2018年08月

昨日に引き続き、企画展情報です。 

驚異の超絶技巧!明治工芸から現代アートへ

期 日 : 2018年9月7日(金)~2018年10月21日(日) 
会 場 : 山口県立美術館  山口市亀山町3-1
時 間 : 午前9 時~午後5時
料 金 : 一般 1,300(1,100)円 / 学生 1,100(900)円 / シニア 1,100(900)円
         ※( )内は20名以上の団体 高校生以下無料
休 館 : 9月10日(月) 10月15日(月)

近年、明治工芸に対する注目度が飛躍的に高まっています。かつて、輸出品として海を渡った作品が、次々に里帰りを果たし、多くの人々がその魅力を再発見することとなったのです。
本展は、そのきっかけとなった「超絶技巧! 明治工芸の粋」展の続編。3年前に当館でも開催され、その「超絶」ぶりが大いに話題となった展覧会の第2弾です。前回と同様、今回も、七宝、金工、牙彫、木彫、漆工、刺繍絵画など幅広いジャンルから厳選された明治工芸の逸品をご紹介するのにくわえて、明治の「超絶技巧」を受け継ぎつつ新たな世界を築いている15人の現代作家による驚愕の現代アートも多数ご紹介いたします。
明治の工人たちの超人的センスと「わざ」の数々をお楽しみいただくとともに、失われて久しいと思われていたその「超絶技巧」が、時空を越えて現代に脈々と引き継がれている姿を、明治工芸と現代アートのコラボレーションでご堪能ください。

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関連イベント

「日本美術応援団 驚異の超絶技巧を応援する! in山口」
[出演]山下裕二(本展監修者、明治学院大学教授)
[日時]10月13日(土) 14:00〜15:30
[会場]山口県立山口図書館レクチャールーム    [定員]200名(先着順、要申込)
[聴講料]無料※「驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ」展のチケットが必要です。
【申込方法】
超絶技巧展トークイベント参加希望」 とご記入の上、 ①参加希望者全員の氏名、②年齢、③住所、④電話番号を明記し、美術館ウェブサイトの申込フォーム、または往復はがきでお申し込みください。当館より、折り返しご連絡いたします。

「参加アーティストによるトークイベント」
アルミニウムという、明治工芸とは全く異なる素材を用いて新たな表現に挑戦する気鋭のアーティスト、高橋賢悟(1982〜)。超絶技巧のDNAを受け継ぐ現代作家を代表して、自作について、熱く語っていただきます。
[講師]高橋賢悟(金工)   [日時]9月30日(日) 14:00〜15:00
[会場]山口県立美術館講座室 [定員]80名(聴講無料、先着順)

学芸員によるギャラリートーク
[日時]9月15日、10月6日、13日 (いずれも土曜日) 10:00〜(30分程度、申込不要)




昨秋、日本橋の三井記念美術館さんで開催され、今年に入って岐阜県現代陶芸美術館さんを巡回し、三館めの開催となります。ちなみに11月から富山県水墨美術館さん、来春、大阪あべのハルカス美術館さんも巡回予定です。

問い合わせたところ、三井さん同様、光太郎の父・光雲作の「布袋像」が出るそうです。

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その他、七宝、金工、牙彫、漆工、刺繍絵画など、様々なジャンルの「超絶技巧」作品が並びます。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

詩は意味ばかりのものではなく、その全体に漲る一つの名状しがたい気魄のやうなものこそ其の核心を成すのである。一語づつの意味を拾つて唯思念しただけでは詩は多く解しにくい。言葉の森林のやうな厚みの奥から湧き出して来るものをまづ感ぜねばならぬ。一つの詩篇を包むコロナのやうなもの、又それから発する電磁気のやうなもの、又は工作機械の抵抗から起る低いうなりのやうなものの中に詩は息づいてゐる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

何気に、しかし、秀逸な比喩ですね。

昨日に引き続き、書道ネタで。

山形県から企画展情報です。 

開館30周年記念所蔵秀作展 第二部「日本画と文士の書」

期 日 : 2018年9月7日(金)~10月21日(日)
会 場 : 出羽桜美術館 山形県天童市一日町1-4-1
時 間 : 9:30~17:00
料 金 : 一般500円、高大生300円、小中生200円
休 館 : 月曜日[祝祭日の場合は翌日]

 毎回好評を博している日本画展を今年も開催します。今回目玉となるのは、7年ぶりの公開となる宮本武蔵の山形県指定有形文化財「葡萄栗鼠図」です。
 宮本武蔵は二刀流の剣豪、兵法家としてよく知られていますが、余技として書画もたしなみ、達磨図や野鳥の姿を描いた水墨画が多く残されています。その中でも出羽桜美術館が所蔵する「葡萄栗鼠図」は来歴が明らかであることや、伝世する作品の中では、武蔵が動物を主題とした唯一の作品ということもあり大変貴重です。
 この作品は水墨画で、縦長の画面右側高い位置に果実を実らせた葡萄の木と、その木の枝にとまる栗鼠の姿が描かれています。画面の下部のたっぷりとした余白や垂れ下がる葡萄の蔓で高さを演出したり、栗鼠の尾などに見られるような迷いのない素早い筆致で躍動感を表現したりするなど、随所にさりげない研鑽の跡がみられる素晴らしい作品です。
 その他にも天童市指定有形文化財に指定されている歌川広重の作品や竹久夢二、小松均、今野忠一ら山形県出身画家の作品、高村光太郎、夏目漱石、会津八一、斎藤茂吉ら文人の書も一堂に展示します。

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出羽桜美術館さん、母体は日本酒000メーカー・出羽桜酒造さんです。開館30周年だそうで、地方でのメセナ(企業の社会貢献)の例としては、早い時期からのものだったように思われます。

今回の目玉はチラシにも掲載されている宮本武蔵の絵だそうですが、光太郎を含む文人の書も併せて展示とのこと。

以前に他の方のブログで、こちらに光太郎の書が所蔵されているという情報は得ておりました。しかし、常設展示というわけではなさそうなので、これまで足を運んだことはありませんでした。それが今回展示されるということですので、拝見に伺おうと思っております。

半切の用紙に書かれたもので、「わがこころは今大風の如く君に向へり 光」と読み、大正元年(1912)に書かれた詩「郊外の人に」の書き出しのフレーズです。「君」は無論、智恵子。二人で過ごした千葉犬吠埼から帰り、己のパートナーとなるべきはこの人しかいない、と思い定めての「宣言」です。後に詩集『智恵子抄』にも収められました。

寡聞にして他に類例を存じませんが、画像で見る限り、光太郎の筆跡で間違いはなく、おそらく戦後の花巻郊外太田村での蟄居生活中の作と思われます。

10月になるかと存じますが、行って参りましたらレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

たとひどのやうな上層機構の発展があるとしても、詩の根本が人間の真情に基づいてゐなかつたら全て空の空なるものであらう。人間性の真情のみが共感を喚び起す。それは底につらなる深い地下泉であつて、中途のさまざまなさし水のやうなものではない。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「わがこころは今大風の如く君に向へり」といった詩句は、まさに「人間性の真情」の発露ですね。

書道関係のシンポジウムです。 

シンポジウム「近代東アジアの書壇」

期   日 : 2018年9月8日(土)
会   場 : 筑波大学東京キャンパス文京校舎122講義室 東京都文京区大塚3-29-1
時   間 : 13時~16時30分
料   金 : 無料
主   催 : 近代東アジア書壇研究プロジェクト

第1部 基調講演 13:05~14:05  朝鮮における書画の位相と近代画壇  喜多恵美子氏(大谷大学教授)

第2部 登壇者発表 14:15~15:30
 書画協会の結成とその活動について  
   金貴粉(大阪経済法科大学研究員)
  清末民初の上海における書画団体の動向 ―豫園書画善会を中心に―
   髙橋佑太(二松学舎大学専任講師)
  日本の中国書画碑帖コレクション形成の要因について ―「収蔵集団」を起点として―
   下田章平(相模女子大学専任講師)
  高村光太郎と近代書道史 ―父子関係と明治時代の書の一側面―
   矢野千載(盛岡大学教授)

  昭和初期の書道団体 ―正筆会を例に―
   髙橋利郎(大東文化大学教授)

第3部 討議 15:40~16:30
 司会 菅野智明(筑波大学教授)


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矢野氏はご自身も書家であらせられ、いつも達筆のお手紙を頂戴し、悪筆でならす当方としては恐縮しております。

平成27年(2015)にも、同じ筑波大学さんの文京校舎で開催されたシンポジウム「書の資料学 ~故宮から」で、「高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」という発表をなさいました。

その際には別件の用事があって欠礼いたしましたが、今回は拝聴に伺う予定です。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩が言葉にたよる芸術である以上、語感については十分な心づかひが必要である。語感は半分は生まれつきだが、又半分は修練と感得によつて其の美に到り得る。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「修練と感得」に努めようと思います。

九州福岡から、公開講座の情報です。 

2018年度秋学期市民講座 「日本の近・現代詩入門」

期   日 : 2018年9/4・18、10/2・16・30、11/13・27、12/11 (各火曜)
会   場 : 福岡女学院大学生涯学習センター天神サテライト校
                           福岡市中央区天神2-8-38協和ビル9F
時   間 : 13時~14時30分
料   金 : 受講料16,800円  教材費200円
講   師 : 日本現代詩人会会員 徳永 節夫

近年、詩が以前より存在感がなくなってきたように思えます。詩から受ける感動が少なくなってきたのは、小、中学校での詩の授業が表現技術を身につけるだけのスキル学習化しているのも原因の一つと考えています。宮沢賢治の「永訣の朝」や高村光太郎の「レモン哀歌」の心の奥からの感動。そして、今書かれている「現代」詩のわからなさにも挑戦してみようと思います。

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というわけで、「日本の近・現代詩入門」という講座の中で、光太郎も取り上げて下さるそうです。ありがたや。

お近くの方、ぜひどうぞ。

ちなみに、当方も千葉県の佐倉市と成田市で、「高村光太郎と房総」という公開講座を持たせていただくことになりました。また近くなりましたら詳細をご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

ただ心を傾けつくしただけではまだ足りない。自己の真情を、縦横無礙に何処へ出しても堂々と通るやうに表現するのが詩の力であるやうだ。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

ふむふむ。

明日、開幕です。 

第42回千葉県移動美術館「近代日本とフランス-旅するまなざし-」

期   日 : 2018年8月28日(火)~9月9日(日) 会期中無休
会   場 : 茂原市立美術館・郷土資料館 千葉県茂原市高師1345-1
時   間 : 午前9時~午後5時
料   金 : 無料

千葉県移動美術館は、千葉県立美術館の収蔵作品をより多くの県民の皆様にご鑑賞いただくため、市町村の文化施設等を会場に開催する展覧会です。第42回を迎える今回は、茂原市立美術館・郷土資料館を会場に開催します。
第42回となる今回のテーマは「近代日本とフランス―旅するまなざし―」です。日本とフランス両国関係を紐解きながら、浅井忠(あさいちゅう)や都鳥英喜(ととりえいき)、板倉鼎(いたくらかなえ)をはじめとするフランスを旅した作家の作品を展示します。併せて茂原市ゆかりの作家である石川響(いしかわきょう)、関主税(せきちから)の作品もあわせて紹介します。

■主な展示作品
浅井忠《欧州市場風俗》1903年  高村光太郎(たかむらこうたろう)《手》1918年  シャルル・エミール・ジャック《森の中》1871年  ラファエル・コラン《田園詩》1903年  ギュスターヴ・クールベ《眠る人》1853年など

■関連事業
千葉県立美術館学芸員によるギャラリートーク
日時:平成30年9月2日(日曜日)1回目:午前11時~、2回目:午後1時30分~
受付:事前申込不要。当日会場にお集まりください。
2回目はお子さんを連れたお客様を優先とした親子ギャラリートークとして実施します。おおむね、5歳から小学生のお子さんを対象とした内容となりますので、予めご了承ください。

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というわけで、光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)が出ます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

言葉は作者自身の内から確かな選択と自覚とを以て出て来たものでなければ生きない。どんな立派な言葉でもその言葉に神経が無いやうになれば古物化してしまふ。凡(およ)そ詩語といふ特別な用語があるやうに思ふ者もあるが、それは考方が逆で、表現の緊密が極まれば其が即ち詩語となるのである。
散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

なるほど。

まずいただきもの。

詩人で朗読等の活動もなさっている宮尾壽里子様から、文芸同人誌『青い花』の第90号をいただきました。これまでも宮尾様や他の同人の方が、光太郎に関わる寄稿をなさっていて、その場合にはこちらのブログでご紹介させていただいております。


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今回も宮尾様の玉稿で、書評です(全6ページ)。取り上げられているのは2冊。まず、西浦基氏の『高村光太郎小考集』、それから中村稔氏の『高村光太郎論』。いずれも好意的にご紹介なさっています。

また、合間に歌人の松平盟子氏と当方のコラボで行った公開講座「愛の詩集<智恵子抄>を読む」の評も入れて下さっています。ありがたや。

ご入用の方、仲介いたしますので、こちらまでご連絡ください。 


もう1冊、定期購読しております日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。

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花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

今号は、昭和35年(1960)、智恵子の故郷・福島二本松の二本松城跡に建てられた光太郎詩碑の拓本から。詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の有名なフレーズ「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ」です。

碑は当会の祖・草野心平らが中心となって建てられました。光太郎の筆跡を、光太郎や智恵子とも面識のあった二本松の彫刻家・斎藤芳也が木彫に写し、それを原型にしてブロンズに鋳造したパネルがはめ込まれています。この碑も建立から60年近く経つかと思うと、感慨深いものがあります。

『月刊絵手紙』、版元のサイトから購入可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

すべて透徹したものには一つの美が生ずる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

「透徹」。いい言葉ですね。

光太郎第二の故郷・岩手花巻から市民講座の情報です。 

光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ

期   日 : 2018年9月1日(土)
時   間 : 午前9時から午後3時20分まで
会   場 : 花巻高村光太郎記念館他 (集合:まなび学園ロビー バスで移動)
料   金 : 400円
対   象 : 花巻市内に在住または勤務する方 小学生は保護者同伴 定員20名

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高村光太郎記念館に併設の「森のギャラリー」での講話は、高村光太郎記念館長・藤原睦氏、花巻高村光太郎記念会事務局長・高橋邦広氏、それから当方もお話をさせていただきます。当方からは、光太郎の生涯を通じ、どのような食生活を送っていたか、光太郎本人や周辺人物の証言などから追いかけます。

その他、マイクロバスを使い、市街の桜地人館さん、光太郎が碑文を揮毫した賢治詩碑などをめぐる予定で、対象は花巻市在住または勤務の方限定となっています。

終了後、このような話をしたよ、というのはこちらのブログでレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

詩がいつまでも幼稚であつていいといふのではない。成長すればする程、複雑微妙になればなる程、技術の高度化が加はれば加はる程、尚更思はくを絶した絶対境につきすすまねばならない。それが詩のよろこびである。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

一般読者の投稿詩に対するアドバイスですが、かつての光太郎自身もこのようにして成長してきたんだよ、ということなのでしょう。

昨日、智恵子の故郷・福島二本松に聳える安達太良山系のラジオ・テレビ番組をご紹介しましたが、今日は新聞記事から。

まず、福岡に本社を置く『西日本新聞』さん。8月21日(火)のコラムです。 

「普通の酒」が頂く栄冠 論説委員 長谷川 彰

 安達太良山。「あだたらやま」と読み、福島県二本松市の西にそびえる火山だ。阿多多羅山の漢字を当て、詩人高村光太郎の「智恵子抄」にも登場する。東京には空がないという妻の智恵子が、遠くを見ながら、この山の上に毎日出ている青い空が「智恵子のほんとの空だといふ」とつづられた一節を、ご存じの方も多いと思う。
 二本松市内には、造り酒屋だった智恵子の生家跡が残っているが、程近くに奥の松酒造という蔵元がある。創業300年の歴史を誇り、安達太良山の伏流水を使って醸す地酒の数々は、九州にもファンが少なくない。蔵の営業マン、津島健さん(49)が全国を駆け巡り、その魅力をアピールしていることも大きい。
 その津島さんが苦笑いしながら言うのだ。「四合瓶(720ミリリットル)千円の普通の酒が世界一になっちゃって」
 ロンドンで7月に開かれた世界最大級のワイン品評会、インターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)の日本酒部門で、出品した「あだたら吟醸」が最優秀賞に輝いたからだ。9部門の各最高賞から唯一選ばれる「チャンピオン・サケ」の栄冠だ。
 5年前に、福岡県八女市の喜多屋の「大吟醸 極醸 喜多屋」が選ばれて話題を呼んだのを、ご記憶かと思う。
 面白いのは、この「あだたら吟醸」、20年ほど前からの定番商品とか。「主に贈答用だった吟醸酒を、気軽に晩酌で楽しんでもらいたい」と生み出した酒だという。
 お値打ち価格にするため酒米でなく飯米を使い、醸造用アルコールも用いつつ、杜氏(とうじ)の技術で風味と品質を磨き上げたそうだ。大吟醸や純米酒が並み居る中での栄誉に、「社長も私もびっくりで、うれしいやら申し訳ないやら」と謙遜する津島さんだが、手応えを感じている様子だ。
 IWCでは当初、最高の素材と技術を極めたような酒が高く評価されていたが、日本酒が世界で広く飲まれるようになり、審査の目が多様性を帯びてきているらしい。
 日本酒は安物、悪酔いするといったイメージが広まり、地方の酒蔵が次々に行き詰まった時期も「お客に愛飲される酒造りに徹してきた」(津島さん)。そんな取り組みへの評価にもつながるとしたら、今回の栄誉は意義深い。
 津島さんと一緒に味わった受賞酒は、流れる水のようにすっきりとし、程よい甘さと香りが鯛(たい)のカルパッチョと合った。「限定酒とかじゃなかったので、受賞特需にも応じられそうです」。消費税込みで1本1080円の世界一の酒。心意気にも酔いしれた。
=2018/08/21付 西日本新聞朝刊=


奥の松さんの件、調べてみましたところ、先月の福島の地方紙で報道されていましたが、今回の『西日本新聞』さんのように、光太郎智恵子にからめた記事ではなかったので、気づきませんでした。 

奥の松吟醸酒世界一 品評会「IWC」日本酒部門

 世界最大級のワイン品評会「インターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)2018」の最終審査結果が十日(日本時間十一日)、英国・ロンドンで発表され、日本酒部門の最優秀賞「チャンピオン・サケ」に奥の松酒造(二本松市)の吟醸酒「奥の松 あだたら吟醸」が輝いた。福島県内蔵元の世界一は二〇一五(平成二十七)年のほまれ酒造(喜多方市)に次いで二度目。
  全国新酒鑑評会の金賞受賞銘柄数で六年連続日本一を誇る県産酒の品質の高さを世界に改めて示す受賞となった。
  ロンドンで行われた授賞式で奥の松酒造の遊佐丈治社長(55)が表彰を受けた。「三百年を超す奥の松の歴史の中で最も素晴らしい賞を受け、うれしく思う。福島には(東京電力福島第一原発事故の)風評の影響が残っており、自信につながる」と喜びを語った。「奥の松 あだたら吟醸」(七百二十ミリリットル、税込み千八十円)はフルーティーな香りと膨らみのある味、バランスの良さなどが高く評価された。
  日本酒部門には日本国外を含む四百五十六社が計千六百三十九銘柄を出品。出品社・銘柄数はともに過去最多だった。
  五月に山形市で日本酒部門の審査会が開かれ、純米酒や吟醸酒など九部門別に最高賞に当たる「トロフィー」受賞酒を選出。県内蔵元は吟醸酒の部でトロフィーを得た「奥の松 あだたら吟醸」と、純米酒の部でトロフィーに選ばれた名倉山酒造(会津若松市)の「純米酒 月弓」が最終審査に臨んだ。「チャンピオン・サケ」は九部門でトロフィーを獲得した九銘柄の中から選考した。

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震災からの復興に、はずみをつける快挙ですね。同じ蔵元どうし、泉下の智恵子やその家族も喜んでいることでしょう。


もう1件、福島県内各地で昨年から行われている体験型イベント、「ふくしま ほんとの空プログラム」関連で。 

安達太良山で心育む 二本松「ほんとの空プログラム」

 豊かな自然環境で子どもの好奇心001や探究心を育む活動「ふくしま ほんとの空プログラム」の安達太良山トレッキングは十九日、福島県二本松市の安達太良山で開かれた。
  県内外から四十人とプログラムサポーターのタレント長沢裕さん(伊達市出身)が参加した。安達太良マウンテンガイドネットワークのガイドで、夏の登山を楽しんだ。一行はロープウエーで八合目の山頂駅に移動し、薬師岳を通り山頂を目指した。登山道ではさまざまな木々や草花、青い空と雄大な安達太良連峰の景色を楽しんだ。山頂では猪苗代湖や磐梯山を望みながら、おにぎりやお弁当を食べた。
  田村市の本田匠君(10)は「初めての登山だったけど、みんなで頂上を目指して楽しかった」と達成感に浸っていた。
  プログラムは福島民報社の主催、オーデン、花王、常磐興産、大王製紙、テーブルマーク、日本シビックコンサルタント、日本ファイナンシャル・プランナーズ協会の協賛。


同プログラム、今後、鮫川村での宿泊体験、西会津町での探検プログラム、来年2月には郡山での「雪まみれキャンプ」などが計画されています。


「ほんとの空」を合い言葉に、福島がどんどん元気になっていって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

詩は如何なる生活の片隅にもなければならぬ。決して謂ふところの詩らしい章句の中にのみあるのではない。粗雑であつてはならないが、詩がわれわれの日常生活の中から直接に出て来るのも亦たのしい事である。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

たしかに何げない日常生活の中に「詩」を見つけ続けた光太郎らしい言です。

ラジオ番組とテレビ番組の情報です。 

サマースペシャル「まだまだ夏は終わらない!篠原ともえの安達太良山ガール計画」

TOKYO FM 2018年8月24日(金)00120:00~20:55

篠原ともえが福島県の安達太良山を旅する特別番組 東京FMサマースペシャル「まだまだ夏は終わらない!篠原ともえの安達太良山ガール計画」がオンエアされます!

安達太良山周辺の渓谷や温泉に癒やされ、 福島の美味しい食材を使ったBBQを堪能♪ぜひ山ガールな篠原さんと大地の恵みを感じる旅をお楽しみください☆

出演 篠原ともえ 他

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FM放送なので聴取可能地域が限定されますが、とりあえず。また、当方、ほとんど使ったことがありませんが、ラジコなどのサイト、スマホアプリを使えばインターネットでも聴けるはずです。


もう1件、こちらはテレビのBS放送。

プレミアムカフェ選 名作紀行(1)寺山修司(2)石川啄木(3)高村光太郎

NHKBSプレミアム 2018年8月29日(水)  9時00分~10時23分 
再放送        2018年8月29日(水) 24:45~26:08(=30日(木) 0:45~2:08)

(1) 名作をポケットに 寺山修司   田園に死す 
旅人:萩原朔美  語り:本和之 (初回放送:2002年)
(2) 名作をポケットに 石川啄木   一握の砂
旅人:谷啓  語り:久保田茂 (初回放送:2002年)
(3) 名作をポケットに 高村光太郎 智恵子抄
旅人:山本容子  語り:山本和之 (初回放送:2001年)

スタジオゲスト 澤口たまみ   スタジオキャスター 渡邊あゆみ

今年3月にも、全く同じ内容の放送がありました。過去のNHKさんの番組から、再放送の要望が高かったものをセレクトして再放送するものです。

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「シリーズ東北を旅する」ということで、寺山修司、石川啄木、そしてわれらが光太郎。3本まとめての放映です。

光太郎編のナビゲーターは、版画家の山本容子さん。

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智恵子の故郷・二本松(初回放映当時は安達町)を訪れ、光太郎智恵子に思いを馳せます。

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なかなか見応えがありました。スタジオでのトークを含め、光太郎編で30分ほどです。

ぜひご覧下さい。

ちなみに8月25日(土) 12:00~13:30 には、「新・BS日本のうた選 神奈川県座間市」の再放送があります。森昌子さんによる「智恵子抄」が流れます。


【折々のことば・光太郎】

詩はいかなる時にも純粋でなければならぬ。濁りにも純不純があるのである。純粋といふ事は感じ方にも、表現の技術にも、又知性のはたらきにもある。純粋のものは人の心を捉へる。それは詩の中核を成す。高低深浅の差があつても、しかも其は一様に耳を傾けしめる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

なるほど、確かに光太郎詩の「純粋さ」に、当方は心惹かれます。

朗読系の公演です。 

Jun企画「言葉の奥ゆき 通(アゲイン)」~夏休みの宿題~

期   日 : 2018年8月30日(木) ~9月2日(日) 全7回
時   間 : 8/30 16:00 19:00  8/31 19:00  9/1 13:00 16:00  9/2 13:00 16:00
会   場 : WESTEND STUDIO 東京中野区新井5-1-1
主   催 : 劇団スタジオライフ
料   金 : 各回1枚 4,300円

今回は~夏休みの宿題~ということで、夏休みの読書感想文の宿題に応じる如く、古今東西の作品を朗読させていただきたく思います。それこそ―モーパッサンから有島武郎まで、ジャンルに拘らず物語も加えて、心に響く珠玉の作品を集めました。そして前回は、詩のみの朗読参加だった宇佐見輝、千葉健玖にも一作品を担って貰います。朗読の後には、毎ステージ、出演メンバーと倉田によるトークセッションも開催いたします。

朗読は、モーパッサン「ジュール叔父」、有島武郎「一房の葡萄」他を予定しております。詩は、島崎藤村、北原白秋、高村光太郎他を予定しております。朗読は、一人一作品となり、2回出演の場合も同じ作品になります。詩は、<詩>のメンバーだけで行う場合と、<朗読&詩>のメンバーも加わって行う回とがあります。各回、出演者によるトークセッションがあります。

※朗読・詩の作品、出演者は都合により変更になる場合があります。

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細かい部分がよくわからないのですが、ともかくも、光太郎詩を朗読で取り上げて下さるようです。

初日の8月30日(木)は、都内3箇所で、歌曲、そして朗読で、光太郎が扱われるわけで、ありがたい限りです。

ご興味のある方、お問い合わせの上、足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩はもとより技術を要するが、小さな技巧よりも大きなまことが望ましい。心の内側から真に出たものを処理する事が望ましい。さうすれば必ず何処かに新鮮さが生ずる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

深尾須磨子のあとを継いで光太郎が選者となった、月刊誌『新女苑』の投稿詩の選評です。昭和14年(1939)から同16年(1941)まで36回、光太郎の選評が載りました。そのうち、これは、と思う一節のある回からワンフレーズずつ書き抜きます。

今回にしてもそうですが、他者の、しかも一般読者の作品に対する選評でありつつ、端的に光太郎の詩論が表れているものが多く、なるほど、と思わせられます。

「智恵子抄」がらみのコンサート情報です。 

浜離宮ランチタイムコンサートvol.175 小林沙羅ソプラノ・リサイタル

期   日 : 2018年8月30日(木) 
時   間 : 11:00開場  11:30開演
会   場 : 浜離宮朝日ホール 東京都中央区築地5-3-2
出   演 : 小林沙羅(ソプラノ) 澤村祐司(箏) 中村裕美(pf) 見澤太基(尺八)
料   金 : 全席指定¥2,900

曲   目 : 
 山田耕筰(詩・北原白秋):この道、からたちの花
 越谷達之助(詩・石川啄木):初恋
 中田喜直(詩・江間章子):夏の思い出
 山田耕筰(詩・三木露風):赤とんぼ
 澤村祐司(詩・島崎藤村):たれかおもはむ
 中村裕美(詩・中原中也):朝の歌、子守唄よ
 瀧廉太郎(詩・土井晩翠):荒城の月
 宮城道雄(作・詩):浜木綿
 宮城道雄(詩・北原白秋):せきれい
 中村裕美(詩・高村光太郎):「智恵子抄」より 或る夜のこころ、亡き人に(世界初演)

凛とした歌声で魅了する歌姫、小林沙羅が、筝の澤村祐司、作曲家でピアニストの中村裕美,、尺八の見澤太基とともに、日本の歌を届けます。「赤とんぼ」などの郷愁を誘う名曲のほか、澤村や中村が作曲した新しい日本の歌も。若さあふれるアンサンブルをお楽しみください。

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ピアノでご出演の中村裕美さん作曲の「或る夜のこころ」と「亡き人に」が演奏されます。

当方、平成27年(2015)に、晴海の第一生命ホールさんで開催された小林さんの「ライフサイクルコンサート  雄大と行く と行く 昼の音楽さんぽ 第3回 小林沙羅 麗しきソプラノの旅」というコンサートを拝聴いたしました。その際にも「或る夜のこころ」が演奏されましたが、「亡き人に」は初演だそうです。

過日ご紹介した、同じ日に行われる「国立能楽堂8月企画公演《国立能楽堂夏スペシャル 開場35周年記念》」もそうですが、チケットは既に完売とのこと。ただ、キャンセル等があるかもしれません。

この日、8月30日(木)には、なんともう1件、光太郎詩がらみの公演があります(偶然でしょうが)ので、明日はそちらをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

ほんとうに自分の魂をこめた声というものはまるで違う。それはきく者にはすぐひびく。シヤカの声とか、キリストの声とかいうのは恐らくその最上のものだつたのだろう。

散文「話言葉としての日本語」より 昭和31年(1956) 光太郎74歳

話す際の声もそうですが、歌声もそうでしょう。光太郎がらみの公演をよく聴きますが、そう思います。上記の小林さんは「魂をこめた声」を披露して下さることと信じております。

亡くなるおよそ1ヶ月前に書かれた文章の一節。ほぼ絶筆に近い時期です。主眼はラジオ放送に関するものですが、政治家や官僚の「声」がなっていないという苦言。嘆かわしい話ですが、今も昔も変わりませんね。

昨日は日帰りで岐阜に行っておりました。

当方、東北には年10回ぐらいは足を運んでおりますが、長野県以西に行くことはあまりなく、新鮮でした。

途中の車窓からの富士山。

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東海道新幹線を名古屋で降り、東海道本線で西岐阜駅へ。駅前から路線バスに乗り、目的地の岐阜県図書館さんに着きました。

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こちらでは、先月から企画展「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」が開催中です。

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明治元年(1868)、愛知に生まれ、明治35年(1902)に、コペンハーゲン動物園の見世物興行の踊り子募集に応じ渡欧、そのまま欧州に残り、実に20年近く経った大正10年(1921)まで、欧州各地やアメリカで日本人芝居一座の花形として絶賛され、ロダン彫刻のモデルとなった花子――本名・太田ひさ――を紹介する展覧会です。

このブログでも繰り返しご紹介していますが、昭和2年(1927)、書き下ろし評伝『ロダン』刊行に際し、光太郎が岐阜の妹の家に暮らしていた花子を訪ねています。その後に光太郎から送られた書簡のコピーや、評伝『ロダン』、光太郎訳の『ロダンの言葉』(花子に関する記述有り)も展示されていました。

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その他、花子に関する貴重な資料がずらっと並び、実に興味深く拝見しました。

花子の令孫がご存命です。花子自身は子を為さなかったのですが、帰国後に、実弟・角次郎の子の英雄を養子とし、その娘である澤田正子様がまだお元気です。ちなみにご主人の澤田助太郎氏も、花子の実妹・はまの令孫に当たります。

澤田氏は岐阜女子大学名誉教授であらせられ、血縁の花子に関し、実に詳細な研究をされました。その澤田夫妻から、岐阜県図書館さんに花子関連資料の数々が寄贈されており、今年は明治維新150年、花子生誕150年ということもあって、それらの資料の展示が為されているわけです。

企画展示を拝見した後、館内のレストランで昼食。そして午後1時30分から、関連行事として「「花子」紙芝居と映画」が、やはり館内の小ホールで開催されました。

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それぞれ約1時間ずつの2本立て。まずは伊藤今日子さんという方による、「三味線紙芝居「花子」」。

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近いものを挙げろ、と言われれば、講談でしょうか。伊藤さんが花子の生涯を語るのですが、太棹の三味線を弾きつつ、さらにスクリーンに「紙芝居」ということで静止画像を投影しながらでした。なかなか工夫された構成で、面白いと思いました。

つづいて、「なつかシネマ上映会 プチト・アナコ~ロダンが愛した旅芸人花子~」。映画だと思っていましたが、制作がテレ朝さんということで、どうもテレビで放映されたもののようでした。平成7年(1995)の作品だそうです。

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舞踏家の古川あんずさん演じる晩年の花子が、51ef784e麿赤兒さん扮する光太郎に、ロダンとの思い出を語る形で進行。完全なドラマ仕立てではなく、途中途中に矢島正明さんのナレーションで、花子の生涯が解説されました。ドラマ部分では、パリ郊外のロダン美術館でのロケもあり、「ほう」と思いました。ただ、麿赤兒さんの光太郎は、ちょっと濃かったな、という印象でした(笑)。

ラスト近くには、前述の光太郎から花子宛の書簡も紹介されていました。

三味線紙芝居、それから「プチト・アナコ」、ともに澤田助太郎氏原作のクレジット。

その澤田夫妻がお見えでした。終演後に少しお話をさせていただきました。

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以前にご夫妻で当会主催の連翹忌にご参加いただいたことがあったと記憶しております。また、助太郎氏のご講演を、文京区立森鷗外記念図書館(当時)で聴いた記憶も。

記憶が正しければ、助太郎氏、当会顧問の北川太一先生と同じ、大正14年(1925)のお生まれ。お元気そうで何よりでした。

というわけで、なかなかに充実の岐阜紀行でした。

企画展示の方は、来月24日まで。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

彫刻的分子と同時に私の中にある文学的分子は相当活発であつてこれをおし殺すわけにゆかない。それで勢のおもむくままに歌も書き詩も書いた。以前、人はよく私に向つて詩歌は私の余技かとたずねたものだが、私はこれを余技とはさらさら思わない。同じ重量で私の中に生きている二つの機能であつて、どちらも正面きつての仕事なのだ。

散文「自伝」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

彫刻を純粋造型たらしめるため、余計な心の叫び等は排除し、それは詩歌で吐き出すという、他の文章でも繰り返し語られている彫刻と詩のいわば分業。最晩年になっても、その考えに変わりはなかったようです。

能の公演情報です。

しかし、観に行こうと思っていましたが、ほぼほぼ発売と同時に完売。ただ、もしかするとキャンセル等があるかもしれません。  
時 間 : 午後6時30分開演(終演予定午後8時30分頃)
場 所 : 国立能楽堂 東京都渋谷区千駄ヶ谷4丁目18-1
料 金 : 正面=6700円 脇正面=5600円(学生3900円) 中正面=4400円(学生3100円)
演 目 :
舞囃子新作 智恵子抄(ちえこしょう)  鵜澤久  櫻間金記
高村光太郎が、妻智恵子へのひたむきな愛を詠んだ『智恵子抄』。
武智鉄二が原作から選んだ詩と短歌で
構成して、昭和32年に発表した新作能を舞囃子で上演します。
狂言小謡 花の袖(はなのそで)  野村又三郎(和泉流)
独吟 泰山府君(たいさんぷくん)  松野恭憲(金剛流)
仕舞 小歌(こうた)  宝生和英(宝生流)
一調 放下僧(ほうかぞう)  岡久広  曽和正博
袴狂言 釣狐(つりぎつね) 前(まえ)  野村万作(和泉流)
一族を猟師に狩られた古狐は猟師の伯父に化け、狩りを止めるよう猟師のところへ意見に行きます。 大曲「釣狐」の緊迫感溢れる前半を、今回は袴狂言でご覧いただきます。

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能の「智恵子抄」については、以前にもちらっと書きましたが、上記解説に有るとおり、武智鉄二構成、観世寿夫により、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に初演されました。

下記画像は、昭和37年(1962)、名古屋の愛知文化講堂での公演「中日五流能」のパンフレットから。

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その後もちょぼちょぼ演じら001れた記録がありますが、決してその回数は多いものではありません。

この新作能に関しては、生前の光太郎も乗り気で、自ら面のデザインを考えていたほどでした。亡くなる前年の昭和30年(1955)頃のスケッチブックに、そのラフスケッチが残されています。結局、光太郎生前の上演は叶わず、光太郎デザインの面も実現しませんでしたが……。

昭和30年(1955)と翌年の光太郎日記から。

武智鉄二が「智恵子抄」を能でやりたい由、面会は不必要と返事、
(10月4日)

藤島宇内氏くる、武智鉄二氏の話を伝言、面のスケツチを示すこと、京都の或職人がそれによつて面打をすること、「智恵子抄」能形式演能のこと、(10月9日)

夕方藤島宇内氏くる、武智鉄二氏のテカミ持参、「智恵子抄」能楽化のこと、(1月8日)


武智の回想も残っています。昭和32年(1957)の『婦人公論』に載った「座談会三人の智恵子」という記事。武智が司会を務め、それぞれ舞台、映画、テレビドラマで智恵子役を演じた水谷八重子、原節子、新珠三千代が参加した座談会の記録です。

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武智  能のほうは能面でしょう。だからどうしていいか困りましてね。私、はじめは高村さんに智恵子という能面を作って下さいと云ってお願いしたんですよ。そうしたら大分その気持になられたらしかったんですが、いまは病気で駄目だから、五、六年待ってくれれば彫ると云われたんです。私のほうとしては、先生の健康状態がどういうふうだかよく分りませんでしたが、五、六年待っても智恵子の面が出来てからやるほうがいいと思っていたのです。しかし「自分の身体のために何年もの間待って貰うわけにいかないだろうから、それだったらほかの変な職人に彫らさないで、昔からの能面を使ってやってくれ」と云ってらしたんですよ。結局古い能面を使ってやることになったけれども、この間高村豊周さん(光太郎氏令弟)にお会いしてお話をうかがったら、光太郎先生もずいぶんと能のことを気にされて、能面のデッサンは描かれたんだそうです。それは私、まだ拝見してないんですけれども、あるんですって。それから智恵子は、いつもセーターを着てズボンをはいていることが多かったから、そういう恰好で能をしてくれという話で……。
水谷  エンジのセーターで、黒いズボンをはいていらしたそうですね。
武智  それで、奥村土牛さんに衣裳をお願いしたのですが、ともかくセーターにズボンを能の中でどういうふうに生かすかですね。何しろ足が二本ニューッと出てるのは、いままでの能にないんですよ。ですからやる人はとてもやりにくいらしいですね。
水谷  二人の智恵子が出るそうですが、どういうのですか?
武智  つまり、智恵子と気が狂った智恵子の二人が出るんです。美しい智恵子というのは高村さんの詩の中で歌(うた)い上げてる永遠の女性像の智恵子で、もう一人の智恵子は現実に追いつめられて気が狂うという……その二人をドッペルゲンガーみたいに一緒に出すんです。それは能だから出来るんですね。面(めん)をカブっていればいいんですからね。で、一人のは、気が狂ったような顔をした面で、衣裳も同じ模様の衣裳で、色が違うだけです。


ここまで書き写してみて、やはり観たかった、という思いが強く湧きました。ごく普通にチケットが買える状況で観られるよう、しょっちゅう演じられることを期待しますが、なかなか難しいのでしょうね……。


【折々のことば・光太郎】

世界諸国語の中でも日本語はよほど風変りである。日本の詩人はよく、「言(こと)だまの幸(さきお)う国」といつて日本語の美しさをたたえているが、これは、自国語はどこの国の人でもよく分るからそう思うのであつて、ドイツ人はドイツ語が世界でいちばん美しい国語だというし(ケーベル博士)、フランス人、イギリス人もそれぞれフランス語、イギリス語でなければ微妙な表現はできないと思つているようで、決して日本だけが、「言だまの幸う国」ではないのである。ただ日本人にとつては日本語でなければあらわせない美があるということに外ならない。

散文「日本詩歌の特質」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

戦後9年、もはや翼賛の呪縛から解き放たれた光太郎にとっては、「日本」は特別に敬愛すべきものでも、ことさらに唾棄すべきものでもない、世界の中の「日本」と化していることが伺えます。

6月に福島県南相馬市をメイン会場に行われた「第69回全国植樹祭」。その福島県実行委員会事務局さんで発行している『第69回全国植樹祭だより キビタンの森林(もり)』の最終号が発行されました。

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光太郎智恵子をモチーフとしたメインアトラクション「あどけない話のその向こう」の紹介。

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当方も行きました、サテライト会場(福島県大玉村)などの紹介も。

平成最後の植樹祭、関係者の皆さんには、格別な思い出として残ることでしょう。


もう1件、長野県の松本・安曇野・塩尻・木曽地域で発行されている『市民タイムス』さん、今日の一面コラム。 

2018.8.18 みすず野

 徳本峠を越えた。島々の林道入口に獣害よけの柵があったのを除けば、営業していた頃から時が止まったかのような岩魚留小屋のたたずまいも、力水から取り付く最後のささやぶのつづら折りも十数年前と少しも変わっていない◆峠まで16キロ。登りのつらさをウォルター・ウェストンは「奮闘の末に」勝ち得た快い昼寝と書き記し、芥川龍之介は小品「槍ヶ嶽紀行」で、案内人との距離が隔たり「とうとう私はたつた一人、山路を喘いで行く旅人になつた」と語る◆大正2(1913)年9月、上高地に滞在していた高村光太郎は徳本峠を越え、後に結婚する智恵子を岩魚留まで迎えに行った。その翌年に訪れた英文学者で登山家の田部重治は峠道から見る穂高連峰の姿を、山への観念を打破するほど「気高い」と随筆に書いて、読者をいざなった◆沢を渡り返す木橋の中には近年架け替えられたものもあった。古道を守ろうと汗する人たちがいる。岳沢から急な登山道をたどって前穂高岳のてっぺんに立った69歳の女性が、小紙の投稿欄に感激をつづっていた。当方は涸沢から奥穂、つり尾根を経て、その重太郎新道を岳沢へ下った。


光太郎智恵子にふれていただき、ありがたいかぎりです。


【折々のことば・光太郎】

ともかく私は今いはゆる刀刃上をゆく者の境地にゐて自分だけの詩を体当り的に書いてゐますが、その方式については全く暗中摸索といふ外ありません。いつになつたらはつきりした所謂詩学が持てるか、そしてそれを原則的の意味で人に語り得るか、正直のところ分りません。
散文「詩について語らず――編集子への手紙――」より
 
昭和25年(1950) 光太郎68歳

もはや晩年にさしかかった光太郎にして、この言です。「百尺竿頭に一歩を進む」の感があります。

新刊小説です。 

蝶のゆくへ

2018年8月3日  葉室麟著  集英社  定価1,700円+税

星りょう、クララ・ホイットニー、若松賤子、樋口一葉、瀬沼夏葉……。明治という新しい時代に、新しい生き方を希求した女性たち。その希望と挫折、喜びと葛藤が胸に迫る、感動の歴史長編。

「蝶として飛び立つあなた方を見守るのがわたしの役目」と語る校長巌本善治のもと、北村透谷や島崎藤村、勝海舟の義理の娘クララ・ホイットニーらが教師を務め、女子教育の向上を掲げた明治女学校。念願叶って学び舎の一員となった星りょう(後の相馬黒光)は、校長の妻で翻訳家・作家として活躍する若松賎子、従妹の佐々城信子、作家の樋口一葉、翻訳家の瀬沼夏葉をはじめ、自分らしく生きたいと願い、葛藤する新時代の女性たちと心を通わせていく―。

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一昨年から昨年にかけ、集英社さんの雑誌『小説すばる』に連載されていたものの単行本化です。作者の直木賞作家・葉室麟氏は、昨年暮れに逝去され、これが絶作なのかもしれません。ちなみに来月公開される岡田准一さん主演の時代劇映画「散り椿」は葉室氏の原作です。

物語は、新宿中村屋創業者・相馬愛藏の妻となる星りょうを主人公とし、りょうの学んだ明治女学校を主な舞台とします。全七章のうち、第六章「恋に朽ちなむ」、最終章「愛のごとく」で、りょうと荻原守衛の悲恋が描かれ、守衛の親友であった光太郎も登場します。

ちなみに守衛の絶作にして、光太郎がそれを残すことを進言した「女」は、りょうをモデルとしています。

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ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

私はいはゆる「詩」を追はない。日本に於けるいはゆる「詩的」といふ、あの一種の通念をふみにじる。さういふものを洗ひ去る。私は自己の必然にのみ頼る。私にとつて此世は造型である。私の詩も亦造型の対位として存する。私の詩の理法は造型理法にその根を持つてゐる。

散文「私の詩の理法」全文 昭和24年(1949) 光太郎67歳

題名の通り、光太郎詩の理法が端的に表されています。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市。そちらの広報紙『広報はなまき』さんの今月15日号の、「花巻歴史探訪 〔郷土ゆかりの文化財編〕」という連載で、光太郎の遺品が紹介されています。

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題して「光太郎の鉄兜(てつかぶと)と鳶口(とびぐち) 昭和20年花巻空襲被災当時の所持品」。その通りで、昭和20年(1945)8月10日、東京を焼け出されて疎開していた花巻の宮沢賢治の実家で再び空襲に遭った際に身に着けていたものです。鳶口の柄には、「高村光太郎」と記名してあります。

お茶の水女子大で教鞭を執っていた椛澤ふみ子(佳乃子)に宛てた、8月24日付の長い書簡の中に、「警報と同時に小生は例の通り、鉄兜をかぶり、飯盒、鉈を腰にぶらさげ、バケツと鳶口とを手に持つてゐたので……」という一節があります。

おそらく花巻高村光太郎記念館さんの所蔵なのでしょうが、以前に頂いた所蔵品のリストには入っていなかったように記憶しております。当方の記憶違いかも知れませんが。或いは、最近、新たに遺品類が出てきたやに聞いておりますので、その中のものかも知れません。月末にはまた行って参りますので、確かめてみます。


それから、やはり花巻高村光太郎記念館さんの協力で為されている『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん第9号(8/10発行)の連載、「光太郎レシピ」。

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今号は、「ボストンビーンズとアンチョビサンド」。それぞれ花巻郊外太田村の山小屋での日記に記述があるものです。

ボストンビーンズは、インゲンマメなどをメープロシロップを使った甘辛いソースで調理した料理。なんと、明治39年(1906)から翌年にかけて留学で滞在していたニューヨークでこれを食べていたという記録もあります。

食事はスヰトン鍋の自炊ときめてゐたが、外へ出るとデリカテツセンに安い出来合ひの食料が何でもあるので其を五仙(セント)十仙と買つて来て使つた。昼食は工場の近くの店で十仙均一のボストンビーンズや、フオースや、ホツトケークなどを一皿食ふ事にしてゐた。
「ヘルプの生活」昭和4年(1929)

「工場」は、おそらく「こうじょう」ではなく「こうば」と読み、光太郎が助手を務めていた彫刻家、ガットソン・ボーグラムのアトリエです。

ちなみに、来月1日に、花巻高村光太郎記念館さん主催の市民講座「光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ」があり、講師を仰せつかっております。とりあえずじょうきのように、光太郎の「食」に注目して生涯を概観しようと思っております。詳細はまた後ほど。


【折々のことば・光太郎】

小生は好んで古今の俳句をよみ、且ついろいろに噛み味つて居ります。此の世界に稀な短詩型の持つ一種特別な詩的表現は、小生自身の詩作に多くの要素を与へてくれます。

散文「中村草田男雅丈」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

俳人・中村草田男の主宰する雑誌『万緑』創刊号に載った、おそらく中村宛の書簡そのままから。のち、中村の句集の序文としても使われました。

光太郎自身、少年期から俳句の実作に親しみ、それは戦後まで断続的に続きました。また、確かに詩の中にも俳句的発想が見られるような気もします。

テレビ放映情報を2件。 

新・BS日本のうた選 神奈川県座間市

NHKBSプレミアム 2018年8月19日(日)  19時30分~20時59分

今回は2016年8月7日に放送した回の再放送です。スペシャルステージは北島三郎&藤あや子▽藤が北島のあの名曲に挑戦!「与作」と民謡のコラボレーションも披露!

「もう一度逢いたい」「味噌汁の詩」「智恵子抄」「私が生まれて育ったところ」「夜空ノムコウ」「他人船」「奥入瀬」「不思議なピーチパイ」「帰らざる日々」「男の背中」。

スペシャルステージは「兄弟仁義」「博多の女」「加賀の女」「函館の女」「矢切の渡し」「長崎の鐘」「夕霧岬」「男の勝負」「与作~秋田草刈唄入り~」。イマオシ!は西方裕之、森昌子、千昌夫、北島三郎&藤あや子。

出演
北島三郎,藤あや子,森昌子,八代亜紀,千昌夫,山本譲二,タイムファイブ,多岐川舞子,西方裕之,増位山太志郎,松川未樹,森恵,川上慎一,田中彰,遠山敦,青木智平,石塚勇,加藤秀和,福本えみほか

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一昨年、やはりBSプレミアムさんで2回放映されたものの再々放送です。

森昌子さんが、昭和39年(1964)、2代目コロムビアローズさんの歌唱でリリースされた「智恵子抄」(丘灯至夫作詞・戸塚三博作曲)をカバー。CD等には入っていないようですが、森さん、この曲を持ち歌にされ、たびたび歌われています。


もう1件。 

校歌を訪ねて「第87回 福島県川内村立 川内中学校」

BS-TBS 2018年8月18日(土)  16時54分~17時00分

誰にでもある小学校や中学校の校歌の思い出。この番組は東日本大震災の被災県を中心に小中学校の校歌を紹介します。

今回ご紹介する学校は福島県川内村立川内中学校。川内村は、大震災の被害はほとんど無かったものの原発に近かったことから、全村避難を余儀なくされました。1年後、帰村は果たしましたが子どもたちの帰村率は少ないのが現状です。子どもたちも川内村に注目を集めようと、現在の中学3年生が小学6年生の時に役場にマラソン大会の開催を提案。現在も「川内の郷にかえるマラソン」として県外にも知られるイベントととなって続いています。そんな川内村で有名なのが、モリアオガエルの繁殖地として、国の天然記念物に指定を受けてる「平伏沼」。そしてそのモリアオガエル目当てにこの村を訪れたのが、カエルの詩人として知られる草野心平。名誉村民になるほど川内村を愛した草野心平が川内中学校の校歌の作詞を担当しました。番組ではそんな草野心平が作詞をした川内中学校の校歌を、全校生徒の斉唱でお届けします。

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当会の祖・草野心平作詞による川内中学校校歌が紹介されます。

この番組では、昨日もご紹介した「いのちの石碑」がらみの宮城県女川町立女川中学校さんの校歌(佐藤成晃作詞)も取り上げられましたし、このブログでは紹介しませんでしたが、平成27年(2015)10月の第一回放映で取り上げられた双葉中学校さんはじめ、心平作詞の校歌もいくつか放映されています。

心平を名誉村民に認定して下さり、今も心平を偲ぶ「天山祭」等を実施して下さっている川内村ということもあり(ちなみに今回は川内中学校さんですが、川内小学校さんの校歌は「智恵子抄」作詞の丘灯至夫氏です)、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

気どることもいらないし、自負することもいらないし、自卑することもいらない。ありのままを露呈して自己の全力を尽すのみだ。淘汰はあとで歳月がしてくれる。自己天性の真諦さへ究め得れば、詩人の存在理由は十分にある。一人に極まることは万人に極まることだ。

散文「詩人も一兵である」より 昭和18年(1953) 光太郎61歳

一人に極まることは万人に極まること」は、昭和15年(1940)の随筆「智恵子の半生」中の「一人に極まれば万人に通ずる」と照応します。

とりあえずは「歳月」の「淘汰」を免れている光太郎。今後もその名を永遠に留めるべく、努力していきたいと存じます。

まず、過日、第27回女川光太郎祭が行われた宮城県女川町からの報道。仙台放送さんのローカルニュースです。  

津波到達点に17カ所目の「いのちの石碑」完成【宮城・女川】

宮城県女川町では、震災の記憶を未来に伝える「いのちの石碑」が完成し、11日、除幕式が行われました。
 新しい「いのちの石碑」は、女川町の飯子浜地区に完成しました。「いのちの石碑」は震災の記憶を未来に残そうと2011年に入学した当時の女川中学校の生徒たちが、町内21カ所の浜に設置を進めているもので、今回が17基目の完成となります。
 設置者のひとり、鈴木元哉さんは「まだまだ自分たちに出来ること、そんなことを見つけながら、減災・防災これからの1000年後の命を守るために、何か行動、活動ができたらなと思います」と話していました。
 石碑には、1000年後の命を守るため「大きな地震が来たらこの石碑より上へ逃げてください」などの対策案が刻まれています。

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このブログでたびたび取り上げている、女川町に建てられた光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。新たに17基目が除幕されたということです。毎回、頭の下がる思いです。


続いて、『岩手日日』さんの1ヶ月前の記事。サイト上では登録有料会員しか読めなかったのですが、福島二本松の、記事にもある「智恵子のまち夢くらぶ」さんの方からコピーを拝受しました。 

高村夫妻が紡いだ縁 智恵子のまち夢くらぶ・福島 花巻訪問、山荘など見学

【花巻】彫刻家で詩人の高村光太郎の関連施設がある花巻市に15日、妻智恵子の出身地・福島県二本松市から智恵子を顕彰する市民団体が訪れ、戦後7年余りの間、光太郎が暮らした高村山荘などを見学して当時の自然環境に親しみながら、地元住民とも親交を深めた。
 訪れたのは二本松市を拠点に活動する「智恵子のまち夢くらぶ」(熊谷健一会長)の会員と福島、郡山両市民を合わせ24人。同団体が光太郎や宮沢賢治を学ぶ機会にと実施したもので、花巻訪問は3年ぶり3回目。
 一行は地元の太田地区振興会や花巻高村光太郎記念会の案内により、花巻市太田のかつて光太郎が暮らした高村山荘や高村光太郎記念館、智恵子展望台などを巡った。
 一行の希望で、山荘内の「雪白く積めり」詩碑前で昼食を取った後、同記念館の関係者が横笛の演奏を披露したほか、子供の頃に光太郎と接した経験を持つ浅沼隆さん(76)=同市太田=が焼いたサンマを灰に落としてしまい、光太郎がそれを気にせずに食べたという思い出をしみじみと語り、ほのぼのとした雰囲気で交流を深めた。
 智恵子のまち夢くらぶは2005年に結成し、智恵子の生家がある通りを「智恵子純愛通り」と愛称を付け、愛称記念碑を建立するなど、智恵子の顕彰と地域活性化の活動を展開。花巻の団体とは光太郎の命日(1956年4月2日)に毎年東京で行われる連翹忌(れんぎょうき)で知り合い、交流を図っている。熊谷会長(67)は「山荘は光太郎が晩年の一時期を暮らした大切な場所。私自身は6回目の花巻訪問になるが光太郎ゆかりの地が大切に保存されていることに感謝したい」と話していた。
 高村山荘敷地内で地域づくり事業を展開している太田地区振興会の佐藤定会長(76)は「光太郎夫妻が取り持つ縁で生まれた交流なので末長く続けていきたい」と語る。

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記事にも有るとおり、当会主催の連翹忌がこうしたコーディネートの拠点となっていることに、悦びを感じます。こうした輪をどんどん広げていきたいものです。

花巻高村光太郎記念館さんでは、企画展「光太郎と花巻電鉄」を開催中。皆様もぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

技術は前進し、精神は遡る。
散文「詩の進展」より 昭和18年(1953) 光太郎61歳

戦時中の文章ですので全体的には翼賛的なニュアンスで貫かれていますが、いわゆる「温故知新」ということが言いたいのだと思います。その点だけは評価できます。

智恵子の故郷、福島二本松からイベント情報です。 
時   間 : 午後6時から
場   所 : 二本松市市民交流センター1階多目的室 福島県二本松市本町二丁目3番地1
料   金 : 無料
講   師 : 安藤享平氏(郡山市ふれあい科学館 天文担当 学芸員)

日本天文学会が毎年主催している「全国同時七夕講演会」の一環で開催いたします。旧暦の七夕をむかえた後ですが、七夕の伝統的行事の話などもお話していただきます。実際に星空を見上げる観望会も実施いたしますのでほんとの空のもとで、星に親しんでみませんか?

現在参加者募集中です。申し込み用紙などは交流センターにお問い合わせください。また、当日参加も受付予定ですので、お越しください。

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「ほんとの空」の語を持ち出されると紹介しないわけに行きません(笑)。

智恵子も見上げた同じ空の元での星空観察と講話。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

もともと発声によつて生れた詩が、その発声を野蛮視するやうな矛盾が起るに至つて近代の神経は病的徴候を明らかに示した。昔、民の声であつた詩が、いはゆる高度な詩ほど一般世人の心と何の関係も持たない、小さな詩人仲間だけの鑑賞物となつた。

散文「朗読詩について」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

現代の「詩人」諸氏、危機感を抱いてほしいものです。

少し前から紹介すべき内容が多すぎて、このブログで取り上げるのが中々追いつきません。嬉しい悲鳴ですが。

今月初めからの新聞各紙の記事をまとめてご紹介します。

まず、『福島民友』さん。8月5日(日)に福島市で開催された女優の中嶋朋子さん朗読会についてです。 

北の国からの蛍...倉本作品「朗読」 福島で女優・中嶋朋子さん

 脚本家倉本聰さんが手掛けたドラマ「001北の国から」の蛍役で知られる女優中嶋朋子さんによる朗読会が5日、福島市のとうほう・みんなの文化センターで開かれた。倉本さんが富岡町をテーマにした点描画「夜の森 桜はそっと呟(つぶや)く」に添えた詩の朗読では、中嶋さんが自然の視点に立った情景をしっとりと聞かせ、来場者を倉本作品の世界にいざなった。
 中嶋さんとゲストの詩人和合亮一さん(福島市)が朗読した。「夜の森―」は富岡町にある「夜の森の桜」の東京電力福島第1原発事故後の心情を想像した詩で、中嶋さんは「倉本さんは観察のプロフェッショナル。夜の森の桜を繊細に表現したのだろう。皆さんも作品を心の声で読んで味わってほしい」と語った。
 中嶋さんはこのほか、本県ゆかりの高村光太郎の「樹下の二人」と草野心平の「おたまじゃくしたち45匹」を読み上げた。和合さんも自作「詩の礫(つぶて)」などを披露した。
 トークショーでは「北の国から」の撮影秘話を披露。連続ドラマで列車を中嶋さんが追い掛ける場面は「走りながら、いいタイミングでマフラーが飛んでいくシーンを撮るために何度も走った」と明かし、ユーモアを交えながら倉本さんやスタッフの情熱が今も語り継がれる名シーンをつくり出した様子を紹介した。
 朗読会は福島民友新聞社の主催、大清プロダクションの特別協賛。同センターで開催中の展覧会「森のささやきが聞こえますか―倉本聰の仕事と点描画展」との同時開催。
 「あぁ懐かしい」
 中嶋朋子さんは朗読会前に展覧会会場を訪れ、倉本聰さんが描いた点描画などを鑑賞した。
 中嶋さんは「自然の中にいると人間の無力さが分かる。倉本先生は自然の強さや優しさ、大きさを木に語らせた」と想像した。「北の国から」の小道具や撮影セットの展示では、蛍役の衣装と再会。「あぁ懐かしい」と声が漏れた。
 中嶋さんはこれまでも観光などで何度も来県していると明かし、「自然豊かな福島にまた訪れたい」と話した。


続いて同じ福島の『福島民報』さん。7日掲載の記事です。 

記念事業で誘客 智恵子没後80年

 二本松市出身の洋画家・高村智恵子を顕彰002する民間団体「智恵子のまち夢くらぶ」は今年の智恵子没後八十年に合わせ、多彩な記念事業を展開する。メイン事業として十一月十八日に二本松市コンサートホールで「全国『智恵子抄』朗読大会」を開く。愛と芸術に生涯をささげた智恵子を多くの人に知ってもらい、観光誘客にもつなげる。
 「全国『智恵子抄』朗読大会」は国内初開催となる。詩人で彫刻家の夫高村光太郎が詠んだ智恵子抄は、智恵子への愛情が凝縮された詩集として知られる。智恵子、光太郎夫妻への思いを込めたスピーチと詩の朗読を通じ、県民だけでなく全国の人々に「純愛」を感じてもらう。福島大名誉教授の沢正宏さんが審査委員長を務める。八月下旬から出場者を募る予定。
 十二月には「智恵子カフェ」を催し、智恵子にちなんだ菓子を味わいながら智恵子と光太郎の人生について語り合う。九月には智恵子純愛通り記念碑第十回建立祭、十月には智恵子に関する知識を問う「智恵子検定」などを予定している。夢くらぶは毎年、智恵子に関するイベントを開催してきたが、全国規模の催しを主催するのは初めて。
 六日に同市の市民交流センターで開いた企画会議で事業の詳細を決めた。熊谷健一代表(67)は「智恵子の魅力を発信して文化振興につなげたい」と話した。各種イベントに関する問い合わせは智恵子のまち夢くらぶの熊谷代表 電話0243(23)6743へ。


だいぶ前にちらっとご紹介しまして、詳細はまた改めてご紹介しますが、チラシは下記の通りです。

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それから、8月6日(月)の『毎日新聞』さん。歌人の川野里子氏のコラムです。 

ことばの五感 「本物」はどこに?=川野里子

 都会生活が長くなったせいか「本物の生活」というものに憧れるようになった。しかし「本物の生活」とは一体どんな生活のことなのか? 例えば野菜は無農薬で育て、衣類から家具まで手作りをする。魚を焼くにも炭火を熾(おこ)し、風呂も薪で沸かす。そんな生活のことだろうか。私の父母は老後このような「本物」生活に楽しそうに没頭した。だがそのために働きずくめに見えた。怠け物の私には無理だ。あのひたむきな「本物」への情熱を不思議な気持ちで思い出す。「本物」とは何か?
 あるアメリカ人の老婦人が「アメリカには何でもあるけど、本物がないのよ」と嘆いていた。彼女によればイギリスやフランスには本物があるという。では、ということでイギリスに行き、バッキンガム宮殿を見学した。だが、かつてルネッサンス様式だった建物はその後ネオクラシック様式へと模様替えをし、さらにさまざまに増築されたややこしい建物だった。これは「本物」か? ルネッサンス様式といえばイタリアだ。しかしルネッサンスは古代ローマの復興の意味だという。建築に、絵画に、彫像に古典への憧れが滲(にじ)む。いったい本物はどこにあるのか?
 こないだは祠(ほら)があったはずなのにないやと座りこむ青葉闇 五島 諭 
 確かにあったはずの祠は幻だったのか? どこかにあって、しかし探すとなぜか見つからない。そういうものを私達は常に探しているのかもしれない。ずっと昔から人間は「本物」に憧れ、「本物」を目指して心の旅を続けてきた。ブランドものや骨董(こっとう)品が本物であるか否かに始まって、本物の味、本物の芸術、本物の旅などなど。詩人、高村光太郎の妻の智恵子は「ほんとの空」は故郷にしかない、と言った。そういえば本物の愛なんてことも若い頃は考えたな。苦しい堂々巡りだった。
 肛門をさいごに嘗(な)めて眼を閉づる猫の生活をわれは愛する 小池 光
もしかするとこれこそ「本物の生活」なのか?
(かわの・さとこ=歌人)


川野さんのお名前、記憶のどこかに引っかかっていましたが、5月に中村稔氏著『高村光太郎論』書評を書かれていました。


さらに、昨日の『朝日新聞』さん。読書面です。  

(著者に会いたい)『本を読む。 松山巖書評集』 松山巖さん

心揺さぶられた33年分の541冊 松山巖004さん(73歳)
 大学の建築学科を出て、親友と建築事務所を作ったが、なかなかうまくいかない。もの書きになろうと思っていた1983年、新宿の飲み屋で知り合った「カメラ毎日」の西井一夫編集長(故人)から、書評を書くようにと1冊の本を手渡された。
 『學藝諸家 濱谷浩写真集』。学問や芸術を追求する諸家、つまり藤田嗣治、鈴木大拙、湯川秀樹、高村光太郎、井伏鱒二ら91人を45年かけて撮った本だ。詩人・堀口大学を写した4枚の中には、堀口の娘の子ども時代と、花嫁姿の写真がある。
 「こんなに時間をかけて撮るんだ、とびっくりしましたね。一人一人はともかく、全体としてみると人間って面白いもんだなって。これを気どった文章で評することは僕にはできないと思って、素直に書きました」
 西井さんからは、翌月も、その翌月も、書評の依頼が来た。初の著書である都市論『乱歩と東京』が日本推理作家協会賞を受け、読売新聞の読書委員に。
 その後、毎日、朝日の書評委員になり、読売の委員を一昨年まで長年つとめるなど、新聞に書評を書き続けてきた。
 「はじめは都市や建築、美術の本が中心でしたが、だんだん崩れちゃって、何でもやるようになりました」
 歴史や評論に加え、小説が増えていく。安岡章太郎や井上ひさし、津島佑子、又吉直樹に、パトリック・モディアノ、ギュンター・グラス、ミシェル・ウエルベックらも取り上げた。雑誌での書評もあわせて、この本には541冊分が収められている。33年間の定点観測的な「ブックガイド」ともなった。
 本にまとめたのは、昨春、大腸がんの手術を受けた後、気力が湧かず、書いてきた書評を再読してみたらと思ったからだ。
 「気力も戻ってきたけれど、友だちがすごく喜んでくれるのに驚いてます。書評している本を読みたいとか、図書館で借りて読んでいるとか」
 松山さんはいつも、本から受けた印象をはっきり書く。
 「こんな視点があるのかっていう本や、笑っちゃう本も含めて、心揺さぶられた本を取り上げてきました。『學藝諸家』はいいスタートでしたね」
 (文・石田祐樹 写真・倉田貴志)


戦後、花巻郊外太田村の山小屋に蟄居していた光太郎を訪ね、訪問記を書いた写真家・濱谷浩の写真集について触れられています。

同じく昨日の『室蘭民報』さん。 

伊達で12日まで故佐々木寒湖展、躍動感ある筆遣い

 伊達市ゆかりの書家、故佐々木寒湖(かんこ)005さんの作品展が12日まで、松ヶ枝町のだて歴史の杜カルチャーセンター講堂で開かれている。躍動感あふれる大作が来場者を楽しませている。
 佐々木さんは留萌管内増毛町生まれ。1945年(昭和20年)~56年に伊達高校の教諭を務めた。近代詩文書の草分け・故金子鴎亭氏に師事し、仮名交じりの親しみやすい作品を数多く発表。毎日書道展や日展で活躍し、金子氏とともに創玄書道会を設立した。
  展示は同センターを運営する伊達メセナ協会が初めて企画。97年に遺族から市に寄贈された作品など27点で、高村光太郎や西条八十、更科源蔵の詩などを題材にした近代詩文書は力強さに満ちている。
  「曠野のをちこちの 部落が懐かしく灯を點し初めた頃 駅員は漸くそれに答えるやうに 発車を報らせる笛を鳴らした」としたためた書などが目を引いている。 (野村英史)

光太郎作品を取り上げて下さり、ありがたいかぎりです。


最後に、やはり昨日の『石巻かほく』さん。女川光太郎祭を報じて下さいました。  

高村光太郎をしのび、女川で祭り 詩の朗読や講演

 女川町を訪れた彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第27回「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、女川町まちなか交流館で開かれた。町民ら約40人が参加し、作品を通して、光太郎の思いに触れた。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会の小山弘明代表が「高村光太郎、その生の軌跡-連作詩『暗愚小伝』をめぐって」の題で講演した。
 6章20編の詩で作られる「暗愚小伝」では、光太郎が太平洋戦争への協力を促す詩を作り、多くの若者を戦地に向かわせたことを自己批判している。小山代表は「心にたまるうみをはき出すように、酒に溺れたこともあった。罪深かったという思いがあったのではないか」と述べた。
 女川小の児童や愛好家ら8人が光太郎の詩を朗読したほか、光太郎の写真に向かって献花などもした。
 光太郎祭は、光太郎が1931年8月9日、三陸地方を巡る旅に出発した日にちなみ、92年から開催されている。

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余裕が有れば分けてご紹介すべきでしたが、今後も美術館さんの企画展示、公演系、講座系の情報等目白押しですので、いたしかたありません。まぁ、それだけまだ光太郎智恵子(光雲も)が人々に忘れ去られていないということなので、ありがたいことですが。


【折々のことば・光太郎】

詩精神と言つても、別に手の上に載せて、これが詩精神だといふやうに説明することは出来ないが、しかし詩精神を養ふのに欠くことの出来ない心の持ち方といふものはある。それはすべての物なり事なりを、新しい眼と心とで見たり考へたりすることであつて、慣れつこになつてしまはないやうにすることである。毎日はじめて見たやうに物を観察することである。

ラジオ放送「詩精神と日常生活」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

戦後になって、花巻郊外太田村の太田中学校には「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」という言葉を校訓として贈っています。前半部分は盛岡少年刑務所にも。その原型とも言える一節です。

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第5号が届きました。

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巻頭近くに、当会顧問・北川太一先生の連作短歌「四月の雪」15首。昭和31年(1956)4月1日の光太郎昇天前日に始まり、同2日の死、同4日に青山斎場で行われた葬儀から火葬までの内容です。

近作で、その頃のことを思い返して作られたものかとも思いましたが、解説が付いており、それによればリアルタイムでその頃詠まれたものとのこと。昭和34年(1959)、北川先生が勤務されていた都立向丘高校定時制の生徒さん達が出されていた文芸誌『銀杏』が初出だそうです。

一首のみ引用。「うずたかく白きみほねのぬくもりに手触(たふ)れて申す永遠(とわ)のわかれを」。その悲しみやいかばかりだったと推察申し上げます。

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当方の駄文も載せていただいております。連翹忌、レモン忌の際にお配りしている当会刊行の『光太郎資料』や、高村光太郎研究会さん発行の『高村光太郎研究』に載せている「光太郎遺珠」(筑摩書房さんの『高村光太郎全集』が完結した平成10年(1998)以降に見つかり続けている、光太郎詩文の集成)についてです。

さらに、文治堂書店さん創業者にして、昨年亡くなった渡辺文治氏の追悼的な文章、北川先生ご子息・北川光彦氏の玉稿なども掲載されています。

10月に『光太郎資料』ご購読いただいている方には同封いたします。その他、ご入用の方はこちらまでご連絡ください。


【折々のことば・光太郎】

詩とは殆と生理にまでとどく程の、強い、已みがたい内部生命の力に推された絶対不二の具象による発言であつて、ああも言へる、かうもいへるといふ中の選択ではない。まして気随気儘な思ひつきなどでは決してありえない。

散文「詩の深さ」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

ただし、この文章を書いた頃の光太郎は、こけおどし的な漢文訓読調を多用した空疎な読むに堪えない翼賛詩を量産していましたが……。

昨日の第27回女川光太郎祭を終え、先ほど、千葉の自宅兼事務所に戻りました。

女川に到着した一昨日は夜10時過ぎ、昨日は台風の影響でほぼ終日雨で、あまり街中を歩けませんでしたので、今朝、出発前に散歩がてらそぞろ歩き。

宿泊させていただいたトレーラーハウス、エル・ファロさん。

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すぐ隣はJR石巻線女川駅。

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駅近くに建設中の女川町新庁舎。

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駅前の皇后陛下歌碑。「春風も沿ひて走らむこの朝(あした)女川駅を始発車出(い)でぬ」。一昨年、天皇皇后両陛下が女川を訪れられた際の御詠です。

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駅前から海へと伸びるプロムナード沿いの、商業施設シーパルピアさん。

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その一番海側の地点に、きぼうの鐘。

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かつての女川駅があったあたりで、駅前のシンボルだったカリヨンの四つの鐘のうち、津波の後に一つだけ見つかったもの。震災後しばらくは、高台の仮設商店街「きぼうの鐘商店街」(かつての女川光太郎祭会場)に置かれていましたが、そちらが閉鎖となり、元の位置に移転しました。


その「きぼうの鐘商店街」にあった佐々木釣具店さん(右)。女川光太郎の会の中心メンバー、佐々木英子さん(津波でなくなった故・貝廣氏夫人)のお店です。

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左はこの3年、女川光太郎祭終了後の懇親会で使われている金華楼さん。


そして、あの日、牙を剥いた海。

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台風の余波でまだ波が高かったのですが、多くの漁船が次々と出航していくところでした。


倒壊した旧女川交番。震災遺構として保存が決まっています。

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そして光太郎文学碑。

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1日も早く、またこの碑が再び建てられることを願ってやみません。


この碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」。帰りがけに撮影しました。

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復興のトップランナーと称され、新しい街として生まれ変わりつつある女川。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩精神とは事物の中心に直入する精神である。事物の関係を極限の単位に追ひつめて、その実相を爬羅剔抉し、更に翻つて新を生む精神である。詩精神が言葉に純粋にあらはれれば詩となり、造型に形をとれば美術一般となり、音波に乗れば音楽となる。およそ詩精神を欠く時、これら諸芸術は碌々たる美の形骸に過ぎない。

散文「詩精神」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

都市計画にも言えることかもしれません。復興進む女川町を見て、そう思いました。ぜひとも女川には詩精神あふれる街となっていってほしいものです。

今日は第27 回女川光太郎祭でした。雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ台風13号ニモ負ケズ(笑)、昨夜遅くに宮城県女川町に着きました。
宿泊は例年どおり、女川駅裏のトレーラーハウス、エル・ファロさん。

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光太郎祭会場は駅前商業施設シーパルピアさんの一角にあるまちなか交流館さん。

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すぐ先は海で、平成3年(1995)に建立され、先の東日本大震災で倒壊した光太郎文学碑がある場所です。昭和6年(1931 )、紀行文執筆のため光太郎が女川を訪れたことを記念する碑でした。

周辺はメモリアルゾーンとして整備中。碑はまだ倒れたままです。

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さて、光太郎祭。午後2時スタート。はじめに東日本日本大震災犠牲者(当時女川光太郎の会事務局長だった貝廣氏を含め)への黙祷。その後、光太郎の生涯を追う形で毎年続けている当方の講演。

そして女川町内外の皆さんによる献花、光太郎詩文の朗読。

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朗読の際にはクラシックギタリスト宮川菊佳氏がBGMを演奏してくださいました。

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オペラ歌手・本宮寛子さんの歌に続き、最後に故・貝氏夫人の英子さんのご挨拶。

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これをもちまして閉会となり、すぐ近くの中華料理店に会場を移し、懇親会。

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来年の再会を約して散会となりました。

地道な顕彰活動ですが、今後も永続的に行われてほしい、否、途切れさせてはいけないものだと思います。来年以降、広くご参加をお待ちしております。

4月にご紹介した、千葉県による「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」の選定が終わり、結果が発表されました。 

「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」を選定しました!

オリンピック・パラリンピック競技大会は001スポーツの祭典であると同時に文化の祭典でもあります。東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開催は、本県の文化的魅力を発信する絶好の機会です。この機会を活かし、多くの県民の皆様に本県の文化資産を再認識していただくとともに、次世代に継承していくことが重要です。
そこで、県民参加により「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」を選定することとし、昨年、「ちば文化資産」候補を広く募集の上、211件を候補としました。この度、県民の皆様による投票の結果等を踏まえ、111件を「ちば文化資産」として選定しました。
今後は、「ちば文化資産」を活用したイベントを実施する等、本県の文化的魅力を発信するとともに、地域の活性化につなげていきます。

「ちば文化資産」は、県内の文化資産のうち、県民参加により選定した、多様で豊かなちば文化の魅力を特徴づけるモノやコトとします。伝統的なものに限定せず、現代建築や景観等、千葉県の文化的魅力を発信するモノやコトを含みます。


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候補に入っていた、「九十九里浜の景観」も選定されました。説明文がこちら。

九十九里浜沿岸は古来から多くの文化の跡が残されています。江戸時代以降はいわし漁等の漁業が盛んとなり、神輿を担いで浜に降りる「浜降り」や「潮踏み」等と呼ばれる習俗が現代まで続いており、海との深いつながりを感じられます。また、高村光太郎の「智恵子抄」の一節「九十九里浜の初夏」等多くの文学作品の舞台となっています。

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まぁ、九十九里浜は千葉県を代表する景観の一つですので、これが外されてしまうことはありえないだろうとは思っていましたが、無事に選ばれて胸をなで下ろしました。

その他、解説では触れられていませんが、光太郎智恵子の足跡などの残っている場所も複数選ばれています。

大正元年(1912)、光太郎がまず訪れ、智恵子が後を追ってやってきた銚子犬吠埼。経営や建物は変わりましたが、二人が泊まった宿・暁鶏館も健在(ひらがなで「ぎょうけい館」と名前は変更されていますが)。ここで光太郎は詩「犬吠の太郎」を構想しました。

また、市川市の中山法華経寺さん。光太郎の父・高村光雲原型の日蓮像が建っています。鎌倉の長勝寺さんに建つものと同型です。

さらに、「白樺派と文人の郷」ということで、我孫子市の手賀沼周辺。光太郎が訪れたことは確認できていませんが、光太郎と縁の深かった白樺派の面々、志賀直哉、バーナード・リーチ、柳宗悦らが暮らした場所です。

しかし残念ながら、光太郎の親友の作家・水野葉舟が暮らし、光太郎もたびたび訪れて、彼の地に詩碑が建てられた詩「春駒」(大正13年=1924)の舞台となった旧三里塚御料牧場は、「マロニエ並木」として候補には入っていたものの、選定には至りませんでした。

他にも光太郎智恵子の足跡は千葉県内の各所に残っています。当方、今秋、成田市と佐倉市のカルチャースクールで、「高村光太郎と房総」という講座を持たせていただけることになりまして、そのあたりをご紹介する予定です。また詳細が決まりましたらお知らせいたします。

というわけで、房総の地、ぜひお越しください。


【折々のことば・光太郎】

私は何を 措いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。私の彫刻がたとひ善くても悪くても、私の宿命的な彫刻家である事には変りがない。

散文「自分と詩との関係」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ文章の他の部分からも抜き出しますと、光太郎にとっての詩は「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって彫刻が「文学的になり、何かを物語」るのを避けるため、また「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」に書かれた「安全弁」だというのです。謎めいた題名やいわくありげなポーズに頼る文学的な彫刻(青年期には光太郎もそういう彫刻を作っていましたが)ではなく、純粋に造型美を表現する彫刻を作るため、自分の内面の鬱屈などは詩として吐き出すというわけです。

新刊情報です。といっても2ヶ月ほど経ってしまっていますが……。 

ロダンを魅了した幻の大女優マダム・ハナコ

2018年6月9日  大野芳(おおのかおる)著  求龍堂  定価1,800円+税

ロダンのモデルになった唯一の日本人、女優マダム・ハナコとは誰なのか?
巨匠ロダンを魅了しモデルになった唯一の日本人、それは明治時代の末、日本から遠く離れたヨーロッパで熱狂的な人気を博した女優マダム・ハナコだった。
花子探索の道にはまった二人の研究者澤田助太郎と資延勲の成果をもとに、花子の波乱の人生をまとめたノンフィクション。
明治時代の末、恋にやぶれてヨーロッパに旅立ったひとりの女性がいた。女優となった彼女は、一座を率いてヨーロッパ・ロシアを巡業し、一大センセーションを巻き起こした。 明治35年から大正10年に帰国するまでの約20年間、「マダム・ハナコ( 花子)」という芸名で人気を博した。切腹するシーンを演じる花子は、身長136cmの小さな体にもかかわらず、舞台上での存在感は圧倒的で、彫刻家ロダンの目にとまり、彼女をモデルにした彫刻を何点も残している。

目次001
 プロローグ
 第一章 花子探索の旅
 第二章 花子の生い立ち
 第三章 花子ヨーロッパへ
 第四章 ロダンと花子
 第五章 世界大戦争
 終章 料亭「湖月」のマダム
 マダム・ハナコ関係略年譜
 あとがき


平成26年(2014)、『中日新聞』さんと、系列の『東京新聞』さんに連載された「「幻の女優 マダム・ハナコ」を再構成、加筆訂正されての単行本化です。

このブログでは新聞連載時にちらっとご紹介しました。その後、単行本化されるだろうと思っていたのですが、6月に刊行されていたのに気づきませんでした。

気づいたのは『朝日新聞』さんに書評が載ったおかげでした。 

(書評)『ロダンを魅了した幻の大女優 マダム・ハナコ』 大野芳〈著〉

 ■西洋人のハート、誠意で射抜く
 本書は明治35(1902)年から大正10(1921)年までの約20年間、西欧で女優マダム・ハナコとして活躍し、ロダンにも愛(め)でられて多数の彫刻のモデルとなった太田花子の足跡を、本人からの聞き書きと内外の史料や証言、埋もれた記録を掘り起こしつつたどった労作である。
 不幸な生い立ちを背負った花子は芸者屋へ売られ、駆け落ちした男にも捨てられて失意のどん底に。国際博覧会など日本ブームにわくドイツへ渡って女優になり、やがて一座を組んで西欧諸国を巡業、ロシアの涯(は)てからニューヨークまで縦横無尽に駆け巡って大人気を博す。異国の言葉もわからず知識もない花子がよくあの時代に活躍できたものだと驚嘆させられる。
 とはいえ、それだけなら「世界の涯てに日本人がいた!」という程度の感嘆符で終わってしまう。本書の肝はそこではない。
 なぜ花子は西洋人にこれほどモテたのか。西洋人から見れば子供のような体形の花子が舞台の上で切腹の場面などをリアルに演じて拍手喝采を浴びる。東洋人の女優が珍しかったのは確かだろうが、本書に掲載された数々の写真を見ても、正直、花子は美女ではなく、愛くるしいとも言い難い。
 著者は巧みにその謎を解いてみせる。夫が死んだときも、開幕が迫る中、列車の中で号泣しつつ巡業地へ向かう花子。山賊が出るという山道で遅れ、塵穢(ほこり)にまみれたまま舞台の前で観客に詫(わ)びる花子。巡業の列車ではトイレでも必死で異国語を覚えた。どこにいてもロダンを気づかって手紙を書き、ロダンの内妻を思いやる。やっぱり心なのだ。それだけは世界共通!
 森鴎外をはじめ当時の日本人は、芸者あがりの花子を酷評し嘲笑した。誤解の元となる短編まで書いた。だからこそ、著者は本書を世に問うたのではないか。表層で人を評価してはいけない。言語や知識を越えた誠意だけが、人を、世界を動かすのだ……と。
 評・諸田玲子(作家)
     *
 『ロダンを魅了した幻の大女優 マダム・ハナコ』 大野芳〈著〉 求龍堂 1944円
     *
 おおの・かおる 41年生まれ。ノンフィクション作家。『北針』『宮中某重大事件』『戦艦大和転針ス』など。


光太郎が敬愛したロダンのモデルを務め、光太郎が評伝『ロダン』(昭和2年=1927)執筆に際し、岐阜まで会いに行った日本人女優・花子の評伝です。

花子に関してはこちら。


本書でも随所で光太郎について言及して下さっています。

ちょうど上記リンクにもある岐阜県図書館さんの企画展「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」が開催中ですので、これはもうそれを見に行け、と言う啓示なのだと思い、盆明けに行って来ることにしました。

皆様も本書お買い求めの上、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

言葉は生きものであるから、自分で使つてゐながらなかなか自分の思ふやうにならず、むしろ言葉に左右されて思想までが或る限定をうけ、その言葉のはたらきの埒外へうまく出られない場合が多い。人間の心情にはもつと深い、こまかい、無限の色合いがあるのに、言葉はそれを言葉そのものの流儀にしか通訳してくれない。

散文「言葉の事」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳


だから「言ふにいはれぬ」という常套句が使われるのだ、と光太郎は指摘しています。その通り、まったく言葉というやつは厄介ですね。

『朝日新聞』さんに載った記事を2本紹介します。

まずは2日の夕刊。先月、岩手版に載った記事を元に、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」を紹介して下さっています。 

(ぶらっと)光太郎が暮らした街再現

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)が終戦後の7年間、山居生活を送った当時の岩手県花巻市を再現したジオラマ模型が、「高村光太郎記念館」(同市太田)で公開されています。
 旧花巻町役場や花巻病院、光太郎が揮毫(きごう)した宮沢賢治の「雨ニモマケズ詩碑」、商店街や花巻温泉、高村山荘など約70の建造物と風景を、約150分の1で再現。光太郎が移動手段として利用した「花巻電鉄」の電車が中を駆け巡っています。
 展示は11月19日まで。問い合わせは同記念館(0198・28・3012)。

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続いて、1日の長崎版に載った記事。 

(人あかり 小さな目・選者より)印象派の絵の前で、高村智恵子を思う /長崎県

 九州国立博物館で「至上の印象派展」が開催され、全64作を堪能した。ルノワール、ゴッホ、ピサロ、シスレー、モネ、ピカソなど教科書に載っている絵の数々。そんな中、セザンヌの作品の前で高村智恵子を思い出した。
 彫刻家・詩人である高村光太郎の妻・智恵子はセザンヌに傾倒していた画家でもあり、結婚当時から他界するまでの生涯を、夫によって一冊の詩集「智恵子抄」にうたいあげられた女性である。
 高村光太郎の父・光雲は1889(明治22)年、彫刻家で岡倉天心らが創立した東京美術学校(現東京藝術大学)に奉職。光雲は著名な彫刻家として、上野の公園に西郷隆盛像を建立したことは広く知られている。
 話は戻るが、智恵子は1911(明治44)年、「元始、女性は太陽であった」と唱(とな)え、婦人解放運動の第一人者であった平塚らいてうらの雑誌「青鞜」創刊号の表紙を描くなど活動していた。この年12月に高村光太郎と出会い、東京・駒込林町のアトリエで窮乏生活が始まった。
 もともと体質が弱かった智恵子は肋膜(ろくまく)炎を患い、父・長沼今朝吉の死に遭い、その後、酒造業を営んでいた長沼家は破産し、憔悴(しょうすい)してしまった。その間、関東大震災が起き、40代半ばから、精神を患う統合失調症の兆候があらわれ、自殺未遂をし、九段病院に入院。病気は進行し、35(昭和10)年、南品川ゼームス坂病院に転院した。夫・光太郎の苦しみは深まるばかりだった。
 苦悩の詩が愛の証しとして「智恵子抄」となり、珠玉の作品集として今日まで読まれている。その中の「山麓(さんろく)の二人」の一節。
 半ば狂へる妻は草を籍(し)いて坐(ざ)し わたくしの手に重くもたれて 泣きやまぬ童女のやうに慟哭(どうこく)する ――わたしもうぢき駄目になる 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて のがれる途(みち)無き魂との別離
 この作詩当時、智恵子の意識は尋常と異常とを交互にさまよっている状況が読み取れる。この詩の悲痛な末尾部の1行。
 この妻をとりもどすすべが今は世に無い
 私の手もとに「智恵子の紙絵」(社会思想社)という画集がある。65(昭和40)年12月、紙絵126作品を収録している驚きの本が店頭に並んだ。
 この紙絵の本は色紙(いろがみ)の配色といい画家であった智恵子を思い出させ、狂気の底に美意識が生きていたことを証明していた。入院中、作成された紙絵は、約千数百点にのぼり、光太郎だけに見せていたという。
 忘れられない逸話がある。狂った妻は光太郎が四つん這(ば)いの馬になった背に跨(またが)り、「ハイドー、ハイドー」と乗るのが好きだった。「智恵さん、楽しいかい?」と涙を落としながら光太郎は病室を這(は)い回っていたという。
 智恵子、38(昭和13)年没。41(昭和16)年8月、詩集「智恵子抄」発行。同年12月、太平洋戦争開戦。印象派の光と光太郎の愛は不滅だ。
(県文芸協会長 浦一俊)

智恵子の生涯につき、かなりくわしくご紹介下さっています。ただ、最後の馬のエピソード、後の映像作品等にそういった描写があったと思いますが、光太郎の書いたものには記述はありません。


もう1件、現在発売中の『週刊新潮』さんをご紹介しておきます。

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作家・五木寛之氏の連載「生きぬくヒント!」。先頃世界文化遺産への登録が確定した「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」関係の内容です。

潜伏キリシタン同様、江戸時代に弾圧の対象であった九州の「隠れ念仏」、東北の「隠し念仏」に話が及び、「九州にしても、東北にしても、信仰の自由が保障されたのちも、その土地に熟成された独自の信仰にこだわる人びとは少なからず存在する。それを異端として排除するのはまちがいだろう。宮澤賢治は『春と修羅』のなかで、「秘事念仏」という言葉を使っているし、高村光太郎には「かくしねんぶつ」という詩がある。柳田国男は、遠野には「一種邪宗らしき信仰あり」と書いた。「隠す」のも、大事なことではないかと私は思う。」と結んでいます。

光太郎の「かくしねんぶつ」(昭和23年=1948)は以下の通り。

    かくしねんぶつ001
 
 部落の曲りかどの松の木の下に
 見真大師の供養の石が立つてゐる。
 旧盆の十七日に光徳寺さまが読経にくる。
 お宿は部落のまはりもち。
 今年の当番は朝から餅をつき、
 畑のもので山のやうなお膳立。
 どろりとした般若湯を甕にたたへて
 部落の同信が供養にあつまる。
 大きな古い仏壇の前で
 黒ぼとけさま直伝の
 部落のお知識がまづ酔ふと
 光徳寺さまもみやげを持つて里にかへる。
 あとでは内輪の法論法義。
 異様な宗旨が今でも生きて
 ロオマの地下のカタコムブに居るやうな
 南部曲(まが)り家(や)の
 暗い座敷に灯がともる。

散文でも触れています。

 この山の人々はたいへん信心ぶかく、たいてい真宗の信者である。部落のまんなかに見真大師の供養の石が立つているくらいで、昔は毎月その方の寄り合いなどをして部落中の人がお経をあげたりしたらしい。その上ここには一種の民間だけの信仰があつて、そのおつとめが今も行なわれている。子供が生れると、その赤さんを母親が抱いて、お知識さんといわれる先達にみちびかれて、仏壇の前で或るちかいの言葉をのべる。又子供が五六歳になると、やはりお知識さんのみちびきで或るきびしいおつとめが行なわれる。それをやらない人は焼きのはいらない生(なま)くらの人であるといわれる。
(「山の人々」 昭和26年=1951)

と、かなり堂々と書いている光太郎、潜伏キリシタンほどでないにせよ、弾圧の歴史があったことを、もしかすると知らなかったのかな、とも思いました。

しかし五木氏、光太郎のマイナーな作品をよくご存じだと思ったところ、氏には『隠れ念仏と隠し念仏』という御著書がおありでした。光太郎についても記述があるかもしれませんので、図書館等で探してみます。


【折々のことば・光太郎】

私は日本語の美についてもつと本質的な窮まりない処に分け入りたい。人に気づかれず路傍に生きてゐる日本語そのものに真の美と力との広大な磺脈のある事を明かにしたい念願はますます強まるばかりである。

散文「詩の勉強」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

昭和14年(1939)ともなると、自らが確立した口語自由詩が多くの支持を得、もはや「詩」といえば口語自由詩となったという自負があったのかもしれません。

昭和6年(1931)、光太郎が三陸一体を旅したなかで立ち寄った宮城県牡鹿郡女川町。それを記念して毎年開催されている女川光太郎祭が、今年も例年通り、今月9日(光太郎が三陸に向けて旅立った日)に開催されます。  

第27回女川光太郎祭

期 日 : 2018年8月9日(木)
時 間 : 午後2:00~
場 所 : 女川町まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川浜字大原1-36
内 容 : 
 献花
 光太郎紀行文、詩などの朗読
 講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって⑥―」
     高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明 

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会場は昨年と同じく、JR女川駅前商業施設シーパルピア内のまちなか交流館さん。小ホール的な部屋があり、そちらです。

今年も記念講演を仰せつかっており、連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)に基づいて光太郎の生の軌跡をひもとく6回目となります。今年は主に太平洋戦争中の、道を踏み誤った光太郎についてです。

昨年までの様子はこちら。


こうしてみると、東日本大震災での甚大な津波被害からの復興の様子が見て取れます。今年の女川はどうなっているかと、ある意味、期待しています。

手作り感溢れるアットホームなイベントです。ぜひ足をお運びください。ただ、また台風が接近しており、嫌な予感がするのですが……。


【折々のことば・光太郎】

詩は一切を包摂する。理性も知性も感性も、観念も記録も、一切は詩の中に没入する。即ちその一切を被はないやうな詩は小さいのである。気が一切を呑むのである。
散文「気について」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

なるほど。

光太郎の父・高村光雲関連で2件。 

桑名石取祭

期 日 : 2018年8月4日(土)、5日(日) 001
会 場 : 三重県桑名市本町春日神社周辺 

石取祭(いしどりまつり)は、桑名南部を流れる町屋川の清らかな石を採って祭地を浄(きよ)めるため春日神社に石を奉納する祭りで、毎年8月第1日曜日とその前日の土曜日に執り行われています。
 町々から曳き出される祭車は、太鼓と鉦で囃しながら町々を練り回ります。 試楽(土曜日)の午前0時には叩き出しが行われ、祭車は各組(地区)に分かれ、組内を明け方まで曳き回し、その日の夕方からも各組内を回り、深夜にはいったん終了します。
 本楽(日曜日)は午前2時より本楽の叩き出しが明け方まで行われ、いよいよ午後からは各祭車が組ごとに列を作り、渡祭(神社参拝)のための順番に曳き揃えを行います。 浴衣に羽織の正装で行き交う姿は豪華絢爛な祭絵巻を醸し出します。一番くじを引いた花車を先頭に午後4時30分より曳き出された祭車は列をなし、午後6時30分からは春日神社への渡祭が順次行われます。
 渡祭後は七里の渡し跡(一の鳥居)を経て、午後10時頃より始まる田町交差点における4台ずつの祭車による曳き別れが行われるのも見逃すことのできない場面です。


光雲作の飾り物をつけた祭車も出るという祭りです。公式サイトはこちら

昨年はこのブログでご紹介するのを失念いたしまして、一昨年に書いた記事がこちら。光雲作の飾りをつけた祭車についても書きました。また、一昨年には、この祭りを含む全国33の山車祭り系が、ユネスコ世界文化遺産に一括指定されています。

お近くの方、ぜひどうぞ。


もう1件、光雲がらみで。 

明治150人の偉人投票キャンペーン

今年は明治改元から150年目!それにちなんでこの度、明治時代にゆかりのある150人の偉人の人気投票を実施します。
『えっ!? あの偉人が西郷隆盛と共演!?』
見事1位になった偉人は、9月8日(土)より開催予定のイベント、リアル脱出ゲーム『帝國ホテル支配人の偉大なる推理』のストーリーに登場します!!あなたの1票がストーリーを変える!?

期間 2018年8月7日(火)17:00まで
投票方法(応募方法)
STEP1明治村公式twitter(@meijimura_pr)をフォローしてください。
STEP2あなたが好きな偉人の[投票ボタン]を押して、ツイートをすれば投票完了!

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候補の150人は既にエントリーされており、その中で誰が1位になるか、だそうです。どちらかというと大正から昭和の光太郎は入っていませんが、光雲は堂々の出馬です(笑)。

ただ、同じ芸術家でも漱石や鷗外、晶子、また、伊藤博文、大久保利通、大隈重信ら新政府の要人達(西郷隆盛は別格扱いで不出馬ですが)、さらには野口英世や福沢諭吉と言った学者系もあなどれません(笑)。

おそらく光雲がトップということはあり得ないでしょうが、せめて上位にランクインして欲しいものです。

しかし、エントリーされた150人を見ると、明治という時代の活気というか、華やかさというか、もちろん暗黒面もあったのですが、ある種の濃密なエネルギー的なものを感じます。大正、昭和、そして来年には終わる平成の150人となると、どういうラインナップになるのかな、などと思いました。


【折々のことば・光太郎】

私はポエジイの為に何の寄与もしてゐない。此の形式でなければどうしても昇華し得ないものが自分の肉体と精神とに鬱積して来るので已むを得ず書いてゐる。さうして出来たものを自分では詩と呼んでゐる。

散文「小感」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

いわば自然発生的な詩、ということでしょうか。

現在発売中の『サンデー毎日』さん。歌人の田中章義氏による連載「歌鏡(うたかがみ)」で、光太郎の短歌を取り上げて下さいました。

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詩集『智恵子抄』に収められた「この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾(あ)をいねしめず」です。いわずもがなですが「この家」は、かつて光太郎智恵子が暮らした本郷区駒込林町25番地のアトリエ兼住居です。


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光太郎の生涯の概略、智恵子が心を病み、九十九里浜での療養を経て、昭和13年(1938)に亡くなったことなどがわかりやすくまとめられています。そして合間に同じく詩集『智恵子抄』に収められた「気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり」、九十九里での智恵子を謳った「いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる」も紹介されています。

そして、「眼を閉じても浮かんでくる亡き妻を思う作者」として、「この家に……」の解説。

確かにそのように読めてしまう短歌です。龍星閣版のオリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)では、智恵子の臨終を謳った絶唱「レモン哀歌」、その葬儀をモチーフとした「荒涼たる帰宅」、さらに智恵子歿後の内容である「亡き人に」と「梅酒」のあとに短歌6首が置かれているため、自然に読めば「この家に智恵子の息吹みちてのこり」と言われると、「亡き妻」と思ってしまいます。

ところがこの短歌、初出は歌人の中原綾子が主宰していた雑誌『いづかし通信』の昭和13年(1938)9月16日号。つまり、10月5日に亡くなった智恵子はまだ南品川ゼームス坂病院で存命中です。したがって、この短歌において「眼を閉じても浮かんでくる亡き妻を思う作者」というのは当てはまりません。もっとも、智恵子が歿した後、改めてそういう思いに駆られたことはもちろんあったでしょうが。

また、この歌が詠まれた時点で、生きた智恵子がこの家に帰ってくる事はあるまい、という推測があったのか、さらにはうがった見方かも知れませんが、もはや光太郎の中では智恵子は「亡き妻」と化してしまっているという解釈も成り立つかもしれません。それを裏付けるかのように、光太郎は智恵子が亡くなった10月5日まで、5ヶ月間、病院に見舞いに行きませんでした。そのあたりはだいぶ以前にこのブログで書いております(五ヶ月の空白①。  五ヶ月の空白②。

さて、「歌鏡(うたかがみ)」の田中氏、「『智恵子抄』は日本文学史上に煌(きら)めく挽歌(ばんか)の詩集として、今後も長く読み継がれていくことだろう。」と結んでいます。そうであってほしいものですし、そうなるよう、努力して行きたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

随分つまらない詩から立派な音楽も出来るし、随分立派な詩からつまらない音楽も出来る。それは詩人の知つた事ではない。

散文「詩人の知つた事ではない」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

朋友の北原白秋や三木露風などと異なり、歌曲の作詞にあまり興味を抱かなかった光太郎ならではの言です。

最初から歌詞として作られた光太郎詩は十指に満たず、光太郎生前に既に書かれていた詩に曲が付けられたケースも多くありません。それらに対し賛辞を送っている場合がありますが、どうも社交辞令的なもののようで、本心からすばらしい歌曲が出来たと思ったことは一度もないようです。具体的な作品名は伏せているものの、自分の作詞で「つまらない音楽」を作られてしまった、的な発言もあります。

そう考えると、のちのシンガーソングライターのように、自分で詩を書き、自分で曲を付けるというのが、ある意味、本道なのかもしれません。

福島から今週末のイベント情報を2件。

まずは、智恵子の故郷・二本松に聳える安達太良山中腹の岳温泉から。 

第1回“ほんとの空”マルシェinあだたら

期 日 : 2018年8月4日(土) 荒天時中止
会 場 : 湯の森公園 福島県二本松市岳温泉1-97 
時 間 : 10時~17時

高村智恵子が語った“ほんとの空”のある岳温泉で“ほんとの空”の色を感じませんか?

和紙小物体験、井上窯 萬古焼絵付け体験、ドローン体験、 スラックライン、ボルダリング体験など盛りだくさんのイベントです。

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直接光太郎智恵子に関わるイベントではないようなのですが、「ほんとの空」の語を使われてしまっては、紹介しないわけに行きません(笑)。


その翌日には、福島市で下記が開催されます。 

中嶋朋子朗読会

期 日 : 2018年8月5日(日)
時 間 : 14時~
料 金 : 無料

脚本家・倉本聰さんの代表作「北の国から」で主人公の娘・黒板蛍役を演じた女優・中嶋朋子さんが福島県ゆかりの名作をその優しさとしなやかさで読みあげます。ゲストには福島県出身の詩人・和合亮一さんを迎え、中嶋さんの穏やかさと和合さんの激しさがコラボレーションされた朗読会をお届けします。

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同じ会場で開催中の展覧会「森のささやきが聞こえますか―倉本聰の仕事と点描画展」の関連行事的なイベントです。

地元紙『福島民友』さんの記事から。

女優・中嶋朋子さん無料朗読会 福島で8月5日、倉本聰さん企画展同時開催

 名作ドラマ「北の国から」の蛍役で多くの人の心をつかんだ女優中嶋朋子さんを招いて福島民友新聞社が8月5日に開く「中嶋朋子朗読会」の詳細プログラムが決まった。
 とうほう・みんなの文化センター(福島市)で好評開催中の展覧会「森のささやきが聞こえますか―倉本聰の仕事と点描画展」と同時開催で、朗読会は無料。
 中嶋さんは蛍を22年間にわたって演じ表現力に磨きをかけた一方、朗読やナレーションにも意欲的に取り組んできた。今回の公演では、まず、本県ゆかりの名作として高村光太郎作「智恵子抄」、草野心平作「蛙の歌」を、優しくしなやかに読み上げる。
 また倉本さんが富岡町をテーマに描いた点描画「夜の森 桜はそっと呟(つぶや)く」に添えた詩を、ゲストの詩人和合亮一さん(福島市)と2人で朗読。和合さんも自作「詩の礫(つぶて)」などを披露、中嶋さんのトークショーにも出演する。
 開場は午後1時、開演は同2時。問い合わせは福島民友新聞社事業部(電話024・523・1334)へ。
◆日時 8月5日午後2時から(開場・午後1時)
◆場所 とうほう・みんなの文化センター(県文化センター)福島市春日町、電話(024・534・9191)
◆入場無料、全席自由
◆プログラム ▽1部:中嶋朋子さん朗読(高村光太郎作「智恵子抄」、草野心平作「蛙の歌」) ▽2部:和合亮一さん朗読(「詩の礫」、「木にたずねよ」) ▽3部:中嶋朋子さん、和合亮一さんの共演(倉本聰作「夜の森 桜はそっと呟く」) ▽4部:中嶋朋子さんトークショー(ゲスト・和合亮一さん)
◇主催 福島民友新聞社
◇大清プロダクション創立30周年記念事業


中嶋さんといえば、平成24年(2012)、TBSラジオの「ラジオシアター~文学の扉」という番組で、やはり「智恵子抄」の朗読をされ、それがある意味、伝説の朗読的な扱いで今も語りぐさになっています。


今回はさらに当会の祖・草野心平の作品も取り上げて下さるということですし、かくれ光太郎ファン(笑)の和合亮一さんもご登場。それでいて無料というのですから、太っ腹です。おそらく満員盛況となるのでは、と推測いたしております。

というわけで、ほっといても人が集まりそうですが、ぜひ足をお運びください、と記しておきます(笑)。


【折々のことば・光太郎】

演芸物にも注意がいる。いくら一般大衆の需要に応ずる仕事ではあつても、あまりひどいめちやくちやな言葉をしやべり散らす演芸者は避忌すべきである。巷間で勝手に演ずるのは自由だが、放送局で其を取り上げる時には相応の思慮がいる。

ラジオ放送「日本語の新らしい美を」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

光太郎がJOAK(現・NHKラジオ第一)に出演し、ラジオ番組や日本語全般について語った談話の一節です。今日のテレビのバラエティーなどにもあてはまる発言ですね。

「あまりひどいめちやくちやな言葉をしやべり散らす」政治家ばかりのこの国ではありますが……。

テレビ放映情報を2件。

まずは香川県に本社を置くRNC西日本テレビさんで、今日のオンエアです。 

人権啓発映画「ほんとの空」

RNC西日本テレビ 2018年8月1日(水) 10:25 ~ 11:05 (40分) 

高齢者や外国人に対する排除、不利益な扱い、同和問題や原発事故に伴う風評被害の問題、これらに共通する根っこの部分は、誤った考え方や思い込み、偏見という「意識」である。誰もが他者の排除や差別がよくないことは理解している。その一方で、自分や身近な人に関わる出来事には敏感に反応するが、それ以外のことは他人事のように感じたりする。

また、自分や家族の生活を守るため、あるいは誤解や偏見に気づかず、他者を排除したり傷つけたりしがちである。誤解や偏見に気づき人と深く向き合うこと、他者の気持ちを我がこととして思うこと。すべての人権課題を自分に関わることとしてとらえ、日常の行動につなげていくようにと訴える。

白石美帆、鳥羽潤、湯浅美和子、浦上晟周、  石川大樹


元々は平成24年(2012)、兵庫県人権啓発協会さんの制作によるビデオで、制作から数年間は各地のイベントで上映されたり、今回のようにテレビの地方局さんで放映されたりしていました。当方の把握している限り、2年ぶりくらい、久々のテレビ放映です。


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東日本大震災に伴う福島第一原発の事故にからめ、福島からの避難者に対するいわれなき風評差別をメインテーマとしています。「ほんとの空」の題名の通り、光太郎詩「あどけない話」が劇中で使われています。

香川県、それから岡山県でも視聴可能のようです。当該地域の方、ぜひご覧下さい。


続いてNHKさんの全国放映。 

民謡魂 ふるさとの唄「福島県二本松市」

NHK総合 2018年8月4日(土) 15時05分~15時50分002

福島県二本松市での公開収録。詩集「智恵子抄」で有名な高村光太郎と二本松出身の妻・智恵子との知られざる青春時代の恋愛模様を音楽劇で紹介。タレントの福田彩乃が智恵子を熱演!さらに、東日本大震災で被害を受けた浪江町の伝統芸能と浪江町出身の原田直之による共演や、「会津磐梯山」「原釜大漁祝い唄」など民謡どころ福島県の名曲の数々を、藤みち子、小野田浩二、進藤聖子、會澤あゆみの唄でたっぷりとお届けする。

司会 城島茂 塩屋紀克   出演 福田彩乃,渡辺裕太,大方斐紗子,原田直之,藤みち子,小野田浩二,進藤聖子,會澤あゆみ,二代目 藤本ひで丈,藤本秀統,椿正範,菊地河山,美鵬那る駒,美鵬成る駒ほか


先月8日に、二本松市民会館で公開収録が行われました。その情報は得ていましたが、「智恵子抄」がらみの内容もあったとは存ぜず、驚きました。

下記は今日発行の『広報にほんまつ』さんから。

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こちらもぜひご覧下さい。

明日も福島・二本松がらみの情報をお伝えします。


【折々のことば・光太郎】

童謡は子供の為だけのものでは決してない。大人こそ常に童謡の大きな需要者だ。
散文「童謡・民謡・小唄」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

同じ趣旨の事柄は、近年よく巷間に言われていることですが、こうした発言を昭和初めの段階でしていたというのは、かなり新しい見方だったのではないかと思われます。

この文章、永らく初出発表紙が不明でしたが、この年2月の雑誌『新日本民謡』第2巻2号に掲載を確認しました。その名は明記されていませんが、雑誌の刊行に関与していた朋友・北原白秋へのオマージュも兼ねたものです。

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