2019年04月

いよいよ今日で「平成」の幕が閉じます。そこで、それっぽい内容の新刊書籍をご紹介します。

宮中歌会始全歌集 歌がつむぐ平成の時代

2019年4月19日  宮内庁編  東京書籍  定価1,700円+税

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新年を祝う宮中の伝統行事「歌会始」。去る1月16日、平成最後の歌会始が開かれた。
つねに平和を願い、国民の心に寄り添ってこられた天皇・皇后両陛下。平成時代の歌会始のすべての和歌をとおして、両陛下のお気持ち、国民の思いをたどります。


毎年、1月10日前後に皇居宮殿松の間で行われる宮中歌会始の儀。天皇皇后両陛下をはじめとする皇族方、毎年選ばれる召人(広く各分野で活躍しつつ短歌に親炙している人々から選出)、一般からの詠進歌を選ぶ選者の皆さん、詠進歌で入選された一般の方々などが集い、それぞれの作歌が披講されます。

平成の間の宮中歌会始の儀で披講された全ての短歌を集めた一冊です。といっても、平成元年(1989)は昭和天皇の服喪のため中止、同2年(1990)は、宮中歌会始としてではなく、「昭和天皇を偲ぶ歌会」として2月の開催だったため、それも除かれ、同3年(1991)から今年までのものとなっています。

平成25年(2013)の宮中歌会始の儀、一般からの詠進歌入選作で、福島県郡山市の金澤憲仁さんの作歌が、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)をモチーフにしたものでした。

安達太良の馬の背に立ちはつ秋の空の青さをふかく吸ひ込む

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当時報じられた金澤さんのコメント。

「(高村光太郎の)『智恵子抄』にうたわれたように、安達太良山の上には福島の本当の空がある。津波の影響や原発の問題がある中、福島のよさを知ってもらおうと歌を作りました」。
 
両陛下からは「ご苦労が多かったですね」とねぎらわれたそうです。

これ以外には光太郎智恵子を直接のモチーフとした作歌は含まれていないようですが、通読してみて改めて平成という一つの時代がうかがい知れるな、と思いました。

昨今はやりの平成回顧ものの中でよく指摘されていますが、やはり大きな自然災害の多かった30余年で、そうした内容の作歌が目立ちます。

火をふきて五年(いつとせ)すぎし普賢岳人ら植ゑたる苗みどりなす
常陸宮正仁親王 平成8年(1996)

大地震(おほなゐ)のかなしみ耐へて立ちなほりはげむ人らの姿あかるし
東宮妃雅子殿下 平成9年(1997)

「げんきです やまこし」といふ人文字を作りし人ら健やかであれ
憲仁親王妃久子さま 平成28年(2016)

津波来(こ)し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる
 御製 平成24年(2012)

難(かた)き日々の思ひわかちて沿岸と内陸の人らたづさへ生くる
秋篠宮文仁親王妃紀子さま 平成24年(2012)

巻き戻すことのできない現実がずつしり重き海岸通り
選歌 福島県 沢辺裕栄子さん 平成24年(2012)

「あつたよねこの本うちに」流された家の子が言ふ移動図書館
選歌 千葉県 平井敬子さん 平成27年(2015)

らふそくの光が頼りと友の言ふ北の大地を思ひ夜更けぬ
寛仁親王長女彬子さま 平成31年(2019)


それから、やはり平成史が凝縮された歌の数々。冷戦終結、少子高齢化、戦後五十年、ミレニアム、IT時代の到来、イチロー、そして御退位……。歌会始は新年を言祝(ことほ)ぐものですので、基本的に政治の混迷や重大犯罪などは題材にはなりませんが。

人々をへだてし壁はくづれたりベルリンに響く歓びの歌
皇太子殿下 平成7年(1995)

卒業のうたはひとりのために流れ今日限り閉づ島の学校
選歌 長崎県 溝口みどりさん 平成7年(1995)

被爆せる樟青々と天に伸び半世紀経し夏を輝く
選歌 千葉県 山之内俊一さん 平成11年(1999)

あたらしき時世(ときよ)のごとくひとむらのあしたの雲をながくみまもる
選者 島田修二氏 平成12年(2000) 

山川も草木も人も共生のいのち輝け新しき世に
召人 上田正昭氏 平成13年(2001)

いとけなき日のマドンナの幸(さつ)ちやんも孫三(み)たりとぞe(イー)メイル来る
召人 大岡信氏 平成16年(2004)

大記録なししイチローのその知らせ希望の光を子らにあたへむ
正仁親王妃華子さま 平成22年(2010)

今しばし生きなむと思ふ寂光に園(その)の薔薇(さうび)のみな美しく
皇后宮御歌 平成31年(2019)


さらには召人や選者の皆さんの変遷にも、感懐を覚えました。召人では、故・大岡信氏(平成16年=2004)、選者では岡井隆氏(平成5年=1993~平成26年=2014)、三枝昂之氏(平成20年=2008~)など、光太郎に関する御著書等おありの方がいらっしゃるもので。山梨県立文学館館長であらせられる三枝氏は、連翹忌にもご参加下さっています。

また、平成9年(1997)の召人だった女流歌人の故・斎藤史氏は、昭和4年(1929)、光太郎が審査員の一人として参加、朝日新聞社において開催されたミスコンテスト「現代女性美」審査会で「女性美代表」に選ばれた8名のうちの一人でした。


そんなこんなで「平成」も今日で終わり。明日からの「令和」、どんな時代となっていくのでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

夜の星空の盛観はまつたく目ざましいもので、一等星の巨大さはむしろ恐ろしいほどです。星座にしても、冬のオライアン、夏のスコオピオンなど、それはまつたく宇宙の空間にぶら下つて、えんえんと燃えさかる物体を間近に見るやうです。

散文「みちのく便り 一」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

7年間の蟄居生活を送っていた、岩手花巻郊外旧太田村の山小屋で見る星空。「オライアン」はオリオン座、「ソコオピオン」は蠍座です。いわゆる光害とは無縁のそれは、まさにこのようなものだったのでしょう。

光太郎と交流のあった造形作家について、2件。

まず、画家の村山槐多。4月24日(水)、『中日新聞』さんの記事から。

村山槐多、未公開作128点初公開 岡崎生まれの画家

015 愛知県岡崎市生まれの詩人画家、村山槐多(かいた)(一八九六~一九一九年)の油彩画やパステル画などの未公開作品計百二十八点が京都府内の恩師や同級生宅などから新たに見つかった。おかざき世界子ども美術博物館(岡崎市)で六月一日から開かれる槐多没後百年を記念する展覧会で初公開される。
 槐多は日本美術院賞を受けるなど大正時代に活躍。画家横山大観に実力を認められ、死後には詩人高村光太郎が「強くて悲しい火だるま槐多」と詩に残して哀悼した。ただ槐多は二十二歳の若さで早世し、画家としての活動期間はわずか五年。このため作品は希少な上、これまでに約二百五十点しか確認されていなかった。
 今回新たに見つかったのは、槐多が絵に取り組み始めた小中学生時代の初期作品をはじめ最盛期の二十代の作品で、風景画など油彩十点とパステルや水彩など百十八点。同館の学芸員村松和明(やすはる)さん(56)によると、初期作品はこれまでほとんど見つかっておらず、特に油彩作品は槐多が十八歳で上京した後の二十七点しか確認されていなかった。
 油彩で注目されるのは、槐多がいとこの画家山本鼎(かなえ)(一八八二~一九四六年)から油彩道具一式をもらって絵を真剣に描き始めたとされる十四歳ごろの作品。連なる山々を濃い緑色で描き、湧き立つ白い雲がかぶさる様子を表現している。
 代表作の水彩「カンナと少女」に登場する花のカンナを、単独で描いた油彩「カンナ」も見つかった。両作品とも同時期に描かれており、村松さんは「槐多が水彩から油彩に活動の中心を移していく転換点ではないか」と推測する。
 パステルの全作品は上京前に描かれており、寺の山門やかやぶき屋根の家などの建造物、森や川などの自然を題材にした作品が多かった。今回発見された晩年の油彩作品も、千葉県房総半島の大自然を繊細なタッチで表現していた。これらの作品は、代表作の油彩画「尿(いばり)する裸僧」のように荒々しい作風とは全く異なり「今回公表する絵を見比べれば、槐多へのイメージは一変する」と力を込める。
 作品の多くは旧制京都府立第一中学校(現在の洛北高校)に通っていた槐多の同級生や先生らの家から見つかった。村松さんは槐多研究を三十年以上続け、持ち主に作品公開の交渉を進めていた。今回は槐多の没後百年にちなんで特別に貸し出しを受けた。
 (鎌田旭昇)
 <村山槐多(むらやま・かいた)> 4歳で京都府に移り住む。府立第一中学校に在学中、いとこの画家山本鼎に画才を見いだされた。卒業後、画家を目指して上京を決意。途中、長野県にある鼎の父親宅に2カ月間滞在し、田園風景を描く。上京後は感情を表に出す激しい筆致と色使いの作品を多く残した。小説や詩も書き続けながら、酒浸りの退廃的な生活を重ね、結核性肺炎で1919年に急逝した。翌年、詩集「槐多の歌へる」が刊行された。



村山槐多は、光太郎より13歳年下の明治29年(1896)生まれ。宮沢賢治と同年です。大正8年(1919)に、数え24歳で結核のため夭折。その晩年、光太郎と交流があり、光太郎はそのままずばり「村山槐多」(昭和10年=1935)という詩も書いています。

  村山槐多

槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。000

いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。

「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。

画家だった村山ですが、詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版されています。光太郎は推薦文も寄せています。

夭折の画家だけに遺された作品数は少なく、それが今回100点超の未発表作品が出て来たというのは驚きでした。


続いて、彫刻家の柳原義達。一昨日の『岩手日日』さんから。

彫刻に満ちる命 岩手県立美術館 柳原義達 特別展示始まる

016 裸婦、鴉、鳩像…県立美術館の特別展示「柳原義達―三重県立美術館所蔵作品による」が26日、盛岡市本宮の同館で始まった。裸婦像や鴉(からす)像、鳩(はと)像で知られる柳原義達(1910~2004年)は、本県出身の作家舟越保武らと共に戦後日本の具象彫刻界を牽引(けんいん)した彫刻家の一人。素朴で生命力あふれる柳原作品の魅力を紹介している。
 柳原は神戸市出身で、東京美術学校(現東京芸術大)彫刻科で学び、在学中には高村光太郎の影響を受けた。戦後は仏現代彫刻に魅せられ、彫刻を一から学び直すため43歳で渡仏。4年余りにわたって研鑚(けんさん)を積み、帰国した後はアカデミズムから離れ独自の彫刻世界を確立した。
 裸婦像のうち、北海道釧路市の幣舞(ぬさまい)橋に設置されている橋上彫刻「道東の四季の像・秋」は、舟越、佐藤忠良、本郷新と共に手掛けた作品。舟越の春の像は同館玄関ロータリーの前庭に建つ。舟越とは2歳年上の先輩で東京美術学校彫刻科、国画会、新制作派協会と同じ道をたどり、切磋琢磨(せっさたくま)し合った仲だという。
 作品の中でもよく知られているのが、鴉や鳩を主題とした「道標(どうひょう)」シリーズ。動物愛護協会からの制作依頼を機に鳥に関心を抱き、自宅でも飼育するようになり、鳩や鴉の像を制作した。
 また彫刻家としての空間認識が分かる素描作品や、陸前高田市博物館近くの屋外に設置され東日本大震災津波で損傷したものの応急処置が施されて公開されているブロンズ像「岩頭の女(ひと)」なども並ぶ。
 同館学芸普及課長の吉田尊子さんは「柳原は舟越と関連のある作家だが、舟越とは違う個性がある。初期から晩年までの作品を楽しんでいただけるので足を運んでほしい」と話す。
 特別展示は10月20日まで。関連イベントとして5月25日には三重県立美術館顧問の毛利伊知郎氏による記念講演「柳原義達、舟越保武と戦後日本彫刻」もある。
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柳原義達は明治43年(1910)生まれの彫刻家。東京美術学校彫刻科を出ていますので、光太郎の後輩です。その際、朝倉文夫に師事していますが、直接指導を仰いだわけではない光太郎に影響されたと語っています。記事にも出てくる舟越保武と親しく、舟越は光太郎と直接関わっていました。

柳原は、光太郎歿後の昭和33年(1958)から、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』の印税を光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周の希望で10年間限定で実施された「高村光太郎賞」の、栄えある第1回受賞者となっています。ちなみに舟越は昭和37年(1962)、第5回の受賞です。

上記に画像を載せた「道東の四季の像」は、「四季の乙女の像」とも称され、光太郎のDNAを受け継ぐ4人の彫刻家の競演となっています。

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左から、「春」が舟越、「夏」は佐藤忠良、「秋」を柳原、そして「冬」で本郷新。それぞれ高村光太郎賞の受賞者だったり、審査員だったりします。


さて、村山、柳原、それぞれの展示についての詳細は割愛しますが、お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

此の季節による植物生活の規則正しさは恐ろしいほどで殆と一日を争ひ、一日を争ひ、その又一刻を争ふ。山に棲んでみてはじめて私は一年三百六十五日の日々の意味をはつきり知つた。

散文「季節のきびしさ」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

老年に入ってから、このように大きく人生観の転換を強いられることもあるわけで、それは光太郎にとって大きな財産ともなったと思われます。

今月15日の『毎日新聞』さん夕刊に、以下の記事が載りました。同紙特別編集委員・梅津時比古氏の、音楽に関する連載エッセイです。

音のかなたへ 自筆原稿からの音

 久しぶりに会った彼は、少し日に焼けたせいか、引き締まってたくましく見えた。
 ぼろぼろに古びて茶色になった箱入りの本をこちらへ差し出した。『ベートーヴェン研究 小原國芳編』(東京イデア書院)。
 「開けてください」と短く言った。
 箱から出してまず奥付を見ると、昭和二年十月二十日の発行である。
 何かが挟まれていてすぐにあいてしまった頁(ページ)には、「二つに裂かれたベエトオフエン(幻想スケッチ)」と題された高村光太郎の詩が載っていた。
 <(略)春がヴィインの空へやつて来て、/さつき窓から彼をのぞき込んだ。(略)>
 彫刻家、詩人の高村の作品の中でもよく知られた詩である。最後を結ぶのは<彼は二つに引き裂かれて存在を失ひ、/今こそあの超自然な静けさが忍んで来た。/オオケストラをぱたりと沈黙させる神の智慧が、/またあの窓から来たのである。>。ここに主眼があるのだろう。高村は、二つに引き裂くものを、人から裏切られる絶望と、 一人立つ歓喜として、その上で、自然を神の書物とするヨーロッパ根源の思想をベートーベンに見ている。
 頁に挟まっているのは何か。茶色に変色した松屋製の400字詰め原稿用紙2枚が紙のこよりでとじてあった。青いインクで「二つに裂かれたベエトオフエン(幻想スケッチ)」が書いてある。本では「ぢつとして」とあるのが原稿には「じつとして」となっているなど違いがある。
  彼の話では東京・神田の古本屋で本を買った後、その場で頁をめくっていると原稿が出てきたとのこと。店主が慌ててすぐ鑑定士を呼んで見せると、高村の自筆原稿に間違いないとの結果が出た。買い戻したいと言う店主を、支払いは済んだ、と振り切ってきたという。
 自筆と思われる字は、若々しい高ぶりが匂い立つ。高村のベートーベンに対する真摯( しんし)な思いが震えている。丁寧だが勢いのある青い字体のひとつひとつが、罫線(けいせん)からあふれ出ている。原稿用紙に音がはねる。こよりは最愛の智恵子がよったのでは、と想像も湧く。
 彼はそれを私にくれると言う。そんな貴重なものを、と固辞したが、譲らない。
 かつてレコード会社に勤めていた彼は、その後、仕事の変遷を経て、今は学生のときにアルバイトをしていた仕事に何十年ぶりかに復帰した。都内の公園にある池のボート番である。「ボートを洗うときの寒さが応えるが、毎日、沈んでゆく夕日を見ているのは至福」と言う。 自然はすなわち哲学なのだろう。高村の詩に書かれている、野にいるベートーベン像が重なった。 何かに打たれ、原稿付きの本を受け取った。

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光太郎の自筆詩稿がはさまった書籍を譲られた、というのです。

譲ってくれたという友人は、それを古書店で購入、古書店主はそれが挟まっていたことに気づいていなかったそうで、すると、たいした値をつけていなかったのでしょう。

鑑定士を呼んで見てもらったら、確かに光太郎の自筆原稿だったそうで(この場合の「鑑定士」というのがどういう人なのか興味深いところですが)、確かに画像で見ても光太郎の筆跡です。使われている原稿用紙もよく光太郎が使っていたもの。

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詩は、「二つに裂かれたベエトオフエン」。梅津氏曰くの「高村の作品の中でもよく知られた詩である」というのには疑問符が付きますが、昭和2年(1927)4月9日(火)の執筆で、初出は雑誌『全人』第10号(ベートーヴェン百年祭記念号)。『全人』は、玉川大学さんの広報誌として、現在も月刊で刊行が続いています。梅津氏が譲られたという『ベートーヴェン研究』は、同じ昭和2年の10月に出た、玉川大学さんの創立者・小原國芳の編刊です。おそらく光太郎の許諾を得て、『全人』から『ベートーヴェン研究』へ転載されたのでしょう。挟まっていたという詩稿は、その転載の際に改めて書き送ったか、『全人』掲載時に送られたか、いずれにしても玉川さんの関係者の旧蔵だったという可能性が高いと思われます。

全く別の可能性として、「二つに裂かれたベエトオフエン」は、昭和4年(1929)に新潮社さんから刊行された『現代詩人全集第9巻』にも転載されており、同書は光太郎自身が掲載詩を選択していますので、そちらからの流出ということも考えられなくはありません。ただし、『現代詩人全集第9巻』掲載時には、サブタイトル的な「(幻想スケツチ)」の語が除かれているので、やはりこの詩稿は昭和2年(1927)のものである可能性が高いと考えられます。

こういうこともあるのですね。


ちなみに、「二つに裂かれたベエトオフエン」、全文は以下の通りです。


      二つに裂かれたベエトオフエン
005
 「病める小鳥」のやうにふくらがつて
 まろくじつとしてゐた彼は急に立つた。
 甥に苦しめられる憂鬱から、
 一週間も森へゆかなかつたのに驚いた。
 春がもうヴイインの空へやつて来て、
 さつき窓から彼をのぞき込んだ。
 水のせせらぎが何を彼に話しかけ、
 草の新芽がどんな新曲を持つて来たか、
 もう約束が分つたやうでもあり、
 また思ひも寄らないやうでもあり、
 いきなり家を飛び出さうとした彼は、
 ドアを明けると立ち止つた。
 今日はお祭、
 着かざつた町の人達でそこらが一ぱい。
 ベエトオフエンは靴をみた。
 靴の割れ目を見た。

 一時間も部屋を歩いたが怒は止まない。
 怒の当体の無い怒、
 仕方が無いので昔は人と喧嘩した。
 「私は世界に唯一人だ」と006
 いつかも手帳に書いてみた。
 彼は憤然として紙をとる。
 怒の底から出て来たのは、
 震へる手で書いてゐるのは、
 おゝ、何のテエマ。
 怒れる彼に落ちて来たのは、
 歓喜のテエマ。
 彼は二つに引き裂かれて存在を失ひ、
 今こそあの超自然な静けさが忍んで来た。
 オオケストラをぱたりと沈黙させる神の智慧が、
 またあの窓から来たのである。


別件ですが、光太郎自筆原稿というと、先月、こういうこともありました。

ネットオークションで光太郎の自筆原稿一枚が売りに出たのです。こちらは詩稿ではなく評論で、題は「神護寺金堂の薬師如来」。驚愕しました。それがいわば「ミッシングリンク」だったためです。

これは、昭和17年(1942)の7月から12月にかけ、雑誌『婦人公論』に連載された「日本美の源泉」の第4回の冒頭に当たります。連載終了後、同誌の編集者だった栗本和夫が、光太郎から送られてきた原稿34枚を和綴じに仕立て、保存していました。昭和47年(1972)には、中央公論美術出版さんが、それをそのまま復刻し、限定300部・定価15,000円で刊行しました。

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当会顧問・北川太一先生による同書の別冊解説から。

 結局三月(注・昭和19年=1944)から『婦人公論』は休刊、七月には「営業方針において戦時下国民の思想善導上許しがたい事実がある」として、中央公論社は改造社とともに情報局から自発的廃業を申し渡される。
 残務整理を担当するために残った栗本の仕事の一つに原稿処分のことがあった。永年の雑誌原稿は1ヶ月ごとに袋に収めて丁寧に保存されていたが、ひろげるとうず高く、八畳間いっぱいをこえる夥しい量であったという。原稿の散佚することをふせぐために、しかも、旧稿が目に触れてすら、危機が著者にも編集者にも及びかねないそんな情況の中で、栗本は朝から夕まで一週間にわたってそれらを破棄し続けた。
 しかし、どうしても破り捨てることの出来ない幾つかの草稿が栗本にはあった。その一つが光太郎の「日本美の源泉」である。くり返し探したけれど、どこで失われたのか、第四回の最初の一枚だけは、見つけることができなかった。

そこで、同書ではその1枚文だけ、掲載誌から起こした活字で埋めています。

その「ミッシングリンク」的な1枚が出て来たので、驚愕したのです。この1枚があれば、まさにコンプリートなわけで。旧蔵者は同じ中央公論社の湯川龍造という編集者だったそうで、他にも湯川旧蔵だった文豪の草稿類がごっそり売りに出され、その点でも驚愕しました。

こういうこともあるのですね。

それにしても、戦時中、中央公論社でこのような事態だったというのは、意外と言えば意外でした。もうすぐ平成も終わり、令和となりますが、こうした昭和の暗黒時代に戻るようなことがあってはいけないとつくづく思いました。しかし、「昭和」、「令和」の「和」つながりには、昭和の暗黒時代をこそ範としようとする現政権のどす黒い野望の如きものがほの見えるようで、素直に改元を喜べません。考えすぎでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

もうネコヤナギの花が出るだらう。林の中のあの立派なコブシにも白い花が一めんにさくだらう。今、山の中の早春は清冽なにほひに満ちてゐる。

散文「早春の山の花」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

書かれた日付は3月25日。岩手の山間部では、3月末で早春という感覚なのですね。

いずれも小ネタ的な感じですが、4件ほどご紹介します。

遠くへ行きたい「元世界王者内藤大助もノックアウト!岩手の若きチャンプ達」 岩手県一関~花巻

地上波日テレ 2019年4月28日(日)  6時30分~7時00分

元ボクシング世界チャンピオンの内藤大助が様々な分野の若きチャンピオンに会いに岩手県を旅する。▽1.絶景渓谷“厳美渓”に130年続く名物“空飛ぶだんご”▽2.岩手発祥“わんこそば”の小学生チャンピオンが魅せる驚異のすすり▽3.1300年の伝統芸能“鬼剣舞”の危険な技に挑戦!▽4.絶品!バケツでジンギスカン▽5.世界チャンプを生んだ高校ボクシング部員と拳の語らい▽6.浴槽から湧き出る!?レトロな温泉

旅人 内藤大助

最後の「レトロな温泉」というのが、光太郎もたびたび宿泊し、堪能した鉛温泉藤三旅館さんの、白猿の湯です。番組公式サイトから。

「花巻温泉郷」の「鉛温泉 藤三旅館」は600年の歴史を持つ温泉だ。レトロで風情ある温泉の名物は自噴天然岩風呂「白猿の湯」。湯口はなく、浴槽の底から湯が湧き出てくるという。そのため風呂はかなり深く、立って入るのが流儀だ。内藤は温泉につかりながら、若者たちに熱いパワーをもらった、平成最後の「遠くへ行きたい」を振り返る。

その他、宮沢賢治御用達で、やはり光太郎も足を運んだ花巻市街のそば屋「やぶ屋」さんも登場します。

岩手といえば「わんこそば」。内藤は「やぶ屋 花巻総本店」で、わんこそばに挑戦することに。笹川博之さんによると、わんこそばは花巻が発祥なのだそう。店内には勢いよくそばをすする先客たちが。小学生の菊池陸くん、高橋世良くん、板橋暖人くんの3人組で、「元祖わんこそば全日本大会 小学生の部」で2年連続で優勝したチャンピオンだという。内藤は世良くんと3分1ラウンド勝負で、わんこそば対決をすることに。勝敗はいかに?


続いては、当会の祖・草野心平がらみで。

校歌を訪ねて「第104回 福島県川内村立 川内小学校」

BS-TBS 2019年5月2日(木)  18時24分~18時30分

誰にでもある小学校や中学校の校歌の思い出。この番組は東日本大震災の被災県を中心に小中学校の校歌を紹介します。
今回ご紹介する学校は、福島県川内村立川内小学校。学校が建つ川内村は、東日本大震災による原発事故で全村避難となった地域。幸い放射線量が少なかったため、翌年には川内村で学校生活を再開できました。そんな川内小学
校の校舎は木のぬくもりが温かい、平屋のオシャレな校舎。児童たちも隠れ家的スペースの「デン」や、畳敷きの「図書室」などお気に入りの場所で楽しく学校生活を送っています。また川内小では他県との交流も盛んで、長崎大学や北海道の士別市の学校などお互いに行き来して交流を深めています。番組では、そんな川内小での学校生活や、他県との交流、そして将来の夢について児童たちにインタビュー。また川内小学校の校歌を、全校児童による斉唱でお届けします。



心平が愛したカエルにちなみ、心平を名誉村民として下さった川内村の川内小学校さんが取り上げられます。この番組、これまでにも同じ川内村の川内中学校さんや、「いのちの石碑」の活動で光太郎と関わる宮城県の女川中学校さんなどが取り上げられています。


川内中学校さんの校歌は心平の作詞ですが、小学校さんの方は、丘灯至夫作詞。やはり福島出身で、二代目コロムビア・ローズさんが歌った「智恵子抄」の作詞者です。


続いても福島系です。 

新 鉄道・絶景の旅 「仙台~三春~いわき みちのく桜紀行」

BS朝日 2019年5月2日(木)  19時00分~20時54分

春のみちのくを満喫!東北屈指の桜の名所めぐり▽8000万年もの歳月をかけて築かれた大自然の造形美!あぶくま洞を探検▽桜の絶景駅▽ビックリ仰天!桁違いの超~デカ盛りメニューを発見▽ビール焼きそば?▽郷土名物!ふくしまブルブル?▽激安!アイスバーガーの元祖…青春の味!?▽三春名物!ピーマン味噌で食べる?三角油揚げ▽白石名物!うーめん?▽地味に有名?評判の駅弁▽鉄道遺産・レンガの油庫▽東北本線▽磐越東線   

船岡の一目千本桜▽二本松・合戦場の枝垂れ桜▽三春の滝桜▽名山!安達太良連峰&蔵王連峰▽色彩のハーモニー!枝垂れ桜&春モミジ▽花の楽園!菜の花で描く…ハートマーク

ナレーター 林家たい平

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昨年5月に初回放映があり、再放送です。

智恵子の故郷、二本松が大きく取り上げられます。ただし、光太郎智恵子の名は出てきませんでした。

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二本松駅のシーンでは、そうというナレーションはありませんでしたが、光太郎の詩碑が映りました。

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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節を刻んだ詩碑で、建立は昭和51年(1976)です。その他、二本松城、合戦場のしだれ桜などが紹介されます。


最後は光太郎の姉貴分・与謝野晶子がらみ。

高島礼子が家宝捜索!蔵の中には何がある?▼中国画家の水墨画…コウエツ…高額鑑定

BS-TBS 2019年5月2日(木)  21時00分~21時54分

高島礼子が日本全国の蔵へ!埋もれた家宝捜索の旅。  江戸時代勝山藩の城下町として栄えた岡山県真庭市勝山。 創業200年を超える老舗酒蔵に残されていたのは、 与謝野晶子の歌。そして、清末期・中国の画家の水墨画! 驚きの高額鑑定が!  人口1000人の日本一美しい村・新庄村。 4軒の蔵を大捜索!「村に1軒しかない宿に、蔵に眠る品々を集めて飾りたい!」 という依頼にチーム高島が全力で協力! 見つかったのはベロアイの器…アメリカ製の・・・!?  福岡県朝倉市。 30年手つかずの蔵!家主も知らない蔵の中を徹底捜索!  築220年のお宅で出会ったコウエツナナシュとは? 父から受け継いだ品に驚きの評価!

出演 高島礼子 「蔵」のスペシャリスト一級建築士の渡辺義孝さん 「くらや」の鑑定士・山岡真司さん

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今月4日放映の同じ岡山県真庭市編では、光太郎の朋友だった陶芸家バーナード・リーチの作品が取り上げられました。その際は情報を得るのが遅れ、事前にこのブログでご紹介できませんでしたが……。


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今回は「与謝野晶子の歌」だそうで、晶子も鉄幹ともども各地を旅し、行った先々でいろいろ書き残したりしていますので、期待できそうです。


それぞれぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

むやみに計画を壮大にしてそのために神身を労し過ぎ、仕舞に何のために苦しんではゐるのか分らなくなり、果ては絶望的破壊的な考へ方まで抱くに至るやうな例もままあるのは気の毒である。分相応より少し内輪なくらゐに始めるのがいいのだと私は信じてゐる。

散文「開墾」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)前に、僅かばかりの畑を作って農耕に従事したことを指します。僅かばかりの畑が、自分一人でやって行くには分相応というわけで。

農耕に限らず、全ての仕事に当てはまるような気もしますね。ただ、こういう言い訳をして可能性に蓋をしてしまうのもどうかとも思いますが。

世間的には明日から10連休だそうで。ゴールデンウィーク中に始まるイベントを一つ。 

美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―

期 日 : 2019年5月3日(金・祝)~5月26日(日) 期間中無休
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 森のギャラリー  岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 10:00~15:00 
料 金 : 大人200円(150円)学生・生徒・児童150円(100円)
         高村光太郎記念館は別途料金

光太郎はこの地を文化の発信地にしようとしていました。自分を取り巻く自然すべてのものが美に満ちていると語っています。
新緑の季節、光太郎さんぽ道で草花を愛でながら、光太郎と智恵子の息吹を感じてみませんか?
≪展示内容≫ 多田民雄 ポスター作品、安部勝衛 陶芸・書作品

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光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)の傍らに建つ花巻郊外旧太田村の「森のギャラリー」は、昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館の建物です。こちらは平成25年(2013)に、近くの歴史民俗資料館だった建物が新たな高村光太郎記念館として仮オープングランドオープンは平成27年=2015)するまで、展示に使用されていました。

その後しばらく倉庫として使われていましたが、一昨年から記念館の別館のような扱いで、記念館に展示しきれないものの展示や、地元の皆さんの作品展、市民講座やワークショップなど、幅広く活用されています。

今回は、地元の画家・多田民雄氏と、陶芸家の安部勝衛氏の作品が展示されます。

多田氏は昨年、旧太田村にほど近い花巻市円万寺地区のギャラリーBunさんでポスター展を開かれています。その際は高村光太郎記念館をモチーフにした作品も出品されたとのこと。今回も、高村山荘が描かれている作品などが出るようです。

また近くなりましたら改めてご紹介しますが、5月15日(水)には、高村山荘敷地内で、毎年恒例の「高村祭」が開催されます。当方、その際にお邪魔するつもりで居ります。

皆様も、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

子供の頃たべつけた物はいつまでもなつかしく、今日でも飲屋などで畳み鰯を焼いてくれると心がしんみりする。

散文「子供の頃の食事など」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この項、しばらく前から花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれた戦後の作品を紹介してきましたが、今日のみ戦前の作品に戻ります。

この項、筑摩書房版『高村光太郎全集』を底本に、その掲載順に言葉を拾っています。同全集は、詩、評論、随筆、日記、書簡、翻訳などにわけ、ほぼ年代順に並べるスタイルですが、昭和30年代の初版刊行時に執筆時期が不明だった作品もあり、あるべき場所でないところに置かれている作品もあり、これもその一つです。

定期購読しております雑誌2誌、届きました。

まず隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第13号。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。今号は「そば粉ガレットとウニペイスト 夏みかん添え」だそうで。

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読者の方からの投稿的なページには、以前の号の「光太郎レシピ」を参考に料理を作った旨の記述。

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「花巻ウラ昔話」というコーナーは、かつて花巻市にあった雪印乳業花巻工場について。ここには昭和43年(1968)、光太郎詩「牛」(大正3年=1914)の一節を刻んだ碑が建てられました。平成14年(2002)に工場は閉鎖、現在は雪印さん系の岩手雪運さんという会社の営業所になっています。光太郎碑はまだ健在なのではないかと思われますが、不明です。

石碑といえば、『マチココ』さんに掲載されている石碑の写真。「あれ? こんなところに光太郎が」でした。

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おわかりでしょうか。石碑上部に写真が4枚並べられていますが、左から2枚目が光太郎です。郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で撮影されたもの。000

この石碑は、平成21年(2009)に建てられたもので、かつてここに雪印乳業花巻工場があったことを示す碑のようです。この存在は存じませんでした。

今秋、花巻高村光太郎記念館さんの市民講座で、花巻市と、さらに隣接する北上市にある光太郎関係の石碑等をめぐるバスツアー的なものが計画されており、当方、講師を仰せつかっています。その際にこちらも見て来ようと思っております。

ちなみに先述の「光太郎レシピ」中の「そば粉ガレット」、光太郎の日記の記述に従い、雪印さんのバターが使われています。写真にも写っています。


その他、特集が「春がきたっ。」ということで、花巻市内各所の春の風景などなど。

オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回配本、送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


もう1点、『月刊絵手紙』さん。

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「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載がなされています。今号は詩「母をおもふ」(昭和2年=1927)の全文。2年前に亡くなった母・わかを偲ぶ詩です。5月は母の日があるということからの引用だそうです。

その他、特集は「夏目漱石の愉快な手紙、いい手紙」。先月のこのブログでご紹介した書籍『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』を書かれた中川越氏の御執筆です。

同誌は一般書店での販売は行っておらず、同会サイトからの注文となります。1年間で8,700円(税・送料込)。お申し込みはこちらから。バックナンバーとして1冊単位の注文も可能なようです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

小生は言はば一個の風来で、何処にゐても、其処で出来るだけの仕事をし、出来るだけの務めを果たして、そして天命来らば一人で死ねばそれで万事決着といふ孤独生活者です。

散文「ある夫人への返事」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれた文章の一節です。もはやこういう割り切りだったわけですね。

甲信地域には、光太郎ゆかりの人々の記念館さんや、それらの人物の作品などを収めた美術館さんなどが多く(その代表が碌山美術館さんですが)、時間に余裕がない場合を除き、碌山美術館さんに行く際には、必ず他にも立ち寄ることにしています。

一昨日は、月曜日でした。記念館さん、美術館さんの類は、ほぼほぼ月曜休館なので、どうしようかと考えた結果、長野市の信州善光寺さんに参拝することにいたしました。

こちらの仁王門には、光太郎の父・光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像が納められ、仁王門は昨年、仁王像は今年が、それぞれ100周年のメモリアルイヤーとなります。9月には100周年を記念しての特別法要があるそうで、それに向けて、昨年から今年にかけ、さまざまな動きがありました。


9月の特別法要にも足を運ぶつもりでおりますが、予定が狂うことも考えられますし、下見も兼ねてと考え、今回参拝しておくことにしました。

ちなみに善光寺さんを訪れるのは3回目でした。最初は幼かった頃、2度目はこのブログを始める直前の10年ほど前の家族旅行でした。

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善光寺さん、駐車場は裏手の方でした。そこで、本来なら上記画像でいうと下の方にあたるゾーンから、仁王門、山門をくぐり、本堂へというのが正しい経路になりますが、裏口から入ったので、それとは逆のコースをたどりました。

最初に本堂裏の日本忠霊殿・善光寺史料館。三重塔の形をした建造物です。

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こちらには、仁王像、三宝荒神像、三面大黒天像のひな型が展示されています。

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ひな型といっても、仁王像は像高1メートル50センチ余ですし、三面大黒天像、三宝荒神像も同じく1メートル余で、それなりの大きさです。

4体とも、平成14年(2002)に、茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代」展に出品された時に拝見しまして、17年ぶりでした(10年前の家族旅行の折にはパスしましたので)。「高村光雲とその時代」展の際は、とにかく出品点数が多く、一つ一つの作品を仔細に観る余裕が無かったのですが、今回改めて4体を細かに拝見、興味深く感じました。

像高150㌢余ということで、考えてみれば当然なのですが、仁王像は寄木造りでした。有名な光雲の木彫というとそれほど大きなものは無く、一木造りのものがほとんどですから、意外に感じました。ただ、寄木といっても、ボーッと見たのでは継ぎ目がわからないほどに処理されています。

それにしても今にも動き出しそうな躍動感が実に見事でした。

三面大黒天像、三宝荒神像は、平成27年(2015)に東京藝術大学さんによる修復が行われており、くすみの見えていた彩色が色鮮やかに復活し、まるで最近作られたもののようでした。


その後、本堂→山門→仁王門と、逆コースで歩き、再び仁王門から山門、本堂へ。

随所で桜が見事でした。平日にもかかわらず、やはり多くの参拝客の皆さんでにぎわっていました。

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さて、仁王門。

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こちらの仁王像は丈六(約 4.85m)です。

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大正時代、これを運ぶために特別に無蓋貨車をしつらえたという話もあります。

それぞれの背面に、三面大黒天像、三宝荒神像。

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おそらく10年前には無かった説明版が設置されていました。「像高約二メートル」となっていますが、七尺五寸のはずなので、換算すると約2㍍85㌢となります。台座部分を入れずれに約2㍍としているのでしょう。

続いて山門。

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そして本堂。

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この地の安寧を祈願し、さらにちょっとだけ個人的に「道中安全御加護」と唱えさせていただきました。

本堂の斜め前に、「授与品所」があり、最近はやりの御朱印などもこちらでいただけるようになっています。さらにお札やお守り、数珠やお香、その他さまざまなグッズも販売されています。

仁王尊グッズはないかと思って覗いてみましたところ、ありました。それもかなり。

まず交通安全のお守り。赤、白、黒と三種類ありましたが、さすがに3枚買うのも何ですので、黒のみ購入。

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続いてエンボスステッカーセット。

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さらに手ぬぐい。

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仁王尊、ここまで行くと、ゆるキャラ化しています(笑)。


その後、駐車場に戻り、愛車を駆って安曇野市碌山美術館さんを目指しまして、昨日のレポートに戻ります。


というわけで、信州レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

時鳥は暗いうちから啼いてゐて一日中実にせつかちに、つづけざまに啼く。よくも続くものだと思ふほど休みなしに「ホンゾンカケタカ、ホンゾンカケタカ」をくり返す。こんなに切なく友を求める鳥も珍らしく、蝉のせつかちに似てゐる。
散文「七月一日」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

「時鳥」は「ホトトギス」。自宅兼事務所周辺でも、そろそろその特徴ある鳴き声が聞こえてくると思われます。

花巻郊外旧太田村での蟄居生活。気ままな一人暮らしという面もありましたが、「こんなに切なく友を求める」あたりに光太郎の一抹の寂しさを読み取るのは考えすぎでしょうか。

昨日は愛車を駆り、日帰りで信州に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

まず、メインの目的であった、安曇野市の碌山美術館さん。光太郎の親友だった碌山荻原守衛を顕彰する個人美術館ですが、昨日が守衛の命日、「碌山忌」でして、いろいろと催しもあり、駆けつけた次第です。

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平成25年(2013)の碌山忌にお伺いした際には雪が降り、一時吹雪いたりして驚きましたが、昨日はもう春爛漫という感じ。同じ吹雪でも桜の花吹雪でした。

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守衛が亡くなったのは明治43年(1910)、昨日は第109回という扱いでした。

午後4時から墓参ということで、それに間に合うように行きましたが、少し早く着いたので、先週土曜から始まった企画展示「荻原守衛生誕140周年記念特別企画展 傑作《女》を見る」を拝見。会場は第二展示棟です。

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直上の画像は、閉館後に許可を得て撮りました。

守衛の絶作にして、その石膏原型が近代彫刻として初めて重要文化財に指定された「女」(明治43年=1910)。同郷の先輩で、新宿中村屋さんの創業者・相馬愛蔵の妻だった良(黒光)の面影を遺しています。

同じく良との関わりが指摘される「文覚」(明治41年=1908)、「デスペア」(明治42年=1909)と合わせ、石膏複製3体が展示されています。周囲の壁とガラスケースにはそれらに関するパネル展示や、守衛自筆の構想スケッチ、光太郎から守衛宛の書簡など。実に興味深く拝見しました。


その後、現荻原家ご当主の荻原義重氏の車に乗せていただき、墓参。歩いて行くには遠い場所です。

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太平洋画会で智恵子の師でもあった中村不折の揮毫による守衛墓碑に香華を手向けました。明治43年(1910)、守衛が亡くなった直後、関西旅行に行っていた光太郎も急ぎ墓参に訪れています。

荻原氏に相馬家(当時の建物が現存)なども案内していただき、再び館へ。

午後5時20分から、武井敏学芸員による研究発表。

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題して「『荻原守衛日記・論説集』の発刊と新発見」。こちらも興味深く拝聴しました。メインは昨秋、同館から刊行された『荻原守衛日記・論説集』を編んでみて、改めて見えてきた守衛像、的なお話でした。

それから「おまけ」として、「Ogihara」と「Rokuzan」。一般には「荻原守衛」は、「おぎらもりえ」と読んでしまっていますが、正しくは「おぎら」だそうで、守衛がローマ字表記で書いた書簡などに、「Ogihara」と記されている実例が挙げられました。ところが、どこかで混乱が生じたようで、先述の義重氏、パスポートを申請する際に「おぎら」と書いたところ、不可。なぜか住民票では「おぎら」となっていたそうで。しかし正しくはあくまで「おぎら」だとのこと。ただし、守衛自身も「Ogiwara」と署名している場合もあるそうですが。

それから、「Rokuzan」。「碌山」の号は、夏目漱石の小説「二百十日」(明治32年=1899)の登場人物「碌さん」から採られたものですが、となると、「ろくん」ではなく「ろくん」と読むべき、という説がありました。しかし、こちらも守衛留学中に買い求めた蔵書に「Rokuzan」の署名がみつかり、やはり「ろくん」で良かったのだ、と確認できたとのこと。

くわしくは割愛しますが、実は「光(こう)太郎」、「智恵子」も本名ではありませんし、意外と名前はくせ者です。


研究発表終了後、懇親会的な「碌山を偲ぶ会」。

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会場は木造ロッジ風のグズベリーハウス。永らく売店としても使われていましたが、売店機構は受付に移転し、こうした場合の集会所としての(平時は休憩コーナー的な)使用法になっています。


毎回恒例となりました、光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)の全員での朗読に始まり、同館元館長にして代表理事の所賛太氏のご挨拶、高野現館長による報告、そして碌山友の会会長・幅谷啓子さんの音頭で献杯。

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その後、ほぼほぼ手作りのお料理をいただきながら、スピーチ。

いの一番に当方に振られてしまいました。で、同館には非常にお世話になっておりながら、経済的な部分での援助が出来ず(それをやってしまいますと、光太郎と関連する人物の顕彰団体等全てに平等にやらねばなりませんので)申し訳なく思っておりましたので、罪滅ぼしに下記を寄贈する旨、お話しさせていただきました。

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昭和55年(1980)に発行された50円切手、「近代美術シリーズ第8集 荻原守衛 女」の関連です。

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20枚つづりの1シートと、解説書。

それから、切手コレクターの方々が作成されたFDCとその解説書。「FDC」は「ファースト・デイズ・カバー」の略だとのことで、それぞれの切手と関連する図柄の封筒などを作成し、当該切手の発売日に郵便局の窓口で購入した切手を貼り、発行日の消印を押してもらうというものだそうです。当方、切手マニアではありませんので詳しいことはよくわかりません。間違っていたらごめんなさい(笑)。

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同じ近代美術シリーズの第16集では、光太郎の父・光雲の「老猿」も取り上げられており、そちらを集めている中で、「守衛の「女」もあるんだ」というわけで、「では碌山美術館さんに寄贈しよう」と思い立ち、ネットオークションなどでコツコツ集めた次第です。

さっそくグズベリーハウス内に飾って下さいました。足を運ばれる方、ご覧下さい。

逆にいただきもの。

守衛と関わりの深かった新宿中村屋さんから。

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開けてみると……

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中村屋さん名物の一つ、月餅でしたが、通常のものではなく、碌山美術館さんの本館と、「女」をあしらった特別バージョン。平成27年(2015)、新宿の中村屋サロン美術館さんで、開館1周年記念に配られたものと同一のようです。

何だかもったいなくて食べられません(笑)。


午後8時を過ぎたところで、散会。愛車を駆って帰りました。

碌山美術館さんに参上する前に、長野市の善光寺さんに参拝してまいりましたので、明日はそちらをレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

人間として当りまへに行動しさへすれば、別に努力しなくともそんな不愉快な車中の空気を醸し出さずにすむはずなのだが、不思議に汽車の中では多くのプチブルが動物性を発揮して、平素の家庭生活の野蛮さを曝露し、お里の知れる振舞を平気でやるのを目撃せねばならなかつた。

散文「汽車ぎらひ宿屋ぎらひ」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

「汽車ぎらひ宿屋ぎらひ」は光太郎自身の自称です。汽車そのものや旅行自体が嫌いというわけではなく、行く先々で眼にする人々のマナーの悪さが気になって、出不精になったというのです。

公共交通機関や安い宿で、傍若無人な振る舞いに閉口させられる、というのはまったく同感です。

四国徳島から演奏会情報です。
会   場 : 徳島県郷土文化会館(あわぎんホール)  徳島県徳島市藍場町2丁目14番地
時   間 : 開場 13:30 / 開演 14:00
料   金 : 2,000円(全席自由)

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プログラム

 松岡貴史作曲      こどものためのピアノ曲集 「音の絵本」より
 松岡みち子作曲    「智恵子抄」より
 沢井忠夫作曲       「鳥のように」
 信時 潔作曲        不盡山を望みて・日本のあさあけ
 J.S.バッハ作曲     『カンタータ78番』より 二重唱 「われは急ぐ」
 ドヴォルザーク作曲  歌劇『ルサルカ』より 月に寄せる歌
 ヴェルディ作曲     歌劇『イル トロヴァトーレ』より
              炎は燃えて/鎖に繋がれて/あの山へ帰ろう
 ロッシーニ作曲     歌劇『セミラーミデ』より  遂にバビロニアに着いたぞ!
 プレヴィン作曲     歌劇『欲望という名の電車』より  私が欲しいのは魔法
 ほか

出演

 遠藤咲季子(箏)  井上ゆかり(ソプラノ)  松平幸(ソプラノ)
 杣友惠子(メゾ・ソプラノ) 
野間愛(メゾ・ソプラノ)  小川明子(アルト)
 松岡貴史(作曲・ピアノ)  松岡みち子(作曲)  
山田啓明(ピアノ)
 米田佳子(ピアノ)


松岡みち子さんという方の作曲になる「智恵子抄」がプログラムに入っています。存じ上げない方で、調べてみましたところ、香川大学特命准教授であらせられるそうです。また、「智恵子抄」はソプラノとピアノ伴奏による全10曲の歌曲だとのことです。「より」となっていますので、その中からの抜粋なのでしょう。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

つまり美といふのは、それが必要に迫られてゐるもの、合理的であるもの、堅牢であるもの、さう言つたものなのです。美しくしようと思つて飾り立てたものは美であることが少ないのです。

談話筆記「(春になつて)」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

いわゆる「用の美」について言及する中での発言です。そしてこの後の部分で、詩の世界も似たようなものだ、的な発言が続きます。造形芸術、文学に限らず、音楽や舞台芸術、はては身だしなみなどにも当てはまるような気がします。

終わってしまった話ですが、光太郎の父・光雲の関連で2件。

まず、テレビ東京系で先週火曜日(4/16)に放映された「開運! なんでも鑑定団」。

ゲストはテノール歌手の秋川雅史さんでした。秋川さん、ご自身でも独学で木彫を手がけられているということで、鑑定依頼品は秋川さんが尊敬する光雲の木彫。

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入手の経緯がとても面白い話でした。

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結局、600万円でご購入とのこと。

そして、日本大学芸術学部さんの大熊敏之先生による鑑定。本人鑑定額は買ったと時と同じ600万円でしたが……。

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オープン・ザ・プライス!

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なんと倍の1,200万円!

それもそのはず。

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弟子の手が入った工房作ではないというわけで。

さらに……。

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この作品、見覚えがあると思って調べてみましたところ、平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」に出品されていました。

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題して「寿老舞」。確かに浅草の骨董商・晴雅堂清水さんで所蔵されていたものです。

大正13年(1924)の作ということで、この年、光雲は皇室に納められた「松樹鷹」、「養蚕天女」(東京国立博物館特別展 御即位30年記念「両陛下と文化交流―日本美を伝える―」で先月まで展示されていました)など、傑作を作っています。

秋川さん、いい買い物をしましたね。

公式サイトはこちら。系列のBSテレ東さんでは2ヶ月遅れくらいで放映がありますし、地上波テレ東さんでもいずれ再放送があります。また、テレ東系列以外の地方局でも、いわゆる「番販」の形で、休日の昼間などに放映される場合がありますので、ゲスト秋川さんの回でチェックしてみて下さい。


続いて、昨日行われた「第604回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」。やはり光雲作という彫刻が2点、出品されました。

まず、木彫の「大黒天」。昭和6年(1931)の作。高さ7.5㌢の小さなものです。

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予想落札価格が50万円から80万円という設定でしたが、実際には160万円で落札されました。


もう1点、昭和5年(1930)の「世直福神(2点1組)」。こちらはブロンズで、大きさ的には「大黒天」とほぼ同じです。


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予想落札価格は20万円から30万円。結果は21万円でした。


やはり光雲彫刻、人気が高いというわけですね。今後も末永く愛され続けてほしいものです。


明日は光雲木彫を観て参ります。


【折々のことば・光太郎】

その無数に舞ひ落ちてくる雪片の動きを見つめてゐると眩暈をおこします。何だか気持ちのよい眩暈です。自分のからだが宙に浮くやうな気がします。

散文「雪解けず」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

7年間の蟄居生活を送った、雪深い花巻郊外旧太田村の山小屋での作です。「眩暈」は「めまい」です。

昨日に引き続き、信州安曇野の碌山美術館さん関連で。

過日、同館から贈っていただいた『碌山美術館報 第39号』。

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毎年、年度末に刊行される年刊ですが、毎号50ページを超える分厚いものです。今号は68ページもあります。ただ厚いというだけでなく、内容も充実。頭が下がります。

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過去の号でもそうでしたが、同館が顕彰する碌山荻原守衛の親友だった光太郎、そして智恵子についても言及されています。

ちなみにここ数年の号で、光太郎がらみを大きく取り上げて下さったもの → 第34号(平成26年=2014)第37号(平成29年=2017)第38号(平成30年=2018)

今号では、まず上記の表紙が守衛の代表作の一つ「坑夫」(明治40年=1907)の紹介。パリ留学中の習作で、これを見せられた光太郎が感銘を受け、ぜひ日本に持ち帰るように勧めた作品です。そうした経緯の説明が為されています。ご執筆は前館長の五十嵐久雄氏です。

それから同館の開館に奔走した荻原碌山研究委員会委員長 横沢正彦関連の記事で、昭和29年(1954)に東京芸術大学石井鶴三研究室から刊行された『彫刻家 荻原碌山』(光太郎が寄稿し、題字も揮毫)などに触れられています。

また、同館で昨秋行われた武井敏学芸員による美術講座「新しい女」の筆録。物心両面で守衛を助けた新宿中村屋創業者・相馬愛蔵の妻・黒光がメインですが、同じく明治から大正にかけに「新しい女」と称された平塚らいてう、伊藤野枝、松井須磨子らと並んで、智恵子についても詳しく言及されています。黒光や智恵子との関連で光太郎にも。

さらに、やはり昨秋の同館開館60周年記念行事の一環として開催された建築家・藤森照信氏によるご講演「碌山美術館の建築と建築家について」の筆録。講演で使われたスライドショーの図版も豊富に掲載されています。


ご入用の方は、同館まで。


【折々のことば・光太郎】

この小屋の中にはいろいろの有象無象が充満してゐますが、それらが消え去つたあとに、昔の人たちが出て来ていろいろ咡きます。最後に智恵子が出て来ます。食事の時でも執筆の時でも、僕はいつでも智恵子と二人ゐます。人間は死ねば普遍的になります。生きてゐる間は、対ひ合つてゐるだけの二人ですが、死ねばどこへでも現れます。

談話筆記「(今日はうららかな)」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

戦後の7年間、逼塞していた花巻郊外旧太田村の山小屋。そこに現れる「昔の人たち」の幻影。その中にはかつての親友、碌山荻原守衛の姿もあったのではないでしょうか。

光太郎の親友で、早世した碌山荻原守衛を顕彰する信州安曇野市の碌山美術館さん関連です。

まずはイベント情報。

第109回碌山忌

期   日 : 2019年4月22日(月)
会   場 : 碌山美術館  長野県安曇野市穂高5095−1
時   間 : 10:30~
料   金 : 無料

プログラム
 10時半~     ミュージアムトーク(碌山館)
 1時     ミュージアムトーク(第二展示棟)
 1時半~3時    碌山忌コンサート
 4時~      墓参
 5時20分~50分 碌山研究発表「『荻原守衛日記・論説集』の発刊と新発見」
          講師 武井敏学芸員
 6時~7時45分   碌山を偲ぶ会 会場 グズベリーハウス(会費1,000円)

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明治43年(1910)に、数え32歳で亡くなった守衛を追悼する碌山忌。109回めとなるそうです。

毎年、研究発表が行われており、今年は同館学芸員の武井敏氏による「『荻原守衛日記・論説集』の発刊と新発見」。『荻原守衛日記・論説集』は、昨秋、同館から刊行されたA4版ハードカバー、571頁という厚冊で、ほぼオールカラー。日記の部分は、日記そのものの画像が全頁掲載され、もちろん活字にもなっており、さらに詳細な注釈も。舌を巻くようなものすごい資料です。

同館では平成21年(2009)にカタログレゾンネ的な『荻原守衛作品集』、同27年には『荻原守衛書簡集』を刊行し、この『荻原守衛日記・論説集』をもって、守衛の作品、資料を網羅する三部作の完結と位置づけているとのこと。

ある意味、同書のプロモーション的な発表になるのでは、と思われます。

当方、昨年は雑用に紛れ、行けませんでしたが、今年は参上つかまつります。


もう1点、明日から開催の企画展。 

荻原守衛生誕140周年記念特別企画展 傑作《女》を見る

期   日 : 2019年4月20日(土)~9月29日(日) 会期中無休
会   場 : 碌山美術館第二展示棟  長野県安曇野市穂高5095−1
時   間 : 9:00~17:00
料   金 : 一般700円  高校生300円  小中生150円 
         障がい者手帳をお持ちの方は半額
         20名様以上団体料金 大人600円/高校生250円/小中生100円

1910年(明治43)年、荻原守衛(碌山)が亡くなる直前に完成させた《女》は、明治以降の彫刻では第1号となる重要文化財指定を受け、今日においても日本近代彫刻の傑作として評価されています。
腕を後ろ手に組みながら上体は天空に向うポーズの表現は、相克を象徴するかのように浪漫性に溢れ、膝から頭頂部へ繋がる螺旋状の上昇感は、荻原が求めていた彫刻の生命を余すことなく伝えています。
《女》には、荻原が思いを寄せた女性、新宿中村屋の女主人、相馬黒光(本名:良)の面影が心象のモデルとなって表れています。苦難の姿とその先にある穏やかな表情は、悲恋の絶望と苦しみを克服し、美の境地へと昇華した荻原自身の心の姿でもあります。
本展では、黒光への想いが制作背景にある《文覚》、《デスペア》の二作品にも触れ、傑作《女》に見る荻原の精神的な深さと芸術の高さ、またそれらの時代における新しさについて迫ります。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

しかし私は今、希望に満ちてゐます。山に来てから健康は倍加するし、未来の仕事は大きいし、独居自炊孤座黙念、胸のふくらむ思です。

散文「消息 二」より 昭和21年(1946) 光太郎65歳

空襲による二度の罹災で、数多くのものを失った光太郎。しかしかえってさばさばした思いでした。裸一貫やり直そう、みたいな。

最近の新聞各紙から、光太郎智恵子がらみの記事を紹介いたします。

まず、4月12日(金)の『東奥日報』さん。

十和田湖遊覧船が今シーズンの運航開始

 昨年11月から冬期間の運航を休止していた十和田観光電鉄(青森県十和田市)の十和田湖遊覧船が12日、湖畔休屋で運航を再開した。初日は台湾人観光客や招待客らが双胴船「第3八甲田」に乗り込み、雪残る山々のパノラマ、青みを増す初春の湖水に見入った。
 再開したのは休屋を発着し、御倉半島と中山半島を巡る約50分のコース。招待客が乗った午前11時45分発の53便ではセレモニーを行い、観光シーズン開幕を祝った。船は湖畔の「乙女の像」や、湖上に浮かぶ「恵比寿大黒島」といった名所近くを周遊した。
 別便で遊覧した台湾人の施正忠さん(50)は「雪のある景色がとても美しい。満足している」と笑顔をみせた。十鉄によると、2018年度の乗船客は、欠航が多かった影響で前年比約9千人減の11万人。うち外国人観光客は1万1千人と1割を占める。
 同社の白石鉄右エ門社長は「今年の目標は12万人。船の魅力を国内、外国のお客さまに合わせて伝えていきたい」と意欲を語った。
 19日からは休屋~子ノ口航路も再開し、11月まで1日最大18便を運航する。料金は大人1400円、子ども700円(団体割引あり)。

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カルデラの外輪山にあたる湖周囲の山々には、まだ雪。これから桜の季節なのでしょう。ぜひ足をお運びください。


お次は『福島民友』さん。翌4月13日(土)の記事です。

「桜生かし」まちづくり 二本松で全国シンポ、意見交わす

 全国の桜の保存団体や樹木医らが集う「全国さくらシンポジウム」は11、12の両日、二本松市で開かれた。県内外から約700人が参加し、「ほんとの空に さくら舞う」をテーマに桜を生かしたまちづくりや地域の振興について考えた。
 シンポジウムは、桜の名所づくりや花を核に自然豊かな地域づくりに取り組む日本花の会(萩原敏孝会長)と、同市の行政、観光団体などでつくる実行委員会の主催。本県では1988(昭和63)年の三春町に次いで2度目。
 芥川賞作家の玄侑宗久さんが「桜~『無常』と『あはれ』の花」と題して記念講演した。玄侑さんは、日本人が桜を好む理由について「物事の両極端を受け入れるのが日本人の心情。すぐに散りゆく無常さと花開いた際の『あはれさ』を1本の木で体験できる」と語った。
 パネル討論も行われた。日本花の会の和田博幸さんを進行役に、にほんまつ観光協会長の安斎文彦さん、県樹木医会の鈴木俊行さんらが桜を核にした二本松の魅力発信、桜の保存活動などについて意見交換した。
 最終日の12日は、参加者が二本松の桜の名所などを巡った。
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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)から採った復興の合い言葉「ほんとの空」を冠した「全国さくらシンポジウム」関連です。


同じく4月13日(土)の『日刊ゲンダイ』さん。ネットで見た記事ですが、紙面に掲載されたのかどうか。とりあえず引用させていただきます。

雄星に大谷に佐々木 なぜ岩手が“怪物”を3人も輩出できたのか

 単なる偶然なのか、それとも必然なのか。
 先日、岩手・大船渡高校の佐々木朗希(3年)がU18高校代表合宿で高校生史上最速の163キロをマーク。新たな怪物誕生にメディアは大騒ぎした。佐々木が誕生した岩手は大谷翔平(エンゼルス)と菊池雄星(マリナーズ)の出身地。わずか10年で3人の“怪物”を輩出したことになる。
「岩手の人沈深牛の如し 両角の間に天球をいだいて立つ かの古代エジプトの石牛に似たり 地を往きて走らず企てて草卒ならず ついにその成すべきを成す」
 詩人の高村光太郎は著書「岩手の人」で、岩手県民をこう表現した。牛のように慌てず一歩一歩前に進み、事を成し遂げる気質をつづったのだ。
■県民性、食文化、部活動
 県民性研究の第一人者で、㈱ナンバーワン戦略研究所所長の矢野新一氏は「普段は物静かながら、何かの瞬間に大きな力を発揮する傾向がみられる」と、こう続ける。
「岩手の県民性を実証する企画をテレビでやったことがある。リンゴをたくさん入れた紙袋を持ち、信号待ちしているときに、わざと転んでリンゴをこぼす。すると、のんびり信号待ちしていた人たちが一斉に走って来て、散らばったリンゴを拾い始めたのが印象的でした。岩手では外国人観光客のために作ったおもてなし対策の『10手』が盛り上がっている。何かの目標に向かって一生懸命になり、力を発揮する。長い冬は家にこもるという生活から時代が変化し、県全体に活気が出てきている点も見逃せない」
 食生活にもヒントがありそうだ。
 2016年度の総務省家計調査によると、岩手はわかめ、こんぶの消費量が全国1位。魚介類もよく食べる。ほうれんそう、大根が1位で、にんじん、ごぼうも上位。果物消費もトップだ。さらに、東北に限れば豆腐の消費量も1位。かつては多くの家庭で豆腐作りをやっていた名残という。
 横浜創英短期大学名誉教授の則岡孝子氏(管理栄養士)がこう言う。
「岩手の人たちはオールマイティーの栄養素を食事から取り入れているのでしょう。海のもの山のもの、寒い地域のものなど、栄養バランスが優れていると思います。スポーツ選手の筋肉の発達において、魚介類、豆腐などに含まれるタンパク質と、魚介類などに含まれるビタミンB6、B12を合わせて取ることで、よりタンパク質の代謝が良くなる。ビタミンB6、B12は体に保存できないだけに、タンパク質と一緒に摂取できるのはプラスです。野菜や果物はビタミンや食物繊維、海藻類は食物繊維やヨウ素が多く含まれるため、新陳代謝が高まり、より多くのエネルギーを発揮する効果がある。さらにカルシウム、鉄分が骨や体の成長を促します」
 スポーツへの関心も高い。
 岩手は全国高体連加盟登録状況によると、体育系の部に登録する生徒の加入率(平成30年8月)が60.8%で全国1位。男子中学生100人あたりの軟式野球部員は全国2位。男子高校生100人あたりの硬式野球部員数は全国5位だ(17年度)。
 岩手県教育委員会事務局・保健体育課統括課長の清川義彦氏は「中高の部活動はもちろん、スポーツに取り組む子供、指導者が一生懸命取り組むという土壌ができつつあるのではないか」と分析。岩手県内の高校野球の監督は、「昔から根気強く、純朴で真面目な生徒が多い。寒い時季にも熱心に運動に取り組み、競技力を高め、体をつくっていく取り組みが積み重なった結果だと思う」と話す。
 さまざまな要素が重なった結果、ダイヤモンドの原石が誕生したようなのだ。

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こちらは光太郎詩「岩手の人」(昭和24年=1949)が引用されています。この詩、岩手のスポーツ界が語られる際によく使われます。今年、釜石市などで開催されるラグビーW杯関係で『岩手日報』さん、平成28年(2016)の岩手国体にからめて『盛岡タイムス』さん、同年、競歩でリオ五輪に出場した花巻出身の高橋英輝選手を紹介する『岩手日日新聞』さん、やはり大谷選手がらみの『岩手日報』さん一面コラム「風土計」

なぜ岩手に”怪物”が現れるのか、ということで、いろいろ考察されていますが、当方は、歴史的に見て、やはり「蝦夷(えみし)」のDNAが色濃く残っているからではないかと考えます。平安時代の阿弖流為(アテルイ)はもちろん、源義経をかくまって鎌倉と対立した奥州藤原氏にも蝦夷の血が流れていましたし、下って室町時代のコシャマインや江戸時代の沙牟奢允(シャクシャイン)などのアイヌの首長ら、まつろわぬ人々のエネルギーというか、血に刻まれた反骨心というか、そういったものが21世紀になっても形を変えて現れているように思われますが、どうでしょうか。そうした岩手人の魂を光太郎は詩「岩手の人」に表したようにも思えます。


最後に昨日の『東京新聞』さん。一面コラム「筆洗」で、ノートルダム大聖堂の火災を取り上げ、光太郎に触れて下さいました。

筆洗 4/17

 「宿命」。古い塔内の暗い片隅の壁にそう深く刻まれていたそうだ。どうやら中世の人間が書いたものらしい▼その文字を見つけたのは作家のビクトル・ユゴーである。「宿命」の言葉に刻んだ人間の悲痛さを感じ取ったという。どういう人間が書いたのか。そこから着想を得て執筆したのが宿命に翻弄(ほんろう)される人々を描いた小説『ノートル=ダム・ド・パリ』(一八三一年)。塔とはパリのノートルダム寺院である▼ユゴーが見た言葉も消えうせたか。世界遺産ノートルダム寺院の大聖堂の大火である。尖塔(せんとう)や屋根が崩落するなど、甚大な被害が出た。市民の悲痛な顔。「宿命」と呼ぶには受け入れがたい現実である▼<あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、あなたにさはりたいばかりに、あなたの石のはだに人しれず接吻(せっぷん)したいばかりに>。パリ時代、大聖堂に毎日通ったという高村光太郎の「雨にうたるるカテドラル」。荘厳なる美と歴史。十二世紀着工の大聖堂はパリ市民のみならず、人類全体の宝であった。それが失われた▼修復工事中の失火が原因とみられている。フランス革命にも二度の世界大戦にも難を逃れた大聖堂が失火で炎上したとはなんという皮肉な宿命なのか▼喪失感の中にも再建の声が出ている。人類の宝であるなら人類全体で手を貸したい。再建と復活。それが大聖堂のこれからの宿命と信じる。


人類の宝であるなら人類全体で手を貸したい。」そのとおりですね。


【折々のことば・光太郎】

雪中生活の鮮新さ、小屋を取り巻く潮騒のやうな風声の物凄さ、皆生れて初めての体験です。この王摩詰が詩中の天地に、今日の場合、安全に生きてゐられるありがたさと済まなさとを痛感してゐます。勉強あるのみ。

散文「消息 一」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳


太平洋戦争が終結し、この年の秋、光太郎は鉱山の飯場小屋を譲り受けて、花巻郊外太田村に住み着きました。当初は、青年時代から絶えず希望していた、人里離れた自然に囲まれての生活の実現という、ある意味無邪気な夢想という面があり、そこで、王摩詰が語られています。王摩詰(王維)は唐代の詩人。西安郊外の輞川(もうせん)に隠遁し、芸術三昧の生活を送りました。

そして迎えた初めての厳冬。万年筆のインクも凍るマイナス20℃の寒さ、胸の高さまで積もる豪雪、吹雪の夜にはあばら屋の隙間から舞い込んで寝ている布団にうっすらと積もる雪……。それがやがて、戦時の翼賛活動で多くの若者を死に追いやったという反省に、光太郎を誘って行くのです。

昨日の午前中、パリからショッキングなニュースが。 

ノートルダム大聖堂で火災 93mの塔が焼け落ちる

 フランスのパリ中心部にある世界的な観光名所、ノートルダム大聖堂で15日午後7時ごろ(現地時間)、火災が発生し、教会の尖塔(せんとう)などが燃え落ちるなどの甚大な被害が出た。仏メディアによると、当時は大規模な改修工事が行われており、その足場付近から出火した可能性があるという。
 AFP通信によると、消防当局は火災は午後6時50分ごろに発生したと説明。現場では、大気汚染で汚れた聖堂をきれいにするための改修工事が数カ月前から行われており、屋根に取り付けられた足場部分から燃え広がった可能性があるという。火は屋根付近を中心に瞬く間に燃え広がり、大聖堂は炎と煙に包まれ、出火から1時間後には、高さ93メートルの尖塔も焼け落ちた。出火から4時間たった午後11時も燃え続けている。同日夜、現場で記者会見したローラン・ヌニェス内務副大臣は、「ノートルダムを救えるのか、現時点では見通しが立たない」と語った。消防士数人が負傷したという。
 セーヌ川に挟まれたシテ島に立つノートルダム大聖堂は、12世紀に建造が始まり、改修や増築を繰り返した。1991年には周辺の歴史的建築物などとともにユネスコの世界文化遺産に登録された。年間1200万人が訪れるパリ屈指の観光名所として知られ、日本人観光客も多く訪れる。
(『朝日新聞』)

夕方の報道では鎮火とのことでしたが、人的被害を含め、どの程度の被害が出たのか、まだ詳しいところがよくわかりません。既報では、尖塔が焼けて崩れ落ちたり、消火に当たった消防士の方が重傷を負ったりということだそうですが、亡くなった方はいないことを祈ります。

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ノートルダム000大聖堂といえば、エッフェル塔や凱旋門などと並ぶパリのシンボルの一つ。のみならず、フランスの道路原標はここに設置されていて、まさにパリはここから発展した場所でもあります。明治41年(1908)から翌年にかけ、欧米留学でパリに滞在していた光太郎も足繁く通いました。

右は、明治41年(1908)8月、パリの光太郎が、パリに移る前に滞在していたロンドンでの留学仲間だった彫刻家の畑正吉に送った大聖堂の絵葉書です。焼け落ちたという尖塔はこの裏側になります。

よく見ると、下の方、歩いている人物は写真以外に光太郎が描き込んでいます。さらに「こんな形で歩いてるんでせう」の一言も書き添えられています。

下って大正10年(1921)、光太郎はパリ時代を回想し、復刊成った与謝野夫妻の『明星』に、110行にもわたる長大な詩を寄稿しました。題して「雨にうたるるカテドラル」。「カテドラル」は仏語の「cathedrale」、「大聖堂」を意味します。

ちなみにこの詩は、光太郎に遅れてパリに留学、というか住み着いた東京美術学校の同級生・藤田嗣治を主人公とした映画「FOUJITA」(平成27年=2015)で引用されました。

     雨にうたるるカテドラル

 おう又吹きつのるあめかぜ。
 外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、
 あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
 毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。
 あの日本人です。
 けさ、
 夜明方から急にあれ出した恐ろしい嵐が、
 今巴里の果から果を吹きまくつてゐます。
 わたくしにはまだこの土地の方角が分かりません。
 イイル ド フランスに荒れ狂つてゐるこの嵐の顔がどちらを向いてゐるかさへ知りません。
 ただわたくしは今日も此処に立つて、
 ノオトルダム ド パリのカテドラル、
 あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、
 あなたにさはりたいばかりに、
 あなたの石のはだに人しれず接吻したいばかりに。
  
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 もう朝のカフエの時刻だのに
 さつきポン ヌウフから見れば、
 セエヌ河の船は皆小狗のやうに河べりに繋がれたままです。
 秋の色にかがやく河岸(かし)の並木のやさしいプラタンの葉は、
 鷹に追はれた頬白の群のやう、
 きらきらぱらぱら飛びまよつてゐます。
 あなたのうしろのマロニエは、
 ひろげた枝のあたまをもまれるたびに
 むく鳥いろの葉を空に舞ひ上げます。
 逆に吹きおろす雨のしぶきでそれがまた
 矢のやうに広場の敷石につきあたつて砕けます。
 広場はいちめん、模様のやうに
 流れる銀の水と金茶焦茶の木の葉の小島とで一ぱいです。
 そして毛あなにひびく土砂降の音です。
 何かの吼える音きしむ音です。
 人間が声をひそめると
 巴里中の人間以外のものが一斉に声を合せて叫び出しました。
 外套に金いろのプラタンの葉を浴びながら
 わたくしはその中に立つてゐます。
 嵐はわたくしの国日本でもこのやうです。
 ただ聳え立つあなたの姿を見ないだけです。
    
 おうノオトルダム、ノオトルダム、
 岩のやうな山のやうな鷲のやうなうづくまる獅子のやうなカテドラル、
 灝気(かうき)の中の暗礁、
 巴里の角柱(かくちゆう)、
 目つぶしの雨のつぶてに密封され、
 平手打の風の息吹(いぶき)をまともにうけて、
 おう眼の前に聳え立つノオトルダム ド パリ、
 あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
 あの日本人です。
 わたくしの心は今あなたを見て身ぶるひします。
 あなたのこの悲壮劇に似た姿を目にして、
 はるか遠くの国から来たわかものの胸はいつぱいです。
 何の故かまるで知らず心の高鳴りは
 空中の叫喚に声を合せてただをののくばかりに響きます。
  
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 出来ることならあなたの存在を吹き消して
 もとの虚空(こくう)に返さうとするかのやうなこの天然四元のたけりやう。
 けぶつて燐光を発する雨の乱立(らんたつ)。
 あなたのいただきを斑らにかすめて飛ぶ雲の鱗。
 鐘楼の柱一本でもへし折らうと執念(しふね)くからみつく旋風のあふり。
 薔薇窓のダンテルにぶつけ、はじけ、ながれ、羽ばたく無数の小さな光つたエルフ。
 しぶきの間に見えかくれるあの高い建築べりのガルグイユのばけものだけが、
 飛びかはすエルフの群(むれ)を引きうけて、
 前足を上げ首をのばし、
 歯をむき出して燃える噴水の息をふきかけてゐます。
 不思議な石の聖徒の幾列は異様な手つきをして互にうなづき、
 横手の巨大な支壁(アルブウタン)はいつもながらの二の腕を見せてゐます。
 その斜めに弧線をゑがく幾本かの腕に
 おう何といふあめかぜの集中。
 ミサの日のオルグのとどろきを其処に聞きます。
 あのほそく高い尖塔のさきの鶏はどうしてゐるでせう。
 はためく水の幔まくが今は四方を張りつめました。
 その中にあなたは立つ。
  
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 その中で
 八世紀間の重みにがつしりと立つカテドラル、
 昔の信ある人人の手で一つづつ積まれ刻まれた幾億の石のかたまり。
 真理と誠実との永遠への大足場。
 あなたはただ黙つて立つ、
 吹きあてる嵐の力のぢつと受けて立つ。
 あなたは天然の力の強さを知つてゐる、
 しかも大地のゆるがぬ限りあめかぜの跳梁に身をまかせる心の落着を持つてゐる。
 おう錆びた、雨にかがやく灰いろと鉄いろの石のはだ、
 それにさはるわたくしの手は
 まるでエスメラルダの白い手の甲にふれたかのやう。
 そのエスメラルダにつながる怪物
 嵐をよろこぶせむしのクワジモトがそこらのくりかたの蔭にに潜んでゐます。
 あの醜いむくろに盛られた正義の魂、
 堅靭な力、
 傷くる者、打つ者、非を行はうとする者、蔑視する者
 ましてけちな人の口(くち)の端(は)を黙つて背にうけ
 おのれを微塵にして神につかへる、
 おうあの怪物をあなたこそ生んだのです。
 せむしでない、奇怪でない、もつと明るいもつと日常のクワジモトが、
 あなたの荘厳なしかも掩ひかばふ母の愛に満ちたやさしい胸に育(はぐく)まれて、
 あれからどのくらゐ生れた事でせう。
   
 おう雨にうたるるカテドラル。
 息をついて吹きつのるあめかぜの急調に
 俄然とおろした一瞬の指揮棒、
 天空のすべての楽器は混乱して
 今そのまはりに旋回する乱舞曲。
 おうかかる時黙り返つて聳え立つカテドラル、
 嵐になやむ巴里の家家をぢつと見守るカテドラル、
 今此処で、
 あなたの角石(かどいし)に両手をあてて熱い頬(ほ)を
 あなたのはだにぴつたり寄せかけてゐる者をぶしつけとお思ひ下さいますな、
 酔へる者なるわたくしです。
 あの日本人です。


パリで伝統に裏打ちされた本物の芸術や、そこからさらに進んだ世界最先端の芸術に触れた光太郎。そこに限りない憧憬を抱きつつも、故国日本との目もくらむほどの落差を思い知らされ、打ちのめされました。そんな折には、ノートルダム大聖堂を訪れ、その石の肌に触れ、心を落ち着けたというのです。

もっとも、大聖堂あるいは焼け落ちたという尖塔に登った際には、進むべき道の困難さを感じての絶望に似た思いのあまり、幻覚に襲われたりもしていたようです。やはり留学仲間だった有島生馬の回想から。

 高村君はどうも神秘的な人で、吾々カムパーニユ街の仲間は「高村の神懸り」とあだ名をつけた。(略)時に姿を見せると、巴里の空を、ノトルダムの上から、飛べさうな気がした話や、セエヌ河が真つ赤な血を流してゐた話や、そんな神懸り的な事を真面目でぽつりぽつり云つた。

何はともあれ、光太郎にとって、パリといえば真っ先にノートルダム大聖堂。そこでの大規模火災ということで、胸が痛みますが、被害が壊滅的なものでないことを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

煮え返るやうな若い時代の連中で毎日進んで行くといふやうな時代だから、二三日遭はないと何処かしら解らなくなつて了ふといふ風な毎日を送つてゐた。だから殆と毎日遭つてゐたと言つていい位顔を会せて議論したり描いたりしたものだ。あんな猛烈な時代といふものは尠いだらうと思ふ。

談話筆記「回想録 二」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

パリから帰って、岸田劉生、木村荘八らと結成したヒユウザン会(のちフユウザン会)時代の思い出です。

まずは横浜から。

ロコさんの朗読会 春風にさそわれてよむ詩~「智恵子抄」~「ポケット詩集」

期 日 : 2019年4月19日(金)
会 場 : Kikcafe  神奈川県横浜市保土ケ谷区岩井町29-4
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 1,000円 ワンオーダー制
出 演 : ロコさん(石川弘子)
      まりこミュージアム読み会を経て2003年横浜を中心に小学校での読み聞かせ開始
      紙芝居劇場、大人のための絵本、朗読会活動を継続中

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ロコさんこと石川弘子さん、一昨年には世田谷の上用賀アートホールさんで開催された「真理パフェFourth」という公演の中でも「智恵子抄」を取り上げて下さり、当方、拝聴して参りました



続いて、北海道から。うっかりしていて当日になってしまいました。こういうイベントもあったんだということで

朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾講座 佐藤春夫『小説智恵子抄』を読む

期   日 : 2019年4月16日(火)
           札幌市中央区北2条西1丁目 札幌ANビル4階
時   間 : 10:30~12:00
料   金 : 1,944円
講   師 : 佐藤 雅子(朗読コーチ・フリーアナウンサー) 

これから朗読を始めてみようという方、少し経験のある方に。まず自分の自然な声を見つけましょう。腹式呼吸と息の使い方をしっかり覚えていただきます。高村光太郎の詩集『智恵子抄』をもとに佐藤春夫が紡いだ二人の物語『小説智恵子抄』。「あれが阿多多羅山…」で始まる有名な詩「樹下の二人」をモチーフにした場面を選び、朗読を楽しみます。


『小説智恵子抄』は、光太郎が亡くなった昭和31年(1956)から翌年にかけ、雑誌『新女苑』に「愛の頌歌(ほめうた) 小説智恵子抄」の題で連載されたものです。昭和32年(1957)、実業之日本社から刊行され、角川文庫のラインナップにも入りました。KADOKAWAさんのサイトで検索するとヒットしますので、絶版となっているわけではないようです。

著者は、「連翹忌」の名付け親にして、明治末から光太郎に親炙した佐藤春夫。光太郎を直接知る人物のそれだけに、光太郎智恵子の姿が実に生き生きと描かれています。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん主演)は、「原作」としてこの「小説智恵子抄」をクレジットしています。


来月には、サントリーホールで、当会会友・一色采子さんによる「智恵子抄」朗読も行われます(また近くなりましたらご紹介します)。朗読系の皆さん、どんどん取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

私は歳といふものを殆と気にとめてゐない。実は結婚する時自分の妻の年も知らなかつた。妻も私が何歳であるか訊きもしなかつた。亡くなる五六年前に一緒に区役所に行つて、初めてその時妻の年を知つたが、三つ位しか違はぬことが分つた。私は現在目の前にあるものを尊しと思ふ。

談話筆記「回想録 一」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

光太郎智恵子、やはりある意味豪快な夫婦でした。

結婚する時」は、上野精養軒で結婚披露宴を行った大正3年(1914)、「一緒に区役所に行つて」は、智恵子の統合失調症がのっぴきならない状態になって、ようやく入籍をした昭和8年(1933)のことです。

当会の祖・草野心平を顕彰するいわき市立草野心平記念文学館さんの企画展です。 

企画展「草野心平 蛙の詩」

期    日 : 2019年4月13日(土)~6月30日(日)
会    場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
時    間 : 9時から17時まで
料    金 : 一般 430円(340円)/高・高専・大生 320円(250円)
        小・中生 160円(120円) ( )内は20名以上団体割引料金
休 館 日 : 月曜日(4/29・5/6は開館)

 草野心平の創作における代表的な主題の一つが「蛙」です。1928年に刊行した初の活版による詩集『第百階級』収録作品をはじめ、彼は蛙を主題にした詩を200篇以上つくりました。
 本展では、心平が蛙の詩を創作した背景、そして様々な解釈によって読者の感性に問いかける表現手法などを、関連資料や彼自身による作品への言及から解説し、その魅力をあらためて紹介します。

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関連イベント等

ギャラリートーク   5月11日(土) 6月1日(土)  13 時30 分 要観覧料

スポット展示「猪狩満直」  4月6日(土)〜6月30日(日)
いわきゆかりの作家で、草野心平とも交友があった猪狩満直の生涯と作品の魅力を紹介。

記念講演会  「草野心平と蛙の詩をめぐって」  5月12日(日)  14:00~15:00
講師 齋藤貢氏(詩人・歴程同人)

文学散歩  「草野心平ゆかりの川内村をめぐる」  6月16日(日) 9:00~16:00
天山文庫をはじめ、モリアオガエルの生息地・平伏沼などをめぐります。
マイクロバスで移動(徒歩移動も含む) 定員20名 有料 要予約


というわけで、改めて心平詩の真骨頂である蛙の詩が取り上げられます。すると、光太郎とも密接な縁。

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まず、昭和3年(1928)の『第百階級』(銅鑼社)。活版印刷による心平第一詩集にして、全編蛙の詩です。こちらに光太郎が序文を寄せています。

 詩人とは特権ではない。不可避である。
 詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。云々なるが故に、詩人の特権を持つ者ではない。云々ならざるところに、既に、気笛は鳴つてゐるのである。(略)
 詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。

トウル デスプリ」は仏語で「tour d'esprit」。「性格」「傾向」と言った意味です。

次に、昭和13年(1938)の『蛙』(三和書房)。装幀と題字揮毫が光太郎です。題字揮毫は昭和26年(1951)の『定本蛙』でも(表紙でなく扉)。

おそらく、展示ではそういった点にも触れて下さっているのではないでしょうか。

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また、スポット展示で取り上げられる猪狩満直も、光太郎が高く評価した詩人です。光太郎は雑誌『南方詩人』第6輯(昭和5年=1930)に寄せた散文「猪狩満直詩集「移住民」に就て」で、こう述べています。

此の北地に闘つてゐる人のまぎれのない声は、どんなジヤスチフイケイシヨンがあらうとも結局まだ中途に立つてゐる私などの腹わたに強くこたへる。私は其をまともに受ける。かういふ強さは、ひねくれた強さでないから、痛打を受ける事が既に身になる。

『移住民』は、前年に北海道阿寒に移っての開墾生活を題材とした猪狩の詩集です。


さらに、6月には川内村への文学散歩も企画されています。


ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

これから私の本当の彫刻がいくらでも生まれる。過去よ去れ、過去よ消えよ。今こそ破算と創建との切換の自然到来。私の仕事はこれからであり日本の美しい美が私を待つて其処にゐる。

散文「仕事はこれから」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

4月13日の空襲で、亡き智恵子と過ごしたアトリエ兼住居が全焼。近くにあった妹の婚家に避難していた時の文章です。5月には、宮沢賢治の実家からの誘いで花巻に疎開。妹の婚家は光太郎が去ってからの空襲でやはり全焼しました。

「仕事はこれから」と言っても、空元気の感が拭えませんね。実際、この後、結核による臥床や敗戦、花巻郊外太田村への移住、そして戦時の翼賛活動を恥じての蟄居など、さまざまな流転を重ねることになり、「本当の彫刻がいくらでも生まれる」という事態にはなりませんでした。

4月11日(木)、文京区立森鷗外記念館さんの特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」、田端文士村記念館さんの「恋からはじまる物語~作家たちの恋愛事情~」展とハシゴした後、渋谷に向かいました。

目指すは渋谷区文化総合センター大和田さん内の渋谷伝承ホール。

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こちらで劇団Yプロジェクトさんのプロデュース公演「ブーケdeコンセール 詩劇と音楽」を拝見。

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2部構成で、第1部が「ラフマニノフの抒情(ロマン)」。八谷晃生さんという方によるピアノで、ロシアのセルゲイ・ラフマニノフの「プレリュードニ長調Op.23-4」と「ピアノソナタ2番Op36変ロ長調」の2曲が演奏されました。曲目の通り第2部へのプレリュード(前奏曲)的な感じでした。

そして第2部が「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」。事前の告知で、内容的には光太郎の生涯を追う、というのは何となくわかりましたが、それをどう料理するのかまではわかっていませんでした。開演前にいただいたパンフレットを見ましたところ、出演される役者さんたちの一言ずつやプロフィールなどが。1チーム8人ずつ、2チームが交互に3日間で6公演、当方が見たのはBアクトさん(下記画像右半分の皆さん)による公演です。

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Aアクトさんを含め、「高村光太郎という芸術家の生涯を少しでも伝えられたら」、「様々な表現で高村光太郎の生涯をキャスト一丸になりお伝えします」、「光太郎という人間を全身で感じていただけると感激です」といった記述。キャスト名は書かれていません。代わりに、「劇中で語られる人物紹介」ということで、光太郎の父・光雲にはじまり、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」一帯の公園設計を担った谷口吉郎まで、50名超の名が(ただ、宮沢賢治など、この欄に抜けている人物も実際には居ました)。

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「語られる人物」であってキャストというわけではないのだろう、と思って読んでいましたところ、第2部開演。

舞台は基本、暗がりです。椅子が8脚並べられ、黒づくめの役者さんたちが座っています。第1部でピアノ演奏をなさった八谷さんがBGM的に舞台下手(しもて)隅でピアノ演奏(これがうるさすぎず、適度な音量で豊かに情感を添え、絶妙でした)。役者さんたちは、一人ずつ前に出て来て、光太郎詩文の朗読やナレーションによる状況説明。そこだけスポットが当たるようにしてありました。お一人の担当部分が終わる頃、次の役者さんが出て来てバトンタッチ。基本、その繰り返しでした。つまり、全員が光太郎というわけで、だから上記「一言」でああしたご発言だったのかと納得いたしました。

役者さんたち、それぞれに熱のこもった語りで、8人がめまぐるしく交替することで変化も生じ、当然ながら取り上げる詩文によって語り口を変え、ぐいぐい引き込まれました。単なる語りだけでなく、最小限ではありましたが動きも入り、視覚的効果も考えられていました。

前半は「智恵子抄」収録の詩篇を軸に、光太郎智恵子の純愛のドラマ的な。「なるほど、無難にまとめているな」という感でした。しかし、後半、智恵子歿後になって、ある意味、意外な展開となります。特に太平洋戦争開戦後に光太郎が大量に書き殴った翼賛詩が、かなりの数、取り上げられました。通常、演劇等で光太郎が扱われる場合、この時期はさらりと流されるのが普通です。光太郎の人生最大の汚点であるわけで(この時期こそが憂国烈士・光太郎の真骨頂、とする愚か者も多くて困っているのですが)、扱いが難しいというのが理由でしょう。

しかし、今回の公演では陰惨な、空虚な、安直な、浅薄な、愚劣な、こけおどし的な、がらんどうな、悪魔的な、紋切り型の、子供だましの 、狂気さえ感じる、罪深い翼賛詩の数々が語られました。順不同ですが、「十二月八日」、「さくら」、「シンガポール陥落」、「必死の時」、「琉球決戦」、「軍艦旗」など。光太郎に余り詳しくない観客の方々は、かなり意外の感を持たれたのではないでしょうか。

このあたりにじっくり焦点を当てる演劇は少なく、類例を挙げれば、当会会友・渡辺えりさんの脚本になる「月にぬれた手」(平成23年=2011)くらいでしょうか。木野花さん演じる老婆が光太郎に投げつけた「戦争中にこいづが書いた詩のせいでよ、その詩ば真に受げて、私の息子二人とも戦死だ。」「おめえがよ、そんなにえらい芸術家の先生なんだらよ。なしてあんだな戦争ば止めながった? なしてあおるだげあおってよ。自分は生ぎでで、私の息子だけ死ねばなんねんだ。」という台詞がありました。

といって、今回の公演も、単に光太郎をディスるだけでなく、光太郎同様に、或いはそれ以上に軽々しく大政翼賛に走った文学者たちも語られ、さらに戦後にはそういった面々が無節操な豹変ぶりをやらかしたこともやり玉に挙げていました。そして一人光太郎のみ、花巻郊外旧太田村での不自由な蟄居生活――「自己流謫(るたく)」――「流謫」は「流罪」に同じ――で、自らの罪に向き合ったことも語られました。この時代こそが、ヒューマニスト光太郎を語る上で最も重要な時期なわけで、ここをしっかり描いて下さったのもありがたいところでした。

終末は再び「智恵子抄」。「樹下の二人」(大正12年=1923)で、幕。

あらためてパンフレットを読み返してみると、最初のページに「光太郎の言葉に触れることは、時代の分節点にある今日、何かを教えてくれるのではないでしょうか」とありました。なるほど、と思いました。

終演後のホワイエ。

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急いで帰る都合があり、役者さんのお一人とだけ少しお話しさせていただき、名刺をお渡しして帰りました。

すると、昨日、脚本・演出を担当された小野寺聰氏から、自宅兼事務所にご丁寧にお電話がありまして、上記のような感想をお伝えし、その他いろいろお話しさせていただきました。そういうケースも珍しいので、恐縮いたしました。役者さんたちは、いろいろな劇団などから集まった特別編成だそうで、今のところ再演の予定はないというお話でした。ただ、光太郎の生き様的な部分に感銘を受けた役者さんもいらして、さらにちゃんとやりたいみたいなお話もあったそうです。期待したいところです。


以上、都内レポート終わります。


【折々のことば・光太郎】

今更罹災の体験などと改まつてきかれると変なもので、私などは独身者の事とて万事が簡単至極である。罹災者達の中には病人や老幼者をかかへて敢闘した人達も多い事と思ふが、さういふ人達に対して深甚の同情を禁じ得ない。
散文「罹災の記」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

この年4月13日(昨日ですね)の空襲で、亡き智恵子と過ごした駒込林町25番地のアトリエ兼住居は灰燼に帰しました。自らも既に老年に入っていた光太郎、自分はともかく「病人や老幼者をかかへて敢闘した人達」への気遣いを優先させています。しかし、同じ文章の終末では「敵の腰砕け、敵の気力折れ尽きるまで、戦に冷徹して、神明からうけた大和民族の真意義を完たからしめねばならない」とも発言しています。

その愚昧さに気づくまで、あと数ヶ月を要します。

一昨日、文京区立森鷗外記念館さんで特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」を拝見した後、歩いて北東方向へ。

少しだけ回り道をして、明治44年(1911)、平塚らいてうが雑誌『青鞜』を世に送り出した「「青鞜社」発祥の地」(現在はマンション)へ。『青鞜』発起人の一人、物集和子の旧宅があった場所で、智恵子が表紙絵を描いたその創刊号の頃は、ここが発行所の住所となっていました。区の建てた案内板には光太郎智恵子の名も。

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それから裏通りに入って、光太郎実家跡(現在建て替え工事中)、保健所通り(銀行通り)に出て、光太郎アトリエ跡(現在は個人宅)前を過ぎ、道坂上まで出て、右折。田端方面へと歩を進めました。

めざすは田端駅近くの、田端文士村記念館さん。

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こちらでは、今年の2月から「恋からはじまる物語~作家たちの恋愛事情~」展が開催されています。

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同館は、(公財)北区文化振興財団さんの運営になるもので、田端で活躍した文士・芸術家の功績を通じて「田端文士芸術家村」という歴史を、後世に継承して行くことを目的として平成5年(1993)に設立。メインは芥川龍之介ですが、光太郎智恵子、そして光太郎の父・光雲、光太郎実弟・豊周らと関わりのあった人々も多く含みます。

日本女子大学校での智恵子の一級上の先輩で、テニス仲間だった平塚らいてうもその一人。大正7年(1918)から同12年(1923)まで、同館近くに一家で住んでいました。既に「若いツバメ」奥村博史と結婚(入籍は昭和16年=1941までせず)、長女・曙生(あけみ)、長男・敦史(あつふみ)を授かり、苦しいながらも充実した生活を送っていた時期です。『青鞜』はすでに休刊、この頃は市川房枝らと「新婦人協会」の活動に当たっていました。

さて、「恋からはじまる物語~作家たちの恋愛事情~」。やはりメインは芥川とその妻・文でしたが、らいてうと博もかなり大きく取り上げられていました。

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とても気丈な女性だったというイメージのらいてうが、こと博史との恋愛に関しては、純情乙女的になってしまっていた感があり、ほほえましく思われました。この夫婦は博史が亡くなる昭和39年(1964)まで仲睦まじかったというイメージなので、そう思えるのかも知れませんが。

ちなみに改めてらいてうの年譜を調べていたら、昭和35年(1960)、博史と二人で安達太良山麓の岳温泉を訪れ、さらに既に人手に渡っていた智恵子の生家も訪れていたことがわかり、驚きました。その際、二人でどういう話をしたのかなど、興味深いところです。ちなみにこの時らいてう満74歳、博史は68歳でした。

その他、東京美術学校で光太郎の父・光雲に木彫を学んでから陶芸に転身した板谷波山とその妻・まる。この夫妻もなかなかドラマチックです。平成16年(2004)には、映画「HAZAN」(榎木孝明さん、南果歩さん主演)にもなりました。ちなみに「HAZAN」、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市でもロケが行われたはずです。

さらに佐多稲子、窪川鶴次郎、竹久夢二など、回り回って光太郎智恵子と関わる人物も取り上げられていました。

同展は5月6日(月)まで。ありがたいことに入館無料です。ぜひ足をお運び下さい。

この後、田端駅から山手線で渋谷へ。渋谷区文化総合センター大和田内の渋谷伝承ホールさんで、「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」。を拝見して参りました。明日はそちらをレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

自著の書籍を送つて返事の無いのをひどく気にするのは他人の都合を無視して自己の人情にのみ執する事である。丁度その時急病人のあることもあらうし、仕事に夢中になつてゐることもあらう。ともかく自分の書籍を人に贈ることは人の生活の中へ割りこむことである。

散文「某月某日」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

と言いつつ、光太郎はかなりまめに送られてきた書物への礼状をしたためています。しかし、自分が書物を贈った場合には、その礼状等を期待しないというのです。読んでいただくのだから、というわけで、同じ文章には「丁寧な礼状などをもらふと、其はあべこべですと述べたくなる」と書いています。

昨日は都内3ヶ所を廻っておりました。

まず、千駄木の文京区立森鷗外記念館さん。こちらで特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」を拝見。

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左は団子坂からではなく区立第八中学校さんの方から上がっていった正面玄関。敷石部分は戦災で消失する前からあった鷗外旧宅「観潮楼」時代のもの。右は館入り口の扉です。

与謝野晶子は、新詩社における光太郎の師ともいえる姉貴分。『青鞜』の表紙絵を智恵子に依頼した平塚らいてうは日本女子大学校での智恵子の一学年先輩にしてテニス仲間。早逝した樋口一葉は光太郎智恵子と直接の関わりはなかったようですが、光太郎は同じく早逝した実姉・さく(咲子)の風貌が一葉に似ていたと回想しています。

そして森鷗外は、東京美術学校で教壇に立っていたこともあり、光太郎は美学の授業を受けました。その後も観潮楼歌会に参加していますが、どうも近所に住んでいながら敬して遠ざけるという面があったようです。しかし鷗外の方では、「しょうがない奴だ」と思いつつも光太郎の才を認め、かわいがっていた部分があります。

その鷗外は、一葉、晶子、らいてうそれぞれも高く評価していました。

樋口一葉さんが亡くなつてから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。晶子さんは何事にも人真似をしない。(略)晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。(「与謝野晶子さんに就いて」 『中央公論』第27年第6号 明治45年=1912)

「明子」はらいてうの本名「明(はる)」から。

そこで今回の展示は、彼女たちの代表的な業績を象徴する品々や、鷗外やその周辺人物と三女性とのかかわりに関する資料などが並んでいました。

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光太郎智恵子に関わる展示物も複数。興味深く拝見しました。

図録が作成されており、購入。税込み860円とお買い得です。尾形明子氏(文芸評論家)、出口智之氏(東京大学准教授)、三枝昂之氏(歌人・山梨県立文学館館長)など、執筆陣も豪華です。三枝氏と尾形氏は、この後、同展の関連行事として講演をなさいます。

 講師:三枝昻之氏(歌人・山梨県立文学館館長)   
 日時:62日(日)14時~1530

講演会2「森鷗外と新しい女たち」
 講師:尾形明子氏(文芸評論家)  
 日時:68日(土)14001530

また、関連行事の扱いにはなっていないようですが、以下も予定されています。

 講師:倉本幸弘氏(森鴎外記念会常任理事)  
 日時:5月30日(木)10時30分~14時

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それぞれ申し込みは同館まで。ぜひどうぞ。

この後、田端方面へ。以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

思ひつきばかりの自己流は案外脆いし、叡智の欠けた継承は生命を捉へ得ない。
散文「某月某日」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

この年、東京府美術館で開催された「皇太子殿下御誕辰記念日本近代美術館建設明治美術名作大展示会」を見ての感想です。

というわけで造形美術に関する発言ですが、文学、音楽等、あらゆる芸術に当てはまるような気もします。

NHKさんの大河ドラマ「いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~」。視聴率的には厳しい状況だそうですし、レギュラー出演者の逮捕などのケチもつきましたが、当方は毎週楽しく拝見しております。

先週は統一地方選挙速報の関連で放映が休止でしたが、今週の第14回から新章に突入します。 

いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~ (14)「新世界」

NHK総合 2019年4月14日(日) 20時00分~  再放送 2019年4月20日(土) 13寺05分~
NHK BSプレミアム  2019年4月14日(日) 18時00分~

ストックホルムから帰国する四三(中村勘九郎)。報告会で大勢の高師の仲間が健闘を称える中、敗因を厳しく問いただす女性が出現。永井道明(杉本哲太)の弟子・二階堂トクヨ(寺島しのぶ)である。同じ頃、孝蔵(森山未來)は四三とは逆に東京から旅立とうとしていた。円喬(松尾スズキ)とは別の師匠について地方を回るのだ。自分は円喬に見限られたと落ち込む孝蔵。しかし、出発のとき、新橋駅に円喬が駆けつけて−

出演
中村勘九郎,綾瀬はるか,生田斗真,永山絢斗,満島真之介,山本美月,近藤公園,武井壮,森山未來,神木隆之介,
橋本愛,荒川良々,峯田和伸,松尾スズキ,柄本時生,杉本哲太,中村獅童ほか

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明治45年(1912)のストックホルムオリンピック編が終わり、時代は大正へと移ります。そして新キャストが続々登場。

その一人が永島敏行さん演じる武田千代三郎。

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以前にもご紹介しましたが、元青森県知事で、十和田湖の景観に打たれ、道路の開墾等に尽力しました。そのため、雑誌『太陽』で初めて十和田湖の美しさを世に広めた大町桂月、武田に協力して十和田湖周辺の整備に力を尽くした法奥沢村長・小笠原耕一と共に、「十和田の三恩人」と讃えられました。

昭和28年(1953)に除幕された、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、元々周辺の国立公園指定15周年を記念し、「十和田の三恩人」を顕彰するためのモニュメントとして作られたものです。

右は「乙女の像」除幕式の際に、関係者に配られた光太郎による記念メダルの石膏原型。肖像は大町桂月ですが、武田の名も刻まれています。

青森県知事退任後、武田は大日本体育協会副会長に就任。箱根駅伝の開催に取り組み、「駅伝」の名付け親ともなります。

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もう一人、「この人も出るか!」と驚いたのが、二階堂トクヨ。演じられるのは寺島しのぶさんです。

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二階堂は宮城県三本木町(現・大崎市)の出身です。地元の小学校で准訓導として教壇に立ちながら宮城県の師範学校入学を目指していましたが、明治28年(1895)、同県では女教員は休みが多い、能率が上がらないなどの理由で女教員廃止決議が採択されてしまいました。そこで、隣接する福島県師範学校に入学しようとしましたが、こちらは福島県に籍が無ければ不可。そこで、初代福島民報社長にして国会議員でもあった小笠原貞信の養女となり、小笠原姓となりました(のちに「二階堂」に復姓)。

そしてめでたく福島師範を卒業し、赴任したのが智恵子の母校・安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校でした。明治32年(1899)、智恵子は高等科に在学中で、トクヨは智恵子の6歳下の妹・ミツ(尋常科2年)の担任となりました。さらにそれだけでなく、トクヨは智恵子をかわいがり、智恵子は友人と共にトクヨの下宿を訪ねたり、一緒に安達ヶ原を散歩したりしたとのこと。

向学心溢れるトクヨは、さらに同33年(1900)には東京女子高等師範に進学しました。この際には智恵子の実家・長沼家が資金援助を行ったらしいとのこと。智恵子との直接の関わりは1年間だけでしたが、智恵子は強烈な印象をトクヨから受けました。同じように油井小学校で教壇に立った後に日本女子大学校に進学した服部マスもおり、智恵子が日本女子大学校に進む希望を固めたのは、この2人の影響が大きいようです。

智恵子が日本女子大学校に進んだのは明治36年(1903)、この年、トクヨは女高師の最終学年でした。記録は確認できていませんが、おそらく、上京した智恵子はトクヨと再会し、久闊を叙しただろうと推定されます。

翌年、女高師を卒業したトクヨは、金沢の高等女学校に赴任。ここで体操の授業を持たされたことがきっかけで、体育のスペシャリストになっていきます(本来の専門は国語だったそうですが)。明治44年(1911)には、母校の助教授となり、大正元年(1912)には、英国留学。その際、横浜港には智恵子、さらに光太郎も見送りに現れたそうです。同4年(1915)に帰国、東京高師教授就任、同11年(1922)、二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)設立……すごい女性ですね。

ちなみにここまで、佐々木孝嘉氏著『ふるさとの智恵子』(昭和53年=1978 桜楓社)を参考にさせていただきました。

「いだてん」。このトクヨの活躍も楽しみにしつつ、拝見したいと思います。皆様もぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然は人をつくる。この霊峰の此の偉容に毎日毎朝接してゐる上高下の部落は幸である。
散文「日本の母」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

「霊峰」は富士山。「上高下」は、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため訪れた、山梨県南巨摩郡穂積村。現在の富士川町上高下(かみたかおり)地区です。

ここは冬至の前後、日の出が富士山頂付近からのぼる「ダイヤモンド富士」の名所としても有名です。

昨日に引き続き、智恵子の故郷・福島二本松から。参加申し込み受付は既に終わっているのですが、こういうイベントもあるんだ、ということで。 

2019全国さくらシンポジウムin二本松~ ほんとの空に さくら舞う ~

期   日 : 2019年4月11日(木) ・12日(金)
会   場 : 二本松市民会館 福島県二本松市榎戸1丁目92番地 他

時   間 : 4/11(シンポジウム)13:30~17:00  4/12(現地見学会)8:30~12:30
料   金 : 無料
主   催 : 日本花の会

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プログラム

4月11日(木) シンポジウム
 会場 : 二本松市民会館(福島県二本松市榎戸1-92)
  ◆オープニングアトラクション 13:30~14:00
   樋口 達哉 (オペラ歌手・二本松市観光大使)
  ◆開会セレモニー 14:00~14:30
  ◆記念講演 14:30~15:30
     演題 : 桜 ~「無常」と「あはれ」の花  講師:玄侑 宗久 (作家)
  ◆パネルディスカッション 15:40~16:40
     テーマ : 「ほんとの空に さくら舞う」桜の郷二本松を目指して
     コーディネーター : 公益財団法人日本花の会 主幹研究員 和田 博幸
     パネリスト : にほんまつ観光協会、合戦桜のしだれ桜 保存会、福島県樹木医会
  ◆次回開催地紹介・代表者あいさつ 16:40~17:00   岐阜県恵那市
  ◆閉会

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4月12日(金) 現地見学会
 さくら色に染まる街へ。2つのコースをご用意しました。
 ●コース① 霞ヶ城公園→智恵子の生家→万燈桜→道の駅「安達」
 ●コース② 安達ヶ原ふるさと村→中島の地蔵桜→合戦場のしだれ桜
       →道の駅「さくらの郷」
 ※参加費無料。
 ※各コースとも募集定員40名様(最少催行人員20名様)。
 ※両コースとも8:30に霞ヶ城公園集合。
 ※解散時間は、コース①は12:00、コース②は12:30の予定です。
 ※天候や道路状況により行程に変更が生じる場合があります。予めご了承ください。


おそらく全国から参加される方がお集まりになると思われます。智恵子の故郷、「ほんとの空」のある街の魅力をぜひ堪能し、それぞれの地元でその情報を広めていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

日本でも人は猛暑のさなかにモオニングを着たり背広を着たり、つめ襟を着たりする。又それに順応するやうに人は錬成せられる。わたくしのやうな者はその錬成に於ける落伍者である。

散文「一夏安居の弁」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

「一夏安居」は仏教用語で「いちげあんご」と読みます。「夏安居」で、「僧が、夏(げ)の期間、外出せずに一所にこもって修行をすること」という意味で、「一」がつくと「90日間」というスパンが付加されます。

まあ、光太郎は敬虔な仏教徒だったわけではありませんので、それになぞらえ、不要不急の外出を避け、夏の暑さに弱い身を養う習慣だというわけです。

クールビズという習慣が広まる前は、まさに「猛暑のさなかにモオニングを着たり背広を着たり、つめ襟を着たり」という不合理があたりまえでしたね。ところが、クールビズはクールビズで、運用が難しいようです。4月からクールビズ期間という事業所もあるのですが、今日あたりは寒いのでネクタイを締めていた方が合理的です。しかし、「ネクタイを締めている職員とそうでない職員が混在していてはおかしい」のだそうで、ネクタイ禁止とのこと。結局、横並びでなければ気が済まない民族なのでしょうか。

智恵子の故郷・福島二本松。市内各所に桜の名所が点在しています。

同市の『広報にほんまつ』今月号から。

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「ほんとの空に さくら舞う」。このコピーをテーマに冠した「2019全国さくらシンポジウムin二本松」が、4月11日(木)に開催されますが、そちらの情報は明日ご紹介します。

今日は智恵子の生家・智恵子記念館さんでの「高村智恵子生誕祭」。智恵子の誕生日は5月20日ですが、4月、5月と2ヶ月かけて、さまざまな企画が予定され、一部既に始まっています。

高村智恵子生誕祭

智恵子の生家 2階特別公開
 期  日 : 2019年4月6日(土)~5月6日(月)の土日・祝日
 場  所 : 二本松市智恵子の生家
           福島県二本松市油井字漆原町36
 時  間 : 午前の部 9時00分から12時00分
            午後の部 13時00分から16時00分
 料  金 : 大人(高校生以上) 個人:410円 団体:360円  
        子供(小・中学生) 個人:200円 団体:150円
         ※団体料金は20名以上の利用 智恵子記念館観覧料も含みます

智恵子の「紙絵」の実物展示
 期  日 : 2019年4月27日(土)~5月28日(火)
 場  所 : 二本松市智恵子記念館 福島県二本松市油井字漆原町36
 時  間 : 午前9時~午後4時30分
 料  金 : 大人(高校生以上) 個人:410円 団体:360円
        子供(小・中学生) 個人:200円 団体:150円
         ※団体料金は20名以上の利用  智恵子生家観覧料も含みます
 休 館 日  : 水曜日
 奇跡といわれる実物の紙絵をぜひご覧ください。


上川崎和紙で作ろう切り絵体験
 期  日 : 2019年5月11日(土) 12日(日) 18日(土) 19日(日)
         25日(土) 26日(日)
 場  所 : 二本松市智恵子の生家「奥座敷」 福島県二本松市油井字漆原町36
 時  間 : 9:00~16:00 ※所要時間は10~20分程度 お一人様1回限り、
                 材料がなくなり次第終了
 料  金 : 無料 (入館料に込み)
 内  容 : 智恵子の紙絵をモチーフとした切り絵、上川崎和紙を使用したハガキ・
          しおりの制作
 問  合  : 智恵子記念館☎0243(22)6151  文化課文化振興係0243(55)5154
 

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公共交通機関を利用される場合、臨時バスが出ています。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

わたくしの体細胞の無限の先祖は、おそらく少くとも海抜一万尺以上の高原地帯の乾いた空気の中の生活に順応するやうに長い間馴らされてゐたものと見える。
散文「七月の言葉」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

夏の高温と湿度を極端に苦手としていた光太郎。中央アジアの乾燥帯あたりを夢見ていたのでしょうか。

先週、日比谷公園松本楼様で、光太郎を偲ぶ第63回連翹忌を開催いたしました。その際に参会者の皆さんにお配りした資料等をご紹介します。

013まず、手前味噌ですが、当会発行の『光太郎資料51』。B5判ホチキス留め、手作りの小冊子ですが、内容は濃いと自負しております。元々、当会顧問の北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺を旨として不定期に発行されていたもので、その名跡を譲り受けました。4月の連翹忌にかぶせて1回、10月の智恵子忌日・レモンの日に合わせて1回と、年2回刊行しております。当方編集になって15冊目です。

今号は、以下の内容です。

・ 「光太郎遺珠」から 第十五回 智恵子(二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、智恵子歿後の智恵子に関する光太郎作品をまとめました。

・ 光太郎回想・訪問記  「高村光太郎の思い出」 富士正晴/「高村光太郎 温かく大きな手」    遠山 孝
これまであまり知られていない(と思われる)、戦前、戦中の光太郎回想文。短めのものを2篇載せました。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の見世物(その二)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第二巻第十号(昭和3年=1928)。光太郎の父・光雲を含む各界の著名人による座談会筆録から。

・ 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十五回  法師温泉
見つけるとついつい購入してしまう、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書を用い、それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今回は、大正末から昭和初めにかけて、光太郎が4回ほど足を運んだ群馬県の法師温泉。明治28年(1895)に建築された、フランス風の飾り窓を持つ建築です。昭和56年(1981)には、当時の国鉄が発売した「フルムーンパス」のポスターやCMで、上原謙さんと高峰三枝子さんが熟年夫婦を演じられ、話題となりました。

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・ 音楽・レコードに見る光太郎 「真珠港特別攻撃隊」(その一)
昭和17年(1942)、箏曲家の今井慶松の依頼で書かれ、翌年、今井の作曲で演奏された「真珠港特別攻撃隊」についてです。

・ 高村光太郎初出索引(十五)
『高村光太郎全集』等収録の、生前に公表されなかったと思われる光太郎詩文をリストアップしました。

ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明
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015続いて、『尾崎喜八資料 特別号(第17号)』。光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八(上記法師温泉にも同道しています)の令孫・石黒敦彦氏主宰の尾崎喜八研究会さん刊行の冊子です。連翹忌会場でもスピーチでご紹介いただきましたが、いったん休刊されたものを今回、特別に再刊。

当会顧問の北川太一先生の未発表だった玉稿2篇が掲載されています。「「愛と創作」その詩と真実」、「ロランと光太郎をめぐる人々」の2篇です。休刊前に寄稿されていながらお蔵入りだったものとのこと。喜八やその周辺人物と光太郎との交流につき、当方も存じ上げなかった事柄がこれでもかとてんこ盛りです。

過日ご紹介した北川先生の新刊『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』にしてもそうですが、先生の幅広い視点からの御考察には脱帽です。

残部は当会名簿にある連翹忌ご欠席の方々等に発送いたしましたが、ご入用の方は仲介いたします。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。

016配付されたわけではありませんで、ギャラ代わりの執筆者割り当てでいただいたものですが、『高村光太郎研究50』。高村光太郎研究会からの刊行です。

こちらにも北川先生の玉稿が巻頭に。平成20年(2008)、宮城県女川町で開催された第17回女川光太郎祭での講演筆録「再びもう一度考えてみたいこと――平成二十年八月九日、女川高村祭談話――」。

それから昨秋、都内で開催された高村光太郎研究会でのご発表を元にされた佛教大学総合研究所特別研究員の田所弘基氏の、「高村光太郎「夏の夜の食慾」の解釈」。昨年『高村光太郎小考集』を刊行された西浦基氏の「虎落笛―長沼智恵子の母親おセンの生涯―高橋秀紀著を読む」。

さらに、またまた手前味噌ですが、当方編の「光太郎遺珠⑭」と「高村光太郎没後年譜 平成29年12月~30年12月」。

「光太郎遺珠⑭」は、この1年間で新たに見つけた、『高村光太郎全集』未収録の光太郎作品集です。

短めの散文が3篇。昭和17年(1942)の『美術文化新聞』第59号に載った「工場の美化運動」、同18年『読売新聞』掲載の「預言者的詩人 野口米次郎氏」、そして『新岩手日報』に同22年(1947)掲載の「人間的な詩人」(「きよう”賢治 十五回忌” 盛岡・花巻で盛んな記念集会」と題する記事に付された談話)。

それから、しばらく前から少しずつ掲載させていただいている「高村光太郎先生説話」。浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995、ひまわり社)よりの転載で、戦後、花巻郊外太田村で蟄居中の光太郎が、山小屋近くの山口小学校などで語った談話の筆録です。今回は昭和26年(1951)のもの。

さらに翻訳で「ロダンといふ人」。原著者はロダンの秘書だったジュディト・クラデル。明治43年(1910)、雑誌『秀才文壇』に3回にわたって連載され、3回目のみが『高村光太郎全集』に収められていましたが、1、2回目が中々見つからずにいたものを、昨秋、智恵子がかつて絵を学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会研究所さんからご提供を受けました。

そして、書簡。平成29年(2017)、『智恵子抄』版元の龍星閣現社主・澤田大太郎氏から、創業者で父の故・伊四郎の遺した厖大な資料のうち、光太郎、棟方志功他の関連が、伊四郎の故郷・秋田県小坂町に寄贈されました。そのうち、澤田に宛てた光太郎書簡で『高村光太郎全集』未収録の32通を載せさせていただきました。

「高村光太郎没後年譜 平成29年12月~30年12月」は、このブログの昨年暮れの記事を元にしています。

こちらもご入用の方は仲介いたします。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。


最後に、第63回連翹忌にて「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」他の音楽演奏をなさってくださった、ジオラマ作家兼ミュージシャンの石井彰英氏から、当日の演奏をyoutubeにアップしたというご連絡がありましたので、載せておきます。最後に演奏された「ずっとこのまま」のみですが。




【折々のことば・光太郎】

私はこれからもなほ若い人々を激励し、若い人々の進歩するのと一緒になつて真剣に日本の彫刻を育て、今まで世界に存在しなかつた新鮮な日本の美を作り出してゆきたいと願つてゐる。自分はすでに老境に近づき年齢からいへば過去に属する人間であるかもしれない。しかし自分にあたへられた本当の仕事はこれからであると信じてゐる。

談話筆記「子供の頃」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎にとって「本当の仕事」は、彫刻をはじめとする芸術の発展。当方にとっては「光太郎の生の軌跡を語り継ぐこと」。やはり「これから」です。

明日から始まるテレビドラマです。

やすらぎの刻~道 テレビ朝日開局60周年記念

テレビ朝日 2019年4月8日(月)~ 毎週月~金  12時30分~12時50分 
BS朝日     4月9日(火)~ 毎週月~金  7時40分~8時00分 地上波の一日遅れ再放送

巨匠・倉本聰氏が1年間をかけて描くのは、山梨を舞台に昭和~平成を生き抜いた無名の夫婦の生涯。そして『やすらぎの郷』のその後。2つの世界が織り成す壮大な物語!

“姫"こと九条摂子(八千草薫)が世を去ってから、2年余り。相変わらず『やすらぎの郷 La Strada』に暮らす脚本家・菊村栄(石坂浩二)は、古い資料の中に1冊のシナリオを発見する。その脚本は10年ほど前、大型ドラマスペシャルとして撮影寸前まで進みながら制作中止になったもので、白川冴子(浅丘ルリ子)と水谷マヤ(加賀まりこ)も出演予定だった。しかし、突然プロデューサーの財前(柳葉敏郎)と連絡がつかなくなり…!?

出演者 石坂浩二 ミッキー・カーチス 加賀まりこ 橋爪功 山本圭 浅丘ルリ子 柳葉敏郎 他
作   倉本聰
音楽  島健
主題歌 中島みゆき『慕情』『進化樹』『離郷の歌』
     (株式会社ヤマハミュージックコミュニケーションズ)

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一昨年、同局で放映され、大きな話題を呼んだ「やすらぎの郷」の続編です。

単なる続編ではなく、石坂浩二さん演じる主人公・シナリオライターの「菊村栄」による、戦前戦中のを山梨を舞台にしたスペシャルドラマ「道」が、劇中劇ならぬ菊村の「脳内劇」として、展開します。

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昨年、製作会社の角川大映スタジオさんからメールをいただきました。何でこちらに連絡が? というと、ドラマの中で光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)を使う、というのです。

該当箇所の台本もPDFで添付して下さいました。

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「しの」というのが、「道」の主人公、浅井(根来)しの。思春期、青年期(昭和編)を清野菜名さんが、晩年(平成編)では風吹ジュンさんが演じられます。山梨県の山間の集落に生きる少女で、14歳の時、わけあって根来家に引き取られてきた、明るくお転婆な性格。特技は薙刀だということです。

「公平」は、同じく風間俊介さん→橋爪功さん。しのが引き取られた養蚕農家・根来家の四男で、しのに恋心を抱くという設定。

さらに公平の兄、「公次」。Kis-My-Ft2の宮田俊哉さんが扮します。口下手だが、働き者で家族思い。後に海軍に志願するそうです。

「三平」は、根来家三男(風間晋之介さん)、「ニキビ」は公平の親友(関口アナンさん)です。

「小野ヶ沢」は、物語の舞台となる山梨県の架空の地名と思われます。


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「あどけない話」が使われるのが、いつごろの放映回なのかまではご教示いただけませんでしたが、台本のページ数が「48-○○」となっていますので、第48回あたりなのかな、と思っています。情報が入りましたらまたご紹介します。


ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

ちやうど明治さかんな頃のこととて世の中はどんどん進んでくる。僕たち青年の眼には庭の色までもまるで毎日変化し、生き生きとして見えるやうであつた。さういふ時代には何でも実に面白かつたし、僅かな間ではあるが朝から晩まで実際大へんな勉強をしたものだつた。

談話筆記「美術学校時代」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎が東京美術学校に在籍していたのは、数え15歳の明治30年(1897)から同じく24歳の同39年(1906)まで。彫刻科の予科から本科を卒業した後も、徴兵猶予の意図もあって研究科に残り、さらに同38年(1905)には西洋美術を学び直したいと、黒田清輝らが教鞭を執っていた西洋画科に再入学しました。この時の同級生に藤田嗣治や岡本一平(太郎の父)らがいました。ただ、同科は中退の扱いで、欧米留学に出ています。

明日の月曜あたり、さまざまな学校さんで入学式・始業式が多く行われるのではないでしょうか。青年諸君、しっかり「勉強」してください。ただし、「勉強」といっても、教科書を使っての座学だけではありません。

ちなみにこの談話筆記、ながらく初出掲載誌不明で、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』でもそうなっていますが、昭和17年(1942)の雑誌『知性』第5巻第9号に掲載を確認しました。同号、増刊号の扱いなので、検索の網から漏れていたようです。

演劇公演の情報です。 

Yプロジェクトプロデュース公演 ブーケdeコンセール 詩劇と音楽 「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」

期  日 : 2019年4月10日(水)~12日(金)
会  場 : 渋谷伝承ホール 渋谷区桜丘町23-21 渋谷区文化総合センター大和田6・7F

時  間 : 14:00〜16:10  19:00~21:10 (6公演)
料  金 : 一般前売4,500円 当日4,800円 ペア特別券 8,000円
       学生優待(中・高・大) 3,500円
主  催 : Yプロジェクト
演  目 : 第1部 ラフマニノフの抒情(ロマン) ピアノソナタ2番の〈物語〉を聴く
        ピアノ/八谷晃生
       第2部 長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、

パリで知った芸術と人間。古き日本とのあまりの落差にデカダンスに走るが、智恵子と出会う。理想の男と女であろうとした生活。敬意と対等と信頼。だが、智恵子は精神を病み、死す。その慟哭が、詩「智恵子抄」となる。そして豹変するように、戦争に突入すると愛国詩を書きはじめる。本来は彫刻家であると自認するが詩人であり、翻訳をし、装丁のデザインをし、書を揮す。この類い希な芸術家=知性の人は時代の分岐点にいつも立ち会っていた。だが、その光太郎はどこへ行こうとしていたのか。

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内容的にはオーソドックスに光太郎智恵子の生涯を追うパターンのようです(ネット上であまり宣伝されていないので、よくわからないのですが……)。あとはそれがどう料理されているかですね。

年に数回、光太郎智恵子をモチーフとした演劇が上演されています。今後もこの傾向が続いてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

「道程」をはじめから読んでみると、さすがに自分の過去がいろいろに思ひ出されていつ知らず感慨に満たされた。初篇から「泥七宝」の終まではまだ死んだ智恵子に会はぬ頃のもので、外国から帰つて来てはじめて日本の情炎に触れ、当時新しい文芸家の間に巻き起つた所謂疾風怒濤時代に身をもまれ、あらゆるものに対する現状憎悪から来るデカダン性と、その又デカダン性に対する懐疑と、斯かる泥沼から脱却しようとする焦燥とでめちやくちやになつてゐた私自身を此処に見る。

散文「某月某日」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この年、山雅房から刊行された『道程改訂版』に関する文章の一節です。

初版『道程』は大正3年(1914)、自費出版で刊行されましたが、時代の最先端を突き抜けたこの詩集、売れ行きはさんざんでした。その後、ようやく時代が光太郎に追いつき、復刊を希望する声が高まって、改訂版が出版されたわけです。

ただし、この改訂版、初版とはかなり収録詩篇に差異があります。太平洋戦争開戦前夜ということもあったのでしょう、日本人批判の「根付の国」や、英国人陶芸家バーナード・リーチに贈った「廃頽者より」「よろこびを告ぐ」などはカットされるという「忖度」が行われています。

4月2日(火)の連翹忌関連、もう少し紹介すべきことがあるのですがいったん休止。

既に開幕している展覧会情報を得ましたので。

E.O展 ~多摩美出身作家~ vol.3

期  日  : 2019年4月3日(水)~8日(月)
場  所  : 
日本橋三越本店 本館6階 美術特選画廊 東京都中央区日本橋室町1-4-1
時  間  : 午前10時~午後7時(最終日は午後5時まで)
料  金  : 無料

多摩美術大学を卒業し、各分野の第一線で輝きを放つアーティストによるグループ展です。美術界からデザイナーまで作家約25名の作品を一堂に展覧いたします。異なるステージで存在感を放つ作家たちの競演をご高覧ください。
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【ギャラリートーク】
日時:4月6日(土)午後2時~ 場所:EO展会場内にて
※予約不要


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昨年、智恵子の故郷・福島二本松にある智恵子生家で、現代アートの祭典「福島ビエンナーレ 重陽の芸術祭 2018」の一環として開催された、切り絵作家の福井利佐さんの作品展に展示された「荒御霊(グロキシニア)」が出品されています。
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昨秋の智恵子生家の画像。

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他の出品作家さんは、以下の通り。

 青木恵美子さん(絵画専攻)  あだちなみさん(デザイン専攻) 
 池内啓人さん(デザイン専攻) 石黒賢一郎さん(絵画専攻) 
 大場再生さん(デザイン専攻) 加藤久仁生さん(デザイン専攻)
 木嶋正吾さん(絵画専攻)   北村さゆりさん(絵画専攻)
 肥沼守さん(絵画専攻)    齋藤将さん(絵画専攻)
 佐野研二郎さん(デザイン専攻)清水悦男さん(絵画専攻)
 須田悦弘さん(デザイン専攻) しりあがり寿さん(デザイン専攻)
 武田洲左さん(絵画専攻)   塚本聰さん(絵画専攻)
 中堀慎治さん(絵画専攻)     永井一史さん(デザイン専攻)
 能島千明さん(絵画専攻)   原雅幸さん(絵画専攻)   
 福井欧夏さん(デザイン専攻) 福井江太郎さん(絵画専攻)
 宮城真理子さん(工芸専攻)     百瀬智宏さん(絵画専攻)

福井さんのブログはこちら

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

妻は足もとの砂を掘つてしきりに松露の玉をあつめてゐる。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がつひそこを駆けるやうに歩いてゐる。

散文「九十九里浜の初夏」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

雑誌『新若人』に「初夏の海」の総題で、有島生馬、茅野雅子の文章と共に掲載されました。7年前の昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子を九十九里浜に住む妹の家で療養させていた時の思い出です。

回想でありながら、「ゐた」ではなく「ゐる」。7年経っても、目を閉じれば、既にこの世に居ない智恵子の姿がありありとそこに「ゐる」ように感じられていたのではないでしょうか。

4月2日(火)、東京日比谷公園松本楼様では、当会主催の第63回連翹忌の集いを催しましたが、光太郎第二の故郷・岩手花巻でも独自に花巻としての連翹忌他が開催されています。ちなみに花巻では「回忌」のカウント法なので、「64回忌」と、こちらよりプラス1になります。

今年は同地でかなり報道されていますので、ご紹介します。

まず、午前中、光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内で、詩碑前祭。例年は、その名の通り、昭和20年(1945)の詩「雪白く積めり」を刻んだ光太郎詩碑の前で地元の方々が詩の朗読などをなさり、詩碑に献花などがなされるのですが、何と今年は大雪だったそうで、山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館さんでの開催となったそうです。

まず『岩手日報』さん。

高村光太郎先生に思いはせ 花巻で詩碑前祭

 詩人で彫刻家高村光太郎(1883~1956年)の第六十四回忌詩碑前祭は命日の2日、花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれた。1945(昭和20)年から7年間、旧太田村山口で山居生活を送った光太郎の遺徳をしのんだ。
 地元の顕彰団体、高村記念会山口支部(照井康徳支部長)主催で住民ら約60人が参加した。
 地域の小中学生9人が詩「山からの贈り物」「案内」などを朗読。支部会員も「雪白く積めり」「大地麗し」「道程」などを趣深く読み上げ、光太郎と住民との交流の拠点となった旧山口小校歌を参加者全員で歌い、焼香した。
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続いてIBC岩手放送さんのローカルニュース。

ゆかりの地・花巻で64回忌…高村光太郎の遺徳を偲ぶ/岩手・花巻市

4月2日は詩人で彫刻家の高村光太郎が73歳で亡くなった命日です。ゆかりの地・花巻では六十四回忌が開かれ、地域の人たちがその遺徳を偲びました。
「道程」や「智恵子抄」などの詩集で知られ、彫刻家としても活躍した高村光太郎は、1945年5月、戦火を逃れて東京から花巻に移住しました。7年間を過ごした地、花巻市太田では、毎年、命日の4月2日に詩碑前祭が開かれています。六十四回忌のきょうは生憎の雪で、会場を初めて高村光太郎記念館の中に移して行われました。参加者が朗読した詩の中には、光太郎が花巻の雪景色を初めて目にした際の作品もありました。
「雪白くつめり。雪林間の路をうづめて平らかなり。ふめば膝を没して更にふかくその雪うすら日をあびて燐光を発す」
「わたしらも今70歳ですから、あと3つで先生が亡くなった歳に近くなるんですよね、それで今度新しい『令和』を迎えて、感無量なところがございます。詩の朗読会を通じて先生のことを理解していただければなと思います」(高村光太郎記念会・照井康徳さん)
参加者たちは合わせて10の詩に親しみ、当時に思いを馳せて故人を偲んでいました。

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午後からは、花巻市街の松庵寺さんに会場を移し、連翹忌法要。

岩手朝日テレビさんのニュース。

高村光太郎の命日 花巻の寺で法要

4月2日は詩人や彫刻家として活躍した高村光太郎の命日です。
これに合わせてゆかりのある花巻市の寺では法要が行われました。
詩集「道程」などで知られる高村光太郎は1945年に宮沢賢治の弟・清六の家に疎開し、戦後7年間を花巻市で過ごしました。
法要は光太郎が妻・智恵子の命日に訪れていたという松庵寺で毎年行われていて、今年は地元の関係者やファンなどおよそ20人が出席しました。
厳かな雰囲気の中、参列した人たちは光太郎の遺影を前に焼香して手を合わせました。
最後に小川隆英住職が光太郎が松庵寺で詠んだ詩を紹介し参列者全員で先人をしのびました。


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とおっしゃるのは、生前の光太郎をご存じの、花巻市太田地区振興会長・佐藤定氏。

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同じく松庵寺さんの小川住職


NHKさんでは、詩碑前祭・法要ともに報じて下さいました。法要を先に、詩碑前祭を後にと、時間的な順序は逆でしたが。

高村光太郎の命日に花巻市で法要

詩人で彫刻家の高村光太郎の命日だった2日、戦時中に疎開していた花巻市で法要が営まれました。
高村光太郎は、昭和20年4月の空襲で東京のアトリエを失ったあと、宮沢賢治の弟の清六を頼って花巻に疎開し7年間を過ごしました。
73歳で生涯を閉じたのは東京ですが、花巻市双葉町の松庵寺では毎年、命日に、光太郎が好きだった花の名前から「連翹忌」と呼ばれる法要を営んでいます。
2日も長年のファンなどおよそ20人が集まり、住職から昭和20年に光太郎が作った「松庵寺」という詩について、「妻の智恵子や母をしのんでこの寺でおつとめし、優しい心がうかがわれる」と説明を受けるとその人柄に思いをはせていました。
毎年、レンギョウの花を手向けている倉金和子さんは、「50回忌から続けています。光太郎先生は山の中で1人で苦労したと思うので生きている限りは続けたい」と話していました。
また、光太郎が疎開暮らしをした山荘近くにある「高村光太郎記念館」には、市民や子どもなどおよそ50人が集まりました。
そして、雪深い花巻での暮らしをつづった詩、「雪白く積めり」などを朗読して光太郎をしのびました。

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盛岡放送局の上原アナ。直接は存じませんが、年に数回花巻や盛岡に泊まるたび、テレビを通じ流れてくるそのシブ~いお声に魅了させられています(笑)。

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詩碑前祭・連翹忌法要、ともに末永く続けて行っていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

此の狩野派流の課程には中々意味の深いところがある。いきなり自由画式に放任しないで、古画の伝統に十分親炙させるといふのは、つまり絵画の持つ絵画性といふものを何時の間にかのみ込ませようとする方法と見るべきである。広く言つて其の造型性、造型性の中の絵画性、何故絵画が絵画であり得るかといふ要因を言説に拠らず、古画への直接の見参によつて了会させようといふのである。
散文「姉のことなど」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

明治25年(1892)、光太郎10歳の時に早世した6つ上の長姉・さく(咲子)の思い出を語る文章の一節です。さくは狩野派に絵を学び、15歳にして「素月」の号を許されていました。

昨日は、平成最後の光太郎忌日・第63回連翹忌でした。光太郎ゆかりの日比谷松本楼様で、午後5時30分よりその集いを開催いたし、盛会のうちに終えることができました。関係各位に改めて御礼申し上げます。

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順を追ってレポートいたします。

千葉の自宅兼事務所から、愛車に光太郎遺影、配布物、展示資料(この1年間に発行された光太郎智恵子光雲関連の書籍・雑誌等々)、連翹の花(光太郎終焉の地・中野アトリエに咲いていたも木から株分けしたしたもの)などを積み込み、都内へ。

まずは品川区大井町に向かいました。今回の連翹忌で音楽演奏をお願いした、ミュージシャンにしてジオラマ作家の石井彰英氏のご自宅兼スタジオ兼ジオラマ工房、サロン・ルーフトップで、楽器や譜面台等を積み込むためです。

予想より早く高速を抜けられたので、途中、同じ大井町のゼームス坂に立ち寄りました。智恵子の終焉の地・ゼームス坂病院跡地に立つ光太郎詩「レモン哀歌」の碑を久しぶりに見ておこうと思いまして。

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建立されたのは昭和63年(1988)。当方、実は最後に訪れたのが20年前くらいで、その意味では懐かしさでいっぱいでした。地元の皆さんでしょうか、レモンが供えられ、清掃も行き届いており、ありがたく感じました。

その後、石井氏の元で機材を積み込み、連翹忌会場の日比谷公園へ。地下駐車場に車を駐め、都営地下鉄三田線で巣鴨へ。この後参会される皆様を代表し、染井霊園にある光太郎ら高村家の人々の眠る奥津城に墓参。
ソメイヨシノ発祥の地だけあって、満開のそれは見事でした。

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巣鴨駅前で遅めの昼食をかき込み、再び日比谷へ。地下から車を松本楼さんの玄関脇へ。

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すでに配布物の袋詰め等をお手伝い下さる皆さんがいらしていて、ありがたく存じました。その方々は受付もやって下さり、本当に助かっております。

そのうちに続々参加の方がお見えになり、最終的には当方を含め、77名。70名を超えれば、「よし、今年はけっこう集まった」と思えるラインです。毎年そうなのですが、ぎりぎりになってのお申し込みが多く、1週間前くらいの時点では「今年は人が集まるんだろうか」と気をもまされていましたが、杞憂に終わりました。

さて、5時30分、開会。まずは光太郎本人、そして花巻の高橋愛子さんなど、残念ながらこの1年に亡くなった関係の方々への黙祷。

続いて、当会顧問・北川太一先生のご挨拶。光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった故・髙村豊周令孫の髙村達氏(写真家)の音頭で、献杯。

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しばしビュッフェ形式で料理を味わっていただき、アトラクションへ。先述の石井彰英氏と、お仲間の堀晃枝さん、松元邦子さんによる演奏。ゼームス坂近くにお住まいの石井氏の作詞作曲による「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」他、全3曲を演奏して下さいました。

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その後、恒例のスピーチ。まずは、2年ぶりにご参会の、渡辺えりさん。このブログで何度もご紹介していますが、お父様が光太郎と交流がおありで、その影響で光太郎を主人公とした脚本なども書かれています。今回、意外とそのお話をご存じない方が多く、お父様と光太郎のご縁など、語ってくださいました。また、「あまちゃん」で共演されたのんさん(能年玲奈さん)もご出演される8月からの新作舞台「私の恋人」の宣伝もしていただきました。

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次に、書家の菊地雪渓氏。昨年、「第38回日本教育書道藝術院同人書作展」で、最優秀にあたる「会長賞」を受賞なさった「智恵子抄」などの光太郎詩6篇を書かれた作品をお持ちいただき、紹介されました。

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菊地氏、この他にもやはり昨年、「第40回東京書作展」でも光太郎詩「東北の秋」(昭和25年=1950)で臨まれ、「特選」を受賞されました。

詩人の佐相憲一氏。出版社・コールサック社さん関係の方で、昨年、同社から刊行の、光太郎と交流のあった野澤一の詩集『木葉童子詩經』復刻版を編集されました。

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同じく、光太郎と交流のあった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏。喜八の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の娘ですので、石黒氏、葉舟の曾孫にもあたられます。

さらに当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館・小野浩氏。光太郎が認めた彫刻家・高田博厚の顕彰を進める埼玉県東松山市の教育長・中村幸一氏、光太郎詩に自作の曲をつけて歌われているシャンソン歌手のモンデンモモさん。

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最後に、明星研究会の松平盟子氏(歌人)にもお願いしました。光太郎と与謝野晶子のつながり、明星研究会の活動のご様子、光太郎にも触れて下さった昨年刊行の『真珠時間 短歌とエッセイのマリアージュ』などについてなど。

本当はもう少し多くの方々に語っていただきたかったのですが、皆さん、なかなか弁の立つ方々で(渡辺えりさんは20分くらいしゃべってました(笑))、時間の都合もあり、締めに移行。

昨年、智恵子の故郷・二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で大賞に輝いた宮尾壽里子さんと、お仲間の上田あゆみさん、吉浦康さんに、朗読をお願いしました。

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単なる朗読ではなく、何度か宮尾さんが公演された形式からの再編で、光太郎詩「レモン哀歌」の朗読に始まり、その後は光太郎評論「緑色の太陽」、確認されている智恵子唯一の詩「無題録」などの朗読を織り交ぜつつ、光太郎智恵子の生の軌跡を語る物語となっていました。BGMにはテルミン奏者・大西ようこさんのCDを使わせていただきました。


そして、名残を惜しみつつ、来年、令和2年となる第64回連翹忌での再会を期して、閉会。

来年も広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、光太郎智恵子をモチーフに美術・文学などの実作者の方、同じく音楽・芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。私は結局一箇の私として終はるだらうが、この木つ葉童子の天来の息吹に触れたことはきつと何かみのり多いものとなつて私の心の滋味を培ふだらう。

散文「某月某日」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「木つ葉童子」とは、上記でもご紹介しましたが、光太郎を敬愛していた詩人・野澤一です。「愛の書簡」はラブレターという意味ではなく、野澤が光太郎に送った300通余りの書簡。光太郎より21歳年下にもかかわらず、野澤は時に光太郎を叱咤激励するような内容もしたためました。最愛の智恵子を失って落ち込んでいた光太郎にとって、それはありがたい部分もあったようです。

昨日の第63回連翹忌、光太郎と交流のあった人々ゆかりの皆さんが多数参加され、改めてその人脈の広さ、そしてその人々に支えられ、また光太郎自身も支え、そうして広がっていった人の輪というものを感じました。そうした精神が脈々と受け継がれている連翹忌。今更ながら、さらに手前味噌ながら、すばらしいと感じています。その運営を引き受けて8年になりますが、今後もその灯をともし続けていかねばならない、と、責任の重大さを再確認いたしております。

今後とも、ご協力よろしくお願いいたします。

今日、4月2日は光太郎忌日・連翹忌です。午後5時30分からは、光太郎ゆかりの日比谷松本楼さんで、第63回連翹忌の集いを開催いたします。

63年前の今日、昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分。中野桃園町の貸しアトリエで、巨星・高村光太郎は息を引き取りました。生涯、「冬」を愛した光太郎の最期を飾るかのように、前日から東京は季節外れの大雪だったそうです。その際に、アトリエの庭に咲いていた連翹、生前の光太郎がアトリエの持ち主の中西夫人に「何という花ですか」と尋ねたとのこと。そして「あれは「連翹」という花ですよ」との答えに「かわいらしい花ですね」。

4月4日、青山斎場で武者小路実篤を葬儀委員長として開かれた葬儀では、光太郎の棺の上に、その連翹の一枝が、愛用のコップに生けられて、置かれました。

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当会の祖・草野心平をはじめ、遺された人々の胸にはその連翹の印象が強く残り、光太郎忌日は「連翹忌」と名付けられました。直接の発案は若い頃から光太郎に親炙していた佐藤春夫だったようです。

心平を助け、途中から連翹忌の運営を引き継いだのが、現・当会顧問の北川太一先生です。北川先生は晩年の光太郎に薫陶を受け、その歿後は『高村光太郎全集』をはじめ、光太郎の業績を後世に伝えるためのさまざまな書籍等を編著なさいました。今日の第63回連翹忌にもご参会下さる予定です。

その北川先生の最新刊、昨日、届きました。

光太郎ルーツそして吉本隆明ほか

2019年3月28日 北川太一著 文治堂書店 定価1,300円

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目次
 光雲抄 ――木彫孤塁000
 光太郎詩の源泉
 鷗外と光太郎 ―巨匠と生の狩人―
 八一と光太郎 ―ひびきあう詩の心―
 心平・規と光太郎
 吉本隆明の『高村光太郎』 ―光太郎凝視―
 究極の願望 吉本隆明(『高村光太郎選集』内容見本より)
 造形世界への探針 北川太一 ( 〃 )
 春秋社版・光太郎選集全六巻別巻一・概要
 対談 高村光太郎と現代『選集』全六巻の刊行にあたって 
         吉本隆明 北川太一
 隆明さんへの感謝
 死なない吉本
 しかも科学はいまだに暗く ――賢治・隆明・光太郎――
 三つの「あとがき」抄
 あとがきのごときもの
 初出誌メモ


帯には北川先生と旧知の中村稔氏の推薦文。

高村光太郎の資料、情報の探索、蒐集、考証に心血を注いできた北川太一さんの文章はつねに含蓄と矜持に富んでいる。思想的立場は違っても、旧く親しい友人吉本隆明を語った文章も感興ふかい。推奨に値する書と言うべきであろう。


各種雑誌や、展覧会図録などに載った文章の再編ですが、初出誌が今では入手困難なものが多く、一冊にまとまっていることにありがたさが感じられます。当方、一部はパソコンで打ち込みをし、また、校閲をやらせていただいたので、今年初めには読みました。「そして吉本隆明」とあるとおり、戦前・戦時中の東京府立化学工業学校、戦後の新制東京工業大学で同窓だった故・吉本隆明氏について書かれた文章も含まれますが、吉本は吉本で日本で初めて光太郎論を一冊の本として上梓した人物。おのずとその筆は光太郎に無関係ではいられません。

いずれamazonさん等にアップされると存じます。また、今日の連翹忌会場で販売しますので、参会の方(おかげさまで75名のみなさんのお申し込みを賜りました)は、ぜひサインを書いていただき、家宝にしてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

私はこの世で智恵子にめぐりあつたため、彼女の純愛によつて清浄にされ、以前の廃頽生活から救い出される事が出来た経歴を持つて居り、私の精神は一にかかつて彼女の存在そのものの上にあつたので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さへ其の目標を失つたやうな空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。

散文「智恵子の半生」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

昨日も同じ「智恵子の半生」から引用しましたが、数ある光太郎エッセイの中でも、圧巻の一つゆえ、あしからずご了承ください。

男女の相違はあれど、光太郎を敬愛していた人々――上記にも名前を出した草野心平、佐藤春夫、そして北川先生などなど、みなさん、63年前の今日には、光太郎に対して同じような感懐を抱いたのではないかと存じます。

先月、盛岡市で岩手県立大学さんの短期大学部・菊池直子教授による公開講座「高村光太郎のホームスパン」拝聴して参りましたが、その発表の元となった内容が、同大の『研究論集第21号』に掲載され、菊池氏がその抜き刷りを送って下さいました。

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先月のご発表にても紹介されたとおり、光太郎とホームスパン(羊毛による手織りの織物)との関わり、主に2点についての調査結果がまとめられています。

まず1点。花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されている、光太郎の遺品である大判の毛布が、世界的に有名な染織家であるエセル・メレ(あるいはその工房)の作だとほぼ断定できるということ。光太郎の日記に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、また、実際にそれを見せられた岩手のホームスパン作家・福田ハレの回想にもその旨の記述があります。福田は及川全三という名人の弟子でした。

先月の発表ではその画像がなかったように記憶しておりますが、日本国内に残る他のメレ作品との比較が為されており、なるほど、よく似ています。左が光太郎遺品、右がアサヒビール大山崎山荘美術館さんに収められているものです。

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単にデザイン的な部分だけでなく、折り方の特徴などからも、メレ(あるいはその工房)の作とみて間違いないそうです。

過日も書きましたが、大正末から昭和初めに日本で開催されたメレの作品展の際、智恵子にせがまれて光太郎が購入したと語っていたと、福田の回想にあります。昭和20年(1945)の空襲の際には、事前に防空壕に入れておいて無事だったようです。

ちなみに光太郎がこの毛布(と思われるもの)を掛けている写真を見つけました。

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おそらく昭和28年(1953)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、借りていた中野のアトリエで撮られた1枚。昭和31年(1956)に筑摩書房さんから刊行された『日本文学アルバム 高村光太郎』に掲載されています。モノクロなので色がわかりませんが、柄からみて間違いないでしょう。


もう1点。昭和25年(1950)にオーダーメイドされた、光太郎愛用の猟服(光太郎の記述では「猟人服」)について。こちらは花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています。やはりホ-ムスパン地で、織りは福田、仕立ては光太郎と交流の深かった画家の深沢紅子の父・四戸慈文。四戸は盛岡で仕立屋を営んでいました。

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光太郎がこれを着て写っている写真はけっこうあります。

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左は宮沢賢治の親友だった藤原嘉藤治(中央)も写っています。右は昭和27年(1952)に再上京した上野駅で。当方、国民服的なものだと思いこんでいましたが。

この服についても詳細な考察が為されています。以前にも書きましたが、背中一面に巨大なポケットが付いていて、スケッチブックも入れられるという優れものです。

それから、現存が確認できていないのですが、光太郎は外套も注文しています。下の画像は昭和26年(1951)、当会の祖・草野心平と撮った写真。時期的に見て、これがそうなのかな、という気がします。

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岩手では現在も、及川や福田の系譜に連なる方々がホームスパン制作に取り組んでいます。いずれ花巻高村光太郎記念館さんあたりで、光太郎とホームスパンに関わる企画展示など、開催してほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。
散文「智恵子の半生」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

この年の『婦人公論』に発表(原題「彼女の半生――亡き妻の思ひ出――」)され、翌年の詩集『智恵子抄』にも収められました。そもそも詩集『智恵子抄』の成立は、この文章を読んで心を打たれた出版社龍星閣主・沢田伊四郎が、智恵子に関する詩文を集めて一冊の本にしたい、と提案したことに始まります。

まだ太平洋戦争開戦前ですが、それにしても、「大君の愛」と「一人の女性の底ぬけの純愛」を同列に扱うとは、大胆です。不敬罪でしょっぴかれたり、発禁になったりしても不思議ではありません。そうならなかった裏には、光太郎と交流があり、敬愛していた詩人の佐伯郁郎が内務省警保局の検閲官だったことがあるような気がしています。


明日、4月2日は、光太郎63回目の命日・連翹忌です。光太郎第二の故郷・花巻では午前中に光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内で詩碑前祭、午後から市街の松庵寺さんで連翹忌法要。そして東京日比谷公園松本朗様では、午後5:30から当会主催の連翹忌の集いが開催されます。光太郎智恵子、そして二人に関わった全ての人々に思いをはせる日としたいものです。

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