2019年07月

光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)に使われ、福島復興の合い言葉として使われる「ほんとの空」の語。

それにまつわるイベントを二つご紹介します。

交流センター開館10周年記念「ふくしま星・月の風景in二本松」

期 日 : 2019年7月30日(火)~8月25日(日)
時 間 : 午前10時~午後4時
場 所 : 二本松市市民交流センター3階 市民ギャラリー  福島県二本松市本町2丁目3-1
料 金 : 無料

福島県内にて撮影された星・月の風景を眺め、星空に想いを馳せてみませんか?
「ほんとの空」がある二本松市では、初の写真展です。

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智恵子の故郷・二本松に隣接する郡山市のふれあい科学館さん主催で行われた「第5回 ふくしま 星・月の風景 フォトコンテスト」――キャッチコピーが「〝ほんとの空〞のあるふくしまの星・月の風景をあなたの感性で捉えてください」――の入賞作品展を、二本松で行うそうで。

当方、第4回の作品展を平成28年(2016)に拝見して参りました。どれもこれもハイレベルで驚きましたし、福島の「ほんとの空」の魅力を再確認いたしました。

さらに関連行事として、以下があるそうです。 

全国同時七夕講演会2019「星・月の風景写真を通して観る七夕の星・夏の星」

期 日 : 2019年8月4日(日)
時 間 : 午前6時~午後8時
場 所 : 二本松市市民交流センター1階 多目的室  福島県二本松市本町2丁目3-1
料 金 : 無料
講 師 : 安藤享平氏(郡山市ふれあい科学館 天文担当 学芸員)
内 容 : 夏空の主役・七夕伝説を紹介しつつ、星空撮影の方法などを詳しくお話ししま
      す。


もう1件、まったく別件ですが、やはり「ほんとの空」ということで。 

子どもじんけん教室 なつやすみミニ映画会「ほんとの空」

期 日 : 2019年8月14日(水)
時 間 : 1回目 午前10時30分~  2回目 午後2時30分~
           名古屋市中区栄一丁目23番13号伏見ライフプラザ12階
料 金 : 無料

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平成24年(2012)、兵庫県人権啓発協会さん制作のビデオドラマ「ほんとの空」(白石美帆さん主演)が上映されます。
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制作当初から数年間は、「新作」扱いで全国の自治体さんなどの主催行事で上映されたり、ローカルテレビ局さんで放映があったりしましたが、7年経ってそういう機会も減ったようです。しかし、内容的には東日本大震災による福島第一原発事故からの避難者が、避難先でいわれのない差別を受けるというもので、7年前と現在とで、社会の現状は残念ながらあまり変わっていないのではないかと思われます。

そういった意味では、今後も各地での上映や放映を望みます。特に放映の方は、ローカルテレビ局さんでは時々あったのですが、全国放映は為されていないように思われます。

それぞれお近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】003

きれいだなあといふと景色がなほきれいになる

短句揮毫より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

この項、しばらくの間、色紙や献呈した書籍等に揮毫された短句をご紹介します。

第1弾は、昭和18年(1943)刊行の年少者向け詩集『をぢさんの詩』に書かれたもの。光太郎と交流の深かった美術史家・奥平英雄が、子息のためにと買い求め、光太郎に何か書いてくれるよう頼んで書かれた短句です。

実際、独り言でも声に出してみることで、その内容がより実感されるということはよくある話ですね。

『をぢさんの詩』は、翼賛詩もたくさん含む実に残念な詩集ですが(「これこそ光太郎詩の真骨頂」とありがたがる愚か者も居て困ります)、時局とまったく関係のない短句を揮毫してあげたところに、救いを感じます。

昨日に引き続き、宮城県女川町からイベント情報です。 

第28回女川光太郎祭

期 日 : 2019年8月9日(金)
時 間 : 午後2:00~
場 所 : 女川町まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川浜字大原1-36
料 金 : 無料
問い合わせ : 
   女川光太郎の会事務局 佐々木英子
   〒986-2243 宮城県牡鹿郡女川町鷲神浜字内山3-1NI・1街区2 桜ヶ丘東住宅404
   090-6686-7811 
内  容 : 
 献花
 光太郎紀行文、詩などの朗読
 アトラクション演奏 オペラ歌手 本宮寛子  ギター奏者 宮川菊佳 
 講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって⑦―」
     高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
 終了後 懇親会

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昭和6年(1931)、光太郎が三陸一体を旅した一環で立ち寄った宮城県牡鹿郡女川町。それを記念して、平成3年(1991)、当時の女川港に面した海浜公園に巨大な光太郎文学碑が建立され、さらに翌年から始まった女川光太郎祭。その後、東日本大震災による津波で甚大な被害を受けた平成23年(2011)も含め、毎年開催されています。今年は文治堂書店さんが自社のPR誌『トンボ』第8号に案内を掲載して下さいました(上記画像)。

昨年までの様子はこちら。


ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

生活も不便とはいへ、まづ正常の状態で進んでゐて、決して極端なまねはして居りません。蛇や蛙やバツタを食べて生きてゐるのではありません。

雑纂「太田村の便り」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

一方で、翌年行われた座談会では、蛙を食べたことや、蛇も食べようと思ったものの歯が悪いのでやめたという発言をしています。バッタについては他では言及されていません(長野県民ではありませんし(笑))。

蛙に関しては、明治末のパリ留学時代にフランス料理として食べていたので、あまり抵抗はなかったのでしょう。しかし、だからといって、それを常食にしていたわけではないということですね。

毎年、女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町で、新たな取り組みです。

詩人・彫刻家高村光太郎と女川

期    日 : 2019年8月7日(水)~13日(火)
時    間 : 平日 10:00~20:00  土日祝 10:00~17:00
会    場 : 女川つながる図書館 女川町生涯学習センター内 
          宮城県牡鹿郡女川町女川浜字女川178番地 KK-8街区1画地
料    金 : 無料

女川つながる図書館(女川町生涯学習センター内)にて特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」が開催されます。 図書館の館内を使った小さな展示会です。 昭和6年に高村光太郎が女川を訪れ、書いた作品や訪問当時の女川の様子の写真などを中心に、関連書籍の紹介や、しおりなどの手作り体験、朗読等を予定。 入館無料 お気軽にお立ち寄りください。

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8月9日(金)に女川光太郎祭が開催されるということで、それに合わせてのミニ展示的なもののようです。

女川光太郎祭では、当方、毎年、講演をおおせつかっておりまして、今年もやらせていただきます(詳細は明日のこのブログで)。そちらの会場は、女川駅前のショッピングモール・シーパルピア内のまちなか交流館さんですが、今回の展示は生涯学習センター内のつながる図書館さんだそうで、住所で調べましたところ、町役場の敷地内のようです。まちなか交流館さんとつながる図書館さん、徒歩数分といったところでしょう。

のちほどレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

今年の冬は旧臘以来肋間神経痛といふものに悩まされてゐて、一切が停頓状態です。中々厄介な病気で、痛みばかりでなく、呼吸にも影響します。ホルモン不足から来る老年病と考へられて、何んだかをかしいやうですが、今年の山の厳寒にも関係があるでせう。春暖の候になれば、自然治癒することと思つてゐます。

雑纂「生成言」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活も5年が過ぎ、光太郎の病状、「ホルモン不足から来る老人病」といったそんな軽いものでなく、結核性の重いもので、結局、それが原因で亡くなります。重篤なものであるという自覚はあったはずですが、このように対外的にはかたくなに肋間神経痛で押し通しました。離れて暮らす弟妹の家族、東京方面の旧友たちに心配をかけたくないという気持ちと、彼等により無理矢理にでも山小屋生活を中止させられてしまうのではないか、という危惧もあったかと思われます。

昨日に引き続き、新刊情報です。

詩と出会う 詩と生きる

2019年7月25日 若松英輔著 NHK出版 定価1,700円+税

言葉とこころを結びなおす
言葉と人は、どのような関係にあるのか。詩に込められた想いを知ることで、何を得ることができるのか。困ったとき、苦しいとき、悲しいとき──私たちを守ってくれる言葉を携えておくために。文学・哲学・宗教・芸術──あらゆる分野の言葉を「詩」と捉え、身近に感じ、それと共に生きる意味を探す。

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目次
 はじめに 言葉は心の糧
 第1章 「詩」とは何か 岡倉天心と内なる詩人
 第2章 かなしみの詩 中原中也が詠う「おもい」
 第3章 和歌という「詩」 亡き人へ送る手紙
 第4章 俳句という「詩」 正岡子規が求めた言葉
 第5章 つながりの詩 吉野秀雄を支えた存在
 第6章 さびしみの詩 宮澤賢治が信じた世界
 第7章 心を見つめる詩 八木重吉が刻んだ無音の響き
 第8章 いのちの詩 岩崎航がつかんだ人生の光
 第9章 生きがいの詩 神谷美恵子が問うた生きる意味
 第10章 語りえない詩 須賀敦子が描いた言葉の厚み
 第11章 今を生きる詩 高村光太郎が捉えた「気」
 第12章 言葉を贈る詩 リルケが見た「見えない世界」
 第13章 自分だけの詩 大手拓次が開いた詩の扉
 第14章 「詩」という民藝 柳宗悦がふれたコトバの深み
 第15章 全力でつむぐ詩 永瀬清子が伝える言葉への態度
 おわりに 「異邦人」たちの詩歌
 詩と出会うためのブックガイド

010昨年、NHKラジオ第2放送さんで放送のあった「NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる」のために書き下ろされたテキストを大幅に加筆、さらに新章を加えての出版です。

テキストでは柳宗悦と光太郎で一つの章でしたが、光太郎と柳、それぞれで独立した章に分割、分量はそれぞれ2倍ほどに膨らんでいます。内容構成の骨組み的にはほぼ同じようですが。

新章としては、光太郎と深かった永瀬清子などが新たに加わりました。その他、テキストの頃から取り上げられていた、岡倉天心中原中也吉野秀雄宮沢賢治八木重吉などが光太郎と関わった人物です。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

最近村の人達が木を切つて電柱をつくり、会社にたのんで、小生の小屋に電燈をひいてくれました。谷川を越えてはるばる電線をひいて来ました。反つてゐる電柱が立つてゐます。おかげで夜が明るくなり、仕事に甚だ好都合です。
雑纂「消息」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

昭和20年(1945)の秋に、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に入った光太郎でしたが、昭和24年(1949)まで3年以上、電気のないランプ生活を送っていたわけです。

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昨年の花巻高村祭で、電線を引く工事を手伝ったという、藤原秀盛さんのお話を聞くことができました。

 新刊です。

まなの本棚

2019年7月23日 芦田愛菜著 小学館 定価1,400円+税

運命の1冊に出逢うためのヒントに! 「本の出逢いは人との出逢いと同じ」 年間100冊以上も読み、本について語り出したら止まらない芦田愛菜が本当は教えたくない“秘密の約100冊"をご紹介。世代を超えて全ての人が手に取ってみたくなる考える力をつけたい親御さんと子供たちにも必読の書です。

 Q 本の魅力にとりつかれた初めての1冊は?
 Q 一体、いつ読んでいるの?
 Q どんなジャンルの本を読むの?
 Q 本を好きになるにはどうしたらいい?
 Q 好きな登場人物は?

スペシャル対談 ・山中伸弥さん(京都大学iPS細胞研究所所長 教授) ・辻村深月さん(作家)も収録!

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目次
 プロローグ 宝探しみたいに本の世界へ入っていきます
 第1章 語り出したら止まらない! 芦田愛菜の読書愛
  いちばん最初の読書の記憶
  村上春樹さんに私、ハマってしまったみたい!
  読書はお風呂や歯磨きと同じ生活の一部
  3~4冊を同時並行で読むことも
  背表紙がキラリと光って見えるんです
  本の感想に“正解”はなくていいのかも
  紙の本の手触りが好き
  4コマまんが ちょっとの間にも読んでいます・読むのをがまんしてる時は
 第2章 本好きへの扉を開いた6冊
  『おしいれのぼうけん』
  『不思議の国のアリス』
  『都会のトム&ソーヤ』
  『ツナグ』
  『言えないコトバ』
  『高瀬舟』
 第3章
  まなの本棚から84冊リスト
  ここからスタート!の絵本 『もこ もこもこ』 『ぐりとぐら』
  小学生で夢中になった児童書 『天と地の方程式』 『若おかみは小学生!』
   『魔女の宅急便』『怪盗クイー
ン』 『怪人二十面相』
  次々と読破したシリーズもの 『落語絵本』シリーズ
   『ストーリーで楽しむ日本の古典』シリーズ 『小学館版
学習まんが人物館』シリーズ
  世界を広げた海外児童文学 『赤毛のアン』 『あしながおじさん』
   『ハリー・ポッター』シリーズ
  興味がつきない体の不思議 『学習まんが ドラえもん からだシリーズ』
  気になったらすぐに開く図鑑 『花火の図鑑』 小学館の図鑑NEO『星と星座』
   『宇宙』『岩石・鉱物・化石』
  ゾワッとするSF小説 『ボッコちゃん』 『声の網』
   対談 山中伸弥先生×芦田愛菜 科学はどこまで進歩していいのでしょうか
  歴史がもっと知りたくなる 『平安女子の楽しい!生活』 『空色勾玉』 『白狐魔記』
  熱い友情や“スポ根”大好き 『夜のピクニック』 『バッテリー』 『よろこびの歌』
  『風が強く吹いている』 『リズ
ム』
  限界へ!自分との闘い 『DIVE!!』
  嫉妬やコンプレックス 『反撃』 『ふたり』
  きょうだいや家族への思い 『一人っ子同盟』 『西の魔女が死んだ』 『本を読む女』
  日本語って奥深い! 『舟を編む』 『ふしぎ日本語ゼミナール』
  言葉や伝えるということ 『きよしこ』 『ぼくのメジャースプーン』
  辻村ワールドにハマるきっかけに 『かがみの孤独』
   対談 辻村美月さん×芦田愛菜
      「小説は一人では成り立たない」ってそういうことなんですね!
  止まらなくなる!海外ミステリー 『シャーロック・ホームス』シリーズ
   『モルグ街の殺人』 『Xの悲劇』 『そし
誰もいなくなった』
  日本文学〈~平安時代〉神話や貴族の生活 『古事記』 『日本書紀』 『風土記』
   『源氏物語』
  日本文学〈江戸時代〉エンタメ充実!  『曽根崎心中』 『雨月物語』
   『南総里見八犬伝』『東海道中膝栗毛』
  日本文学〈明治時代~〉人生や恋に悩んだり  『福翁自伝』 『舞姫』
   『吾輩は猫である』『坊っちゃん』 『ここ
ろ』 『小僧の神様』 『たけくらべ』
   『友情』 『伊豆の踊子』『雪国』 『細雪』『智恵子抄』 『一握の砂』
   『雨ニ
マケズ』 『高野聖』 『破戒』 『夜明け前』
  太宰治より私は芥川龍之介派! 『蜘蛛の糸』
  戦争について考えるきっかけに 『ガラスのうさぎ』 『永遠の0』
  海外文学 答えは一つじゃないはず 『賢者の贈り物』 『変身』 『レ・ミゼラブル』
  そしてこれからも 『海辺
カフカ』
 コラム 好きな登場人物
  男性編 湯川学『探偵ガリレオ』 内藤内人『都会のトム&ソーヤ』
   片山義太郎『三毛猫ホームズの推理』 
玄之介『あかんべえ』 堂上篤『図書館戦争』
   松本朔太郎『世界の中心で、愛をさけぶ』
  女性編 有科香屋子『ハケンアニメ!』 スカーレット・オハラ『風と共に去りぬ』
   ジョー・マーチ『若草物語』 
赤羽環『スロウハイツの神様』 林香具矢『舟を編む』
 エピローグ 本がつないでくれるコミュニケーションや出逢い




現在、中学3年生、15歳の芦田愛菜さん。読書好きというのは以前から公言なさっていたようで、今回の出版につながったようです。これまでに読んだ本の中から約100冊を紹介するというコンセプトで、この年で約100冊が紹介できるというのも驚きです。しかもラインナップを見ると、古今東西、かなり幅広く網羅されており、感心します。

013光太郎の『智恵子抄』を取り上げて下さいました。ただ、紹介はほんのちょっとですが(笑)。それから、シリーズとして、『小学館版学習まんが人物館』シリーズ。村野守美さんという方の作画、当会顧問・北川太一先生の監修で、「高村光太郎・智恵子 変わらぬ愛をつらぬいた二つの魂」がラインナップに入っています。

芦田さん、光太郎が尋常小学校の課程を卒業した、荒川区立第一日暮里小学校さんのご出身です。

同校では、「先輩光太郎に学ぶ」ということで、様々な取り組みをして下さっています。特に6年生は、総合的な学習の時間等で、光太郎に関する調べ学習などを1年間にわたり行っています。当方、芦田さんの次の学年の児童さん達が6年生だった年度に、授業を拝見したり、ゲストティーチャーに招かれたりしました。

そこで芦田さん、6年生の時に(或いはもっと以前に?)これらを読まれたのでしょう。

また、同校では図書館教育にも力を入れ、それが評価されて、平成27年(2015)には、当時のケネディ駐日大使が学校訪問に来られたことも。学校としての図書館教育の充実も、芦田さんの本好き、そして、本書に書かれた芦田さんの「読書観」(なかなか核心を突いた鋭いものの見方です)にも関わっているのかも知れません。

さて、夏休みとなり、定番の読書感想文の宿題に悩まれている小中高生の皆さん、親御さんも多いかと存じます。『まなの本棚』、そういう方々向けのブックガイドとしても好著です。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

翻訳は共同の性質を持つ。気のついた人が訂正するやうな慣はしにしたい。

雑纂「誤訳です」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

大正5年(1916)に刊行した訳書『ロダンの言葉』につき、中野重治が訳文に疑念を呈し、それを読んだ光太郎が調べ直してみるとその通りだったとのこと。すぐさまその誤りを雑誌『新潮』に発表したわけです。

後の翼賛詩→連作詩「暗愚小伝」の問題についてもそうですが、光太郎の偉いところの一つは、自らの誤りを謙虚に認め、訂正できることだと思います。

昨日、NHK BSプレミアムさんで放映された「偉人たちの健康診断 東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」を拝見しました。

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全体的にはなかなかのクオリティでした。

健康系の番組ですので、心を病んだ智恵子がメイン。そこから様々な知恵を学び取ろうというコンセプトです。

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再現ビデオの部分は、予想通り平成27年(2015)にNHKさんの地上波総合テレビで放映された、「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」からの使い回しでした。しかし、久しぶりに見て、やはり感動してしまいました(笑)。そういえば、MCの渡邉あゆみさん、当時「ヒストリア」でも司会でした。

龍星閣版『智恵子抄』初版の映像も「ヒストリア」からの転用。したがって、「ヒストリア」の際にお貸しした当方手持ちの『智恵子抄』です(笑)。

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コメンテーターとしてご出演なさった、『詩人の妻 高村智恵子ノート』(昭和58年=1983 未来社)の著者・郷原宏氏をはじめ、医学系の専門家の方々による分析や説明など、「なるほど」という点が多く、その点がすばらしいと思いました。

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智恵子の故郷・福島二本松、戦後に光太郎が逼塞した花巻郊外旧太田村、そして光太郎最後の大作にして智恵子の顔を持つ「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖などの映像もふんだんに使われていました。

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また、光太郎彫刻や智恵子の紙絵、古写真、ブリヂストン美術館さん制作の美術映画「高村光太郎」から光太郎の動画なども使われ、手間がかかっている丁寧な作りだと感心しました。

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当会顧問・北川太一先生ご所蔵の、智恵子から母・センに宛てた書簡(昭和6年=1931)も。

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同じく北川先生ご所蔵の、結婚前の光太郎から智恵子へのラブレター(大正2年=1913)は紹介されませんでした。

しかし、一点、苦言を呈させていただくと、「智恵子が色覚異常であった」と、ほぼ断言していた点。

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確かにそういう説はあります。その根拠は、智恵子が福島高等女学校時代の親友だった上野ヤスにそう語ったことがある、という証言です。あとは状況証拠的に、結局、油絵で大成できなかったことや、画学生時代に人と違う色遣いを好んでいたという証言、それから光太郎の残した「彼女は色彩について実に苦しみ悩んだ。」(「智恵子の半生」昭和15年=1940)、「その油絵にはまだ色彩に不十分なもののある事は争はれなかつた。その素描にはすばらしい力と優雅とを持つてゐたが、油絵具を十分に克服する事がどうしてもまだ出来なかつた。」(同)という回想がある程度です。

智恵子が色覚について医師の診断を受けたという記録は見あたりません。また、番組でも解説されていましたが、女性の場合は発症率が非常に低い(番組では500人に1人としていました)のです。色覚異常はほぼ100%遺伝によるもので、女性の場合、両親双方から遺伝因子を受け継がないと発症しません。となると、智恵子の父母弟妹などにもその症状が現れているはずなのですが、そうした記録も見あたりません(もっとも、智恵子以外は自覚することができなかったのかもしれませんが)。

そう考えると、智恵子が色覚異常だったと断定するのは早計だと思われます。

ただ、その後の専門家の方の解説が非常に興味深いものでした。人類に一定の割合で色覚異常が発現するのは、狩りをしていた太古の時代の名残だろうというのです。

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保護色で目くらましをはかる獲物や、人類の天敵たる肉食獣を発見しやすいそうで。これは存じませんでした。

後半は、やはりパラアート的な部分、アートセラピーなどの関連で智恵子の紙絵が紹介されました。

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智恵子同様、切り絵に取り組んでいる患者さんもご出演。興味深く拝見しました。

ラストは「乙女の像」。

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8月1日(木)、午前8:00から9:00、同じNHK BSプレミアムさんで再放送があります。ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私はふざけた事は大厭ひなんですけれど、上品なユーモアは好きです。変なあくどい漫画は、手許にあれば裂き捨てる位なんですが、気品高きものは、飽かず眺めます。

談話筆記「悪趣味を排す」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

漫画とは同列に扱えないとは思いますが、後の智恵子の紙絵も、「上品なユーモア」「気品高きもの」として、「飽かず眺め」たことでしょう。

光太郎第二の故郷ともいうべき・岩手の地方紙『岩手日報』さん。生前の光太郎もたびたび寄稿しました。

その一面コラム「風土計」。たびたび光太郎の名を出して下さいますが、一昨日も。 

風土計

ビールを愛した詩人は多いけれど、代表は高村光太郎だろうか。〈何もかもうつくしい/このビイルの泡の奮激も/又其(それ)を飮(の)むおれのこころの悲しさも〉
▼好きが高じて、飲み方にもこだわりがある。「ビールをのむ時つまみ物は本當(ほんとう)はいらない」。つまみは口寂しいから用意するだけで、なるべく味のない物がいい。のしイカなどよりも、「生胡瓜(きゅうり)ぐらゐがいい」と
▼詩人が好むビールやキュウリが今、ニュースで報じられている。記録的な日照不足で、ビール類の売れ行きが振るわない。キュウリをはじめとする夏野菜は病害や生育の遅れで、価格が5割も上がっているという
▼きょうの「大暑」も、はっきりしない天気になりそうだ。盛岡はそうでもないが、沿岸や関東地方は梅雨寒が続く。選挙の熱量がいまひとつだったのは、そのせいか
▼コーラやウーロン茶を日本で初めて詩にしたのは、光太郎と言われる。〈ウウロン茶、風、細い夕月〉。〈柳の枝さへ夜霧の中で/白つぽげな腕を組んで/しんみに己(おれ)に意見をする気だ/コカコオラもう一杯〉。飲み物に心の内を投影させる人だった
▼そのコーラなどの飲料も、今夏は販売の落ち込みが伝えられる。週間予報は曇りがちだが、土日には日照が戻りそうだ。冷えたビイルやコオラを文字に味わうだけで、ぎらつく夏の太陽が恋しくなる。



ビールをのむ時つまみ物は」云々は、随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)。雑誌『ホーム・ライフ』に掲載された比較的長いもので、『高村光太郎全集』第20巻に収録されています。

下戸の当方、あまり実感がわきませんが「ビール党あるある」がけっこうちりばめられているようです。

曰く、

小さなコツプへちびちびついで時間をとつて飲んでゐるのは見てゐてもまづさうだ。(略)ビールは飲み干すところに味があるのだから飲みかけにすぐ後からまたつがれてしまつては形無しである。(略)ビールの新鮮なものになるとまつたくうまい。麦の芳香がひどく洗練された微妙な仕方で匂つて来る。どこか野生でありながらまたひどくイキだ。さらさらしてゐてその癖人なつこい。一杯ぐつとのむとそれが食道を通るころ、丁度ヨツトの白い帆を見た時のやうな、いつでも初めて気のついたやうな、ちよつと驚きに似た快味をおぼえる。麦の芳香がその時嗅覚の後ろからぱあつと来てすぐ消える。すぐ消えるところが不可言の妙味だ。(略)二杯目からはビールの軽やかな肌の触感、アクロバチツクな挨拶のやうなもの、人のいい小さなつむじ風のやうなおきやんなものを感じる。十二杯目ぐらゐになるとまたずつと大味になつてコントラバスのスタツカートがはひつて来る。からだがきれいに洗はれる。

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写真は昭和27年(1952)、戦前から行きつけだった三河島のトンカツ屋・東方亭で。たしかに目の前にピール瓶が並んでいますね(笑)。


「風土計」、コーラやウーロン茶にも言及されています。コーラは大正元年12月の雑誌『白樺』に載った詩「狂者の詩」、ウーロン茶は同じ年の雑誌『朱欒』に載った詩「或る宵」に登場します。

ところで、「風土計」冒頭の「何もかもうつくしい/このビイルの泡の奮激も/又其(それ)を飮(の)むおれのこころの悲しさも」という一節、出典が分かりません。ご存じの方はご教示いただければ幸いです。

追記 当該の詩は「カフエライオンにて」(大正2年=1913)、『高村光太郎全集』では補遺巻の第19巻に収められていました。

【折々のことば・光太郎】

何しろ非常に頭のいい人ですから、うつかりした質問でもしようものなら、その質問の下らなさ加減で、お前はもう駄目だ、試験なんか受けなくてもいいと言はれさうな気がして、質問したい事があつても却々(なかなか)切り出せなかつたものです。

談話筆記「頭の良い厳格な人――鷗外追悼――」より
 大正11年(1922) 光太郎40歳

光太郎、東京美術学校時代に鷗外が担当していた美学の講義を受けています。その頃から尊敬はするけれども、親しくつきあいたい人ではないと思っていたようで……。のちにはうっかり「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、鷗外に自宅に呼びつけられて説教されたこともありました(笑)。

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写真は明治44年(1911)、鉄幹与謝野寛の渡欧送別会での集合写真。後列左から5人目が光太郎、前列左から4人目が鷗外です。二人、前後に並んでいます(笑)。

テレビ放映情報です。

にほんごであそぼ

NHK Eテレ 2019年7月30日(火) 6時35分~6時45分  再放送 17時00分~17:10

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。今回は、玉屋鍵屋、文楽/智恵子は東京に空が無いといふ「あどけない話」高村光太郎、ヨシタケ×山陽のおよおよ/「蟹工船」小林多喜二、歌/浜辺の歌、五十三次ロケンロー。

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公式サイトに拠れば、「今週は、リクエストを頂いた回の再放送です!」だそうで、調べてみましたところ、平成29年(2017)6月29日に初回放映のあった回のようです。

文楽の三代桐竹勘十郎さんによる人形浄瑠璃仕立てで、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の冒頭2行「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」が、50秒間で演じられます。

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この番組、時折、光太郎詩を取り上げて下さるので、ありがたい限りです。再放送や過去の映像の使い回しも多いのですが、それでもありがたく存じます。

ちなみにここ数年ですと、「人に」(大正元年=1912)、「道程」(大正3年=1914)、「」(大正2年=1913)、「冬が来た」(大正2年=1913)など。それらの回も再放送を望みますし、新作もどんどん作っていただきたく存じます。そして、主な視聴対象である小さいお子さん達に、光太郎の名と作品を刻みつけていただきたいものです。


ちなみに明晩はNHK BSプレミアムさんで、やはり「あどけない話」に関わる「偉人たちの健康診断東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」が放映されます。併せてご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンに対する敬愛の情が此の訳をさせたのは素よりの事である。面白づくと一緒に考へられては堪らない。

雑纂「「ランスの本寺」の正誤と訂正、其他」より
 大正4年(1915) 光太郎33歳

翌年、単行書として刊行される光太郎訳の『ロダンの言葉』に関して。「面白づく」は「おもしろいというだけで、無責任にすること。興味本位」。そんなものではないのだよ、という宣言です。

雑誌系を2件。


まず、NHKサービスセンターさんで発行している『NHKウィークリーステラ』。NHKさんのテレビ・ラジオ番組ガイド的な雑誌です。

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明後日放映の「偉人たちの健康診断 東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」が、意外と大きく取り上げられています。

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高村光太郎と妻・智恵子の愛の記録 『智恵子抄』を現代医学の視点で読み解く

 太平洋戦争前夜の1941年8月、ある一冊の詩集がこの世に出た。彫刻家の高村光太郎が、妻・智恵子との日々をつづった『智恵子抄』だ。
 明治末期、まだ女性が画家になるなど考えられなかった時代に画家を目指した智恵子。世間の冷たい目にさらされる中、「芸術は自由であるべき」と主張する光太郎に出会い、2人は結ばれる。
 しかし生活は困窮、結婚の翌年、智恵子は肺結核を患う。病状が悪化するたびに福島県の実家へと赴いた智恵子は、東京よりも濃い安達太良山の青空を“ほんとの空”と呼んで愛した。現代医学の視点から見ると、自然に親しむことは副交感神経を活性化し、リラックス効果を得ることができるという。
 智恵子が40代半ばになったころ、商売をしていた実家が倒産。直後から智恵子には、幻覚の症状が表れ、それを絵に描き写すようになる。医師の診断は現代で言う「統合失調症」。入院した智恵子は、差し入れの千代紙などを使って切り絵に没頭していった。近年の研究によると、統合失調症の人は好きなことに熱中すると、症状が安定するという。
 智恵子は何に苦しみ、何を救いとして生きたのか? 美しくも悲しい2人の愛の記録『智恵子抄』を現代医学の目でひもとく。


NHK BSプレミアムさんで、初回放映は明後日、7月25日(木)です。再放送は来週8月1日(木)の朝。ぜひご覧下さい。


続いて、毎月ご紹介しています『月刊絵手紙』さん。「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載があり、今号は昭和14年(1939)の随筆、「書について」から。

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平成29年(2017)の12月号でも、まったく同じ文章が使われましたが、今号が光太郎も絶賛した良寛の書を特集しているということで、あえて同じものを再録したとのことです。

この連載もさらに長く続いて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

僕の芸術のよい所とわるい所とをたしかにありありと、感知し得るものは世に二人しかない。君は其の貴い一人だ。君にこのあはれな集をおくる僕のまづしい喜びを信じて下さい。

雑纂「水野葉舟宛「道程」献辞」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

親友の作家・水野葉舟に贈った第一詩集『道程』の見返しにしたためた文言です。

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二人しかない」という「僕の芸術のよい所とわるい所とをたしかにありありと、感知し得るもの」の一人が葉舟。もう一人は、おそらく智恵子でしょう。

明治末に急逝した碌山荻原守衛が存命であれば、ここに加わったかも知れませんが。

新刊……といっても2ヶ月近く経ってしまっていますが……昨日、たまたま行った新刊書店で見つけました。

泥酔文学読本

2019年5月30日 七北数人著 春陽堂 定価2,400円+税

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酒と文学はよく似ているーー 陶酔を誘う文学と酒は、ともに摂取した者を別世界へ連れて行ってくれる。 酒も文学も、その世界の心地よさにハマってしまうと、抜け出せなくなる。 だから、読み続けるしかない、飲みつづけるしかない…… 古今東西の文学作品に描かれてきた、様々なる酒と多様なる酔い方を紹介。 すべての文学と酒愛好家に送る珠玉のエッセイ!!

【登場する作家たち】※五十音順
赤江瀑、赤塚不二夫、亜樹直、芥川龍之介、阿刀田高、アポリネール、アンダソン(シャーウッド)、アンデルセン、アンブローズ・ビアス、飯田蛇笏句、池澤夏樹、石川桂郎、石田波郷、色川武大、ヴァーリイ(ジョン)、ヴァレリー、宇能鴻一郎、大藪春彦、岡本かの子、小川未明、開高健、甲斐一敏、梶井基次郎、片岡義男、香山滋、北方謙三、北原白秋、グリーン(グレアム)、ゲーテ、源氏鶏太、古今亭志ん生、小酒井不木、コッパード、小松左京、コルタサル(フリオ)、坂口安吾、坂口綱男、佐藤垢石、沢木耕太郎、サン=テグジュペリ、司馬遼太郎、澁澤龍彥、杉浦日向子、スティーブンソン(R・L)、ダール(ロアルド) 、高村光太郎、太宰治、田中康夫、谷崎潤一郎、種田山頭火、チュツオーラ(エイモス)、筒井康隆、デフォー(ダニエル)、中井英夫、中里介山、中島らも、中原中也、中村彰彦、ニエミ(ミカエル)、萩原朔太郎、原田禹雄、火野葦平、フィニイ(ジャック)、藤枝静男、藤本義一、ブラウン(フレドリック)、ブラッドベリ(レイ)、プルースト、古谷三敏、ヘンリー(O)、星新一、牧野信一、三浦哲郎、水谷準、宮沢賢治、宮本百合子、村上春樹、莫言、森鴎外、山川健一、山川方夫、山本昌代、夢枕獏、吉田秋生 吉田健一、吉行淳之介、四方屋本太郎、ロート(ヨーゼフ)、若山牧水

目次
はじめに 陶酔の月ジュース
I 泥酔する作家たち
 坂口安吾の酒 べらんめえ文学論 青春のように悲しいビール 電気ブラン今昔
 酒中花と水中花 ダダイスト辻潤の放蕩 スペインの酒袋 宿酔日和 酒の音色
 末期の水 風狂の吹き溜まり 生きいそぎの記 妄想の酒場 バーボンにはピスタチオを
II 物語のなかのアルコール
 村上春樹の酒 サバイバルはラム酒で ヤシ酒が飲みたい! 夕焼け色のワイン
 シャンパン・バブル オハイオ州ワイン町 マッコリこわい 不老不死の酒
 シャンパンと三鞭酒 雪見酒 鶴血酒 珠玉探求 ウイスキーボンボン XYZは最期の酒
III 泥酔の文学誌
 聖なる酔っぱらいの伝説 楽園へのいざない バーは異界への入口 魔人のいる店
 カフェ・カクテール 悪魔の酒 少年と酒とロック おそるべき中国文学
 壺の中のユートピア 猩々ども! 酔わせて倒せ! 酔って候 骨酒ヒレ酒スルメ酒
 シネフィルの呪文 別れに乾杯! テイスティングは超能力か 白酒と青酎
 ウイスキー坊主 硬派なナンパ本
IV 酩酊のその先へ……
 付喪神の戯れ 酒器愛玩 酒虫の秘技 菊の精の契り 鏡のある酒場 人魚は酒が好き
 髑髏盃 海も川も酔っぱらう 人を呑んだ話 恐怖の宴会芸 河童の酒宴 赤い酒の霊力
 終わりの日々を…… α次元にいる智恵子
あとがき
作家・作品名一覧

010酒文化研究所さんという団体が発行の『月刊酒文化』という会員誌に連載中のものの既発表分だそうです。古今東西の文学作品等から、「酒」にまつわる一節を書き出し、そこから広がる酒談義・作家論・人生論といった趣です。

光太郎が名誉ある大トリです(笑)。「α次元にいる智恵子」という項で、メインは詩「梅酒」(昭和15年=1940)の一節。それプラス『智恵子抄』や『智恵子抄その後』から、「亡き人に」(昭和14年=1939)、「元素智恵子」(昭和25年=1950)、「案内」(同)、「智恵子と遊ぶ」(昭和27年=1952)から詩句が引用され、戦後の花巻郊外旧太田村での山小屋生活、それを切り上げて取り組んだ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作などに触れられています。

また、この項以外でも「サバイバルはラム酒で」という項で、やはり旧太田村での蟄居生活に筆が及んでいます。この項、メインはR・L・スティーブンソンの『宝島』なのですが。

その他、光太郎智恵子と交流のあった面々――岡本かの子、北原白秋、中原中也、萩原朔太郎、宮沢賢治、森鷗外など――も登場します。

「パンの会」の盟友だった白秋はともかく、ストイシズムのかたまりのような(笑)賢治は、酒と関係ないのでは……と思ったら、童話「やまなし」の最後で、川に落ちた梨が発酵して酒が出来るという話(「海も川も酔っぱらう」)や、同じく童話「雪渡り」の、狐の幻灯会で「お酒をのむべからず」という話が出て来た件(「雪見酒」)でした。

ぜひお買い求めください。


【折々のことば・光太郎】

明治十六年三月生 東京美術学校出身 彫刻自営

雑纂「略歴」全文 昭和16年(1941) 光太郎60歳

詩集『智恵子抄』に載せた略歴です。

昨日ご紹介した「高村光太郎自伝」も短いものでしたが、こちらはさらに上を行く短さ(笑)。いったいに光太郎、ある時期まで自らの来し方には興味があまりない、というスタンスだったように思われます。

昨日の『朝日新聞』さんの読書面に、先月刊行された中村稔氏著 『高村光太郎の戦後』の書評が大きく出ました。

『高村光太郎の戦後』 中村稔〈著〉  ■自らの「愚」究明する表現人の責任

 19世紀ドイツの法学者ギールケは、普仏戦争開戦直前の首都ベルリンで、「共同体の精神が、原始の力で、ほとんど官能的な形象を伴ってわれわれの前に発現し、……我々の個としての存在を感じさせなくなる」経験をしたという。同種の体験が日本では、共同体精神の特権的な表現人であった天皇を、表象として用いて語られる。
 たとえば、真珠湾攻撃の一報をきいた体験を、詩人・高村光太郎は次のように回想している。「この容易ならぬ瞬間に/……昨日は遠い昔となり、/遠い昔が今となつた。/天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。/……私の耳は祖先の声でみたされ、/陛下が、陛下がと/あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。」(「暗愚小伝」から)
 以降の高村は、共同体精神の卓越した表現人として、戦争を鼓舞する詩を書いた。少なからぬ若者がそれに励まされて死地に赴いた。そうした「世代」の文芸的精神の中に、いいだもも、村松剛の如(ごと)き左右両極の批評家、最高裁判事を務めた大野正男、そして本書の著者・中村稔もいたのである。
 戦後派としての彼らがそれぞれに格闘した「日本」という問題は、しかし、時局への加担者として「二律背反」に苦しんだ高村によっても、真摯(しんし)な反省の対象となっていた。自らを「愚劣の

典型
」とみて、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたか」を究明した、高村の「致命点摘発」の作業は、「暗愚小伝」を含む詩集『典型』に結実した。
 中村稔は、詩人としても法律家としても、そうした高村に一貫して拘(こだわ)ってきた。その文学人生の最終盤に、高村の「戦後」といま一度腰を据えて取り組んだのが本書である。この重みを踏まえなければ、岩手・花巻郊外の言葉も通じない山中で、高村が独居生活した戦後の7年間を、何故「冗漫に耐えて」執拗(しつよう)に追体験しようとしているのかは、理解できない。
 しかも感動的なのは、そうした地道な作業の結果、齢(よわい)92歳の著者が、近著『高村光太郎論』でも披瀝(ひれき)された若き日からの持論を「あさはかな批評」と断じて、自ら改めるに至ったという事実である。
 かねて評価した歌人
斎藤茂吉の中に、中村は、「社会的存在としての人間の生」の視点の欠落を発見し、そうした他者を想定せずには成立しない「責任」の観念の蒸発が、戦争を賛美した過去に向き合う「知識人の責務」の欠如をもたらしていることに失望する。そして、これとの対比から、表現人としての戦争責任から逃げず、「民衆」に分け入ることで「自主自立」の精神を再建した実例を、かつて弁明のみ目についた『典型』に、慥(たし)かに見出(みいだ)すに至ったのである。
 評・石川健治(東京大学教授・憲法学)

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評を書かれた東大の石川健治教授の光太郎観がかなり反映された評にも読めますが、「自らの「愚」究明する表現人の責任」というタイトルが、我が意を得たりという感じです。途中にいろいろ名が挙げられている人々の中に、吉本隆明が入っていれば、さらによかったのですが。

多くの前途有為な若者を死地に追い立てた戦時中の詩文に対し、光太郎は「乞はれるままに本を編んだり、変な方角の詩を書いたり、」(連作詩「暗愚小伝」中の「おそろしい空虚」より)としましたが、「誤解を与えたとすれば撤回します」的な発言はしていません。そしてしっかりその責任を取るため、自らを流刑に処する「自己流謫(るたく)」の7年間を、花巻郊外旧太田村のあばら屋に送りました(この「自己流謫」に就いての中村氏の解釈はかなり手厳しいのですが)。

『高村光太郎の戦後』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

明治十六年三月、東京下谷に生る。東京美術学校彫刻科卒業。与謝野寛先生の新詩社に入りて短歌を学ぶ。一九〇六年より一九〇九年夏まで、紐育、倫敦、巴里等に滞在す。真に詩を書く心を得しは一九一〇年(明治四十三年)以後の事なり。一九一四年詩集「道程」出版。以後詩集無し。以上。

雑纂「高村光太郎自伝」全文 昭和4年(1929) 光太郎47歳

この年新潮社から刊行された『現代詩人全集第九巻 高村光太郎 室生犀星 萩原朔太郎集』に寄せたものです。『智恵子抄』刊行前ですので、『道程』以後、詩集無しということになっています。

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簡にして要、というか、ある意味そっけないというか……。同じ巻に収められた犀星、朔太郎のそれの約半分です。

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TBSさん系のローカルテレビ局・IBC岩手放送さん。毎週金曜日の夜に「ぶっくまーく岩手」というミニ番組を放映なさっているそうです。

「ブックマーク」は栞(しおり)ですね。「しおりをはさんで、また見たくなる。そんな岩手の映像を、毎週お届けします。いにしえから受け継がれてきた伝統の匠の技、北国ならではの美味しい食べ物、 懐かしくも美しいみちのくの風景、岩手ファンを増やす魅力的な観光地、など、など。2分30秒に凝縮した珠玉の映像と音声で、つづって行きます。」だそうで。

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ネット上でも配信されており、先週、花巻高村光太郎記念館さんの回がアップされました。

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いつ放映されたものかよくわかりませんが、雪の季節のロケだったようで……。

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彫刻作品が展示され、詩の朗読を聞けるコーナーもある、第一展示室。

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光太郎の遺品や書などを展示する第二展示室。

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隣接する、光太郎が昭和20年(1945)の秋から丸7年間を暮らした山小屋(高村山荘)の紹介も。

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全国ネットでも放映していただきたいものです。

また、学校さんも夏休みに入り、そろそろ梅雨明けでしょうし、夏の観光シーズンとなります。ぜひ現地にも足をお運びいただきたく存じます。


【折々のことば・光太郎】

宮沢賢治の清書原稿は甚だきれいであるが、その手記初稿の難読さは想像以上で、殆と古代エジプト的イエログリフに近い。編者はその解読に一方ならぬ努力をしてゐるが、筆写の際、万一にも魯魚の誤なきを期しがたい。

雑纂「宮沢賢治文庫おぼえ書」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

『宮沢賢治文庫』は、昭和21年(1946)から同24年(1949)にかけ、日本読書購買利用組合から、光太郎と賢治の実弟・清六の編集で6冊が刊行されました(予定では全11巻)。装幀・題字は光太郎。各巻に光太郎と清六による「おぼえ書」が収められています。

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当方手持ちのものは、花巻高村光太郎記念館さんに無期限貸与中(笑)。第二展示室にて展示されています。上記は平成28年(2016)にTVIテレビ岩手さんで放映された「5きげんテレビ」から。キャプションが間違っていますが。

それにしても、賢治の筆跡を「イエログリフ(ヒエログリフ)」とは、すごい例えですね(笑)。もっとも、こういう状態ですからむべなるかな、という気もしますが。

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以前もちらっとご紹介しましたテレビ放映情報です。

偉人たちの健康診断「東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」

NHK BSプレミアム 2019年7月25日(木) 20時00分~21時00分  再放送 8月1日(木) 8時00分~9時00分

健康のヒントは歴史にあり!歴史上の人物の日常生活や病歴、さらには健康へのこだわりから、現代の私たちが元気で長生きするためのヒントを探ります。

太平洋戦争前夜の1941年、一冊の詩集「智恵子抄」がベストセラーとなった。彫刻家・高村光太郎が、画家を目指す妻・智恵子との出会いから死別までの27年間の愛の軌跡をつづった純愛詩集だ。そこには、夫・光太郎をこよなく愛しながらも数奇な運命に見舞われた智恵子の、心と体が発するSOSが記されていた!そして、ついに心を病んでしまった智恵子の心を、夫のもとにつなぎとめた奇跡の○○○とは?時代を超えた純愛物語!

【出演】 関根勤 カンニング竹山 榊原郁恵
【解説】 郷原宏 河村正二 宮崎良文 池淵恵美
【司会】 渡邊あゆみ

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当会顧問・北川太一先生がお持ちの、智恵子から母・センに宛てた書簡が紹介されるそうで、その他、NHKさんですのでCMが入りませんから、正味1時間、けっこうみっしり詰まった内容になるかと存じます。

スタジオゲストの郷原宏氏は、昭和58年(1983)に、未来社から『詩人の妻 高村智恵子ノート』という書籍を刊行された方で、平成27年(2015)にBSフジさんで放映された「発掘!歴史に秘めた恋物語~高村光太郎と智恵子~決して女神でない」にもご出演なさいました。

NHKさんというと、やはり平成27年(2015)に、「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」を放映して下さいましたが、その際の映像がいろいろと使い回しされるようです。

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今回の予告編に出たこちら。左は「ヒストリア」の再現Vに出演された鈴木一真さんと前田亜希さん。右の『智恵子抄』は、「ヒストリア」の際にお貸しした当方手持ちの『智恵子抄』です(笑)。昨年放映された「民謡魂 ふるさとの唄 福島県二本松市」でも使われました。どうもNHKさん内部でアーカイブ的な映像として登録されているようです。

こちらも前田亜希さんですね。

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番組内容紹介にある「心を病んでしまった智恵子の心を、夫のもとにつなぎとめた奇跡の○○○とは?」の「○○○」、最初は「レモン」かな、と思っていました。昭和13年10月5日(水)、南品川ゼームス坂病院で、光太郎が持参したレモンをがりりと噛んで、一瞬、意識が正常に戻って逝ってしまった智恵子。そこで、レモンには精神を落ち着かせる効用が……的な話になるのかなと思っていましたが、どうもそうではないようです。

予告編に拠れば「○○○」は「アート」。なるほど、最近はやりのパラアート的な部分、アートセラピーなどの分野で智恵子の紙絵が取り上げられることも多いので、そっちか、という感じでした。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

自分の彫刻がもう一ぺん生きかえつて来たのを、大変ありがたいと思つて感謝しております。

談話筆記「裸婦像完成記念会挨拶」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

智恵子の顔を持つ、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の完成記念会での挨拶から。

よくあるたとえの、ローソクの火が燃え尽きる前に一瞬輝きを増す、まさしくそれが起こったわけで、同じ挨拶で光太郎が述べたとおり、像の制作中はそれまで悩まされていた結核性の喀血も不思議と止んだそうです。

まじめな論文などでは許されないのでしょうが、あの世から智恵子が力を貸してくれた、的な、そんな解釈をしたくなります。

先週のテレビ朝日さん系列のニュースから。

災害の教訓活かせ! 13年ぶり「地図記号」で減災へ

 どこにどんな施設があるかなどを地図上に示す「地図記号」。現在、130種類以上もあるが、今回、13年ぶりに新たな地図記号が制定された。そのきっかけとなったのは1年前のあの災害だった。
 地図記号を定める国土地理院はなぜ新たな記号を誕生させたのか。自然災害伝承碑。過去に起きた地震や津波など自然災害の教訓を後世に伝えるためのものだ。
 1年前、300人近くが亡くなった西日本豪雨。被害の大きかった広島県坂町には約100年前の水害を伝える石碑があったのだが、存在を知らない住民も多かったという。ウェブ上にはすでに180基以上の情報が載っている。
 9月からは紙の地図にも順次、反映していくといい、その数も増えていく見込みだ。なかには、宮城県女川町のいのちの石碑。東日本大震災の教訓を伝えようと当時、小学生だった地元の有志が町内に設置した。この石碑も記号となり、今後、地図に掲載されていく予定だ。

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そして、昭和6年(1931)に紀行文執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して光太郎文学碑を建立、さらに毎年女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町に建てられ続けている、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。

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実際に国土地理院さんの当該ページを覗いてみました。

残念ながら、女川町に関してはまだ情報が登録されていませんでしたが、隣接する石巻市の部分では既にアップされています。

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昭和8年(1933)の昭和三陸大津波、そして平成23年(2011)の東日本大震災。

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まさしく「温故知新」。大切なことだと思います。


【折々のことば・光太郎】

芸術の郷土性と世界性との関係には実に汲めどもつきぬ妙味があります。

雑纂「岩手県立美術工芸学校第一回卒業式祝辞」より
 
昭和26年(1951) 光太郎69歳

生粋のパリジャンだったロダンに対し、フランス南部モントーバンの出身であるブールデルを引き合いに出し、ロダンの都会芸術とは別種の風を吹き込んだことを紹介してからの流れです。

昨日のこの項で紹介した、同じ岩手県立美術工芸学校の開校式祝辞(昭和23年=1948)では、岩手に新渡戸稲造や石川啄木、宮沢賢治などの稀有な才能が排出したことにもふれています。

昨日は「第54回十和田湖湖水まつり」の模様をお伝えしましたが、同じく十和田湖でのイベントです。

十和田湖ウオーク2019

期 日   : 2019年7月21日(日
会 場 : スタート・ゴール 十和田湖ウォーク特設会場
                               青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋486
時 間 : 1周コース(約50㎞) 集合5:30 開会式5:40 スタート6:00
         ファミリーコース(約12㎞) 集合9:50 開会式10:00
料 金 : 大人3,000円  中高生2,000円  小学生1,500円  小学生未満無料

十和田湖の湖畔1周(約50キロ)を踏破するイベント。湖畔の観光名所・休屋を発着点として起伏の多い約50キロに挑む一周コースと、遊覧船で湖上からの景観を楽しんだ後、子ノ口-休屋の約12キロを歩くファミリーコースを実施する。

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ぐるっと十和田湖を1周する「1周コース」(約50キロメートル)、休屋地区から遊覧船で奥入瀬渓流の入り口である子の口まで行き、そこから休屋地区に戻る約12キロメートルの「ファミリーコース」の2本立てだそうです。

1周、ファミリー両コースとも、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、湖畔休屋地区の特設会場からスタート。ゴール地点も同じ。

これまでもこのイベントは開催されていました(ちなみに昨年は2コースで1,000人以上が参加したそうです)が、光太郎との絡みは無いだろうと思い、紹介せずにいました。しかし今年、フライヤーに「乙女の像」が描かれているのを見て、紹介せねば、と思った次第です(笑)。

ただ、おそらく像のかなり手前にある、冬場に「十和田湖冬物語」会場として使われる広場がスタート/ゴール地点なのでしょう。

参加申し込みは終わっているようですが、こういうイベントもあるんだということで。ことによるとキャンセル等で空きがあるかもしれませんし。

同じく光太郎ゆかりの地・花巻でも、来月「第22回 いわて花巻 イーハトーブの里ツーデーマーチ」が行われます。また近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一般に岩手県といふと地方の中の地方、田舎の中の田舎のやうに都会の人は考へてゐるやうですが、どういたしまして、その岩手県は美の宝庫のやうなところであると小生は考へてゐます。天然自然に於いてもさう。民衆文化の集積に於てもさう。又現にこの県民一般の美に対する感受性と美に於ける創造性とを考へても、さう思はずにゐられません。

雑纂「岩手県立盛岡美術工芸学校開校式祝辞」より
 
昭和23年(1948) 光太郎66歳

県立美術工芸学校は、現・岩手大学教育学部芸術文化課程造形コースさんです。そこで、多分にリップサービスも入っているような気がしますが、かけていた期待の大きさはこういうものでした。

開校当初の校長は森口多里、教授陣には深沢省三・紅子夫妻、舟越保武、堀江赳などがいました。

過日開催された「第54回十和田湖湖水まつり」の模様が報道されていますのでご紹介します。

まず、青森の地方紙『東奥日報』さん。

十和田湖湖水まつり14日まで/カヌー体験はデートにぴったり?/夜は迫力打ち上げ花火

 十和田湖に夏の訪れを告げる「十和田湖湖水まつり」が13日、青森県十和田市の休屋地区で開幕した。好天に恵まれた初日、観光客が湖畔を巡るツアーやカヌー体験などを満喫。夜は湖上から打ち上げられた花火を楽しんだ。まつりは14日まで。
 汗ばむ陽気になった初日、十和田湖に伝わる物語を聞きガイドと歩く「夏さんぽ」や、占い場を巡るツアー「占い場クルーズ」、十和田ビジターセンターでのクラフト体験、カヌー体験と多彩な催しが繰り広げられた。約1時間、カヌー体験をした東京都の実躍華(じつやくか)ちゃん(4)は「楽しかった。疲れなかったよ」と話した。夏さんぽでは、十和田奥入瀬観光機構の山下晃平さんが、湖に伝わる話を説明しながら十和田神社や乙女の像などのポイントを巡り散策した。
 午後6時から乙女の像がライトアップされ、会場の雰囲気を演出。花火観覧船4隻が運航され、同8時から船上からの打ち上げ花火を楽しんだ。今年は大曲花火大会などで活躍する秋田県大仙市の花火職人が手掛けた大迫力の大輪が湖面を彩った。
 14日はペダルボートレース(午前10時半~)やバルーンアート体験(午後2時~)も予定している。花火は午後8時から打ち上げられる。まつりは実行委員会が主催し、54回目。問い合わせは実行委(電話0176-75-1531)へ。

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続いてRAB青森放送さんのローカルニュース。

2019.8.9 みすず野十和田湖 湖水まつり(青森県)

夏の十和田湖観光の幕開けを告げる「十和田湖 湖水まつり」が始まり、訪れた観光客が湖畔を散策したり花火大会を楽しみました。
「十和田湖 湖水まつり」は十和田湖畔の休屋地区できのう13日開幕しました。
午後から青空が広がった湖畔には多くの観光客が訪れ、乙女の像までの遊歩道を散策したりボートに乗るなどして十和田湖の雄大な自然を満喫していました。
★観光客は
「すごくいいです。自然が豊かで」
「2人とも初めて来たんですけど、すごく透明度が高くてボート乗ったりしたんですけど」
「楽しかったね、きれい、すごくきれいでした。来てよかったです」
日が暮れると恒例の花火大会が開かれました。
ことしは秋田県大仙市の花火師が製作した大型花火など色とりどりの1200発が湖畔の夜空を彩りました。
「十和田湖 湖水まつり」はきょう14日まで開かれ、カヌー体験や夜には花火が打ち上げられます。

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最後に、秋田大曲に本社を置く『北鹿新聞』さん。 

湖上彩る大輪2400発 十和田湖「湖水まつり」 夏観光の幕開け告げる


小坂町と青森県十和田市にまたがる十和田湖
に夏の観光シーズンの幕開けを告げる「湖水まつり」(実行委主催)が13、14の両日、湖畔休屋で開催された。観光客らが湖畔の散策やカヌー体験、湖上花火など、昼夜を通してのイベントを楽しんだ。
 夏の十和田湖の活性化を目的に行われており、今年で54回目。呼び物の湖上花火は、大仙市の花火師による直径300㍍まで花開く10号玉を含め、1日約1200発、2日間で計約2400発が初夏の夜空に打ち上げられた。
 初日の13日は、整備された桟橋前広場や散策路、県境付近の桂ケ浜、「乙女の像」へと続く御前ケ浜などに国内外から訪れた家族連れや、カップルなどが陣取った。
 水面いっぱいに広がる水中花火、豪快な10号玉、スターマインなど数々の仕掛け花火が台船を使って湖上から打ち上げられると、詰めかけた見物客からは大きな歓声。夜空に広がる花火が湖面に反射し、美しさと豪快さを堪能していた。

ご紹介した各社報道、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に触れて下さり、ありがたく存じます。

夏の観光シーズンとなります。ぜひ十和田湖へも足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一時のやうなばかばかしい褒貶の議論もなくなつて、彼の彫刻はいま一つの静かな歴史的クリテリオムの壇上に立つて、遠い古代に於いてのみならずこの近代の現実に於いても尚ほ人力が人力以上をおもはせる境にまで到り得ることのあかしを示してゐる。

雑纂「「ロダン」後記」より 昭和24年(1929) 光太郎67歳

この年、昭和2年(1927)に刊行された光太郎著の評伝『ロダン』が白玉書房から再刊されることとなり(結局、ポシャりましたが)、そのために書かれた後書きから。

彫刻のみならず美術界全体に多大な影響を与え、いい意味で時代を「席巻」したロダン。毀誉褒貶の嵐は存命中、そして大正6年(1917)に没してからもしばらく続きました。戦後ともなるとほぼほぼその評価も定まり、そのあたりのことを言っているわけです。「クリテリオム」はラテン語で「基準」を表します。

7月13日(土)、村民体育センターで行われた、当会の祖・草野心平を顕彰する第54回天山祭り会場を後に、千葉の自宅兼事務所に向かいましたが、帰りがけ、少し寄り道をしました。

洞秀山泰亨院長福寺さん。村はずれの山の麓にありました。

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昭和28年(1953)、「モリアオガエルを見てみたい」という心平が新聞に書いた文章を読んだこちらの矢内俊晃住職が、川内村の平伏(へぶす)沼がモリアオガエルの繁殖地だと心平に教え、招きました。これが以後、昭和63年(1988)に心平が亡くなるまで続いた心平と川内村との縁の始まりでした。

昭和53年(1978)撮影の矢内住職と心平。

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そうした関係で、同寺には心平揮毫の石碑などが建っているというので、拝見しておこうと思った次第です。

山門脇の駐車場に愛車を駐め、降り立つと、心平碑ではありませんが、目の前に「東日本大震災被災物故者供養塔」。調べてみましたところ89名という決して少なくない数が川内村の震災による死者数として記録されていました。山間部なので津波の被害はなかった川内村ですが、いわゆる関連死などなのでしょうか。線香を手向けさせていただきました。

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山門には、レトロな自転車が。昭和55年(980)に亡くなった矢内住職の愛車だそうですが、あえてそのままここに置いてあるとのこと。

山門をくぐり、山の斜面を本堂目指して登って行くと、ほどなく碑が。

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「長福寺雨蕭々 心平」。光太郎のそれもそうですが、心平の筆跡、かなり遠くからでもそれとわかります。昭和34年(1959)の建立だそうです。

近づいてみて、驚きました。『歴程』同人の山本太郎の添え書きもある、という情報は事前に得ていたのですが、山本以外にも錚々たるメンバー。心平を中心とした寄せ書き的な書をそのまま碑に写したもののようです。

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鳥見迅彦。詩集『けものみち』(昭和30年=1955)の題字を光太郎が揮毫しています。

會田綱雄。昭和32年(1957)、詩集『鹹湖』で、第一回高村光太郎賞を受賞しました。心平との縁は中国南京で知り合ったことがきっかけでした。

島崎蓊助(おうすけ)。藤村の三男で、光太郎と書簡のやりとりをしていました。新潮社で『島崎藤村全集』編集に当たり、同書付録の『藤村研究』に光太郎が「夜明け前」雑感(昭和25年=1950)を寄稿した際に橋渡しをしたと推定されます。光太郎再帰京後の昭和28年(1953)には、新宿のバーで光太郎、心平、蓊助の三人で呑んだことも。

山本太郎。昭和54年(1979)、筑摩書房から刊行された『智恵子紙絵』の編集に当たり、光太郎智恵子への頌詩を寄せました。父は版画家の山本鼎。東京美術学校、新詩社、パンの会などで光太郎と縁が深い人物でした。村山槐多のいとこにあたります。母は光太郎の盟友・北原白秋の妹でした。

以上、『歴程』同人です。それ以外にも、心平の長女・碧、そして矢内住職などの名も刻まれていました。

なぜかは知らねど、涙が出そうになりました(笑)。

碑の前を過ぎ、さらに斜面を上がると本堂や鐘楼。

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その裏手が墓地になっており、そちらにも心平の筆跡が残されているというので、行ってみました。

やはり『歴程』同人で、昭和50年(1975)に亡くなった画家の辻まことの墓です。妻の良子も合葬されているようです。

辻の父はアナーキスト・辻潤。やはり光太郎とも交流がありました。大正13年(1924)刊行の陶山篤太郎詩集『銅牌』の序文を光太郎が書き、英訳を潤が手がけています。また、昭和14年(1939)に刊行された西山勇太郎詩集『低人雜記』では、光太郎が題字を、潤が序文を担当しました。後の西山宛の光太郎書簡には潤の名が頻出します。また、昭和29年(1954)に刊行された『辻潤集』全二巻の編集委員には、光太郎も名を連ねました。

ちなみにまことの母は関東大震災のどさくさで憲兵大尉・甘粕正彦に殺された伊藤野枝です。野枝は智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』の発行を平塚らいてうから受け継いだ人物でした。

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辻の墓と対を為すように、先述の會田綱雄の墓もありました。こちらは事前に存じておらず驚きました。會田の死は心平より遅く平成2年(1990)。したがって、こちらは心平の筆跡ではありませんが、ここに墓があるというのは心平と無関係ではあり得ないでしょう。

この2基にも線香を手向けさせていただきました。


長福寺さんを後に、帰路に就きました。

川内村、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故による全村避難から8年。8割方の世帯が帰還したそうです。実際、久しぶりに訪れてみて、以前にゴーストタウン的だった一角に、住民の方々の姿が見え、復興が進んでいる様子が垣間見えました。こんなの以前はなかったんじゃないかな、という施設も散見されました。

しかしまだまだ復興途上。ぜひ皆様、足をお運びいただき(訪れるだけでも復興支援となります)、心平や光太郎、そして2人を取り巻く人々に思いを馳せていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

実をいふと、自分の旧作をよんでゐて感ずるものは、あれもこれも消してしまひたいやうな衝動である。

雑纂「岩波文庫版「高村光太郎詩集」はしがき」より
 
昭和29年(1954) 光太郎72歳

交流の深かった美術史家・奥平英雄が編集にあたり、現在も版を重ねる岩波文庫版『高村光太郎詩集』が刊行されまして、それに寄せた文章の一節です。

もはや自らの生命の火が消えかかっていることを認識していた光太郎、やはり自らの来し方には手厳しかったといえるでしょう。

昨日は福島県双葉郡川内村に行っておりました。同村の名誉村民で当会の祖・草野心平が生前に愛し、歿後はその顕彰を兼ねて行われ続けている、天山祭り。今年で54回目だそうで。しばらく欠礼しておりましたが、久しぶりにお邪魔いたしました。

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本来の会場は、心平の川内村での別荘的な天山文庫でしたが、一昨日の時点で天気が怪しいというので村民体育センターに変更。

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当方到着時にちょうど始まったところで、主催者挨拶の最中でした。

実行委員長・井出茂氏。かつてご自宅の小松屋旅館さんで、心平を偲ぶ「かえる忌」も主催されていました。今年、復活させるそうで。

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遠藤雄幸川内村長。ご挨拶の中で光太郎にも触れて下さいました。

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来賓挨拶。心平が主宰していた同人誌『歴程』の新藤凉子代表。

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心平遺影に献花。

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その後、さまざまな皆さんによる心平詩等の朗読。

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まずは川内小学校の6年生児童が自作の詩を。

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詩人のいとうのぼる氏、声優の本間ゆかりさん、同じく栗原康子さん。ライヤーという楽器を伴奏に、心平詩を中心に。

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いとう氏と本間さんは、昨年山梨県立文学館さんで開催された「歿後30年 草野心平展 ケルルン クックの詩人、富士をうたう。」の開会式にもご出演されました。

いとう氏、自作の詩の朗読も。「私の獏は」と題する詩で、光太郎智恵子にも触れて下さっています。

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『歴程』同人の皆さんも、心平詩を。画像は連翹忌にもおいでいただいた事のある伊武トーマ氏。

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この後、樽酒の鏡開きが行われ、お弁当が配布、それをいただきながら懇親会的な。当方、遠藤村長、井出氏、伊武氏など、旧知の方々と久闊を除させていただきました。

アトラクション的に、郷土芸能「西山獅子舞」。詩の朗読をした川内小児童も再度獅子頭をかぶって登場。頼もしい限りです。

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東京芸術大学邦楽部ご出身で、福島大学などで講師をなさっているという、尺八奏者のブルース・ヒューバナー氏。すばらしい演奏でした。

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というわけで、大盛り上がりの天山祭。泉下の心平も喜んだことでしょう。というか、どさくさに紛れてゴザの上にあぐらをかき、ドブロクの茶碗を傾けていたのでは、と思いました(笑)。

末永く続けて行っていただきたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。

雑纂「詩集「智恵子抄その後」あとがき」より
 昭和25年(1950) 光太郎68歳

『智恵子抄その後』は、この年、戦時の休業から復興した龍星閣によって刊行されました。一昨年、龍星閣主人・澤田伊四郎にあてた、同書に関わる光太郎書簡等が澤田の故郷である秋田県小坂町に寄贈されています。

「詩集「智恵子抄その後」」とありますが、実際には散文の方がページ数が多く、「詩文集」というべき書物です。

そのあとがきに、昭和16年(1941)刊行の『智恵子抄』が、「徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた」と書いた光太郎。智恵子に対する贖罪の書、それまでの自分の生き様(世間と没交渉)に対する訣別の書、そしてもちろん最愛の妻・智恵子への挽歌、いろいろな意味合いを含めての万感の思いがこもった一言と思われます。

都内から演奏会情報です。
時 間 : 開演15:00 開場14:30
会 場 : 台東区立旧東京音楽学校奏楽堂 台東区上野公園8番43号
料 金 : 全席自由 ¥3,000

プログラム : 
 作曲部門 (演奏順)
  第二位 畑中良輔賞 麻生海督
   ごびらっふの独白(詩・草野心平) テノール 金沢青児 バリトンサックス 楠瀬亮
  第二位 中田喜直賞 箭内明日香
   ましろの月(詩・ヴェルレーヌ・永井荷風訳) ソプラノ 谷原めぐみ ピアノ 髙木由雅
  第一位 山中惇史
   風三章 (詩・茨木のり子) メゾソプラノ 山下裕賀 ピアノ 高橋優介
 歌唱部門 (演奏順)
  審査員特別賞 藤本保江(ソプラノ)
   山田耕筰 みぞれに寄する愛の歌(詩・大木惇夫) ピアノ 奥田和
  第三位 西村知花子(ソプラノ)
   小林秀雄 つるぎの歌(詩・鶴岡千代子)/中田喜直 
   ”マチネ・ポエティク”による四つの歌曲
   ピアノ 山崎未貴
  第二位 紀野洋孝(テノール)
   別宮貞雄 歌曲集『智恵子抄』(詩・高村光太郎)より  ピアノ 森裕子
   人に/あどけない話/人生遠視/千鳥と遊ぶ智恵子/山麓の二人/レモン哀歌
  第一位 田坂蘭子(ソプラノ) 
   木下牧子 おんがく(詩・まど・みちお)/C.ロセッティの4つの歌/
   涅槃(詩・萩原朔太郎)
  ピアノ 宮脇貴司

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奏楽堂日本歌曲コンクール」は、「日本歌曲の普及と創造的発展を目指し、歌唱部門と作曲部門のコンクール」だそうで、主催は公益財団法人台東区芸術文化財団さんとのこと。

歌唱部門第二位の紀野洋孝氏が、故・別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」から抜粋で演奏なさいます。

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013別宮氏の「歌曲集 智恵子抄」は、昭和57年(1982)の作品で、翌年に初演、昭和61年(1986)には音楽之友社さんから楽譜が刊行されています。

全9曲、今回のプログラムに入っている6曲以外に「深夜の雪」、「僕等」、「晩餐」があります。

全9曲収録のCDは、永田峰雄氏(テノール)歌唱、アントニー・シピリ氏のピアノ伴奏で、カメラータ・トウキョウさんからリリースされています。

抜粋で収録されているCDも、当方、2枚持っております。

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左はビクターさんから出た「わたしたちのにっぽんの歌 第2集 早春賦 城ヶ島の雨 斑猫」。故・四家文子さん他の演奏によるオムニバスで、北村敦子さんという方が、「あどけない話」と「千鳥と遊ぶ智恵子」を歌われています。右は自主制作版とおぼしきCDで、野崎幹子さんという方のライヴ録音。「人に」、「あどけない話」、「」千鳥と遊ぶ智恵子」、「レモン哀歌」が収録されています。

今回もそうですが、各種演奏会等でぽつりぽつりと取り上げられています。


ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】010

私の性来が持つ詩的衝動は死に至るまで私を駆つて詩を書かせるであらう。そして最後の審判は仮借なき歳月の明識によつて私の頭上に永遠に下されるであらう。私はただ心を幼くしてその最後の巨大な審判の手に順ふほかない。

雑纂「詩集「典型」序」より
 
昭和25年(1950) 光太郎68歳

自らの生涯を振り返る連作詩「暗愚小伝」20篇を含む、生前最後となった詩集『典型』の序文から。

刊行日は昭和25年10月25日。第一詩集『道程』は、大正3年10月25日。偶然かもしれませんし、光太郎が意図してその日を指定したのかも知れませんが、同じ10月25日です。

昨日は埼玉県に行っておりました。

県中央部の東松山市、元教育長の故・田口弘氏が光太郎と交流がおありだったため、何度かお邪魔しているのですが、同市の主にシニアの方々向けの社会教育施設「きらめき市民大学」さんで講座の講師を仰せつかり、お話しして参りました。

同市で講師を務めさせていただくのは3度目となりました。最初は昨年、同市の市立図書館さんに田口氏から寄贈された光太郎関連の資料を展示する「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」がオープンした記念講演、「田口弘と高村光太郎―交差した二つの詩魂―」と題して。二度目は今年の1月、市立図書館さんの主催講座で「高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」という題で、光太郎・田口氏とそれぞれ交流の深かった彫刻家の高田博厚をからめ、お話しさせていただきました。

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すると、同市には主にシニアの方々向けの社会教育施設「きらめき市民大学」さんという施設があって、多方面から講師を招いてさまざまな講義を行っており、そちらでも話をしてくれ、ということになった次第です。

そこで、昨日は「高村光太郎と東松山」と題し、講義をさせていただきました。

90分与えられまして、前半は光太郎の生涯のアウトライン、後半は田口氏、高田博厚との関わりから、市内に残る光太郎関連の資料や石碑、彫刻作品などについて。

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つつがなく終えました。

驚いたことに、事務局の方が、田口氏の奔走で光太郎の筆跡を使って建てられた「正直親切」碑の設置場所である市立新宿小学校さんで建立当時に児童会長をなさっていて、除幕式では児童代表で挨拶をなさったそうでした。

それにしてもきらめき市民大学さん、そういう名称で公民館的な建物を使って実施しているのかと思いきや、そうではなく、きらめき市民大学という施設そのものが存在しており、驚きました。ちゃんとカーナビにも表示されました。

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元は埼玉県立の青年の家だった建物だそうですが。


終了後、隣町の比企郡鳩山町に足を伸ばしました。

昨日は、光太郎が総合的な芸術家だったという実例を示すために、どうせ自家用車ですし、いろいろと車に積み込んで持参し、休憩時間や終了後に受講生の方々に見ていただきました。ブロンズの彫刻、短歌をしたためた自筆の短冊、『道程』や『智恵子抄』の初版、田口氏の御著書などなど。それから、自筆のハガキも一葉。

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10年ほど前に入手したもので、昭和19年(1944)4月13日のものです。送った相手は当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人だった内山義郎。戦後の昭和27年(1952)に角川書店から出た『現代詩集 歴程篇』では、巻末の同人紹介欄に光太郎と並んで名が載っています。

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それによると東京の人だそうですが、住所が「比企郡今宿村」となっています。現在の鳩山町です。観音院という寺院であること、戦時中であることを考えると、どうも疎開なのかな、という気はしていました。

で、調べてみましたところ、「大豆戸(まめど)」という字名は現在も使われており、しかも「観音院」という寺院も健在のようで、行ってみた次第です。

こちらが観音院。
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残念ながらもはや廃寺となっているようでした。それにしても、75年前に光太郎からのハガキがここに届いたのかと思うと、感慨深いものはありましたが。

その後、千葉の自宅兼事務所に戻りました。


さて、「営業」になりますが(笑)、上記のような市民講座等の講師、きちんとした団体さんの主催で(「大東亜八紘一宇の会」とかいうのは勘弁して下さい(笑))、日程さえ合えば、お引き受けいたしますので、お声がけいただければと存じます。


【折々のことば・光太郎】

やはり書は人であり、いかに造型がよくてもわるくても、結局それを書いた人物をよくあらわしています。それがおもしろいです。

アンケート「墨人に」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

上記のハガキなども、何気に書かれた筆跡ですが、きちっとした人格が表れているように感じます。

智恵子の故郷、福島県二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』。5月19日に開催された「第65回安達太良山山開き ほんとの空の下 心の晴れ渡る、感動深呼吸」について大きく取り上げています(6月号には間に合わなかったようで)。

まちの話題 山開き 安達太良山 標高1,700m

 5月19日、約9,000人の登山者が山頂を目指しました。頂上付近では 風が吹き、雲がかかるなど絶好の登山日和とはなりませんでしたが、日本100名山の安達太良山登山を楽しみました。
 山開きに合わせて、安達太良連盟は「ビューティ安達太良」を歌う郡山市出身の俳優斉藤暁さんとタレントのなすびさんに安達太良山観光大使を委嘱し、山のPRを託しました。
  山頂では、ミズあだたらコンテストが行われ、ミズに桑折町の菅野恵梨華さん、準ミズに鏡石町の鈴木紗英ちゃんが選ばれました。


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今年初めて当方も山開きに行って参りまして、これまで以上に安達太良山に親近感といいますか、リスペクトといいますか、そういったものを感じて居る次第です。

三保二本松市長やタレントのなすびさん、それから俳優の斎藤暁さんも登られていたそうですが、当方、登頂記念のペナント配布後に行われたさまざまなイベントはパスして下山しましたので、気づきませんでした。

それから、先月21日、テレビ東京系で放映された「たけしのニッポンのミカタ! 老若男女がなぜ登る?山に魅せられたニッポン人」も拝見。MCの国分太一さんなど、「9,000人も登るんですか !?」と驚かれていましたが、9,000分の1が私です(笑)。

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こちらは残念ながら安達太良山と光太郎智恵子との絡み、「ほんとの空」的な紹介は為されませんでした。代わって「古くは『万葉集』にも詠まれた山」という説明。新元号「令和」の出典が『万葉集』ということで、『万葉集』がちょっとしたブームとなっています。強力なライバル出現、と焦っております(笑)。これからは「高村光太郎の『智恵子抄』に謳われた山」でなく、「古くは『万葉集』にも詠まれた山」の方がメインになってしまうのでは、と。


ちなみに『万葉集』では、安達太良山は次の通り。

安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)のあり つつも吾は至らむ寝処な去りそね

「安達太良山の峰に伏す鹿猪よ(=わが愛する娘よ)、そのままいつもの寝場所に居て下さい、私はいつものようにお前のところへ行こうと思っているのだから」といった訳になりましょうか。けっこう生々しい相聞歌です。


陸奥(みちのく)の安達太良真弓(まゆみ)はじき置きて反(せ)らしめきなば弦はかめかも

「陸奥の安達太良山の真弓(まゆみ)で作った弓を放っておいたら、すぐには弦をかけて引くことができないように、急に私の気を引こうとしても無理なのですよ」。これも相聞歌です。

よく似た歌がもう一首。

陸奥の安達太良真弓弦(つら)着(は)けて引かばか人の我(わ)を言(こと)なさむ

「陸奥の安達太良山産の真弓に弦(つる)を張り引くように、私があなたの気を引けば、人の噂になるかしら」的な。


そこで張り合っても仕方がないので、TV関係などの皆さん、今後は「『万葉集』や『智恵子抄』に詠まれた山」でお願いします(笑)。


【折々のことば・光太郎】

ゴヤのマハ。この顔は若太夫にも似て居り、又この眼をすこしまろくすれば、智恵子にも似て居る。

アンケート「私の好きな顔 古今東西の美術品の中より」全文
 昭和25年(1950) 光太郎68歳

ゴヤのマハ、いくつかのヴァリエーションがありますが、最も有名なのは「着衣のマハ」でしょうか。たしかにどことなく智恵子にも似ていますね。

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「若太夫」は、明治末、光太郎が入れあげた吉原河内楼の娼妓。モナ・リザにも似ていたといいます。

ちなみに『リーチ先生』の原田マハさん、ゴヤのマハからペンネームを採られたそうです。

先週号の『週刊ポスト』さんに光太郎の名が。

7代にわたって受け継がれる秘伝のタレ 駒形 前川 東京・台東区

 浅草・駒形橋のたもと、隅田川沿いに位置する「駒形前川」では、風情ある景色を眺めながら、ゆったりと鰻を堪能できる。創業は江戸末期の文化文政期。200年以上引き継がれるタレは、空襲や地震を逃れてきたという。「関東大震災のときは、タレの入った壺を大八車に乗せて逃げたと聞いています」(7代目・大橋一仁さん)
 鰻を幾度も返しつつ焼き上げる熟練の技によって、艶やかな飴色に仕上がる。重箱の蓋をあければ、香ばしさをまとった鰻が姿を現わす。タレは江戸前の辛口でさっぱり。身はふんわりと味わい深い。
 醤油とみりんしか使わずに継ぎ足された秘伝のタレ。詩人の高村光太郎や作家の池波正太郎も駒川前川の味を愛した。
 老舗の味を守りながら、新しい食の提案も行なう。スペインワインの輸入販売も手掛け、ここでしか味わえない鰻とワインのペアリングも楽しめる。
■駒形 前川 住所:東京都台東区駒形2-1-29 営業時間:11時半~21時(L.O.20時半) ※売り切れ次第終了
定休日:年中無休

巻頭グラビアの「鰻の季節がやってきた!」という記事の一部で、他に名古屋の「鰻(うな)う おか富士」さん、葛飾区の「うなぎ 魚政」さん、浜松の「うなぎ 大嶋」さん、久留米の「富松うなぎ屋」さんが紹介されています。

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他店はそれぞれ1ページですが、前川さんのみ見開き2ページ。いわば横綱扱いですね。

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現在は七代目の方が嗣がれているということですが、四代目の時代に光太郎がよく肝焼きを智恵子の土産にと買って帰ったという逸話が残っているそうです。


戦前の光太郎日記はほとんど残っていないため、光太郎の書き残したものの中にそのエピソードは見あたりませんが、たしかにそういうことがあったのでしょう。

光太郎の父・光雲の談話筆記『光雲懐古談』(昭和4年=1929)には、前川さんの名が出て来ます。幕末の徒弟時代の回想で「名高かった店などの印象」という項です。

鰌屋横丁を真直に行けば森下(もりした)へ出る。右へ移ると薪炭(しんたん)問屋の丁字屋(ちやうじや)、その背面(うしろ)が材木町の出はずれになつてゐて、この通りに前川(まへかは)といふ鰻屋がある。これも今日繁昌してゐる。

前川さんの名は出ていませんが、光太郎の詩「夏の夜の食慾」(大正元年=1912)には、鰻屋の店頭風景が。

「ぬき一枚――やきお三人前――御酒(ごしゆ)のお代り……」
突如として聞える蒲焼屋の渋団扇
土用の丑の日――
「ねえさん、早くしてくんな、子供の分だけ先きにしてくれりや、あとは明日(あした)の朝までかかつても可いや、べらぼうめ」
「どうもお気の毒さま、へえお誂へ――入らつしやい――御新規九十六番さん……」
真つ赤な火の上に鰻がこげる、鰻がこげる

この直後の部分で、天ぷら屋の「中清(なかせい)」さんが登場します。前川さんと中清さん、直線距離で300メートルほどですので、ことによると前川さんなのかもしれません。もっとも、浅草近辺には他にも鰻屋さんがありますので、何ともいえませんが……。ちなみに光太郎、戦後には日記によるとやはり浅草の小柳さんという鰻屋さんに行ったことを記録しています。


今年の土曜丑の日は月末、7月27日(土)だそうです。夏バテ予防にぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

十年前の今頃は、亡妻智恵子の病気とたたかつてゐました。そして一方、團十郎の首を作り上げようとしてゐました。

アンケート「十年前のあなたは」全文 昭和23年(1948) 光太郎66歳

出典は雑誌『日本未来派』です。ある意味、酷な質問をするものですね。

「團十郎」は九代目市川團十郎。光太郎はその芸を愛し、彼の肖像彫刻で世上にろくな物がないのが残念だと、その制作にかかりました。しかし、戦争の激化とともにそれも頓挫し、結局、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰しました。

ちなみにこのアンケート、「十年後のあなたは」という設問もありましたが、光太郎、そちらには回答していません。もはや自分に十年後はない(8年後に光太郎は没)ことがわかっていたのでしょうか。何とも不思議です。

まず『朝日新聞』さん。5月に亡くなった彫刻家・豊福知徳氏の追悼記事です。

(惜別)豊福知徳さん 彫刻家 楕円の穴に見いだした抽象世界 5月18日死去(老衰) 94歳

 楕円(だえん)形の穴がいくつも開いた独特な造形000――。シンプルだが一見しただけで豊福さんの作品とわかるほど強烈な個性があった。剣道や居合道を愛した好男子は、西洋の近代彫刻に東洋の精神性を融合させた深遠な表現をひたむきに探求し続けた。
 国学院大学在学中の1944年、飛行兵に志願。終戦後、故郷の和尚の紹介で、福岡・太宰府にいた木彫家の冨永朝堂(ちょうどう)に弟子入りし、木彫の腕を磨いた。
 59年に「漂流’58」で高村光太郎賞を受けたのが転機になった。翌年のベネチア・ビエンナーレに選ばれ、展覧会を見に行くつもりがそのまま滞在し、イタリアのミラノに居を構えて約45年にわたり創作を続けた。
 新たな抽象表現のアンフォルメル(不定形)運動などに刺激され、それまでの具象を卒業して自分の抽象世界を作りたいともがく日々。苦悩の末につかんだのが終生のテーマとなる、木板に穴をうがつ表現だった。
 回顧録には「板の表裏からくぼみをつけたら偶然穴が開いた」とあったが、滞欧時代を知る美術評論家で多摩美術大学長の建畠晢(たてはたあきら)さん(71)は「木塊に穴という空間をうがつ表現がむしろ作品の存在感を際立たせ、強靱(きょうじん)な造形に昇華させることに気づいたからだろう」と話す。
 無数の穴が織りなすリズムに魅了され、平面から立体まで素材を変えて創作を重ねた。作品に哀感や叙情性が感じられるのは「死を覚悟した戦争体験が創作の原点にあったからではないか」と、元福岡アジア美術館長の安永幸一さん(80)は語る。
 福岡市の博多港にある引き揚げ記念碑「那(な)の津(つ)往還」(96年)は、船上に人が立つ姿をイメージした集大成の大作だ。凜(りん)としたモニュメントは、特攻隊の一員として死の影を踏んだ自分と、命からがら引き揚げてきた人々が敗戦の辛苦を乗り越え、再び大海へこぎ出す希望の象徴に見える。(安斎耕一)

10年間限定で実施された高村光太郎賞、大きな意義があったことが再確認されます。


続いて『産経新聞』さん神奈川版。

【書と歩んで】(3)中国大使館文化部賞・梅山翠球さん 無心に生きる思い込め

「ここまで続けてきてよかった」。梅山翠球さん(71)は受001賞の喜びを、こう笑顔で語った。「にはち」と呼ばれる書道紙(約60センチ×240センチ)に書き上げたのは、近現代の日本を代表する詩人、高村光太郎(1883~1956年)の「冬の言葉」。厳しい冬の情景に人生の苦難や苦悩を重ね合わせ、それらを乗り越えていくことの意義深さをつづった。
 出身の新潟県五泉市は、冬の寒さが厳しい土地だったという。「冬の言葉」には、「冬は凩(こがらし)のラッパを吹いて宣言する 人間手製の価値をすてよと」との一節がある。
 日本海側の冬は、いつ晴れるとも知れぬ鉛色の雲が空を覆い、身を切るような風が吹きすさぶ。書き上げた「冬の言葉」には、そうした自分自身の冬のイメージも投影されているという。「人によって色々な解釈ができる詩だが、自分は『人生は厳しいけれども、自然のように無心に生きなければ』という思いを込めた」と振り返る。
                 × × × 
 筆とすずりで脳裏をよぎるのは、幼少のときの記憶だ。昔ながらの茶の間で、母が小筆を使って手紙などをしたためていた姿が、今でも印象に残っている。
 本格的に書道を始めたのは、長女が小学校に入学したころ。学校の保護者会で、書家の永島南翠氏(全日本新芸書道会常任理事、21世紀国際書会専管理事)と知り合ったことが、きっかけだった。永島氏が書く字の美しさに魅せられ、「ぜひ自分にも書道を教えてほしい」と頼み込み、長女と一緒に教室に通った。
 ときにはまだ小さい次女の育児や家事などに追われ、書道を続けるか悩んだこともあった。だが、永島氏のアドバイスもあり、子供が昼寝をしているときなどの僅かな時間を利用して、根気よく勉強を続けたという。「1枚でも2枚でもいいから、書くことができればと思って頑張りました。その経験があったからこそ、書道を長く続けることができたと思います」
                 × × × 
 30年以上続けてきた書道で、自身が「本当に衝撃的だった」という体験は、食器洗いなどに使われるスポンジで字を書いたときだったという。生き生きとした躍動感を出すため、線によってスポンジの角や面などを使い分け、墨の濃淡も工夫。バケツいっぱいの墨にスポンジを浸し、大きな紙にしたためたのは「動」の一字だった。筆とはまたひと味違った、迫力のある仕上がりとなった。
 「自分が表現したいと思えば、どんなことでも表現できると分かり、書いているときが楽しかった。表現の転換点にもなったと思う」と、目を輝かせながら当時の感動を語った。
 現在は小中学生を中心と002して、十数人の生徒に書道を教えている。良い字を書く上で欠かせない要素は、書き手がもっている「個性」。「きれいでなくてもいいから、人に何かを伝えることができるような字を書きなさい」と、生徒たちにも指導している。「書いているときに自分自身が楽しいと感じられることが、一番大切なことだと思います」。ほほ笑みながら、書の魅力を語った。  (太田泰)
                   ◇
【プロフィル】うめやま・すいきゅう
 昭和22年8月、新潟県五泉市生まれ。全日本新芸書道会教務理事、21世紀国際書会審査会員。趣味は染紙作りなど。

受賞云々は、同社主催の公募展「第34回21世紀国際書展」。光太郎詩「冬の言葉」(昭和3年=1928)から詩句を選んで、中国大使館文化部賞を獲得されたそうです。

期日は7月10~14日、横浜市民ギャラリー(横浜市西区宮崎町26の1)で開催。入場無料で午前10時から午後6時(最終日は4時)までとのこと。

昨年ですと、第38回日本教育書道藝術院同人書作展第40回東京書作展などで、やはり光太郎の詩句を書かれて上位入選された方々がいらっしゃいます(調べればもっとあるのでしょうが、ネットでの検索に引っかかるのは一部だと思われます)。書家の方々、今後も光太郎作品を取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

一、山は重に低山を所々歩きましたが、大正二年夏期二箇月間上高地に滞在して山嶽写生に暮した日夜の詳細な記憶がいまだに昨日の如くあざやかです。其処ではじめて妻の智恵子と婚約をしました。
二、自然と人間との交錯に小生は最大の喜を感じます。自然のみの自然は無慈悲で物凄い絶対力です。

アンケート「印象の山々」全文 昭和10年(1935) 光太郎53歳

設問一は「山の名」、二は「その印象」。このアンケートで初めて智恵子との婚約が上高地だったことが公にされました。その智恵子はこの年2月から、終焉の地となった南品川ゼームス坂病院に入院しています。

当会の祖・草野心平がその生前に愛し、歿後は心平を顕彰する意味合いも含められている、福島県川内村での「天山祭り」が開催されます。

第54回天山祭り

期   日 : 2019年7月13日(土)
場   所 : 天山文庫前庭  福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
         雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時   間 : 11:30~14:00
参  加  費  : 500円

天山文庫は、川内村民の結いによって、草野心平先生へ感謝を込めて建てられた建物です。今なお茅葺屋根の建物は、その場所にいるだけで清らかな気持ちになれます。
草野心平先生が詠んだ詩の朗読や川内村の伝統芸能等を見ながら、食べて、飲んで、話して交流を深めてみませんか。初めて参加の方も是非お越しください。

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細かな内容項目など出ていませんが、以前の例ですと、地元の方や心平の興した『歴程』同人の方々による心平詩の朗読、地域の伝統芸能の披露などが中心だったと記憶しております。

しばらく欠礼しているのですが、今年は都合が付きましたのでお邪魔する予定です。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

美術界だけで言へば現代美術館。

アンケート「いまの日本に欲しいもの」全文 昭和9年(1934) 光太郎52歳

日本にきちんとした美術館というものが定着したのはそう古い話ではありません。大正15年(1926)に東京府美術館が開館しましたが、自前の収蔵品(コレクション)は持たず展示会場を貸すのみのものでした。コレクションを持つ初めての美術館は、昭和5年(1930)開館の大原美術館さん(倉敷市)。のちに光太郎の作品も収蔵されますが、はじめは西洋絵画が中心でした。公立のきちんとした美術館というと、何と戦後の昭和26年(1951)、神奈川県立近代美術館の開館まで待たないとなりませんでした。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ青森県十和田湖の夏の風物詩、「十和田湖湖水まつり」が今年も開催されます。 

例年通り「乙女の像」のライトアップが為されます。

2019.第54回十和田湖湖水まつり

期   日 : 2019年7月13日(土)・14日(日)
場   所 : 十和田湖畔休屋  十和田市十和田湖畔休屋486
時   間 : 9:00~22:00 

十和田湖に夏の観光シーズン幕開けを告げるお祭です。
花火大会では遊覧船が運航し、日中は十和田湖ひめますフェアやちょこっとカヌー体験、十和田湖夏さんぽなどのイベントが行われます。
ご家族、ご友人、カップルで十和田湖湖水まつりをお楽しみ下さい!

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イベント(内容が変わる場合がございます)
 7月13日 (土)
  09:00~19:00  十和田ビジターセンター開館
  09:00~21:00  十和田湖観光交流センター「ぷらっと」開館
  09:00~18:00  クラフト体験
  10:30~12:00  十和田湖夏さんぽ
  11:00~      オリジナルひめます弁当販売   
  11:00~      十和田神社 安全祈願
  11:00~      十和田湖保育園よさこい演舞
  13:00~14:00    ちょこっとカヌー体験
  14:30~15:30     〃
  16:00~17:00    〃
  15:30~17:30  夏さんぽ×占い場クルーズ
  16:00~19:00  地酒利き酒
  18:00~      花火観覧船乗船券販売開始
  18:00~22:00  乙女の像ライトアップ
  18:30~      花火観覧船乗船開始
  20:00~20:40  花火打上

 7月14日 (日)
  09:00~19:00  十和田ビジターセンター開館
  09:00~21:00  十和田湖観光交流センター「ぷらっと」開館
  09:00~18:00  クラフト体験
  10:30~11:30  十和田湖夏さんぽ
  10:30~      ペダルボートレース
  11:00~      オリジナルひめます弁当販売
  13:00~14:00  ちょこっとカヌー体験
  14:30~15:30     〃
  16:00~17:00      〃
  15:30~17:30  夏さんぽ×占い場クルーズ
  16:00~19:00  地酒利き酒
  18:00~      花火観覧船乗車券発売開始
  18:00~22:00  乙女の像ライトアップ
  18:30~      花火観覧船乗船開始
  20:00~20:40  花火打上
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湖畔の十和田湖観光交流センターぷらっとでは、昨年、光太郎に関する展示コーナーをリニューアル。青森在住で生前の光太郎をご存じの彫刻家・田村進氏制作の光太郎胸像、「乙女の像」制作に際し、光太郎が実際に使った彫刻台などの展示が為されています。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本製のオートミール其他の類似品は今のところ悪臭があつて口にするに堪へません。オーツの芳香をそのまま保存する方法を考へる人はないか、などと話し合ひました。

アンケート「この頃食卓にあつた話」より 昭和8年(1933) 光太郎51歳

「オーツ」は「クェーカー・オーツ」。現在も残るアメリカ製オートミールのブランドで、光太郎の好物の一つでした。日本製のばったもんは食するにたえず、さりとて輸入物は鮮度が落ちるということで、困っていたようです。

昨日は都内に出、神保町で開催の「明治古典会七夕古書大入札会2019」、一般下見展観を拝見して参りました。年に一度の古書業界最大の市(いち)で、出品物を手に取って見ることができます。

会場は東京古書会館さん。開場の午前10時少し前に到着しましたところ、入場待ちの方々で、既に長蛇の列。関心の高さが伺えます。

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入り口で手荷物を預け、まずは4F、文学関連のコーナーへ。出品目録に出ていた光太郎関連の2点を手に取って拝見しました。

まず出版社文一路社の社主、森下文一郎に宛てた昭和12年(1937)の書簡1通。『高村光太郎全集』には漏れていたものです。

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画像は昨年の『日本古書通信』さんにも掲載され、内容も把握していましたが、やはり光太郎が手づから書いた封筒と便箋を手にし、その息吹が感じられました。想像していたより便箋が薄く小さいのが意外でした。


もう1点、詩稿。こちらはガラスケースに収められていましたが、係員の方に開けていただき、チェック。

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昭和19年(1944)に刊行された『歴程詩集2604』のための浄書稿で、「突端に立つ」(昭和17年=1942)、「或る講演会で読んだ言葉」(同)、「朋あり遠方に之く」(昭和16年=1941)、「三十年」(昭和17年=1942)の四篇でした。他に「戦歿報道戦士にささぐ」(昭和17年=1942)、「われらの死生」(昭和18年=1943)もあったはずですが、無くなっています。

こちらも光太郎一流の味のある文字でした。


続いて2Fへ。文学関係でなく、「近代文献資料」というコーナーに、光太郎の筆跡を含む出品物。こちら、目録に載っていましたが、文学、美術関連の項でなかったので見落としていました。

戦時中の日章旗です。

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光太郎の筆跡は左上、短歌一首が揮毫されています。

高きものいやしきをうつあめつちの神いくさなり勝たざらめやも」と読みます。昭和19年(1944)の雑誌『富士』に他の揮毫の画像が載ったのが、確認できている初出です。もしかすると作歌時期、そしてこの日章旗自体、時期的にもう少し遡るかもしれません。

この手の日章旗のお約束で、寄せ書きとなっています。光太郎以外には、横山大観、若槻礼次郎、そして野口英世と交流の深かった政治家・石塚三郎の筆跡。

石塚は新潟県北蒲原郡安田村(現阿賀野市)の出身で、同村の素封家・旗野家(政治学者・吉田東伍の生家)とも縁が深い人物でした。旗野家といえば、光太郎智恵子ともいろいろ関連がありました。

まず、吉田東伍の姪に当たる旗野八重が、日本女子大学校で同じ年に入学した智恵子と親しかったそうですが、卒業直後の明治40年(1907)に病没しています。その妹・スミも日本女子大学校に進み、智恵子から絵の手ほどきを受けました。智恵子は卒業後、画家・松井昇の助手として母校に勤務していた時期があります。大正2年(1913)には、智恵子が新潟の旗野家に滞在、共にスキーに興じたりもしたそうです。

その旗野家に逗留していた智恵子に宛てて送った結婚前の光太郎からの封書が奇跡的に現存しており(当会顧問・北川太一先生がお持ちです)、時折取り上げられます。

ちなみに今月25日、NHK BSプレミアムさんで放映予定の「偉人たちの健康診断」が「東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」ということで、この手紙も取り上げられるかも知れません。5月に番組制作会社の方から連絡があり、その際は北川先生ご所蔵の智恵子から母・セン宛の書簡を取り上げたいというお話でした。のちほどまたご紹介いたします。

スミはのちに立川の農事試験場長を務めた佐藤信哉と結婚、光太郎夫妻に農作物などを贈ります。大正14年(1925)の光太郎詩「葱」は、佐藤夫妻から贈られたネギを題材にした詩です。

その旗野家と縁が深かった光太郎と石塚が同じ日章旗に揮毫しているわけで、何か匂います。日章旗を贈られた人物が誰なのか不明でして、何とも言えませんが……。

で、日章旗、額に入れられて展示されていました。タテヨコ1メートル前後、保存状態も良好でした。こちらは平成22年(2010)の七夕古書大入札会にも出品されましたが、現物を見るのは初めてでした。その前年だったかの連翹忌で、光太郎令甥の故・髙村規氏に、「こんなものが出て来て鑑定を頼まれたんだけど……」と、写真を見せられまして、在りし日の規氏を思い起こしました。


さらに今年は、2Fの一角に、出品目録には掲載されなかった追加出品の品々。そちらにも光太郎書簡が出ていました。智恵子の最期を看取った元看護師で姪の宮崎春子と、その夫で光太郎と交流の深かった宮崎稔にあてたもので、三十五通。おそらく全て『高村光太郎全集』に収録されているものだと思われます。

それぞれの出品物、光太郎以外のものも含め、収まるべきところに収まってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

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十三文半甲高。馬の糞をふんづけたのでのつぽとなる。神経過敏のやうな遅鈍のやうな、年寄のやうな、若いやうな、在るやうな無いやうな顔。

アンケート「自画像」全文 昭和5年(1930) 光太郎48歳

雑誌『美術新論』に、画像がそのまま載りました。

「十三文半」は足のサイズ。一文が約2.5㌢ですので、33.75㌢となります。ちなみに故・ジャイアント馬場さんの「十六文キック」は40㌢というわけですね。

当方よく存じませんが、馬糞を踏むとのっぽになるという迷信というか俗信というか、そういうものがあったのでしょうか。実際、光太郎の身長は180㌢以上だったようです。当時としては大男です。

地上波テレビ朝日さん、そして系列のBS朝日さんで放映中の「やすらぎの刻~道 テレビ朝日開局60周年」。先月放映の第48話、そして直前の第47話でも、光太郎の『智恵子抄』が取り上げられました。

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倉本聰さんによる、その脚本集第一巻が出版されました。

やすらぎの刻~道~ 第1巻

2019年6月21日 倉本聰著 双葉社 定価1,800円+税


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4月からテレビ朝日系で毎週月曜日から金曜日に約1年にわたり放送される連続ドラマ「やすらぎの刻 ~道」の原作本。テレビ全盛期を支えた者だけが無償で入れる老人ホーム「やすらぎの郷」を舞台に名優たちが演じる現代劇は前作「やすらぎの郷」と同様に展開される一方で、今回は主人公・菊村栄(石坂浩二)がドラマ内で執筆するシナリオ「道」が新たに映像化される。

第50話までが収録されており、『智恵子抄』に触れられた第47話、48話も収められています。

第47話、48話とも、主人公である石坂浩二さん演じる脚本家の菊村栄が、どこに発表する当てもなく書いているシナリオ「道」が、菊村の脳内ドラマとして描かれる「道」パート。戦前から戦時中の山梨県の架空の集落「小野ヶ沢」が舞台です。

47話では、「道」パートの語り手である農家の四男坊・根来公平(風間俊介さん)が母(岸本加世子さん)を亡くし、その知らせを受けて海軍航空隊に入営していた次兄の公次(Kis-My-Ft2の宮田俊哉さん)が帰省、公平と三男の三平(風間晋之介さん)が、村の共同墓地で公次を出迎えたシーン。昭和16年(1941)の晩秋、太平洋戦争開戦直前という設定です。

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公次、久しぶりに目にする故郷の山々を前に……

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そして美術好きな三平に向かって……

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さらに「読んでみろ。沁みる」。敬愛する兄の言葉に、三平は……

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続いて第48話。

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夜になって、公次が三平・公平の部屋にやってきて……

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手に取ってみる三平と公平。すると、書き込みのしてあるページがあることに気づく二人。それは「あどけない話」(昭和3年=1928)のページで、「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」の箇所、「阿多多羅山」が消されて「小野ヶ沢」となっています。

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第47話での公次のセリフ「いいな、小野ヶ沢は」は、この伏線だったというわけで……。

この後、夜が明けたらまた基地に戻らねばならない公次のホイスパーで、「あどけない話」。公次はおそらく、米英との戦争が始まれば南方に派遣されるであろうこと、そして無事帰ってくるのが困難であろうことが分かっています。それだけに故郷の風景は心に沁みたのでしょう。

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沁みました(笑)。

脚本集第一巻、一般新刊書店で平積みになっています。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

かういふ質問には私にはまつたく苦手です。希望はあるけれど、予測は無いのです。(希望を書いてよければむろん新興リアリズムの詩の横溢を望みます。)

アンケート「貴下は後継詩壇を背負ふ人として如何なる人々を推されるか」
全文  
昭和5年(1930) 光太郎48歳

新興リアリズムの詩」は、この時期の光太郎が近い位置にいたプロレタリア詩、アナーキズム系を指すのではないかと思われます。そういった方面に期待は寄せるが、それが主流になることもないだろうという光太郎の予想、みごとに当たります。そして光太郎自身も、軍部翼賛の方向に……。

新刊です。

今宵は誰と -小説の中の女たち-

2019年6月23日 喜国雅彦著 双葉社 定価1,600円+税

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安部公房の『砂の女』、太宰治の『女生徒』、ツルゲーネフの『はつ恋』、S・キングの『ミザリー』など──名作に登場する個性的で魅力的な女性たちが、もし自分の夢に登場したら……独自の視点でブンガクのおもしろさを描く、全く新しい文芸漫画。

目次

 第一話   砂にまみれた女  『砂の女』  安部公房
 第二話   目覚めない女   『眠れる美女』   川端康成
 第三話   無垢ゆえに大胆な女  『潮騒』   三島由紀夫
 第四話   初めてには手強すぎる女  『はつ恋』  ツルゲーネフ
 第五話   男の憎しみを吸う女  『痴人の愛』  谷崎潤一郎
 第六話   レモンを噛む女  『智恵子抄』  高村光太郎
 第七話   空を舞う女  『夢鬼』  蘭郁二郎
 第八話   裏表がある女  『女生徒』  太宰治
 第九話   聖書に背く女  『瓶詰地獄』  夢野久作
 第十話   二人の女  『青い麦』  コレット
 第十一話  胸に字を書く女  『芋虫』  江戸川乱歩
 第十二話  すれ違った女  『外科医』  泉鏡花
 第十三話  無言の女  『幻の女』  W・アイリッシュ
 第十四話  弁当箱がほしい女  『二十四の瞳』  壺井栄
 第十五話  目玉を愛する女  『眼球譚』  C・バタイユ
 第十六話  肌を競う女  『銀の匙』  中勘助
 第十七話  匂い立つ女  『郵便配達は二度ベルを鳴らす』  J・M・ケイン
 第十八話  書き直させる女  『ミザリー』  S・キング
 第十九話  オリーブオイルを使う女  『夕暮れまで』  吉行淳之介
 第二十話  残り香の女  『蒲団』  田山花袋
 第二十一話 詩を要求する女  『ゲーテ詩集』  ゲーテ
 第二十二話 洞窟の女  『トム・ソーヤーの冒険』  M・トウェイン
 第二十三話 喜びをみつける女  『少女パレアナ』  E・ポーター
 第二十四話 母という女  『泥の河』  宮本輝
 第二十五話 強くて弱い女  『サマータイム・ブルース』  S・パレツキー
 あとがき

版元の双葉社さんから発行されている月刊誌『小説推理』に、平成28年(2016)から連載されている同名の漫画の単行本化です。

およそ文学とは無縁だった何の変哲もないサラリーマンである主人公の青年が、福島に転勤となり、引っ越し先のアパートで、前の住人が忘れていった安部公房作『砂の女』を何の気なしに読んだところ、すっかり文学にはまってしまい、文学好きな上司や居酒屋で知り合った女性に勧められ、さまざまな文学作品を読み進めるようになる、という設定です。

そして感受性豊かな主人公、毎回、読んだ作品の登場人物などがその夜の夢に現れ、自分も物語の世界に入り込んだり、時にオリジナルのストーリーと異なるハチャメチャな展開に巻き込まれたり……そこでうなされて目が覚めるのがお約束、というストーリー展開がなされます。

一話が8頁前後と短く、その限られたスペースでそれぞれの作品の魅力を伝えるのはさぞ大変だろうと思いつつ読みました。物書きの立場で言わせていただくと、原稿の依頼に対しては「あれも書きたい、これも入れたい」と、結局規定の字数ギリギリになることが多いもので、そう感じます。それでも作者の喜国氏、いつもうまくまとめています。

さて、第六話が「レモンを噛む女 『智恵子抄』 高村光太郎」。先述の『小説推理』の平成29年(2017)2月号に掲載されました。

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主人公、詩集を読んだことがないそうで……取っつきにくいという先入観を抱きつつ、手に取ったのは新潮文庫版『智恵子抄』。

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しかし……

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ハナ水まで垂らし号泣してくれてありがとう、という感じです(笑)。

このあと、お約束の夢に智恵子が現れ、という展開になりますが、気になる方はぜひお買い求め下さい(笑)。

当方、全二十五話で取り上げられている作品のうち、半分ほどは若い頃に読んだ作品で、「そうそう」と思いながら読みました。3分の1ほどはあらすじは知っていたよ、という作品でしたが、細かな部分はよく知らず、「ああ、そうだったのか」という感じ。題名すら知らなかった作品もあり、こんな小説があったんだ、と思いました。ブックガイドとしても好著です。

それにしても、紹介文にあるとおり、「個性的で魅力的な女性たち」だから成り立つような気がします。男性だって、「個性的で魅力的」な人物はたくさんいるのですが……。やはり我々男性にとって、女性は「永遠の謎」なのです(笑)。ジェンダー論者のコワいおばさまたちは、こういう風潮がけしからん、と息巻きそうですが(笑)。



【折々のことば・光太郎】


詩を書かないでゐると死にたくなる人だけ詩を書くといいと思ひます。


アンケート「詩界に就て」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

そっくりそのまま現代の詩壇に贈りたい言葉です(笑)。

光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海による信州善光寺さんの仁王像。今年が開眼百周年ということで、このところいろいろと動きがありました。


で、さらに先月。

まずはSBC信越放送さんのローカルニュースから。

善光寺の仁王像をPR・僧侶が事前研修

長野市の善光寺にある仁王像を参拝客にPRしようと、案内役を務める僧侶の事前研修が行われました。
善光寺の仁王門で勇ましく構える仁王像。
高村光雲と米原雲海が手がけ、1919年に登場してから今年で100年を迎えます。
きょう長野市の善光寺事務局で開かれた研修会には善光寺の僧侶などおよそ40人が参加しました。
講師を務めたのは東京芸術大学大学院の非常勤講師・藤曲隆哉さんで東大寺の仁王像を参考につくられていることや台座に固定されずに背中にある支えのみで立っているなどと解説していました。
善光寺の僧侶たちによる案内は来月13日から9月まで土曜と日曜を中心に行われる予定です。

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続いて地方紙『信濃毎日』さん。

開眼100年 保ち続ける絶妙バランス善光寺仁王像 実は自立構造

010 善光寺(長野市)の仁王門に納められた仁王像2体が、台座に突起などで固定されず、ほぼ像の重さだけで自立する珍しい構造であることが26日、東京芸大大学院の文化財保存学・保存修復彫刻研究室などの調査で分かった。全国の仁王像でも見当たらない構造だといい、1919(大正8)年の開眼から100年間、絶妙なバランスで倒れずに立ってきたことになる。
 7~9月に同寺一山の僧侶たちが参拝者に仁王像や仁王門を案内する取り組みに向け、26日に同寺で研修会を開催。この場で講師を務めた同研究室非常勤講師の藤曲(ふじまがり)隆哉さん(36)が、1月に実施した現地調査の分析結果を明らかにした。
 藤曲さんによると、一般的に仏像の足には「ほぞ」と呼ばれる突起状の部材があり、それを台座の穴に差し込んで固定している。しかし、善光寺の仁王像の足にはほぞがなく、金具で像の背中と壁をつなげているものの、壁の板に大きな負荷がかかっている跡はないという。
 像は重さ300キロ以上とみられ、藤曲さんは「均整の取れたプロポーションで、バランスを取って自立している状態」と指摘。ただ、設置当初と比べると台座上で10センチほど動いたことも分かったとし、「100年間立っているものの、このままで倒れることはないか検討が必要」とした。
 仁王門南側の左右に並ぶ仁王像は、向かって左側が口を開いた阿形(あぎょう)、右側が口を閉じた吽形(うんぎょう)で、ともに高さ5・3メートル前後と分かった。彫刻家高村光雲(1852~1934年)と弟子の米原雲海(1869~1925年)を中心に、松本市中町出身の彫刻家太田南海(1888~1959年)らが関わって制作。ほぞを使わない構造について藤曲さんは「西洋の先進的な制作技法を取り入れており、今までにない造形を目指した表れかもしれない」と推測した。
 このほかエックス線調査では、複数の部材をかすがいやくぎを使って内部で接合していること、頭部や足、指先などに空洞があり、軽量化を図っていることも判明。像全体について「虫食いなどはなく、良い状態」としつつ、「もう修理を計画してもいい時期に来ている」と指摘した。
(6月27日) 


像高5メートルを超える仁王像に「ほぞ」が採られて居らず、ほぼほぼ自立しているというのは驚きでした。光雲とその一派の高い技倆がこんなところにも表れているわけで。

仁王像開眼百周年の特別法要は9月だそうです。その件で、また別件でも情報が入りましたらお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

別に感想もありませんが、新年号の満艦飾を見ると、如何にも田舎田舎した野暮くささを感じるだけです。

アンケート「雑誌新年号観」全文 大正15年(1926) 光太郎44歳

「雑誌の新年号なるものに対する感想」という問いに対しての答えです。ここでいう「雑誌」は、どちらかというと商業資本の総合誌を指しているのでしょう。現代でもそうですが、新年号というと、通常よりも派手な装幀を施してめでたさを強調し、売り上げ増を狙うもので、それに対するアイロニーですね。

過日ご紹介した、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰を続けられている智恵子のまち夢くらぶさんの山梨、静岡方面への研修旅行がつつがなく終わったそうで、同行された太平洋美術会の坂本富江さんから、静岡の地元紙『沼津朝日』さんのコピーが届きました。

高村夫妻顕彰団体が一小を訪問 智恵子の絵画作品に登場の木を見学

 詩人で彫刻家の高村光太郎の妻として知られる高村智恵子の足跡をたどって、智恵子の出身地、福島県二本松市の市民団体が17日、一小を訪れた。
 画家として活動していた智恵子は、光太郎と婚約した年の1913年、沼津にあった親友宅に滞在し「樟(くす)」と題する油絵を描いた。これは3点しか現存しない智恵子の作品の一つで、現在は山梨県北杜市の清春白樺美術館に収蔵されている。
 二本松市で智恵子・光太郎夫妻の顕彰活動を行っている団体「智恵子のまち夢くらぶ」は、毎年開催している夫妻の足跡をたどる旅の一環として、今年は智恵子ゆかりの沼津を選んだ。
 会員13人が山梨県で「樟」の実物を鑑賞した後、絵のモデルとなった木を見るため、一小を訪れた。同校校庭には江戸時代初期の沼津藩主大久保忠佐の墓である道喜塚(どうきづか)があり、その隣の大木が絵のモデルとなった。
 夢くらぶの熊谷健一代表はモデルの木を見学した感想として「美術館で見た原画は、図録で見るよりもはるかに良かった。モデルの木は大火でも生き残っただけあって、たくましい生命力を感じる。この木を智恵子が描いた意味合いを感じ取れた」と話す。
 今年の訪問先として「樟」ゆかりの地を提案した菅野ミチ子さんは、夢くらぶの会員になった理由として、「以前、観光客に智恵子のことを訪ねられたことがあったが、答えられませんでした。地元のことなのに勉強不足だと思い、学ぶために参加しました。」と話す。
 智恵子の生涯を研究している画家でエッセイストの坂本富江さん(東京都板橋区在住)の著書が今回の旅のきっかけとなった。『スケッチで訪ねる「智恵子抄」の旅 高村智恵子52年間の足跡』という題で、2015年に発売された増補改訂版では「樟」のモデル探しの旅が新たに付け加えられた。今回の来訪に案内人として付き添った坂本さんは「本がつないだ縁だと思っています。この機会を通して沼津も知ってもらえて嬉しい」と話している。

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「一小」というのは、沼津市立第一小学校さんです。

以前にも書きましたが、坂本さん、記事にあるとおり、現存が確認できている3点しかない智恵子の油絵のうちの1点「樟」に描かれている木が沼津一小さんに現存することをつきとめられました。

智恵子の福島高等女学校時代の親友・上野(旧姓・大熊)ヤスが沼津に転居しており、大正2年(1913)、そちらを訪れて描きました。ヤス自身は沼津で結婚後、夫の転勤で外地に渡ったそうですが、その頃、智恵子のすぐ下の妹で、智恵子と同じ日本女子大学校、さらに東京女子高等師範学校を卒業したセキが、漱石門下の小宮豊隆と不倫の関係となり、小宮の子を沼津のヤスの家で出産。ヤスの母親が親身になって世話をしてくれました。智恵子の沼津訪問もその関係です。その後、セキは渡米、生まれた子は里子に出されました。

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前列右端が智恵子、後列右から2人目がヤスです。

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「樟」の絵。以前は欅(けやき)と思われていました。

上記『沼津朝日』さんに載った写真を拡大すると……。

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たしかにこの木なのでしょう。

今後も枯れることなく、健在でいてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

健康の大切な事を真実に知る事。女学生時代に過度の運動をせぬ事。如何なる境遇にあつても自己の健康を護る事に本気になる事。旧時代の女性が健康を気にする程度の消極的な事でなく、もつと積極的、内面的、叡智的に。

アンケート「新時代の女性に望む資格のいろいろ」より
 大正15年(1926) 光太郎44歳

大正8年(1919)には、智恵子が順天堂病院に入院。これは子宮後屈症の手術のためでした。どうもこの際に、女学生時代の乗馬が原因と診断されたらしく、そのことが念頭に置かれた発言に思われます。

その他にも結婚後、常に健康を害していた智恵子。後屈症の手術直後には湿性肋膜炎(おそらく結核性)で入院していますし、大正11年(1922)には盲腸炎にも罹患しています。

ちなみにまた稿を改めてご紹介しますが、同じ「新時代の女性に望む資格のいろいろ」というアンケートには、智恵子も回答を寄せています。

昨日は神奈川県内に出ておりました。

午前中、横浜の神奈川近代文学館さんで調べ物。主に同時代の人々が残した光太郎回想の類を調査して参りました。当会刊行の『光太郎研究』にて少しずつご紹介いたします。

その後、相模原(最寄り駅は町田でしたが)のホテルラポール千寿閣さんへ。

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こちらの敷地内にあるチャペルで行われた「兼古隆雄が奏でる ギター名曲の楽しみⅥ ギター独奏と詩の朗読」を拝聴して参りました。

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兼古氏は町田でクラシックギターの教室をなさっている方です。そしてゲストに俳優の山本學さん。

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第1部は兼古氏によるソロ演奏。バッハを除いて現代の曲でしたが、哀愁や情熱がこもり、時に軽妙洒脱、時に意外な曲の展開、また、教会というあまり広くない、しかし落ち着いた雰囲気のスペースにそれがマッチし、実にいい感じでした。

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第二部で山本學さんがご登場。

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はじめに山本さんが自選の詩を朗読、その後、兼古氏がそれぞれの詩に合うと感じられた曲を演奏というくり返しでした。特にF・ターレガの「アデリータ」など、たしかにぴったりでした。

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藤村の「初恋」(明治29年=1896)に続いて、光太郎の「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。前年の愛妻・智恵子の臨終を謳った絶唱です。

山本さん、前半は意識して早口でたたみかけるような朗読をなさったのだと思いました。そうすることで、消えゆく智恵子の生命の炎を目のあたりにし、冷静でいられない光太郎の激情が表されていたように感じました。終末部分の「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」は、智恵子歿後の現在、というわけで、一転してゆったり落ち着いた、しかし、痛切な独白といった感で読まれ、まとめをつけられました。さすがベテラン、と、当方、感心しきりでした。

サプライズが一つ。最後の栗原貞子「生ましめんかな」(昭和21年=1946)が終わったあと、会場の万雷の拍手に応えてのアンコールとなりまして、さて、山本さん、何を朗読されるのだろう、と思っておりましたところ、お口を開かれ、出て来た題名が「荒涼たる帰宅」。思わず当方、「おお」と反応してしまいました。昭和16年(1941)、光太郎がおそらく詩集『智恵子抄』出版に際して書き下ろした、智恵子葬儀の当日を謳った詩です。

どうも山本さん、正規のプログラムに入っていた詩篇も含め、「生と死」的なモチーフのそれを集められたようで、そうするとたしかに「荒涼たる帰宅」ですね。ここで「道程」(大正3年=1914)やら「樹下の二人」(同12年=1923やらは入ってきません。

終演後、山本さんとお話しさせていただきました。さらにあつかましくも、1990年代に山本さんの朗読でリリースされた光太郎詩集のCDを持参しており、ジャケットにサインしていただきました。家宝にします(笑)。

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しかし山本さん、「こんなCDが出ていたんだね。記憶にないや」とのことで、意外と物事にこだわらない豪快な一面もおありなのかな、という気がしました。さらには「’90年頃? まだ「詩」の何たるかが分かっていなかった頃だなぁ」。「いやいや、そんな事は……」と申し上げておきましたが(笑)。

連翹忌の営業もさせていただきました。来年の連翹忌のご案内を差し上げようと存じます。ぜひいらしていただきたいものです。ちなみにマネージャーの方は、連翹忌ご常連の女優・一色采子さんと親しくされているということでした。

それはともあれ、兼古氏ともども、今後も変わらぬご活躍を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

一、躊躇なしにロマン ロラン  二、彼が世界で最も高い精神であるが故に、彼よりも博学な、賢明な又新らしい主義をもつ人は尠くないが、彼ほど清冽の心を持ちながらその英雄主義に他を凌駕する意識のほとんど感じられない点は全く人類の宿弊を破つてゐる。

アンケート「私の好きな世界の人物」全文 大正15年(1926) 光太郎44歳

「一」の細かな質問内容は、「世界各方面の現代名士中貴下の好まれる人物氏名」、「二」は同じく「何う言ふ点を好まれるか」でした。

この手の人物評には、光太郎自身が目指した、あるべき人物像が投影されているような気がします。

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