2018年12月

例年同じようなことを書いていますが、早いもので今年も今日一日を残すところとなりました。

このブログ、5月には7年目に突入し(ちなみに今日で2,434日目、1日も休んでおりません)、今月初めには「訪問者数」が20万件を超えました。開設当初は1日の訪問者が20人くらいだったのが、このところ、コンスタントに百数十人くらいの方が閲覧して下さり、ありがたく存じます。訪問者数が多いと、YAHOOさんからTポイントがいただけ、知らぬ間にけっこう貯まります。毎年そうしていますが、今年も寄付に廻させていただきました。

記録の残っている5月以降で、以下に寄付いたしました。


雀の涙ほどではありますが。


寄付といえば、これも例年通り、皆様からいただいた郵便物に貼られていた切手を、公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)さんに寄付いたしました。同会サイト、12月分の寄付団体一覧が大晦日に間に合わないことがあるので、先月、お送りしましたところ、名前を載せていただいております

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来年もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

顔は誰でもごまかせない。顔ほど正直な看板はない。顔を丸出しにして往来を歩いてゐる事であるから、人は一切のごまかしを観念してしまふより外ない。いくら化けたつもりでも化ければ化けるほど、うまく化けたといふ事が見えるだけである。

散文「顔」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

痛烈ですが、そのとおりですね。

同じ文章で、「仙人じみた風貌をしてゐて内心俗つぽい者は、やはり仙人じみてゐて内心俗つぽい顔をしてゐる。がりがりな慾張でゐながら案外人情の厚い者は、やはりがりがりでゐて人情の厚い顔をしてゐる。まじめな熱誠なやうでゐて感情に無理のあるものは、やはり無理のある顔をしてゐる。お山の大将はお山の大将、卑屈は卑屈。争はれない。だから孔子や釈迦や基督の顔がどんなに美しいものであつたかといふ事だけは想像が出来る。」という一節もあります。

孔子や釈迦やキリストのような顔、とは言いませんが、無理があったり卑屈だったりという顔にならぬようにしていきたいものです。

この項最後、ここ3ヶ月のこの世界の動向です。

10月2日(火)~12月27日(木)
秋田市のあきた文学資料館さんで、特別展示「明治150年秋田を訪れた文人たち」が開催されました。11月4日(日)までの期間で、昨年、秋田県小坂町に寄贈された、オリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)版元の龍星閣主・澤田伊四郎に宛てた光太郎書簡67通がすべて展示されました。

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10/4(木)~9(火)
福島県二本松市の智恵子の生家に於いて、太平洋美術会の坂本富江さんの個展「智恵子抄」に魅せられてそして~今~パートⅡ」が開催されました。

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10月5日(金)
当会から『光太郎資料』第50集を刊行いたしました。

10月5日(金)~11月6日(火)
鎌倉市の笛ギャラリーさんで、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その七」が開催され、光太郎が尾崎喜八夫妻の結婚祝いに贈ったミケランジェロ模刻の「聖母子像」(大正13年=1924)など、光太郎、喜八関連の品々が展示されました。

10月6日(土)
地方紙『福島民友』さんで、二本松で智恵子顕彰に取り組む智恵子のまち夢くらぶさんによるイメージソングCD「好きです智恵子純愛通り」のリリースを報じました。東日本大震災で浪江町から横浜市に避難した歌手のハーミーさんによる歌唱です。

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10月6日(土)〜12月15日(土)
福島県伊達市の遊びと学びのミュージアムさんで、イラストレーターのノグチクミコさんによる絵本原画展「ほんとうの空の下で」が開催されました。絵本は、昨年刊行された、震災前は浪江町在住で、愛犬とともに自給自足の生活をし、平成28年(2016)に86歳で亡くなった川本年邦さんをモデルとしています。東京電力福島第1原発事故後も「電気紙芝居」と呼ばれる幻灯を避難先で上映し、子どもたちを喜ばせた方でした。

10月7日(日)
智恵子を偲ぶ「第24回レモン忌」が、福島県二本松市のラポートあだちさんで開催されました。

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10月8日(月)
福島県二本松市市民交流センターにぽいて、「高村智恵子没後80周年記念事業 智恵子検定 チャレンジ! 智恵子についての50問」が開催されました。

10月10日(水)
東北大学出版会さんから、高橋秀太郎氏・森岡卓司氏編『一九四〇年代の〈東北〉表象 文学・文化運動・地方雑誌』が刊行されました。 光太郎に関して、東北大学文学研究科教授の佐藤伸宏氏による「5章 〈脱卻〉の帰趨ー高村光太郎に於ける引き延ばされた疎開」で、戦後の花巻郊外旧太田村に逼塞した時期が論じられています。

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10月11日(木)~11月27日(火)
福島県二本松市の智恵子の生家と、それに隣接する智恵子記念館さんで、現代アートの祭典「福島ビエンナーレ 重陽の芸術祭2018」の一環として、さまざまな企画が為されました。期間中、智恵子の紙絵の実物展示が行われ、土日と祝日には通常非公開の智恵子の居室を含む生家2階の特別公開、そして10月13日(土)~11月25日(日)で、切り絵作家の福井利佐さんの作品が展示されました。

10月15日(月)
詩人の入沢康夫氏が亡くなりました。宮沢賢治研究家でもあり、賢治と光太郎の関わりについての論考もおありでした。

10月20日(土)
長野県安曇野市の碌山美術館から『荻原守衛日記・論説集』が刊行されました。随所で光太郎にも触れられています。

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10月20日(土)~12月16日(日)
京都府城陽市の市立歴史民俗資料館さんで平成30年度秋季特別展「奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣-寺田出身の青年が作った大正サロン-」が開催されました。明治末、光太郎らが芸術至上主義運動「パンの会」を開催した鎧橋のカフェ「メイゾン鴻乃巣」に関するものでした。関連行事として、11月23日(金)に「第83回文化財講演会 祖父奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣」(講師 奥田恵二氏、奥田万里氏)が開催されました。

10月20日(土)~12月19日(水)
荒川区の吉村昭記念文学館さんで、おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子展 生きること、書くこと」が開催されました。芥川賞作家・津村節子さんの代表作の一つ、智恵子を主人公とした『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)に関する資料も展示されました。関連行事として、11月23日(金)に、女優の竹下景子さんによる『智恵子飛ぶ』朗読会などが開催されました。

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10月21日(日)
大阪府豊中市の庄内公民館さんで、文学講座「近代詩歌の名作に親しむ秋」が開催され、川内通生さん(近代文学研究家)による光太郎講座が持たれました。
10月24日(水)
三重県亀山市のコミュニティーCafé ぶんぶんさんで、「10月レコード鑑賞会 秋を感じる名曲集」が開催され、今年6月に亡くなった俳優の加藤剛さん朗読の「智恵子抄」のレコードがかけられました。

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10月25日(木)~11月18日(日)
埼玉県東松山市の市立総合会館で 「高田博厚展2018」が開催されました。光太郎関連で、ブロンズ「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)、 光太郎令甥の故・高村規氏撮影の光太郎遺影、光太郎から高田宛の献呈署名入り『ロダン』(昭和2年=1927)が展示されました。関連行事として11月11日(日)に、「特別講演会 野見山暁治/堀江敏幸」が開催されました。

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10月26日(金)~31年1月23日(水)
福井市の福井県ふるさと文学館さんで、おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」が開催されました。関連行事として10月26日(金)に津村節子氏撮り下ろしインタビュー特別上映会などが行われました。

10月27日(土)
埼玉県三郷市立北部図書館さんで「朗読・朗読講座(大人のためのお話し会)」が開催され、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が取り上げられました。

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10月27日(土)・28日(日)
長野市のホクト文化ホールさんで、「2018年度 第71回全日本合唱コンクール全国大会 中学校・高等学校部門」が開催されました。高校Bグループ(33人以上の大編成)に出場の九州地区代表・鹿児島高等学校音楽部さんが、光太郎作詞、西村朗氏作曲の「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」から、「レモン哀歌」を自由曲として演奏し、銅賞を受賞されました。今年から、全国各地でのパブリックビューイングも行われました。

10月28日(日)
青森県十和田湖畔の十和田湖観光交流センターぷらっとさんで、「高村光太郎コーナー リニューアルオープンセレモニー」が開催されました。青森市ご在住で、生前の光太郎をご存じの彫刻家、田村進氏制作の光太郎胸像と、「乙女の像」制作時に光太郎が使った彫刻用の回転台が十和田市に寄贈され、こちらで展示することとなったことにともなうものです。田村氏と、回転台の元の持ち主にして、光太郎の助手・小坂圭二の弟子筋に当たる彫刻家の北村洋文氏、そして当方によるトークイベントも行われました。

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10月30日(火)
中央区の銀座王子ホールで、平成30年度(第73回)文化庁芸術祭参加公演「佐栄秀リサイタル~詩人の魂を踊る~」が開催されました。故・初代米川敏子さんの箏曲「「智恵子抄」より 千鳥と遊ぶ智恵子」に合わせ、日本舞踊の花柳佐栄秀さん、笠井瑞丈さんが踊るというものでした。演奏は青山恵子(ソプラノ)、米川敏子、中田博之(箏)、岡崎敏優(十七絃)の皆さんでした。

10月31日(水)
NHK Eテレさんで、光太郎ブロンズ「手」(大正7年=1918)を取り上げた「びじゅチューン! 指揮者が手」が放映されました。11月5日(月)に再放送もありました。

同日、思潮社さんから、和合亮一氏著の詩集『QQQ』が刊行されました。表題作の「QQQ」が、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)を下敷きにしたものです。

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11月2日(金)
国書刊行会さんから『中村傳三郎美術評論集成』が刊行されました。光太郎、光雲に触れられています。

11月2日(金)~12月2日(日)
京都市の知恩院さんで「秋の紅葉ライトアップ2018」が開催され、光雲作の聖観音像もライトアップされました。

11月3日(土)
福島県二本松市の智恵子の生家で、ゆるキャラ「ちえこちゃん」が初のお目見えを果たしました。

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11月3日(土)~25日(日)
千代田区の宮内庁三の丸尚蔵館さんで、第82回展覧会「明治美術の一断面-研ぎ澄まされた技と美」の前期展示が為され、光雲作の「矮鶏置物」(明治22年=1889)が展示されました。

11月4日(日)
 福島県二本松市の鐵扇屋さんで、シャンソン系歌手・モンデンモモさんのコンサート「新MOMO project 『モモの智恵子抄』」が開催されました。

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11月6日(火)
長野市の信濃善光寺さんで、「仁王門再建100年・仁王像造立100年 仁王門北側2像ライトアップ」が始まり、光雲と、その高弟・米原雲海による三面大黒天像、三宝荒神像のライトアップが為されました。

11月10日(土)
テレビ東京さんで、「土曜スペシャル いい旅・夢気分 紅葉めざして乗り継ぎ旅スペシャル」が放映されました。3本立ての1本目で、太川陽介さん、蛭子能収さんの「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」コンビに、マドンナ釈由美子さんの3人で、奥入瀬渓流、十和田湖、弘前などを巡るコースで、十和田湖の乙女の像が取り上げられました。

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11月13日(火)
名古屋市東文化小劇場で開催された「第6回ソプラノ祥愛さちあリサイタル~香しき日本の歌~」では、野村朗氏作曲の「連作歌曲「智恵子抄」~その愛と死と~」が演奏されました。

11月14日(水)
智恵子の母校・日本女子大学さんの元学長・青木生子さんが亡くなりました。平成2年(1990)、講談社さん刊行の『近代詩を拓いた女性たち 日本女子大に学んだ人たち』というご著書があり、智恵子にも一章割かれています。

11月17日(土)
北海道帯広市のとかちプラザさんで、釧路高専公開講座「高村光太郎の文学」が開催されました。講師は同校教授・小田島本有氏でした。

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11月18日(日)
福島県二本松市の二本松コンサートホールさんで、「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」が開催されました。詩人の宮尾壽里子さんが大賞を受賞されました。

11月20日(火)
花巻市生涯学園都市会館(まなび学園)さんで、岩手大学教育学部出前講座「彫刻ってこう観るの!? 光太郎の作品から入る近代芸術の世界」が開催されました。講師は藁谷収氏(岩手大学教育学部教授)でした。

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11月23日(金)
文京区のアカデミー音羽さんで、「第63回高村光太郎研究会」が開催されました。ご発表は、「五篇の詩とその周辺」間島康子氏(文芸誌『群系』同人) 、「「夏の夜の食慾」解釈」田所弘基氏(佛教大学総合研究所特別研究員)でした。

11月23日(金・祝)~25日(日)
中野区の小劇場じゃがいも村さんで、「表現同人じゃがいも11月公演」が開催されました。水杜明寿香さんという方が、光太郎詩「火星がでてゐる」(大正15年=1926)を朗読なさいました。

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11月24日(土)
中央区の浜離宮朝日ホールさんで、「大島久美子 ソプラノリサイタル~日本の心と平和の祈りを歌う」が開催され、光太郎詩に曲をつけた鈴木憲夫氏作曲の独唱歌曲「レモン哀歌」が演奏されました。

11月25日(日)
豊島区のシネマハウス大塚さんで「j oプロジェクト《キョウユウ》第7回公演 朗読館「文豪散歩」名作シリーズ【コンパクト版】第1/10集」が開催され、「智恵子抄」の詩篇が取り上げられました。

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11月26日(月)~12月2日(日)
台東区の東京都美術館さんにおいて、「第40回東京書作展」が開催されました。第3位に当たる東京都知事賞を、中原麗祥さんという方が光太郎詩「冬」(昭和14年=1939)を書かれてご受賞。今夏に開催された「第38回日本教育書道藝術院同人書作展」で、「智恵子抄」などの光太郎詩6篇を書かれ、最優秀にあたる「会長賞」を受賞なさった菊地雪渓氏が、光太郎詩「東北の秋」(昭和25年=1950)で臨まれ、「特選」を受賞されました。

12月2日(日)
台東区の東京国立博物館平成館さんで、「西郷隆盛像建立120周年記念講演会『上野の西郷さん』を語る」が開催されました。基調講演は竹内誠氏(江戸東京博物館名誉館長)でした。

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12月3日(月)
小学館さんから大石直紀氏著『この道』が刊行されました。北原白秋を主人公とする来春公開の同名の映画のノベライズで、光太郎も登場します。

同日・作曲家の大中恩さんが亡くなりました。女声合唱曲「五月のうた」(昭和35年=1960)、男性合唱曲「わが大空」(昭和37年=1962)で、光太郎詩に曲をつけられました。

12月4日(火)
NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」で、「牛はのろのろと歩く…「牛」高村光太郎」の放映がありました。12月18日(火)に再放送も為されました。

12月8日(土)
北海道小樽市の似鳥芸術村内旧三井銀行小樽支店さんで、似鳥美術館研究会「日本における人体像の表現―高村光雲と光太郎」が開催されました。講師は岩崎直人氏(札幌芸術の森学芸企画担当係長)でした。

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12月8日(土)~2019年1月27日(日)
花巻市の高村光太郎記念館さんで、企画展「光太郎の食卓」。市内5つの文化施設との連携による「平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~ 」の一環です。

12月15日(土) 
テレビ東京さんで「美の巨人たち 上野のシンボル!高村光雲『西郷隆盛像』が愛され続ける理由」の放映がありました。12月29日(土)にはBSテレ東さんで放映されています。

同日、文治堂書店さんから『トンボ』第七号が刊行されました。当会顧問・北川太一先生の玉稿、当方の拙稿等が掲載されています。

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12月16日(日)
福島二本松市の市民交流センターさんで、「高村智恵子没後80年記念事業 智恵子カフェ」が開催されました。

同日、花巻市の高村光太郎記念館さんで、「花巻高村光太郎記念館クリスマススペシャルコンサート」が開催されました。岩手大学管弦楽団の卒業生の皆さんによる光太郎ストリングスさん、花巻の金星少年少女オーケストラさんのメンバーによる演奏、地元の皆さんによる光太郎詩朗読等が行われたそうです。さらに同日、記念館近くにお住まいで、生前の光太郎をご存じの高橋愛子さんが亡くなりました。

12月22日(土)
長野市の信濃善光寺さんで、寺子屋文化講座第2幕『冬至に仁王さんのお顔を見てみよう』が開催されました。光雲と、その高弟・米原雲海作の仁王像に関しての内容でした。

12月22日(土)~24日(月・振休)
鹿児島市のギャラリー游さんで、演劇集団宇宙水槽 番外公演#1 『ちえこのかって』が開催されました。

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12月26日(水)
このブログで1年間の回顧を書いている間にも、いろいろありました。コールサック社さんから、野澤一詩集『木葉童子詩經』復刻版が刊行されています。光太郎を敬愛し、膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けた詩人・野沢一の生前唯一の詩集で、元版は昭和9年(1934)、文治堂書店さんから2回覆刻されており、今度が3回目です。文治堂版には、光太郎が野澤について書いた随筆「某月某日」(昭和15年=1940)が併せて掲載されましたが、今回のものには入っていないようです。

12月27日(木)
長野市の信濃善光寺さんで、上にも書きました11月6日の三面大黒天像、三宝荒神像のライトアップにつづき、同じく光雲と、その高弟・米原雲海作の仁王像のライトアップが始まりました。

『信濃毎日新聞』さんの記事から。 

善光寺仁王像ライトアップ 来年は安置から100年

 長野市の善光寺は27日、仁王門に安置されて来年で100年の節目を迎える仁王像のライトアップを始めた。11月に同じ仁王門の反対側にある三宝荒神(さんぽうこうじん)像、三面大黒天像のライトアップを始めたところ参拝者や市民に好評で、仁王像についても同様の要望があった。辺りが暗くなると神々しい姿が浮かび上がった。
  仁王像は向かって左側が口を開いた阿形(あぎょう)、右側が口を閉じた吽形(うんぎょう)で、ともに高さ約4・5メートル。発光ダイオード(LED)の照明をそれぞれの像の上部に3基、下部に2基設け、毎日午前6時?午後8時に点灯する。これまでは日中でも、日差しの具合によっては2体の顔が陰になり見えにくいことがあったという。
  善光寺によると、2体は彫刻家高村光雲(1852~1934年)と弟子の米原雲海(18691925年)が中心となって1919(大正8)年に制作し、同年に仁王門に安置された。仁王門は前年の18年に再建されたことから、善光寺は来秋までの1年間を仁王門再建100年・仁王像造立100年の「記念イヤー」と位置付けている。
  毎日朝夕に犬の散歩で通り掛かるという市内の女性(60)は「これから毎夕楽しめそう」と話していた。
 (12月28日)

さらに、この項でその都度の紹介はしませんでしたが、『月刊絵手紙』さん、それから『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんで、今年も1年間、それぞれ、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」、「光太郎レシピ」という連載を続けて下さいました。一昨日位に届きました『月刊絵手紙』さんの2019年1月号では、光太郎詩の代表作「道程」(大正3年=1914)を取り上げて下さっています。

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その他、当方の情報収集の網から漏れたイベント、刊行物等いろいろあるかと思われます。「こんなこともあったよ」という事項がございましたら、ご教示いただけると幸いです。さらに、「これからこういうこともあるよ」という件も。

それにしても、1年間で実にいろいろなことがありました。来年以降もそうであってほしいものです。何も紹介することのない1年間ということになりますと、光太郎智恵子光雲が忘れ去られてしまって、ということになるわけで、今後とも、そうならないよう、微力ながら当方も頑張ります。

一昨日から、今年一年を振り返っておりますが、今日は7、8、9月で。

7月3日(火)~9月24日(月・祝)
愛知県小牧市のメナード美術館さんで企画展「なつやすみ所蔵企画展 え! からはじまる、ストーリー。」が開催され、光太郎の木彫「鯰」(同6年=1931)が出品されました。

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7月6日(金) 7日(土)
千代田区の東京古書会館さんで明治古典会七夕古書大入札会2018一般下見展観が開催され、光太郎の肉筆原稿、書、書簡類などが多数出品されました。

7月7日(土)
愛知県長久手市の文化の家さんで、ガレリアコンサート『七夕Day&Nightパフォーマンス』が開催されました。「智恵子抄」の一編「レモン哀歌」を躍り・音楽・朗読で考察してみる、実験的な公演でということでした。出演は細川杏子さん(フルート)、藤島えり子さん(演劇)、豊永洵子さん(舞踊)ほかでした。

同日、虹の会さんより文芸同人誌『虹』第9号が発行されました。詩人で同誌主宰の豊岡史郎氏による論考「高村光太郎 詩集『道程』」31ページが掲載されています。

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7月7日(土)~8月5日(日)
千代田区の宮内庁三の丸尚蔵館さんで、「第80回展覧会 明治の御慶事-皇室の近代事始めとその歩み」の後期展示が開催され、光太郎の父・光雲の木彫「文使」(明治33年=1900頃)が展示されました。

7月7日(土)~8月26日(日)
いわき市立草野心平記念文学館さんで開館20周年記念 夏の企画展「宮沢賢治展 ―賢治の宇宙 心平の天―」が開催され、光太郎の書などが展示されました。

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7月8日(日)
福島県二本松市民会館さんで、NHKさんの「民謡魂 ふるさとの唄 福島県二本松市」の公開収録が行われました。福田彩乃さん、渡辺裕太さん、大方斐紗子さんほかのご出演で、光太郎智恵子青春時代の恋愛模様を音楽劇で紹介するコーナーがありました。放映は8月4日(土)でした。

7月8日(日)~9月24日(月・振休)
岐阜県図書館さんで企画展「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」が開催され、唯一、ロダンの彫刻モデルを務めた日本人女優・花子に光太郎が送った書簡などが展示されました。関連行事として、7月22日(日)には丸山幸太郎氏(岐阜女子大学教授兼地域文化研究所長)による講演「花子と高村光太郎」、8月19日(日)には伊藤今日子氏による「三味線紙芝居 花子」、映画「プチト・アナコ~ロダンが愛した旅芸人花子~」の上映などがありました。

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7月14日(土)・15日(日)
青森県十和田湖畔で「第53回十和田湖湖水まつり」が開催され、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為されました。

7月14日(土)~11月19日(月)
花巻高村光太郎記念館さんで企画展「光太郎と花巻電鉄」が開催され、ジオラマ作家石井彰英氏作成の昭和20年代の花巻町とその周辺のジオラマ、花巻電鉄に関する資料が展示されました。

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7月15日(日)~9月17日(月・祝)
長野県諏訪市のサンリツ服部美術館さんで企画展「明治維新150年記念 幕末から昭和の芸術家たちと近代数寄者のまなざし」。が開催され、光雲の木彫「鍾馗像」(明治期)が展示されました。

7月17日(火)~22日(日)
千葉県成田市のなごみの米屋總本店2階、成田生涯学習市民ギャラリーさんで「二人でひとつの展覧会」が開催され、絵手紙作家・大泉さと子さんによる、地元の三里塚記念公園に建つ詩碑に刻まれている光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)を書いた作品、詩碑拓本などが展示されました。



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7月21日(土)
福島県郡山市公会堂さんで「第2回朗読パフォーマンス声人(こえびと)LIVE ∞生きる∞」が開催され、「ドラマリーディング  ロンド ~智恵子抄 雷火~」が上演されました。

同日、花巻市の東和図書館さんで、萬鉄五郎記念美術館館長講座「≪絵画の見方とその歴史Ⅶ≫ 彫刻 高村光太郎と高田博厚 日本近代彫刻の系譜」が開催されました。講師は萬鉄五郎記念美術館館長・中村光紀氏でした。

7月21日(土)~9月2日(日)
長野県安曇野市の碌山美術館さんで、夏期企画展「美に生きる―萩原守衛の親友たち―」が開催されました。光太郎、戸張孤雁、柳敬助、斎藤与里の4人にスポットを当てるもので、同館所蔵の光太郎ブロンズ10点が展示されました。

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7月24日(火)
本阿弥書展さんから歌人の松平盟子氏著『真珠時間 短歌とエッセイのマリアージュ』が刊行されました。書き下ろしエッセイ「光太郎とラリックをつなぐ「蝉」」が掲載されています。

7月25日(水)
中央公論新社さんから中公新書の一冊として、碧海(おうみ)寿広氏著『仏像と日本人 宗教と美の近現代』が刊行されました。「秘仏をめぐる心性―高村光太郎」という章を含みます。

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同日、文治堂書店さんから『トンボ』第6号が発行されました。当会顧問・北川太一先生の連作短歌「四月の雪」15首が掲載されています。昭和31年(1956)4月1日の光太郎昇天前日に始まり、同2日の死、同4日に青山斎場で行われた葬儀から火葬までの内容です。昭和34年(1959)、北川先生が勤務されていた都立向丘高校定時制の生徒さん達が出されていた文芸誌『銀杏』に掲載されたものの再録です。他に当方の連載「連翹忌通信」も掲載していただいております。

7月31日(火)
文芸同人誌『青い花』第90号が発行されました。詩人の宮尾壽里子氏による書評、西浦基氏の『高村光太郎小考集』、それから中村稔氏の『高村光太郎論』が掲載されました。

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8月3日(金)
集英社さんから葉室麟氏著『蝶のゆくへ』が刊行されました。新宿中村屋さん創業者・相馬黒光を主人公とする小説で、光太郎も登場します。

8月5日(日)
福島市のとうほう・みんなの文化センターさんで「中嶋朋子朗読会」が開催され、女優の中嶋朋子さんが「智恵子抄」の詩篇を朗読なさいました。

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8月8日(水)
千葉県による「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」が一般公募投票により選定され、「智恵子抄」中の「九十九里浜の初夏」等多くの文学作品の舞台となったとのことで、「九十九里浜の景観」が選ばれました。

8月9日(木)
宮城県女川町で「第27回女川光太郎祭」が行われました。県内外の方々による光太郎作品の朗読、当方の講演等がありました。

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8月12日(日)
毎日新聞出版さんから『サンデー毎日』2018年8月12日号が発行されました。歌人の田中章義氏による連載「歌鏡(うたかがみ)」で、光太郎の短歌「この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾(あ)をいねしめず」を取り上げて下さいました。

8月15日(水)
花巻市さんの『広報はなまき』平成30年8月15日号に、、「花巻歴史探訪 〔郷土ゆかりの文化財編〕」という連載で、光太郎の遺品の鉄兜と鳶口が紹介されました。昭和20年(1945)の花巻空襲時に身に着けていたものです。

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8月28日(火)~9月9日(日)
第42回千葉県移動美術館「近代日本とフランス-旅するまなざし-」が、茂原市立美術館・郷土資料館さんで開催され、光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)が展示されました。

8月30日(木)
渋谷区の国立能楽堂さんで、「8月企画公演《国立能楽堂夏スペシャル 開場35周年記念》」が開催され、鵜澤久氏、櫻間金記氏による「舞囃子新作 智恵子抄(ちえこしょう)」が演じられました。

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同日、中央区の浜離宮朝日ホールさんで「浜離宮ランチタイムコンサートvol.175 小林沙羅ソプラノ・リサイタル」が開催され、中村裕美氏作曲の「「智恵子抄」より 或る夜のこころ」、「亡き人に(世界初演)」が演奏されました。

8月30日(木) ~9月2日(日)
中野区のWESTEND STUDIOさんで、劇団スタジオライフさんによる 「Jun企画「言葉の奥ゆき 通(アゲイン)」~夏休みの宿題~」が上演され、光太郎詩が朗読されました。

8月31日(金)
オリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)版元の龍星閣さんから『澤田伊四郎 造本一路』が刊行されました。龍星閣さん創業前の大正7年(1918)から、澤田氏の没後、『智恵子抄』五十年記念愛蔵版が刊行された平成3年(1991)までの、創業者澤田氏と龍星閣さんのあゆみがまとめられています。

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9月1日(土)
花巻高村光太郎記念館さんの市民講座「光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ」が開催されました。当方、講師を務めさせていただきました。

9月7日(金)~10月21日(日)
山形県天童市の出羽桜美術館さんで、「開館30周年記念所蔵秀作展 第二部「日本画と文士の書」が開催され、大正元年(1912)に書かれた詩「郊外の人に」の書き出しのフレーズ、「わがこころは今大風の如く君に向へり」を書いた光太郎の書が展示されました。

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9月8日(土)
文京区の筑波大学東京キャンパス文京校舎さんで、シンポジウム「近代東アジアの書壇」が開催されました。矢野千載氏(盛岡大学教授)の、「高村光太郎と近代書道史 ―父子関係と明治時代の書の一側面―」という発表が含まれました。

9月8日(土)~12月24日(月・休)
台東区立朝倉彫塑館さんで、特別展「彫刻家の眼―コレクションにみる朝倉流哲学」が開催され、光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)が展示されました。

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9月9日(日)
鎌倉市のてんだいの家さんで「高村光太郎ジオラマDVD」上映会が開催されました。 花巻高村光太郎記念館さんの企画展「光太郎と花巻電鉄」に展示されたジオラマを、作者の石井彰英氏が撮影、音楽やナレーションを入れた作品です。ナレーションとテロップは当方が執筆しました。

9月10日(月)
ぶんか社さんから『まんがでイッキ読み! 浅見光彦 怪奇トラベルミステリー』が発行されました。光太郎彫刻の贋作をメインのモチーフとした故・内田康夫氏原作、あさみさとる氏画「『首の女』殺人事件」を含みます。

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9月13日(木)
歴史春秋社さんから髙橋秀紀氏著『虎落笛(もがりぶえ) ~長沼智恵子の母親おセンの生涯~』が刊行されました。

9月14日(金)~16日(日)
横浜市の日枝神社例大祭が開催され、光雲作の火伏神輿渡御が行われた他、同じく光雲作の獅子頭の展示も為されました。

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9月14日(金)~11月25日(日)
東京小平市平櫛田中彫刻美術館さんで「明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ」。が開催され、光雲作の木彫 「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895)、大黒さまと恵比寿さまが彫られた香盒(こうごう)、明治26年(1893)作の「楠木正成銅像頭部(木型)」が展示されました。関連行事として9月22日(土)に、佐藤道信氏(東京藝術大学教授)による講演「日本彫刻のはじまり」他が行われました。

9月15日(土)・16日(日)
福島県本宮市のサンライズもとみやさんで、「第6回カナリア映画祭」が開催され、「智恵子抄」をモチーフとする、本宮を舞台とし、東宝さんの配給で、1965(昭和40)年に自主制作された吉村公三郎監督、故・山岡久乃さん主演映画「こころの山脈」が上映されました。

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9月16日(日)
札幌市の本郷新記念札幌彫刻美術館さんで「連続講座2018 彫刻探訪のススメ~150年物語」の第2回「銅像時代-明治150年の光と影」が開催されました。講師は木下直之氏(東京大学大学院教授、静岡県立美術館館長)でした。

同日、福島県二本松市の智恵子生家近くで、「智恵子純愛通り記念碑第10回建立祭」が開催されました。記念特別プログラムとして、ラジオ福島専属声優の森和美さんによる「森和美の福島弁で語る智恵子と光太郎」が催されました。

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9月21日(金)
宝島社さんから、別冊宝島編集部編『文豪たちのラブレター』が刊行されました。「高村光太郎からのちの妻、長沼智恵子へ」の項で、結婚前に光太郎から智恵子に宛てた、大正2年(1913)の1月28日の書簡が紹介されています。

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9月21日(金)~平成31年1月16日(水)
荒川区の吉村昭記念文学館さんで、第2回トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」が開催されました。平成9年(1997)、講談社さんから出版され、翌年、芸術選奨文部科学大臣賞に選ばれた、吉村昭夫人で芥川賞作家・津村節子さんの代表作の一つ、智恵子を主人公とした『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)に関する展示が為されました。

9月22日(土)~11月25日(日)
甲府市の山梨県立文学館さんで企画展「歿後30年 草野心平展 ケルルン クックの詩人、富士をうたう。」が開催されました。当会顧問・草野心平にスポットを当てたもので、光太郎に関する展示も充実していました。関連行事として、11月10日(土)、阿毛久芳氏(都留文科大学名誉教授)による講演「宮沢賢治、高村光太郎、そして草野心平―コスモス、世界共通意識と孤絶意識にかかわって―」他が行われました。

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9月22日(土)~12月23日(日)
神奈川県真鶴町立中川一政美術館さんで「開館30年記念展 中川一政美術館の軌跡」が開催され、光太郎のブロンズ「老人の首」(大正14年=1925)が展示されました。

9月23日(日)
しんぶん赤旗』さん日曜版に「智恵子の生家と「ほんとの空」」ということで、智恵子の故郷、二本松の紹介が大きく載りました。

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9月25日(火)
福島市のコラッセふくしまさんで、うつくしまふくしま未来支援センターさん主催のシンポジウム 「ほんとの空が戻る日まで ~被災地が進めるこれからの教育~」が開催されました。

9月29日(土)
埼玉県越谷市立図書館さんで「合同読書会 高村光太郎「智恵子抄」」が開催されました。講師は松本孝氏(作家)でした。

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9月30日(日)
光太郎も泊まった花巻市の大澤温泉さんの別館、菊水館さんが、8月9日(木)の台風13号による高明橋脇の法面(のりめん)崩落に伴い、この日を以て一時休館となりました。


明日はこの項最後、10~12月です。

今年一年を振り返る企画、今日は4~6月です。

4月1日(日)
青土社さんから中村稔氏著『高村光太郎論』が刊行されました。

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4月2日(月)
千代田区の日比谷松本楼さんに於いて、第62回連翹忌が開催されました。同日、花巻でも詩碑前祭・連翹忌が開催されました。また、高村光太郎研究会さんから、『高村光太郎研究(39)』、当会から『光太郎資料』第49集が刊行されました。

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4月7日(土)~5月6日(日)
福島県二本松市で、「高村智恵子生誕祭」の一環として、土日祝日に通常は非公開の、智恵子の生家の2階部分――智恵子の居室を含む――の特別公開が行われました。

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4月9日(月)
NHK BSプレミアムさんで、「にっぽん百名山 安達太良山」が放映され、光太郎智恵子に触れられました。再放送が4月16日(月)にありました。

4月11日(水)
清水書院さんから堀江信男氏著『人と作品 高村光太郎』が復刊されました。元版は昭和41年(1966)でした。

4月13日(金) 
NHKEテレさんの「にほんごであそぼ」で、光太郎詩「道程」に、坂本龍一氏が作曲した歌が取り上げられました。再放送が27(金)にありました。

同日、平凡社さんから平凡社新書の一冊として大本泉氏著『作家のまんぷく帖』が刊行されました。「高村光太郎 ── 食から生まれる芸術」という章を含みます。

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4月17日(火)~5月27日(日)
名古屋市の徳川美術館さん/名古屋市蓬左文庫さんを会場に 「明治150年記念 華ひらく皇室文化 ―明治宮廷を彩る技と美―」が開催され、光太郎の父・高村光雲の作「魚籃観音像」が出品されました。7月21日(土)~9月2日(日)には秋田市立千秋美術館さん、10月2日(火)~11月25日(日)で京都文化博物館さんに巡回しました。

 4月18日(水)~24日(火)
太平洋美術研究所会員の坂本富江さんによる個展「『智恵子抄』に魅せられて そして~今~ 坂本富江個展」が、新宿区のヒルトピアアートスクエアさんで開催されました。

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4月18日(水)~28(土)
文京区の旧安田楠雄邸さんで、「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」が開催されました。

4月19日(木)
山梨県笛吹市石和温泉のホテル古柏園さんで、「平成30年度曹洞宗山梨県寺族会研修会」が行われ、太平洋美術研究所会員の坂本富江さんによる講演「人生はいつも始発駅 ――高村智恵子と私――」が盛り込まれました。

4月20日(金)
中央公論社さんから中公文庫の一冊として、長山靖生氏編『文豪と酒 酒をめぐる珠玉の作品集』が刊行されました。光太郎作品は、詩「食後の酒」(明治44年=1911)が掲載されました。

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同日、文藝春秋さんから文春新書の一冊として、安藤優一郎氏著『江戸のいちばん長い日 彰義隊始末記』が刊行されました。光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)から引用がありました。

4月21日(土)
同日、短歌研究社さんから『短歌研究』 5月号が発行されました。「短期リレー連載 明星研究会「口語自由詩と『明星』」 第1回 松平盟子 高村光太郎――独自に開いた口語自由詩のフィールド」という記事が掲載されています。昨秋、日比谷公園内の千代田区立日比谷図書文化館さんで開催された、明星研究会さん主催の「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」での第二部シンポジウム「口語自由詩に直撃! 彼らは詩歌の激流にどう漕ぎ出したか」のうち、歌人・松平盟子氏による光太郎の部の筆録です。

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4月21日(土)~6月3日(日)
兵庫県姫路市の書写の里・美術工芸館さんで、春季特別展示「書寫山圓教寺―歴史を語る美術と工芸」が開催され、光雲と、さらに東京美術学校で同僚だった漆工家の六角紫水による「修正会(しゅしょうえ)鬼面」が展示されました。

4月22日(日)
安曇野市の碌山美術館さんから、『彫刻家荻原守衛 ―芸術と生涯―』が刊行されました。関連人物ということで、光太郎についても詳しく触れられています。

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同日、NHK BSプレミアムさんで、「新・BS日本のうた 五木シェフの歌声レストラン!全員参加で新鮮ソング三昧」が放映され、三代目コロムビア・ローズ改め野村美菜さんが 丘灯至夫作詞・戸塚三博作曲『智恵子抄』を唄われました。28(土)に再放送がありました。

4月27日(金)~30日(月)
千葉県銚子市の飯沼山圓福寺(飯沼観音)さんで、「仏と鬼と銚子の風景 土屋金司 版画と明かり展」が開催されました。光太郎詩「犬吠の太郎」(大正元年=1912)をモチーフにした作品も展示されました。4月29日(日)には、関連行事として「銚子浪漫ぷろじぇくとpresents語り 犬吠の太郎」の公演が行われました。

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4月27日(金)~6月24日(日)
沖縄県立美術館さんで企画展「涯テノ詩聲(ハテノウタゴエ )詩人 吉増剛造展」が行われ、光太郎ブロンズ「手」(大正7年=1918)が展示されました。

4月28日(土)~5月29日(火)
福島県二本松市の智恵子記念館さんで、智恵子の紙絵の実物展示が行われました。

5月1日(火)
埼玉東松山市さんの『広報ひがしまつやま』5月号で、今年初めに市立図書館さん内にオープンした「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が大きく取り上げられました。

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5月3日(木)
杉並区のセシオン杉並さんで「音のわコンサート」が開催され、光太郎詩に曲をつけた吉田寛子さん作曲「或る夜のこころ」が演奏されました。

5月8日(火)~6月8日(金)
日本大学藝術学部芸術資料館さんで、企画展「−オリジナルプリント展− Life 命の輝き -Portraits-」が開催され、故・吉川富三氏撮影の光太郎肖像写真が展示されました。

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5月15日(火)
花巻市の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内で「第61回 高村祭」が開催されました。地元の児童生徒さんたちによる音楽演奏、詩朗読などの他、座談会「思い出の光太郎先生」が行われ、今月亡くなった高橋愛子さんをはじめとする4人の方々に、生前の光太郎の思い出を語っていただきました。インタビュアーは当方でした。

5月16日(水)
歌手の西城秀樹さんが亡くなりました。晩年にはコンサート等で光太郎詩「道程」の雑誌『美の廃墟』初出版の長いバージョンの朗読などに取り組まれていました。

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5月18日(金)
千葉市の朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾千葉教室さんで、公開講座「愛の詩集<智恵子抄>を読む」が開催されました。講師は歌人の松平盟子氏と、当方でした。

5月19日(土)
札幌市の朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾札幌教室さんで「書道史アラカルト ―書と書道」が開催され、光太郎と斎藤茂吉の書について、北海道書道展会員・中野層翠氏が講義をなさいました。

5月19日(土) 20日(日) 26日(土) 27日(日)
福島県二本松市の智恵子の生家で、「上川崎和紙で作ろう切り絵体験」が開催されました。

5月20日(日)
長野県上田市の交流文化芸術センター・サントミューゼさんにおいて、無言館館長・窪島誠一郎氏講演会が開催されました。、夭折の天才画家・村山槐多についてがメイン、槐多と交流のあった光太郎にも触れられました。

同日、台東区の和の器 韋駄天地下ギャラリーさんで市民講座「華雪による書と篆刻の講座 目習いということ 高村光太郎と黄庭堅」が開催されました。講師の華雪氏は書家です。

5月23日(水)
連翹忌会場を提供して下さっている日比谷松本楼会長・小坂哲瑯氏が亡くなりました。

5月26日(土)~7月16日(月・祝)
台東区の東京藝術大学大学美術館 さんで、「NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」」展が開催され、光雲が主任となって制作された上野公園の西郷隆盛像に関する数々の資料も展示されました。7月28日(土)~9月17日(月・祝)に大阪歴史博物館さん、9月27日(木)~11月18日(日)で鹿児島県歴史資料センター黎明館さんに巡回されました。

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5月30日(水)~6月12日(火)
千代田区の大妻女子大学さんで「日本文学関係貴重書展示:近現代編」が開催され、同大所蔵の光太郎書簡等が展示されました。。

6月1日(金)
有限会社グリーンブリーズさんから『Grande ひろしま Vol.21(2018年夏号)』が発行されました。カラーアナリスト・児玉紀子さんの連載(と思われます)「色を読む」という稿で、智恵子と光太郎をメインに扱って下さっています。題して「智恵子抄 高村光太郎」。

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6月7日(木)~ 7月9日(月)
武蔵野市の吉祥寺シアターさんで、劇団青年団第79回公演 『日本文学盛衰史』が開催されました。原作・高橋源一郎氏、作・演出・平田オリザ氏で、光太郎も登場人物に名を連ねていました。

6月9日(土)
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんと市内各所で、市民講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」が開催されました。

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同日、求龍堂さんから大野芳(かおる)氏著 『ロダンを魅了した幻の大女優マダム・ハナコ』が刊行されました。光太郎にも触れられています。

6月10日(日)
福島県南相馬市をメイン会場に、天皇皇后両陛下をお迎えし、平成最後の「第69回全国植樹祭ふくしま2018 育てよう希望の森をいのちの森を」が開催されました。メインアトラクションは、県内の高校生達による光太郎と智恵子をモチーフにしたパフォーマンスでした。

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6月18日(月)
俳優の加藤剛さんが亡くなりました。二度にわたり、「智恵子抄」朗読に取り組まれたソフトが発売されています。

6月20日(水)
杉並けやき出版さんから、かわじもとたか氏著『続装丁家で探す本 追補・訂正版』が刊行されました。光太郎が手がけた装幀作品の一部が紹介されています。

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6月23日(土)~7月1日(日)
京都市の学森舎さんで、現代アートの展覧会「あっ!きのこの大B級仮装展」が開催されました。古今東西の美術作品のパロディーで、光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)もモチーフになりました。

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6月27 日 (水)~7月8日(日)
港区の国立新美術館さんで、「第38回日本教育書道藝術院同人書作展」が開催されました。菊池雪渓氏作の「智恵子抄」などの光太郎詩6篇を書いた作品が、最優秀にあたる「会長賞」を受賞されました。

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6月28日(木)~9月2日(日) 
新潟市會津八一記念館さんで企画展「中村屋サロンと會津八一 ~サロンにつどったアーティストたち~」が開催され、光太郎の油彩画「自画像」(大正2年=1913)が出品されました。関連行事として、6月27日(水)に講演「中村屋創業の相馬愛蔵・黒光と若き芸術家たち」(講師:太田美喜子氏(中村屋サロン美術館学芸員))、7月11日(水)で講演「近代日本美術史と中村屋サロンに集った作家たち」(講師:原田平作氏(大阪大学名誉教授、頴川美術館理事長))なども行われました。

6月29日(金)
名古屋市 昭和文化小劇場さんで、「Raffiné Summer Recital ~ラフィネ夏の音楽祭~ in Nagoya」が開催され、野村 朗氏作曲の歌曲「樹下の二人」(髙村光太郎『智恵子抄』より)がバリトン:森山孝光氏、ピアノ:森山康子氏で演奏されました。

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6月30日(土)
トポフィルさんから小田原のどか氏編『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』が刊行されました。日大芸術学部教授・髙橋幸次氏「ロダンの言説輸入と高村光太郎──「道」について」などで、光太郎、光雲に触れられています。

6月30日(土)~8月26日(日)
岐阜県現代陶芸美術館さんで「驚異の超絶技巧!明治工芸から現代アートへ」が開催され、光雲作の「布袋像」が展示されました。9月7日(金)~10月21日(日)には山口県立美術館さん、11月16日(金)~12月24日(月・振休)で富山県水墨美術館さんを巡回しています。

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明日は7~9月をご紹介します。

このブログで毎年恒例となっております、この1年を振り返る企画です。今回は1~3月分を。

ただし、昨年12月からの継続で今年1月にかかったもののうち、昨年の回顧で扱わなかったものからご紹介します。また、新聞コラム等で少しだけ光太郎智恵子に触れてくださった、的なものは申し訳ありませんが、割愛させていただきます。

2017年12月9日(土)~2018年1月14日(日)
静岡県島田市博物館さんで、第71回企画展「宮村弦 -モールス・コード- 新しい言葉の{カタチ}」が開催されました。モールス・コード(モールス符号)を視覚化した作品ということで、「智恵子抄」(智恵子歿後に書かれた「亡き人に」(昭和14年=1939)の最終行「あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」)も展示されました。

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2017年12月23日(土)~1月28日(日)
調布市武者小路実篤記念館さんで、企画展「画家の手紙 制作と友への思い」が開催され、光太郎から武者小路宛ての葉書(昭和23年=1948)が展示されました。

1月1日(月)
若松英輔著「NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる」のテキストが発行されました。「第11回 今を生きる詩 ── 高村光太郎と柳宗悦のまなざし」を含みます。ラジオ放送は3月15日(木)、3月22日(木)でした。

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同日、カワイ出版から『吉田寛子作品集 或る夜のこころ』が刊行されました。光太郎詩「或る夜のこころ」(大正元年=1912)に曲を付けた女性三部合唱曲を含みます。

1月2日(火) ~ 2月5日(月)
島根県立美術館さんで、「コレクション企画展 みんなの美術室」が開催され、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が展示されました。1月28日(日)には、関連企画として同館の長谷川三郎館長が、「手」に就いて語られる、「館長の特別授業」がありました。

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1月2日(火)~3月11日(日)
愛知県小牧市のメナード美術館さんで、「開館30周年記念コレクション名作展 30のテーマ Ⅱ期」が開催され、光太郎の木彫「栄螺」(昭和5年=1930)と「鯰」(同6年=1931)が出品されました。

1月7日(日)NHKさんの大河ドラマ「西郷どん」の放映が始まり、第一話冒頭のシーンで、光太郎の父・光雲が主任として制作に当たった上野の西郷隆盛像除幕(明治31年=1898)が描かれました。


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1月6日(土)~2月12日(月・振休)
広島県呉市美術館さんで、「開館35周年記念 呉市立美術館のあゆみ展」が開催され、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が展示されました。

1月10日(水)
NHKラジオ長野放送局のローカル番組「ゆる〜り信州」で、関根太朗アナウンサーによる光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)、「狂奔する牛」(大正14年=1925)、「人類の泉」(大正2年=1913) の朗読がありました。

1月11日(木)
笠間書院さんから『永井和子随想集 日なたと日かげ』が刊行されました。「たじろぐ――高村智恵子のこと 智恵子の切り絵――レモン会」というエッセイが掲載されています。

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同日、筑摩書房さんからちくま文庫の一冊として『文豪文士が愛した映画たち ─昭和の作家映画論コレクション』が刊行されました。光太郎の散文「美の祭典」(昭和15年=1940)が収録されています。

1月12日(金)
文藝春秋さんから伊集院静『文字に美はありや。』が刊行されました。月刊誌『文藝春秋』さんの平成26年(2014)1月号から昨年の4月号まで連載されていた、「文字に美はありや」の単行本化で、「猛女と詩人の恋」という章で光太郎智恵子に触れています。

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1月13日(土)
埼玉県東松山市立図書館に、「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」がオープンしました。昨年亡くなった同市元教育長で、光太郎と交流のあった田口弘氏からの寄贈品を展示するものです。同日、当方による記念講演も行われました。

同日、『朝日新聞』さんの土曜版の連載、「みちのものがたり」が「高村光太郎「道程」 岩手 教科書で覚えた2大詩人」ということで、光太郎をメインに取り上げて下さいました。

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さらに同日、昨年公開された映画『八重子のハミング』のDVDが発行されました。原作は「現代の智恵子抄」というコピーが用いられ、劇中、升毅さん演じる主人公が『智恵子抄』を読むシーンがありました。

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1月13日(火) ~ 3月25日(日)
東京オペラシティ アートギャラリーさんで「谷川俊太郎展 TANIKAWA Shuntaro」が開催され、光太郎から昭和29年(1954)5月20日に送られた、谷川氏の詩集『62のソネット』の受贈礼状が出品されました。

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1月13日(火) ~ 4月1日(日
文京区立森鷗外記念館さんで、コレクション展「鴎外・ミーツ・アーティスト―観潮楼を訪れた美術家たち」が開催され、光太郎から鷗外に宛てた葉書(明治43年=1910)、明治42年(1909)の雑誌『スバル』(覆刻。裏表紙に光太郎が鷗外を描いたカリカチュア(戯画)が掲載)、光太郎著書『造型美論』(昭和17年=1942)、『某月某日』(同18年=1953)。それから与謝野寛が光太郎について触れた鷗外宛の書簡(明治42年=1909)等が展示されました。

1月15日(月)
文治堂書店さんから『トンボ』第5号が発行されました。元青森テレビアナウンサーの川口浩一氏が、「十和田湖「乙女の像」秘話 ~太宰治が結ぶ隠れた絆~」という文章を寄せられています。また、当方の連載「連翹忌通信」の第二回が掲載されました。

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1月15日(月)~1月21日(日)
渋谷区のshibuya gallery「Arc」さんにおいて、MAIA STARSHIP朗読劇「いやなんです あなたのいってしまふのが −智恵子抄より」が上演されました。

1月20日(土) ~ 4月15日(日)
千葉市の千葉県立美術館さんで、「北詰コレクション メタルアートの世界Ⅱ-メタルアートの匠と技-」が開催され、光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝・髙村豊周の。「青銅環文壺」(昭和35年=1960)、「青銅花盛」(制作年不詳)、「朱銅花入」(昭和41年=1966)が出品されました。

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1月25日(木) ~ 1月29日(月)/2月1日(木)~
2月5日(月)
墨田区の両国エアースタジオさんで、劇団空感演人による演劇「チエコ」が上演されました。平成22年(2010)、同25年(2013)に上演されたものの再演でした。

1月28日(日)
牧歌舎さんから西浦基氏著『高村光太郎小考集』が刊行されました。

1月29日(月)
横浜市永田地区センター さんにおいて、市民講座「文豪と和菓子」が開催されました。「高村光太郎・室生犀星・夏目漱石それぞれのゆかりの和菓子をいただきながら、作品を楽しんでいただきます」というコンセプトでした。講師は一般財団法人出版文化産業振興財団の読書アドバイザー、城所律子氏でした。

1月31日(水) ~ 2月11日(日)
岡山市のCAFE×ATELIER Zで、書道展「中村文美作品展〜琥珀の文箱に文字を集めて」が開催されました。光太郎の「冬が来た」(大正2年=1913)を書いた作品が展示されています。

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2月1日(木)
世界文化社さんから『家庭画報』2018年3月号が発行されました。、「残したいことば、未来につなぐことば――心を伝える絵手紙」というコーナーがあり、花巻郊外旧太田村から送られた光太郎の書簡(ハガキ)が紹介されています。昭和22年(1947)、4月6日付で、宛先は東京在住の姪・高村珊子さんです。

2月2日(金)~2月25日(日)
青森県十和田湖畔休屋地区で、「十和田湖冬物語2018」が開催されました。光太郎最後の大作「乙女の像」のライトアップが行われた他、ステージイベントでのプロジェクションマッピングにも「乙女の像」が登場しました。

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2月7日(水)~2月12日(月・祝)
長野市の信濃善光寺さんで、「第十五回長野灯明まつり 未来へ繋ぐ平和の灯り」が開催され、光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが安置されている仁王門もライトアップされました。

2月10日(土) ~ 5月6日(日)
北区の田端文士村記念館さんで「田端に集まる理由(ワケ)がある~明治の田端は芸術家村だった!?」が開催されました。光太郎も寄稿し、芸術運動「パンの会」の一つの源流となった雑誌『方寸』に関する展示が為されました。3月25日(日)には、関連イベントとして古田亮 氏(東京藝術大学大学美術館准教授)による講演会「明治の美術 ~東京美術学校を中心に~」が開催されました。

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2月15日(木)
秋田県小坂町に、同町出身の出版社・龍星閣主人の澤田伊四郎にあてた光太郎の書簡、署名本などが寄贈された件が報じられました。

2月17日(土)
三鷹市芸術文化センター星のホールさんで行われた「CINEMA SPECIAL三回忌・原節子」の一環として、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」の上映がありました。

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同日、港区の東洋英和女学院大学大学院さんで、「2017年度連続講座・シンポジウム「生と死の物語 高村光太郎 ―智恵子抄 心の病に寄り沿うということ―」が開催されました。講師は福田周氏(東洋英和女学院大学人間科学部教授)でした。

2月18日(日)
朝日新聞出版さんから『週刊 日本百名山 改訂新版 42号 磐梯山 安達太良山』が刊行されました。「深田久弥『日本百名山』から」の項で光太郎智恵子に触れられています。

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2月21日(水)
国書刊行会さんから、田中修二氏著『近代日本彫刻史』が刊行されました。光太郎、光雲に触れられています。


2月24日(土)
仙台市の東北大学さんの片平キャンパスで、シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで--震災の記録と教訓を残し、未来に活かす」が開催されました。福島大学うつくしまふくしま未来支援センターさんの主催で、福島県の被災地において残存する資料や記録の保全と活用に取り組むさまざまな活動を紹介し、将来の大規模災害にいかに備え、活かしていくべきかについて議論されました。
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同日、花巻市文化会館さんで、第42回花巻市民劇場公演 「多田等観物語 日が昇る 観音山に帰りたい」が上演されました。光太郎と交流のあったチベット仏教学者にして僧侶の多田等観を主人公とするもので、光太郎も登場しました。平成16年(2004)の再演でした。

2月25日(日)
千代田区の神田伯剌西爾(ぶらじる)さんで、市民講座「ポエトリーカフェ 《高村光太郎 篇》」が開催されました。

2月26日(月)
文藝春秋さんから春日太一氏著『美しく、狂おしく 岩下志麻の女優道』が刊行されました。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(中村登監督作品)が取り上げられています。

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2月26日(月) ~28日(水)
千代田区の3331 Arts Chiyodaさんで、立本夏山氏による「ひとり芝居プロジェクト新作公演 立本夏山 智恵子抄」東京公演がありました。巡回で6月26 日 (火) に尼崎公演、6月28 日 (木)の松山公演、6月30 日 (土)/7月1日(日)で高知公演も行われました。

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3月2日(金) ・3日(土)
名古屋市のHITOMIホールさんで、「プリズムステージ 朗読と音楽が紡ぐ、純愛 智恵子抄 「田園交響楽」より」の公演がありました。智恵子が愛したベートーヴェンの交響楽第6番「田園」をモチーフに、ヴァイオリン・チェロ・ハープの演奏、朗読による構成で、朗読と光太郎役を俳優の橋爪淳氏、苅谷なつみさんのヴァイオリン、日野俊介さんがチェロ、田中敦子さんでハープでした。

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3月2日(金) ~4日(日)
足立区のアトリエTANTOOさんで、劇団TANTOOさんの第9回公演「売り言葉」が開催されました。野田秀樹氏脚本で、平成14年(2002)、大竹しのぶさん出演で初演された演劇です。

3月5日(月)
国文学者の平岡敏夫氏がご逝去なさいました。光太郎に関する論文等、複数おありでした。

3月7日(水)
NHK BSプレミアムで、「プレミアムカフェ 名作紀行 (1)寺山修司 (2)石川啄木 (3)高村光太郎」が放映されました。平成13年(2001)6月11日に初回放映があったものの再放送で、ナビゲーター役は銅版画家の山本容子さんでした。8月29日(水)、8月30日(木)にも放映がありました。

3月7日(水)~11(土)
『日本経済新聞』 さんで、宗教学者の山折哲雄氏が「私の履歴書」という連載で、花巻空襲の際の光太郎戦後の光太郎などに触れられました。

3月9日(金)~18日(日)
京都市の知恩院さんで「春のライトアップ2018」が開催されました。補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像もライトアップされました。

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3月10日(土)
新宿区の日本出版クラブ会館さんで、「山根基世の朗読指導者養成講座 やまねこ朗読発表会」が開催され、光太郎詩「樹下の二人」(大正12年=1923)も扱われました。

同日、共に画家の深沢省三・紅子夫妻の長男で、戦時中、学徒出陣前に光太郎のアトリエを訪ね、詩「四人の学生」(昭和18年=1943)のモデルとなり、戦後は岩手雫石のご自宅に光太郎を泊めたりもした、深沢竜一氏が亡くなりました。

3月11日(日)~5月20日(日)
秋田県小坂町立総合博物館郷土館さんで、企画展「平成29年度新収蔵資料展」が開催されました。小坂町出身の澤田伊四郎に宛てた書簡、署名本等が展示されました。

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3月13日(火)
名探偵・浅見光彦シリーズを生んだ推理作家の内田康夫氏がご逝去されました。昭和61年に光太郎彫刻の贋作をメインのモチーフとして、『「首の女(ひと)」殺人事件』を執筆なさいました。同作はその後、ドラマ化、コミック化もされました。

3月15日(木)
長野県安曇野市の碌山美術館さんから、『碌山美術館館報第38号』が発行されました。昨年12月2日に同館で開催された、美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」の筆録が掲載されています。同館学芸員の武井敏氏と、当方の対談形式でした。

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3月16日(金)
墨田区のすみだトリフォニーホールさんでコンサート「第29回 21世紀日本歌曲の潮流」が開催されました。野村 朗氏作曲の歌曲「樹下の二人 詩集『智恵子抄』 より (詩/高村光太郎)」 が、バリトン・森山孝光氏、ピアノ・森山康子さんにより演奏されました。

3月17日(土)~5月13日(日)
横浜市の神奈川近代文学館さんで、特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」が開催され、光太郎が絵を描き、晶子が短歌を添えた屏風紙二点が展示されました。

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3月21日(水)
短歌研究社さんから『短歌研究』 4月号が発行されました。「再録 明星研究会講演 松平盟子│『みだれ髪』を超えて~晶子と口語自由詩~」ということで、昨秋、日比谷公園内の千代田区立日比谷図書文化館さんで開催された、やはり明星研究会さん主催の「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」での、歌人・松平盟子氏による第一部講演の筆録が掲載されています。

3月27日(火)
光太郎がたびたび宿泊をした花巻温泉旧松雲閣別館が登録有形文化財に登録されました。

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明日は4~6月編をお送りします。

この項が終わるまで、【折々のことば・光太郎】はお休みいたします。

暮れも押し詰まって参りまして、いよいよ来週火曜が2019年、平成最後の元日です。

元日といえば、初日の出。そこで、光太郎智恵子ゆかりの地での初日の出情報をまとめてみました。

まずは、大正元年(1912)、光太郎智恵子がお互いにこの人しかいないと確かめ合った、千葉銚子の犬吠埼。 

【2019年】日本一早い初日の出インフォメーション

関東最東端の犬吠埼は、山頂・離島を除き日本で一番早く初日の出を見ることができます。
元旦は、犬吠埼周辺の海岸で雄大な大海原と荒磯に砕ける波や白亜の灯台がおりなす美しい風景とともに、新年の誓いを立ててみてはいかがでしょうか。

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JRさん、それから銚子電鉄さんが臨時列車を出すほか、現地ではさまざまなイベントも企画されています。

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続いて、犬吠埼の少し南、昭和9年(1934)に、智恵子が療養生活を送った九十九里浜。当方、このところこちらで愛犬と共に初日の出を見ており、来年もその予定でいます。 

あなたなら誰とくる?「九十九里町元旦祭」

① 会  場 : 片貝中央海岸
② 住  所 : 千葉県山武郡九十九里町片貝6928
③ 開  催  日   : 平成31年1月1日(火)
④ 開催時間 : 午前5時30分~午前7時00分
   午前5時30分:おもてなしブース開始
                         ・いわしの団子汁(1000人分)  ・いわしの丸干し(700人分)
   午前6時10分~6時45分:郷土芸能披露 愛宕神社獅子舞保存会・九十九里黒潮太鼓
⑤ 駐車場 : 片貝海岸海浜公園町営駐車場(年末年始無料)
⑥ お問い合わせ : 九十九里町産業振興課商工観光係 0475-70-3177
               九十九里町観光協会 0475-76-9449

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次に、山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区。昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため、この地に住んでいた井上くまを訪問しました。それを記念して昭和62年(1987)に光太郎文学碑が建てられています。

元旦も含めた冬至の前後、 ここで富士山頂から日が昇る「ダイヤモンド富士」が見られます。日の出の時刻は7時20分くらいだそうです。

高下ダイヤモンドポイント

新富岳百景「日出づる里」
増穂町穂積(高下・たかおり地区)は、「新富岳百景」に選ばれ、毎年冬至頃から元旦にかけて、富士山頂からの日の出「ダイヤモンド富士」が見え、多くの写真家が訪れます。
ダイヤモンドとは、日の出がダイヤモンドのような輝きになることから名付けられたものです。

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ちょうど1年前に、芳文社さんから刊行されたコミック『ゆるキャン△』第5巻。山梨県を舞台にしたキャンプ愛好女子たちを主人公とする漫画ですが、こちらが紹介されています。

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だいぶ経ってから気づいたので、このブログではご紹介しませんでした。今年、テレビアニメ化もされましたが、このエピソードの前くらいで終わっており、続編が期待されます。


最後に、智恵子の故郷・福島二本松に聳える安達太良山。こちらも近年、初日の出スポットとして売り出し中。 

安達太良山 初日の出

<日の出目安 6:30>
 日本百名山に数えられている標高1,700mの名峰。
 詩人・彫刻家の高村光太郎が、「あれが阿多多羅山・・・」(樹下の二人)と詠んだことでも有名で、智恵子のふるさととしても知られている。

開催日時 2019年01月01日(火)  会場 あだたら高原リゾート 二本松市奥岳温泉   駐車場あり
お問い合わせ先 二本松市観光連盟 TEL 0243-55-5122


なるほど、奥岳登山口のあたりは南東方向に盆地が広がっている地形ですので、初日の出を見るには良い条件ですね。智恵子の愛した「ほんとの空」に上る初日の出もおつなものでしょう。

また、二本松市街の霞ヶ城も同様に初日の出スポットとなっているようです。

ところで上記、<日の出目安 6:30>となっていますが、高山ということで、銚子犬吠埼(6:46)より早いのでしょうか。それとも間違いなのでしょうか。


気になるのは当日の天気。がっつり晴れることを祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる。

散文「近状」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

復刊なった与謝野夫妻の第二期『明星』に短歌五十首を寄せた、その序文的な文章の一節です。

この時期、彫刻では西洋風の塑像彫をメインにしていたのを、ふと思い立って子供の頃から慣れ親しんだ木彫も手がけるようになり、それが世間で評判となりました。同様に、文学では自由詩を主戦場としていたこの時期、少年時代に与謝野夫妻に見出された短歌をまた詠むようになりました。それぞれが自身の心の平安にもつながったというあたり、興味深く感じられます。

テレビ放映情報です。 

「西郷どん」総集編 第一章「薩摩」

NHK 総合      2018/12/30(日) 13:05~14:05
NHK BSプレミアム 2019/1/2(水)    8:00~9:00

薩摩(鹿児島)の貧しい下級武士の家の生まれた熱血漢、西郷吉之助(鈴木亮平)は、カリスマ藩主・島津斉彬(渡辺謙)と出会い、歴史の表舞台へと飛び出していく。少年から青年へと成長していく立身出世青春編。

出演
鈴木亮平 瑛太 黒木華 桜庭ななみ 北村有起哉 高橋光臣 渡部豪太 堀井新太
増田修一朗 塚地武雅 藤真利子 水野久美 大村崑 北川景子 沢村一樹 小柳ルミ子
青木崇高 鹿賀丈史 平田満 ほか

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先頃、放映が終了したNHKさんの大河ドラマ「西郷どん」。その総集編が、4章に分けて放映されます。

地上波NHK総合さんでは12月30日(日)の午後、合間にニュースや翌日の紅白歌合戦の番宣番組をはさんで、4時間で放映されます。BSプレミアムさんでは、1月2日(水)に、やはり一気に放映されます。

今年1月7日(日)の第一話、明治31年(1898)の、光太郎の父・光雲が主任となって制作された上野の西郷隆盛像除幕式のシーンから始まりました。

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西郷の妻・糸の「うちの旦那さぁはこげな人じゃあいもはん!」の爆弾発言。過日の最終話で、その真意が、西郷隆盛は高い所にいて人から見上げられるような人ではなく、人々と同じ地平を走り回る人だった、という意味であることが明かされました。

総集編でこの除幕式のシーンが入るかどうか、何とも言えませんが、とりあえずご紹介しておきます。


西郷像といえば、12月19日(水)、福岡に本社を置く『西日本新聞』さんの一面コラムで、光雲にからめて触れて下さいました。

「西郷どん」上野の像、なぜ軽装? 背景に政府の思惑

 NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」が終わった。維新の立役者の生涯を描いた物語が面白くないはずはない。舞台は九州、せりふは鹿児島弁とあって、例年になく日曜の夜が楽しみだった
▼ドラマの完結に合わせたように、東京・上野公園にある西郷隆盛像がきのう、除幕から120年を迎えた。恰幅(かっぷく)の良い着流し姿で愛犬を連れた像は、私たちが抱く西郷のイメージそのものだ
▼実は西郷の写真は一枚も残っていなかったという。作者の高村光雲は弟の西郷従道やいとこの大山巌をモデルにした西郷の肖像画を参考に像を制作した
▼完成した像を見た西郷の妻は「主人はこんな人じゃなかった」と落胆したとか。風貌が似てないというより、浴衣のような軽装で人前に出る無礼な人ではなかった、と言いたかったそうだ。鹿児島市・城山にも西郷像が立っている。こちらは直立不動で立派な軍服姿だ
▼故人を顕彰する像は正装が常識。上野の像が軽装になったのには理由がある。西南戦争で反乱士族の首領に担がれた西郷は、政府に弓引く「逆徒」とされた。大日本帝国憲法発布に伴う大赦で名誉回復すると、人気の高い西郷の像を造る計画が持ち上がった
▼だが、政府内には西郷への反発もまだ強く、威厳のある姿の像は許されなかったのだ。姑息(こそく)な思惑は裏目に出たか。「上野の西郷さん」は飾り気のない親しみやすさで、ますます庶民に愛されることになった。
=2018/12/19付 西日本新聞朝刊=


「西郷どん」の放映は終わりますが、この後も、上野の西郷隆盛像は人々に愛され続けていってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

それは本当に亙るものの価値が益進むに従つて、曾て歓迎せられたものも歓迎せられなくなり、曾て味解せられたものも味解せられなくなり、しかも却つて、人間の心の隅々に不滅の光を瀰漫させ、いつしらず人間の美の常識を高め、否定する者の心をも否定せられながら浸潤して止まず、遂に一のクラシツクとなつて人類の一角に常明の燈台となつて聳立するといふ、方程式のやうな方式に善くかなつてゐるからである。

散文「「流星の道」読後」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

この年刊行された、大先輩・与謝野晶子の歌集『流星の道』の書評の一節です。この時期になると、章子の短歌は、もはや『みだれ髪』の頃の鮮烈さを以て世上に受け入れられなくなっていることに対し、上記のように述べています。しかし、「一のクラシツクとなつて人類の一角に常明の燈台となつて聳立する」、ある意味、王道の作品なのだというわけですね。

同じことは、光太郎詩(特に戦後の)、それから建立後しばらく経ってからの西郷隆盛像などにも当てはまるような気がします。

重厚で良質な学術書を多数手がけられている国書刊行会さんの新刊です。

中村傳三郎美術評論集成

2018年11月2日  中村傳三郎著  藤井明編
書刊行会  定価27,000円+税

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目次
 彫刻篇
  第三科(彫塑)
  藤川勇造
  “鏡獅子”と首相 ほか
 絵画篇
  光風会展覚書
  自由美術
  下村観山、土田麦僊、富田渓仙(作品図版解説)ほか
 工芸篇
  推薦文(戸島甲喜)
  集団・版第一〇回展によせる
  現代工芸展をみて ほか
 解説 藤井明
 中村傳三郎著作リスト
 年譜

昭和5年に設立され、戦後、近代日本美術の研究を大きく発展させた東京文化財研究所。同研究所の彫刻部門を担い、日本におけるロダン評価を広めるなど今日の近代日本彫刻史研究の基礎を築いた中村傳三郎の美術論を集大成する。

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中村傳三郎は大正5年(1916)、兵庫出身の美術評論家。光太郎とも交流がありました。亡くなる3年前の平成3年(1991)、文彩社さんから 『明治の彫塑 「像ヲ作ル術」以後』という好著が出版されましたが、それ以外に研究紀要や美術雑誌などに発表したものの集成です。おそらく光太郎や、その父・光雲に触れられていると思われます。

「思われます」というのは、未入手なもので……。定価27,000円+税というところで二の足を踏んでいます。

編集に当たられたのは、このブログにたびたびご登場いただいている、小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員の藤井明氏。ことによると「献呈」の紙片が挟まって送られてくるかな、と不埒なことを考えていたのですが、あまちゃんだったようです(笑)。


いったいに、国書刊行会さんの刊行物はそうでして、今年2月には田中修二氏編『近代日本彫刻史』という、これまた重厚な書籍が出ています。

近代日本彫刻史

2018年2月21日 田中修二著 国書刊行会 定価14,000円+税

彫刻という領域を工芸的な造形なども含めて広く考察し、江戸時代から明治期、および昭和戦前・戦中期から戦後期という大きな時代の変化を連続的にとらえる視点を踏襲しつつ、個々の作家や作品についての記述を充実。近代日本彫刻史の通史として先例のない、包括的かつ学術的な書籍。今後の近代日本彫刻史研究における基本文献になるとともに、より広く、日本美術史や西洋の彫刻史を研究するうえでの必須参考文献。

目次
第一章 江戸から明治へ
 日本彫刻史のつながり 彫刻の境界 江戸時代の彫刻とは 江戸時代の仏像
 名工、名匠たち
 西洋彫刻との出会い 西洋人にとっての日本と彫刻 
 コラム①『光雲懐古談』に見る江戸の彫刻 
第二章 彫刻のはじまり 
 破壊と形成 「像」から「彫刻」へ 職人から彫刻家へ 工部美術学校の開校
 工部美術学校の教育と最初の洋風彫刻家たち 「彫刻」の成立 表現技法の交流
 コラム②彫刻と解剖学
第三章 「彫塑」の時代 
 東京美術学校 明治二〇年代の展開 銅像の時代 銅像、仏像、置物、人形
 「彫刻」と「彫塑」
 転換期としての明治三〇年代 文展へ 
 コラム③アール・ヌーヴォーと日本彫刻 
第四章 文展とロダニズム 
 明治四〇年代におけるそれぞれの世代 試みの場としての文展 文展の「進歩」
 彫刻を見る速度と距離 
「ロダン彫刻入京記」の時間と時代
 ロダニズムと近代日本彫刻史観 再興日本美術院彫刻部の創設
 
 第一次世界大戦とロダンの死 コラム④彫刻を支える人たち 
第五章 大正期における展開 
 両大戦間期の西洋彫刻 帝展、院展、二科展の彫刻 
 発表の場の多様化―東台彫塑会と曠原社など
 彫刻を語る言葉
 「古寺巡礼」の時代 彫刻家の生活 彫刻の普及と「地方」 関東大震災以後の彫刻
 コラム⑤描く彫刻家 
第六章 華やかな活気と戦争への道程 
 昭和期のはじまりと構造社 彫刻と建築の新たな関係 昭和前期における工芸の展開
 プロレタリア彫刻の動向と帝展彫刻の位置 在野展の興隆
 近代・清楚・古代―二科会、国画会の彫刻など 近代日本彫刻の歴史化
 「地方」への拡がり
 コラム⑥画家と彫刻 
第七章 戦争から戦後へ 
 帝展改組と彫刻界 戦時下における彫刻の主題 
 遠く離れたものへ―古典主義、植民地、シュルレアリスム 抽象とモニュメント
 戦時下の彫刻の位置
 戦争と彫刻と敗戦 戦後彫刻の出発点 平和の象徴としての彫刻
 コラム⑦近代日本彫刻とアジア 
第八章 戦後彫刻の展開 
 セメントと空と花と 在野団体の隆盛と抽象彫刻 具象表現の追求とその思想
 欧米からの影響
 「近代日本彫刻史」の成立 マネキンと怪獣 「彫刻」の変貌
 コラム⑧木彫表現の拡がり 
第九章 現代の彫刻へ 
 ネオ・ダダと読売アンデパンダン展 グループ展と団体展 画廊の空間
 彫刻を展示する場所
 新たな素材、技法、表現への試み 彫刻教育の様相
 「彫刻」への問いかけ
 彫刻の「環境」―「もの派」の誕生 大阪万博とその前後
 コラム⑨彫刻の自由──結びにかえて
年表 文献一覧 掲載図版一覧 索引

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さらに、やはり田中氏編で平成22年(2010)から同25年(2013)にかけて刊行された『近代日本彫刻集成』全三巻の重版も、今年出ました。 

近代日本彫刻集成

 幕末・明治編    2010/09/16 定価45,000円+税
 明治後期・大正編 2012/01/31 定価47,000円+税
 昭和前期編     2013/05/29 定価53,000円+税

カラー図版300点、モノクロ図版600点の圧倒的な作品写真、詳細な作品・作家解説、歴史的文献を再録し、近代日本彫刻が辿った歴史に沿って、内容をわかりやすく整理した初の本格的研究書。既存の近代日本彫刻史においては取り上げられることの少なかった作品や戦争で失われた銅像などの貴重な画像も多数掲載し、「近代日本彫刻」の全体像を提示する集成。
 
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もうこうなると、個人が購入するものではないのかな、という気もしますが……。


今日はクリスマスイヴ。明日の朝、眼が醒めたらこれら5冊、サンタさんが置いていってくれていないものかと、またまた不埒なことを考えています(笑)。


【折々のことば・光太郎】

自分が草で言へば路傍の雑草、木で言へば薪になる雑木、水で言へば地中の泉である事は既に知つてゐます。しかし此の大きな自然の中では萬物が自己の生活を十全に開展せしめ進展せしめて、互に其の同胞と呼びかはす事を許されてゐます。

散文「「一隅の卓」より 二」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

既に東京都心で暮らしていた壮年期から、自己も自然の一部、と、思い定めていた光太郎。たびたび北海道や東北の太平洋岸、或いは山間の温泉地などへの移住を夢見ていましたが、あくまで夢。約20年後、実際に花巻郊外の山村に落ち着くことになるとは、思っていなかったでしょう。

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第七号が届きました。これまで同様、表紙は春陽会会員の成川雄一氏。相変わらず味のある絵で、花を添えて下さっています。

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いつの間にか連載を持つことになってしまい、拙稿も載っております。だいぶ以前にこのブログでご紹介した、『高村光太郎全集』未収録の随筆「海の思出」についてです。従来不明だった、明治40年(1907)、ニューヨークからロンドンへ渡った際に乗った船が、かのタイタニックと同じホワイトスターライン社のオーシャニックという船だったことが判明した件について書きました。


当会顧問・北川太一先生の玉稿も掲載されています。

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文治堂書店さんから刊行された、服部剛氏の詩集『我が家に天使がやってきた ダウン症をもつ周とともに』の書評欄に、詩人や医師、学生の皆さんのそれとともに掲載されています。心を病んでから奇跡のような紙絵を制作し始めた智恵子に絡め、的確な評です。


また、「編集後記」では、光太郎を敬愛し、膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けた詩人・野沢一に触れられています。野沢は「日本のソロー」とも称されています。

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昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、野沢が独居自炊の生活を送った山梨県の四尾連湖で、野沢を偲ぶ集いが今年の10月にあったそうで、そのレポートを兼ねています。


……という『トンボ』第七号。来春の第63回連翹忌にご参加下さる方には進呈いたします(ギャラ代わりに現物支給でごそっと頂いておりますので(笑))が、その前にご入用の方は、文治堂書店さん(bunchi@pop06.odn.ne.jp)までご連絡下さい。


【折々のことば・光太郎】

完全無缺な人格のやうに書き上げられたものよりも私などには其の瑕だらけな処を見せられた方がうれしい。

散文「「一隅の卓」より 一」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

光太郎が翻訳もした、ロダンの秘書であったマルセル・チレルの書いたロダン伝記の評です。

いったいに伝記というもの、描こうとする人物へのリスペクトが不可欠ですが、だからといって暗黒面をなかったことにしてはいけないものでもありましょう。批判ばかりでも仕方がありませんが。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第11号が届きました。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

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今号は「ラムチョップ(骨付きラム)とゴボウチップス」だそうで、昭和26年(1951)のクリスマスの時期の日記から考案されています。

12月25日(火) 昨夜雪少しふる、くもり、弘さん買い物してくる、山羊肉のため千円提供。(略)田頭さん夫人立よる、クリスマスのラジオをきく、校長さんくる(略)

12月26日(水) 終日雨、ひる頃阿部博さん来訪、リンゴ、山芋、岩手川一升もらふ。弘さんにゴボウ及び山羊骨付き肉をもらふ。昨日屠殺、隣人等と饗宴せし由、昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。

光太郎が食したのは骨付きラムといっても、山羊だったようです。「弘さん」は光太郎の暮らした山小屋の付近の開拓地に入っていた青年、「田頭さん夫人」は先般亡くなった高橋愛子さんのお母様、「校長さん」は、高橋愛子さん同様、この地で光太郎の語り部を務められている浅沼隆さんのお父様で、近くの山口小学校校長にして光太郎歿後は花巻高村光太郎記念会事務局長も務められた故・浅沼政規氏。

「阿部博さん」は花巻石神町のリンゴ農家。宮沢賢治の教え子でもありました。平成27年(2015)、NHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で取り上げられた「甘酸是人生」の書を贈られた人物です。

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岩手川」は現在も生産されている盛岡の地酒です。ケーキを野生動物に食べられてしまったというエピソード、笑えますね。

クリスマスといえば、12月16日(日)、花巻高村光太郎記念館さんでは、「クリスマススペシャルコンサート」が開催されました。当方、欠礼いたしましたが、館のブログサイトにレポートがアップされています。ご覧下さい。

また、「平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~ 光太郎の食卓」が開催中。展示風景の画像が追加で送られてきました。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

春になると絵画の展覧会が始まる。始まる前になると辻々にビラが張り出され、人々は美しい衣裳をきて、先を争つてそれに出掛ける。

散文「仏蘭西の春」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

留学していたパリの思い出を綴ったエッセイの一節。

パリの春の展覧会は「ル・サロン展」です。光太郎ら新進の芸術家はあまり好まなかったアカデミックな展覧会ですが、一般市民がこぞってそれを観に行く風習が根付いている点には、芸術後進国の日本人として、敬意を表しています。

たまたまネット上で見つけました。九州鹿児島から演劇の公演情報です。 

演劇集団宇宙水槽 番外公演#1 『ちえこのかって』

期   日 : 2018年12月22日(土)~24日(月・振休)
会   場 : ギャラリー游 鹿児島市山之口町3-14
時   間 : 22日(土) 14:00~/18:00~  23日(日) 14:00~/18:00~
        24日(月・振休) 14:00~
料   金 : 一般1200円  学生(高校生以下)800円  (予約制/25席)
問 合 せ    : cosmorium@hotmail.co.jp  電話・SMS:090-3744-8736(宮田)

世間の世間の注目する「新しい女」、若き女流油絵画家・智恵子。日本の芸術界の矛盾を批判して世間を騒がせていた新進気鋭の芸術家、光太郎。2人が出会ったのは、明治44年12月のことだった。光太郎は妻である智恵子の死を「レモン哀歌」という詩に描いた。
智恵子という女の人生、苦悩、喜び、狂気、レモンの香りで隠しおおせた”秘密”――
2人の芸術家の姿を描く、宇宙水槽の二人芝居。
 
脚本:イワモトエリ   演出:宮田晃志   出演:うとよしみ/宮田晃志


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お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

自分の芸術を模倣である、と言はれれば、模倣でない、と心の底から言ひ張れる。自分の芸術を虚偽である、と言はれれば、虚偽でない、と心の底から言ひ張れる。自分の芸術を遊動である、と言はれれば、遊動でない、と心の底から言ひ張れる。自分の芸術を概念である、と言はれれば、概念でない、と心の底から言ひ張れる。自分の芸術を外殻である、と言はれれば、外殻でない、と心の底から言ひ張れる。

散文「所感」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

岸田劉生、木村荘八らと共に開催した第二回フユウザン会展の目録に載せた文章の冒頭部分です。強烈な矜恃が見て取れますね。

一昨日、昨日と光太郎の父・高村光雲が主任として制作に当たった上野の西郷隆盛像について書きましたが、西郷像と同様に、光雲の手になる大作、信州善光寺さんの仁王像に関して、イベント情報です。 

善光寺寺子屋文化講座第2幕『冬至に仁王さんのお顔を見てみよう』

期   日 : 2018年12月22日(土)
会   場 : 信州善光寺 長野県長野市大字長野元善町491
時   間 : 朝 午前6時50分受付   夕 午後3時受付
料   金 : 無料

善光寺の仁王像の配置は、一般的な配置と逆になっています。なぜなのでしょうか?
太陽が一番低くなる冬至の日に、物事の始まりを表す阿形像に朝日が、終わりを意味する吽形像に夕日が当たるように仁王像を配置したといわれております。この現象を見るため、『冬至に仁王さんのお顔を見てみよう』を行います。
※天候次第で、やむを得ず中止の場合がございます。

講師: 相原文哉先生(第24回善光寺寺子屋文化講座・講師)
定員: 朝・夕 各30名
 
お申込み方法
12月1日(土)より、電話にて下記までお申込み願います。先着各30名様まで。
善光寺事務局(026-234-3591)


大正8年(1919)に開眼供養が行われた、善光寺さんの仁王像。光雲とその高弟・米原雲海の作です。100周年の記念イベントの一環で、同様に、仁王門の裏側に安置されたやはり、光雲・雲海作の「三宝荒神像」と「三面大黒天像」のライトアップも先月から行われています。

善光寺の仁王像の配置は、一般的な配置と逆になっています」とありますが、通常は向かって右が口を開いた「阿形(あぎょう)」、左に口を閉じた「吽形(うんぎょう)」という配置が一般的だそうです。

確かに、光雲作でもそうなっている仁王像が残っています。

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下は善光寺さんの仁王像の約3分の1大の試作ですが、確かに逆になっています。

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光雲・雲海は、奈良東大寺さんの金剛力士像を参照したらしく、そちらは善光寺さん同様に「左・阿、右・吽」です。そこで、古い時代はそうだったのかと思いきや、同じ奈良の法隆寺さんでは、通常とされる「右・阿、左・吽」
となっています。厳格なルールはなかったということなのでしょうか。

冬至の日光云々は後付の解釈のような気がしますが、それでも冬至の頃に朝日が阿形に、夕陽が吽形に当たるというのは、確かに神秘的ですね。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

中にも、余の心を顫慄せしめたのは、あの名高いジヨツトの壁画、基督の一代記であつた。小さな物置小屋の様な「マドンナ デ ラレナ」の寺の扉を押して、その薄暗い室へ足を踏み入れた時のセンセエシヨンは、殆と大きな危険に臨んだ時の様なものであつた。

散文「伊太利亜遍歴」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

遡ること3年前の、欧米留学末期、スイス経由でイタリアを約1ヶ月間旅した回想の一節です。

場所はパドヴァ。イタリア北部、ベネツィア郊外の町で、コペルニクスやガリレオ・ガリレイ、ダンテなどとのゆかりがあります。「ジヨツトの壁画」は、スクロヴェーニ礼拝堂に残るフレスコ画。ルネサンス期のジョット・ディ・ボンドーネの手になるものです。「マドンナ デ ラレナ」は、スクロヴェーニ礼拝堂の別名「アレーナ礼拝堂」ということでしょう。キリスト教系の施設に「」の訳を当てるケースは当時、一般的でした。

善光寺さんもそうですが、やはり宗教的な施設で古い芸術作品に触れる際、敬虔な気持ちにさせられるものですね。

昨日、テレビ東京さんの「美の巨人たち 上野のシンボル!高村光雲『西郷隆盛像』が愛され続ける理由」について書きましたが、もう少し西郷隆盛像について。

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上記は当方所蔵の古絵葉書。宛名面の様式からして、除幕(明治31年=1898)からそう経っていない明治39年(1906)までのものと推定されます。見物の人々の「おお」という声が聞こえてきそうですね。

主任として制作に当たった光雲の息子として、光太郎はこの像をどう見ていたのか、光太郎の書いたものからご紹介します。ちなみに除幕の年、光太郎は数え16歳、前年に父・光雲が教鞭を執っていた東京美術学校に入学しました。

まずはその制作時のことを回想しての文章から。

 美術学校の岡倉さん時代は、先生といふものは一年を通じて生徒の面倒をみることが出来れば他に何をしても構はないといふ状態で、きちんと学校には来ても来なくてもいいといふことで、先生は学校で多くお手本となるものを拵へてゐた。又政府の関係団体などから始終記念像等の註文が来る。先生はその製作に従事してゐれば、それが教授の一つの実例になつて、生徒は見てゐていろいろ学ぶ。例へば父が仕事に与つた楠公の銅像の時は微かにしか覚えてゐないけれど、西郷隆盛の銅像の時はよく知つてゐるが、美術学校の中に臨時に小屋を拵へてやつた。
(略)
 西郷さんの像の方は学校の庭の運動場の所に小屋を拵へ、木型を多勢で作つた。私は小学校の往還りに彼処を通るので、始終立寄つて見てゐた。あの像は、南洲を知つてゐるといふ顕官が沢山ゐるので、いろんな人が見に来て皆自分が接した南洲の風貌を主張したらしい。伊藤(博文)さんなどは陸軍大将の服装がいいと言つたが、海軍大臣をしてゐた樺山さんは、鹿児島に帰つて狩をしてゐるところがいい、南洲の真骨頂はさういふ所にあるといふ意見を頑張つて曲げないので結局そこに落ちついた。南洲の腰に差してあるのは餌物を捕る罠である。樺山さんが彼処で大きな声で怒鳴りながら指図してゐたのを覚えている。原型を作る時間は随分かかる。小さいのから二度位に伸ばすのである。サゲフリを下げて木割にし、小さい部分から伸ばしてゆく。そして寄木にして段々に積み上げながら拵へたものだ。山田鬼斎さん、新海(竹太郎)さんなどいろいろな先生が手伝つてゐた。その製作の工程には、それに準じて様々な仕事がある。削る道具も極く大きいから各種の工夫のあるものが要るし、大工に属する仕事が沢山ある。さういふのを生徒が毎日見ながら覚えることは生徒の為にはなつたらうと思ふ。
(談話筆記「回想録」より 昭和20年=1945)

除幕は明治31年(1898)でしたが、木型の制作はもっと早くから行われていました。「小学校」とあるのは下谷高等小学校、光太郎は明治29年(1896)にここを卒業しています。

光太郎の記憶に依れば、兎狩りの姿にすることを主張したのは、やはり薩摩出身の樺山資紀だったそうですが、少年時代の伝聞ですので、何とも言えません。

そうして出来た西郷像、最晩年の光太郎はこう評しています。

静かに考へてみると、結局父光雲は一個の、徳川末期明治初期にかけての典型的な職人であつた。いはゆる「木彫師(きぼりし)」であつた。もつと狭くいへば「仏師屋(ぶしや)」であつた。仕事の種類からいつて、仏師屋の縄張をはるかに突破したやうな、例へば「楠公銅像」とか「西郷隆盛銅像」とかいふものを作つても、その製作の基調はやはり仏師屋的であつた。
(略)
父の作品には大したものはなかつた。すべて職人的、仏師屋的で、又江戸的であつた。 「楠公」は五月人形のやうであり、「南洲」は置物のやうであり、数多い観音、阿弥陀の類にはどれにも柔媚の俗気がただよつてゐた
(「父との関係―アトリエにて2―」より 昭和29年=1954)

しかし、全く評価していなかったかというと、そうでもなかったようです。

幸に日本彫刻の伝統の中に肖像彫刻の一目があつて、天平以来彫刻と人間とのつながりをともかくも保持してゐる。人間とのつながりと言つても、古代に於いてはもとより凡夫の像ではなく、宗祖とか開基とか、いづれも高徳名智識の像であり、従つて半ば仏像に準ずるものである。いづれも礼拝の対象であるから、その相貌風姿も、彫刻様式もほぼ仏像に依る手法で作られてゐる。例へば耳朶の如きも大抵仏像に見るやうに長大に造られ、着衣の衣紋も仏像の衣紋に近く、決して有りのまま肖像的理念によつて出来たものではない。
(略)
此の延長が明治時代に於ける西郷隆盛の銅像である。上野に立つてゐるあの銅像はまつたく仏像彫刻の技法の一転した木彫様式の写実であつて、恐らく斯かる様式の最後をなすものと言へよう。さういふ意味でもあの銅像は甚だ興味があるのである。
(「本邦肖像彫刻技法の推移」より 昭和16年=1941)

なるほど、実作者でもあり卓越した評論家でもあった光太郎の鋭い視点が垣間見えます。仏像との類似という点では、他の機会にも言及しています。

父の作つた銅像の原型はみな木彫であつた。粘土や石膏では作らなかつた。上野の西郷南洲でも、二重橋外の楠公銅像でもみな寄木(よせぎ)法による木彫で原型を作つた。西郷銅像の風に吹かれる単衣物の裾の衣紋(えもん)の彫り方が、木彫でよく彫る「渡海達磨」の裾の衣紋そつくりなのもそのためである。

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左は明治27年(1894)、新納忠之介が東京美術学校の卒業制作として作った「渡海達磨」です。たしかに裾の部分、西郷像と似ていますね。

「近世」から「現代」への橋渡しの時期である「近代」の、初期を牽引したのが光雲、後期を担ったのが光太郎とも言えましょう。その過度期の前世代に対する否定は必要欠くべからざるもの。それがなければ何事も発展しません。それが光雲光太郎父子にはある種の悲劇でもありました。

さて、西郷隆盛というと、光太郎は詩でも西郷に触れています。001


   或る講演会で読んだ言葉

 大人とは何でせう。
 子どもとは何でせう。
 大人とは分別のついた大きな子供。
 子どもとは大人の分子を残らず持つた小さな芽です。
 子どもが大人に変るのではありません。
 子どものまんま
 そのまま機能が出そろつて
 それで大人になるのです。
 大人は小さな乳呑児の中にもう居ます。
 大人はみんな子どもの面立(おもだち)そつくりです。
 大きな西郷隆盛は
 結局小さな吉之助とちがひません。
 子ども子どもといつて
 別物にするのは止しませう。
 大人になつて変るのは
 ただ末梢にすぎません。
 子どもはあらゆる本能の巣です。
 (以下略)

昭和17年(1942)の作。ほぼ前半を引用しました。これで終わっていればそれなりにいい詩なのですが、後半になると、戦時中ということで、大東亜の危急存亡を救う健全な少国民を育てましょう、的な内容となり、「おいおい」という感じです。

大きな西郷隆盛は 結局小さな吉之助とちがひません。」は、NHKさんの「西郷どん」でも、そのような描き方がされていたようですね。

また上野に行く機会があったら、今日書いたようなことを思い返しつつ、西郷像を観てみたいと思っております。


【折々のことば・光太郎】

絹濃しの豆腐と言つた様に非常に軟かく、物質が飽和し、分子と分子とが飽和して居て舌の僅かな労力の為めにすぐ崩れて了ふけれど、それかと言つて歯答へがないと言ふのではない。言ふに言はれぬ此の間の舌ざはりが、芋だの、南瓜だのの味に重大な位置を占めて居ると思ひます。

談話筆記「芋と南瓜の触感」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

光太郎、その最晩年まで、西郷隆盛の故郷・鹿児島特産のサツマイモが大好物でした。食感が似ているということで、カボチャもでした。ちなみに智恵子は芋類は好まなかったそうです。

さすが詩人、食レポも見事です(笑)。

先週土曜日、テレビ東京さんの「美の巨人たち 上野のシンボル!高村光雲『西郷隆盛像』が愛され続ける理由」の放映がありました。

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西郷の妻・糸が、除幕式の際に「うちの旦那さぁはこげな人じゃあいもはん」と言ったというエピソード(結局、当方が知りたいその出典は紹介されませんでしたが)から、像の制作にあたった光太郎の父・光雲らの苦労話が色々と紹介されました。

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光雲については、西洋の写実を取り入れた先進性を紹介してくださいました。

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コメンテーターとして、当方もお世話になっている小平市平櫛田中美術館さんの藤井明学芸員氏がご登場。

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NHKさんの「日曜美術館」等にもご出演されている藤井氏、いつもながらに的確なコメントです。

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今年初公開された、顔のない西郷像原型の写真なども使われました。

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確実に本人だと言い切れる写真の残っていない西郷隆盛、そこで、光雲が参考にしたのがキヨッソーネの描いた肖像画。他に生前の西郷を知る人々の意見を随分聞いたそうです。

結果、何とか本人に似た顔になりましたが、糸は納得いきません。それは、顔の問題でなく、服装の問題。

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この点に関しては、この像は兎狩りの姿だということで。しかし、なぜそんな姿になったのかというと、当初は軍服姿や騎馬像の構想があったものの、やはり恩赦で復権したとはいえ西南戦争で大君に弓を引いた人物、ということで、その構想が却下されたためでした。

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そこで、西郷の従弟、大山巌が……

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当方、このエピソードは存じませんでした。

その結果、着流し姿となったというわけです。

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このあたりについて詳述している当時の文献、読んでみたいのですが……。

テレビ東京さん系列のBSテレ東さんで、12月29日(土)の18:00~18:30にも放映があります。テレビ東京さん系の放送局がない地域の方、こちらでご覧下さい。


そして日曜日には、NHKさんの大河ドラマ「西郷どん」最終話。

1月の第1話が西郷像の除幕式のシーンから始まり、最終話でも像に触れられるかと思っていましたが、残念ながら像は登場せず。しかし、西郷の死後、当時の人々が大接近していた火星を「西郷星」と呼んで拝んでいたというエピソードの中で、やはり糸が「うちの旦那さあはあげな高い所に居て人から見上げられるようなお人ではなかった」と言うシーンがありました。脚本の中園ミホさん、これが第1話の除幕式で糸が「うちの旦那さぁはこげな人じゃあいもはん」と言ったという理由につながるのですね。なるほど、そういう解釈も成り立つな、と思いました。

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ところで当方、新選組や会津藩、彰義隊などを好むもので、この1年、「西郷どん」は観ていませんでした。そこで最終話を観て初めて知ったのですが、「美の巨人たち」でも紹介された、上野の西郷さんが連れている愛犬の「ツン」も登場していたのですね。存じませんでした。

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それから、最後のかつての盟友・大久保利通がその開催に心血を注いだという設定になっていた内国勧業博覧会。「西郷どん」では触れられませんでしたが、この時に、光雲は師匠・高村東雲の名で白衣観音像を出品、見事に一等龍紋賞に輝きました。博覧会というものが全く周知されていなかったこの当時、東雲は出品の依頼に対し、わけがわからないし面倒だと考えたので高弟の光雲に自分の名で出品させたのです。それが一等龍紋賞。しかし、それがどれほどすごい賞かというのが、もらってからもよくわからなかったというのだから笑えます。そのあたり、昭和4年(1929)に刊行された光雲の談話筆記『光雲懐古談』に記述があります。「青空文庫」さんで公開して下さっていますので、お読み下さい。

「西郷どん」最終話、NHK総合さんで、12月22日(土)、13:05~14:05に再放送があります。見逃した方、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

妾がマツスネエを唄へば妾のマツスネエですよ。伊十郎が勧進帳を唄へば伊十郎の勧進帳ぢやありませんか。

散文「ノンシヤランス」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

「ノンシヤランス」は仏語の「 nonchalance 」。「のんき」とか「投げやり」「無関心」といった意味です。女優と脚本家の会話、という設定で書かれたもので、ある意味、短編小説のような趣もあります。

引用部分は女優のセリフ。「妾」は「めかけ」ではなく「わたし」と読みます。「マツスネエ」はジュール・マスネ。「タイスの瞑想曲」などで有名なフランスの作曲家です。「伊十郎」は芳村伊十郎、長唄の名人でした。

要するに、扱う作品の芸術性も大事だが、演者の芸術性にもっと評価を与えるべき、という趣旨です。「何を」より「いかに」ということですね。造形芸術にも当てはまる問題です。

光太郎第二の故郷・岩田花巻郊外旧太田村にお住まいだった、生前の光太郎を知る高橋愛子さんが亡くなられました。

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今年の5月で86歳ということでしたので、その後誕生日を迎えられていれば87歳、そうでなければ86歳ということになります。

愛子さんのお宅は「田頭(たがしら)」という屋号の旧家。お爺さまの故・与左衛門氏は、隣家の故・駿河重次郎氏と共に、村のまとめ役的な存在で、光太郎の山小屋造りに協力を惜しまなかった一人でした。

お父様の故・雅郎氏は、光太郎が太田村に入った昭和20年(1945)にはシンガポールに出征中。翌年に復員し、その後、太田村長になりました。お母様の故・アサヨさんともども、何くれとなく光太郎の面倒を見てくださいました。

そして愛子さん。光太郎の山小屋に配給の物資を届けたり、光太郎を訪ねてくる客人を案内したり、やはり光太郎サポーターでした。

昭和24年(1949)、山小屋近くの山口小学校の学芸会に、サプライズで光太郎がサンタクロースに扮して登場、子供たちにお菓子を配ったり、一緒にステージで踊ったりしましたが、そのサンタの衣裳を作ってあげたのが、愛子さんとお母様。赤い襦袢をベースに、長い白ひげは、当時村で飼われていた羊の毛を使ったそうです。

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昭和24年(1949)に書かれた光太郎詩「山の少女」は、愛子さんがモデルとも言われている作品です。

    山の少女

  山の少女はりすのやうに
  夜明けといつしよにとび出して
  籠にいつばい栗をとる。
  どこか知らない林の奥で
  あけびをもぎつて甘露をすする。
  やまなしの実をがりがりかじる。
  山の少女は霧にかくれて
  金茸銀茸むらさきしめぢ、
  どうかすると馬喰茸(ばくらうだけ)まで見つけてくる。
  さういふ少女も秋十月は野良に出て
  紺のサルペに白手拭、
  手に研ぎたての鎌を持つて
  母(がが)ちやや兄(あんこ)にどなられながら
  稗を刈つたり粟を刈る。
   山の少女は山を恋ふ。
  きらりと光る鎌を引いて
  遠くにあをい早池峯山(はやちねさん)が
  ときどきそつと見たくなる。

光太郎歿後、昭和38年(1963)の第7回連翹忌にご出席くださり、昭和41年(1966)に山小屋近くに開館した旧高村記念館(現・森のギャラリー)の受付を永らく務められました。当方が初めてお会いしたのも、平成の初め頃、旧高村記念館ででした。

さらに、最近まで、光太郎の語り部としてご活躍。

地元テレビ岩手さんの「5きげんテレビ」、NHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」、ATV青森テレビさんの「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」 などにご出演、光太郎の思い出を語られた他、仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さんにはインタビュー記事が載り、地元の太田地区振興会さん編刊の『高村光太郎入村70年記念 思い出記録集 大地麗』に寄稿されたりもしています。

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花巻光太郎記念館さんでは、愛子さんのお話をまとめた「おもいで 愛子おばあちゃんの玉手箱」というリーフレットも発行。

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たびたび同地を訪れられている渡辺えりさん002とも親しくなさっていて、渡辺さんがお父様の渡辺正治氏が光太郎から贈られた詩集『道程再訂版』や書簡を記念館に寄贈された際のセレモニーにもご出席されています。写真中央に愛子さんが写っています。実を言いますと、当方、愛子さんのご逝去は、渡辺さんからの電話で知りました。

そして、今年の5月15日。毎年この日に、光太郎の暮らした山小屋敷地内で開催されている花巻高村祭で、当方がインタビュアーを務め、愛子さん他4名の生前の光太郎をご存じの皆さんにお話を伺う、トークセッションが開催されました。

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その際には、まだまだお元気だったのですが……。

もっとも、今頃、雲の上で光太郎と再会し、喜ばれているかも知れません。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

相変わらずの自炊生活は、単調だけれども興味は深い。些細な食物でも自分の頭の働いてゐるものと思ふと満足が出来る。

散文「三月七日(火曜日)」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

「自炊生活」といっても、戦後の太田村でのそれではなく、ごく短期間、ひとり暮らしをしていた明治末の話です。

戦後の太田村でも、愛子さんたち村人に支えられながら送った「自炊生活」の中で、同じようなことを考えていたのかもしれません。

昨日に引き続き、最近の新聞記事等から。

まずは12月4日(火)、『福島民友』さん。 

【郡山】柔らかな肌触り特徴 丸栄ふとん、ガーゼタオルを発売

 郡山市の丸栄ふとん店は11月30日、太002さの異なる綿糸を6重に重ねて織り上げたガーゼを使ったガーゼタオル「やまももぼし」を発売した。同店の片田尚子さん(61)は「地元の誇りをぎゅっと詰めたふとん店発のガーゼタオルで『ふくしまプライド。』をアピールしたい」と話す。
 創業100年の同店発ブランドとして一枚一枚丁寧に仕上げたガーゼタオルは柔らかな肌触りが特徴。洗濯すると生地の間に空気の層ができ、さらにふわふわになるという。ガーゼタオルには、安達太良山と磐梯山、吾妻山の稜線(りょうせん)と「ほんとの空」をイメージした星、モモをはじめとする県産果物の絵を施した。同市の今泉女子専門学校の学生のアイデアをデザインに取り入れた。
 同店では、6重ガーゼを使ったハンカチやフェイスタオル、おでかけケット、バスタオルを販売している。問い合わせは同店(電話024・922・2250)へ。

こんなところにも「ほんとの空」なのですね。

丸栄ふとんさんのサイトを調べてみました。「やまももぼし」、大きく紹介されています。

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続いて12月13日(木)、仙台に本社を置く『河北新報』さん。夕刊の一面コラムです。 

河北抄 12/13

 暖冬傾向かと思っていたら、冷え込みが急に厳しくなった。高村光太郎の詩にあるように今年も、きっぱりと冬が来た。仙台市街地から見える泉ケ岳の斜面に白い面積が増えているようだ。
 14日は泉区のスプリングバレー泉高原スキー場でスキー場開きが予定されており、愛好者にとっては少しでも早くゲレンデで滑りたくなる時季。歌人奥村晃作さん(82)が60代の頃に詠んだ代表歌に<一日中雪山に滑り疲れなしスキーは板に乗ってるだけで>がある。
 スキーは板の上に乗って滑るだけなのに、一日中楽しめる。ごく当たり前のことを簡単に言い切ってしまうことで、スキーに限らずスポーツ競技の奥深さが浮き彫りになる。奥村さんが持ち味とする「ただごと歌」の真骨頂である。
 フィギュアスケートのグランプリ(GP)ファイナルが9日にカナダで終わり、年内の主要大会は21~24日の全日本選手権を残すだけとなったが、主役不在の感は否めない。競技の奥深さを体現し続ける羽生結弦選手のけがからの復帰が待たれる。


そのとおり、きっぱりと冬が来ました。自宅兼事務所のある、比較的温暖な千葉県でも、朝は車のウィンドウが凍るなど冷え込みが厳しくなってきました。

光太郎第二の故郷、花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんは、もう雪に覆われているそうです

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この寒さがこたえたらしいとのことで、明日、詳しくご紹介しますが、お近くにお住まいだった、戦後すぐこの地に暮らしていた光太郎をご存じの高橋愛子さんが、昨日、亡くなったそうです。取り急ぎご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまふ。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ。ああ、厭だ。

散文「出さずにしまった手紙の一束」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

光太郎エッセイの中ではかなり有名なものの一つです。パリで本物の芸術の洗礼を受け、芸術後進国の日本とのあまりの差に戦慄し、そしてその頂点に自分の父親(高村光雲)が居る、という現実に苦悩する姿が語られています。同じ文章の少し後の方では、「僕は今に鈴虫の様な事をやるにきまつてゐる」と記しました。

先月末から今月にかけての、光太郎智恵子光雲にちらっと触れて下さっている新聞記事等、2回に分けてご紹介します。

まず11月28日(水)、『毎日新聞』さん北海道版。 

国際高校生選抜書展 札幌北高が3年連続V 道地区大会、67校から1280点 /北海道

 「書の甲子園」の愛称で知ら001れる第27回国際高校生選抜書展(毎日新聞社、毎日書道会主催)の審査結果が27日、発表された。北海道地区は67校から1280点の出品があり、団体部門は札幌北高が3年連続4回目の地区優勝に輝いた。個人部門は札幌北高3年、阿部穂乃加さんと旭川商高3年、小清水琢人さんの2人が大賞を受賞したのをはじめ優秀賞6人、秀作賞10人の計18人が入賞し、162人が入選を果たした。
(略)
◆大賞
◇「詩の力強さ表現」 札幌北高3年・阿部穂乃加さん
 高村光太郎の詩から「歩いても歩いても惜しげもない大地 ふとっぱらの大地」との一節を作品に仕上げた。濃墨をたっぷりと2 本の筆に含ませ、紙面からはみ出すほどの勢いで一気に書き上げ。 「線の強弱のバランスや空間の取り方が難しかった。詩の意味を考えて、力強さを表現しようと心がけた」と振り返る。出来栄えには、自分なりに手応えはあったが「大賞をいただけるとは予想していなかった」。 本格的に書道を始めたのは、高校で書道部に入部してから。選抜書展では1、2年時に連続で入選し、昨年夏には長野県松本市で開催された全国高校総合文化祭に道代表として作品が展示された。 大学入試が間近に迫っており、 受験勉強の日々が続く。将来、医療関係の仕事を目指しており、「進学後も書道は続けていきたい」と抱負を語った。


札幌北高校さんのサイト中の書道部さんのページに作品の写真が出ていました。同じ作品が今夏に松本市で開催された第42回全国高等学校総合文化祭(信州総文祭2018)でも出品されたようです。力強い作品ですね。

取り上げて下さった「歩いても歩いても惜しげもない大地 ふとっぱらの大地」は、大正5年(1916)の詩「歩いても」の一節です。


続いて11月26日(月)、『読売新聞』さんの投稿俳句欄。

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「智恵子像ゆるき着物に秋の風」。なるほど、いい句ですね。おそらく智恵子生家の縁側で、明治末に撮られたと推定される右の写真からのインスパイアのようです。


さらに12月1日(土)の『日本経済新聞』さん読書面。「リーダーの本棚」というコーナーで、お茶の水女子大学学長の室伏きみ子氏。昭和42年(1967)、童心社さんから刊行されたアンソロジー『<詩集>こころのうた』を、真っ先にご紹介下さっています。

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 小さい頃か002ら読書に親しんだ。
 父親が元文学青年で、仕事のかたわら詩も書く人でした。 家には本があふれていました。
 美しい絵は、本を読む楽しみの一つです。幼稚園児のころから好きだったのが、初山滋さんです。詩集『こころのうた』は、初山さんが装画を担当しました。高村光太郎、三好達治、立原道造、 八木重吉さんら、自分が大好きな詩人の詩が収められています。

同書には『智恵子抄』中の三篇、「人に」(大正元年=1912)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)、「案内」(昭和24年=1949)が掲載されています。


最後に『朝日新聞』さんの千葉版。12月5日(水)に掲載されました。

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光太郎の父・光雲と、高弟の米原雲海による信濃善光寺の仁王さまのおみ足です。なるほど面白い写真ですね。

ちなみに記事を読む前に、写真だけ見て「おっ、善光寺の仁王さまだ」とわかった自分を自分で褒めたくなりました(笑)。


この項、明日も続けます。


【折々のことば・光太郎】

今の公衆と芸術批評家との間に、何の差別を見出さんか。芸術と言ふものに対しては、全く同類の盲目なるは無残な事に候。BOURGEOIS+0+0=CRITIQUE+0+0に候。

散文「琅玕洞より」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

当時の新聞に載った美術批評の頓珍漢さを嘆き、一般人の芸術理解のレベルが低いことをも嘆く文章の一節です。「BOURGEOIS」はブルジョア、中産階級の市民、「CRITIQUE」は批評家、共に仏語です。それぞれ鑑賞眼ゼロだと、厳しく切り捨てています。

NHK Eテレさんの楊枝教育番組「にほんごであそぼ」。たびたび光太郎詩を取り上げて下さっていますが、「牛」(大正2年=1913)が使われました。12月4日(火)に最初の放映があり、来週18日(火)、再放送されます。 

にほんごであそぼ

NHK Eテレ 2018/12/18(火) 6時35分~6時45分/17時00分~17時10分

楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができる番組。今回は、牛はのろのろと歩く…「牛」高村光太郎、投稿ややこしや、絵あわせ百人一首、歌/銀河鉄道の夜。

出演 美輪明宏、野村萬斎、野村裕基、小錦八十吉、おおたか静流 ほか


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「牛」は長い詩ですので、抜粋で。子供たちが入れ替わり立ち替わり、ワンフレーズずつ朗読。

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締めは、美輪明宏さん。

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過日、やはり「牛」からのインスパイアを含む、和合亮一さんの新刊詩集『QQQ』をご紹介した際にも書きましたが、子供達にはポジティブな「牛」を味わってほしいものです。

そのためには、大人たちが「平凡な大地」を子供たちに残してやらなければなりません。「放射線まみれの危険な大地」でなく、「平凡な大地」を、です。


【折々のことば・光太郎】

潜心(アリエエル パンセエ)のない、ただの縮小や模型は、彼にとつて何の可笑味もない。

散文「量の有する滑稽性」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

「アリエエル パンセエ」は仏語の「arrière pensée」。「潜心」、つまり「心を落ち着けて一心に考えること」の意です。

元々の大きさ(量)に意味があるものを、無理矢理に縮小しても、滑稽にしかならないという論旨です。例として上げている一つがパリの凱旋門。今やパリ名所となっていますが、元々はローマ皇帝セプチミウス・セヴェルスがローマに建てさせた高さ21メートルのものを模し、ナポレオンが高さ15メートル足らずでイミテーションを作らせたもの。同様に、富士山を立体模型にしても雄大な感は得られない、と、まぁ、そのとおりですね。

同じような例、さらには場違いな建築装飾や、猿真似的な西洋の模倣が東京じゅうに溢れかえっている、という警句です。現代にも通じますね。

昨日は新橋演舞場さんに行っておりました。

光太郎智恵子とは直接関連がないのですが、当会会友・渡辺えりさんが主演(キムラ緑子さんとのダブル主演)を務められている「喜劇 有頂天団地」を拝見。

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渡辺さんからは新たな公演やコンサートのたびにご案内を頂くのですが、ずっと欠礼続きで申し訳なく思っていたところ、共演されている一色采子さんからもお手紙が届き、さらに渡辺さんの事務所からお電話も。お二方からの圧力に抗しきれず(笑)……。

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上の方はコピーのようですが、最終四行は自筆。「大山」は一色さんの本名。二本松でレモン忌など智恵子関連のイベントにいらっしゃる際は私人として、ということで「大山采子」さん名義でご出席されています。亡くなったお父様が、智恵子と同じ二本松のご出身で、文化勲章を受章された日本画家・大山忠作画伯。同郷のよしみで、智恵子をモチーフにした絵も複数遺されています。

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左は「智恵子に扮する有馬稲子」。昭和51年(1976)、やはり新橋演舞場さんで公演があった「有馬稲子 秋の名作公演」で、北条秀司作「智恵子抄」も演目に入っており、その際に楽屋でスケッチが為されたとのこと。

北条秀司作「智恵子抄」といえば、昭和32年(1957)、明治座での初演は光太郎とも交流のあった故・初代水谷八重子さんが智恵子を演じられましたが、後に同じ水谷さん主演で昭和46年(1971)に新橋演舞場さんで再演されていいます。

他にも新橋演舞場さんでは、平成12年(2000)に、津村節子さん原作の「智恵子飛ぶ」の公演も行われています。その際の智恵子は片岡京子さん(最近、永谷園さんのCMでよく見かけます)でした。

ちなみに片岡さんの「智恵子飛ぶ」は、平成13年(2001)には京都南座さんでも公演されました。今回の「喜劇 有頂天団地」も来年、南座さんで京都公演があります。

ところで、何が「有頂天」なのかというと、やはり渡辺さんとキムラさんによる「喜劇 有頂天旅館」(平成27年=2015)、「喜劇 有頂天一座」(平成30年=2018)などが既にあり、いわばシリーズです。このうち、「喜劇 有頂天一座」は、初代水谷八重子さんの「智恵子抄」を書いた北条秀司の「女剣劇朝霧一座」(昭和34年=1959)を下敷きにしています。

キムラさんといえば、平成27年(2015)までBS朝日さんで放映されていた5分間番組「いにしへ日和」のナレーションを務められていました。同番組では「#107 福島県・二本松市・智恵子の空」(2014)、「#122 岩手県・花巻市・高村光太郎と大沢温泉」の2回、光太郎智恵子に触れてくださいました。

さて、「喜劇 有頂天団地」。「団地」といっても箱形4階建て等の団地ではなく、建て売り分譲住宅等の建ち並ぶ団地。渡辺さんは新しく建て売り分譲された区画に入居した主婦の役です。一色さんはその隣人・キムラ緑子さんの義妹という設定でした。

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公式サイトから、あらすじを。

 昭和50年代の初め。
 郊外の住宅街の一角に、昨今の、いわゆるミニ開発と呼ばれる小規模の建売住宅建設が進んでいた。そのせまい敷地に突然、赤や緑や茶色の屋根の賑やかな家がしんこ細工の様に6棟、軒を接して建て込んできたので、近所ではかなり目立つ存在になっていた。
 新入居者達にとっては、幾多の艱難辛苦に耐えローンを組み、やっと手に入れた住宅である。そうであれば傍目にはどう映ろうともわが城。マントルピースあり、シャンデリアあり、大型カラーテレビも鎮座している。
 その一軒が隅田家。秀子夫人と娘の杏子、それに舅の大造が住んでいる。主人は外国航路の船員としてサンフランシスコに行っている…事になっている。
 この隅田家の裏隣りが徳永家。同価格の同規格なのでまるで双子のように隅田家と似ている。徳永家はくに子夫人。主人の伸一郎と姑の富江と同居している。伸一郎は帝国ホテルに勤めている…事になっている。
 ある日、隅田家で6棟の新入居者と長年この土地で暮らしている高見沢勝子達との寄り合いが行われた。議題は「風紀粛正」、と言っても下着の干し方、ゴミの出し方、と言った話題であった。
 更に、この住宅の裏にもう2軒住宅が建つことになり、隣人たちは色々な思惑に苛まれて行く…。

途中、休憩をはさみ3時間あまり(上演のみで約2時間半)。長丁場の内容でしたが、芸達者な皆さんの熱演で、終わってみればけっこうあっという間の感がありました。

終演後、花を持って楽屋にお邪魔しまして、渡辺さん、一色さんとお話をさせていただきました。引き出物的にいただいてきたものがこちら。

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渡辺さんからは、渡辺さんの故郷・山形のお米。

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一色さんからはかわいらしい名入りの手ぬぐい。

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それぞれのキャラクターがよく表れています(笑)。

新橋演舞場さんでの公演は12月22日(土)まで、来年1/12(土)~27(日)には、先述の通り京都南座さんで京都公演です。ぜひ足をお運びください。

ところで、渡辺さんのブログの最新記事では、今月10日(月)に新国立劇場さんであった、「演劇のおしごと Vol.2 ~「劇作家」とは?」というトークイベントのレポートが。お父様の渡辺正治氏と光太郎の交流のお話もなさって下さったとのこと。一色さんは昨年、二本松の智恵子生家で「智恵子・レモン忌 あいのうた」と銘打ち、「智恵子抄」の朗読をなさってくださいました。

お二人には光太郎智恵子の伝導というお仕事も続けていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

「ああ、僕はやつぱり日本人だ。JAPONAISだ。MONGOLだ。LE JAUNEだ。」と頭の中で弾機(ばね)の外れた様な声がした。

散文「珈琲店より」より 明治43年(1908) 光太郎26歳

パリジェンヌの女性と一夜を過ごし、二日酔いの眼で見た洗面所の鏡に映る自らの姿を見た時の回想です。

3年以上の月日を過ごしても、結局、真に「西洋」を理解することは不可能と、この時に悟った光太郎、帰国を決意します。しかし、帰った日本の美術界は、守旧と情実と忖度の横行する旧態依然。孤独な闘いが始まります。

ちなみに渡辺えりさんのお父様は、昭和61年(1986)、パリの光太郎も通ったカフェ、クローズ・デ・リラで開催された第30回連翹忌にもご参加下さいました。

過日、原画展の開催をご紹介した、郡山ご在住のノグチクミコさん著『ほんとうの空の下で』。刊行は昨年でしたが、寡聞にして存じませんで、早速取り寄せさせていただきました。

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副題的に英語が添えられています「The tale of the old man & his dog」、「あるおじいさんと彼の犬の物語」といったところでしょうか。

帯的な紙片がついており、曰く

「人に尽くさなきゃ、なんとなく 生きてる価値ないみたいだもんね。」
戦後まもなく自宅で幻灯会を開き子供たちを楽しませてきた川本さん 移住先の浪江町で被災、避難所生活の中でも最後まで幻灯会を開いていました 人に尽くし、生きるその人生とは――。

福島県浪江町の山里で暮らしていた、おじいさんと年老いた犬のお話

ということです。

巻末には、ノグチさんによる解説文が付いており、それによれば、震災前、愛犬「シマ」と共に福島浪江町にお住まいだった、故・川本年邦さんという方の実話を元にしたものです。

本編約50ページには「言葉」は無く(絵の中に文字が描かれているカットはありますが)、静かに静かに物語が進んでいきます。

川本さんが浪江に移り住んだのは1990年代くらい。東京で暮らしていた若い頃、『路傍の石』の山本有三が近所に住んでいて、山本から古い幻灯機をもらったそうです。ちなみに山本の名は、『高村光太郎全集』には出てきませんが、山本が編集したアンソロジーに光太郎の詩が載っていたり、戦時中には同じ日本文学報国会で、山本は理事、光太郎は詩部会会長だったりで、交流があったと思われます。

川本さんは幻灯機のフィルムを自分でコツコツ集め、戦後の娯楽に飢えた子供達対象に無料幻灯会を開いていました。そして浪江に移ってからも、地元の幼稚園や小学校などでその活動を継続されていたそうです。生計はシマと共に林業や農業で立てていました。伐採した木を運ぶのを手伝うシマの姿が印象的でした。

再び「ちなみに」ですが、幻灯機といえば、光太郎は戦後の花巻郊外太田村での蟄居生活の中で、山小屋(ノグチさんも行かれたことがあるそうです)近くの山口分教場(後に小学校に昇格)に多大な援助をしていましたが、幻灯機も寄贈しています。そして村人対象に、法隆寺などのフィルムを見せ、自ら解説する講座を開いたりもしました。

そして、2011.3.11……。メルトダウンを起こした福島第一原発に近い浪江町は全町民に避難指示。川本さんはシマを置いて、智恵子の故郷・二本松に避難します。

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川本さんは、避難所などでも幻灯会を開催。その背景には、信条としていた宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の精神があったということです。

やがて、シマを引き取ることができたのも束の間、川本さんが体調を崩し、郡山のシニアホームに入居することに。ここには犬は連れて行けません。新しい飼い主の元に貰われていったシマは、すでに15歳、ほどなく亡くなりました。

三たび「ちなみに」ですが、わが家の愛犬も、来月15歳になります。

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閑話休題。

その川本さんも、一昨年、シマの後を追うように他界。震災の翌年から、川本さんを描こうと考えていらしたノグチさん、川本さんの死に心が折れそうになりつつも、絵本を完成させました。

最後のシーンでは、川本さんとシマの魂が、共に過ごした浪江の山里に還って行きます。

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たんぽぽの綿毛が飛ぶ空は、川本さんとシマにとっての「ほんとうの空」……。

涙腺崩壊必至ですが、是非お買い求め下さい。また、伊達市での原画展、15日(土)までです。こちらもお近くの方、ぜひどうぞ。


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【折々のことば・光太郎】

○なほノエルと言ふ年の市見たいなものもあります。○私は大変、さうした騒ぎの場所がすきでしてね。暇さへあれば行つて見ました。そしてパリジアンが底抜け騒ぎする所に真の「生(ラ・ヴイ)」が動いて居ることを感じました。
談話筆記「パリの祭」より 明治42年(1909) 光太郎27歳

3年半にわたる欧米留学からの帰朝後間もなくのインタビュー記事から。後に文展(文部省美術展覧会)の評などで多用する「生(ラ・ヴイ)」の語の、最も早い使用例の一つでしょう。

光太郎は、時につまづき、大コケしながらもそのたび立ち上がり、鮮烈な「生(ラ・ヴイ)」を全うしましたが、川本さんのような「生(ラ・ヴイ)」もあるのだな、と、『ほんとうの空の下で』を読みつつ、思いました。

過日もちらっとご紹介しましたが、テレビ東京さんの美術系長寿番組「美の巨人たち」で、光太郎の父・光雲が主任として制作に当たった上野の西郷隆盛像が扱われます。  
BSテレ東  2018年12月29日(土) 18:00~18:30

太く濃い眉、しっかり見つめる目、一文字の口もと…西郷の死から21年後に建てられた高村光雲作『西郷隆盛像』は“これぞ西郷”というイメージを作り上げました。ところが完成当時、西郷の妻は「主人はこんな人じゃない」と批判。それでも光雲は、このような批判が起こるのを覚悟で、あえて西郷をこの姿で残したと言います。一体この銅像の何に問題があったのでしょうか?日本一有名な銅像の堂々たる姿に潜む意外な真相に迫ります。

ナレーター 小林薫/神田沙也加

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ちなみにNHKさんの大河ドラマ「西郷どん」は、翌16日(日)が最終回です。

1月の第1話「「薩摩のやっせんぼ」は、上野の西郷像除幕のシーンからでした。

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そこで西郷三番目の妻・糸が叫びます。

最終話でも西郷像に関して、できれば光雲も登場させてほしいものですし、この辺りのエピソードについて、「美の巨人たち」で紹介されるようです。話の出所等も紹介していただけるとありがたいのですが……。

それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

英国の芸術の中で、一番英国人の気質の美点を表して居るのは建築だ。彫刻はペケ。絵画は一般に英国人の執拗な点をよく示して居る。コンスタブルでも、タアナアでも、近くはヰスラーでも少し面白い画家は皆英国離れがして居る。可笑しな現象だ。其の癖此等の人を通じて底に流れて居る一脈の水は、争はれない「アングロサクソン」の色である。

散文「画室日記の中より」より 明治41年(1908) 光太郎26歳

ニューヨークに続いて移り住んだロンドンでの感想です。かなり的確に当時の英国美術を観察しています。一面では保守的な部分も持っていた光太郎、ニューヨークでは感じなかった重厚な歴史の厚みを感じ、また、それを好意的に捉えてもいます。

光太郎第二の故郷とも言うべき、岩手花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)脇に立つ、高村光太郎記念館さんからイベント情報です。  

高村光太郎記念館 クリスマススペシャルコンサート

期   日 : 2018年12月16日(日)
会   場 : 高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時   間 : 14:00~
料   金 : 記念館入館料 大人350円 高等学校生徒および学生250円 小中学生150円

今回は光太郎ストリングスに加え、スペシャルメンバーとして花巻の金星少年少女オーケストラのメンバーと地元の方による朗読でコンサートを盛り上げます。

 演  奏 光太郎ストリングス
 朗  読 高村光太郎「ブランデンブルグ」他  
 演奏曲 ヴィヴァルディ「二つのバイオリンの為のコンチェルト」
     コルレリ「クリスマスコンチェルト」 他

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「光太郎ストリングス」は、今年7月にやはり高村光太郎記念館さんで開催された「弦楽四重奏スペシャルコンサート」が初舞台でした。岩手大学管弦楽団の卒業生の皆さんだそうです。

金星少年少女オーケストラのメンバーも客演されるとのこと。同オケは宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシユ」に登場する「金星音楽団」から名付けられています。さらに地元の方による朗読も入るそうです。

ちなみに同館では、先週末から「平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~ 光太郎の食卓」が始まりました。展示風景の画像等、送られてきましたのでご紹介します。

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光太郎の001遺品である、山荘内部に遺されていた買い物かご、フライパン、おろし金、まな板の調理用具、小岩井牧場バター、日東紅茶缶、加糖インスタントコーヒー缶。

それから常設展示ゾーンから、肥後守(折りたたみナイフ)を移動。これは昭和25年(1950)1月1日発行の『アサヒカメラ』第35巻第1号に載った、濱谷浩が撮影した光太郎の手の写真に写っているものです。削っているのは鰹節です。

想像でしかありませんが、濱谷は彫刻刀を持って木を削る写真を撮りたかったところ、光太郎は戦時中の戦争協力を恥じて、「自己流謫」(自分で自分を流罪に処すること)と称した蟄居中。天職と考えていた彫刻も、自らへの最大の罰として封印していました。そこで、彫刻刀ならぬ肥後守、木材ならぬ鰹節を削っている写真を撮らせたのではないかと思われます。そう考えると、ある意味、壮絶な写真です。

こちらの写真もパネル展示されているようです。その他、パネル展示で光太郎の食生活の様子や、数々の「食」をモチーフにした詩を紹介しているとのこと。

また、前回企画展示「光太郎と花巻電鉄」のために、品川在住の石井彰英氏が制作された昭和20年代花巻町とその郊外のジオラマも、引き続き展示中です。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

自然の大きな、ゆつたりとした姿を眺めると、何事も皆面白くなる。全く所謂煩悩といふものが清められる。頭の中を綺麗なもので洗ふ様な心持ちがする。
散文「雲と波」より 明治40年(1907) 光太郎25歳

今朝は自宅兼事務所のある千葉県北東部で、おそらく初霜が下りました。愛犬と散歩しつつ、いよいよ光太郎が愛した本格的な冬だな、と思いました。ぴいんと張り詰めた冷気の中、当方も多少は煩悩が浄められるような気がしました。

智恵子の故郷、福島二本松でその顕彰活動に取り組む智恵子のまち夢くらぶさんの主催による「高村智恵子没後80年記念事業」。これまでに「智恵子検定 チャレンジ! 智恵子についての50問」、「全国『智恵子抄』朗読大会」などが行われましたが、その最後のイベントです。  

高村智恵子没後80年記念事業 智恵子カフェ

期 日 : 2018年12月16日(日)
会 場 : 二本松市市民交流センター 福島県二本松市本町二丁目3番地1
時 間 : 午後1:00~
料 金 : 一般 1,000円  中高生600円
申 込 : 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷 0243-23-6743

内 容 : 
 第一部 紙芝居 「夢を描いた人 ~高村智恵子の生涯」
  読み聞かせ 坂本富江さん(太平洋美術会・高村光太郎研究会)
 第二部 智恵子カフェ
  智恵子スイーツパーティー 智恵子抄しゃべり場

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第一部が紙芝居だそうです。制作、そして演じられるのは坂本富江さん。明治末、智恵子が学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会に所属され、これまでも智恵子の生涯を描いた紙芝居を二本松で上演なさっている他、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』というご著書もあり、今年は智恵子生家での個展も開かれました。

第二部は智恵子カフェということで、市内外のメーカーさんが作った智恵子の名を冠したスイーツを食べつつ、智恵子についての思いを語り合うそうです。

「ほんとの空」の下、安達太良山も雪化粧に被われているようです。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

小生当市美術学校へ入りてより毎日先生と喧嘩腰にて勉強致し居り、面白き事かぎり無く候。小生は俗悪なる一種の亜米利加趣味を嫌ふこと甚だしく候。

散文「紐育より 五」より 明治39年(1906) 光太郎24歳

「美術学校」はアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク。現存します。入学前に約3ヶ月、助手として雇ってくれたガットソン・ボーグラムが教鞭を執っていました。他の生徒から人種差別的な嫌がらせに遭い、怪しげな柔道技でやっつけたというエピソードも残っています。生徒だけでなく、先生とも丁々発止だったのですね。

智恵子の故郷、福島でのイベントです。状況をわかりやすくするため、『毎日新聞』さんの福島版の記事から。 

<絵本原画展>幻灯上映、生きざま描き 浪江の男性主人公、愛犬と自給自足 イラストレーターが伊達で /福島

 郡山市のイラストレーター、ノグチクミコさん(55)が昨年10月に自費出版した絵本「ほんとうの空の下で」の原画展が、伊達市霊山町で開かれている。絵本の主人公は、浪江町で愛犬とともに自給自足の生活をし、2016年に86歳で亡くなった川本年邦さん。東京電力福島第1原発事故後も「電気紙芝居」と呼ばれる幻灯を避難先で上映し、子どもたちを喜ばせた。「人のために尽くし続けた川本さんの生きざまを感じてほしい」とノグチさんは話す。【寺町六花】
 東京から浪江町南津島の山里に移り住んだ川本さんは、まき割りや畑仕事をしながら、愛犬「シマ」と暮らしていた。生きがいは子どもたちのために幻灯を上映すること。だが原発事故後、川本さんの地区は帰還困難区域になり、避難生活を余儀なくされた。絵本に言葉は登場しない。2色の鉛筆による柔らかなタッチで、幻灯を1コマずつ映し出すように、川本さんとシマの生活を静かに描いていく。
 ノグチさんが川本さんを知ったのは、12年2月にテレビで放送されたドキュメンタリー番組だった。戦後まもなく、東京で子どもたちのために幻灯会を始め、原発事故後も上映を続ける姿に心を打たれた。「川本さんのことを絵本に描きたい」。芸術大学でデザインを学んだノグチさんは、録画した番組を100回以上見直しながら、毎日4〜5時間、スケッチを描き始めた。
 だが川本さんが住んでいると聞いた二本松市の仮設住宅に手紙を送っても、返事はなかった。浪江町の知り合いを通じて会おうとしたが、川本さんは仮設住宅の生活のストレスや、進行する難聴によって心を閉ざし、会うことはできなかった。「完成できない作品なのか」。絵本への気持ちはしぼみかけた。
 それでも、2年あまりが過ぎたとき、描きたい思いがふつふつと湧いた。浪江町の役場に問い合わせると、川本さんが郡山市の介護付き老人ホームに住んでいることがわかった。「どうしても描きたいんです」。手紙と一緒に描きためたスケッチを送ると、返事が来た。避難先を転々としたつらい記憶が、便箋8枚につづられていた。
 16年2月、ようやく対面した川本さんは肺気腫を患い、番組の放送時よりもやせ衰えていた。「番組で放送された後のことも描いてほしい」。川本さんは老人ホームに入居するためにシマと離れ離れになり、シマは里親のもとで15年10月に死んでいた。川本さんの暮らした仮設住宅や、シマの墓の写真などを集め、想像しながら筆を走らせた。「何かに描かされているようだった」。だが絵本が完成する前の16年4月、川本さんは旅立った。
 最後まで悩んだ絵本の題名は、高村光太郎の詩集「智恵子抄」から考えた。「東京には空が無い」と古里・福島の空を恋しがる妻智恵子のことをうたった一編の詩「川本さんにとっての本当の空は、『桃源郷』と言っていた、浪江の空なのかな」。老人ホームの部屋の窓からは、ほんの少ししか見えなかった空。「最後はシマと一緒に、浪江の広い空に戻ってほしかった」。物語の最後、川本さんがシマとともに、綿毛のように空に上っていく姿を描いた。
 原画展は「霊山こどもの村・遊びと学びのミュージアム」で15日まで。川本さんの幻灯会の様子をノグチさんが撮影した映像も上映されている。午前9時〜午後4時。水曜休館。高校生以上400円、3歳〜中学生は200円。絵本は1800円。同ミュージアムと郡山市のブックカフェ「Go Go Round This World!」の他、ノグチさん(電子メールusagiya@h7.dion.ne.jp)からも直接購入できる。


というわけで、絵本『ほんとうの空の下で』原画展です。10月から始まっていました。 

ノグチクミコ絵本原画展「ほんとうの空の下で」

期    日 : 2018年10月6日(土)〜12月15日(土)
会    場 : 遊びと学びのミュージアム 福島県伊達市霊山町石田字宝司沢9-1
時    間 : 9:00 ~ 16:00
料    金 : 無料

「ほんとうの空の下で」は、震災後に絵本作家のノグチクミコさんが、あるドキュメント番組を見て、おじいさんの生きざまに胸を打たれ、「一人でも多くの人に、おじいさんのその姿を伝えたい」と描いてうまれた絵本です。幻灯のように、1コマ1コマおじいさんと愛犬シマの日々が丁寧に描かれています。絵本と合わせて原画作品との時間をごうぞゆっくりお楽しみください。

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3月には埼玉浦和でも開催されていたとのこと。絵本についてはこちら


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ほっこりする絵柄ですね。しかし、涙無しでは読めなさそうです……。


ところで『智恵子抄』所収の光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)では、「う」が入らない「ほんとの空」で、こちらは「う」が入って「ほんとうの空」。「ほんとの空」の語では毎日キーワード検索をかけているのですが、「う」入りの方は調べておりませんで、気づくのが遅れました。意外と「ほんとうの空」として使われているケースも確かに多いので、今後、気をつけます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


ところで、「ほんとの空」の広がる安達太良山関連、今日の『朝日新聞』さんの土曜版に、登山家の故・田部井淳子さんがらみで大きく取り上げられています。光太郎智恵子には触れられていませんが。

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購読されていない方、コンビニ等で購入可能ですし、公共図書館等で閲覧という手もありますのでよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

亜米利加美術も今日は稍動揺の形ありて、新しき画家、彫刻家の懸命の努力は、中々めざましき事に御座候。しかし今日の小生の頭脳に烈しき影響を与へたるは、埃及彫刻に越すもの無之候。芸術の命は誠実にありと、当然の事を今更に教へられ候。

散文「紐育より 三」より 明治39年(1906) 光太郎24歳

20世紀初頭といえば、ポップなアメリカンアートのはしりがもう出ていた時代ですが、光太郎、そういったものよりも、ボストン美術館等で見たエジプト彫刻に心牽かれています。プリミティブなものに対する憧憬はこの頃からあったわけで、この後、ニューヨークで知り合う荻原守衛と、その点では意見が一致します。

昨日、来春封切りの映画「この道」と、そのノベライズ『この道』をご紹介しましたが、関連書籍をもう一冊。 

ここ過ぎて 白秋と三人の妻

2018/11/11 瀬戸内寂聴著 小学館(小学館文庫) 定価980円+税

北原白秋をめぐる三人の妻を描いた長編小説
国民的詩人・北原白秋が没して四年後の一九四六年暮れ、大分県香々地の座敷牢で一人の女性がひっそりと息を引き取った。歌人であり詩人であったその才女の名は江口章子。白秋の二番目の妻でもあった。詩集『邪宗門』をはじめ、数多くの詩歌を残し、膨大な数の童謡や校歌などの作詞も手掛ける一方で、姦通罪による逮捕など様々なスキャンダルにまみれた稀代の天才の陰には、俊子、章子、菊子という三人の妻の存在があった。丹念な取材を元に瀬戸内寂聴が一九八四年に発表した渾身の長編小説に著者の書き下ろし「あとがき」を収録。白秋の生涯を描いた2019年1月11日公開の映画『この道』の原点。

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元版は昭和59年(1984)に、新潮社さんからハードカバーで刊行されました。その後、昭和62年(1987)、上下二分冊で新潮文庫のラインナップにも入りましたが、絶版。それが小学館さんから復刊されたわけです。

最初に、一般書店の店頭で平積みになっているのを見たとき、「便乗商法か? 小学館さんもあざといな」と思いましたが、さにあらず。昨日ご紹介した書籍「この道」を読むと、映画「この道」はこの小説が原作というわけではないものの、ここからのインスパイアであるとの、映画のプロデューサー氏の発言がありました。そこで、書籍『この道』特別付録の座談会や鼎談に寂聴さんがご出席されているわけです。

ただ、「ここ過ぎて」は、副題の「白秋と三人の妻」の通り、白秋と妻たちとの関わり、それぞれの妻の生い立ちやその後を描くことに力点が置かれており、童謡の件や山田耕筰との関わりなどは割愛されています。光太郎は白秋との関わりで、ところどころにその名が出て来ます。

白秋やその妻たちについては、当方、概略は頭に入っていましたが、ここまで細かく書いた書籍を読んだことがなかったので、「なるほど、そういうことだったのか」という点が非常に多く、興味深く拝読。そして、勝手な感想ですが、白秋二番目の妻の章子と、智恵子がオーバーラップするように感じました。ともに『青鞜』に関わったのは偶然としても、地方の素封家の娘としての生い立ち、ある種の破天荒・天衣無縫さ、結婚当初は夫と良好な関係で、実に平穏な、しかし貧しい生活を送ったこと、そこそこ才能(章子は文学、智恵子は美術)がありながら「偉大な」夫の前ではそれが霞んでしまったこと、そのことが精神のバランスを失う一つのきっかけとなったこと、などなど。ただ、智恵子はまがりなりにも光太郎に看取られて逝きましたが、章子の晩年はみじめなものでした。その点は、智恵子というより、ロダンの愛人だったカミーユ・クローデルを彷彿とさせられました。

この手の寂聴さんの「小説」は、『青鞜』や『田村俊子』などもそうですが、「小説」というより評伝と取材のルポルタージュが混ざった形式のような感じで、読み慣れない人には読みづらいかも知れません。ただし、なかなかの読み応えです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自ら信ずる者は出版するに何の躊躇をか要し候べき。自ら不可とする者が「オツキアヒ」の為め出版する必要も亦無かる可く候。

散文「紐育より 二」より 明治39年(1906) 光太郎24歳

『明星』誌上に、光太郎の歌集出版の計画が、本人のあずかり知らぬところで書かれていたことに対する苦言です。それまでに『明星』に掲載された光太郎の短歌は、与謝野寛の添削が激しく入っており、自分のものとは言えないという感覚でした。

光太郎と交流があった北原白秋を主人公とする来春公開の映画「この道」のノベライズです。光太郎も登場します。ちょい役ですが(笑)。 

この道

2018/12/03 大石直紀著 小学館 定価1700円+税

童謡誕生100年に制作された映画『この道』の脚本から生まれたオリジナル小説。稀代の詩人・北原白秋と天才音楽家・山田耕筰の交流を通して人間味溢れる表現者たちの人生を描く。さらに映画の原点となった長編小説『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』の著者である瀬戸内寂聴と北原白秋を演じた大森南朋、山田耕筰を演じたAKIRA、瀬戸内寂聴の秘書・瀬尾まなほによる『この道』スペシャル座談会、瀬戸内寂聴と主題歌を歌うEXILE ATSUSHIとAKIRAのスペシャル鼎談も収録。EXILE ATSUSHIが歌う主題歌「この道」CD付き。001

目次
プロローグ
第一章 三人の妻
 俊子(としこ) / 章子(あやこ) / 菊子(きくこ)
第二章 童謡の創作
 山田耕筰との出会い / 軍靴(ぐんか)の足音
エピローグ
「この道」スペシャル座談会
  瀬戸内寂聴 大森南朋 AKIRA 
瀬尾まなほ
「この道」スペシャル鼎談
  瀬戸内寂聴
ATSUSHI AKIRA


映画は未公開ですが、おそらくほぼ小説版の内容どおりだろうと思われます。この際ですから映画版もご紹介します。

この道

公 開 : 2019年1月11日(金) 全国ロードショー
上 映 : TOHOシネマズ日比谷ほか
出 演 : 大森南朋(北原白秋)  EXILE AKIRA(山田耕筰)  貫地谷しほり(北原菊子) 
      松本若菜(北原俊子)
 柳沢慎吾(鈴木三重吉) 羽田美智子(与謝野晶子)
      松重豊(与謝野寛) ほか
監 督 : 佐々部清
脚 本 : 坂口理子
音 楽 : 和田薫
配 給 : HIGH BROW CINEMA

 自由奔放な天才詩人・北原白秋と、西洋音楽を日本に導入した秀才音楽家・山田耕筰。この二人の友情から日本の「歌」が生まれた。もし彼らが居なかったら、日本の音楽シーンは全く違っていたかもしれない。童謡誕生100年の今年、白秋の波乱に満ちた半生を、耕筰との友情とともに、笑いと涙で描き出す映画『この道』。今、日本歌謡誕生の瞬間に立ち会うことができる。
 日本の子供たちの心を表す新しい童話や童謡を作りだそうと、文学者・鈴木三重吉は「赤い鳥」を1918年に創刊した。童謡もこの児童文芸誌の誕生とともに生まれたことになる。白秋と耕筰もここを舞台に名曲「からたちの花」や「この道」などを発表した。それまで、日本の子どもたちの歌は、各地に伝承されてきた「わらべ歌」か、ドイツから入ったメロディーに日本語の歌詞を乗せた「ドイツ童謡」しかなかった。日本人による日本人のための新しい歌が、白秋・耕筰コンビらによって生まれたのだ。
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監督が佐々部清氏と知り、驚きました。平成28年(2016)、光002太郎の『智恵子抄』もモチーフとして使われた「八重子のハミング」監督だったからです。ちなみに「八重子のハミング」で主演されていた升毅さんも、軍人の役でご出演されます。

先述の通り、光太郎はちょい役ですが、明治44年(1911)に開催された白秋詩集『思ひ出』出版記念会のシーンで登場します。そちら、史実では神田の都亭というレストランだったのですが、小説、映画では箱根の富士屋ホテルとなっていました。演じる役者さんは伊㟢充則さんという方だそうです。

与謝野夫妻が重要な登場人物で、寛を松重豊さん、晶子を羽田美智子さんが演じられます。羽田さん、平成27年(2015)、NHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」に出演され、その際には、いずれぜひ智恵子の役を演じてみたいとおっしゃっていましたが、姉貴分の晶子役です。美人すぎる晶子のような気がしますが(笑)。

それから、童謡歌手という設定で、安田祥子さん、由紀さおりさん姉妹もご出演。なかなか豪華なキャストです。

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小説版では終盤、戦争の激化と共に、白秋、晶子、そして山田耕筰が翼賛詩歌を作らざるを得なくなるという話になります。この辺り、光太郎の歩みと関連し、興味深く拝読しました。それぞれの人物が戦争協力に際し、仕方がなかったのだ、という描き方でした。

その点、光太郎は、荒廃した人心を救いたいという意図はあったものの、智恵子を亡くした心の空白を埋めるかのような積極的な戦争協力で、戦後は多くの若者を鼓舞して戦地に送ったことを恥じ、「自己流謫」――自分で自分を流罪に処する――に入ります。

そういえば明後日、12月8日(土)は太平洋戦争開戦の日ですね。毎年の事ですが、自称「愛国者」「憂国の士」が、ネット上で光太郎自身が戦後に全否定した翼賛詩を紹介してありがたがる憂鬱な日です。

小説版の特別付録、「スペシャル座談会」で、瀬戸内寂聴さんが発言なさっています。

それ(白秋や山田耕筰のような人であっても戦争に翻弄されてしまう)が戦争なの。それがあの時代なの。戦争はすべてのものを奪っていくのです。今、日本はいつまた戦争になるかわからない状態です。映画でも戦争前夜を描いていますが、それと似た嫌な空気になっている。戦争は絶対あっちゃいけません。私は明日死ぬ命ですが、若い人たちには未来がある。それなのに戦争になったら、真っ先に戦場に連れて行かれるのは若い人たちなのです。映画を作った人が、そこまで考えていたかわかりませんが、これは「反戦」の映画でもあるのです。だから、若い人にこそ観てほしい。

その通りですね。

明日も「この道」関連で。


【折々のことば・光太郎】

日本を出でしは二月の霙ふる頃なりしを、今は早や青葉に樹々は埋もれ候。此間に為したる事、感じたる事、考へたる事、小生にとりてはまことに尠からず、此頃やうやく静かに眼をあげて世の有様を見るを得る様になり申し候。殆ど此れ迄に経験なき感情の中に幾月かを費やし候。

散文「紐育より 一」より 明治39年(1906) 光太郎24歳

与謝野夫妻の『明星』に掲載された、おそらく寛宛の書簡そのままの一節です。初めて海外に出、見るもの聞くものすべて新しい経験に、戸惑いつつも希望に胸ふくらませる若き光太郎の姿が見て取れます。

昨日、入沢康夫さんの訃報をご紹介しました。そちらは先週、報じられたものでしたが、今朝、新聞を開くと、作曲家の大中恩さんの訃報が。2日連続でこうした内容となるのは胸が詰まる思いです(一昨年にも登山家の田部井淳子さんと俳優の平幹二朗さんのそれを2日連続でご紹介した事がありますが)……。 

大中恩さん死去

 大中恩さん(おおな001か・めぐみ=作曲家)3日、菌血症で死去、94歳。葬儀は8日正午から東京都港区赤坂1の14の3の「日本キリスト教団 霊南坂教会」で。喪主は妻清子(せいこ)さん。
 「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」などの童謡のほか、1300曲に及ぶ合唱作品で知られる。24年、作曲家・オルガン奏者の大中寅二を父として東京で生まれた。東京音楽学校(現・東京芸術大)で信時潔(のぶとき・きよし)に師事して作曲を学び、歌曲や合唱曲を中心に創作を続けた。55年、作曲家の中田喜直らと「ろばの会」を結成。テレビやラジオを通じて童謡を家庭に届けるなど、子どものための音楽創作に尽くした。
 82年に日本童謡賞を受賞。89年に紫綬褒章。=一部地域既報
(『朝日新聞』 2018年12月5日)

当方の知る限り、大中氏、光太郎の詩に曲をつけた合唱曲を2曲、公になさっています。昭和35年(1960)の雑誌『音楽の友』の別冊付録に掲載された女声合唱曲「五月のうた」と、昭和37年(1962)にカワイ楽譜さんから出版された『大中恩男声合唱曲集』に収録された「わが大空」。こちらには他に北原白秋作詞の曲も収められています。

「五月のうた」の譜面は未見ですが、「わが大空」が収められた『大中恩男声合唱曲集』は平成16年(2004)に有限会社キックオフさんから再刊され、持っています。

  わが大空002

 こころかろやかに みづみづしく
 あかつきの小鳥のやうに
 胸はばたき
 身うちあたらしく力満つる時
 かの大空をみれば
 限りなく深きもの高きもの我を待つ
 ああ大空 わが大空

 こころなやましく いらだたしく
 逃げまどふ狐のやうに
 胸さわだち
 身の置くところも無きおもひの時
 かの大空をみれば
 美しくひろきものつよきもの我を待つ
 ああ大空 わが大空


この詩に最初に曲がつけられたのは、昭和14年(1939)。坂本龍一氏の師に当たる松本民之助によってでした。そちらはかなりとんがった作曲ですが、大中氏のそれは、奇をてらわぬ穏健なもの。さりとて単純ではありませんが。

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当方、趣味で音楽活動もやっており、そちらの先生が、大中氏の弟子筋に当たられる方です。そこで、大中氏の曲もよく取り上げており(つい3日前も歌いました)、その関係で、平成22年(2010)に一度、氏にお会いする機会がありました。大中氏作のミュージカル「さよならかぐや姫」(初演・昭和40年=1965)が演奏されたコンサートで、当方の先生が指揮、当方は出演ではなく聴きに行っただけでしたが、大中氏もいらっしゃるというので、『大中恩男声合唱曲集』の楽譜を持っていき、どさくさに紛れてサインしていただきました。

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大中氏、こころよくサインして下さいましたが、あれから9年近く経つかという感じです。

ちなみに大中氏、昭和18年(1943)には学徒出陣で国立競技場を歩かれました。そういう意味では歴史の生き証人ですね。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

あかるい精神力と合理的な療養法とさへあれば、こんな奇蹟に似た事が、実は奇蹟でなくて誰にでも起り得るに違ひないと考へられて無限の光明を感じます。
散文「竹内てるよ著「いのち新し」序」より
 昭和27年(1952) 光太郎70歳

竹内てるよは明治37年(1904)生まれの詩人。光太郎はたびたび竹内の著書に序を寄せたり、題字揮毫をしたりしています。若い頃に結核性の脊椎カリエスにかかって重篤となり、昭和4年(1929)には、草野心平が中心となって「竹内てるよを死なせたくない会」が結成され、光太郎も力を貸しました。

かつての結核は不治の病に近く、死亡原因のトップでしたが、抗生物質の普及等により、その脅威は薄らぎました。竹内も平成13年(2001)、満96歳まで永らえました。

昭和初めに「もう危ない」と思われていた竹内が恢復し、戦後には光太郎の暮らしていた花巻郊外旧太田村までやって来、自身も永らく結核に冒されていた光太郎は驚きます。同時に、その本復の姿が、畢生の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し始める光太郎にとって、光明になったのではないでしょうか。

先週、H氏賞詩人で宮沢賢治の研究家としても知られる入沢康夫さんの訃報が出ています。 

入沢康夫さん死去 詩人・宮沢賢治研究

 実験的001な作風で1960年代以降の現代詩をリードした詩人で、宮沢賢治研究の第一人者としても知られた入沢康夫(いりさわ・やすお)さんが10月15日に亡くなった。86歳だった。
 松江市出身。仏文学者で明治大教授を務めた。55年に詩集「倖せそれとも不倖せ」を発表。68年の詩集「わが出雲・わが鎮魂」では、古事記などを踏まえた神話的世界を先鋭的な表現で作り出し、60年代以降の現代詩を代表する存在の一人となった。同作で読売文学賞を受賞。82年の詩集「死者たちの群がる風景」で高見順賞、94年の「漂ふ舟」で現代詩花椿賞など受賞多数。98年に紫綬褒章、2008年に日本芸術院会員。
 宮沢賢治の研究では「新校本宮澤賢治全集」の編集委員を務めた。宮沢賢治学会イーハトーブセンターの代表理事を務め、宮沢賢治賞も受けた。
(『朝日新聞』2018/11/30)


光太郎と交流のあった賢治の研究家ということで、平成11年(1999)の『賢治研究』に掲載された「賢治の光太郎訪問」など、二人の交流についても論考を残されています。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

此の多くの無惨の死者が、若し平和への人類の進みに高く燈をかかげるものとならなかつたら、どう為よう。

散文「小倉豊文著「絶後の記録」序」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

小倉豊文は明治32年(1899)生まれの元広島大学名誉教授。千葉県生まれですが(千葉には小倉姓、意外と多くあります)、旧制広島文理科大学卒業後、同校助教授だった昭和20年(1945)8月6日に、原爆投下に遭いました。奥様はその後、原爆症で亡くなり、その経緯を綴ったのが『絶後の記録』です。

小倉は『宮沢賢治の手帳研究』(昭和27年=1952)を著すなど賢治研究でも知られ、入沢氏と同じく宮沢賢治賞を受賞しました。おそらく二人は面識があったと思われます。

北海道小樽に昨年オープンした似鳥美術館さん主催の市民講座です。  

似鳥美術館研究会「日本における人体像の表現―高村光雲と光太郎」

期    日 : 平成30年12月8日(土)
会    場 : 旧三井銀行小樽支店 北海道小樽市色内1丁目3-1
時    間 : 10:30 ~ 12:00
料    金 : 一般1,500円、小樽市民1,000円、学生700円
講    師 : 岩崎直人氏 (札幌芸術の森学芸企画担当係長)

かつて作家・小林多喜二が働いていた旧北海道拓殖銀行小樽支店。長い時を経て似鳥美術館として生まれ変わり、現在は日本画や洋画、ガラス工芸作品など約300 点以上を常設展示しております。「似鳥美術館 研究会」は、そんな多岐に渡る似鳥美術館のコレクションを紐解いていく、初の本格美術講座です。

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今年の5月から始ま001り、月1回のペースでさまざまなジャンルの美術講座が開かれています。で、12月の講座が光雲と光太郎。会場は同じ小樽芸術村の中にある「旧三井銀行小樽支店」です。

同館ではオープン当初から光雲とその弟子筋の木彫群を一つの目玉として下さっていますし、今年、光太郎のブロンズ「十和田湖畔裸婦像のための手」も、新たに購入されたそうです。また、最近、光雲の「不動明王像」もラインナップに加わったとのこと。

残念ながら、華々しくオープンしたものの、収蔵品がそれっきりで増えるでもなし、こうした講座等の事業を行うでもなし、やがて忘れ去られて寂しく閉館……という美術館さんも現実に少なくない中、似鳥さんの取り組みには頭が下がります。

今後もこうした活動を継続し、できれば売りに出ている光太郎の木彫なども展示品に加えていただきたいものですが……。


【折々のことば・光太郎】

松木氏に依頼されたこの鯉の木彫製作によつて私は数々の彫刻上の経験を味ひ、さまざまなメチエに関する自覚を得た。

散文「松木喜之七遺稿集「九官鳥」によせて――
松木喜之七氏と私の鯉――」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

松木喜之七は新潟長岡の実業家。002趣味人でもあり、文化芸術そしてスポーツにも関心を寄せ、長岡市スポーツ協会の前身・長岡市体育団の会長を務めたりもしました。

戦前、昭和9年に亡くなった光雲の存命中、端午の節句のためにと光太郎に鯉の木彫を依頼、大枚500円をおいていきました。光太郎は早速制作にとりかかりますが、悪癖が頭をもたげ、何度作っても自分で納得が行きません(ブロンズの「成瀬仁蔵胸像」は14年かかりました)。鱗の処理が出来ない、というのです。鱗をリアルに彫ってしまうと俗な置物のようになるし、さりとて彫らずば鯉にならないし……というわけで、結局、完成しませんでした。光太郎、代わりにと「鯰」を進呈しています。現在、愛知小牧のメナード美術館さんに収蔵されている作品です。

確認されている、光太郎が木彫に取り組んでいるところを撮った唯一のスナップ、土門拳による昭和15年(1940)の写真に、「鯉」が写っています。

その後、松木は召集されて、軍服姿で光太郎の元を訪れ出征の挨拶。しかし、南方戦線で還らぬ人となってしまいました。

光太郎第二の故郷・花巻から企画展情報です。 

平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~  「光太郎の食卓」

期    日 : 平成30年12月8日(土)~平成31年1月27日(日)
会    場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
時    間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料    金 : 小中学生 150円(100円)  高等学校生徒及び学生 250円(200円)
        一般 350円(300円)
   ( )は20名以上の団体
休 館 日 : 12月28日~1月3日

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、花巻市総合文化財センター、花巻市博物館、高村光太郎記念館の5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

高村光太郎記念館 「光太郎の食卓」 太田村山口での山居生活で、農耕自炊の生活を目指していた高村光太郎の「食」にまつわるエピソードや資料を紹介します。

関連行事

ぐるっと歩こう!スタンプラリー
 共同企画展の会期中、開催館5館のうち3館のスタンプを集めた人に記念品を差し上げます。さらに、開催館5館全てと協賛館1館のスタンプを集めた人に、追加で記念品を差し上げますので、この機会に足を運んでみませんか。

ぐるっと花巻再発見ツアー
 企画展開催館を一度にまわれるバスツアーを開催します。無料で参加できますので、ぜひお申し込みください。
 1回目:平成30年12月13日(木曜日)午前9時から午後3時10分
 2回目:平成31年1月10日(木曜日)午前9時から午後3時10分

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昨年から高村光太郎記念館さんがこの試みに参加、今年は「光太郎の食卓」だそうです。

まだどのような展示が為されるか、具体的には聞いておりませんが、これまでに女性スタッフを中心に取り組んできた「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」、「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part2」といった市民講座や、隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんでの連載「光太郎のレシピ」などでの蓄積を生かすのだと思われます。


ところで、『広報はなまき』の11/15号に、こんな記事も出ています。

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光太郎愛用の巨大ゴム長靴の紹介です。こちらは常設展示のコーナーで展示中です。

当方、年明けにでも行ってこようかと思っております。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

岩手に来て思ふに、岩手は日本の脊梁の最強部たる地勢を持ち、人間を持つ。岩手の文化はやがて日本を支へる強力な柱とならう。

散文「「小田島孤舟歌碑」序」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

岩手県和賀郡小山田村(現花巻市)出身で、光太郎同様、雑誌『明星』に依った歌人であり、明治41年(1908)、岩手新詩社を興した小田島孤舟の著書に寄せた序文の一節です。

このブログで紹介すべき事項が多く、明日になってしまいました。光太郎の父・光雲が制作主任として携わった、上野公園の西郷隆盛像関連です。 

西郷隆盛像建立120周年記念講演会『上野の西郷さん』を語る

期  日 : 平成30年12月2日(日)
時  間 : 14時~16時
会  場 : 東京国立博物館 平成館 大講堂(台東区上野公園13-9)
料  金 : 無料
定  員 : 300名

内  容 : 
基調講演 竹内誠 (江戸東京博物館名誉館長)
専攻は、江戸文化史・近世都市史。現職のほか、徳川林政史研究所所長などを務める。「絵戸社会史の研究」をはじめ著書・編著多数。このほかNHK大河ドラマや金曜時代劇の時代考証を担当し、多方面で活躍。平成27年3月、第67回NHK放送文化賞受賞。

記念演奏 友吉鶴心 (台東区観光大使・薩摩琵琶奏者)
幼い頃より様々な日本文化芸能を学び、世界的な薩摩琵琶奏者・鶴田錦史に師事。祖父の名跡を世襲。宮家御前演奏の栄を賜るほか、台東区主催公演・東京都主催公演・国立劇場主催公演を始め古典はもとより様々なジャンルとセッションを重ね国内外で多彩な活躍中。文部大臣奨励賞・NHK会長賞等受賞。日本文化・芸能の普及の一端としてNHK大河ドラマ『西郷どん』を始めNHKスペシャルドラマ等の文化・芸能等の考証・指導を多数担当。

区公式ホームページの「電子申請」からお申し込み可。 URL:http://www.city.taito.lg.jp/

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申し込み〆切が過ぎてはいますが、まだ定員300名に達していなければ受け付けてもらえるかもしれません。


【折々のことば・光太郎】

国語といふものは決して文法にさへあつてゐればそれでいいといふものではなく、語感、語脈、いひまはし、言葉癖活用のすべてに鋭い感覚がはたらかなくてはほんとにならない。

散文「江南文三訳「日本語の法華経」序」より
 昭和19年(1944) 光太郎62歳

それまでに満足の行く法華経の解説本が無く、解説しているつもりが言葉の使い方がなっておらず、却って難しくしてしまっていた、という文脈での発言です。

江南文三は光太郎より4歳年下。与謝野夫妻の新詩社に依り、後、雑誌『スバル』の編集にも当たりました。

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