2020年01月

NHK Eテレさんで放映されている「にほんごであそぼ」。来週1週間、光太郎特集を組んで下さいました。ありがたし。ただ、10分間の番組ですが、全編が光太郎、というわけではないようです。 

にほんごであそぼ

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。

「高村光太郎(1)冬が来た」
2020年2月3日(月) 午前6時35分~午前6時45分/ 午後5時00分~午後5時10分
きっぱりと冬が来た「冬が来た」高村光太郎、絵あわせ百人一首/山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば(源宗于朝臣)、歌舞伎/舞づくし「京鹿子娘道成寺」より、投稿ごもじもじ、童謡「ペチカ」、リクエストより・うた「ベベンの冬が来た」「道程」
出演 美輪明宏 中村勘九郎 小錦八十吉 おおたか静流 うなりやベベン ほか

「高村光太郎(2)人に」
2020年2月4日(火) 午前6時35分~午前6時45分/ 午後5時00分~午後5時10分
ひこうき山陽/いやなんですあなたのいってしまふのが「人に」高村光太郎、野村萬斎/立春、絵あわせ百人一首/淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守(源兼昌)、童謡「早春賦」、はんじえ/ふじばかま→めじろ、うた「道程」
出演 野村萬斎 三代目神田山陽 おおたか静流 ほか

「高村光太郎(3)道程」
2020年2月5日(水) 午前6時35分~午前6時45分/ 午後5時00分~午後5時10分
ヨシタケシンスケのはい!ここで名文・ひこうき山陽/僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る「道程」高村光太郎、絵あわせ百人一首/人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は(後鳥羽院)、ぎお~んごー/歩く、童謡「早春賦」、投稿ごもじもじ、うた「道程」
出演 美輪明宏 三代目神田山陽 小錦八十吉 おおたか静流 白A ほか

「高村光太郎(4)あどけない話」
2020年2月6日(木) 午前6時35分~午前6時45分/ 午後5時00分~午後5時10分
文楽/智恵子は東京に空が無いといふ「あどけない話」高村光太郎、絵あわせ百人一首/君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな(藤原義孝)、投稿ごもじもじ、童謡「早春賦」、うた「道程」
出演 竹本織太夫 鶴澤清介 三世桐竹勘十郎 おおたか静流 ほか

「高村光太郎(5)牛」
2020年2月7日(金) 午前6時35分~午前6時45分/ 午後5時00分~午後5時10分
牛はのろのろと歩く「牛」高村光太郎、野村萬斎/摺り足、リクエストより・うた「ことわざしりとり」
出演 美輪明宏 野村萬斎 小錦八十吉 ほか


000


ラインナップを見ると、どうもここ数年間で放映されたものの再編集のようです。昨年には同様の企画で、当会の祖・草野心平が1週間取り上げられていました。ちなみに「うた」のコーナーの「道程」は、やはりこれまでにも放映された坂本龍一さん作曲のものでしょう。

こうしてみると光太郎詩、あえて子供向けに書かれたものでなくとも、子供にもある程度理解できる内容のものが多いのだな、と感じました。逆に、あえて子供向けに書かれたもの(戦時中に多いのですが)には、ほとんどろくなものがありません。「少年飛行兵の夢」(昭和18年=1943)とか、「ぼくも飛ぶ」(同)とか……。

閑話休題、「にほんごであそぼ」、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

男女が一緒になれば、自然に家事が出来ます。正当に住むによい様にする為めには、女は女だけの仕事がありませうが、力業を要する事は男子のするのが当然で、それをするので職業の妨げになるといふのは、怠慢を弁護する申分でせう。
談話筆記「妻君の位置」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

ここで云う「家事が出来ます」は、やらなければならないことが生じる、という意味でしょう。

光太郎、当時としては家事の分担をかなり担っていた方だと思われます。ただ、「力業を要する事は男子のするのが当然」ということは、「力業を要しない事は男子がやらなくともよい」ということになり、「女は女だけの仕事がありませう」あたりと併せ読むと、まだまだその辺の意識は不十分だったようにも思えます。

しかし、「力業を要しない事は女子がやるのが当然」とは云っていませんのでよろしく。

申し込み締め切りがとりあえず明日でした

福島大学うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)さんの主催により、これまでも全国各地で開催されてきた東日本大震災からの復興支援シンポジウムで、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「ほんとの空」の語を冠して下さっています。

福島大学うつくしまふくしま未来支援センターシンポジウムin 富岡 ~ほんとの空が 戻る日まで~

期 日 : 2020年2月13日(木)
会 場 : 
富岡町文化交流センター学びの森 福島県双葉郡富岡町大字本岡王塚622-1
時 間 : 13:00~16:00
料 金 : 無料

東日本大震災から9年が経過しようとする中、住民の期間が思うように進まないなど被災地域は今なお多くの課題を抱えています。被災地域の「これから」について「コミュニティの再生」という面から、首長をはじめとする関係者が一堂に会し議論します。

基調講演 住民自らが取組むコミュニティの再生 (公社)中越防災安全推進機構統括本部長 稲垣文彦氏

パネルディスカッション 被災地域におけるコミュニティの再生
 モデレーター  初沢敏生氏(FUREセンター長)
 コメンテーター 稲垣文彦氏(基調講演講師)
 パネリスト      遠藤雄幸氏(川内村長)
         秋元正國氏(双葉地方町村会常務理事兼事務局長)
         牧ノ原沙友里氏(一般社団法人ならはみらい主任)
         仲井康通(FURE相双地域支援サテライト長)


000

001


これまでも全国各地で行われてきたこのシンポジウム、このブログでご紹介するたびに「いずれ参加せねば」と思っておりましたが、今回、ディスカッションのパネリストに、旧知の川内村長・遠藤雄幸氏の名があるもので、申し込ませていただきました。ちなみに遠藤氏、平成29年(2017)に新潟で開催された際もパネリストを務められていましたが、その際は欠礼いたしました。

申込期限は明日ですが、これまでの例ですと、定員に達せず、追加申込期間が設定されることがほとんどでした。3.11も近いことですし、ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

今朝汽車の中から暁の晴れた空と薄緑の草原と遠い地平線の雪を頂いた連山とを見た時には本当に蘇生した様な思ひをした。

散文「ルセルンの旅舎より」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

雑誌『女子文壇』に発表されたのが大正3年(1914)ですが、内容的には欧米留学の最後の頃、明治42年(1909)3月から4月にかけ、スイス経由でイタリア旅行に出た際の、ルツェルンでの様子を書簡体で綴ったものです。宛先は親友だった水野葉舟。実際に葉舟に送った書簡そのままなのか、それを思い返して新たに書いたのか、または葉舟に手紙を書いたということ自体がフィクションなのか、そのあたりは判然としません。

生涯、大自然の美しさに惹かれ続けた光太郎でしたが、欧米留学中はほとんど都市部にばかりいたため、久々に接した雄大な自然に「蘇生した様な思ひ」を抱いたようです。

新刊です

レジェンド文豪のありえない話

2020年1月1日 株式会社ダイアプレス 定価891円+税

総勢六十余名の神をも恐れぬご乱痴気!
酒癖、絡み症、女癖、我執…。文壇の先生方は一癖二癖、三癖が普通。そのくせ弱くて「死にたい…」とぽつり。そんな先生方の哀しくも過激でおもしろすぎるアンビリーバブルな言行録!!

〇明治の困った文豪たち
・坪内逍遥 ・夏目漱石 ・正岡子規 ・森鴎外 ・幸田露伴 ・広津柳浪 ・尾崎紅葉
・国木田独歩 ・樋口一葉 ・島村藤村 ・田山花袋 ・徳田秋声 ・泉鏡花 ・与謝野晶子

〇大正の小粋な文豪たち
・有島武郎 ・永井荷風 ・石川啄木 ・萩原朔太郎 ・芥川龍之介 ・谷崎潤一郎
・直木三十五 ・菊池寛 ・武者小路実篤 ・志賀直哉 ・内田百閒 ・室生犀星
・岡本かの子 ・佐藤春夫

〇昭和の微妙な文豪たち
・宮沢賢治 ・井伏鱒二 ・横山利一 ・江戸川乱歩 ・夢野久作 ・川端康成 
・梶井基次郎 ・小林多喜二 ・林芙美子 ・堀辰雄 ・中原中也 ・中島敦 ・ 坂口安吾
・檀一雄 ・太宰治 ・幸田文 ・大岡昇平 ・織田作之助 ・埴谷雄高 ・安部公房
・三島由紀夫


〇コラム
・明治文豪相関図 ・大正文豪相関図 ・昭和文豪相関図 ・文豪たちがしたためた恋文
・文豪たちのエロ妄想 ・文学と性表現 ・文豪たちのこだわり ・戦後小説と文壇の流れ

001

「文豪」たちの、どちらかというと人間くさいエピソードの数々を、一般向けに堅苦しくなく紹介するものです。光太郎は目次の大項目に入っていませんが、コラム「文豪たちがしたためた恋文」で、大正2年(1913)、結婚前の智恵子に宛てた光太郎からの書簡が紹介されています。また、佐藤春夫ら、交流のあった「文豪」の項で名前が挙げられていたり、「相関図」に組み込まれていたりします。

肩のこらない書きっぷりですが、どうしてどうして意外と鋭い指摘(光太郎に関しては「狂気を孕んだ愛」の一言)や、ある種のタブーへの挑戦的な部分(狂信的ファンの間では神格化されている宮沢賢治が、実は春画コレクターだったことの紹介など)もあり、一種の「文春砲」のような(笑)。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

恋愛だけには人工的な理性が加はらない。昔からたつた一つ、人間の姿が生き生きして出て来るものは恋愛である。恋愛と云ふものは罪悪だとか、人間の精力をつぶして了ふとか、危険なものだとか、盲目なものだとか云ふ風に解釈するのは皆功利的な解釈の仕方である。

談話筆記「恋愛――結婚の話――」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

こう語った頃、光太郎は智恵子との恋愛の真っ最中で、密かに上高地への婚前旅行を共謀していた時期でした。

キーワード「智恵子抄」でヒットしました。 

安達太良マウンテンガイドネットワーク公募企画ツアー

公募企画は、安達太良マウンテンガイドネットワークが自信をもってお勧めする、お任せタイプの公募型登山ツアーです。
2020年冬のシーズンの始まりです。安達太良山は来春までは積雪期のアクテビティをお楽しみください。安心して冬山トレッキングをするには地元を知るプロの登山ガイドにお任せください。
「智恵子抄」で詠まれているほんとの空がある安達太良連峰。安達太良山は北から鬼面山、箕輪山、鉄山、安達太良山、和尚山がほぼ南北に並ぶ複合火山です。東からの眺めはなだらかな裾野が広がる一見女性的な穏やかさですが、西側は火口が開き、火山活動によって変質した頂上付近には植物すら生えない荒々しい男性的景観を示しています。その美しい山々をめざすスタート地点の登山口は7つ。この内、最も多くの登山者に利用されているのが、安達太良スキー場のリフトを利用できる奥岳コースです。ゆっくりと稜線の醍醐味をお楽しみになりたい方、温泉のある小屋「くろがね小屋」に泊まる方、野地温泉までの安達太良山縦走もございます。ご自分のレベルに合わせてご参加ください。


009

001


自然のままの山を滑る楽しさを味わえる、バックカントリー実技編‼️ in安達太良山
リフトやスキー場の雑音が届かない手つかずの大自然を滑るバックカントリーは近年脚光を浴びています。地形を読み、雪を読み、リスクと向き合い、そして自然の恩恵を感じながら滑る究極のスポーツがバックカントリーです。経験豊かなガイドと一緒に安心してバックカントリーを楽しんでいただけるツアーです。

*初中級者(ゲレンデスキーでシュテムターンができる方SAJ2級程度)を対象としたツアーです。
*バックカントリーで使うギアの使い方や、疲れにくい歩き方、雪と地形を読み安全に考慮したルートセッティングをわかやすレクチャーします。
*準備物:冬装備、バックカントリーを滑走するのに必要な道具を持参する。
開催日 : 2月11日(祝)  3月8日(日)  
集合場所:あだたら高原スキー場レストハウスに9時集合(解散予定15時)
締め切り:開催日の5日前までにお申込みください。
参加費 7,000円(リフト代、保険料別途)

002  007


厳冬の安達太良山縦走ツアー‼︎ 2日間(秘湯くろがね小屋泊)
1日目は奥田岳(あだたら高原スキー場)から標高1350m(標高差400m)にある温泉つきのくろがね小屋泊までの行動になります。(行動時間2h)
2日目はくろがね小屋を出発して山頂をめざします。峰の辻から火山源が見られる牛の背稜線に出て沼の平を経て安達太良山の峰に立ちます。お天気次第では飯豊連峰や蔵王連峰を望むことが出来るかと思います。
*スノーシューレンタルします。アイゼン10本爪以上必須です。
*お友だちが3人揃ったらツアー以外の日程でも催行しますのでご相談ください。
期日 :  2020年2月16日(日)〜17日(月)  3月 8日(日)〜 9日(月)
 郡山駅10時集合(現地集合🆗) 2日間  
*参加申込み〆切催行10日前迄
参加費 15,000円(ガイド料) 他、諸経費14,500円(登山口までの移動費、山小屋2食代、下山後温泉代、保険料) 総額29,500円になります。




魅力満載の稜線歩き〜厳冬・残雪の安達太良山ツアー! 日帰り(郡山駅集合です)

奥田岳登山口(あだたら高原スキー場)からリフトに乗って1350mの薬師岳へ。ここから眺める白銀の安達太良山には目を奪われそうです。積雪状況によりスノーシューやアイゼン装着して山頂まで約2時間半の稜線歩きを堪能してください。
*スノーシューレンタルします。アイゼンは10本爪以上必須です。
*お友だちが3人揃ったらツアー以外の日程でも催行しますのでご相談ください。
開催日 : 2月24日(月) 3月15日(日)
*参加申込み〆切催行5日前迄
参加費 10,000円(ガイド料) 他、諸経費5,000円(登山口までの移動費、リフト代、温泉代、保険料) 総額15,000円になります。

005  008


この時期の安達太良山、なかなか厳しい自然環境でしょうが、生涯「冬」を愛した光太郎など、大喜びで参加しそうです(笑)。若い頃の智恵子も新潟の友人宅に滞在して、我が国に紹介されて間もないスキーに興じたことがありましたし。

ご都合のつく方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】
見て少しも不自然な人工的の表情がなく、夫れで居てヴアイオリンの最高調の音を聞く様な気持を起こさせる――玆まで行かなければ表情の極地とは云はれません。

談話筆記「女の顔と表情」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

日本女性はとにかく表情に乏しい、という話から、しかし欧米人のように大袈裟な身振り手振りや目をひんむくような表情でも困る、といった流れの中での結論です。

雑誌の新刊です。といっても、1ヶ月経ってしまいましたが

花美術館 Vol.68

2019年12月20日 蒼海出版 定価1,200円+税

特集 オーギュスト・ロダン 人体こそ魂の鏡  

監修・髙橋幸次(国際ファッション専門職大学教授)
 ロダンの生涯―いのちを注ぎ込んだ綜合  髙橋幸次
 ロダン作品の特徴―自然と生命を拠り所に  髙橋幸次
 日本とロダン  髙橋幸次
 「ロダンの言葉」について―彫刻理解の基礎、大前提  髙橋幸次
 日本のロダニズム―荻原守衛を中心に  武井敏(碌山美術館学芸員)
 カミーユ・クローデルとロダン  南美幸(静岡県立美術館上席学芸員)
 他


001

002

花美術館』さん。隔月刊の美術雑誌で、A4版200ページ近くでオールカラーの豪華なものです。平成23年(2011)のVol18では、光太郎智恵子の特集「詩魂が宿る芸術 光太郎、智恵子」を組んで下さいました(監修は故・北川太一先生でした)し、その後もぽつりぽつりと光太郎に関わる内容がありました。

で、今号はロダン。監修、さらにご執筆もなさっている髙橋幸次氏、以前は日本大学さん芸術学部教授であらせられましたが、昨年開校した国際ファッション専門職大学に移られたそうです。当方、いろいろお世話になっております。氏が三元社さんから昨年上梓された『「ロダンの言葉」とは何か』をベースにされた部分もあり、ロダンを崇敬した光太郎についての記述がふんだんに為されています。

図版が多く、理解の手助けとなります。晩年のカミーユ・クローデルの写真の存在など、当方、寡聞にして初めて知りました。

氏からの年賀状で今号の内容を知り、早速、Amazonさんで注文したのですが、さんざん待たされたあげく、結局品切れとメールが来、改めて他店で注文し直し、漸く入手した次第です。

また、こちらもお世話になっている、碌山美術館さんの学芸員であらせられる武井敏氏による「日本のロダニズム―荻原守衛を中心に」でも、光太郎に触れて下さっています。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

山を画きたい欲望は随分前からあつたので、今度山の中にはいつたら堪らないと思ふ。私は今大変な時に居る。二三日したら山へ行く。山を画く。

散文「〔消息〕――『生活』に――2」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

「山」は信州上高地です。ここでは秘匿していますが、すでに話ができあがっていたようで、智恵子も光太郎の後を追って上高地入りし、二人は婚約を果たします。光雲の息のかかった旧態依然の日本彫刻界とは訣別し、ヒユウザン会(のちフユウザン会)、生活社など、新進気鋭の若手の集まりに軸足を置くようになって、さらに智恵子との婚約。確かに「今大変な時に居」ました。その高揚感が文章からも伝わってきます。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為される、「十和田湖冬物語2020」が、一昨日、開幕しました。地元地方紙の報道をご紹介します

まず、『北鹿新聞』さん。

「十和田湖冬物語」が開幕 雪と光で幻想的に 2月24日まで 休屋 冬季観光の誘客期待

 十和田湖の冬季観光の活性化を図る恒例イベント「十和田湖冬物語」が24日、開幕した。湖畔休屋の特設会場は雪と光で幻想的に彩られ、訪れた家族連れなどが冬花火や秋田、青森両県の味覚などを楽しんだ。2月24日まで。
 青森県十和田市や小坂町の観光関係者でつくる実行委員会(中村秀行委員長)が毎年開催。今年で23回目を迎えた。
 会場には色とりどりのLED電球約5万球や、かまくらなどさまざまな雪像を設置。雪不足の影響で発荷峠など周辺から雪を集めて準備を進めてきた。
 オープニングセレモニーは環境省、秋田、青森両県、小坂町、十和田市の関係者らが出席し、午後6時半から屋外ステージで行った。
 中村委員長は春節(旧正月)に合わせて中華圏からの訪日旅行客を呼び込もうと、会期を例年に比べて1週間長い5週間としたことに触れ「例年は期間中に20万人が訪れているが、今年は25万~30万人の来場に期待している」と述べた。
 中村委員長によると、冬物語の来場者のうち外国人観光客は2~3割。国・地域別では台湾、香港が多く、最近はベトナム、タイ、マレーシアなどからの観光客が増えているという。
 デジタルアートを投影するメイン雪像の点灯式や津軽三味線の熱演などに続き、午後8時すぎにハイライトの冬花火を打ち上げ。小雪が舞う中、りんとした厳冬の冬空に大輪を描き、来場者を魅了した。
 郷土料理や地酒などが楽しめる「ゆきあかり横丁」や「乙女の像」ライトアップ、雪の滑り台なども人気を集めた。
 問い合わせは事務局の十和田奥入瀬観光機構(☎0176・75・1531)。

003

他紙は残念ながら「乙女の像」の語が入っていませんが、紹介します。

『東奥日報』さん。

花火、LED…十和田湖彩る/「冬物語」開幕003東奥

 十和田湖畔の真冬の一大イベント「十和田湖冬物語」が24日、青森県十和田市休屋地区で開幕し、多くの観光客や家族連れらでにぎわった。会場をイルミネーションがきらびやかに彩り、200発の打ち上げ花火が夜空を鮮やかに照らした。
 今年はこれまでの伝説を基にした巨大雪像とは趣向を変え、プロジェクションマッピングを投影するスクリーン型の壁を建設。セレモニー後、十和田市在住のシンガー・ソングライター桜田マコトさんや津軽三味線のステージが繰り広げられた。午後8時、色とりどりの冬花火が打ち上げられ、来場者を魅了した。
 会場には約5万個の発光ダイオード(LED)が飾られ、青森県と秋田県の味覚が味わえる「ゆきあかり横丁」、かまくらBarなどを設けている。期間は例年より1週間長く、2月24日まで。


続いて、『デーリー東北』さん。 

銀世界に大輪咲く 「十和田湖冬物語」開幕

 北奥羽地方を代表する雪祭り「十和田湖冬物語」が24日、十和田市の休屋地区特設会場で開幕した。夜には花火の打ち上げやライトアップがあり、雪と光が競演。来場者は銀世界を彩る幻想的な空間を満喫していた。2月24日まで。
 毎年恒例のイベントで22回目。今回は中華圏の大型連休である春節(旧正月)に合わせ、期間を例年より1週間前倒しした。

 メインステージには、映像を投影できる巨大な雪の壁を設置。雪のマークを触ると消える演出に来場者が驚いていた。

 発光ダイオード(LED)による光のゲートや大小の雪像、記念撮影や飲食を楽しめるスペースもにぎわっている。

 平日は午後3時、土曜、日曜日と祝日は午前11時から。花火の打ち上げは午後8時から毎日行われる。

005

さらに、『秋田魁新報』さん。 

雪集め予定通り…「十和田湖冬物語」開幕 幻想的な世界演出 

 冬の十和田湖をPRするイベント「十和田湖冬物語2020」が24日、青森県十和田市・休屋地区の特設会場で始まった。雪像のほか、飲食が楽しめる大型のかまくら、イルミネーションが設置され、雪と光がつくる幻想的な雰囲気が来場者を楽しませた。2月24日まで。

 秋田県小坂町や十和田市の観光関係者らでつくる実行委員会が主催。冬場の観光客の増加につなげようと1999年から毎年開いている。今年は雪が例年より3割程度少ないため湖畔周辺だけでなく、本県側の発荷峠駐車場からも集め、準備を進めてきた。

 会場中央のメインステージには高さ5・4メートル、幅9メートルの雪壁を設営。プロジェクションマッピングで雪の結晶の形をしたマークが動く映像を投影した。直径20メートル、高さ10メートルのかまくらは来場者の人気が高いため今回から2基に増設し、秋田や青森の地酒などを提供している。このほか、子どもたちが楽しめる雪の滑り台やアーチ状の骨組みに青い電球をちりばめた「光のゲート」もある。

 長野県軽井沢町から来場した50代女性は「全国的に暖冬、雪不足が言われていたが、会場にたくさんの雪があってびっくりした。こんな大きなかまくらを見るのは初めて」と話した。実行委は「雪が少なく心配したが、設営内容やプログラムを予定通りに実施できてほっとした」としている。

 開催時間は平日が午後3~9時。土日祝日が午前11時~午後9時。毎日午後8時ごろから花火を打ち上げる。問い合わせは実行委事務局(十和田奥入瀬観光機構)TEL0176・75・1531


001

000

002

今年は全国的に雪不足ということで、苦労されたそうですが、関係者の皆さんのご努力により、無事に開幕できてよかったと思います。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

三度こはした。それで痩せた。何も出来なかつた。今僕の中に非常なものが持ち上つて来てゐるといふ気がしてゐる。明日の制作!

散文「〔消息〕――『生活』に――1」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

岸田劉生らとともに立ち上げた「フユウザン会」が分裂し、その一部が「生活社」として再スタートした頃の文章から。「こはした(壊した)」のは、その頃手がけていた塑像彫刻「茅野蕭々の首」です。智恵子との婚約を控え、リア充状態で(笑)制作意欲にも燃えている、若き光太郎の心の叫びです。



昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念した「高村光太郎文学碑」を建立、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町から、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連で、『朝日新聞』さんの宮城版報道です。 

宮城)「女川いのちの石碑」 11月に21基目披露へ

 宮城県女川町内にある21の浜に東日本大震災時の津波到達点の目印となる「いのちの石碑」を建てる活動などをしている団体が19日、同町高白浜の石碑近くで、これまでの取り組みの報告会を開いた。女川小・中学校内に建てられる21基目の石碑の披露式を11月22日に開くことも明らかにした。
 活動しているのは「女川1000年後のいのちを守る会」。小学6年生の時に震災を経験した女川中学校の卒業生を中心に作られ、「いのちの石碑」や防災本「いのちの教科書」などの作成を進めてきた。寄付金でつくった石碑はこれまでに17基が完成している。
 活動に加わった経緯について、阿部由季さん(21)は「家をなくしたのに他人の心配ばかりをしている友人を見て、私も周りのために何かできないかと思った」と振り返った。
 石碑には中学校時代に生徒たちが詠んだ句が刻まれ、「津波が到達した地点なので、絶対に移動させないで下さい」との一文もある。阿部さんは「女川では昔の震災でも石碑が建てられていたが、工事のためにずらされてしまったことがあった」と説明した。
 報告会に訪れた人からは「なぜここまで大きな取り組みができたのか」との質問が出た。「金魚も大きな水槽で飼えば大きく育つ。広い心で見守ってくれた周りの環境が育ててくれたと思う」と、メンバーで大学生の渡辺滉大さん(21)。「防災が『空気』のように当たり前の存在になってほしい」と答えた。
 報告会に参加した「野蒜(のびる)まちづくり協議会」(東松島市)の菅原節郎会長(69)は「つらい過去と向き合うだけでも負担なのに、彼らは未来の命まで救おうとしている。地元の人たちにも彼らの活動を広めたい」と話した。
 21基目の完成日が決まったことについて、メンバーで大学生の鈴木智博さん(20)は「『やっと終わって良かったね』と言われることもあるが、これはゴールでなくスタート。次の災害で本当に命が救われるように、何年かかるかわからないが、活動を続けていきたい」と語った。(山本逸生)

003


1基目が建立されたのが、平成25年(2013)。それから7年間かけて、いよいよ最後の碑が建てられるというわけです。頭が下がります。

元々、かつて女川港近くの公園にあった光太郎文学碑が、「100円募金」で建てられたことに倣い、当時中学生だった若者たちが募金を呼び掛けて、資金を集めました。

004


光太郎や、文学碑の建立に奔走した女川光太郎の会事務局長であらせられ、あの日、津波に呑み込まれて亡くなった貝(佐々木)廣氏も、泉下で目を細めているのでは、と思います。

津波による辛い体験をそれぞれが経たあと、その逆境をバネに、こうした素晴らしい活動を成し遂げつつある彼らに幸あれと、祈念せざるを得ませんね。

続報が出ましたら、またご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

日本へ帰つて来たら矢張り日本の料理が好い。

談話筆記「画室にて」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

「画室にて」は長い談話筆記で、明治39年(1906)から同42年(1909)まで約3年半、留学のため渡り歩いた欧米各地の食文化、それぞれの地で気に入った食べ物、それらにまつわる体験などについて語られたものです。

延々語った後で、最後に「矢張り日本の料理が好い」。基本的には、日本の料理店で供される洋食が本場のものと比較にならないという苦言です。

しかし、ただそれだけというより、結局、東京美術学校西洋画科での同級生だった藤田嗣治や、年齢差を超えて親炙した高田博厚らと異なり、フランスに軸足を置くことをしなかった=やはり日本、という表れかな、という気もします。

まず、来週開催されるものから。 

遊友塾 『日本の文学作品を読む』

期 日 : 2020年1月29日(水)
会 場 : 
当仁公民館 福岡市中央区唐人町3丁目1-11
時 間 : 10:00~11:30
料 金 : 無料
講 師 : 船津正明(元九州大学非常勤講師)

 古文『今昔物語』(池の禅智内供鼻語第二十)  現代文 芥川龍之介『鼻』
 現代詩 高村光太郎『道程』

000

光太郎詩の代表作「道程」(大正3年=1914)を取り上げて下さる由、ありがたいところです。


続いて、昨年行われた講座系の報告的な。

千葉県文化振興財団さん発行の『千葉県文化振興財団NEWS』から。 

舞台芸術の前に美術作品を 千葉県文化会館

11月9日(土)、いのはな山秋祭りにて千葉県文化会館美術品散策ツアーを開催しました。いのはな亭、千葉市立郷土博物館と協力して行われ、約40分ほどの行程で、千葉県文化会館内外の彫刻や歌碑、絵画などの作品をご鑑賞いただきました。 普段、なにげなく通り過ぎてしまいがちですが、日本を代表する彫刻家の手による作品や、千葉県の美術界の発展に大きく寄与された方の作品など、価値の高い作品ばかりです。そのひとつ、荻原守衛の「女」という作品は、近代彫刻史上、最高傑作とも言われていて、原型となる石膏像は明治以降の彫刻として初めて重要文化財に指定されました。また、作品の中には、実は悲しき恋の由縁を持っているものもあり、作品を解説する中で、「そうなんだ!」と思わずリアクションをとられた参加者の方もいらっしゃいました。 ツアーの最後には、公共建築百選にも選ばれた千葉県文化会館についての解説も行い、参加者の方々には、美術作品のほかに、建築物の魅力にもふれていただきました。千葉県文化会館の周辺には17点の作品があり、会館の受付にてアートマップも配布しておりますので、ご興味のある方は鑑賞されてみてはいかがでしょうか。

004

光太郎ではありませんが、その親友だった碌山荻原守衛の絶作「女」(明治43年=1910)が紹介されています。以前にも書きましたが、千葉県文化会館さんや千葉県立図書館さんのある亥鼻山の一角に、「女」が野外展示されています。昭和43年(1968)の建立で、千葉大学さんの教育学部がもともとここにあって移転したそうで、オブジェ全体が「千葉大学教育学部跡記念碑」です。この地に文化の薫りを、ということで「女」が乗せられています。

005

光太郎の「手」(大正7年=1918)などにしてもそうですが、有名なブロンズ彫刻となると、「うちでも欲しい」ということで、同一の型から鋳造されたものが各地に存在します。「女」も、当方が実際に見た限りでも10点ほどはありました。

意外と皆さんの身近にもあるかも知れません。そうしたものの価値を、やはり各地域でしっかり受け止めていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

僕は仏蘭西へ来て、世界で最も進んだ国はフランスだといふ事を了解した。人間の如何にしても行かざるべからざる地に、他国よりは一歩先じて行つて居る。よくフランスを堕落した国、退歩した国といふ人があるが、此れ皮相の観察であると思はれる。
散文「巴里より――荻原守衛への手紙――」より
明治42年(1909) 光太郎27歳

その荻原へ宛てた手紙、ということで雑誌『新声』に発表されました。手紙そのままなのか、手が入っているのか、そこは判然としません。

詩人で朗読等の活動もなさっている宮尾壽里子様005から、文芸同人誌『青い花』の最新号が届きました。

これまでも光太郎智恵子に関するエッセイや論考等を同誌にたびたび寄稿なさっていて、その都度お送りいただいております。恐縮です。

『青い花』-「断片的私見『智恵子抄』とその周辺」。
『青い花』第78号。
文芸同人誌『青い花』第79号。
文芸同人誌『青い花』第81号。
文芸同人誌『青い花』第90号/『月刊絵手紙』2018年9月号。

宮尾様、一昨年に智恵子の故郷・二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で大賞に輝くなど、朗読系の活動も広く為されています。昨年は連翹忌にても朗読をご披露いただきました。

「2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留」レポート。 
第5回 春うららの朗読会。 
朗読会「響きあう詩と朗読」。 
高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会レポート。 
第63回連翹忌レポート。 

さて、今回の『青い花』、宮尾様によるエッセイ「巴里 パリ PARIS(一)」が掲載されています。

007

006昨年の6月、フランスにお一人で行かれたそうで、そのレポートです。パリ以外にもモンサンミッシェルについても記述があります。

宮尾様がドゴール空港に降り立たれたのが、6月11日。明治41年(1908)、光太郎が留学の最終目的地と定めたパリに着いた同じ日です。

ちなみに、数年前に発見した『高村光太郎全集』未収録の随筆「海の思出」により、パリ以前に滞在していたイギリスからは、ニューへブン(英)――ディエップ(仏)間の航路を使って海峡を渡ったことが初めて確認できました。

宮尾様、パリでは光太郎が暮らしたモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエ跡を訪れられたそうで、うらやましい限りです。当方もいずれは、と思っておりますが。

それから、パリに行かれるというので、事前に、これも数年前に発見した『高村光太郎全集』未収録の「曽遊紀念帖」という光太郎のパリレポートのコピーをお送りしましたところ、そちらに掲載されているメディシス(メヂチ)の噴水(Fontaine de Medicis)などにも足を運ばれm感慨にひたられたとのこと。テルミン奏者の大西ようこさんが渡仏された際もそうでしたが、お役に立てて幸いでした。

『青い花』、ご入用の方は下記まで。

008


【折々のことば・光太郎】

僕の画室へは月が大窓から室一ぱいにさし込んで来る。遠くの方を馬車の馬の蹄の音がきこえる許りで今夜は至つて静かだ。かういふ晩には僕はいつも地球の廻転する音が聞える様に感じてならない。

散文「仏蘭西だより――水野葉舟への手紙――」より
明治42年(1909) 光太郎27歳

パリのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエでの感懐を、親友・水野葉舟に書き送った文章の一節です。

光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海の手になり、昨年、開眼100周年を迎え、一昨年からいろいろな取り組みが行われている信州善光寺さんの仁王像がらみです。

まず、地元紙『信濃毎日』さん、1月18日(土)の記事から。 

善光寺・仁王門の屋根、改修工事 銅板寄進で願い事

 長野市の善光寺事務局は、再建から100年余を過ぎた仁王門の屋根の改修工事を進めている。屋根にふく銅板の寄進を呼び掛けており、寄進者が銅板に願い事を書き込むことができる。事務局は「周囲の人たちの支えと共に、仁王門を後世に伝えていきたい」としている。

 木造平屋で切り妻造りの仁王門は1918(大正7)年の再建。77(昭和52)年に屋根を瓦ぶきから銅板に変えて以来の改修となる。工事は昨年11月初旬に始まり、今年3月下旬に完成する予定。銅板の寄進は1枚2千円からで、予定の2千枚に達し次第終える。既に受け付けており、埼玉県の会社員野田力さん(47)は「多くのご縁を頂いている大切な場所。何か残すことができたら」と寄進した。

 仁王門は、彫刻家高村光雲(1852〜1934年)や弟子の米原雲海(1869〜1925年)が手掛けたとされる仁王像などを安置。松本市出身の彫刻家太田南海(1888〜1959年)も関わった。東京芸大大学院の研究室などの調査で、仁王像が、ほぼ像の重さだけで自立する珍しい構造であることが判明している。

 善光寺は仁王門や仁王像などの調査を進め、指定文化財化を目指す。25日には現地見学会を開く。申し込みが必要で、問い合わせは同寺事務局(電話026・234・3591)へ。

000

記事の通り、現地見学会が催されます。 

仁王門屋根改修工事見学会

期 日 : 2020年1月25日(土)
会 場 : 信州善光寺 仁王門
時 間 : 1回目 午後1時 2回目 午後2時 3回目 午後3時
料 金 : 無料

善光寺仁王門では、令和元年11月から令和2年3月中旬までの期間にて、屋根改修工事を行っております。
再建から100年を迎えた歴史ある建造物へのご理解を深めていただくため、「工事見学会」を下記日程にて開催することになりました。日頃より善光寺を支えてくださる方々にご参加いただきたく、ご案内させていただきます。
事務局までお電話にてお問い合わせください。
☎ 026-234-3591(代) 受付時間:午前9時~午後4時30分
 
・定員になり次第、締め切りとさせていただきます。
・工事用の通路、階段を使用します。安全確保のためヘルメットを着用いただきます。
(ヘルメットは当方で用意します)


004


昨年暮れには仏教系の業界紙『中外日報』さんでも、改修工事の件を報じていました。それから、屋根の銅板寄進についてはこちら

また、善光寺さんでは、毎年恒例の「灯明まつり」も企画されています。近くなりましたら詳細をご紹介します。ただ、そちらは2月初旬から中旬。仁王門改修工事の終了が3月という予定ですので、例年為されている仁王門のライトアップはどうなるのか、と思っております。

週末の現地見学会、ご都合の付く方はぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

めづらしく透きとほつた雰囲気を感じました、そして又ほんとに生きてゐる一人の人を感じ、進んでゆく人を感じました。

散文「永瀬清子詩集『焔について』」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

永瀬清子については、こちら

当会顧問・北川太一先生が亡くなる前からそういう予定だったもので、19日(日)、20日(月)と、一泊で花巻に行っておりました。レポートいたします。

今年はあちこちで雪が少ないという報道には接していましたが、まさにそうでした。例年ですとこの時期、新幹線で仙台を過ぎると銀世界となるという感じですが、今回はまるで春先のような風景が広がっていました。

左は奥州市付近を通過中の車窓から。右は新花巻駅のホームから。その分、レンタカーの運転は楽でしたが。

まずレンタカーを向けましたのは、花巻市総合文化財センターさん。市内5つの文化施設が「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」を統一テーマに行っている企画展示のうち、「ぶどう作りにかけた人々」を開催中で、光太郎に関わる展示もしてくださっています。


KIMG3543


総合文化財センターさんのある大迫地区では、戦後、ぶどう作りに取り組み、現在でもエーデルワインさんというワイナリーがあります。その推進に一役買ったのが、昭和22年(1947)から知事を務めた国分謙吉。国分は昭和25年(1950)に光太郎と対談をしたこともあり、その対談の中でもぶどう作り、ワインについて言及していました。そのあたりを展示では紹介してくださっています。

また、この地で実際にぶどう栽培等にあたった高橋繁造旧蔵の、光太郎詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)書も展示されています。ただし印刷で、同年、盛岡で開催された岩手県開拓5周年記念の開拓祭で配付されたものです。しかし印刷ではありますが、精巧な作りで自筆と見まごうもの。平成21年(2009)には、テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」に、同じものが出ました。依頼人は亡父の遺品で、光太郎自筆のものかと思っていたそうですが、残念ながら印刷ということで¥10,000ほどの鑑定。それでも現存数は多いものではなく、当方、入手したいと思いつつ果たせていないものです。

004

こちらは2月2日(日)までの開催です。

続いて、花巻高村光太郎記念館さんにレンタカーを向けました。こちらも例年より少ない積雪。この時期、1メートル以上積もっていることも珍しくないのですが。

KIMG3550

こちらでは、やはり「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環で、「光太郎からの手紙」が開催中です。

001

002

同館所蔵の光太郎書簡のうち、初代花巻高村光太郎記念会理事長・佐藤隆房夫妻に宛てたものが中心でした。


中には『高村光太郎全集』未収録の、現在確認されている中では最後の光太郎書簡も。先月『朝日新聞』さんがこれについて言及してくださいました。

KIMG3552

光太郎が歿する6日前、昭和31年(1956)3月27日のもので、この日は自分でペンを取ることが出来ず、世話になっていた中野の貸しアトリエの大家さんであった、中西富江に代筆して貰っています。

また、昨年、その寄贈が報道された、当時中学生だった横浜在住の女性にあてた葉書。

KIMG3558

どの手紙も、内容的にもさることながら、味わい深い光太郎の筆跡。書の揮毫ほどに力をこめてはいないのですが、その肩の力が抜けた具合、実に絶妙です。

さらに、昭和25年(1950)11月、当時の水沢町公民館で1日だけ開催された智恵子切抜絵展の際に発行された冊子も。表紙は、画家の夏目利政の手になる智恵子の肖像。夏目は明治42年(1909)から大正元年(1912)にかけ(まさしく光太郎と知り合って恋に落ちた頃です)、日本女子大学校を卒業した智恵子が下宿していた家の息子でした。

KIMG3554

このあたり、亡くなった北川太一先生にも見ていただきたかった、と思いつつ拝見しました。

すると、隣の常設展示室から、北川先生のお声が。「ああ、そうだった」と、思い出しました。

すっかり失念していましたが、平成25年(2013)、千葉市美術館他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の折に、各会場で流したビデオをこちらでも放映させてもらっていまして、その中に北川先生がご登場されていたのでした。

KIMG3559

ちなみに同じビデオには、平成26年(2014)に亡くなった、光太郎令甥・髙村規氏もご出演。そう考えると、このビデオ、今となってはお二人を偲ぶよすがとしても貴重なものとなりました。

その後、隣接する光太郎の山小屋(高村山荘)へ。やはりこの時期としては異例の雪の少なさです。例年ですと、積雪のためこの小屋に近づくことが出来ません。

KIMG3563

久しぶりに中にも入れていただきました。

KIMG3564


雪は少ないとはいえ、冷蔵庫のような寒さでした。改めてここで厳しい生活を送った光太郎に思いを馳せました。

こちらを後に、宿泊先の大沢温泉さんへ。

かつて定宿としていた菊水館さんは、一昨年の台風による道の崩落のため、いまだ休業中。今回も自炊部さんでした。

KIMG3567

KIMG3568

障子を開けると、その菊水館さん。

KIMG3569

ゆっくり温泉に浸かり、このところのいろいろあった中での疲れを癒しました。夕食は自炊部さん併設の食堂で摂りました。

本来、自炊部ですので、湯治客用の調理場もあります。下記はガスの自販機的な。いい感じですね。

KIMG3572

KIMG3573

KIMG3574

当方、使ったことはありませんが。

その晩は、雪でした。翌朝、目覚めると……

KIMG3570

KIMG3575

やはりこうでなくては駄目ですね(笑)。ただし、朝の時点では雪というより霙(みぞれ)でした。

上の方に書き忘れましたが、花巻高村光太郎記念館さんでの「光太郎からの手紙」は、1月27日(月)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本語の質を緻密にさせてゐる点でも大いに教はるところがあります。

散文「中村草田男句集『火の島』に寄せる」より
 昭和15年(1940) 光太郎58歳


中村は明治34年(1901)生まれの俳人。

「言葉」の使い方に、実に神経を配っていた光太郎。同じような人々にはこうして共感を示していました。

昨日から岩手花巻に来ておりますが、レポートは帰りましてからゆっくりと。

その前に、期日差し迫ったコンサートの情報をお伝えします。 

中嶋俊晴×白取晃司 いのちの対話 その2

期 日 : 2020年1月24日(金)
会 場 : 
ソノリウム 東京都杉並区和泉3-53-16
時 間 : 18:30 開場 19:00 開演
料 金 : ¥3.500(一般前売) ¥4,000(一般当日) ¥2,000(学生前売) ¥2,500 (学生前売)
出 演 : 中嶋俊晴(カウンターテナー)  白取晃司(ピアノ)

プログラム
 武満徹 <谷川 俊太郎>  ぽつねん
 上田知華 <清少納言 一倉 宏> 私の好きな月
 笠松泰洋 <俵万智> いのちとは (俵 万智の短歌に基づく歌曲)
 帯刀菜美 <高村光太郎> レモン哀歌 (委嘱作品)
 加藤昌則 <井上靖>挽歌
 高橋悠治 <石垣りん>おやすみなさい

カウンターテナー中嶋俊晴のリサイタルが東京永福町のソノリウムにて開催されます。
《いのちの対話その2》と題して、委嘱作品を含む現代日本歌曲ばかりのプログラムです。それぞれの詩人が描き出した命の尊さを謳ったプログラムを、是非会場でお楽しみください。

002

001

存じ上げない方ですが、カウンターテナー(一般的なテノールより高音域)歌手の中嶋俊晴さんをメインとしたリサイタルだそうで。

中嶋さんのブログより。

大好きだった高村光太郎の詩「レモン哀歌」。傑作《智恵子抄》からの一編です。
歌になっていないかと思って、これまでもいくつも楽譜を開いてみましたが、どれもしっくり来ませんでした。なので思い切って京芸の後輩、作曲家の帯刀菜美さんにお願いすることに。
透明感に溢れた、切ない歌曲を書いてくださいました。
はじめて白取さんと音を出したとき、高村光太郎の詩の世界が音に乗ってふわっと浮き上がったようで、本当に嬉しかったです。
悲しい詩ではありますが、決して暗くなりすぎず、音楽は終始、智恵子の目の光のように水晶のような響きに満ちています。
早く皆さんに聴いていただきたい!

光太郎詩に曲を付けた歌曲作品、ぽつりぽつりではありますが、新作が発表され続けていて、ありがたい限りです。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

生活のくまぐまから来るいろんな感情で一ぱいな詩集だと思ひました。

散文「鮫島慶江詩集『鸚鵡石』」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

「くまぐま」は漢字にすれば「隈々」。イコール「すみずみ」ですね。どこから詩作の着想を得るか、といった部分で、光太郎は鮫島への共感を表しています。

鮫島慶江は前田鉄之助主宰の『詩洋』などに拠った詩人のようですが、詳細がよくわかりません。

元映画女優の小林みどりさん(芸名・青山京子さん)の訃報が出ました。

『朝日新聞』さん。 

小林みどりさん死去

 小林みどりさん(こばやし・みどり=元俳優、俳優・歌手小林旭さんの妻)12日、肺がんで死去、84歳。通夜は22日午後6時、葬儀は23日午前10時から東京都品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場で。喪主は夫旭さん。
 52年に青山京子の名でデビューし、「潮騒」(54年)など多くの映画に出演した。67年の結婚を機に引退した。

『共同通信』さん。 

元俳優の青山京子さんが死去 小林旭さんの妻

 歌手で俳優の小林旭さんの妻で、1950~60年代に映画で活躍した元000俳優の青山京子(あおやま・きょうこ、本名小林みどり=こばやし・みどり)さんが12日午後6時45分、肺がんのため東京都内の病院で死去した。84歳。東京都出身。葬儀・告別式は23日午前10時から東京都品川区西五反田5の32の20、桐ケ谷斎場で。喪主は夫旭(あきら)さん。

 52年に映画「思春期」でデビュー。谷口千吉監督の映画「潮騒」(54年)でヒロインを演じるなど約70本の映画に出演した。67年に旭さんと結婚し、引退した。


『スポーツ報知』さん。 

小林旭の妻、元女優の青山京子さんが肺がんで死去 享年84

 俳優で歌手の小林旭(81)の妻で、元女優の青山京子さんが12日午後6時45分、001肺がんで死去したことが16日、発表された。84歳だった。
 東京・世田谷区出身の青山さんは1952年の映画「思春期」(丸山誠治監督)でデビューし、代表作は54年の映画「潮騒」(谷口千吉監督)。52年から58年まで東宝に在籍し、その後フリーに。東宝時代に約50本、その後の出演を含めると約70本の映画に出演。64年の映画「忍び大名」(佐々木康監督)が最後の出演作となった。67年に小林と結婚し、引退した。
 日活によると、通夜は22日、告別式は23日に、ともに東京・品川区西五反田の桐ケ谷斎場で営まれる。



003芸名の「青山さん」で記述させていただきます。青山さん、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に公開された東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)にも出演されていました。智恵子役は故・原節子さん、光太郎役は故・山村聰さん、青山さんは、智恵子の姪にして、看護師の資格を持ち、その最期を看取った長沼春子の役でのご出演でした。ただ、当時は春子がまだ存命だったこともあり、役名は「秋子」となっていましたが。

今年1月2日(木)のこのブログで、青山さんにも触れたばかりですので、驚いております。

「秋子」の登場は、主に物語後半。智恵子が心を病み、そして南品川ゼームス坂病院で歿するという、とかく暗くなりがちな展開の中で、青山さんの若々しい、清新なご様子が、その暗さの中で、救いのように明るさをもたらしていました。

右上の画像もそうですが、当方、東宝映画「智恵子抄」のスチール写真などもをこつこつ集めておりまして、その中の何枚かに青山さんのお姿が。

004
まだ智恵子が健康だった頃の、「秋子」初登場(だったと思います)のシーン。

007
破産したという報を受け、智恵子が二本松の実家に駆けつけたシーン。中央は智恵子の母・セン(役名は「けい」、故・三好栄子さん)。

006

005
九十九里浜でのシーン。ただし、実際の春子は九十九里浜では智恵子の付き添いには当たっていませんでした。このあたりは史実と異なります。

009
九十九里浜の家に、智恵子の弟・啓助(役名は「光夫」、演じられたのは太刀川洋一さん)が訪ねてきたシーン。

010
ゼームス坂病院でのシーン。

そして、智恵子昇天のシーン。
008

ところで、青山さんが亡くなったのは、何とまあ、当会顧問・北川太一先生と同じ、1月12日(日)だそうで、奇縁を感じます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

真情によつて書かれた此書は多くの人を啓発する事と信じます。

散文「仲村久慈著『湯地丈雄』」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

「真情によつて書かれた」。光太郎詩もそうですね。だからこそ「多くの人を啓発」し続けているのでしょう。


今日から、一泊二日で花巻に行って参ります。大沢温泉さんをベースに、市内5つの文化施設が「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」を統一テーマに行っている企画展示のうち、花巻高村光太郎記念館さんの「光太郎からの手紙」、花巻市総合文化財センターさんで「ぶどう作りにかけた人々」を、それぞれ拝見して参ります。

KIMG3527[1]


当会顧問にして、晩年の高村光太郎に親炙、その没後は顕彰の第一人者として、実にさまざまな活動に取り組んでこられた、北川太一先生。

1月12日(日)に大動脈乖離のため亡くなられ、そのお通夜が一昨日の1月16日(木)、葬儀が昨日・1月17日(金)に、それぞれ文京区の浄心寺さんで執り行われました。


まず、お通夜。棺の中の先生は、お気に入りの茶色いジャケットに、これまたお気に入りだったループタイ。「ああ」と思いました。

001

KIMG3518[1] KIMG3521[1]

次いで、ご葬儀。朝は雨。究極の雨男だった光太郎、その関連の大きな何かが行われる時は、必ずと言っていいほど雨でした。天気予報も数日前から雨の予想。1月14日(火)に、先生のお宅にお伺いした際、ご家族も「きっと光太郎さんが雨を降らせるでしょうね」と、おっしゃっていました。しかし、雨は朝のうちに上がりました。光太郎は雨男でしたが、北川先生はご生前、「太一」の「太」の字は「太陽」の「太」、と周りから言われていたそうです。まさしく太陽のようなお方でした。しかし朝晩は雨、ことによると雪だそうで……それは光太郎からの贈りものだったのでしょう。
KIMG3522[1] KIMG3530[1] 

両日とも、ご家族、ご親族をはじめ、高村家とそのご親族の皆さん、先生が高校教諭をなさっていた頃の教え子の北斗会の方々(本来なら、1月11日(土)に、北斗会の方々と、例年行われている北川先生を囲む新年会の予定でしたが、先生、あまりお加減宜しくないとのことで、昨年暮れには中止の連絡が入りました)、元同僚の方やご朋輩、出版・美術館・文学館等関係者、女優の渡辺えりさん他さまざまなつながりで連翹忌に集って下さっている皆さん(遠くは四国、宮城女川などからも)など、多数のご参列を賜りました。また、急なこと故、参列叶わなかった多くの方々より、お心の籠もった弔電等を頂きました。僭越ながら、故人に成り代わりまして、厚く御礼申し上げます。

浄心寺さんのご住職も、北川先生の教え子のお一人であるやに聞きました。そこで、昨今主流となった葬祭ホールではなく、ぜひともうちの寺で、ということだったようです。また、光太郎顕彰の第一人者であらせられたことをよくご存じで、ご住職、通常の葬儀の中では読まれない「一枚起請文」を読まれました。

光太郎フリークの方はすぐに思い当たるでしょうが、智恵子の法要を謳った光太郎詩「松庵寺」(昭和20年=1945)に出て来る「一枚起請文」です。

   松庵寺KIMG3528[1]

 奥州花巻といふひなびた町の
 浄土宗の古刹松庵寺で
 秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
 まことにささやかな法事をしました
 花巻の町も戦火をうけて
 すつかり焼けた松庵寺は
 物置小屋に須弥壇をつくつた
 二畳敷のお堂でした
 雨がうしろの障子から吹きこみ
 和尚さまの衣のすそさへ濡れました
 和尚さまは静かな声でしみじみと
 型どほりに一枚起請文をよみました
 仏を信じて身をなげ出した昔の人の
 おそろしい告白の真実が
 今の世でも生きてわたくしをうちました
 限りなき信によつてわたくしのために
 燃えてしまつたあなたの一生の序列を
 この松庵寺の物置御堂の仏の前で
 又も食ひ入るやうに思ひしらべました


松庵寺さんは、花巻市街に今も健在の浄土宗の寺院で、光太郎は花巻疎開後、ほぼ毎年、そちらでご両親や智恵子の法要を営んで貰っていました。光太郎歿後は花巻としての連翹忌法要を毎年営んで下さっています。浄心寺さんも浄土宗ということで、ご住職の粋な計らいには感動を覚えました。

さらに、閉式直前のお話では、「浄土再会」というお話をされました。たとえ今生の別れとなっても、やがて西方浄土でまた再会できるのだそうで。まさしくそう考えたいものです。北川先生、今頃はあちらで光太郎や、髙村豊周や、草野心平や、高田博厚や、伊藤信吉や、そして先に逝かれたお嬢さんや、その他大勢の人々に囲まれているのだ、と。

また、ご遺族からは、かようなメッセージ。

001

式での喪主としてのご挨拶では、子息・光彦氏、丑年生まれの北川先生、光太郎詩「牛」(大正3年=1914)のごとく、じりじりと一歩ずつ歩まれてきた先生のお姿に触れられていました。

ご葬儀終了後は、先生の棺を載せた霊柩車を先頭に、バス2台に分乗して、近しい一同で町屋斎場へ。

KIMG3535[1] KIMG3534[1]
こちらでご遺体が荼毘に付され、当方も拾骨に加わらせていただきました。

再び浄心寺さんに戻り、お清め。

KIMG3537[1]

午後3時、滞りなく全日程を終えました。両日ともに、本当に心のこもったいいお式でした。こういうと何ですが、仕事上のつきあいや義理での儀礼的な参列者は皆無で、皆さん、心の底から先生のご逝去を悼まれているように感じられました。これも故人のお人柄のなせる業。まさに「人徳」でしょう。


さて、当方自宅兼事務所の書庫から、先生に関わる書籍等いろいろ引っ張り出していた中で、その存在をすっかり失念していて、改めてこんなものを再発見した、というのをご紹介させていただきます。

書籍は、昭和60年(1985)、先生が都立向丘高校教諭をご退職になられた際に、北斗会の皆さんが中心となってその記念に編まれた私家版の『北川太一とその仲間達』(のちに平成23年(2011)にも、同名の書籍が文治堂書店さんからやはり北斗会さんの編集で公刊されていますが、そちらとは内容を異にします)。

その最終ページに近い当たりに、版画をご趣味とされていた先生の手になると思われる、シルクスクリーンでしょうか、とにかく先生御自筆の文字がドンとでっかく刷られた紙が貼られていました。

002

書籍の存在は勿論忘れていませんでしたが、この紙が中に貼られていたことは、すっかり失念していまして、この紙を再発見した時は、まるで、彼岸の先生からのメッセージのように感じ、涙が溢れました。「そんな……お礼を賜る筋合いなんて、これっぽっちもありませんよ……」と。

と、ここで、はたと気がつきました。「これをブログ?とやらに載せて、皆さんに伝えて下さい」という、先生からのメッセージなのではないか、と。

というわけで、これまた僭越ながら、故人に成り代わりまして、皆様に画像でお届けいたします。お受け取り下さい。

そして、北川先生、あらためまして、こちらからも、ありがとうございました。どうぞお安らかに……。


【折々のことば・光太郎】

素直さにも深浅大小がありますが、此はともかく詩の基礎を成すものと思ひます。

散文「旭山浩第一詩集『輝かしい朝』」より 昭和9年(1934) 光太郎52歳

北川先生、「深」く「大」きな「素直さ」、すなわち、そのお心に「詩」をお持ちの方でした。

本日、午前11時より、文京区向丘2丁目17-4 、浄心寺さんにおいて、当会顧問・北川太一先生のご葬儀が営まれます。昨日は同所に於いてお通夜。お通夜/ご葬儀の件は終わりましてからレポートいたします。

青森から、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為される「十和田湖冬物語2020」関連の報道をご紹介します。

まず、秋田テレビさんのローカルニュース。 

雪不足も準備着々と 十和田湖冬物語の雪像づくり始まる

 全国各地で雪不足が懸念されている中、今月末に開幕する冬の十和田湖の観光イベント「十和田湖冬物語」に向け会場では雪像づくりなどの準備作業が始まった。

 「十和田湖冬物語」は真冬の十和田湖畔を会場に秋田と青森のグルメや雪遊びなどが楽しめるイベントで連日打ち上げられる花火が訪れる人を魅了する。


 一面銀世界の会場では地元の観光関係者や陸上自衛隊の隊員が雪像作りなどを進めているものの実は雪不足が深刻。

 十和田湖周辺の積雪は去年の半分ほどになっていて自衛隊は近くの山から雪を集める対応に追われている。


 陸上自衛隊八戸駐屯地雪像制作協力隊の女性隊員は「けっこう重いものを運ぶが楽しくできている。来た人に喜んでもらえる雪像を作れるよう頑張りたい。」と作業の意気込みを語った。
 2020年の「十和田湖冬物語」は外国人観光客を呼び込むため中国の旧正月の休みである「春節」に合わせ、例年より1週間ほど早い1月24日に開幕する。



続いて、地方紙『東奥日報』さん。 

24日からの「十和田湖冬物語」/プロジェクションマッピングを投影する雪像づくりがスタート

 十和田湖畔で24日開幕する恒例の冬季イベント「十和田湖冬物語」のメイン雪像づくりが10日、湖畔休屋の特設イベント会場で始まった。協力する陸上自衛隊八戸駐屯地の隊員35人が、プロジェクションマッピングを投影する雪像の制作に入った。23日までに完成させる。
 今年はデジタルアート展示に主眼を置き、雪像は幅9メートル、高さ5.4メートル、厚さ2.7メートルの横長スクリーン型。イベント会場のメインステージに設置し、映像のほか、市内の子どもたちの絵画、版画などの画像も投影するという。
 10日の制作開始式で、冬物語実行委員会の中村秀行委員長が「体調に留意し、事故やけがのないようお願いします」と激励。協力隊長の玉谷大志3等陸佐が「市民、観光客に喜んでもらえるような雪像を期限までに作る」と応えた。イベント会場にはメイン雪像のほか、大型滑り台、かまくらBarといった雪を楽しむスポットが登場する。十和田湖畔も県内の他地区と同様、積雪は例年を下回るが、制作には問題がないという。冬物語は24日から2月24日まで。

006

今年は各地のスキー場などの雪不足が深刻とのことでしたが、十和田湖もだそうで。なるほど、背後の山々も真っ白という感じではありませんね。

自衛隊の皆さん、札幌雪まつり同様、雪上での要塞構築訓練を兼ねるという名目でのご協力を賜っていますが、まことにお疲れ様です。頭が下がります。例年ではそれが無い、他所からの雪集めの作業が加わった分、手間が増えたわけで。秋田テレビさんのインタビューに答えられているのはWAC(Women's Army Corps=婦人自衛官)の方。女性にはなおさらきつい作業でしょうに。

当方、2度、足を運びましたが、とにかく寒いイベントです。ただ、真冬が大好きだった光太郎は大喜びしそうだとも感じました。また呑兵衛でもあった光太郎、かまくらでのワインバーなどにいそうな気がします(笑)。

そして雪灯籠の明かりに照らされる幻想的な乙女の像。北川先生にもぜひ見せたいものでした……。

報道にある通り、来週末1月24日(金)の開幕です。ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

若い、きれいな、いきいきした風に吹かれるのはうれしい事です。

散文「平正夫詩集『白壁』に就いて」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

平正夫は旧制鹿児島一中の教師だったそうです。『白壁』は前年、南方詩人社から刊行されました。光太郎に私淑していた黄瀛が跋文を書いています。

本日午後6時から、当会顧問にして、生前の光太郎に親炙された、北川太一先生のお通夜が、文京区向丘の浄心寺さんにて行われます。ご葬儀は明日です。一昨日、昨日と、その関連の内容でこのブログを書きましたが、そうしている間にも、注文しておいた光太郎がらみの記事が載った雑誌が届いたり、光太郎にも関わる新たなニュースが出たり、今年行われる光太郎に関する某美術館さんの企画展示に関する連絡のメールが来たりと、世間は普通に動いています。

「僕のことはいいから、そのあたりを紹介しなさい。あなたはあなたの仕事をするように」と、北川先生のお声が聞こえてくるようで、そうさせていただきます。お通夜、ご葬儀については、終わりましてから、また。

さて、注文しておいた雑誌。 

月刊致知 2020年2月号

2020年1月1日(水) 致知出版社 定価1,100円


存じ上げない方ですが、国際コミュニオン学会名誉会長・鈴木秀子氏という方が、「人生を照らす言葉」と題する連載で、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を取り上げて下さっています。

002

003

他に、三好達治の「雪」、永井荷風のこれもまた「雪」、それから堀口大学の「葦」という詩も紹介され、最後の締めに「道程」です。

鈴木氏曰く

人それぞれいろいろな生き方があるにせよ、その後ろでは大きな力が働いて見守ってくれている。そして進むべき道を整えてくれている。そういう存在に深い信頼を置いて力強く人生を歩んでいけたら、こんなに安心な事はありません。

なるほど。

見守ってくれ、道を教えてくれる大きな力、亡くなった北川先生にとっては、ご自身が親炙された光太郎がそうだったのでしょう。光太郎が亡くなってから生まれた当方は、光太郎自身というより、北川先生がそういう存在だなのだと、勝手に思い定めております。

さて、『月刊致知』さん。正規ルートで入手しようとすると、定期購読せねばなりません。そこで当方、いつもの闇ルート(笑)。ネットオークションで手に入れました。ご参考までに。


【折々のことば・光太郎】

此人が自己の魂から遊離した詩を決して書かない詩人だといふ事を感じました。
散文「田中清一詩集『永遠への思慕』読後感」より
大正14年(1925) 光太郎43歳

基本的に、光太郎自身もそうでした。戦時の熱に浮かされた如き空虚な翼賛詩オンパレードの時期を除いて、ですが。

田中清一は明治33年(1900)生まれの詩人です。自身で詩神社という出版社も経営していました。

まず大事な連絡を。北川太一先生お通夜/葬儀の日程等決まりました。

お通夜 2020年1月16日(木) 18:00~  ご葬儀 同1月17日(金) 11:00~
会場はともに文京区向丘2-17-4の、浄心寺さんです。こちらのお寺、「さくらホール」という葬祭場を併設なさっていますが、そちらではなく、本堂で執り行うとのことでした。公共交通機関ですと、東京メトロ南北線・本駒込駅、あるいは都営三田線・白山駅からそれぞれ徒歩5分ほどのところ。先生が永らく教壇に立たれていた都立向丘高校さんの近くです。

生花の受付は、フリーダイヤル0120-621-192。葬儀社の東京福祉会さんです。こちらに電話し、FAXを受け取り、必要事項を記入して返信するという手はずになります。花輪はなく生花のみ、16,500円で、のちほど振り込みだそうです。FAXの無い方、とりあえず電話してみて下さい。


昨日、朝一番で1月12日(日)に亡くなられた当会顧問・北川太一先生のお宅に行って参りました。

東京メトロ千代田線千駄木駅で下り、光太郎旧居跡のある団子坂方面とは逆に、不忍通りを根津方面へ。何度も通い慣れた道ですが、こんな気持でここを歩くとは、と思いながら歩を進めました。

主亡きお宅。かつては先生の盟友だった故・吉本隆明氏が、刑事の尾行をまくために立ち寄ったりもされたそうです。玄関先には「高村光太郎記念会」の看板も。

午後からは葬儀社さんや、葬儀委員長的なことをなさって下さるという、先生のかつての教え子の北斗会の方がいらっしゃるということでしたが、当方が伺った9時頃にはご家族だけでした。奥様で、昭和30年(1955)には結婚のご報告に、北川先生ともども光太郎のもとを訪ねられたこともある節子様、子息の光彦氏(「光」の字は光太郎にちなみます)、よく連翹忌の受付や資料の袋詰めなどを手伝って下さった、おじいちゃん子だったお孫さん。そこにあるべき先生のお姿が無いことが、不思議に思えるような……。「あれ、先生、二階の書庫にでもいらっしゃるんですか」と問いたくなるような……。

KIMG3514

居間兼応接室の、いつも、この椅子に座られて、当方が伺うとにこにこしながら出迎えて下さった北川先生……。ちなみに写っている絵は、平成23年(2011)、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった、宮城県女川町の女川光太郎の会事務局長であらせられた故・貝(佐々木)廣氏の筆になる先生の肖像画です。

「会ってやって下さい」とのことで、隣室にてご尊顔を拝見させていただきました。安らかなお顔でした。お顔を目にしてしまうと……駄目ですね……。滂沱禁じ得ませんでした……。

亡くなった日のご様子を伺いました。朝、普通に目覚められ、朝食のため居間の椅子にお座りになったところで意識を失われ、テーブルに突っ伏されたそうです。食事をされながら、調べものでもするおつもりだったのか、何かのご本を手にされていたとのことでした。いかにも先生らしい、と思いました。

救急車で、近くにあるかかりつけの日本医大病院さんに搬送。以前も硬膜下出血でそういうことがあって、しかし、その時は溜まった血を抜いたらすぐに恢復なさったため、ご家族の皆さんは今回も、と思ったそうです。しかし、お医者様の診断は無情にも、心臓の大動脈乖離で、手の施しようが無い、的な……。

結局、その後、お話をなさることは出来なかったそうですが、ご家族が手を握られると握り返されたとのことで、意識は朦朧とされつつも、ある程度わかっていたのではないか、と、光彦氏の弁。この日は日曜でしたので、奥様はじめ、お子さん、お孫さんもお集まりになり、皆さんに看取られて、午後11時20分、先生は天然の素中に還られたそうです。「長く苦しむ事もなく、みんなに看取られて逝ったのは、幸いだったと思うべきでしょうかね」とは、奥様のお話でした。

KIMG3513

その後、上記お通夜やご葬儀の日程等をお聞きし、「遺影をどれにしようか迷ってるんですよ」とおっしゃるので、いくつかの候補の中から「やっぱり、これがいいんじゃないですか」と、当方。普段着で(この上っ張り姿で、この居間で行われたテレビ番組のロケにも臨まれました)、いつもどおりのにこやかな。当方にとっての北川先生は、まさにこういう方です。

おいとまを告げ、電車と高速バスを乗り継いで千葉の自宅兼事務所に帰る間、今月開設したフェイスブックにスマホで情報を上げ(こんなことのために始めたんじゃないんだけどな、と思いつつ)、片っ端から関係の方々の携帯にメールを送り、電話やPCのメールでなければ伝えられない方には帰ってから伝え、しかし、そうして何かやっていないと落ち着かないような、昨日はそんな一日でした。メールの返信等で、そんな当方を気遣って下さった皆様、恐縮です。この場を借りて御礼申し上げます。

17日のご葬儀では、しっかりと、先生をお送りしたく存じます。


【折々のことば・光太郎】

よみ返して今更この敬虔無垢な詩人を敬愛する情を強めました。かういふ詩人の早世を実に残念に思ひます。御近親の方々のお心も想像いたされます。

散文「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

八木はこの前年、数え30歳で亡くなっています。北川先生は、おん年94。世間的には「大往生」「天寿」といわれるお年でしたが、早世であれ、大往生であれ、残された者の悲しみには共通するものがあるわけで……。

とうとうこの日がやって来てしまったか、という感じです。いずれこの日が来ることを覚悟してはおりましたが、いざ、そうなると、なぜこんな日が来るんだ、と、やり場のない怒りと、虚脱感……。

当会顧問にして、光太郎顕彰の第一人者、北川太一先生が、1月12日(日)、午後11時20分、大動脈乖離のため、亡くなられました。

001

先生は、大正14年(1925)、東京日本橋のお生まれ。おん年94歳でした。3月がお誕生日でしたので、今年、95歳になられるはずでした。ちなみに「昭和」の年号が、そのまま先生の満年齢になります。昭和元年に満1歳、同20年には20歳、というわけです。今年は換算すれば昭和95年です。

昭和12年(1937)に尋常小学校を卒業後、東京府立化学工業学校に入学され、旧制中学の課程を学ばれた北川先生、その後、同17年(1942)には、東京物理学校(現・東京理科大学)に進まれ、その頃から理系でありながら詩歌にも親しまれていたそうです。

同19年(1944)、物理学校を戦時非常措置で繰り上げ卒業。海軍省より海軍技術見習士官に任官され、静岡へ。翌20年(1945)には松山海軍航空隊宇和島分遣隊に転属、海軍少尉となられました。結局、四国の山中で、ご自分よりも若い予科練の少年たちと共に塹壕を掘りながら敗戦を迎え、復員。

同21年(1946)、東京工業大学に再入学。一学年上には吉本隆明が居ました。同23年(1948)から、東京都立向丘高校定時制教諭となられ、以後、同60年(1985)まで教員生活を送られました。ご自身の東京工業大学卒業は同24年(1949)。最初の頃は大学生と高校教諭の掛け持ちということで、それが可能だった時代だったのですね。

「智恵子抄」は戦時中に既に読まれ、さらに戦後には雑誌『展望』に載った、光太郎が半生を振り返った連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)を目にされ、「あの戦争はいったい何だったのか」という思いに駆られ、同じく光太郎に注目していた吉本と議論したりなさったそうです。

昭和27年(1952)、光太郎が岩手花巻郊外太田村から、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京すると、早速、中野のアトリエを体当たり的にご訪問、光太郎の生き様を通し、「あの戦争はいったい何だったのか」という命題に向き合われました。たびたび訪問するうちにすっかり光太郎に魅せられた北川先生、光太郎の来し方についてインタビューをなさいました。それが昭和30年(1955)の初夏から、光太郎が亡くなった同31年(1956)の光太郎誕生日、3月13日まで。概ね月1回のペースで為されたその対話は、「高村光太郎聞き書き」として、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻に、二段組み40ページ超で掲載されています。

光太郎没後は、高校教諭のかたわら、同じく光太郎に私淑していた草野心平らと共に、光太郎の業績を後の世に残すことに腐心され続けました。それが連翹忌となり、『高村光太郎全集』となり、『高村光太郎書』(二玄社)となり、『高村光太郎造型』(春秋社)となり、『高村光太郎全詩稿』(二玄社)となり、『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』(新潮社)となり……これを挙げだしたらきりがありません。

先生はよくおっしゃっていました。「どんなに優れた芸術家でも、後の世の人々が、その業績の価値を正しく理解し、次の世代へと引き継ぐ努力をしなければ、たちまち歴史の波に呑み込まれ、忘れ去られてしまう」と。まさしく光太郎という偉大な芸術家の業績を、次の世代へと引き継ぐ、その一点を追い続けられたわけです。

また、こんなこともよくおっしゃっていました。「僕は、単なる光太郎ファンだから」。分類すれば、「文芸評論家」「近代文学研究者」などといったカテゴリに入るそのお仕事でしたが、そのように称されることを嫌っておいででした。それは「謙遜」や「韜晦」といったことではなく、逆に先生の「矜恃」の表れだったように思います。エラい評論家のセインセイたちが、自分のことは棚に上げ、対象を批判することに躍起になっている「論文」などには価値をあまり見出さず、逆にそういう輩と一緒にされてはたまらん、というお気持ちの表れだったように思われます。

そこで、我々次世代の者には「とにかく光太郎本人の書き残したものをよくお読みなさい。そこに答えが書いてある」と、おっしゃっていた先生。「研究」よりも「顕彰」なのだというスタンスでした。「とことん対象に惚れ込むことが大切です」とも。それは、学術的な部分では奨励される態度ではないのでしょう。しかし、先生にとっては、「学術」なんぞ糞食らえ、だったのではないでしょうか。

しかし、「贔屓の引き倒し」のような、妄信的、狂信的なところは一切無く、常に公平公正、たとえ惚れ込んだ光太郎であっても、非なる点は非なり、というお考えでした。そうしたバランス感覚があってこそ、我々は先生を尊敬し続けていたと言えます。

002

当方、先生とのお付き合いはそう長いわけではありません。ご著書を通じては、学生だった40年近く前から存じていましたが、直接の関わりを持たせていただいたのは、'90年代半ば頃からです。光太郎に関し、どうにもわからない疑問が生じ(今にして思えば初歩的なことでしたが)、ご著書の奥付に書かれていた千駄木のご住所に手紙を送って質問させていただきました。すると、ほどなく懇切ご丁寧な返信が。その後、やはり先生が顧問を務められていた高村光太郎研究会にお誘い下さり、その席上で始めてお会いした次第です。それから連翹忌にも参加させていただき、何度も千駄木のお宅にお邪魔したりもしました(上記写真は千駄木のお宅でのショットです)。

000平成10年(1998)以後、先生のご編集になった増補版の『高村光太郎全集』が完結した後、それに洩れていた光太郎作品を見つけ、先生の元にコピーをお送りすると、「すごいものを見つけましたね」と賞めて下さり、それが嬉しくてさらに未知の作品発掘に力を注ぐようになり、光太郎没後50年の節目となった平成18年(2006)には、それらをまとめて『光太郎遺珠』として、先生との共同編集という形で世に出させていただきました。'90年代にはインターネットが普及し、情報収集がしやすくなったので、未知の作品発掘もそれほど大仰なことではありません。インターネットはおろか、コピー機さえもなかった時代に、公共図書館などで光太郎作品を発掘し、ご自分の手で筆写し、『全集』にまとめられた先生のご苦労を思えば、頭が下がります。

そして、光太郎忌日の連翹忌。光太郎の歿した翌年の第1回連翹忌から、昨年の第63回まで、一度だけ、インフルエンザか何かでお休みされたことがおありだそうですが、それ以外は欠かさずご参加。第50回までは運営のご中心でした。

その間に、先生と共に連翹忌を立ち上げた佐藤春夫、草野心平、高田博厚、伊藤信吉、髙村豊周らが次々鬼籍に入り、今また先生も、光太郎の元へと旅立たれてしまいました……。

そういうわけで、今年初めて、先生のいらっしゃらない連翹忌を運営することとなります。そのご遺志を引き継ぎ、光太郎の、そして先生の業績も、次の世代へと語り継いでいく所存です。しかしながら、微力な当方には、皆様のお力添えがなければそれが果たせません。今後とも、よろしくお願い申し上げます。

そして、あらためまして、先生のご冥福をお祈り申し上げると共に、今までのご労苦に対し、衷心より感謝の意を申し上げます。ありがとうございました。そして、安らかにお眠り下さい。


本日、朝一番でお宅に伺います。通夜、葬儀等の情報が入りましたら、当方フェイスブックにアップしますので、そちらをご覧下さい。

追記 北川先生お通夜16 日(木)18 時、葬儀17 日(金)11時、それぞれ文京区向丘2-17 -6浄心寺さんで行われることと相成りました。

都内から演劇系の公演情報です。 

『る・ぽえ』

期 日 : 2020年1月25日(土)~2月2日(日)
会 場 : 
新国立劇場小劇場 東京都渋谷区本町1丁目1番
時 間 : 1/25(土) 15:00  1/26(日)16:00 1/27(月)休演 
      1/28(火)・1/29(水)・1/30(木) 19:00
      1/31(金) 15:00  2/1(土) 18:00  2/2(日)12:00
料 金 : 8,500円(税込)

【上演台本・演出】 鈴木勝秀
【出演】 碓井将大、辻本祐樹、木ノ本嶺浩、林剛史、加藤啓
 
高村光太郎「智恵子抄」をモチーフにした夫婦の話
萩原朔太郎「月に吠える」をメインにした多趣味な朔太郎の奇想天外な話
中原中也の人生と恋愛を通して描くダイアログ
“詩”を通して描く3人の詩人の物語。

000

企画・制作会社の「る・ひまわり」さん。昨年亡くなった滝口幸広さんが出演された「智恵子抄」を含む朗読劇、「僕等の図書室」(平成24年=2012)も手がけられていました。今回もイケメン若手俳優陣のご出演で、系統としては同じような感じなのかな、と思っております。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

口語短歌といふものはまだ未完成なのでせうが、読んでゐて、やつぱり、いろんな暗示をうけます。何にしろ溢れ漲るやうにいろんな道を精進するもののある事を私は喜ぶものです。

散文「西出朝風歌集『青春の日に』を読む」より
 大正13年(1924) 光太郎42歳

西出朝風は光太郎より1歳年下の歌人。

自らも口語短歌を手がけていた光太郎。ただ、詩ほどには口語による革新を牽引しようとまでの考えはなかったようです。それでも短歌の革新に取り組んだ西出には、親近感を抱いていたことが見て取れます。


追記

ここまで書いたところで、当会顧問・北川太一先生ご子息の北川光彦氏からお電話がありました。昨日、北川太一先生が大動脈乖離のため、お亡くなりになったそうです。通夜・葬儀等は未定との事ですが、情報入り次第、お伝えいたします。


末盛千枝子さん。光太郎に私淑した彫刻家・舟越保武の息女にして、絵本作家・編集者としてご活躍。その活動を通じ、上皇后・美智子様とご親交がおありです。

「千枝子」というお名前は、光太郎が名付け親。「女の子の名前は「チエコ」しか思い浮かばない。だが、智恵子のような不幸な一生を送らないよう、字は変えましょう」とのことで。末盛さん、そうした経緯や、のちに光太郎と会った際の思い出などを、平成25年(2013)、代官山で開催された「読書会 少女は本を読んで大人になる 高村光太郎『智恵子抄』」や、翌年の第57回花巻高村祭での記念講演などでご披露されました。

また、読書会の記録集『少女は本を読んで大人になる』、単独のご著書『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』でも、そのあたりに触れられています。

さて、その末盛さんの講演会、愛知県で行われます。 

朗読コンサート&講演会「人生に大切なことはすべて絵本から教わった」

期 日 : 2020年1月25日(土)
会 場 : ウィルホール(愛知県女性総合センターウィルあいち 4階)
      名古屋市東区上堅杉町1番地
時 間 : 午後1:30~
料 金 : 1,000円

[第1部] 白樺八靑朗読コンサート
 朗 読:白樺八靑(ボイスパフォーマー、ことばのまなびや主宰) 
 ピアノ:木須康一

[第2部] 末盛千枝子講演会「人生に大切なことはすべて絵本から教わった」
 講 師:末盛千枝子(3.11絵本プロジェクトいわて代表)

【チケット購入・問い合わせ】
 あいち女性連携フォーラム(事務局:(公財)あいち男女共同参画財団・企画協働課)
  TEL 052-962-2512   FAX 052-962-2477 


無題

末盛さんは彫刻家の娘として生まれ、高村光太郎に「千枝子」と名付けられたことからも、輝かしい人生をお持ちのように思いますが、作家の中江有里さんが「朝ドラのヒロインのような人生」とおっしゃるように波乱万丈に満ちています。
「本は子どもにとっても、大人にとっても、もちろん老人にとっても、さまざまな意味で、美しい宝の山だと思います」(『人生に大切なことはすべて絵本から教わった』末盛千枝子著 本文より)
出版という仕事を通じて、人間の生き方の本当の美しさを伝えようとした末盛千枝子さんをお招きして、宝物のような絵本の数々と素晴らしい人々との出会いを語っていただきます。
白樺八靑さんの朗読コンサートでは、すえもりブックスの絵本の世界へ!ご一緒に楽しみましょう。



末盛さんのご講演は各地でよく開催されているようですが、案内に光太郎の名が入ったのは久しぶりではないでしょうか。光太郎に関するお話も出るものと思われます。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

志賀直哉氏は私の遠くから景仰してゐる数少い芸術家の一人です。不思議に純粋な日本の伝統を内に持ちながら常に新鮮な方と思ひます。この位本気な魂を日本の文芸界はあまり沢山有たないやうです。

散文「志賀直哉氏」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

志賀直哉は光太郎と同年、明治16年(1883)生まれです。『白樺』の活動で光太郎と交流がありましたが、同じ白樺派でも、有島兄弟や武者小路ほどには光太郎との距離は近くなかったようです。ただ、書簡のやりとり等はあった可能性が高いのですが、しかし、光太郎から志賀宛の書簡は現存が確認できていません。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。


料理研究家の中野由貴さんから、『ワルトワラ』第45号が届きました。宮沢賢治ファンの方々による文芸同人誌のようです。

001

中野さんご執筆の「イーハトーヴ料理館 賢治たちの自炊めし 二膳目 光太郎さんからの食アドバイス」が5ページにわたり掲載されています。

002

昭和22年(1947)、光太郎が雑誌『農民芸術』第1巻第3号に発表した散文「玄米四合の問題」を中心に、光太郎の「食」に対する意識、光太郎から見た賢治の「食」などについて述べられています。

また、昨年の今頃、花巻高村光太郎記念館さんで開催されていた企画展「光太郎の食卓」のレポートなども。同展は、一昨年の秋に行われた同館主催の市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓 part .2」の内容を元にしたものでした。そちらの講師を当方が務めさせていただき、その際のレジュメを中野さんにお送りしたところ、いたく感謝されてしまい、かえって恐縮している次第です。

中野さんとはその後、昨春、いわき市立草野心平記念文学館さんでの企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」の関連行事として開催された「居酒屋「火の車」一日開店」でご一緒させていただきました。そんなこんなで今回の玉稿にも当方の名を出して下さっています。ありがたし。

それから、中野さんが監修された都内でのイベントのご案内も同封されていました。花巻市さんと小岩井農場さんのコラボ企画だそうで、題して「宮沢賢治のイーハトーブ花巻レストラン」。


2月8日(土)には、中野さん他によるトーク・朗読イベントもあるそうです。『ワルトラワラ』の件も含め、詳しくは中野さんのサイトをご参照下さい。


【折々のことば・光太郎】

さう言つても、他の人の「存在の理由」を否定するわけでは決してありません。人には各々天性がありますから。

散文「武者小路実篤氏」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

この前段で、朋友・武者小路の人となり、芸術世界を激賞した後の一言です。

一昨日から、残念ながら他の人の「存在の理由」を否定し、「人には各々天性がありますから」と考えられなかった故に起こった凶悪犯罪の裁判が始まっています。その報道を読むにつけ、改めて心が痛みます。

例年ご紹介しています、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ青森十和田湖畔でのイベントです。 

十和田湖冬物語2020 雪と光とアートの世界

期  日 : 2020年1月24日(金)~2月24日(月)
会  場 : 十和田湖畔休屋地区特設会場他
       青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋486番地
時  間 : 平日:15:00~21:00  土日祝日:11:00~21:00
問合せ : 一般社団法人十和田奥入瀬観光機構 0176-75-1531

冬物語特設会場イベント
冬花火、メモリアル花火、スノーランプづくり体験、スノーバナナボート、スノーライド体験、かまくらBAR、ゆきあかり横丁、津軽三味線、乙女の像ライトアップ、かんじきフットパス、なまはげ太鼓、よさこい北里三源色、引馬乗馬体験など


003

004
当方、平成26年(2014)と、一昨年と、2度、足を運びました。その頃は、というか、昨年まで、2月に入ってからおおむね3週間での開催でしたが、今年は今月下旬にスタート、まる1ヶ月と期間が長くなっています。人出が見込める、ということでしょうか。関係者の方々のご苦労は増すことと思われますが……。

とにかく寒いのですが、その寒さを吹き飛ばす熱気溢れるイベントが盛りだくさん。「乙女の像」のライトアップも幻想的です。

シャトルバスなど会場へのアクセスについては、十和田市役所さんのサイトに情報が載っています。

市役所さんといえば、今月号の『広報とわだ』でも、冬物語の紹介が。昨年の撮影と思われる「乙女の像」の写真も大きく載せて下さいました。ありがたし。

006

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】005

あんなに人なつこかつたこの詩人に其後会ふ機会をつくらなかつた事を残念に思つてゐます。常に遠くから親密の情は捧げてゐたくせに。晩年の彼の詩の深さにはうたれます。

散文「追憶――山村暮鳥――」より
 大正13年(1924) 光太郎42歳


山村暮鳥は光太郎より一つ年下でしたが、この年、数え41歳で早世してしまいました。「雲よ」の連作などで知られていますね。

長野から演劇公演の情報です。 

thee第13回公演『売り言葉』

期 日 : 2020年1月18日(土)・19日(日)
会 場 : 
ギャラリー花蔵 長野市東町147
時 間 : 1/18 19:00   1/19 14:00
料 金 : 前売2,000円/当日2,300円

彫刻家・高村光太郎と妻・智恵子との純愛を綴った詩集『智恵子抄』。穢れなき澄み切った愛の言葉で溢れ返る詩の数々は、光太郎と智恵子の愛慕の念を、忠実に映し出して………いるのだろうか? 智恵子と女中が表裏一体の存在となり、光太郎の出会いから自身の死までを物語る。智恵子が『智恵子抄』へ突きつけた“売り言葉”とは、果たして。

出演 島崎美樹 ミズタマリ

001

平成14年(2002)、野田秀樹氏の脚本、主演・大竹しのぶさんで初演された、登場人物は智恵子のみの一人芝居「売り言葉」。なぜか昨年は、確認できている限り6つもの劇団/個人の方々が全国各地で上演なさいました。少人数のキャストでできる点が一つの要因なのでしょうか。もっとも、野田氏の脚本のすばらしさ(光太郎ディスり度が半端ないのですが)も当然あるでしょう。

今回の劇団theeさんも10月に同じ会場で公演を行い、その再演です。10月の公演では、長野県内にも甚大な被害をもたらした台風19号の影響で、予定していた公演のうち休止を余儀なくされた回があったそうで、そのために再演ということなのかもしれません。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩人にとつて俗臭ほど風上に置けぬものはない。随分立派な詩も書き立派な見識も持つてゐる詩人でありながらその詩人全体としては一個の俗物に過ぎないといふことがいくらもある。一見高尚な詩誌でありながら俗な底意地の隠し難いものも少くなかつた。

散文「所感――『詩と詩人』第五十輯記念号――」より
昭和19年(1944) 光太郎62歳

ここでの「俗」は、「低俗」ということですね。「品がない」とか、「悪趣味」とかの。

瀬戸内寂聴さん。昨年公開された映画「この道」の原案の一つとなった『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』、智恵子の親友・田村俊子を主人公とする『田村俊子』、智恵子がその創刊号の表紙絵を描いた雑誌『青鞜』をめぐる人々の群像ドラマ『青鞜』など、光太郎智恵子と交流の深かった人々を描いた作品を書かれています。

002
003001


その寂聴さんの故郷、徳島でのイベントです。キーワード検索「青鞜」で引っかかりました。地方紙『徳島新聞』さん、1月4日(土)の記事から。 

寂聴さん作品で感想文 徳島県立文学書道館がコンクール

 今年5月に98歳の誕生日を迎える徳島市出身の作家で僧000侶の瀬戸内寂聴さん(97)。小説、随筆、ルポ、評伝、「源氏物語」の現代語訳、童話、少女小説など、これまでに400冊以上の本を出版してきた。今も文芸誌に連載を続ける現役最高齢作家の全著作の中から、思い出に残る一作について作文を募る「わたしの好きな寂聴作品感想文コンクール」(徳島県立文学書道館主催)が実施されている。寂聴文学の人気の秘密に迫る試みだ。
 寂聴さんの最初の本は、出家前の1957年に34歳で出した短編集「白い手袋の記憶」。翌年に発表した「花芯」はポルノだと酷評され、文壇から冷遇された時期もあったが、61年「田村俊子」で田村俊子賞を受け復活。63年には「夏の終り」で女流文学賞を受賞し、作家としての地位を確立した。
 伝記小説でも脚光を浴びた。歌人岡本かの子の生きざまを描いた「かの子撩乱」(65年)、「青鞜」の女性解放運動家伊藤野枝を主人公にした「美は乱調にあり」(66年)などを発表し、自我に目覚める近代日本の女性を描いた。
 幅広い文学活動の後、51歳だった73年、中尊寺で出家得度、本名晴美を改め、寂聴を名乗った。その後も精力的に執筆を続け、良寛を題材にした「手毬」(91年)、一遍上人の生涯を描いた「花に問え」(92年)、西行法師を取り上げた「白道」(95年)の仏教3部作を発表し、97年に文化功労者に選ばれた。
 10年がかりで「源氏物語」現代語訳全10巻を刊行したのは98年。古里の眉山など思い出の地を巡った「場所」(2001年)で野間文芸賞を受賞した。
 長年の作家活動により06年、県人で初の文化勲章を受章した。
 随筆では「放浪について」(72年)「寂聴巡礼」(82年)をはじめ、19年001にも「命あれば」「寂聴九十七歳の遺言」を出版するなど、執筆意欲は衰えることがない。
 県立文学書道館は今年4月9日~5月24日、特別展「いのち―90代の寂聴文学」を開く予定で、感想文コンクールは関連イベントの一環。
 応募は小学生以上が対象。400字詰め原稿用紙3枚以内で未発表の作品。題名、選んだ作品名、住所、氏名、年齢、職業(学生は学校名と学年)、電話番号を明記する。締め切りは2月29日(必着)。最優秀賞1点、優秀賞数点を寂聴さんが委員長を務める選考会が決め、4月に発表する。
 宛先は〒770―0807 徳島市中前川町2丁目22―1、県立文学書道館「寂聴作品感想文コンクール」係。問い合わせは同館<電088(625)7485>=新年は5日から開館。




徳島県立文学書道館
さんのサイトから。 

わたしの好きな寂聴作品 感想文コンクール

2020年度 文学特別展「いのち-90代の寂聴文学」(2020年4月9日~5月24日)の関連事業として、「わたしの好きな寂聴作品 感想文コンクール」を実施します。
瀬戸内寂聴(または瀬戸内晴美)のすべての作品から、あなたが好きな、思い出に残る一作を選び、ご応募ください(応募締切2020年2月29日 必着)。
詳しい応募要項は下のチラシでご確認ください。


005
006
腕に覚えのある方(この場合「筆に」でしょうか(笑))、ぜひどうぞ。


ところで、寂聴さんといえば、先月、「桂信子賞」を受賞されたことでも話題になりました。共同通信さんの配信記事から。 

瀬戸内寂聴さんらに桂信子賞 優れた女性俳人を表彰

 俳諧に関する資料を所蔵、展示する兵庫県伊丹市の柿衛文庫は25日までに、句作や評論で優れた活動をした女性俳人を表彰する第11回桂信子賞に作家の瀬戸内寂聴さん(97)と、俳人の神野紗希さん(36)を選んだ。
 寂聴さんは、旺盛な執筆活動の傍ら、2017年に故人への思いや自らの孤独を詠んだ初めての句集「ひとり」を刊行。柿衛文庫は「高齢でこのような多様な活動ができることは驚異的。高齢者たちの励みになる」としている。
 神野さんは句集「星の地図」など句作のほか、テレビの俳句番組の司会を務めるなど幅広く活躍。「若者たちのリーダー的存在」と評価された。賞金は各10万円。


004

失礼ながらおん歳97歳の、しかもこれまでにさまざまな業績を残されてきたか方に、改めてこうした賞を授与なさるとは、粋な計らいだなと感じました。

寂聴さん、まだまだお元気でご活躍いただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

内に確然たるものがあつて、外に淡々たる詞章を綴るのが先生の特質であり、そこには怒号はもとより、色を作す趣すらも見えず、しかも不思議に読後の心に銘ぜられて消え去らない詩が多い。

散文「河井酔茗詩集『真賢木』」を読む」より
昭和19年(1944) 光太郎62歳

河井は光太郎より9歳年長の明治7年(1874)生まれ。この時期、ほぼ唯一生き延びていた光太郎の「先輩」詩人です(島崎藤村は昭和18年=1943に歿しました)。

大正から昭和初期の「猛獣篇」の連作や、戦時の翼賛詩などで、ある意味「怒号」を詩にしてしまった光太郎、その点に対する自省の意が垣間見える、といったら深読みしすぎでしょうか。

岡山市に本社を置く地方紙『山陽新聞』さん。昨日の一面コラムで光太郎を取り上げて下さいました。 

滴一滴

高村光太郎の「冬が来た」(詩集「道程」)は凛(りん)としてすがすがしい。〈きりきりともみ込むやうな冬が来た/人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た〉▼そして続く。〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉。立ち向かう強い意志。寒い、寒いと縮こまるわが身に熱い芯が通りそうである▼嫌がられる冬ではあるが、ただ厳しい寒さがなければ春の生命の躍動もない。桜が夏に花芽をつくって休眠し、冬の寒さで目覚める「休眠打破」はよく知られる▼同様に、秋にサナギとなったアゲハチョウが羽化するには、休眠して冬の寒さを経験する必要があるという。地面に葉が放射状にはりつく「ロゼット」状態で北風をやりすごすタンポポなども、震えているように見えて実はせっせと内部に養分を蓄えて春を待つ▼逆境やつらい時期はいつまでも続かない。「冬来たりなば春遠からじ」の言葉通り、やがては春を迎える大切な準備期間である。そう思えば最後のひと踏ん張り。今月半ばには大学入試センター試験が始まり、受験シーズンはいよいよ本番入りする▼きょうは寒の入りの「小寒」。7日は七草がゆの「人日の節句」。若菜の生命力をいただき成就を願う家庭もあるだろう。ほのかな野の香りや緑が、もうすぐだよと言ってくれそうである。


引用されている「冬が来た」は、大正2年(1913)12月の作です。

   冬が来た
 
きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒になつた
001

きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た



画像は花巻高村光太郎記念館さんで販売しているポストカード。写っている建物は、光太郎が昭和20年(1945)から7年間暮らした山小屋(高村山荘)です。ただし、小屋はむき出しではなく、中尊寺さんの金色堂のように、建物全体にカバーのような套屋(とうおく)をかぶせてあり、外から見えるのは套屋です。それも近在の農家の納屋風に設計したということで、レトロな感じが醸し出されています。

この季節に何度かお邪魔しましたが、ちょうど今頃はこんな感じなのではないかと思います(今シーズンは雪が少ないやに聞いていますが)。光太郎も「冬が来た」を書いた大正年代には、まさか後に岩手の山懐でこんな暮らしをすることになるとは思っていなかったことでしょう。もっとも、明治末には北海道移住を企てたりしていたのですが。

「滴一滴」子さん、話の展開が巧みですね。枕に光太郎詩を使い、チョウやらタンポポやらの自然界に話題を広げ、冬の寒さが無いと実は駄目なんだ、と。そこまで読んで、この後、人生訓に行くかな、と思ったらその通りでした。この手の文章のお手本のような見事な構成です。

光太郎も、その74年の生涯に於いて、何度も厳しい「冬」の時代を経て生きていました。「冬」のような厳しい状況に、時に自分の意志と関係なく見舞われたり、時に自らそうした状況を選び取ったり……。

欧米留学で最先端の芸術を見聞きして帰朝した青年期には、旧態依然の日本美術界(そのピラミッドの一つの頂点に、父・光雲が居ました)との対立を余儀なくされ、壮年期を迎えると、妻・智恵子の心の病、そして、死。老年期に入る頃には泥沼の戦争に歯車として荷担することになります。そして戦後、上記画像のような環境に身を置き、自分自身の来し方と向き合う日々……。

そうした峻烈な「冬」を何度も体験したからこそ、光太郎芸術は磨かれていったのでしょう。

比較的温暖な房総の地に暮らし、それでも寒い寒いと騒いでいるのが、ある意味、申し訳ないような気もします(笑)。


【折々のことば・光太郎】

峯あり谿あり河あり、山巓に日はかがやき、山峡に雲は湧く。人その間に住み、つぶさに隠密な人情の深みに生きる。

散文「山田岩三郎詩集『国の紋章』序」より
 昭和18年(1943) 光太郎61歳


結局、自然と人間の付き合いは、そういうことなのでしょう。

朗読CDの新譜情報です。 

「能登麻美子おはなしNOTE」朗読CD第7弾 ルルとミミ/夢野久作

2019年12月28日 文化放送 定価3,000円
出演 能登麻美子  ジャケット AYA KAKEDA
無題2
【Disc-1】
1 ルルとミミ/夢野 久作

【Disc-2】
「能登麻美子おはなしNOTEアーカイブ」※データCD
1 録り下ろしトークパート
2 数の子は音を食うもの/北大路魯山人
3 木の花の咲くや姫(古事記より)/現代語訳:武田祐吉
4 喫茶店にて/萩原朔太郎000
5 雪に埋もれた話/土田耕平
6 笛吹きとプカ/ダグラス・ハイド
7 山の雪/高村光太郎
8 詩とはなにか/山之口獏
9 十年後のラジオ界/海野十三
10 ジェラルド太守の魔法/ケネディ・パトリック
11 赤いねこ/沖野岩三郎
12 春がくる前/小川未明
13 川へ落ちたたまねぎさん/村山籌子
14 三重宙返りの記/海野十三
15 朝/太宰治
16 世の中と女/芥川龍之介
17 ピアノ/芥川龍之介
18 三角と四角/巌谷小波004
19 化粧/神西清
20 お母さんの思ひ出/土田耕平
21 晩春/岡本かの子
22 飴チョコの天使/小川未明
23 桜間中庸の詩
   里の春、山の春/新美南吉
24 雨粒/石原純
25 居酒屋の聖人/坂口安吾
26 ふしぎな岩/林芙美子
27 夜/竹久夢二
28 高瀬舟/森鴎外
29 桜間中庸の詩
30 中原中也の詩
31 一緒に歩く亡霊/田中貢太郎
32 心の王者/太宰治
33 鶴の笛/林芙美子
34 不思議な帽子/豊島与志雄
35 うさぎさんとおほかみさん/村山籌子005
36 手風琴/小川未明
37 秋と漫歩/萩原朔太郎
38 指/江戸川乱歩
39 ざしき童子のはなし/宮沢賢治
40 三本の棗/片山広子
41 蟹のしょうばい/新美南吉
42 秋の歌/寺田寅彦
43 月夜のかくれんぼ/槇本楠郎
44 鳥箱先生とフウねずみ/宮沢賢治
45 路上/梶井基次郎
46 うた時計/新美南吉
47 キリストのヨルカに召された少年/フョードル・ドストエフスキー
48 三百年後/小倉金之助


人気声優の能登麻美子さん。文化放送さん運営のインターネットラジオ「AG-ON」で、古今の文学作品を朗読する「能登麻美子おはなしNOTE」という番組をお持ちです。その録音を集めたCDの第7弾だそうで、光太郎の随筆「山の雪」(昭和26年=1951)が収められています。

このシリーズで光太郎作品が取り上げられるのは2度目。最初は平成28年(2016)発行の「第3弾 シグナルとシグナレス」でした。その際は、やはり随筆の「珈琲店より」(明治43年=1910)が収録されていました。美声もさることながら、しっとり落ちついたいい雰囲気の朗読でした。

で、今回の第7弾。「このシリーズ、まだ続いていたんだ」と、嬉しくなりました。ネットで注文できます。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩を朗読するといふ事は人が詩を熱愛するのあまりに起こる衝動である。われにもあらず声に出るのである。その朗読をきく者は音響といふ要素の力に変形した詩の力に打たれる。詩は朗読といふ音響によつて淘汰され、洗練される。朗読のゆるがせに出来ないわけが此所にある。

散文「照井瓔三著『国民詩と朗読法』序」より
 昭和17年(1942) 光太郎60歳


光太郎の朗読観、なるほど、といった感じですね。ただ、戦前の光太郎はあまり朗読に魅力を感じていなかったふしがあります。それが、開戦後、翼賛詩の朗読会などに積極的に出演するようになり、そうした中で改めて朗読の良さに気づいたようです。翼賛詩を通じて、というのが少し残念です。

2020年となってしまいましたが、暮れの内に光太郎らがメディアで紹介された件をご紹介しておきます。


まず、『朝日新聞』さん。12月28日(土)の書評欄。同紙で書評をご担当の方々が、「今年の3点」をそれぞれ挙げられている中に、中村稔氏ご執筆の『高村光太郎の戦後』を選ばれた方が。

心を揺さぶる本とともに 書評委員が選ぶ「今年の3点」 石川健治(東京大学教授)

①人外(にんがい、松浦寿輝著、講談社・2530円)001
②主権論史 ローマ法再発見から近代日本へ(嘉戸一将著、岩波書店・9900円)
③高村光太郎の戦後(中村稔著、青土社・2860円)
 人外という「被造物の尊厳」との対比で「人間の尊厳」を考えさせるのは①。人格の始期と終期、人格的同一性と「記憶」、人格内部での相剋、人格の「承認」と社会関係、疎外された類的存在=他者としての「神」など根本問題を巡る。
 天皇代替わりの年に、日本的な「国民主権と天皇制」の存立機制に迫ったのが②。明治憲法と皇室典範の双方を起草した、法制官僚・井上毅の章は必読。
 ③は、己を虚しくして宇宙の大生命を体現しようとした以上責任のとりようがない表現人が、「戦後の」一市民の立場でこれを再読することで「戦後責任」をとろうとした事例を探求。射程は当然、自主表現人(筧克彦)であった現人神(あらひとがみ)天皇と、戦後の象徴天皇の関係にも及んでいよう。

石川氏、7月の同紙には「自らの「愚」究明する表現人の責任」と題した同書の長い書評を寄せられていました。


続いて、NHK Eテレさんで放映の「日曜美術館」とセットの「アートシーン」。12月22日(日)の放映で、光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった髙村豊周が取り上げられています(昨年の記事「回顧2019年(10~12月)。」でもちらっとご紹介しましたが)。

東京都庭園美術館さんで、10月から開催されている「アジアのイメージ―日本美術の「東洋憧憬」」展の紹介の中ででした。同展は、日本の近現代の造形作家たちがインスパイアを受けた、「アジア」の伝統的な作品と並べるという、面白い展示が為されています。

まず、古代中国の青銅器。

033

豊周の師・香取秀真の作。

034

そして豊周。

035

036

037

かなり磊落な性格だったという豊周ですが、その作は緻密です。

工芸だけでなく、絵画も。光太郎の留学仲間だった安井曾太郎。花瓶がやはり古代中国のものです。

038

同展ポスターやフライヤーに使われた、杉山寧の仏画(素描)。

039

同館館長の樋田豊次郎氏のコメント。

040

同展、1月13日(月・祝)までの開催です。レポートはこちら。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

質樸な字面のみから考へればこれは不思議のやうであるが、結局詩は内にあるものだけは、どんな形のもとにも必ず人の心へその響を伝へるものであるといふ事を示してゐるのである。

散文「矢野克子詩集『いしづゑ』序」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

「内にあるものだけは、どんな形のもとにも必ず人の心へその響を伝へるものである」。文学作品だけでなく、造型やら音楽やら、あらゆる芸術に当てはまることではないでしょうか。

季節外れの冷やし中華ではありませんが(笑)、フェイスブックを始めました。

少し前にも書きましたが、このブログ、平成24年(2012)にヤフーブログとしてスタート。ところがヤフーさんが12月でブログサービスを終了するということで、投稿は8月いっぱいで締め切り。そこで8月中にライブドアさんに移転しました。いくつか他の移転先候補もあったのですが、機能的にライブドアさんが使いやすそう(ヤフーさんで出来ていたことがやはり出来そう)、サーバー的に重くない(ある大手のブログは重くて重くてなかなかつながりません)などの理由から、ライブドアさんを選びました。

その予想通り、ブログを書くぶんにはあまり不自由を感じず、スムーズに移行できたかなと思っております。

ところが、悩みの種は訪問者数。ヤフーさんが訪問者数を表示していた頃は、だいたい1日に百数十人の方が訪れて下さっていました。ごくたまに100を切って2桁となることがあり、「あれま」という状況でした。しかし、移転後は2桁(それも前半)があたりまえ、たしか、3桁行った日はなかったんじゃないかと記憶しています。昨日もそうでしたが、1桁という日もありました。

気になって、アクセス数解析のページを見てみましたところ、今月を含め、3ヶ月分しか表示されませんでしたが、11月、12月とも惨憺たる状況でした。


000

001

上記が11月、下記が12月です。それぞれ下の方の黄色い線が訪問者数(UU)、赤い線(PV)は閲覧数ということで、「のべ」でのカウントのようです。10人の方のご訪問があり、記事を5件ずつ閲覧して下さったら50件、という意味だと思われます。

古い記事に関しては、12月まではヤフーさんにブログが残っていましたので、そちらでの閲覧が多いのだろうと思っておりました。実際、そうだったんだと思います。ただ、ヤフーさん、10月頃には訪問者数の表示機能が無くなり、はっきりわかりませんが。

で、ヤフーさんからブログが削除された後は、こちらの訪問者数が増えるだろうとたかをくくっていましたが、逆にどんどん減っています。ヤフーさんのブログには、最後の投稿としてこちらのURLを貼り付けておいたため、それを見てこちらに入って下さった方がいらしたようで、それが無くなったため、減ったように感じました。

それから、検索エンジン。グーグルさんなどで「高村光太郎連翹忌運営委員会」で検索しても、こちらのトップページが表示されません。さらに、キーワード検索で「高村光太郎」+「○○」。ヤフーさんのブログが健在の頃はそれでバンバン引っかかり、「○○について調べている者ですが、光太郎と○○についてもう少し詳しく教えて下さい」と、コメントやメールがきたものですが、移転後はそういうこともほとんどありません。検索ワード「高村光太郎」+「○○」でライブドアさんのブログが表示されないようで(無くなってしまったヤフーさんのブログがいまだに色々表示されます)。

長々書きましたが、そういうわけで、発信している情報が伝わらないことに危機感を抱いております。

そこで、フェイスブック。これまでは必要性をあまり感じていなかったため手を付けていなかったのですが、こちらのブログの更新などの情報を発信し、少しでも訪問者数増加につなげようという魂胆です(笑)。

実際、始めて見ると、「知り合いかも」という欄に見知ったお名前がずらり。やはり「ブログ」というとなかなか面倒でやっていないという方も、フェイスブックなら手軽なので、というケースが多いようですね。そこで、何人かの方にこちらから「友達」申請をしましたら受けて下さいましたし、逆に当方の名を見つけた方から、「友達」申請がありました。そんなこんなで輪を広げようと思っております。

今後はツィッター、インスタグラムなどにも手を広げようかと考えていますが、まぁ、あせらずにやっていこうと思っております。

ただ、フェイスブックもまだその機能をしっかり把握しきれていませんので、もしかするといろいろ失礼の段があるかもしれません。よろしくご寛恕の程。


【折々のことば・光太郎】

誰でも毎日為てゐる事、経験してゐる事がこんなに詩であり得るのだといふ事に気がつけばほんとにさうだと思はない人はないでせう。さういふ事は喜びです。
散文「矢野克子詩集『太洋ノ母』読後感」より 昭和18年(1943)

矢野は明治38年(1905)生まれの詩人。昨日ご紹介した伊波南哲同様、沖縄出身です。

2年後の昭和20年(1945)には、光太郎、「琉球決戦」というトンデモ詩を『朝日新聞』に発表するのですが、もしかするとその脳裏には伊波や矢野の顔が浮かんでいたかも知れません。

元日の『中日新聞』さん。一面コラムで、当会の祖・草野心平に触れて下さいました。 

中日春秋

 冷たい風に葉を落とされた木々も近づいてみれば、新たな芽が001枝先に生まれていて生命の気が伝わる。冬芽の時節である。柔毛に覆われたモクレン、丸みを帯びたハナミズキ…。花の姿を思ってながめるのは季節のちょっとした楽しみでもある
▼あけましておめでとうございます。俗説に「めでたい」の語源は「芽出たし」といわれ、「芽出度(めでた)し」などと当てられてきた。寒さの中でその身を小さく、固くしつつ、花や葉となるのを待つ冬芽は、一年の吉事を願う正月の「めでたさ」に通じていようか
▼人の営みは、相変わらず先行きおぼつかないけれど、めでたさをいつにも増して覚えるのは五輪という花を咲かせる冬芽がそこにあるからであろう。東京五輪とパラリンピックが迫っている
▼「勇気と夢と青春の年」。前回の東京五輪があった年、元日の新聞に詩人草野心平が、そう題した詩を寄せている。<新鮮で若いエネルギーがこの秋/極東の島に集ってくる…よき哉(かな)/一九六四年>。青春期のまっただ中にある若い国の熱が伝わる
▼再び東京に五輪を迎える日本は青春期をとうに過ぎ、枯れたと思える時季も経験している。どんな花になるだろうか。派手でおおぶりでなくても、よきかなと後々笑顔で語り継げる大会になればいい
▼<真直(まっす)ぐに行けと冬芽の挙(こぞ)りけり>金箱戈止夫。冬芽の成長を思う二度目の青春の年である。


オリンピックイヤーということで、各種マスコミ、やはり五輪関連の話題が目立ちます。「派手でおおぶりでなくても、よきかなと後々笑顔で語り継げる大会になればいい」そのとおりですね。

ちなみに最初に触れられているハナミズキ。自宅兼事務所の庭ではこんな感じです。キノコではありません(笑)。

KIMG3503

モクレンは自宅兼事務所には植えていませんで、代わりに……。

当会の象徴、連翹(レンギョウ)。元々、光太郎終焉の地、中野アトリエの庭に咲き、光太郎がそれを愛(め)で(ちなみに「中日春秋」子さん、俗説ということで「めでたし」=「芽出たし」説を紹介されていますが、俗説ではない一般的な解釈は古語の「愛でたし」が由来です)、昭和31年(1956)の葬儀には棺の上に置かれたコップに一枝が挿された、その連翹から株分けしたものです。

KIMG3504


004

その際に、弔辞として詩の朗読をしたのが、やはり心平でした。

こちらはミモザ。近々花が咲き始めます。

KIMG3505

桜も芽がふくらんできました。

KIMG3506

春遠からじ、ですね。

春になる頃、第64回連翹忌(4月2日(木))のご案内を致します。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

この些かの飾り気をも持たぬ詩人の心が、同じく妻を失つた悲しみのまだ消えやらぬ私の心をうつ。悲しみが深められながら又清められる。これが詩の微妙なはたらきである。

散文「伊波南哲詩集『麗しき国土』序」より
 昭和17年(1942) 光太郎60歳


伊波は石垣島出身の詩人。『麗しき国土』は、基本、翼賛詩集ですが、光太郎同様、妻に先立たれ、亡き妻への思いを謳った詩篇も含まれるため、このような一節が含まれています。

逆に言うと、伊波は『智恵子抄』を念頭に置いていたのではないでしょうか。


さらに言うなら、上記光太郎葬儀で詩を朗読した心平も、「悲しみが深められながら又清められる。これが詩の微妙なはたらきである」的なことを考えていたような気がします。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに、九十九里浜の片貝海岸に行きました。16歳になった愛犬がお伴でした。

KIMG3477[1]

赤く見えるのは、傍らで流木を燃やして焚き火をしていたためです。

KIMG3479[1]

愛犬、以前は人に触られるのをあまり好まなかったのですが、歳をとって丸くなったようで(笑)。見ならわなければ、と思いました(笑)。

ここは、南北に長い九十九里浜のほぼ中央、昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年あまり療養していた場所です。智恵子の妹・セツ(節子)の一家と、母のセンも同居していました。

下記写真は明治41年(1908)頃。智恵子数え23歳、前年に日本女子大学校を卒業し、東京に残って太平洋画会で油絵制作に取り組んでいた頃のものです。何かの折に帰省した際に撮られたもので、当時の智恵子の一家が勢揃いしています。

001

後列左から、四女・ヨシ、長女・智恵子、次女・セキ、三女・ミツ(後述する宮崎春子の母)、父・今朝吉、長男・啓助。前列左から祖父・次助、五女・セツ(昭和9年=1934当時、九十九里在住)、祖母・ノシ、六女・チヨ、次男・修二、母・センです。

明治、大正と、福島油井村(現二本松市)で、大きな酒蔵を経営していた智恵子の実家は、父・今朝吉の没後に経営が傾き始め、昭和4年(1929)の恐慌のあおりをもろに受けて破産、一家は離散しました。

五女のセツ夫婦が暮らしていた九十九里に母・センも引き取られ、昭和6年(1931)頃から心の病が顕著になっていた智恵子も、先述の通り、昭和9年(1934)5月にセツの元に預けられます。しかし、その病状は好転することなく、完全に夢幻界の住人となってしまい、日がな浜辺の千鳥と遊んだり、「光太郎智恵子、光太郎智恵子」とつぶやいていたりしたそうです。

のちにその頃の智恵子を謳った光太郎詩に「風にのる智恵子」(昭和10年=1935)、「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)などがあります。

しかし、セツには幼い子供もおり、教育上宜しくないと判断され、智恵子は12月には再び駒込林町のアトリエに引き取られ、翌昭和10年(1935)に、終焉の地となった南品川ゼームス坂病院に入院することとなります。妹・ミツの娘、春子が看護師の資格を持っていたこともあり、付き添いに入りました。

下記は、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)、このあたりでロケが行われた東宝映画「智恵子抄」撮影時のスナップ写真です。

左端がセツ、右端が春子。智恵子に扮する原節子さん、光太郎を演じた山村聰さん、それから春子役の青山京子さんも写っています。

002

そんなことを考えつつ、片貝海岸で初日の出を待ちました。

しかし、今年は(去年もでしたが)雲が多く、日の出から15分後の7時を過ぎても太陽は拝めませんでした。

KIMG3481[1]

渋滞を避けるため、早めにあきらめて撤収。

KIMG3483[1]

帰りぎわ、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑で。昭和36年(1961)、地元の俳句グループや、当会の祖・草野心平らの尽力で建てられたものです。

003

上記は雑誌『文学散歩』第10号に載った、当会顧問・北川太一先生による除幕レポートです。心平や、やはり光太郎と交流のあった詩人の伊藤信吉、彫刻家の高田博厚、皆すでに鬼籍に入っていますが、若かったのですね、半裸で九十九里の荒波に飛び込んだそうで(笑)。

自宅兼事務所を目指して、九十九里沿岸を北上中、蓮沼あたりで、雲の切れ間から太陽が姿を見せそうな気配となりました。そこで再び浜辺へ。

KIMG3487[1]

KIMG3496[1]


KIMG3502[1]

できれば片貝で見たかったのですが、いたしかたありませんね。まぁ、今年もいいことがあるような、そういう感じのする初日の出でした。

というわけで、しつこいようですが、本年もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

かかる極限の場合に詩人の本質がまじりけ無く迸り出でその詩を生かしてゐる事を痛感する。どの詩人も言葉と実感との間に或る焦燥を持つてゐる。有り余る実感が言葉の間で渦を巻いてゐる。言葉は僅かにその万分の一を象徴してゐる。

散文「山本和夫編『野戦詩集』」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

『野戦詩集』は、日中戦争に出征した山本以下6人の詩人(西村皎三、加藤愛夫、長島三芳、佐川英三、風木雲太郎、山本和夫)の作品を集めたアンソロジーです。前線で実際に戦闘をしていた詩人の作品集ということで、このような評となっています。ちなみに6人のうち、西村は戦死しています。

たしかに光太郎の言う通りなのでしょうが、こうした時代が再び訪れることの無いように、と思わざるを得ません。

というわけで、新年となりました。改めましてあけましておめでとうございます。

001

上記は今年の年賀状。画像は明治29年(1896)、光太郎数え14歳の作になる木彫レリーフです。毛並みの表現の仕方など、父・光雲作の重要文化財「老猿」を思わせる見事な出来ですね。

この年、光太郎は3月に下谷高等小学校を卒業、東京美術学校の予備校として卒業生が作った共立美術学館に編入、旧制中学の課程を学びました。翌年には美校に進んでいます。まさしく「栴檀は双葉より芳し」ですね。


今年も光太郎智恵子、光雲やそれぞれの周辺人物等につき、さまざまな情報をお届けするつもりで居ります。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

かういふ詩人が教壇にたてばなるほど教室は明るいであらう。かういふ詩人に育てられた子供等は、幸であると思はずには居られない。

散文「実にめづらしい詩集だ――小野忠孝詩集
『日本の教室は明るい』――」より
昭和16年(1941) 光太郎59歳

小野忠孝(のちに「おの・ちゅうこう」と仮名書きにペンネームを改名)は、明治41年(1908)生まれの詩人・児童文学者です。地元・群馬や、上京して大森の小学校で教壇に立ちつつ、詩作に励みました。

002

本年の皆様方にも、「幸」あれと念じつつ。

↑このページのトップヘ