多に見られないものも数多く出ます。

というわけで、目玉だらけなのですが(笑)、まず1点だけ超目玉を挙げろ、と言われたら、その存在自体ほとんど知られていない、とんでもないものということで、下記でしょうか。

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書単体ではなく、木彫の蝉に書がついている形です。これまで、木彫の蝉は4点の現存が確認できていましたが、これは新発見の5点目です。実は4点のうちの1点が所在不明になっていまして、それがまた出てきたのかと最初は思ったのですが、違いました。

所蔵されているのは京都の古美術商さん。当方、平成27年(2015)に、拝見に伺いました。木箱、それから袋もついていまして、それぞれにまごうかたなき光太郎の筆跡と印(箱と袋も展示されます)。箱書きによれば、昭和6年(1931)作ということで、驚きました。これまで確認されていた蝉は、すべて大正末のものだったからです。もっとも、同じ木彫の「白文鳥」や「蓮根」も同じ頃の作なので、不思議ではありません。

そして袋(おそらく智恵子手縫いのものです)にしたためられているのは、他の木彫作品にもそうしたように、短歌――これもこれまで知られていなかった歌です。

遠く来るうねりはあをくとど崎の岩白くして蝉なきしきる

「とど崎」は、岩手県宮古市の魹ヶ崎(とどがさき)です。この蝉の作られた昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を執筆するため、まさに蝉鳴きしきる8月から9月にかけ、約一ヶ月の行程で三陸海岸一帯を旅した折の作でしょう。「三陸廻り」の「宮古行」の回(全十回連載の最終回)には、「やがて海が暮れかかる頃、新聞の写真で見たトド崎の灯台を通過する。灯台で赤ランプを出す。船が答へる。」とあります。

この三陸旅行中、智恵子の心の病が顕在化、危険回避のため、光太郎は木彫用の彫刻刀類をすべてしまい込み、以後、きちんとした木彫作品は作られなくなりました。したがって、もしかすると、現存が確認できている光太郎最後の木彫作品、ということになります。「白文鳥」、「蓮根」との前後関係が不明ですが(ちなみに「白文鳥」、「蓮根」も今回の展示に並びます)。だめもとでご紹介し、借り受けを依頼していただいたところ、他の所蔵作も一緒に貸して下さることになり、喜んでおります。

その他、単体の書でも、本邦初公開のもの等、しつこいようですが目玉だらけです。また折を見て、ご紹介します。

一部の方には、昨日ご紹介した『光太郎資料53』などとともに、フライヤー(チラシ)、それから招待券をお送りします。新型コロナ騒ぎが早く終息して、皆様に足をお運びいただきたく存じます。

2020/4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。

2021/3/26追記 本展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

【折々のことば・光太郎】

花は何でも好きですが、桜の花の明けつぱなしの趣は又他に類が無くて好きです。

アンケート「京都御室のさくら」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

下記は、自宅兼事務所から徒歩30秒の公園のソメイヨシノ。3月21日(土)の撮影で、昨日あたりはもう満開でした。

4月2日(木)、連翹忌の集いを開催するはずだった松本楼さんがある日比谷公園の桜も、今頃さぞ美しかろうと思います。来年以降、また皆様と桜を愛でたいものです。

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手前味噌で恐縮すが、当会発行の『光太郎資001料53』、完成しました。

本来、4月2日(木)に開催のはずだった第64回連翹忌の集い席上で配付し、その後、お申し込みいただいている各位、関係諸団体等に発送する予定でした。

元々は当会顧問であらせられた北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺等を旨として、36集までを不定期に発行されていたもので、平成24年(2012)から名跡を引き継ぎ、当会として年2回発行しております。北川先生の時代には、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、そのあたりは引き継がせていただいております。

現在はパソコンで原稿を作成、印刷のみ地元の印刷屋さんに頼み、経費節減のため丁合(ページごとに紙をまとめること)、ホチキス留め製本は一冊ずつ当方が行っています。それでも一号分の印刷費で7万円ほどかかっています。

表紙の「光太郎資料」の文字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第十七回 父母弟妹・親族・姻族(一)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、父・光雲、母・わか、妹・山端しづに関する光太郎作品をまとめました。

・光太郎回想・訪問記  
文壇の人々 高村光太郎氏(『秀才文壇』より)/日暮里渡辺町界隈(抄)(『長谷川利行』より)矢野文夫

これまであまり知られていない(と思われる)、戦前の光太郎回想文。短めのものを2篇載せました。「文壇の人々」は、明治45年(明治45年)4月、雑誌『秀才文壇』の第12巻第5号に載った無署名の記事ですが、光太郎と交流があった編輯主筆・野口安治の執筆によるものと思われます。一昨年、智恵子も通っていた太平洋画会(現・太平洋美術会)の松本昌和氏よりそのコピーを頂きました。
「日暮里渡辺町界隈」は、画家・長谷川利行(明24=1891~昭15=1940)と親しかった詩人・美術評論家・日本画家の矢野文夫(明34=1901~平7=1995)による、智恵子が歿した直後くらいの光太郎に関する回想。日暮里渡辺町界隈の飲み屋で時々光太郎と出くわしたことや、駒込林町の光太郎アトリエを訪問した体験談です。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の防御線――見附の話(その一)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第3巻第7号(昭和4年=1929)。父・光雲を含む各界の著名人による座談会筆録から。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十七回  川古温泉(群馬県)
昭和4年(1929)に光太郎が訪れ、詩「上州川古「さくさん」風景」(同)の舞台となった、群馬県みなかみ市の川古温泉をご紹介しています。

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・音楽・レコードに見る光太郎 「初夢まりつきうた」(その一)
昭和25年(1950)、当時あった地方紙『花巻新報』や、花巻商工会議所などから依頼されたと思われる、花巻商店街の歌的な「初夢まりつきうた」についてです。確認できている限り、光太郎が歌詞として作った最後の作品です。
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・高村光太郎初出索引(年代順 一)

現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、今号から年代順ということで。

ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

他金融機関からの振り込み用口座番号

〇一九(ゼロイチキュウ)店(019) 当座 0782139


【折々のことば・光太郎】

街を歩く時、松飾の香(にほひ)のする中で美しい娘さん達が追羽子をしてゐる図を思ひ出すと新年は全く新しい詩に満ちてゐますね。

アンケート「我家の三ヶ日」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

少々季節外れですが(笑)。「新年」同様、もうすぐやってくる「新年度」も例年であれば「新しい詩に満ちて」いるように思われますが、今年は新型コロナの影響で、なにやら不穏な新年度になりそうですが、こんな時こそ、心は豊かにしておきたいものです。

テレビ放映情報です。

クラシック倶楽部 小林沙羅&山本耕平 デュオ・リサイタル~福島県棚倉町公開収録

NHK BSプレミアム 2020年3月27日(金) 午前5:00~5:55

~2020年1月25日棚倉町文化センター倉美館~

「この道」北原白秋:作詞 山田耕筰:作曲
 (ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ) 河原忠之 (3分00秒)
「くちなし」 高野喜久雄:作詞 高田三郎:作曲
 (テノール)山本耕平、(ピアノ) 河原忠之 (3分00秒)
「或る夜のこころ」 高村光太郎:作詞 中村裕美:作曲
 (ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ)河原忠之 (5分10秒)

「四行詩」 中原中也:作詞 泉谷閑示:作曲
 (テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之 (2分25秒)
「小さな空」 武満徹:作詞 武満徹:作曲
 (ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之 (3分30秒)
「喜歌劇「ほほえみの国」から「きみはわが心のすべて」」 レハール:作曲
 (テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之 (3分10秒)
「喜歌劇「チャールダーシュ姫」から「ハイヤ!山こそわが故郷」」 カールマーン:作曲
 (ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ)河原忠之 (3分00秒)
「歌劇「椿姫」から「燃える心を」」 ヴェルディ:作曲
 (テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之 (3分20秒)
「歌劇「椿姫」から「さようなら 過ぎ去った日よ」」 ヴェルディ:作曲
 (ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ)山本耕平 (4分20秒)
「歌劇「椿姫」から「パリを離れて」」 ヴェルディ:作曲
 (ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之 (3分30秒)
「歌劇「椿姫」から乾杯の歌「友よ さあ飲みあかそう」」 ヴェルディ:作曲
 (ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之 (2分30秒)
「Con Te Partiro (Time to say goodbye)」 クアラントット:作詞 サルトール:作曲
 (ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之 (3分30秒)


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昨年、CDアルバム「日本の詩(うた)」をリリースされたソプラノ歌手の小林沙羅さんがご出演。同CDにも収録されている、光太郎詩「或る夜のこころ」(大正元年=1912)に、中村裕美さんという方が作曲なさったものがラインナップに入っています。

1月25日(土)、福島県棚倉町文化センター倉美館さんで公開収録が行われ、ラジオでは2月24日(月)にオンエアされました。

この曲を含む小林さんのリサイタルが、3月12日(木)に予定されていましたが、新型コロナウイルス感染予防ということで、8月に延期だそうです。プログラムの変更がなければ、この際には「或る夜のこころ」以外にも、同じ中村裕美さんが「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)、 「亡き人に」(昭和14年=1939)に作曲されたものも演奏される予定です。

新型コロナによる延期/中止といえば、昨日はそれに伴う4月2日(木)に予定していた第64回連翹忌の集いの中止を告知させていただきましたが、他にもいろいろとあり、心を痛めております。

同じく4月2日(木)、毎年、花巻高村光太郎記念会さんの方で、光太郎が戦後の7年あまりを過ごした旧太田村での詩碑前祭、市街松庵寺さんでの連翹忌法要が行われてきましたが、中止。毎年3月15日発行の『広報はなまき』に案内が出ていたのが今年は出ず、もしやと思ったらやはりそうでした。

当会の祖・草野心平の母校である磐城高校さんが出場予定だったセンバツ高校野球も中止。こちらは代替措置として、東北からの出場校3校(磐城高校さん、仙台育英さん、鶴岡東さん)による「東北限定センバツ」を、来月実施の方向だそうです。

そして昨日発表された、オリンピック/パラリンピック。当然、聖火リレーも延期もしくは中止となるわけですね。このうち、青森県では6月12日(金)、十和田湖の観光交流施設ぷらっとさんから光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」までの約1㌔㍍もコースに入っていました。そして、その際に行われるセレモニーでは、三村申吾青森県知事のごあいさつで、光太郎や「乙女の像」に触れられる予定でした(「これで間違ってないか」ということで、こちらにその原稿が回ってきまして、チェックさせていただきました)。また、詳細は未定でしたが、当方にも光太郎や「乙女の像」についてちらっと話をしてくれ、という依頼も。残念です。

他にも今月に予定されていて紹介しようと思っていた演奏会、映画の上映などの延期もいろいろ……。関係者の方々のご苦労、断腸の思い等、しのびてあまりあります。来月以降に予定され、やはり紹介しようと思っている企画展やイベント等も多いのですが、この状態が続くようですと、大変なことになりますね……。

さて、話を戻しますが、「クラシック倶楽部」、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

どんな人でもせめて家庭の中では自由で、自然で、赤裸で、お互に言ひたい事を言ひ合つて、お互に為たい事を為合つて、それで少しもお互の心を傷け合はないのみか、その故に却つてお互の魂を育て合ふ様な生活を為たいものと思ふ。

アンケート「新時代の家庭におくる言葉」より
 大正13年(1924) 光太郎42歳

新型コロナの影響で、各家庭にいる時間が長くなっているケースが多いでしょう。それがストレスになる、ということの無いようであってほしいものです。

012来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことを苦渋の決断として決定致しました。

参加申し込みが少なく、政府の云う「大規模イベント」には当たらないという判断でしたし、今回は去る1月に亡くなられた当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼という意味合いもあり、何とかぎりぎりまで状況を見極めて開催したいと思っておりましたが、関係各位と協議の結果、中止のやむなきに至りました。間際の決定となり、申し訳ありません。

今日までにいろいろな方から、ご意見、ご要望等頂いております。有り難うございました。本当にさまざまなご意見がありました。正反対のご意見をいただいても、それぞれに「なるほど」と思わせられる点があり、また、報道や世の中の方向性も日によってめまぐるしく変わり(各種施設や公演等の再開を前面に押し出す日もあれば、情勢の悪化をトップにする日もあり……)、非常に頭を悩ませました。

しかし、どなたにもお優しかった北川先生がご存命であれば、「今年はおやめなさい」とおっしゃったように思われ、それが最終決定の要因となりました。ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。

4月2日当日は、当方が代表して駒込染井霊園の光太郎奥津城に墓参致します。皆様方におかれましては、それぞれの場所にて、光太郎を偲んでいただければと存じます。

ご入金頂いた参加費に関しましては、当日配付予定だった各種資料と共に、後日発送致しますので、よろしくお願い申し上げます。この点に関しましても、一律に返金させていただくことに決めております。「会の運営に使って下さい」というありがたいお申し出も複数ありましたが、「あの人は寄附をした」「あの人はしなかった」など、そういうのが後々しこりを残すことにもなりかねませんので。

寄附を受けた場合、こちらで「誰それは寄附をした」「誰それには返金した」というようなことは決して明かしませんが、寄附を受けた後に「寄附ということで返金を受けなかった人も居るんですか?」と問われたら、それに対し「ええ、いらっしゃいませんでした」と嘘はつけません。この点につきましてもご了承の程、よろしくお願いいたします。

来年以降、この騒ぎが収束し、また開催にこぎつけ、お会いできることを楽しみにしております。


【折々のことば・光太郎】

無に到るにあらず 無より出でゝ進むなり     


短句揮毫より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

上記の通り、今年の第64回連翹忌の集いは中止とさせていただきますが、それは「無に到るにあらず」です。必ずやまた「無より出でゝ進むなり」という気持でやっていこうと思っております。

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来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。詳細は明日のブログにて。

明治末、光太郎と留学仲間だった画家・津田青楓の大規模回顧展が開催中です。

3月14日(土)の『日本経済新聞』さん。

漱石「道草」を彩った画家、津田青楓の自由な精神 東京・練馬区立美術館で没後初の本格的回顧展

夏目漱石晩年の長編「道草」「明暗」の装丁を手がけた011画家、津田青楓(せいふう)は、1978年に97歳の長寿を全うした。東京・練馬区立美術館で開催中の「背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」展は、この画家の曲折に富む生涯をたどる没後初の本格的回顧展だ。その多面的な仕事は、近代日本の変転の歴史を映し出す。

津田青楓の名で多くの人が思い浮かべるのは、漱石門下の画家としての活動ではなかろうか。漱石と寺田寅彦、小宮豊隆ら漱石宅に集う弟子たちを描いた俳画風の作品は漱石の評伝などにたびたび掲載されてきたし、橋口五葉の後を受けて担当した漱石の著作の装丁では、「道草」や「明暗」などに風合い豊かなデザインを施している。
漱石の書簡集に親しんだ人にとっていっそう印象深いのは、13歳年下の青楓に宛てた漱石晩年の手紙の数々だろう。大の美術好きだった漱石にとって青楓は心安い画友だった。漱石は自分が描いた絵の批評を仰いだり、ともに展覧会に出かけたりと交遊を続けながら、時々の心境を腹蔵なくこの弟子に明かしている。
青楓生誕140年を記念する今展は、漱石との交遊の軌跡を、装丁本やスケッチ、青楓宛ての漱石の書簡などから丁寧に跡づけている。ただ、生前の漱石と青楓の交流は5年間余りにすぎない。それだけでは語り尽くせない青楓の仕事の多面性に今展は光を当てる。


青楓は、京都市中の生け花の師匠の家に生まれ、16歳ごろ歴史画で名014を成した谷口香嶠に入門。京都市立染織学校を経て、京都高島屋図案部に勤めながら浅井忠らが主宰する関西美術院で洋画のデッサンを学んだ。

この10代末から20代にかけての仕事で印象的なのは、モダンで清新な図案の数々だ。染色や織物などの工房が多い京都では当時、豪華な図案集が多く出版され、その新たな担い手として、若い青楓は世に出た。1903年刊の図案集「うづら衣」所収の図案は、円山四条派以来の写生の伝統の上に、アールヌーヴォーなどの新しい西洋美術の動向をも摂取した革新性がある。商業用途で培ったデザインセンスは、後の漱石はじめ鈴木三重吉ら多くの著述家の本の装丁に生かされたのである。

20代後半には農商務省海外実業練習生としてフランスに3年間留学、安井曽太郎、荻原守衛、高村光太郎といった画家や彫刻家と交遊し、本格的に洋画家としての道を歩み出す。しかし、同じ関西美術院出身の安井や梅原龍三郎が洋画壇の中心的な存在になったのに対し、二科会の創立メンバーでもあった青楓の油彩画の全貌は今なお、とらえがたい。人物画や静物に、物質感を的確につかむ確かな技量を示す作品があるが、本格的な研究はこれからだろう。

漱石の死後、関東大震災を経て、青楓は自らの画塾を京都で起013こし、マルクス経済学者、河上肇の感化を受ける。その社会問題への強い意識が「犠牲者」といった油彩画の代表作に結びつく。
「犠牲者」は作家の小林多喜二が獄死した33年(昭和8年)の作で、拷問を受けた運動家の姿を十字架のキリスト像を意識しながら描いた作品だが、これを制作中に青楓は、警察に踏み込まれ、一時拘留された。青楓はプロレタリア運動と関係を断つことを表明、洋画もやめ、二科会からも脱会する。しかし、この作品は、戦後50~60年代以降、思想弾圧に対する告発をこめた作品として評価されてきた。
長い兵役や貧乏を体験し、美術が暮らしの糧となった青楓は、他の漱石門下のエリートたちとは、異なる社会観を抱かざるを得なかったのだろう。

その中で、大正期から長く描き続けた文人画風の日本画は、青楓の画業の真価を今に伝える。何ものにも縛られない自由な境地は、生活に追われたこの画家にとって、おのずと湧き上がる憧れの世界でもあったろう。大正期の新南画の流れをくむ18年の「お茶の水風景」や37年の「山高水長画巻」は、詩書画に通じた画家の筆墨から、生動する気韻が伝わる作品だ。
この画境は、人間のエゴイズムを書き続けながら絵や書に救いを求めた晩年の漱石の心境と通い合う。文豪が愛した脱俗の天地が、愛(まな)弟子の画面に生き生きと表れているのを見るのは、何とも心地がいい。4月12日まで。

開催要項等、以下の通りです。

生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和

期 日 : 2020年2月21日(金)~4月12日(日)
会 場 : 
練馬区立美術館 東京都練馬区貫井1-36-16
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 1,000円 高大生・65~74歳 800円 中学生以下・75歳以上 無料

1880年に京都市中京区に生まれた津田青楓は、1896年に生活の糧として図案制作をはじめたことから画家人生の第一歩を踏み出します。歴史画家谷口香嶠に師事し日本画を学び、関西美術院では浅井忠らにデッサンを学んで、1907年(明治40)に安井曾太郎とともに渡仏。アカデミー・ジュリアンで修行します。帰国後の1914年(大正3)には二科会の創立メンバーになるなど洋画の世界で活躍し、後に洋画を離れ、文人画風ののびやかで滋味豊かな作品世界を展開していきました。

青楓は文豪夏目漱石に愛され、彼に絵を教えた画家であり、漱石らの本の装幀も数多く手がけました。また、写生にもとづく創造的な図案の試みや、随筆や画論など多岐にわたる文筆活動、それに良寛研究とその成果ともいえる書作品など、幅広い交流と旺盛な制作活動で知られています。しかし、さまざまな分野で足跡を残した青楓ですが、これまでまとまったかたちで作品やその生涯を紹介する回顧展は開催されていません。

青楓は、長生でもありました。青年時代には日露戦争に従軍し、203高地の激戦に居合わせ、その凄惨な体験を赤裸々に文芸雑誌『白樺』に発表しています。昭和初頭には、二科展に社会思想を背景とした作品を発表し、物議をかもしました。自由を求めて時代に対峙しつづけた青楓の作品は、その時代を知るための歴史資料としての側面も持ち合わせているでしょう。

本展では、交友のあった夏目漱石と経済学者河上肇、それに私淑する良寛和尚と、青楓がもっとも影響を受けた3人を軸にしながら、作品や関連資料約250点を通して、明治・大正・昭和の時代を生きた画家津田青楓の生涯を振り返ります。


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昨日、NHK Eテレさんの「日曜美術館」とセットで放映される「アートシーン」で取り上げられていました。

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漱石著書の装幀。

河上肇との交流から、左翼思想へ。しかし自らも逮捕・拘留され、転向を条件に釈放。

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その後は文人画へ。

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これまでに青楓の大規模展が無かったというのは、意外でした。確かに当方も、山梨県笛吹市の青楓美術館さん、同じく釈迦堂遺跡博物館さんでまとめて作品を拝見したことはありましたが、それ以外は、東京ステーションギャラリーさんでの「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」など、複数作家の作品を集めた展覧会で観た程度でした。

青楓と言えば、最初に書いた通り、パリで留学仲間として光太郎と交流がありました。明治42年(1909)、留学も最終段階となった光太郎は、スイス経由でイタリア旅行に出かけましたが、その行く先々で青楓に俳句入りの書簡をしたためています。現在確認できている光太郎の俳句のうち、かなりの数がこれです。

両者帰国後も交流は続きましたが、青楓が京都在住だったため、顔を合わす機会は減ったようです。また、青楓が漱石と近づき、一方の光太郎は漱石を敬遠していましたので、そのあたりも疎遠になった理由の一つかも知れません。

ところで青楓は、智恵子とも交流がありました。智恵子の言葉としてよく使われる「世の中の習慣なんて……」は、青楓が書き残したものです。

昭和23年(1948)に津田が書いた「漱石と十弟子」の一節で、なぜか智恵子は「美代子」という仮名になっています。

 午後から長沼美代子さんがくる。一緒に鬼子母神の方へ写生に出る。美代子さんは女子大の寄宿舎にゐる。学校を卒業したのやら、しないのやら知らない。ふだんに銘仙の派手な模様の着物をぞろりと着てゐる。その裾は下駄をはいた白い足に蓋ひかぶさるやうだ。それだけでも女子大の生徒と伍してゐれば異様に見られるのに、着物の裾からいつも真赤な長襦袢を一、二寸もちらつかせてゐるから、道を歩いてゐると人が振り返つて必ず見てゆく。しかもそろりそろりとお能がかりのやうに歩かれるのだから、たまらない。美代子さんの話ぶりは物静かで多くを言はない。時々因習に拘泥する人々を呪うやうに嘲笑する。自分は只驚く。彼女は真綿の中に爆弾をつつんで、ふところにしのばせてゐるんぢやないか。
 彼女は言つた。世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。

具体的な年月日は記されていないのですが、この後の部分でやはり留学仲間の荻原守衛の死にふれていますので、おそらく明治43年(1910)のことと思われます。ということは、書かれたのが昭和23年(1948)ですから、40年近く経っての回想です。

さて、会期は残り僅かですが、青楓展、時間を見て行ってこようと思っております。レポートは後ほど。


【折々のことば・光太郎】

鉄腕ある者よ、出てくれ。
アンケート「アメリカ趣味の流入を防げ
――帝都復興に対する民間からの要求――」より
大正12年(1923) 光太郎41歳

「帝都復興」は、関東大震災で東京が壊滅状態におちいったことにかかわります。再建されるべき東京の街並みを、「質素で確かで優美な都」としたい、そのためにしっかりした方向性を示せる人物――鉄腕ある者――が出てきて欲しい、というのです。

新型コロナ問題、幸いに欧州各地のようなひどい事態にはなっていませんが、どうにも我が国では対応のちぐはぐさが目立ちます。だからと言って、信用のおけない人物に、わけのわからない「鉄腕」をふるわれても困るのですが……。

気づくのが遅れ、もう先々週の号ですが、『週刊文春』さんの3月12日号。ノンフィクションライター・中村計氏による「「金足農業、燃ゆ」 甲子園秘話」という記事が、5ページにわたって掲載されています。

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リード文より。

公立、過疎地、雪国……不利な条件満載でも、彼らは「普段はパッパラパーだけど、野球だけは本気だった」(女子マネ)。「奇跡のナイン」に惚れ込み、追いかけ続けた中村計氏による『金足農業、燃ゆ』が発売。春のセンバツ高校野球が中止になった今こそ読みたい、カナノウの「その後」の物語。

金足農業さんといえば、現在、北海道日003本ハムファイターズの吉田輝星投手を擁して一昨年夏の甲子園で準優勝を果たし、「カナノウフィーバー」を巻き起こしました。ただ、「なぜ今?」感があったのですが、中村氏が記事のタイトルと同じ『金足農業、燃ゆ』という書籍を文藝春秋さんから刊行されたので、そのためでした。

私立の強豪校とは異なり、潤沢な資金もなく、いわゆる野球留学の選手は皆無、「雪国」というハンデもある。そんなチームが全国準優勝に輝いた裏には、選手たちや監督の型破りな、しかし、裏をかえせば既成概念にしばられず、自分たちでよく考えて、真摯に、それでいて楽しみながら実践する姿勢があったのだなというのが、記事を読んでよくわかりました。

そして末尾の一節が、こちら。

高村光太郎風に言えば、金足農業の前に道はなく、金足農業の後ろに道ができた。だが、彼らがつくった道をたどる者は、おそらくもう現れない。

たしかに光太郎が現代に生きて一昨年の夏の甲子園を観ていたら、金農さんを応援したような気がします。造型でも文芸でも、既成概念にしばられず、自分でよく考えて、真摯に、それでいて楽しみながら実践したのが光太郎ですので。

だが、彼らがつくった道をたどる者は、おそらくもう現れない。」は、高野連による投手の球数制限ガイドラインが出されたことを背景にしています。吉田投手、最後の一週間で、4試合、570球も投げたそうで、もはやそれはありえなくなるということです。

しかし、それはそれとして、強烈な個性を持った型破りなチームが活躍できる土壌は、たしかに作られつつあるような気はします。また、そうでなければいけないような気がします。


【折々のことば・光太郎】

言葉といふ不思議な生きものの先の知れない深い生活はあらゆる方面から迫り、拓いてゆく可きものと思ひます。

アンケート「言葉の深い生活――口語歌観――」より
大正12年(1923) 光太郎41歳

上記金足農業さんの記事にも引用された詩「道程」(大正3年=1914)を含む詩集『道程』(同)で、我が国に口語自由詩を確立させた光太郎ならではの言です。余技としながらも、光太郎は短歌の方面でも、口語や俗語を巧みに取り入れた革新的な吟詠を行っていました。

光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが納められている信州善光寺さんの仁王門が、国指定登録有家文化財に指定される見通しだそうです。

長野県さんのプレスリリース。

長野市、塩尻市、南牧村に所在する計4件が国の登録有形文化財に登録されます

 本日、令和2年3月19日(木)に開催された文化審議会文化財分科会の審議・議決を経て、下記建造物の登録について、文化審議会から文部科学大臣への答申が行われました。
 今後、官報告示を経て、登録有形文化財に登録されます。

 善光寺鐘楼   1棟 嘉永6年(1853)/大正15年(1926)改修 長野市大字長野字元善町491イ
 善光寺仁王門 1棟 大正7年(1918)/昭和52年(1977)改修 長野市大字長野字元善町469
 島木赤彦寓居 1棟 明治前期/明治後期増築、昭和30年代改修 塩尻市大字広丘原新田字新田148-1
 旧尾張徳川家本邸主屋(八ヶ岳高原ヒュッテ) 1棟 昭和9年(1934)/昭和43年(1968)移築 南佐久郡南牧村大字海ノ口字西牧場2244-3

※本件が登録されますと、県内の登録有形文化財は、558件(建造物 557件、美術工芸品 1件)になります。

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『中日新聞』さん。

善光寺鐘楼など4件、国有形文化財に指定へ

 国の文化審議会は十九日、長野市の善光寺鐘楼(しょうろう)と善光寺仁王門、南牧村の旧尾張徳川家本邸主屋(おもや)(八ケ岳高原ヒュッテ)、塩尻市の島木赤彦寓居(ぐうきょ)の四件を国の登録有形文化財にするよう文部科学相に答申した。登録されれば、県内の登録有形文化財は五百五十八件(うち美術工芸品一件)となる。
 善光寺鐘楼は国宝善光寺本堂の近くにあり、一八五三(嘉永六)年に再建された。「南無阿弥陀仏」の六つの漢字が由来とされる六本の柱で支えられる。つるされる梵鐘(ぼんしょう)は一九九八年長野冬季五輪で開会を告げるために打ち鳴らされた。
 過去数回、火災で焼失した善光寺仁王門は一九一八年に再建。正面側は幅約十三メートル、高さ約十四メートル、奥行き約七メートルで、屋根の銅板は再建百年に合わせてふき替えられた。両脇に、近代彫刻の巨匠、高村光雲と米原雲海の合作による一対の仁王像が配されている。
 八ケ岳高原ヒュッテは、尾張徳川家第十九代当主が三四年に東京・目白に本邸を建て、六八年の南牧村への移築後、ホテルになった。柱やはりを隠さず、装飾として生かしたハーフティンバー様式で造形の模範と評された。村では初めての登録有形文化財となる。

◆塩尻の島木赤彦寓居、街道の景観に寄与
 島木赤彦寓居(ぐうきょ)は木造平屋の四十二平方メートル。太田家住宅の東側に突き出した「角屋(つのや)」と呼ばれる部分で、八畳の座敷がしつらえられている。北側には特別な客人を迎える際の玄関となる「式台」がある。
 明治・大正期に活躍したアララギ派の歌人島木が、広丘村広丘尋常高等小学校(現塩尻市広丘小)に校長として赴任した一九〇九(明治四十二)年三月から二年間、単身で下宿した。島木の関連施設で善光寺街道の景観に寄与している点などが評価された。
 建築は太田家住宅が建てられた明治前期とされる。住宅は昭和三十年代に建て替えられたが、角屋は主屋と分離して残された。屋根の東西両端に「雀(すずめ)踊り」と呼ばれる棟飾りを載せ、全体を本棟造り風に仕上げている。地元では太田家の屋号で「牛屋」と呼ばれる。
 所有する太田寿美さん(91)は「大切に残してきたので登録は本当にうれしい。今後も建物を後世に引き継いでいきたい。短歌愛好者らにも見てもらえるように考えたい」と話した。


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『朝日新聞』さん。

長野)善光寺の鐘楼、仁王門など、国登録有形文化財に

 善光寺(長野市)の鐘楼と仁王門など県内の文化財4点が、国の登録有形文化財に新たに登録されることになった。19日の文化審議会文化財分科会で文部科学相に答申された。
 国宝に指定されている本堂の近くにある鐘楼は、江戸末期の1853(嘉永6)年に建立。「南無阿弥陀仏」の6字にちなみ6本の柱が立っており、鐘は毎日午前10~午後4時に1時間ごとに鳴る。1918(大正7)年に参道入り口に建てられた仁王門は、日本の近代彫刻の第一人者である高村光雲、米原雲海によって作られた一対の仁王像を配する。
 他に、明治、大正時代に活躍した県出身の歌人・島木赤彦が下宿した塩尻市の「島木赤彦寓居」、南牧村では初めての国登録有形文化財となる「旧尾張徳川家本邸主屋(八ケ岳高原ヒュッテ)」が登録される見込み。県内の登録有形文化財はこれで558件となる。


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『毎日新聞』さん。

国の有形文化財、4件指定へ 善光寺鐘楼や仁王門 /長野

 国の文化審議会は、善光寺鐘楼(長野市)▽善光寺仁王門(同)▽島木赤彦寓居(ぐうきょ)(塩尻市)▽旧尾張徳川家本邸主屋(現・八ケ岳高原ヒュッテ、南牧村)――の4件を国の登録有形文化財に指定するよう文部科学相に答申した。登録されれば、県内の国登録有形文化財は558件となる。
 善光寺の本堂近くにある鐘楼は「南無阿弥陀仏(あみだぶつ)」の6文字にちなんで6本の柱で建てられている。境内の一角を構成し、1998年長野五輪の開会を告げたことでも有名。
 善光寺の本堂に延びる参道上にある仁王門は、両脇に一対の仁王像を安置する重厚な門。何度か焼失し、現在の仁王門は1918年に再建された。
 島木赤彦寓居は、アララギ派の歌人、島木赤彦(1876~1926年)がかつて下宿した建物で、善光寺の街道沿いの様相や地域文化を伝えている。答申された3件の建築物はいずれも「国土の歴史的景観に寄与する」として選ばれた。
 旧尾張徳川家本邸主屋は、戦前を代表する建築家の渡辺仁が建てた高尚な造りの邸宅。「造形の模範」として選ばれた。登録されれば、南牧村初の国の有形文化財となる。



昨年が仁王像開眼100周年だったということで、一昨年から今年にかけ、いろいろと動きがありました。

 信濃善光寺仁王門再建100年・仁王像造立100年 仁王門北側2像ライトアップ。
 善光寺寺子屋文化講座第2幕『冬至に仁王さんのお顔を見てみよう』。
 善光寺仁王像 初の本格調査。
 第十六回長野灯明まつり 「共鳴する平和への祈り」。
 新聞各紙から。
 信州善光寺仁王門写真コンテスト。
 信州レポート その2 信州善光寺。
 新聞各紙から。
 信州善光寺仁王像関連。
 光雲関連。
 第14回善光寺サミット。
 信州善光寺仁王門屋根改修銅板寄進。
 「善光寺仁王門の改修工事」他。
 信州善光寺仁王門工事見学会。

ニワトリが先か、卵が先か、文化財指定の動きが先か、いろいろとやった結果の文化財指定か、そのあたりは不明ですが、実に良いことだと思います。

ただ、今回は、あくまで建造物としての仁王門の登録ですので、仁王像は含まれていないのでしょう。そちらの文化財指定も待たれるところです。

ちなみに光太郎智恵子がらみの国登録有形文化財、現存するものでは、同じ信州の上高地にある徳本峠小屋(大正2年=1913、光太郎智恵子が立ち寄りました)、やはり長野県の塩尻市古田晁記念館さん(高田博厚作の光太郎胸像などが展示されています)、戦後、光太郎がたびたび宿泊した花巻温泉松雲閣別館などがあります。

ただ、建造物の国登録有形文化財は、文化庁さんのサイトに拠れば現在47都道府県945市区町村で12,000件以上ですので、調べればもっとありそうな気もします。

単に保存のみでなく、有効活用の道も探っていただきたいものですね。


【折々のことば・光太郎】

紅葉でなくて黄葉ではありますが、信州上高地徳本峠の山ふところに密生する桂の黄葉は確に推薦に値ひします。

アンケート「徳本峠――紅葉郷――」より 大正11年(1922) 光太郎39歳

上記にもちらっと書いた上高地徳本峠。確認できている限り、光太郎がここを訪れたのは大正2年(1913)、智恵子との婚前旅行の一度きりですが、かなり深く印象に残ったのでしょう。その後も繰り返し、その美しさを文章にしたためています。

こういう刊行物があったとは存じませんでしたが、うたごえ新聞社さん発行の『うたごえ新聞』。「にほんのうたごえ全国協議会機関誌」だそうで、昭和30年(1955)創刊とのこと。

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タブロイド判8ページ、週刊だそうで、上記は同社サイトから採らせていただきましたが、現物はモノクロ印刷です。合唱系をメインに、全国の演奏会情報や講習会などのイベント紹介、また、合唱に限らず、独唱歌曲系、器楽系、そしてうたごえ喫茶などに関する記事も載っています。

で、その3月16日号に「私とこの歌 「智恵子抄巻末のうた六首」」という記事が載っているという情報を得まして、取り寄せてみました。

「私とこの歌」は、アマチュア合唱団等で歌われている方からの寄稿のようで、今回は宮城県の医療のうたごえ合唱団セデスさんに所属されている、横田渉氏が書かれています。

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「智恵子抄巻末のうた六首」は、故・清水脩氏により、昭和39年(1964)、愛知の合唱団・東海メールクワイヤーさんの委嘱で、男声合唱曲として作曲されました。のちに混声版も出ています。題名の通り、詩集『智恵子抄』に収められた短歌六首がテキストです。

ひとむきにむしやぶりつきて為事(しごと)するわれをさびしと思ふな智恵子
気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり
いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる
わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき
この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾(あ)をいねしめず
光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき


当方、レコードやCD、それから平成24年(2012)、千葉県合唱祭で、船橋の合唱団・HGメンネルコールさんが演奏されたのを聴いたことがあります。

最近も、ぽつりぽつりと取り上げられています。
 所沢メンネルコール 第30回記念演奏会~歌は心のよろこび。
 コーロ・カンパーニャ 第7回コンサート/米津玄師さん「Lemon」。
 北海道教育大学札幌校グリークラブ・混声合唱団 OB・OG演奏会。

今後も歌い継がれていってほしいものです。

また、故・清水氏、これ以外にも、昭和30年代から、光太郎詩をテキストとしてさまざまな楽曲を作曲して下さいました。合唱(混声、男声)、独唱歌曲、箏曲など。こうした傾向も現代の作曲家さんたちに、受け継いでいっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

沢山あつて困ります。日本のを一人だけお答へしませう。
一、弟橘比売命。
二、姫の御歌をよめば理由は申上げるまでもないと思ひます。
「真嶺(さね)さし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」

アンケート「私の好きなロマンス中の女性」全文
 大正9年(1920) 光太郎38歳

アンケート設問の「一」は、「好きなロマンス中の女性」、「二」は「その好きな理由」です。

弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、『古事記』や『日本書紀』に登場する神話上の人物ですが、日本武尊(やまとたけるのみこと)の妻です。夫の東征に際し、現在の東京湾・馳水(はしりみず)で、暴風雨を鎮めるために、自ら生け贄となって海中に身を投じました。引用されているのはその際の辞世の歌です。

のちに光太郎芸術世界の構築のため、自ら「生け贄」となった智恵子を彷彿とさせる、というと、牽強付会に過ぎましょうか?

光太郎の親友にして、ロダンに学んだ碌山荻原守衛関連です。


まずは長野県松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さんの記事

穂高柏原の山下さん 碌山の生涯脚本に

 ドイツ文学者で松本歯科大学元教授の山下利009昭さん(71)=安曇野市穂高柏原=はこのほど、穂高出身の彫刻家・荻原守衛(碌山、1879~1910)を主人公にしたオリジナル脚本『私家版(紙上公演) 私の碌山劇場』を出版した。三つの彫刻が制作された背景を追うことで芸術に情熱をささげた苦悩の生涯を描きつつ、謹厳実直なだけでなく自らの気持ちに従って自由に生きようとした碌山の姿に迫った。
 碌山は、新宿中村屋を創業した同郷の先輩・相馬愛蔵の妻・良(黒光)への恋心に苦しんでいた。脚本では、こうした状況の中で碌山が作った彫刻のうち、腕組みをする僧の半身像「文覚」、絶望した女性が身を投げ出す「デスペア」、絶作の「女」を取り上げながら、制作の過程と2人の物語を描き出している。文覚とその愛人の「袈裟」、フランス留学中に碌山が師事した彫刻家・ロダンの弟子で愛人の「 カミーユ」、黒光の次男で病床の「襄二」なども登場しており、さまざまな人とのやり取りを通して新たな碌山像を浮かび上がらせている。
 碌山は第1次世界大戦前のアメリカとパリで学び、自由な考え方に触れた。山下さんは「脚本を通して、当時の日本人としては画期的な考えを持っていた碌山について、思いを巡らせてもらえたら」と話している。
 脚本の一部は、碌山美術館開館60周年記念として昨年1月、館友の会(幅谷啓子会長)が松本市のまつもと市民芸術館で開いた演劇公演の原作となった。出版にあたって加筆、修正し昨年末に完成した。

明治43年(1910)、数え32歳で早世した守衛ですので、比較的長寿だった光太郎とは異なり、もはや直接面識のあった人はすべて亡くなっています。しかし、地元での碌山敬愛度は半端ではなく、毎年4月22日の碌山忌は100回を超えても盛会のうちに執り行われています。

山下氏のご著書、光太郎にふれられているかどうか不明ですが、伝手(つて)を頼って入手できれば、と思っております。


次いで、記事にもある守衛絶作の「女」。ミニチュア複製が新たに販売され始めましたので、ご紹介します。 

藝大×東博 荻原守衛作「女」小品ブロンズ像

東京国立博物館と藝大の共同プロジェクトでよみがえった荻原守衛の重要文化財「女」

 東京国立博物館と東京藝術大学彫刻科塑造研究室の共同研究で、荻原守衛の重要文化財「女」が鋳造再現された。
 東京藝術大学アーカイブセンターの最新鋭の技術でよみがえった、近代彫刻史上の記念碑的作品をご家庭にお届けする。

 ひざまずき腰の後ろで手を組み、体をねじりながら伸び上がる女性。表面的な写実ではなく、内的な生命に重きがおかれた表現は、ロダンの彫刻の本質を理解した作品として、日本彫刻史上で高く評価されている。明治時代以降の彫刻で初めて重要文化財に指定された作品でもある。
 「女」には、荻原守衛没後に鋳造されたブロンズ像が複数種類あるが、本作は守衛が最終段階の石膏取りを行なった、オリジナルの石膏原型を基にしている。その3Dデジタルデータを計測し、東京藝術大学鋳金研究室が1/1スケールのブロンズ像を鋳造。それを縮小し、限定制作(エディション)したのが本作品だ。最新のデジタル技術とアナログ技術の融合で、小品ながら守衛の手の痕跡や息遣いまでもがよみがえっている。

 台座は幅19×奥行き16×高さ5cm。像は最大幅14×奥行き13×高さ25cm。重量3.3kg。台座は木。像はブロンズ。桐箱入り。日本製。

 価格 396,000円


※受注生産品のため返品・キャンセル不可。
※代引き不可。

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像高25㌢だそうで、オリジナルの4分の1くらいでしょうか。こういうのも有りなのですね。

「女」は、守衛が亡くなった際、新宿角筈のアトリエに粘土原型のまま残されていました。モデルを務めた岡田みどりという人物の回想によれば、破壊されるはずだったところを、光太郎が残すように進言したそうです。光太郎、ファインプレイでしたね(笑)。

資金力に余裕のある方、ぜひどうぞ。

ところで、昨年、上田市ご在住の田丸めぐみ様とおっしゃる方が、守衛関連のご著書を刊行されそうです。4月2日(木)の連翹忌にご参加下さり、お持ち下さるとのことですし、4月22日の碌山命日には、上田で朗読会的なイベントをなさるとのこと。また改めて紹介させていただきます。


【折々のことば・光太郎】

俗気に満ちた画家連の写生した上高地近辺の写生画を見て上高地を想像しては間違ひです。あんなヘナチヨコな山や水ではない。悪画家は山水の自然を瀆します。

アンケート「夏の画材を猟りに行く処」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

守衛の生まれ育った信州にある上高地。大正2年(1913)には、智恵子ともどもここを訪れ、結婚の約束を交わしました。


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。ただし、現在、関係各方面と開催か中止か協議中です。ご意見のある方、コメント欄(非公開も可能です)よりお願いいたします。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

昨日、『朝日新聞』さんの教育面に、以下の記事が出ました。 

休校中の子へ、詩集をどうぞ コールサック社、1千冊を無料配布


 新型コロナウイルスの感染拡大による一斉011休校で不安に駆られている子どもたちを励ましたいと、コールサック社(東京都板橋区)は、200人がつづる「少年少女に希望を届ける詩集」を1千冊、無料で贈呈する。作品は谷川俊太郎さんや新川和江さんといった著名な詩人から、いじめや不登校に苦しんだり、身近な人の自死を経験したりした無名の人のものもある。
 対象者は小中高などの教育関係者、保育園、幼稚園、障害者施設などの従事者、子ども食堂などでボランティアをしている支援者ら。送料も同社が負担する。鈴木比佐雄社長は「子どもたちにとって、今こそ、心の栄養が必要だと感じた。ぜひ、詩集を読んであげてほしい」と話す。
 申し込みは、FAX(03・5944・3238)かメール(suzuki@coal-sack.com)へ、氏名、団体名、住所、電話番号を書いて送る。問い合わせは同社(03・5944・3258)へ。



同書は、平成28年(2016)の刊行です。その当時、けっこう各種メディアで紹介されました。

『少年少女に希望を届ける詩集』。
『少年少女に希望を届ける詩集』 その2。
『少年少女に希望を届ける詩集』 その3。

光太郎の「道程」(大正3年=1914)、「冬が来た」(大正2年=1913)を含む古今の詩人の詩、それから現在各方面で活躍されている方々のエッセイなどが収録されています。作曲家・野村朗氏、光太郎と交流のあった詩人・野澤一の子息・俊之氏、同書の編集に当たられた詩人の曽我貢誠氏など、連翹忌ご常連の方々の作品も。連翹忌といえば、記事にある同社社長の鈴木比佐雄氏もご参加下さったことがあります。

さらに昨日、同社からメールが来まして、この件に関し報道各社にニュースレターを配信した旨が記されていました。抜粋します。 

 編集部より 『少年少女に希望を届ける詩集』を子供たちの心に届けたい。鈴木比佐雄

各種新聞・メディア記者に、子供たちを励ますために『少年少女に希望を届ける詩集』合計1,000冊を寄贈したいというニュースレターを送ったところ、本日の朝日新聞3月17日朝刊で下記のように紹介されました。

(略)

『少年少女に希望を届ける詩集』にご参加くださった200名の皆様の詩篇が、全国の1,000もの施設で読まれることになる可能性があります。
困難な状況だからこそ、活字の詩の言葉から生きる力である希望が少年少女たちに湧いてくることを願って活用してもらうことを考えました。
他の新聞社からも紹介したいとの連絡があり、少しでもこの輪が広がって欲しいと願っています。


ニュースレターの載ったサイトがこちら

拡散していただければ幸いです。


【折々のことば・光太郎】

タイサンボクの花。花は何でも好きですが、此花の気品には殊にうたれます。

アンケート「好める花」全文 大正8年(1919) 光太郎37歳

光太郎が「連翹忌」の由来となったレンギョウの花を好むようになったのは、最晩年。終焉の地となった中野の貸しアトリエの庭に咲いているのを見てのことです。それまで「レンギョウ」という名前も知らなかったとのこと。

ちなみに当方自宅兼事務所にある、そこから株分けしたレンギョウはもう咲いています。

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かつてはアンケート回答の通014り、泰山木(たいさんぼく)が好きだったそうで、もしかすると「連翹忌」が「泰山木忌」になっていたかもしれません(笑)。何だかしっくり来ません(笑)。「連翹忌」と名づけたのは、佐藤春夫や草野心平。語呂もよく、よくぞそのように命名してくれたと、感謝しております。

ちなみに泰山木というと、当方、事故で頸髄を損傷、手足の自由を失い、筆を口にくわえて詩画をかき続ける星野富弘さんの「泰山木」という詩を思い出します。


 ひとは 空に向かって寝る
 寂しくて 空に向かい
 疲れきって 空に向かい
 勝利して 空に向かう

 病気の時も
 一日を終えて床につく時も
 あなたがひとを無限の空に向けるのは
 永遠を見つめよと
 いっているのでしょうか

 ひとは 空に向かって寝る

 
 


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。ただし、現在、関係各方面と開催か中止か協議中です。ご意見のある方、コメント欄(非公開も可能です)よりお願いいたします。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

昨年11月から山口市の中原中也記念館さんで開催中の「開館25周年記念展(文学表現の可能性 後期) 清家雪子展――『月に吠えらんねえ』の世界」につき、一昨日、NHKさんのローカルニュースが取り上げていました。 

漫画で描く中原中也の世界

山口市出身の詩人、中原中也をモデルにしたキャラクターが登場する漫画を通じて、中也の詩の世界を紹介する企画展が山口市で開かれています。

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山口市の中原中也記念館では、近代の詩人たちの作品からイメージされたキャラクターが登場して、近代日本の世界を独創的に描いた漫画「月に吠えらんねえ」の作者、清家雪子さんの作品を通じて、中原中也の詩の世界を紹介しようという企画展が開かれています。
展示されているのは、パネルや原稿などおよそ60点で、このうち清家さんが4年前に記念館に寄稿した「夕焼けめぐり」という短編の漫画は、結核のため2歳で亡くなった息子との思い出を中也が回想した詩をもとにしています。
この中では、中也が生前の息子と2人で飛行機の形をしたアトラクションに乗り込んで、夕暮れの町並みを眺める様子が切なく描かれています。

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このほか漫画の中で中也をモデルにしたキャラクターが、かつての恋人と再会し、失恋の痛みがよみがえるシーンにあわせて、失恋をテーマにした中也の詩も紹介されています。
大分市から訪れた20代の女性は、「漫画の作者は詩をきちんと読んで、自分の感じたことを絵にする力がすごく、詩のたん美な世界観がよく表れている」と話していました。
この企画展は来月12日まで山口市の中原中也記念館で開かれています。

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主要登場人物についてのパネル展示もなされており、光太郎をモチーフとした「コタローくん」も。

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NHKさんの映像にもちらっと映っていました。

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新型コロナウィルスの影響で、文学館、美術館、博物館等の閉鎖も相次ぐ中、貴重な機会かと存じます。ただ、「ぜひ足をお運び下さい」と言えるか、というと、難しいところです。「そんなことを言って、もし新型肺炎に感染したら、お前が責任を取れるのか?」と言われたら、「取れません」と答えるしかありませんし……。


【折々のことば・光太郎】

すべて美しきものの鑑賞に時所の制限はある可からず。美は人心を高からしむ。
アンケート「取締を帝国美術院に――裸体美芸術の解放――」より
大正8年(1919) 光太郎37歳

「現代の日本人に裸体美芸術を公008開するの可否並に之に就ての御意見」という問いに対しての回答の一部です。

明治期には、ヌードを描いた作品等は「春画」扱いされて「特別室」に押し込められたり、一部を布で隠して公開されたりといったことが行われていましたが、大正半ばの時点でも、まだ「裸体美芸術を公開するの可否」が論争の種になっていたのですね。

ちなみに光太郎、回答の最後に「但し裸体芸術は排斥すべし」と述べています。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。ただし、現在、関係各方面と開催か中止か協議中です。ご意見のある方、コメント欄(非公開も可能です)よりお願いいたします。

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新刊です。 

彼女の知らない空

2020年3月11日 早瀬耕著 小学館(小学館文庫) 定価680円+税

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ぼくは、自分の正義を貫くことができるのか
憲法九条が改正され、自衛隊に交戦権が与えられて初めての冬。航空自衛隊佐官のぼくは、千歳基地に配属され、妻の智恵子と官舎で暮らしている。しかし、智恵子は全く知らない。ぼくが、一万二千キロ彼方のQ国の無人軍用機を遠隔操縦し、反政府組織を攻撃する任務に就いていることを。トリガーを引いたら、ぼくは自衛隊史で初めての殺人者になる。それでも智恵子は、いつものように優しい声で「おかえりなさい」と言ってくれるだろうか――(「彼女の知らない空」)

いつの間にか、私たちは戦争に加担している。

化粧品会社の新素材の軍事転用をめぐり、社員夫婦が抱えてしまった秘密(「思い過ごしの空」)、過重労働で心身を蝕まれていく会社員と老人の邂逅(「東京駅丸の内口、塹壕の中」)他、組織の中で生きる人々のジレンマを描いた7編。

ぼくは、あの日誓った正義を、貫くことができるのだろうか。

『未必のマクベス』著者が、今を生きる私たちの直面する危機について問いかける短編集。

〈 編集者からのおすすめ情報 〉
日々流れてくるニュースに希望が持てない時、働くことに疲れた時、組織の中で自分を無力に感じた時……。手に取っていただきたい1冊です。


目次002
 思い過ごしの空
 彼女の知らない空
 七時のニュース
 閑話 | 北上する戦争は勝てない
 東京駅丸の内口、塹壕の中
 オフィーリアの隠蔽
 彼女の時間
 解説 瀧井朝世


七篇の短編を収めていますが、連作というわけではなく、しかし、別個の内容でもなく、それぞれがゆるやかに繋がっています。舞台は「憲法九条が改正され、自衛隊に交戦権が与えられた」日本。近未来というか、パラレルワールド的な世界というか、そんな感じです。

最初の「思い過ごしの空」で、1ページ目からいきなり光太郎。「智恵子抄」所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)がモチーフとして使われています。

主人公「ぼく」は大手化粧品会社の本社でスタッフ部門、妻は同じ会社の研究・開発部門に勤務しているという設定です。その妻が化粧品用に開発した技術が、軍事技術に転用できることが判明、実際にその技術がステルス爆撃機に使われていることを「ぼく」が知り、しかし、妻は知らない(実は知っていたのですが)という話の流れです。

二篇目にして表題作の「彼女の知らない空」。こちらは航空自衛隊員夫婦の話。夫の三佐は、「集団的自衛権」の行使により、中東の「Q国」の空を飛ぶ無人爆撃機(これに「思い過ごしの空」に出てきた技術が転用されています)を日本から遠隔操縦し、民間人も巻き込むと知りつつ反政府組織の拠点を空爆、それを妻は知らない(今度は本当に知りません)という設定です。妻の名が「智恵子」ですが、こちらでは光太郎の名や「智恵子抄」がらみの記述はありません。しかし、作者の早瀬氏、当然、「空」がらみで意識して付けたネーミングでしょう。

他に、過労死レベルを遙かに超えるサービス残業をアスリートのドーピングにたとえ(成果は上がるが、リスクも大きいということで)、心身をむしばまれていくキャリアウーマンやサラリーマン、そうした「戦い」からドロップアウトしたであろうホームレスの話などをはさみ、最終篇「彼女の時間」では、宇宙飛行士を目指しながら挫折したNSADA職員の話で終わります。ちょい役として最初の「思い過ごしの空」の夫婦が登場し、物語が連環しているわけです。

軍事とは最も遠い、という理由で化粧品会社を就職先に選んだのに、否応なしに自分の開発した技術が戦争に使われたり、何とかしてやらないで済む方法を模索しながらも、結局はミサイルのトリガーを弾かなければならなかったりといった登場人物たちの苦悩や葛藤などの心理描写が実に見事です。また、現実に起こりうる話でもあるというところに、恐ろしさを感じます。

そして、夫婦にまつわる話が多いのも特徴です。そこにはある種の極限状況に置かれても、お互いを気遣う優しさや、反面、相手を冷徹に観察する眼なども描かれ、考えさせられます。

暗い話ばかりではなく、シェイクスピアの「ハムレット」をモチーフに、ウィットに富んだ会話が交わされる「オフィーリアの隠蔽」などは、救いのある話でした。

ちなみに早瀬氏へのインタビューがネット上にアップされています。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

敬愛する詩人も、尊崇する詩人も尠くありません。

アンケート「詩人の好める詩人及び詩風」より
 大正8年(1919) 光太郎37歳


「尠く」は「すくなく」と読みます。

光太郎、造型作家(特に同時代の)に対しては、実名を上げての手厳しい評を厭いませんでしたが、なぜか詩人に対してはそれがほとんど見られません。彫刻を本業と捉えていた矜恃がそうさせていたのかもしれません。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。ただし、現在、関係各方面と開催か中止か協議中です。ご意見のある方、コメント欄(非公開も可能です)よりお願いいたします。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

一昨日から昨日にかけ、愛車を駆って一泊二日で仙台方面に行っておりました。

メインの目的は、光太郎智恵子と関係のないところで、この春、ようやく大学卒業の運びとなった息子の引っ越しの手伝いです。修士課程に進んだわけでもなく、医学部でも薬学部でもないのに、なぜか6年間も大学に在籍しやがったスネかじりです(笑)。

荷造りや当方の車に積み込むべきものの搬入が終わったところで、息子のアパートにほど近い(車で十数分)寺院を訪れてみました。青葉区の慈雲山資福寺さん。

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仙台三十三観音の一つに数えられ、鎌倉時代の開山(その後移転しているそうですが)、伊達家にもゆかりの古刹です。境内には仙台ゆかりの土井晩翠の碑などもありました。

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なぜこちらを訪れたかというと、ご本尊が光太郎の父・光雲の作であるためです。平成12年(2000)、茨城県立近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」に出品され、拝見したことがあるのですが、その際は出品点数がとにかく多く、細かなところまで記憶に残っていませんで、再び拝見したいと思いました。

ご本尊というからには本堂なのか、それとも観音堂という堂宇もあるのでそちらなのか、よくわかりません。

下記が本堂。新しい建築のようでしたが大きく立派でした。

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観音堂はこちら。

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訪れたのが日没少し前、どちらも扉か閉ざされていて、また、説明板等もなく、何とも分かりませんでした。もうすこし早い時間でしたら庫裡をおとない、お話を伺うところでしたが、遠慮しました。

まぁ、場所はわかりましたので、再訪したいと思っております。こちらは別名「あじさい寺」とのことで、その季節がいいかもしれません。

また、同じ青葉区で、やはり仙台三十三観音の一つ大鶴山昌繁寺さんの観音様は、補修の際に光雲の手が入っているそうで(こちらは確実な情報です)、いずれそちらにも、と思っております。

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おまけ。資福寺さんの駐車場にいた猫さん(笑)。

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その後、息子と共に、息子がアルバイトをしていたという居酒屋さんで夕食。車ですのでアルコールは飲みませんでしたが(そうでなくても最近アルコールを摂取する習慣がなくなりましたけれど)、新鮮な海の幸等を堪能いたしました。

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息子と別れ、当方は亘理町へ。

宿泊先がこちら。

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ファミリーロッジ旅籠屋さん仙台亘理店。全国チェーンで、格安の宿です。何年か前にテレビ東京さんの経済番組か何かで見て(他店だったと記憶していますが)、「ほう」と思っておりました。アメリカ映画に出て来るカーホテル的な感じで、一泊朝食付き5,500円。朝食といってもパンとコーヒーとオレンジジュースのみですが、当方も光太郎同様、朝食はパン派ですのでかえってありがいところです。

ちょっと歩くと阿武隈川。智恵子の故郷・福島二本松も流れている川で、光太郎詩「樹下の二人」(大正12年=1923)に、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」と謳われています(さすがに亘理から安達太良山は見えませんが)。1泊したあと、昨日の朝、歩いて行ってみました。

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2㌔㍍ほどで河口ですので、鷗の姿も。

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このあたりも、東日本大震災、そして昨年の台風19号による被災があったわけで、そんなことを思いつつこの景色を眺めておりました。

宿に帰り、朝食を摂りながらテレビを観ていると、このあと雪の天気予報。積もるようだと厳しいので、急いで帰途に就きました。

亘理ICから常磐道を南下。昨日のブログでご紹介した、NHKラジオ第一さんの「石丸謙二郎の山カフェ」を、カーラジオで拝聴しました。光太郎のエッセイ「山の春」から抜粋で石丸さんが朗読。戦争責任を痛感しての蟄居、という話にはなりませんでしたが、光太郎が戦後、山村で暮らしていたこと、他にも「山の雪」、「山の秋」などのエッセイもあることなども紹介して下さいました。

福島・茨城の県境あたりは雪になりましたが、積もるほどではなく、関東平野に下りたら雨となり、無事帰宅。ほぼほぼトンボ返りで少々疲れました。いずれまたゆっくり再訪したいところです。

というわけで、「仙台方面レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

趣味は実用を旨とし極めて単純(一見有趣味に見ゆるものは多く趣味低きものと見て差支なし。俗画家の年頭絵葉書の如きは此の適例。)

アンケート「書斎を如何に改善すべきか」より
 大正8年(1919) 光太郎37歳


光太郎、これに限らず、随所で「用の美」といった持論を展開しています。それにしても「俗画家」とは、手厳しいですね。


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。ただし、現在、関係各方面と開催か中止か協議中です。ご意見のある方、コメント欄(非公開も可能です)よりお願いいたします。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

昨日から仙台方面に来ております。光太郎智恵子、光雲等と直接関係のない用事がメインですが、そこを無理くり光太郎関連にしてしまうのが当方で、まぁ、そのあたりのレポートはまたのちほど。

まずラジオ番組のご紹介を。情報を得たのが昨日でして、もう今日のオンエアです。おそらくこの記事を目にされる方、ほとんどは放送終了後になってしまうかと存じますが、こういうのがあったんだ、ということで。 

石丸謙二郎の山カフェ「春を感じよう!」8時台

NHKラジオ第一 2020年3月14日(土) 午前8時05分~8時55分

山の日だまりで、朝日に輝く山々や森をながめつつ、コーヒーをいれてほっと一息・・・。そんなひとときをイメージしたラジオ番組が、「山カフェ」です。カフェのマスターこと、パーソナリティをつとめるのは、登山歴40 年になる石丸謙二郎。山を愛する多彩な方々をお客さまに迎え、飾らないトークを楽しみます。

山小屋や今まさに山に登っている方々と電話をつなぐ「山からおはよう」や、古今東西の山岳図書を紹介する「マスターの本棚」などのコーナーも。皆さんからの、心に残る山のエピソード、とっておきの写真も大募集しています。土曜の朝、いっしょに山に想いをはせてみませんか?

今年度最後の山カフェは「春の山を感じよう!」がテーマです。皆さんの好きな春の山、おススメや思い出のお便り、お待ちしています。マスターの朗読で春山気分を味わう「空想登山」、どの山の描写なのか、わかったら是非ご応募下さいね。「山からおはよう」は丹沢蛭ヶ岳山荘から。「マスターの本棚」は高村光太郎「山の春」をご紹介します。


【司会】石丸謙二郎,山本志保

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「山の春」は、昭和26年(1951)、雑誌『婦人之友』に載ったエッセイで、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた頃のものです。そのまま題名通りの内容で、山小屋周辺の厳しい冬が過ぎ、春の訪れがこのようにやってくる、ということを味わい深く紹介しています。

ちなみに同じ『婦人之友』には、これ以外にも前後して「山からの贈物」、「山の雪」、「山の人々」、「山のともだち」といった詩文を寄稿しており、当方、勝手に「山」シリーズと呼んでおります。


続いてテレビ。3月2日(月)に放映された、NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」の再放送があります。 

にほんごであそぼ 「レモン(1)レモン哀歌」

NHK Eテレ 2020年3月16日(月) 午前6時35分~午前6時45分/ 午後5時00分~午後5時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた「レモン哀歌」高村光太郎、ひゃくにん・いっしゅの百人一首劇場/瀬を早み岩にせかるる瀧川の われても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院)、童謡「鉄道唱歌」、うた「うれしや歌舞伎 ~三人吉三・髪結新三~」

出演 美輪明宏 中村勘九郎 中村勘太郎 小錦八十吉 おおたか静流 池田鉄洋 中村いてう 中村仲助 ほか

月曜から木曜まで、4回分の放送が「レモン」特集でした。そこで、光太郎の「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。

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この詩はご存じの通り、智恵子の臨終を謳った詩ですので、子供さん向けにはどうなのかな、と思っていたのですが……。

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「かなしく白くあかるい死の床で」、「かういふ命の瀬戸ぎはに」、「あなたの機関はそれなり止まつた」といった、「死」を連想させる部分は扱われませんでした。

番組の前半、後半でお二人のお子さんが朗読されていますが、それぞれ画像にある4フレーズのみ。

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それでも、この詩の持つ清冽なイメージは、ある程度伝わると思いました。

ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

夏の朝食は大てい焼麺麭(トースト)に茶です。

アンケート「名流の銷夏生活」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

ここでいう「茶」は、おそらく紅茶でしょう。そしてレモンを浮かべてレモンティーにしていたのでは、と思われます。やはり大正期の回想として、光太郎智恵子と交流のあった詩人の上田静栄は、駒込林町の住居兼アトリエで当時としては珍しかったレモネードをふるまわれたことを書き残しています。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。ただし、現在、関係各方面と開催か中止か協議中です。ご意見のある方、コメント欄(非公開も可能です)よりお願いいたします。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

被災規模に於いて東日本大震災とは比較になりませんが、我が千葉県、昨年の台風15号では、気象庁観測史上1位の最大瞬間風速57.5㍍を記録し、住宅約74,000戸の損壊、停電約64万戸、そして2名の方が亡くなりました。

それが上陸したのが9月9日というわけで、今月9日には半年が経過。それを受けて同日の地元紙『千葉日報』さんの一面コラムが以下の内容でした。 

忙人寸語「智恵子は東京に空が無いといふ、」

 「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ」。高村光太郎の詩集『智恵子抄』に収められた「あどけない話」の一節だ▼ふと早春の空を見上げる。智恵子が望んだ故郷・福島の安達太良山の青空に負けず劣らず、我が故郷・千葉の青空も心を晴れやかにしてくれる。昨年9月9日に荒れ狂った空が同じだとは思えない▼同日未明、房総半島台風と先月命名された台風15号が千葉市付近に上陸。同市で観測史上第1位となる最大瞬間風速57.5㍍を観測するなど、暴風が県内を襲った。電柱の損壊や倒木で最大約64万戸が停電。給水ポンプ停止による断水もあり、毎日、四苦八苦された方も多かろう▼二転三転した東京電力の復旧見通しに、停電が解消したとされる地区に点在した「隠れ停電」。翻弄(ほんろう)された日々を思い返しつつ、いかに私たちの生活が電気に頼っているのか改めて実感する▼そして建物被害。屋根が吹き飛んだ住宅、ひしゃげた農業用ハウスの骨組み。生活の基盤を、活計の道を一夜にして失った人にとって再建は端で考えるほど、甘いことではないだろう▼15号上陸から今日で半年、光太郎は力強く歩む牛をテーマにした詩も書き残している。「牛は後ろへはかへらない 足が地面にめり込んでもかへらない」。物心ともに被災地の、被災者の復興が少しでも前に進むことを願ってやまない。

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まったくその通り、と思いました。

千葉県北部に位置する当方自宅兼事務所は、54時間の停電に見舞われたくらいで、幸いに建物への損害はほとんどありませんでした。しかし、南の方では未だに傷跡が残り、生活を立て直すめどが立たずにいる方々も多いのが現状です。

上記一面コラムの上に載った、一面トップの記事がこちら。

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最初に書いた通り、被災規模では比較になりませんが、東日本大震災の時も、津波被害の大きかった地域はこんな感じだったんだろうな、と思いつつ拝読しました。人的被害が少なかったのが、まだしも不幸中の幸いだったと思います。しかし、頻度ということを問題にすると、津波より台風の方が多いわけで、そのあたりが見出しにもある「町に残るか、離れるか…」という悩みにつながっているようです。

とにもかくにも「忙人寸語」の末尾のように、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)の如く、「のろのろと」でも、一歩ずつ進んで行くしかないのかも知れません。ちなみに「牛」全文はこちら(閲覧注意、102行もある詩です)。


【折々のことば・光太郎】

建築家は工芸家はじめ彫刻家、音楽家、園芸家等と一緒に仕事す可き性質のものです。提携などゝ言ふのはまだるい程密接す可きものと思ひます。

アンケート「建築家と工芸家との提携に就きて」より
 大正8年(1919) 光太郎37歳

「光太郎37歳」で思い出しましたが、今日、3月13日は光太郎の誕生日です。生誕137年となります。上記の【折々のことば・光太郎】は、数え年で光太郎の年齢を表記していますので1年ずれています。

閑話休題。作例は少ないものの、駒込林町のアトリエ兼住居など、自分でも建築設計にかかわった光太郎ならではの発言です。

当方自宅兼事務所はミサワホームさんの建築です。築20年近くになりますが、建立当時「阪神淡路大震災で1軒も全壊しなかった」というのが売りでした。宣伝ではありませんが、なるほど、確かに台風15号の際もびくともしませんでした。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。ただし、現在、関係各方面と開催か中止か協議中です。ご意見のある方、コメント欄(非公開も可能です)よりお願いいたします。
来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

昨日は3.11でした。あらためて、あれから9年経ったか、という感じです。

このところこのブログでよく話題にしている、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ宮城県女川町の「いのちの石碑」につき、昨日は『東京新聞』さんが「社説」で取り上げて下さいました。系列の『中日新聞』さんにも同じ社説が載ったようです。

社説 3・11から9年 千年先の郷土を守る

 牡鹿半島の付け根に位置する宮城県女川町は、東北電力女川原発のある町です。
 リアス海岸の岬を巡るとあちこちで、高さ二メートル、幅一メートルほどの平たい石碑に出合います。「女川いのちの石碑」です。
 建てているのは、女川中学校卒業生の有志でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」。今月一日、十八基目ができました。
 あの日女川町は、最大一四・八メートルの津波に襲われました。
 人口約一万人のうち、死者・行方不明者は八百二十七人に上り、全住宅の九割に当たる約三千九百棟が被害に遭いました。
 東日本大震災の被災市町村の中で、最も被災率の高かった町だと言われています。

◆大震災を記録に残す
 震災翌月、当時の女川第一中(二〇一三年に女川第二中と統合して女川中)に入学した一年生は、社会科の授業で「ふるさとのために何ができるか」を話し合いました。そして「震災を記録に残す」活動の実践に乗り出すことを決めたのです。
 町内に二十一ある浜の集落すべてに津波は押し寄せました。
 それぞれの津波到達点に石碑を建てておこう、ふるさとの風景に震災の記憶を刻みつけ、千年先まで命を守る避難の目安にしてもらおう-。
 街頭やSNSで寄付を募ると、半年で目標額の一千万円が集まりました。
 石碑には、警告が刻まれます。
 <ここは、津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出してください。家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください>

◆津波わずかに高ければ
 末尾には、卒業生から未来へ贈るメッセージも添えました。
 <今、女川町は、どうなっていますか? 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています>と。
 第一号は一三年十一月、女川浜を見下ろす母校の校庭に建ちました。今年中には二十一基目が完成し、プロジェクトは完了する予定です。
 そんな女川町でも、原発再稼働の手続きが最終段階を迎えています。
 女川原発は、震源に最も近い原発です。福島同様、激しい揺れと津波に襲われました。到達点よりわずかに高い所にあったため、辛うじて難を逃れたにすぎません。
 原発の敷地は、大地震の影響で一メートルも沈下しました。原子炉建屋の壁からは、千百三十カ所ものひび割れが見つかりました。
 震災で、満身創痍(そうい)にされた原発です。原子力規制委員会の審査を終えて、規制基準に「適合」と判断されはしたものの、とても安心とは言えません。規制委も安全だとは言いません。
 「あと三十センチ津波が高ければ、福島と同じになったと思います。原発に絶対の安全はなく、ふるさと喪失のリスクが付きまとう。福島の教訓です。再稼働を許すとすれば、これからも多大なリスクを、しょっていかねばならんのです。住民の命を預かるものとして、そんなことはできません」
 原発から三十キロ圏内にある宮城県美里町の相沢清一町長は、再稼働にきっぱりと「ノー」を突きつけます。
 「目の前に、現実の課題が山積みです。風化だなんてとんでもない。(放射性物質をかぶった)稲わらひとつ、処分できない。避難計画をつくれと言われても、なかなか答えが見つからない。高齢者はどうなるか? 複合災害が起こったときは? 途中で風向きが変わったら? 隣町から逃げて来る人たちは?…。(国や東北電力は)何をそう急ぐのか」
 東北の被災原発を再稼働に導いて、「復興原発」にしたいのか。原発は安全です、ちゃんと制御(アンダー・コントロール)できていますと、五輪を前に世界へアピールしたいのか。
 いずれにしても、原発のある風景や暮らしの中に刻み込まれた震災の痕跡を、見過ごすことはできません。風化を許してはいけません。
 その一つ一つが、未来ではなく、今を生きる私たちへの「警告」になるはずだから。

◆ふるさとを奪わないで
 女川いのちの石碑には、震災直後に生徒たちが詠んだ句を一句ずつ刻んでいます。
 原発に近い塚浜の公園に立つ十三番目の石碑には、こんな句が添えられました。
 <故郷を 奪わないでと 手を伸ばす>
 この痛切な願い、忘れるわけにはいきません。



女川原発の問題、原子力規制委員会の基準を満たしたという報道に接し、関心を寄せています。全国区のニュースでは報じられていないような気がしますが、先週にはこんな報道も。地元紙『河北新報』さんから。 

宮城県議会、女川再稼働の住民投票条例案を否決 自公会派など反対

 東北電力女川原発2号機(宮城県女川町、石巻市)の再稼働の是非を巡り、宮城県議会の野党会派は3日、開会中の2月定例会に住民投票条例案を議員提出した。即日採決の結果、賛成少数で否決された。

 議長を除く議員58人のうち、自民党・県民会議32人、公明党県議団4人、21世紀クラブ1人、緑風会1人の計38人が反対。賛成はみやぎ県民の声10人、共産党県議団5人、社民党県議団2人、無所属の会の2人の計19人。県民の声の1人が本会議を欠席した。

 野党は当初、「脱原発をめざす県議の会」を構成する5会派で共同提案する予定だったが、緑風会の高橋啓氏が「投票結果の尊重が条例案に盛り込まれていることに賛成できない」などとして提案者から外れ、採決でも反対に回った。

 条例案は自民会派が2日の議会運営委員会で、本会議での提案理由説明や常任委員会への付託の省略を求め、即日採決となった。

 県議の会の佐々木功悦会長は本会議終了後の取材に「残念としか言いようがない。再稼働の是非について意思を示したいという県民の強い思いを踏みにじる行為だ」と語った。


一方で、再稼働に明確に反対の意思表示をしている首長さんもいらっしゃいます。 

「もし国が認めてもノー」 女川原発再稼働に反対の町長

 東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)から30キロ圏内にある美里町の相沢清一町長は、女川原発再稼働への反対の姿勢を貫いている。東日本大震災から11日で8年半。原子力規制委員会の審査会合が大詰めを迎える今、改めて反対の理由を聞いた。
 ――女川原発2号機の再稼働に向けた規制委の審査が大詰めです。
 「やはり再稼働はするべきでないと思う。福島の原子力事故から8年半経った今も大勢が避難している。女川原発の30キロ圏内の住民はもとより、宮城県民が原子力の安全性を本当に信頼して再稼働に踏み切るのか、心配がある。特に宮城は『農業県』なので事故はあってはならない。もし国が認めても『ノー』と言わざるを得ない。私たちには住民の命を守る責任があり、万が一の時にはその責任がとれないからだ」
 ――特に心配な点は。
 「今、いろんな災害が起こっている。安易に環境が整ったと再稼働に踏み切るのは短絡的だ。防潮堤がしっかりしていても、テロ対策はまだ十分でない。つい先日もトラブル(2号機の冷却ポンプ停止)があった。原子炉など主要設備は対策しているだろうが、今回のような付帯設備はどうか。地震でパイプなどが崩れる恐れは大いにあるのではないか。非常に不安だ」
 ――再稼働に反対するきっかけは。
 「福島の事故が起きた。それまで『原子力は安全だ。国策で絶対心配ない』と思っていた。女川も津波があと数十センチ高かったらアウトだった。これは大変なことだと、我々は突きつけられた。自治体として町民の命を守る立場で、安易に納得してはだめだろうと考えた」
(以下略 『朝日新聞』2019.9.22)
 

「本当に安全なのか」 避難計画に疑問も 女川原発2号機、規制基準に適合

 東北電力女川原発2号機の再稼働に必要な審査書案が27日、6年がかりで了承された。今後、手続きを経て審査に合格しても、再稼働は対策工事が終わる見通しの2020年度より後で、地元自治体の同意も必要だ。地元住民は「本当に安全なのか」と話し、東京都港区の原子力規制委員会が入るビルの前でも、再稼働に反対する声が上がった。
 女川原発30キロ圏内にある宮城県美里町の相沢清一町長は「福島の原発事故でなお自宅に帰れない多くの人がいる中、手続きを踏んだから再稼働ということでいいのか。町民の命を守るためにも動かすべきでない」と再稼働に反対することを改めて表明した。
 石巻市民でつくる団体代表の原伸雄さん(77)は規制委の「合格」判定を、「避難計画を審査せずに安全とする仕組みはおかしい」と批判する。原さんら市民17人は今月12日、 女川原発の重大事故を想定した市の広域避難計画に実効性はないとして、県と市を相手取って再稼働に同意しないように求める仮処分を仙台地裁に申し立てたばかりだ。
 申立書では、渋滞が起きると30キロ圏からすぐに脱出できないうえ高齢者らの避難手段も十分でないことを指摘した。原さんは「今の避難計画では住民の命を守れない」と見直しを求める。 避難計画で原発が立地する女川町と石巻市の避難者を受け入れることになっている自治体にも困惑が広がる。市の人口の4分の1に相当する約1万7000人を受け入れる予定の栗原市の担当者は、「体育館などには限りがあり、仮設住宅を建設するにも工務店も足りない。避難者にきちんとサービスを提供できるのか不安だ」と打ち明けた。
 一方、再稼働による被災地への経済効果を期待する声も。女川町観光協会の遠藤琢磨事務局長(51)は「東日本大震災前から電力関係者は宿泊や買い物で町の経済に貢献していた。復興特需も落ち着きつつあり、人の出入りが増えれば町が活性化する」と歓迎した。
 村井嘉浩・宮城県知事は再稼働に必要な知事同意について「立地自治体の首長や議会、県の安全性検討会の結論などさまざまな意見を総合して(再稼働が適切か)判断したい」と述べるにとどめ、賛否を明言しなかった。 規制委の審査会合に時間がかかった要因の一つは、想定する地震や津波がどのくらい影響を及ぼすのか慎重に議論したためだった。東北電は独自の手法で影響を評価。 評価方法を巡って、4年間のやり取りがあった。 震災で震度6弱の揺れに見舞われ、2号機の原子炉建屋の壁に入った1130カ所のひびは、全て幅1ミリ未満だった。揺れが大きかった上部ほど多く、3階に734カ所と集中した。東北電はひびを補修するものの、審査会合では仮に補修しなくても今後の大地震に耐えられるとするデータを示しながら安全性を主張。規制委は東北電の言い分を認めた。
 新たに整備した防潮堤は、地中深くにも壁ができるような形になった。敷地内には、山側から海に流れる地下水がせき止められ、地震時に液状化が起こりやすい状況に。東北電は規制委と議論を重ね、建屋周辺に複数のポンプを設け地下水をくみ上げることにした。規制委の更田(ふけた)豊志委員長は「条件を厳しく設定し慎重に審査した」とした。
 女川原発では、1号機は老朽化のため廃炉が決定。東北電は3号機の再稼働の合格も目指す。2号機が再稼働すれば、東北電として火力発電の燃料費など年間350億円を削減できるとしている。
(『毎日新聞』2019.11.27)


いかが思われますか? 最後に判断を下すのは、住民の皆さんだと思うのですが、しかし、上記の『河北新報』さんの記事の通り、住民投票の条例案は自公会派などにより否決されました。何だか、新型コロナの報道の陰で、こうした地方での大事な動きなどが全国的に報じられていないような気がするのですが……。

最後に明るい話題を。同じ宮城県の名取市のニュースで、『神戸新聞』さんの記事です。

午後2時46分過ぎに大きな虹 東日本大震災9年

 東日本大震災から丸9年。発生時刻の午後2時46分を過ぎたころ、宮城県名取市の震災メモリアル公園上空に、大きな虹がかかった。 見上げた女性は犠牲者を思い、「こうやって渡ってきてくれたんだね」とつぶやいた。

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昨夜7時のNHKさんのニュースでも紹介されました。

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昨夜7時のニュースでは、被災地岩手を舞台とし、震災についても描かれた「あまちゃん」で主演を務められたのんさんが生出演。被災地への思いを語られていました。

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ちなみに当方、昨夏、のんさんとお会いして少しお話をさせていただきました。当会会友・渡辺えりさんが、のんさんもご出演された舞台「私の恋人」にご招待下さり、その終演後でした。

その際、帯にのんさんが掲載されている渡辺さんの戯曲集『渡辺えりⅢ──月にぬれた手/天使猫』を持参、サインしていただきました。もちろん渡辺さんのサインも。念のため(笑)。

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今後とも、被災地復興に一役買い続けていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

私はいろいろの境地をだんだんに通つて来て、今では、吾々人間以上の或る大きな精神が此世に厳存する事を、理屈無しに信じ切るやうになりました。

アンケート「名士の信仰」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

震災も「人間以上の或る大きな精神」の表れかもしれません。しかし、そこから立ち上がろうとする人々の姿にも「人間以上の或る大きな精神」を感じますし、上記の午前2時46分の虹などにも「人間以上の或る大きな精神」を感じます。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

現在発売中の『週刊新潮』さん(3月12日号)。作家・五木寛之氏の連載「生きぬくヒント!」が、「高村光太郎の国民歌」というタイトルです。

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ちなみに五木氏、一昨年も同じ連載で光太郎に触れて下さっています。

今回取り上げられているのは、昭和15年(1940)に光太郎が作詞し、飯田信夫が作曲、徳山璉(たまき)の歌唱でヒットした「歩くうた」。

当時の日本放送協会が、「国民歌謡」というラジオ番組を放送しており、その中で流すために光太郎に作詞を依頼したものです。同番組のテキスト第76輯に楽譜が収められ、のち、東亜音楽出版から単独の楽譜も刊行されました。

  歩くうた015
                                                 
 あるけ。 あるけ。 あるけ。 あるけ。
 南へ、 北へ、 あるけ。 あるけ。
 東へ、 西へ、 あるけ。 あるけ。
 路ある道も、 あるけ。 あるけ。
 路なき道も。 あるけ。 あるけ。

 あるけ。 あるけ。 あるけ。 あるけ。
 目ざすは、 かなた、 あるけ。 あるけ。
 けぶれる、 ゆく手、 あるけ。 あるけ。
 果てなき、 野づら、 あるけ。 あるけ。
 こごしき 磐根、 あるけ。 あるけ。

 あるけ。 あるけ。 あるけ。 あるけ。
 身をやく、 日照り、 あるけ。 あるけ。
 塩ふく、 背中、 あるけ。 あるけ。
 身を切る、 吹雪、 あるけ。 あるけ。
 凍てつく、 目鼻、 あるけ。 あるけ。

 あるけ。 あるけ。 あるけ。 あるけ。
 思ひは、 高らか、 あるけ。 あるけ。
 大地の、 きはみ、 あるけ。 あるけ。
 海さへ、 空さへ、 あるけ。 あるけ。
 吾等を、 とどめず。 あるけ。 あるけ。

当時は4番まである歌は珍しくなかったので、「あるけ」が計48回(笑)。詩としてはしつこいと感じたのでしょうか、のちに詩集『をぢさんの詩』(昭和18年=1943)に収められた際、歌の3番部分をカットし、全三連に改訂しています。しかし、歌としての「歩くうた」は光太郎の意図とは関係なく、その後も全4番で歌い継がれています。





飯田信夫は東京帝国大学工学部卒という変わった経歴を持つ作曲家ですが、他に有名な「隣組」(岡本一平作詞)などの作品もあり、戦時歌謡作曲の第一人者でした。

ビクターから徳山の歌によるレコードが2種発売され、それなりにヒットしました。徳山は「隣組」や「侍ニツポン」(西條八十作詞、松平信博作曲)なども歌っています。


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また、歌のないインストゥルメンタルバージョン、合013唱のみのバージョンも発売されています。

当方、徳山歌唱の2枚と、インストバージョンの計3枚を手に入れましたが、合唱のみのバージョンが未入手です。ただ、国立国会図書館さんのデジタルデータ「歴史的音源」の中に収録されていますので、聴いたことはありますが。

昭和7年(1932)生まれの五木寛之氏、戦時中、登下校の際に口ずさんだり、学校の授業の一環としての映画鑑賞(原節子さんも出演された「ハワイ・マレー沖海戦」だったそうですが)の際に映画館まで行進しながら皆でうたったりなさったそうです。

同様のご体験があったということを、故・髙村規氏や、故・金田和枝さんからも聴いたことがあります。

また、故・小沢昭一さんもおそらく似たようなご経014験をお持ちのようで、平成20年(2008)リリースのCD「昭一爺さんの唄う 童謡・唱歌」の中で、「歩くうた」の解説として「当世、メタボばやりのようですので、歩いたらいいじゃありませんか」と語られています。

五木さんも「最近、歩くことがきわめて少なくなった。一日一万歩どころか、千歩、いや五百歩も歩ていないのではないかと思う。昔は本当によく歩いたものだった。」という書き出しで、「歩くうた」の紹介につなげられています。そして末尾では、編集者に「コロナ・ウィルスが大流行ですから、あまりウロウロされないほうがいいですよ。」と言われてしまったというオチ。笑えませんね(笑)。

ところで『週刊新潮』さん。3.11関連で、グラビアページは東日本大震災がらみの、「復興の桜」「復興と月」という特集を組んでいます。被災地の桜や月を田中和義氏の美しい写真で紹介するものです。

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ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

靴は英吉利、サツマ下駄は太い丈夫な小倉の鼻緒。

アンケート「書名家の「頭」と「足」に関する趣味」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

「あるけ、あるけ」と語った光太郎、靴はイギリス製のものを愛用(靴に限らず、彫刻用の作業着や椅子なども英国製が好みでした)、普段は幅広の薩摩下駄だったようです。赤城山などの山歩きも下駄だったそうで。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

3.11が近いということで、このところ、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ宮城県女川町の「いのちの石碑」関連をご紹介していますが、今日もまたその関係です。

まず、建設関係の業界紙『日刊建設工業新聞社』さんの昨日の記事から。 

東日本大震災9年/国土地理院、自然災害伝承碑をウェブ地図で公開/子どもたちが調査

東日本大震災の被災地の子どもたちが006調べた命を守る記念碑が、過去の自然災害の被害状況を現在に伝える「自然災害伝承碑」として国土地理院のウェブ地図で公開された。宮城県女川町で被災した当時小学校6年生だった子どもたちが、震災直後に入学した中学校の先生と取り組んだ「女川いのちの石碑」15基を掲載。同時に全国で41基を追加し、公開総数は46都道府県150市区町村の472基となった。

1日時点で女川いのちの石碑は18基。小学6年生だった子どもたちは二十歳を超えた。震災のつらく、悲しい出来事を再び繰り返さないよう、1000年後の命を守るために調べた15基を、国土地理院が自然災害伝承碑としてウェブ地図「地理院地図」で公開した。
自然災害伝承碑は過去に発生した津波や洪水、土砂災害などの自然災害の情報を伝える石碑やモニュメントを指す。被災箇所に近い場所に設置される場合が多く、インターネットによる情報発信で発生しやすい自然災害を地域ごとに知るきっかけづくりを目指す。
国土地理院は今後も地方自治体に協力を呼び掛け、情報を定期的に更新。広く発信していくとともに活用方法を提示していく。



「調べた」というわけではないので、若干の誤りがありますが、国土地理院さんで昨年から始まった「自然災害伝承碑」の登録で、「いのちの石碑」もその選に入ったという記事です。

仙台に本社を置く『河北新報』さんも報じています。 

自然災害伝承碑、東北の29ヵ所追加 国土地理院がホームページに掲載

 国土地理院は、自然災害の記憶を刻んだ石碑などの「自然災害伝承碑」に、青森、岩手、宮城、秋田4県の計29カ所を追加し、ホームページ(HP)の地域防災情報コーナー「地理院地図」に掲載した。
 宮城では東日本大震災の教訓を伝える「女川いのちの石碑」など女川町内の16カ所を紹介。岩手県山田町では昭和三陸地震(1933年)で被災した大沢地区の慰霊塔など11カ所を載せた。同地震で被害が出た青森県八戸市の記念碑1カ所と、日本海中部地震(83年)の津波が襲った秋田県三種町の慰霊碑1カ所も加えた。
 国土地理院は、昨年3月に伝承碑の地図記号を制定。同6月にはHPに掲載する取り組みを始めた。今回の追加分を含めると、東北6県は計115カ所となった。全国では472カ所。
 地理院東北地方測量部の担当者は「掲載数が増えれば、防災教育に役立てる動きもさらに広がる。地域の活動を引き続き後押ししたい」と話す。

国土地理院さんのサイトから。 

被災地の子供たちが調べた命を守る記念碑15基を公開【東北地測】

 今年3月11日は平成23年(2011)の東日本大震災発生から9年となります。宮城県女川町で被災した当時小学校6年生だった子供たちが、震災直後に入学した中学校で先生と始めた取組である「女川いのちの石碑」のうち15基を、自然災害伝承碑として新たに公開しました。
 「女川いのちの石碑」は、宮城県女川町内にこれまで18基が設置されています。現在大学生となった彼ら、彼女らが、自分たちが経験した辛く、悲しい出来事を再び繰り返さないよう、1000年後のいのちを守るために活動し、調べた15基について、女川町から自然災害伝承碑の掲載申請があり、3月1日にウェブ地図「地理院地図」で公開しました。
 今回は、全国で41基を公開し、東北地方では、女川町のほかに青森県八戸市1基、岩手県山田町11基、秋田県三種町1基を公開しました。これにより、地理院地図における自然災害伝承碑の公開数は、46都道府県150市区町村の472基となりました。
 自然災害伝承碑の掲載は、市区町村の協力のもとに行っています。今後も全国の市区町村に情報提供を引き続き呼びかけ、情報を定期的に更新し、広く発信していくとともに、活用方法を提示していきます。


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実際の地図がこちら

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碑のマーク上でクリックすると、内容が表示されます。

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さらに碑の画像をクリックすると、詳細情報。

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この「自然災害伝承碑」は、一昨年の西日本豪雨の後、被災地に実は100年前にも大水害があったことを示す碑があったにもかかわらず、その存在が忘れられ、被災抑止に役立てられなかったという反省から制定されました。記憶の風化に歯止めを掛けるという意味では、有効な取り組みだと思います。

つい先日除幕された女川町大石原浜の碑も早速登録されています。その除幕の様子、少し遅れて昨日、仙台放送さんのローカルニュースで報じられました。 

女川町「いのちの石碑」18基目完成 津波を伝える〈宮城〉

震災の記憶を未来に伝える18基目の「いのちの石碑」が女川町に完成し、3月1日、除幕式が開かれました。

この活動は、女川中学校の卒業生たちが震災の教訓を後世に残そうと町内21の浜に石碑の建立を続けているもので、今回で18基目の完成となります。
3月1日、女川町の大石原浜で行われた除幕式には、卒業生3人や地元住民など、およそ30人が集まり石碑の完成を祝いました。

地元の住民
「石碑を見て津波がきたんだねということで、これから地震・津波があった場合は高台に逃げると、これが1番ですね」

女川中学校卒業生 阿部由季さん
「震災がきたときに1人でも多くの命を守るということが目標なので、石碑を生かして、これからも震災を語り継いでいくようになればいいなと思っています」

最後となる21基目の石碑は、今年完成予定の女川小・中学校に建立されるということです。

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碑とともに、その建立に奔走したかつての女川第一中学の生徒たちの功績も、永く語り継がれてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

印象に残った作と特に申し上げたいものは、一つもありません。残らず、朽ち去る可き作品だと感じました。

アンケート「印象に残れる諸作――文展鳥瞰図――」より
 大正2年(1913) 光太郎31歳

「文展」は「文部省美術展覧会」。光太郎、つくづくこの手のアカデミズム展が大嫌いだったようで……。

ちなみにこの年の文展には智恵子が油絵三点を応募しましたが、すべて落選。それに対する抗議の意図も有るのかもしれません。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

昨夜放映された「NNNドキュメント東日本大震災9年 約束 ~それぞれの道~」を拝見しました。東日本大震災から9年を経ようとしている被災地のうち、岩手、宮城、福島のこれまでの歩みや現状をトピック的に紹介するものでした。

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宮城では、女川町の「いのちの石碑」関連。震災の年に中学校に入学した当時の女川第一中学校の生徒たちが、「1000年後の命を守るために」を合い言葉に、町内21ヶ所の津波到達地点より高い場所へランドマークとなる石碑の建立を計画、昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して平成3年(1991)に建てられた光太郎文学碑が「100円募金」で建てられたことに倣い、建設資金1,000万円を本当に募金で集めました。

番組では当時の中学生の一人、現在二十歳となった鈴木智博さんを追っていました。昨年、成人式を迎えられたということですが、それでも現在二十歳ということは、いわゆる早生まれなのでしょう。

中学時代の鈴木さん。

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自宅は流され、お母さん、おじいさん、おばあさんを亡くされたそうです。そこで、自分と同じ思いをする人がいなくなってほしいと思ったとのことです。

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学校では、被災体験を元にした授業。このブログでたびたび紹介してきました阿部一彦先生もご登場。その中で「いのちの石碑」プロジェクトが立ち上がりました。

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右上が、生徒さんたちの手になる企画書。ここに光太郎碑に倣って募金で資金を集める旨、記されていました。しかし、募金といっても、1,000万円……。

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ところが、生徒さんたちは、修学旅行先でも募金を呼び掛けたりし、なんと半年余りで目標額を達成。

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石碑を作って下さった石屋さんでの映像も入りました。そして、一基目の除幕。その後も設置は続き、つい最近も18基目が建てられたそうですし、今年中には予定の21基がすべて完了するとのこと。

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鈴木さん、現在は仙台の大学で防災を学ばれているそうですが、週末には女川に帰って、漁業をなさっているお父さんのお手伝いや、昨年の台風19号の際には県内の被災地でボランティアをなさったりもしたそうで、本当に頭が下がります。

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そして、「いのちの石碑」以外にも、「1000年後の命を守る」活動も継続中。

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鈴木さん以外にも、多くの若者たちが活動に携わり、若者たち以外も支援の手を差しのべています。この活動、石碑ももちろん大事ですが、それとともに、人々の絆を深めることも柱として立ち上がりました。そういう意味では、一定の成果がすでにもたらされているように感じます。あの日、津波に呑まれて還らぬ人となった、かつて光太郎文学碑の建立や、その後の女川光太郎祭の開催に奔走した貝(佐々木)廣さんも、空の上で目を細めているような気がします。

震災の悲劇は悲劇として、その後の取り組みということで、今後も語り継がれてほしいものです。

この番組、3月14日(土)の午前11時から、BS日テレさんで再放送があります。ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

いろいろな意味にて心をひかれる様な女性は多くありますが、単に「好きな女」と申す点では、文学、美術、演劇等を通じて小生は未だ仏国画家ルノアル氏の筆に成る女性ほど好きな女に逢つた事がありません。

アンケート「文芸に現はれたる好きな女と嫌ひな女」より
 明治45年(1912) 光太郎30歳

光太郎、どうも生涯を通じてふくよかな女性が好みだったようで……。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。
来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

3.11が近づいてきまして、新聞報道やテレビ番組等でも、かなり東日本大震災がらみが多くなっています。

このブログでたびたびご紹介している、宮城県女川町の「いのちの石碑」。昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して平成3年(1991)に建てられた光太郎文学碑を手本とし、設置費用すべてを募金でまかなう計画で進められています。

その「いのちの石碑」も取り上げられるテレビ番組が、本日深夜(正確には明日未明)、放映されます。 

NNNドキュメント東日本大震災9年 約束 ~それぞれの道~

地上波日本テレビ 2020年3月8日(日)  24時55分~25時50分=3月9日(月) 午前0時55分~1時50分
BS日テレ       2020年3月15日(日) 11時00分~11時55分

東日本大震災から9年。被災地では多くの人が懸命に生きている。家族との約束。仲間との約束。故郷への約束。果たしたい約束がある。それは心の支えだ。津波で流された自宅を再建したいと願う老夫婦。震災で家族を失い、1000年後の命を守ろうと中学時代の仲間と石碑の建立に取り組む青年。原発事故で一度はあきらめかけた牧場を復活させ、将来は息子にバトンをつなぎたいと考える男性。岩手・宮城・福島の3局共同制作で送る。

制作 テレビ岩手・ミヤギテレビ・福島中央テレビ
ナレーター 土村芳

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インターネットの「テレビ番組表」的な各サイトでは、上記のような説明で、「女川」や「いのちの石碑」という単語が入っていなかったため、昨日まで気づきませんでした。


昨日、アップされた日テレさんのサイトに詳細情報が出ていて、それで気づいた次第です。

東日本大震災から9年になろうとしている今も、被災地では「故郷で生活に向き合っている人々の本質」に出会える。彼らは、何を信じて、何を夢見て、走り続けてきたのか。「支え」になっているのは、友人との「約束」、家族との「約束」、故郷に誓った「約束」だ。

番組では、岩手・宮城・福島、それぞれで懸命に生きる3組に密着。過去の素材を生かしながら「9年間の歩み」を「被災地の約束」と共に描く。

岩手で密着したのは、「高台に住むまで…」陸前高田・念願の自宅再建した老夫婦の9年。津波で1,700人超の犠牲者を出し、4,000余の家屋が倒壊した陸前高田市。震災から1カ月後、プレハブの仮設住宅に入居する被災者の中に佐々木栄さん(当時80歳)、松子さん(同78歳)夫婦の姿があった。佐々木さん夫婦の自宅は津波で流失。その後、学校の体育館、市内の娘宅等、避難生活を転々としていたが、仮設の入居者募集に申し込んだところ当選。「これからの人生、またやり直しができる」と前向きな栄さん。やがて、趣味の川柳に自らの夢を詠み、部屋の壁に貼るように。そこには「高台に住むまで生きて海を見る」と書かれていた…。
震災から7年、夫婦は市内に完成した災害公営住宅の一室にいた。「どんなに狭くても構わない。早く自分の家に住みたい」。しかし、資金面は大丈夫なのか?そもそも体は持つのか?と弱気になる夫婦。それでも19年7月、ついに、念願の家が再建。最大の課題だった資金も3人の娘が援助を申し出てくれたのだ。だが、ここまで来るのに8年以上の月日が…。現在、栄さん88歳、松子さん86歳。かさ上げ地に人は戻らず、ふるさとはすっかり姿を変えてしまったが、「高台に住むまで生きて海を見る」 という“約束”を果たすことはできた。

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宮城で密着したのは、「夢だけは壊せなかった大震災」女川町20歳青年の誓い。女川町出身の大学生・鈴木智博(20)さんは、小学6年の時に発生した東日本大震災で、母親と祖父母を亡くした。津波で、自宅は全壊し、漁師の父と2人の妹と仮設住宅で暮らしを余儀なくされた。中学生の時に誓ったこと…それは同じ悲しみを繰り返さない震災の教訓を言葉で伝えるだけでなく、形にして残そうとした。
鈴木さんをはじめ、女川中学校の生徒たちは“1,000年後のいのち”を守るために町内21の浜の最大津波到達地点に「いのちの石碑」を建てる活動を始めた。21基建てるのに必要な1千万円は、修学旅行先などで募金を呼びかけて自分たちで集めた。1基目の石碑を建ったのは、13年11月。「夢だけは壊せなかった大震災」 石碑には生徒たちが授業で考えた俳句を刻んだ。震災から9年。鈴木さんの自宅は高台に再建され、自身は仙台で一人暮らしをしながら大学に通っている。ふるさとを離れ、震災の風化を感じることもある。それでも当時の仲間たちと集まり、石碑 を建てる活動、そして、「いのちを守る教科書」を作る活動を続けている。

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福島で密着したのは、牛が元気に育つ村へ…と故郷に誓った父と息子。葛尾村は、一部を除き避難指示が解除されてから3年が過ぎ、帰ってきた住民はわずか約2割で、帰還した人のほとんどが高齢者たち。村は標高が高い阿武隈高地に位置し、酪農や畜産が盛んだったが、原発事故によりほとんどの農家たちが避難を余儀なくされ廃業に。佐久間哲次さん(43)もその1人で、父から受け継いだ大切な牧場で牛130頭を飼育する大規模酪農家だった。
しかし、長期間の避難で牛たちは餓死…。佐久間さんは避難指示が解除された16年に村に戻り、賠償金をほぼ全てをつぎ込み、さらに借金までして、牧場を除染、安全な飼料を確保、牛舎をリニューアルし、酪農を再開させる。それは、長男・亮次くん(14)が「父の跡を継いで酪農家になる」と決めていたからだ。息子の夢を叶えるため、去年は生乳の出荷再開へこぎつけた。亮次くんも3月、父に近づくべく、農業高校への受験に挑む。原発事故で人生を翻ろうされながらも、困難を乗り越える際に垣間見える「絆」や「生きがい」とは。そして、酪農を通して、親子がそれぞれの立場で、自分、家族と交わした『約束』とは…。

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ちなみに同じ「NNNドキュメント」では、平成26年(2014)にも、「3・11大震災 シリーズ 千年後のあなたへ 15歳…いのちの石碑」と題して、「いのちの石碑」を取り上げて下さいました。


もう1件、やはりインターネットの「テレビ番組表」的な各サイトで、「女川」の語が入っていないのですが。 

徳光&木佐の知りたいニッポン!ピックアップ!復興の今と未来 徳光がゆく宮城・岩手

BS TBS 2020年3月14日(土) 13時00分~13時30分

徳光和夫さんと木佐彩子さんがお送りする政府広報番組。今回のテーマは「復興の今と未来 徳光がゆく宮城・岩手」です。


3月7日(土)の放映が「復興のいま 福島で見た“希望と未来”」で、つい先日もお会いした、川内村の遠藤雄幸村長がご出演なさるというので、拝見しました。

すると、「次週予告」で、女川町の須田義明町長のお姿が映り、それで次回は女川か、と気づきました。

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川内村に関しては、遠藤村長のご案内で木佐彩子アナウンサーが、川内小学校さん、村唯一のパン屋さん「BAKERY RIVIÈRE」さん、完全密閉型の植物工場「KiMiDoRi」さんなどを紹介されました。

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というわけで、それぞれぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

二、下谷区 八、たゞ我が信ずる所。 十、砕雨。

アンケート「松籟颯々」全文 明治34年(1901) 光太郎19歳

投稿雑誌『文庫』(内外出版協会)が百号を記念し、上野の韻松亭で投書家の集まり「春期松風会」を催し、その席上、用紙を配付して書いて貰ったアンケートです。

下はその際の集合写真。

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007質問は10項目ありましたが、光太郎は7項目は無視し、3項目だけ回答しました。そこで、回答者79名中、最短の回答でした。「二」は「生地」、「八」は「宗教」、そして「十」は「理想の人物」でした。「砕雨」は、当時、光太郎が使っていた雅号。つまり自分自身の名を上げているわけで、不遜とも言えますが、強い矜恃が見て取れます。光太郎は左上の方。なるほど、生意気そうな面構えです(笑)。

他に、親友だった水野葉舟、歌人の窪田空穂、同じく服部躬治、詩人/仏文学者の吉江孤雁、詩人の伊良子清白、同じく横瀬夜雨、河井酔茗、登山家の小島烏水、画家の一條成美、そして大逆事件の際には幸徳秋水らの弁護を行った平出修なども映っています。


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

一昨日、当会の祖・草野心平関連で記事を書きましたが、今日も心平関連で。

昭和3年(1928)から翌年にかけ、心平が暮らした群馬県の地方紙『上毛新聞』さんの記事から。ちなみに記事にもありますが、心平は昭和4年(1929)に約半年間、上毛新聞社さんで校正部員として、月給28円で働いていました。そのかたわら、伊藤信吉萩原恭次郎など群馬の詩人たち と交流、光太郎も寄稿した詩誌『学校』を発行したり、第一詩集『第百階級』(序文・光太郎)を出版したりしていました。

高崎高の校歌 60年以上前に制作の楽譜を吹奏楽部員が発見

 伝統校の高崎高(群馬県高崎002市八千代町)で、60年以上前の校歌制定時に作曲家、芥川也寸志(1925~89年)が直筆したとみられる楽譜や、作詞した前橋市ゆかりの詩人、草野心平(03~88年)の直筆とみられる原稿用紙に書かれた歌詞などの資料が見つかった。現在も歌い継がれている校歌で、校内で埋もれていたところ、生徒が偶然見つけた。同校は貴重な資料として、楽譜を額装して校内に展示する。


◎手紙や会議録も同封 曲への思いもつづる

 昨年11月、吹奏楽部の練習終了後、音楽準備室で道具探しをしていた2年の菅家太一さん(17)と大橋弘典さん(17)が大量の資料の中から、ひもでとじられた厚紙を見つけた。

 表紙に「創立60周年記念事業 新校歌制定資料」とあり、中には楽譜や、歌詞が書かれた原稿用紙が入っていた。校長に宛てて芥川が期日が遅れたことをわびる手紙、制定の経緯を記した会議録なども含まれていた。

 「草野先生の立派な詩を頂いただいて仕合はせでした。時に荘厳に、時に元気溌剌(はつらつ)に、時にはまたロマンチックに、自由に歌い上げて」(芥川)、「伝統のある高崎高等学校の校歌ですので力を入れてつくりました。声高らかに歌っていただければ光栄です」(草野)などとする2人の思いもつづられていた。

 菅家さんと大橋さんは発見時、「すぐに価値あるものと思った」と振り返る。

 同校は1897年創立。1957年に制定された現在の校歌が3代目とされる。在職9年目の音楽担当、黒岩伸枝教諭は「楽譜は芥川さん専用の用紙で書かれていた。変ホ長調で作られ、斬新で躍動感がある校歌。直筆の楽譜を探していた」と発見を喜ぶ。加藤聡校長は「楽譜は学校の玄関に飾りたい」と話している。

 芥川は作家、芥川龍之介の三男。草野は昭和初期、上毛新聞社に勤務したこともある。芥川、草野とも県内他校でも校歌を手掛けた実績がある。



こういうこともあるのですね。「発見」した二人の生徒さん、お手柄です。


高崎高校さんの校歌、Youtubeさんにアップされていました。




歌詞はこちら。なかなか書けそうで書けない表現が散りばめられ、心平の特異な才が見て取れます。

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2番の歌詞に赤城山が出てきますが、心平、群馬時代の昭和4年(1929)、光太郎や高田博厚、岡本潤らと共に赤城山に登っています。校歌の執筆は光太郎が亡くなった翌年の昭和32年(1957)だそうで、心平の脳裏にその時の思い出がよぎったかもしれません。

ちなみに心平は、やはりゆかりの地の川内中学校さんなど、各地の学校の校歌をかなり作詞していまして、故郷・いわき市の草野心平記念文学館さんでは、一昨年、ズバリ「草野心平の校歌」という企画展も開催しました。

光太郎は、というと、戦後になって依頼は山のようにあったのですが、結局、生涯に一篇も校歌は作詞しませんでした。自由に作れないというのもあったでしょうし、戦時中の翼賛活動への悔恨から蟄居生活を送っている最中ということで、遠慮したというのもあったように思われます。

ただ、校歌ではない団体歌的なものは、2篇だけ作っています。

まず、昭和17年(1942)、岩波書店の「店歌」として、「われら文化を」。作曲は信時潔でした。もう1曲は、「初夢まりつきうた」(昭和25年=1950)。こちらは正式な団体歌というわけではありませんし、詳しい経緯が不詳なのですが、おそらく花巻商工会議所からの依頼で作った、いわば「商店街の歌」的なものです。邦楽奏者・杵屋正邦により作曲されています。

故・北川太一先生から名跡を引き継ぎ、当方が編集発行しております『光太郎資料』という冊子にて、それぞれ詳しくご紹介しています。「われら文化を」に関しては、第48集(平成29年=2017)~第50集(平成30年=2018)で、「初夢まりつきうた」に関しては、この4月に発行予定の第53集で扱っています。ご入用の方はコメント欄からご一報下さい。


【折々のことば・光太郎】

山の生活を始めるのに私は人間として最低の線まで行つてそこから出発して見ようと思つていた。

談話筆記「山の生活」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年半ぶりに帰京し、東久留米の自由学園で行った講演の筆録から。花巻郊外旧太田村の、ある種、壮絶な山小屋生活のディテールが語られました。

やはり「最低の線」の生活をしている自分が、「校歌」という「ハレ」の歌を作るわけにはいかない、という思いがあったように思われます。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

注文しておいたDVD付き書籍が届きました。 

びじゅチューン! DVDBOOK 5

2020年3月9日 井上涼+NHK びじゅチューン!制作班著 小学館発行 定価2,700円+税

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〈 書籍の内容 〉

「びじゅチューン!」シリーズに第5弾登場
シリーズ累計10万部超を超えても、ますます絶好調の「びじゅチューン!」シリーズに、DVD BOOKの第5弾が仲間入り!!

「びじゅチューン!」(NHK Eテレ放送中)は、世界の有名な美術作品をモチーフにしたユニークなうた&アニメーション。アーティストの井上涼さんが、作詞、作曲、歌唱、アニメーション制作のすべてをてがけています。

人気曲「ツイスト出産」「写楽式洗顔」「夏秋草図屏風デート」などを含む、全16曲を収録。恒例の振り付けは「鮭ミラーボール」で、気分は80年代のダンスシーン! 2018年夏に放送されて反響のあった「なつやすみ!博物館で“にっぽんびじゅチューン!"」も収録され、ボリュームたっぷりの内容です。

「びじゅチューン!キャラになりきれちゃう、コスプレ・工作ページもあり、1冊まるまる、からだ全体で"びじゅつ"を楽しんじゃおう。

〈 目次 〉
 プロデューサーのことば
 01 鮭ミラーボール      高橋由一 「鮭」
 02 ひとり縄文会議      縄文時代 「中空土偶」
 03 ツイスト出産        飛鳥時代 「摩耶夫人および天女像」
 04 平熱でうらめしや     円山応挙 「幽霊図」
  Making of びじゅチューン! 1
  井上涼の出張レポート MOA美術館・内田篤呉館長を訪ねました
 05 テュルプ博士の参観日 レンブラント 「テュルプ博士の解剖学講義」
 06 指揮者が手        高村光太郎 「手」
 07 写楽式洗顔        東洲斎写楽 「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」
 08 地元が快楽の園     ヒエロニムス・ボス 「快楽の園」
  Making of びじゅチューン! 2
  吉岡弘行さんに聞きました! 音楽とコーラスのひみつ
 09 人を真似る瓶       マネ 「フォリー・ベルジェールのバー」
 10 龍虎旅館         長沢芦雪 「虎図 龍図」
 11 私を投げ入れて     平安時代 「三仏寺奥院投入堂」
 12 立体曼荼羅マスゲーム 空海 「東寺立体曼荼羅」
  つくってみよう!「びじゅチューン!キャラ なりきりファッションショー」
 13 いちご泥棒大脱走    ウイリアム・モリス 「いちご泥棒」
 14 おりがみのよりとも    鎌倉時代 「伝源頼朝像」
 15 再配達には金印を    弥生時代 「金印 漢委奴国王」
 16 夏秋草図屏風デート   酒井抱一 「夏秋草図屏風」
  おどってみよう!「鮭ミラーボール」ふりつけガイド
 井上涼のことば
 作品が収蔵されている<美術館・寺院・博物館>ガイド
 ふろく 井上涼オリジナル 「紅白梅おとまり会図屏風」ペーパークラフト

NHK Eテレさんの「びじゅチューン!」で放映された作品をまとめたDVD付き書籍です。一昨年10月に初回放映のあった、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)を元にした「指揮者が手」を含みます。

4ページにわたり、アニメーション作者でマルチアーティストの井上涼さんによる解説。

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鯰やレモン、それから九十九里浜など、光太郎を象徴するさまざまなアイテムがちりばめられていたのには気づいていましたが、それ以外に、詩「梅酒」(昭和15年=1940)からの連想で梅の実(梅の実に見えませんでした(笑)すみません)、光太郎と智恵子の手も描かれていたそうで、これには気づきませんでした。

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それから、手紙。単に他の箇所でも多用されている「て」の音の押韻というだけでなく、芸術感の相違から、父・光雲との訣別を宣言せざるを得なかった随筆「出さずにしまつた手紙の一束」(明治43年=1910)からのインスパイアだそうで。

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ただし、「父・光雲にあてた手紙」というのは誤りです(おそらく、親友の水野葉舟に宛てたものです)。

下の画像、左はDVD、右は「メーカー特典」ということで、この時期だけ付いてるおまけのクリアファイル。

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この画像でも分かる通り、「手」以外も、ほんとうに自由な発想で、古今東西の美術作品がいじられています(笑)。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

美というものは、かつてマイナスになったことはない。

談話筆記「芸術についての断想」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯、「美」を追い求めてきた光太郎、最晩年にさしかかっても、このように発言していました。しかし、戦時中には「美」が戦意高揚、国民精神総動員に利用されていたわけで、その点には思い至らなかったようです。あるいは、戦時のそうした活動に用いられたものは「美」とは認めない、ということでしょうか。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

新型コロナウイルスの影響で、各種イベント等の中止、延期が相次ぐ中、日本高野連さんでは、今月19日からの予定の第九十二回選抜高校野球大会を、無観客で実施する方向で準備に入ったそうです。

3/12 追記 しかしながら、今年の大会は中止という決定になりました。

さらに追記 夏の甲子園大会中止に伴い、センバツ大会代替の甲子園交流試合開催が決定しました。磐城高校さんは8月15日(土)、対国士舘高校さん戦が組まれています。


今年のセンバツには、21世紀枠で、福島県立磐城高校さんが選ばれています。当会の祖・草野心平の母校である旧制磐城中学校の後身です。そこで、先月、同校の出場決定が報じられた際には、心平がらみの記事等がいろいろ出ました。 

1月25日(土)、『福島民報』さん。 

【磐城センバツ決定】さらば行けそして勝て

 磐城高の第九十二回選抜高校野球大会出場が二十四日、決まった。二十一世紀枠で選ばれた。一九七四(昭和四十九)年の第四十六回大会以来四十六年ぶりで、春夏合わせれば十度目、一九九五(平成七)年夏以来二十五年ぶりに甲子園の土を踏む。

 東日本大震災の被災地いわきは、昨年十月の台風19号と二週間後の大雨でも被害を受けた。復興に向けて立ち上がる市民の希望の光となるように、甲子園での磐城ナインの活躍を願う。

 二十一世紀枠で福島県の高校が選ばれたのは、二〇〇一年の安積、二〇一三年のいわき海星に次いで三校目だ。学業と部活動の両立、自然災害による困難な環境の克服、活動の地域に与える好影響などの多くの面で高く評価された。

 選出の参考となる秋季東北地区高校野球大会は、台風19号の北上と重なった。十月十一日の初戦に勝った磐城は、日程変更で会場の岩手県から一度いわきに戻り、惨状を目の当たりにした。出場継続を決めた選手は結束する。「いわきに元気を届けよう」。十四日の二回戦に勝利し、ベスト8の成績を残した。
 古里は台風の爪痕が深く残っていた。大会を控えたサッカー部とラグビー部は浸水でグラウンドが使えない。野球場を整備して提供し、ナインは被災した家屋で後片付けなどのボランティアに励んだ。懸命の活動は住民に元気をもたらした。逆に、住民から激励の言葉を掛けられるときもあった。選手は人のつながりや支え合いの大切さを実感しただろう。

 野球部は昨春から月二回程度、学校近くの平一小を訪問し、学童保育の児童と交流している。地域貢献や野球の普及促進を目指して始めた。野球に加え、鬼ごっこなどの遊びを取り入れ、スポーツの楽しさを伝えた。時には勉強も教える。コミュニケーション能力が向上し、選手の精神面の成長にもつながった。

 四半世紀ぶりの甲子園に地元の期待は高まっている。選手は「チーム全員の技術を高め、大舞台で戦いたい」と力を込める。気負うことなく、培ってきた全てを、自信を持って発揮してほしい。

 磐城は、一九七一年夏の全国大会で準優勝という輝かしい実績を持つ。当時、卒業生で詩人の草野心平はスタンドで応援し、全国の強豪に立ち向かう後輩に激励の詩を贈った。小柄な選手が冷静、果敢に、臆せずプレーする姿をたたえ、最後に結んだ。「さらば行け そして勝てよ」。センバツに挑むナインに、同じ言葉を贈る。(鈴木 俊哉)

引用されている詩、全文は以下の通りです。
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    さらば行け、そして勝て

 四十四、五年前に    私も歌った校歌は
 古い明治調
 進学率は高いけれど   背たけはおそらく一番低い
 ちっぽけな連中が     しかし豪胆で微密で冷静で
 果敢で驕らず悪びれず  あわてず、臆せず
 その青春のバネは強く激しい
 類のない不思議なチームよ
 さらば行け  そして勝てよ


ちなみに心平、ゆかりの川内村で現在も続く「盆野球」(東日本大震災直後には、村民の多くが避難していた郡山で開催されました)では、始球式を務めるのが恒例でした。


同じ『福島民報』さん、同日の一面コラムでも。

あぶくま抄 磐城高センバツ出場

 磐城高野球部の父と慕われた阿部政(まさ)右衛門(えもん)の顕彰碑が、いわき市の上荒川公園の丘に立つ。肖像は平野球場を優しく見守る。詩人草野心平揮毫(きごう)の「暖かく強く正しく その生涯を一途(いちず)に生きぬいた人」の文字も刻まれる。

 一九〇六(明治三十九)年の創部時の部員で、卒業後は石炭販売業を営み、物心両面で母校を支えた。甲子園を目前に、勝てない時期を重ねた。球児が実戦練習できるように、平野球場の建設を当時の平市に訴え、一九六〇(昭和三十五)年に実現させた。三十八年前、九十三歳で亡くなる。

 一九七一年四月、常磐で最大の炭鉱が閉山し、暗い空気が漂った。その年の八月、磐城高は春夏通算五度目の甲子園出場を果たす。初戦で優勝候補の日大一高(東京)を下すと快進撃し、準優勝した。県民に勇気を与えた試合は語り継がれる。後輩がセンバツ出場を決めた。

 震災と原発事故、昨年の台風19号と大雨被害…。幾多の苦難を乗り越えて二十一世紀枠で選ばれ、チームは四半世紀ぶりに夢舞台に立つ。「IWAKI」を海の青色であしらったユニホームには、白球を追い続けた多くの先輩の思いが詰まる。憧れの地で、選手を後押しする。



心平の名はありませんが、同日の『福島民友』さん。

編集日記

 野球漫画の金字塔「ドカベン」には、1971年の磐城高をモデルにしているであろう「いわき東高」が登場する。夏の甲子園の決勝で主人公山田太郎を擁する明訓高と対戦する
 ▼神奈川県と福島県の代表が決勝で戦うのは71年と同じ組み合わせ。小柄な主戦が準決勝まで無失点で勝ち上がるのは田村隆寿投手がモデルとみられる。地元の炭鉱が閉山となり、いわき東ナインは大会が終われば離れ離れになる設定だった
 ▼磐城ナインが当時の高校野球ファンにどれほど鮮烈な印象を与えたのかが分かる。試合は1点差を追ういわき東が最終回、同点を狙ってタッチアップを試みるも本塁上でアウトとなり、試合終了。磐城同様、あと一歩のところで優勝を逃す
 ▼磐城が春の選抜高校野球大会(センバツ)に21世紀枠で出場することが決まった。昨秋の東北大会の8強入りに加えて、台風19号などで被害を受けた地元でのボランティア活動も評価された。苦境にある古里を元気づけようと奮闘する姿はいわき東とだぶって見える
 ▼71年の快進撃からほぼ半世紀。甲子園も95年の夏以来、25年ぶりだ。令和初となるセンバツで、新たな磐城のイメージを打ち立てるような胸のすくプレーが見たい。

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「ドカベン」。当方、リアルタイムで読んでいましたが、主人公・山田太郎らが1年生だった夏の甲子園での決勝戦が、当時としては珍しかったフォークを武器とする緒方投手率いる「いわき東高校」戦でした。

準決勝で高知代表・土佐丸高校との死闘を制し、決勝に駒を進めた明訓高校。エース里中は満身創痍。明訓のムードメーカー・岩鬼が初回に先頭打者ホームランを打つも、ベース踏み忘れというボーンヘッドで無効。八回には「ドカベン」史上最速の足を持つ、いわき東・足利の好走塁によって、先制を許します。実にハラハラさせる展開でした。

しかしその岩鬼が九回表に逆転の場外2ランホームラン。そして迎えた九回裏一死三塁。いわき東の五番・平山の、スタンドに入ろうかという三塁後方ファールフライを、「タッチアップされるから捕るな」という声を無視して岩鬼が無理な体勢でキャッチ。三塁ランナー緒方は当然のようにタッチアップ。岩鬼の本塁への送球は剛速球ながら、捕球の難しいハーフバウンド。キャッチャー山田は「下がって捕れば確実だがタイミング的にセーフ」「前に出れば落球の可能性」という二者択一に、強気に前へ出て、結果、見事にタッチアウト!  併殺となり、ゲームセット!! 何とも劇的な幕切れでした。野球のルール等をよく知らない方には、「何のことやら?」でしょうが(笑)。

この試合のモデルになったのが、昭和46年(1971)夏の甲子園決勝。磐城高校さんは、神奈川代表の桐蔭学園さんに0-1で敗れたそうで、そしてその試合を心平はスタンドで観戦していたというわけです。

ちなみに光太郎も野球は意外と好きだったようで、最晩年には終焉の地となった中野の貸しアトリエで、長嶋茂雄さんらが出場していた東京六大学野球のラジオ中継を聴いたりしていました。

さて、センバツ高校野球。まだ中止となる可能性はありますが、開催できることとなたっら、東日本大震災被災地の皆さんを勇気づけるという意味でも、磐城高校さんの活躍に期待したいものです。


【折々のことば・光太郎】

智恵子の葬式の日は十五夜だった。一二年たったその日の夜、アトリエでビールをのんでいた。コップを二つおいて、一つは智恵子の分という気持で、フト気がつくとコップが空になっている。あれがのんだんだなとおもったのだ。

談話筆記「炉辺にて」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳


「いやいや、光太郎先生、それはあなたが飲んだんですよ」と突っ込みたくなりますが(笑)。

福島出身の智恵子も、雲の上から磐城高校さんの活躍を見守っているような気もします。


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

東京都豊島区の広報誌『広報としま』の今月号に、光太郎智恵子の名が。

桜の代表的な品種の一つ、ソメイヨシノ発祥の地ということで、「春のぽかぽかさくら散歩」というページです。

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光太郎智恵子、光雲たち一族が眠る都立染井霊園の紹介で、光太郎智恵子の名を出して下さっています。 

染井霊園

約6万8千平方メートルの敷地に植えられた、約100本ものソメイヨシノは圧巻!霊園には、高村光太郎・智恵子、岡倉天心、二葉亭四迷など多くの偉人が眠っています。開花の時期には園内の一部がライトアップされ、幻想的な夜桜を楽しめます。(駒込5-5-1)

当方、例年4月2日、日比谷松本楼さんで夕方から開催する連翹忌の集いの前に、参会者を代表してこちらに墓参しております。たしかに園内、美しいソメイヨシノが咲き誇っています。いつも昼間に行っていまして、ライトアップが成されているとは存じませんでした。

ところで、「広報としま」で紹介されている区内の各種「桜まつり」的な催し、区のサイトに拠れば新型コロナ対策ということで、ほとんどが中止だそうです。中止の決定が広報誌の印刷には間に合わなかったようです。

桜が咲く頃にはこの騒ぎも終息していてもらいたいものです。


【折々のことば・光太郎】

まずよいものを食う。賢治さんに叱られるかも知れないが玄米四合ではだめだ。
講演筆録「岩手は日本の背骨 前編」より
 昭和24年(1949) 光太郎67歳

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を下敷きにしています。その芸術性などの部分では、賢治を高く評価していた光太郎ですが、自虐的とも言える菜食主義などには納得が行かなかったようです。


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

本日も、東日本大震災関連で、宮城県女川町の話題を。

昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念した光太郎文学碑を建立、その後、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町から、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連です。

まず、地元紙『河北新報』さんの記事。 

津波避難の教訓刻む 女川町に「いのちの石碑」18基目完成

 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと、宮城県女川町女川中の卒業生らが建立を続けている「女川いのちの石碑」の18基目が同町大石原浜地区に完成し、現地で1日、披露式があった。

 卒業生有志でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーと地元住民らが参加。震災当時、同地区では住民が高台に避難し、犠牲者が出なかったことなどが説明された。
 石森昌義行政区長(80)は「壊滅的な被害を受けたが、徐々に生活が落ち着いてきた。石碑を見て、津波避難の教訓を心に刻み生活したい」と話した。
 これまで建立した石碑のうち15基が「自然災害伝承碑」として国土地理院のウェブ地図に同日から掲載されたことも報告された。守る会の阿部由季会長(21)は「地図を通して多くの人が石碑を知ってくれたらうれしい」と期待した。
 いのちの石碑は2011年4月に女川中に入学した生徒たちが発案した。13年11月の1、2基目を皮切りに町内の各津波到達地点より高い場所に建立。最後となる21基目は今夏新設される女川小・中学校敷地内に建てられ、11月22日に披露式がある。


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NHKさんでは、ローカルニュースで取り上げて下さいました。 

「女川いのちの石碑」披露式

東日本大震災の教訓を後世に伝えたいと、女川町で当時の子どもたちの呼びかけで作られることになった石碑の1つが完成し、1日、披露されました。

女川町では津波の教訓を後世に伝えたいと、震災後、地元の中学生たちが「女川1000年後のいのちを守る会」を立ち上げ、集めた募金をもとに沿岸部に21あるすべての集落で石碑の建立を続けています。
震災から9年を前にきょう、津波で大きな被害を受けた集落の1つ、大石原浜に18番目の石碑が完成し、地元の人たちに披露されました。
石碑は高さ2メートル余り、幅がおよそ1.5メートルあり、「一秒間大切にする我が命」ということばが刻まれています。
女川町では残る3つの集落でもことし11月までに石碑が完成し、国土地理院の自然災害伝承碑に登録されることになっています。
「女川1000年後のいのちを守る会」の阿部由季さんは「石碑で震災の記録を伝えることで、次に津波が来てもひとりでも多くの命を救いたいです」と話していました。


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過日も書きましたが、町中心部に近い光太郎文学碑の再建も成されるやに聞いています。期待しております。


【折々のことば・光太郎】

この部落に住んで、「民族の精神、山林に厳たり」との感を深くした。土地が痩せてゐるため苦闘して生きて行かねばならないことが、人間の良さを純粋に残してゐるのではないかと考へる。

談話筆記「光太郎の言葉」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

「この部落」は、前年秋に移り住んだ花巻郊外旧太田村山口地区です。光太郎が入村した当時は開拓団が入る前。火山性の強い酸性土壌で、田畑も少なく、村人は半農半林、炭焼きが貴重な収入源、闇屋の買い出しさえ来なかったといいます。

この談話は昭和21年(1946)3月3日の『週刊朝日』に載りました。偶然ですがちょうど今日は3月3日ですね。その前の週の号には、光太郎の山小屋と光太郎の写真も載りました。

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女川町はじめ、三陸リアス海岸の猫の額のような土地に暮らす皆さんも、立地条件的には「苦闘して生きて行かねばならない」わけで、そういう意味でやはり「人間の良さを純粋に残してゐる」のではないでしょうか。



第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら
新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

昨日に引き続き、東日本大震災関係で。

まず、2月26日(水)の『毎日新聞』さん夕刊、「わたしの居場所」という連載。昨日ご紹介した女川町に隣接する石巻市の話題です。長い記事ですので、途中、省略します。 

津波被災地に交流の場 高齢者の孤立防止へ食料品店 宮城・石巻

 宮城県石巻市門脇地区の災害公営住宅前にある食料品店「まねきショップ」。常連客の大山泰三(67)が扉を開けると、オーナーの本間英一(70)が笑顔で迎えた。2016年000にオープンした地区唯一の商店だ。「公営住宅に暮らすお年寄りが買い物に困らないように」。私財を投じた本間は、東日本大震災後にできた「かどのわき町内会」の会長も務める。
 大山は公営住宅で1人暮らし。話し相手を求めてほぼ毎日、店を訪れる。「1人では寂しくて落ち込みがち。ここはいろんな人と話せて良いね」。店の隣には、あの日の津波に奇跡的に耐えた土蔵が残る。回船問屋や醸造業を営んでいた本間の先祖が明治期に建てたもので、街の歴史を物語っている。

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 まねきショップでは日中、本間の妻信子(68)と次男の妻美奈子(37)が店に立つ。店頭に並ぶケーキや総菜、喫茶スペースで提供する軽食は2人のお手製だ。
 本間は「買い物客は車を持っていないお年寄りが中心。荷物が重ければ、うちの奥さんが自宅まで届け、ついでに家庭ごみを収集所へ運ぶこともある」と話す。体操教室の日は高齢者を家まで迎えに行く。「やってあげないと、できないので。単なる手伝いです」と本間が言えば、「おせっかいなんです」と信子。
  店が建つのは先祖から受け継いだ広大な敷地の一角だ。震災前は、みそやしょうゆを貯蔵する蔵などが並んでいた。本間は大学で水産を学び、憧れだった船乗りとして世界を航海。30歳で地元に戻り、 テニスコートの経営を始めた。家業の醸造は廃業しており、商売の経験はなかったが「 せっかくある土地を使って、地域に貢献したい」と、知人から助言を得て開店にこぎ着けた。 店には、被災地の視察などで県外や海外からも人々が訪れる。本間が被災体験や街の歴史について話すこともある。手探りで始めた店はその名の通り、人を招く交流の場となった。東北ゆかりの詩人、高村光太郎の詩の一節「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」を引き合いに、本間が言う。「先がどうなるかは分からない。小さなことでもいいから、今できることを始めて、切り開いていくしかない」(敬称略)


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光太郎、昭和6年(1931)、女川を訪れる前に石巻にも立ち寄っています。そういう意味では「東北ゆかり」というより、「石巻ゆかり」。

「まねきショップさん」、これからも頑張っていただきたいものです。


続いて、テレビ放映情報。昨年の3月9日にNHK BSプレミアムさんで放映された「いのちの石碑」関連のドラマが再放送されます。 

ドラマ“女川 いのちの坂道”

NHKBSプレミアム 2020年3月7日(土)26時13分~27時12分(=3月8日(日)午前2時13分~)

東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県女川町。卒業間際で被災した子どもたちは「千年後のいのちを守ろう」と、あの日津波が到達した場所に『いのちの石碑』を建てる活動を続けている。ドラマはその実話をもとに今年20歳になる若者たちの今を描く。12歳で被災した咲が恋人翔太とともにたどる青春ロードムービー。ドラマの見どころは全編ドローンによるダイナミックな映像。女川の風景と咲の心をドローンカメラがとらえる!

出演 平祐奈 平埜生成 岡本夏美 皆川猿時 田根楽子 他

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詳しくは昨年のこのブログの以下の記事をご参照下さい。

 テレビ放映情報。
 「ドラマ"女川 いのちの坂道"メイキング」他。
 ドラマ「女川 いのちの坂道」(その1)。
 ドラマ「女川 いのちの坂道」(その2)。
 宮城県女川町「いのちの石碑」関連。

ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

明治以降の害毒は、物質的にも精神的にも、ものの評価基準を誤つたことです。立身出世主義といふことが、一番いけません。大臣になることなどを渇望の的としてゐるなど滑稽です。地位金力に憧れる気持などは早く捨てねばなりません。さういふ気持から八紘一宇といふことを誤つて、日本が世界を自由に引き廻すことだといふ間違ひをひき起こしたとも考へられます。

談話筆記「美しく懐かしき国、日本」より 昭和20年(1945)

最近は聞かなくなりましたが、かつてこの題名のようなお題目を唱えておきながら、数々のありえないような疑惑にまみれ、説明責任は全く果たさず、ごり押しの法解釈変更等で三権分立を崩壊させ、汚いヤジを飛ばすしか能が無く、原稿は棒読み、そして「思いつき」としか思えない「要請」で日本中を混乱に陥れ、「大臣」の椅子にしがみついている愚か者に叩きつけたい言葉です。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら
新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

光太郎ゆかりの地・宮城県女川町。光太郎が昭和6年(1931)に新聞『時事新報』の依頼で、「三陸廻り」と題する紀行文の連載のため、女川も訪れたことを記念して光太郎文学碑が平成3年(1991)に建立され、その後、毎年、女川光太郎祭を開催して下さっています。

その光太郎碑のすぐ近くにあった旧女川交番。平成23年(2011)の東日本大震災時の津波で、鉄筋コンクリート造りの頑丈な建物が根こそぎ横倒しになってしまいました。震災の翌年の様子がこちら。ちなみに光太郎文学碑の建立や、その後の女川光太郎祭の企画運営に奔走され、そしてあの日、津波に呑まれて還らぬ人となった貝(佐々木)廣さんのご自宅は、この交番のすぐ隣だったはずです。

女川町では、交番や光太郎文学碑を含む海岸一帯をメモリアルゾーンとして整備中で、そのうち交番の「震災遺構」としての整備が終わり、昨日、除幕が行われたそうです。

地元紙、『河北新報』さんの記事。 

震災遺構旧女川交番が完工 横倒しの姿、教訓伝える

 東日本大震災の遺構として宮城県女川町が保存する「旧女011川交番」の完工式が29日、現地で開かれた。約9年前の姿のまま残された建物は震災の記憶と教訓、復興の歩みを後世へ伝える。
 旧女川交番は鉄筋コンクリート2階で、津波で基礎部分のくいが引き抜かれ横倒しになったとみられる。鉄筋コンクリート造の建物が津波で倒壊した世界的にも珍しい事例とされる。
 遺構を囲う壁には震災前の町の様子や被災状況、まちづくりの過程などを記したパネルを展示した。整備費は遺構周辺の広場を含め約4億1500万円。
 式典には約100人が出席。須田善明町長は「震災の悲しみや教訓と共に、立ち上がった人々の強さを伝えたい」と話した。



共同通信さんの配信記事。 

宮城・旧女川交番の遺構整備完了 津波で横転、パネル展示も

 東日本大震災の津波で横倒しになり、そのままの姿001で保存されている宮城県女川町の震災遺構「旧女川交番」と周辺広場の整備が完了し29日、記念式典が行われた。海岸近くの町中心部にある鉄筋コンクリート2階建ての旧交番は、引き波で基礎部分のくいごと引き抜かれた。

 町民ら約100人が参加した式典で須田善明町長は「教訓、悲しみはもちろん(被災から)立ち上がる人々の強さ、歩みを伝えたい」とあいさつ。「旧女川交番」と書かれたパネルを除幕した。

 震災前の街並みや復興をたどる写真も展示する。広場と合わせた整備費は約4億1400万円。国の復興交付金を充てた。



NHKさんのローカルニュース。 

津波で被災「旧女川交番」が震災遺構に

東日本大震災の津波で被災した宮城県女川町にあ000る「旧女川交番」が震災遺構として整備され、29日、工事の完成を記念する式典が開かれました。
震災の津波で横倒しになった宮城県女川町の「旧女川交番」は、津波の威力のすさまじさを後世に伝える「震災遺構」として整備が進められてきました。

この工事が震災から9年を前に完了し、29日開かれた記念の式典では、出席者が全員で黙とうをささげ犠牲者を悼みました。

震災遺構として整備された「旧女川交番」の周辺はおよそ5メートルの高さまで盛り土された広場となっていますが、津波で横倒しとなった鉄筋コンクリート造り2階建ての「交番」は、そのままの状態で保存されています。

また、近くには復興に向けたこれまでの歩みなどをまとめた写真やパネルも設置されています。

中学生の時に保存を求めて活動した勝又愛梨さんは(21)「原爆ドームのように保存して100年後も震災のことを伝えるようにしたいです。実際に来て見てもらい、津波の恐ろしさを感じてほしい」と話していました。

また、女川町の須田善明町長は「震災遺構として、あの日の津波の威力、そこから立ち上がった町の姿を伝えていきたい」と話していました。


仙台放送さん。 

津波の恐ろしさを見て感じて 被災した交番が”震災遺構”に 宮城・女川町

東日本大震災の津波で被災した女川町の交番が、震災遺構として整備され2月29日から一般公開が始まりました。

旧・女川交番は震災の津波で横倒しになり、町が津波のすさまじさを伝える震災遺構として、保存に向けた整備を進めてきました。震災後の再開発で、交番の周りは3mほどかさ上げされましたが、見学用スロープが用意され当時の姿を間近に見ることができます。

女川1000年後のいのちを守る会 勝又愛梨さん
「実際にこの建物の大きさ、頑丈さを見て津波の恐ろしさが伝わるんじゃないか。話だけでは伝わらない、実際に見て感じるものがある」

旧女川交番は29日から一般公開となり、周辺には今後、公園が整備されます。

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NHKさん、仙台放送さんともに、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」建立に携わって来られた「女川1000年後のいのちを守る会」の勝又愛梨さんがインタビューに答えられていました。

今後、同じくメモリアルゾーン内の光太郎文学碑の再建も成されるやに聞いています。期待しております。

明日も震災関連で。


【折々のことば・光太郎】

わが子のために身を捨てて顧みぬ母の愛の深さには世界人類の在るところおしなべて差別はない。これは殆ど生物の本能ともいへる深いところから発動する言語道断の母の慈育愛そのものである。

散文「皇国日本の母」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

この一節だけ取り出せば、首肯できる内容です。ところが、やはり大戦末期、このあとがよろしくありません。末尾には、お国のために「死ねと教へる皇国日本の母の愛の深淵は世界に無比な美の極である」とまで書いてしまっています。さすがに「こんなご時世でも死ぬなと教える母の愛」とは書けなかったのかも知れませんが……。

ちなみに「言語道断」。現代では「もってのほか」など、マイナスの意味でしか使われませんが、元々は仏教用語で仏教の真理や究極の境地は言葉では言い表せない、というわけで、プラスの意味にも使われていました。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

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