2019年03月

新刊書籍です。

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浮気を疑われている、生活費が底をついた、原稿が書けない、酒で失敗をやらかした……。窮地を脱するため、追い詰められた文豪たちがしたためた弁明の書簡集。芥川龍之介から太宰治、林芙美子、中原中也、夏目漱石まで、時に苦しく、時に図々しい言い訳の奥義を学ぶ。

目次

 はじめに
 第一章 男と女の恋の言い訳
  フィアンセに二股疑惑をかけられ命がけで否定した 芥川龍之介
  禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した 北原白秋
  下心アリアリのデートの誘いをスマートに断った言い訳の巨匠 樋口一葉
  悲惨な環境にあえぐ恋人を励ますしかなかった無力な 小林多喜二
  自虐的な結婚通知で祝福を勝ち取った 織田作之助
  本妻への送金が滞り愛人との絶縁を誓った罰当たり 直木三十五
  恋人を親友に奪われ精一杯やせ我慢した 寺山修司
  歌の指導にかこつけて若い女性の再訪を願った 萩原朔太郎
  奇妙な謝罪プレーに勤しんだマニア 谷崎潤一郎
  へんな理由を根拠に恋人の写真を欲しがった 八木重吉
  二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター 林芙美子

 第二章 お金にまつわる苦しい言い訳
  借金を申し込むときもわがままだった 武者小路実篤
  ギャラの交渉に苦心惨憺した生真面目な 佐藤春夫
  脅迫しながら学費の援助を求めたしたたかな 若山牧水
  ビッグマウスで留学の援助を申し出た愉快な 菊池寛
  作り話で親友に借金を申し込んだ嘘つき 石川啄木
  相手の不安を小さくするキーワードを使って前借りを頼んだ 太宰治
  父親に遊学の費用をおねだりした甘えん坊 宮沢賢治

 第三章 手紙の無作法を詫びる言い訳
  それほど失礼ではない手紙をていねいに詫びた律儀な 吉川英治
  親友に返信できなかった訳をツールのせいにした 中原中也
  手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した 太宰治
  譲れないこだわりを反省の言葉にこめた 室生犀星
  先輩作家への擦り寄り疑惑を執拗に否定した 横光利一
  親バカな招待状を親バカを自覚して書いた 福沢諭吉
  手紙の無作法を先回りして詫びた用心深い 芥川龍之介

 第四章 依頼を断るときの上手い言い訳
  裁判所からの出頭要請を痛快に断った無頼派 坂口安吾
  序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎
  弟からの結婚相談に困り果てた気の毒な兄 谷崎潤一郎
  もてはやされることを遠慮した慎重居士 藤沢周平
  独自の偲び方を盾に追悼文の依頼を断った 島崎藤村
  意外に書が弱点で揮毫を断った文武の傑物 森鴎外

 第五章 やらかした失礼・失態を乗り切る言い訳
  共犯者をかばうつもりが逆効果になった粗忽者 山田風太郎
  息子の粗相を半分近所の子供のせいにした親バカ 阿川弘之
  先輩の逆鱗に触れ反省に反論を潜ませた 新美南吉
  深酒で失言して言い訳の横綱を利用した 北原白秋
  友人の絵を無断で美術展に応募して巧みに詫びた 有島武郎
  酒で親友に迷惑をかけてトリッキーに詫びた 中原中也
  無沙汰の理由を開き直って説明した憎めない怠け者 若山牧水
  物心の支援者への無沙汰を斬新に詫びた 石川啄木
  礼状が催促のサインと思われないか心配した 尾崎紅葉
  怒れる友人に自分の非を認め詫びた素直な 太宰治
  批判はブーメランと気づいて釈明を準備した 寺田寅彦

 第六章 「文豪あるある」の言い訳
  原稿を催促され詩的に恐縮し怠惰を詫びた 川端康成
  原稿を催促され美文で説き伏せた 泉鏡花
  カンペキな理由で原稿が書けないと言い逃れた大御所 志賀直哉
  川端康成に序文をもらいお礼する際に失礼を犯した 三島由紀夫
  遠慮深く挑発し論争を仕掛けた万年書生 江戸川乱歩
  深刻な状況なのに滑稽な前置きで同情を買うことに成功した 正岡子規
  信と疑の間で悩み原稿の送付をためらった 太宰治
  不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない 徳冨蘆花
  友人に原稿の持ち込みを頼まれ注意深く引き受けた 北杜夫
  紹介した知人の人品を見誤っていたと猛省した 志賀直哉
  先輩に面会を願うために自殺まで仄めかした物騒な 小林秀雄
  謝りたいけど謝る理由を忘れたと書いたシュールな 中勘助

 第七章 エクスキューズの達人・夏目漱石の言い訳
  納税を誤魔化そうと企んで叱られシュンとした 夏目漱石
  返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者 夏目漱石
  妻に文句を言うときいつになく優しかった病床の 夏目漱石
  未知の人の面会依頼をへっぴり腰で受け入れた 夏目漱石
  失礼な詫び方で信愛を表現したテクニシャン 夏目漱石
  宛名の誤記の失礼を別の失礼でうまく隠したズルい 夏目漱石
  預かった手紙を盗まれ反省の範囲を面白く限定した 夏目漱石
  句会から投稿を催促され神様を持ち出したズルい 夏目漱石
  不当な苦情に対して巧みに猛烈な反駁を盛り込んだ 夏目漱石

 参考・引用文献一覧
 おわりに


さまざまな文豪たちの書簡にしたためられた「言い訳」の数々が紹介され、どういったシチュエーションでそれが用いられたのかの解説、そして分析。各段4ページ前後ですので、全体的には250ページほど。読了するにそれほどかかりません。

まず、紹介されている文豪たちの信条というか、人間性というか、そういったものがその背後に見え、興味深く感じました。「いかにも誰々らしい」と感じる部分と、「誰々はこういう一面もあったのか」という部分もありました。

非常に面白いと共に、実用的でもあります。「こういう場合にはこんな言い訳をすればよいのか」、「なるほど、これも一つの手だな」といった感じで。また、「言い訳」というより、相手をかわす方法や、時には逆襲するパターンも語られています。そして、これが大事だと思ったのは、肝心の一文に到るまでのプロセス。いきなり謝罪や言い訳、駄目出しや拒絶に行かず、ひとまず相手を持ち上げて置いたり、自分でへりくだったりして見せ、それから本題に入ったり、あるいは「猫だまし」的に意表を突く内容から始めたり……。ところが、それが全てうまく行っているかというと、そうでもないというあたりが、ユーモラスだったりもしました。

光太郎に関しては、かわす方法。菊池正という詩人が書いた詩集の序文執筆を頼まれ、それに対しての断りです。まずは詩集自体を褒め、しかし、ある意味論点をずらし、そもそも一般論として自著に他者の序文が必要なのか、と問いかけます。『道程』をはじめ、自分は他者に序文を書いてもらったことはない、と、光太郎自身を引き合いに出し、相手にぐうの音も言わせない高度なテクニックです。

とは言え、著者の中川氏も指摘されていますが、光太郎はこれ以前に菊池の別の詩集には序文を書いてやっていますし、他の詩人の詩集にも少なからず序跋文を寄せています。数えてみましたところ、散文集、翻訳書などを含めれば、確認できている限りその数は60篇ほどにもなります。ただ、あまり交流の深くなかった人物の著書に対しては一度限りという感じで、どうも二匹目のドジョウを狙う依頼に対しては、上記のような手を使ってかわすこともあったのでしょう。単に面倒くさかっただけかもしれません。

他の文豪たちの「言い訳」も、さすがに言葉のプロフェッショナルたちだけあって、海千山千(死語ですね(笑))、酸いも甘いもかみ分けた(これも死語ですね(笑))、その手練手管(この際、もはや死語にこだわります(笑))には感心させられました。

しかし、最も感心させられるのは、やはり誠意を持ってわびるパターン。意外や意外、そういった方向性とは最も無縁なような太宰治がそうやっています。曰く「私も、思いちがいをしていたところあったように思われます」。太宰を少し見直しましたし、我が身を振り返り、かくあるべきだなと反省しました。「誤解を与えたとすれば、撤回します」というパターンを流行らせている永田町界隈の魑魅魍魎どもにも見習ってほしいものです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

素人は仕事の恐ろしさを知らず、従つて全身的の責任を感じない。思ひつきと頓智とは素人に豊富だが、それを全体との正しい関係に於いて生かすといふ遠近の展望を持たない。素人の仕事は多く一個人的であつて普遍の道理を内蔵しない。それゆゑ伝統の力と修行の重要性とを軽んずる傾があり、ただむやみに己の好むところに凝る、時として外見上甚だ熱があるやうに見える事もあるが、それは多く透徹した叡智を欠いた偏執であるに過ぎない。

散文「素人玄人」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

彫刻と詩で二股をかけ、それぞれに多作とは言えなかった(詩の方はこの後、翼賛詩を乱発するようになりますが)光太郎に対し、「素人彫刻家」、「素人詩人」という評が出され、それに対する反駁として書かれた文章の一節です。主に彫刻の分野を念頭に置いての話だと思いますが、自分はこういう「素人」ではないと宣言しています。確かに光太郎、父・光雲に叩き込まれた江戸以来の仏師の技をバックボーンに持ち、「伝統の力と修行の重要性」を身を以て理解していました。

企画展情報です。

特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」

期  日 : 2019年4月6日(土) ~6月30日(日)
会  場 : 文京区立森鷗外記念館  東京都文京区千駄木1-23-4
時  間 : 10:00〜18:00
料  金 : 一般 500円  20名以上の団体は400円  中学生以下無料
休  館 : 5月28日(火)、6月25日(火)

小説家・樋口一葉(18721896)、歌人・与謝野晶子(18781942)、評論家・平塚らいてう(18861971)―明治・大正期を代表する女性文学者三人を、森鴎外(18621922)は「女流のすぐれた人」(『与謝野晶子さんに就いて』)と高く評価しています。現在は文学者の性別が意識されることも少なくなりましたが、明治・大正期の女性文学者は「閨秀(けいしゅう)作家」「女流作家」などと呼ばれ、男性中心の文学者たちの中で区別されてきました。一葉、晶子、らいてうもそうした環境で自身の表現を模索し、小説や詩歌、評論を以て時代と向き合いました。
三人が世に出た事情や時期は異なり、表現の手段もさまざまです。鷗外は女性文学者たちが表現することを好意的にとらえ、常に変わらず見守ってきました。鷗外が彼女たちに向けた眼差しは、鷗外の評論や日記、書簡、そして彼女たちの証言からも知ることができます。
本展では、一葉、晶子、らいてうと鷗外の交流や接点を交えながら、活躍の場となった雑誌、受けた教育、人物交流などの視点をとおして、三人の文業や周辺の女性文学者を展覧します。明治・大正期に花開いた女性文学者たちと、彼女たちを見つめた鷗外が織りなす近代文学史を紹介します。

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関連行事

 講師:三枝昻之氏(歌人・山梨県立文学館館長)    日時:62日(日)14時~1530
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室        定員:50名(事前申込制)
 料金:無料(参加票と本展鑑賞券(半券可)が必要) 申込締切:517日(金)必着

講演会2「森鷗外と新しい女たち」
 講師:尾形明子氏(文芸評論家)          日時:68日(土)14001530
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室        定員:50名(事前申込制)
 料金:無料(参加票と本展鑑賞券(半券可)が必要) 申込締切:5月24日(金)必着

ギャラリートーク  展示室にて当館学芸員が展示解説を行います。
 4月17日、5月15日、6月12日 いずれも(水)14時~(30分程度)
  申込不要、展示観覧券が必要です。
 
中学生・高校生向けギャラリートーク
 教科書にも登場する、一葉、晶子、らいてう、そして鷗外についてお話します。
 6月23日(日)14時~(30分程度)  申込不要、高校生以上の方は展示観覧券が必要です。


与謝野晶子は、新詩社における光太郎の師。平塚らいてうは日本女子大学校での智恵子の先輩にしてテニス仲間。『青鞜』の表紙絵を智恵子に依頼しました(智恵子の手になる表紙があしらわれた創刊号(明治44年=1911)も展示されるようです)。そして森鷗外は、東京美術学校で教壇に立っていたこともあり、光太郎は美学の授業を受けました。その後も観潮楼歌会に何度か参加しています。

早逝した樋口一葉は光太郎智恵子と直接の関わりはなかったようですが、光太郎は同じく早逝した実姉・さく(咲子)の風貌が一葉に似ていたと回想しています。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間の記憶や表現の半分以上は間違であるかも知れない。間違いと否との百分率が取れたら随分意外の思をすることだらうと考へられる。間違ふことを神経質に嫌つてゐたら何を考へることも表現することも出来なくなるであらうし、さうかといつてそれを構はずに居たら何の進捗発展もないことにならう。
散文「間違のこと」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

言葉の部分では、一度こうと思いこむと、それが誤りと知らずに使い続けてしまう例はよくありますね。熟語の読み方、意味、漢字の送り仮名、字形、書き順、それから歌の歌詞などなど。光太郎も同じ文章で、長い間「獺祭(だっさい)」を「らいさい」だと思いこんでいて、恥をかいたという経験を披瀝しています。某国営放送のアナウンサー嬢は、本番中にニュース原稿の「喫緊」が読めず、「きんきつ」などと読み、同時に出演していた男性アナウンサーに「きっきん! きっきん!」と何度も横から小声で指摘され、それでも「え? え???」とパニックになっていたことがありました。

言葉の部分では、当人が困るだけという面がありますが、事実関係の誤認などを、ある程度権威のある人が影響力の強いメディアなどで平気で書いたりしゃべったりされると、それを真に受けた人がさらに流布することにもなり、やがて誤った内容が定説としなってしまうこともなきにしもあらず。当方も(権威はありませんが(笑))気をつけようと思います。


光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが納められている信州善光寺さんでの写真コンテストが開催されます。

地元紙『信濃毎日新聞』さんから。

善光寺・仁王門、初の写真コンテスト 4月1日から作品募集

 長野市の善光寺は、仁王門の000写真コンテストを初めて企画し、4月1日に作品募集を始める。仁王門が昨年、火災後の再建から100年を迎えたことを記念し、参拝客により親しんでもらおうと企画。併せて明治、大正時代や昭和の前半ごろまでに撮影された仁王門の写真提供も呼び掛けている。
  コンテストの題材は、仁王門や門の中に納められている仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像など。1912(明治45)年の御開帳の際に一時的に置かれ、現在は飯山市の広場にある「先代」仁王像も含む。
  現在の仁王像の制作に携わった彫刻家高村光雲(1852~1934年)のひ孫で写真家の高村達(とおる)さん(51)=東京=や同寺の小林順彦(じゅんげん)・寺務総長(53)らが審査。特賞3点、入選5点を選び、7月25日?9月15日に境内の善光寺史料館に展示し、仁王門再建100年を記念して9月に予定する特別法要で表彰する。
  同寺事務局文教課は「善光寺の身近さが感じられるよう表現してほしい」としている。
  コンテストへの応募は、カラーA4サイズで題名、住所、氏名、年齢、連絡先を明記し、6月14日までに善光寺事務局文教課(〒380―0851長野市長野元善町491―イ)に送る。問い合わせは同事務局(電話026・234・3591)へ。
  仁王門の昔の写真は資料として保存し、後世に残す考えだ。これまでに門前の大石堂写真館から、仁王像が納まる前の仁王門の写真を入手。正月行事を担う堂童子とみられる僧侶が写っており、18年12月?19年1月の撮影と推測される。他に、現在の仁王門の前に建てられていた「仮の門」の写真なども提供された。寄せられた写真は、展示パネルや刊行物などに掲載する場合がある、としている。


善光寺さんのサイトから。

【仁王門の写真コンテストを開催致します。】

『仁王門再建百年・仁王像開眼百年記念イヤーイベント』の一環としまして、現在の仁王門を題材にした写真コンテストを実施致します。応募方法等は、下記の通りです。応募開始は、4月1日(月)からとなりますのでふるってご応募願います。


【応募方法】
・カラープリントA4サイズにて応募してください。※応募件数に制限はありません。(写真プリント又はインクジェットで、プリントしたものに限ります。)
・題名・住所・氏名・年齢・連絡先を明記のうえ、善光寺まで送ってください。
★作品の返却は、致しません。(大切な作品は、複製を取って応募ください。)

【賞】
・特賞3点  ・入選5点  

【題材】
・(現在の)善光寺仁王門及び仁王像、三宝荒神像、三面大黒天像
・飯山市“寺町シンボル広場”内 仁王門(旧仁王像)

【締切】
・2019年6月14日(金)必着

【審査員】
・高村達氏(写真家・高村光雲の子孫)    ・毛利英俊氏(元信濃毎日新聞社・写真部長)
・長瀬哲氏(飯山市教育委員会・教育長)  ・小林順彦師(善光寺寺務総長)

【その他】
・応募封筒の表に『仁王門写真コンテスト応募』と明記してください
・他人の著作権・肖像権を侵害するような行為が行われた場合、それに関するトラベルの責任は一切負いかねます。
・被写体が人物の場合、必ずご本人(被写体)の承諾をいただいてください。
・入特選作品は、ご通知後に弊局まで原版(画像データ)を提出いただき、善光寺史料館に展示及び善光寺HPに掲載いたします。
◎入特選の方へ、仁王門再建百年記念法要(仮称)時に表彰いたします。
《応募先》
〒380-0851 長野市大字長野元善町491-イ 善光寺事務局 文教課 電話026-234-3591


仁王像の開眼から100周年ということで、善光寺さんでは昨年からさまざまな取り組みをなさっています。例年開催されている寺域全体でのライトアップに加え、仁王門北側に納められた、やはり光雲らによる「三宝荒神像」と「三面大黒天像」のライトアップ仁王像に関する市民講座、そして文化財指定に向けた仁王像の本格調査など。この秋には100周年特別法要も予定されています。

そうした流れの中での写真コンテスト。腕に自信のある方、ぜひご応募下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は生来の雷ぎらひである。どういふわけといふ理由も何もないが、あの比例外れな、途方もない、不合理極まる大音響が第一困る。これはまるで前世紀の遺物ではないか。イグアノドン、マストドンの夢ではないか。

散文「雷ぎらひ」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

誰にでも恐怖を伴う苦手なものがあるようで、虫が苦手、犬が苦手、蛇が苦手、高いところが苦手、お化けが苦手、注射が苦手などなど、よく聞きますね。光太郎の場合は、雷だったそうで。

そうでない人から見れば、甚だ滑稽に見えることもあり、光太郎の雷嫌いにもつい笑ってしまいますが、当人はいたって真面目。それがまた笑いを誘ったりもします。ちなみにその様子は以下の通り。

・ 夜間に落雷があることを昼間のうちに予知。
・ 落雷が近づくと、電気のブレーカーを切る。
・ 一切の金属を体から遠ざける。足袋のこはぜも不可。
・ 脚に滑り止めのゴムをはめた籐椅子の上であぐらをかく。
・ 恐怖を紛らわすために『古事記伝』のような木版本を読み、そちらに意識を向ける。

まぁ、落雷も確かに危険ですが……。

ちなみに信濃善光寺さん、平安時代末の治承3年(1179)には落雷による火災に見舞われています。

4月2日、光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。東京日比谷公園松本楼さんでは、当会主催の連翹忌の集いを行いますが、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻でも、花巻としての連翹忌を開催して下さっています。また、当日、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内の「雪白く積めり」詩碑前では、地元の皆さんによる光太郎詩朗読などの「詩碑前祭」も。

今年も花巻市さんの広報紙『広報はなまき』3月15日号に案内が出ました。

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お近くの方はぜひそちらにご参加下さい。


【折々のことば・光太郎】

余事ながら、腰掛けの仕事卓に使ふ回転椅子は昔パリの百貨店ボンマルシエで買つて来た仕入物であるが、実に丈夫でまだ何ともなつていない。別に高価な品ではないのだが、金物などの作り方が丁寧親切に出来てゐるには感心する。螺旋で上下し、回転軸は別にあり、ばねで後ろへ傾くやうになつてゐる。
散文「三十年来の常用卓」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

欅の板で自作した仕事机に関する散文の末尾の部分です。自作の仕事机は天板が台形で、体の正面に当たる部分が斜めに切ってあって、左の方が手前に張り出し、肘を載せられるようになっている作りで、これが甚だ使いやすいとのこと。たまたまそういう形の板があったのでそのようにしてみたそうです。

それとセットの椅子は、明治末の留学時にパリで購入した物を持ち帰ったそうで、記述を読むと現代ではごくあたりまえの事務椅子のようですが、当時としては珍しいものだったようです。他の文章等でもこの椅子についての記述があり、やはり高級品でなくともしっかりした作りであることに感心したと述べています。

2件ほどご紹介します。

まず、おそらく朗読系の公演だと思われます。詳細がよくわからないのですが……。

話楽庵  弥生の会

期  日 : 2019年3月31日(日)
会  場 : 話楽庵 栃木県小山市萱橋730-9

時  間 : 14:00〜
料  金 : 1,000円
出  演 : わたなべ紀子
演  目 : 下野古麻呂物語
        高村光太郎 智恵子抄より「あなたはだんだんきれいになる」「レモン哀歌」 
                     他

弥生の月は、私の誕生月です。20日に還暦を迎えます。還暦は、生まれ変わって新しい人生を歩み始めるという意味もあるとか…新たな話楽の世界を作り上げていきたいと、思います。

話楽…話は、楽しい。音楽と話の融合。そして…音霊と言霊の世界。流体話法・流体演技・共鳴体の世界。


続いて、テレビ放映情報。

おかしな刑事~居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査(8) 東京タワーは見ていた! 消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!

BS朝日 2019年4月1日(月)  21時00分~22時54分

伊東四朗が叩き上げの刑事、羽田美智子がエリート警視という凸凹父娘コンビを演じる大人気シリーズの第8弾 ‼ 篤志家の社長が刺された! その背後には、30年前、東京タワーの下で起きた誘拐事件の影が…!?

出演
 伊東四朗 羽田美智子 石井正則 小倉久寛 辺見えみり 山口美也子 木場勝己 小澤象 丸山厚人
 菅原大吉 (他)

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地上波テレビ朝日さんで、平成23年(2011)年に初回放映があったものです。その後、テレ朝さんや系列のBS朝日さんで何度か再放送されています。

上記の番組説明では書かれていませんが、初回放映時のサブタイトルが「地上333メートルの殺意!! ホームレスが隠した事件の謎!? 安達太良山で待ち受ける真実!! 『智恵子抄』に秘められた想いとは…」。その後、そのサブタイトルが使われなくなり、「智恵子抄」がらみの内容だとわからなくなってしまいました。

昨年の暮れにも再放送があり、この手のサスペンスものがとにかく大好きな愚妻が拝見、「こんなドラマやってたよ」と教えてくれ、ようやくその存在に気づいた次第です。

調べてみましたところ、智恵子の故郷・二本松でもロケが行われ、櫟平ホテルさん、二本松市さん、岳温泉観光協会さんなどが協力に名を連ねています。岳温泉さん、智恵子生家、その裏山の光太郎詩碑がある鞍石山などでもロケがありました。

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羽田美智子さんといえば、平成27年(2015)にNHK Eテレさんで放映された「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」にもご出演。最近では今年封切りの北原白秋を主人公とし、光太郎も出演した映画「この道」では与謝野晶子役をなさっていました。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

私はその頃の数年間家事の雑務と看病とに追はれて彫刻も作らず、詩もまとまらず、全くの空白時代を過ごした。私自身がよく狂気しなかつたと思ふ。其時世人は私が彫刻や詩作に怠けてゐると評した。

散文「自作肖像漫談」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「その頃」は、智恵子の心の病が顕在化した昭和6年(1931)から、南品川ゼームス坂病院に入院させた同10年(1935)の頃です。同9年(1934)には光太郎の父・光雲が胃ガンで没してもいます。

そうした事情に通じていない無責任な世間は、光太郎が怠けていると評したとのこと。残酷といえば残酷ですね。

3月23日(土)、前日に引き続き、都内に出まして、吉祥寺の武蔵野商工会議所さんにて開催の「第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎」で、公開講座の講師を務めさせていただきました。
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講座は前後半にわかれ、前半が「杢太郎と勇 美食家(グールメ)と健啖家(グールマン)―美食への憧れ」。木下杢太郎に関し、「グルメといわれるが―杢太郎は何を食べたか」と題し、歌人で伊東市立木下杢太郎記念館の丸井重孝氏、吉井勇について静岡県立大学の細川光洋氏が「極道に生れて河豚のうまさかな―健啖家(グールマン)・吉井勇」と題されたご発表および対談。

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後半は「晶子と光太郎 日仏の出会う食卓風景」ということで、当方が「苦しい中でも工夫して/高村光太郎の食」、歌人の松平盟子氏が 「家族と囲む食の喜び ~駿河屋の娘のそののち」という題で、与謝野晶子についてご発表。当方、ついついしゃべりすぎて、持ち時間をオーバーしてしまい、ご迷惑をおかけしました。反省しきりです。

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杢太郎や吉井が「食」へのこだわりを強く持っていたというのはほとんど存じませんでしたし、晶子は子だくさんの大変な状況でも、栄養価を考えたり、フランス仕込みの知識などを活用したりで、それなりに豊かな食生活を送ろうと努めていたことがわかりました。

光太郎も、少年時代には廃仏毀釈の影響で父・光雲の仏師としての苦闘期を送り、留学からの帰国後も決して裕福ではなかった智恵子との生活を経、戦中戦後の混乱期と、さまざまに工夫しながらの食生活でした。昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言し、さまざまな工夫を披瀝したりもしています。

今回、目からウロコだったのは、同じ「簡素生活と健康」の中での次の発言。花巻郊外太田村での山居生活に関してです。「川島」は川島四郎。元軍人(最終階級は陸軍主計少将)、栄養学者、農学博士でした。

高村 主食はもともと少かつたんですが、食糧には困らなかつた。みんな持つて来てくれるんです。お
   米でも
でも、漬物や南瓜なども……。蛋白質だけはなかつたな。
川島 田舎ではね……。
高村 それで蛙をとつて食べたんです。赤蛙をね。まだ動いているのを  皮をはいで……。近所には
   いゝやつ
がどつさりいたんです。

本当にカエルを食べていたのか? と、以前から疑問でした。座談会ということで、リップサービス的に話を盛っているのでは、と。ところが、松平氏曰く、カエルはフランスではごく普通の食材なので、十分あり得る、とのこと。
確かに、明治45年(1912)に書かれた「画室にて」という散文では、パリ留学中の思い出を語る中で、次の発言もあります。

就中(なかんずく)珍なのは、オルドーブルと云つて外にはないスープの前に出る一皿。それには、雁の胆、蝸牛なぞがつきます。然かも本当の料理を食べる仏蘭西人は、外の物には手もつけない。そのオルドーブルだけ食べるのです。オルドーブルだけで売出した家(うち)さへある。(略)大体の料理は五フランぐらゐで一寸食へるが、その家は五フランでオルドーブルが食べ度いだけ食べられる。

「オルドーブル」は「オードブル」。カエルもちゃんと入っていますね。日本での感覚で考えるとゲテモノですが、そうではなかったわけです。


終了後、近くの居酒屋で懇親会。

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晶子研究の泰斗で、旧知の逸見久美先生のお隣に座らせていただきました。逆サイドのお隣には、光雲の師・高村東雲の末裔に当たられる高村晴雲氏の講座で仏像彫刻を学ばれたというお坊様。驚いたことに、岡本かの子の血縁の方だそうでした。かの子は智恵子同様『青鞜』メンバーでしたし、かの子の夫・一平は東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生でした。いわずもがなですが、一平・かの子の子息はかの岡本太郎です。不思議な縁を感じました。


というわけで、4回にわたっての都内レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

春が来ると何よりも新鮮な食べものの多くなるのがうれしい。私は野のもの山のものが好きなので、摘草にわざわざ行くといふ程の閑暇はないが、そこらに生えてゐる草の芽の食べられるものは何でも食べる。

散文「春さきの好物」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ文章で光太郎が食べるとしている野草、山菜類 は以下のとおり。ハコベ、ヨメナ、ノビル、スベリヒユ、タンポポ、ツクシ、カンゾウ、カタバミ、イタドリ、ユキノシタ、フキノトウ、センブリ、オニフスベ、ワラビ、ゼンマイ、コゴミ、タラの芽、杉の芽、マタタビ。

親友で、やはり『明星』に拠っていた水野葉舟が『食べられる草木』という書物を著しており、参考にしたかもしれません。

3月22日(金)、六本木の泉屋博古館さんを後に、上野に向かいまして、東京国立博物館さんで開催中の特別展 御即位30年記念「両陛下と文化交流―日本美を伝える―」他を拝見いたしました。

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同じ皇室関連でも、泉屋博古館さんの 「華ひらく皇室文化 明治150年記念 明治宮廷を彩る技と美」が主に明治天皇の時代をメインにしていたのに対し、こちらは今上陛下と美智子さまを中心にした展示でした。しかし、会場に入ってすぐ展示されていた東山魁夷の大作「悠紀・主基地方風俗歌屏風」は、「華ひらく皇室文化」の図録にも掲載されており、そちらの巡回展のどこかで展示されたようで、かぶっている出品物もありました。

光太郎の父・高村光雲作の「養蚕天女」を見るのが主目的でした。今上陛下昭和8年(1933)のお生まれ、光雲は翌昭和9年(1934)に没しており、直接のつながりはないようです。あるとすれば陛下の生誕記念に光雲作の彫刻が献上された、的なことになりましょうが、そういった記録は見あたりません。

ではなぜ光雲の作が、というと、歴代皇后陛下が取り組まれている養蚕のからみです。明治期に照憲皇太后の始められた皇室御養蚕が、皇居紅葉山御養蚕所で今も続けられており、今回の展覧会では「皇后陛下とご養蚕」というコーナーが設けられました。

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で、光雲の「養蚕天女」。皇室には大小2種類が納められており、今月31日までは大きな方の作(像高約50センチ・大正13年=1924)が展示されています。平成28年(2016)に、宮内庁三の丸尚蔵館さんで開催された「第72回展覧会 古典再生―作家たちの挑戦」で拝見して以来でした。来月は小さな方(同25㌢・昭和3年=1928)にバトンタッチされるのではないでしょうか。

図録には大小の画像が並んで掲載されており、見比べてみると、ただサイズが違うというだけでなく、すこし趣が異なることがわかります。

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大きな方(左)は全体にスマートで、シュッとした感じです。大正期の作でありながら、そのお顔は美智子さまを彷彿とさせられます。小さな方(右)は、若干ふくよかな印象を受けます。ちなみに小さな方は大正13年(1924)の皇太子ご成婚を奉祝する御飾り棚一対を飾る各種工芸品の一つとして制作されたもので、他の工芸品とのバランス的なことも考慮されているかもしれません。

他には養蚕によって紡がれた絹糸で作られた物なのでしょうか、今上陛下ご幼少時のお召し物(図録の表紙に使われています)や、美智子さまのイヴニングドレスなども展示されていました。養蚕関係以外には、「外国ご訪問と文化交流」ということで、両陛下の外遊の際に紹介された美術品の数々など。

その後、特別展会場を後に常設展的なゾーンへ。トーハクさんでは、常設展といっても展示替えを頻繁に行っています。「近代の美術」のコーナーでは、時折、光雲の代表作で重要文化財の「老猿」(明治26年=1893)が展示されていますが、現在は休憩中(笑)。しかし、息子・光太郎の「老人の首」(大正14年=1925)が出ていました。


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光太郎と交流のあった思想家・江渡狄嶺の妻ミキからの寄贈品で、昭和20年(1945)に光太郎から江渡家に贈られたもの。光太郎生前の鋳造という意味では貴重なものです。

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東京美術学校での光雲の同僚にして、上野公園の西郷隆盛像の犬「ツン」、皇居前広場の楠木正成像の馬を担当した後藤貞行の「馬」(明治26年=1893)。楠木正成像の馬の原型か、とも思いましたが、若干フォルムが異なります。しかし、無関係ではないでしょう。躍動感がすばらしいと思いました。

さらに光雲の高弟にして、光雲と共に信州善光寺さんの仁王像を手がけた米原雲海の「竹取翁」(明治43年=1910)。光る竹の中になよ竹のかぐや姫を見つけ、驚く姿です。ユーモラスですね。


さて、「両陛下と文化交流―日本美を伝える―」は、来月29日まで。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

詩歌の世界では人間内部の矛盾撞着を無理に無くする事がいいとは限らない。矛盾に悩んで、その克服に精進しながらも、その矛盾の間から出る真実の叫を表現せずに居られないのが此の道に運命づけられた者の業である。

散文「某月某日」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ年に書かれた散文「自分と詩との関係」では、自分を「宿命的な彫刻家である」としています。「運命」と「宿命」、その使い分けには興味をそそられるところです。

3月22日(金)、品川の石井彰英氏邸をあとに、次なる目的地、六本木へ。泉屋博古館分館さんで開催中の 「華ひらく皇室文化 明治150年記念 明治宮廷を彩る技と美」を拝見して参りました。

都内ではすでに桜が見事でした。

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桜前線というのは不思議なもので、自宅兼事務所のある千葉は都内より暖かいのに、早咲きの何とか桜の類を除けば、まだ開花していません。

泉屋博古館分館さん。

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ゾーン的には2つに分かれ、一方は「鹿鳴館の時代と明治殿」ということで、主に明治期の皇室で使われていた日用品やボンボニエール(菓子器)などの類。こちらがメインと位置づけられているようでした。美術品の範疇には入らないのかもしれませんが、美術品と言っても過言ではない、明治工芸のクオリティーの高さが偲ばれます。

もう一方が、「明治宮廷を彩る技と美」。光太郎の父・光雲をはじめとする帝室技芸員らの作がずらり。

光雲の作は、明治32年(1899)に制作された「山霊訶護」。翌年のパリ万博に出品されたもので、現在は宮内庁さんの所有です。光雲令孫の写真家・故髙村規氏撮影による厚冊写真集『木彫髙村光雲』(平成11年=1999 中教出版)の函にも使われた、ある意味、光雲代表作の一つです。前期(4月14日(日)まで)のみの展示とのこと。
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17年ぶりに拝見しました。天空から襲来する猛禽に襲われそうになる小動物をかばう山姥がモチーフです。小動物は山姥の足元の兎と、腰の部分に猿。猿が配されていたことを失念しており、「あ、ここに猿がいたんだっけ」と思いました。
 
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図録(2,500円也)はこれまでの巡回展(名古屋秋田京都)と共通のものなので、今回出品されていない、「魚籃観音像」(明治期)、「聖徳太子像」(明治44年=1911)も掲載されています。

光雲と交流のあった彫刻家の作品も出品されており、興味深く拝見。

東京美術学校で光雲の同僚だった石川光明の「狗児置物」(明治43年=1910)。モフモフ感がたまりません。

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同じく光雲の同僚・竹内久一で「神鹿」(大正元年=1912)。今回のチラシににも使われた目玉の一つです。

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それから、陶芸家の板谷波山。元々美術学校の彫刻科出身でしたが、その後、陶芸に転じたという変わった経歴の持ち主です。その波山の木彫「鮭」(明治期)。波山の木彫は初めて拝見しました。

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ちなみに波山の陶芸家としての代表作「葆光彩磁珍果文花瓶」も出ていました。今回の出品物の中で、唯一の重要文化財です。会場の泉屋博古館分館さんの所蔵だそうで、「これはここにあったのか」と言う感じでした。

それから、日本画の橋本雅邦、漆工の柴田是真なども光雲の同僚。その他、陶芸の宮川香山、七宝の濤川惣助など、はやりの超絶技巧系の出品物もいろいろあり、目の保養になりました。
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共催展として、3月20日(水)~5月18日(土)の日程で、学習院大学史料館でも展示が行われています。こちらもやはり明治期の皇室で使われていた日用品をメインにしているようです(光雲作品の展示はないとのこと)。

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それぞれ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

結局顔はなるやうにしかならない随一のものだから、どうでもいい。無いと同じやうなものだと当人は考へるのが自然であらう。だから世の中で一番不明瞭なものは誰でも自分の顔だといふことになる。

散文「手形」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

人ぞれぞれに、その人の生きて歩んできた来歴が顔に表れ、ごまかしようがないというのです。多くの肖像彫刻を手がけてきた光太郎の言だけに、説得力があります。

昨日は都内に出ておりまして、3件、用事を片付けて来ました。品川→六本木→上野と。いったん千葉の自宅兼事務所に帰り、今日また吉祥寺に参ります。都内に泊まってしまえば時間的、体力的に楽なのですが、家のこともいろいろやらねばならず……。というわけで、4回連続で(突発的な何かがなければ、ですが)都内レポートを。

まず、品川区大井町。昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際に、光太郎が暮らした昭和20年代の花巻町とその周辺をイメージしたジオラマを制作して下さった、石井彰英氏のお宅。マンションの屋上に造られたプレハブ的な建物(そのままずばり「サロン ルーフトップ」)でジオラマ制作をなさいましたが、現在はミュージシャンでもあらせられる石井氏、そこでライヴ活動などもなさっています。

で、きたる4月2日(火、日比谷公園松本楼さん開催第63回連イメージ 1翹忌で、石井氏とお仲間の方々に、アトラクションとして音楽演奏をお願いしまして、快諾を得、その打ち合わせ兼練習風景を見学させていただきました。

バンドメンバーは、アコースティックギター/ヴォーカルで石井氏、アコーディオンを堀晃枝さん、もうお一方ヴォーカルに松元邦子さん。松元さんは、石井氏が自作のジオラマを撮影して作られたDVDで、ナレーションを担当して下さった方です。堀さんもBGMで参加されています。

3曲演奏して下さるとのことで、まずDVDにも収録されている石井氏作詞作曲の「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」。元々石井氏、智恵子終焉の地であるゼームス坂病院跡地(現在、光太郎詩「レモン哀歌」の詩碑が建っています)の近くにお住まいであることから、昔の大井町のジオラマを作られた中でゼームス坂病院も取り上げて下さり、それがそもそものきっかけで知遇を得た次第です。


他に、「星の王子様」。


そして「ずっとこのままま」。


それぞれ練習風景も拝見。すばらしかったです。

当方、昔、クイーンのジョン・ディーコンに憧れてベースギターを弾いていまして、サロンルーフトップ内にベースギターも立てかけてあり、それを見て「うずっ」と来たのですが、もう何年も手にしていませんし、フレットのどこが何の音だったかも忘れています(笑)。手に取って弾き始めれば思い出すのでしょうが、そのレベルで参加させて下さいとはとても言えず、黙って聴いていました。ただ、三曲目「ずっとこのまま」では、最後に聴衆を巻き込んでサビの部分を「皆さんご一緒に!」とするそうで、その際にはマイクを握ることになるかと存じます。

閑話休題。そういうわけで石井氏とお仲間の演奏で、連翹忌に花を添えていただきます。また、それとは別に、昨秋、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で大賞に輝いた宮尾壽里子さんとやはりお仲間の方々に、朗読もお願いしております。

【折々のことば・光太郎】

この橋は帝都の川から海に通ずる関門である。その海は京浜運河によつて横浜につながり、横浜から太平洋につながる。この橋は帝都の中心が太平洋に通ずる船の途(みち)の要害にあたる。太平洋の波必ずしも太平ならざる時、その開閉を司どるこの橋は何かの象徴のやうだ。

散文「鬨の渡し」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

この年に完成した勝鬨橋についてのエッセイの一節です。かつて開閉式の可動橋だったこの橋に、当時の微妙な対米関係をオーバーラップさせています。

智恵子没して1年余り。その心の空隙を埋めるかのように、かつて極力関わりを避けていた世間一般との交流を積極的に行うようになってきた光太郎。そうでもしないと自分も心を病むかもしれないという危機感があったのかもしれません。しかし、その世間はどんどん泥沼の戦時色に染め上げられていく真っ最中でした。昭和12年(1937)に始まった日中戦争は膠着状態、それを打開すべく、同16年(1941)には太平洋戦争開戦。そうした中で、光太郎は大政翼賛会中央協力会議の委員に推され、さらに日本文学報国会詩部会長などの任に付くことになります。そうなって行く素地が既に見える文章ですね。

毎年、春と秋にご紹介しています京都知恩院さんのライトアップ。今年の春は、昨年までより遅い時期の開催となりました。

知恩院 春のライトアップ2019

期  間 : 2019年3月29日(金)~4月7日(日)
時  間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場  所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
         友禅苑、三門下周辺、女坂、
阿弥陀堂
料  金 : 大人 500円  小中学生 300円

京友禅の祖・宮崎友禅翁ゆかりの庭園「友禅苑」や、日本最大級の木造二重門である「三門」、御身丈2.7mの阿弥陀如来坐像をお祀りする「阿弥陀堂」をライトアップします。
例年、3月初旬~中旬にかけて行われる東山花灯路に合わせて開催しておりましたが、今年は知恩院の桜の見頃の時期に合わせて3月末~4月初旬の開催となりました。ぜひこの機会に、知恩院へお参りください。

主な見どころ】
友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
阿弥陀堂
明治43(1910)年に再建。本尊は御身丈2.7mの阿弥陀如来坐像。様々な法要儀式を執り行う堂宇です。堂内に並べられている木魚は自由に叩いて頂けます。法然上人のみ教え「お念佛」に触れて下さい。

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関連イベント

「聞いてみよう!お坊さんのはなし」
ライトアップ期間中には、阿弥陀堂にて「聞いてみよう!お坊さんのはなし」を毎日開催します。お坊さんの話を聞いたことがないという方や、仏教のことをよく知らないという方も大歓迎です。どなたでもお気軽にお越しください。
【テーマ】
・3月29日(金)~3月31日(日) 『あの世のおはなし』
・4月 1日(月)~4月 4日(木) 『阿弥陀様ってどんなお方?』
・4月 5日(金)~4月 7日(日) 『「南無」の心』
【開始時間】
  18時~/18時40分~/19時20分~/20時~(各回お話15分~20分 木魚念仏体験10分程度)
  ※状況により時間が変更になる場合がございます。

切り絵作家望月めぐみ作品展示
ライトアップの期間中、友禅苑の白寿庵にて切り絵作家 望月めぐみさんの作品展示が行われます。約50メートルの機械漉き美濃和紙に施された切り絵作品を、ライトアップされた白寿庵の広間でお楽しみください。
3月29日(金)、4月6日(土)には望月めぐみさんのトークショーも開催されます。この機会に是非お越しください。
19時〜(全2回) 友禅苑内の白寿庵にて 見学無料(拝観料500円別途必要)


光雲作という聖観音菩薩立像。過日、15年ほど前に購入した『東京芸術大学百年史 京美術学校篇 一巻』という書籍を久しぶりに見ておりましたところ、写真が載っていました。この写真の存在、すっかり忘れていました。

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キャプションによれば、明治25年(1892)の作で、後のページの記録等を見ると、上野公園の西郷隆盛像や皇居前広場の楠木正成像などと同様、美術学校として注文を受けたもののようです。「委嘱品竣功ノ分」というリストに、「観音銅像 壹体」「注文者 東京 福田循誘」とあり、おそらくこれがそうでしょう。福田は東京深川本誓寺の住職でしたが、歿後は知恩院さんに墓が建てられています。

やはり西郷像などと同様に、光雲が主任だったということで、光雲作となっているのだと思われます。ちなみに同じリストには西郷隆盛像も載っています。集合写真に写っている岡崎雪声は、西郷像や楠木正成像の鋳造を手がけており、この観音像もそうなのでしょう。明治25年(1892)というと、光太郎はまだ下谷高等小学校に在学中でした。

何はともあれ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

家は古風な作りで、表に狐格子の出窓などがあつた。裏は南に面して広い庭があり、すぐ石屋の石置場につづき、その前には総持院といふ小さな不動様のお寺があり、年寄の法印さまが一人で本尊を守つてゐた。父の家の門柱には隷書で「神仏人像彫刻師一東齋光雲」と書いた木札が物寂びて懸けられてゐたが、此は朝かけて夕方とり外すのが例であつた。

散文「谷中の家」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

この文章の書き出しは「明治二十四五年頃の話である。」。まさしく知恩院さんの観音像が作られた頃の回想です。後の本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)に転居する前の、谷中に住んでいた時期です。

まずは仙台に本社を置く『河北新報』さん。先週15日(金)の「阿武隈川物語」という連載で、光太郎智恵子に触れて下さいました。

<阿武隈川物語>(36)新しい女育んだ山河

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 みちのくの入り口の阿武隈川沿いは古来、歌や俳句、詩の題材として親しまれた。時に人生にもたとえられる川の流れは、詩情をかき立てる。豊かな文学を育んできた流域を散策した。(角田支局・会田正宣)
 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。
 あまりに有名な「智恵子抄」の「樹下の二人」。「ほんとの空」の下、二本松市を歩くと、高村智恵子が夫の光太郎を、喜々として故郷を案内した姿が目に浮かぶようだ。
 酒造業の実家が破産し、統合失調症を発症した智恵子。美しい詩はかえって、智恵子の悲劇を浮き彫りにする。光太郎は後に、「智恵子抄は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であった」と述懐している。
<朗読大会を開催>
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 精神を病んだ智恵子は、地元ではタブーだった。智恵子没後50年の1988年、同市の理容業熊谷健一さん(68)が旧安達町商工会青年部で記念事業を企画。「智恵子のふるさと」のまちづくりの一歩になった。
 熊谷さんは「智恵子のまち夢くらぶ」を結成し、講座や行事を開催。没後80年の2018年は智恵子抄朗読大会を開いた。
 熊谷さんは「完璧な人間はいない。葛藤を乗り越え、美と愛に生きた智恵子と光太郎の生き方が人々の胸に迫る」と魅力を語る。
 芸術と恋愛に生きた智恵子は「新しい女」の一人だった。高校時代から智恵子抄を熟読する同市の詩人木戸多美子さん(60)は「画家を目指す女性はいなかった。おとなしく見えて、内に激しい情熱を秘めた人だった」と敬意を込める。
<愛テーマに詩作>
 智恵子が光太郎を追って訪れた上高地(長野県)で2人は婚約した。光太郎が結婚後初めて、愛をテーマに妻に贈った詩が、詩集「道程」に所収の「山」だ。
 「無窮」の力をたたへろ
 「無窮」の生命をたたへろ
 私は山だ
 私は空だ
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 木戸さんは「光太郎には自然と一体化する表現が多いが、それは智恵子との出会いがもたらした。東京育ちの光太郎が、深く広い福島の自然を喜んだ」と解釈する。「樹下の二人」に、生命の循環や、山から流れた水が大河を形成するイメージを読み取るという。
 山を愛する人は、克己、自立といった近代的価値観と人生観を投影する人が少なくない。詩に彫刻に、芸術家として山のような存在である光太郎。では、智恵子は奔流と言うべきか。
 智恵子に、雑誌のアンケートに答えたこんな遺文がある。「生命と生命に湧き溢(あふ)れる浄清な力と心酔の経験、盛夏のようなこの幸福、凡(すべ)ては天然の恩寵(おんちょう)です」
 智恵子は、安達太良山と阿武隈川に育まれた。
[高村智恵子]1886~1938年。旧姓長沼。日本女子大に進学、洋画家を志す。平塚らいてうの雑誌「青鞜」創刊号の表紙絵を描く。光太郎との夫婦生活は自由恋愛を貫き、入籍は智恵子の死の5年前。統合失調症を発症後、紙絵を制作した。

昨秋、二本松市で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」に触れています。記事にある木戸多美子さんは、その審査員を務められた方です。


続いて、『茨城新聞』さん。3月17日(日)の一面コラムです。

いばらき春秋 2019.3.17

その自転車道は「五輪への道」と呼ばれる。筑西市を縦断する五行川の左岸5.7㌔に及ぶ堤上。喜多(旧姓川﨑)真裕美さん(38)はここから、オリンピックへ羽ばたいた▼下館二高で競歩を始め20004年アテネ、08年北京、12年ロンドンと3大会に出場した。北京まで海老沢製作所(筑西市)に所属、高校時代から親しんだ自転車道が練習場所だった▼歩き続ける彼女を見守ったのは、はるか南東の名峰筑波のみではない。地元経済人団体の同友クラブは「夜も安全なように」と照明灯を設置してくれた。喜多さんは「この道がなければ今の私はない」と振り返る▼「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。人生はしばしば道に例えられる。詩人・彫刻家の高村光太郎は詩「道程」で、自ら人生を切り開いていく決意を高らかにうたった▼卒業シーズン、進学や就職へと巣立ち行く若者たちはどんな道を歩むのだろう。試練もあろう。大切なのは、自転車道を黙々と歩いた少女のように夢を諦めないことだ▼五輪のへの道に沿う桜並木のつぼみが膨らんできた。間もなく花開き、旅立つ者たちを祝福してくれるだろう。喜多さんは今、石川県小松市の粟津温泉「喜多八」で若女将(おかみ)を務める。道は続いている。

成人式の頃と、卒業・入学シーズンには定番のように「道程」が取り上げられます。ありがたいことです。


さらに『週刊新潮』さん。「文庫双六」という連載で、先週、今週と2週にわたって光太郎の名が。

【文庫双六】『智恵子抄』の舞台となった房総半島の“淋しい漁村”

 獅子文六はフランス人の女性と結婚し、大正十四年に娘が生まれた。奥さんは病気になり、フランスに帰国後、亡くなった。
  そのあと獅子文六は男手ひとつで娘を育てたが、男やもめの暮しに疲れて再婚する。『娘と私』はその事情を描いた家庭小説。昭和三十六年にはNHKでテレビドラマ化され大人気になった(北沢彪(ひょう)主演)。
  娘は身体が弱かった。そのため、獅子文六は小学生の娘を連れ、ひと夏を九十九里浜の片貝(かたかい)で過ごした。
  昭和十年頃。当時、東京の人間は避暑に湘南や房総に行くことが多かった。湘南の場合は別荘が普通だったが、房総では漁師や農家の家を借りた。
  獅子文六も鰯漁が盛んな片貝漁港に近い漁師の家を借りた。
  空気はいい。魚はうまい。牛乳や卵も新鮮。娘はたちまち元気になった。「私」も海辺の暮しが気に入る。
  とくに漁師料理「なめろう」が好きで毎晩、これで晩酌したほど。
  房総半島の海辺の町にはいまでもひなびた昭和の漁村の面影が残っている。その風景に惹かれ、私は五十代の頃、中年房総族と称し、よく房総を旅した。
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  片貝にも行った。ここは高村光太郎と妻の智恵子ゆかりの地と知った。昭和九年、光太郎は精神を病んだ智恵子を片貝漁港に近い真亀納屋(まがめなや)の親類の寓宅に預けた。週に一度、薬や食料を持って東京から見舞いに行く。当時はこのあたり、淋しい漁村だった。
  詩集『智恵子抄』に収められた「千鳥と遊ぶ智恵子」はここを舞台にしている。
 「人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の 砂にすわつて智恵子は遊ぶ 無数の友だちが智恵子の名をよぶ。 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――」
  現在、真亀の浜辺にこの詩碑が建てられている。
  かつてこの片貝まで東金からの九十九里鉄道という軽便(けいべん)鉄道があった。昭和三十六年に廃線になったが可愛い、いい鉄道だった。いま遊歩道が作られている。

[レビュアー]川本三郎(評論家)
1944年、東京生まれ。文学、映画、東京、旅を中心とした評論やエッセイなど幅広い執筆活動で知られる。著書に『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞・桑原武夫学芸賞)、『白秋望景』(伊藤整文学賞)、『小説を、映画を、鉄道が走る』(交通図書賞)、『マイ・バック・ページ』『いまも、君を想う』『今ひとたびの戦後日本映画』など多数。訳書にカポーティ『夜の樹』『叶えられた祈り』などがある。最新作は『物語の向こうに時代が見える』。
 新潮社 週刊新潮 2019年3月7日号 掲載 

【文庫双六】光太郎と賢治の“意外な接点”――梯久美子

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 高村光太郎が詩集『智恵子抄』を出版した1941年は、太平洋戦争が始まった年である。真珠湾攻撃のニュースに高揚し、〈この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる〉(「十二月八日」)と詠ったことはよく知られている。
  45年4月の空襲で東京のアトリエが焼失、光太郎は岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六の家に身を寄せた。清六は宮沢賢治の弟である。
  光太郎は生前の賢治に一度だけ会っている。26年12月、上京した賢治は光太郎のアトリエを訪ねた。夕刻になってからの突然の訪問で、手の離せない仕事があった光太郎は翌日来てくれるように言って玄関先で別れた。だが、賢治はそれっきり訪ねてこなかったという。
  無名の賢治は当時30歳、すでに名の知れた詩人で彫刻家だった光太郎は43歳。おそらく賢治は遠慮したのだろう。
  37歳で賢治が死去した後、光太郎は賢治の詩を高く評価し、全集の編纂にもかかわった。
  そうした縁から賢治の弟・清六と親しくなり、空襲で焼け出されたとき、清六を頼って花巻に疎開したのである。
  清六の著書『兄のトランク』には、その当時を回想した文章が収録されている。疲れ果てた様子で宮沢家にやってきた光太郎は、ていねいなもてなしを受けて元気を取り戻すが、8月10日、花巻に大規模な空襲があり、宮沢宅も焼けてしまう。
  戦後の光太郎は、花巻の郊外に小屋を建て、7年間、独居する。
  戦時中に戦意高揚詩を多数書いたことへの自責の念からと言われているが、その場所が花巻だったのは、玄関先で顔を合わせただけに終わった賢治との縁からだった。
  終戦直後、光太郎は宮沢家の避難先を見舞い、その後も長い間、賢治と清六の父のために山羊の乳を届けたという。
[レビュアー]梯久美子(かけはし・くみこ ノンフィクション作家) 新潮社 週刊新潮 2019年3月14日号 掲載

最後の一文、若干、勘違いがあるようですが……。


他に『信濃毎日新聞』さんにも関連記事が出ているのですが、また日を改めてご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

秋の彼岸が来て、或る朝芙蓉の葉に風が鳴る音を聞くと、私は生きかへつたやうに木を彫る事をおもふ。秋から冬にかけて木彫の仕事をするたのしさは言ふべくもない。心が澄み、身に生気が満ち、手は能く物の円みを知り、鑿は殆ど一個の生きものとなる。

散文「制作」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

ちょうど半年ずれた時期の文章ですが、あしからず。

とにかく夏の暑さに弱かった光太郎でしたが、それだけでなく、夏場は湿度が高すぎて木彫用の鑿や彫刻刀が悲鳴をあげるというのです。

お世話になっております明星研究会さん主催の公開講座的イベントです。

第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎

期    日 : 2019年3月23日(土)
会    場 : 武蔵野商工会議所 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7

時    間 : 13:30〜16:30
料    金 : 1,500円 (資料代を含みます/お支払いは当日にお願いいたします)

第1部:対談 杢太郎と勇「美食家(グールメ)と健啖家(グールマン)―美食への憧れ」
 「グルメと言われるが―杢太郎は何を食べたか」
   丸井重孝(歌人・伊東市立木下杢太郎記念館)
 「極道に生れて河豚のうまさかな―グールマン・吉井勇」
   細川光洋(静岡県立大学)
第2部:対談 晶子と光太郎「日仏の出会う食卓風景」
 「苦しい中でも工夫して/高村光太郎の食」
   小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 「家族と囲む食の喜び ~駿河屋の娘のそののち」  
   松平盟子(歌人)
 日本の四季は食卓に旬の素材と料理を提供し、茶や酒を用意しました。感性豊かな「明星」の歌人・詩人たちにとっても同じ。西洋への憧れを秘めたサラダ、パン、コーヒーやリキュール酒などに揺れる心を託し、日常の彩りとすることも……。与謝野家では子供たちとどんな食卓を囲んでいたのでしょうか? 祇園に出入りした吉井勇は? 伊豆伊東の海を眺めて育った木下杢太郎は? パリ体験が人生の刻印となった高村光太郎は?
 今年は木下杢太郎の詩集『食後の唄』刊行から100年に当たります。これを記念して、詩歌や随筆などに描かれた食の現場・食をめぐる心情風景を追体験してみましょう。多くの皆さまのご来場を心よりお待ちしています。

申し込み 氏名・連絡先(電話)を添え、メールかFAXでお申し込み下さい。当日受付も可能です。
      メールアドレス : apply@myojo-k.net   FAX : 0463-84-5313(古谷方)
終了後、懇親会 会費4,000円 (当日受付でお申し込みください)

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『朝日新聞』さんと『毎日新聞』さんに案内が載ったようです。

光太郎の部分を担当することになりました。ぜひお越し下さいませ。


【折々のことば・光太郎】

一つの型(かた)にまで上昇しない芸術には永遠性が無い。ただ別個的の状態を描き、現場の状況を記録し、瞬間の感動を叙述したに止まる芸術には差別美だけあつて普遍美が無い。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

同じ文章で具体例は挙げられていませんが、他の文章を見ると、ピカソあたりを念頭に置いての発言のようです。「型」といっても、類型を繰り返すことではないとも書いています。

富山県から演劇の公演情報です。

劇団「喜び」公演「智恵子抄」

期   日 : 2019年3月21日(木・祝)
会   場 : 高岡市生涯学習センター (ウィング・ウイング高岡) 
富山県高岡市末広町1-7
時   間 : 14:00〜
料   金 : 前売 一般2,000円 中・高生1,000円 当日 一般2,500円 中・高生1,500円
         お菓子・飲み物付

彫刻家であり詩人である高村光太郎その妻智恵子。珠玉の愛の物語を『智恵子抄』の詩と共にお届けします。
脚本・一人芝居 茶山千恵子

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茶山さんという方、直接は存じ上げませんが、以前にも高岡で光太郎智恵子関連の市民講座や朗読をなさって下さっていた方です。



ありがたいところです。


【折々のことば・光太郎】

あの世とは何も遠いところではない。あの世とはみんなの頭の中にいつでも存在してゐるし、現世といつでも交通してゐるところである。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

前年に亡くなった智恵子の新盆を迎えての感懐です。

同じ文章では「智恵子が今更あの世からのこのこお精霊さまになつて此の家にやつて来るなどとはしらじらしくて考へられず、おまけに智恵子は年中此所にゐるのだから、そんなあらたまつた事をする気が起らない」「私はあの変な戒名といふもので智恵子をよぶ気にはまるでなれない。何々院何誉何々大姉とは随分人を茶にしてゐるもので、たとひ自分の戒名があるとしてもそんな名をよばれて、すぐに「はい」と返事が出来ようとはおもへない」と書いています。

昨日は盆ならぬ、彼岸の入りでした。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

昨日は高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんに行っておりました。

1月から開催されていた第103回企画展「文学者の書―筆に込められた思い」が最終日で、書家の石川九楊氏による関連行事としての記念講演会「文学者の書―その魅力を味わう」が行われ、拝聴して参りました。

1月に同展を拝見に伺った際は裏口から入りましたが、昨日は堂々と正面玄関から(笑)。

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45名の文学者の書が展示されていますが、看板には、目玉となる人物の書に関する一言。光太郎のそれも。

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まずは展示会場へ。真っ先に光太郎の作品を拝見。同館所蔵の短冊で、何度も観たものですが、何度観てもいいものです。

展示全体は1月に拝見しましたので、今回は光太郎と関わりの深かった人々のもののみを改めて観ました。当会の祖・草野心平や、光太郎の師・与謝野夫妻の書など。

その後、閲覧室で調べ物。事前にネット上の蔵書検索を使い、キーワード「高村光太郎」でヒットしたもののうち、どういうものだかすぐにわからなかったものを閲覧させていただきました。

大半は、他の人物が光太郎について語った文章などで、既知のものでしたが、1点だけ、実に面白いと思ったのが、昭和24年(1949)に盛岡の新岩手社というところから発行された『友達 FRIEND』という児童向け雑誌。児童詩の投稿コーナーがあり、ずばり「高村光太郎先生」という詩が入選していました。作者は、光太郎が戦後の7年間を暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)近くの山口小学校の児童です。

選者は光太郎や宮沢賢治と交流のあった森荘已池。「詩人の詩を書いたので面白いと思いました」との評。

同じ号の巻頭カラーページには、やはり森が解説を書き、昭和2年(1927)の雑誌『大調和』に載った光太郎詩「偶作十五篇」から2篇が転載されていました。


その後、いったん駐車場に戻り、途中のコンビニで買って置いた昼食を車内で食べ、いざ、同館2階の講演会場へ。定員150名とのことでしたが、おそらくそれを上回る人数でした。

講師の石川氏。

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平成27年(2015)にNHK Eテレさんで放映された「趣味どきっ! 石川九楊の臨書入門」で、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の光太郎書を扱って下さり、同番組のテキストでは当方もお手伝いさせていただいたもので、その関係で、一度電話でお話しした記憶があるのですが、お目にかかるのは初めてでした。

書の実作以外にも、書論書道史のご研究でも実績を積まれている石川氏、書とはどういう芸術なのかということを、わかりやすく、時にユーモアを交え、語られました。

例として挙げられたのが、今回の企画展出品作。同じ「山」という字でも、人ぞれぞれに異なる書きぶりで、その人が「山」という字をどう書いているかで、その人のいろいろな部分が見えてくる、というお話でした。光太郎の「山」もピックアップして下さいました。

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右上の有島武郎などは、かなり速いスピードですっと書いているのに対し、ここに挙げた中で最もゆっくり書いているのが光太郎だとのこと。よく言われる光太郎の彫刻刀で刻みつけるような書法が表れているとおっしゃっていました。

左は光太郎の「山」をホワイトボードに臨書されているところです。

また、当会の祖・草野心平の書も非常に特徴的だということで例に挙げられました。

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終了後、少しお話をさせていただき、さらにあつかましくも持参したご著書にサインしていただきました。家宝にします(笑)。


花巻郊外旧太田村での7年間、戦時中の翼賛活動を恥じて自らに与えた罰として、彫刻を封印した光太郎。代わりに、というわけではないのですが、この時期には書の優品を数多く産み出しました(それ以前から味のある書をたくさん書いては居ましたが)。そして再上京した最晩年には、書の個展を開く強い希望を持っていました。或る意味、書は光太郎にとって、究極の芸術だったようにも思われます。

今後も、光太郎の書に注目していきたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

亡妻智恵子の背中にかなり大きなほくろが一つあつて、私はその魅力のために、よく智恵子の背中をスケツチした。陰影を少しもつけずに背中を描いて、そこへほくろを一つ入れるとぐつと肉体の円みが出て来るのが面白かつた。
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散文「ほくろ」より 
昭和14年(1939) 光太郎57歳

右は昭和11年(1936)の雑誌『歴程』(心平の主宰です)第2号に載ったもの。同12年(1937)の『現代素描全集』第8巻に転載されました。残念ながら、現物は残存が確認出来ていません。

光太郎のデッサン、或る意味、「書」にも通じるような気がします。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

名古屋秋田京都と巡回した企画展の最終会場・東京展です。 

明治150年記念 華ひらく皇室文化 明治150年記念 明治宮廷を彩る技と美 

期 日 : 前期 2019年3月16日(土)~4月14日(日)  後期4月17日(水)~5月10日(金)
会 場 : 
泉屋博古館分館 東京都港区六本木1丁目5-1
時 間 : 10:00〜17:00
料 金 : 一般800円(640) 高大生600円(480) 中学生以下無料 ( )内20名以上の団体
休 館 : 月曜日(4月29日 5月6日は開館 4月30日 5月7日休館) 4月16日(展示替え)

共催展 3月20日(水)~5月18日(土)学習院大学史料館(東京都豊島区目白1-5-1 学習院大学内)


明治時代(1868-1912)、諸外国との外交のために皇室では洋装を採り入れ、洋食にて外国使臣をもてなしました。その舞台は、延遼館、鹿鳴館そして明治宮殿へと移り変わります。宮中晩餐会の食器やドレス、ボンボニエールなど華やかな宮廷文化を紹介します。
また、明治皇室は伝統文化の保護を提唱し、「帝室」(皇室)が「技芸」(美術)の制作活動を奨励する「帝室技芸員」制度が誕生します。美術界の最高の栄誉とされた彼らの作品は、日本文化の象徴として海外でも賞賛されました。
明治150年、そして新時代が幕を開ける今、明治皇室が守り伝えようとした日本の技と美をご覧ください。

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関連行事

◆ 講演会
 2019年3月16日(土) 15:00~16:00
 「明治宮廷を彩る技と美」 小松大秀氏(本展監修者・永青文庫館長)
 2019年4月13日(土) 15:00~16:00
 「明治宮廷と染織の美」 田中潤氏(学習院大学非常勤講師)
  (当日10時より入場された方一名につき一枚、座席指定付整理券を配布 定員:50名)
 ◆ ギャラリートーク
 2019年3月30日(土) 15:00~16:00
 「宮中晩餐会とボンボニエール」 長佐古美奈子氏(学習院大学史料館学芸員)
◆ 夕やけ館長のギャラリートーク
 2019年4月20日(土) 15:30~16:30  ナビゲーター:野地耕一郎(泉屋博古館分館長)
◆ ランチタイム・ショートギャラリートーク
 2019年3月22日(金)、4月11日・18 日(各木) 12:15~12:45
 ナビゲーター:森下愛子(泉屋博古館分館学芸員)
◆ シンポジウム
 「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美-」第88回学習院大学史料館講座
 日時 2019年4月27日(土) 13:30~16:30予定  場所 学習院創立百周年記念会館正堂
 第1部「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美-」を各分野より語る
 第2部 討論「明治の美術工芸と皇室の果たした役割」
 出演 彬子女王殿下・小松大秀氏・長崎巌氏・野地耕一郎 他
    入場無料・事前申込不要・当日先着700名


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皇室ゆかりの帝室技芸員ということで、光太郎の父、光雲の木彫「山霊訶護」(明治32年=1899)が出品されています(前期のみ)。翌年のパリ万博に出品され、銀牌を受賞した作品です。現在は宮内庁さんの所蔵です。

「山霊」とは「山姥」。足元におびえる小動物を配し、頭上の何者かに向かって叱るような表情を見せることで、猛禽類の襲来を暗示しています。

モデルは光雲の実父・中島兼松とされています。像高約67センチ、比較的大きな作品ですね。

平成14年(2002)に、茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代」展に出品され、拝見しましたが、その後目にした記憶が無く、久々に観てこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

何はしかれ、此の悠久山の一本欅の異様の美しさは越後の風土を物語り、又越後の人達の性格の美を象徴してゐる。むやみとひよろ長く伸びないで、むしろ深く根を張り、四方に枝を伸ばし、みつしりと葉をつけ、まろくこんもりと静かに立つてゐる。

散文「悠久山の一本欅」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

「悠久山」は、新潟県長岡市にある山。この年5月、木彫「鯉」を頼まれていた長岡の素封家・松木喜之七を訪ねた際に、足を伸ばしたようです。

今は桜の名所として名高いようですが、この頃、関東でよく見る欅とは樹相の異なる欅の大木を目にし、つづった文章の一節です。豪雪地帯ゆえに枝が雪で折れ、それが復活しの繰り返しで、特異な形となったとのこと。今でもこの木は残っているのでしょうか?

それにしても、その姿を越後の人々の精神性に例え、「むやみとひよろ長く伸びないで、むしろ深く根を張り、四方に枝を伸ばし、みつしりと葉をつけ、まろくこんもりと静かに立つてゐる。」としていますが、或る意味、光太郎自身の目指す人間像とも言えそうですね。

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アートオークション大手の毎日オークションさん。時折、光太郎や光太郎の父・光雲関連が出品されます。

3月9日(土)開催の「第600回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」では、光太郎のブロンズ「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)が出まして、50万円で落札されました。ただし、出品名は「老人の首」となっていました。

元々はテラコッタで、モデルは大倉財閥の創業者・大倉喜八郎。光雲が頼まれた大倉の肖像彫刻のための原型として作られました。というわけで、きちんとした作品として作られたものではなく、ブロンズの鋳造も光太郎歿後。さらにテラコッタの段階で、左の耳が欠けてしまっているという瑕疵もあります。

しかし、その表情等、非常に味のあるものですし、大理石の台座も付いたちゃんとした鋳造で、50万円というのは妥当な線でしょう。

光太郎、後に昭和6年(1936)になって、この彫刻の制作風景を詩にしています。

  似顔

 わたくしはかしこまつてスケツチする001
 わたくしの前にあるのは一箇の生物
 九十一歳の鯰は奇觀であり美である
 鯰は金口を吸ふ
 ――世の中の評判などはかまひません
 心配なのは国家の前途です
 まことにそれが気がかりぢや
 写生などしてゐる美術家は駄目です
 似顔は似なくてもよろしい
 えらい人物といふ事が分ればな
 うむ――うむ(と口が六寸ぐらゐに伸びるのだ)
 もうよろしいか
 仏さまがお前さんには出来ないのか
 それは腕が足らんからぢや
 写生はいけません
 気韻生動といふ事を知つてゐるかね
 かふいふ狂歌が今朝出來ましたわい――
 わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て
 一片の弧線をも見落とさないやうに写生する
 このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝国資本主義発展の全  
  実歴を記録する
 九十一歳の鯰よ
 わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ


プロレタリア文学やアナーキズムにも影響されていた光太郎、妖怪のような大富豪に対し、容赦ありません。


同じ毎日オークションさん、今日までの「第601回毎日オークション 新作工芸」には、光太郎の実弟にして、鋳金の人間国宝だった豊周の作が出ています。どうも「大倉喜八郎の首」と出所が同じような気がします。

題して「朧銀花入」。昭和43年(1968)の作ということになっています。

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共箱の箱書きには、「高村光太郎賞終了記念 昭和四十三年四月 豊周」とあり、まちがいなく豊周の筆跡です。

「高村光太郎賞」は、筑摩書房さんの第一次『高村光太郎全集』が完結した昭和33年(1958)から、その印税を、光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという豊周の希望で、10年間限定で実施されました。造形と詩二部門で、歴代受賞者には、造形が柳原義達、佐藤忠良、舟越保武、黒川紀章、建畠覚造など、詩では会田綱雄、草野天平、山之口獏、田中冬二、田村隆一ら、錚々たる顔ぶれ。審査員は高田博厚、今泉篤男、谷口吉郎、土方定一、本郷新、菊池一雄、草野心平、尾崎喜八、金子光晴、伊藤信吉、亀井勝一郎など、これまた多士済々でした。

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昭和38年(1963)からは、造形部門の審査員と受賞者による「連翹会展」が開催され、顧問として豊周が上記の「朧銀花入」を出品しています。そして昭和43年(1963)、高村光太郎賞終了に伴い、関係者に同型のものが配布されたのでしょう。

主催者による「予想落札価格」は、3万円から5万円と設定されていますが、こうした由緒を考えると、もっと行ってもいいような気がします。店頭販売でこの値段だったら、当方は迷わず買いますね。ただし、分割払いにしていただきたいところですが(笑)。

毎年、連翹忌では、光太郎の没した中野の貸しアトリエの庭に咲いていた連翹から株分けした連翹を、光太郎遺影と共に飾っています。その際に使う花瓶は当方自宅兼事務所にある適当なものを使っていますが、いずれは豊周の作を入手し、それを使いたいものです。


【折々のことば・光太郎】

私は以前から自説は述べるが、人と論争をあまり為ない。論争そのものが嫌ひなのではないが、論争には相互の態度に或る資格がいると思つてゐる。論争とは結局共同の真理追究に外ならない。ただあい手をやりこめる事ばかり考へてゐるやうな論客には論争する資格が無い。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

永田町の人々にぜひ読んでいただきたい一節ですね。もっとも、それだけでなく、文学研究などの世界にもこうした手合いが少なからず存在するのですが……。

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合唱系の情報を2件。

鹿児島高等学校音楽部 第71回全日本合唱コンクール全国大会出場記念 特別演奏会

期    日 : 2019年3月17日(日)
会    場 : かごしま県民交流センター 県民ホール 鹿児島県鹿児島市山下町14
時    間 : 14:00開場  14:30開演
料    金 : 無料

本校音楽部の全日本合唱コンクール全国大会出場を記念して、特別演奏会を開催します。
コンクールの自由曲「レモン哀歌」、合唱劇「星の王子さま(冒頭15分)」など、感謝の気持ちを込めて歌います。
皆様ぜひお越しください。

客演/桃坂 寛子(ピアノ)
賛助出演/丸山 真也(本校2016年度卒業・東京藝術大学2年)・aiwendil(インターカレッジ男声合唱団)

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昨秋、長野市で開催された第71回全日本合唱コンクール全国大会高等学校部門に、九州代表として出場した鹿児島高等学校音楽部さんの演奏会です。自由曲で西村朗氏作曲「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」を演奏されましたが、そちらもプログラムに入っています。

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もう1件。毎年ご紹介していますが。
会    場 : 福島市音楽堂大ホール 福島県福島市入江町1-1 
時    間 : 9:30開場  10:00開演
料    金 : 3/21~23 2,500円    3/24 3,000円

声楽アンサンブルコンテスト全国大会は、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」に焦点をあてた、2名から16名までの少人数編成の合唱グループによるコンテストです。全国の合唱レベルの向上を図るとともに、歌うことの楽しさを福島から全国に発信することを目的として、2008年(平成20年)から開催し、今大会で12回目を迎えます。

3月21日(木・祝) 中学校部門
3月22日(金)           高等学校部門
3月23日(土)   小学校・ジュニア部門、一般部門
3月24日(日)   本選

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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節から採られ、福島では復興の合い言葉となっている「ほんとうの空」(光太郎詩では「ほんとの空」)の語が、サブタイトルに使われています。当初は単なる合唱アンサンブルコンテストでしたが、平成23年(2011)のやはりこの時期に計画されていた第4回大会が東日本大震災によりやむなく中止となり、平成25年(2013)の第6回大会から、震災からの復興を祈念する意味もあって「ほんとうの空」の語がサブタイトルに盛り込まれるようになりました。

毎年そうなのですが、出演団体は発表されるものの、それぞれの演奏曲がわかりません。改善していただきたいところなのですが……。


【折々のことば・光太郎】

古代仏画にある暈繝彩色の叡智に驚く。もう一度あの色調の深さを生かさねばなるまい。もう一度あの超現実的真理の現実性を把握せねばなるまい。今日の日本画の稀薄さを救ふためには。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

最近になって評価が高まってきた伊藤若冲や曾我蕭白などの作画を見たら、光太郎はどんな感想を持っただろうと思います。

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まずは『産経新聞』さん、東日本大震災がらみで、3月11 日(月)の記事。昨年刊行された和合亮一さんの詩集『QQQ』を紹介しています。

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詩集『QQQ』、表題作が光太郎詩「牛」(大正2年=1913)からのインスパイアで、その件にも触れて下さっています。その部分のみ引かせていただきます。

■やせた牛
 〈やせた牛はのろのろ歩く?/やせた牛は土を踏みしめて歩く?〉…。そう書き出される詩集『QQQ』の表題作は、すべての文章の末尾が疑問形。原発事故後の福島を生きる人々の心を覆う、答えの出ない問いの連続と響きあわせるように、「Q」をタイトルに連ねている。
 実際に目にした光景が基になっている。震災の1年後、和合さんはヘリコプターに乗り、事故を起こした福島第1原発から20キロ圏内の上空を飛んだ。車や船が手つかずのまま散乱するなか、主を失った牛たちも見えた。心に刻まれた超現実的な光景に、〈牛はのろのろと歩く〉と始まる高村光太郎(1883~1956年)の詩「牛」を重ねた。
 「高村光太郎の『牛』は豊かさの象徴でもあった。じゃあ今は?という疑問ですよね」。そんな不条理感覚が、収録された16の詩を貫く。除染作業で〈土の中に土を埋められ〉た庭が描写され、児童の多くが避難し廃校となった学校も出てくる。「時がたち、いつしか当たり前でないことを当たり前に感じている。でも悲しみや痛みが軽くなったわけじゃない。みんな心の奥に眠らせている状況だと思うんです」
 原発が立地する大熊町に一時帰宅した住民から聞いた話をつづる詩「家族」にも痛みはにじむ。思い出が詰まった自宅は荒れ果て、子供のぬいぐるみもぼろぼろに…。和合さんは、家の惨状を目にした住民が漏らした〈情けなくて〉というひと言を推敲(すいこう)段階で何度も削ったが、最終的には残した。
 「『情けない』や『悔しい』という言葉は、詩の解釈の方向性を限定しかねない。でもその言葉を入れることで、この詩は重力を持つ。思ったんですよ、自分がやりたいのは表現の斬新さではなく『感情の記録』なんだと。『復興』の掛け声に乗れない人々の、奥深くにある複雑な感情です」


続いて、『読売新聞』さんで、3月7日(木)の記事。同社も主催に入っている「東京国立博物館特別展 御即位30年記念 両陛下と文化交流―日本美を伝える―」の紹介で、目玉の出品物として、光太郎の父・光雲作の「養蚕天女」を大きく取り上げて下さいました。

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光太郎智恵子、それから光太郎実弟の豊周にも触れられています。


さらに『朝日新聞』さんの一昨日の夕刊。同じ「東京国立博物館特別展 御即位30年記念 両陛下と文化交流―日本美を伝える―」と、六本木の泉屋博古館さん分館および学習院大学史料館さんで明後日から開催される「明治150年記念 華ひらく皇室文化 ―明治宮廷を彩る技と美―」展(こちらも光雲作品「魚籃観音」が出るはずです)についても記述があります。

追記 問い合わせてみましたところ、泉屋博古館さん分館で、「山霊訶護」という木彫が出品とのことでした。

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どんどん取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

雲の切れた、明るい透明な西の夕空に、今宵は三日月と星のトルコの旗が美くしい。天体と天空との光度の諧調が目もさめるやうで、何か見知らぬ気体が其処に光を屈折してゐるとしか見えぬ。かういふ瞬間に所謂エエテル気層中の秘密がうかがへないものかしら。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

「エエテル」(エーテル)とは、アインシュタインにより否定されるまで主流だった、光を波動として伝えるために必要な質物質で、宇宙空間に充ち満ちていると考えられていました。もともとは古代ギリシャで提唱されていた空気の上層を指す語でした。

光太郎は大正15年(1926)に書かれた詩「火星が出てゐる」でも、「エエテル」を登場させています。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

新刊書籍です。

一色采子のきものスタイルBOOK 母のタンス、娘のセンス

2019年3月20日 一色采子著 世界文化社 定価1,600円+税

あなたの家にも母や叔母からのお下がりきもの、ありませんか?それらはちょっと古臭くさかったり、地味だったりしてタンスの肥やしになっているのではないでしょうか。著者の一色采子さんはそんなきものや帯を、自分のセンスですっかり見違えるようなコーディネートにして着こなし、日々の暮らしを楽しんでいます。
例えば、お母さんの地味色きものに自分の娘時代の派手な帯で大人可愛くしたり、きものの色と帯の色を合わせてワントーンにまとめてハンサムに着こなしたり、レトロな色合わせのきものが白い帯を合わせることで新しく
誂えたきもののように甦ったり。自由な発想から生まれるスタイルは、見ているだけでも楽しくなります。
そして何より、タンスに眠っているお古のきものを簡単に今っぽく着こなすためのアイディア集がたくさん散りばめられているのです。

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目次
 Part.1 母譲りのアイテムをとことん着こなす
  theory.1 母のタンスの渋味きもの着こなし術
    オリエンタル帯で作るオンリースタイル/娘時代の派手帯できりりと引き締めて
    無地感覚の万能帯のススメ/ワントーンでハンサム顔に
  theory.2 母のタンスのレトロ晴れ着の着こなし術
    白地の帯でセンスアップ引き算/銀地の帯で洒脱にドレスダウン/
    金地の帯で華やぎコーディネート
  theory.3 母のタンスの個性派帯の着こなし術
    鮮やかきものと合わせて若々しく/柄×柄でポップアートのように/
    娘から母へのラブレター
 Part.2 娘のセンスで綴るきものダイアリー
    睦月/如月/弥生/卯月/皐月/水無月/文月/葉月/長月/神無月/霜月/師走
    父から母へのラブレター
 Part.3 娘のセンス、アイデア集
    裾回しを染め替え、黒地の江戸小紋を万能選手に/
    羽織の足し算で、ちょい派手きものをエイジレスに/
    小さく赤を効かせて、仄かな色香を演出/お洒落の心意気を映す、草履の春夏秋冬
    と愛用の足袋/
きもの姿に優雅な腕時計を/装いの矜持を忍ばせる扇子
    小粋な遊び心を添える、愛しのアニマルモチーフ/
    ひと工夫で快適に、タンスの収納アイデア
    娘から父へのラブレター
 福島県二本松市の“私的"プチ観光ガイド
    二本松城跡/大山忠作美術館/智恵子の生家・智恵子記念館/
    岳温泉・陽日の郷あづま館/
大七酒造/檜物屋酒造店/
    国田屋醸造・蔵カフェ千の花/母への思いが生んだ“瓢箪から駒”


このブログにたびたびご登場いただいている、女優の一色采子さん。お父様は智恵子と同郷の日本画家・故大山忠作画伯で、智恵子をモチーフにした作品も複数描かれています。ご自身も、連翹忌や智恵子命日のレモン忌にご参加下さったり、智恵子生家で「智恵子抄」の朗読をなさったりしています。昨秋は、お父様が光太郎と交流のあった渡辺えりさん主演の「喜劇有頂天団地」にご出演。当方、新橋演舞場さんで拝見して参りました。

で、その一色さんのご著書が刊行されました。雑誌『家庭画報』さんのサイト「家庭画報.COM」で連載されていた「母のタンス、娘のセンス」がベースです。基本、お母様のお召し物をアレンジしたり、さまざまなコーディネートを加えたりの、和装の着こなし術の指南書的な書籍です。

智恵子とお父様の故郷・福島二本松の観光大使も務められている一色さんですので、最終章は二本松の観光ガイドになっています。

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智恵子生家・智恵子記念館さんもご紹介下さいました。

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素敵なお召し物の数々が、カラー写真でこれでもか、と満載。見ていて楽しい書籍です。しかし、こと和装に関しては女性用はさまざまな生地や柄があり、得ですね。当方も和装は好きで、ちょっとしたお呼ばれの際や、最近は連翹忌も着物で参りますが、男性用の着物はとにかくバリエーションが限られています。アンサンブルはよくある鉄紺色のものと銀ねずのものの2組。それ以外は奇抜に感じて手が出ませんし、他に白紋付きもありますが、普段使いにはなり得ません。また、袴は仙台平の比較的いい物を持っていますが、袴まで着用すると大げさな感じで……。

ところで、一色さん、今年の連翹忌のご案内に対し、一度はご出席の連絡を賜り、またお会い出来るのを楽しみにしていましたが、追ってやはりご欠席とFAXが来まして、残念です。「大山」はご本名です。「喜劇有頂天団地」の後も、横内正さんたちと「マクベス」の舞台にご出演なさったりと、ご多忙のようです。

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というわけで、『一色采子のきものスタイルBOOK 母のタンス、娘のセンス』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

極度に純粋になれば人は誰でも狂気になるにちがひない。極度の純粋には社会性の存在する余地がない。社会性の喪失する時当然その人は社会から閉め出される。それを人が狂人とよぶ。純粋である事を理想としながら、しかもあまり純粋すぎる事は人間に許されない。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

当会の祖・草野心平主宰の雑誌『歴程』に発表されたのが昭和14年(1939)ですが、前年に亡くなった智恵子をゼームス坂病院に見舞っての感想ですので、書かれたのはもっと以前と推定されます。

智恵子の陥った状況を冷静に(ある意味冷徹に)分析できているような気がします。とはいうものの、そうした智恵子の姿を見ると、完膚無きまでに打ちのめされて何も手につかなくなる、と、この前段で述べています。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

昨日は3.11。あれからもう8年経つかという感じです。

8年前のあの日、宮城県女川町では、当時、女川光太郎の会事務局長だった貝(佐々木)廣氏が、津波に呑み込まれて亡くなりました。昭和6年(1931)、光太郎が紀行文「三陸廻り」執筆のため、女川を訪れたことを記念し、画家でもあった貝氏が中心となり、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、光太郎文学碑が建てられました。以来、やはり貝氏が音頭を取って、毎年8月9日(光太郎が三陸に向けて東京を発った日)に、女川光太郎祭が開催されることとなり、貝氏歿後は奥様の英子さんが世話役を引き継いで、現在も続いています。

東日本大震災後、当時の女川第一中学校の生徒たちが、「1000年後の命を守るために」を合い言葉に、町内21ヶ所の津波到達地点より高い場所へランドマークとなる石碑の建立を計画。かつて光太郎碑が「100円募金」で建てられたことに倣い、建設資金1,000万円を本当に募金で集めました。それが「いのちの石碑」です。

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昨日は、テレビ朝日系のニュースで「いのちの石碑」プロジェクトを進めるかつての中学生たち――「女川1000年後のいのちを守る会」が取り上げられました。

石碑と教科書に思いを…林キャスターが見た被災地

 東日本大震災から8年の月日が経った。亡くなられた人は去年から2人増え、1万5897人に。行方不明者は6人減り、2533人に。そして、いまだに5万1778人もの人が全国で避難生活を続けている。宮城県女川町では被災当時小学生だった子どもたちが20歳となり、あの日、体験したことを「1000年先まで伝えよう」と活動を続けている。
  津波到達地点よりも高い場所に設置されている「女川いのちの石碑」。現在、17基が町内に設置されている。すべての石碑の裏面には外国語の記述も。これらの石碑を建てる活動は震災当時、小学6年生だった若い人たちによって進められている。そのメンバーの渡辺滉大さん(20)と鈴木智博さん(19)。2人とも今年、成人式を迎えた大学生だ。800人以上が犠牲となった宮城県女川町。震災直後の春に中学校に入学した彼らは、社会科の授業をきっかけに1000年後の命を守るため、津波の教訓を記した石碑を設置するプロジェクトを立ち上げた。1基目の石碑は中学3年生になった2013年秋に設置することができた。石碑は町内21カ所に設置する予定で、これまでに17基が完成。残りの4つは来年の秋ごろまでに設置する見込みだ。命を守るため、津波からの避難を呼び掛ける石碑づくりは、まさに子どもたちが主役となって進められてきた。
  そして、次に取り組んだのは「いのちの教科書」作りだ。中学卒業後、「女川1000年後のいのちを守る会」を発足した彼ら。進学や就職などそれぞれの道を歩みながらも定期的に集まって震災への備えを学習する教材作りも進めてきた。この教科書、いずれは英訳して津波の多い東南アジアなどにこの教訓を伝えたいと考えているそうだ。1000年後のいのちを守る会では全国の学校などでの講演も行っている。今月も渡辺さんは母校の後輩たちに向けて震災当時の体験談や継続している活動の意義などを語った。

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過去の映像も織り交ぜ、さらに石碑以外にも彼等が取り組んだ「いのちの教科書」にも触れられました。


昨日、女川で行われた追悼式では、テレ朝のニュースにも出演された鈴木智博さんが「遺族代表のことば」を述べられました。

 東日本大震災から今日で8年を迎えます。この8年を長いと感じる方も短いと感じる方もいるでしょう。私にとって8年はあっという間だったと思います。8年前、私は小学6年生で卒業式の練習を終え教室で反省会をしていました。その時震災にあいました。経験したことない地震の揺れ。そして津波によって壊滅した街を眺め、頭で理解できずただただぼう然としていたのを覚えています。母と祖父母の行方が分からないことを教えられたのはそれから約1週間後のことでした。涙もほとんど出ず、顔では笑っているのに心から笑うことができませんでした。
 私は中学時代の同級生とともに「1000年後のいのちを守るために」を合言葉に、震災を未来へ伝えていく活動を行っています。町民どうしで絆を持つ。避難がしやすい安全な街を創る。いのちの教科書や石碑をつくり後の時代に伝える。この3つで津波の被害を減らし、1000年後を生きる人たちが辛い想いをしないようにすることを目標にしています。ですが活動が始まった当初、震災を思い出すのが嫌で、進んで参加しようとは思いませんでした。ましてや自分の体験を人の前で話すことなど考えたくもありませんでした。ですが必死に活動に取り組む同級生たちや、他の地域で震災関連の活動をする同世代の人たちを見て少しずつ、自分も向き合わなければいけない。また何かできることがあるのではないかと思うようになりました。ですがまだ完全に震災を受け止められていません。いろんな 想 いを持って、葛藤もありますが現在も活動を続けています。
 避難先や仮設住宅で5年半を過ごし、今は県内の大学で教職について学んでいます。そして今年成人式を迎えることができました。式の前にお墓参りに行き成人式の事を伝えました。きっと喜んでいると思います。女川町の新成人として責任をもって震災を伝えていきたいと思います。
 平成という時代が幕を閉じ、新しい時代になろうとしている今、震災前に住んでいた尾浦、そして女川の町は復興が進み、あの時とは見違えるほどきれいになりました。サンマ祭りや復幸祭などの大きなイベントには全国から観光客が訪れ、大きなにぎわいをみせています。
 ただ、震災の風化も進んでいます。今年震災を経験していない子どもたちが小学2年生になります。このまま何もしなければ震災の記憶や教訓は忘れ去られ、あの時の繰り返しになってしまいます。だから直接関係のない人も映像で津波を見るだけではなく、実際にあった現実として、見て、聞いて、感じて自分でいのちを守る意識をもってもらいたいです。
 私たちが建てた女川いのちの石碑にはこう刻まれています。
 今、女川町はどうなっていますか?
 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています。
 私は震災から立ち直るこの町の一員として震災を語り継ぎ、これからも自分の体験と向き合っていきたいと思います。
 平成31年 3月11日 遺族代表 鈴木智博


彼らへの支援は今でもあちこちで……。

3月7日(木)の『中日新聞』さん。

3・11の経験を基に絵画展 宮城から田原に移住の山本さん

015 東日本大震災で被災し田原市に移住した学校職員、山本美貴子さん(41)と、移住後に再婚した夫の画家、拓也さん(47)によるチャリティー展覧会「3.11 HOPE MARKET」が豊橋市曙町南松原の園芸店「garage(ガレージ)」で開かれている。三十一日まで。
 美貴子さんは震災の発生時、長男と宮城県女川町で二人暮らし。隣の石巻市の職場にいた美貴子さんは近くの高台の神社に避難し、水に囲まれて一晩を明かした。がれきや遺体をかきわけて女川に戻ったのは三日後。美貴子さんは女川へ向かいながら、家族の死を覚悟した。家族は幸いにも無事だったが、「三十人の友人を亡くした」。
 一年ほど避難所や仮設住宅を転々とした。しかし、大切な人を亡くした女川で暮らしつづける苦しみが募り、震災翌年の二〇一二年四月に転居。「どこでもよかったけれど、海で育ったから海のない場所での生活が考えられなかった」と田原を選んだ。
 田原市への移住後、女川でテント暮らしだった時にボランティアとして物資を手渡してくれた拓也さんと夏のアートイベントで再会。共通の趣味のサーフィンなどで愛を深め、一七年三月十一日に入籍した。
 美貴子さんは、被災経験を基に制作した作品を中心に新作の絵画六点を出展。家や車がキャラクターの上にのっている作品は、津波にさらわれた地を表現。月日がたって花が咲いた様子も同時に描き、「津波は憎たらしいけれど、私たちは自然の中で生きてるんだ」との思いを込めた。
 コーヒーを使ってセピア調に仕上げられているのも作品の特長。「故郷では津波とともに古くていいものがなくなってしまったように感じる。セピアに描くのは、古いものへのあこがれかも」と話す。
 会場には過去作のポストカードやポスターも。一方、「シルクスクリーン」と呼ばれる印刷技法を用いたオリジナルデザインのTシャツやトレーナー、かばんやタオルなど、拓也さんの作品も並ぶ。
 二人は「震災は風化しつつあるが、南海トラフ地震だっていつくるか分からない。展覧会をきっかけに、どう逃げるか、どこで落ち合うのかなど、自分たちの防災を家族で話してもらえたらうれしいです」と口をそろえる。
 展覧会は午前十時~午後七時、最終日は午後三時まで。木曜定休。作品を販売し、その売り上げから経費を差し引いた全額を、津波到達地点に石碑を置き後世に伝える女川町の「いのちの石碑プロジェクト」などに寄付する。

山本さんの件は、一昨年にも報道されていました。


同じ『中日新聞』さんで、今日の記事。

いのちの石碑 伝えたい 津波の教訓 女川中生刻む 白山・蕪城小教諭が授業企画

016 東日本大震災で被災した宮城県女川町の女川中学校で始まった「いのちの石碑プロジェクト」について考えてもらおうと、白山市蕪城小学校の内野貴司教諭(29)が、大震災が起きた十一日、五年生の社会科授業で取り上げた。児童約三十人が石碑を造った被災者の思いに寄り添い、次世代に残す大切さを学んだ。
 プロジェクトは、「千年後の命を守る」をテーマに当時の女川中学の一年生が震災の教訓を記した「いのちの石碑」を町内二十一の浜に建てる活動。「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」など、それぞれの石碑には教訓や被災者の思いをつづった俳句が刻まれている。
 内野教諭は昨年八月、女川中や、津波で多くの児童が犠牲になり、閉校した同県石巻市の大川小学校の校舎跡を訪れた。女川中の元教諭で、小六の次女を大川小で亡くした佐藤敏郎さん=石巻市=らと交流した。内野教諭は同じ悲劇が繰り返さないよう石碑を建てる女川中の活動を児童に伝えようと授業を企画した。
 内野教諭が「女川中の生徒はどんな思いで石碑を造ったのか」と呼び掛けると、児童は次々に手を挙げて「将来、震災を知らない人にも思い出してもらえる」「生き残った人の気持ちは壊れていないと思う」と意見を述べた。
 大川小を訪れたことのある横山栞菜(かんな)さん(11)は「被災地にはまだがれきも多いけど、石碑が建つことで私たちにも教訓になる」と話した。内野教諭は「家に帰って震災のニュースを目にした時に心から復興を願ってほしい。今日の授業が、被災者の思いに心を寄せるきっかけになれば」と期待を込めた。


そして、3月10日(日)にNHK BSプレミアムさんで放映されたドラマ「女川 いのちの坂道」。

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上記画像には、最初にご紹介した光太郎文学碑が写っています。「津波」の「津」の字の上です。

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こちらだと、一番下の中央やや左。周辺は「メモリアルゾーン」として整備中ですが、建立当時、日本一巨大な文学碑と言われた横幅10メートルの石碑で、津波で倒れたままとなっています。いずれ再建するとのことですが。

平祐奈さん演じる主人公・咲(さく)は、「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーという設定です。実際に彼等の担任だった阿部一彦先生は、同じく被災地を舞台にした平成25年(2013)の朝ドラ「あまちゃん」でも先生役だった皆川猿時さんが演じました。

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女川中学校のシーンでは、「いのちの石碑」に関わる、おそらく実際の掲示物が使われていました。

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しかし、咲は、「女川1000年後のいのちを守る会」の活動にあまり熱心ではないという設定。未だに母親が行方不明のまま、それが元で父親ともうまく行っておらず、ダンサーを目指して上京したものの、そちらでもなかなか芽が出ない、ということで、ネガティブな感情を持ち続けています。うまい描き方だと思いました。被災地の皆さん、ポジティブな方々がよく報道等で取り上げられますが、失礼ながら、みんながみんな前向きなわけではないというのが現実です。

特に咲をネガティブにさせている要因が、老人たちを助けるため、何度も海岸と高台を往復して、結局、津波にさらわれた母親が英雄扱いされていること。そして、その母親を止めなかった老婆。

しかし、咲は、新たな「いのちの石碑」の除幕式を兼ねた避難訓練で、かつて母親がそうしたように、その老婆を背負って坂道を上ります。

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そうしたことで、もろもろの思いを吹っ切る咲。最後は仲間と共に力強く、序幕のロープを引きます。

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NHKオンデマンドさんで配信されていますが、ぜひ、再放送もしていただきたいものです。


今後も、「女川1000年後のいのちを守る会」の動きを、こちらのブログで追っていこうと思っております。


【折々のことば・光太郎】

地中の冬がほんとに来て此の水が冷え切るのは一月だ。胸をつくやうに冷たい水道の水の出る頃こそ私の製作慾の燃えさかる戦ひの季節だ。もうぢきだ。
散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

生涯、冬を愛した光太郎。この点は残念ながら、当方、同意できません(笑)。自宅兼事務所の庭の連翹や桜の蕾がふくらんできたのを見て、「もうぢきだ」と思っています。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

昨日は、福島県いわき市に行っておりました。その前に花巻・盛岡と廻っていたのですが、いわきには立ち寄る形でなく、いったん千葉の自宅兼事務所に戻り、また改めて東北にとんぼ返り。公共交通機関だと、いわきから自宅兼事務所までが面倒ですし、目的地のいわき市立草野心平記念文学館さんがJRの駅から遠い、ということもありまして。

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で、いわき市立草野心平記念文学館さん。

先月もお邪魔しましたが、冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」を開催中で、昨日は、関連行事としての市民講座的な「居酒屋「火の車」一日開店」が行われました。

「火の車」というのは、昭和27年(1952)、当会の祖・草野心平が文京区田町に開いた居酒屋です。その後、新宿に移転、区画整理により取り壊される同31年(1956)まで存続しました。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎もよく足を運んでいましたし、他にもそうそうたる顔ぶれが常連で、一種の芸術サロン的な役割を果たしたわけです。

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まずは文学館ボランティアの会の皆さんによる寸劇「火の車の思い出」。

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心平と、心平により「火の車」のにわか板前に仕立てられた同郷の橋本千代吉の二人が「火の車」の思い出を語るという設定でした。橋本には、『火の車板前帖』(昭和51年=1976)という回想録――ここに集った酔漢たちのとんでもない行状録があり、珍しく下ネタを披露した光太郎も描かれています。

最後に観客全員で、心平作詞の「火の車の歌」を斉唱。かつて店でよく歌われていたとのことで、遠く明治末、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」で、酔った参加者たちが、やはり中心メンバー北原白秋の「空に真っ赤な雲の色」を歌っていたというエピソードを思い出しました。

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続いて、館内の講堂に移動、「「火の車」ランチタイム」。

料理研究家の中野由貴さんのご指導のもと、文学館ボランティアの会の皆さん、中野さんのお仲間の方々が腕をふるった料理をいただきました。心平が考案し、「火の車」で出されていたメニューの一部、さらに心平と交流のあった光太郎と宮沢賢治ゆかりの料理が、ビュッフェ形式で並べられました。

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中野さんの解説を拝聴しつつ、美味しくいただきました。


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当方、昨年、花巻高村光太郎記念館さんの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part .2」の講師を務めさせていただきましたが、その際に作成したレジュメが回り回って中野さんのお手元に行き、参考にして下さったそうです。光太郎がほめたフランスパンが出たり、「火の車」メニューの「白夜」(スープ)には、光太郎の好物の一つ、大根の千六本(せろっぽう……マッチ棒ほどの大きさに刻んだもの)を入れていただいたりしました。

また、おむすびは賢治が羅須地人協会で推奨していたという「陸羽132号」。おみやげにも同じお米をいただきました。右下は生産者の方のご挨拶。下に写っているのがおみやげの「3合入り陸羽132号」です。

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お腹も満たされたところで、最後に食卓トーク「心平・賢治・光太郎 ある日の食卓」。

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002講師は中野さん……のはずだったのですが、賢治研究家でもあらせられるお医者様の浜垣誠司氏、さらに当方も講師席に座らされ(笑)……。

それもこれも同館学芸員の小野浩氏の差し金です。バイタリティーに溢れ、さまざまな部分で強引に事を進めた心平よろしく、小野氏の力わざも半端ではありません(笑)。最近は顔つきまで心平に似てきました(笑)。

その前に、展示ケースをわざわざ開けていただき、昭和28年(1953)の3月15日、「火の車」の大福帳に書かれた光太郎の筆跡――開店一周年を祝うメッセージ――を見せていただいたので、文句は言えませんが(笑)。

終了後、中野さんやそのお仲間の方々、小野氏、さらにいわきご在住の彫刻家・安斉重夫氏(賢治作品へのオマージュとしての彫刻も作られています)などの皆さんと、いわき駅前で軽く打ち上げ(当方、中座させていただきましたが)。

というわけで、有意義ないわき紀行でした。

ところで今日は3.11。昨日も、行き帰りの愛車内で見たテレビで、東日本大震災がらみの番組がいろいろありました。明日はそのあたりで書かせていただきます。


【折々のことば・光太郎】

母は全くの無筆で、お家流まがひの金釘流でただたどしく書きつらねた文字であつたが、私の帰国の決心を最初に書き送つた手紙を見ての歓喜の情をそのまま夢心地に書きつけたものと思はれる。こんなよろこびの歌をどうして無視出来ようかと思つて私は読みながら泣いた。

散文「よろこびの歌」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

明治42年(1909)、パリで受け取った母・わe5be2049かからの手紙に関してです。
10年のつもりで出かけた留学を3年あまりで切り上げ、光太郎は帰国の途につきましたが、その主な要因は、結局、西洋人は理解不能という感覚でした。そして日本に帰って、自分の学んだ新しい芸術を日本に根付かせようという使命感。しかし、最終的に決断をさせたのは、帰国しようかどうしようか迷っていると書いた手紙に対する、「早く帰ってこい」という母からの返答でした。

大根の千六本など、「食」の部分でも母から受けた影響が大きかった光太郎。終生、母への敬慕を胸に抱き続けていました。

先ほど、盛岡から帰って参りました。

岩手県立大学さんの公開講座「高村光太郎のホームスパン」を拝聴しましたので、レポートいたします。

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会場は盛岡駅前の複合施設・いわて県民情報交流センター アイーナ内の同大アイーナキャンパス。

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いい天気でしたが、盛岡市民の皆さんのソウルマウンテン・岩手山は少し雲がかかっていました。

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講師は同大教授の菊池直子先生。何と、日本女子大学家政学部のご出身だそうで、もろに智恵子の後輩に当たられます。

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同大の研究紀要に論文としてご発表なさる(近日中に刊行)そうですが、昨日はその骨子となる2点について、ご発表されました。

ホームスパンとは、現在も岩手で継承されている羊毛を使った織物で、光太郎とホームスパンの関わりが2点あり、服飾の専門家としてのお立場から、それぞれを丁寧にご説明下さいました。

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まず1点。「ホームスパンの毛布」。

戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)までの丸7年間、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に逼塞していた光太郎、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再上京しました。翌28年(1953)、像の完成序幕後、一時的に村に帰ったものの、宿痾の肺結核でもはや身体はボロボロ、東京で療養せざるを得なくなり、結局、同31年(1956)に中野の貸しアトリエで亡くなりました。

光太郎歿後、中野にあった遺品の大半が花巻高村光太郎記念会さんに寄贈され、その中に、ホームスパンらしき毛布というか、膝掛けというか、大きな布が1枚、含まれていました。永らく箱に入ったまま収蔵庫にしまわれていて、その存在に気づいたのが平成28年(2016)。これはホームスパンではないか、ということで、当時の光太郎日記などを当たってみると、「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回ありました。

「メーレー夫人」というのは、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)。ファーストネームの「エセル」は統一されていますが、ファミリーネームの方は文献によって「メレー」「メーレ」「メイレ」「メーレー」「メレ」「メアリー」など、さまざまです。外国語を無理矢理カタカナにする際、よくある話です。

メレは世界的に有名な染織家だったそうで、伝統的な手工芸が滅びつつあることに危機感を抱き、いわゆるアーツ・アンド・クラフツ運動にも関わったとのこと。そして、陶芸の分野でアーツ・アンド・クラフツを進めていたバーナード・リーチ、さらにリーチ経由で日本の民芸運動の濱田庄司とも交流があったそうです。リーチといえば、明治40年(1907)に、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、それがきっかけで来日した人物です。濱田も光太郎とつながっています。

そしてメレは、リーチとのつながりから、来日はしなかったものの、大正15年(1926)と昭和3年(1928)の2回、日本で作品展を開きました(1回目はリーチとの2人展)。そのいずれかの折に、会場の鳩居堂画廊を訪れた光太郎が、メレの作品を購入したと、岩手でホームスパン制作に携わっていた福田ハレという女性が光太郎本人から聞いたと回想文に書いています。しかも、それは一緒に見に行った智恵子が欲しがったため、とのこと。

こちらがその毛布(というか膝掛けというか)。

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当方も以前に実物を見せていただいたのですが、モダンなデザインの中にも温かみが感じられ、しっかりした作りでしかも大きく、いろいろ使いでがありそうだと思いました。

菊池先生、そしてメレに関するご著書もある染色工芸家の寺村祐子氏が鑑定した結果、メレ作品の特徴が随所に表れており、メレ本人、或いは弟子がたくさんいたとのことで、メレ工房の作と断定していいだろう、ということだそうです。

昭和20年(1945)、空襲で亡き智恵子と過ごした光太郎アトリエ兼住居は灰燼に帰しましたが、その前に布団類などは防空壕に入れていたと、光太郎の随筆に記述があり、おそらくこれもその中に入っていたのだろうと思われます。ものがいいものであるということと、智恵子が欲しがって買ったという話が事実なら、智恵子との思い出の品、という部分もあるわけですね。

現在、日本国内には確認できているメレの作品というのは数点しかないそうで、そういう意味でも実に貴重なものです。


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もう1点は、現在も花巻高村光太郎記念館さんに常設展示されている光太郎愛用の服。こちらは来歴もはっきりしており、やはり花巻郊外旧東和町でホームスパン制作に携わっていた、及川全三の弟子だった福田ハレが織ったホームスパンで、仕立ては盛岡の名テーラー・四戸慈文です。ちなみに四戸は、光太郎と交流の深かった画家・深沢紅子の父だそうです。光太郎が「猟人服」を作ってくれ、と頼んだそうで、その際、とにかくポケットをたくさんつけてくれという注文だったとのこと。それは昭和37年(1962)に筑摩書房から刊行された佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』という、花巻周辺の人物の証言集的な書籍に記述があります。

光太郎曰く「この服を着ればカバンも要らず風呂敷も要らず、大きなスケッチブックも入れば文具箱も入り、手さげ鞄に入れる位はみなおさまる服にしてもらいたい」。さすがにスケッチブックは無理だろう、と思っていたのですが、菊池先生がこの服を調べてみると、何とまあ、後ろ身頃が巨大なポケットになっていて、本当にスケッチブックが入るというのです。これには驚きました。

光太郎は山小屋のあった太田村の村おこし的なことも常々考えており、その一環として、ホームスパン制作を村に根付かせようと、あれこれ画策したそうです。その甲斐あって、一時はホームスパン制作が行われましたが、残念ながら技術を学んだ娘さんが北海道に転居してしまったりで、太田地区のホームスパンは途絶えてしまいました。

しかし、及川の系譜の人々が盛岡や旧東和町などに健在で、岩手県としては今でもホームスパン制作が続いています。

話は戻りますが、そういう土地で、世界的に有名なメレ夫人の作が新たに発見されたということの意義も大きいですね。

いずれ、花巻高村光太郎記念館さんの方で現物の公開が期待されるところです。

そういうわけで、実に興味深い講座でした。

今日も今日とて公開講座に行って参ります(笑)。いわき市立草野心平記念文学館さんの「冬の企画展 草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」の関連行事で、「居酒屋「火の車」一日開店」。料理研究家の中野由貴さんが講師です。「衣・食・住」のうち、昨日は「衣」、今日は「食」です(笑)。


【折々のことば・光太郎】

千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない。

散文「智恵子の切抜絵」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

心を病んだ智恵子が、入院先のゼームス坂病院で作った紙絵(「紙絵」と光太郎が命名するのは戦後)は、メレ夫人の毛布のように防空壕に入れて置いたのではなく、茨城、山形、そして花巻の3ヶ所に疎開させ、それで無事に残りました。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

昨日、千葉の自宅兼事務所を発ち、光太郎第二の故郷というべき岩手花巻に来ております。毎年三回ぐらいは来花しておりますが、今年はこれが初めてです。
現在、宿泊させていただきました大沢温泉♨さんでこのブログを書いております。戦後、光太郎がよく泊まった宿です。

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まだオフレコなので詳細は控えますが、来年の初夏、中部地方のある美術館さんで、光太郎とさらに二人の美術家三人にスポットを当てる展覧会が企画されており、こちらに協力要請がありました。その出品物をお借りする交渉のため、花巻に来た次第です。

まず、郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さん。

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光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)に隣接しています。

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今年はこの時期としては雪が少ない状況です。ただし、昨日は晴れていましたが、奥羽山脈を越えて来る季節風に乗って、風花がしきりに舞っていました。

その後、市街地に戻り、光太郎と交流のあった宮沢賢治の関係の林風舎さんへも足を運びました。

今日は別件で、盛岡まで北上し、過日ご紹介しました岩手県立大学さんの公開講座「高村光太郎のホームスパン」を拝聴して参ります。

詳しくは帰りましてからレポートいたします。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

智恵子の故郷、福島県二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』、今月号は道の駅の特集が組まれています。

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市長・三保恵一氏の玉稿。智恵子に触れて下さっています。

こちらにもあるとおり、同市には3ヶ所の道の駅が存在し、そのうち一つが「道の駅 安達 智恵子の里」。智恵子生家/智恵子記念館に近い、旧安達町にあります。全国的にも珍しいという、国道を挟んで上り線側と下り線側別々に展開している施設です。

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新商品も開発されているようで、「智恵子の思い出 甘酸っぱいレモンゼリー」というのは存じませんでした。次に行く時は買ってこようと思っています。

「通常のレモンゼリーより、酸味が濃いゼリー。一粒が大きいゼリーなので、食べ応え抜群!」だそうで、想像するだけで唾液が分泌されます。「パブロフの犬」状態です(笑)。

もう一点紹介されている「智恵子の里だよりレモンサブレ」は、昨秋、現代アートの祭典「福島ビエンナーレ 重陽の芸術祭2018」の一環として智恵子の生家/智恵子記念館を会場に行われた「重陽の芸術祭in智恵子」の際にゲットしましたが。

上記2点は上り線側での販売のようです。

下り線側にも「道の駅 安達 智恵子の里レモンケーキ」。素朴な感じのものですが、バラ売りで一つから買えるそうで、ありがたいですね。

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いっそのこと、二本松市として「レモンの里」というキャッチコピーにして、道の駅で「全国レモンサミット」でも開催し、ゲストは米津玄師さん……などと勝手なことを考えています(笑)。

まじめな話としては、来月、二本松市でレモンならぬ「2019全国さくらシンポジウム㏌二本松」が企画されています。また近くなりましたら詳しくご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

智恵子のいのちは此家に充満する。智恵子の個体が灰になつてしまふと同時に、智恵子の存在はアトムとなつて至る処に遍在し、到る処を充填する。百千倍となつた復活である。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

昭和13年(1938)、レモンをがりりと噛んで天に昇っていった智恵子。光太郎はその後、智恵子がアトム(原子)となって自分の周囲に充満していると信じるようになりました。


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ぼちぼち受験シーズンも終わりに近づきつつあります。千葉県では、公立高等学校入試のうち、「後期選抜」が2月28日(木)に実施され、昨日、合格発表がありました。

で、社会の問題。光太郎の父・光雲に触れられました。

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4択の問題ですし、意外と正答率は高いのではないかと思われますが、どうでしょうか。中学生諸君、鷗外と漱石は迷うかもしれませんが、滝廉太郎はバッハやベートーヴェンと並んで音楽室に肖像画が掲げられているように思います。なぜか音楽室の肖像画にある日本人作曲家というと、山田耕筰、中山晋平、滝廉太郎のトリオですね(笑)。

一昨年には、群馬県の高校入試でやはり光雲がらみの問題が出ました。その際にも引用しましたが、文部科学省で定めている「中学校学習指導要領」の社会編、歴史的分野で掲げている目標を抜粋します。

(2) 国家・社会及び文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史上の人物と現在に伝わる文化遺産を,その時代や地域との関連において理解させ,尊重する態度を育てる。

ちなみに現行の中学校社会の教科書、主に8社で発行されているようですが、8社中6社で「文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史上の人物」の一人として光雲をとりあげています。


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ここに光太郎の名が無いのが、残念ですが……。


【折々のことば・光太郎】

太古、人間の手が道具といふものを初めて作り出して以来、手は人類文化一切の工作者となつた。顕微鏡でなければ歪みの見えない程の精密工具の扱ひにしても、高速度工具鋼の処理にしても、結局は其以上に高度な手の神経が其を統轄するのである。

散文「手」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

0.01ミリとかの単位で製品を研磨する職人さんの話など、時折テレビ等で見かけます。

光太郎や光雲の木彫なども、そうした「手」の感覚から産み出されたものなのでしょう。

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昨日に引き続き、3月9日(土)、NHK BSプレミアムさんで放映されるドラマ「女川いのちの坂道」関連で。

本日発売の、『NHKステラ』さんに、紹介記事が載りました。

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もう少し大きく取り上げられるかなと思っていましたが、そうでもなく……。

しかし、ラジオを含めて、他にも東日本大震災がらみの番組がたくさん放送されるとのことで、それらの紹介がたくさん載っていました。出来る限り視聴しようと思いました。

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『NHKステラ』さん、定価300円です。ぜひお買い求め下さい。


民放さんでもこの時期、通常の報道番組中で東日本大震災がらみのコーナーを付くって下さったりしているようで、「女川いのちの坂道」で重要なモチーフとなる「いのちの石碑」について、テレビ朝日さんが取り上げて下さいました。取り上げられるという情報を得られませんで、見逃しましたが、昨日の「ワイドスクランブル」、それから今朝の「グッド!モーニング」中の「池上彰のニュース大辞典」で紹介されたとのことでした。

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また、「ザ・テレビジョン」さんのサイトには、「女川いのちの坂道」主演の平祐奈さんのインタビュー。

■ 平祐奈が東日本大震災当時の心境を語る

――東日本大震災当時、平さんは小学6年生。このドラマの主人公・咲と同い年なんですね
当時のことは、今でも覚えています。あの日は東京にいたのですが学校がちょうどお休みで、のどの調子も悪くて母と病院に行っていました。待合室で待っていたら最初は観葉植物がゆらゆら揺れて、立ち上がろうと思った瞬間に大きく揺れました。その後はどうやって1階まで降りよう、どうやって避難しようかと不安でしたね。
 地面にひびが入るのも初めて見ましたし、帰ったら家の中は誰かが入ったんじゃないかってくらい散乱していて。私は大人になれないのかも、と思うくらい怖かったです。未来が見えない感じで…。でも母と一緒だったので、すごく安心できたのを覚えています。
――当時の東日本の映像はニュースなどでご覧になっていましたか?
 衝撃的でした。私は家でテレビを見ている一方で、何で東北はこんなことになっているんだろうと。同じ時間に同じ日本にいるとは思えなかったです。
――今回は被害が大きかった女川で撮影されたんですよね?
2018年の9月に、女川にお邪魔させていただき撮影しました。女川はキレイに整備された所もありますが、海側はまだあのころのままだったり、整地したけれどそのままで何もなかったりと、7年半経ってもこんな状況なんだと思う部分と、7年半経ってやっとこうなったんだと思う部分があって、複雑な気持ちになりました。
でも今、女川で暮らしている人はそういういろんな思いを乗り越えて笑顔でいる。私たちも撮影終わりに地元のお店に行ったのですが、みなさんすごく温かったんです。明るくて気さくで。そんな姿を見ていたら、この方たちだから乗り越えられたんだなと思いました。
――モデルとなった「女川1000年後の命を守る会」の存在は知っていましたか?
 恥ずかしながら今回のドラマを通して知ったのですが、私と同い年の方がやっていることにも驚きましたね。小学6年生の時に被災して、中学生でこのプロジェクトを考える…。私にはない発想で本当に素晴らしいと思います。
 私が何かできることがあるかな?と考えた時、この活動をもっと全国に広めたいと思いました。この作品に出られたことが、いいきかっけになればいいと思います。

――色々と考えることも多かった作品だと思いますが、視聴者の方にメッセージをお願いいたします。
このドラマは、本当に多くの方に見ていただきたい作品。「女川1000年後の命を守る会」のことを知ってもらいたいし、今の女川も見てもらいたい。そして(登場する)色んな方の言葉の重みを、感じとっていただきたいです。
 被災された方にも、もちろん見てもらいたいですが、特に私と同世代の方にこそ見てもらいたいです。咲のセリフでもありましたが、8年経って「関心がない人が多くなってきている」現状もあると思います。今まで考えてこなかったことを、考えるきっかけにしていただければいいなと思います。


何度も書いていますが、かつて女川町に建っていた、昭和6年(1931)の光太郎の女川来訪を記念する「高村光太郎文学碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられたもの――の精神を受け継ぎ、費用全額を寄付で集めた「いのちの石碑」をめぐる実話を元にしたドラマ。ぜひご覧下さい。


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【折々のことば・光太郎】

生来夏に弱い体質ではあるが昨年ばかりはまるで為事が出来なかつた。為事をしたいと思ふ程なほさら虚脱を感じて意気をするのも厭に思へた。それで思ひきつて昼間は遊ぶ事、夜は読書だけといふ事にした。何も為ないと決心するといくらか楽な気持ちになつて少しは動けた。

散文「蟻と遊ぶ」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

この文章が発表された3カ月後、心を病んで南品川ゼームス坂病院に入院していた智恵子が亡くなります。直接の死因は肺結核でしたが、入院生活は昭和10年(1935)からのことで、その間、快方に向かうことのなかった智恵子を目の当たりにし続け、光太郎も精神的に疲弊していったように思われます。実際、夏の暑さに弱かった光太郎ですが、どうもそれだけでなく、抑鬱状態にあったようにも思えます。

先だってもご紹介しましたが、かつて女川町に建っていた、昭和6年(1931)の光太郎の女川来訪を記念する「高村光太郎文学碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられたもの――の精神を受け継ぎ、費用全額を寄付で集めた「いのちの石碑」をめぐる実話を元にしたドラマです。

震災復興支援にも力を入れられているNHKさんらしく、BSプレミアムでは毎日のように5分間の番宣番組が流されていましたが、一昨日の3月3日(日)には、地上波の「どーも、NHK」でも番宣がありました。

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いよいよ本放送が今週土曜日となりました(BS4Kさんではすでに先行放映がありましたが)。

ドラマ"女川 いのちの坂道"

NHK BSプレミアム 2019年3月9日(土)  22時00分~23時00分


東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県女川町。卒業間際で被災した子どもたちは「千年後のいのちを守ろう」と、あの日津波が到達した場所に『いのちの石碑』を建てる活動を続けている。ドラマはその実話をもとに今年20歳になる若者たちの今を描く。12歳で被災した咲が恋人翔太とともにたどる青春ロードムービー。ドラマの見どころは全編ドローンによるダイナミックな映像。女川の風景と咲の心をドローンカメラがとらえる!
■あらすじ
 咲(サク)は、「いのちの石碑」活動の中心メンバーだったが、地元の高校を卒業と同時に、ダンサーになる夢をかなえるため、上京して1年半になる。映像作家を目指す彼(翔太)もできて、新しい一歩を踏み出したつもりだったが、偏見の目でみられることを恐れ、自分が被災者であること、母親が未だに行方不明であること…を翔太にも打ち明けられず、生きづらさを感じていた。
 咲は、もう一度故郷と向き合ってみようと、ドローンカメラを携えた翔太と共に女川への旅を決意する。「この道を登って避難した」「この体育館で、眠れない夜を過ごした」…ふたたび“あの日”をたどることで、咲は自分自身の原点と向き合うことになる。そして、町の人々と共に石碑まで登る避難訓練の中、「いのちのつながり」を確信していく。

出演  平祐奈 平埜生成 岡本夏美 皆川猿時 田根楽子 ほか

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ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

人はむかし海から出て来た。海にかへると本能は強く深い。浪に研がれた肌をひるがへして、海の獲物を手づかみにする時、自分のものを自分が取る我を忘れたよろこびに人は身ぶるひする。漁撈は最も根源的な生業だ。

散文「漁」全文 昭和13年(1938) 光太郎56歳

島国で、海と共に生きてきた我々日本人。時に牙を剥くこの海と、これからも共生していかねばなりません。

巨大防潮堤。力学上、垂直に近い壁を立てることは不可能で、高さの2倍から3倍の幅で、断面が三角形のスロープにする必要があるそうです。震災後、女川町ではそれを造るという選択をしませんでした。代わりに居住区域はすべて高台にし、海岸近くは事業所や商業施設としています。

新刊の雑誌系に載った記事を2件ご紹介します。たまたまどちらも「食」がらみです。

まず、『週刊読書人』さん。いまわの際の智恵子が「がりり」と噛んだレモンにからみます。3月1日号中の「【書評キャンパス】大学生がススメる本」というコーナーで、光太郎の『智恵子抄』が取り上げられました。

高村 光太郎著『智恵子抄』 評者:黒川 あさひ(明治大学文学部3年)

二〇一八年末のNHK紅白歌合戦に今を時000めく米津玄師が出場し、連続ドラマ『アンナチュラル』の主題歌である『Lemon』を歌いあげた。この曲は非常に人気があり、カラオケのランキングでも一を総ナメしているらしい。この『Lemon』という曲は、「レモン哀歌」を元として作ったと米津さんがどこかのインタビューで答えていたことを記憶している。「レモン哀歌」というのは、彫刻家や画家、そして詩人として活躍した、高村光太郎によって紡がれた詩集『智恵子抄』に収録されている詩の一つである。米津の歌詞の節々に『智恵子抄』に収録されている、「レモン哀歌」以外の詩を思わせるような単語もあるため、「レモン哀歌」というよりは『智恵子抄』全体を元にしたのではないだろうかと思う。
『智恵子抄』は愛の詩集だ。高村光太郎が、妻・智恵子と出会い、「清浄」されて、精神分裂症を患った妻をひたすらに支えて、妻が亡くなった後も愛し続けた、その証だ。夫妻が結婚する前から智恵子が亡くなった後までの、30年にもわたる年月の中で光太郎が妻へ宛てて書いた詩を収録している。愛の詩といっても、あまったるいというわけではない。「人に(いやなんです)」「あなたはだんだんきれいになる」といった粉砂糖のようにきらきらと輝いている甘い詩もあれば、「レモン哀歌」や「梅酒」のような、それこそお酒のようにほろ苦いけれど止められない、そんな詩もある。
『智恵子抄』はいくつかの出版社から出ているが、私は中でも新潮文庫版の『智恵子抄』が好きだ。理由としてはいくつかあり、まず他版元では初版に準じて、「『智恵子抄』」「『智恵子抄』補遺」の順に掲載されているが、新潮文庫版では、両方を合わせて作品が全て年代順に並べられているということ。年代順に読むことで、光太郎の幸せ、喜び、そして嘆き、悲しみがより伝わってくるように感じる。次に、表紙、及び冒頭のカラーページを飾るのは、智恵子によって作られた切抜絵の作品ということ。これが非常に素晴らしいもので、またそれらは智恵子が光太郎にだけ見せるために作り続けたものであることが巻末の文章で分かる。最後に、巻末の文章に詩人の草野心平による高村夫妻のエピソードが書かれている文章があること。それがまたどうしようもなく悲しくて切ない、けれどとてつもなく素敵なエピソードなのだ。
この草野心平の文章の中に先ほど挙げた切抜絵のエピソードもあるのだが、私が思わず涙してしまったのは、光太郎が、草野を「喫茶店ともバアともつかないとこ」に呼び出した時に投げかけた言葉だ。思わず息を飲み、何も言えなくなってしまう。静かに涙を流しながら残りの数ページを震える手で捲ったことを覚えている。是非読んでみて欲しい。
『智恵子抄』はぜひとも、夜中に大切な人のことを考えながら読んでみて頂きたい。できればお供として「梅酒」を片手に。

このコーナー、「現役大学生が自ら選書し書評を書く人気コーナー。紙面「週刊読書人」で毎週一人ずつ掲載する他、ウェブ限定の書評もあります。いまの大学生が友だちに薦めたい!と思う本とは?どんなところに魅力を感じているのか?どれも読みごたえのある書評ばかりです。」だそうで、新刊書籍に限らず、古今東西の名著的なものも取り上げられています。そこで、新潮文庫版の『智恵子抄』。

当方、常に光太郎智恵子が忘れ去られる危機感を抱いて活動しているのですが、まだ21世紀を生きる若者の心の琴線に触れる部分がやはりあるのですね。そういった意味で、昨今の「文豪」ブーム、そして書評でも触れられている米津玄師さんの「lemon」、ありがたいところです。


もう1件、定期購読しています『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。第12号が届きました。

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花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」、今号は「光太郎の正月」だそうです。元ネタは昭和23年(1948)1月6日付けの書簡。

姻戚となった茨城取手在住の宮崎仁十郎から届いた餅を使い、雑煮とお汁粉を作ったそうで、小豆は自分で栽培したものを使用したとのこと。さらにイカの中華炒め。美味しそうです。

この連載が実を結んだ部分もあるのでしょう。多方面で「光太郎の食」についてスポットが当てられています。昨年から今年初めにかけ、花巻高村光太郎記念館さんでは企画展「光太郎の食卓」が開催されましたし、現在、いわき市立草野心平記念文学館さんで開催中の冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」でも光太郎が取り上げられています。今週末には関連行事で料理研究家の中野由貴さんを講師に、「居酒屋「火の車」一日開店」があり、その中で「心平・賢治・光太郎 ある日の食事」というトークも為されます。

ちなみに偶然ですが、今月東京武蔵野市で開催される「第13回 与謝野寛・晶子を偲ぶ会」のテーマが「「明星」文学者、四季の食卓――杢太郎、勇、晶子、光太郎」ということで、発表を仰せつかっています。またのちほど詳しくお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

此所で喰べた野草の味が忘れられない。蕨のやうだが蕨よりも歯ぎれぎよく、ぜんまいのやうだがぜんまいよりもしやつきりしてゐる。ただの煮つけではあるが其色青磁の雨過天青といふ鮮やかさにまがひ、山野の香り箸にただよひ、舌ざはり強く、しかも滑かで、噛めばしやりりといさぎがよい。

散文「こごみの味」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

「此所」というのは、群馬県の利根川上流域の藤原村、現在のみなかみ町藤原です。昭和4年(1929)の5月にこの近辺を旅した際の思い出で、題名にもある「こごみ(クサソテツ)」に関わります。村に1軒だけあった食堂でこごみの煮つけを饗され、その味わいに感動したとのこと。

光太郎、この後、戦時中には食糧不足のためやむなく、戦後は岩手花巻郊外太田村の山小屋での蟄居生活で、こちらは自ら好んで、さまざまな野草を口にしています。

ほぼ一気読みしました。

「ロダンの言葉」とは何か

2019年2月20日 髙橋幸次著 三元社 定価4,000円+税

彫刻家ロダンの芸術観は、近代日本に圧倒的な影響をもたらした。その過程で作品以上に重要な役割を担ったのが、高村光太郎らによって翻訳紹介された一連の「ロダンの言葉」だった。では、その原典たる「ロダンの言葉」を書き残したのは一体だれなのか?
「ロダンの言葉」の成立と受容を詳細にたどり直し、ロダン研究の新たな基礎を築く。

[目次]
 はじめに  001
 第Ⅰ部 ロダンとその時代
  第 1 章 ロダンとは誰なのか、そして何なのか
  第 2 章 セザンヌとロダン
 第Ⅱ部 ロダンの言葉
  第 1 章 「ロダンの言葉」成立の前提
  第 2 章 クラデルのロダン
  第 3 章 ロートンのロダン
  第 4 章 バートレットのロダン:高村光太郎のダークス
  第 5 章 モークレールのロダン
  第 6 章 グセルのロダン
  第 7 章 コキヨのロダン
  第 8 章 ティレルのロダン
  第 9 章 デュジャルダン=ボーメッツのロダン
  第 10 章 ブールデルのロダン
  第 11 章 リルケのロダン、そして高村光太郎のリルケ
  第 12 章 ロダン自身によるロダン
 終わりに
 あとがき
 注 参考文献一覧 初出一覧 引用図版一覧 索引
 付録/高村光太郎編譯『ロダンの言葉』『續ロダンの言葉』の目次


いろいろお世話になっている日大芸術学部さんの髙橋幸次教授の新著です。

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だいぶ前に、本書の元となった同大芸術学部さんの紀要抜き刷りの一部をいただきましたが、一冊にまとまったものを読んでみて、改めて興味深く感じました。

光太郎の訳著『ロダンの言葉』(大正5年=1916)、『続ロダンの言葉』(同9年=1920)を軸に、ロダンその人のアウトライン、欧米でのロダン語録出版の過程や、それぞれの編著者、光太郎をはじめとする日本における翻訳、ロダン受容の様相などについて、詳細にまとめられています。

そもそも『ロダンの言葉』とは、折に触れてロダンが語ったさまざまな談話や、近しい人々との会話などを、様々な人物(多くはロダンの秘書)が筆録したものから抽出されたもので、ロダン本国のフランスには『ロダンの言葉』という書物はありません。したがって、光太郎が使った翻訳原典は多岐にわたります。

本書では、それぞれの筆録者がどういう経歴の人物で、ロダンとどう関わったか、筆録の状況、ロダンとの距離感などといったことも記述され、非常に参考になります。

また、光太郎の訳についても、数ある原典の中からどういった部分に重きを置いて抽出してるのかや、他の訳者の翻訳との比較、その特徴やあてた日本語の妥当性など、実に示唆に富むものでした。

光太郎の『ロダンの言葉』正続は、廉価な普及版の刊行などもあり、実に多くの造形作家やその卵、また、直接的には美術と関わらない人々にも大きな影響を与えたとされています。そうなった背景も、この書籍を読むことでかなりの程度理解できたように思いました。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

団十郎は決して力まない。力まないで大きい。大根といはれた若年に近い頃の写真を見ると間抜けなくらゐおつとりしてゐる。その間抜けさがたちまち溌剌と生きて来て晩年の偉大を成してゐる。一切の秀れた技巧を包蔵してゐる大味である。神経の極度にゆき届いた無神経である。

散文「九代目団十郎の首」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

結局完成する前に戦災で消失してしまった、九代目市川團十郎像に関してです。対象への惚れ込み方、それをいかに造形として表すかの苦心など、ロダンのそれとも重なるような気がします。


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新刊書籍です。 

川端康成と書―文人たちの墨跡

2019年2月27日 水原園博 求龍堂 定価3,000円+税

川端生誕120年 川端が愛蔵した書、一挙公開 ― 生命(いのち)を宿した文人たちの書 ―

文豪川端康成が美術品の大コレクターであったことは、近年知られるところとなった。しかしその全貌は完璧に把握されていない。 2016年、膨大な書が発見された。 晩年、書に魅入られた川端康成は、自ら多くの書を書き残している。同時に、かつての大家たち(一山一寧、隠元隆琦、池大雅、高橋泥舟など)、同時代の文豪たち(夏目漱石、高浜虚子、田山花袋、林芙美子、横光利一、高村光太郎、齋藤茂吉、生方たつゑなど)の書を蒐集し、愛眼してきた。
本書は、書、その書についての川端の言葉、その作家と川端との交流など、多方面からの解説がついた川端康成の書のコレクション本。

目次

 まえがき 001

 第一章 歴史に名を残す名筆家の書
   如意輪観音像 伝・藤原定家 一山一寧 宗峰妙超
   寂室元光 隠元隆琦 石渓 池大雅 良寛 高橋泥舟

 第二章 文豪たちの書
   夏目漱石 尾崎紅葉 高浜虚子 芥川龍之介 
   永井荷風 若山牧水 田山花袋 本因坊秀哉
   岡本かの子 北原白秋 与謝野晶子 島崎藤村
   徳田秋声 島木健作 横光利一 林芙美子
   武者小路実篤 高村光太郎 斎藤茂吉 久米正雄
   吉井勇 久保田万太郎 室生犀星 吉野秀雄 辰野隆
   中谷宇吉郎 宗般玄芳 保田與重郎 草野心平
   生方たつゑ 遊記山人

 第三章 川端康成の書

 第四章 川端康成宛の書簡
   菊池寛 太宰治 坂口安吾 谷崎潤一郎 三島由紀夫
   
 あとがき



一昨年、その発見が報じられ、大きな話題となった川端のコレクションおよび、川端自身の書を、ほぼ全ページオールカラーで紹介するものです。

著者の水原園博氏は、公益財団法人川端康成記念会理事。雑誌『中央公論』さんに連載されていたものの単行本化かと思っていましたが、あにはからんや、書き下ろしでした。

光太郎の書は、扇面に揮毫された『智恵子抄』中の「樹下の二人」(大正12年=1923)でリフレインされる「あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」。これを含めた新発見のほとんどが、やはり一昨年、岩手県立美術館さんで開催された「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」に出品され、拝見して参りました

ところで、「あとがき」によれば、水原氏、最後まで判読に苦しんだのが、当会の祖・草野心平の書だったそうです(笑)。心平一流、独特の書体であることも一因のようですが、書かれた文言が琉球古典舞踊の一節という特殊なものだったためとのことでした。

錚々たる面々の書跡の数々、見応えがあります。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

今の世上の彫刻家と称するものは殆ど悉く立体写真の職人に過ぎない。彫刻的解釈と彫刻的感覚とを持たない立体像の氾濫を見よ。彼等作るところの人物像と、資生堂作るところの立体写真と何処に根本的の相違がある。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

それを一概に否定できるものではありませんが、現在でも「立体写真」といわれる技術が残っています。少し前までは新聞などでも広告を見かけました。多方面から通常の写真を撮影し、それを元に立体化する技術で、それにより比較的容易に銅像が作れるというものです。いわば3Dプリンタ的な。その最初期には、かの資生堂さんがそれを事業化していました。

そういうものだと割り切ってしまえばそういうものですが、光太郎にとって、それは「彫刻」の範疇に入らざるもの。そして、世上の多くの彫刻家が普通に作る肖像彫刻も、それと何ら変わらない魂のこもっていないものだ、というわけです。

ちなみに光太郎の書にも、彫刻的感覚が溢れている、というのが大方の評価です。


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3件ほど。

まずは昨日の『岩手日日』さん。

先人ちょっと身近に 浅沼さん 光太郎との思い出語る

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 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)
に理解を深める「高村光太郎先生に学ぶ会」が27日、花巻市太田の太田小学校(藤本実校長、児童113人)で開かれた。6年生24人が当時の太田村山口に暮らしていた光太郎について地域住民から思い出話を聞き、先人とのつながりを心に刻んだ。

 同市太田の浅沼隆さん(77)が講師を務め、光太郎が山口小学校の入学式で来賓としてあいさつしたり、運動会を楽しく盛り上げたりしたエピソードを披露。山口の住民も、ごちそうを作った際は光太郎に持っていくなど親しく交流したと振り返り、「動物や自然に囲まれた田舎暮らしを満喫していた」と明かした。

  同校では、サンタクロース姿や、野菜の栽培に精を出す光太郎の写真を飾っており、浅沼さんはそれぞれ「高村先生は学芸会の時にサンタクロースの格好で長靴を履いていた。駄菓子をくれた」「キャベツにたかったアオムシを取る手伝いをした。取ったアオムシを踏みつぶしたら『駄目だ』と言われた」と回想。
  光太郎は山口に暮らしている間、彫刻制作を封印していたとされるが、「木彫りの小さいセミを作っていて、餅を持っていった時に見せてくれた。子供たちを大切にしていた」と心柄も伝えた。
  児童は光太郎の作品の数や宮沢賢治との関わりについて質問し、「地域に溶け込んで暮らしていたことが分かった」「作品を一つ一つ見てみたい」などと感想。児童らは「生き物や自然、子供が好きだったことを感じた。いろいろな作品を残したすごい人だけど、少し身近に感じられた」と話していた。

浅沼さんのお父様は、光太郎の暮らした山小屋に近い旧山口小学校の初代校長先生でした。光太郎が移り住んだ当初は分教場だったのが、昭和23年(1948)に小学校に昇格し、赴任してこられました。浅沼さんは、小学校までしか配達してくれなかった光太郎あての郵便物を小屋に届けたりもしていました。

ちなみに、当方原作の「乙女の像のものがたり」に、「隆君」という光太郎がかわいがっていた少年が登場しますが、浅沼さんがモデルです。

浅沼さん、この他にも地元で光太郎の語り部的な活動をいろいろなさっています。ありがたいですね。


続いて、『日本農業新聞』さん。2月26日(火)の記事です。 

原発事故―傷痕 今も 失われた日常忘れないで… 福島の“思い”描く

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 来月11日に東日本大震災から8年を迎える。愛犬との平穏な自給自足の生活、先祖伝来の土地での有機農業……。地震に伴う東京電力福島第1原子力発電所事故によって多くの人が人生を狂わされた。「原発事故の災禍を決して忘れてはいけない」。絵本で映画で、原発事故の風化に危機感を抱いた表現者たちは訴える。

老夫と愛犬 淡々と 絵本ロングセラー
 
 原発事故が奪った、老夫とその愛犬の日常を描いた絵本『ほんとうの空の下で』がロングセラーとなっている。著者は福島県郡山市に住む、イラストレーターのノグチクミコさん(55)。来月11日で東日本大震災から8年。ノグチさんは「原発事故があった時、こういう人が生きていたんだということをたくさんの人に知ってほしい」と呼び掛ける。
  絵本のモデルとなった川本年邦さん(享年87)は生前、福島県浪江町で自給自足の生活を営んでいた。物語は、川本さんが小学校や幼稚園で行っていた幻灯機の上映会の様子や愛犬シマとの笑顔あふれる日常から始まる。川本さんは、東日本大震災による原発事故の影響で避難を余儀なくされる。仮設住宅での生活の後、シマを里親に出し、高齢者住宅へ転居した。
  ノグチさんはこうした姿を絵本であえて文章を付けず、変わりゆく生活を幻灯の映像を見ているように、一コマ一コマ淡々と描いた。ノグチさんは、「誰かを責めるわけではない。人によって、いろんな見方をしてほしい」と文章を付けなかった理由を明かす。また、「何回も読み返してほしいので、重たい、悲惨な震災のイメージは避けたかった」と鉛筆だけで柔らかな印象になるように色付けした。
  本の題名は最後まで悩んだが、高村光太郎の詩集『智恵子抄』の「ほんとの空」にちなんで「ほんとうの空の下で」と命名した。川本さんが最期を過ごしたシニアホームの窓から見える空がとても狭かった。「せめて、本の中は本当の広い空で飾りたい」というノグチさんの思いから、物語の最後は川本さんが過ごした福島の空が描かれている。
  絵本は2017年10月にノグチさんが自費出版し、600冊以上を販売した。雑誌の書評に紹介されるなど各地から反響が相次ぎ、1月から農文協でも取り扱いが始まった。農文協は「川本さんの生き方を全国の人にぜひ見てほしい」とPRしている。
  問い合わせは農文協・農業書センター、(電)03(6261)4760。

一昨年に刊行された絵本『ほんとうの空の下で』。昨年には原画展も開催されました。じわじわと売れ続けているとのことで、モデルとなった泉下の川本さんと愛犬のシマも喜んでいることでしょう。


最後に、『毎日新聞』さん。やはり2月26日(火)に掲載された、当会会友・渡辺えりさんによる人生相談のコーナー。

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本題とはあまり関係ありませんが、光太郎の名が。お父様が光太郎と交流があったえりさん、やはり各所で光太郎について触れて下さるのでありがたい限りです。

ところで、同じ日にえりさんの事務所(おふぃす3○○(さんじゅうまる)さん)から葉書が届きました。

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3月21日(木)のえりさんのコンサート、そして8月からの新作舞台「私の恋人」の案内でした。なんと、「あまちゃん」でえりさんと共演されたのんさんがご出演とのことで、驚きました。のんさんに関しては、ご存じの通り業界内でいろいろありますので……。以前にもえりさんから、当て書きでのんさんを起用する脚本に手を着けたものの、結局は断念せざるを得なかったというお話をうかがっていましたし……。

今回の「私の恋人」は、第160回芥川賞を受賞して注目を集める上田岳弘さんが平成27年(2015)に発表した同名原作をベースに、えりさん流の切り口で贈る音楽劇だそうで、えりさんご自身の念願だったという「“たくさんの役柄を少人数で演じきる”という手法に挑み、時を超え、性を超え、物理も超えて30の役をたった3人で演じる」実験的な手法だそうです。もしかすると、光太郎智恵子も登場するのかな、などと思っているのですが、どうなることやら……。

また情報が入りましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

新議事堂のばかばかしさよ。迷惑至極さよ。何処に根から生えた美があるのだ。猿まねの標本みたいでわれわれは赤面する。新議事堂の屋根の上へ天から巨大な星でも墜ちて来い。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

この年建設された国会議事堂に関する感想です。その建築としてのデザイン性には、光太郎のみならず当時の心ある造形作家の多くが批判をあびせました。のちに光太郎は「霊廟のやう」とも評しています。

そのデザインもさることながら、現今ではここに巣くう魑魅魍魎の方が問題ですね(笑)。


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