2019年10月

岩手での展示等につき、紹介の記事が出ています。ありがたし。


まず、『朝日新聞』さん。花巻高村光太郎記念館さんの企画展「高村光太郎 書の世界」を紹介して下さいました。

高村光太郎の書 記念館で企画展

 晩年の約7年間、花巻市で山居生活を送っ001た、詩人で彫刻家の高村光太郎による「書」を集めた企画展が、花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれている。

 1945年、宮沢賢治との縁で花巻に疎開した光太郎は、戦争に加担した悔恨から彫刻制作を封印する一方、大小さまざまの味わいのある書を残した。

 企画展「高村光太郎 書の世界」は、彫刻、文芸と並んで光太郎の「第3の芸術」ともいわれる書を通じ、花巻時代前後の足跡を浮かび上がらせる狙い。1951(昭和26)年、花巻の山口小学校長から校訓の考案を頼まれて書いた「正直親切」など十数点を展示し、書の理論について光太郎がつづった散文などもパネルで紹介している。

 11月25日まで。会期中は休館なし。(溝口太郎)



続いて、『盛岡経済新聞』さん。

盛岡・赤レンガ館で「ホームスパン」イベント再び 羊毛の魅力を見て触れて

 工芸展「赤レンガ伝統工芸館 vol.4 ホームスパン」が11月2日・3日、「岩手銀行赤レンガ館」(盛岡市中ノ橋通1)で開催される。(盛岡経済新聞)

 「岩手銀行赤レンガ館」を管理する「岩手銀行」が、県内に継承される伝統工芸品を広く知ってもらおうと企画した同展。観光施設として県内外から多くの人が訪れる同施設を活用し、岩手という地域や産業の価値をPRする拠点にするとともに、県内で伝統工芸に関わる人を応援する。

 展示は年4回の予定で6月にスタートし、1回目は「漆」、7月の2回目は「かご」、10月に行われた3回目は「南部鉄器」、最後となる4回目は「ホームスパン」をテーマに行われる。工芸展の企画の背景には2017(平成29)年に開催されたホームスパン工房・作家による合同展示会「Meets the Homespun」の成功もあるという。今回の展示は「Meets the Homespun」の2回目という位置付けでもある。

 同展のコーディネートを担当してきた「まちの編集室」の木村敦子さんは「これまで開催している中で、県外や海外からの来場者が多かったのも印象的。県内の人からも、1つのものについて複数の作家や工房が集まるので、見比べながら購入できるという感想が聞こえている」と話す。「伝統工芸についてよく知らないという声はあるが、興味を持つ人は県内外に確実にいるということが分かったのも収穫」とも。

 今回の展示では県内17のホームスパン工房・作家が参加。ベテランから若手まで幅広い作り手が一堂に集まる。このほか、県産羊毛「i-wool(アイウール)」を使った製品の展示販売や、毛糸やつむぎ道具など羊に関わるものが並ぶ「ひつじまわり展」、ワークショップ、高村光太郎の妻・智恵子が大切にしていたエセル・メレエ製のホームスパンの毛布の特別展示なども行われる。

 初日には「プラザおでって」で特別講演も開く。展示にも参加している「蟻川工房」の蟻川喜久子さんによるホームスパンと実用についての内容のほか、岩手県立大学盛岡短期大学部教授の菊池直子さんが特別展示のエセル・メレエのホームスパン、高村光太郎愛用のホームスパンについての調査結果を報告する。

 木村さんは「完成された製品だけではなく、毛糸や道具、小物などの販売もあるので、自分で作りたいという人の素材探しにもぴったりだと思う。ホームスパンの工房や作家が一度に集まる機会はなかなかない。見て、触れて、自分好みのアイテムや誰かに贈るプレゼントを見つけてほしい」と呼び掛ける。

 開催時間は10時~16時。入場無料。

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こちらは今度の土日に開催される「IWATE TRADITIONAL CRAFTS year 2019 ~(ホームスパン)」の予告です。

当方も土日、盛岡、花巻、さらに智恵子の故郷である福島二本松にも立ち寄って参ります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】


芸術は各個の持つ魂を表現したもので比較されたりなどすべきものではないと思ひます。

談話筆記「聖徳太子奉賛展への出品について」より
大正15年(1926) 光太郎44歳


000「第一回聖徳太子奉賛美術展」は、この年5月から6月にかけ、上野の東京府美術館で開催された大規模な展覧会です。

文展などの官設の展覧会には出品しようとしなかった光太郎が、ブロンズ「老人の首」(大正14年=1925)、木彫「鯰」(大正15年=1926)を出品し、「高村が展覧会に作品を出した!」と驚かれました。

同展が無審査の展覧会だったためで、それならば出品もやぶさかでない、という考えでした。この後も昭和2年(1927)と翌年に開催された、やはり無審査の「大調和展」にも作品を出しています。


ちなみにこの時出品された「鯰」は、竹橋の国立近代美術館さんの所蔵。現在、熊本市現代美術館さんで開催中の「2019年度国立美術館巡回展 東京国立近代美術館所蔵品展 きっかけは「彫刻」。―近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」に出品されています。

明治から昭和にかけて活躍した画家・挿絵画家・漫画家、池田永治(いけだえいじ)。光太郎より6歳年下の明治22年(1889)、京都の生まれです。亡くなったのは光太郎より早く、昭和25年(1950)。歴史上の人物ということで、申し訳ありませんが呼び捨てにさせていただきます。

今年の夏、子息の辰彦氏からご連絡を頂きました。永治が光太郎に書いて貰った「書」が現存するのだが、どんなものだろうか、というお話でした。そこで、メールで画像を送っていただき、拝見。驚愕しました。他に類例のない大珍品だったためです。

他の人物等に光太郎が書いてあげた書は、現存数、決して少なくありません。各地にかなり残っています。そのほとんどがそうした場合の通例である色紙や著書の見返しなどに書かれたもの。しかし、件(くだん)の「書」は、なんとチョッキの背部に書かれたものだったのです。

文言は、「美もつともつよし」、無理くり書き003下せば「美最も強し」。為書(ためがき)的に「池田永一治画伯に献ず 光太郎」。「永一治」は、昭和3年(1928)以後の池田の号です。早世した妹の死を悼み、奮起しようと「永」と「治」の間に「一」を挿入し、「一つ増やす」という意味を込めたそうです。ただ、読み方は「えいじ」のままだったとのことですが。筆跡は間違いなく光太郎のもの。文言の「美最も強し」も、いかにも光太郎という感じです。同趣旨の「美ならざるなし」とか「美しきもの満つ」といった文言の書は複数現存していますが、「美最も強し」という文言は初めて見ました。

そして、揮毫の日付を見て、二度驚愕。「昭和二十年五月十四日」と書かれています。なんとまあ、光太郎が疎開のために岩手花巻の宮澤賢治の実家に発つ前日です。4月13日の空襲で、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎アトリエ兼住居は全焼、しばらくは近所にあって消失を免れた妹・喜子の婚家に身を寄せていた光太郎ですが、以前から賢治の父・政次郎や賢治の主治医・佐藤隆房らから、花巻への疎開を勧められており、5月15日には上野駅から花巻に向かいました。

池田も昭和12年(1937)から駒込林町に住んでいたそうで、古地図で調べてみましたところ、直線距離で200㍍ほどの、本当に近所でした。さらに光太郎アトリエ兼住居と池田邸のちょうど中間あたりが光太郎実家の現髙村家(旧光雲邸)でした。『高村光太郎全集』には池田の名は記されていませんが、おそらく以前から交流があったか、少なくとも顔見知り程度ではあったと思われます。

ちなみにやはり近所の森鷗外邸(観潮楼)は、それ以前にやはり空襲で焼けています。近くでありながら旧光雲邸は焼けず、池田邸も無事でした。しかし、あちこちで火がくすぶっていた極限状況下で書かれた「書」。どこでどういうシチュエーションで書かれたのか詳細は分からないそうですが、おそらく光太郎が「明日、花巻へ発つ」という話を池田にし、池田が「ではお別れに何か書いて下さい」となり、といっても色紙など用意できようはずもなく、着ていたチョッキの背に書いて貰ったと推定できます。そして同じく「美」に携わる者同士、がんばろう、ということで「美もつともつよし」と書いたのではないでしょうか。凄いドラマだと思います。

で、子息の辰彦氏から、4冊の書籍を頂きました。

左上から、チョッキの写真も載っている『画家 池田永治の記録―その作品と年譜―』、池田は俳句、俳画も多く残したということで、『俳画家 池田永一治俳句集』、『新理念 俳画の技法 復刻版』、そして昭和5年(1930)から翌年にかけ、『読売新聞』に連載されたという『こども漫画 ピチベ 第二版』。すべて神戸新聞総合出版センターさんから辰彦氏らご遺族の私刊という形で、今月刊行されたものです。永治の業績をまとめておこうという意図だそうで、頭が下がります。

これらを拝読し、またまた驚愕(笑)。

まず、池田が太平洋画会の中心メンバーだったということ。当方、存じませんでした。太平洋画会といえば、光太郎と結婚披露前の智恵子が、日本女子大学校卒業後に通っていました。そこで調べてみましたところ……

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明治45年(1912)の同会第10回展で、智恵子と池田の作品が並んで出品されていました。当然、池田と智恵子、交流があったでしょうし、のちに光太郎と池田の間でも、智恵子の話題になったでしょう。これにも本当に驚きました。

それから、池田は同じく挿絵画家・漫画家だった岡本一平とも交流がありました。一平は岡本太郎の父。妻のかの子は智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』メンバーでしたし、一平自身、東京美術学校西洋画科で、彫刻科を卒(お)えて再入学した光太郎と同級生でした。

また、これも当方存じませんでしたが、中原中也に「ピチベの哲学」という詩があるそうで、これは上記の『こども漫画 ピチベ 』からのインスパイアではないかという説があるそうです。中也といえば、当会の祖・草野心平を介して光太郎と知り合い、その第一詩集『山羊の歌』の装幀、題字を光太郎が手がけました。

現在と異なり、芸術界が狭かった時代ではありますが、こういう部分であやなされる人間関係には、実に驚かされます。

さて、池田永治、明治大正昭和の文化史の、貴重な一面を担った人物であると改めて感じ入りました。これを機に、もっと光が当たっていいように思われます。


【折々のことば・光太郎】

そして自分の作らうとする胸像に、若し此の内から迸出する活発な内面生活の発露がなかつたら、其は無意味な製作に終る事を痛感しました。思想を持ち、信念を持ち、愛を持つ人格が出なかつたら、それきりだと思ひました。
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散文「成瀬先生胸像の製作に従事して」より
大正9年(1920) 光太郎38歳

「成瀬先生」は、智恵子の母校・日本女子大学校創設者にして初代校長の成瀬仁蔵です。歿したのは大正8年(1919)。その直前に、女子大学校として、成瀬の胸像制作を光太郎に依頼、光太郎は病床の成瀬を見舞っています。ところが像はなかなか完成せず、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。別に光太郎がサボっていたわけではなく、試行錯誤の繰り返しで、作っては毀し、毀しては作り、自身の芸術的良心を納得させる作ができるまでにそれだけかかったということです。

画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影です。

雑誌系、2件ご紹介します。

花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)  vol.16

2019年10月20日 Office風屋 定価500円(税込)
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一昨年の創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、「光太郎レシピ」という連載が続いています。今号は、「宮沢家の精進料理」。

花巻町(当時)や郊外太田村の山小屋で暮らしていた昭和20年(1945)から昭和27年(1952)にかけ、光太郎は賢治忌の9月や、町なかの松庵寺さん(上記右画像、「光太郎レシピ」撮影場所も松庵寺さんです)で両親・智恵子の法要を営んでもらった10月には、ほぼ欠かさず宮沢家を訪れ、いろいろとご馳走になっていました。そのあたりの再現メニューです。したがって、今号は光太郎が作った料理ではありません。

メインは「よせ豆腐と椎茸の吸い物と舞茸と芋の子の胡桃ソースかけ」だそうで、いかにも秋ですね。

ネット上で注文可能です(「よせ豆腐と椎茸の吸い物と舞茸と芋の子の胡桃ソースかけ」が、ではなく、『Machicoco(マチココ)』 さんが、です。念のため(笑))


もう1件。

季論21 2019秋 第46号

2019年10月20日 本の泉社 定価909円+税
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歌人・内野光子氏の「「暗愚小傳」は「自省」となり得るのか――中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして」が17ページにわたり掲載されています。

サブタイトルの通り、中村稔氏の近著『高村光太郎の戦後』からのインスパイアだそうで、特に昭和22年(1947)の雑誌『展望』に掲載された連作詩「暗愚小伝」、さらにそれを含む詩集『典型』(昭和25年=1950)等での、光太郎の戦後の「自省」が甘いのではないか、という論旨のようです(どうも当方の暗愚な脳味噌ではよくわからないのですが)。

傍証としてあげられているのは、詩集『典型』や、戦後に刊行された各種の選詩集などに、戦時中の翼賛詩が納められていないこと。しかし、その実体はまだ不明瞭ではありますが、昭和27年(1952)までGHQによる検閲があったわけで、その時代に戦時中の翼賛詩を再び活字にすることなど出来ようはずもないのですが……。

まあ、それをいいことに、戦時中に翼賛詩歌を書いたことを無かったことにしてしまおうという文学者も確かに存在したようです。そのあたりは内野氏も参考にされている櫻本富雄氏の『日本文学報国会 大東戦争下の文学者たち』(平成7年=1995 青木書店)などに詳しく書かれています。

しかし、光太郎は「無かったことにしてしまおう」と考えていたわけではなく、「後世に残すべき作品ではない」と考えていたのだと思うのですが、どうでしょうか。「無かったことにしてしまおう」と考えた文学者は、自分が翼賛詩歌を書いていたことに、戦後は言及しませんでした。言及したとしても、「あれは軍や大政翼賛会の命令で仕方なく書いたもので、本意ではなかった」的な。まあ、光太郎も「軍や大政翼賛会の言うことを信じ切っていた自分は暗愚だった」と、似たような発言をしていますが。それにしても、「無かったことにしてしまおう」とか「本意ではなかった」というスタンスではありませんでした。ちなみに光太郎、連作詩「暗愚小伝」中の「ロマン ロラン」という詩では、翼賛詩を「私はむきに書いた」と表現しています。

それを、戦後の選詩集等に翼賛詩を収めなかったからといって、隠蔽しようとしていたと談ずるのはどうでしょうか。繰り返しますが、GHQによる検閲があった時期には絶対に不可能でしたし、講和条約締結後の検閲がなくなってからも、戦後復興の時期にあえてまた翼賛詩を活字にする必要はなかったはずです。というか、その時期に翼賛詩をまた引っ張り出していたとしたら、「暗愚」どころの騒ぎではなく、「愚の骨頂」です(ところが、現代に於いては光太郎の翼賛詩を「これこそ光太郎詩の真骨頂」と涙を流さんばかりに有り難がる愚か者がいて困るのですが)。

これも繰り返しますが、翼賛詩を「無かったことにしてしまおう」と考えていたのか、「後世に残すべき作品ではない」と考えていたのか。光太郎は後者だと思います。

それにしても、内野氏の論を読んでいて感じたのですが、確かに戦時中の光太郎の活動については、一般にはあまり知られていないようです。我々としましては、それを隠蔽しようという意図はなく、さりとてその時期の光太郎の活動が真骨頂ではあり得ないので、ことさらにその時期を大きく取り上げることはしません。

しかしやはり「無かったこと」にはできませんから、光太郎の歩んだ道程、生の軌跡の一部として、光太郎が何を思い、何を目指していたのか、そういったことに思いを馳せる必要がありますね。というのは、当会顧問・北川太一先生の受け売りですが(笑)。

ともあれ、考えさせられる一論でした。版元サイト、それからAmazonさんでも購入可能です。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

見たところ東京でやつている人の方が地元作家のものより見ばえがするがむしろこの逆になるよう勉強してもらいたいものだ。

散文「山形県総合美術展彫刻評」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

戦後の花巻郊外旧太田村での暮らしの中で、「東京一極集中」への疑念、「地方創成」への意識などが光太郎の内部に根づいたことも、大きな意味があるように思われます。

新刊情報です

日本の名峰 DVD付きマガジン64紅葉色めく湯の山 安達太良山

2019年11月19日 DeAGOSTINI 定価917円+税


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山を愛するすべての人へ 臨場感あふれる映像で名峰に迫る 自然派ドキュメンタリー

秋、山がもっとも美しく着飾る季節。優美な稜線を引く、たおやかな山、安達太良山。錦秋を迎え、その女性的な美しさを際立たせる。

だが、その時は極めて短い。やがて訪れる厳冬期、深い雪と、吹きすさぶ風がこの山の姿を一変させる。

一面、白の世界となるこの山に、かつて冬山の厳しさと、幻想的な美しさを教えられた旅人。まだ知らぬ秋の風景を求めて、再び安達太良山を訪れた。


同じシリーズの44号、『雪煙舞う厳冬の安達太良山』が、今年初めに刊行されています。同じ山の号が刊行されるとは思っていなかったので、嬉しい誤算でした。


このシリーズ、平成25年(2013)から同27年(2015)にかけ、BS TBSさんで放映されていた「日本の名峰・絶景探訪」という登山番組とのタイアップで、同番組を収めたDVDが付録として毎号ついています。本誌の構成も、そのDVDに準じています。

確かにその番組では、平成26年(2014)に、#32雪煙舞う厳冬の安達太良山」、#58 「紅葉色めく湯の山 安達太良山」と、安達太良山が2回取り上げられました。44号は#32、そして今号は#58を元にしています。放映は2回とも、女優の春馬ゆかりさんがナビゲーター。そこで、上記解説に「かつて冬山の厳しさと、幻想的な美しさを教えられた旅人。まだ知らぬ秋の風景を求めて、再び安達太良山を訪れた」とあるわけです。


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あちこちに「高村光太郎」、「智恵子抄」、「ほんとの空」の文字。

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まさに季節としてもいい感じのネタですね。本誌と付録のDVDをご覧の上(上記発行日、奥付に従って11月19日としていますが、10月21日には発売になっています)、ぜひ足をお運び下さい。

ただ、安達太良山、決して易しい山ではありません。つい最近も高齢の方お二人が遭難、亡くなったそうで……。

【折々のことば・光太郎】

老成組は大方皆物欲しげに時代の皮相に照応するやうな主題を選んで小さく固まつて居り、中老組は従来の惰力で唯レイルをすべつて居り、青年組は何が何だかわからないかのやうにジヤズソングじみた無方位の浅さの中に精力を放散させてゐる。
 
散文「帝展彫刻の技術感――低調と混迷との現象――」より
昭和6年(1931) 光太郎49歳

官設展覧会の彫刻の部を評した一文ですが、彫刻に限らず、芸術界一般に対しての苦言にも読めます。

さらに深読みすれば、社会全体――国や地方公共団体、企業、学校、その他あらゆる組織が腐って行く構図のようにも読めます。

都内からコンサート情報です。

「潮見佳世乃歌物語コンサート「智恵子抄」

期 日 : 2019年11月4日(月・振)
会 場 : 旧平櫛田中邸アトリエ 東京都台東区上野桜木2-20-3
時 間 : 14:30〜15:45
料 金 : 前売券 3,000円 当日券 3,500円

出 演 : 潮見佳世乃 (歌と語り)  梶山希代 (チェンバロ)
予 約 : 高岡事務所 090-8081-3465 
      潮見佳世乃ホームページ
https://kayono.com予約フォームより

 語り部・潮見佳世乃とチェンバリスト・梶山希代とのコラボライブ!
 今回は平櫛田中邸にて開催。
 語りますのは、高村光太郎「智恵子抄」
 平櫛田中は、上京して光太郎の父・高
光雲の門下生になりました。
 ご縁ある場所でのコンサート。
 是非!秋の散策かねお出かけ下さいませ。
 多くの皆様とあたたかい時間を過ごせますように。
 歌物語とは?
 吟遊詩人・高岡良樹が創りだした音楽・文学・演劇が集約された芸術ジャンルです。 


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ジャズシンガーの潮見佳世乃さん。以前から「智恵子抄」系もたびたび取り上げて下さっていて、当方、平成27年(2015)に大森で開催された歌物語コンサート「智恵子抄」」を聴いて参りました。レポートがこちら

その際は、フォークギターとキーボードの伴奏でしたが、今回はチェンバロということで、また少し(いや、かなりでしょう)異なる感じになると思います。

会場が、何と、光太郎の父・光雲の高弟にして、今日の「日曜美術館」で取り上げられた平櫛田中の旧居。こうしたコンサートにも使用できるのですね。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

しかし帝展の今年の彫刻を対象として誰が生き生きした今日及び未来の芸術的問題に触れ得よう。出来る事なら一度烈風を吹き入れてこゝの空気を隅から隅まで一新するといゝのである。

散文「帝展彫刻部鳥瞰」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

つくづく、アカデミックな展覧会が嫌いだった光太郎。展覧会そのものより、出品作家たちの冒険をしない、ある意味「忖度」により、画一的な作品ばかりになっていた状況を嘆いていました。

やっちまいました。

このブログ、元々、平成24年(2012)にyahoo!ブログでスタートしたのですが、yahooさんがブログサービスを廃止することになり、今年8月にライブドアさんに引っ越しました。

とりあえず過去の記事が無くなってしまうなどの大きなエラーはなく、無事に移転できたのですが、過去の記事は画像や文字のサイズ、表示位置などがおかしかったり、一部では文字化けもあったり、さらにはyahooブログ内にリンクを貼っている箇所は今年いっぱいでリンク切れになったりと、そのあたりを訂正せねばなりません。ほぼ毎日こつこつその作業をやっているのですが(1日に20日分が限界です。集中力がちません)、昨日、作業中に誤って(勘違いして)、消してはいけない画像をけっこう消してしまいました。まだライブドアさんのブログの機能がよく分かっていませんで……。その結果、先月から今月に書けての記事で、画像がまったくないという状態が生じています。途中で気がついたのでまだよかったのですが……。

PCに画像が残っているものなどは少しずつ復元していますが、もともとの過去記事の訂正もあり、余計な仕事を増やしてしまいました。今年中に終わるかどうか、というところです。

そうこうしているうちにも新着情報が続々。書籍をご寄贈下さったり、イベントのご案内を下さったりした方で、「まだ載っていないぞ」という方、済みません。順番待ちです。特にこの時期、「芸術の秋」ということでいろいろありますので……。

さて、本日の情報は、富山県から。

令和元年度文学講座「ゆかりの文学者」シリーズ

期 日 : 2019年11月2日(土) 11月9日(土) 11月16日(土) 12月1日(日)
会 場 : 
高志の国文学館 富山県富山市舟橋南町2-22
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料


【開催日及び講師】
 第1回 青鞜の10代社員、尾竹紅吉の天真爛漫な生き方
 開催日 11月2日(土)
 講 師 作家、エッセイスト 森まゆみ 氏
 
 第2回 田部重治の自然観と現代アメリカハイキング文化
 開催日 11月9日(土)
 講 師 ハイカーズデポオーナー 土屋智哉 氏
 
 第3回 山田孝雄先生に学ぶ-あゆみ・連歌・文法など-
 開催日 11月16日(土)
 講 師 「熱血あるものゝ黙視しうべき秋ならむや 山田孝雄」著者 神島達郎 氏
 
 第4回 吉井勇と高志びとたち-疎開日記をもとに
 開催日 12月1日(日)
 講 師 静岡県立大学国際関係学部教授 細川光洋 氏


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光太郎智恵子のその人ではありませんが、関連人物について取り上げられます。

まず、11月2日(土)の森まゆみさんによる尾竹紅吉。智恵子同様、『青鞜』の表紙絵を描いていました。富山の出身ということで、取り上げられるようですが、同じく富山で今年の8月、「とやま学遊ネット男女共同参画サテライト講座 「尾竹紅吉と『青鞜』」」という市民講座があり、その紹介をこのブログで致しました。紅吉についてはそちらをご参照下さい。

講師の森さん、『青鞜』についてのご研究もなかなかのもので、光太郎智恵子にも言及して下さった『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』『「谷根千」地図で時間旅行』などのご著書がおありの他、『青鞜』がらみのご講演などよくなさっているようです。

それから、12月1日(日)、細川光洋氏で吉井勇。吉井は『明星』、「パンの会」などで光太郎と親しかった歌人です。代表作「酒ほがひ」(初版・明治43年=1910、二版・昭和21年=1946)は光太郎の装幀です。そんなこんなで戦後も光太郎との交流は続きました。富山への疎開経験があるそうで。

細川氏には、「明星研究会」や「与謝野寛・晶子を偲ぶ会」などでお世話になっております。

それぞれご都合の付く方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

若い魂のこれほど揃つてむきになつてゐる集団は、きつと公けの或る特殊の意味を作り出すであらう。途中でいゝ加減に利口になつて世渡りに眼がくらみさへしなければ、世間によくある小遣いかせぎに終る小展覧会とは違つた発達を遂げるであらう。
散文「「童顔社」を観た日の日記 下」より
大正14年(1925) 光太郎43歳

「童顔社」は、帝展に対抗し、伊藤廉、野間仁根、山本稚彦ら二十代前半の若者が無料で開いた在野展です。山本(父は光太郎の父・光雲の高弟であった山本瑞雲)と伊藤は、しばしば光太郎アトリエを訪れて議論したそうです。

都内からバレエの公演情報です。

新国立劇場バレエ研修所公演 バレエ・オータムコンサート2019

期 日 : 2019年11月2日(土) 3(日)
会 場 : 新国立劇場 中劇場 東京都渋谷区本町1-1-1
時 間 : 両日とも15:00~
料 金 : 全席指定 2,200円

プログラム
スパニッシュ・ダンス『檸檬(レモン)哀歌』(振付:小島章司)(ギター:フェルミン・ケロル、カンテ:石塚隆允)
『ラ・シルフィード』第2幕より パ・ド・ドゥ
『パリの炎』より パ・ド・ドゥ
『くるみ割り人形』第2幕より
 ほか

新国立劇場バレエ研修所は、日本初の国立劇場附属の研修機関として2001年に開所して以来14期88名の修了生を送り出し、修了生はバレエ界の第一線で活躍しています。技術から教養まで幅広く学ぶことで世界に通じるダンサーの育成を目指しています。2018年からは、『ANAスカラシップ』の開始により海外研修も充実し、本公演後、最上級生がANAスカラシップ生としてロシアの名門A.Y.ワガノワ記念ロシア・バレエ・アカデミーで研修を行います。
今回は、クラシカル・バレエの名作『くるみ割り人形』第2幕からグラン・パ・ド・ドゥを中心にスパニッシュやトレパックなどいくつかの踊りを抜粋して上演します。また、研修カリキュラムの一つとして取り入れているスパニッシュ・ダンスを研修所講師の小島章司氏の振付でご覧いただきます。日頃の研修の成果をお楽しみください。


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というわけで、プログラムに「檸檬(レモン)哀歌」が入っています。まぁ、智恵子の臨終を謳った光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)からのインスパイアなのでしょう。

同研修所さんのサイトに、「「バレエ・オータムコンサート2019」『檸檬(レモン)哀歌』のリハーサルの様子をご紹介します」という記事がアップされています。それによると、フラメンコに近い群舞のようです。

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フラメンコと「智恵子抄」、一見、異質な取り合わせのように感じられるかもしれませんが、これまでにも多くの方が、「智恵子抄」へのオマージュ作品を扱われています。

古くは故アキコ・カンダさん。昭和46年(1971)4月28日、芸術座さんで開催された第5回リサイタルで。写真は篠山紀信氏です。ただ、完全なフラメンコというより、モダンダンスにフラメンコの要素が入って、という感じだったようです。

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平成に入ると、鍵田真由美さん、佐藤浩希さんのお二004人による「レモン哀歌〜智恵子の生涯〜」が、平成10年(1998)10月、新宿のスペース・ゼロさんで上演されました。この際には、光太郎と交流のあったハーモニカ奏者の故・新井克輔氏が演奏で参加されていました。新井氏、かつての連翹忌でハーモニカ演奏をご披露いただきました。

それから、あまり大々的に宣伝されていないようなので、このブログでご紹介していませんが、最近でも、故・平幹二朗氏の子息でやはり俳優の平岳大さんも、「智恵子抄」をフラメンコで取り上げて下さっています。ただ、「フラメンコ」ではなく「ヒラメンコ」だそうですが(笑)。

光太郎詩の持つある種の「熱」が、フラメンコの情熱性とマッチする部分があるのかもしれません。

同じようなことをこのブログで何度も書いていますが、こうした二次創作的な部分で光太郎智恵子の世界を取り上げていただくのは、大歓迎です。そこから間口が広がり、関心を持つ方が増えて下さるといいと思いますので。

ただし、あくまで健全な精神で、リスペクトを持って取り上げていただきたいものです。


さて、新国立劇場バレエ研修所さんの公演、ご都合の付く方、ぜひどうぞ。当方、残念ながら両日ともまた東北に行っております。


【折々のことば・光太郎】

上から見おろすと、しつとり濡れた朝の石の肌に落葉が一面につもつてゐる。落葉に対する私の陶酔がふらふらと起りかける。実際落葉ほど暖かい、たのもしい魅力を私に持つものは少い。落葉に埋れるほど大丈夫な気のする感じは少い。
散文「「童顔社」を観た日の日記 上」より
大正14年(1925) 光太郎43歳

確かに光太郎、「落葉を浴びて立つ」(大正11年=1922)、「美しき落葉」(昭和19年=1944)といった詩も書きましたし、現存は確認できていませんが、プラタナスの落葉を木彫にする構想もありました。

テレビ放映情報です。

日曜美術館「わしがやらねばたれがやる~彫刻家・平櫛田中~」

NHK Eテレ 2019年10月27日(日)9:00~9:45  再放送 2019年11月3日(日) 20:00~20:45

西洋化の波が押し寄せる中、日本伝統の木彫の新たな形を模索した平櫛田中。6代目尾上菊五郎と作り上げた代表作「鏡獅子」の制作秘話を通してその生き様(ざま)に迫る。
歌舞伎の6代目尾上菊五郎の姿をとどめた近代彫刻の最高峰「鏡獅子」。実に22年の歳月をかけて作られた全長2mの彩色が施された木彫の像は、圧倒的な存在感を誇る。作者は岡山県井原市出身の平櫛田中(ひらくし・でんちゅう/明治5年-昭和54年)。ロダンなど西洋彫刻が流入し新たな衝撃が広がる時代のなかで、日本伝統の木彫の新たな可能性を模索した平櫛田中。107年の天寿を全うした、その生きざまに迫る。


【出 演】尾上右近 田中修二(大分大学教育学部教授)
【司 会】小野正嗣 柴田祐規子

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光太郎の父・光雲の高弟であり、光太郎とも親しかった平櫛田中がメインです。現在岡山の井原市立田中美術館さんで開催中の田中回顧展にからめての構成のようです。出演される大分大学の田中修二教授、先般、信州善光寺さんでの光雲とその高弟・米原雲海
による仁王像の調査に参加されたり、それをうけて今月初めに開催された「第14回善光寺サミット」で講演をなさったりしています。また、以前から近代彫刻史関連で、さまざまな示唆に富むご著書も世に問われています。

さらに言うなら、現在、熊本市現代美術館さんで開
催中の「きっかけは「彫刻」。―近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」展でも展示されている木彫「鏡獅子」にスポットが当てられます。一昨年、テレビ東京さん系の「美の巨人たち」でもこの作品が取り上げられ、興味深く拝見しました。今回も期待しております。

ぜひご覧下さい。


ついでというと何ですが、「日曜美術館」とセットの「アートシーン」。主に放映日の時点で開催中の全国各地の展覧会を紹介する番組です。10月13日(日)の放映では、新宿中村屋サロン美術館さんで開催中の「生誕140年・中村屋サロン美術館開館5周年記念 荻原守衛展 彫刻家への道」が取り上げられました。

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短い時間でしたが、濃い内容でした。ただ、「アートシーン」で紹介された展覧会は「日曜美術館」本体では取り上げられないことがほとんどなので、その意味では残念ですが。



熊本の「きっかけは「彫刻」。―近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」展は11月24日(日)まで、中村屋さんの「生誕140年・中村屋サロン美術館開館5周年記念 荻原守衛展 彫刻家への道」が12月8日(日)までの会期です。それぞれ光太郎作品も出ていますので、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫刻といふのは唯モデルを見ていろんなポオズの面白い、情趣あるものを作る事でもなく、昔風な唐美人や仏像を今様に彫りなほす事でもない。何しろ或る実体を人間の手で生まうといふのであるから、こんなやり甲斐のある、一生を投じても惜しくない、たのしみな、清雅な錬金術はないわけである。

散文「帝展の彫刻について 完」より 大正14年(1925) 光太郎43歳


田中や守衛も同じようなことを考えていたのではないでしょうか。

岩手盛岡からイベント情報です。

 IWATE TRADITIONAL CRAFTS year 2019 ~(ホームスパン)

期 日 : 2019年11月2日(土)・3日(日)
時 間 : 10:00~16:00
会 場 : 
岩手銀行赤レンガ館 岩手県盛岡市中ノ橋通一丁目2番20号
料 金 : 無料

岩手には漆器や南部鉄器、ホームスパンなど多くの優れた伝統工芸品があります。本イベントはその 展示や紹介を国の重要文化財である赤レンガ館で開催することによって、伝統工芸品のさらなる認知度の拡大を図るとともに、工芸品を製造・販売する事業者の皆さまの販路拡大の機会としていただくことを趣旨として開催するものです。
入場無料のイベントですので、お気軽に赤レンガ館に足をお運びいただき、歴史ある建築物と岩手が誇る優れた伝統工芸品とのコラボレーションをご堪能くださいますよう、お願い申しあげます。

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特別展示 エセル・メレ工房製作 「高村智恵子が愛した毛布」

高村光太郎の妻・ 智恵子が大切にしたホームスパンの毛布を特別展示。イギリスのエセ ル・メレ工房にて約100年前に作られた作品です。

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特別講演


蟻川喜久子氏(蟻川工房)  11:00-12:00 「使い継ぐ民藝・ホームスパン」
民藝の精神を受け継ぎ、「羊毛の本質を活かす」仕事を続ける蟻川工房。使ってこそのホームスパンと実用の美しさについて伺います。

菊池直子氏(岩手県立大学盛岡短期大学部教授)  13:30-15:00
「高村光太郎のホームスパンを探る!」
特別展示のエセル・メレによるホームスパン、高村光太郎愛用のホームスパンについての調査結果を報告。文献を読み解いて掘り下げます。



花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、光太郎の遺品の中から見つかったホームスパン(羊毛を使った手織り)の毛布。戦後の光太郎日記にも「メーレー夫人の毛布」として何度か記述があります。その方面の専門家であらせられる岩手県立大学盛岡短期大学部の菊池直子教授らの調査により、イギリスの染織工芸家、エセル・メレの作であることが確認されました(ただ、メレ本人のみの作か、弟子の手が入った工房としての作かまでは不明とのこと)。戦前、智恵子にせがまれて購入したと光太郎に聞いた、という証言が残っています。

今年の3月に盛岡で開催された「岩手県立大学盛岡短期大学部 アイーナキャンパス公開講座」の中で、菊池教授が「高村光太郎のホームスパン」という講座をなさり、さらに同大の研究紀要で詳細をご記述。当方、講座を拝聴に伺いました

講座を受講された方などから、ぜひ現物を見たいという声が上がり、今回の特別展示につながったようです。当方、一昨年くらいに現物を手に取って拝見しましたが、非常にしっかりした作りで、保存状態も良く、よくぞ残っていたものだと感じました。

その菊池教授、さらに現花巻市の旧東和町でホームスパン制作に携わり、光太郎と交流のあった及川全三の流れを汲む、蟻川喜久子氏による講演も予定されています。

会場の岩手銀行赤レンガ館さんは、旧岩手銀行中ノ橋支店を改装して各種展示やコンサートなどに使えるイベントスペースとしたものです。明治44年(1911)の竣工、東京駅なども手がけた辰野金吾と、盛岡出身の葛西萬司による設計で、国指定重要文化財です。

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ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

夭折して今は居ない或る若い彫刻の学生が曾て私に心事を語つた。「世の中に立てませんから帝展へはどうにかして出します。其れには帝展の人達がいくら口で否定しても事実として存在する帝展風の彫刻といふものを作ります。さうして特選になます。推薦になるまで辛抱します。推薦になつてしまつたら、思ふ存分自分の為事をやります。どうか長い目で見てゐて下さい」。此れをきいて私は暗然とした。この若者の死んだ事を聞いた時私は涙を催した。

散文「帝展の彫刻について 四」より 大正14年(1925) 光太郎43歳


当時のアカデミックな公設展覧会のありようが象徴的に示されています。現在ではこういうこともないのでしょうが……。


今日は今上天皇即位の礼。地方紙『愛媛新聞』さんから、それがらみの記事をご紹介します。

即位の礼控え 皇居外苑の楠木像、新居浜市民ら清掃

 天皇陛下即位に伴う「即位礼正殿の儀」(22日)を前に、新居浜市民らでつくる「皇居の楠公像を愛(め)でる会」(篠原淳史会長)の会員らが20日、東京都千代田区の皇居外苑にある楠木正成像を清掃した。
 楠木像は、別子銅山開坑200年を記念して住友家から宮内庁へ献納されたもので、1900年に設置された。高村光雲をはじめとした東京美術学校(現東京芸術大学)の職員らが制作した木彫りの原型を基に、別子銅山の銅で鋳造されている。楠木一族の子孫が移り住んだのが新居浜で、新田を切り開いたと伝えられている。
 20日は愛でる会や新居浜にゆかりのある東京在住者ら約30人が参加。周囲に組んだ足場に10人ずつが上り、高さ約4メートルの楠木像に付いた汚れを別子山周辺で取った竹で丁寧に落としていった。台座はたわしで磨き、拭き上げた。
 篠原会長は「即位の礼に参列する外国人ら世界の人々におもてなしの心を示したいと考え、取り組んだ。楠木像と別子銅山、皇居の縁を通じて新居浜を広く知ってほしい」と話した。

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皇居外苑の楠木正成像。記事にあるとおり、光太郎の父・光雲が主任となって、東京美術学校総出で制作されれました。我が国の銅像の歴史の中では草創期の作品です。それだけにいろいろ苦労も多く、完成までに10年の歳月を要しました。後から依頼された西郷隆盛像の方が先に完成しています。

最初に住友家から銅像制作の依頼があったのは明治23年(1890)。住友家の経営する別子銅山の開坑200年記念ということで、材料の銅には別子の銅が使われることとなりました。翌年、光雲が主任を命ぜられ、原型は木彫で制作、明治26年(1893)に完成しています。下記は木型完成時のもの。壮年期の光雲主任も写っています。

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その後、鋳造に3年近くかかり、銅像の完成は明治30年(1897)、正式に除幕されたのは明治33年(1900)でした。ただ、除幕前から既に東京名所の扱いになっていたようです。

下記は当方手持ちの当時の錦絵。除幕前の明治31年(1898)の発行です。

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馬の部分を担当した後藤貞行は、「馬の足はこんな形に跳ね上がらない」と文句を言いながら作ったとか、内部が中空になっていない「無垢」の状態で、総重量が7トン近くもあるとか、エピソードにはこと欠きません。

さらに云うなら、戦中戦後のどさくさで正成の兜の前立てが持ち去られ、それを含めて補修に当たったのが、のちに鋳金の人間国宝となる光雲三男(光太郎実弟)の髙村豊周だったというエピソードもあります。

さて、『愛媛新聞』さんの記事に戻りますが、正成ゆかりの新居浜の皆さんが像の清掃をやってくださったそうで、頭が下がります。

ちなみに今上天皇ご夫妻と光太郎智恵子のご縁はこちら。
 令和元年。
 アンドルー・B・アークリー『陛下、今日は何を話しましょう』。
 二本松レポートその2 第65回安達太良山山開き。

楠公像ともども、国民に愛される存在であらせられることを祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

ギリシヤや天平の彫刻に題とのかね合ひで価値を持つ作品などは無い事も考へてくれ

散文「帝展の彫刻について 三」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

彫刻作品にわけのわからない文学的な題名を付ける風潮に対しての苦言です。光太郎自身も海外留学前の明治30年代にはそれが新しいのだ、と思いこんでそういうことをやっていましたが。

昨日のこのブログで、台風19号関連の話題を当会の祖・草野心平にからめてとりあげて下さった『神戸新聞』さんの一面コラムをご紹介しましたが、同様の趣旨で、光太郎智恵子の名を出して下さいました『北海道新聞』さんの一面コラムをご紹介します。

卓上四季 まずまずの災厄

000「あれが阿多多羅(あたたら)山 あの光るのが阿武隈川」。高村光太郎が詩集「智恵子抄」でうたった亡き妻の故郷は、福島県中部の町だった。その川は濁流と化し、堤を越えて家々をのみ込んだ▼台風19号で最も多くの犠牲者を出したのは、原発事故の傷なお癒えぬ福島県。海沿いのいわき市では、高齢で体の不自由な夫が寝室の浸水から脱出できず、握った妻の手を離れ冷たくなった。「長いこと、世話になったな」の言葉を残して▼そんな悲劇を招いた災害を「まずまずに収まった」と評価した安倍晋三政権の幹部がいる。発生当時はそういう状況だったと反論しているらしい。結果に責任を負うのが政治家というものだ。その鉄則を知らないとは言わせない▼自民党の二階俊博幹事長。衆院初当選時の田中派を離れて竹下派に合流。小沢一郎氏らと自民党を割って新生党を結成したが、新進、自由、保守の各党を経て自民党に戻った。政界を浮遊した末に今がある▼「まずまず」発言の後の言動も、フラフラと的外れだ。発言を撤回したかというと、「不適切であったと言っているのだから、それでいいんじゃないか」と、はっきりしない。被災地を訪問はしたが、被災者に謝罪したとの話は聞かれない▼「綸言(りんげん)汗の如(ごと)し」の例え通り、一度発せられた政治家の言葉は元に戻らない。そうした最低限の倫理も通じない今の政治の姿を、台風は暴き出した。2019・10・20


やはり阪神淡路大震災の神戸同様、平成28年(2016)の北海道豪雨や胆振東部地震などで被災した北海道。他人事ではないのでしょう。

逆に想像力の欠如した「まずまずの災厄」発言に対する当然の批判。御用新聞ではない地方紙の気概が感じられますね。わけのわからない輩に「つぶさなあかん」と云われてしまうかもしれませんが(笑)。

しかし、また台風接近の予報となっています。まぁ、当地もそうですが、被災地それぞれ、万全の準備をおこたりなく。


【折々のことば・光太郎】

其の芸術の自然淘汰は万能の「時」がしてくれる。国家は唯頗る親切な又慧眼な芸術的栽培者であればいい。

散文「帝展の彫刻について 二」より 大正14年(1925) 光太郎43歳


アカデミックな作品に埋め尽くされ、個性が感じられなかった帝展(帝国美術院展覧会)の評から。100年後の「表現不自由展」のことを予言しているようです。

頗る親切な又慧眼な」「国家」であってほしいものですが、いつの時代もそれは幻想なのでしょうか。

列島各地に大きな爪痕を残した台風19号。いまた被害の全容が見えないというのですから、恐ろしいと思います。被害の大きかった各地で、余波のようにイベントの中止なども起こっています。

光太郎と親交のあった、故・田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市。田口氏はやはり光太郎顕彰に骨折ってくれた彫刻家の高田博厚とも親交を結び、光太郎胸像を含む高田の作品を野外に展示する彫刻プロムナードが整備されたり、鎌倉市にあった高田のアトリエにあった作品などが同市に寄贈されたりしました。過日ご紹介した現在開催中の「高田博厚展2019」では、寄贈を受けた作品などが展示されています。

その関連行事として、本日予定されていた、高田と親交があり、彫刻作品のモデルになった元NHKアナウンサーの室町澄子氏による特別講演会「一人のアナウンサーと彫刻家高田博厚」が中止になったそうです。

また、同市の名物イベント「日本スリーデーマーチ」。こちらも田口氏の奔走で、同市を会場に開催されるようになりましたが、やはり今年は中止とのこと。

とにかく今は被災された方々の生活再建が最優先ですので、仕方ありますまい。


ところで高田博厚といえば、台風関連とは別件ですが、高田の故郷・福井県の地方紙『福井新聞』さんで、高田がらみの記事を光太郎にからめて報じて下さっています。

「高田博厚」五感で鑑賞できるシート4種発表 福井大院生

 近代日本を代表する福井ゆかりの彫刻家、高田博厚(1900~87年)の世界観を楽しく学べる鑑賞シートを福井大の大学院生が創作し10月12日、福井市美術館で完成発表会が行われた。五感を使った鑑賞や彫刻の制作プロセスを探る学びなど興味関心に応じた4種類を用意した。

 高田は2~18歳の多感な時期を福井で過ごした。上京直後に出会った高村光太郎の影響で彫刻や翻訳に従事。渡仏後は文豪ロマン・ロランら知識人の輪に招き入れられ、才能を開花させた。

 福井市美術館は高田の作品群を常設展示している。鑑賞シートは、常設展を生涯学習の場として多くの世代に活用してもらおうと、美術館と福井大教育学部の濱口由美教授の研究室が連携し、美術教育を学ぶ大学院生が創作した。「学習のとびら」と銘打ち、▽物語▽レシピ▽哲学▽からだ―を各テーマとしている。

 発表会には学生や美術教員ら15人が集まり、シートを創作した福井大大学院2年の高橋葵彩さん、森下由唯さん、松宮史恵さんらが狙いや使い方を説明した。
 「物語のとびら」は、高田の作品を五感で観察して想像を膨らませ、一緒に美術館を訪れた仲間と考え合う。「哲学―」は、年表に示した福井での青少年時代や幅広い交友、名言を基に、高田の心情や大切にしたいものを考え書き込める。

 「レシピ―」は石膏(せっこう)で型を作り、ブロンズを流し込むなどの高田の制作工程をカード形式にした。「からだ―」は、手足のない胴体の像「トルソ」作品の「カテドラル」について、造形的特徴を捉えてポーズをまねる活動や、友だちを彫刻に見立ててポーズを指導する学びができる。

 学生3人は「楽しい仕掛けを通して作品の背景を読み解くことで高田に親近感を持ってほしい。親子やカップルで気軽に楽しく学んで美術の敷居をなくし、美術館そのものも身近に感じもらえれば」と話していた。

 鑑賞シートは常設展で配布し、美術館のホームページからもダウンロードできる。

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それから、台風関連に戻りますが、やはり地方紙『神戸新聞』さんが、当会の祖・草野心平を一面コラムで取り上げて下さいました。 心平の故郷・いわきを含め、福島県内各地も被害が尋常ではありませんでした。かつて阪神淡路大震災で甚大な被害を受けた神戸だけに「被災」には敏感なのでしょう。

正平調 2019・10・19

福島県いわき市生まれの詩人に草野心平さんがいる。日の光に輝く雪景色を見ては「きれいだねぇ」と言っていた母は、草野さんが小学生のときに亡くなった。母を詠んだ詩がある◆「生きたい・生きる」と題した詩の一節。〈私が憶えている母の最後の言葉。/(きれいだねぇ。)は。しかし不思議に。/自分に悲しみでなく勇気をくれる。〉。寂しさに凍える心を、温めてくれたのだろう◆台風19号の洪水にのまれたいわき市の86歳、関根治さんの最期を本紙が伝えていた。背の高さまで水かさが増した室内で同い年の妻の手を握り「長いこと世話になったな」、そう言いおいて沈んでいったという◆外に向かって助けを求めたし、119番もかけていた。2人して何としてでも生きたい。生きる。その一心だったに違いない。水をかきわけて妻のところにたどり着いたときにはもう、体力は残っていなかった◆宮城県の地元紙、河北新報に寄せられた歌を思い出す。〈手をつなぐことなく過ぎし六十二年その手をつなぎ外に逃れき〉(永澤よう子)。夫婦のことだろうか。詠まれたのは8年前、あの大震災の直後である◆東日本では大雨への警戒がつづく。心のなかで被災地とつないだ手。ぎゅっと力をこめ、きょう一日を過ごす。

「きれいだねぇ」と言える風景の再現のため、がんばりましょう。皆さん、がんばっているとは思いますが、でも、がんばりましょう、としか言えません。


【折々のことば・光太郎】

憎みの裏はすぐ愛で、まことの前に敵は無い。

散文「帝展の彫刻について 一」より 大正14年(1925) 光太郎43歳


何事にも本気で当たれ、ということです。同じ文章では「一番いけないのは、取りつくろつたいい加減、ぬけぬけしたづうづうしさ」とも書いています。

朗読系イベント情報です

月の映像詩と朗読の夕べ つきおもふこころ

期 日 : 2019年10月26日(土)
時 間 : 19:00~
会 場 : 3丁目カフェ 神奈川県横浜市青葉区美しが丘1丁目10−1
料 金 : 3,500円 ワンドリンク付き

月を撮り続けているカメラマン河戸浩一郎による作品(月の映像詩)の上映会。
今回は、短編作品を数本と月への想いをより深くさせてくれる文章の朗読を交えた映像作品を上演します。
戦時中に書かれたあるお手紙と高村光太郎の詩集「智恵子抄」を題材にした朗読作品。
みのもかおりさんの朗読と合わせて、月の映像を味わっていただきたいと思います。
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映像作家の河戸浩一郎氏。今年6月にも「月の映像詩上映会 ツキミチルノコトvol.8」で、「智恵子抄」を取り上げて下さっています。

その際、朗読なさった方が「蓑毛かおり」さんとなっていましたが、今回告知されている「みのもかおり」さんと同一人物でしょう。

御都合の付く方、ぜひどうぞ。

このブログで同じ趣旨のことを繰り返し書いていますが、光太郎詩、意外と朗読に向いています。もっともっと多くの方に取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

ところが、人間が一度美しいと見たもの、これだけは永遠に「美」なのです。歴史というものは、権威に対する人間の奉仕を記録したものですから、絶えず変化していますが、その中にあつて、どんなに時代が変つても、美しいものは美しいものとして変ることがないのです。

講演会筆録「芸術と農業」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

河戸氏が取り上げられている月の美しさもそうなのでしょうし、当方など、光太郎の芸術世界(造型/文筆)などもそうだと思えます。

光太郎第二の故郷とも云うべき岩手花巻の高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」につき、地元紙『岩手日日』さんが報じて下さっています。

書でたどる創作の日々 光太郎記念館企画展 初公開資料も【花巻】 

 高村光太郎記念館の企画000展「高村光太郎 書の世界」は、花巻市太田の同館で開かれている。書額や原稿など花巻で生み出された作品を通し、光太郎の創作の日々をたどる企画。初公開資料もあり、多くの光太郎ファンでにぎわっている。11月25日まで。
 同館企画展示室に特設コーナーを設け、詩人の草野心平に贈られた色紙額「不可避」や旧山口小学校の依頼を受け揮毫(きごう)した書額「正直親切」など26点を展示。1950年に旧太田村役場改築記念として制作された「大地麗(だいちうるわし)」は7年ぶりの実物展示とあり、来館者の関心が高い。
 このうち光太郎晩年の芸術評論「書についての漫談」原稿は初めて公開される資料。「その時の当人の器量だけの書は巧拙にかかわらず必ず書ける。その代り、いくら骨折っても自分以上の書はかけない。(中略)卑しい根性の出ている書がいちばんいやだ」などの主張が印象的な直筆資料で、読みやすい文字と少ない訂正箇所、著名書作家にも言及した評論の鋭さなどが興味深い。
 各資料には制作時期や当時の逸話を記した説明書きもあり、花巻での小太郎の生活や交遊などもうかがい知れる企画展。同館では「(光太郎の)花巻時代の物がまとまって外に出る貴重な機会。作品だけでなく当時のエピソードも紹介できることが(同市)太田で開く企画展の意義」と話し、多くの来館に期待を寄せる。
 午前8:30~午後4時30分。期間中無休。一般入場料550円。問い合わせは同記念館=0198(28)3012まで。



「大地麗」の書については、花巻市さんの広報紙『広報』はなまきの10月15日号でも取り上げられています。「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」というコーナーです。
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この書を書いてもらうにあたって、そうホイホイと書を書いてくれるわけではなかった光太郎に対し、当時の高橋雅郎村長ら、村の中心人物たちは一計を案じました。「女性の頼みなら、無礙に断ることもあるまい」と、村長夫人のアサヨさんを依頼に派遣したのです。ちなみに彼の地で永らく光太郎の語り部を務められた高橋愛子さんはそのご令嬢です。その作戦が当たり、光太郎はこの書を書いてくれました。


もう1件。花巻市さんでは季刊で冊子体の広報誌『花日和』も刊行していますが、その2019年秋号。光太郎も足繁く通った大沢温泉さんが大きく取り上げられています。

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大沢温泉さん、昨年8月の台風13号で、別館的な菊水館につながる道路の法面(のりめん)が崩落、食材などの物資を搬入するのが困難となったため、宿泊棟としては休業せざるを得なくなりました。が、建物自体に被害はほとんど無く、今年6月から、ギャラリーとしての活用を始めたそうです。その名も「昔ギャラリー茅(ちがや)」。

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いずれ宿泊棟としても再開されるはずですが、当分はこういう活用のようです。やはり建物は利用されないでいると、何というか、生命力みたいなものがどんどん失われるわけで、なかなかいいアイディアですね。

来月初めにまた東北に行く予定があり、宿泊は花巻でと考え、大沢温泉さんで営業中の湯治屋さん(自炊部)、通常の温泉旅館的な山水閣さんを当たりましたら、既に満室でした。まぁ、紅葉シーズンですし、菊水館さんの分のキャパが減っているので仕方がありません。ただ、日帰り入浴を兼ねて、拝見してこようと思っております。

記念館さんも含め、皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

すべて美の発見には眼を新にするといふ事が必要である。唯ひたすらに在来の物の見方にのみ拘泥して其の美の基準からばかり物をうけ入れてゐると、知らぬまに感覚が麻痺して、眼前に呈出された美を見損ふ事がある

散文「服飾について」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

光太郎、伝統的な美の尊重も大事だと考えていましたが、新しい美の創出にも貪欲でした。

ただ、この文章、戦時下でもんぺ姿の女性達にも美を見出すべきだ、というのが趣旨で、何だかなぁ、という感じではあります。

今年6月に、相模原市にて開催された「兼古隆雄が奏でる ギター名曲の楽しみⅥ ギター独奏と詩の朗読」で共演なさった、俳優の山本學さんと、ギタリストの兼古隆雄氏によるコンサートの情報です。

中原中也記念館さんでの公演のみ把握しておりましたが、改めて調べましたところ、今日から西日本各地での開催でした。

山本學+兼古隆雄 朗読とギターの饗宴

滋賀(栗東)公演
日 時 : 2019年10月17日(木) 18:30開場/19:00開演
場 所 : 
栗東芸術文化会館さきら小ホール  滋賀県栗東市綣二丁目1番28号
料 金 : 【前売】2,500円 【当日】3,000円
主 催 : 滋賀で詩とギターを聴く会 090-3119-4816(藤田智弘)

松江公演
日 時 : 2019年10月18日(金)19:00~(開場 18:30)
場 所 : 松江市民活動センタースティックビル504  島根県松江市白瀉本町43
料 金 : 一般【前売】2,000円 【当日】2,500円 高校生以下【前売】1,000円 【当日】1,500円
共 催 : 山陰アマチュアギターネットワーク 090-8248-3437(入江史雄)
        山陰ギタ弾こ会 080-9794-9811(木村秀樹)

周南公演
日 時 : 2019年10月19日(土)19:00~(開場 18:30)
場 所 : 周南市文化会館 地下展示室   山口県周南市徳山5854-41
料 金 : 【前売】2,000円 【当日】2,500円  ※自由席
共 催 : 周南市文化振興財団  阿部ギター工房 0834-21-9171

山口公演
日 時 : 2019年10月20日(日)18:30~(開場 18:15)
場 所 : 中原中也記念館  山口市湯田温泉1-11-21
料 金 : 無料(要予約)
主 催 : 中原中也記念館 083-932-6430

下松公演
日 時 : 2019年10月21日(月)18:00~
場 所 : 下松市国民宿舎大城 一階 会議室  山口県下松市笠戸島14-1
料 金 : 【前売】2,500円 【当日】3,500円

主 催 : 今治淳子 090-7775-9023

プログラム
 第一部 山本 學 自選の詩を読む
  高村光太郎 荒涼たる帰宅   中原中也 春日狂想 骨   長田弘 イツカ向コウデ
  栗原貞子 生ましめんかな
 第二部 レオ・ブスカーリア作「葉っぱのフレディ」

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詩の朗読は6月の相模原公演(レポートはこちら)と同一のようですが、プラス「葉っぱのフレディ」。ベテラン俳優の山本さんがどのように料理するのか、興味深いところです。

それぞれお近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】


いかなる場合にも、美を忘れるやうになつたといふことは、美を忘れ得るほど精神が下り坂になつてゐるといふことである。ただ騒がしく、せつかちなのは決して精神の旺盛なことを意味しない。

散文「美を忘るる者危し」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳


バラエティー番組などでひっぱりだこの「ただ騒がしく、せつかちな」だけの芸人などには、ぜひ山本さんの朗読などがおすすめですね(笑)。

まずは、これからの紅葉シーズンを見越して、一昨年に放映された番組の再放送です。

にっぽんトレッキング100「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地」

NHKBSプレミアム 2019年10月17日(木) 午前6時00分~6時30分

北アルプスの玄関、長野・上高地。今ではバスで直行できるこの場所も、かつては徒歩で二日かけて歩いた。そんなクラシックルートを辿り、知られざる穂高岳の絶景に出会う。

穂高や槍ヶ岳の玄関口として知られる上高地。そこへ向かうかつての登山道は、今「クラシックルート」と呼ばれ、脚光を浴びている。目の当たりにしたのは、七色に染まる峡谷の山肌。日本の近代登山の父と呼ばれるウォルター・ウェストンは、それを「驚嘆すべき色彩の響宴」と評した。さらにその先には「日本で一番雄大な眺望」とたたえた絶景が待っているという。著名な登山家たちが愛した風景を辿り、手付かずの大自然を満喫する。

出演 仲川希良  語り 渡部沙弓
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信州上高地、大正2年(1913)に、光太郎と智恵子が結婚の約束を交わした地です。麓の新島々から上高地までの、岩魚止小屋、徳本峠を越えるかつてのメインルートを、モデルの仲川希良さんが2日間かけて歩くというコンセプトです。途中、光太郎智恵子のエピソードにも時間を割いて下さっています。

続いて、やはり光太郎智恵子が訪れ、光太郎詩碑などが建っている草津

ブラタモリ#146「草津温泉~最強の湯力とは?~」

NHK総合 2019年10月19日(土) 19時30分~20時15分
追記 台風関連の報道のため、11月2日(土)に放送日が変更になりました。


人気の秘密は「たっぷり・アツアツ・ピリピリ」!三拍子そろった最強の「湯力」にあり!草津温泉の謎をタモリさんがブラブラ歩いて解き明かす▽草津伝統の「湯もみ」を体験

「ブラタモリ#146」で訪れたのは群馬県の草津温泉。「草津温泉が誇る最強の湯力とは?」という旅のお題にタモリさんが迫る▽100%源泉かけ流しを実現する豊富な湯量「たっぷりの湯」。そして湯畑の源泉は52度!さらに強酸性の「アツアツ・ピリピリの湯」を生み出す本白根山のメカニズムを探る▽豊かな泉質へのこだわりが「湯もみ」を生んだ!?▽湯力が強すぎて困る!?草津の人々の悩みとは▽湯畑のデザインは岡本太郎!

出演 タモリ/林田理沙アナウンサー  ナレーション 草彅剛  テーマソング 井上陽水
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まず光太郎には触れられないとは思いますが、左の画像、タモリさんと林田アナの背後に写っている石柵に、草津に歩みし百人」ということで、記録に残る来訪者100人の名と来訪年等が刻まれ、光太郎の名も刻まれています。それが写るかもしれません。

同じ柵に、光太郎の師・与謝野鉄幹/晶子夫妻の名も刻まれています。

その晶子系でもう1件。

朝の!さんぽ道 「秋に行きたい街!勝浦(2)」旅人:中山エミリ

テレビ東京 2019年10月22日(火)  7時35分~8時00分

“新鮮伊勢海老”に“獲れたてサザエ”「秋に旬の食材」や季節の絶景を求めて、「秋に行きたい街」千葉県・勝浦を歩きます!

『秋に行きたい街』さんぽ!2日目も港町・勝浦を歩きます▼早朝の漁港さんぽで発見!大漁の伊勢海老にBIGサザエ、更には…リアルハトヤ!?▼朝獲れ伊勢海老…丸ごと使った絶品うどん、そのお値段に驚き!?▼江戸時代に活躍した名工「波の伊八」の彫刻に影響を受けた「超有名人」とは?▼与謝野晶子ら多くの文豪に愛された景勝地…その絶景に感動!

出演者 中山エミリ

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

今はすべてが根源から起る。素朴原始に平然たれ。

散文「新しき美について」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

太平洋戦争中の文章で、全体の趣旨は日本の伝統文化に顕現せる精神で非常事態にあたるべし、的なきな臭い内容なのですが、部分的に見ればいいことを書いている箇所も散見されます。

昨日は、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった、歌人・水野葉舟の子息にして、衆議院議員を永らく務められ、総務庁長官、建設相などを歴任された水野清氏のお別れの会に行って参りました。
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会場は、成田ビューホテル。氏の地元で、当方自宅兼事務所から車で30分足らずの場所です。
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亡くなったのは7月末で、葬儀は親族の方々等で既に執り行われていました。参列者が多くなると予想される場合には、このように葬儀は内輪で済ませ、改めてお別れの会というスタイルが定着してきたようです。先月には、出版社・二玄社さんの創業者、渡邊隆男氏のそれが青山斎場でありました。

昨日も、大島衆議院議長ご夫妻をはじめ、東洋大学理事長・安斎隆氏、堂本暁子前千葉県知事など、500名以上の参列があったようです。
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水野氏、光太郎が最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため岩手花巻郊外旧太田村から帰京した昭和27年(1952)当時、NHKさんに勤務されており、たびたび光太郎終焉の地となった中野アトリエを訪問され、光太郎日記にその名がたびたび記されています。

昭和28年(1953)の日記には、「夜十一時過水野さん印バ沼のウナキ白焼持参」とあります。昔風に濁点が省略されていますが「ウナキ」は「ウナギ」、光太郎の好物の一つでした。「十一時過」というのが豪快ですが、水野氏、一刻も早く光太郎に届けたかったのではないでしょうか。

父君の水野葉舟が成田に移り住んだのは、関東大震災の関係もあったようで、光太郎が日本画家・山脇謙次郎のために建ててやった開墾小屋が空いたため、そこに入ったのが始まりです。光太郎はしばしば葉舟の元を訪れ、近くの三里塚御料牧場で見た光景を元に、詩「春駒」(大正13年=1924)を作ったりもしました。

そのあたりにも触れられた、父君・水野葉舟歿後30年記念の企画展示が、昭和52年(1977)、成田山新勝寺内の成田山資料館で開催されました。
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左はその図録の表紙、右は清氏による父君の回想文です。

こうした光太郎とのご縁から、清氏、連翹忌に30回ほどご参加下さっていました。最後のご出席は、平成27年(2015)。この際は久しぶりにお見えになられたということもあり、スピーチをお願いしました。当方、これが氏と直接お会いした最後となりました。
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その水野氏のお別れの会に参列し、自宅兼事務所に帰って、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフの方とメールでやりとりしている中で、花巻の佐藤進氏が亡くなったと知らされ、驚きました。
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進氏、父君は佐藤隆房。昭和8年(1933)に歿した宮澤賢治の主治医でもあり、賢治の父・政次郎ともども、昭和20年(1945)4月の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招き、その後も物心両面で光太郎を支えてくれた人物です。

隆房は光太郎歿後に結成された花巻の財団法人高村記念会初代理事長となり、進氏は父君が亡くなったあと、そのあとを継がれて永らく彼の地での光太郎顕彰に骨折って下さいました。

光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に移る直前の1ヶ月ほど、佐藤邸に厄介になっていたこともあり、進氏も光太郎と交流がありました。
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左が進氏です。

父君歿後には、父君の書かれたものをまとめられたり、ご自身でも『賢治の花園―花巻共立病院をめぐる光太郎・隆房―』(平成5年=1993)という書籍を著され、貴重な光太郎回想を残されました。
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脳梗塞で倒れられてからも、毎年5月15日の高村祭(光太郎が花巻に向けて東京を発った記念日に、郊外旧太田村の山小屋敷地で開催)に車椅子で参加下さり、気丈にご挨拶なさったり、同市の市民講座の際に、光太郎が起居したご自宅離れの公開を快く受け入れて下さったりと、いろいろありがたい限りでした。

水野氏ともども、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

詩を書く場合に、昔の美しい言葉に生命をふき込んで使用するのもいゝが、日常語に、思ひがけぬ美しさ、気のつかぬ美しさのある事を思ひ、詩の中に日常語を取入れて、そこに美を見出したいと思ふ。

談話筆記「清浄簡素の美」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

水野清氏、佐藤進氏、それぞれ、光太郎の言う「清浄簡素の美」に共鳴されていたのだと思います。

台風19号、列島各地に大きな爪痕を残しました。亡くなられた方には深く哀悼の意を表させていただきます。

千葉県北東部に位置する自宅兼事務所周辺、先月の台風15号の際と比べ、風雨は強くありませんでしたし、停電にもなりませんでした(先月の停電は54時間続きました)ので、胸をなで下ろしましたが、市内を流れる利根川が氾濫危険水域を超えたということで、予断を許しません。ただ、自宅兼事務所は利根川から数キロ離れている高台ですので、とりあえず大丈夫だろうとは思っています。

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光太郎・智恵子・光雲ゆかりの全国各地を廻っている身としては、被害報道に接し、「ああ、あの場所ら辺、こないだ通ったよな」「えっ、あそこの近くのあんなところもか」「うわー、××川もか」という感じです。

しかし、我々は繰り返される災害を乗り越えてきた国民です。昨夜、我々を勇気づけてくれる素晴らしい闘いを見せてくれ、W杯決勝トーナメント進出を決めたラグビー日本代表のように、がんばりましょう。


さて、新刊書籍をご紹介します。

危険な「美学」

2019年10月12日 津上英輔著 集英社(インターナショナル新書) 定価820円+税

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「美」を感じる感性そのものに潜む危険

芸術が政治に利用されるという話は数多くありますが、本書は人間にとっての三大価値である真・善・美の「美」そのものに実は危険が潜むことについて著者独自の理論で指摘した、画期的な一冊です。
 高村光太郎の戦意高揚の詩やジブリアニメの「風立ちぬ」で描かれた「美しい飛行機作り」という行為に潜む危険。トーマス・マンの『魔の山』における結核患者の描写や、特攻隊の「散華」を例に、イメージを負から正へ転換させてしまう感性の驚くべき反転作用について解説します。
 「美」を感じるとはどういうことなのか? 誰もが有する「感性」がもたらす危険を解き明かします。


目次

 まえがき
  序章 美と感性についての基礎理論
   第一節 真善美の思想
   第二節 「十大」ならざる「三大」
   第三節 「一大」ならざる「三大」
   第四節 真・善・美と知性・理性・感性
   第五節 美と芸術の自律性
   第六節 美とは何か
   第七節 美の恵みと危険
 第一部 美は眩惑する
  
第一章 「美に生きる」(高村光太郎)ことの危険
   第一節 戦争賛美の詩「必死の時」
   第二節 詩の分析
   第三節 光太郎の戦後
   第四節 「美に生きる」こと
   第五節 「悪かつたら直せばいい」
   第六節 光太郎を越えて
   第七節 眩惑作用がもたらす美への閉じこもり
   第八節 高村山荘
   第九節 光太郎の戦争賛美と智恵子

  第二章 アニメ『風立ちぬ』の「美しい飛行機」
   第一節 『風立ちぬ』における「美しい」の用法
   第二節 美の働き
   第三節 戦闘機と美
   第四節 夢
   第五節 「美しい夢」の危険
   第六節 美の眩惑作用
 第二部 感性は悪を美にする
  第三章 結核の美的表象
   第一節 健康と美
   第二節 非健康の感性化
   第三節 小説『魔の山』
   第四節 文豪が描いた結核患者像
   第五節 隠喩理論
   第六節 美的カテゴリー論
   第七節 感性の統合反転作用理論
   第八節 感性の特異な働き
   第九節 感性の危険
  第四章 「散華」の比喩と軍歌〈同期の桜〉
   第一節 「散華」の比喩
   第二節 美化と美的変貌
   第三節 特攻と「散華」
   第四節 軍歌〈同期の桜〉
   第五節 自ら歌うということ
   第六節 音楽は他人ごとを我がこととする
   第七節 「散華」と感性の統合反転作用
   第八節 メコネサンス理論
   第九節 美と感性の危険性
 あとがき
 参考文献


著者の津上氏は、成城大学さんで教授をお務めの美学者。目次を概観すればある程度の方向性が見えると思いますが、特に戦時に於ける「美」が、利用されるだけでなく、自ら暴走を始める危ういものであることを、光太郎を含め、さまざま例を挙げながら実証しようとする試みです。

まだ「まえがき」と、光太郎の章しか読んでいないのですが、他の章との関連性も踏まえないといけない感じですので、なるべく早く読了しようと思っております。

その光太郎の章、メインで取り上げられているのは詩「必死の時」(昭和16年=1941)。津上氏、「文学には疎い」と謙遜されつつも、その他の詩や講演等を含め、丁寧にかつ説得力溢れるおおむね妥当な分析が為されています。どうでもいい枝葉末節に拘泥しない姿勢、それから光太郎に対するリスペクトがきちんと表明されており、好感が持てます。何より美学者として、「美」とは何かという命題への挑戦が根底にあり、そういった部分ではなるほど、と唸らせられました。

後半、光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)及び隣接する高村光太郎記念館さんを訪れられてのレポート的な内容にもなっています。津上氏、何度も訪問されたそうで、ありがとうございます。光太郎を語る上で、あの地を実際に見ていないというのは、その資格を放棄しているようなものだと思うのですが、そう考えないエラいセンセイもいるようで(というか、いるんです(笑))、堂々と「私はまだ彼の地を訪れていないが」と臆面もなく断った上で机上の空論を展開している人もいます。

津上氏、山荘の保存のために建設された套屋について、この地の先人の思いなど、正しく考察されています。ただ、ちょっと勘違いがありましたので、指摘させていただきます。套屋内部の説明パネルについてです。「光太郎がこの地にたどり着いた経緯が説明されていない」と、まぁ、その通りなのですが、あのパネルは元々同じ花巻市内の宮澤賢治記念館さんで、10年ほど前でしたでしょうか、光太郎展的なものを開催した際の説明パネルを終了後に貰ってきたものでして、山荘そのものの説明パネルとして作ったものではないのです。その光太郎展で山荘に入った経緯があまり語られなかったという瑕疵はありますが。ちなみにそちらの展示には当方、関わっておりません。

そう思っておりましたところ、さらに読み進めると、バリバリ当方が書いた高村光太郎記念館さんの展示説明パネルにも言及(笑)。「戦時の光太郎についての追求が甘い」とのことで。この点は「その通りです」としか言いようがありません。まぁ、はっきり言うと、当方、「忖度」しました。右翼の街宣車に押しかけられても困りますし、先般の「表現の不自由展」のような事態は避けたかったので。それを甘いと云われればその通りです。

それにしても、一般の方のブログ等では拝見したことがありましたが、きちんとした書籍であの説明パネルについて言及されたのはおそらく初めてで、驚きました。

さて、『危険な「美学」』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

芸術心と云ふものは物を味はふ所からはじまるので、物を味はひ生活を味はひ――と云ふことは何かと云ふとどんな物の中からでも良さを見付け出してどんな詰まらない所からでも意味を見付け出し、美しさを見付け出す、そこが芸術と云ふものが人の考へて居る程唯付け足りの装飾や見て呉ればかりでない根本の力となる性質だらうと思ふのであります。

談話筆記「現下芸術政策の根本目標並当面の緊急事項等に就いて」より
                   昭和15年(1940) 光太郎58歳


この年開催された、大政翼賛会臨時中央協力会議第四委員会での発言速記から。

正論ではありますが、実にきな臭い。こういう所にも、津上氏の指摘する「危険」さが表れています。

今日は新聞のみですが……。

まず『日本経済新聞』さん、10日夕刊の掲載です。

読書日記 ナレーター 近藤サト(2) 「緑色の太陽」 芸術の核心を見る手助け

美術史や美術論が好きだ。といっても評論家や研究者による論考はいまいち肌に合わず、実作者の言葉にひかれる。一方でやはりアーティストは文章より作品のほうがすばらしいのが悩ましい。

そんな中で彫刻家であり詩人の高村光太郎による芸術論『緑色の太陽』(岩波文庫)は異彩を放つ。初めて手にしたのは90年代後半だったか。一読して私が覚えたのは、憤りだった。なぜこれを、小中学校で教えてくれなかったのかと。
表題作「緑色の太陽」に光太郎は記す。「僕が青いと思ってるものを人が赤だと見れば、その人が赤だと思うことを基本として、その人がそれを赤として如何(いか)に取扱っているかをSCHAETZEN(評価)したいのである」「人が『緑色の太陽』を画いても僕はこれを非なりとは言わないつもりである。僕にもそう見える事があるかも知れないからである」
太陽を緑色で描いていい。光太郎がこれを記したのは明治43年(1910年)。私の祖父母の時代に存在した論考だ。それなのに、私が幼いとき誰もそんなことは言わず、太陽は赤と刷り込まれ、芸術の核心から遠ざけられた。大人になり自分で探さなければ「緑色の太陽」にたどり着けないなんてあんまりだ。
光太郎の芸術論は、わかっているけれど言語化できないことを鮮やかに文章にする。結論を押しつけるのではなく、違う視点を差し出して、ものを見る手助けをしてくれる。もしかしたら光太郎は自信のない、私たちによく似た人物だったのではないか。居丈高な評論とは対照的な筆致から、そんなことも感じる。

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岩波文庫の『緑色の太陽』。当会顧問の北川太一先生による編集・解説で、昭和57年(1982)に刊行されました。光太郎生前に『緑色の太陽』という書籍があったわけではなく、光太郎の評論・エッセイから30篇ほどをセレクトして一冊にまとめたものです。標題は明治43年(1910)の雑誌『スバル』に発表された同名の評論から。「日本初の印象派宣言」と評されたり、光太郎と出会う前の智恵子がこれを読んで感激したりといったものです。001

近藤さん、テレビ東京系の美術番組「美の巨人たち」でナビゲーターを務められるなど、美術にも造詣が深く、光太郎の言わんとする点をよく押さえて下さっています。

一読して私が覚えたのは、憤りだった」。えっ、何でだよ! それがすぐ「なぜこれを、小中学校で教えてくれなかったのかと」。巧い構成です。

さて、岩波文庫『緑色の太陽』。岩波さんのサイトで調べてみましたところ、「在庫なし」扱いでした。古書市場では普通に入手できますが、これを機に重版を希望します。

文庫の重版といえば、新潮文庫版の『智恵子抄』、過日、都内の新刊書店で令和になってからの重版を見かけました。百二十何版だったかでした。ありがたい。

もう1件。過日の岩手花巻「高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の件を、地元紙『岩手日日』さんが報じて下さっています。 

詩人、彫刻家遺徳しのぶ 光太郎記念館講座 受講者が詩碑巡り

【花巻】高村光太郎記念館講座「詩と林檎(りんご)のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」は7日、花巻、北上両市内で開かれた。高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表=千葉県香取市=を講師に、受講者が両市に建つ詩碑を見学。本県に大きな足跡を残した詩人、彫刻家の遺徳をしのんだ。
 光太郎作品に親しむ男女27人が受講。花巻市花城町のまなび学園を発着点に、光太郎の文字を拡大して刻まれた「開拓に寄す」太田開拓三十周年記念碑=同市太田=や「ブランデンブルグ」詩碑=北上市二子町=などを現地確認した。
 名称や所在地、建立年などが示された資料が配付されたほか、小山代表が各地で詳細に説明。花巻市双葉町内に建つ「松庵寺」詩碑の説明では「(光太郎は)戦争中は(妻の)智恵子に関する詩を書かなかったが、戦後になって初めて書いたのがこの『松庵寺』。石碑もいつかは朽ち果ててしまう物であり、次世代に語り継がなければならない。ゆかりの地である岩手の皆さん、よろしくお願いします。」と呼び掛けていた。
 専門家の解説付きで詩碑を見回る貴重な機会だけに、どの受講者も満足そうな表情。
 同市豊沢町の照井富士子さん(67)は、「きのう詩集を一冊読み終えたばかりで、改めて感動した。ホテルでの昼食もおいしかったし、とても楽しかった。来年もぜひ参加したい」と顔をほころばせていた。

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「来年」があるかどうか分からないのですが(笑)。

書かれたのは顔見知りの記者さん。さも同行したかの如き書きぶりですが、最終見学地の松庵寺さんで待ちかまえていてそこだけでの取材でした(笑)。まぁ、受講者27名プラス市役所の方々、高村光太郎記念館のスタッフの皆さんも数名ずつ同行し、バスは満席、バスの後ろから乗用車一台での移動でしたし、時間も長かったのでそんなもんでしょう。

それにしても台風19号。1週間ずれていたら、と、ぞっとしました。前日のレモン忌にしてもこの碑巡りにしても、やはり雨男・光太郎のせいで(笑)、途中、パラパラと雨に見舞われましたが、パラパラ程度で助かりました。


【折々のことば・光太郎】

からだの中で養つたもの、うまく言ひ現はせないが、何といふか、全身を搏つやうなもの、さうだ、全身から湧きあがり燃えあがるものでなければだめだ。

談話筆記「芸術する心」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

談話筆記だけに光太郎の生の声がよく表されていますね。

このブログ、どこかへ出かける際には出かける前の未明のうちに書いて投稿しています。今日はどこに出かける予定もないのですが、過日の台風15号による千葉大停電の例もあるので、やはり未明のうちに投稿してしまいます。

3件ほど。

まず、NHKさんのローカルニュースから。

近代~現代彫刻の代表作集め展示

明治から昭和初期にかけての近代彫刻から現代彫刻までの日本の立体造形の代表作を集めた展覧会が、熊本市の美術館で開かれています。

熊本市現代美術館で開催中の「きっかけは「彫刻」。」と題された展覧会は、日本で彫刻が誕生した明治から昭和初期までの近代彫刻と、それらが発展していった現代彫刻までの代表作あわせて60点が集められ、それぞれの時代を象徴する作品が楽しめます。

このうち、大正7年に制作された高村光太郎の「手」は、「考える人」で知られる彫刻家ロダンの手法を取り入れたもので、体全体ではなく、体の一部分だけで生命の躍動感を表現していて、当時としては画期的な作品です。

また、昭和13年に制作された平櫛田中の「鏡獅子試作頭」は、当時としては珍しく、ブロンズに彩色を施した作品で、歌舞伎役者をモチーフにしています。

このほかにも、ブロンズや木材といった伝統的な素材ではなく、不用品や鉄といった日常の生活で使用するもので作品を構成する現代彫刻も並べられています。

熊本市現代美術館の学芸事業班の冨澤治子主査は「時代を代表する彫刻を、360度さまざまな角度から見ることができるので、時代ごとの題材や素材の変化を楽しんでもらいたいです」と話していました。

展覧会は、来月24日まで開かれています。


熊本市現代美術館さんで開催中の企画展「2019年度国立美術館巡回展 東京国立近代美術館所蔵品展 きっかけは「彫刻」。―近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」についてです。

やはり目玉の一つということで、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が大きく取り上げられました。上記文章はWEB上で換骨奪胎してのものなのですが、動画を見るとさらに詳しく解説が為されています。

他に木彫「鯰」(大正15年=1926)も出ていますし、ご都合の付く方、ぜひどうぞ。

その「鯰」からの連想で、群馬県の地方紙『上毛新聞』さん。一面コラムです。

2019/10/10【三山春秋】〈鯰よ、/お前は氷の下で...

 ▼詩人、彫刻家、高村光太郎の詩集『智恵子抄』に収められた「鯰」(1926年)である。光太郎がこの詩とともに制作した生命感あふれる木彫小品「鯰」もまた、見るたびに強い感銘を受けてきた

 ▼伊勢崎市出身の鋳金工芸家、森村酉三(1897~1949年)の鋳金によるその作品を前にして浮かんだのは、光太郎の詩だった。県立近代美術館の企画展「没後70年 森村酉三とその時代」に展示されている最晩年の「鯰」だ。愛嬌あいきょうたっぷりの表情、伸びやかな尾の表現力に驚かされた

 ▼帝展で入選を重ね、本県の美術界の基礎を築いた功績を持ち、高崎の白衣大観音の原型を制作、前橋市の水道共用栓のデザイン、名士の胸像などを手掛けた人物として知られていた。しかし、それはごく一部だという

 ▼森村の全体像を紹介する同展では、県内外の施設や個人所有だった鳥や動物の置物などの 小品も多数集められた。小さな生き物に寄せる、温かみのある眼差しから、光太郎と重なる「詩魂」が伝わってくる

 ▼52歳という若さで亡くなったことなど、さまざまな理由で埋もれてきた森村の業績が正当に評価されるきっかけになればと願う。

執筆者氏、光太郎実弟の髙村豊周の作品が出品されていることに気付いているのかいないのか、群馬県立近代美術館さんで開催中の「没後70年 森村酉三とその時代」展の話で、光太郎を引き合いに出して下さいました。

最後に地方紙『伊豆新聞』さん。こちらは長いので引用はしません。

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「新・埋もれ火を訪ねて」という、忘れられかけている郷土の先人を紹介する連載のようです。紹介されているのは、下田出身の詩人・鈴木白羊子。光太郎と交流のあった詩人で、そのあたりも記述して下さいました。

確認できている鈴木と光太郎の関わりは、3点。

まず、記事にある詩誌『向日葵』。光太郎は大正13年(1924)の複数の号に、ベルギーの詩人エミール・ヴェルハーレン(光太郎の表記はヹルハアラン)の訳詩を寄せています。中にはヴェルハーレンが妻マルト・マッサンとの愛の日々を謳い『智恵子抄』所収の詩篇成立にも影響を及ぼしたと考えられる「午後の時」の一部も。

それから、やはり記事にもありますが、昭和17年(1942)、鈴木の詩集『太陽花』に、光太郎が序文を寄せています。

そして、こちらは光太郎の名は寄稿者としては割愛されていますが、詩誌『太陽花』(詩集『太陽花』があって詩誌『太陽花』もあり、ややこしいのですが)。確認できている光太郎の寄稿は2回、そのうち昭和2年(1927)9月の第10号に掲載された「ブレエクのイマジネエシヨン」という散文は、『高村光太郎全集』に掲載されています。ところが、それに先立つ同じ年1月発行の第2巻第1号に発表された「栗色の顔をした野の若者よ」(ホイットマン詩の翻訳)、これが幻の作品です。当該の号が神奈川近代文学館さんに所蔵されているのですが、その掲載ページだけ破り取られています。このブログを開設した頃、平成24年(2012)にその件を書きました

情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。


【折々のことば・光太郎】

ムーヴマンといふのは、文字通り、「動き」の事。動きの無い生物の無いやうに、ムーヴマンの無い、生きた絵画彫刻も無い。

散文「ムーヴマンとは何か?」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

「ムーヴマン」は仏語の「 Mouvement」。光太郎が考えた「動勢」の語が訳語として広くあてられています。静物画でも、風景画でも、優れた作品にはそこにそれが感じられるとのこと。逆にどんなに激しいポーズを取っていても、それが感じられない死んだ彫刻もあるとも。

わかるような、わからないような、ですが(笑)。

台風19号の影響が心配なのですが……。

まず、仙台からコンサート情報。

第19回 華 日本の詩歌の会

期 日 : 2019年10月13日(日)
会 場 : 
宮城野区文化センターパトナホール(コンサートホール)
      仙台市宮城野区五輪2-12-70
時 間 : 14:00開演
料 金 : 2,000円 全席自由

出 演 : 
 ソプラノ 相澤裕子 岩瀬ゆう子 北村裕子
 メゾソプラノ 佐藤明子 佐藤園子 関本愛
 バリトン 原田博之
 ピアノ 海鋒美由紀 古賀望子 松山裕美子 吉川真理

曲 目 : 夢みたものは さくら伝説 青い星 「智恵子抄」よりレモン哀歌
      くちなしのはな みぞれに寄する愛の詩  
      三好達治の詩による四つの歌  他 

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「「智恵子抄」よりレモン哀歌」がプログラムに入っています。どなたの作曲のものなのか、不明なのですが……。

続いて、女川町。

第30回 1000年後の命を守る女川の子どもたちを伝える会

期 日 : 2019年10月13日(日)
会 場 : JR石巻線 女川駅周辺

時 間 : 10:00~11:30
料 金 : 無料


主な日程 :
 集合(女川駅前) 開会/日程説明 これまでの活動の紹介 石碑見学 閉会

参加費なし、誰でもご参加いただけます。女川いのちの石碑や、その活動にご興味のあるかたぜひご参加ください。
主催:いのちの石碑を作る女川の子どもたちを支える会・女川1000年後の命を守る会e115c91b
このブログでたびたびご紹介してきました、かつて女川町に建っていた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぎ、女川町内各所に、かつて女川一中の生徒だった若者たちにより、「100円募金」で建てられ続けている「いのちの石碑」。東日本大震災の津波到達地点より高い場所に設置され、避難の際のランドマークとして活用される想定になっています。


気がつけばこのブログでのご紹介も40件近くとなりましたので、新たに「いのちの石碑」というカテゴリを作りました。ライブドアさんのブログに移転しましたところ、カテゴリの編集が容易になったもので。下の方にスクロールしていただくと、カテゴリ別にリンクが貼ってあります。ご覧下さい。


それにしても、台風19号、気になります。それぞれ無事に開催できるといいのですが……。


【折々のことば・光太郎】

詩歌はうたひ棄てるがいゝ。彫刻絵画は作つたら投げ出してしまふがいい。作品が生きると生きないとは作品自体の持つ生活力による事で人の力によるのではない。その分らない芸術品が幾星霜を経てゐるうちに人間の心に浸透してゆく趣は霊妙不思議だ。

散文「芸術品」より 大正13年(1924) 光太郎42歳


「生活力」=「生命感」ということでしょうか。それがあるものは残るし、ないものは滅びるし、それは歴史の審判に待つしかない、と、まぁ、作った当人としてはそうなのでしょうが、次の世代の者としては、こういう素晴らしい芸術があるんだ、と語り継いでいかねばなりません。そういう意味では「人の力」も必要です。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻旧太田村の山小屋(高村山荘)と隣接する、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展です。

高村光太郎 書の世界

期 日 : 2019年9月27日(金) ~11月25日(日) 会期中無休
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30 ~ 16:30 
料 金 : 一 般 550円/高校生・学生 400円/小・中学生 300円
        ※団体入場(20名以上)は上記から一人あたり100円割引

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。戦火の東京から花巻へ疎開し、その後太田村山口へ移住した光太郎は自らの戦争責任に対する悔恨の念がつのり、あえて不自由な生活を続け、彫刻制作を一切封印しました。
 山居生活では文筆活動に取り組み、数々の詩を世に送り出す一方で、花巻に大小さまざまな『書』を遺しました。
 『乙女の像』制作のため帰京した後、晩年の病床でも数々の揮毫をした光太郎は、死の直前に自らの書の展覧会の開催を望んでいたことが日記に残されています。
 この企画展では彫刻・文芸と並び、光太郎・第三の芸術とも言われる『書』を通じて太田村時代の造形作家としての足跡をたどります。
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同館では、一昨年にも同名の展示を行いました。その際は花巻市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館さん、萬鉄五郎記念美術館さん、花巻市総合文化財センターさん、花巻市博物館さん、そして高村光太郎記念館さんの5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試み「ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環でしたが、今回は単独開催のようです。

10月7日(月)、花巻市・北上市で行われた市民講座「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の最中、トイレ休憩で同館駐車場に立ち寄った間隙に、急いで写真を撮らせていただきました。
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展示品の目録がこちら。
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一昨年の展示とだいたいかぶっていますが、そうでないものも出ています。いずれにしても優品揃いです。

「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」で見て回った石碑類に刻まれた碑文の元となった書も多く、同講座参加者の方にはぜひ併せて見ていただきたいものですし、その他の皆さんもぜひ足を運んで下さい。

当方、来月初めにまた改めて拝見に伺います。


【折々のことば・光太郎】

僕等が一番望みを掛けて居るのは、次の世代を形造る今の少年である。今の人はこの子供を自分達より大事にしなければならぬ。さうしてそれに自分達が教育して欲しかつたことを教育してやつて、次の代を立派にしなければ駄目である。
談話筆記「戦後の我が芸術界」より
 大正8年(1919) 光太郎37歳

「戦後」といっても太平洋戦争ではなく、第一次世界大戦を指しています。師・与謝野夫妻や光太郎も関わった、文化学院さんなどの大正自由教育運動などを念頭に置いた発言でしょう。

過日、同じ時期に書かれた「教育圏外から観た現時の小学校」という散文を見つけました。光太郎の教育論が端的に示されています。高村光太郎研究会さんから来春刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』にてご紹介するつもりでおります。

東北レポートの2回目です。

10月6日(日)、智恵子を偲ぶレモン忌が催された福島二本松をあとにして、その日のうちに岩手花巻まで移動しました。翌日朝から夕方まで、市民講座の講師を仰せつかっていたためです。
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講座のタイトルが「高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」。わざわざ当方の名なぞタイトルに入れる必要もないのですが、知らぬ間にそういうことになっていました(笑)。花巻市内と隣接する北上市で、光太郎ゆかりの石碑等をバスに乗って見て歩き、それぞれの石碑等の解説を当方が行うというツアーです。

花巻に着いたのが午後9時頃。もともとそのくらいの予定でしたし、集合場所である市の施設・まなび学園さんが市街地中心部ということで、宿泊は普段の温泉峡ではなく、在来線花巻駅前のかほる旅館さん。昔ながらの商人宿といったたたずまいです。講話を仰せつかった3年前の賢治祭の時などもかほる旅館さんでした。
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市役所の方がかほる旅館さんまで車で迎えに来て下さり、集合場所のまなび学園さんへ。ここから参加者の皆さんとバスに乗り込み、いざ、ツアー開始。
 
走り出してすぐの当方挨拶では、光太郎という人物の人となりの一端に触れていただくとともに、これから巡るそれぞれの石碑等の建てられた背景、それぞれの建立に関わった人々の胸の内にも思いを馳せていただきたい、的な話をさせていただきました。

さて、最初の目的地、花巻北高校さん。旧制花巻中学校の後身です。有名な卒業生は元NHKさんの名物アナ、故・高橋圭三さん、それからご卒業はされていないということですが、ミュージシャンの故・大瀧詠一さんなどなど。高校さんと光太郎に直接の関わりはありませんが、光太郎の精神に学んでほしいという昭和51年度(1976年度)の卒業生保護者の皆さんにより、高田博厚作の光太郎胸像(原型・昭和34年=1959)、台座に光太郎詩「岩手の人」(昭和24年=1949)の一節が刻まれています。
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続いて、花巻温泉の「金田一国士頌碑」。昨年、国の登録有形文化財に指定された旧松雲閣別館の、道をはさんだ向かいにひっそり建っています。
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グループ企業としての花巻温泉社長だった金田一国士の業績を称える碑で、金田一の没後10年の昭和25年(1950)に建立。碑文の詩「金田一国士頌」を光太郎がこのために作りました。光太郎生前唯一の、オフィシャルな光太郎詩碑です。ただし、書は光太郎の筆跡ではなく金田一の腹心でもあった太田孝太郎の手になるもの。太田は盛岡銀行の常務などを務めるかたわら、書家としても活動していました。

下記は除幕式の集合写真。左の方に光太郎も居ます。ガタイがいいのですぐわかります(笑)。
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その後、豊沢川にかかるかつて光太郎も渡ったであろうことから命名された「高村橋」を渡り、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)のある旧太田村へ。ここで高村山荘、そして隣接する高村光太郎記念館さんの駐車場にまずバスを駐め、10分のトイレ休憩。

その10分間に当方はダッシュで高村光太郎記念館さんへ。
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また来月初めにゆっくり見に行きますし、明日、詳しくご紹介しますが、企画展「高村光太郎書の世界」が開催中です。

さて、山荘敷地内にも光太郎関連の碑が4つあるのですが、時間の関係で割愛。山荘の土地を提供してくれた駿河重次郎が、戦死した子息の追善供養のため、かつて光太郎に貰った書を昭和32年(1957)になって石に写して建てた「金剛心」碑を見学。
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この日初めて、光太郎筆跡による碑ということになります。

続いて、山荘入り口の旧山口小学校。石ではなくコンクリート的な素材ですが、「正直親切」碑。かつてここにあった山口分教場が小学校に昇格した際に書いてあげた校訓です。同じ筆跡を使った碑が、光太郎の母校・東京都荒川区立第一日暮里小学校さん、それから光太郎を敬愛していた故・田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市の新宿小学校さんにもあり、そういう部分ではちょっと珍しいのではないかと思います。
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さらにこの地区の共同墓地。「金剛心」碑同様に駿河翁の肝いりで、光太郎の書を写した「皆共成仏道」碑。訓読すれば「皆共に仏道と成る」。「金剛心」ともども仏典由来の言葉です。昭和34年(1959)の建立です。
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この周辺が林檎畑。講座のタイトル「詩と林檎のかおりを求めて」の通りでした。
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旧山口小学校跡地の向かいにある「太田開拓三十周年記念碑」。昭和51年(1976)の建立で、光太郎詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)の一節が刻まれています。曰く「開拓の精神を失ふ時、 人類は腐り、 開拓の精神を持つ時、 人類は生きる」云々。まがりなりにも農作業に従事していた光太郎の言葉だからこそ、重みがありますね。

バスに乗り込み、北上市へ。午前中最後の見学地・後藤地区の平和観音堂さん。
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当地で教師をしていた高橋峯次郎という人物が、戦没者供養のために建てたもので、ここの一角に光太郎碑が建っています。高橋は自らも日露戦争への従軍経験を持ち、その後は永らく教師を務めましたが、その間の教え子約500人が出征、約130人が遺骨で帰ってきたそうです。その霊を弔うため、寄付も集めず自費で観音堂の建設を発願、昭和27年(1952)、光太郎に本尊の彫刻を依頼しました。しかし光太郎は彫刻制作を封印している最中で、代わりに観音讃仰の詩を書いた書を高橋に贈り、高橋が石碑にしたというわけです。くわしくはこちら

こちらの一行が着いた時、地元小学生の一団がやはり見学に訪れていました。ただし、光太郎碑というより、高橋の事績の学習のようでした。ついでで結構ですので(笑)、光太郎との関わりなども教えていただきたいものです。

ちなみにこちらは個人が建てたものではありますが、光太郎生前唯一の、光太郎の筆跡になる光太郎詩碑です。

その後、北上駅近くのホテルで昼食。お腹もふくれたところで午後の部に突入。同じ北上市の飛勢城趾に向かいました。

平成3年(1991)、竹下内閣の際のふるさと創成事業で全国各市町村に配られた1億円を使い、北上市では平成3年(1991)、市内6ヶ所に文学碑を建立しました。その内の一つがここにある光太郎詩碑です。刻まれているのは詩「ブランデンブルグ」(昭和22年=1947)の一節。昭和25年(1950)に光太郎がこの近くで講演をした際にこの詩を朗読したというゆかりがありますし、「北上平野」の語も使われています。

ただ、以前も書きましたが、建立当初は碑のある場所からも非常に素晴らしい展望だったのが、30年近く経って繁茂した草木が展望を妨げ、碑のある場所からは何も見えなくなり、碑自体も埋もれる寸前です。下記は碑の前の展望台から撮影しました。
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続いて花巻市に戻り、文化センターでトイレ休憩。ここで、予定を変更し、急遽、ぎんどろ公園の宮澤賢治の「早春」詩碑も見学しました。
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この日、二番目に訪れた花巻温泉の「金田一国士頌」碑と、どうやら同じ石材から切り出された双子の碑、という話を「金田一国士頌」碑の前でしたところ、時間もあるし、ついでに見ておきましょうということになった次第です。林檎を包丁でスパッと半分に切った状態を思い浮かべていただけると話が早いのですが、なるほど、二つの碑を碑面で合わせればぴったりくっつきそうです。

次の目的地はそこからほど近い石神地区の林檎園。当地の林檎栽培先駆者の一人、阿部博を顕彰する碑が建っています。
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刻まれているのは光太郎の筆跡で、阿部のために光太郎が即興で作った詩「酔中吟」。

 奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に
 阿部のたいしよが手しほにかけた 国光紅玉デリシヤス


七・七基調の俗謡調ですので、最後は「デリシャス」と読まず「デリシヤス」と五音で読めば調子がいいようです。「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。親しみを込めてそう称したわけですね。阿部は盛岡高等農林学校で賢治の教えを受け、のち、賢治の主治医で太田村に移る直前の光太郎を自宅離れに住まわせてくれた佐藤隆房医師の家で、光太郎と知り合いました。

当方、この碑を見るのは25年ぶりくらいで、懐かしく感じました。25年前、碑の詳しい場所も分からないまま花巻駅からタクシーに乗り、「石神でリンゴやってる阿部さん」と言い、運転手さんが苦労して阿部さん宅を見つけて下さいました。さらに博氏の子息と思われる方が、「石碑はここではないんだ」と、ご自宅から少し離れたこの畑まで自家用車に乗せて下さいました。

同様に、25年ぶりに訪れたのが、次の岩手雪運株式会社花巻物流センター敷地内の「牛」碑。
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元々、雪印乳業さんの花巻工場だった昭和43年(1968)、「牛」つながりで光太郎詩「牛」(大正3年=1914)の一節を刻んだ碑が建てられました。

傍らには、ここが雪印さんの工場だったという碑。平成21年(2009)の建立です。『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん今年の4月号に紹介が載っており、「こんな碑が建ったんだ」と思っていまして、初めて目にしました。
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表面には光太郎肖像写真、裏面には光太郎の事績が刻まれています。ありがたし。

さて、いよいよ最後の訪問地、花巻市街の松庵寺さん。

こちらには光太郎碑が三基建っています。
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建立順に、右が昭和48年(1973)の建立で、昭和22年(1947)、光太郎がここで二十三回忌の法要をしてもらった母・わかを偲んで詠んだ短歌「花巻の 松庵寺にて 母に会ふ はははりんごを たべたまひけり」が刻まれています。わかは大正14年(1925)に亡くなっていますが、リンゴをお供えした母に再会出来たような気がする、といった歌ですね。

左は詩「松庵寺」(昭和20年=1945)が、佐藤隆房の筆跡でブロンズパネルになっています。「松庵寺」は、詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定される「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)以来、4年ぶりに、また、戦後初めて書かれた智恵子を題材とした詩です。碑の建立は昭和62年(1987)。

中央がその「松庵寺」英訳の碑です。花巻北高校さんなどで英語の先生をなさっていた平賀六郎氏が、日本を訪れる外国の方に日本文化を知って欲しいと英訳されたもので、碑は平成20年(2008)に建てられました。

この三基の碑の前で、当方最後のご挨拶。最初と同じように、光太郎という人物の人となりの一端に触れていただくとともに、それぞれの石碑等の建てられた背景、それぞれの建立に関わった人々の胸の内にも思いを馳せていただきたかったのですが、いかがだったでしょうか、的に話をまとめました。それから、堅牢な石碑といえども永遠のものではなく、やがては地上に割れてくずおれる日も来ようかと思われますが、そうなる日が少しでもあとのばしになって欲しい、そして、光太郎の名や業績や、次の世代へと語り継ぐ責務が我々にはあるんだよ、的な話も。

そしてまなび学園さんに戻り、午後3時、解散。

一日がかりの行程でしたが、それでも割愛した石碑もかなりありました。前述の高村山荘敷地内、それから、市街地なので参加者の方々もいつでも行けるでしょうということで、市役所近くの鳥谷崎神社さんにある「一億の号泣」(昭和20年=1945)詩碑、桜町の光太郎が揮毫した賢治の「雨ニモマケズ」碑。それから、東北新幹線の新花巻駅方面に、個人の方が個人の敷地に建てた光太郎からの書簡を写した碑もあります。当方が知らない他の碑もあるかも知れません。

しかし、この日廻っただけでも、高村光太郎記念館さんのスタッフの方、市役所の方が綿密にルートや昼食場所等考えて下さったお蔭でスムーズに回れました。大感謝です。

どこかの団体さん、学校さんなどで、こうした光太郎ゆかりの地を巡る的な研修旅行等お考えでしたら、このような形で添乗致します。花巻に限らず都内でも、それから十和田湖や智恵子のゆかりの二本松、九十九里やら犬吠埼やらの房総各地などなど。お声がけ下さい。


【折々のことば・光太郎】

が、兎に角、彫刻といふものは芸術と名づくべきものゝ中(うち)で、最も原始的な自然に近いもので、野蕃人が天地の間に受けた美の観念を現す時には、先づ石や樹に何か彫刻するといつた風なことをしたもので、従つて彫刻は最も神秘的なものとも云へませう。

談話筆記「彫刻の話」より 大正7年(1918) 光太郎35歳

ただ単に手頃な素材だからというだけでなく、太古の昔から人類は石や樹木に霊性を認め、さらに新たな生命を吹き込むために彫刻を施したとも考えられます。

石碑にも似た部分が有るようにも感じます。

10月6日(日)、朝4:30に千葉の自宅兼事務所を出まして、1泊2日の東北周遊へ。

まずは前日が忌日だった智恵子を偲ぶ「第25回レモン忌」が開催される、智恵子の故郷・福島二本松。いつもは愛車を駆って馳せ参じていますが、今回はその日のうちに岩手花巻まで行く都合上、公共交通機関を利用しました。

会場は智恵子生家に近い、ラポートあだちさん。

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千葉を出た時はちょっとした雨でしたが、こちらは曇り空。かすかに雲間に青空がのぞいていました。

午前10時、開会。まずは第一部の開会行事。

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ステージ上の智恵子肖像に献花・献果。果実はもちろんレモンです。

参会者(40名ちょっと)全員で、光太郎詩「風にのる智恵子」を群読。

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主催されている智恵子の里レモン会、渡邊会長のご挨拶。

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渡邊会長、過日の千葉大停電の際には、お見舞いということで早々に二本松銘菓・玉嶋屋さんの羊羹をお送り下さり、当方、大感激でした。

レモン会さんが設立30周年ということで、その関係のお話も。

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全員で記念撮影をした後、第二部の記念講演。このブログにたびたびご登場いただいているテルミン奏者・大西ようこさんによる「もう一つの智恵子抄」。

音楽ユニット「ぷらイム」としてご一緒に活動されているギターの三谷郁夫氏とともに、演奏や掛け合い漫才のような楽しいトークを交え、しかし内容的には昭和16年(1941)のオリジナル『智恵子抄』をわかりやすく、しかも深く考察されたお話でした

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当方、お二人の背景のスクリーンに投影されるスライドショーの担当で、タブレットを操作しつつ拝聴しました。時折、次ぎに行くタイミングを間違え、怒られました(笑)。


第三部は昼食を頂きながらの懇親会。連翹忌スタイルで、スピーチが入ります。

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智恵子と同郷で、智恵子をモチーフにした作品も数多く遺した故・大山忠作画伯のご息女にして、女優の一色采子さん。二本松観光大使も務めていらっしゃいます。

お父様の作品を集めた二本松駅前の大山忠作美術館さんで、今週末から始まる「新五星山展」のPR。

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名前に「山」のつく五人の日本画家の作品を集めた展覧会です。今回は横山大観、山口蓬春、杉山寧、横山操、そして大山画伯。「今回は」というのは、前回があったわけで、「新」がつかない「五星山展」が(東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造、大山忠作)平成25年(2013)に開催されています。思えば一色さんとのお付き合いはここから始まりまして、もう五年経つか、という感じです。今回、一色さんがギャラリートークを務められるということで、来月初めにお伺いすることにしました。

スピーチの合間に一色さんといろいろお話させていただきました。渡辺えりさんと共演なさった昨年の舞台「喜劇 有頂天団地」の件、渡辺さん作の舞台「私の恋人」を拝見した際「一色さんによろしく」と伝言された件、それから今年5月の「第35回アイメイトチャリティーコンサート」の件、そして拝見・拝聴に伺うはずが愛車の故障で断念した先月の「にほんまつart fes」の件などなど。何と今回一色さんが二本松に来られる途中で愛車が故障ということで、難儀されたそうです(笑)。


書家の菊地雪渓氏。今年の連翹忌でもご披露いただきました、「智恵子抄」から六篇を書かれ、第38回日本教育書道藝術院同人書作展会長賞を受賞された書をご持参。

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仙台ご在住でたびたび「智恵子抄」を取り上げて下さっている朗読家・荒井真澄さん。

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このあと、荒井安達駅から仙台駅までご一緒させていただきました。普段は味気ない一人旅の当方が、すてきな女性と二人、夢のような時間でした(笑)。

最後に有志の方々が二本松のソウルソングである二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(昭和39年=1964)を熱唱。

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来年の再開を約して閉会となりました。

参会後、レモン会の方が車を出して下さり、大西さんとそのご一行、荒井さんと共に智恵子の生家/智恵子記念館へ。

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この時期には、普段は非公開の智恵子の居室を含む2階部分、そして智恵子紙絵の複製でない実物が期間限定公開されています。

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2階にはなぜか顔ハメが(笑)。

さらに裏山の「愛の小径」へ。ここを訪れた光太郎を智恵子が案内して歩いたという証言が残されています。

稲荷八幡神社さんには、大正5年(1916)、帰省中だった智恵子の筆になる「熊野大神」碑。

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堂々とした書ですね。

光太郎詩「道程」(大正3年=1914)詩碑(「詩碑」というより光太郎詩をモチーフにしたオブジェ、という感じですが)、さらに「樹下の二人」(大正12年=1923)詩碑。

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さらに展望台まで足をのばし、「あれが阿多多羅山」、「あの光るのが阿武隈川」、智恵子生家、そして「ほんとの空」などを展望。
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その後、レモン会の方に安達駅まで送り届けていただき、鉄路を乗り継いで花巻へ。花巻篇は明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

常に物の中心を掴む事、むしろ常に物の中心を掴まうとする内心の生活、此が大切なのだ。此所からいろんな貴重なものが発足するのだ、此所を発足点にしないと、千差万別の途に迷ふ事となる。

散文「所謂好趣味の人たる勿れ」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

ここで光太郎が否定しているのは、外面的な観察、半端な知識の摂取に終始することです。

昨日から東北二県を回っておりまして、現在、帰りの新幹線はやぶさ号車中です。

昨日は智恵子の故郷・福島県二本松で、智恵子を偲ぶ「レモン忌」に参加、今日は光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻とさらに隣接する北上で、光太郎ゆかりの石碑をめぐる市民講座の講師でした。

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詳しくは帰りましてからレポートいたします。

3件ご紹介します。

まず、『福井新聞』さんの一面コラム。

【越山若水】

「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。詩人の高村光太郎の代表作「道程」である。偉大な彫刻家の父・光雲から独立し、わが道を切り開く決意を高らかに宣言している▼ロダンの「考える人」に衝撃を受けた光太郎は、自然こそが美の根源という考えに傾倒。芸術家としての自立を誓う。ただ不安は消えず、自然を父親に見立て懇願する。「僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄(きはく)を僕に充(み)たせよ/この遠い道程のために」▼敷かれたレールの上を歩くのでなく、前例のないことに挑戦するのは勇気がいる。彫刻「手」や詩集「智恵子抄」で名をなした光太郎でさえ、自身を鼓舞するほどの緊張心。学業にしろ、仕事にしろ、新たな一歩を踏み出すとき、ぜひ声に出して読みたい詩文である▼教育学者、齋藤孝さんの「日本人のすごい名言」(アスコム)を参考にしたが、では、安倍内閣の注目株・小泉進次郎環境相の思いはどうだろう。原子力防災担当相を兼務し、父親は「脱原発」を主張する純一郎元首相だ▼きのうは福島第1原発を初めて訪問。汚染土を搬入する中間貯蔵施設を視察した。ただ就任後には場違いな発言や答弁も見受けられた。関西電力の金品受領問題もあって、原発への注目度は高まっている。親の威光に頼ることなく、小泉氏が自らの「道程」をどう歩むのか、お手並み拝見したい。

話題作りのための入閣で終わるのか、原発問題に鋭くメスを入れてくれるのか、まさに「お手並み拝見」という気分です。


続いて、『福島民報』さん。

山肌覆う秋の装い 安達太良山・二本松

 日本百名山の安達太良山(標高一、七〇〇メートル)は上部で紅葉が進んだ。山肌の木々が赤や黄、茶色に染まり、鮮やかなコントラストを描いている。二本松市出身の洋画家・高村智恵子が愛した「ほんとの空」の下、秋のモザイクが映える。
 連日、大勢の登山者が訪れている。二本松市の奥岳登山口からロープウェイで八合目の薬師岳に登ることができる。降りてからは、一面に広がる錦絵のような景色を楽しみながら山頂を目指す。
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同じ件で、福島テレビさん。

10月3日は「登山の日」 錦秋の安達太良山を楽しむ <福島県> 

秋の訪れとともに鮮やかな彩りをまとうのは標高1700mの安達太良山。
10月3日は語呂合わせで「登山の日」。
「ほんとうの空」の下、美しい紅葉が登山客を出迎えた。

10月3日、午前9時。
ロープウェイ乗り場にはすでに多くの登山客が訪れていた。
ロープウェイに乗り込み山頂を目指す。

眼下に広がる緑は標高が高くなるにつれ、徐々に秋の装いに。
息を弾ませ勾配のある山道を進めば…赤や黄色に染まる木々が一面に広がる。

美しい紅葉を眺めながらしばしの休憩。

登山客:「まだ関東とか紅葉の時期には早いのでいいですね」

美しい紅葉を満喫し、登頂の喜びをかみしめた登山客。
安達太良山の紅葉は10月下旬まで見ごろでさらに多くの人でにぎわいそうだ。
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智恵子の愛した「ほんとの空」、ぜひ現地で御覧下さい。

当方、本日行われる智恵子を偲ぶ「レモン忌」出席のため、これから二本松に行って参ります。さらに今日の夜には花巻に移動し、明日は市民講座の講師です。天気が心配ですが……。究極の雨男・光太郎の魂を背負って歩いていますので、当方も行く先々で雨、雨、雨です(笑)。


【折々のことば・光太郎】

自然な人の頭に安定を感ぜしめるものは、理法に適つた所がある。そこを是等のものの美の根本としてかからなければ、凡てのことが枝葉に分れて終ふ。
散文「家具及住宅の美」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

建築に関する評論の一節です。いわゆる「用の美」を説き、適度な趣味のいい装飾の必要性も語られています。

早々にご案内をいただいていたのですが、失念していました(汗)。

FUKUSHIMA DAISUKI MOMO CONCERT 2019

期  日 : 2019年10月6日(日) 10月10日(木)
会  場 : 10/6 
古関裕而記念館 福島県福島市入江町1-1
       10/10  二本松市民交流センター  福島県二本松市本町二丁目3番地1
時  間 : 両日とも18:00開場 18:30開演
料  金 : 10/6 前売り2,000円/当日2,300円   10/10 前売り1,500円/当日2,000円
出  演 : 10/6 モンデンモモ(歌) 砂原DOLCE嘉博(pf) 古関メロディーを歌う会
       10/10  モンデンモモ(歌) 増田真也(ダンス)

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光太郎の詩や自作の歌詞にオリジナルの曲をつけて歌われている、シャンソン系歌手のモンデンモモさんのコンサートです。今年の5月にも二本松の智恵子生家近くにある鐵扇屋さんというところでコンサートを開かれました。

2日間のツアーだそうで、両日とも歌われる歌はほぼ同一のようですが、構成的には異なるようですし、モモさん以外の出演の方も違いがあります。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

人が自分や又敬愛する人達の姿を、永遠に残して置きたいと思ふのも一種の欲望であつて、この欲望は人から永久に消えることのない欲望であらうと思ふ。
談話筆記「肖像に就いて」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

そこで、肖像彫刻という分野が発達した、という話の展開になるわけです。

ただし「敬愛する人達の姿を、永遠に残して置きたい」と考えると、その方法は何も肖像彫刻に限らないわけで、絵画でも写真でもそれは可能だ、と光太郎は言っています。

もっと広く考えれば、あらゆる芸術でそうしたアプローチが可能でしょう。演劇で、小説で、詩歌で、舞踊で、そしてモモさんのように音楽で、と。

明日、10月5日は智恵子の命日・「レモンの日」です。偲ぶ集い「レモン忌」は明後日、智恵子の故郷、福島二本松のラポートあだちさんで開催されます。

さて、二本松で智恵子の顕彰活動を進めている智恵子のまち夢くらぶさん主催の講座です。

智恵子講座2019

期  日 : 2019年10月14日(月・祝) 11月17日(日) 12月15日(日)
会  場 : 福島県男女共生センター 福島県二本松市郭内一丁目196-1
参加費 : 全4回 4,000円 1回のみ1,000円
申  込 : 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷 0243-23-6743
内容等 : テーマ「高村智恵子の言葉を読み解く」
10/14 10:00~12:00 第1回講座 講師 木戸多美子さん(詩人)
11/17 10:00~12:00 第2回講座 講師 坂本富江さん(太平洋美術研究所 高村光太郎研究会)
    午後「智恵子のまち夢くらぶ発会15周年記念祝賀会・
好きです智恵子純愛通り発表コンサート」
12/15 10:00~15:30 第3回講座 講師 澤正宏さん(福島大学名誉教授)
            午後は第4回講座「参加者による智恵子を語るつどい」

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昨年は智恵子没後80周年だったということで、講座ではなく記念事業として「智恵子検定 チャレンジ! 智恵子についての50問」、「全国『智恵子抄』朗読大会」、「智恵子カフェ」が開催されまして、講座としては一昨年以来の2年ぶりの開催。講師陣、以前の智恵子講座でもお馴染みの皆さんです。

智恵子ファン、光太郎ファンの皆さん、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

綺麗な絵や、うまいところを描いた絵が必ずしも悪いばかりだとは云はないが、綺麗であつたり、道具建てばかりうまくとも、内容が現はされてゐない絵には決して味がない。

談話筆記「絵を買ふ人に」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

絵に限らずすべての芸術に当てはまることがらですね。

2件ほど。

日曜美術館「異端児、駆け抜ける!岸田劉生」

NHKEテレ 2019年10月6日(日)  20時00分~20時45分

フランスの印象派に憧れた大正時代の画壇で、ひとりデューラー風の肖像画を描き続けた異端児がいた。岸田劉生。現代画家の会田誠さんが<意識高い系>画家・劉生を語る。

日本美術史上、最も有名な少女・麗子。岸田劉生が何度も描いた愛娘7歳の肖像「麗子微笑」は、謎のほほえみを浮かべている。また静物画では、果物の配置や色つやに、ただならぬ気配が漂う。そして何の変哲もない“坂道”は、今にもこちらに迫ってきそうな迫力。岸田劉生が描くと、いつも何かがヘン。劉生は日本の洋画家の中で飛びぬけて<意識が高い><理想が高い>と語る現代画家の会田誠さんとともに、劉生の真の姿に迫る。

【司 会】小野正嗣 柴田祐規子
【ゲスト】会田誠(現代美術家)  田中晴子(東京ステーションギャラリー 学芸室長)
【出 演】山内崇嗣(アーティスト) 土師広(修復家)
     都築千重子(東京国立近代美術館 主任研究員)
 塩谷亮(画家)

本放送が9月29日(日)にありまして、拝見しました。東京ステーションギャラリーさんで開催中の「没後90年記念 岸田劉生展」にスポットを当てています。

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同時代の画家の中で、光太郎が最も高く評価していた一人である岸田劉生。なぜ光太郎が劉生を認めていたのか、その理由が分かったような気がしました。というか、彫刻と絵画、ジャンルは違えど光太郎との共通点のようなものが随所に垣間見えたというか。

まず、写実に軸足を置きながらも、単なる細密描写的な写実にとどまらず、深い精神性をも表現しようとしていたこと。


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そのバックボーンにあった、「自然」への賛美。

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そして細かな話ですが、岸田は「岸田の首狩り」と称されるほど、友人たちを捕まえてはその肖像画のモデルにしていました。下記は光太郎とも共通の友人だったバーナード・リーチ

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光太郎も同様に友人知己を片っ端から彫刻のモデルにしていた時期がありました。

それから、それぞれ自分の妻をモデルにしていたという点も共通項です。


そして西洋と東洋の融合。

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結論としては、この時代としては劉生の意識の高さが目立つ、という方向でした。

上記番組説明欄では<意識高い系>となっていますが、「系」がつくと揶揄するニュアンスを含みます。すなわち「意識高い」だけだとプラスの意味、「意識高い系」はマイナスの意味です。本放送を見る前に「おやっ」と気づき、劉生をディスるのかな、と思っていましたが、ちゃんと番組の中でコメンテーターの方が劉生は「系」ではないと否定して下さっていました。説明欄を執筆した方は、その違いをご存じなかったのでしょう。


ところで、9月24日(火)に放映されたBS日テレさんの「ぶらぶら美術・博物館」でも、同じく東京ステーションギャラリーさんで開催中の「没後90年記念 岸田劉生展」を取り上げていましたが、こちらは気がつかず、見逃してしまいました。

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失敗しました。


さて、もう1件。

びじゅチューン!「指揮者が手」

NHKEテレ 2019年10月9日(水)  19時50分~19時55分
        10月14日(月) 5時55分~6時00分  24:50~24:55


古今東西の美術作品を井上涼のユニークな発想でうたとアニメーションに。今回は、高村光太郎の彫刻「手」(東京国立近代美術館所蔵)。この彫刻は、指をやんわり曲げていたり親指が反り返っていたりと、細かいニュアンスを伝えようとしているみたいに見える。これは、オーケストラを動かす指揮者なのかもしれない!「て」という音を効果的に取り入れた歌詞で、左手一本で音楽を自由にあやつる孤高の指揮者を歌う。

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昨年、最初の放映がありました。笑えます。しかし、ただ笑えるだけでなく、よく光太郎について調べていると感心もさせられます。

それぞれぜひ御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

偽らざる感情の発露は凡て真であつて、同時に美だと思ひます。僕だつて人間ですから、嬉しい時には笑ひもし、癇癪の起つた時には随分怒鳴り散らす事もあります。其前に何の遠慮も会釈もないのです。それと同じ事で画でも矢張書き度くつて書き度くつて耐まらない時がある、さう云ふ時こそ本当のものが出来るのです。

散文「真は美に等し」より 大正2年(1913) 光太郎31歳 

「記者」と「主人」による戯曲風のスタイルで書かれています。上記部分は「主人」のセリフから。

同じ作品の中で「岸田君や木村君の様な人が、もつと沢山現はれて来なければ駄目だと思ひます」とも記されています。

講談社さんの月刊コミック誌『アフタヌーン』に、平成25年(2013)から連載され、ある意味、「文豪」ブームの火付け役となったとも言える、清家雪子さんの「月に吠えらんねえ」。今年の9月号で最終回を迎え、コミックスの最終巻である第11巻が発売されました。

月に吠えらんねえ(11)

2019年9月20日 清家雪子著 講談社 定価648円+税

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萩原朔太郎作品から生まれた「朔くん」、北原白秋作品から生まれた「白さん」、室生犀星作品から生まれた「犀」など、詩人本人ではなく作品のイメージをキャラクター化。詩人たちが暮らす近代市□(シカク/詩歌句)街に住む詩人の朔くんは、本人は自覚なく□街の神として町を詩人の理想の土地として管理していたが、知らずにその神の力で詩壇の師匠の白さんに強く働きかけ、自分の男性・詩人としての理想を白さんに具現化してしまっていた。ある時、□街に出現した愛国心の一表出である「縊死体」は朔くんに取り憑くが、それは戦争を悔いるあまりに愛国心までも否定しようとする戦後の日本の総意識に対抗するためであった。縊死体に侵食され一体化した朔くんは変質した白さんと複雑に影響を与え合い、神としての力が白さんにも流れ込み、白さんは二体に分裂。ひとりは新しい神として□街を守り、ひとりは男性として女性化した朔くんと結ばれるが、縊死体、戦争翼賛文学までも愛国心として認める白さんが守る□街を責める「戦後の日本の総意識」の攻撃は激化する。朔くん、白さん、戦場巡りで戦争の悲惨さを経験させられた犀の選択とは。第20回文化庁メディア芸術祭マンガ部門・新人賞を受賞した近代詩歌俳句ファンタジー、ついに完結!


光太郎と智恵子をそれぞれイメージ化した「コタローくん」「チエさん」、第2巻第4巻で大活躍でしたが、その後、ちょい役ばかりでした。このまま作者にも忘れ去られたまま終わってしまうのかな(長編小説などでよくあるケースですが)と思いきや、最終巻で復活し、再び大きな役割を担わせて下さいました。

この作品、「結局、近代詩歌句とは何だったのか」という命題の元に、特に翼賛詩を書かざるを得なかった文士たちの姿を描いてきました。となると、やはり光太郎は外せませんね。

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戦後の連作詩「暗愚小伝」などを引用し、かなり的確に光太郎の内面が、リスペクトを保ちながら剔抉されています。

そして「チエさん」亡き後、「コタローくん」が作ったロボット「チエコさん」。

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ある意味、形而上的な詩歌に対する、実体を持つ形而下的なものの象徴とも捉えられるような気がします。最終巻では「コタローくん」たちが異世界から脱出する際に、「言葉」では為し得なかった大きな役割を果たします。


さて、『月に吠えらんねえ』、これを持って全巻完結。ぜひお取りそろえ下さい。今後、完結記念のなにがしかがありそうな気がしますので、注意しておきたいと思います。

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【折々のことば・光太郎】

あゝ綺麗だと言ふのは眼に訴へた感じ、穿つた所と言ふのは理知に訴へた感じ、また哀れつぽいなどゝ言ふのは情緒に引き入れられるので、この三つは真実(ほんたう)に芸術を鑑賞しようとする人には大きな妨げとなるものであります。
散文「絵を見る人の為めに」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

同じ文章で「すべて作品を見て何かしら強く感じられるもの――夫れは色彩の如く眼から来るものでもないし、理知に訴へた意味から来るものでもない、また情緒から来るものでもない、言はゞ一つの気魂が自分の精神も肉体もおびやかすといふやうな感じ、自分を何処か広やかな世界に誘ひ行くやうに思はせる、其様(そん)な感じを起こさせるものが宜(い)い」とも書いています。

昨日は都内港区の青山葬儀所さんに行っておりました。過日ご紹介した、出版社二玄社さんの創業者、渡邊隆男氏の「お別れの会」参列のためです。

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青山葬儀所(別名・青山斎場)さん。昭和31年(1956)4月4日、光太郎の葬儀もここでで行われました。


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その同じ場所で渡邊氏のお別れの会というのも奇縁だなと思いました。

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二玄社さん、写真製版の技術を生かし、中国古典籍の復刻や、雑誌『カーグラフィック』など、さまざまな分野で革新を起こされました。また、光太郎智恵子がらみの出版物等をたくさん刊行して下さっています。過日はその主なものをご紹介しましたが、他にもいろいろ。「あ、これも二玄社さんだったか」「ということは、あれもか」という感じで、当方自宅兼事務所の書庫、二玄社さんだらけです(笑)。順不同ですがご紹介します。

当会の祖・草野心平による『わが光太郎』(昭和44年=1969)、それからやはり光太郎と交流の深かった美術史家・奥平英雄による『晩年の高村光太郎』(昭和37年=1962)。ともに光太郎研究には欠かせない回想です。

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平成13年(2001)、徳島の相生森林美術館さん、兵庫の姫路文学館さん、広島のひろしま美術館さんを巡回した「『智恵子抄』誕生60周年記念 智恵子抄展 高村智恵子の芸術と恋とその生涯」の図録。

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やはり智恵子系で、雑誌『書画船』第2号(平成9年=1997)。光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏へのインタビュー「智恵子と紙絵」が掲載されています。

翌年発行の『PR書画船 かく!』第2号には、当会顧問北川太一先生ご執筆の「声が聞こえる ―智恵子紙絵の魅力」が。

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こちらには智恵子紙絵の複製の広告も。この複製シリーズ、当方、荒井真澄さん/大西ようこさんモンデンモモさんのコンサートなどに持ち込んで、会場内に飾ったりもさせて頂いています。

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それから昭和43年(1968)初版、昭和61年(1986)新装改版の『文士の筆跡三 詩人篇』、平成16年(2004)には日本絵手紙協会の小池邦夫氏による『芸術家・文士の絵手紙』。光太郎の書や書簡も取り上げられています。

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その他、二玄社さんも加盟している出版梓会さんによる『出版ダイジェスト』という業界紙があり、各社共同で発行される号と、二玄社さん単独の号があったりします。そちらにも当会顧問・北川太一先生の玉稿が載ったりしています。
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今後とも、光太郎智恵子の名を次世代に継承していくために、お力添えを頂きたいものです。

そして改めまして渡邊氏のご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

人は真の自由を得又自由といふものゝ真の意味を知れば、実に行住坐臥度を外れないものである。自由にして而も芸術の正道を学生に踏ませるには、どう考へても学校全体の空気が芸術的良心の真摯な力に充ちて居なければならぬ。そして芸術精神が渦を巻いて居るやうに旺盛でなければならぬ。

散文「美術教育の本来」より 大正5年(1916) 光太郎44歳

二玄社さん、「芸術的良心」「芸術精神」の涵養に貢献すること実に大、ですね。

ところでこの文章、学校に於ける美術教育のあり方について論じたものですが、「学校全体」を「国全体」と読み替えてもいいような気がします。

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