2018年09月

新刊情報です。 
2018/09/13  髙橋秀紀著 歴史春秋社 定価1,800円+税

智恵子の母親「セン」は、私生児として貧しい母子家庭に生まれ、子守や女中をしながら成長して結婚し、やがて母と養父が始めた造り酒屋を相続し二代目となった。酒屋は繁盛して豪商となり、「セン」は八人もの子宝に恵まれ、子供達には高等教育をして、なに不自由ない極楽のような生活ができた。だが、養父や夫が亡くなり息子の代になると、世間の不景気もあって酒屋が倒産した。(あとがきより)
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目次 
 第1章 父なし子 
 第2章 結婚 
 第3章 成長する酒造店 
 第4章 人生の天国 
 第5章 繁栄の中で 
 第6章 忍び寄る暗い影 
 第7章 酒造店の倒産 
 第8章 流浪の身 
 第9章 人生の地獄 
 第10章 六道の世を生きて 

智恵子の母・長沼セン(明治元年=1868~昭和24年=1949)を主人公とした小説です。

これまでに智恵子を主人公とした小説は複数刊行されていますが、センを主人公としたものはおそらく初めてではないでしょうか。

過日、小平市平櫛田中彫刻美術館さんでの企画展「明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ」の拝観、吉村昭記念文学館さんでの「第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」の拝観のため上京した折、行き帰り、それから移動中の車内で一気に読み終えました。

おおむね史実に基づき(あえて史実と反する内容にした箇所も見られますが)、センとセンを取り巻く人々が実に生き生きと描かれています。ある意味、智恵子実家の長沼酒造興亡史とも言えます。

評伝の形式で智恵子の生涯にスポットを当てた、松島光秋氏著『高村智恵子―その若き日―』(永田書房 昭和52年=1977)、佐々木隆嘉氏著『ふるさとの智恵子』(桜楓社 昭和53年=1978)、伊藤昭氏著『愛に生きて 智恵子と光太郎』(歴史春秋社 平成7年=1995)などが先行しますが、小説の形式で描くことで、その時々の人々の思いがより鮮明に浮き彫りにされ、なるほど、これが小説の強みだなと思わせられる箇所が多くありました。

特に最終章で、追われるように後にした油井村(現・二本松市)を久しぶりに訪れ、長沼酒造の破産や智恵子をはじめとする子供たちの不遇な死を嘆くセンを、菩提寺である満福寺の住職が諭し、それによって救われた気持ちになれるシーンなど。

先週、『福島民報』さんに紹介記事が出ています。

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版元サイトから注文可能です。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

同君が人をやつつける時は、人をマイナスにするのでなくて、プラスにしようとあせつてゐるのがよく見えた。私の祖父は生粋の江戸人であつたが、自分の可愛がる人間を殊に口ぎたなく罵つたものである。「てめえのやうな役に立たずが……」などと人によく言つてゐた。

散文「大藤君」 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「大藤君」は大藤治郎。大正15年(1926)に歿した詩人です。

可愛がる相手だからこそ、奮起を促すためにあえて厳しい叱責を与える、そういうことはよくあります。それも度を過ぎると昨今あちこちで問題になっているパワハラということになってしまうのでしょうが。

9/27(木)、小平市平櫛田中彫刻美術館さんで企画展「明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ」を拝観したあと、西武線、JR、東京メトロ、さらに都電荒川線と乗り継ぎ、ゆいの森あらかわ内の吉村昭記念文学館さんへ。

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平成9年(1997)、講談社さんから出版され、翌年、芸術選奨文部科学大臣賞に選ばれた、吉村昭夫人で芥川賞作家・津村節子さんの代表作の一つ、智恵子を主人公とした『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)に関する展示が為されています。

特に撮影禁止という表記がなかったので、画像に収めて参りました。

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『智恵子飛ぶ』生原稿。

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主人公、智恵子についての解説。

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智恵子に関する取材風景等のスナップなど。

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他に、龍星閣『智恵子抄』初版(昭和16年=1941)や、智恵子に関する書籍、津村さんのスクラップブックなどが展示されていました。パネル展示では『智恵子抄』に寄せる津村さんの思いや、智恵子紙絵の解説等々。

昭和3年(1928)生まれの津村さん、高等女学校生であらせられた戦時中、勤労動員に駆り出されつつ『智恵子抄』を読まれ、世俗に背を向け芸術の道に精進しようとする光太郎智恵子夫婦の生き様に感動されたとのこと。

戦後、昭和28年(1953)に吉村昭氏とご結婚。光太郎智恵子のように「夫婦同業」となり、その意味では色々大変だったようです。

『智恵子飛ぶ』の「あとがき」には、こんな一節があります。

 二人の力が拮抗していれば、最も身近にライヴァルを置くことになる。不均衡であれば、力ある者は無意識のうちに力弱き者を圧してしまう。
 才薄き者は、相手の才能に敬意を抱けば抱くほど、自分の能力に対する絶望や屈辱感が深まり、充し得ない創作の意欲は、重く心に貯めこまれてゆく。

まさしく光太郎智恵子は不均衡だったのでしょう。その他にも、相次ぐ家族の死、実家である長沼酒造の破産、家族の離散、自身に子供がいなかったこと、元々内向的で友人も少なかったこと、早くから結核性の病に冒されていた自身の健康状態への不安、そして光太郎からの一種のモラハラ(「武士は食わねど高楊枝」的な生活の強制的な)などが重なり、智恵子は壊れてしまいました。

幸い、不均衡ではなかった吉村・津村夫妻はどちらも壊れることはありませんでしたが、「二人の力が拮抗していれば、最も身近にライヴァルを置くことになる」という意味での葛藤はあったことと思われます。先に売れっ子になったのは津村さんの方でしたし。

そういう似たような境遇から智恵子を捉えた『智恵子飛ぶ』が、傑作と称されるのはある意味、当然の帰結かもしれません。

展示は前後期に分かれ、前期が11月14日(水)まで、後期が来年1月16日(水)まで。一部、展示替えがあるそうです。後期に関しては、まだ具体的に展示内容を決めていないとのことではありました。

『智恵子飛ぶ』は、平成12年(2000)には新橋演舞場、翌年には京都南座で舞台化されました。智恵子役は共に片岡京子さん、光太郎役は、東京公演が故・平幹二朗さん、京都公演で近藤正臣さんでした。

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こういうチラシ等を並べると一般受けするのですが、どうなりますやら。

何はともあれ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

啄木といひ、賢治といひ、皆誠実な、うその無い、つきつめた性格の人でした。
散文「啄木と賢治」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「借金大魔王の啄木が誠実であったわけがない」、「賢治を神格化するのは馬鹿げている」などといった異論があろうかとも思いますが、光太郎の認識はこうでした。

そして光太郎自身も「誠実な、うその無い、つきつめた性格」だったように感じます。戦時中、翼賛詩を乱発したことも、それはその時代に於けるある種の「誠実さ」だったのではないでしょうか。

結局、「誠実な、うその無い、つきつめた性格」の者は、啄木や賢治のように早世するか、智恵子のように壊れるか、戦後すぐの光太郎のようにひどいバッシングを受けるか、少なくとも幸福に長寿を全うすることは出来なかったようにも思われます。

当方はちゃらんぽらんに長寿を全うしたいものです(笑)。

昨日は都内に出ておりました。2回に分けてレポートいたします。

まずは小平市の平櫛田中彫刻美術館さんで開催中の「明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ」を拝見。

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全体が9つの章に別れており、それぞれのサブタイトルは以下の通りでした。

第1章 前近代の立体造形 / 第2章 美術教育 / 第3章 銅像 / 第4章 模刻と修復 / 第5章 高村光雲一門の活躍 / 第6章 西洋彫塑の研究 / 第7章 多様なる木彫世界 / 第8章 美術団体と展覧会 / 第9章 ロダンの受容

この章立ての題名を概観するだけでも、日本近代彫刻史の骨組みが分かりますね。

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「第1章 前近代の立体造形」では、「美000術」や「彫刻」といった概念がまだ定着する以前の、江戸時代後期から明治草創期が扱われ、光太郎の父・高村光雲の師、高村東雲の作が3点、並んでいました。

2点で一対の「大黒天・恵比寿像」、それから「西行法師像」。それぞれ非常に精緻な作りで、なるほど光雲の師匠だ、と思わせられる作品です。

「第3章 銅像」では、光雲の「楠木正成銅像頭部(木型)」。皇居前広場に建つ楠木正成像の木型の頭部で、像高約70センチの大きなものです。

他に、やはり楠公銅像に関わった岡崎雪声、光雲の弟子・米原雲海の作も。

そして「第5章 高村光雲一門の活躍」。

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光雲自身の作は、「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895)、「大黒天・恵比寿香合」(明治初期?)。それぞれ初めて観るもので、興味深く拝見しました。「天鹿馴兎」は、鹿の角が欠けていましたが、毛並みの表現など後の光雲作の動物彫刻に通じます。

その他、「一門」ということで、山本瑞雲、林美雲、米原雲海、山崎朝雲、そしてもちろん平櫛田中。「競演」あるいは「饗宴」といった感がありました。

思いがけず「第9章 ロダンの受容」で、光太郎の朋友・碌山荻原守衛の「北条虎吉氏像」。毎年、信州安曇野碌山美術館さんにお邪魔し、拝見しているもので、旧友とばったり再会したような気になりました(笑)。

他にも逸品ぞろいで、まさに眼福。光太郎の作が無かったのが残念でしたが。出品リストを下に掲げます。


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それから、図録2,000円也を購入し001て参りました。巻頭に掲げられた東京藝術大学教授・佐藤道信氏の「「彫刻」の出自と特性」、巻末の小杉放菴記念日光美術館学芸員・迫内祐司氏の「東京彫工会小史――明治期を中心に」の2本の論考、それぞれ非常に示唆に富む内容でした。

また、同館藤井明学芸員による各展示品の解説等、さらに4篇のコラム――「①博覧会」、「②彫刻の台座」、「③裸体表現に
対する規制」、「④彫刻家のくらし」も労作です。

今週末、NHKさんの「日曜美術館」内の「アートシーン」で取り上げられるとのことですので、ご覧下さい。

会期は11月25日(日)まで。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

宮澤さんの真実な心の馬鹿力は、遂に厚い中間の壁を貫通して一般衆生の心の中にあまねく浸潤するに至つたし、生れつきの詩人である宮澤さんの詩といふものの魅力は、遂に誰の口の端にもその詩が自然に出てくるやうな広大な法悦境を作り出した。わたくしは自分の生きてゐる眼の前で、このやうな奇跡に似た当然事の成就せらるのを見ることが出来たのを幸と思ふ。

散文「一言」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

真実な心の馬鹿力」、言い得て妙、ですね。

名古屋秋田と巡回した企画展の京都展です。 
期 日  : 2018年10月2日(火)~11月25日(日)
会 場 : 京都文化博物館 京都市中京区東片町623-1
時 間 : 10:00〜18:00
料 金 : 一般1,400(1,200)円、大高生1,000(800) 円 中小生 500(300)
       
( )内20名以上の団体
休館日  : 月曜日(祝日の場合は開館、翌日休館) ただし、10月22日(月)は開館
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 2018年は、明治改元から150年にあたり、これを記念して明治期の華やかな皇室文化をテーマに特別展を開催します。
 本展は、明治宮廷前史として幕末から政治の舞台となった京都における天皇と皇室の波乱に満ちた時代から始まります。1869(明治2)年、明治天皇が東京へ移居し、天皇を中心とした近代国家の建設が進められますが、欧米と並ぶ文明国家をめざす明治政府は、欧米諸国との融和を図るため鹿鳴館や明治宮殿で外国使臣をもてなすなど欧化政策をとります。一方で江戸時代から続く日本独自の優れた美術・工芸を世界に発信するため、帝室技芸員制度を作り、その保護・育成にも努めました。京都から多くを輩出した帝室技芸員の貴重な作品からも明治宮廷文化の美と技をご覧いただけます。
 

関連イベント

特別講演会 『昔語りは珠匣(しゆかふ)のごとく – 平成に伝えられる明治の皇室文化– 』
日時:2108年10月16日(火)14:00〜15:30
講師:彬子女王殿下  会場:京都文化博物館 別館ホール(定員200名)

連続講演会
①「岩倉具視と幕末の朝廷」講師:松中博(京都市歴史資料館研究員)
   日時:2018年10月13日(土)10:30〜12:00

②「明治期京都の七宝—産業と美術工芸の狭間」講師:畑智子(京都文化博物館)      
   日時:2018年10月27日(土)10:30〜12:00

③「帝室技芸員 – その成立と役割」講師:塩谷純(東京文化財研究所)
   日時:2018年11月17日(土)10:30〜12:00

※①②③とも会場は京都文化博物館3階フィルムシアター(定員160名)

④音楽会「明治の西洋音楽と皇室」
 日時:2018年10月20日(土)開場13:30 開演14:00
 出演者:ソプラノ 東朝子、宇田川泰子 女声合唱団「ミルテンクランツ」
 指揮:成毛敦 ピアノ:藤井いづみ
 会場:京都文化博物館 別館ホール(定員200名)

※①②③④とも要申込 参加費無料(ただし、本展覧会入場券(半券可)が必要)


帝室技芸員の作品ということで、光太郎の父・高村光雲の作「魚籃観音像」が出品されるはずです。また、関連イベント中の講演③「帝室技芸員 – その成立と役割」 では、光雲にも触れられることでしょう。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

まあ仮に花巻といふ町が、幾百年かの後に消えてなくなるやうな事があつたとしても、この町の名は滅びないであらう。宮澤賢治がそこに生れ、そこに居住し、そこで仕事したといふ事によつて此の町の名は滅びない。宮澤賢治は不朽である。不朽であるばかりでなく、彼は絶えず、ひろく、ふかく、つよく人類の中へ進展するであらう。

散文「宮澤賢治十七回忌」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

光太郎の名も、不朽のものとして残って欲しいものです。

秋田県から企画展情報です。  

特別展示「明治150年秋田を訪れた文人たち」

期 日  : 平成30年10月2日(火)~12月27日(木)
場 所  : 
あきた文学資料館 秋田市中通6丁目6-10
時 間  : 午前10時~午後4時
料 金  : 無料
休館日  : 毎週月曜日

秋田には多くの文人が訪れました。たとえば明治27年、小説『蒲団』の田山花袋は、仙岩峠で足をくじき、地元民に助けられました。大正5年、旅と酒を愛する歌人若山牧水が千秋公園で歌を詠み、料亭で秋田の酒を堪能しました。昭和2年、泉鏡花が日本新八景に選ばれた十和田湖へ旅行し、湖を胡桃の実の割目に青い露を湛えたようだと書きました。昭和20年、武者小路実篤が戦火を避けて家族とともに稲住温泉に疎開し、ここで8月15日を迎えました。昭和26年には坂口安吾が、昔好きだった婦人が生まれた秋田を訪れ、「秋田犬訪問記」を書きました。
なぜ彼らは秋田を訪れたのでしょうか。展示では、秋田ゆかりの人物との交流の様子や秋田を描いた作品を紹介します。

共催展示
本展示を共催する小坂町、五城目町、横手市が所蔵する貴重な資料を、月替わりで展示します。

10月2日(火)~11月4日(日)小坂町立総合博物館郷土館収蔵
稀覯本を出版したことで知られる小坂町出身の澤田伊四郎に届いた高村光太郎からの書簡をすべて展示します。

11月6日(火)~12月2日(日)五城目町教育委員会所蔵
才を惜しまれながら若くして亡くなった矢田津世子に宛てた坂口安吾の書簡をすべて展示します。

12月4日(火)~12月27日(木)
横手市雄物川郷土資料館収蔵
昭和20年、横手市出身の画商旭谷正治郎を頼り稲住温泉に疎開した武者小路実篤。旭谷に宛てた実篤の書簡を展示します。

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関連文学講座

11月4日(日)午後1時30分~
文学講座 龍星閣に集う文化人と秋田 小坂町立総合博物館郷土館学芸員安田隼人氏

12月2日(日)午後1時30分~
文学講座 坂口安吾─矢田津世子との出会いから「秋田犬訪問記」まで
     秋田大学准教授山﨑義光氏


というわけで、詩集『智恵子抄』版元の龍星閣主人・澤田伊四郎にあてた大量の書簡類が展示されます。昨年、澤田の故郷である小坂町の総合博物館郷土館さんに寄贈されたもので、今年3月から5月にかけ『高村光太郎全集』未収録の分34通が「平成29年度新収蔵資料展」ということで同館に展示されまして、当方、2月GWに現地に伺い拝見して参りました。「高村光太郎からの書簡をすべて展示します。」とあるので、残り30数通も併せて展示されるのではないでしょうか。

11月4日(日)には、同館学芸員の安田氏による講座も予定されています。ちなみに同館では常設展示で光太郎の署名本を並べ始めています。

また、12月に展示予定の横手市雄物川郷土資料館収蔵の武者小路実篤書簡。横手市出身の画商旭谷正治郎に宛てたものだそうですが、同館にはやはり旭谷に宛てた光太郎書簡も寄贈されており、平成27年(2015)には企画展「横手ゆかりの文人展〜あの人はこんな字を書いていました」で展示され、拝見して参りました


ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

なほ賢治さんの作品の真価は今後ますますひろく人々の間に知られてゆき、後々には、あまねく世界中の人達にまで愛読せられるやうになることを信じて居るといふことを申添へて置きたいと存じます。
ラジオ放送「宮沢賢治十六回忌に因みて」より
 昭和23年(1948) 光太郎66歳

NHK盛岡放送局から、アナウンサーが代読しました。

賢治歿後にその作品群のすばらしさに気づき、『宮沢賢治全集』出版に骨を折った光太郎。その際に数ある出版社がなかなか承諾してくれなかったことなども語られています。

実際、今日では「雨ニモマケズ」などが国際的にも高く評価されるようになっており、そうなることを予言していた光太郎の炯眼には驚くばかりです。

市民講座の紹介です。

まずは埼玉県越谷市から。  

合同読書会 高村光太郎「智恵子抄」

期   日  : 平成30年9月29日(土)
場   所  : 
越谷市立図書館2階視聴覚ホール 埼玉県越谷市東越谷四丁目9番地1
時   間  : 13:30~15:30
講   師  : 松本孝氏(作家)
料   金  : 無料

彫刻家、画家でもあり、近現代を代表する詩人でもある高村光太郎が、妻・智恵子のことを、結婚する前から死後の約30年間書き続けた詩集「智恵子抄」について、作家の松本孝氏が講演します。

松本孝
作家。昭和13年、埼玉県草加市生まれ。昭和35年、埼玉県公立中学校国語科の教員となる。教鞭をとるかたわら文芸を学ぶ。現在、埼玉文芸家集団会員。受賞に、文部大臣奨励賞、松下幸之助賞、旺文社社長賞、旺文社学芸奨励賞、埼玉文芸賞準賞、埼玉県文化ともしび賞、草加市文化賞。

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続いて、手前味噌ですが……。  

公開講座 高村光太郎と房総

期   日  : 平成30年10月1日(月)
場   所  : イオンカルチャークラブユーカリが丘店
         千葉県佐倉市西ユーカリが丘6丁目12番地3
         イオンタウンユーカリが丘店 東街区2F

時   間  : 10:30~11:30
講   師  : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
料   金  : 受講料 2160円  教材費 300円

彫刻家・詩人の高村光太郎は、妻・智恵子ともども房総各地をたびたび訪れました。房総を題材にした詩集『智恵子抄』の所収の詩文などを鑑賞し、智恵子との鮮烈な生の軌跡に迫ります。

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手前味噌ついでに(笑)、もう1件。こちらは少し先の話ですが。  

高村光太郎と房総談

期   日  : 平成30年10月13日(土)  11月10日(土) 全2回
場   所  : 株式会社カルチャー成田カルチャーセンター
          千葉県成田市ウィング土屋24イオンモール成田2F
時   間  : 10:30~12:00
講   師  : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
料   金  : 受講料 4,752円  教材費 330円

詩人、彫刻家の高村光太郎と妻の智恵子夫人について夫妻と房総との関わりを中心に学んでいきます。

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10/1、佐倉市の方は全1回、成田市の方は全2回。当然ながら後者の方はより詳細に、前者はダイジェスト的にとなります。

それぞれ人が集まりませんと開設されずポシャってしまいますし、セコい話ですが、当方のギャラは受講してくださる方の人数による歩合制なので、一人でも多くの方に受講していただきたく存じます(笑)。

よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

彼の心身に具象した詩そのものの精神と機能とは、優に彼の宗教を内に包んでゐる。彼の宗教は彼の詩を通過してのみ顕現する。ここに彼の偉大な詩的宿命があつた。
散文「(宮澤賢治は)」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

生涯、どの宗教にも本格的に帰依できなかった光太郎。その点では自らと賢治の生き様とに一線を画す見方をしていたようです。

ここでいう「詩」には、膨大な数の童話の類も含めて指しているようにも思われます。

東京都荒川区から企画展示の情報です。  

第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」

期 日 : 平成30年9月21日(金)~平成31年1月16日(水)
場 所 : 吉村昭記念文学館 東京都荒川区荒川二丁目50番1号 ゆいの森あらかわ内

時 間 : 午前9時30分から午後8時30分まで
料 金 : 無料 
休館日 : 第3木曜、10月15日(月曜)~19日(金曜)、12月7日(金曜)、
       12月29日(土曜)~1月4日(金曜)

「吉村昭記念文学館学芸員一押し」として、当館所蔵資料を中心にトピック展示を開催します。
今回は、吉村昭夫人でゆいの森あらかわ名誉館長でもある津村氏の「智恵子飛ぶ」に関する展示を行います。
「智恵子飛ぶ」は、芸術選奨文部大臣賞を受賞した津村節子氏の代表作の一つです。芸術家夫婦である高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩(おうのう)を描いた作品です。「智恵子飛ぶ」の紹介とあわせて、吉村氏との夫婦作家としての日々を綴ったエッセイなども紹介します。

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一昨年、文化功労者に選ばれた芥川賞作家の津村節子さん。ご主人の故・吉村昭氏を顕彰する吉村昭文学館(津村さんが名誉館長です)にて、津村さんの代表作の一つで、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)に関する展示が為されるとのこと。津村さんは三鷹にお住まいですが、吉村氏が日暮里のお生まれだそうで、その縁で同館が昨年オープンしました。

今週、早速行って参ります。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

内面から湧き出してくる言葉以外に何の附加物もない。不足もないし、過剰もない。どんな巧妙な表現も此処では極めてあたりまへでしかない。少しも巧妙な顔をしてゐない。此の事は詩の極致に属する。

散文「宮沢賢治の詩」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

最愛の妹・トシへの挽歌である、賢治の「永訣の朝」、「松の針」(ともに大正11年=1922)への評です。

昭和13年(1938)3月の『婦人公論』に掲載されました。翌年には智恵子への挽歌である「レモン哀歌」(「永訣の朝」の影響が見て取れます)を書くことになるとは、さしもの光太郎も思っていなかったでしょう。

9月22日(土)に開幕した、当会の祖・草野心平にスポットを当てる山梨県立県立文学館さんの企画展「歿後30年 草野心平展 ケルルン クックの詩人、富士をうたう。」。NHKさんのローカルニュースで取り上げられました。  

詩人草野心平 没後30年企画展

 昭和を代表する詩人で富士山をテーマにした作品も数多く残した草野心平の企画展が、21日から甲府市の県立文学館で始まりました。
 福島県出身の草野心平は、山梨県でも創作活動を行った昭和を代表する詩人で、企画展はことし没後30年となるのにあわせて開かれ会場には、直筆の詩や絵画などおよそ250点が展示されています。
このうち「三百の龍よ」という詩の墨書では「マグマよ富士を破れ」と草野心平が愛し、書き続けてきた富士山の詩が力強く描かれています。
 また、依頼を受けて作詞を手がけた甲府南高校の校歌は「夏は炎熱、冬寒く」と甲府の自然を表現しています。
このほか、詩だけでなく絵画の題材にも富士山が選ばれ昭和43年に描かれた「空海富士」は真っ青な空のなかに雪をかぶった富士山の姿を描いています。
 県立文学館の伊藤夏穂学芸員は、「山梨にもゆかりがある草野心平の作品、特に富士山をテーマにした独自の表現を体験してほしい」と話しています。
 この「草野心平展」は、11月25日まで甲府市の県立文学館で開かれています。

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光太郎が題字を揮毫した詩集『富士山』(昭和18年=1943)。

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心平作詞の甲府南高校さん校歌。普通、校歌に入れないような「夏は炎熱 冬寒く」といったフレーズも。如何にも心平らしいところです。

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チラシやポスターにも使われている心平の描いた絵。

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9月30日(日)、ギャラリートークを担当される伊藤学芸員。

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当方も写っていました(笑)。

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同時開催的に、1階の閲覧室では覆刻資料を中心とした「草野心平の世界」も行われています。

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ところで、昨夜はNHK Eテレさんで「福島をずっと見ているTV vol.74 復興からその先へ~川内村の夏~」が放映され、川内村名誉村民であった心平にも触れられました。

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村に戻って、心平の住まいだった天山文庫で働いていらっしゃる志賀風夏さんの紹介。

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志賀さんには夢があるそうで……

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なるほど。ぜひ実現させていただきたいものです。

さらに、村の盆踊り大会的なイベントにも密着。番組ナビゲーター役で、川内村ご出身のミュージシャン・渡辺俊美さんが、オリジナル曲の「予定」をご披露。天山文庫が謳われています。

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再放送が、やはりNHK Eテレさんで9月29日(土)、午後1時からあります。ぜひご覧下さい。

併せて山梨県立文学館さんの企画展「歿後30年 草野心平展 ケルルン クックの詩人、富士をうたう。」もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

彼の詩篇は彼の本体から迸出する千のエマナチヨンの一に過ぎない。彼こそ、僅かにポエムを書く故にポエトである類の詩人ではない。そして斯る人種こそ、われわれは長い間日本から生れる事を望んでゐたのである。

散文「宮澤賢治に就いて」より 昭和9年(1934) 光太郎52歳

心平と共に編集にあたり、さらに装幀、題字も手がけた、文圃堂書店版『宮澤賢治全集』内容見本に載った文章の一節です。

エマナチヨン」は「エマネーション(emanation)」。放射性希ガス元素の総称です。

僅かにポエムを書く故にポエトである類の詩人ではない」。なるほど賢治然り、光太郎然り、そして心平然りですね。

昨日は山梨県甲府市に行っておりました。山梨県立文学館さんで今日開幕の企画展「歿後30年 草野心平展 ケルルン クックの詩人、富士をうたう。」開会式にお招きいただき、馳せ参じた次第です。

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午後1時半過ぎ、到着。


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企画展会場の2階ロビーに特設会場がしつらえられ、午後2時から開会式が始まりました。

心平長男、故・草野雷氏夫人の智恵子さん。

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同館三枝館長。

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テープカット。

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このあと、内覧ということで、展示を拝見しましたが、予想以上の充実ぶりに驚きました。

「Ⅰ 誕生・少年時代」「Ⅱ 生きぬく詩人 日本と中国」「Ⅲ 躍動する詩の世界」で、心平の生涯を追い、さまざまな展示。

その中で、特に交流の深かった人物として「「天才」宮沢賢治」、「「巨人」高村光太郎」というコーナーも設けられていました。

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光太郎のコーナーでは、光太郎が寄稿した昭和2年(1927)の『銅鑼』第12号(連作詩「猛獣篇」第一作の「清廉」が収められています)、心平が編んだ鎌倉書房版『高村光太郎詩集』(昭和22年=1947)、創元選書版『高村光太郎詩集』(同26年=1951)、ガリ版刷りの『猛獣篇』(同37年=1962)、心平と光太郎の往復書簡1通ずつ(戦後、花巻郊外太田村に蟄居生活を送っていた光太郎に帰郷を促し、光太郎はその心づかいに感謝しつつも拒否)、さらに心平自筆の毛筆詩稿「高村光太郎死す」(同31年=1956)。

ちなみに「高村光太郎死す」は、当会顧問・北川太一先生の所蔵で、昨日は子息の北川光彦氏がいらしていました。

その他の部分でも、光太郎と心平は不即不離のような関係でしたので、いたるところに光太郎関連の展示物。光太郎が装幀や題字の揮毫、序文を手がけた心平詩集、二人の共同作業で世に出た『宮沢賢治全集』その他、光太郎が寄稿した心平編集の雑誌(『歴程』、『学校』など)やのアンソロジー等々。

それから、こんな000写真も大伸ばしでパネル展示されていました。昭和28年(1953)10月21日、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式当日に撮影されたものだそうで、光太郎は写っていませんが、心平と佐藤春夫夫妻、さらに心平が足繁く通い、光太郎も足を運んだ新宿のバー「みちくさ」の女将・小林梅などが写っています。

それから、同じく心平が足繁く通った、川内村関連の展示も。そこで昨日は川内村から長福寺さんの矢内大丘住職もお見えでした。以前に川内村での「かえる忌」でご一緒させていただいた方で、久闊を叙しました。

ちなみに今夜、午前0時からNHK Eテレさんで「福島をずっと見ているTV vol.74 復興からその先へ~川内村の夏~」が放映されます。村での心平の住まい・天山文庫も紹介されるようです。ぜひご覧下さい。

そして「Ⅳ 富士をうたい、富士を愛す」。

心平は早くから富士山を詩作のモチーフとしていましたし、棟方志功との共同作業で詩画集『富士山』を出したり、自身でも富士山の絵を描いたりしました。また、自身の誕生祝いにと、昭和40年代から50年代に、たびたび富士山を訪れたそうです。そうした縁もあってか、山梨県立甲府南高校さんの校歌の作詞を手がけています。

そうした甲州との関わりがあって、今回の企画展が実現したわけですね。

内覧のあと、レセプション。

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アトラクション的に、詩人・いとうのぼる氏、声優の本間ゆかりさんによる心平詩の朗読。

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本間さんはさらにライヤーという竪琴的な楽器の演奏も。

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幻想的な音色が、心平詩の世界にぴったりでした。

お土産に、図録と館報をいただきました。いつもながらに同館の図録は充実の内容です。

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館報には同展に寄せた和合亮一氏の文章も載っており、興味深く拝読しました。

同展、今日から11月25日までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

内にコスモスを持つものは世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀にみる此のコスモスの所持者であつた。彼の謂ふところのイーハトヴは即ち彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般のことであつた。

散文「コスモスの所持者宮澤賢治」より 昭和8年(1933) 光太郎51歳

心平が編集し、光太郎も寄稿した『宮澤賢治追悼』に載った文章の一節です。今回の山梨県立文学館さんの企画展にも出品されています。

この後、折に触れ、光太郎は賢治を絶賛する文章や談話を発表しますが、その最初のものです。その結果、生前は無名だった賢治がどんどん世の中に認められて行きます。

鹿児島から企画展情報、これまでに東京大阪を巡回したNHK大河ドラマ特別展「西郷どん」展の鹿児島展です。  

明治維新150周年記念黎明館企画特別展・NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」

期 日  : 2018年9月27日(木)~11月18日(日)
会 場  : 鹿児島県歴史資料センター黎明館 鹿児島県鹿児島市城山町7番2号
時 間  : 午前9時~午後6時
料 金  : 一般1000円(800円) 高校・大学生600円(480円)( )は20名以上の団体
休館日    : 月曜日及び10月25日(木)

明館「西郷どん」展は,平成30年NHK大河ドラマ「西郷どん」の放送に関連して,ドラマの登場人物に関係する文化財や歴史資料を通じ,主人公である西郷隆盛ゆかりの地の歴史や文化を紹介する展覧会です。
治維新の英雄である西郷には,肖像写真が一枚も残っておらず,その生涯はいまだに謎に包まれています。薩摩藩の下級藩士の家に生まれた西郷は,両親を早くに亡くし,家計を支えるために農政の役人補佐として働き始めます。やがて,藩主の島津斉彬に抜擢された西郷は,斉彬の密命をおび,江戸や京を奔走し,薩摩を代表する人物へと成長していきました。
感な青年期を経て,三度の結婚,二度の離島での生活ののち,一介の薩摩藩士に過ぎなかった西郷は,勝海舟,坂本龍馬らの人物たちと出会い,やがて「革命家」へと変貌し,倒幕の大きな原動力となります。類い希なる「勇気」「決断力」「実行力」で,明治維新を成し遂げた西郷ですが,その最期は,明治政府と戦い,命を散らすこととなりました。
展においては,西郷の生涯と,彼を取り巻く維新の群像について,節目となる歴史的な出来事を中心に,激動の時代をリアルに感じることができる資料,西郷本人ゆかりの品々を紹介していきます。

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関連行事

1 記念講演会「西郷隆盛と西南戦争」
 【日時】平成30年10月6日(土曜日)午後1時30分~午後3時
 【会場】黎明館2階講堂(245席)
 【講師】明治大学文学部教授落合弘樹氏

2 記念シンポジウム「西郷隆盛と明治維新」
 【日時】平成30年10月20日(土曜日)午後1時30分~午後4時
 【会場】黎明館2階講堂(245席)
 【パネリスト】
  鹿児島県立図書館長原口泉氏(基調講演「西郷隆盛が明治維新で目指したもの」)
  大阪経済大学特別招聘教授家近良樹氏
  鹿児島大学教育学部准教授佐藤宏之氏
  尚古集成館長松尾千歳氏

3 黎明館職員による展示解説講座第1回「幕末維新期の政局における西郷隆盛と島津久光」
 【日時】平成30年9月30日(日曜日)午後1時30分~午後3時
 【会場】黎明館2階講堂(245席)
 【講師】黎明館学芸専門員市村哲二

4 黎明館職員による展示解説講座第2回「愛加那と西郷隆盛」
 【日時】平成30年11月10日(土曜日)午後1時30分~午後3時
 【会場】黎明館2階講堂(245席)
 【講師】黎明館学芸課主事小野恭一

5 小・中学生向け「西郷どん」展示解説
小学生・中学生を対象に,黎明館の学芸員が「西郷どん」展の展示を楽しく,わかりやすく解説します。150年前にタイムスリップして,きみも「西郷どん」博士になろう。
中学生以下無料。参加者には,もれなくオリジナル学習シートをプレゼントします。
 第1回10月14日(日曜日)午前10時~午前10時50分
 第2回11月4日(日曜日)午前10時~午前10時50分
 集合場所 黎明館1階ロビー中央階段前(午前9時50分までに)
 講 師 黎明館学芸課主事小野恭一 黎明館学芸専門員市村哲二
 対 象 小学生・中学生とその保護者
 参加費 中学生以下無料 保護者の方は,お得な団体観覧料で御覧になれます。
 定 員 20名(要申込み,先着順)定員に満たない場合,当日申込み可
 申込み方法 申込み開始日以降に,黎明館学芸課(099-222-5396)まで電話。
 定員に達しましたら,募集を締め切らせていただきます。
 第1回9月14日(金曜日)から受付開始(受付時間:午前9時~午後6時)
 第2回10月4日(木曜日)から受付開始(受付時間:午前9時~午後6時)


展示の最後、西郷の歿後を扱う「人々の中の西郷」のコーナーで、光太郎の父・光雲が制作主任として関わった西郷隆盛銅像に関する資料が出品されます。どうも東京展で出品された、西郷隆盛銅像の、顔がない「のっぺらぼう」写真は残念ながら展示されないようですが。

関連行事が充実しています。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

彼はこれまで気づかれずに居た日本語の深さを路傍の石ころからでも見つけ出した。生きた言葉を方々から拾ひ上げた。彼はいつでも満足してゐない。日本語のリトムについて時々不満げに模索してゐる。

散文「芭蕉寸言」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

「彼」とは光太郎ではなく、松尾芭蕉。やはり詩人としての大先輩に自らの姿を二重写しにしているようです。

神奈川から企画展情報です。 

開館30年記念展 中川一政美術館の軌跡

期 日  : 平成30年9月22日(土)~12月23日(日)
場 所  : 真鶴町立中川一政美術館 神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴1178-1

時 間  : 9:00~16:30
料 金  : 一般800(700)円 高校生以下 450(350)円 ( )内20名以上の団体 
休館日  : 毎週水曜日

 平成元(1989)年3月に開館した真鶴町立中川一政美術館は、平成30(2018)年度に開館30年を迎えます。開館以来中川一政画伯とご遺族の方々から寄贈を受けた作品の展示や、画伯と交友のあった芸術家とのコラボレーション企画展を通して中川一政の芸術世界について深く掘り下げてきました。
 この度は開館30年記念展覧会として、「開館30年記念展 中川一政美術館の軌跡」を開催いたします。       
 本展は、開館30年を区切りに、中川一政の画家としての原点に立ち返るため、一政の自作と画家の創作活動と人生に多大な刺激と影響を与えた周辺の作家たちの作品を展観するとともに、開館当時の展示の再現を試み、中川一政の画業と美術館30年の軌跡を辿ることを目的としています。また、この展覧会を通じて、「生命いのちの画家」中川一政の全体像について新たな視座を見出だしていきます。

主な出品作家
 中川一政/石井鶴三/梅原龍三郎/岸田劉生/木村荘八/小杉放菴/高村光太郎/椿貞雄/長與善郎/武者小路実篤/萬鉄五郎/山本鼎/ジョルジュ・ルオー/ポール・セザンヌ/フィンセント・ヴァン・ゴッホ 他(順不同)

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中川一政は、光太郎より10歳000年少の画家です。大正10年(1921)、光太郎が翻訳したエリザベット・ゴッホ(フィンセント・ヴァン・ゴッホの妹)著『回想のゴツホ』出版の際に写真を提供するなど、光太郎と交流がありました。

今回の企画展では、光太郎のブロンズ「老人の首」(大正14年=1925)が展示されます。こちらは駒込林町の光太郎アトリエに造花を売りに来る元旗本の老人をモデルにしたもので、同型のものは、上野の東京国立博物館さんに、やはり光太郎と交流のあった思想家・江渡狄嶺の妻ミキからの寄贈品として、さらに信州安曇野碌山美術館さんには新しい鋳造のものが収蔵されています。

中川一政美術館さんのものは、中川自身の旧蔵品だそうで、当方、その存在を存じませんでした。光太郎生前に光太郎自身から購入したか贈られたかしたものなのか、光太郎歿後に入手したものなのか、そこまでは判然としません。

他に、中川自身をはじめ、やはり光太郎と交流のあった作家の作品がたくさん並びます。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

どんな自明の事のやうに見える事柄をも、もう一度自分の頭でよく考へ直してみる。どんな思考の単位のやうに見える事柄をも、もう一度分子に分けてよく観察してみる。どんな無縁のやうに見える事柄同志をも、もう一度その相関関係の有無をよくたづねてみる。さういふことの習慣が人にパンセすることを可能にさせる。

散文「ヴァレリイに就いて」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

光太郎の考える「賢者」というものの本質が、端的に表されています。

「パンセ」は仏語のpense(考える)の受動態pensée。パスカルの著書の題名としても用いられました。

山梨県から、当会の祖・草野心平をメインとする企画展の情報です。 

歿後30年 草野心平展 ケルルン クックの詩人、富士をうたう。

期 日  : 平成30年9月22日(土)~11月25日(日)
場 所  : 
山梨県立文学館 山梨県甲府市貢川1丁目5番35号
時 間  : 9:00~17:00
料 金  : 一般 600円(480円) 大学生 400円(320円)( )内20名以上の団体 
休館日     : 月曜日(9/24、10/8開館)  9/25 10/9

 「春のうた」をはじめとする蛙の詩で知られる草野心平。中国・嶺南(れいなん)大学留学の頃より本格的に詩作を始め、その起伏に富んだ人生の中で個性的な詩を多く生み出しました。 心平を魅了し、創作の重要なテーマの一つとなったのが富士山です。数々の詩にうたい、書や絵画でも富士の魅力をダイナミックに表現しました。本展では、富士山来訪のエピソードや本展では、富士山来訪の エピソードや、山梨県立甲府南高等学校の校歌作詞など、山梨との関わりについても紹介。原稿、書、絵画などの資料を通じて、草野心平の生涯と生命力溢れる詩の世界をご覧ください。

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関連行事

講座「草野心平と富士山―展示のみどころ―」 
日時 9月30日(土) 13:30~14:40 
講師:伊藤夏穂(当館学芸員) 会場:研修室  定員:150名

島田雅彦講演会「牧歌への回帰」 
日時 10月21日(日) 13:30~15:00 
講師:島田雅彦氏(小説家) 会場:講堂   定員:500名

蜂飼耳講演会「草野心平、詩の理想を求めて」 
日時 10月28日(日) 13:30~15:00 
講師:蜂飼耳(詩人・作家) 会場:研修室  定員:150名

阿毛久芳講演会 「宮沢賢治、高村光太郎、そして草野心平―コスモス、世界共通意識と孤絶意識にかかわって―」 
日時 11月10日(土) 13:30~15:00 
講師:阿毛久芳氏(都留文科大学名誉教授) 会場:研修室 定員:150名

すべて参加費無料。要申し込み。


今日現在、館のサイトに詳細情報が出ていない000ので(かなり前に一度出たのですが、なぜか削除されています)。詳細が不明な点が多いのですが、チラシによれば館蔵のもの以外に、いわき市立草野心平記念文学館さん、塩尻市立古田晁記念室さんなどの所蔵品が並ぶようです。そういえば、古田晁記念室さん、心平関連の展示もけっこうあったと思い出しました。

光太郎関連が展示されるかどうか不明ですが、昭和18年(1943)に刊行された心平詩集『富士山』は、光太郎が題字を揮毫しており、並ぶのではないかと思っております。

9/22追記 館のサイトで同展の詳細、復活しました。光太郎関連展示物も予想以上にたくさん出ていました。詳しくは9/22の記事をご参照下さい。 

また、関連行事のうち、都留文科大学名誉教授・阿毛久芳氏の講演会では、光太郎にも触れて下さるようです。

展示の会期は今週の土曜からですが、前日の金曜日に開会式及びレセプションということで、案内を頂きました。当方、まずそちらに行って参ります。

皆様も是非足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

方向は人を救ふ。その方向の如何を問はず、方向を持つ事は既に何かである。まして自己の心情の表白に能く形を与へ得る疎通の道を知つた時、窮まれる者がその方向を一つの手がかりとするに不思議はない。

散文「ヹルハアラン」より 昭和8年(1933) 光太郎51歳

光太郎が、詩集『天上の炎』、『明るい時』、『午後の時』などを翻訳したベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの評伝から。

「天才は天才を知る」といいますが、光太郎は、ヴェルハーレンや、アメリカのホイットマンなどに、理想的な詩人としての魂を見いだしていました。そして、年少の友人・心平にも。

まずは今月9日の『河北新報』さん。宮城県女川町の光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連です。 

<東京五輪>海外メディア、宮城の被災地視察 復興状況発信

 2020年の東京五輪・パラリンピックに向けて東日本大震災の被災地の復興状況を世界に発信しようと、東京都は8日、海外メディア向けに宮城県女川町や東松島市を巡るツアーを開催した。フランスやインドなど13カ国の報道関係者24人が参加した。
 女川町のまちなか交流館では、須田善明町長が復興の歩みを説明。サッカーチーム「コバルトーレ女川」の選手らや、五輪・パラリンピックのポスター作品コンテストで金賞を受賞した女川小6年鈴木御代(みだい)さん(11)が20年大会やスポーツへの思いを語った。一行は町中心部の商業エリアや、女川中に建つ「いのちの石碑」なども見学した。
 シンガポールを拠点に働くスティーブン・ムーラさん(52)は「震災当時の出来事は今も女川の人々の心に鮮明に残っていると感じた。震災の1年後に被災地を訪れたが、復興が進む様子を見られてよかった」と話した。
 東松島市宮野森小では、08年の北京大会ソフトボールに出場した馬渕智子さんによる授業を取材した。9日は五輪出場経験者らが参加する「オリンピックデー・フェスタ」がある福島県昭和村に足を運ぶ。

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今年、JFLに昇格したコバルトーレ女川の千葉洸星選手は女川町出身。「いのちの石碑」建立に拘わってきたメンバーの一人なのですね。


続いて『朝日新聞』さん。14日の東北版です。 

(東北細見)智恵子記念館 福島・二本松市 夫への愛「紙絵」は芸術に /東北・共通

◆みちのくお出かけ  9月に入って雨が続き、安達太良山の上の「ほんとの空」は厚い雲の向こうだった。振り返ると家並みの向こうに阿武隈川の水面が光った。
 1920(大正9)年春、詩人で彫刻家の高村光太郎は妻の智恵子の故郷・福島県二本松市油井を訪ねた。父の三回忌で滞在中の智恵子は喜び、生家の裏の鞍石(くらいし)山からのパノラマを二人で眺めた、と後に光太郎は振り返っている(「智恵子回想」など)。
 同山を整備した智恵子の杜(もり)公園の展望台から下ること約20分。生家の造り酒屋に併設する智恵子記念館に着いた。心を病んだ智恵子は晩年、病室で切り絵細工の「紙絵」制作に没頭した。その日に見た物を手当たり次第に題材にし、包装紙や色紙を切り抜いた。その数、肺結核で亡くなる約2年の間に1千数百点。館内には約30点の複製が常設展示され、期間限定でオリジナルも展示される。
 「すべて智恵子の詩であり、抒情(じょじょう)であり、機知(きち)であり、生活記録であり、此世(このよ)への愛の表明である」。光太郎はそう評したが、少し捕捉が必要だろう。
 付き添いのめいの手記によると、智恵子は完成次第、作品を隠し、見舞いに訪れた夫にだけ見せたという。「病状が悪化し会話も成立しない中、眠っていた芸術的センスが紙絵に現れた」と担当の市文化課の服部正人さん(47)。唯一の理解者である夫にだけ向けられた愛の表明と伝わってくる。
 都内で活動する切り絵作家の福井利佐さん(43)は「まるで筆で描いたよう」と、下書きをせず一気にハサミで切った技法にも注目する。「切り絵が芸術として確立していない時代に独自の表現を見いだしていた」
 二本松市内などを会場にした「福島ビエンナーレ2018」で福井さんは来月中旬~11月下旬、智恵子の生家で作品を展示する。市内に唯一1軒残った正月飾りの切り紙細工の技法を福井さんが学び、智恵子の母校・油井小学校の児童たちに指導した作品と共に。
 女性の芸術家を目指した智恵子。その思いは地域の文化の継承も加え、受け継がれる。

<メモ>二本松市智恵子記念館・生家(水曜休館)へはJR安達駅から徒歩で約20分。東北道二本松インターから国道4号を経由して車で約10分。周辺には智恵子の祖父が奉公した造り酒屋跡、父母の出会いのきっかけとなった商店跡など「ゆかりの地」もあり、散策先として紹介されている。詩碑などのある「智恵子の杜(もり)公園」は記念館の背後の稲荷八幡神社から。展望台まで直接車で向かうルートもある。


というわけで、二本松の智恵子生家・記念館周辺を紹介して下さいました。

記事にある「福島ビエンナーレ2018」が既に始まっていますが、智恵子生家での福井利佐さんのインスタレーションは、10月13日からとなります。詳しくはまたのちほど。


【折々のことば・光太郎】

あまり明白すぎて人にまぶしがられてゐる太陽、あまり確かすぎて人に古臭がられてゐる大空、それを彼は敢然として書く。真理に対する良心の火を彼ほど命にかけて護持する者は偉大である。

散文「ロマン ロラン六十回の誕辰に」より
大正15年(1926) 光太郎44歳

「ジャン・クリストフ」や戯曲「リリユリ」の翻訳を光太郎が手がけた、ロマン・ロランの評です。光太郎自身への評としても当てはまりますね。

福島大学うつくしまふくしま未来支援センターさんの主催で、光太郎詩「あどけない話」中の「ほんとの空」を冠した東日本大震災からの復興支援シンポジウムです。これまでに京都東京愛知いわき新潟南相馬、そして仙台でそれぞれ開催されてきました。 

ほんとの空が戻る日まで~被災地が進めるこれからの教育~

日  時  : 平成30年9月25日(火)13:00~16:00
場  所  : コラッセふくしま 4階多目的ホール(福島市三河南町1番20号)
参加対象  : 一般市民、教育関係者、行政職員、大学関係者、団体職員 他
参加定員  : 100名程度
参  加  費  : 無料
主  催  : 国立大学法人福島大学うつくしまふくしま未来支援センター
共  催  : 福島県教育委員会

うつくしまふくしま未来支援センターは、福島県教育委員会との共催により、9月25日に福島市にてシンポジウムを開催いたします。
本シンポジウムでは、東日本大震災で甚大な被害を受けた県内の被災地で行われている新しい教育についてご紹介し、今後の教育・人材育成について参加者と共に考え、復興に活かすことを目的としています。
詳細は下記および別紙チラシをご覧ください。皆様からのご参加をお待ちしております。

[基調講演]13:15〜14:00
ふくしまイノベーション・コースト構想を通じた人材育成について
「福島への思いを育む教育を目指して」 
(一財)福島イノベーション・コースト構想推進機構 コーポレート部門教育・人材育成部人材育成支援課長 飯田喜之 氏

[パネルディスカッション]14:15〜16:00
「被災地が進めるこれからの教育」
 ファシリテーター 三浦浩喜(福島大学理事・副学長)
 コメンテーター 飯田喜之(基調講演講師)
 パネリスト 岩崎秀一氏・丹野純一氏・天野和彦氏・谷信孝氏

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単発で終わらず、継続して取り組まれているのがすばらしいと思います。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

ホヰツトマンは「詩」が如何にして純粋に人間生活の処女地から全く新鮮に、全く独立に形成され得るかを示した詩人であつて、詩の因習と既成概念との奴隷であつた世人に理解されなかつたのも無理はない。彼は徹頭徹尾詩人である。詞句の錬金家としてのみの文化末期の詩人でなくて、詩人は予言者だといふ意味に於ける新興文化の先駆者としての詩人である。

散文「ウオルト ホヰツトマン」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

光太郎の考える、詩人としての一つの理想形が語られています。大正3年(1914)、美辞麗句ばかりの文語定型詩全盛の時代に、詩集『道程』で口語自由詩を確立させた光太郎も、当初は「詩の因習と既成概念との奴隷であつた世人に理解されなかつた」といえましょう。

『日本経済新聞』さんと『朝日新聞』さんに碧海(おうみ)寿広氏著『仏像と日本人』(中公新書)の書評が出ました(『読売新聞』さんにも出たようですが、ネット上で読めません)。

まず、『日経』さん。光太郎の名も出して下さっています。 

仏像と日本人 碧海寿広著 信仰か芸術か 葛藤の近現代  

 本来的には信仰の対象であった仏像を、私たちは明治以降、美術作品として「鑑賞」の対象にもしていった。そしていま、日本人は仏像をどのような眼差(まなざ)しで見ているのか、その過程を丹念に追ったのが本書だ。

明治元年(1868年)の神仏分離令を契機とした廃仏毀釈の嵐は、寺院や仏像に巨大なダメージを与えた。そこからの復興の道筋として、寺院の什宝(じゅうほう)を「文化財」と見なし、国が保護するという形ができる。やがてそれらの文化財は、新しい「美術史」という学問の枠組みの中に取り込まれ、美術館・博物館制度の整備と軌を一にして、保護、研究、そして鑑賞の対象となっていった。
 こうした仏像の「鑑賞」は、戦前まで『古寺巡礼』の和辻哲郎を代表とする、教養を持つ男性たちの、いわばエリート文化の側面が強かった。しかし戦後の映像メディアの発達、奈良・京都への修学旅行の普及、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンなどを背景とした、古社寺や仏像が目的の「観光」は、性別・年齢・社会階層を問わない大衆文化へと変じていく。その間、和辻をはじめ、亀井勝一郎、高村光太郎、土門拳、入江泰吉、白洲正子ら「鑑賞」する者の中に常に生じていた、信仰か芸術かという葛藤への、それぞれの向き合い方への言及も非常に興味深い。
 そして現在、評者自身も文化財としての仏像の「鑑賞」を助け、促す、メディアでの活動を仕事としている。その立場から見たとき、学んだり考えたり、実際に仏像の前まで足を運んだりするステップを省き、直感的にその見方を示すことで、鑑賞の大衆化に貢献してきた、これまでの仏像写真のあり方が、変化していることを感じる。
 現在、所蔵先や画像権利者に対して支払う使用料が高額で、(紙媒体の制作経費が相対的に低下していることもあるが)メディア側が広報用に無料で提供される画像を頻繁に利用、切り口を特定の展覧会に依拠したものが目立つようになった。寺や美術館・博物館といった「場」から、展覧会という、結ばれてはほどかれる「こと」との関係性が強くなっていく結果、人々が仏像に向ける眼差しが今後どう変化する、あるいはしないのか、密(ひそ)かに注視している。

《評》美術ライター 橋本 麻里



続いて『朝日』さん。こちらは光太郎の名はありませんでしたが。 

(書評)『仏像と日本人』 碧海寿広〈著〉

 ■信仰の対象? 文化財とみる?
 このところ仏像ブームが000続いている。われわれは何を求めて仏像を見に行くのだろう。
 本書は、近現代において日本人が仏像とどのように向き合ってきたか、その変化を追う。面白いのは、見る側の視線が世情とともに揺れ動くことだ。
 明治のはじめ、仏像が大きな危機を迎えたのはよく知られている。仏教排斥運動によって、多くの寺や仏像が破壊されたのである。そのとき、それを救ったのが文化財という思想だった。万国博覧会への出展や、博物館での展示、さらには寺院自身が宝物館を建て、文化的価値の高いモノは国宝や文化財に指定されていった。つまり宗教性を薄めた結果、難を逃れることができたのである。有名なフェノロサと岡倉天心による法隆寺の秘仏開扉も、信仰を棚上げにしたからこそ可能になった出来事だった。
 その後、和辻哲郎の『古寺巡礼』が仏像鑑賞ブームを巻き起こしたが、戦争が始まると、人々はまた仏像に祈るようになる。
 信仰の対象とする立場と美術と見る立場の間で揺れ動いていくわけだが、それらは互いに対立するばかりではない。たとえ信仰心がなくとも、仏像を自分の足で訪ね歩くことによって受ける感動が、仏を感得する喜びとそんなに違うはずがない、と断じた白洲正子の慧眼(けいがん)には唸(うな)らされた。
 現在はどうだろう。サブカル視点で見ている人も少なくなさそうだが、各人が仏像を前に何らかの感情に包まれたなら、そこから個別の美や宗教の経験を創造できる、と本書はあらゆる態度を肯定して清々(すがすが)しい。
 実は私は、全国に散在する巨大仏(高さ何十メートルを超すような大仏)を訪ねて回ったことがある。そのときこれらの仏像をどういう態度で見ればいいかとまどった。美術として鑑賞するには大味だし、真剣に拝むには突飛(とっぴ)すぎた。仏像自体の枠組みさえも今後は変化していくのかもしれない。そんなことを思う。
 評・宮田珠己(エッセイスト)


なかなか注目を集めているようです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間の代弁者といふ以上、詩人は或る訴へを持つ。人間の心霊に対する訴、人間の感情に対する訴、さうして自然に向つての訴。詩人があらゆる段階を踏んで進み得る究極が、自然との同化、自然への没入、彼我圓融の境であることをしばしば見る。

散文「ホヰツトマンの事」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

その好例として、光太郎はワーズワースや芭蕉を挙げています。しかし、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンは、その境地をも超えた存在として語られています。曰く「彼は訴へない。ただぶちまける。彼の言葉は雨のやうにただざんざんと降る。」

そこで当方が思い出すのは、当会の祖・草野心平です。来週、心平の企画展が、山梨県立文学館さんで開幕します。また稿を改めてご紹介します。

新刊情報です。 

文豪たちのラブレター

2018/09/21 別冊宝島編集部編 宝島社 定価1,380円+税

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芥川龍之介が後の妻・文に送ったラブレターの一節は、思わず赤面してしまうくらい恥ずかしく、それでいて恋する心情が伝わってくる「生っぽい」文章です。かの文豪たちも、ラブレターともなると、その人自身のパーソナリティが色濃く反映されてしまうもの。本書は、中島敦、太宰治、谷崎潤一郎、夏目漱石、森鴎外など、あの文豪たちが実際に書いたラブレターを、当時の状況の解説とともに掲載した一冊です。

目次

 はじめに

 第一集 君のことを愛しています。——愛する手紙
  芥川龍之介からのちの妻、塚本 文へ
  樋口一葉から師、半井桃水へ
  国木田独歩からのちの妻、佐々城信子へ
  坂口安吾から恋人、矢田津世子へ
  高村光太郎からのちの妻、長沼智恵子へ

 第二集 君のためなら何でもする。——赤裸々な手紙
  佐藤春夫からのちの妻、谷崎千代(潤一郎妻)へ
  谷崎潤一郎からのちの二番目の妻、古川丁未子、のちの三番目の妻、根津松子へ
  若山牧水から片想いの石井貞子、のちの妻、太田喜志子へ
  倉田百三から恋人、山本久子(仮名)へ
  島村抱月から愛人、松井須磨子へ

 第三集 あなたを、好きになれてよかった。——切ない手紙
  太宰 治から愛人、太田静子へ
  小林多喜二から恋人、田口タキへ
  有島武郎から「お仲よし」唐澤秀子、愛人、波多野秋子へ
  石川啄木から恋人、菅原芳子へ
  北原白秋からのちの妻、福島俊子へ

 第四集 お前は、私の妻であればよい。——想う手紙
  夏目漱石から妻、夏目鏡子へ
  森 鷗外から妻、森志げへ
  堀 辰雄からのちの妻、加藤多恵子へ
  中島 敦からのちの妻、橋本たかへ

手紙の出典・参考文献一覧


というわけで、結婚前に光太郎から智恵子に宛てた、大正2年(1913)の1月28日の書簡が紹介されています。

この年9月、信州上高地で婚約する二人ですが、この時智恵子は、新潟にあった日本女子大学校時代の友人・旗野スミ(澄子)の実家に滞在し、スキーに興じたりしていました。その智恵子に送った「ラブレター」です。

手紙画像はこちら。現物は当会顧問・北川太一先生がお持ちです。

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全文翻刻はこちら。

光太郎から智恵子に宛てた手紙は、現在、4通しか現存が確認できていません。そのうち、ラブレター的なものはこの1通のみ。そういうわけで、時折、取り上げられます。平成14年(2002)には、故・渡辺淳一氏著『キッス キッス キッス』で、同25年には、NHKさんの「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で。


他に、光太郎と交流のあった石川啄木、北原白秋、佐藤春夫、森鷗外らの「ラブレター」も紹介されており、興味深く拝読(かえって、内容を知らなかったそちらの方が……)。

何はともあれ、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然が或る人間を特に人生の為に役立てようと思ふ時、其の使ひ方の決定的な巧妙さは驚くばかりだ。丁度或る時に丁度或る場所に丁度或る環境を与へて丁度或る強さの人間を生まれさせる。どうする事も出来ない。無自覚的にも自覚的にも、其の人間全体が一つの使命となる。その力は恐ろしい。

散文「ホヰツトマンのこと」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

歴史上、そういう人物はいろいろいると思います。日本でいえば、源義経、織田信長、西郷隆盛などに其れを感じますし、世界的にはチンギス・ハーンやロダンなどがそうでしょうか。光太郎はこの文章で、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンがそうであると言っています。

口語自由詩の確立や、近代彫刻の輸入といった部分では、光太郎もそうでしょう。

昨日、花巻の大沢温泉さんから郵便が届きました。角形2号(240㍉×332㍉・A4サイズ対応)の大きな封筒です。

当方、花巻に泊まる際にはよく利用させていただいていて、年に3回ぐらいはお世話になっています。そこで、忘れ物でも送って下さったのか、いや、それにしては、最後に泊まったのは7月だし……、イベントか何かの案内だろうか?……などと思いつつ、開封してみると……

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「菊水館」さんが、今月末で休業とのこと。驚きました。同時に、年三回程度の利用客にまでこの文書を送って下さる姿勢に感激しました。

大沢温泉さんは、通常の温泉旅館的な「山水閣」、長期の湯治客など用の「湯治屋(旧・自炊部)」、そして別館的な茅葺きの「菊水館」の三つに分かれています。

戦後の7年間、花巻郊外太田村に蟄居生活を送っていた光太郎も、ここの湯をこよなく愛し、たびたび訪れています。長い時には2週間も逗留しました。日記によれば、だいたい「山水閣」に宿泊したようですが(そこで「山水閣」には光太郎が泊まった部屋を再現した「ぼたんの間」がスイートルーム的に使われています)、「菊水館」に泊まったという記述もあります。公式サイトで光太郎を紹介して下さっていますし、「山水閣」内には光太郎にかかわる展示も為されています。

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そのうちの「菊水館」に通じる高明橋脇の法面(のりめん)が、8月9日に崩れ、通行ができなくなったそうです。

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8月9日といえば、女川光太郎祭の日。台風13号が日本列島を直撃していました。その影響でしょう。当方、今月初めに花巻に行きましたが、その際は鉛温泉さんに宿泊したので、存じませんでした。

「湯治屋」につながる曲がり橋は健在なため、そちらを使って営業を続けてこられたそうですが、冬になると積雪が半端ではないところなので、宿泊客の食材等の搬入が困難になるため、「菊水館」のみ休館だそうです。再開のめどは立っていないとのことですが、早期再開を目指すそうで、そうあってほしいものです。

当方、大沢温泉さんでは主に「菊水館」に宿泊しています(何度泊まったかもはや思い出せません)。光太郎も泊まった築160年の趣、食事も美味しく、事前に「苦手な食材は?」的な質問もして下さるなど、細やかな対応がなされています。それでいてリーズナブルな料金。曲がり橋を渡って露天風呂に行くというのも風情があります。

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「山水閣」、「湯治屋」は健在ではありますが、当方にとっては、やはり「菊水館」。そういう方も多いのではないでしょうか。一日も早い再開を願ってやみません。

追記 2019年6月末より、宿泊はできないものの、「ギャラリー茅」として再オープンしました。


【折々のことば・光太郎】

現代のむつかしくなやましい社会生活の中にあつて、否応なしに気むつかしくなつているわれわれも、たまには「雅歌」のような古い、幼稚な、人間初発の、謀略のない声をきくと楽しい。馬鹿らしいほど単純だと思いながら、やつぱり読む。
散文「雅歌」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

「雅歌」は聖書の一節で、神に対する信仰の告白的な内容ですが、光太郎は男女の恋愛詩としても読めるとしています。特に好んだのが「北風よ起れ、南風よ来れ、我園を吹きてその香りを掲げよ。ねがはくはわが愛する者のおのが園に入りきたりてその佳き果を食はんことを」の句で、書として揮毫したりもしています。

古い、幼稚な、人間初発の、謀略のない声」も、光太郎の目指した一つの境地でしょう。ただ、光太郎詩は「馬鹿らしいほど単純だ」とは思いませんが。

昨日ご紹介した、横浜の日枝神社さん例大祭同様、毎年ご紹介していますが、智恵子の故郷・福島二本松に隣接する本宮市でのイベントです。

本宮を舞台とし、東宝さんの配給で、1965(昭和40)年に自主制作された吉村公三郎監督、故・山岡久乃さん主演映画「こころの山脈」が上映されます。劇中で「智恵子抄」が一つのモチーフとして使われています。

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第6回カナリヤ映画祭

期 日 : 2018年9月15日(土)・16日(日)
会 場 : サンライズもとみや 福島県本宮市矢来39-1
料 金 : 無料
日 程 :
 9月15日(土) 
  11:00 本宮駅前集合 本宮映画劇場見学
  13:00 第2回GCL 国際ジュニア映画祭in 本宮
  14:10 美術科教育学会リサーチフォーラム
  15:40 「こころの山脈」 上映時間90分 
 9月16(日)
  9:40  開場
  10:25  「人生フルーツ」 2016年作品 伏原任建之監督 上映時間91分
  《昼休憩60分程》
  13:00 「ココロの欠片(カケラ)」 2018年作品 本宮高校製作 上映時間10分
  13:20 「秋祭り 私の視点」 2015年作品 ハンナ・ノイフェルト製作 上映時間20分
  14:05 「ケニアン~あなたでよかった~」 2015年作品 鈴木浩介監督 上映時間34分
  16:30 「しゃぼん玉」 2017年作品 東中児監督 上映時間108分
  18:30 終了

主催 : カナリヤ映画祭実行委員会 NPO法人本宮の映画文化を継承する会

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初日に「こころの山脈」の上映があり、さらにその日は「2018年度 美術科教育学会リサーチフォーラムin 福島」の発表を兼ねているようです。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は概して利口な詩よりも真摯な詩形で深さを持つものを多く選んだやうである。詩の発足はさういふところから為べきだと思つたからである。いかなる場合にも真実を離れて詩は存在しない。幼稚はかまはない。狡知は詩を低くする。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

3年間務めた雑誌『新女苑』の投稿応募詩選者を退任する、その最終回の末尾部分です。

狡知は詩を低くする」――詩に限らず、そうですね。

毎年ご紹介していますが、横浜伊勢佐木町ににあるお三の宮日枝神社さんのお祭りです。たくさんの神輿が出る中で、光太郎の父・高村光雲の手になる彫刻が施された「火伏神輿」も出ます。大正天皇即位記念に製作され、関東大震災と、横浜大空襲の2回の火難をくぐり抜けたということで、「火伏」の名が冠されています。 

日枝神社例大祭(お三の宮 秋まつり)

期   日 : 2018年9月14日(金)~16日(日)
会   場 : イセザキ・モール 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1・2丁目

【火伏の神輿行列】9月14日(金)午後1時30分ころ
火伏の神輿は、大正天皇即位記念事業の1っとして企画されたものです。伊勢佐木町は横浜一の神輿を鎮守に奉納したいと当時の帝室技芸員高村光雲先生の助力をお願いしました。設計には東京芸術学校の島田教授、製作主任は神輿造りの第一人者といわれた小川氏、彫刻は光雲先生自らが彫刀をふるわれました。
関東大震災や戦災をまぬがれてことから誰言うとなく苦を散ずる、火を逃れた霊験を讃え"火伏の神輿"といわれるようになったといわれています平成17年から白装束の氏子による行列がおこなわれています。

【大神輿御巡行】 9月16日(日)有隣堂前奉安 午後5時から7時ころ
社宝大神輿は千貫神輿とも呼ばれ、その大きさ、巧緻さ、荘重さ等、横浜随一の大神輿です。以前は、3日にわたり飾り立てた黒牛に引かせていましたが、現在は小型トレーラーで牽引しています。
猿田彦神、祓い神職により先導され、氏子・崇敬者と共に丸一日かけて氏子町内を御巡行致します。

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一度拝見に伺いました。神輿というと勇壮な担ぎ回000しのイメージですが、こちらはしずしずと荘厳な感じです。火伏神輿以外にも、やはり光雲作の獅子頭一対の展示もあり、間近に観られるいい機会です。

獅子頭は14日(金)~16日(日)まで休まず展示されます。

その他、和太鼓の演奏や子供神輿、火伏神輿とは別の町内大神輿の渡御などがあり、多くの人でにぎわいます。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩を書く以上は、言葉を大切にして、言葉が今日までどう使はれ、現在どう生きてゐるかに深く思をひそめねばならない。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

光太郎が詩作の際に留意していた事柄の一端がよく表されています。

東京小平から企画展情報です。 

明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ

期 日  : 2018年9月14日(金)~11月25日(日)
会 場  : 小平市平櫛田中彫刻美術館 東京都小平市学園西町1-7-5
時 間  : 午前10時~午後4時
料 金  : 一般…800円(650円)、小・中学生…150円(110円)
        ( )は団体20人以上
休館日 : 会期中無休

 平成30(2018)年は、明治元年からちょうど150年にあたります。
 明治時代は江戸時代まで続いた封建社会に代わって、天皇を中心とする新しい国家体制が築かれるとともに、西洋文明を盛んに取り入れながら、産業、交通、教育など様々な分野で急速に近代化が進められました。
 美術の世界も例外ではなく、明治9年開校の工部美術学校における西洋美術教育や世界各国で開催された万国博覧会への参加を通じて、日本の長い伝統を持つ造形世界と並行しつつ、あるいは互いに影響しあいながら、新たな表現が生まれていきました。広く知られるように、「美術」「彫刻」という、私たちにとって馴染みのある言葉が誕生したのもこの時代のことでした。
 今、この明治時代の彫刻が関心を集めています。今日彫刻の表現が多様な拡がりをみせ、絵画、工芸、建築といった他ジャンルとの境界が益々曖昧となっていくなかで、彫刻という言葉と概念が形成された時代まで遡り、彫刻の出自を見極めたいという欲求が人びとの間で高まっているのかもしれません。
 本展においても、明治150年という記念すべき年に、こうした問題意識を軸にして、「博覧会」「銅像」「美術教育」「展示空間」「美術団体」といった様々なキーワードを重ねながら、初公開作品を含むおよそ60点の彫刻作品とともに、この時代における彫刻の特性を浮き彫りにしたいと思います。

主な出品作家 朝倉文夫 石川光明 荻原守衛 高村光雲 平櫛田中 山崎朝雲 山本瑞雲 米原雲海 他

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関連行事

(1) 特別展記念講演会「日本彫刻のはじまり」
 日時:9月22日(土) 午後1時30分~
 会場:放送大学東京多摩学習センター
 講師:佐藤道信(東京藝術大学教授)
 申込み:事前申込み不要

(2) 学芸員による美術講座
 日時:9月29日(土)、 10月6日(土)、19日(金)、11月7日(水)、17日(土)
 各日 1回目午前11時~、2回目午後2時~(※10月6日は1回目のみ)
 会場:小平市平櫛田中彫刻美術館
 料金:無料(ただし、観覧料が必要)

(3) 江戸糸あやつり人形一糸座「人形浄瑠璃公演」
 日時:10月6日(土)、7日(日) 各日とも午後2時~3時
 会場:小平市平櫛田中彫刻美術館 記念館
 料金:無料(ただし、観覧料が必要)
 出演:江戸糸あやつり人形 一糸座

(4) ルネこだいら出前コンサート「魂の津軽三味線」
 日時:10月28日(日)  1回目 午前11時~11時30分、 2回目 午後1時30分~2時
 開場は公演の30分前
 会場:小平市平櫛田中彫刻美術館 記念館(雨天時は展示館)
 料金:無料(ただし、観覧料が必要)
 出演:中山信人(津軽三味線)

(5) 秋のお茶会&菊展示
 日時:11月2日(金)~4日(日) 午前10時~午後3時
 費用:1席300円(別途、観覧料が必要)
 定員:各日とも先着60席
 協力:小平茶道華道友の会、愛菊会、JA東京むさし

(6) 秋のわくわく体験美術館ウィーク
 日時:10月27日(土)~11月4日(日)
 対象:小・中学生
 内容:期間中、小・中学生は無料で観覧できます。 (同伴の保護者の方は観覧料が必要)


光雲の名が出品作家の中にありましたので、問い合わせてみましたところ、3点出るそうです。

まず、明治26年(1893)作の「楠木正成銅像頭部(木型)」。文字通り皇居前広場に建つ楠木正成像の木型の頭部です。したがって、なかなかの大きさで、像高約70センチです。平成14年(2002)に、茨城県近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」の際にも出品されています。

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それから、昨年、豊橋市美術博物館さん000他を巡回した「ニッポンの写実 そっくりの魔力」展にも出た「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895・個人蔵)、さらに、大黒さまと恵比寿さまが彫られた香盒(こうごう・香を入れる蓋つきの容器)も出るとのこと。そちら2点は拝見した記憶がありません。

他に、光雲の弟子筋や、光太郎周辺作家も目白押し。当方、来週には参上する予定です。皆様もぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩は個人の心の中に生まれるものではあるが、決して一私人の私的述懐に終るものであつてはならない。あくまで個人的であつて、しかも公けな、普遍性を持つてゐなければならない。はじめから誰にでも通ずる普遍性を心がければ必ず類型に堕して生命のないものになるにきまつてゐるが、さればとて自分一人のわたくし心をいぎたなく書き並べても詩の格は持ち得ない。一人に極まることが万人に通ずる道であるところに詩の妙味は存する。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

一人に極まることが万人に通ずる道である」というのが全ての事象にあてはまるというのが、光太郎の持論のようで、前年に書かれた随筆で、詩集『智恵子抄』にも収められた「智恵子の半生」(昭和)にも、「一人に極まれば万人に通ずるということを信じて、今日のような時勢の下にも敢て此の筆を執ろうとするのである。」の一節があります。

昨日は、北鎌倉に行っておりました。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」。以前にもご紹介しましたが、ジオラマを造られた品川ご在住の石井彰英氏が、ご自身でジオラマの細部を撮影され、お仲間の皆さんと音楽やナレーションを入れた「高村光太郎ジオラマDVD」が完成し、その上映が行われるということで、行って参りました。

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その前に、同じ北鎌倉にある、笛ギャラリーさんに立ち寄り、昼食を頂きました。光太郎の妹の令孫に当たる山端夫妻が営むギャラリー兼カフェです。

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ご近所には、光太郎と交流の深かった
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詩人・尾崎喜八の令孫がお住まいで、笛さんと共同で、毎年10月には「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」という展示をなさっています。

今年も10月5日頃から開催の由、チラシが出来たら送って下さるとのことで、また近くなりましたらご紹介いたします。

その後、北鎌倉・台地区の川上さんというお宅へ。いくつかある棟のうちの一棟を、地域の公民館的な形で開放されているそうで、そちらが上映会の会場です。二間続きの座敷、襖を外してぶち抜き、大型テレビを設置してありました。

逗子にお住まいの、テルミン奏者・大西ようこさんが、ご主人ともどもお見えでした。筋金入りの智恵子ファン(笑)で、「智恵子抄」をテーマにしたコンサート等を何度もなさっている、筋金入りの智恵子ファン(笑)です(しつこい(笑))。



参会の方々は、会場をご提供下さった川上さんはじめ、北鎌倉のナショナルトラスト運動に取り組まれている「北鎌倉湧水ネットワーク」「台峯緑地保全会」の皆さんが中心で(そちらのサイトにも上映会のレポートが)、ジオラマ作者の石井氏が以前に北鎌倉のジオラマも制作されたご縁で、おつきあいが続いているそうです。今回のDVDで、挿入音楽を演奏なさった屋良朝信氏もご参加なさいました。

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光太郎のDVD、北鎌倉のそれと、二本上映されました。開け放した窓から野鳥の鳴き声が聞こえ、DVDに入っている効果音かと聞きまごう状態で、いい感じでした。

光太郎DVDの方は、ナレーション原稿を執筆させていただいたので、以前から何度も拝見していますが、制作者の石井氏の解説入りで観ると、また違ったものでした。

北鎌倉の方は、同地を舞台とした小津安二郎監督・原節子主演作品「麦秋」へのオマージュ的な。原さんといえば、昭和32年(1957)、東宝映画「智恵子抄」で智恵子を演じられていて、不思議なご縁を感じました。

ところで花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻電鉄」。一昨日、岩手めんこいテレビさんでご紹介下さいました。石井氏のジオラマもばっちり映りました。 

「光太郎と花巻電鉄」 高村 光太郎 企画展

詩人で彫刻家の高村 光太郎と花巻電鉄の関わりなどを紹介する企画展が、岩手・花巻市で開かれています。
これは、高村 光太郎が、花巻で暮らした7年間の日常を紹介しようと企画されました。会場には、光太郎が疎開していたころの花巻の風景を再現した、ジオラマが展示されています。中でも、東北初の電車として知られる「花巻電鉄」は、光太郎が、買い物や療養先の花巻温泉へ出かける際に、生活の足として利用していたものです。このほか、直筆の書や着用した衣服、主治医に宛てた手紙など、光太郎ゆかりの品々が展示されていて、訪れた人たちは、光太郎の足跡に思いをはせていました。この企画展は、11月19日まで開かれています。

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記念館さんで、「高村光太郎ジオラマDVD」が販売されてもいます。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩の内容といふのは言葉で言ひあらはされた意味の事ではなくて、詩人がさう書かねばならなかつた気魄なり、感覚なり、詩心の事である。詩を読んで其の意味ばかりにとらはれて此の真の内容に気がつかなければ詩を読んだかひが無い。詩の持つ意味は詩人の心の向けられている方位の如何を示し、肝要なのはそれがどういふ内容に於いて満ちてゐるか、欠落してゐるかといふ事である。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

この前の部分では、絵画も然りと光太郎は書いています。結局、どんな芸術でもそうなのでしょう。

昨日は、都内に出ておりました。メインは筑波大学さんの東京キャンパス文京校舎で開催されたシンポジウム「近代東アジアの書壇」。

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複数の方々のご発表がありましたが、盛岡大学の矢野千載教授が「高村光太郎と近代書道史 ―父子関係と明治時代の書の一側面―」というご発表をされるというので、拝聴して参りました。

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全体のテーマが「近代東アジアの書壇」ということで、他の発表者の方々を含め、中国、朝鮮、そして日本の近代書道史について、様々な切り口からのお話。門外漢の当方としては、知らないことばかりで勉強になりました。

それぞれのご講演、ご発表の終了後は、質疑応答を兼ねての討議。

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最後に司会の筑波大学さんの菅野智明教授がうまくまとめて下さいました。

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古来、東アジアでは「書画」という熟語が定着するなど、「書」と「画」は切り離せないものであったところに、近代になってのウエスタン・インパクト――西洋から「美術」という概念がもたらされた――の結果、ある意味、「書」は「美術」と乖離していったという指摘には、なるほど、と思わされました。美術家でありながら書もよくした光太郎は、その意味では異端だったわけで――矢野氏は、似たような例として、智恵子の師でもあった洋画家の中村不折をあげられていますが――しかし、異端でありながら、逆に「王道」だったのかとも思いました。

会場には、九段下の書道用品店・玉川堂さんもいらしていました。当方、3年前にお店にお邪魔し、光太郎筆の短冊と、智恵子の妹・セキに宛てた光太郎書簡を拝見させていただきました。思いがけず久闊を叙することができました。

ちなみに参加者は50名超。若い方も多く(ご発表なさった皆さんに関係する学生さんが多かったように思われますが)、頼もしく感じました。

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終了後、矢野氏とお話しさせていただき、さらに氏が平成23年(2011)と同26年(2014)、『日本文学会誌』に発表された論文の抜き刷りも頂いてしまいました。

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ともに花巻に建つ、光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑の碑銘書(先月までいわき市立草野心平記念文学館さんの企画展「宮沢賢治展 ―賢治の宇宙 心平の天―」に出品されていました)に関しての内容です。まだ熟読しておりませんが、この後、じっくり読みたいと思っております。

ところで、シンポジウムは午後からでした。午前中は、というと、駒場の日本近代文学館さんに行っておりました。

1ヶ月程前でしたでしょうか、とある古書店さんの目録が自宅兼事務所に届き、そちらに載っていた雑誌の表紙画像(題字)に、光太郎の筆跡を発見。誌名は『詩層』、昭和15年(1940)の創刊号でした。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』別巻に、当会顧問・北川太一先生による詳細な「造形作品目録(装幀・題字)」が載っており、光太郎が装幀をしたり、題字等を揮毫したりしたもののリストがおよそ100点、リストアップされています。『詩層』の項には「昭和18年 未見」と記されており、以前からいずれ見つけようと思っていました。日本近代文学館さんに『詩層』という雑誌が所蔵されていることは存じておりましたが、昭和15年(1940)のものなので、題名が同じだけの別物だろうと思っていたのです。ところが、古書店目録の画像を見ると、どう見ても光太郎の筆跡。そこで現物を確かめに行った次第です。

すると、ビンゴでした。目録では画像が小さすぎてわからなかった右下に「題字 高村光太郎氏」の文字。

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光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での書は、ある意味「突き抜けた」もの(石川九楊氏曰く、紙に彫りつけた彫刻のような字)になりますが、それ以前の正統な筆法です。しかし、しっかり光太郎の字の特徴が現れている、いい字ですね。

手前味噌になりますが、小さい画像から気が付いた自分を自分で褒めたくなりました(笑)。


その他、光太郎と書については、まだまだいろいろ考えるべき点が多く残されています。今後も多くの方々に取り上げていただきたいものですし、当方も新発見等に努めます。


【折々のことば・光太郎】

日本語の美しさを生かすことにつとめませう。英語やドイツ語ほどアクセントは強くありませんが、それだけに、最善の場合にはそれらの言語よりも高雅の趣を持つてゐます。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

そして、文字として書くことで、「書」という芸術にもなる日本語。光太郎にとって、書は、詩を通して追究してきた言語の美と、彫刻によって現出させてきた造形美との融合を図る、究極の芸術だったのかも知れません。生前には実現しなかったものの、最晩年、彫刻の個展には興味を示さなかった光太郎が、書のそれには非常に乗り気でした。

震度7の大地震による被害で、北海道が大変なことになっています。亡くなられた方には謹んでお悔やみ申し上げます。

平成23年(2011)の東日本大震災当時、当方自宅兼事務所のある地域もそれなりの被災地となり、いろいろ大変だったこと、そして津波の犠牲となられた当時の女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣氏のことなどを思い出しています。

さて、北海道に本拠を置く日本ハムファイターズさん関連で。8月30日(木)の『スポニチ』さんから。 

日本ハム・清宮、初の単独ポスター登場 逆転Vへ「お楽しみはこれからだ」

 首位の西武を6・5ゲーム差で必死に追う日本ハムが、初めてドラフト1位の清宮幸太郎内野手(19)の単独ポスターを作製したことが29日、分かった。逆転優勝の機運を高めるため、9月上旬から道内各所に掲示される予定だ。今月21日の1軍昇格から高校通算111本塁打の本領を発揮している怪物ルーキーが「主力選手」と認定された。
   逆転優勝への機運を高めるため、北海道を一丸にする。球団が初めて作製した清宮の単独ポスターが道内各地に登場するのは9月上旬予定。球団関係者は「10月に(優勝で)ファンの皆さまと一緒に喜ぶため、チームを盛り上げたいという思いでポスターを作りました」と思いを明かした。
  清宮は昨秋のドラフトで7球団競合の末に入団。キャンプ期間のコンディション不良などで開幕は2軍だった。5月9日のオリックス戦でプロ1号を記録したものの、その後は打撃不振や右肘の炎症などで今月中旬までは大半が2軍暮らし。それでも21日に今季3度目の1軍昇格を果たすと、前日28日までの7試合で打率・385、3本塁打、8打点と好成績を残し、今回の抜てきにつながった。
  シーズン終盤の時期に緊急作製されたポスターは「♯お楽しみはこれからだ」という言葉と躍動感あふれる写真で「逆襲」を予感させるものとなっている。清宮の他にも主将の中田、レアードら計10選手で各1000枚、計1万枚が作られた。
  今季は二刀流で看板選手だった大谷がポスティングシステムでエンゼルス、抑えの増井がオリックス、正捕手の大野が中日にそれぞれFA移籍。大幅な戦力ダウンで開幕前の下馬評は低かった。それでも主将の中田を中心にチーム一丸となり開幕から白星を重ね、現在も西武、ソフトバンクと優勝争いを展開。清宮を筆頭に浅間、渡辺ら若手を積極的に起用しているが、栗山監督は「もう年齢は関係ない。勝てるメンバーで戦う」と語っている。
  今季、チームはビジターで27勝29敗1分けだが、ホームは33勝22敗2分けと大きく勝ち越し。逆転優勝の実現には北海道のファンの後押しは不可欠だ。今月に入って失速したチームは24日から26日まで札幌ドームで行われた楽天3連戦で7カードぶりに勝ち越し。ファンの大声援を力に変えて再び上位の西武、ソフトバンクを猛追する態勢を整えた。
  シーズン佳境の時期にポスターを新たに作製するのは球団では初の試み。一丸で2年ぶりの優勝を目指す。

問題のポスターがこちら。

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お気づきでしょうか。

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光太郎詩の代表作の一つ「道程」からのインスパイアですね。同じ「コータロー」つながりで、ということでしょうか。

これまでもスポーツ界などで偉業を成し遂げた人々への形容として、「道程」のフレーズが使われてきました。野茂英雄選手大相撲の横綱・白鵬関、それからスポーツではありませんけれど(「盤上の格闘技」ともいえますが)、将棋の藤井聡太七段……。

清宮選手、プロ野球ではまだまだ偉業といえる実績はありませんが、「清宮の後ろに道は出来る」の一節に相応しい活躍を期待したいと思います(個人的には東北楽天ファンですが(笑))。

そしてその活躍で、北海道の皆さんを勇気づけていってもらいたいものです。がんばろう、北海道。


【折々のことば・光太郎】

吐き出さずにゐられないものをどういふ形で打ち出したらいいのか、それを知らないために空しく自己の内天を殺してしまふ人も多いと思ふのであるが、それが詩といふ近代形式によつて最も身近に表現され得るといふ事を知つた者にとつては、此世にかかる解放と美の世界との存在するよろこびが身につくわけである。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

ある意味、「吐き出さずにいられないものを打ち出す」=「自己の能力を存分に発揮する」ということになりましょうか。野茂投手、白鵬関、藤井七段、そして光太郎、皆それが出来、活躍につながったわけですね。清宮選手、そして世の中の全ての人々が、それぞれの分野でそうなれるような世の中であってほしいものです。

周辺人物との関わりから、光太郎について記述された新聞記事を2本。

まずは9月2日(日)の『秋田魁新報』さん。 

ふるさと小紀行[小坂町・出版人・澤田伊四郎]「埋もれたもの」世に

 小坂町立総合博物館郷土館に7月、新たな常設コーナーができた。ショーケースに並ぶのは、竹久夢二、高村光太郎、棟方志功といった文化人の作品集。同町出身で出版社「龍星閣」(東京都千代田区)を創業した澤田伊四郎(1904~88年)が、世に送り出した本の数々だ。
  地元の大地(だいぢ)地区を除き、町内で澤田のことを知る人はこれまでそう多くなかった。親交があった同郷の日本画家、福田豊四郎(1904~70年)と比べ、知名度には差がある。
  注目されるきっかけは今年2月。澤田の長男で龍星閣現社長の大多郎さん(78)が前年、小坂町へ寄贈した膨大な資料の中から、高村に関する未公表資料が見つかった。
  代表作「智恵子抄」の続編の出版に向け、澤田と交わした書簡34通。全集に収録されていない資料だった。高村は当初「これはまずものにならないと思います」と記したが、約1年後には「たのしい詩集になりそうでたのしみです」と書いており、出版を巡る心境の変化が読み取れる。
  大多郎さんが寄贈した資料は、龍星閣の出版物やさまざまな文化人と交わした手紙などで、段ボールで13箱分に及んだ。
  小坂町教育委員会の学芸員、安田隼人さん(35)は「たまたま最初に手を付けた高村の書簡から、未刊行資料が見つかった。この『龍星閣コレクション』は、すごいものなんじゃないかとの思いが強まった」と話す。
  澤田は自身も詩などを創作し、学生時代から同人雑誌を手掛けてきた。1933(昭和8)年に龍星閣を創業。20代後半で編集・出版を専業とするようになった。
  モットーは「有名でないもの、埋もれたもの、独自なものを掘り上げて、世に送る」。龍星閣の出版物は革張りや金箔(きんぱく)といった豪華な装丁が特徴で、澤田の本作りへの情熱、作者に対する敬意がにじむ。
  憂いを帯びた美人画で知られる竹久夢二も、澤田が「掘り上げた」作家の一人だ。竹久の死後に資料収集に奔走し、10冊近い作品集を龍星閣から刊行した。安田さんは「現在に至る竹久夢二人気の中で、澤田が果たした功績は大きい」と指摘する。
  66(昭和41)年の県広報誌に掲載された対談記事で、澤田はこう語っている。「30年たった後の世に読み返して、そこに新しい価値を発見できるといったようなもの、そして他の出版社で出せないようなものというのが、私の出版方針です」
  くしくも逝去から30年。気骨の出版人の業績が、古里で再評価され始めた。

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今年2月に企画展「平成29年度新収蔵資料展」が開催され、その展示品の一部が7月から常設展示となった、小坂町の総合博物館郷土館さんがらみで、同町出身の龍星閣主・澤田伊四郎の紹介です。光太郎代表作の一つ『智恵子抄』などの版元ということもあり、光太郎についても言及して下さいました。

当方、2月GWに現地に伺い、報道されている署名本や書簡類を拝見して参りましたが、とてつもなく貴重な資料です。ぜひ足をお運びください。


続いて9月3日(月)の『東京新聞』さん東京都内版。 

文豪の足跡記す 街歩き冊子発行 森鴎外記念会・倉本事務局長

000 文豪・森鴎外(1862~1922年)を研究している「森鴎外記念会」(事務局・文京区)が、鴎外ら文学者の軌跡をたどる街歩きの冊子を発行している。倉本幸弘事務局長(66)が執筆・編集を担い、これまで2冊を刊行、現在は3冊目を準備中だ。倉本さん独特の目線から街へと誘う。 (中村真暁)
 二〇一六、一七年発行の二冊のコースは、いずれも鴎外が半生を過ごした「観潮楼(かんちょうろう)」(同区千駄木)跡に立つ区立森鴎外記念館が起点。一冊目の「観潮楼から芝、明舟町へ」は、鴎外が実際に歩いたと考えられる港区虎ノ門までの約六・五キロをたどる。続く「団子坂から谷中・上野へ」は、鴎外の小説「青年」の舞台となった上野や谷中(台東区)など、直径一キロほどのエリアを巡る。
 地域ゆかりの文学作品の場面や文学者のエピソードが盛り込まれており、「団子坂-」では、夏目漱石(一八六七~一九一六年)の「三四郎」の主人公が団子坂(千駄木)を下って行くと説明。その様子は、鴎外の小説「団子坂(対話)」でも触れられていると紹介、小説の該当部分を引用して載せた。東京芸術大(台東区上野公園)を取り上げたページには、鴎外の講義を聴講した詩人の高村光太郎(一八八三~一九五六年)による回想を掲載している。
 もともと、街歩きが好きな倉本さん。目的もなく歩いていると、目に留まった風景や建物から、文学作品などの知識が自然と頭に浮かんでくるという。
 冊子はそんな情報が満載で、細かな地図をあえて載せず、倉本さんが見た物、感じたことを文章と写真で表現した。「歩き方を押し付けたくない。自分の感性を大事にしてほしい。歩いてみて、東京はこんなに面白く、美しいところだったんだと感じてもらえれば」と倉本さんは話す。
 三冊目は、鴎外記念館から、奥浅草の台東区立一葉記念館に至るコースを予定している。シリーズのタイトルは「森鴎外記念会事務局長さんの散歩案内-東京は小さい、だから歩いてみよう-」。「観潮楼-」が十一ページ、コピー代として百五十円、「団子坂-」が十七ページ、百七十円。森鴎外記念館で扱っている。


近所に住み、美術学校での恩師でもあった鷗外。しかし、どうも若き光太郎、「権威」には反発したがる癖があったようで、偉そうな鷗外に親しめませんでした。大正に入ってからは、やはり権威的だった鷗外を揶揄し、「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、光太郎は鷗外宅に呼びつけられて叱責されたとのこと。鷗外はこの件を雑誌『帝国文学』に載った「観潮楼閑話」という文章に書いていますし、光太郎も後に高見順や川路柳虹との対談などで回想しています。何だか現代の若者がSNSに悪口を書き込んだとか書き込まないとかのトラブルの話のようです。さすがに暴力行為には発展しませんでしたが(笑)。
 
といって、光太郎は鷗外を嫌悪していたわけではなく、それなりに尊敬していましたし、鷗外は鷗外で、つっかかってくる光太郎を「仕方のないやつだ」と思いつつもかわいがっていた節があります。光太郎が明治末に徴兵検査を受けた際、身長180センチくらいの頑健な身体を持ちながら、徴兵免除となりました。理由は「咀嚼(そしゃく)に耐えず」。確かに光太郎、歯は悪かったのですが、それにしても物が噛めないというほどではありません。これはどうしたことかと思っていたら、帰り際に係官の軍人が「森閣下によろしく」とのたまったとのこと。与謝野寛あたりの配慮で、軍医総監だった鷗外が裏で手を回し、光太郎の徴兵を免除してやったらしいのです。

その鷗外・光太郎がらみの街歩き冊子ということで、良い試みですね。今度、森鷗外記念館さんに行った際にはゲットして参ります。みなさまもぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩とは決してある特殊の雰囲気の中(うち)だけにあるのではなく、人間の生きてゐるあらゆる場所に存在し、あらゆる心情に遍漫して居るのである。各人の心のまんなかにある一番大切なものから不可避の勢で迸出して来る言葉はみな詩となる。その吐かれた詩が又逆に人間活動の原動力となり、人間精神の滋味となる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

確かに当方など、光太郎詩から「人間活動の原動力」、「人間精神の滋味」を得させてもらっています。

呑気に花巻レポート的なことを長々書いているうちに、紹介すべき事項がまた山積みです(笑)。東北の地方紙2紙、コラムで光太郎智恵子に触れて下さっていますのでご紹介します。

まず、『福島民報』さんの「論説」欄。 

【智恵子没後80年】さらに魅力発信を(8月31日)

 今年は二本松市出身の洋画家・高村智恵子の没後八十年に当たる。詩人で彫刻家の夫高村光太郎が詠んだ「智恵子抄」の朗読大会をはじめ各種記念事業が市内で企画されている。智恵子が表現した芸術、文化の世界に改めて思いを巡らせ、魅力を県内外にさらに発信する機会としたい。
 智恵子は一九三八(昭和十三)年に五十二歳で亡くなった。病気療養中、千数百点に上る紙絵を残した。愛と芸術に生きた先駆的な女性と評価され、多くの人々を魅了している。
 朗読大会は全国から参加者を募り、十一月十八日に開かれる。夫妻への思いを込めたスピーチと詩の朗読を通じて二人の世界を感じてもらう。十月には智恵子に関する知識を問う「智恵子検定」や、智恵子抄を題材にしたスケッチ展示が行われる。十二月にはカフェを予定している。市内で販売されている智恵子にちなんだ菓子を味わいながら、二人の人生を語り合う。多くのファンが訪れる場となろう。
 紙絵や油絵が並ぶ記念館と生家は一九九二(平成四)年四月に開館した。一九九五年度には約八万三千人が訪れたが、減少傾向が続き、二〇一七年度は約一万六千人だった。展示物配置の刷新や生家を使った各種企画など来場者増を図る対応が待たれる。すぐ近くの鞍石山には「樹下の二人」の詩碑があり、「あれが阿多多羅山[あたたらやま]、あの光るのが阿武隈川…」を実感できる光景が広がる。記念館と生家を見た後、立ち寄れば、詩の世界をより身近に感じられる。整備されている遊歩道をもっと活用する手だてを探る必要がある。見学者の満足度向上を図り、観光ルートとして一層の売り込みに力を入れてほしい。
 九月九日からは福島現代美術ビエンナーレが「重陽の芸術祭」として二本松市で開幕する。切り絵や絵画の斬新な作品が市内に飾られる。生家も会場となる。新進気鋭の女性作家も多く出品する。若手女性作家を対象に智恵子の名前を冠した賞を創設する考えが実行委員から示されている。どう継続していくかなど課題はあるだろうが、実現へ向け検討してもらいたい。芸術家としての智恵子の魅力を広く訴える契機になる。
 二本松市は、おいしい日本酒、多彩な菓子、霞ケ城や二本松少年隊といった歴史、「ほんとの空」が広がる安達太良山、伝統の祭りなど観光資源に恵まれる。さらに誘客を目指すために全国的な知名度を誇る智恵子抄を生かしてほしい。(吉田雄一)

取り上げられているイベント等、また近くなりましたらそれぞれご紹介いたします。

「全国的な知名度を誇る智恵子抄を生かしてほしい」、その通りですね。


続いて『岩手日報』さん。一面コラムです。 

(風土計)2018.9.4

 挑戦する者には、常に無数の質問が浴びせられる。全く新しい試みであれば、なおさらだろう。「なぜ前例のないことをするのか」「リスクが大きすぎる」
▼一つ一つ質問に答えるうち、挑戦者は不安を覚えてくる。道を切り開く意欲は衰え、守りに入るようになる。英語で言う「death by a thousand questions(千の質問による死)」だ
▼二刀流の復活にも、数々の疑問が米メディアから投げかけられた。「打者に専念すべきでは」「チームが上位進出する見込みも薄いのに投手をやる意味がない」。それらを振り払い、挑戦者はマウンドに戻ってきた
▼大谷翔平選手の投手としての復帰戦は49球で終わったが、存分に野球を楽しんでいるように見えた。二刀流を疑ういくつもの「なぜ」に、日本にいた時から揺るがなかった人だ。これからも千の質問に、自ら切り開く道を阻まれることはないだろう
▼「岩手の人」を信念の強い牛に例えた高村光太郎に、「牛」という別の詩もある。〈牛は為(し)たくなつて為た事に後悔をしない/牛の為た事は牛の自信を強くする〉。自ら好きで挑んだことに悔いなどあるはずもない。挑むことで、自信は強さを増す
▼浴びせられる千の質問にも微動だにせず、ついにその成すべきを成す。牛のような、「岩手の人」の強さを見る。

岩手の皆さん、光太郎から贈られた詩「岩手の人」(昭和24年=1949)を大事にして下さり、いろいろなところで引用して下さいます。

岩手の人眼(まなこ)静かに、001
鼻梁秀で、

おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。

たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。
斧をふるつて巨木を削り、
この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

画像は花巻北高校さん(大谷選手の母校ではありませんが)に立つ、高田博厚作の光太郎胸像の台座に刻まれたものです。

明日も新聞各紙から、ということで、周辺人物との関わりなどから光太郎に言及された記事をご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

普通に人は、詩精神の衝動によつて詩を書く人が詩人であると考へる。私は、詩精神の衝動によつて書いたものが必然的に詩になる人を詩人であると考へる。同じやうに聞えるがいささか違ふ。あらかじめ詩なるものを書かうとしてかかる人は、新旧に拘らず、詩といふものの類型に堕しがちだ。書いたものが必然に詩になる人にしてはじめて、づばぬけた生きた詩が出来るものだと考へるのである。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

書いたものが必然に詩になる人」。他の文章で述べていますが、そうした者の好例が、宮沢賢治や草野心平だというのです。もちろん、自身も其れを目指していたのでしょう。

8月31日(金)~9月2日(日)の花巻行で入手した書籍を2冊。 

まんがでイッキ読み! 浅見光彦 怪奇トラベルミステリー

2018年9月10日 内田康夫 原作 あさみさとる/夏木美香 画 ぶんか社 定価600円+税

あさみさとる「風葬の城」
旅雑誌の取材で会津にやってきた光彦。漆器作りの現場を見学していると、職人である平野浩司が急に苦しみだし、そのまま亡くなってしまう。第一発見者となってしまった光彦は、その様子から平野氏の死が毒物による他殺だと推理する。徐々に明らかになっていくある業界の不正や金の動き。そこに隠されていた、大きな陰謀とは――?


あさみさとる「『首の女』殺人事件」

光彦と幼馴染の野沢光子は、姉・伸子の紹介で知り合った宮田治夫と「高村光太郎・智恵子展」へ出かける。そこで光太郎の彫刻「蝉」を熱心に見ていた男が記憶に残った。ところがその男が福島県安達太良山の麓で殺され、宮田も島根県江の川で水死体で発見される。事件後、脅迫めいた「怪電話」に伸子は悩まされることになり、光彦に相談を持ちかける。
 
夏木美香「教室の亡霊」
群馬県の公立中学校の教室で、かつてその学校で教鞭を執っていた男の死体が発見された。毒殺されたと見られる被害者のポケットには、新人教師・梅原彩とのツーショット写真が。さらに渦中の彩が顧問を務める陸上部員の父親が殺され…? 次々と事件に巻き込まれる彩を助けて欲しいと依頼を受けた光彦が、現代の教育問題に迫る。

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というわけで、今年3月に亡くなった推理作家・内田康夫氏原作の「浅見光彦シリーズ」から3本のコミック化です。別に「怪奇」ではないと思いましたが(笑)。

紹介文の通り、光太郎智恵子をモチーフとした「『首の女』殺人事件」が入っています。裏表紙のイラスト(画像右)がそちら。小説は昭和61年(1986)に刊行されています。

小説の浅見光彦シリーズは100本を超え、コミック化も'90年代後半には始まり、これまでにかなりの作品が取り上げられてきました。しかし、当方の知る限り「『首の女』殺人事件」はこれまでコミック化されておらず、残念に思っていました。コンビニのコミックコーナーで「浅見光彦」の文字を見つけるたびに「『首の女』殺人事件」の文字を探しては、「やはり、ないか」を繰り返すこと10数年(笑)。

しかし、ついに、8月31日(金)、花巻高村光太郎記念館さんをあとにして、宿泊先の鉛温泉さんに向かう途中、花巻南温泉郷入口のファミリーマートさんに立ち寄って、これを発見し、思わず心の中で快哉を叫びました。また、不思議な縁も感じました。

調べてみると、同じぶんか社さんで刊行している『まんが このミステリーが面白い!』 8月号(6月発売)が初出でしたが、そちらには気づきませんでした。

さっそく鉛温泉さんで読みました。「『首の女』殺人事件」で約150ページ。細かなところが割愛されたり、原作が昭和末期を舞台としているのを平成末期の現代に置き換えたりしている以外、ほぼ原作どおりで、なかなか読み応えがありました。

ぜひお買い求め下さい。

ちなみにフジテレビさん(平成18年=2006)とTBSさん(平成21年=2009)でドラマ化され、それぞれBS放送やCS放送で年に数回、再放送されています。明後日にもBSフジさんで再放送があります。併せてご覧下さい。。 

<BSフジサスペンス劇場>『浅見光彦シリーズ22 首の女殺人事件』

BSフジ 2018年9月7日(金)  12時00分~13時58分

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる !! 

原作 内田康夫
出演 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか


もう一冊。 

出会いの人びと

昭和58年2月20日 鈴木實著 熊谷000印刷出版部
定価1,500円+税
 

9月1日(土)、花巻高村光太郎記念館さんでの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓 part2」の講師を務め終え、花巻市街から東北新幹線の新花巻駅などをぶらついているなかで立ち寄った、ショッピングセンター・銀河モールさんの中のTSUTAYA 花巻店さんで発見しました。

こういう書籍がないかな、と思って立ち寄って、まさにこういう書籍が手に入ったので、こちらでも思わず心の中で快哉を叫び、不思議な縁も感じました(笑)。昭和58年(1983)の書籍が新刊書店に並んでいたというのも驚きです。

著者の鈴木實氏は、元花巻北高校さんの校長先生。大正5年(1916)のお生まれだそうですので、まだご存命かどうか……。父君は宮沢賢治が技師として働いていた東北砕石工場を興した鈴木東蔵。そうした縁もあって、昭和23年(1948)に谷川徹三の揮毫で建立された賢治の「農民芸術概論綱要」碑の建立に奔走されました。

最初は宮沢家に話を通さずにその計画を進め、光太郎に揮毫を依頼したそうです。ところがそれでは筋が通らないと光太郎に強く諭されたというエピソード、さらに、やはり昭和23年に同志社大学教授だった浜田与助を光太郎の山小屋に案内したエピソードなどが語られています。また、鈴木氏は光太郎を敬愛していた高田博厚とも交流があり、高田の項でも光太郎の話題が出て来ます。

調べてみると、昭和23年8月25日の光太郎日記に記述がありました。

学校にゆかんとせし頃(十時半頃)土沢より鈴木氏といふ青年、同志舎(「社」の誤り)大学の浜田先生といふ人を案内して来る。一緒に学校にゆく。郵便物を出すため学校にゆく旨のべる。(略)浜田先生と談話。同氏は哲学専攻の由。長坂町に滞在との事。土沢では長嶌氏といふクリスチヤン農家を訪ねられたらし。長嶌氏より林檎5個もらふ。尚浜田氏よりドラ焼20数個もらふ。 十一時半頃浜田氏等帰らる。

この時の様子がかなり詳しく語られていて、興味深く拝読しました。浜田の子息が智恵子と同じ統合失調症の末、亡くなった話が出たこと、ミケランジェロや当時流行の某彫刻家を引き合いに出しての芸術論に花が咲いたこと、そして鈴木氏と浜田の帰りしな、光太郎が「まだいいですよ」と引き留めたこと(鈴木氏が光太郎の周辺人物に聞いた話では、こういうことはめったになかったそうで)などなど。

「農民芸術概論綱要」碑云々のエピソードも光太郎日記に記述があるのではないかと思われます。ただ、鈴木氏の名が記されていないようで、索引から調べることも出来ません。宿題としておきます。

この手の光太郎日記などを補完する回想等、非常に貴重なものです。今後も発見に努めようと思います。


【折々のことば・光太郎】

詩は決して紙の上だけでは出来ないし、又決して態度や心構だけでも出来ない。詩はその人の存在全部から立ち登る必然のものであつて、しかもその精神を神経組織に変調しながら表現する技術は、時代と共に何処までも進展する。とにかく停滞は自然の理法に反する。われわれは日々に新しくならなければならぬ。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

戦後、光太郎は「心はいつでもあたらしく」という語を地元の太田中学校や盛岡少年刑務所に贈りましたが、その背景にはこうした考えがあったのですね。

まずは状況説明を兼ねて、『岩手日報』さんの記事。9月2日(日)、花巻からの帰りがけにゲットして参りました。

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もう一紙、『岩手日日』さんにも載りましたが、一日遅れだったため、現物はゲットできず。さらにネットでも有料会員限定の記事なので読めません。どうやら当方の顔がどアップで出ているようなのですが(笑)。

用意したレジュメを掲載します。画像をクリックしていただくと拡大します。幼少期から最晩年まで、光太郎や周辺人物の遺した詩文から、「食」に関する内容の部分などを抜き出しました。ただ、光太郎に関しては、全てを網羅するには準備期間が短く、書簡類、短歌、俳句などはほぼ割愛。随筆的なもの、対談・座談、日記、そして詩に限定しました。
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まずは幼少年期。明治中期から後期です。

廃仏毀釈の影響で、彫刻の注文仕事が激減していた父・光雲。光太郎が生まれた明治16年(1883)頃が、窮乏のどん底だったそうで、光太郎幼少期の一家の食事は、漬物系に豆などがメインディッシュ、魚が出れば御馳走という状況でした。

その後、光雲が東京美術学校に奉職してから徐々に生活は好転し、海外留学直前の日記を見ると、牛肉なども食卓に並ぶようにはなりました。しかし、まだまだつつましいものでした。

光太郎実弟の豊周は、光太郎が留学に出た明治末になって初めてカレーを口にし、「こんなうまいものが世の中にあったのか」という感想を記しています。光太郎自身も留学に出て、初めて洋食らしい洋食に出会ったようです。明治39年(1906)~同42年(1909)の留学時代。

以前にも書きましたが、戦後の花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で、自分で作っていたことが日記に残されているボストンビーンズなどが現れます。イタリアでは、パスタの食べ方が分からなくてうろたえた、というのが笑えます。
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帰国後、智恵子との生活。欧米で親しんだ洋食も取り入れ、和洋折衷の食生活となったようです。朝食はパンにオートミールなど、のちの高度経済成長期の共働き家庭を先取りしている感がありました。夕食は和食系が多かったようです。
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決して豊かでなかった生活の中で、野草を食べるなどの工夫していたこともうかがえます。しかし、金が入ると贅沢もしていたようで、朝からサラダにマヨネーズ(当時は高級品)をかけて食べたり、玉露のお茶を常用したりしていた光太郎を、豊周は「世間一般とは物差がちがう」とし、容赦ありません。

昭和初期、智恵子が心を病み、転地療養、入院ということで、光太郎のひとり暮らしが始まります。もっとも、それ以前から智恵子は福島の実家に帰っていた時期が長かったのですが。そして智恵子が亡くなった前後から、泥沼の戦争……。日本全体が食糧不足に陥りますが、この時期も、それなりに工夫していたようです。
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そして、智恵子と暮らした思い出深い駒込林町のアトリエ兼住居が空襲で全焼。宮沢賢治の実家の誘いで花巻に疎開し、終戦を迎えます。その後も東京に帰らず、戦時中に詩文で若者を鼓舞して死に追いやった反省から、郊外旧太田村での蟄居生活。
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穀類は配給に頼らざるを得ませんでしたが、野菜類はほぼ自給。あとは、旧知の人々が、光太郎を気遣って、いろいろなものを送ってくれ、それで凌ぎました。戦後の日記はかなり残っており、どのような食事をしていたかがほぼわかります。それらをもとに、花巻高村光太郎記念館さんの協力で、『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんに、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

やはりいろいろ工夫をし、厳しい環境の中でも豊かな食生活を心がけていたようです。山奥の陋屋にいながら、仏蘭西料理的なものも自作したりしています。逆に、真実かどうか、リップサービスで「盛ってる」のではないかとさえ思われますが、座談会では蛙まで捕まえて食べたと発言したりもしています。そこで、見かねた周囲の人々が、光太郎を招いて豪勢な会食会を開いたことも。

亡き宮沢賢治を敬愛していた光太郎ですが、有名な「雨ニモマケズ」の「玄米四合ト味噌ト少シノ野菜」では駄目だ、という発言は繰り返ししていました。これからの日本人は、肉や牛乳などをもっと積極的に摂取し、体格から変えなければ欧米に伍していけない、と。戦後、各界からそういう提言がありましたが、光太郎の発言は、それらを先取りしていたように思われます。

最後に、青森十和田湖畔に立つ「乙女の像」制作のため、再び上京した昭和27年(1952)以降。
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日記によれば、上京してからしばらくは、かなり外食もしていました。何だかんだ言って、やはりプロの料理には舌鼓を打っていたようです。アトリエを借りた中野にほど近い新宿がホームグラウンド。当会の祖・草野心平が経営していた「火の車」という怪しい居酒屋(笑)がありました。あとは生まれ故郷に近い浅草・上野方面、それから日本橋周辺にもよく出没しました。時には渋谷、目黒、神田、赤坂などにも。こってり系の店がけっこう多いのも特徴です。中華、うなぎ、牛鍋、天ぷら、はたまたロシア料理や柳川鍋など。最頻値は寿司屋でしたが。今も残る店がかなりあり、今後、小分けにして訪れてみようと思っています。
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最晩年、体調の悪化に伴い、外出を控えるようになると、アトリエの家主・中西夫人に頼んで食材などを買ってきて貰い、自炊。やはり肉類が目立ちます。

今回、あらためて光太郎の食生活を辿ってみると、やはりその時期その時期の生活全体が端的に象徴されているように感じました。また、光太郎という巨人を作り上げる上で、「食」の果たした大きな役割も実感できたように思います。結局、座談会で光太郎が述べていますが「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです。」の一言に尽きるように思われます。


【折々のことば・光太郎】

古来多くのよい詩はやはり必ず人間性の基底に強く根を張つてゐる。作者個人のものであつてしかし同時に万人のものである。それは個人を超え、時代を超え、思想を超える。どういふ時にも人の心にいきいきと触れる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

光太郎にとっての目指すべき「詩」の在り方であると同時に、74年の生涯で、光太郎にはそれが体現できたと言えましょう。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」。以前にもご紹介しましたが、ジオラマを造られた品川ご在住の石井彰英氏が、ご自身でジオラマの細部を撮影され、お仲間の皆さんと音楽やナレーションを入れた「高村光太郎ジオラマDVD」が完成しました。

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花巻高村光太郎記念館さんで、定価1,000円での販売中。

ナレーションとテロップの原稿を当方が執筆いたしまして、そうした関係でスタッフに名を連ねさせていただき、現物を50枚下さいまして、愛車に積んで持って帰りました。

オープニング。

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バックに横笛の達人、花巻高村光太郎記念会・髙橋事務局長の演奏。

光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋(高村山荘)の映像、最初は当時の古写真だったものが、ジオラマの映像に切り替わり、いつのまにか光太郎も登場。

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その後、ここにたどり着くまでの光太郎、そして智恵子の紹介を兼ね、花巻以外の各地の紹介。

南品川・ゼームス坂病院。智恵子終焉の地です。石井氏が以前に作られたもので、これがご縁で花巻高村光太郎記念館さんに氏をご紹介しました。

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福島二本松、智恵子の生家。

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東京千駄木の光太郎アトリエ。

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安達太良山。バックに「あどけない話」(昭和3年=1928)の朗読。

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そして、花巻。

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光太郎の足跡が残っている場所を主にしていただきました。

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もちろん、花巻電鉄の車両も走り回っています。

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それから、光太郎が疲れを癒した郊外の温泉地の数々。

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そして、旧太田村。光太郎の山小屋や、近くの山口小学校など。

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石井氏曰く「牧歌的」だそうですが、人々の息づかいまで聞こえてきそうです。

本編のあとには、エンドロールを兼ねて、「制作日誌」。

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ロケハンの際の画像もふんだんに使われ、現在も残る建造物がどうジオラマになったかという対比がされ、面白い工夫です。

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花巻高村光太郎記念館さんで、定価1,000円での販売中。ご入用の方は、お問い合わせ下さい。

それから、9月9日(日)、神奈川県鎌倉市で、上映会が催されるそうです。石井氏が以前に作られた、北鎌倉のジオラマを撮影されたものも同時上映とのこと。当方もお邪魔して参ります。ご興味のある方、リンクからお問い合わせ下さい。


【折々のことば・光太郎】

われわれはもう一度新しい意味の素朴を発見して更に詩の樹液を更新したい。ことに日本語といふ素朴の性質を十分に新しい面から究明して、未知のしかも身近な美を此の世に生かしたい。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「未知のしかも身近な美」というのがいいですね。美は到るところにあると考えていた光太郎ならではの言です。

二泊三日の行程を終え、花巻か000ら千葉に戻りました。

昨日、花巻高村光太郎記念館さんでの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part .2」の講師を終えたあと、愛車を駆って花巻市街に向かいました。光太郎の立ち寄った場所などを見るためです。

その前に、記念館さんに隣接する光太郎が7年間を暮らした旧太田村の山小屋脇にあった、光太郎お手植えの栗の木。

昭和21年(1946)、光太郎が父・光雲の13回忌を記念して実を植えて芽を出し育った巨木でしたが、とうとう枯死してしまい、倒壊の危険があるということで伐採されました。右手の石柱は、光太郎が書いた木柱のコピーです。「亡父光雲十三回忌記念播種 昭和廿一年十月十日」と刻まれています。

7月に訪れた時にそういう話を聞いてはいたのですが、やはり残念でした。

続いて、旧太田村山口地区のほぼ中心にある古い石碑。詩「かくしねんぶつ」(昭和23年=1948)や、散文「山の人々」(昭和26年=1951)などで触れています。

右から二番目の最も背の高い碑には「見真大師」の文字。浄土真宗開祖の親鸞上人の別名です。

この辺りでもかつて行われていたという、「隠し念仏」にも関わるものです。

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このあと、花巻市街へ。以前にも訪れた場所は割愛し、その後、こんな所にも立ち寄っていたのか、という場所を中心にまわりました。

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小田島薬局さん。箸で食べるのが作法の十段巻きソフトクリームで有名なマルカンさんのすぐ隣。光太郎、ここで薬を買ったり、商売抜きで店主と個人的につきあいがあったりしました。店主宛の書簡も残っています。

マルカンさんには何度か足を運びましたが、気づかずに通り過ぎていました。

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市役所近くの新ばしさん。うなぎや寿司を饗するお店です。こちらも気づかずに何度も前を通り過ぎていましたが、光太郎日記に3回ほど、ここで食事をしたことが記されていました。

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市街の東、御田屋町の宗青寺さん。曹洞宗の寺院です。昭和20年(1945)、疎開直後で宮沢賢治の実家に厄介になっていた頃の光太郎が、何度か足を運んでいます。宮沢家とそう遠くない距離です。

このあと、東北新幹線の新花巻駅に向かいました。先月、1階奥の観光案内所的なスペースの展示コーナーがリニューアルされたという情報を得ておりまして、確認に。

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まずは米大リーグ・エンジェルスの大谷翔平選手がドーンとお出迎え。

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大谷選手、隣接する奥州市のご出身ですが、花巻東高校卒ということで。

さらに同校の先輩・西武ライオンズの菊池雄星投手や、富士大学さん卒などで花巻に関わるプロ野球選手たちの紹介も。

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さらに来年のラグビーワールドカップ開催で盛り上がる釜石関連で、釜石シーウェイブスさんのコーナー。

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ちなみに当方、試合のための移動と思われるシーウェイブスの選手の皆さんと、新花巻駅から同じ新幹線に乗り合わせたことがあります。

さて、かつてあった光太郎コーナーもリニューアルされたということで探してみると、隅っこにありました(笑)。

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高村光太郎記念館さんで販売されているグッズ等が並べられていました。ただ、ほとんど何の説明もなく、「何だかなあ」という感じでした。今後の整備を期待します。

このあと、宿泊先の鉛温泉さんに向かう途中、書店に立ち寄り、なかなか面白い書籍をゲットしました。さらに前日にはコンビニでも。そのあたりは明後日頃、ご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一番肝腎なのは詩の成立以前の問題、つまり詩を生む心的状態であつて、それが備はつてゐなければ、いかに巧妙な技術的操作や、いかに精巧斬新な手法的按排があつても、それだけでは、機具を造るやうに機械的に出来るものではありません。その詩以前の心的状態といふのは心の満ちあふれて已み難い状態で、これの無い詩作は人を捉へません。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「已み難い」というのは、会話の際の光太郎の口癖でもあったそうです。

昨日、花巻にやって参りまして、本日、花巻高村光太郎記念館さんの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part .2」の講師を務めさせていただきました。
今回は、花巻まで愛車を駆って行き、昨日の早朝に千葉県の自宅兼事務所を出発、午後には着きました。ちょうど秋田小坂町の皆さんがバスで来られていました。

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下の画像は、小坂町出身の出版社・龍星閣主人の澤田伊四郎が印税がわりに建ててやった別棟。皆さん、興味深そうにご覧になっていました。

その後、記念館さんで今日の講座の打ち合わせ。

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打ち合わせを終えて宿へ。今回、鉛温泉♨さんにお世話になっております。


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かつて光太郎が堪能した宿名物の深さ1.3 メートルの立って入る「白猿の湯」や、美味しい料理を満喫しました。

今朝、再び記念館さんに参りまして、講座の受講者の皆さんを待ちました。会場は昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館。

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当会の祖、草野心平が建立に尽力し、看板の文字も揮毫しています。現在は「森のギャラリー」として、こうしたイベントや市民の方々の作品展などに活用されています。

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現在は地元太田地区ご出身の方の版画などが展示されており、光太郎をモチーフとした作品も。

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やがて受講者の皆さんご到着。付近の自然観察というのもメニューに入っていて、そのひとコマです。

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このあと、当方は光太郎が書き残した詩文をもとに、幼少期から最晩年の光太郎の食生活を紹介しました。細かな内容はまた帰ってからブログに書きます。

さらに藤原記念館館長、高橋花巻光太郎記念会事務局長からもお話。

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その後、光太郎が児童を孫のようにかわいがった旧山口小学校(現在はスポーツキャンプむら屋内運動場)で、山口小学校卒業生の方のお話を拝聴。

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さらに地区の公民館的な施設で昼食。光太郎が残した日記などを元にメニューを組んだ「光太郎弁当」(笑)。

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ヘルシーなメニューで美味でした。いずれ商品化も考えているとのこと。

記念館さんに戻り、展示の見学。現在は企画展「光太郎と花巻電鉄」開催中です。

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ここで皆さんとはお別れし、このあと当方は花巻市街でぶらりと光太郎の足跡をたどりました。いずれレポートいたします。

今夜も鉛温泉♨さんに泊まり、明日、ゆっくり帰ります。

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