2019年01月

昨日の『信濃毎日新聞』さんの記事から。 

善光寺仁王像 初の本格調査 東京芸大大学院などのチーム

013 善光寺(長野市)の仁王門に納められている仁王など4体について、東京芸大大学院の文化財保存学・保存修復彫刻研究室などの調査チームが現地調査を始めた。同寺によると、制作から今年100年となる仁王像の本格的な調査は初めてで、将来的に文化財指定を目指す第一歩。彫刻家高村光雲(1852~1934年)らが手掛けた4体は作品的価値が高いとされ、再評価する上で必要な基礎資料を7月ごろまでにまとめる。
  仁王門南側の左右に並ぶ仁王像は、向かって左側が口を開いた阿形(あぎょう)、右側が口を閉じた吽形(うんぎょう)でともに高さ約4・5メートル。制作は、光雲と弟子の米原雲海(1869~1925年)を中心に、松本市中町出身の彫刻家太田南海(1888~1959年)らも関わり、1919(大正8)年に完成。北側には、同時期に光雲らが手掛けた三宝荒神(さんぽうこうじん)像、三面大黒天像も安置されている。いずれもこれまで文化財指定はされていなかった。
  調査は30日までの4日間、同研究室の研究者や大学院生を中心に、光雲のひ孫の写真家高村達(とおる)さん(51)=東京=を含め11人が参加。像の周囲に足場を組み、像をコンピューター上で立体的に再現するための写真撮影や、内部構造を把握するためにエックス線撮影などをしている。
  仁王門は昨年再建から100年を迎え、さらに仁王像などの開眼法要が19年9月に営まれてからも100年となることから、善光寺は今秋までの1年間を仁王門と仁王像の「記念イヤー」と位置付けている。昨年9月には、仁王門に貼られていた参拝者の名前などが記された「千社札(せんじゃふだ)」を建物を守るために剥がすなど、再評価に向けた取り組みを進めており、今回の調査もその一環。
  調査チームに加わる田中修二・大分大教授(50)=近代日本彫刻史=は4体の像について「構造や制作過程を踏まえ、美術史や作家のキャリアの中でどう位置付けられるか考えたい」と意気込んでいる。


光雲作の木彫、代表作の「老猿」(明治26年=1893)は、かなり早く平成11年(1999)に重要文化財に指定されましたが、それ以外にはそういった指定は受けていないようです。皇室に納められているさまざまな作品なども同様です。100年を経ている作品については、そういった指定ももっと視野に入れていただきたいものですね。まずは地方自治体さんの指定文化財といったあたりから、という気がします。

ただ、光雲の作品は、決して少なくはない上に、善光寺さんのものもそうですが、光雲単独ではなく弟子の手が入っている場合が多く、なかなか難しいのかもしれません。今回の調査が、そういった方面の基準作りにおいて役立っていくことを願います。

明日も善光寺さん系のネタで。


【折々のことば・光太郎】

私は既成宗教のどの信者でもないが医し難い底ぬけの自然讃美者だ。自然の微塵にも心は躍る。万物の美は私を救ふ。強力なニヒルの深淵から私を引き上げたのは却て単純な自然への眼であつた。

散文「三陸廻り 二 牡鹿(をじか)半島に沿ひて」より
 昭和6年(1931) 光太郎49歳

そういうわけで、光太郎は仏像らしい仏像は作りませんでした。東京美術学校時代におそらく手本を与えられての習作として作った、羅漢像のレリーフが残っているくらいです。ただ、ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)や、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などは、観音像の施無畏印をモチーフとしてはいますが。

代わって光太郎を貫いたのは、文中にもある「自然讃美」の精神でした。動植物の木彫だけでなく、おそらく塑像での肖像彫刻などにも、その精神が生かされているように思われます。

千葉県から所蔵品展の情報です。 

冬のアート・コレクション 具象彫刻展 ―具象彫刻の先駆者たち―

期    日 : 2019年1月29日(火)~4月14日(日)
会    場 : 千葉県立美術館 千葉県千葉市中央区中央港1-10-1
時    間 : 9:00〜16:30
料    金 : 一般 300円(240円)  高校・大学生 150円(120円)
         ( )内は20名以上の団体料金

休 館 日 : 月曜日 (祝日・振替休日に当たるときは開館し、翌日休館)

美術における「具象」とは、人物や身近な動物など具体物を題材にした作品に使われる用語です。
また、「彫刻」とは主に立体の美術作品を示す用語で、石や木などの素材を直接彫り刻む技法(カーヴィング)と、粘土で原型をつくり、それを石膏や金属などで型抜きして作る技法(モデリング)に大別されます。
日本には、埴輪や土偶、ひな人形や仏像など立体造型の伝統がありますが、人物を型抜きしたような写実的な表現は、明治以降、西欧の彫刻作品と技法の導入により普及しました。
「具象」「彫刻」をキーワードとする本展では、日本近代彫刻の先駆者である小倉惣次郎や新海竹太郎をはじめ、彫刻界に多大な功績を残した高村光太郎、高田博厚、戦後日本の彫刻界を代表する舟越保武、千葉県を拠点に活動した大須賀力、長谷川昻などの作品を展示し、具象彫刻の魅力を紹介します。

 同時開催
 近代洋画の先駆者 浅井忠9 -浅井忠の京都時代-
 北詰コレクション メタルアートの世界3 -彫金の魅力-
 コレクション名品展 -バルビゾン派の画家たちを中心に-
 アート・コレクションプラス 具象彫刻の今 -彫刻家宮坂慎司と県美の収蔵作家たち-

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地元ですので、早速行って参りました。

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チラシには光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が大きく掲載されていますが、看板では「手」(同7年=1918)。「おお」という感じでした。

光太郎作品は4点出ていました。上記2点以外に、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための手の試作(昭和27年=1952)と、中型試作(同28年=1953)。4点とも何やかやであちこちで同型のものをしょっちゅう見ている作品ですが、何度見てもいいものはいいと感じます。

光太郎以外に、現代作家の作品も含め、約30点。

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高田博厚、本郷新、菊池一雄、舟越保武といった、光太郎と交流があった彫刻家の作もあり、興味深く拝見しました。

さらに同時開催の絵画のコレクション展「-バルビゾン派の画家たちを中心に-」でも、光太郎と交流のあった面々-安井曾太郎、梅原龍三郎、岸田劉生、三宅克己など-の作が並んでおり、ラッキーでした。

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また、直接の交流は無かったと思われますが、歿後にそのアトリエを借り受けて、光太郎が「乙女の像」制作に当たった中西利夫の作もありました。それから、岸田劉生に師事した椿貞夫の作は、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子犬吠埼の風景画。二人が泊まった暁鶏館(現・ぎょうけい館)も描かれており、「へー」という感じでした。

皆様もぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本人は自然に逆らはない気質を有する。自然をどづかないで、しかも自然を左右する。

散文「三陸廻り 一 石巻」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

新聞『時事新報』に依頼され、この年8月から9月にかけ、三陸沿岸を旅して書いた紀行文から。ちなみにこの光太郎の旅行中、智恵子の心の病が顕在化したとされています。

宮城県石巻で見た北上川河口の風景への感想です。北上川の流路は、遠く江戸時代から何度も改修工事が行われ、光太郎が訪れた昭和6年(1931)の時点でも工事が行われていました。洪水対策や港としての整備が目的だったようですが、光太郎、スエズ運河の大工事を引き合いに出し、そうした自然に逆らう工事ではないことに感心しています。

毎年ご紹介している青森県十和田湖畔でのイベントの情報です。 

冬と遊ぼう 十和田湖冬物語2019

開催期間 : 平成31年2月1日(金)~2月24日(日)
時  間 : 平日:15:00~21:00  土日祝日:11:00~21:00
会  場 : 十和田湖畔休屋特設イベント会場 
        青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋486番地
問合せ先 : 十和田湖冬物語実行委員会【事務局:(一社)十和田湖国立公園協会】 
        0176-75-2425

内  容 : ゆきあかり横丁/かまくらBar/冬花火/奥入瀬渓流氷瀑ツアー/
       スノーライド/スノーバナナ/
乙女の像ライトアップ
       雪像プロジェクションマッピング/かんじきふっとパス/
       雪のメモリアルフォト/ステージイベント/スノーパーク他

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開幕間近ということで、秋田県の地方紙『北鹿新聞』さん、1月27日(日)の記事。

雪像作り急ピッチ 十和田湖冬物語 2月1日の開幕へ 新企画にPマッピング

013 小坂町と青森県十和田市にまたがる十和田湖の冬を彩るイベント「十和田湖冬物語2019」は2月1日から24日まで、湖畔休屋で行われる。会場では現在、急ピッチで大雪像の制作が進められている。期間中は毎日、約200発の「冬花火」が打ち上げられるほか、新たな試みとして雪像に映し出すプロジェクションマッピングを行うなど、多彩なイベントで冬の十和田湖を満喫してもらう。
  冬物語は両市町の観光関係者でつくる実行委員会が1999年から毎冬、冬期間のにぎわいづくり、活性化を目的に開いている。
  見どころの一つ大雪像のテーマは「雪龍と龍王」。陸上自衛隊八戸駐屯地の隊員たちが15日に制作を開始し、連日約30人が作業に奮闘。現場には足場が組まれ、現在は彫り込み作業が行われている。完成後の大きさは高さ5・4㍍、幅18・6㍍になる見通し。今年は大雪像のほかに、プロジェクションマッピング用の雪像も作っている。
  隊長付の北谷水輝さん(34)は「自衛隊として協力や支援ができればと思っている。多くの来場者に楽しんでもらいたい」と話している。
  期間中のイベントとして、夜空に打ち上げられる冬花火は午後8時から5分間、約200発を計画。会場入り口では約3万個の発光ダイオード(LED)電球を使った光のゲート、トンネル、ツリーなどが点灯する。乙女の像のライトアップも行われる。
  両県の郷土料理を集めた「雪あかり横丁」では9店舗が並ぶ。十和田湖の県境画定10年を記念して両県の地酒を楽しめるコーナーもある。アルコールを味わえる「かまくらBar・酒かま蔵」も登場する。
  このほか、毎週末にステージイベントを実施するほか、会場ではものづくり工房やかまくら、すべり台などの雪遊びコーナー、雪上自転車体験などもあり、カップルや家族連れで楽しめそうだ。
  実行委によると、昨年は約23万5000人が来場した。「十和田湖の真っ白な雪を楽しみながら、遊びにきてください」と呼び掛けている。
  開催時間は、平日が午後3時~同9時、土日祝日は午前11時~午後9時まで。
  問い合わせは、十和田湖国立公園協会の実行委(電話0176・75・2425)。


例年通り、光太郎最期の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが行われます。当方、平成26年(2014)昨年の2回、お邪魔しました。比較的温暖な気候の房総に住んでいる身にとっては、さながら異次元空間(笑)。とにかく寒いのと、豪雪を逆手にとって楽しんでしまおうという、活気溢れるイベントです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

ノーネクタイ倶楽部の出現は遅蒔ながら結構だ。私は十数年来、この湿熱の日本の夏には洋服を着ずに居る。北緯五十度がらみの欧洲で発達した服装をそのまま長い間日本で適用してゐたのは不思議である。社会的必要から盛夏の候に西洋人なみに洋服を着てゐる日本の男性を見ると気の毒の感に堪へない。
散文「トウキヤウ スタイル」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

とにかく夏の暑さに弱く、冬の寒さを愛した光太郎ならではの言です。光太郎、十和田湖冬物語会場に行ったら、大喜びしてしまうのではないでしょうか(笑)。光太郎の好きだった地酒コーナーもありますし(笑)。

岩手盛岡から、市民講座の情報です。 

館長講座2018 第4回 「岩手の近代彫刻Ⅱ」

期    日 : 2019年2月2日(土)
会    場 : 岩手県立美術館 ホール 岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
時    間 : 14:00~15:30
料    金 : 無料 
講    師 : 藁谷収 (岩手県立美術館館長)
備    考 : 定員120名 申し込み不要

彫刻家でもある当館の藁谷収館長が、「作り手の視点」で語る講座。専門の彫刻を中心に当館所蔵の作品や現代イタリア彫刻について紹介しながら美術の楽しみ方を全4回シリーズでお話しします。

長沼守敬、高村光太郎、堀江尚志と続く岩手の近代彫刻は、人間に対する深い愛情を表現した舟越保武へとつながっていきます。さらに戦後には創作活動のあらたな可能性を追求し新しい価値を与える彫刻家が出てきます。多様に展開する現代の彫刻の一端を紹介いたします。

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藁谷館長、岩手大学さんで教鞭も執られているようで、昨秋には花巻市主催の岩手大学教育学部出前講座「彫刻ってこう観るの!? 光太郎の作品から入る近代芸術の世界」でも講師を務められていました。

ちなみに同館では現在、企画展として、光太郎と交流のあった宮沢賢治がらみの「ますむらひろし展―アタゴオルと北斎と賢治と―」を開催中です。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

人間が着物を着てゐる限り、裸体の魅力は滅びない。又人間が全裸の生活に立ち返つてその魅力に麻痺するや否や、性の挑発物としての着物が発達しはじめる。此の循環を想像する事は面白い。

散文「循環」全文 昭和6年(1931) 光太郎49歳

人間に対する強い愛情の表現の一カテゴリーとしての裸体画、裸体像。滅び去ることはないのでしょう。

昨日は、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんにて開催中の、第103回企画展「文学者の書―筆に込められた思い」を拝見して参りました。

自宅兼事務所のある千葉県北東部では、出がけに今冬初めての雪。一時的には吹雪に近い感じでした。しかし、局所的な通り雨ならぬ通り雪だったようで、圏央道で県境を越え、茨城県内に入るとやみました。埼玉に入り、関越道に乗り換えて高崎へ。土屋文明記念文学館さんに足を運ぶのは、何やかやで10回目くらいでしたが、おそらく初めて駐車場が満杯でした。しかたなく隣接するかみつけの里博物館さんの駐車場に駐めました。


こちらには野外施設的に、巨大な前方後円墳が。埴輪や葺石などが復元整備されています。

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こちらの後円部の頂上に登ると、上州の山々がきれいに見えます。名物のからっ風が情け容赦なく吹き付けてくる状態でしたが(笑)。

赤城山。

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榛名山(ピンぼけ)。

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草津白根山方面。

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それぞれ光太郎の足跡の残る山々です。

そして裏口から土屋文明記念文学館さんに入館。勝手知ったる館ですので(笑)。

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企画展会場は、正面玄関から入ると左、裏口からだと右手です。

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観覧料410円也を支払って、会場へ。

順路通りに進むと、いきなり当会の祖・草野心平と、やはり光太郎と交流のあった高橋元吉の書。心平の方は2点で、うち1点が色紙で「上州の風」と、独特の書体で書かれています。まさしくこの季節にぴったりです。

続いて、大きめのパネルに光太郎の散文「書をみるたのしさ 」の全文。昭和29年(1954)、平凡社さんから刊行された『書道全集』の内容見本に寄せた短文です。

書を見てゐるのは無條件にたのしい。画を見るのもたのしいが、書の方が飽きないやうな気がする。書の写真帖を見てゐると時間をつぶして困るが、又あけて見たくなる。疲れた時など心が休まるし、何だか気力を与へてくれる。六朝碑碣の法帖もいいし、日本のかなもすばらしい。直接書いた人にあふやうな気がしていつでも新らしい。書はごまかしがきかないから実に愉快だ。

このパネルが、いわば書物における序文、あるいはシンポジウム等における基調講演のような位置づけで、展示全体のコンセプトを表しています。

光太郎自身の書は、一点のみでした。同館所蔵の短冊で、明治37年(1904)の『明星』に掲載された短歌「ああこれ山空を劃(かぎ)りて立てるもの語らず愚(おろか)さびて立つもの」がしたためられています。ただ、『明星』での掲載型とは細かな表記の違いがありますが。

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上記は同展の図録から採らせていただきました。後半、「書についての漫談」(昭和30年=1955)、「書について」(昭和4年=1929)の一節が掲載されていますが、各展示作家ごとに、それぞれの書作品の脇に、本人が書に関して書き残した文章の一節や、友人知己などがその人物の書を評した文章の一節などがパネルで付されており、そういうわけです。

先述の草野心平、高橋元吉以外にも、光太郎と交流の深かった様々な人物の書が多数並んでおり、興味深く拝見しました。与謝野夫妻、吉井勇、北原白秋、有島武郎、菊池寛、武者小路実篤、吉野秀雄、室生犀星……。そして、パネルによる言葉も。

白秋など、公開中の映画「この道」にも描かれたとおり、かなり破天荒な人物、というイメージがありますが、書を見ると意外と穏健ですし、有島などは、その凄絶な最期はともかくとして、やはり育ちの良さがにじみ出ている書に感じられました。

ちなみに図録には、書家の石川九楊氏の「近代文学者の書について」という一文が寄せられており、主な人物についてはそれぞれ一言ずつ的確に評されています。光太郎に関しては「彫刻用の鑿で木を彫り削っているかのような書」。

それ以外にも、石川氏の文章は非常に示唆に富むものです。3月17日(日)に関連行事で講演をなさることになっており、当方、そちらの申し込みもいたしました。

皆様もぜひ、足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

造形美術は思想の地下工事の上に立つ建築。言葉による芸術は思想を骨組とする建築。造形美術個々の表面に一々思想を求める者は迂であり、言葉による芸術に一々思想の影を嫌ふ者は愚である。魚は囀らず、鳥は黙せず。

散文「魚と鳥」全文 昭和6年(1931) 光太郎49歳

自身の芸術の二本柱であった造形美術(彫刻)と言葉による芸術(詩)について、その差異を語っています。

どうも最晩年の光太郎は、「書」によってこの二つを融合させ、究極の芸術を生み出そうとしていたように思われます。

最近入手した雑誌から。 

月刊絵手紙 2019年2月号

2019/02/01 日本絵手紙協会 定価762円+税

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一昨年から花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されている『月刊絵手紙』さん。



今号は、詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)。背景はこの詩の作られた花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)付近の雪景色です。表紙にも同じ写真の一部分が使われています。

   雪白く積めり000
 
 雪白く積めり。
 雪林間の路をうづめて平らかなり。
 ふめば膝を没して更にふかく
 その雪うすら日をあびて燐光を発す。
 燐光あをくひかりて不知火に似たり。
 路を横ぎりて兎の足あと点々とつづき
 松林の奥ほのかにけぶる。
 十歩にして息をやすめ
 二十歩にして雪中に坐す。
 風なきに雪蕭々と鳴つて梢を渡り
 万境人をして詩を吐かしむ。
 早池峯(はやちね)はすでに雲際に結晶すれども
 わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。
 わづかに杉の枯葉をひろひて
 今夕の炉辺に一椀の雑炊を煖めんとす。
 敗れたるもの卻て心平らかにして
 燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。
 美しくしてつひにとらへ難きなり。
 
メートル単位で雪が積もるこの風景を見ずして、光太郎の山小屋暮らしを語るなかれ、ですね。


続いてもう1冊。

月刊石垣 2019年1月号

2019/01/10 日本商工会議所 定価477円+税

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『月刊石垣』といっても、城郭マニアの皆さん向けの雑誌ではなく、純然たるビジネス誌です(笑)。

「全国の魅力的なまちを取り上げる「まちの解体新書」」というコーナーが、「◆福島県二本松市◆ほんとの空のある 信義を重んじたまち」ということで、智恵子の故郷・二本松を紹介して下さっています。全5ページで、ちょっとした分量です。

ただし、「ほんとの空」の語がタイトルにあるのですが、本文には光太郎智恵子に関する記述はありませんでした。最近は「ほんとの空」の語が一人歩きしている感がありますね。


それぞれ、上記リンクから注文可能です。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自己の生活する社会の根柢に大きな眼を見開いた認識を持たない作家の作は、結局するところ月並芸術に終る。巧妙は巧妙なりに、平凡は平凡なりに、所謂芸術派的芸術の末社の陥るところは皆これである。

散文「ネオ月並式」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

自己の制作に対しても常に厳しい眼を持っていた、光太郎ならではの言ですね。

昨日に引き続き、最近の新聞各紙から。

まず、1月21日(月)の『東京新聞』さん群馬版。群馬県立土屋文明記念文学館さんの第103回企画展「文学者の書―筆に込められた思い」に関して。 

文学者 書に込めた思い 3月17日まで企画展 晩年の子規の書簡、特別公開も

 近代の文学者が筆で書いた俳句や書簡などを展示する企画展「文学者の書 筆に込められた思い」が高崎市保渡田町の県立土屋文明記念文学館で開かれている。俳人の正岡子規(一八六七~一九〇二年)が晩年に友人に宛てた書簡は、所蔵する子規庵(東京都台東区)以外では初公開となる。三月十七日まで。 (市川勘太郎)
 書簡は、正岡子規が脊椎カリエスや結核で亡くなる四カ月前に、新聞「日本」の編集主任で親しい間柄だった古島一雄に送ったもので、昨年発見された。新聞での連載を知らせる手紙に対して礼を述べた上で「覚えず活気が出た」と喜びの心境をつづっている。
 弟子の歌人岡麓(ふもと)は晩年の子規の手紙について「大病人のような弱々しさのない筆勢と生き生きした濃い墨色とが遺されている」と書いていて、書簡からも病床でありながら力強い筆跡で手紙を書いていたことがわかる。
 他にもノーベル文学賞を受賞した小説家川端康成や芥川龍之介の書簡、群馬県ゆかりの詩人萩原朔太郎が書いた封筒など、明治から大正時代の詩人や歌人四十五人の書約百点が展示されている。
 会場には書に造詣が深かった高村光太郎が書いた「書をみるたのしさ」をパネルで紹介。書について「直接書いた人にあうような気がしていつでも新しい」と評している。
 同館学芸係の佐藤直樹主幹(43)は「文学者によって受け継がれてきた書の歴史の一部分を展示している。難しく考えずに見て楽しんでもらえたら」と話している。
 開館時間は午前九時半から午後五時まで。観覧料は一般四百十円、大学・高校生二百円で中学生以下は無料。火曜日休館。
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光太郎、書の作品自体も出品されているはずですが、パネル展示も為されているのですね。当方、明日、現地で拝見して参ります。



次に、『読売新聞』さん。1月19日(月)の夕刊。光太郎の朋友・北原白秋を主人公とした映画「この道」に関し、作曲家の池辺晋一郎氏が寄稿されています。不定期連載の「耳の渚」というコーナーです。

童謡100年 「この道」を想う

 今年は、日本で初めて童謡が作曲されてちょうど100年というアニヴァーサリーである。少し詳しく話そう。
 もちろん、子どもの歌は昔からあったにちがいない。世界中のどんな地域でも、どんな時代でも、子どもは歌う。日本でも「わらべ唄」は自然発生的に流布していた。
 意図的に子どもの歌が作られるようになったのは、明治以降だ。最初の教材は1881~84年刊で、大半が欧米の民謡、一部にわらべ唄などを転用したものだったが、1911年から14年にかけて、文部省による「尋常小学唱歌」が作られる。作詞と作曲者名は伏せられ、本人も口外を禁じられたという。個人の創作ではなく、詞も曲も合議のうえで編纂(へんさん)され、国が作った歌という形をとったのである。その中で「故郷(ふるさと)」「朧(おぼろ)月夜」「春の小川」などについて、高野辰之(1876~1947年)の作詞、岡野貞一(1878~1941年)の作曲であることが公表されたのは、1970年前後になってからであった。

 今も親しまれる前記のような例外はあったにせよ、多くは歌詞が硬く教訓的で、子どもの自然な感情にそぐわないと考えた鈴木三重吉(1882~1936年)が童話童謡誌「赤い鳥」を創刊したのは1918年。芥川龍之介、有島武郎、小山内薫、久保田万太郎らそうそうたる文学者がこの雑誌に寄稿した。創刊の年の11月号に発表された西條八十(やそ)の詩に、翌19年5月号で成田為三作曲による歌が付いて掲載されたのが「かなりや」。これはさらに翌年レコード化されて広く歌われた。「唄を忘れた金糸雀(かなりや)は~」という童謡である。これが、日本の童謡の嚆矢(こうし)とされる。すなわち今年で100年というわけだ。
 「子ども向けだからそれなりに」から「子ども向けだからこそ質の高いものを」という理念に添った詩人は西條八十のほか野口雨情、北原白秋ら。それらに成田為三、本居長世、弘田龍太郎、山田耕筰(こうさく)らが作曲して、すばらしい童謡が次々に生まれた。

 それら名コンビの中の白眉――北原白秋(1885~1942年)と山田耕筰(1886~1965年)の創作の葛藤と軌跡を描く映画「この道」(監督・佐々部清、主演・大森南朋、AKIRA)が公開されている。鈴木三重吉はもちろんのこと与謝野鉄幹・晶子、萩原朔太郎、室生犀星、石川啄木、高村光太郎らも登場することが興味深い。日本人なら誰でも知っているであろう「この道」という歌は、映画のタイトルのみならずキイワードだ。白秋の詩に描かれた風景にとどまることなく、どんな人の心の中にもある、それぞれの「この道」について想(おも)いを馳(は)せることになるだろう。
 「北原白秋 言葉の魔術師」(今野真二著、岩波新書)という本が2年前に出た。僕はかねて「邪宗門」「思ひ出」など白秋の詩集が大好きで、そのふるさと、福岡県柳川を何度も訪れている。この書も当然読み、この映画にも駆けつけた。いっぽう山田耕筰は、日本のオーケストラあるいはオペラの黎明(れいめい)期の立役者として、たびたび触れる機会がある。しかし白秋も耕筰も、もっぱら童謡という視座で語られることは、そう多いとはいえないだろう。そもそも童謡という言葉が、もはや死語かもしれないのだ。

 僕の子ども時代には「童謡歌手」がいた。童謡はすべての子どもに共通の歌で、子ども雑誌の表紙はたいてい彼女らだった。だが童謡は消え、数十人もの集団アイドルが歌う「どれも似たような歌」が、かつての童謡にとって代わっている。
 これはこれでいいのかもしれない。ポップソングの専門家でない僕に、そのあたりの判断はできないが、もし現代に鈴木三重吉がいたら、何を、どう主張するかな、と考えてしまうのである。
(いけべ・しんいちろう 作曲家)

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「この道はいつか来た道」……現在のきな臭い世の中の動きに対しても、そう思わざるを得ません。おそらく、映画「この道」の佐々部清監督も、白秋やその姉貴分の与謝野晶子すら巻き込まれていった泥沼の戦時を描くことで、こうしたメッセージを込められたのだと思います。

昭和6年(1931)満州事変勃発、同7年(1932)五・一五事件及び傀儡国家の満州国建国、同8年(1933)日本の国際連盟脱退及びドイツではヒトラー政権樹立、同11年(1936)二・二六事件、同12年(1937)日中戦争勃発、同13年(1938)国家総動員法施行、同14年(1939)第二次世界大戦開戦、同15年(1940)日独伊三国同盟締結、大政翼賛会結成、そして同16年(1941)太平洋戦争開戦……。

こんな「この道」を繰り返してはなりませんね。


【折々のことば・光太郎】

特別の場合を除く外、児童の未熟な演奏を放送するのを止めたい。人情から言へば子供等の声楽はあどけないから調子外れも無内容も大して気にならない。気にならないから尚更いけないのだ。大衆の耳の調整が攪乱される。一番悪い事には聴いてゐる子供等の耳が害される。おまけに放送してゐる子供等自身にもそんな事でよいやうな錯覚を起させる。

散文「ラヂオの児童音楽」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

童謡を子供の演奏で流していた当時のラジオ放送に対しての苦言です。たとえ童謡であっても、ちゃんとしたプロの歌手に演奏させ、きちんとした音楽で人々の耳を慣らさなければならない、というわけで、正論ですね。

3件、ご紹介します。

まず、1月11日(金)の『読売』新聞さん夕刊一面コラム。 

よみうり寸評

背筋が伸びて、表情もきりりと締まる。そんな佇(たたず)まいを表現するのに凛(りん)という字をよく使う。辞書を引いていて、この語に「寒気の厳しいさまの意味もあることを知った◆りりしさと凍りつくような冷たさと。今の季節に両方を感じていたのだろう。高村光太郎である。〈新年が冬来るのはいい〉。その名も「冬」と題する詩は冒頭からそう言い切る◆〈雪と霙と氷と霜と、/かかる極寒の一族に滅菌され、/ねがはくは新しい世代といふに値する/清潔な風を天から吸はう〉。詩の趣旨に沿う年初となったといえようか。暖冬といわれながらも、この一両日あたりは各地で冷え込み、東京都心では2日続けて氷点下の気温が観測された◆例年、正月のあとにはインフルエンザの流行のピークが控える。今週の厚生労働省の発表によれば、患者数はすでに注意報のレベルを超えた◆〈極寒の一族〉による〈滅菌〉に、比喩以外の意味は無論ない。こまめな手洗いなどでウイルスの感染を防ぎ、凛として寒い時期を乗り切りたい。

ちなみに『読売』さんでは、文中の「霙」に「あられ」とルビを振っていますが、この字は「みぞれ」です。「あられ」は雨かんむりに「散」で「霰」。念のため、『高村光太郎全集』を確認してみましたが、ここにルビはありませんでした。『読売』さんで、読者のためを思ってルビを振ったのでしょうが、残念ながら間違っています。このコラムを読み、光太郎が間違ったのかと思った方がもしいらしたら、そうではありませんのでよろしく。

続いて1月17日(木)の『朝日新聞』さん岩手版。花巻高村光太郎記念館さんで開催中の平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~「光太郎の食卓」を紹介して下さいました。 

岩手)高村光太郎の食卓たどる企画展 花巻

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883―1956)の食生活に焦点をあてた企画展「光太郎の食卓」が、岩手県花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれている。2月25日まで。
 留学で欧米に渡った光太郎は、新しい食文化に触れ、オートミールやコーヒーを好んだ。妻の智恵子に先立たれた後、1945年、戦禍を逃れて花巻市の山荘に移住した後も、自家菜園で野菜を育て、知人が差し入れた肉や乳製品を食べていた。菜園のキャベツを酢漬けにした「シュークルート」などもたびたび食卓に上っていたという。
 企画展では、光太郎の山荘に残されていたまな板やフライパン、バター入れなどの調理道具とともに、光太郎が書いた回想や随筆などをパネル展示し、生涯にわたる食生活と創作の関わりを探っている。宮沢賢治の農民に寄り添う姿を敬いつつ「雨ニモマケズ」に記した一日玄米4合の食が「彼の命数を縮めた」として、牛乳飲用などを勧める随筆「玄米四合の問題」なども紹介している。(溝口太郎)
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同じ『朝日新聞』さんの福島版では、1月19日(土)に以下の記事も。 

福島)詩人・草野天平の生涯、寄り添った妻通して 地域誌編集人が著書

 いわき市出身でカエルの詩人として著名な草野心平。その7歳下の弟、天平も詩人として詩作に励んだ。世俗を離れ、身を削るようにして詩を書き、42歳で亡くなった詩人とその家族の歩みとは――。いわき市で地域誌「日々の新聞」を発行する編集人、安竜昌弘さん(65)が「いつくしみ深き 草野天平 梅乃 杏平の歳月」を出版した。
 多彩で数多くの詩を残し、宮沢賢治を世に知らせるなど文学史に残る活躍をみせた心平(1903~88)。一方、天平(1910~52)は、東京・銀座で喫茶店を営んだり、出版社に勤めたりした後、31歳ごろから詩作を始め、37歳の時の「ひとつの道」が生前唯一の詩集となった。
 晩年は比叡山の寺にこもり、詩作に励んだ。貧しい生活の中で肺を病み、42歳で世を去った。
 天平は、詩を完成させるのに短くて半年、長くて1,2年かけたという。残された詩は静謐(せいひつ)で言葉がゆっくりと染みこんでくる。
 その業績を後の世に伝えたのが、妻の梅乃(1921~2006)だった。
 東京で国語教員などをしていた梅乃は、天平を師と仰ぎ、比叡山の天平を訪ねた。やがて前の夫と別れ、天平と結婚して最晩年の1年8カ月を共に過ごした。
 天平亡き後、詩作ノートなどを読み込み、詩集を出すことに心血を注ぐ。没後6年の1958年に「定本 草野天平詩集」を出版し、第2回高村光太郎賞を受賞した。
 生前の梅乃と交流があった安竜さんは「天平が世に知られたのは、梅乃さんがいたからだ」という。今回の著書では、天平の業績だけでなく、寄り添った梅乃のことも詳しく記した。
 生涯をかけて天平を伝え続けた梅乃も亡くなった。梅乃の13回忌の18年7月、天平だけでなく、梅乃や息子・杏平のことも書き記したいと著書にまとめた。
 「天平は自由な精神を持ち、平和を願い続けた。天平の詩をひもとき、その精神に触れてほしい」
 いわき市平の日々の新聞社1階には、詩人ゆかりの資料などを集めた「草野天平・梅乃メモリアルルーム」がある。同市小川町の草野心平記念文学館では1月から「天平と妻梅乃」を3月24日までスポット展示している。「いつくしみ深き」は2千円(税別)。問い合わせは、日々の新聞社(0246・21・4881)へ。

当会の祖・草野心平の弟にして、やはり詩人だった草野天平。光太郎と天平は、直接の面識はなかったようですが、妻の梅乃は、最晩年の光太郎が暮らしていた中野区桃園町のアトリエを訪れるなどしています。子息・杏平氏は以前の連翹忌にもご参加下さり、今年も年賀状をいただきました。

草野心平記念文学館さんでは、光太郎にも触れる冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」が開催中ですので、記事にあるスポット展示も拝見してこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

この項、明日も続けます。


【折々のことば・光太郎】

一般人事の究極は、すべて無駄なものを脱ぎすて枝葉のばかばかしさを洗ひ落し、結局比例の一点に進んではじめて此世に公明な存在の確立を得るものと考へてゐる。比例は無限に洗練され、無限に発見される。比例を脱した比例が又生まれる。人はさうして遠い未来に向つて蝉脱を重ねる。

散文「装幀について」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳
 
書物の装幀には比例の美が必要だという話から、装幀に限らず万事そうであるという、この一節につながっています。その言は文化芸術にとどまらず、生活習慣までそうであるというところに落ち着きます。

都内から市民講座の情報です。 

東京美術学校への招待 教員・卒業生の作品を中心に学ぶ近代美術史

期    日 : 2019年1月25日(金) 2月1日(金) 2月8日(金) 2月15日(金) 2月22日(金)
会    場 : 早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校
             東京都中央区八丁堀3-17-9 京華スクエア3F
時    間 : 10:30~12:00
料    金 : 会員 ¥15,336  ビジター¥17,523
講    師 : 古田 亮(東京藝術大学大学美術館准教授)

東京藝術大学の前身である東京美術学校は、明治20年(1887)に創設された。草創期の東京美術学校は、岡倉天心の強い指導力によって、日本の近代美術の礎となる人材を育てた。まもなく開設された西洋画科では黒田清輝が洋画のアカデミズムを確立した。この講義では、東京美術学校での美術教育がそのまま近代美術の形成を促したことを踏まえて、美校から輩出した教授陣や卒業生たちの活躍を追い、その代表作を取り上げながら詳述する。

01/25 草創期の東京美術学校
 岡倉天心の時代 東京美術学校が、わが国の美術行政や制度のなかでどのような由来で設立されたのか、詳しく検証する。そこに示された岡倉天心の教育理念について知ることで日本の近代美術の原点が明らかとなる。
02/01 見学会:東京藝術大学、黒田記念館の見学
 東京藝術大学構内には、東京美術学校時代の建築や遺物、ゆかりの彫像などが多数現存している。また、すぐとなりに位置する黒田記念館は、黒田清輝の事蹟を紹介し作品を展示している。
02/08 西洋画科の設立
 黒田清輝を中心に 明治29年、開設から9年後に設置された西洋画科を牽引したのは、パリ留学から帰国した黒田清輝である。黒田を中心に展開した近代日本洋画について、その特徴を作品から明らかにしていく。
02/15 東京美術学校の依嘱制作
 高村光雲を中心に 西郷隆盛像、楠木正成像など、東京美術学校が依嘱されて制作した彫刻、工芸は相当数に及ぶ。巨大なモニュメント制作には、彫刻科の教員だった高村光雲の指導的活躍があった。
02/22 卒業生たちの活躍
 東京美術学校を卒業し近代日本美術史に大きな足跡をのこした作家を何人か取り上げて、学校時代の様子から活躍までの様子を紹介する。横山大観、青木繁、高村光太郎、藤田嗣治など。


光太郎の母校にして、父・光雲が彫刻科の主任教授を務めた東京美術学校のクロニクル的な内容のようです。

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講師は美校の後身・東京藝術大学さんの大学美術館准教授・古田亮氏。NHKさんの「日曜美術館」にご出演されたり、各種シンポジウムのパネラーを務めたりされています。

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全5回、ほぼすべての内容に光雲・光太郎が絡みそうな気配です。藝大さん構内、黒田記念館さんの見学も組み込まれていまして、それぞれ光太郎作の光雲胸像、黒田清輝胸像が展示されています。

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ぜひ拝聴したい内容ですが、残念ながら都合がつきません。

日程のあう方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

生きた吸収作用が無限につづけられてゆくうちに言葉の新細胞が出来、思惟が精緻になり、見えなかつたものが見えて来、組み立て得なかつた機構が組み立てられる。言葉の真実を離れて詩は無い。詩的なものは随分到る処にあり得るが。

散文「言葉の生理」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

光太郎によれば、造形美術も詩精神、詩魂の表出。彫刻も詩も、彼の中では根源を一つとするものでした。

群馬県から企画展情報です。情報を得るのが遅れ、既に始まっています。 

第103回企画展「文学者の書―筆に込められた思い」

期    日 : 2019年1月12日(土)~3月17日(日)
会    場 : 群馬県立土屋文明記念文学館 群馬県高崎市保渡田町2000番地
時    間 : 9:30~17:00
料    金 : 一般410円(320円) 大高生200円(160円) 
        ( )内は20名以上の団体割引料金
休 館 日 : 火曜日

日本では長い間、文字を記すのに毛筆を用いてきました。近代になり、ペンや万年筆、鉛筆等が普及すると、次第に毛筆は日常の筆記具ではなくなっていきます。印刷技術の発達も、人々の筆記への意識を変えていきました。そうした過渡期を含め、近代を生きた文学者達の書に対する思いは、たとえば生年、生育環境、文学ジャンルなどによってもさまざまでした。
本展では、文学者それぞれの書への向き合い方や、周囲からの評価などとともに、各人がしたためた短歌、俳句、書簡等を紹介し、文学者の書の魅力に多面的に迫ります。
また、一般財団法人子規庵保存会の協力により、『子規随筆』(弘文館、明治35年)で公表されたのちに所在不明となり、115年の時を経て発見された正岡子規書簡を、今回、特別に展示いたします。

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関連行事

記念講演会 「文学者の書―その魅力を味わう」
 講師:石川九楊氏(書家・京都精華大学客員教授)
 日時:3月17日(日)14:00~15:30  定員150名(無料・要申込)

ギャラリートーク(担当職員による展示解説)
 日時:1月12日(土) 2月9日(土) 3月3日(日)13:30~14:00(要観覧料・申込不要)


同館では平成27年(2015)にも第87回企画展「近代を駆け抜けた作家たち~文豪たちの文字は語る~」を開催し、その際にも光太郎の書が展示されました。今回も光太郎がラインナップに入っています。また、与謝野夫妻や武者小路、白秋や草野心平など、光太郎と交流の深かった面々も。これは見に行かざあなるめえ、と思い、早速今週末に行って参ります。

また、最終日には書家の石川九楊氏のご講演。氏は書道史のご研究でも大きな業績を残され、光太郎の書を高く評価して下さっています。平成27年(2015)には、NHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」でナビゲーターを務められ、花巻高村光太郎記念館さんで所蔵している光太郎書を細かく解説して下さいました。その頃、一度、電話でお話しさせていただいた記憶があるのですが、直接お会いしたことは無いもので、今回のご講演も申し込ませていただきました。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

銀座のネオンライトは、初期のトオキイに似ている。しやべれる事が珍らしいかのやうに、みんなが有りつたけ、しやべつている。棒立ちのまんまで。

散文「銀座の夜」全文 昭和6年(1931) 光太郎49歳

智恵子が「空が無い」と言った東京、そのど真ん中、銀座のけばけばしい夜の灯り、そのどぎつい自己主張を皮肉っています。

この文章が書かれたおよそ3ヶ月後、智恵子の心の病が顕在化します。

朗読イベントの情報です。 

大人のための朗読会 『道一その先』000

期 日 : 2019年1月26日(土)
会 場 : 成増アートギャラリーB (成増図書館向かい側)
                           板橋区成増3-13-1 アリエスビル3階
時 間 : 14:00~15:00
出 演 : 朗読ワークショップ 声流
内 容 : おくのほそ道(松尾芭蕉)、蠅(横光利一)、
                           道程(高村光太郎)
料 金 : 無料
  : 直接または電話で成増図書館 03-3977-6078 定員:40名(申込順)


光太郎の「道程」を取り上げて下さるそうで、ありがとうございます。大正3年(1914)年の作品ですので、105年経ちますが、まだまだ現代人の心の琴線に触れる部分を持った詩だと思います。

読書離れ、活字離れといったことが言われている昨今ですが、そうした傾向に歯止めをかけるためにも、こうした取り組みは重要なことだと思われます。逆に朗読は静かなブームだそうで、それが「静かな」に終わらないようにとも思います。

やはりこうして公共図書館さんなどが普及に力を入れて下さるのが手っ取り早いし、ある意味、使命のような気がします。地方の小都市などではなかなか難しいのでしょうが……。


【折々のことば・光太郎】

詩の文学性が究められるのは啓蒙的に有意義だ。その研究者は大きな学的貢献を為すであらう。けれども詩の生命はいこぢにまで其の文学性に因由しない。文学性は詩の持つ性質である事を止めない。詩の発生は全く別個のところに始まる。必要に始まる。道草を許さないところに始まる。

散文「詩の文学性」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

詩は個々人の内部から、心の叫びとして自然発生的に生まれ、結果としてそれが文学性を持つ、ということでしょうか。はじめから文学性溢れる詩を書こう、というスタンスはありえないということにもなるでしょう。

そうした詩の持つ性質が、朗読に適しているということでしょう。

昨日は埼玉県東松山市で、市民講座の講師を仰せつかっていました。題して高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」。

同市の元教育長で戦時中から光太郎と交流があった故・田口弘氏、光太郎が最も高く評価した同時代の日本人彫刻家にして、光太郎つながりで田口氏と交流があった高田博厚、そして光太郎、この3人が、さながらオリオン座の3つ星のごとく、東松山に大きな芸術文化の花を咲かせた、的なお話をさせていただきました。

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明治16年(1883)、東京に生まれた光太郎。父・光雲の跡を継ぐべく、東京美術学校に入学、3年半の海外留学を経て帰国。ロダンをはじめとする最先端の芸術を目の当たりにし、これこそ自分の道と思い定め、日本彫刻界と訣別します。その決意を「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」(「道程」大正3年=1914)と高らかに宣言するなど、詩にも開眼。画家志望の長沼智恵子と共棲生活に入ります。

そんな時期に、絵を志していた高田と知り合い、たちまちその才を見抜きます。高田は光太郎の影響もあり、彫刻に転じ、ともに芸術精進。さらに人道主義者ロマン・ロランの顕彰などでも手を携えました。

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光太郎は高田の著書(ロマン・ロラン翻訳)の刊行に骨折ったり、装丁を手がけたり、高田と共に雑誌を立ち上げたりしました。

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光太郎と高田が一緒に写った、確認できている唯一の写真がこちら。大正15年(1926)に来日したシャルル・ヴィルドラック(ロマン・ロランの友人)の歓迎会での一コマです。

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その後、共産主義に傾き、当時非合法だった共産党員をかくまったかどで高田は逮捕。そんなこんなで日本に居づらくなった高田は渡仏を決意。光太郎はその援助にも奔走しました。

2通のみ現存が確認されている光太郎から高田宛の書簡は、ともに高田の渡仏直後に送られたものでした。

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やがて智恵子の心の病が顕在化。昭和13年(1938)には、肺結核のため亡くなります。その頃、旧制中学の生徒だった田口氏は、師で俳人、光太郎とも交流があった柳田知常の影響で、光太郎に心酔しはじめました。

日中戦争、太平洋戦争と進む中で、三人三様に苦しい日々を送ります。高田はパリを占領したナチスドイツによりベルリンに移送。田口氏は師範学校卒業後、南方の日本語学校に赴任のため出征(その前に柳田の仲介で光太郎に会いました)し、乗っていた輸送船が撃沈されて九死に一生を得、光太郎は戦意高揚の詩文を大量に書く羽目になり、昭和20年(1945)には空襲で東京を焼け出され、花巻の宮沢賢治の実家へ疎開……。

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やがて終戦。高田はソヴィエトに保護され、パリへ戻ることができ、田口氏は捕虜となったものの復員。そして光太郎は戦時の翼賛活動を恥じて、花巻郊外太田村の山小屋で蟄居生活を始めます。

昭和22年(1947)と同24年(1949)には、田口氏が太田村に光太郎を訪ね、中央公論社版の『高村光太郎選集』全6巻のために、当会の祖・草野心平に資料提供。光太郎は最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)に上京、同31年(1956)に亡くなりました。田口氏はその葬儀に参列しました。

ちなみに「乙女の像」といえば、同時代の若手彫刻家たちは、この像をさんざんにけなしましたが、一人高田のみは、傑作とは言い難いとしながらも、その大自然との調和のあり方をたたえています。結局、けなした彫刻家たちの名は現代では忘れられつつあり、高田の名は残っているわけで、見る目のない者とある者の差異はこういうところにも現れるのでしょう。

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高田は光太郎の没した翌年、帰国。以後、様々な分野で光太郎顕彰に骨折ってくれました。10回限定で行われた、造形と詩、二部門の高村光太郎賞選考委員を務めたり、光太郎の胸像を制作したりなど。

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昭和40年(1965)の第9回連翹忌で、高田と田口氏が初めて出会ったようです。昭和51年(1976)に東松山市の教育長に就任された田口氏は、光太郎顕彰(各地での講演、市内新宿小学校さんに光太郎碑を設置など)の傍ら、高田の彫刻にも魅せられ、同市での高田展や、東武東上線高坂駅前に高田の彫刻群を配した彫刻プロムナードの設立に奔走しました。高田もそれに応え、同市での講演なども行っています。

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田口氏のもう一つの大きな業績、日本最大のウォーキング大会・日本スリーデーマーチの同市での開催にも、光太郎の「歩くうた」(昭和15年=1940)の精神の具現化という意味合いもありました。

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高田は昭和62年(1987)に没。その後も田口氏は光太郎、高田の顕彰に努めます。

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94歳になられた平成28年(2016)には、光太郎から贈られた書や署名本、書簡などを同市に寄贈されました。同年、その展示が市立図書館さんで行われ、関連行事として氏自ら生前最後のご講演。翌年には逝去されました。氏の没後、寄贈された資料は、やはり市立図書館さんに「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、無料で公開されています。

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田口氏の亡くなった一昨年、鎌倉にあった高田のアトリエの閉鎖に伴い、アトリエにあった彫刻その他も同市に寄贈されています。昨年には、それらを展示する企画展も開催されました。これらも氏のご遺徳の賜ですね。

こういったお話をさせていただきました。

来年は高田の生誕120周年となりますし、今後とも同市では、高田、そして田口氏や光太郎の顕彰に力を注いで下さるそうです。当方、高田に関しては余り詳しいお話をできないもので、今後は高田に通じている方のお話などの機会を設けていただきたいと存じます。

高坂駅前の「彫刻プロムナード」、市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

除去したい記念像や噴水や建築や壁画の類は東京の街上だけにも沢山ある。今後も続々出来る事だらう。之を取締まる方法は無いか。十分信頼すべき鑑査制度を編み出してくれる頭脳は無いか。全国の自治機関は今の内に此事を何とか始末せねばなるまい。

散文「公共記念碑的作品の審美的取締」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

愚劣かつ醜悪なモニュメントが乱立していた当時の東京に対する苦言です。

田口氏も、おそらくこの文章を目にされた上で、高田の彫刻なら大丈夫と、彫刻プロムナードの設立を決意されたのでしょう。炯眼とはまさにこのことですね。

それぞれ再放送ですが、テレビ放映の情報です。ぜひご覧下さい。 

クローズアップあおもり「十和田湖をみつめて」

NHKBSプレミアム 2019年1月21日(月)  10時45分~11時13分

国立公園に指定されて2016年に80年を迎えた十和田湖。NHKが1年撮影してきた四季折々の雄大な風景と湖畔の人々の営みを美しい映像とともにお送りします。

鮮やかな新緑、澄み渡る空の青、燃えるような紅葉、真っ白な雪景色…。山々の色彩を鏡のように映し出す十和田湖には、四季折々の魅力が詰まっています。十和田湖から流れ出る奥入瀬渓流の美しさも、人々の心を引きつけてやみません。一方、湖畔を開拓して暮らしてきた地元の人たちは、厳しい自然の中でさまざまな努力や工夫を重ね、山と湖の恵みをうけて生活を営んできました。湖が育む豊かな動植物と人々の暮らしを見つめます。

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元々、NHK青森放送局さんが平成28年(2016)に制作、青森県内では同年、全国ネットでは翌年、当時放映されていた「スタジオパークからこんにちは」という午後の情報番組の中で放映されました。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が映ります。

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続いてNHK Eテレさん。 

にほんごであそぼ

2019年1月23日(水)  6時35分~6時45分  再放送 17:00~17:10 

2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。今回は、きっぱりと冬が来た。「冬が来た」高村光太郎、擬音アニメ/ぎゅうぎゅう、百人一首/君がため惜しからざりし命さへ…(藤原義孝)、おのまとペア/バスケットボール、花鹿亭/桂宮治、名文/祗園精舎、歌/ペチカ、パプリカ、ベベンの冬が来た

出演 美輪明宏 神田山陽 小錦八十吉 おおたか静流 うなりやベベン 白A 桂宮治 ほか

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今月9日に放映された回の再放送です。

子役タレントくんによる光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)の朗読と、うなりやベベンさんの歌で「ベベンの冬が来た」が含まれています。

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以前にも書きましたが、うなりやベベンさん=浪曲師の国本武春さんは、平成27年(2015)に逝去されました。しかし、この番組では、国本さんの功績をたたえ、ご生前の映像を使い続けています。いい話です。

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それからこの番組では、このところ毎日、米津玄師さん作詞・作曲・編曲の「パプリカ」という歌が流れています。「2020応援ソング」だそうです(演奏は米津さんではありませんが)。


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米津さんといえば、昨年、ドラマ「アンナチュラル」のテーマ曲「Lemon」が大ヒット、大晦日の紅白歌合戦にも特別出演され、話題となりました。

この「Lemon」、ネット上で「光太郎の「レモン哀歌」(昭和14年=1939)からのインスパイアでは」という記述をたくさん見かけましたが、米津さんご自身がそうおっしゃっていなければこのブログではご紹介できないな、と思っておりました。

すると、実はご自身で、かなり早い時期に「レモン哀歌」に関する発言をなさっていました。

昨年3月のCDリリース前に、音楽チャート・Billboard(ビルボード)の日本公式サイト「Billboard JAPAN」さんに載ったインタビュー

--米津さんは文学もお好きだと思うんですけど、私はタイトルを見たときに梶井基次郎の『檸檬』が頭をよぎりました。
米津玄師:確かに「レモン」って文学的なニュアンスがあるとは思ってて。他にも高村光太郎の『智恵子抄』(「レモン哀歌」)とか。そういうものからレモンが無意識的に自分の頭の中にはあって、そこから出てきたっていう面はあるかもしれないです。

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もっと早く気づくべきでした。

遅ればせながら、CDを購入するつもりでおります。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

東京の白昼は、天空とそれからべつたり低く積まれたガラクタで出来てゐる。ポオズを持たない自動車が青蟹のやうに歩いてゐる。芥のたまつた川口の三角洲。渾沌たるは終りなりや、始めなりや。

散文「街上に満ちる詩」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

「レモン哀歌」同様、「智恵子抄」に収められた「あどけない話」(昭和3年=1928)の、「智恵子は東京に空が無いといふ/ほんとの空が見たいといふ」などと呼応しているように感じます。

過日ご紹介した『朝日新聞』さんの記事「(危機の時代の詩をたどって:5)同調圧力、戦時中に重ねて」で取り上げられていた、詩人の鈴木一平氏の作品「高村光太郎日記」が載った詩誌『てつき1』を取り寄せました。 

てつき1

2018/11/25 いぬのせなか座 定価500円

メンバーによる作品で構成される刊行物『てつき』創刊号。
2018年10月27日に開催された「仙台ポエトリーフェス2018」での朗読原稿、ならびに同年8月25日に行われた『彫刻1―空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』(トポフィル) 刊行記念トークイベントをきっかけに高村光太郎の戦争協力詩をめぐって制作された鈴木一平の新作「高村光太郎日記」をはじめ、詩・小説など最新10作品を掲載。

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鈴木氏の「高村光太郎日記」は、散文詩的な作品。明治末から最晩年までの光太郎詩から詩句を拾い上げ、ちりばめられています。逆行しようとする時代に生きる現代人の漠たる不安感が仮託されているというところでしょうか。

氏ご本人の解説より。

「高村光太郎日記」は、2018年10月27日に行われた「仙台ポエトリーフェス2018」での朗読原稿を下敷きにしている。
朗読で高村光太郎の詩、とりわけ戦争協力詩を取り上げることにしたのは、同年の8月25日に彫刻家の小田原のどかさん、詩人の山田亮太さんと参加した『彫刻1――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』(トポフィル)刊行記念トークイベントが直接的なきっかけ。

彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』は、昨年6月に刊行されています。そちらには、やはり『朝日新聞』さんの「(危機の時代の詩をたどって:5)同調圧力、戦時中に重ねて」でご紹介された、山田亮太氏の「報国」という詩が掲載されています。

このあたりで皆さんがつながっていたのかと、納得いたしました。

上記「いぬのせなか座」さんのサイトから注文できます。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

好きなものを買ふのは買ふ人個人の勝手だから、第三者から文句を言ふ限りでないには違ひないがその代り、下らないものを買つた人間が第三者から下らない人間だと思はれるのも已むを得ない。

散文「日本人の買つたフランス美術」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

のちに日仏芸術社を興す、画商であったエルマン・デルスニスが集めた現代作品によるフランス美術展は、第一回が大正11年(1922)に開かれ、この年、10周年を迎えました。そこで、過去の同展で購入された名品を並べるというコンセプトで、10周年記念展覧会が開催されました。

ところが、それを見た光太郎曰く「おしなべて日本人が買つたものはフランスの俗つぽい、低級な、若しくは中途半端な「程のいい」美術品が多い」「さもなければ「有名」な作家の「有名」な作の小型のもの」「実際あの展覧会の大半以上の絵画やデツサンは日本に不要のもの」。そして上記の一節に続きます。

結局、明治の頃から日本人の審美眼が発達していないことを嘆いています。

新刊情報です。智恵子の故郷、福島二本松に聳える安達太良山関連で、光太郎智恵子に触れられています。 

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山を愛するすべての人へ 臨場感あふれる映像で名峰に迫る 自然派ドキュメンタリー

遠くに望めば穏やかな表情を見せる安達太良山。しかし、その稜線に立った者は大きな口を空に向かって広げた爆裂火口の荒々しい姿を見せつけられる。そんな安達太良山は、厳冬期を迎えると登山者の覚悟を試すかのような凍てつく寒さと深い雪に覆われる。それでも人は冬の安達太良山に心惹かれ足を運ぶ。その理由とは?


さまざまな「週刊百科」ものを手がけられているDeAGOSTINIさんから、一昨年刊行されたシリーズの44号。「日本百名山」に選定された山を中心に、各地の名峰を紹介するものです。平成25年(2013)から同27年(2015)にかけ、BS TBSさんで放映されていた「日本の名峰・絶景探訪」という登山番組とタイアップ。同番組を収めたDVDが付録として毎号ついています。本誌の構成も、そのDVDに準じているようです。

同番組では、安達太良山は2回取り上げられました。いずれも平成26年(2014)で、#32 「雪煙舞う厳冬の安達太良山」、#58 「紅葉色めく湯の山 安達太良山」。そのうち、タイトルでわかるとおり、厳冬の安達太良山の方が取り上げられています。

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安達太良山が「智恵子抄」に謳われた山であること、周辺情報として智恵子生家・智恵子記念館などの紹介にもページを割いて下さっています。

付録DVDでも。

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ナビゲーター役は女優の春馬ゆかりさん。奥岳登山口からくろがね小屋を経て、安達太良山頂、そして同じ連峰の鉄山へ。

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ちょうど今の季節がこんな感じなのだろうと思いますが、まさに「雪山」です。

大きめの新刊書店さんでしたら、普通に並んでいます。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

まつたく北極熊のやうだ。華氏八十度となると私は、そろそろ生理機能が狂つて来る。九十度以上の東京の夏は私の生活能力を大半奪ふ。筋肉労働に近い仕事の方はまだ出来るが文筆による仕事は殆ど不可能の状態である。

散文「百三十五番」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

光太郎は夏の暑さに弱く、逆に冬の厳しい寒さを好んだことは有名です。

華氏80度は、現在、通常使われている摂氏に直すと26.7度。同90度は32.2度。やはり温暖化が進んでいなかった昔の方が、夏の暑さもそれほどでなかったように思われます。35度以上の猛暑日が当たり前という現代の東京に光太郎がいたら、どうなることでしょうか。逆に樹氷モンスターが出現する厳冬期の安達太良山などは、光太郎にとってパラダイスかもしれません(笑)。

今月に入ってからの、新聞各紙等から。

日付順に、まず、1月1日(火)の『産経新聞』さん。 

産経抄

 慶応4(1868)年の元日の江戸は快晴だったらしい。まもなく鳥羽、伏見で旧幕府軍と新政府軍の戦闘が始まる。7月には江戸が東京と改称され、9月には明治と改元、つまりこの年は明治元年となる。
▼もっとも、いつもの年と同じ正月気分にひたる江戸の庶民には、歴史の大きな変わり目に直面している自覚はまったくない。後に上野恩賜公園に立つ西郷隆盛像の作者となる彫刻家、高村光雲もその一人だった。当時は、仏師をめざす修行中の若者である。
▼「町人などは呑ん気なもので、朝湯などで、流し場へ足をなげ出して、手拭(てぬぐい)を頭の上にのせながら、『近い中に公方様と天朝様との戦争があるんだってなァ』というような話でも仕合う位のものである」。昭和2年から翌年にかけて新聞連載された「戊辰物語」に、こんな懐旧談を寄せている
▼幸いにも平成31年の元旦を迎えたわれわれは、今年5月に改元され、あたらしい御代を迎えることを知らされている。とはいえ、世界は激動の最中にある。天地がひっくり返るような出来事が、いつ起こってもおかしくない。ぼんやりとした不安をかかえながらも、なすすべがないという点では、江戸の庶民と大きな違いはない
▼明治に入ると廃仏毀釈(きしゃく)の嵐が吹き荒れ、仏像は破壊の対象となる。光雲は仏師の仕事を失い、苦しい生活を強いられた。それでも逆境に屈することなく、西洋美術の技法を学び、伝統的な木彫の復活に成功する。作品は海外の万博で評判を呼び、多くの弟子を育てた。大正、昭和を生き抜き82年の生涯を終える
▼どんな変革の波が押し寄せようと、時に大きな犠牲を払いながらも、したたかに乗り越えてきた。そんな先人のたくましさを今こそ、見習いたい。


続いて、1月4日(金)で、『毎日新聞』さんの東京多摩版。 

<平成歌物語>東京の30年をたどる/3 変わらぬ「上京の志」 音楽評論家・富澤一誠さん(67) /東京

 音楽評論家として半世紀近いキャリアを持つ富澤一誠さん(67)に「東京をうたった平成の歌」で印象に残る作品を聞いてみた。興味深い答えが返ってきた。福山雅治さん(49)の「東京にもあったんだ」??。
 富澤さんは長野県須坂市出身。なぜ、長崎県出身の福山さんの歌にひかれたのか。
    ◇
 1970年、東京大学に入学するため上京した富澤さんは、1年の時に歌手を目指して歌謡学校に入学したが、早々に挫折。ラジオで聞いた作詩家、なかにし礼さん(80)の「作詞ほど簡単にもうかる商売はない」という内容の言葉に希望を見いだし、作詞家を目指す。岡林信康の「私たちの望むものは」の歌詞に衝撃を受けてフォークの歌詞を書き、演歌の作詞を教えていた先生と対立した。東京でもがく当時の地方出身の若者そのものだった。
    ◇
 翌71年秋、音楽雑誌に投稿したことが、音楽評論家としてのデビューとなった。デビュー作は、歌詞に衝撃を受けたはずの岡林への批判。その年の8月「俺らいちぬけた」を発表し、岐阜県の山村に移住した岡林について、富澤さんはこう書いた。「生きていることを身をもって知るのは、対人関係において、複雑な社会機構を基盤に考えてこそ人間らしさを問いうるのでは」
 複雑な社会機構??東京だ。
 「我々の頃は、マイ・ペースが歌った『東京』のように、東京は花の都。私は田舎者だから東京に勝手なイメージを抱き『都会っていいね』という思いがあった。田舎へ戻ろうとは思わなかった」
    ◇
 富澤さんは自分の人生を、平成の時代に活躍する福山さんに重ねる。シンガー・ソングライターを夢見ていた福山さんは、高校卒業後に一度は地元の会社に就職したが、夢を諦めきれず上京した。
 その福山さんに2000年ごろ、富澤さんはインタビューした。「東京」について、福山さんはこう語ったという。
 「東京は何かやりたい人にとって、実現できる街、チャンスがどこかにある街。志を持って、何か変わりたいと思って東京に来ると、変われる気がする」
 東京にもあったんだ こんなキレイな夕陽(ゆうひ)が
 「高村光太郎の『智恵子抄』に『智恵子は東京に空が無いといふ ほんとの空が見たいといふ』とあるように、長崎出身の福山さんは、東京を『四角い空』だと思っていたのでは。東京にはきれいな夕陽がない、と思っていた福山さんが、それを発見して歌詞にしたのだと思う」
 「東京にもあったんだ」について、富澤さんはこう解説した。
    ◇
 「いつの日か『東京』で夢叶(ゆめかな)え ぼくは君のことを迎えにゆく」と歌った関西出身のシャ乱Q「上・京・物・語」、「東京は怖いって言ってた」と歌った福岡出身のYUI「TOKYO」。「東京の街に住んで大人になってたって」(「東京」)と歌ったケツメイシは、リーダーが神戸市出身だ。富澤さんは言う。
 「昭和の時代、甲斐バンドや長渕剛は九州から上京し、東京で一旗揚げようと『東京』を歌った。平成になっても、地方出身者が東京を歌う心は変わらない。新時代も、東京の歌は地方出身者が歌っていくことになるかもしれないね」


さらに、1月11日(金)、『朝日新聞』さんの夕刊。 

(危機の時代の詩をたどって:5)同調圧力、戦時中に重ねて

 昨年、若手を代表する詩人の一人、山田亮太(36)は詩「報国」を発表した。
 〈借りもののわれら順次熱狂の状態へ推移する〉〈のっぴきならぬ空気をつくりあげ世界を一つの家にする〉
 自分が戦時下に置かれたらという想定で書いた。「異常時には主体が巨大化し、国家を背負ってしまう。そんなさまを描きつつ、批評性を残すことで異常事態に対抗したいと考えた」。熱狂にひたる快感と共に皮肉めいた雰囲気がにじむのは、批評性ゆえだ。
 山田は、小熊秀雄賞に選ばれた2016年の詩集「オバマ・グーグル」にも、「戦意昂揚(こうよう)詩」と題した詩を収録している。〈きみは決断する/絶対に正しいものも絶対に/信じられる悪もないから〉〈きみひとりの戦争だから〉
 このときは、国家という存在を前に出すより、「きみ」という個人に呼びかける方が戦意高揚で効果的と考えた。
 だが、2年がたち、国家をもっと意識せざるをえなくなった。昨春には国会での証人喚問でどれほど追及されても淡々と答弁する財務官僚の姿に「機械のような完璧さ」を感じた。「国家が制御不能なほどに巨大化しているのに、それに巧みに適応している人間の方が格好良く見える。そんな空気を感じる」

000 詩人の鈴木一平(27)も昨年、戦時下を想定した詩を発表した。その題は「高村光太郎日記」。戦争賛美の詩で批判された高村光太郎(1883~1956)の詩句を引用して一編の詩を作った。なぜ高村の言葉を借りたのか。
 「他人の言葉だから自分に責任はないと、ごまかしをして戦争に加担する詩を書く。そういう恐れが自分にはあるし、そんな消極的賛成こそが危険だと指摘したかった」
 山田も高村の詩で当時の空気を学んだ。「人々が動員された熱狂が伝わってきた」

 若い詩人はなぜ今、戦争を意識するのだろう。「戦争詩論」の著書がある詩人の瀬尾育生(いくお)(70)は「フェイスブックなどSNSでの発言も気が抜けない。今の社会は主流の価値観以外を認めず、正しさを強いる息苦しさがあり、その空気を戦時中に直感的に重ねている」とみる。山田らの「戦争詩」はそんな同調圧力への反抗、というのだ。
 詩人の野村喜和夫(67)も最近の若い世代の詩を「反抗と怒りの言語化」とみる。経済は失速、政治は右傾化し、震災も発生。「原発事故、強大な国家、グローバル資本主義……。統御できない怪物たちを前に我々は途方に暮れるしかない。怒るのは当然」
 野村は今年刊行する評論に「危機を生きる言葉」という題をつけた。「詩人は貧乏や逆境に強く、危機に力を持ちうる。全体性という巨大な怪物から逃れた詩の言葉は『弱い力』を解き放ち、読む人の生に力を与える」と野村はいう。そして希望を込め、レジスタンスにも身を投じたフランスの詩人ルネ・シャールの詩句を挙げる。〈危機がきみの光明であるようにするのだ〉。危機の時代だからこそ、詩の可能性を信じたい。=敬称略(赤田康和)


こうして各紙の記事を並べてみると、現在の「世相」というものが見えてくるものですね。

ちなみに、鈴木氏の「高村光太郎日記」の載った雑誌『てつき1』、注文しました。届きましたらまたご紹介します。


次に、『石巻日日新聞』さん。一昨日もご紹介しました、女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト「いのちの石碑」関連です。 

石巻地方で成人式 1900人 震災経て門出 次代を担う二十歳の誓い

きょう14日は「成人の日」。それに先立つ13日、石巻地方の各地で成人式が行われた。今年の新成人は平成10年4月2日―同11年4月1日生まれ。東日本大震災発生当時は小学校6年生だった世代で、石巻地方の対象者は石巻市1357人(男704人、女653人)、東松島市484人(男266人、女218人)、女川町126人(男56人、女70人)が対象となった。二十歳という人生の節目を迎えた紳士淑女たちは久しぶりに再会した友人と近況を報告し合い、将来への決意を胸に刻んだ。

女川町 古里と仲間忘れず未来へ004

 女川町の成人式は13日、生涯学習センターで開かれた。町内21の浜に震災の記憶を未来に伝える「いのちの石碑」の建立に取り組む、女川中の卒業生約60人が出席。決意新たに一歩を踏み出した。
 「多感な時期に苦労をかけ、本当に申し訳なかった」。震災を振り返り、祝辞で深謝した須田善明町長は「辛さ痛みを背負い、皆で行動してきた。その力は誇り。これから人生の幸をつかみ、何事も真剣に全力で取り組んでほしい」と語った。
 新成人代表の千葉嵩斗さん、鈴木美亜さんが「どこにいてもふるさと女川、大震災でも欠けることのなかった仲間を忘れず、一歩ずつ自分の足で未来に向かって進み、社会の発展に貢献していく」と誓いを立てていた。


女川光太郎祭等でお世話になっている、須田町長さんの祝辞、「多感な時期に苦労をかけ、本当に申し訳なかった」の語に、はっとさせられました。別に町長さんが謝ることではありませんし、震災当時は前町長の町政時代でしたし……。

同じく、女川町の成人式について、新聞ではありませんが、仙台放送さんのローカルニュースから。

「千年後の命を守る」活動とは…女川中学校の卒業生が20歳に誓う

「成人の日」は14日ですが、宮城県内のほとんどの自治体では13日、成人式が開かれ、約2万4千人が大人への第1歩を踏み出しました。このうち、女川町では千年後の命を守りたいと活動を続けた女川中学校の卒業生たちが新成人を迎えました。

13日に開かれた、女川町の成人式。
鈴木美亜さん(新成人誓いの言葉)
「どこに行ってもふるさと女川と、大震災でも欠けることなかった大切な仲間を忘れることなく1歩ずつ自分の足で未来に向かって進んでいきます」
千葉嵩斗さん

「そして、ここから生まれる素晴らしい出会いを大切にし、未来の社会の発展に貢献する
ことをここに誓います」
この日参加した新成人は震災当時、小学6年生。1カ月後に入学した女川中学校で、ある活動を始めた学年です。
阿部一彦先生 (2012年取材)
「千年後まで残しましょう。ここで中途半端にしてはダメだ!大人に訴えましょう!伝わるはず!絶対」
それが、千年後
の命を守るための「いのちの石碑」作り。町内21の浜の津波到達点に石碑を建てる計画です。震災から2年後、2013年に1基目が完成。6年かけ、これまでに17基が建てられました。そしてもう1つ、「いのちの教科書」作り。防災の知識や避難の意識、そして、自分たちの経験などを綴り、2017年、完成しました。2つの活動は今も続き、石碑は最後の21基目の完成を、教科書は来年の改訂を目指しています。
山下脩くん
「この仲間たちじゃなかったら多分途中で諦めていたかもしれないし、みんなで支え合って何でも言い合ってきたか
らこそ、ここまで来れたのかな」
伊藤唯さん
「この活動今は十何人とかすごい少ないんですけど、もとは中学生の時に同級生みんなで始めた活動なので、みんなの気持ちを背負って活動していきたい」
そんな彼らに、この日、ある物が配られました。それは「俳句」を書く紙。いのちの石碑には、震災後、授業で詠んだ同級生たちの俳句が刻まれています。 最後の1基、21基目に刻む俳句は成人を迎えた今回書いた俳句の中から選ぶことにしました。いのちの石碑。その1基目に刻まれた句は「夢だけは壊せなかった大震災」。
橋本華奈さん
「4月からバスガイドになるんですけど、東京オリンピックが開催されるからこそ、東京で色んな方に日本の良さを知ってもらえれば」
小松玲於さん
「今、機械保全の仕事をしているんですけど、それとは別でウェディングプランナーという仕事をやってみたくて、それに向けて勉強しているんですけど、なれるように責任持って、ちゃんとした大人になれれば」
鈴木智博さん

「今大学入っているので勉強して女川町とか、お世話になって人に恩返しできるような大人になれれば」
「千年後の命を守る活動」に参加し続けた山下脩さん。海上保安官になるという夢を叶えました。
「地元である女川だけじゃなくて、宮城、東北の海の安全を守るのが目標で、まだ行方不明者の方とかいるので、実際に潜水捜索とかではないんですけど、その支
援として行方不明者捜索にも関わっていきたい」
伊藤唯さん。「笑顔を届けたい」とダンサーを目指しています。
「ダンサーになることも1つですし、
あとはこの活動がもっと多くの人に知ってもらって命の大切さとか、災害は起こりうるものなので、そういう時の対策を多くの方に知っていただいて、後は成人式を迎えたので、自分自身も責任を持って日々過ごしていけたら」

「千年後の命を守る」活動を続ける女川中学校の卒業生たち。それぞれの夢を追いながら、大人の1歩を踏み出しました。


 
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この「いのちの石碑」をめぐる物語、NHKさんが、平祐奈さん主演でドラマ化。3.11直前の3月9日(土)に放映されるそうです。

また近くなりましたら、詳細をお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

今でも、何かあぶないなと思ふ事にあつたり、前後のわからないやうな、むつかしい考に悩んだりする事がある度に、小父さんはまづ自分の足の事を思つてみる。自分がほんとにしつかり立つて、頭を上にあげてゐるかしらと思つてみる。

散文「小父さんが溺れかけた話」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

自分がほんとにしつかり立つて、頭を上にあげてゐるかしら」という問い。常に持っていたいものですね。

サンタさんはやっぱりいるのですね。昨年の000クリスマスイヴの日のこのブログで、国書刊行会さん刊行の『中村傳三郎美術評論集成』をご紹介しました。定価27,000円+税の大著ですのでなかなか手が出ないもので、「サンタさんが置いていってくれていないものか」と書いたところ、本当に届きました。

著者の故・中村傳三郎氏のご子息であらせられる中村徹氏がこのブログをご覧下さいまして、それなら、と贈って下さった次第です。深く感謝いたしております。

重さ1.65キログラム、1,000ページ余、刊行までに3年余りかかったというのもうなずけます。目次だけでも10ページ、それも二段組みで(本文も二段組み)です。

編集は、小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員の藤井明氏。氏からご労苦のさまを伺っておりましたが、実物を手にとって、改めてこれは大変だったろうな、と実感させられました。

「彫刻篇」「絵画篇」「工芸篇」に分かれ、国立博物館付属美術研究所(現・国立文化財機構東京文化財研究所)
に勤務されていた故・中村氏が、さまざまな新聞雑誌や展覧会図録などに発表された文章の集成です。ご専門が近代彫刻史だったため、「彫刻篇」の分量がもっとも多く、随所で光太郎や光雲に触れられています。その他、ロダンや荻原守衛、平櫛田中をはじめ、光太郎・光雲ゆかりの彫刻家が一堂に会している感があります。また、ともに光太郎と交流のあった鈴木政夫、土方久功など、一般にはほとんど知られていない彫刻家もしっかり紹介されているのには舌を巻きました。これを読まずして近代日本彫刻史を語るなかれ、という感がしました(当方もまだ読了していませんが(笑))。

なかなか個人では入手しにくいとは存じますが、およそ彫刻に関係する大学さんや美術館さん、それから公共図書館さんなどでは必ず置いてほしいものです。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

私は美術家としての生活を聊か変へた。もつと変へるであらう。従来の美術家の生き方がだんだん堪へられなくなつて来た。もう自分にはロダン流の、(又従つて日本の九分通りの、或は全部の美術家の、)生活態度が内心の苦悶無しには続けてゆけない。

散文「近状」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

元々展覧会への出品をほとんどしなかった光太郎ですが、さらに、注文を受けて作品を作る、という行為にも疑義を感じ、このような発言をしています。それではいったいどうやって生活して行くんだ、ということになります。結局は、「内心の苦悶」を抱えながら、注文仕事やら光雲の代作や下職(肖像彫刻をやや苦手としていた光雲のための原型制作など)やらを続けて行かざるを得ませんでした。

今日は成人の日。しかし、今日よりは、この土日に成人式を開催した自治体さんが多いようです。各地の成人式について、新聞各紙から。

まず、『岩手日日』さん。 

花巻市成人式 大人の自覚新た

 花巻市の2018年度成人式は12日、同市若葉町の市文化会館で行われた。男性409人、女性426人の合わせて835人が出席。華やかな振り袖や真新しいスーツに身を包んだ若者たちが、旧友との再会を喜ぶとともに式典や記念行事を通じて大人としての自覚を新たにした。
  市主催の式典では国歌斉唱、新成人代表4人による市民憲章の朗読に続き、上田東一市長が花巻で過ごした高村光太郎の詩「道程」を引用しながら「皆さんは小学校の卒業を目前に控えた時に東日本大震災を経験し、主体的な行動と自分で考えることの大切さを学んできたと思う。新しい時代を築いていく皆さんには柔軟なアイデアと大胆な行動力を持ち、光太郎のような道を進んでいくことを期待している」と式辞。小原雅道市議会議長が祝辞を寄せた。
  新成人2人の決意表明では、記念行事実行委員会委員長の佐々木小梅さん(大迫中学校出身)が専門学校卒業後に看護師になる目標を述べながら「これまで学んだ知識を生かし患者に寄り添いながら信頼される看護師になりたい。両親や成長を温かく見守ってきた地域の方々、友人に感謝の気持ちを忘れずに人生を歩みたい」、副委員長の町中大悟さん(西南中出身)は「大学卒業後にメディアの記者として働き、岩手の良さを伝えられる記者になりたい。大人の自覚を持ち社会に貢献できる人になりたい」と力強く語った。
  式後は実行委が企画した記念行事、出身中学校ごとの記念撮影が行われた。
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他にも全国の首長さんで、「道程」などを引用された方がいらっしゃるのではないかと存じますが、光太郎第二の故郷ともいうべき花巻市の上田市長が引用されるのは、重みが違うように思われます。上田市長のお父様は生前の光太郎と交流がありましたし、上田市長ご自身、毎年5月15日の花巻高村祭にはほぼ欠かさずいらして下さっています。


続いて、『朝日新聞』さんの宮城版。先週の記事です。 

宮城)女川・21基目「いのちの石碑」 刻む句を募集

016 東日本大震災の津波の記憶を後世に残そうと、女川町内21の浜に「いのちの石碑」の建立を目指す女川中学校の卒業生らが、最後となる21基目の石碑に刻む句を13日の成人式で募集することを決めた。
 取り組むのは2011年春に中学校に入学した生徒たちで、今年成人式を迎える世代だ。中学校の社会科の授業をきっかけに、「千年後の命を守ろう」と町内すべての浜で、津波到達点より高い場所に石碑を建てることを計画。13年11月に第1基を女川中学校前に建立して以来、現在までに17基が完成した。
 21基目は、20年に完成予定の町立女川小・中学校内に同年秋ごろの設置を目指す。これまでの石碑には、震災直後に生徒が詠んだ句の中から一句ずつを選び刻んできた。
集大成となる石碑には、新成人として一堂に会する同級生から募ることで意見がまとまった。石碑の設置場所を示した地図も作り、成人式会場で配布する。
 大崎市の専門学校生勝又愛梨さん(19)は、「募金など多くの人の支えでここまでやってこられた。石碑が一人でも多くの人の命につながるよう、これからも活動を続けたい」と話した。(山本逸生)

このブログでもたびたびご紹介してきた、女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト「いのちの石碑」関連です。

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その女川町の成人式の模様、仙台に本社を置く『河北新報』さん。 

<成人式>夢見る思い未来紡ぐ 県内各地で成人式

017◎いのちの石碑建立の元生徒/教訓の伝承心に刻む・女川

 宮城県内の多くの自治体で13日、成人式が行われた。東日本大震災の被災地では、多くの新成人が、復興が進む古里への貢献を誓った。県によると、今年の対象者は県内で2万4018人。前年と比べ294人増えた。
 女川町の成人式が町生涯学習センターであり、東日本大震災の教訓を記した「いのちの石碑」を町内21の浜に建てる活動に取り組む女川中の卒業生約60人が出席した。今も続くプロジェクトの合言葉は「1000年後の命を守る」。会場で最後となる21基目の石碑に刻む俳句を募り、新成人が自分と古里の未来に思いをはせた。
 今はまだ あの日の夢の 道なかば
 作歌した大学2年の山田太介さん(20)は今、地球物理学を学ぶ。2013年11月に建立された1基目に刻まれた作品「夢だけは 壊せなかった 大震災」は、山田さんが作った。
 鉱物学者を夢見る思いは津波に遭っても揺るがない、との思いを込めた。山田さんは「震災後も夢に向かって勉強を続けてきたことをみんなに会って思い出した。自分は夢の途中にいる」と改めて気付いた。
 学業などが多忙でプロジェクトの集まりにはあまり参加できないが「津波の教訓を伝承していくという思いは変わらない」と話す。
 進んでく あの日のことを 忘れずに
 山下脩(しゅう)さん(20)は今、海上保安官として働く。震災から約8年がたち、古里の風景は様変わりした。
 「昔の街に戻ってほしい思いもあるが、未来に進むためには仕方がない」と語り「震災を心に刻み、これからの人生を歩んでいきたい」と力を込めた。
 プロジェクトは、本年度成人した11年度の入学生が中学の社会科の授業をきっかけに始めた。津波対策を話し合い、石碑の建立を進めてきた。
 後世の町民が津波で命を落とさぬよう、津波到達地点より高い場所に石碑を建立。費用は寄付金などで賄う。完成した石碑には、震災直後に生徒たちが詠んだ句が刻まれている。
 中学卒業後も有志が集まり、活動を続けた。プロジェクトの一環として作った震災の教訓集「女川いのちの教科書」は、この日の式典会場で配布された。
 教科書作りに携わった勝又愛梨さん(19)は「震災で一番つらい時期に支えてくれたメンバーと一緒に成人式を迎えられてうれしい。たくさんの大人に支えてもらったので、私もそんな大人になりたい」と話す。
 震災後、避難所で気丈に振る舞う看護師に憧れ、大崎市の看護学校に通う。「これからも自分のできることで貢献していきたい」と思いを語った。
 石碑はこれまでに17基が建立された。21基目は20年秋に完成する予定。

『毎日新聞』さん。 

「津波の碑に刻む、最後の句を君たちから」女川町、成人式で募る

018 宮城県女川町で、東日本大震災の津波の到達点に「いのちの石碑」を設置する活動を続ける町立女川中の卒業生が13日、同町の成人式に臨み、碑に刻む俳句を会場の同級生に向けて募った。句は、来夏に建立する最後の21基目の碑に刻む予定で、「1000年後の命を守るため、震災を経験し新成人となった今の思いを込めてほしい」と呼び掛けた。
  「いのちの石碑」の活動は、震災時小学6年で、2011年4月に女川一中(現女川中)に入学した生徒たちが、中1の社会の授業をきっかけに「古里のためにできることをしよう」とスタート。20歳になるまでに、町内21地区の津波最高到達点に石碑を建てることを目標とした。
 メンバー67人は自ら募金活動をするなどして約1000万円を集め、現在までに17基の設置が完了した。各碑には、地震発生時には碑より高台へ避難するよう呼び掛ける定型のメッセージと、メンバーが震災を通じて感じたことを表現した俳句を刻んできた。最後の21基目は、来夏に町中心部に完成予定の女川小中一貫校の新校舎の敷地内に設置されることが決まっている。
  メンバー以外から募集するのは初めてで、メンバーが詠んだものも含めて集まった句から選ぶ。この日の式では、出席した新成人一人一人に用紙が配られ、さっそく真剣な表情で句を書き込む新成人もいた。
  活動に取り組む看護学校生の勝又愛梨さん(19)は、「碑を見る人に『生きていることは幸せなんだ』と思ってもらえるような俳句を書きたい」と話す。震災で曽祖父母と2人のいとこが犠牲になったといい「震災で命の大切さを知った。看護師になり、誰かのために行動できる成人になりたい」と決意を新たにしていた。【本橋敦子、百武信幸】


かつて光太郎文学碑の建立に奔走し、あの津波に呑み込まれて亡くなった、女川光太郎の会事務局長であらせられた故・貝(佐々木)廣氏も、喜ばれていることでしょう。

新成人の皆さんの、輝かしい未来に幸多かれ、と存じます。


【折々のことば・光太郎】

青春の爆発といふものは見さかひの無いものだ。若さといふものの一致だけでどんな違つた人達をも融合せしめる。パンの会当時の思出はなつかしい。いつでも微笑を以て思ひ出す。本質のまるで別な人間達が集まつて、よくも語りよくも飲んだものだ。自己の青春で何もかも自分のものにしてしまつてゐたのだ。銘々が自己の内から迸る ( ) 強烈な光で互に照らし合つてゐたのだ。いつ思ひ出しても滑稽なほど無邪気な、燃えさかる性善物語ばかりだ。

散文「パンの会の頃」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

パンの会」は、木下杢太郎、北原白秋、吉井勇などが興した芸術至上主義運動の会。欧米留学から帰った光太郎もすぐに合流し、その若さを爆発させました。

しかし、同じ文章にはこんな一節もあります。

爆発は爆発だ。爆発してしまふと、あとはもつと真摯な問題が目をさます。人生のもつと奥の大事なものが幾層倍の強さで活動し始める。

新成人の皆さんも、爆発だけでなく、「いのちの石碑」に関わってこられた女川の若者たちのように、「真摯な問題」、「人生のもつと奥の大事なもの」に目を向けていっていただきたいものです。

昨日は、都内に出ておりました。当会顧問・北川太一先生を囲む新年会でした。

会場は、東大前のフォーレスト本郷さん。当方、昨年は同じ日に埼玉県東松山市で講演を仰せつかっており、2年ぶりに参加させていただきました。

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右上は北川先生のご自筆です。

主催は、「北斗会」さん。北川先生が高校の教員をなさっていた頃の教え子の皆さんです。教え子といっても、戦後すぐの話ですので、皆さんだいぶご高齢。最高齢の方は92歳だそうです。何人かの方は、連翹忌や女川光太郎祭にもいらして下さっています。

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北川先生ご自身は、この3月で94歳となられます。

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昨年は白内障やヘルニアの手術をなさったそうですが、奥様ともども、お元気でご参会。数年前は車イスが欠かせなかったのに、現在はご自分のおみ足で歩かれています。例年、子息の光彦氏もいらっしゃるのですが、昨日はご都合によりご欠席。代わりにお孫さんの浩平君がお付きの人としてご参加なさいました。

今年、文治堂書店さんから、新刊を刊行されるとのことで(さまざまな雑誌等にご発表なさった旧稿の再編だそうですが)、まだまだお元気でご活躍。

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上記は文治堂さんからの年賀状の一節です。

旧稿といえば、昨年末にコールサック社さんから刊行された野澤一詩集『木葉童子詩經』復刻版。別冊で「解説」が付いており、北川先生を含む9名の方々の玉稿が掲載されています。北川先生のものは、平成元年(1889)の雑誌『峨眉』に載った「大竜のおとずれ――野沢一と高村光太郎」。光太郎と野沢との交流の様相がまとめられています。

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光太郎を敬愛し、山梨県の四尾連湖畔に独居生活を送り、膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けた詩人・野沢一の生前唯一の詩集で、元版は昭和9年(1934)。その後、文治堂書店さんから2回覆刻されており、今度が3回目です。今回のものは、限りなく元版に近い形での復刻だそうです。野沢の子息である、俊之氏から献呈ということでいただいてしまいました。恐縮です。

北川先生の新刊に関しては、また詳細が判りましたらご紹介いたします。併せてご購入下さい。


【折々のことば・光太郎】

今でもはつきり思ひ出すが、その時細かな霰が急に白く降つて来て人力車の泥よけにぱちぱちあたつた。「おしるしがやつて来た。」と私の降り性を諷した父のさそくの言葉が一同を少し笑はせた。

散文「遙にも遠い冬」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

明治39年(1906)の2月、3年半にわたる欧米留学のため、駒込林町の実家を出た時の回想です。

降り性」とありますが、今で言う雨男。光太郎は本当に何か節目の時には必ずといっていいほど、雨や雪、霰を呼ぶ男でした。有名なところでは、大正3年(1914)の智恵子との結婚披露宴、昭和28年(1953)の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の除幕式、そして亡くなった昭和31年(1956)4月2日は、季節外れの大雪でした。

不思議と光太郎没後もそれが続き、当方、光太郎関連のイベント等でどこかに出かけるたび、ほとんど雨や雪です(笑)。昨日も都内で初雪が降りました。

昨日公開の000映画「この道」、早速、拝見して参りました。

昨年末に小学館さんから刊行された大石直紀氏著『この道』、ほぼその通りのストーリーで(映画のノベライズと謳っていますので当然ですが)、北原白秋と山田耕筰を軸に、物語が進んでいきます。

前半は、隣家の人妻にして、後に白秋の妻となる俊子ともども姦通罪で逮捕されたり、入水自殺を企てるも結局は勇気が無く思いとどまったりといった、ダメ人間・白秋(笑)が描かれます。白秋役は大森南朋さん。

やがて白秋は、EXILEのAKIRAさん演じる山田耕筰とタッグを組み(最初の出会いは乱闘に発展)、関東大震災で力を落とす人々を、白秋の詩と山田の音楽を融合させた童謡で力づけていく、という展開。

その後、日中戦争勃発後は、否応なしに戦時体制に組み込まれてゆく二人……。幼い頃に白秋の家によく遊びに来ていた男の子がが立派な青年となり、兵士として出征してゆくシーンには、じーんと来ました。そして、やがて来るであろう、自由に歌が作れる時代を夢見ながら、白秋は先立ち、残された山田が白秋の分までその思いを背負って生きていく、というストーリーです。

『明星』の与謝野寛・晶子夫妻や、光太郎、萩原朔太郎、石川啄木、鈴木三重吉なども登場します。光太郎のそれには触れられませんでしたが、晶子に関しては、やはり大政翼賛の方向に行かざるを得なかった苦悩が描かれていました。

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関連するテレビ番組が、明日、放映されます。昨年5月に初回放映があったものの再放送ですが。 

昭和偉人伝 「山田耕筰・北原白秋」

BS朝日 2019年1月13日(日) 11時00分~11時55分

国家壊滅の状態から未曾有の成長を遂げた時代・昭和。そこには、時代を先導したリーダーがいた。そんな偉人たちを、独自取材と真実のインタビュー、さらには貴重な映像を交じえてつづる、波乱万丈の偉人伝。

2018年で童謡が生まれて100年。番組では、今も愛される童謡の名曲を数多く生んだ、詩人・北原白秋と作曲家・山田耕筰の足跡をたどり、日本人の心に残る原風景を探る!

「からたちの花」「この道」など、今も愛される童謡の名曲を生んだ、詩人・北原白秋と作曲家・山田耕筰。今回は偉大な芸術家2人の足跡を童謡を中心にたどり、日本人の心に残る原風景を探る。白秋と耕筰は、日本語が持つ美しさを生かした音楽を作り、子どもはもちろん、大人たちにも豊かな心を育んでほしいと願っていた。1918年に鈴木三重吉が「赤い鳥」を創刊し、童謡が生まれて100年以上。詩を読み、旋律にじっと耳を傾ければ、無心で遊んだ幼い頃の気持ちがよみがえるだろう。誰もが持つ“日本心の情景"を探る。

語り 國村隼

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白秋、山田、それぞれの人物像のアウトラインが紹介され……

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映画「この道」の映像も。

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山田耕筰を演じたAKIRAさんや、歌手の秋川雅史さんがゲスト出演。

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ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間の首ほど微妙なものはない。よく見てゐるとまるで深淵にのぞんでゐる様な気がする。其人をまる出しにしてゐるとも思はれるし、又秘密のかたまりの様にも見える。さうして結局其人の極印だなと思はせられる。

散文「人の首」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

性格やその時々の精神状態など、顔に表れる情報は隠そうにも隠しきれないということなのでしょう。ある意味、恐ろしいことです。

埼玉県から市民講座の情報です。手前味噌で恐縮ですが、当方、講師を仰せつかっております。

図書館講座「高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」

期   日 : 2019年1月19日(土)
会   場 : 東松山市立図書館 埼玉県東松山市本町2-11-20
時   間 : 13:30~15:00
講   師 : 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
料   金 : 無料
申 し 込 み : 直接または電話で市立図書館 0493-22-0324

東松山市とゆかりの深い三人の文学と芸術、人生について学びます。

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同市元教育長の故・田口弘氏は、戦時中から光太郎と交流があり、戦後には花巻郊外太田村に蟄居中の光太郎を2回ご訪問、さらに昭和26年(1951)から刊行が始まった中央公論社版『高村光太郎選集』編集のため、戦前から作成されていた光太郎に関するスクラップブックを、当会の祖・草野心平に貸与なさいました。そこで、昭和59年(1984)に、市内の新宿小学校さんに建てられた「正直親切」碑の建立に奔走されたり、平成28年(2016)には、光太郎から贈られた書や署名本、書簡などを同市に寄贈されたりなさいました。氏の没後、寄贈された資料は、市立図書館さんに「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、無料で公開されています。

さらに、やはり光太郎と交流のあった彫刻家・高田博厚とも親しくされ、光太郎胸像を含む高田の彫刻32点を配した同市の東武東上線高坂駅前から延びる「彫刻プロムナード」整備にも力を注がれました。そうしたご縁から、鎌倉にあった高田のアトリエの閉鎖に伴い、アトリエにあった彫刻その他も同市に寄贈されています。昨年には、それらを展示する企画展も開催されました。

というわけで、田口氏、高田博厚、そして光太郎、3人の交流と東松山との関わりについて、お話をさせていただきます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

高田君の彫刻の写真は中々見事である。まだ実物は見ないが、此だけでも見当がつく。今知らん顔をしてゐる人達も今に否応無しに此彫刻家を認めねばならない時が来るであらう。実力といふものは面白い。

散文「雑誌「大街道」の事」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

「天才は天才を知る」と申しますが、まだ世間からほとんど注目されていなかった高田の彫刻を、光太郎はいち早く素晴らしいものとして認識していました。

東京都三鷹市より、企画展示の情報です。智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)で芸術選奨文部大臣賞を受賞され、2016年には文化功労者にも選ばれた津村節子さんに関わるものです。 

「吉村昭と津村節子・井の頭に暮らして」展

期 日 : 前期 2019年1月12日(土)〜2月2日(土)   後期 2月5日(火)~2月24日(日)
会 場 : 前期 井の頭コミュニティ・センター図書室  三鷹市井の頭二丁目32番30号
          後期 三鷹図書館(本館)  三鷹市上連雀八丁目3番3号
時 間 : 前期 正午~20時(土曜は10時から 日曜日は10時~16時30分 最終日は15時まで)
          後期 9時30分~20時(土曜、日曜・祝日は17時まで)
料 金 : 無料
休 館 : 前期 月曜日・祝日  後期 月曜日・第3水曜日(2月20日)

三鷹市ゆかりの文学者顕彰事業の一環として、ともに作家であり、夫婦でもある吉村昭と津村節子を取り上げ、市内2ヵ所で巡回展示を開催します。
両者が作家として築き上げてきた文学の世界を多彩な著作から紹介しつつ、二人が夫婦として長年暮らした三鷹とのゆかりを紹介します。
本展では、初版本や、自筆原稿、色紙など数々の資料をご覧いただけます。展示内容に違いもありますので、お時間のある方は両施設にぜひ足をお運びください。

展示予定資料
 吉村昭・津村節子 自筆色紙
 吉村昭 自筆原稿「わがふるさと三鷹 文学散歩」
 津村節子 自筆原稿「私の青春・二十歳で洋裁店のマダムだったが」ほか

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『朝日新聞』さんの東京版に紹介記事が出ました。  

東京)吉村昭さん津村節子さんに迫る 三鷹で巡回展

 東京都三鷹市で1~2月、巡回展「吉村昭と津村節子――井の頭に暮らして――」がある。ともに作家で夫婦の吉村さん(1927~2006)と津村さん(1928~)は長年、市内で暮らした。資料の展示などを通じ、2人の文学や市とのゆかりを紹介する。
 現在の東京都荒川区で生まれた吉村さんは、学習院大学を中退後、1953年に同人仲間だった津村さんと結婚。66年に「星への旅」で太宰治賞を受賞し、同年の「戦艦武蔵」で記録文学に新境地をひらいた。「ふぉん・しいほるとの娘」「冷い夏、熱い夏」「破獄」「天狗(てんぐ)争乱」などを発表。数多くの文学賞を受けた。
 福井市出身の津村さんは学習院短大卒。65年に「玩具」で芥川賞を受賞した。自伝的小説や歴史小説、エッセーなどで幅広く活躍。代表作には「智恵子飛ぶ」「流星雨」「異郷」などがある。
 三鷹市スポーツと文化財団などによると、2人は69年、「都心に近く、自然も残り、創作に理想的だ」などとして市内に転居。都立井の頭公園近くに居を構えた。吉村さんは最晩年、膵臓(すいぞう)がんの手術を受けて、自宅で療養。没後の2006年夏、津村さんはお別れの会で、「ヒグラシが鳴いて井の頭公園の風が吹いてくるのを喜んでいた」と吉村さんについて振り返っている。
 巡回展では「戦艦武蔵」や「玩具」の初版本、2人の色紙や写真などを展示。財団学芸員の三浦穂高さんは「2人にとって、作家としても夫婦生活を送るうえでも、三鷹は大事な場所だったのだろう」と話す。
 巡回展は1月12日~2月2日が井の頭コミュニティ・センター図書室(井の頭2丁目)、2月5~24日が市立三鷹図書館(上連雀8丁目)。2カ所で内容が一部異なる。ともに無料。開館時間や休館日の問い合わせは山本有三記念館(0422・42・6233)へ。(河井健)


津村さんに関しては、昨秋、吉村氏の故郷・荒川区の吉村昭記念文学館さんで「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展 津村節子展 生きること、書くこと」、及び、「第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」が、同館と「おしどり文学館協定」を結ぶ、津村さんの故郷の福井県ふるさと文学館さんで「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」が開催されましたが、今回は、ご夫妻で長く住まわれ、津村氏が現在もお住まいの三鷹市での開催です。

『智恵子飛ぶ』に関する展示もあるかと存じますので、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】000

すばらしい大きな雷が一つ、角の牛肉屋の旗竿にお下(くだ)りになつた後、やうやく雨の降りやむ迄の一二時間、裸でみんなの前に坐つてゐるおぢいさんの、確信のあるそのちよん髷頭が、どんなに私の力となつたらう。雷が鳴るといつでも、あの時のおぢいさんが眼に見える。

散文「雷の思出」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

子供の頃から、そしていい大人になった後も、光太郎は雷が大嫌いでした。子供の頃は、同居していた祖父の兼松が、雷が鳴ると直撃を避けるおまじない的なことをしてくれ、それが心強かったというのです。

上記のエピソードは明治16年(1883)生まれの光太郎の幼少時ですから、明治10年代終わりか、20年代初めでしょう。断髪令が出たのが明治4年(1871)、そんなことはお構いなしにまだ髷を結っていた兼松。この頑固さは、光太郎にも遺伝しているようです。

当会の祖・草野心平を顕彰するいわき市立草野心平記念文学館さんでの企画展です。 

冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」

期 日 : 2019年1月12日(土)〜3月24日(日)
会 場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
時 間 : 9時から17時まで
料 金 : 一般 430円(340円) 高・高専・大生 320円(250円) 小・中生 160円(120円)
       ( )内は20名以上団体割引料金
休 館 : 毎週月曜日、1月15日、2月12日(1月14日、2月11日は開館)

草野心平は、天性の詩人でしたが、自身と家族のために行った職業は13を数えます。それは何一つ詩人の副業でありませんでした。その一つ、居酒屋「火の車」は、昭和27年(1952)3月に東京都文京区田町に開店しました。同店は昭和30年4月に新宿区角筈に移転し翌31年12月に閉店しますが、この約5年間、ここには「文学仲間との怒号の議論、客との喧嘩、連日の宿酔、そして執筆」と独特のエネルギーが渦巻いていました。
 本展では、「火の車」時代の心平を、①火の車開店まで、②火の車開店以後、③火の車常連客、さらに④草野心平・宮沢賢治・高村光太郎の食のエピソードの4つにわけて紹介します。

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関連イベント

ギャラリートーク   1 月12 日㈯13 時30 分 要観覧料

居酒屋「火の車」一日開店  期日 3月10日(日)
 草野心平が開いていた居酒屋「火の車」で、心平が命名したお品書きにちなんだ料理を試食します。
 ■寸劇「火の車時代」 11 時30 分~11 時50 分 常設展示室
 ■「火の車」ランチタイム
   料理人 中野由貴氏、文学館ボランティアの会会員 12 時~12 時30 分 小講堂 要申込
 ■食卓トーク「心平・賢治・光太郎 ある日の食事」
   講師 中野由貴氏(宮沢賢治学会会員・料理研究家) 13 時~14 時 小講堂
 ●お申し込み方法 電話、往復はがき、FAX、E-mail のいずれか
 ●定 員 先着50 名(2 月10 日より受付開始)
 ●参加料 500 円(所定の観覧料も必要です)


居酒屋「火の車」は、昭和27年(1952)、心平が小石川に開いた怪しげな居酒屋です。のち、新宿に移転しました。最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再上京した光太郎もたびたび足を運んでいます。

一昨年には同館で「春の企画展 草野心平の詩 料理編」が開かれ、「火の車」に関する展示も為されましたが、今回は「火の車」をメインとするようです。光太郎にも触れて下さるようで、ありがたいところです。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

嵐の通り過ぎた今となつては、首をきられた人も斬つた人も、みんな何だかなつかしい。君達は本気に苦しんだ。さうしてみんな死んだ、何しろみんな死んでしまつたのだ。どつちが強いも弱いもない。

散文「ルイ十六世所刑の図」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

この年、松屋で開催された中世期版画展の際に購入した、フランス革命を題材にした版画に寄せる文章の一節です。「本気に」人生を送ることの尊さを重んじた光太郎らしい発言です。

一昨日、北千住のBUoYさんに観劇に行く前、同じ下町の蔵前に立ちよりました。自宅兼事務所、東京都に隣接する千葉県ですが、千葉でも田舎の方なのでしょっちゅう都内に出るわけではなく、都内に出る時には複数の用事をこなさいと気が済みません(笑)。

向かったのは、東京メトロ蔵前駅近くの榧寺(かやでら)さん。

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戦国時代に創建されたという古刹です。

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江戸後期、葛飾北斎の浮世絵にも描かれています。

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光太郎の父・光雲が、幕末から明治初めに徒弟修行をした、高村東雲の工房が近くにありました。そのため、昭和4年(1929)に刊行された、『光雲懐古談』にもしばしば登場します。

黒船町(くろふねちやう)へ来ると、町(まち)が少し下つて二の町となる。村田の本家(烟管屋)がある。また、榧寺(かやでら)という寺がある。境内に茅が植つてゐた。
(「名高かつた店などの印象」)

何(な)にしろ、今度の火事は変な火事で、蔵前(くらまへ)の人々は、家が残つて荷物が焼けました。此は、荷物を駒形の方へ出した為です。急(きふ)に西風に変つた為に蔵前の家々は残りました。丁度、黒船町(くろふねちやう)の御厩河岸(おんまやがし)で火は止まりました。榧寺の塀や門は焼(や)けて本堂は残(のこ)つてゐた。
(「焼け跡の身惨なはなし」)

吾妻橋は一つの関門で、本所(ほんじよ)一圓(えん)の旗本御家人が彰義隊に加勢(かせい)をする恐れがあるので、此所(こゝ)へ官軍(くわんぐん)の一隊が固めてゐたのと、彰義隊の一部(ぶ)が落ちて来た為一寸小ぜり合(あ)ひがある。市中警戒という名で新徴組の隊士が十七八人榧寺に陣取(ぢんと)つてゐる。異様の風体(ふうてい)をしたものが右往左往してゐるといふ有様(ありさま)でした。
(「上野戦争当時のことなど」)

さて、この榧寺さんの境内に、光雲が原型を作った地蔵尊が露座でおわすという情報を得、拝観に伺った次第です。都内や神奈川県内等に、やはり光雲が原型を作った、多くは鋳銅の仏像が安置されている例は多く、これまでも折を見て拝観して廻っておりました。鎌倉長勝寺さん、横浜で増徳院さん、浅草の浅草寺さん、巣鴨は妙行寺さん、南千住に円通寺さん、駒込大圓寺さん、そして関西では京都の知恩院さんなど。

榧寺さんの地蔵尊はこちら。

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「厄除け地蔵」だそうです。とても優しいお顔でした。

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通常、地蔵尊は、右手に錫杖、左手に宝珠というのがお約束です。こちらのお地蔵様、左手は宝珠を約束通りにお持ちですが、右手は徒手です。どうも、元は手にされていた錫杖が無くなってしまっているのではないかと思いました。それとも、元々徒手で、何らかの印を結ばれているのでしょうか。

特に縁起等は記されていませんでしたが、昭和25年(1950)に安置されたとのこと。昭和25年といえば、光雲は既に亡くなっています。

お寺の方にパンフレットを頂き、お話をさせていただきましたが、詳しい経緯は不明でした。また、木彫原型等もこちらには残っていないとのこと。

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境内には他にもお地蔵様が。

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左上は「飴なめ地蔵尊」。永井荷風の小説に登場するそうです。右上は「お初地蔵尊」。大正期の児童虐待事件の被害者を供養するために奉納されたとのこと。

それから、い000ただいたパンフレットを読んでいて、驚きました。「著名人の墓」という項があり、その中に洋画家の安井曾太郎の名が。光太郎は明治41年(1908)から翌年にかけ、海外留学でパリに滞在していましたが、その際、有島生馬、山下新太郎、津田青楓らとともに、やはりパリにいた留学仲間です。

安井は京都系だった記憶があり(あとで調べてみると確かにそうでした)、こちらに墓があるとは存じませんでした。考えてみれば、故郷に墓があるとは限りませんのであり得る話です。

あいにく香華の持ち合わせがありませんでしたが、光太郎の代参のつもりで手を合わせて参りました。「パリでは大変お世話になりました」と。


他にも、光雲の手になる仏像が露座でましますお寺はいくつかあるようなので、今後も折を見て拝観に廻りたいと存じます。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

幾度もう仕上げてしまはうと思つたか知れませんが、その度に何かが私を引き止めて、又その先きの道を歩かせました。私は其の何かに導かれながら年を重ねました。さうしてその歩みは私を駆つていつのまにか彫刻の禁苑らしい処へつれて来ました。私は今ふりかへつてみて、自分がこの胸像をいそいで作り上げてしまはなかつた事に対して自分に感謝します。

散文「成瀬前日本女子大学校長の胸像を作りながら」より
 大正15年(1926) 光太郎44歳

過日も同趣旨の文章から言葉を引きましたが、大正8年(1919)に、智恵子の母校・日本女子大学校に依頼された同校創業者の成瀬仁蔵胸像が、なかなか完成しないことへの釈明の文章から。その長い間にも、自分は進化し続けているので、待ってほしい、という趣旨です。結局、像の完成は昭和8年(1933)でした。

昨日は、今年初めて都内に出ておりました。

メインの目的は、観劇。北千住のBUoYさんという不思議なスペースが会場でした。

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岸井戯曲を上演するinTokyo#1「かり」」。岸井大輔氏という劇作家の方が書かれた同一の「戯曲」を、3組の方がそれぞれの表現で演じられる、といういわば実験的な試みでした。

ただ、それは「PLAYS and WORKS旗揚&新春企画 あそびとつくりごと1 出版記念の2日間」というイベントの一部、という扱いでした。

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先ほど、「戯曲」と書きました。なぜカギカッコつきで「戯曲」なのかというと、通常の戯曲という概念から離れたものだからです。

通常、戯曲というと、ほぼ台本や脚本、シナリオとイコール、すなわち、ト書きがや役者さん達のセリフが書いてあるものだと思いますが、岸井氏の「戯曲」の概念は、違います。

今回、取り上げられた「かり」という戯曲は、以下の通り。

かり
動物を狩り、植物を苅り、カリという語は、自然から借りるからきている。人生も仮住まいというように、生きているのは、何かから借りた、仮の姿であるので、拝借の借りという言葉が、一時的の仮に使われるようになった。
例えば、演技をするとき、私は私をかりている。では私に私をかしているのは誰か。

これで全文、これだけなのです。

ここから、3人の演者の皆さんが、それぞれにイマジネーションを働かせ、自分なりの「かり」を作り上げ、それを披露されたというわけです。

お一人目、キヨスヨネスクさんという方は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を延々と読まれました。お三方目、佐藤明子さんという方は、葛の葉伝説などを下敷きにした映像作品でした。

そしてお二人目の、辻村優子さんという方。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をモチーフにして下さいました。

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ほぼほぼずっとこのポーズです。基本、セリフは事前に録音されていたものをスピーカーから流す形。ただ、後半、肉声も入りました。

辻村さん、俳優としても各種の舞台などにご出演されているそうですが、本業的には、美術作品のモデルさんだそうで、明治末に智恵子が油絵を学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会さんでもモデルを務められているそうです。

そのモデルさんとしての実体験から、今回の内容を思いつかれたそうで、いわば「モデルあるある」的な(笑)。ある時、大きな彫刻のモデルをなさった折、作家の方が席をはずした際に作品を見てみると、作品の足もとにたくさんの紙切れが……。見ると、すべて某多人数アイドルグループの人気メンバーの写真。彫刻の顔を見上げると、まぎれもなくその方の顔……。というエピソードが挿入されましたが、実話だそうです。

「乙女の像」も、顔は亡き智恵子、ということで、まぁ、それにはそこに至るまでの光太郎智恵子の鮮烈な生の試みや、戦後の彫刻封印と自己流謫(るたく)=自分で自分を流刑に処すること、といった長いドラマがあるのですが、そのあたりは、拙稿も載っております『十和田湖乙女の像のものがたり』をお読み下さい。

終演後、お三方と、司会の方でトークショー。

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ここで、先ほどの岸井氏の「戯曲」の定義、的なお話も出ました。また、やはり辻村さんのモデルとしてのいろいろなお話など、興味深く拝聴しました。

更にその後、辻村さんとお話をさせていただきました。今回、「乙女の像」のポーズをずっとなさってみて、見た目には判らないものの、かなり身体に「ひねり」が入っているというお話を伺い、意外に感じました。「乙女の像」のモチーフの一つが観音像なので、同じ仏像でも、天部や明王などのそれとは違い、まっすぐに立っているというイメージでいたものですから。こういう点は、実際にやってみないとわからないことですね。

さて、今後も、光太郎智恵子の世界、様々な表現者の皆さんが、それぞれの解釈で挑んでいっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】000

批評精神に満つるが故に却つて分せき的でなくて包摂的な、明徹であるが故に逆説と順応との入りまじる、抑へ難い闘志に燃えるが故にあらゆる人と物との価を発見せずにおかない、単純であるが故に内に複雑な結構の生れる、微妙のものを感ずるが故に感傷性に曾て墜ちない、この放縦にしてしゆく然たる彼の目にふれるのはよさう。

散文詩「ある首の幻想」より
 大正14年(1925) 光太郎43歳

粘土の塑像で、詩人、新聞記者だった中野秀人の首を作っている際の様子を記したものです。彫刻は、おそらく昭和20年(1945)の空襲で焼けてしまって、現存が確認できません。

ここでいう「彼」とは、確かにモデルの中野を指すとも考えられますが、どうも光太郎本人のことでもあるような気もします。

結局、あらゆる芸術作品は、モデルなりモチーフなりの姿を「借り」て、自分の内面を「仮」にこうだと表出するものなのでは、などと思いました。

ちなみに光太郎には、同じ年に書かれた「首狩」という詩も存在します。彫刻のモデルにふさわしい「首」をさがすという内容です。

昨年、全国公開されたドキュメンタリー映画「映画「一陽来復 Life Goes On」。一昨年、岩手、宮城、福島の3県を中心にロケが行われ、東日本大震災からの復興の様子を追ったものでした。

昨年11月に、DVDが発売されまして、先月入手しました。もう少し早くご紹介するつもりが、他にも色々書くべきことが多く、今日になってしまいました。 

一陽来復 Life Goes On

2018/11/16 TBSサービス 定価 3,800円+税

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昨年5月に映画館で拝見して参りましたが、その本編には未収録の未公開映像も入っています。

当会の祖・草野心平が愛し、心平を名誉村民として下さり、今も心平を偲ぶ「天山祭」を開催して下さっている、福島県川内村がメインの舞台の一つとなっています。震災後しばらくは、福島第一原発のメルトダウンにより、全村非難を強いられた村です。

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原発事故にもめげず、無農薬のお米を作り続ける秋元美誉(よしたか)さん。川内村編は、秋元さんのさまざまなご苦労がメインの内容です。

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秋元さんと昵懇の、村商工会長・井出茂さん。かつては心平を偲ぶ「かえる忌」を、経営なさっている小松屋旅館さんで開催なさっていました。

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上記は、震災後、川内村で栽培が進んだブドウ畑です。ブドウは土壌や大気中の放射線を吸収しないそうで。

遠藤雄幸川内村長、婦人会の皆さんなど、天山祭やかえる忌でお世話になった面々もご出演。

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天山祭会場にして、心平の別荘であった天山文庫もちらっと映りました。

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川内村以外では、北から行くと、岩手県釜石市。地域にコミュニティーとしての神社や祭りの様子、震災後、いち早く再開した居酒屋さんなど。

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宮城県では、南三陸町。自らも津波の被害を受けながら、避難所や、その後も地域のさまざまな活動の拠点として建物を提供なさっているホテル観洋さん。右下は従業員の方による「語り部」活動です。

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こちらを会場に開催されている、そろばん教室で学ぶ5歳の女の子(映画のポスター等にも大きく使われました)とそのお母さん。お父さんは、津波の犠牲になりました……。

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同じ宮城県の石巻。

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3人のお子さんを津波で亡くしたご夫婦がメインです。木工職人であるご主人は、震災後、地域の集会所的な建物を作ったり、小学校に寄贈する本棚を作ったりなさっています。

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その本棚に入る本は、アメリカ人ご夫婦からの寄贈。

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ご夫婦のお嬢さんは、石巻の小中学校でALT(アシスタント・ランゲージ・ティーチャー=外国語指導助手)として働いていましたが、やはり津波に呑み込まれ、亡くなっています。はじめは日本に来るのがつらかったというご夫妻も、同様の思いをなさった方同士、石巻の皆さんとすっかり仲良しに。


福島では、南相馬。ご自宅の敷地が、浪江町との境界線上にある牧牛家の方。

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国の殺処分の指示に抵抗し、牛を育て続けています。どうも、震災の翌年公開の園子温監督映画「希望の国」で、故・夏八木勲さんが演じられた主人公は、この方もモデルの一人なのかな、と思われました。当方、一度、この牧場の前を通りました


釜石や石巻には光太郎の足跡も残っていますし、石巻に隣接する女川町では、毎年、女川光太郎祭が開催されており、他人事とは思えませんでした。


ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

しかし又製作する者は殆ど毎日新らしく蘇ります。「皮を脱がない蛇は死ぬ」とニイチエの申した通り、毎日がいつも新しい毎日であります為、この長い年月が更に古い気を起こさせません。

散文「故成瀬校長の胸像に就て一言」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

大正8年(1919)に、智恵子の母校・日本女子大学校に依頼された、同校創業者の成瀬仁蔵胸像が、なかなか完成しないことへの釈明の文章から。その長い間にも、自分は進化し続けているので、待ってほしい、という趣旨です。結局、像の完成は昭和8年(1933)でした。

「一陽来復 Life Goes On」に出演された震災被災者の皆さんも、意味は違えど、「毎日新らしく蘇り」、「毎日がいつも新しい毎日であり」、一歩一歩進んでこられたのでしょう。その歩みを応援し続けたいと思います。

一昨日、昨日と、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」について触れましたので、その流れで。

昨年12月28日(金)の地方紙『東奥日報』さんに載った記事です。 

十和田湖畔観光 訪日客に優しく/市、ICTで実証実験/看板にQRコード→多言語でスポット案内

 青森県十和田市は、増加するインバウンド(訪日外国人旅行)需要を踏まえ、1月1日からICT(情報通信技術)を活用した多言語による観光案内の実証実験を開始する。QRコード付きのプレートを、十和田湖畔にある既存の観光看板や、乙女の像などの観光スポット計14カ所に設置。旅行者がスマートフォンなどで読み込むと、それぞれの言語に翻訳された案内を見られる仕組みだ。
  システムは、五所川原市の「立佞武多(たちねぷた)の館」でも採用しているPIJIN社(東京)の「QR Translator」。言語は英語、中国語(簡体字、繁体字)、韓国語に対応。
  英語の一部で、観光庁の「地域観光資源の多言語解説整備事業」の一環として環境省が翻訳した解説文を活用したほか、中国語は、9月に着任した中国出身の地域おこし協力隊員・上官妮娜さんが翻訳した。
  実証実験は、十和田八幡平国立公園が選定された、外国人客誘致の環境整備を集中的に進める「国立公園満喫プロジェクト」の一環で、2019年末までを予定。市観光推進課は「どの言語の利用が多かったかなどを分析し、今後の観光振興に生かしたい」としている。
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実際、十和田湖に足を運びますと、インバウンドの団体さんが目立ちます。かつて光太郎が、十和田湖はいずれ世界的な名所になる、と言っており、まぁそこまではともかく、海外の方々に人気のスポットの一つとなったことは間違いないでしょう。そうした面での対応として、この手の取り組みは重要なことだと思われます。

そうすることによって、日本を代表する芸術家の一人、光太郎についても広く知られてほしいものですし。

全国の観光地の皆さん、ご参考になさって下さい。


【折々のことば・光太郎】

友達よ、未知の魂よ、君たちの愛を以て私を包んでくれ。愛によってのみ人は育つ。

散文「工房よりⅣ」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

人類皆兄弟。すべての日本人、そして海外の方々にもこう呼び掛けたいところです。争いや憎しみから人は育ちませんし、国と国とのつながりも育ちません。

もっとも、光太郎のこの一言、実は、だから大きな愛を以て私の彫刻を買ってくれ、という趣旨でもあるのですが(笑)。

今年のNHKさんの大河ドラマが、明後日から始まります。 

いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~

2019年1月6日(日)~
本放送 NHK総合 日曜 20:00~ BSプレミアム 日曜 18:00~ BS4K 日曜 9:00~
再放送 NHK総合 土曜 13:05~    BS4K 土曜 8:00~

1959年、五輪招致目前の東京。落語家の古今亭志ん生(ビートたけし)は日本橋を通り寄席に向かっていた。その日、高座で志ん生が語り出したのは、50年前の日本のオリンピック初参加にまつわる噺。1909年、柔道の創始者、嘉納治五郎(役所広司)はストックホルム大会を目指して悪戦苦闘していた。スポーツという言葉すら知られていない時代。初めての派遣選手をどう選ぶか。日本オリンピック史の1ページ目を飾る物語。

出演  中村勘九郎 阿部サダヲ 生田斗真 森山未來 神木隆之介 竹野内豊 役所広司 ほか
噺・出演  ビートたけし

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前後半、途中で主役が替わるという大河ドラマ史上初の試みが為されます。

前半は、日本人初のオリンピック選手・金栗四三(かなぐり・しそう)。歌舞伎の中村勘九郎さんが演じられます。後半は、」阿部サダヲさん扮する昭和39年(1964)の東京オリンピック招致に奔走した田畑政治。


「この2人がいなければ日本のオリンピックはなかった」というキャッチコピーです。


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金栗、田畑、ともに光太郎智恵子や光雲との直接の関係はなかったようですが、関わりのあった人物が登場します。

まず、講道館柔道創設者・嘉納治五郎師範(講道館柔道初段の当方、畏れ多くてとても呼び捨てに出来ません(笑))。演じられるのは役所広司さんです。

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公式サイトから。

金栗四三の憧れの人物であり、人生の恩師。金栗の進学する東京高等師範学校の校長。講道館柔道の創始者でもあり、”日本スポーツの父”と呼ばれる。アジア初のIOC委員として、日本のオリンピック初出場のために奮闘し、選手団団長として参加。人並み外れた情熱と、ひょうひょうとしたユーモアを併せ持つ大人物。


光太郎、昭和9年(1934)に、嘉納師範の肖像レリーフを作っています。文京区の講道館さんの2階にある柔道資料館に収蔵されています。

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ただし、クレジットは光雲。光雲はこの年胃ガンで亡くなっており、光雲に依頼があったものの、もはやそれに応えられず、光太郎が代作したのでしょう。

制作に際し、光太郎が嘉納師範と会ったかどうか不明ですが、有名な嘉納師範の肖像写真と似た構図ですので、それを元に作ったという線が濃厚であるような気がします。

10年ほど前でしょうか、このレリーフがネットオークションに出たことがあります。その際は画像だけでは真贋の判断がつかず、入札しませんでした。その後、出品されていないようですが、いずれ入手したいと思っております。

光太郎と嘉納師範の僅かな関わりがもう一つ。

明治39年(1906)からの海外留学に出る前の光太郎、当時日本に入ってきた鉄アレイを使ってのボディービルにはまっていました。その提唱者がドイツ人ボディビルダー、ユージン・サンドウ。明治33年(1900)に、サンドウの著書が『サンダウ体力養成法』として邦訳され、50版以上を重ねるちょっとしたベストセラーとなりました。おそらく光太郎もこれを読んだと思われます。その序文を書いたのが、誰あろう嘉納師範でした。

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「サンドー式体操」と呼ばれたトレーニングで鍛えた光太郎、そのおかげで留学先のニューヨークで、米国人学生との喧嘩に完勝したそうです。

「いだてん」での嘉納師範、かなり重要な役どころのようで、おそらく早い段階から活躍するようです。

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もう一人、間接的ながら光太郎と関わった人物が、「いだてん」に登場します。

やはり金栗にからむ、大日本体育協会副会長・武田千代三郎。演じられるのは永島敏行さん。少し後になってからのご登場のようです。


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武田が大日本体育協会副会長に就任したのは、大正2年(1913)。その直前までは青森県知事でした。当時の知事は民選ではなく、中央からの派遣。武田は筑後柳川の出身です。赴任先の青森で見た十和田湖の景観に打たれ、道路の開墾等に尽力しました。実はそれ以前に、明治天皇から十和田湖について訊かれたものの、満足に答えられなかったことを恥じて、早速十和田湖を観に行き、「こんな美しい場所だったのか」と仰天したそうですが。

そのため、雑誌『太陽』で初めて十和田湖の美しさを世に広めた大町桂月、武田に協力して十和田湖周辺の整備に力を尽くした法奥沢村長・小笠原耕一と共に、「十和田の三恩人」と讃えられました。

昭和28年(1953)に除幕された、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、元々周辺の国立公園指定15周年を記念し、「十和田の三恩人」を顕彰するためのモニュメントとして作られたものです。

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昨年、永島さんが武田役でご出演、という情報を得、それなら観なければ、と思った次第です。

ちなみに当方、20年ほど前に、永島さんを羽田空港でお見かけしました。和服にインバネスの出で立ちで、「いやー、かっこいい」と思いました。

今後、他にも光太郎智恵子や光雲と関わった人物が登場するかも知れません(いっそのこと、光太郎智恵子や光雲も登場させてほしいのですが)。

追記 智恵子の小学校時代の恩師・二階堂トクヨも登場しました。

皆様もぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

しかし木彫は短歌のやうな面白味があつて此上なく私の心を慰めてくれる。彫つてゐながら如何にも気持がいい。

散文「近状」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

「蝉」や「鯰」などの木彫小品を作っていた時期の文章から。光太郎の生涯の中で、最も平穏だった時期です。

演劇の公演情報です。 

岸井戯曲を上演するinTokyo#1「かり」

期   日 : 2019年1月5日(土)・6日(日)
会   場 : 北千住BUoY 東京都足立区千住仲町49−11
時   間 : 1/5 18:00~20:00     1/6 13:00~15:00
料   金 : 2,500円

同じ戯曲を、いろいろなアーティストがやってみて、そのあとに対話をする人気シリーズ「岸井戯曲を上演する」。
横浜blanClass、京都UrBANGUILDでの上演シリーズに続き、東京でも定期的に上演します。
東京開催の第一回目に扱う「かり」は、以下の大変短い戯曲です。

かり
動物を狩り、植物を苅り、カリという語は、自然から借りるからきている。人生も仮住まいというように、生きているのは、何かから借りた、仮の姿であるので、拝借の借りという言葉が、一時的の仮に使われるようになった。
例えば、演技をするとき、私は私をかりている。では私に私をかしているのは誰か。
かつて、大石将弘や山田宏平によって上演された、俳優には人気の戯曲に、3人の若手が挑みます。3種類の上演とそのあとのトーク、ぜひご参加ください。

バージョンA 辻村優子(俳優)  バージョンB 佐藤朋子(アーティスト)  バージョンC キヨスヨネスク(俳優)
司会 山田カイル(ドラマトゥルク)


明治末、智恵子が絵画を学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会さんで、モデルを務められている方もご出演なさるそうで、その方から同会の坂本富江さんに情報が伝わり、坂本さんから当方に連絡がありました。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」(昭和28年=1953)をモチーフとして取り上げられるそうで、坂本さん情報では、「乙女の像」の顔が、モデルと全く似ていないことに対する解釈、的な内容だそうです。

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「乙女の像」のモデルを務めたのは、現在も続くプールヴーモデル紹介所に所属していた、当時19歳だったという藤井照子。しかし、戦後すぐの頃から光太郎が構想を抱いていた「智恵子観音」の具現化という意味合いもあり、顔は明らかに智恵子の顔です。

智恵子の顔とからだを持った観音像を一ぺんこしらえてみたいと思っています。仏教的信仰がないからおがむものではないが、美と道徳の寓話としてあつかうつもりです。ほとんどはだかの原始的な観音像になるでしょう。できあがったら、あれの療養していた片貝の町(九十九里)におきたいと考えています。
(昭和25年=1950 神崎清との対談「自然と芸術」)

光太郎は、「乙女の像」の制作が始まると、それが智恵子像であるとは公式には発言しませんでしたが、周辺の人物の証言がいろいろ残っています。

 東京のアトリエのことなどを相談しているうちに、「智恵子を作ろう」と、ひとりごとのように高村さんはいわれた。それはこんどの彫刻に対する作者自身の作意を洩されたものであつたが、高村さんはその言葉のあとで、そんな個人的な作意を十和田湖のモニユマンに含ませることは、計画者の青森県にすまないような気がすると、そんな意味の言葉を申し添えられたのである。
                    (谷口吉郎「十和田記念像由来」 『文芸』臨時増刊号 昭和31年=1956)

 製作にかかる前、
 「智恵子さんの写真もなにも戦災でなくしたのに、どうやってその何十年も前に見た顔をつくるんですか」ときくと、高村さんは、
 「この手に智恵子のかたちがのこってるんですよ。」
と、あの子供の頃から彫刻できたえ上げた大きな両手で、空間に形を示しながら答えていました。
        (藤島宇内「逝ける詩人高村光太郎」 『新女苑』第二十巻第六号 昭和31年=1956)

このあたりがどう表現されるのか、非常に興味がありますので、1/6の部を観に行って参ります。のちほど観劇記をレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

すべての技芸がさうであるやうに、詩の朗読も、その無装飾の基礎から最初は進むべきかと思ふ。今日の実際経験から考へても棒読みに近い朗読ほど詩の内面のニユアンスを抑揚頓挫の烈しい、表情の多い朗読よりも、却て微妙に出すやうである。
散文「詩の朗読」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

いわゆる「クサい」朗読を、光太郎は一刀両断にしています。同じ文章に曰く「詩の感動を朗読者の個人癖による趣味から出放題な節をつけて、声をふるはせたりなどされると、背すぢがぞつとして恥かしくなる」。

なるほど、という気がしますね。

昨日は、例年通りに、昭和9年(1934)、智恵子が療養していた九十九里浜片貝海岸に初日の出を見に行きました。

「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)を刻んだ光太郎詩碑の前に車を駐め、有料道路をくぐって海岸へ。

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お供はこれも例年通りに愛犬。正確な誕生日が不明なため、1月1日を誕生日としており、昨日で15歳になりました。先月、少し体調を崩したのですが、恢復しましたので連れていきました。あと何回、こいつと初日の出が見られるか、と思っています。

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昨年一昨年と、比較的きれいに見えたのですが、今年はちょうど太陽の出るあたりに雲。西高東低の冬型の気圧配置なもので、このあたりの水平線上は雲がかかりやすいのです。

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残念ながら、片貝海岸では見えませんでした。しばらく待っていれば、雲の上、けっこう高い所に出るかと思いましたが、周辺の道路が混むもので、あきらめて撤収。途中、海岸沿いに10キロメートルほど北上したあたりで、雲の上に日が昇りました。再び車を駐めて、撮影。

愛犬の散歩で、毎日のように日の出は見ているのですが、やはり初日の出は格別ですね。今年一年も、光太郎顕彰の世界が盛り上がりますようにと、願をかけました。


ところで、初日の出といえば、昨年12月29日(土)の『日本経済新聞』さんに、「富士山2018 季節の移りかわりを写真で紹介」という記事が出ました。当方、電子版で読んだのですが、電子版だけでなく紙面にも載ったのか、山梨県の記事なので山梨版だったのか、そのあたりが不明ですが、ご紹介します。

昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため訪れた山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区が取り上げられています。 

富士山2018 季節の移りかわりを写真で紹介

平成が終わるのを前に甲府支局長がこの1年間、仕事の合間などに山梨県から撮影した富士山を紹介します。あなたの見る初夢は何月の富士山でしょうか。(三浦秀行)

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1月、富士山から昇る初日の出。撮影した富士川町高下(たかおり)地区は、ダイヤモンド富士を観察するには絶好の地点。元旦は山頂から少しずれた地点からの日の出となる。冬至の前後は山頂から昇る太陽を撮影しようと多くのカメラマンで混み合う。高村光太郎の文学碑があり、町によると、この地を訪れた光太郎は「こんな立派な富士は初めて仰いだ」と感嘆したという。


このあと、12月まであるのですが、割愛します。


初日の出を穏やかな気持ちで見られる、そんな平和な日々が続くこの国であってほしいとも思いました。


【折々のことば・光太郎】

如何なる時代が来ようとも悪趣味のものは許され難い。必ず洗練せれなければ滅びるであらう。これは美の世界の自浄作用である。

散文「二科院展見物」より 大正13年(1924)、光太郎42歳

造形芸術の世界での話ですが、およそ芸術一般にあてはまることでしょう。政治経済の分野には当てはまっていない気がしますが。

あけましておめでとうございます。

また新しい年がやってきました。

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上記は今年の年賀状。

今年は亥年ということで、画像は明治28年(1895)、数え13歳の光太郎、東京美術学校入学前、高等小学校在学中の習作です。年端も行かぬ子供の作とは思えない出来ですが、どうも光雲か、あるいは弟子の誰かによるお手本があったようで、美校の後身・東京藝術大学さんには、同じ図柄の作者不明の作品が残っています。そちらはおそらく彫刻科の授業実習での作品なのでしょう。

ところで、今年は亥年ですが、先月初め、夕方に愛犬の散歩をしていた時の話です。当方自宅兼事務所、裏山がちょっとした山になっておりまして、戦国時代の山城があったような山です。ところどころに土塁や、明らかにそれとわかる堀切の痕なども残っています。

その林道(といっても、民家やアパート、お寺などが見える場所です)を歩いていましたら、何と、正面から1頭の動物が猪突猛進してくるではありませんか! そうです。イノシシです。当方が連れている柴犬系雑種の愛犬よりも一回り大きいくらい、体高50センチ、体長1メートルほどだったでしょうか。それが真っ正面から猛スピードでこちらに向かって来たのです!

愛犬との散歩中にイノシシに遭遇したのは2度目でした。1度目は数年前、その時は、かなり巨大な個体でしたが、こちらはコンクリートの法面(のりめん)の上の道路、敵(笑)は5メートルほど低い冬枯れた田んぼ、しかも直線距離で30メートルほど離れており、何ら危険は感じませんでした。

しかし、今回は、あまり大きくない個体とはいえ、真っ正面から猪突猛進して来やがるのです。「ヤバい!」と思いました。当方、柔道初段です。柔道経験者はおわかりだと思いますが、人間がそのように突っ込んでくるのなら、カモです。襟か袖をつかんで相手の力を利用し、比較的簡単にぶん投げられます。しかし、体高50センチの相手に投技はかけられません。

よくある、「イノシシにはねられてケガ」というニュースや、古い話ですが、北京五輪で柔道100kg級の鈴木桂治選手がモンゴル選手の奇襲とも言える双手刈り(現在の国際ルールでは反則)で一本負けしたのはこういうことだったか、などと、コンマ何秒かの間に考えました(笑)。

あと数メートル、絶体絶命、「こんなことで新聞に載りたくねぇ」、というところで、幸いに、向かってきたイノシシの方で、林道脇の竹林に入っていってくれました。

「助かったぁ」と思って、竹林を見て、二度びっくりしました。何と、向かってきた奴以外に、あと2頭のイノシシがいたのです。親子かきょうだいか、どうも、遅れていた1頭を待っていたらしく、合流したあとは、竹林の中を走り去って行きました。その間、愛犬は「何? 何なの?」という顔でポカンと口を開けていました。役に立ちません(笑)。

自宅兼事務所のある千葉県北東部、まだまだ自然が豊かで、愛犬との散歩中、様々な野生動物と出会います。タヌキ、イタチ、野ウサギなど(近所の方の話では、シカもいるというのですが、当方は見たことがありません)。しかし、さすがにイノシシは勘弁してほしいところです(笑)。

戦後の7年間、光太郎が暮らした花巻郊外の旧太田村山口地区。光太郎は詩「案内」(昭和24年=1949)で、「智恵さん気に入りましたか、好きですか。 うしろの山つづきが毒が森。 そこにはカモシカも来るし熊も出ます。 智恵さん斯ういふところ好きでせう。」と謳いました。また、やはり詩の「山のともだち」(昭和27年=1952)では、「兎と狐の常連」なども登場します。現在でも、光太郎の山小屋(高村山荘)周辺は、熊のテリトリー。あちこちに爪を研いだ痕が残っています。

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左は山小屋裏の智恵子展望台のデッキ、右は高村光太郎記念館さんの看板です。下は光太郎の遺品の一つ、熊よけの鈴。

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イノシシは居なかったようです。調べてみましたところ、岩手県のイノシシは明治期に一度絶滅したそうで。しかし、近年、また目撃情報が相次いでいるとのこと。

光太郎は、自然との共存を常に考えていた人でした。21世紀の今日、なかなかに難しい問題ですね。


閑話休題、本年もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

だがロダンの彫刻から直接に喜を感じた者が果してどの位ゐたことであらう。ロダンの彫刻の美を彫刻的に微妙に享け入れた者が果してどの位あつた事であらう。

散文「ロダンとマイヨルの好悪に就て」より
 大正13年(1924) 光太郎42歳

光太郎らの努力によって、ロダンの名が日本でも知られるようになった大正時代。しかし、わかったつもりでいてわかっていない人の何と多いことか、という嘆きです。

光太郎という人物も、わかったつもりでいると、こんな面もあったのか、という連続で、計り知れない巨大なブラックホールのような人物です。今年もまた、その巨大なブラックホールに向き合う1年の始まりです(笑)。

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