2019年06月

このブログでご紹介すべき事項が多く、東北発の地方紙掲載ニュースをまとめて2件、ご紹介します。ネタに困っている時期ですと分割するのですが(笑)。

まずは光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖から。

二紙での報道が確認できておりまして、最初に『東奥日報』さん。

手作りパンフで十和田市紹介/三本木小児童/十和田湖畔で配布、歌や踊り披露も

 青森県十和田市の三本木小学校(坂本稔校長)の4年生97人が21日、同市奥瀬十和田湖畔休屋で地元のPR活動を行った。児童たちは、市の観光名所や特産物などを紹介するオリジナルパンフレットの配布、地域の踊りなどの披露で古里の良さをアピールした。
 児童は3班に分かれ、乙女の像や商店周辺、遊覧船発着場所の桟橋前広場でパンフレットを配布。受け取った県外客は「うれしい」「感動しちゃった」と笑顔で、手作りパンフレットをじっくりと眺めていた。
 桟橋前広場では、郷土を題材にした同校オリジナルソング「たからもの」を全員で合唱した。観光客たちは、カメラで撮影したり、手拍子をしたりして児童の元気な歌を満喫。流し踊り「三本木小唄」の披露では、見物客を誘い込んで一緒に踊りを楽しんだ。児童代表の大西花奈さん(10)が「また十和田に来て、良いところやおいしい食べ物を楽しんでください」とあいさつすると、盛んに拍手が送られた。
 PR活動について、丸井沙弥子さん(9)は「パンフレットを渡して十和田の魅力を紹介できた」、起田武君(9)は「恥ずかしがらずに伝えられた」と胸を張った。合唱や踊りについては、瀬川湧生(ゆうせい)君(9)が「踊りの輪に入れるよう誘い一緒に踊ってくれてうれしかった」といい、高渕鈴華(すずは)さん(9)は「(合唱では)盛り上がってくれてみんなも笑顔になれた」と満足そうに話した。

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同じ件で、『デーリー東北』さん。

観光客に十和田湖の名所や名産品PR/十和田・三本木小

 十和田市立三本木小(坂本稔校長)の4年生97人が21日、十和田湖畔で観光客らにふるさとの魅力を伝える活動を展開した。児童たちは三本木小唄を一緒に踊ったり、観光パンフレットを配ったりして、地元が誇る観光地の魅力をPRした。
 同校は「ふるさと力日本一」を教育目標に掲げ、郷土学習に力を入れている。2016年には、児童が考えた地域の宝物が登場する歌「たからもの」を制作し、翌年から4年生が湖畔で披露するなど、地元のPR活動を展開している。
 この日は、乙女の像と商店前、桟橋前に分かれ、道行く人に観光パンフレットを配布し、観光名所や名産品などを紹介。その後、十和田湖遊覧船の帰着に合わせ、外国人観光客らと一緒に三本木小唄を輪になって踊ったほか、高らかに歌を披露し、もてなした。
 江渡美莉亜さん(9)は「静岡県から来た人に十和田の自然の美しさを伝えた。踊りや歌は少し恥ずかしかったけど、喜んでもらえてうれしい」と声を弾ませた。
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微笑ましいニュースです。


続いては、仙台発で『河北新報』さん。

古里・女川の支援続ける洋画家佐藤幸子さん 来月3日から仙台で個展 ◎キャンバスに広がる希望 三陸の海、日の出力強く

 河北美術展顧問で日展会友の洋画家佐藤幸子さん(78)=仙台市青葉区=の油絵展「希望と共に」が7月3日、青葉区の仙台三越本館7階アートギャラリーで始まる。宮城県女川町で育ち、東日本大震災の津波で実家を失った佐藤さんが、被災地に希望を届けたいと4年ぶりの個展に願いを込める。9日まで。
 佐藤さんは現在、自宅アトリエでキャンバスに向かい、花をモチーフに最後の作品作りに絵筆を握る。これまで描いた三陸の海の風景も合わせ約35点を展示する予定で、うち「照耀(しょうよう)松島」は100号の大作。松島湾の日の出を力強く描き、2018年の日展で22回目の入選を果たした。
 「明るく希望あふれる作品を目指した。震災から8年が過ぎたが、立ち直れずにいる人にも見てもらえたらうれしい」と語る。
 他に中学生の時に女川の入り江を描いた水彩画「海」を展示し、21歳で山道に咲くヤマブキを情熱的な色使いで描いた油絵「萌(も)える」もパネルで紹介。思い出の作品で60年を越える画業を振り返る。
 佐藤さんは女川の子どもたちに毎年クリスマスカードを送るなど、古里の支援を続けている。震災後は絵
の収益を図書購入費として贈ったり、3校を再編した女川小を慰問して児童と交流したりした。「大変な思いをした子どもたちに逆に励まされた。再び絵が描けるのか悩んだ時期もあったが、創作の意欲をもらっている」と感謝する。
 個展の収益の一部は、女川の中学生が始めた津波の教訓を後世に伝える「いのちの石碑プロジェクト」に寄付される。

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昭和6年(1931)に紀行文執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して光太郎文学碑を建立、さらに毎年女川光太郎祭を開催して下さっている女川町がらみです。

佐藤さんは女川ご出身ということで、記事の最後にあるとおり、収益の一部は「いのちの石碑」プロジェクトに寄付されるとのこと。光太郎文学碑の精神を受け継ぐ活動ですので、ありがたいかぎりです。

殺伐としたニュースが多い中、このようなニュースで日本中が埋め尽くされれば、と思います。


【折々のことば・光太郎】

御質問の第二十一世紀を迎へる迄に世界平和の日が来り得ると思ふかどうか、といふ事については、遺憾ながら、来ないであらふと思ふ方に私は傾いてゐます。世界平和の日を懇望するにつけても、人類進化の遅々たるを痛感します。人種同志の偏見に勝ち得る人類総体のもう一段の進化にはどの位の年月を要するでせう。一寸想像もつきません。

アンケート「世界平和の日」全文 大正15年(1926) 光太郎44歳

残念ながら、光太郎の予想は当たってしまいました。22世紀を迎えるまでに、世界平和の日は来るのでしょうか。大阪で開催されていたG20が閉幕しましたが、その報道に接するにつけ、それも望み薄だろうと思われます。

俳優・高島忠夫さんの訃報が出ました。今朝の『朝日新聞』さんから。

高島忠夫さん死去 俳優・司会、幅広く 88歳 

 映画にミュージカル、テレビ番組の司会と幅広く活躍した俳優の高島忠夫(たかしま・ただお、本名高嶋忠夫〈たかしま・ただお〉)さんが26日、老衰で死去した。88歳だった。明るいキャラクターでお茶の間に親しまれ、その一家は円満な家族の代名詞だった。
 神戸市生まれ。大学時代に新東宝映画第1期ニューフェースとして映画界に入り、1952年「恋の応援団長」でデビュー。映画「坊ちゃん」シリーズなどの青春コメディー路線で人気を博した。63年には、日本初のブロードウェー・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」(東宝、菊田一夫演出)の主役を演じた。
 70年代以降は、テレビを中心に活動。「クイズ・ドレミファドン」の司会や、夫婦で25年以上出演した料理番組「ごちそうさま」、「ゴールデン洋画劇場」の映画解説などに出演。「イェーイ」の決めぜりふと明るい人柄で親しまれた。
 60年に映画で初共演した俳優の宝田明さん(85)は「テレビの人気者になっても、年下の人に優しく、天性の包容力があった。戦友だと思っていた」と語った。
 私生活では、63年に宝塚の男役スターだった寿美花代さんと結婚。64年には、長男道夫ちゃんがお手伝いの少女に殺害された事件に見舞われた。98年には、うつ病と診断され、闘病生活を経験した。
 俳優高嶋政宏、高嶋政伸兄弟の父でも知られ、寿美さんとは「芸能界一のおしどり夫婦」と呼ばれるほどの仲。「高島ファミリー」としてその私生活は逐一話題になった。
 政宏さんは「母曰(いわ)く最後は眠るように旅立っていった、のがせめてもの救いです」。政伸さんは「最後まで明るく良く通る声で笑ったり、話したりしながら、本当に穏やかに旅立ちました」とのコメントを出した。
 所属事務所によると、27日に家族のみで密葬を行った。お別れの会などの予定はない。

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高島さん、昭和43年(1968)には、梅田コマ・スタジアムで上演された北條秀治脚本の舞台「名作劇場第二作 智恵子抄」で、光太郎役を演じられました。智恵子役は藤純子(現・富司純子)さんでした。

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010この戯曲、元々は光太郎存命中に書かれ(北條は戦時中から光太郎と面識がありました)、光太郎が没した昭和31年(1956)、雑誌『婦人公論』の光太郎追悼特集に掲載されました。

そして光太郎存命中から内諾を得ていた故・初代水谷八重子さんが智恵子役、故・大矢市次郎さんが光太郎役で、その年の11月に東京明治座で初演。この時は同じ北條作の「太夫(こったい)さん」という芝居との二本立てで、それぞれ2時間足らずという制限がありました。

それが高島さんの出演なさった昭和43年(1968)の公演は、「智恵子抄」単独の上演ということで、約2倍に膨らませたそうです。元々は無かった上高地のシーンなどが追加されています。

その後、昭和46年(1971)には初代水谷さんによる再演(光太郎役は故・森雅之さん=光太郎と交流のあった有島武郎の長男)、昭和51年(1976)には有馬稲子さん故・高橋昌也さんがそれぞれ演じられました。その都度、上演時間等の制約のため、長かったり短かったりの改訂が為されていたようです。当方、すべて同じシナリオだと思いこんでいましたが、改めて調べてみてそうではなかったと分かりました。

高島さんの光太郎役、ぜひ見てみたかったと思いました。謹んでご冥福をお祈りいたします。


【折々のことば・光太郎】

斯ういふ問題で仮定を前提とした質問に逢ふといつも困ります。一般論としては職業を持つ事に男子女子の別を考へません。家庭生活を中心として考へると、其時其場其人の三個の必然に出会はなければ賛否を考慮する根拠が私には持てないのです。理論は考へられますが。

アンケート 「あなたの夫人、令嬢、令妹などが職業を持つことを
お望みになりましたら」全文 大正14年(1925) 光太郎42歳

いわゆる「職業婦人」という言葉が使われるようになった頃のアンケート回答です。人によって事情が違うのだからと、安易に賛成とも反対とも断言しない光太郎の姿勢には好感が持てます。

演劇系イベントを二つ。

まずは仙台発の情報。
会 場 : せんだい演劇工房10-BOX box-1  宮城県仙台市若林区卸町2-12-9
時 間 : 7/5(金)19:30〜 1作品目 7/6(土)19:30〜 2作品目
        7/7(日)13:00〜 3作品目
料 金 : 通し券(木金・土・日の3パターン/全7作品観劇可)
        一般前売:2,800円 一般当日:3,000円 
        学生前売:1,800円 学生当日:2,000円

毎年、大阪・インディペンデントシアターで行われる最強の一人芝居フェスティバル「INDEPENDENT」。2011年夏に行われたジャパンツアー仙台公演を経て、2012年から仙台でも東北の創り手を中心とした「INDEPENDENT:SND」を継続開催しています。今年も多数の応募の中から激選された6組が参戦。東北の俳優と本家大阪で評価を得た招聘作品が競演します。是非ご期待ください!


演劇ユニット箱庭 第5回公演 『38.9℃の夜』
 出演 : しゅー(演劇ユニット あかりラボ)
 脚本 : 長門美歩
 演出 : 志賀彩美(演劇ユニット 箱庭)

「女が結婚しないでいるのはよくないなんて誰が決めたことなの。だいたい世の中の習慣なんて、どうせ人が決めたことでしょう、それに縛られて一生、自分の心を騙し続けて生きるなんてつまらないことだわ。わたしの一生はわたしが決めたい。たった一度きりしかないわたしの一生ですもの。」
と高村智恵子は言ったそうだ。

演劇ユニット 箱庭 第5回公演「38.9℃の夜」では、社会人と演劇・表現活動を両立する、年齢・結婚年数が異なる3人の既婚女性で構成。「結婚して、家族を得ても、孤独だった」と言う感覚をもとに、現代に生きる女性としての生き方と、その苦悩と孤独について描き出す。その舞台の題材として取り上げられるのが高村智恵子という一人の芸術家の一生だ。

「自分の人生を生きた」そういう実感が心から湧くような生き方をしていきたい。ままならないことだらけの世の中で、智恵子は生きました。ままならないことだらけの世の中で、私たちはどう生きていこう。

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「INDEPENDENT:SND19」という演劇フェスティバル的なイベントがあり、7作品(すべてが一人芝居とのこと)が上演される中の1つとして、演劇ユニット箱庭 第5回公演を兼ねる 『38.9℃の夜』だそうです。


もう1件、愛知県長久手市から。

長久手市文化の家自主事業 創造スタッフ七夕企画 文学パフォーマンス

期  日  : 2019年7月6日(土)
会  場 : 長久手市文化の家  2F情報ラウンジ  愛知県長久手市野田農201 
時  間 : 11時00分 15時00分 18時00分
料  金 : 無料

出演 豊永洵子(ダンス) 細川杏子(フルート) 藤島えり子(俳優)

女性創造スタッフ三名によるパフォーマンスイベント。ダンサー×フルーティスト×俳優が文学作品を題材にコラボレーション! 高村光太郎の名作「智恵子抄」を、それぞれの形でお見せします。
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やはり「智恵子抄」系、どちらかというと女性に人気なのでしょうか。仙台の演劇も女性3人組、奇しくも長久手も同じく女性3人組ですね。

現代の素敵な女性達が自分の生涯をさまざまな形で表現し続けてくれていると知り、泉下の智恵子はどう思うでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

試験制度をくぐつて来た人間の頭には、どうしても取り去れない或る箍がかかつてゐます。どうしてもコンクリイトで出来た池の中の水のやうな処があつて、海洋の水はおろか、小川の流のやうな処さへ少いやうです。どんなに有為な、立派な、若しくは偉大な人物になつても、その根性の奥にはめられた或る箍は、一生涯つきまとふかと思はれます。

アンケート「もし私に子があつたら何にするか?」より
 大正12年(1923) 光太郎41歳

「箍」は「たが」。「たがが外れる」の「たが」です。

いわゆるエリートの脳内にはその「箍」がしっかりはまっていて、外れることがないと。もちろん融通が利かないとか、思考が硬直化しているとか、そういったマイナスの意味で使われています。

今も昔も、ですね。

毎年この時期に行われる、古書業界最大の市(いち)、七夕古書大入札会。出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が、7月5日(金)午前10時〜午後6時、7月6日(土)午前10時〜午後5時に行われます。会場は神田神保町の東京古書会館さんです。

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ネット上に出品目録がアップされています。今年は光太郎の作が少なく、2点のみでした。

追記 当方が気づかなかったものがあと1点、さらに目録未掲載の追加出品で1点出ました。

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詩稿9枚。昭和18年(1943)に書かれた詩「突端に立つ」他4篇だそうです。平成28年(2016)にも出品されましたし、さらに遡れば昭和63年(1988)にも出品されました。ただし、昭和63年(1988)の時点では全12枚、詩は6篇。昭和19年(1944)に刊行された『歴程詩集2604』のための浄書稿のようで、詩6篇であればそれでコンプリートでした。その後、1篇3枚が欠けてまた市場に出て来ているわけです。

『歴程詩集2604』の目次に拠れば、掲載されたのは「或る講演会で読んだ言葉」(昭和17年=1942)、「われらの死生」(昭和18年=1943)、「突端に立つ」、「戦歿報道戦士にささぐ」(昭和17年=1942)、「三十年」(同)、「朋あり遠方に之く」(昭和16年=1941)です。時期が時期だけに、すべて翼賛詩といっていいものです。ちなみに上記画像右半分の「突端に立つ 他五篇 高村光太郎」の部分は、『歴程詩集』編集にあたった平田内蔵吉の筆跡です。

追記 実際手に取って確認したところ、「突端に立つ」「或る講演会で読んだ言葉」「朋あり遠方に之く」「三十年」の四篇でした。

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この手の大量に書き殴られた翼賛詩こそが光太郎詩の本質・心髄であると、涙を流してありがたがる愚か者も少なくないのですが、なぜかこの詩稿、回転寿司のように市場を回り続けています。

「或る講演会で読んだ言葉」(昭和17年=1942)は、少国民文化協会主催講演会で光太郎自身が朗読したもの。確認できている活字になった初出は昭和19年(1944)の光太郎詩集『記録』です。

「三十年」(昭和17年=1942)も、朗読が最初で、こちらは岩波書店の回顧三十年感謝晩餐会で朗読されました。右はその際の写真です。「三十年」というのは岩波書店の創立三十周年ということで、これのみ、翼賛色のあまり濃くない作品ですが、それでも「敵を知るもの敵を破る。/われら民族の理念、/炳として今世界の文化に紀元を画する。」「断じて折伏すべきもの、斯くの如きものことごとく撃つべし。」といった勇ましい(?)文言が散見されます。


続いて書簡が一通。

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出版社文一路社の社主、森下文一郎に宛てたもので、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には収録されていないものです。昨年、『日本古書通信』さんに掲載された八木書店さんの在庫目録に載りました。智恵子が亡くなる前年、昭和12年(1937)のもので、「智恵子がまだ悪かつたりしますので尚更小生は腐つて居ます」といった一節もあります。

入札最低価格が「ナリユキ」となっていますが、5万円からスタートのオークション形式で競りにかかるそうです。今年の目録ではこの「ナリユキ」が非常に目立ちます。このところ、高い価格で最低価格を設定しても売れないようで、どうもアホノミクスの破綻による不景気やデフレスパイラルの影響から来ているのかな、という気がします。

他に、商品名に「光太郎」の文字は入っていませんが……。

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光太郎が序文を書いた黄瀛の詩集『瑞枝』(昭和9年=1934)。入札最低価格5万円というのは安すぎるような気がします。


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光太郎が題字を揮毫した中原中也詩集『山羊の歌』(昭和9年=1934)。永井龍男宛の献呈署名入りで、さすがにこちらは根強い人気を保つ書籍でもあり、入札最低価格100万と強気です。


先ほども書きましたが、出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が、7月5日(金)午前10時〜午後6時、7月6日(土)午前10時〜午後5時に、神保町の東京古書会館さんで行われます。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

温泉は世の中で一番好きなものですが、どこの温泉といふ定めはありません。地面の中からどんどん湧き出してゐるところが一番ありがたいだけです。
アンケート「地面の中から」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

雑誌『旅行と文芸』に載ったアンケート回答から。アンケートのコーナー自体に題名がなかったようで、「地面の中から」というのは『高村光太郎全集』収録の際に仮に付した題名と思われます。質問は「どこの温泉が好きですか」でした。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第14号。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

今号は「カフェドシトロンとサヤエンドウサラダ」。

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欧米留学から帰国してすぐの随筆「珈琲店より」(明治43年=1910)、心を病んだ智恵子が入院中の昭和11年(1936)に書かれた随筆「某月某日」が典拠です。

花巻といえば、この『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん、花巻市さんで発行している季刊情報誌『花日和』の2019年夏号に大きく取り上げられました

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『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの版元であるオフィス風屋さん、そして編集に当たられている北山公路氏と高橋菜摘さんの紹介です。当方、昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際に昭和20年代の花巻とその周辺を再現するジオラマを作成していただいた石井彰英氏の工房を、北山氏と共に訪れたことがあります。熱い方でした(笑)。

冒頭部分、抜粋します。

 ひと味違う切り口  「 Machicoco (マチココ)」は、花巻 の「まち」と「ひと」にスポットを当て、魅力を伝えることで街歩きにつなげる“花巻まち散歩マガジン”。2017年に創刊し、じわじわとファンを増やしている。今年4月発行の13 号では、特集「春が来たっ。」と題し、市内の春の風景とともに、ピカピカのランドセルを背負った小学生、袖の長い学生服を着た中学生の姿を掲載。他にも「花巻ウラ昔話」、「花巻まにあ」、高村光太郎の食した料理を紹介する「光太郎レシピ」など、観光情報誌とはひと味違った切り口で、地元ならではの話題が盛り込まれている。

そして終末部分。

 北山さんはマチココが街に根付いた理由について、次のように語る。「紙媒体にとって大切だと感じるのは、ブレないこと。クオリティを落とさないこと。創刊当時の初心を貫いたことで、その想いが徐々に浸透したのだと思います」
 ページをめくり、興味を持った人が一人また一人と街に出かけていく。紙媒体には心を動かし、波及させる力がある。北山さんと高橋さんの挑戦は続く。

おっしゃるとおり、紙媒体の良さというものはやはり厳然として存在するわけで、今後もそれにこだわった紙面作りに邁進していただきたいものです。


『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんは、花巻高村光太郎記念館さんをはじめ、花巻市内各所で販売しています。また、オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回配本、送料込みで3,840円。

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『花日和』は無料。市役所や観光案内所等に置いてある他、都内でも岩手県のアンテナショップである東銀座の「いわて銀河プラザ」さんなどで入手可能です。


【折々のことば・光太郎】

返事が出来ないのでせずにゐました。感動をまるで受けないものについての所感をきかれるのは困るものです。

アンケート「帝展の佳作に就いて」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

「帝展」は、文展(文部省美術展覧会)の後身としてこの年から始まった「帝国美術院展覧会」。光太郎、こうした審査を伴うアカデミックな公設展覧会はとにかく毛嫌いしていました。

雑誌系、いろいろと届いております。

まず、当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第八号。拙文「連翹忌通信(五) 「光太郎遺珠」その四」が掲載されています。

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当会刊行の冊子『光太郎資料』、購読していただいている方には、次号(10月発行)と併せてお送りいたします。その他、入用な方は文治堂書店さんまで。


続いて、日本絵手紙協会さん発行の、『月刊絵手紙』。

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「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載がなされています。今号は詩「最低にして最高の道」。昭和15年(1940)の雑誌『家の光』に掲載されました。意外とファンの多い詩です。
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    最低にして最高の道
 
 もう止さう。
 ちひさな利慾とちひさな不平と、
 ちひさなぐちとちひさな怒りと、
 さういふうるさいけちなものは、
 ああ、きれいにもう止さう。
 わたくし事のいざこざに
 見にくい皺を縦によせて
 この世を地獄に住むのは止さう。
 こそこそと裏から裏へ
 うす汚い企みをやるのは止さう。
 この世の抜駆けはもう止さう。
 さういふ事はともかく忘れて
 みんなと一緒に大きく生きよう。
 見えもかけ値もない裸のこころで
 らくらくと、のびのびと、
 あの空を仰いでわれらは生きよう。
 泣くも笑ふもみんなと一緒に
 最低にして最高の道をゆかう。
 

最愛の妻、智恵子を喪くして約2年。かつて実践していた、俗世間とは極力交わらず、己の芸術精進に明け暮れる生活が智恵子の心の病を引き起こし、さらにそれを続けていては自分もおかしくなってしまうという危機感から、一転して社会と関わりを持とうと「改心」したことが宣言されています。しかし、その社会は泥沼の戦時体制に入っており、日中戦争は膠着状態、局面打破をはかって翌年には太平洋戦争に突入する、その前夜です。

したがって、「みんなと一緒に」、挙国一致体制を支持し、聖戦完遂、神国日本に勝利をもたらそう、手を貸してくれと、そういうきな臭い背景のあるいわば翼賛詩でして、当方、あまり好きになれません。そういった裏の作詩事情を抜きにして読めば、それなりに悪い詩ではないのですが……。


明日も雑誌系で。


【折々のことば・光太郎】

作文の用意は「無駄の無い」と言ふ事から始まると思ひます。心に思ひ感ずる事は必ず表現が出来るものです、たとひ、言語文字が足らなくとも。

アンケート「現代名家文章大観」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

「無駄の無い」というと、普通は「無駄なものを削ぎ落として」という意味になることが多いのですが、光太郎、逆ですね。「心に思ひ感ずる事」をすべて「表現」しなさい、と。なるほど、そういう考え方も成り立ちますか。

昨日、NHK Eテレさんで放映された日曜美術館「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」を拝見しました。

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先般、未公開作品100余点が発見され、また脚光を浴び始めてい夭折の天才画家・村山槐多(明治29年=1896~大正8年=1919)。その早すぎる晩年に光太郎と交流がありました。番組サブタイトルの「火だるま槐多」は、光太郎が彼に捧げた詩「村山槐多」(昭和10年=1935)から採られ、その説明もありました。

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コメンテーターとしてビデオ出演なさり、さらに槐多の詩の朗読も披露された詩人の高橋睦郎氏は……。

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ちょっとカチンときましたが(笑)、まぁ、たしかにそうとも言えますね。

そして槐多絵画の代表作や、新たに見つかった作品などが、彼の詩と共にいろいろ紹介されました。

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知っているようでよく知らなかった、槐多の短い生涯もうまくまとめられており、非常にわかりやすく見応えもありました。

次の日曜の夜、再放送があります。

日曜美術館 「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」

NHK Eテレ 2019年6月30日 20:00~20:45

自由奔放な絵を描き、22歳の若さで夭折した村山槐多。没後100年にあたる今年、展覧会開催を機に新発見の作品も相次いでいる。村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく
火だるまのような色、ガランス(暗赤色)こそ槐多の絵の最大の特徴である。『自画像』や『カンナと少女』。そして赤いオーラを放ちながら裸の僧侶が小便する『尿する裸僧』。今年は槐多が亡くなって丁度(ちょうど)100年。展覧会の開催を機に新発見の作品も相次いでいる。番組では、新たな作品の紹介をまじえながら、村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく

【ゲスト】美術史家…村松和明
【出演】世田谷美術館館長…酒井忠康 詩人…高橋睦郎
【司会】小野正嗣 柴田祐規子


再放送といえば、地上波テレビ東京さんで、今年4月に放映された「開運!なんでも鑑定団」。ゲスト秋川雅史さんが、光雲作の木彫の名品「寿老舞」をお持ちになった回。

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系列のBSテレ東さんで放映があります。

開運!なんでも鑑定団【秋川雅史のお宝がスゴイ&日本のゴッホ(秘)絵画】

BSテレ東 2019年6月27日(木)  19時55分~20時55分

歌手・秋川雅史のお宝に衝撃の鑑定結果!さらに秋川の意外な趣味とは?▽母が70万円で購入した妖しい輝きを放つ大きな水晶球は本物?▽“日本のゴッホ”山下清の貴重絵も!

MC 今田耕司 福澤朗  ゲスト 秋川雅史  アシスタント 片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
出張リポーター 松尾伴内(出張鑑定in 茨城県五霞町)  ナレーター 銀河万丈、冨永みーな


それぞれ見逃されている方、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

一、肌の凍る様な冬が好き。
二、空気の透きとほつた山が好き。

アンケート「どちらが好きか」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

一は「夏と冬と」、二は「山と海と」という設問に対しての回答です。生涯冬を愛し、晩年には岩手の山中に独居自炊の生活を送った光太郎らしい回答です。

昨日の『スポーツ報知』さんから。

八村塁、バキバキに割れた携帯の画面でNBAを夢見た高校時代…担任の手記

 NBAドラフトで日本人初の1巡目指名を受けた八村塁(21)が在籍した宮城・明成高で2、3年時に担任を務めた佐藤祐子教諭(47)が、スポーツ報知に手記を寄せ、スター候補の素顔を明かした。八村は、ジャケット裏地の左側に父の故郷である西アフリカ・ベナンをモチーフにした柄、右側には母の故郷・日本の富士山が描かれたものを着用。家族への感謝を胸に夢舞台を迎えた。
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 初めて塁と会ったのは入試の時でした。私は試験監督で面接を担当。中学3年生の彼に、「将来の夢は何ですか?」と聞きました。真っすぐな目で、「アメリカに行くことです。アメリカでプロのバスケットボール選手になりたいと考えています」と答えたことを、今でも鮮明に覚えています。2、3年生と担任をしましたが、常に「NBAに行きたい」と。夢がブレることはありませんでした。
 彼の休憩時間は全てNBAの動画。昼食を食べて少し余った時間など、ちょっとの空き時間はバキバキに割れた携帯電話の画面を食い入るように見て、「バスケは最高! 本当に楽しい」と言っていました。ゴンザガ大で最後の試合を終えた時は、「昨日負けて全部終わりました。終わって気づいたのは、僕はこのチームが大好きだったんだなって。今まで人生の中でこれ以上ないくらい泣きました」と連絡が来ました。ある賞を受賞した時に、「おめでとう。忙しいから返信はいらないよ」と送っても、「ありがとうございます! 本当にうれしいです」と。忙しいのにきちんと返信をくれる律義な子です。
 英語の勉強はよく頑張っていました。成績は良かったのですが、話すことはなかなかできなくて。昼食を早く食べて米国人の先生と毎日勉強していました。米国へ行って少したった頃、彼から「先生、初めて英語で夢を見ました!」とメールが。最初は「なかなか話せない」と聞いて心配でしたが、やっと英語が身についてきたと実感したようで、うれしかったんだと思います。
 4人きょうだいの長男で家族思いの一面もあります。家庭科の裁縫の授業では、作ったきんちゃく袋を、「一番下の妹にプレゼントとする!」と張り切って。器用な方ではないから、刺しゅうはクラスの女子生徒に手伝ってもらいながら、大きな手で一生懸命作っていました。妹さんの誕生日が近かったので、手紙を添えて送りました。後日「手紙の字が汚すぎてビックリした!って妹に笑われました」と、うれしそうに報告してくれました。
 県の高校総体翌日の遠足は朝から土砂降りでしたが、フリーサイズなのに上半身までしかないカッパを着て、誰よりも楽しそうにジェットコースターに乗っていました。素直で正直で愛嬌(あいきょう)があって。彼がバスケの活動で休みの日には、クラスメートが「今日は塁がいないんだ。寂しい~」って。みんなの人気者です。
 「常に自分のためとは思わず誰かのため、人のためにプレーをして、子供たちの英雄になってほしい」と話したことがあります。「僕も、そう思い続けたい」と言っていました。米国へ出発する時には、高村光太郎の「道程」という詩と、「一意専心」という四字熟語を贈りました。「僕の後ろに道は出来る」ことを実現できる人であってほしい。あなたがパイオニアになってほしいという思いを込めて。今でも覚えてくれているようです。新しい世界を切り開いていく塁であってほしいと願っています。

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日本人初となる、米プロバスケットリーグNBAドラフト会議での1巡目指名を勝ち取った、八村塁選手。ぜひ大暴れをしてほしいものですし、彼の切りひらいた「道」、彼一人で終わることなく、後に続く人がでてきてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

西洋楽  概してフランス音楽。

アンケート「わが好む演劇と音楽」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

光太郎がその3年半にわたる留学中、パリに滞在していたのは明治41年(1908)から翌年にかけて。

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その頃、フランスで活躍していた作曲家というと、クラシック系では以下のあたりでしょうか。サン・サーンス、フォーレ、ドビュッシー、サティ、ラヴェル……。プーランクらフランス6人組はまだ少年時代でした。

ベルリオーズは既に没していましたが、光太郎、後にその楽曲を題材とした「ラコツチイ・マアチ」(大正10年=1921、原題「ベルリオの一片」)という詩も書いていますし、他の作品でもいろいろ言及しています。フォーレ、ドビュッシー、ラヴェルも光太郎文筆作品にその名が現れますし、サン・サーンスはそれプラス、光太郎は彼の肖像写真の絵葉書を使ったりもしました。パリ滞在中はオペラなども時折観たというので、彼等の作品などに接していたのでしょう。

クラシックではなくシャンソンですと、ロートレックの絵のモデルにもなったブリューアン。光太郎は明治44年(1911)の「雪の午後」という詩に、彼の名を挙げ、その歌の歌詞を引用しています。俗語をそのまま取り入れ、簡単には訳せないような……。おそらく、どこかのカフェかキャバレーでその歌に接し、パリからレコードを持ち帰ったのではないかと推定されます。

まずは神奈川県から朗読系のイベント情報です。

 

兼古隆雄ギター名曲の楽しみ

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期 日   : 2019年6月30日(日)
会 場 : ホテルラポール千寿閣 
            相模原市南区上鶴間本町3-11-8
時 間 : 15時開場 / 15時30分開演
料 金 : 前売券4,000円
      当日券4,500円

 第一部 ギターソロ
  A.ヨーク    子守歌
  J.S.バッハ
       前奏曲、サラバンド、メヌエット
  A.バリオス   郷愁のショーロ
  L.ブローエル  11月のある日
   穴戸睦夫   前奏曲とトッカータ

 第二部 語りとギターの饗宴
  共演 俳優 山本學
   島崎藤村   初恋
   高村光太郎  レモン哀歌
   中原中也   骨
   長田 弘   イツカ向コウデ
   栗原貞子   生ましめんかな 

神奈川と東京多摩地区の情報誌『タウンニュース』さんに案内記事が出ていました。

ギターと朗読を楽しむ 兼古隆雄さんが弾く

 ホテルラポール千寿閣で30日(日)、ギター教室も営む兼古隆雄さんと「下町ロケット」にも出演した俳優・山本學さんの演奏会が催される。午後3時30分開演(3時開場)。
 第一部はギターソロ。A・ヨーク「子守歌」やJ・S・バッハ「前奏曲」「サラバンド」などの名曲が演奏される。第二部は朗読とギターのコラボ。島崎藤村「初恋」や高村光太郎「レモン哀歌」など、ベテランの語りの芸を披露する。2人のコラボは好評で、10月には西日本のツアー企画が進行しているという。チケット前売4000円。(問)兼古隆雄ギター教室【電話】042・722・6740


山本學さん、1990年代に学研さんからリリースされた朗読CD全集「サウンド文学館パルナス」で、光太郎詩の朗読をなさっています。

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久しぶりに拝聴しましたが、渋い、しかし明るいお声、ゆったりした間の取り方、さすがです。

ぜひ足をお運びください。


もう1点。同様の朗読系イベントで、過日ご紹介した石川県金沢市での「『智恵子抄』詩人高村光太郎と智恵子~本田和の語り」につき、『中日新聞』さんが報じましたのでご紹介します。

詩の朗読×チェロ演奏 市民芸術村 智恵子抄の世界表現

010 音楽に合わせて物語や詩の朗読をする金沢市の本田和(かず)さんの公演「『智恵子抄』詩人高村光太郎と智恵子」(北陸中日新聞後援)が十七日、金沢市民芸術村であり、七十人の来場者が光太郎の詩の世界とチェロの演奏を楽しんだ。
 智恵子抄は、光太郎が妻への思いをつづった詩集。愛にあふれる詩を、本田さんが情感を込めて読み上げた。大阪フィルハーモニー交響楽団のチェリスト林口真也さんが重厚な音色を奏で、詩に込められた感情を引き立たせた。
 公演は、本田さんの活動を支援する団体「きくはなすの会」が主催した。(小坂亮太)


時折書いていますが、光太郎の詩、意外と朗読向きです。全国の朗読愛好者の皆さん、ぜひぜひ取り上げて下さい。


【折々のことば・光太郎】

御質問の件簡単なる敬語を以て御答へ仕るは仕極難事と存じ候。甚だ失礼ながら右御断り申上候。

アンケート「現代名流の日本画観」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

「敬語」は、言葉の種類としての謙譲語とか尊敬語とかの敬語ではなく、尊敬の念をもっての讃辞、といった意味でしょう。「褒めることが出来ないからお答えできません」ということだと思われます。

光太郎、どうも同時代の日本画に関しては目の敵にしていたようで、あちこちで「古くさい」「生命感に欠ける」的な批判を繰り返していました。

「仕極」は「至極」の誤りでしょう。

本日発売です。

リーチ先生

2019年6月21日 原田マハ著 集英社(集英社文庫) 定価880円+税

日本の美を愛した英国人陶芸家の生涯。アート小説の旗手が贈る感動の物語! 

明治42年、来日したバーナード・リーチ。柳宗悦、濱田庄司ら日本人芸術家との邂逅と友情が彼の人生を突き動かしていく。

第36回新田次郎文学賞受賞作。


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『リーチ先生』、平成25年(2013)から、『信濃毎日新聞』さん等に連載され、上製の単行本としては平成28年(2016)にやはり集英社さんから刊行されました。単行本刊行時に出た書評がこちら。そろそろ文庫化されるだろうと待ちかまえておりました(笑)。

架空の(モチーフは存在しますが)陶芸家・沖亀乃介を語り手とし、「先生」である英国人陶芸家バーナード・リーチの美を追い求める姿が生き生きと描かれています。

リーチは光太郎より4つ年少の明治20年(1887)、香港の生まれです。幼少期に京都で暮らしていたこともあり、長じて日本文化に興味を持ち、明治41年(1908)、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、来日の意志を固めました。そして日本で出会った陶芸を生涯の道と定め、白樺派の面々らの協力の下、日本と母国を行き来しながら、英国伝統の陶器・スリップウェアの伝承などに力を注ぎました。

そこで小説には光太郎、父・光雲、実弟・豊周も登場します。おおむね史実に沿った内容です。

作者の原田さん、この『リーチ先生』で、平成29年(2017)には第36回新田次郎文学賞を受賞されています。また、『リーチ先生』ではありませんが、近作『美しき愚かものたちのタブロー』で、次回直木賞候補にエントリーされています。

ちなみに『リーチ先生』、平成30年度の埼玉県公立高等学校入試の問題文にも採用されました。ちょうど光太郎も登場するシーンでした。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

是は白耳義詩人ヹルハアランの愛詩である。あの男性的な詩人にとつて恋愛は宗教であつた。崇高な心の飛揚であつた。不可知への没入であつた。心の深さがあらゆる美しい詩句の背後に響いてゐる。

雑纂「訳書広告 ヹルハアラン詩集「明るい時」」より
 大正10年(1921) 光太郎39歳

010ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンは、画家であった妻マルト・マッサンとの愛の日々を、詩集『明るい時』(明治29年=1896)、『午後の時』(明治38年=1905)、『夕べの時』(明治44年=1911)の三部作にまとめ、刊行しました。光太郎はこのうち『明るい時』と『午後の時』を翻訳、前者は単行書として刊行、後者は昭和16年(1941)の『仏蘭西詩集』、同18年(1943)の『続仏蘭西詩集』に、他の訳者の作品とともに寄稿しています。

いわば『智恵子抄』ベルギー版。こちらの方が先ですが。おそらく折に触れて智恵子に関する詩篇を書き続けた光太郎、ヴェルハーレンの「時」三部作を念頭に置いていたと考えられます。上記ヴェルハーレン評も、そのまま光太郎自身のことのように感じます。

秋田県小坂町の町立総合博物館郷土館さんを経由して、詩集『智恵子抄』(昭和16年=1941)版元の龍星閣さんから書籍を頂きました。

昨年いただいた『澤田伊四郎 造本一路』(以下、「本篇」)という書籍の続編というか、補完するもので、『澤田伊四郎 造本一路 図録編』。「本篇」同様、重厚な造りの豪華本です。
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澤田伊四郎は龍星閣創業者にして、『智恵子抄』刊行を光太郎に提案した人物です。

目次は以下の通り。

はじめに
澤田伊四郎の略年譜(補遺)
父・龍星閣のこと  澤田城子
(『龍星閣 澤田城子の歩んだ道』(二〇一六年三月五日発行の「父・龍星閣のこと」を再録)
龍星閣刊行の装幀本(写真抄)
終わりに
付 龍星閣刊行書目録

「澤田伊四郎略年譜(補遺)」は、「本篇」印刷中に新たに見つかった澤田の日記をもとにしたもの。

「父・龍星閣のこと」は、目次の注解にあるとおり、『龍星閣 澤田城子の歩んだ道』からの抄出。この書籍も手に入れたいと思いつつ、なかなか見つかりませんで、その意味では実にラッキーでした。

そして「龍星閣刊行の装幀本(写真抄)」が、この書籍の肝です。戦前から平成にかけ、龍星閣から刊行されたほとんどの書籍のカラー写真が掲載されています。

「本篇」では、龍星閣の社史的なクロニクルが細かに記載されていたのですが、そこに図版があまりなく、その部分では残念に思っておりました。今回の「図録編」では、戦時中に刊行されて龍星閣自体にも保存されていない一部の書籍を除く、150点ほどの刊行書のほぼすべてがカラー写真で収められています。

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記念すべき初版『智恵子抄』(昭和16年=1941)。見返しには昨日もご紹介しました「うた六首」のうちの「わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき」が揮毫されています。「25頁」とあるのは、「本篇」での記録箇所を表します。

随筆集『某月某日』(昭和18年=1943)/翼賛詩集『記録』(昭和19年=1944)。

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詩文集『智恵子抄その後』(昭和25年=1950)/随筆集『独居自炊』(昭和26年=1951)。一昨年、これらの書籍の刊行に際してしたためられた『高村光太郎全集』未収録のものを含む、澤田に宛てた光太郎書簡がごっそり小坂町に寄贈されました(光太郎署名本の類も)。

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『智恵子抄』特装版。昭和27年(1952)、光太郎が最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため8年ぶりに岩手から帰京した記念として刊行されました。表紙は羊皮装です。

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光太郎が没した昭和31年(1956)の『赤城画帖』の普通版と特装版。明治期に描かれたスケッチブックの翻刻です。

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戦後の龍星閣では、同一の書籍で豪華な特装版が作られることが多かったのですが、澤田のポリシーとしては、著者に敬意を表して皮装などで豪華に造った特装版の方がスタンダードで、それに手が出ない人のために布装や紙装の普通版も出す、ということだったそうです。

さらに『光太郎智恵子』普通版と特装版(昭和35年=1960)。光太郎智恵子の書簡などを中心にしたもので、『智恵子抄』の裏側を描き出す、というコンセプト。『智恵子抄』紅白版。当時の皇太子ご夫妻(現・上皇陛下ご夫妻)のご成婚記念に、紅白の布で表紙を貼ったものです。『智恵子抄』五十周年愛蔵版(平成3年=1991)。

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他にも、光太郎が題字を揮毫した中村草田男の句集『火の島』(昭和14年=1939)、展覧会に寄せた光太郎の文章を序文として転用した土方久功『文化の果てにて』(昭和28年=1953)なども光太郎に関わります。

光太郎関連以外にも、いわば出版史上のエポックメーキング的な書籍の数々。岸田劉生の『劉生絵日記』(昭和27年=1952~同28年=1953)、棟方志功や竹久夢二の画集など。当方、存じませんでしたが、俳句の句集の出版に先鞭をつけたのが龍星閣だということですし、今では不動の人気を誇る竹久夢二も、その晩年から歿後しばらくは世間から忘れられていた存在で、龍星閣の画集によって復権した面があるとのこと。

改めて、気鋭の出版人・澤田伊四郎の業績につき、実感させられた次第です。

「本篇」ともども非売品と思われ、刊行部数もおそらく限られているのではないかと思われますが、お問い合わせは龍星閣さんまで。


【折々のことば・光太郎】

アメリカの大地から湧き出たやうな詩人、しかも時代と国土とに些かも極限されて居ない宇宙的詩人、此の不思議に大きいホヰツトマンの自然及び人類に対する全的信仰、絶対認容の精神が此等の日記の中に輝いてゐる。

雑纂「訳書広告 ホヰツトマン「自選日記」」より
 大正10年(1921) 光太郎39歳

アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマン(1819~1892)の日記を光太郎が翻訳し『自選日記』として刊行しました。その自然崇拝的態度などに、光太郎は共感を寄せていたようです。ただ、ホイットマン、南北戦争時には北軍を鼓舞する詩篇を書いてもいます(負傷兵の看護に当たるなどの慈善活動も行いましたが)。のちの15年戦争時の光太郎が大量の翼賛詩文を書き殴った一つの源流が、ここにも見えるような気がします。

過日、次の日曜(6月23日)に、長野県松本市で、光太郎詩歌に曲をつけた故・清水脩氏作曲の「亡き人に」「智恵子抄巻末のうた六首」「私は青年が好きだ」が演奏される、一般合唱団コーロ・カンパーニャさんの演奏会をご紹介しましたが、同日、北海道でも「智恵子抄巻末のうた六首」が演奏されます。

北海道教育大学札幌校グリークラブ・混声合唱団 OB・OG演奏会

期     日  : 2019年6月23日(日)
会     場 : 札幌市教育文化会館 小ホール  札幌市中央区北1条西13丁目
時     間 : 13:30開演
料     金 : 500円

北海道教育大札幌校の男声合唱団「グリークラブ」OBらによる演奏会。グリークラブは1957年創部。女子学生の増加に伴い、75年に混声合唱団になった。当日は、漫画家やなせたかしが作詞した合唱曲集「愛する歌」から「ひばり」、清水脩作曲の「智恵子抄巻末のうた六首」など15曲を披露する。混声合唱団のOB・OG、現役生の計約20人も出演し、4曲を合唱する。


フライヤー(チラシ)等の画像がネット上で見つかりませんでした。

010「智恵子抄巻末のうた六首」は、それまでにも独唱歌曲や箏曲で、光太郎詩に曲をつけたり、光太郎詩の朗読に乗せて演奏したりといった作品をいろいろ作られていた清水氏が手がけた、初の光太郎テクストによる合唱曲です。まず男声版が昭和39年(1964)に作られ、混声版へのアレンジが昭和42年(1967)、消長の激しい合唱曲の世界で、古典的定番の一つとして歌い継がれています。

終わってから気がついたのでこのブログではご紹介しませんでしたが、今年3月には、目白の学習院大学さんで、同大輔仁会音楽部大学男声合唱団さんと神戸の甲南大学グリークラブさんの交歓合唱演奏会でも演奏されました。

「うた六首」は、昭和16年(1941)刊行の『智恵子抄』に収められた、智恵子をモチーフとした短歌六首です。

 ひとむきにむしやぶりつきて為事するわれをさびしと思ふな智恵子

 気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり

 いちめんに松の花粉は濱をとび智恵子尾長のともがらとなる

 わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき

 この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾(あ)をいねしめず

 光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき

それぞれ正確な作歌時期は不明ですが、「ひとむきに……」は大正13年(1924)10月の第二期『明星』がおそらく初出です。「為事」は「しごと」と読みます。

「この家に……」、「光太郎智恵子は……」の二首は、昭和13年(1938)9月の『いづかし通信』に発表されました。したがって、智恵子存命中。以前にも書きましたが、智恵子歿後の作と勘違いされることが多くあります。

「気ちがひと……」、「いちめんに……」は、智恵子の没した翌年の昭和14年(1939)、『中央公論』に「旧詠一束」の題で掲載された15首に含まれ、これが現在確認できている初出です。ただ、「旧詠」ですから作歌時期は遡るでしょう。「この家に……」、「光太郎智恵子は……」も同じ項に再録されています。

また、「気ちがひと……」は、戦後、花巻の佐藤隆房(宮沢賢治主治医、光太郎の花巻疎開に尽力、戦後すぐには光太郎を自宅離れに約1ヶ月住まわせました)に贈った智恵子紙絵にこの歌を揮毫してもいます。「おどろしき(おとろしき)」は、「恐ろしい」の意の古語です。

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『智恵子抄』で「よばむとすなり」だった結句が、戦後のバージョンでは、「よばむとすらむ」と変えられています。「よばむとすなり」の「なり」は、伝聞推定の助動詞。「呼ぼうとしているようだ(そういう声が聞こえる)。」とでも訳しましょうか。「よばむとすらむ」の「らむ」は、やはり助動詞ですが、複数の意味のうち「現在の伝聞」を採ればほぼほぼ同じ意味です。光太郎、短歌はきちんと書き留めておかない習慣だったので、この変更にはそれほど深い意味はないのでは、と思います。

「いちめんに……」は、昭和9年(1934)の、智恵子の九十九里浜での療養生活を下敷きにしています。

「わが為事……」は、やはり昭和14年(1939)の『知性』に載ったのが現在確認できている初出です。こちらも「旧詠一束」の題で15首載せられたうちの1首です。

この6首以外にも智恵子を詠んだ光太郎短歌はけっこうありますが、それらは採らず、作歌時期もばらばらなこの6首を『智恵子抄』の巻末でピックアップした光太郎の意図をくみ取りたいものです。


閑話休題、今後とも、清水脩氏作曲の光太郎詩歌に曲をつけた楽曲、演奏され続けてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

人としてのフアン ゴツホを知るには是非見て置く可き書物の一つだらう。兄を此上無く敬愛してゐた妹が女らしい緻密な筆で書いたやさしい回想録。凡てを内側から照らし出してゐる。

雑纂「訳書広告 エリザベト ゴツホ「回想のゴツホ」」より
 大正10年(1921) 光太郎39歳

『回想のゴツホ』は、フィンセント・ファン・ゴッホの妹であるエリザベート・ゴッホによる評伝。この年、光太郎の訳で叢文閣から出版されました。

またテレビ放映情報です。

光太郎と交流のあった夭折の天才画家・村山槐多(明治29年=1896~大正8年=1919)。先般、その未公開作品100余点が発見され、また脚光を浴び始めています。それらを展示している愛知県岡崎市のおかざき世界子ども美術博物館さんの「没後100年 岡崎が生んだ天才 村山槐多展」でのロケを中心にしています。

日曜美術館 「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」

NHK Eテレ 2019年6月23日(日) 9:00~9:45  再放送 2019年6月30日 20:00~20:45

自由奔放な絵を描き、22歳の若さで夭折した村山槐多。没後100年にあたる今年、展覧会開催を機に新発見の作品も相次いでいる。村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく
火だるまのような色、ガランス(暗赤色)こそ槐多の絵の最大の特徴である。『自画像』や『カンナと少女』。そして赤いオーラを放ちながら裸の僧侶が小便する『尿する裸僧』。今年は槐多が亡くなって丁度(ちょうど)100年。展覧会の開催を機に新発見の作品も相次いでいる。番組では、新たな作品の紹介をまじえながら、村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく

【ゲスト】美術史家…村松和明
【出演】世田谷美術館館長…酒井忠康 詩人…高橋睦郎
【司会】小野正嗣 柴田祐規子

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サブタイトルの「火だるま槐多」は、光太郎詩「村山槐多」(昭和10年=1935)から採って下さいました。

    村山槐多

 槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。
 又がたがた下駄をぬぐと、
 今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
 風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
 黒チョオクの「令嬢と乞食」。

 いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
 五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
 強くて悲しい火だるま槐多
 無限に渇したインポテンツ。

 「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
 「居るよ。」
 「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

 眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
 自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。


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以前にも書きましたが、槐多は詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版され、光太郎も推薦文を寄せています。番組紹介で「詩の朗読とともに」とあるのは、おそらく槐多の詩でしょうが、光太郎の「村山槐多」もぜひ取り上げていただきたいものです。

詩「村山槐多」は、槐多の死後17年も経ってからの作です。同様に、翌年には歿後26年経った親友の碌山荻原守衛を偲ぶ「荻原守衛」という詩も書いています。双方、根柢には先に逝ってしまった敬愛すべき親しい芸術家への哀悼の意がこめられ、似たような読後感を受けます。なぜこの時期に、という疑問が残りますが。

ちなみに、来月末から、長野県上田市でも槐多の作品展が開催されます。残念ながら休館となってしまった信濃デッサン館さん、それからこちらは現在も健在の戦没画学生慰霊美術館・無言館さん館長の窪島誠一郎氏が槐多に惚れ込み、かつては信濃デッサン館さんで描いた作品を多数展示されるなどしていた縁ですね。関連行事として窪島氏とおかざき世界子ども美術博物館副館長代行・村松和明氏の対談も予定されています。


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さらにちなみに、美術図書出版の老舗・求龍堂さんから、『真実の眼ーガランスの夢 村山塊多全作品集』というカタログレゾンネ的な書籍も出版されました。編著は村松氏です。

他紙は存じませんが、『朝日新聞』さんでは広告も出ました。ただ、求龍堂さん自体のサイトにはまだ情報が出ていないようです。

当方、上田の展覧会には参ずるつもりです。関連する情報等出ましたら、またご紹介します。

さて、「日曜美術館」さん、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンの彫刻や素画は近代が有し得た天才性の一分水嶺である。一均衡である。此巨大な芸術家の暗示する未だ目覚めざる美が東洋に在る事を信ずる私達は、先づ此古代的近代人の閲歴から生れた言葉を深く味ひたいと思ふ。

雑纂「訳書広告「続ロダンの言葉」」全文 大正9年(1920) 光太郎38歳

この年刊行された光太郎訳『続ロダンの言葉』の広告から。

いったいに光太郎は、自己の芸術を推し進めるだけでなく、先人(ロダンやミケランジェロその他)や同時代の芸術家(槐多や守衛など)にも学び、いいものはいいと評価する姿勢を崩しませんでした。

論語に曰くの「学而不思則罔 思而不学則殆」ですね。先人などに学ぶだけで自分なりの考えを持たなければ真の理解にはたどり着かず、自分だけの考えに頼って広く他から学ぶことをおろそかにすれば、独断に陥って危険だ、といったところでしょうか。光太郎はこのあたりのバランスが絶妙だったように思われます。

テレビ放映情報です。

たけしのニッポンのミカタ! 老若男女がなぜ登る?山に魅せられたニッポン人

テレビ東京 2019年6月21日(金) 21時54分~22時54分

▽山頂に渋滞!9000人が集まる安達太良山の山開きに密着 ▽個人で山を購入!? 一万坪をひとり占め…山の(秘)楽しみ方 ▽人生が変わる!? 三浦豪太&市毛良枝が山で出会った奇跡の風景 ▽登山者数世界一! あなたの知らない高尾山

司会   ビートたけし、国分太一 
ゲスト  三浦豪太(プロスキーヤー・登山家)、市毛良枝(女優)

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智恵子の故郷・福島二本松に聳え、先月19日、第65回山開きが開催された「ほんとの空」のある安達太良山。その山開きの様子が紹介されます。

当方、今年、山開きに合わせ、初めて山頂まで登りました。そこでもしかすると当方も映るかもしれません(笑)。ロープウェイの奥岳登山口駅で、テレビ局スタッフらしき皆さんに「切符を買っているところを、手だけ撮らせて下さい」と言われ、承諾いたしました。地元のローカルニュース系だろうと思っていたのですが、ことによるとこの番組ということも考えられます。山頂付近ではテレビ局さんらしきクルーには気づかなかったのですが(番組紹介にあるとおり、多くの人で人山の黒だかりでした(笑))、途中の登山道でそれっぽい人達を追い越したような気もします。

安達太良山と光太郎智恵子との関わり、そして「ほんとの空」的な紹介が少しでも為されれば、と思っております。キー局がテレ東さんで、全国的には試聴可能地域が限られますが、番販の形で他局系でも遅れて放映されるようですので、各地域でご注意していて下さい。

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【折々のことば・光太郎】

大酒はもとより大毒。のまずにすむなら酒はのまぬが一番。もしのむなら安くてわるい酒は禁物。高くてもよい酒が結構なれど安くてよい酒なら尚ほ結構な道理でございます。

雑纂「古雅清醇 ゐなか酒「花霞」引札」より
 大正12年(1923) 光太郎41歳

「花霞」は、智恵子の実家、福島県油井村(現・二本松市)の長沼酒造で作っていた日本酒のブランドです。この年9月1日の関東大震災後、とにかく物が不足していたことから、光太郎が東京に取り寄せ、自ら荷車を引いて売り歩いたとのこと。ラベルや引札も木版で作りました。引札は二本松の智恵子記念館さんに展示されています。

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ちゃんとやればそれなりに商売になったのでしょうが、結局は友人知己にただで呑まれてしまい、ほとんど儲けにならなかったとのこと。当会の祖・草野心平は無実です(笑)。この頃はまだ光太郎と知り合っていませんし、第一、中国に居ました。

本日は合唱系で。

まず、長野県から演奏会情報。

コーロ・カンパーニャ 第7回コンサート

期 日   : 2019年6月23日(日)
会 場 : 松本市音楽文化ホール 長野県松本市島内4351
時 間 : 14:00開演
料 金 : 一般1,000円  高校生以下500円
曲 目 : 
 清水脩 高村光太郎の世界   亡き人に 智恵子抄巻末のうた六首 私は青年が好きだ
 アラカルト~生きること 歌うこと VITA DE LA MIA VITA (W.HAWLEY)
  あなたの心のなかに(松下耕) 他
 Missa brevis (G-dur)  V.Miškinis

昭和の名曲、南アフリカの結婚歌、トルミス作品、現代日本の作品などのアラカルト、そしてメインはミシュキニスと、バラエティに富んだ曲目となっております。

6/23(日)、松本市音楽文化ホールでお待ちしています!


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故・清水脩氏の作曲になる光太郎詩をテキストとした作品で1ステージ。このうち「智恵子抄巻末のうた六首」、『智恵子抄』中の「亡き人に」(昭和14年=1939)に曲をつけたものは、楽譜やレコード、CD等で広く知られていますが、「私は青年が好きだ」(昭和15年=1940)にも清水氏が曲をつけていたのは存じませんでした。調べてみましたら、カワイさんから昭和44年(1969)に刊行された『清水脩合唱曲選集』に収められているようです。この手の古い作品を取り上げてくださるのはありがたいところです。
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合唱といえば、当方も数十年混声合唱に取り組んでいますが、先々週には所属する団で千葉県合唱祭に出演して参りました。

わが団は、指揮者が故・大中恩氏の弟子筋に当たる方で、昨年暮に亡くなった氏の追悼的な意味合いも兼ね、氏の作品などを演奏しました(そうでなくても氏の作品をよくとりあげているのですが……)。

毎年、光太郎詩に曲をつけた作品が演奏されないかな、と思っているのですが、なかなか取り上げられません。さまざまな作曲家さんが作られてはいるのですが。同じことはコンクール系でも同様です。ただ、まだコンクール系の方がよく取り上げられているかな、という感じですね。合唱祭というと、たしか6分間だかの時間制限があって、そのあたりもネックになって居るような気がします。

で、千葉県合唱祭。出演団体が多いので、3日間、それぞれ午前・午後に分け、計6ブロックでの実施です。わが団と同じブロックに出演された千葉県立松戸高校合唱部さんが、昨年ヒットした米津玄師さんの「Lemon」を演奏なさいました。若々しく真面目ないい演奏でした。

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「Lemon」、米津さんご自身、光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)からのインスパイアもあるかもしれないとおっしゃっています。J-POP系もヒットすればすぐ合唱編曲が出るっけな、と、それは失念していました。

プログラムをめくってみますと、異なるブロックでも複数の出演団体が「Lemon」を演奏なさっていました。

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たまたまでしょうが、すべて松戸市の高校さん。松戸と「Lemon」には直接関係はないと思います。アレンジは2種類で、吉田宏さんという方と、西條太貴さんという方ですね。西條さんのヴァージョンは混声3部、主に吹奏楽の楽譜を扱っているウインズスコアさんという会社から出版されています。

全国の合唱団さん等で取り上げていただき、元ネタである「レモン哀歌」にも関心を寄せていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

平日研究のモデル費にあてる為、斯ういふ会を又催します。今度は途中でお断りするやうな事をしません。そして永く続けます。

雑纂「木彫小品鳥蟲魚介蔬菜果蓏を頒つ」より
 大正13年(1924) 光太郎42歳

木彫の頒布会広告です。少し前に同趣旨で絵画やブロンズ彫刻の頒布会を立ち上げ、スポンサーを募りましたが、作品を換金することに抵抗を感じ、どちらも長続きしませんでした。しかし、前年の関東大震災を受けて、ブロンズの入手が困難だったという部分もあり、ふと回帰した木彫が意外に好評で、それなら本格的に売り出すか、という感じでした。やはり智恵子は作品を手放すことに難色を示し、懐に入れて持ち歩いたそうです。

複数の「蝉」や「鯰」などがこれによって作られ、さらに別個に百貨店での即売会にも出品(「栄螺」昭和5年=1930など)、多作ではなかったものの、光太郎自身、本当に「今度は途中でお断りするやうな事をしません。そして永く続けます。」というつもりだったようですが、顕在化した智恵子の心の病のため、それもできなくなってしまいます。

智恵子の故郷・福島二本松からのイベント情報です。

第1回二本松市田舎暮らし体験ツアー

期 日  : 2019年6月22日(土)・23日(日)
場 所  : 福島県二本松市 
料 金  : 4,000円(宿泊費、初日昼食・夕食、2日目朝食・昼食代)
定 員  :  6名
問 い 合 わ せ   : 二本松市役所総務部秘書政策課 TEL 0243-24-7120/FAX 0243-22-7023
           Email energy@city.nihonmatsu.lg.jp
詳 細  : 
 <6月22日(土)>
  12:00 昼食(日程説明) ※ふくしま農家の夢ワイン㈱
  14:30 農業体験(有機農家の圃場で収穫体験)
  18:00 先輩移住者・地元の方との夕食交流会
  20:00 宿泊
 <6月23日(日)>
  9:00  農業体験(有機農家の圃場で収穫体験)
  11:30 昼食(ツアーの振り返り)
  13:00 二本松市内観光
  14:25 二本松駅着 
         

二本松市は、高村光太郎が「智恵子抄」の中で、妻・智恵子のあどけない話として「あだたら山の上に出ている青い空がほんとの空」だと伝えている『ほんとうの空』がある市として知られています。
二本松藩・丹羽家10万石の城下町として歴史を刻んできたエリア、安達太良山の麓にある岳温泉・安達太良高原エリア、東の阿武隈山系に連なる里山の恵み豊かな中山間地域エリアに分かれており、豊かな自然が住む人、訪れる人々をやさしく包んでくれます。
今回のツアーは、阿武隈山系に連なる地域で有機農業を営んでいる方々が、農業後継者と一緒に有機農業を営んでみたい方を募集するために企画したものです。農業を新たに始める方のサポート体制も整っておりますので、是非足を運んでみてください。お待ちしております!

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内容的には直接光太郎智恵子に関わるわけではないのでしょうが、「ほんとの空」の語を持ち出されると、紹介せざるを得ません(笑)。

有機農業に関心がおありの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

従つてわたくしには世上に於ける名誉がありません。しかし実力はあります。わたくしの彫刻は尠くとも根帯の無い砂上の家ではありません。外面的に見ても、わたくしは自分の彫刻が世界の芸術的市場に持ち出されて差支無いのみならず、必ず確固たる市価を得べきものだといふ事を疑ひません。

雑纂「高村光太郎彫刻会」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

同じ文章に拠れば、ニューヨークで個展を開きたい、しかし金がない、ひいては彫刻を買ってほしい、だそうで。どの程度本気だったのか、何とも難しいところですが、賛助員には、金子堅太郎子爵をはじめ、水野勝興(親友・水野葉舟の父で日本勧業銀行監査役)、正木直彦(東京美術学校校長)、与謝野寛、武者小路実篤、岸田劉生、バーナード・リーチ、そして明治39年(1906)にニューヨークで世話になったガットソン・ボーグラムなど、錚々たるメンバーが名を連ねています。

結局、入会者が少なく、ニューヨークでの個展は実現しませんでしたが、ブロンズの「手」(大正7年=1918)、「裸婦坐像」(同6年=1917)などの代表作が作られました。

いわゆるライトノベル系です。

本屋のワラシさま

2019年5月25日 霜月りつ著 早川書房(ハヤカワ文庫JA) 定価760円+税

元書店員の啓(ひらく)は、ある事件がきっかけで“本が読めなくなってしまう”。が、入院した伯父の代わりに、彼が営む書店の店長をすることに。その初日、店内の座敷童子(ワラシ)人形がいきなり動き、あれこれ書店繁盛の教育的指導をしてきた!啓はワラシとぶつかりつつ、子どもへの贈物ですれちがう夫婦の悩みや、何年も取り置きされたままの“赤毛のアン”の謎など、お客様の問題を解決し……出逢いとドラマが山積みのマチナカ書店物語。

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人間関係のトラブルからのトラウマで本が読めなくなり、それまで務めていた大手書店を退職した主人公。伯父の入院に伴い、代理で伯父の小さな書店を任されます。すると、店内に飾られていた市松人形が座敷ワラシと化して上から目線で(笑)しゃべりはじめます。江戸時代の貸本屋の頃から「いい本がある書店」に代々受け継がれてきた「本屋の守り神」だそうで。ワラシのアドバイスに従い、書店を訪れる客たちの心の傷に寄り添う中で、主人公の心の痛みもやがて癒され……。

実在の様々な書籍が効果的に使われています。帯で紹介されているのは以下の通りです。

 『書店猫ハムレットの休日』、〈氷と炎の歌〉シリーズ、『大聖堂』、『だるまちゃんとてんぐちゃん』、『超辛口先生の俳句教室』、『認知症は治せる』、『アンの想い出の日々』、〈ペリー・ローダン〉シリーズ、『三幕の殺人』、『東京バンドワゴン』、『高村光太郎詩集』(「智恵子抄」)、『おさるのジョージ』、『星の陣』、『書店主フィクリーものがたり』

『高村光太郎詩集』は、岩波文庫版です。物語の終盤、主人公の「本が読めない」という症状が治るきっかけの一つとなり、恢復したあと初めて読んだ本、という設定。(「智恵子抄」)となっているのは、主人公が小学生時代、父親の本棚にあった『智恵子抄』(新潮文庫版?)を手に取り、全ては理解できなかったものの「レモン哀歌」に感動し、それが本好きになった一つの源流、的なエピソードもあるからです。

詩集でモチーフになっているのは光太郎詩集だけで、朔太郎でもなく賢治でもなく中也でもなく、よくぞ光太郎にしてくれた、と感謝しました。

それにしても、作者・霜月さんの「本」や、街の小さな個人経営の「本屋さん」に対する深い愛情的なものが溢れている一篇です。こんな本屋さんが実際にあればいいな、と思わせられます。座敷ワラシには遭遇したくありませんが(笑)。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

或る芸術上の用途の為め、近々に少し纏まつた金圓が入要になりましたので、あまり好みませんが画会と言ふものをつくりました

雑纂「高村光太郎画会」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

油絵頒布会の広告的な。50号の100円が最高額、以下30号で50円、25号は35円、12号に20円、8号を10円、そしてサイズは明記されていない「スケツチ板」が4円とのこと。前金で3分の1ほど、完成後に残金を支払うというシステムです。父・光雲の勧める東京美術学校教授のポストや銅像会社設立などをすべて断り、智恵子との結婚生活に入ることとなって、自分で稼がなければならず、こういったこともやりました。

実際、ぽつぽつ注文があり、作品も残っています。下は福島の素封家で、中村彝と深い交流のあった伊藤隆三郎が購入したもの。

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下記は、新潟の素封家で、『明星』同人でもあった渡辺湖畔の注文で描いた「日光晩秋」に関して。

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しかし、光太郎自身「あまり好みませんが」と書いたとおり、積極的に芸術を換金することに対しては常に抵抗があったようで、画廊の琅玕洞同様、事業としてはものになりませんでした。

6月9日(日)、地方紙『福島民報』さんの一面コラム「あぶくま抄」。

女子体育の母

 二階堂トクヨは「女子体育の母」と呼ばれる。一九二二(大正十一)年、日本女子体育大の前身となる二階堂体操塾を開き、女性の体力と健康を高めようと努める。NHK大河ドラマ「いだてん」には、厳しく情熱に満ちた人物として登場する。
 宮城県に生まれ、福島大の前身校の一つである福島県師範学校を卒業した。一年間、油井尋常高等小学校(現二本松市油井小)の教壇に立つ。高等科の三年生だった長沼智恵子との交流が生まれる。のちにトクヨが英国へ留学に旅立つ時、智恵子は夫となる高村光太郎と横浜港で見送った。
 「二階堂トクヨ先生を顕彰する会」が三年前、宮城県で結成された。今年三月には生誕の地を示す看板を大崎市の公園に立てて、たたえる取り組みを進めている。智恵子をしのぶ二本松市の「智恵子の里レモン会」の会員は、本県で結ばれた師弟の強い絆を確かめる。
 両会によるとトクヨは師範学校に進む際、福島民報社の初代社長で衆院議員を務めた小笠原貞信の養女となり本県と関わりを深めたという。向学心、人を育てる思いに県境はない。一世紀余り前に出会った二人の女性の生き方は、古里の歴史に優しい彩りを添える。


二階堂トクヨ、「いだてん」では寺島しのぶさんが熱演(怪演?)なさっています。

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6月9日(日)放映の回では、終了後にトクヨの紹介も。

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以前も書きましたが、智恵子との交流のはじまりは、明治32年(1899)、トクヨが福島高等師範を卒業後、安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校に赴任してのこと。智恵子は高等科に在学中で、トクヨは智恵子の6歳下の妹・ミツ(尋常科2年)の担任でした。

当時の油井小学校。

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当時の智恵子。実家は県下有数の造り酒屋でしたので、いかにもです。そもそもこういう写真が残っている時点でお嬢様ですね。

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智恵子卒業時の集合写真。

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智恵子は最前列右から二人目。拡大すると上の画像。数え16歳で、4月から福島高等女学校に進む、その直前です。

トクヨも写っているのでは、と気がつき、探してみました。元の資料(『アルバム 高村智恵子―その愛と美の軌跡―』 平成2年=1990 二本松市教育委員会)では、キャプションに智恵子と、担任だった別の先生しか書かれていませんで……。

すると、最後列右から二人目が、どうもトクヨのようです。のちの写真と比べての判断ですが。

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『福島民報』さんの「あぶくま抄」にあるとおり、大正元年(1912)にトクヨが英国留学に発つ際に、智恵子は光太郎を伴って横浜港まで見送りに行ったということは伝わっています。ただ、その後、光太郎智恵子とどう関わったのか、疎遠になってしまったのかなど、今ひとつ分かりません。今後の課題とします。

『高村光太郎全集』では、トクヨの名は一回だけ出て来ます。大正2年(1913)に、光太郎が智恵子のすぐ下の妹・セキに送った書簡中の「二階堂さんからお便りがありますか」という一節です。失念していましたが、セキは、智恵子と同じく日本女子大学校を卒業後(智恵子は家政学部でしたが、セキは教育学部でした)、トクヨと同じ東京女子高等師範学校に入学し直したことが分かっています。セキの卒業は明治45年(1912)。トクヨは同37年(1904)に卒業しているはずですので、直接の関わりがあったかどうかは不明ですが、匂いますね。ちなみにトクヨの女高師進学に際しては、智恵子の実家からの援助があったそうで。

トクヨの評伝的な書物がかつて複数出版されていますので、少し調べてみようと思います。

「いだてん」に戻りますが、ドラマでのトクヨ、主人公金栗四三(中村勘九郎さん)の後輩で、アントワープ五輪の陸上十種競技に出場した野口源三郎(永山絢斗さん)に失恋する、という設定になっていました。これが史実かどうか存じませんが。

で、その野口が中心になって創刊された雑誌『アスレチツクス』が、前回放映で取り上げられました。

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この『アスレチツクス』へ、後に光太郎も寄稿しています。昭和5年(1930)7月の第8巻第7号に、詩「籠球スナツプ シヨツト」。バスケットボールをモチーフにした躍動感溢れる詩です。それから翌月号ではアンケート「山と海」に回答を寄せています。若い頃よく登った赤城山の思い出や、上高地で智恵子と結婚の約束を交わしたこと、欧米留学のため小さな貨客船で太平洋を渡ったことなどが語られています。

やはりこの時代が描かれている「いだてん」、今後も目が離せません。皆様もぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

カプリの島のグロツタ アズラは赤金にやけた浜の童の肌をも白金にするといふ。美しい物の好きな人は此の琅玕洞に立ち寄りたまへ。

雑纂「琅玕洞広告」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

「琅玕洞」は、神田淡路町に光太郎が開いた、ほぼ日本初の画廊です。その店名は、森鷗外の訳になるアンデルセンの『即興詩人』から採られました。「琅玕洞」=「グロツタ アズラ」=「GROTTE AZZURÉE」、イタリア・カプリ島の有名な「青の洞窟」のことです。

親友・荻原守衛などの作品を並べ、美術愛好家に好評を博しましたが、事業としてはまるで成り立たず、あえなくまる1年で手放すことになりました。

まず出版系から。

NHK大河ドラマ・ガイド いだてん 後編

2019年7月5日 NHK出版 定価1,100円+税

話題の大河ドラマ、ガイドブック第2弾!
巻頭は、阿部サダヲ×中村勘九郎×役所広司の座談。
新聞記者・田畑政治の同僚、世界の舞台で大活躍の水泳選手など、新しい登場人物を一挙紹介! 
関東大震災、第二次世界大戦の足音……逆境の中でも輝くアスリートの栄光と苦悩、それを支える人々の泣き笑い。000
波乱万丈のドラマをさらに深掘りできる一冊!

【章立て】
 座談 阿部サダヲ×中村勘九郎×役所広司
 出演者紹介&インタビュー
 水泳チーム座談会
 水泳撮影の舞台裏
 美術特集~関東大震災からの復興を描く
 女子アスリートの系譜
 オリンピックとその時代
 あらすじ
 大友良英とスゴ腕ミュージシャンたち
 実感放送~スポーツ中継の歴史をひもとく
 いだてん新聞 ほか

主に9月15日(日)放映の第36回までをカバーする内容です。以後の放映については9月に「完結編」が刊行されるそうです。

「あらすじ」の項で、第36回までのかなり詳細な内容が明らかになっています。「ここまでネタばらしちゃっていいのか?」と思うほどでした。それによれば、昭和11年(1936)のベルリンオリンピックまでが描かれています。

このドラマ、これまでも、光太郎智恵子ゆかりの人物が登場していました。光太郎がその肖像レリーフを手がけた嘉納治五郎師範(役所広司さん)、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が顕彰する対象の武田千代三郎(永島敏行さん)、そして小学生だった智恵子をかわいがり、道を示した寺島しのぶさん演じる二階堂トクヨ(トクヨについてはまた明日、詳述します)……。

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今後登場する新キャラの中にも、光太郎ゆかりの人物が多数含まれます。

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まず、アスリート系。今後、水泳陣がクローズアップされていきまして、代表チームを引っ張るリーダー的な存在・高石勝男。斎藤工さんが演じられます。

昭和6年(1931)、雑誌『モダン日本』に掲載されたアンケート「私の贔屓(ひいき)集」での光太郎の回答が以下の通り。

 野球     贔屓人物移動中にて挙げ難し
 庭球     コオシエ
 ラグビー  いまだ渾沌たり
 陸上競技  走高跳のキムラ
 水上競技  曾てタカイシなりしが今移動中
 将棋     土居八段、関根名人、
 碁      呉少年

「コオシエ」はフランスのテニス選手。昭和5年(1930)には来日し、東京や大阪で日仏対抗の試合を行っています。「キムラ」は早稲田大学の学生だった木村一夫。アムステルダム(昭和3年=1928)、ロサンゼルス(昭和7年=1932)の両オリンピックでともに6位入賞でした。「土居八段」は土居市太郎、「関根名人」は十三世名人関根金次郎。碁の「呉少年」は呉清源です。そして「タカイシ」が高石勝男。「移動中」って、光太郎、冷たいですね(笑)。


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続いて、上白石萌歌さん演じる前畑秀子。ロスでは銀、4年後のベルリンでみごと日本女性初の金メダリストとなりました。

以前にこのブログに書きましたが、光太郎、彫刻家の眼で観て、前畑の身体美を絶賛しています。昭和16年(1941)、『読売新聞』に連載された座談会「新女性美の創造」から。

 吉田 「水泳の人の身体は違ふ。」
 高村 「前畑さんなどは普通では肥りすぎてゐるやうにい
     はれるけれども、僕などの立場から見ると実に美し
     いものですね。」
 竹内 「前畑さんは丁度理想的な寸法で決して肥りすぎて
     はをりません。あの人がドイツから帰つて来た日に
     私、宿舎へ行き、身体測定をしました。(略)寸法で
     いひますと身長が一六〇糎、胸の周りが九〇・二
     糎。(略)それから目方はあの人は五八瓩です。」

「吉田」は吉田章信(体育研究所技士・文部省体育官)、「竹内」は医師の竹内茂代です。

当時の日本女性の平均値は身長150㌢、体重53㌔㌘ぐらいだったそうですので、たしかに立派な体格です。同じ座談によれば、前畑と死闘を演じたドイツのゲネンゲルも全く同じ体格だったそうです。


「いだてん」、幻に終わった昭和15年(1940)の東京オリンピック招致の話にもなりますので、そうした関係から政治家の面々も登場します。

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昭和7年(1932)の五・一五事件で暗殺された犬養毅(塩見三省さん)。「木堂」の号で書家としても有名だった犬養、光太郎はその晩年に書かれた「書についての漫談」(昭和30年=1955)の中で、書家としてより書の理論家としての犬養を高く評価しています。


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昭和11年(1936)の二・二六事件で命を落とした高橋是清。今年3月に亡くなった萩原健一さんです。光太郎、昭和2年(1927)の随筆「人の首」で、肖像彫刻を作ってみたい人物を挙げていますが、その中に高橋の名も。曰く「写真で見ると、高橋是清氏と、浜口雄幸氏とが面白い」。政治家で名を挙げているのはこの2人だけです。

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今後、五・009一五事件や二・二六事件、それ以前に次回6月16日(日)の放映から大正12年(1923)の関東大震災が描かれますし、やがて嘉納治五郎が必死の思いで誘致に成功した東京オリンピックも日中戦争の影響で返上と、ある意味悲惨な時代が舞台となっていきます。それにもめげず、それぞれの競技に打ち込むアスリートや、体育行政関係者達の姿が今後の焦点。元々時代劇の流れをくむ大河ドラマ、定番の戦国時代や幕末の合戦や斬り合いなどの代わりに、スポーツによる戦いが描かれ、その意味では従来の大河に対するアンチテーゼともいえるかもしれません。

ちなみに右は『NHK大河ドラマ・ガイド いだてん 後編』に掲載されている写真。光太郎の父・光雲が主任となって制作された上野の西郷隆盛像ですが、関東大震災直後の写真で、台座や像のあちこちに尋ね人的な張り紙が為されています。


余談になりますが、「いだてん」、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市でもロケが行われています。

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6月2日(日)放映の第21回「櫻の園」。大正9年(1920)のアントワープ五輪で惨敗して帰国した水泳代表チームが、現地での屈辱を回想するシーン。

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古式泳法で泳ぐ日本チームが、練習用プールで欧米選手に笑いものにされた、という設定です。世界の主流は新しく考案されたクロールに移っていましたが、日本にはまだ伝わっていませんでした。

この練習用プールとして使われたのが、香取市と茨城県稲敷市にまたがる横利根閘門(よことねこうもん)。利根川と、その支流である横利根川の間に設けられたレンガ造りの水門で、船が航行する際に二つの川の異なる水位を調整してから通るための施設です。閘門はパナマ運河がこの方式ですし、東京の下町にもいくつか現存しています。

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光太郎が第一詩集『道程』を刊行し、智恵子と結婚披露を行った大正3年(1914)に工事が始まり、大正10年(1921)に完成しました。現在はあまり船舶の通行はありませんが、現役です。補修は行われたものの、ほぼ建造当時の姿を残し、平成12年(2000)には国指定重要文化財に認定されました。

したがって、「いだてん」の役者さん達が泳いでいたのは、川です(笑)。オンエアが6月では、まだ寒い時期のロケだったでしょうに……。

背景に小さく映っている建物がこちら。機械室のような。これもほぼ当時のままです。たしかにアントワープっぽいかもしれません(笑)。

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古式泳法をせせら笑う欧米選手の背後に映っている並木。香取市の木に指定されているポプラです。

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香取市、江戸時代から続く古い街並みも残っており、旅番組(最近は散歩系番組)などで取り上げられることも多く、また、ドラマや映画のロケにもしょっちゅう使われています。NHKさんですと、やはり大河ドラマ「八重の桜」(平成25年=2013)や連続テレビ小説「花子とアン」(平成26年=2014)など。横利根閘門も、泉ピン子さん主演の2時間ドラマ「名司会者・寿鶴子殺人スピーチ(2) 花嫁に忍び寄るストーカー そして父が殺された!14年前の殺人事件に翻弄された運命の恋人達に捧げる涙の結婚式」(平成18年=2006・フジテレビ)などのロケが行われました。隠れた桜の名所でもあります。

閑話休題。「いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)」、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

この奈良にまゐりてより、私ただ夢ごこちに日を送り居ることに候。南大門の仁王の前に初めて立ち候ときの私、斑鳩(いかるが)の法隆寺に金堂の壁画を透し見し時の私、何知らずわななきしこの腕お察し下されたく候。

雑纂「「相思」より」全文 明治34年(1901) 光太郎19歳

東京美術学校の修学旅行で初めて奈良を訪れ、古仏の数々に接した際の感動を、書簡体で与謝野夫妻の『明星』に寄せたものです。後に知るロダンの彫刻と併せ、これらも光太郎彫刻の骨肉の一つとなりました。

まず明らかに「智恵子抄」に触れられるもの。

やすらぎの刻~道 #48 テレビ朝日開局60周年

地上テレビ朝日 2019年6月12日(水)  12時30分~12時50分
BS朝日      2019年6月13日(木)  7時40分~8時00分

巨匠・倉本聰氏が1年間をかけて描くのは、山梨を舞台に昭和~平成を生き抜いた無名の夫婦の生涯。そして『やすらぎの郷』のその後。2つの世界が織り成す壮大な物語!

出演
 清野菜名 風間俊介 宮田俊哉(Kis-My-Ft2) 佐藤祐基 風間晋之介 井上希美
 木下愛華 (他)
作  倉本聰
主題歌 中島みゆき『慕情』『進化樹』『離郷の歌』
(株式会社ヤマハミュージックコミュニケーションズ)

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放映開始前の4月、このブログでご紹介しましたが、いよいよ劇中で「智恵子抄」が取り上げられる回の放映があります。舞台は太平洋戦争開戦前夜、山梨県の山間部・「小野ヶ沢」という架空の集落です。元養蚕農家だった根来家、語り手の四男・公平(風間俊介さん)は、半年ほど前の父(佐戸井けん太さん)に続いて母(岸本加世子さん)を亡くします。公平の親友たちの家を含む集落のかなりの世帯が開拓団として満州に渡る直前、という設定です。霞ヶ浦の海軍航空隊に入営していた次男の公次(Kis-My-Ft2の宮田俊哉さん)が、母の死の知らせを受けて帰郷、公平に『智恵子抄』を渡すそうで。昭和16年(1941)という設定ですから、龍星閣版『智恵子抄』はこの年8月に刊行されているので、矛盾はありません。

書き込みのしてあるページがあることに気づく公平。それは「あどけない話」(昭和3年=1928)のページで、「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」の箇所、「阿多多羅山」が消されて「小野ヶ沢」となっているそうです。

このドラマ、人にとっての「故郷」「原風景」とは何か、的な問いかけが全体を貫くメインテーマとなっており、そうした中でこのような展開となるのでしょう。

ネット上では無料配信も為されています。


続いて再放送ですが……。

昼の特選ドラマ劇場 おかしな刑事~居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査 東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!

BS朝日 2019年6月13日(木)  12時00分~13時55分

伊東四朗が叩き上げの刑事、羽田美智子がエリート警視という凸凹父娘コンビを演じる大人気シリーズの第8弾 ‼ 篤志家の社長が刺された! その背後には、30年前、東京タワーの下で起きた誘拐事件の影が…!?

出演 伊東四朗 羽田美智子 石井正則 小倉久寛 辺見えみり 山口美也子 木場勝己 小澤象
   丸山厚人
 菅原大吉 (他)

初回放映は平成23年(2011)。その後、年に数回、地上波テレ朝さんや系列のBS朝日さんでくり返し放映されています。当方、しばらくその存在に気づきませんで、今年の4月、やはりBS朝日さんでの再放送を初めて観ました。

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事件の鍵を握る母子が、智恵子の故郷・福島二本松出身という設定(実際には違うのですが……)。

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そこで、伊東四朗さん扮する鴨志田刑事、娘の(実は秘密)岡崎警視(羽田美智子さん)と共に、二本松へ。岳温泉、安達太良山、智恵子生家、その裏手の鞍石山などでロケが行われました。

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ところで下の画像の石碑、安達太良山にあるようなのですが、当方、場所が分かりません。先月、安達太良山の山開きに参上した際に探したものの、見つけられませんでした。情報をお持ちの方はご教示いただけると幸いです。

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さらに、光太郎の父・光雲が手がけた仁王像が納められた信州善光寺、そして光太郎智恵子が結婚の約束を結んだ上高地をめぐる旅番組。

美しい日本に出会う旅▼初夏、新緑の上高地へ 北アルプスの絶景秘湯と天空の花園

BS-TBS  2019年6月12日(水) 21時00分~21時54分

いま一番美しい季節を迎えた信州へ!善光寺参りをスタートに、安曇野・上高地へと絶景をめぐる初夏の旅です。七味唐辛子に並ぶ大人気名物が、「鯉焼」。そのこだわりの秘密とは?北アルプスの絶景が映る田んぼの絶景、安曇野。ここだけの不思議な蚕は、若草色でした!上高地への入り口に、絶景露天風呂の湯宿がありました。でも離れの湯は、なんと車で20分の秘湯?そして今だけの幻の花・ニリンソウの絶景を求めて、上高地ハイキングへ。そこで出会ったのは伝説の画伯でした。瀬戸康史さんがご案内します。

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安曇野も入っていますので、碌山美術館さんも取り上げていただきたいところですが……。


それから、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手・花巻。光太郎を敬愛し、光太郎もその才を高く評価していた宮沢賢治がらみです。

心に刻む風景 宮沢賢治(3) 岩手県花巻市…教師として訪れた地

地上波日本テレビ 2019年6月12日(水)  21時54分~22時00分

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

語り 中村吉右衛門

5分間番組です。(3)ということで、先々週は盛岡、先週は小岩井農場でした。で、明日が花巻。賢治は花巻出身なので「訪れた」というのはおかしいような気もしますが……。光太郎がその碑文を揮毫した「雨ニモマケズ」碑あたりを紹介してほしいものです。


それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

ひどい時には右手は使へず、左手でハガキなどを書く時もある。卓に向つて字を書くといふ姿勢そのものにすでに病因の一つがあるかと思ふこともある。しかし今年あたりはどうしてもこの病気を退治して、もう一度彫刻の仕事にとりかかりたいと思ふので、自分の健康について、今いろいろ検討を加へてゐる。

散文断片「健康について」より 昭和31年(1956) 光太郎74歳

亡くなったその年の、おそらく正月に書かれたと思われるボツにした原稿の断片から。光太郎、最期まで自身が結核であることを認めたがらず、恢復に一縷の望みを寄せていました。単に生きながらえたいというより、やはり彫刻がやりたかったのですね。

昭和25年(1950)1月、花巻郊外旧太田村の山小屋で逼塞していた光太郎、ひさびさに県都盛岡に出て、あちこちで講演などを行いました。県立美術工芸学校(現・岩手大学)、婦人之友生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)、警察署、県立図書館など。その中に、盛岡少年刑務所さんも含まれていたとのこと。

少年刑務所では、五百数十名の青少年受刑者を前に講演を行いました。その際には、「心はいつでもあたらしく」と揮毫した書をこちらに残し、昭和52年(1977)、岩手県教誨師会の発意で、その書を刻んだ石碑が敷地内に建立。さらに翌年から、高村光太郎祭が開催されています。当方も一度、講演をおおせつかりました


以前は法務省主催の「社会を明るくする運動」月間である7月の開催でしたが、今年はすでに開催されたということで、『朝日新聞』さんの岩手版が報じています。

岩手)反省し更生誓う 少年刑務所で高村光太郎の詩朗読

 盛岡少年刑務所(盛岡市上田)で7日、ゆかりのあ000彫刻家で詩人の高村光太郎の詩を受刑者が朗読する催しがあった。反省を促し、出所後の生き方について考えてもらおうと毎年この時期に開いている。
 窃盗や詐欺などの罪で収容された10~30代の受刑者が参加。10~20人の4グループに分かれ、光太郎の詩の一節から「うす汚いたくらみをやるのは止さう」「みんなと一緒に大きく生きよう」など、声をそろえて読み上げた。
 4人の受刑者は詩集を読んだ感想やこれからの決意を盛り込んだ作文を発表した。20代の男性受刑者は見捨てずに支えてくれた家族に感謝の気持ちを述べ、「未来は変えることができる」と力を込めた。
 「出所したらまず家族に謝りたい」。取材に応じたこの受刑者は、刑務所生活を通してはじめて自分を支えてくれる家族のありがたさに気がついたという。罪を犯した理由を、欲求に流されてしまったからと自己分析。出所後は「自分の熱中できるものを見つけたい」と語った。
 1945年に花巻市に疎開した光太郎は5年後に盛岡少年刑務所を訪れ、500人以上の受刑者を前に「青空たたえて」の題で講演した。少年らの更生を願って「心はいつでもあたらしく」と記した書を残している。(藤谷和広)


あまり報道されることが多くなく、されたとしても地元紙でベタ記事(一段組)になる程度で、ネットにこの行事の報道が出ることはまれです。一般の方々に、更生保護などの部分で関心を持っていただくためにも、もっと大きく取り上げていただきたいものですね。


【折々のことば・光太郎】

夏は山菜を食はず、多く畑の野菜をくひますが、これに慣れると八百屋のものなどくへません。秋には栗とキノコです。

散文断片「山の食ひもの」より 昭和24年(1949)頃 光太郎67歳頃

光太郎歿後に見つかった原稿用紙3枚(以降欠)の文章から。おそらく『婦人之友』に不定期に連載された「山~」シリーズの下書き的なものかと思われます。

「畑の野菜」は自作のもの。取りたてですからさもあらん、ですね。

野菜ではありませんが、毎年女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町の女川光太郎の会・須田勘太郎会長から、鮭の切り身が届きました。ありがたし。

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須田さんや、女川光太郎の会事務局長だった故・貝(佐々木)廣さんの奥様からは、年に数回、さまざまな海産物が届きます。鮭以外にサンマ、ホヤ、アワビ、牡蠣など。やはりこちらのスーパーなどで購入するものとはひと味も二味も違います。もっとも、ホヤ、アワビなどの高級食材はそもそもスーパーでも購入しませんが(笑)。

アメリカの首都ワシントンDCにある国立美術館・ナショナル・ギャラリー・オブ・アートで開催中の企画展です。光太郎の父・高村光雲の代表作にして重要文化財「老猿」が海を渡って展示されています。

The Life of Animals in Japanese Art 「日本美術に見る動物の姿」展 

期  日  : 2019年6月2日(日)~8月18日(日)
       3rd and 9th Streets along Constitution Avenue NW, Washington, DC.
時  間 : 月~土 10:00~17:00  日 11:00~18:00
主  催 : 独立行政法人国際交流基金
          ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントンD.C.)
       ロサンゼルス・カウンティ美術館

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国際交流基金(ジャパンファウンデーション)は、米国のナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントンD.C.)及びロサンゼルス・カウンティ美術館との共催により、両美術館において「日本美術に見る動物の姿」展を開催します。
日本では古墳時代から、人々は動物や自然と共に歩み、共に生きてきました。1500年以上の長きにわたって動物は人間の友として、また時には人間を超える超自然の力として、様々な形で造形美術や文学の重要な主題となってきました。動物が芸術表現上、これほど主要な地位を獲得してきたことは日本文化の特徴の一つといえます。本展覧会では、人々の暮らしや精神風土、宗教観と深く関わってきた多彩な動物表現を、絵画、彫刻、漆芸、陶芸、金工、七宝、木版画、染織、写真など様々なメディアを通して探究します。
本展では日米あわせて約100の重要なコレクションから貴重な作品300点以上を展示します。このうち、7点の重要文化財を含む180点近くの作品は、これまでほとんど海外で紹介されることのなかった日本で所蔵されている作品です。この歴史的な機会は、日米両国における多くの関係者の協力によって実現することとなりました。本展のキュレーターはロサンゼルス・カウンティ美術館日本美術部長であるロバート・シンガー氏と千葉市美術館館長の河合正朝氏が務め、日本の専門家のチームが共同キュレーターとして参加しています。なお、シンガー氏は1973年度の国際交流基金日本研究フェローであり、自身のキャリアの初期に日本に長期滞在し、日本美術の研究を行いました。
ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーにとって本展は、「大名美術展」(1988年)、「江戸:日本の美術 1615-1868」(1998年)、「伊藤若冲-動植采絵」展(2012年)に続く4番目の大型日本美術展となります。2012年に開催された「伊藤若冲」展では一か月の会期中に231,658人もの観客が訪れるなど、日本美術への関心は高まりを見せています。「動物」という新たな切り口に挑む本展の開催により、米国において日本文化への理解が一層深まることが期待されます。


早速、NHKさんで紹介されていました。

ワシントンで「日本美術に見る動物の姿」展

アメリカの首都ワシントンにある国立美術館で、日本人が昔から動物と共生してきたことを表す日本の絵画や彫刻などの美術品を集めた展示会が始まりました。
「日本美術に見る動物の姿」展と題した展示会は、日本の国際交流基金などの主催でワシントンにある国立美術館で始まりました。
5日、行われた式典では日本とアメリカの専門家たちが展示品の説明に立ち「自然との共生が日本の文化の特色だ」と語り、美術品を通して動物を大事にする日本の文化を感じ取ってほしいと展示会の意義を強調しました。
会場には古墳時代の犬や鳥の埴輪から国の重要文化財となっている高村光雲作の木彫り「老猿」それに竜をあしらった江戸時代の武将のかぶとなど動物をテーマにした美術品300点余りが展示されています。
また、ファッションデザイナーの三宅一生さんや前衛芸術家、草間彌生さんの作品もあって、古代と現代の日本のアートが楽しめるようになっています。
今回の展示会を企画したロサンゼルス・カウンティ美術館のロバート・シンガー氏は「西洋美術では、動物をここまで取り上げない。日本の美術には動物への親しみがある」と話しています。

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「老猿」は、元々明治26年(1893)のシカゴ万博に出品するために制作されたもので、その後、アメリカで展示された事があるのかどうか存じませんが、いずれにしても久々の渡米でしょう。ちなみに平成28年(2016)には、台湾の國立故宮博物院での展示が為されています。

シカゴ万博翌年の明治27年(1894)には日清戦争が開戦するなど、アジアの覇王を目指していた当時の日本、ロシアとの関係もぎくしゃくしていました。日清戦争後にはいわゆる三国干渉で、下関条約によって得た遼東半島を返還せざるを得ず、後の日露戦争(明治37年=1904~同38年=1905)の遠因とも成りました。

シカゴ万博では、日本パビリオンと隣接してロシアのそれが設置され、「老猿」の眼光鋭い視線がたまたまその方向を向いていたため、日本がロシアに喧嘩を売っている図と解釈されました。「老猿」が右手に握っているのは、格闘の末、取り逃がした鷲の羽。これもロシア王室の紋章が鷲をモチーフにしていることから、深読みされた一因となりました。下は「老猿」制作に先立って光雲が描いたデッサンです。

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同展、9月~12月にはロサンゼルスのカウンティ美術館に巡回。展示替え等がなければ、「老猿」はしばらくアメリカに滞在ということになり、日本では見られません。

NHKさんで紹介されなかった他の出品作家は、伊藤若冲、河鍋暁斎、歌川国芳、曾我蕭白、岡本太郎、奈良美智、宮川香山など。作者不明の古いものも「鳥獣人物戯画」など、逸品ぞろいのようです。

渡米される方、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

ここに来てから満四年はたつので、春夏秋冬をいくつか繰返してゐる間に山の幸をいろいろおぼえて仕合せしてゐる。冬は雪が深いので何もないが、春夏秋には何かしら野生自生の食物が山にはある。

散文断片「山の幸いろいろ」より 昭和24年(1949)頃 光太郎67歳頃

光太郎歿後に見つかった原稿用紙1枚(以降欠)の文章から。おそらく『婦人之友』に不定期に連載された「山~」シリーズの下書き的なものかと思われます。

朗読系のイベント情報です。

『智恵子抄』詩人高村光太郎と智恵子~本田和の語り

期    日  : 2019年6月17日(月)
会    場 : 金沢市民芸術村 PIT2 ドラマ工房 石川県金沢市大和町1-1
時    間 : 19:00開演~20:00終演(開場18:30)
料    金 : 前売券2000円 当日券2500円
問い合わせ  : きくはなすの会(090-2373-5458)

明治・大正・昭和を生きた詩人の高村光太郎とその妻智恵子の愛の軌跡を描いた『智恵子抄』を語る。チェロの音色がその世界を広げる。
語り:本田和 チェロ:林口眞也

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本田さんという方、当方、直接は存じ上げませんが、CDを一枚持っております。

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平成21年(2009)リリースの「本田和語りの世界 セロ弾きのゴーシュ」。表題作はご存じ宮沢賢治の童話ですが、他に「智恵子抄―語りとギターのための―」「蜘蛛の糸―独奏チェロと語りのための―」が収録されています。ひさびさに聴いてみましたが、艶のある美声で、情感あふれる朗読。いい感じでした。恋愛時代の「僕等」(大正3年=1914)に始まり、結婚後の「あどけない話」(昭和3年=1928)、智恵子が心を病んでからの「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)、「山麓の二人」(昭和13年=1938)、その葬儀を謳った「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)、最後が絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)でした。アコースティックギターのオリジナル音楽と共に語られ、音楽はそれぞれの詩に合わせ、はじめおだやかで叙情的に奏でられていたものが、徐々に緊迫感を増す奏法となり、やがて静謐に幕を閉じるという感じでした。

今回はチェロとのコラボだということですが、やはりこうしたドラマチックな構成が為されるのではないでしょうか。

また近くなりましたらご紹介しますが、来月には神戸での公演もあるとのことです。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

ここは温泉もいいが、宿の建築が甚だ面白く、私は毎日荒れ果てた無人の部屋部屋を見てたのしんだ。昔の宿の主人が建築道楽であつたさうで、木口の太さといひ、組方といひ、いかにも岩手独特の手丈夫な趣が大まかに出てゐてよい。
散文断片「(私は温泉が)」より
 
昭和20年代前半(1940年代後半) 光太郎66歳頃

010光太郎歿後に見つかった原稿用紙5枚(以降欠)の文章から。題名はなく、今のところ雑誌等に発表されたことも確認できていません。

「ここ」は、花巻南温泉郷の一番奥、西鉛温泉です。昭和20年(1945)、花巻の宮沢賢治の実家に疎開した翌日から結核性の肺炎で高熱を出し、一カ月の臥床。床上げの後、予後を養うために一週間滞在しました。当時は明治館改め秀清館という一軒宿で、明治22年(1889)の創業。この頃は、賢治の母の実家が経営していました。当時としては珍しい、四階建ての日本家屋で、建築設計にも手を染めていた光太郎、その造作に感心しきりでした。

戦後には県の職員保養所を兼ね、昭和47年(1972)には閉鎖。残念ながら建物は現存しません。その後、愛隣館という観光ホテルが建ち、現在は「西鉛温泉」という呼称は廃され、「新鉛温泉」と称されています。

当会の祖に・草野心平を顕彰するいわき市立草野心平記念文学館さん主催のイベントです。

文学散歩「草野心平ゆかりの川内村をめぐる」

期     日 : 2019年6月16日(日) 雨天開催
時     間 : 9時から16時
集     合 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
料     金 : 2,000円
申 し 込 み   : 同館

詩人 草野心平と交流が深く、名誉村民でもあった福島県双葉郡川内村で、心平ゆかり の天山文庫、長福寺、平伏沼(モリアオガエル生息地)などをめぐります。

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上記説明にあるとおり、モリアオガエルが縁で心平を名誉村民にして下さった川内村で心平ゆかりの地を巡るツアーです。村人が一木一草を持ち寄って建てられた心平別荘・天山文庫(設立準備委員には光太郎実弟・豊周も名を連ねました)や、心平句碑の建つモリアオガエル繁殖地・平伏沼(へぶすぬま)、心平にその存在を教示した矢内俊晃氏が住職を務めていた長福寺(やはり心平歌碑や心平揮毫による辻まことの墓碑などもあります)などを巡るようです。

東日本大震災とそれに伴う福島第一原発の事故から8年。復興の様子も気になるところです。

既に定員に達しているそうですが、キャンセル等あるかも知れません。お問い合わせ下さい。


【折々のことば・光太郎】

世の中にはかういふ風にして、人知れず滅んでしまふ作品も多いことだらうが、作者にとつてはその故に妙に忘れ難いものである。

散文「焼失作品おぼえ書 2 ――アトリエにて10――」より
 昭和31年(1956) 光太郎74歳

日記を除き、光太郎最後の散文です。昭和20年(1945)の空襲などで焼失した彫刻作品を解説しています。空襲時にはそれらが焼けてしまったことを、むしろさばさばした思いで捉えていた光太郎ですが、死の床に伏し、もはやその手から産み出されることは無くなった彫刻作品に思いを馳せるその筆は、淡々とした書きぶりでありながら心に染みます。

智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰を続けられている智恵子のまち夢くらぶさん。会員以外の方にも門戸を開いての研修旅行だそうです。

高村智恵子油絵「樟の樹」を訪ねる 山梨静岡の旅

期     日  : 2019年6月16日(日)・17日(月) 午前5時出発
集     合  : 智恵子の生家駐車場 福島県二本松市油井
料     金  : ¥40,000
コ   ー   ス   : 韮崎大村美術館―清春白樺美術館―富士川町高村光太郎文学碑
         河口湖畔(宿泊)
―忍野八海―沼津第一小学校―小田原城址公園
申 し 込 み  : 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷 0243-23-6743

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韮崎市の韮崎大村美術館さんでは、明治末に智恵子と同じく太平洋画会で智恵子と共に学んでいた亀高文子の絵画、光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が展示されているそうです。

清春白樺美術館さんは、山梨県北杜市。光太郎もサテライトメンバーだった白樺派の面々の作品に混じり、3枚しか現存が確認されていない智恵子の油絵のうちの1枚、「樟」が所蔵されており、現在、展示中だそうです。

そちらからほど近い、山梨県南巨摩郡富士川町。昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のために光太郎が訪れたことを記念して建てられた文学碑があります。光太郎の自筆筆跡を拡大して刻んだ「うつくしきものみつ」の碑です。

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冬至の頃にはここから見える富士山頂と昇る朝日が重なる「ダイヤモンド富士」が観測できるスポットとしても人気です。一昨年、当方が訪れた際には、昭和17年(1942)に光太郎が訪ねていった井上家の建物も健在でした。

沼津第一小学校さんには、先述の智恵子の油絵「樟」に描かれた木が健在とのこと。当方、こちらには行ったことがありません。

時間と興味のある方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私は彫刻をあらゆる光線の下でつくるやうにしてゐる。最も不利な光線といはれるところでも作る。人工的に甘やかされたアトリエの室内光線でのみ製作するのはあぶない。いちばんいいのは外光の下で仕事することだ。このことはエジプト、ギリシヤの昔から抽象派の今日に至るまで変らない。

散文「焼失作品おぼえ書 1 ――アトリエにて9――」より
 昭和31年(1956) 光太郎74歳

明治末、留学からの帰朝後に作った父・光雲の肖像は、まだこういう点に思いいたらず、失敗したと自分では言っています。

直接、光太郎智恵子には関わりませんが……。

まず、昨日朝のNHKさんの「ニュース おはよう日本」。愛犬の散歩を終え、リビングで新聞のテレビ欄に目を落とすと……。

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「上皇ご夫妻・約60年前の秘蔵フィルム」。「これは!」と思い、急いでテレビをつけましたが、時既に遅く、天気予報が始まったところでした。なぜ「これは!」と思ったかというと、4月に信州安曇野の碌山美術館さんにお邪魔した際、そういうお話を伺っていたからです。

その後、ネットで調べましたところ、やはり碌山美術館さんがらみでした。

上皇ご夫妻・約60年前の秘蔵フィルム

4月に退位された上皇さまと上皇后さま。
約60年前の姿を修めたとされる16ミリフィルムが長野県安曇野市・碌山美術館に残されていた。
美術館には日本近代彫刻の父・荻原碌山の作品などが展示されている。
碌山美術館・濱田卓二は「上皇ご夫妻が美術館にご来館されたことがあり、そのときの記録フィルムと伝わっている」と話す。
昭和36年3月、穂高町報には当時皇太子ご夫妻だったお二人が長野県内での視察の途中に美術館に立ち寄られたという記録が残っている。
民間人がビデオカメラを持っていること自体が珍しかった時代、地元の中学校教師が撮影したものを寄贈した。
しかし美術館には再生機がなく、中身が確かめられたことはなかった。
専門業者に再生を依頼したところ、3月の雪の中の上皇ご夫妻の様子が1分40秒間うつされていた。
お二人はこの訪問の2年前にご結婚し、翌年には長男になる天皇陛下がお生まれになっていた。
成城大学非常勤講師・瀬畑源は「ご夫妻で全国に行きはじめる初期の時代の映像。美智子妃はまだ地方視察に行くことがほとんどなかったと思う。国民との関係をどう作るのか、自分たちがどう理解しないといけないのかということを実際に実地で学んでいったという時期」と話す。
当時美術館でご夫妻を迎えた彫刻家・荻原碌山の親族・荻原義重は「わずか数メートル前で皇太子ご夫妻をお迎えできることは昔はなかった。皇室と一般の人たちの垣根が取り払われた感じがした」という。



民間人がビデオカメラを持っていること自体が珍しかった時代」という部分がおかしいのですが(ビデオカメラという物自体おそらく存在しませんで、当時は16ミリカメラです)、現今の若い人々にはそのあたりの区別が付かないのでしょう。

ご成婚が昭和34年(1959)、それからほどなく碌山美術館さんを訪れられたそうで、まだ個人美術館というものが珍しかった時代、おそらくお二人での最初の個人美術館ご訪問だったのでは、というお話でした。現在では碌山荻原守衛の作品以外に、親友だった光太郎の作品も複数展示して下さっている同館ですが、当時はまだ光太郎作品の展示はなかったように思われます。

その後のご訪問はないということで、館の方では、また改めてゆっくりいらしていただきたいというようなお話をされていました。実現してほしいものです。


テレビ系の話題を出しましたので、ついでというと何ですが、光太郎智恵子ゆかりの地や光太郎周辺人物に関わる近々放映の番組をご紹介します。

まず、大正元年(1912)、結婚前の光太郎智恵子が愛を確かめ合った、千葉銚子犬吠埼。

ブラタモリ#136 「銚子~銚子はなぜ日本一の漁港になった?~」

NHK総合 2019年6月8日(土) 19:30~20:15

水揚げ量8年連続日本一!千葉県・銚子漁港に全国の漁船が集まる秘密をタモリさんが解き明かす!▽“トンガリ”地形が生んだ奇跡の漁場▽しょうゆマネーが漁港を生んだ!?
「ブラタモリ#136」で訪れたのは千葉県・銚子市▽銚子はむかし島だった?犬吠埼で1億2000万年前の地層を手がかりに、太平洋に突き出したトンガリ地形の秘密を探る▽坂道の上に広がる台地で生まれた高級品とは?▽銚子電鉄・緑のトンネルに「鉄道大好き」タモリさんも大興奮!▽江戸時代の銚子にばく大な利益をもたらした「しょうゆ」にかくされた秘密とは!?▽マイナス35度!巨大冷凍工場が日本一の銚子漁港を支えた!

出演 タモリ 林田理沙  語り 草彅剛

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この番組では、一昨年、「#81 十和田湖・奥入瀬 ~十和田湖は なぜ“神秘の湖”に?~」が放映され 、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を2秒間(笑)映して下さいました。ちなみに先週の放送は、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市でした。


続いて、光太郎の姉貴分・与謝野晶子がらみ。

百年名家 「金沢八景に残る明治の薫り~旧伊藤博文金沢別邸と旅館 喜多屋~」

BS朝日 2019年6月9日(日) 12時00分~12時55分

今回訪ねるのは、景勝地・金沢八景。すっかりと様変わりしてしまった町並みの中、与謝野晶子が愛した料亭旅館と伊藤博文が建てた海浜別荘には、明治の薫りが残っていた。

出演 八嶋智人、牧瀬里穂   案内人 水沼淑子(関東学院大学教授)


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この番組では、平成24年(2012)に、東京千駄木の光太郎実家に隣接する旧安田楠雄邸が取り上げられたことがあります。


さらに、NHK Eテレさんの「日曜美術館」。連翹忌にも何度かご参加下さった、神奈川県立近代美術館の水沢勉館長がゲスト出演。

日曜美術館 「エロスと死の香り~近代ウィーンの芸術 光と影~」

NHK Eテレ 2019年6月9日(日)  8:00~8:45
      再放送 6月16日(日) 20:00~20:45

120年前のウィーンで人間のエロスを描き出したクリムト。一方で老いや死のモチーフにも臨んでいた。クリムトに影響を受けたシーレも含めウィーンの芸術の光と影を描く。
19世紀半ばからの都市改造で町並みが生まれ変わったウィーン。その公共建築物の絵画の仕事を請け負ったのがグスタフ・クリムト。当初は伝統的な絵画を描いていたが、飽き足らずウィーン分離派を結成。人間のエロスを奔放に描き、批判も受けた。更に建築、工芸などあらゆるジャンルを融合させる総合芸術を目指した。エゴン・シーレは、若くして父親を亡くし、死の恐怖を感じながら自我を見つめるように自画像を描き続けた。

ゲスト 神奈川県立近代美術館館長…水沢勉 藤原紀香  司会 小野正嗣 柴田祐規子


現在、東京都美術館さんで開催中の「クリムト展 ウイーンと日本1900」にからめた内容です。ウィーン分離派を代表するグスタフ・クリムトとエゴン・シーレにスポットが当たります。水沢館長、広い守備範囲の中でもウィーン分離派には一家言お持ちで、関連する御著書も多数。そして、クリムトやシーレと同じウィーン分離派の作家であるヨーゼフ・エンゲルハルトが明治37年(1904)のセントルイス万博のために制作した寄木細工「Merlinsage」が、明治44年(1911)に、智恵子が描いた雑誌『青鞜』の、有名な表紙絵の元ネタであることをつきとめられたりもなさっています。そのあたりのお話がちょっとでも出るといいのですが……。

それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

こつちがのん気に構えていれば、向うものん気で、明けつぱなしで話が出来る。まつたく花巻はいい温泉である。

談話筆記「花巻温泉」より 昭和31年(1956) 光太郎74歳

光太郎最後の談話筆記です。かつて足かけ8年を過ごした花巻周辺の温泉郷中の、大澤温泉、鉛温泉、花巻温泉、台温泉などについて、実地に訪れた経験を元に語っています。そして最後にそれらを総称して、上記の発言。他の有名な温泉地と異なり、こすっからい対応をする宿などどこにもなかったと褒めています。

先週土曜日の『朝日新聞』さんの書評面で、新潮文庫版『高村光太郎詩集』が取り上げられました。「ひもとく」という、基本、新刊ではなく過去の書籍を紹介するコーナーです。過日のパリ・ノートルダム大聖堂での火災にからめてでした。

(ひもとく)ノートルダム大聖堂 永遠への足場、固める再建へ

 四月一五日のパリのノートルダム大聖堂火災のあと、フランス・メディアがこぞって話題にしたのは、ユゴーの歴史小説『ノートル=ダム・ド・パリ』だった。確かにそこには、この火事を予見していたような場面が出てくる。
 「人びとはみな目をあげて、教会の頂上を見あげた。目にはいったのは不思議な光景だった。中央の円花窓(えんかそう)よりも高く、いちばん高いところにある回廊の頂上には、大きな炎があかあかとして、二つの鐘楼のあいだを、渦巻く火花をとび散らせながら立ちのぼっていた」
 これはしかし、実際の火事の描写ではない。小説の登場人物で、異形の鐘番カジモドが、寺院に逃げ込んできた流浪の美少女エスメラルダを追っ手の暴徒から守ろうと、その場にあった木材を塔の上から眼下の広場に投げ落とし、溶かした鉛で火をつけている光景が火災のように見えたというのだ。
 この小説が一八三一年の発表当時の人びとを何よりも驚かせたのは、フランス・カトリックの総本山であるノートルダム大聖堂を、堂々と反カトリック的な舞台にしてみせたことだった。エスメラルダに邪恋し、思いをとげるために手段を選ばない司教補佐クロード・フロロの、破廉恥なふるまいが物語の軸だったものだから、ローマ教皇庁からたちまち禁書にされた。

 ■空白埋める文学
 今度の火災後、フランスのテレビ局の特番を動画で見ていたら、旧知の歴史家ピエール・ノラが大聖堂の建物自体がこの小説の影の主人公だと指摘していた。確かにユゴーは敬意をこめ、無数の石工が数世紀にわたって営々として築き上げたこの建物の歴史、外観、内部、塔からの眺望、全体の魔力を見事に語っている。ノラはまた、後陣の尖塔(せんとう)が火だるまになって崩壊したとき、マンハッタンのツインタワー・ビル炎上のときに似た衝撃を受けたと語っていた。
 テロと失火、災厄の原因の違いにもかかわらず、同じことを感じたのは彼だけではない。あのとき、誰しも無意識のうちにもっている永続性への漠然とした信頼が瞬時に揺らぎ、言葉を失った。その空白を埋める手がかりを求める人びとが、宗教や国籍とは無関係に、過去の文学に目を向けたのだった。
 こうした心の動きのことを、森有正はすでに半世紀前の『遙(はる)かなノートル・ダム』で、「体験」から「経験」への促しとして捉えていた。彼は十数年間ノートルダムのそばに暮らしながら、大体は浅薄なものにとどまりかねない「体験」を「定義」できるような言葉をみつけ、確固とした「経験」に変えることに腐心していた。そんな彼の目に、この大聖堂は個々人の生を本当にかけがえのないものとする「経験」という概念の美しい化身と映っていた。

 ■19世紀にも修繕
 森有正よりさらに半世紀前、高村光太郎が「雨にうたるるカテドラル」で崇敬の対象としたのもノートルダム大聖堂だった。「ノオトルダム ド パリのカテドラル、/あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、/あなたにさはりたいばかりに、」。そして詩人はこの寺院に「真理と誠実との永遠への大足場」を見るとともに、当然のようにカジモドとエスメラルダのことを思い浮かべている。
 実は反教権的だった大革命のあと、ノートルダムは荒れはて、十九世紀の四〇年代になってこの度崩壊した尖塔をふくむ修繕が始まったのだが、これには文学作品の力に加え、国の歴史記念物保存委員としてのユゴーの貢献があった。新たな修繕は、今言われている一過性の次期パリ五輪のためではなく、是非「永遠への大足場」を固めるものになってほしい。

 ◇にしなが・よしなり 東京外国語大学名誉教授(仏文学) 44年生まれ。著書に『「レ・ミゼラブル」の世界』『カミュの言葉』など。

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詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)が掲載されているということで、新潮文庫版の『高村光太郎詩集』が取り上げられています。

初版は昭和25年(1950)、光太郎存命中でした。編集は光太郎と交流のあった伊藤信吉が務めています。昭和43年(1968)の第33刷で改版となりました。同41年(1966)、同じ新潮社さんから刊行された『高村光太郎全詩集』との整合を図ったためと思われます。こちらの編集にも伊藤が携わっていました。他には当会の祖・草野心平、当会顧問・北川太一先生、そしてやはり光太郎と交流の深かった尾崎喜八でした。

現在流通している版も、昭和43年(1968)改版を踏襲しているのだと思われますが、平成14年(2002)からは新潮文庫として活字のサイズを9.25ポイント(創刊時は7.5ポイント)と大きくしていますので、そのあたりの改訂があったかも知れません。おそらくそれに伴い、カバーも智恵子紙絵を使用したデザインに変更されたのではないでしょうか。

ちなみに当方、新潮文庫版『高村光太郎詩集』は2冊持っています。

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左は昭和51年(1976)の第46刷。現在、数千冊ある光太郎関連蔵書のうちの記念すべき入手第2号です。第1号は同じ新潮文庫版『智恵子抄』。当時は小学生でしたが、まさかその後、自分が光太郎顕彰方面に進むとは夢想だにしていませんでした(笑)。ちなみに消費税などという無粋なものがなかった当時の定価は200円ぽっきりでした。

右は平成12年(2000)の第87刷。ミレニアムということで、「新潮文庫20世紀の100冊」というキャンペーンがあり、その1冊に選ばれ、スペシャルカバーが付けられて販売されました。しかし、中身は従前通り。ただ、カバー裏表紙面に関川夏央氏による書き下ろし特別解説が付いています。この時点では定価400円+税でした。現在は税込み529円ということになっています。

新潮文庫版以外で、「雨にうたるるカテドラル」が収録されている文庫版の光太郎詩集、さらに絶版になっていないもの、となると、他に3種類あります。

岩波文庫版『高村光太郎詩集』。初版はやはり光太郎生前の昭和30年(1955)で、光太郎自身の校訂が入っています。編集は光太郎と交流の深かった美術史家・奥平英雄でした。現在の定価は600円+税です。

集英社文庫で『レモン哀歌 高村光太郎詩集』。平成3年(1991)初版。林静一氏が表紙絵を描いています。同じく476円+税。

それから角川春樹事務所さん発行のハルキ文庫『高村光太郎詩集』も絶版にはなっていないようです。平成16年(2004)初版で、税込み734円。

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あとは文庫版としては絶版になってしまっているようです。角川文庫、社会思想社現代教養文庫、旺文社文庫、中公文庫にそれぞれラインナップがあったのですが。ただ、古書市場には出ているでしょう。

現在も出ているもの、細々とでも、版を重ねていってもらいたいものです。


【折々のことば・光太郎】

人間の手による生命の創造が可能になつても、生きて動き、生れて死ぬいのちがこの世にある限り、人間は芸術によるいのちの創造を決してやめないだらう。
散文「生命の創造 ――アトリエにて8――」より
 昭和30年(1955) 光太郎73歳

主に造形芸術を指しての言ですが、言葉による詩のような芸術でも、同じことが言えるような気がします。

インターネットを使うと、全国の各市区町村などの広報誌が閲覧できます。このブログでも、光太郎智恵子ゆかりの市区町村のそれからネタにさせていただくことがしばしばです。

概ねこの手の広報誌は月刊、各月1日発行というところが多く、月初めには光太郎智恵子ゆかりの市区町村のサイトをチェックしています。ある意味、自分の住む市の広報誌より細かく目を通しているかも知れません(笑)。

今月は豊作でした(笑)。

北から順に、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市の『広報はなまき』。

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表紙が、先月15日に行われた第62回高村祭の様子。なかなかインパクトがありますね。

続いて、毎年8月9日に、女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町の『広報おながわ』。平成から令和となり、平成のアーカイヴ的な「あの日あの時 女川町史」というコーナーがあります。今月号は「平成3年 高村光太郎文学碑完成」。

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東日本大震災の大津波で倒壊した光太郎の文学碑――女川光太郎祭開催のきっかけとなった――が紹介されています。震災後に設置が始まり、現在もその活動が続く「いのちの石碑」に連なる、百円募金活動で建立された件にもふれられています。


さらに、智恵子の故郷・福島県二本松市の『広報にほんまつ』。直接、光太郎智恵子に関わるイベントではありませんが、「智恵子が愛したほんとの空の下で、バーベキューランチを楽しみながら、さわやか交流会を開催します♪」だそうで(笑)。参加しよう! と思ったら当方のごときは対象外でした(笑)。

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ところで、全国のそれを全て調べたわけではありませんが、この手の広報誌、タイトルのほとんどが「広報」プラス「ひらがなで市町村名」となっています。何かそういう法令でもあるのでしょうか? ご存じの方、ご教示いただければ幸いです。


【折々のことば・光太郎】

亡妻智恵子の実家が街道つづきの漆原という部落にあつたが、私も祖母から其時の戦争話をきいた事がある。今は何もなく、丘を埋める桜の花が満開で、うしろの空の阿多多羅山に雪が残つている。「阿多多羅山の山の上に、毎日出てゐる青い空」が今日も見えるようだ。

散文「二本松霞ヶ城」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

この年発行の『週刊読売』に掲載された文章の一節です。2ページ見開きのグラビア「古城にうたう」と題したコーナーで、二本松霞ヶ城址の写真も掲載されていました。それを見ての感想的な。

「戦争」は戊辰戦争です。

アートオークション大手の毎日オークションさん。時折、光太郎や光太郎の父・光雲関連が出品されます。

6月8日(土)開催の「第608回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」では、光雲の作が出ます。 

第608回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

日  程 : 2019年6月8日(土) 10:30~
下 見 会  : 2019年6月6日(木)・6月7日(金) ともに10:00~18:00


光雲の作、まずは木彫の「恵比寿・大黒天」。

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弟子の手が入った工房作ではないようですし、2体一組ということもあり、予想落札価格がかなりの額になっています。


同じく木彫で、「大聖像」。

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同一図題の作品が昨年も出品されましたが、別物のようです。「大聖」は孔子のことで、光雲が好んで彫ったモチーフでもあり、各地の美術館さんにも類似作が収められています。


続いて、木彫原型から抜いたブロンズ。まずは「慈母観音」。

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光雲と縁の深かった、東京駒込の金龍山大圓寺さんに、よく似た木彫の慈母観音像が寄進されています。類似作から型を取って鋳造したもののようです。光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周による鋳造とのこと。

先月、智恵子の故郷、福島二本松に行った折、この手の作品をお持ちだという方に写真を見せていただきました。そちらは「養蚕天女」でした。木彫のものは大小2種、宮内庁三の丸尚蔵館さんに納められていますが、ブロンズのものが流通していたりするのですね。


さらに、やはりブロンズの「恵比寿大黒天」。

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こちらは誰の鋳造ともわからず、欠損部分もあるようなので、あまり高い値段は付かなそうです。


いつも書いていますが、然るべき所に収まって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

モデルを眼の前に見ながら、それがどうしても分らない。いはば徹底的にモデルの中に飛びこめない。一体になれない。自分の彫刻とモデルとの間の関係がどうしても冷たい。ロダンの彫刻にあるような、あの熱烈な一体性が得られない。動物園の虎の顔をいくら凝視しても虎の気持ちが分らないやうに、モデルの内面が分らない。

散文「モデルいろいろ2 ――アトリエにて7――」より
 昭和30年(1955) 光太郎73歳

遠く明治末、パリでの体験の回想です。

留学前、日本では彫刻のモデルは職業として確立して居らず、周旋屋のような老婆が手当たり次第に金銭的に困っている人などをスカウトして美術学校へ派遣していました。したがって、体格も貧弱だったり、途中で勝手に来なくなってしまったりと、さんざんだったようです。

その点、留学先、特にパリでは、さまざまな美しい職業モデルと接することができました。しかし、畢竟するに、生きて来た文化的背景の違いから、西洋人の内面を真に理解することは不可能という思いにとらわれます。モデルの指の動き一つとっても、どういう意味があるかさっぱり分からないとか……。光太郎のフランス語会話力には問題ありませんでしたし、コミュ障的な部分があったわけでもありませんでしたが……。ただ、逆に言うと、表面的なつきあいのみで、西洋人を真に理解したつもりでいた輩よりは真摯な悩みだったといえるでしょう。光太郎、結局、10年の留学予定を3年半ほどに縮め、帰国の途につきます。

ディスるわけではありませんが、光雲ら、光太郎より前の世代の彫刻家たちには、光太郎のこうした悩みそのものが理解不可能だったことでしょう。

先月亡くなった、高村光太郎賞受賞者の彫刻家・豊福知徳氏に関し、氏の故郷である福岡県に本社を置く『西日本新聞』さんが大きく記事にされています。 

故豊福知徳さん彫刻作品を巡る 反戦の思い「穴」に込め

 国際的に活躍した久留米市出身の彫刻家、豊福知徳さんが18日に亡くなった。享年94歳。福岡都市圏には、終戦後の旧満州(中国東北部)や朝鮮半島からの博多港引き揚げにちなむ大型記念碑「那の津往還」(福岡市博多区沖浜町)を始め、各所に作品が点在する。主な鑑賞スポットを紹介する。
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 「那の津往還」はマリンメッセ福岡の脇の博多湾沿いにある。高さ15メートル、長さ17メートルの鋼製で、1996年に建立。黒っぽい色の船上に人間をイメージした朱色の像が立つ。
 末広がりの上部に独特の楕円の穴が複数空く。舳先が向くのは、朝鮮半島かその先の中国か、北西の方角だ。豊福さん名の碑文には「敗戦直後の失意とその後に湧き興ってきた生への希望を永遠に記念する…」とあった。引き揚げ者が139万2400人余を数えた博多港の歴史を刻むモニュメントだ。引き揚げ経験者たちの声を受け、市が有識者らを交えた選定委をつくって、豊福さんの作品が選ばれた。
 陸軍特別操縦見習士官として特攻出撃前に終戦を迎え、行き場を失った豊福さん自身の戦争体験と、日本軍不在の下、ソ連軍が侵攻し、襲撃の恐怖、飢餓と長旅の疲労に見舞われながら逃げ延びた引き揚げ者の苦難を重ねている‐。作品をそう解釈するのが、美術評論家で、豊福知徳財団理事長の安永幸一さん(80)。「記念碑には戦争へのアンチテーゼ、戦争放棄、戦争反対、という豊福さんの次世代へのメッセージがこもっていると思います」
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 同市博多区下川端町の博多リバレイン前には、87年建立の「那の津幻想」がある。船上に人が立つデザインは30代の頃、高村光太郎賞を受けた出世作「漂流’58」のシリーズの一つで、「‐往還」もその系列だ。「‐幻想」は、人の胸に複数の楕円の空洞がある。戦争の空しさと戦後の心の漂流を形にして見せてくれているようにも感じる。
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 同市早良区百道浜4丁目には、「豊福知徳ギャラリー」がある。「世界的に著名な彫刻家の豊福さんとその作品をもっと多くの人に知ってほしい」と昨年夏オープンし、金・土・日曜と祝日の正午から午後6時まで無料で鑑賞できる。一部は販売している。代表的なシリーズものなど作品12点と描画4点を展示。代表の阿部和宣さんは「昨年から亡くなられた画家の浜田知明さんや宮崎進さんと同じように、豊福さんの創作の原点には戦争体験があったと思います。作品には精神性があって、見る側は何かを感じ、魅了される」と話す。
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 篠栗町の若杉山中腹にあり、豊福さんがよく通ったのが「茶房 わらび野」。建物内外に大小の計7点の作品があり、喫茶や食事を楽しみながら鑑賞できる。福岡市街地と博多湾を見渡すカウンターがあり、豊福さんはそこでワインを飲んだという。「店を気に入っていただいて、作品は置いていかれた。未完ですが、最後の作品はここで彫られたんですよ」と、女将の久保山美紀さん。
 豊福さんは1960年にイタリア・ミラノに渡り、そのまま定住。それまでの具象表現から、木に楕円形の穴をあしらった抽象形態に転じていった。
 「当時、イタリアの新しい造形表現に触れていた豊福さんは偶然、楕円の穴が開いた時にピーンと来たのだと思う。穴のノミの鋭さにはどきっとするような切れ味がある。剣道や居合道に通じ古武士のようだった豊福さんらしい」。安永さんは和洋折衷の美を語る。
 福岡市美術館は衝立状の大作を常設展示。県立美術館は、6月29日-8月29日に開くコレクション展で、所蔵の数点と肖像写真を追悼展示する予定だ。
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過日も書きましたが、「高村光太郎賞」は、筑摩書房さんの第一次『高村光太郎全集』が完結した昭和33年(1958)から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の希望で、昭和42年(1967)まで10年間限定で実施されました。造形と詩二部門で、豊福氏は造型部門の第2回受賞者です。ちなみに過日、新著『高村光太郎の戦後』をご紹介した中村稔氏、最終第10回の詩部門を受賞されています。

さらにいうなら、第5回詩部門(昭和37年=1962)で受賞の田中冬二(明治27年=1894~昭和55年=1980)の遺品類が山梨県立文学館さんに寄贈されており、その中に「高村光太郎賞」関連の資料も。光太郎が文字を刻んだ木皿を原型に、豊周が鋳造した賞牌などです。光太郎が好んで揮毫した「いくら廻されても針は天極をさす」の語が刻まれています。他に副賞ののし袋や授賞式の次第なども。閲覧も可能です。

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同じ賞牌を授与された豊福氏の受賞作「漂流」そのものは木彫で、イタリアのコレクターに買われたとのことですが、同じ時期に作られたシリーズの1作が、博多に野外彫刻として展示されているそうで、これは存じませんでした。豊福氏というと「楕円の穴」ですが、そこには戦争体験も深く関わっていたとのことで、なるほどなぁ、という感じでした。

地元では氏の顕彰も進んでいるようです。光太郎共々、氏の功績も末永く語り継いでいってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

私は独学のつもりで、フランスのサロンのカタログや、西洋の美術雑誌の挿画の彫刻の写真などを参考にした。もとより甚だ幼稚で、今日から見るとつまらない大サロンの彫刻にひどく感心したり、物語性のある構図に深遠な意味があるやうに思つたりした。そして目の前にある生きたモデルがさつぱり分らず、空しくあはれな模写のやうな写生をつづけてゐた。

散文「モデルいろいろ1 ――アトリエにて6――」より
 昭和30年(1955) 光太郎73歳

その少年時代、まだロダンを知る前の明治30年代の回想です。それからおよそ50年、ようやく豊福氏のように世界に通用する彫刻家が日本から出たわけです。やはり泥沼の十五年戦争の影響ですね。それがなければあるいは光太郎も世界的評価を得るに至れたかもしれません。

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