2018年07月

7/29(日)、安曇野市の碌山美術館さんにて、夏期企画展「美に生きる―萩原守衛の親友たち―」を拝見した後、愛車を次なる目的地、諏訪方面に走らせました。目指すはサンリツ服部美術館さん。安曇野ICから乗った長野道を岡谷ICで下り、走ること十数分。諏訪湖の湖畔にありました。

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諏訪で服部と言えば、やはりそうなのかな、と思っていましたら、やはりそうでした。服部セイコー創業者・服部金太郎の孫にして、元セイコーエプソン社長の故・服部一郎氏のコレクションと、株式会社サンリツさんが集めた美術品を展示する私設美術館です。

こちらでは、7月15日(日)から、企画展「明治維新150年記念 幕末から昭和の芸術家たちと近代数寄者のまなざし」が開催中。光太郎の父・高村光雲作の木彫「鍾馗像」が出ているというので、拝見に伺った次第です。

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展示室は二つあり、奥の方の広い展示室がその会場でした。

光雲の「鍾馗像」は目玉の一つと位置づけて下さっているようで、壁際のショーウィンドウ的なケースではなく、会場ほぼ中央のガラスケースに展示され、おかげでぐるっと360°から見ることができました。銘を見れば、光雲個人の作なのか、弟子の手が入っているのか、ほぼわかるのですが、残念ながら、銘は確認できませんでした。おそらくひょいと持ち上げると、底に刻まれているのではないかと思われます。ただ、若干、粗い彫りなのかな、という気もしました。しかし、秀逸だなと思ったのは、ポージング。以前に見た他の「鍾馗像」は、どれも直立不動の仁王立ち(鍾馗様が仁王立ちというのもおかしな話ですが(笑))でしたが、こちらは左足を岩に乗せていて、その分、躍動感が感じられます。像高は50㌢ほどだったでしょうか。

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他に、平櫛田中、富本憲吉、柴田是真ら、光雲・光太郎親子と関わりの深かった作家の作も展示されており、興味深く拝見しました。光太郎の朋友・岸田劉生の絵は、8月21日(火)からの後期での展示だそうで、そちらは見られなかったのが残念でしたが。

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光雲の「鍾馗像」は、前後期通じての展示だそうです。

もう一つの展示室では、同時開催として「憧憬の西洋」。ブラマンクやキスリングなどの西欧画家と、東京美術学校西洋画科での光太郎の同級生・藤田嗣治などの日本人画家が描いた西洋の風景画の展示でした。藤田の絵(大正6年=1917)は、光太郎も見たであろうモンマルトルの風景。「光太郎に見せたかったな」と思いました。

長野県は、美術館の数では日本一の県だそうです。今回も、道すがら、多くの美術館さんがありました。ただし、維持していくのは大変なようで、やはり光太郎と交流のあった村山槐多の作品などを展示していた上田市の信濃デッサン館さんは事実上閉館、それから、、光太郎とは関わりませんが、小布施の池田満寿夫美術館さんなども閉館してしまいました。

いろいろ難しい問題もあるとは思いますが、どこの美術館さんも盛況であるような、そういう世の中であってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

衣を剥げば日常語即詩語である。詩は言葉の裸身である。

散文「詩について」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

いわゆる美辞麗句を避け、口語自由詩の確立に功績のあった光太郎ならではの言ですね。

一昨日から昨日にかけ、信州に行き、安曇野の碌山美術館さん、諏訪のサンリツ服部美術館さんと、2箇所廻っておりました。

一昨日の土曜、夕食を採ったあと仮眠し、深夜(日付が変わる前に)、台風12号をやり過ごしてから千葉の自宅兼事務所を出発。しかし、中央道八王子あたりで台風のシッポに追いついてしまいました。その後は雨の中を進み、塩尻の健康センターで入浴、仮眠、起きてまた入浴。昨日朝一番で、碌山美術館さんに向かいました。朝には台風も行ってしまっていて、雲は多めでしたが時折雨がぱらつく程度でした。

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北アルプスの山々。

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碌山美術館さん。

21日(土)から、夏期企画展「美に生きる―萩原守衛の親友たち―」が始まっています。

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お世話になっている濱田学芸員、それから今年度新任の高野館長にご挨拶(ほぼ毎年お邪魔している4月の碌山忌を今年は欠礼しましたので)。その後、展示を拝見しました。

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左の碌山館は、荻原守衛の彫刻の展示棟で、こちらの展示内容は不変です。手前にはおそらく女郎花(オミナエシ)。いい感じでした。企画展は第一展示棟、第二展示棟を使っていました。もう一棟、杜江館という建物もあり、一昨年の「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」ではそちらも使っていましたが、今回は2棟のみでした。「―萩原守衛の親友たち―」というサブタイトルで、第一展示棟が光太郎と柳敬助、第二展示棟に戸張孤雁と斎藤与里というラインナップでした。

第一展示棟は、もともと彼等の作品を常設展示している棟ですが、普段は収蔵作品のすべてが出ているわけではありません。今回は4人の作家の収蔵作品のおそらく全て、プラス他からの借り受け品も展示されていました。

光太郎彫刻は全てブロンズで、同館所蔵のもの。年代順に浅草の玉乗り芸人の幼い兄妹をモデルにした彫刻の部分的な残存「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)、光太郎初の注文による肖像彫刻「園田孝吉像」(大正4年=1915)、事情があってかくまった横浜の少女をモデルとした「裸婦坐像」(大正6年=1917)、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)、その力感がすばらしい「腕」(同)、零落した元旗本の花売り老人がモデルの「老人の首」(大正14年=1925)、同型のものが東京芸術大学の庭に立つ「高村光雲一周忌記念胸像」(昭和10年=1935)、そして生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の小型詩作(一体のみ・昭和27年=1952)、中型試作(一対・昭和28年=1953)、そして未完の絶作「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)。碌山美術館さんでは、買い足し買い足しで、10点もの光太郎ブロンズを購入して下さっています。花巻高村光太郎記念館さんを除けば、これだけ集まっているのはここだけです。

他の三人の作品も、改めて見るといいもので、特に斎藤与里の絵は、郷里・埼玉県加須市教育委員会からの借り受け品など、非常に華やかでした。

それから、同館で今年の4月に刊行された新刊書籍を頂いてしまいました。題して『彫刻家 荻原守衛―芸術と生涯―』。300ページ近くある大判の厚冊で、守衛の彫刻と絵画のカタログ・レゾンネ的なものプラス、かなり詳細な評伝も付されています。さらに光太郎を初めとする周辺人物の紹介なども。これで定価3,000円は掛け値無しにお買い得です。

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ぜひ足をお運びの上、お買い求め下さい。企画展は9月2日(日)までの会期です。


【折々のことば・光太郎】

真の詩人は、いかなる素材、いかなる思想をも懼れない。詩が生命そのものの如き不可見であり又遍在である事を知るからである。

散文「詩そのもの」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

光太郎が使う「詩人」の語は、単に詩を作る者、というだけでなく、「芸術家」そのものを指すこともあるように思われます。たとえ言葉で詩を作らなくても、守衛のように優れた彫刻を作る者は「詩人」だ、みたいな。あらゆる芸術の根幹には「詩魂」が不可欠であるとの考えがその背後にあります。といって、自らはまだまだ、という謙虚さも持ちあわせているのが光太郎でした。

昨日開幕しました。

明治維新150年 NHK大河ドラマ特別展「西郷(せご)どん」

期    日  : 2018年7月28日(土)~9月17日(月・祝
会    場 : 大阪歴史博物館 大阪市中央区大手前4丁目1-32 
時    間 : 9時30分~17時
料    金 : 大人1,300円(1,170円) 高校生・大学生900円(810円)
         ※( )内は20名以上の団体割引料金
休 館 日 : 火曜日 ただし8月14日(火)は開館

大阪歴史博物館では、平成30年7月28日(土)から9月17日(月・祝)まで、6階特別展示室において、明治維新150年 NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」を開催します。
明治維新から150年、平成30年(2018年)のNHK大河ドラマは「西郷(せご)どん」です。
明治維新のヒーロー・西郷隆盛には、肖像写真が一枚も残っておらず、その生涯は謎に満ちています。薩摩(鹿児島県)の下級藩士の家に生まれた西郷隆盛(小吉、吉之助)は、両親を早くに亡くし、家計を補うため役人の補佐として働きます。やがて薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)に目を留められた西郷は、斉彬の密命を担い江戸へ京へと奔走し、薩摩のキーパーソンとなっていきます。多感な青年期を経て、3度の結婚、2度の島流し。極貧の下級武士に過ぎなかった素朴な男は、勝海舟、坂本龍馬ら盟友と出会い、揺るぎなき「革命家」へと覚醒し、徳川幕府を転覆させます。類まれな「勇気と実行力」で明治維新を成し遂げた西郷ですが、最後は明治新政府と闘い、命を散らすことになります。
この展覧会では、NHK大河ドラマ「西郷どん」と連動し、西郷隆盛ゆかりの品や、同時代の歴史資料などを紹介、西郷の人間像と彼が生きた時代を浮き彫りにします。

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出品目録によれば、東京芸術大学さんで開催されていた東京展で出品された、光太郎の父・高村光雲が主任として制作に当たった西郷隆盛銅像の、顔がない「のっぺらぼう」写真は残念ながら展示されないようですが、他の西郷隆盛銅像に関する資料が出品されています。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩は無限なものだから何処からでも生れる。花園の花からでも、造花屋の花からでも、瓢箪からでも、吐月峰からでも。詩の言葉は原稿用紙の罫の間からも生れるだらう。典謨訓誥からも生れるだらう。街路に落ちてゐる生きた言葉からは確に生れる。感ずる心がなければ言葉は符牒に過ぎない。路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であつた事を見破る者は詩人である。

散文「生きた言葉」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

いわゆる美辞麗句を好まなかった光太郎らしい言です。

東北の新聞2紙から。

まずは青森の地方紙『東奥日報』さんの一面コラム。今月23日の掲載分で、先週行われた「十和田湖ウォーク」にからめでです。

天地人 2018年7月23日分

 夏の一日、久しぶりに十和田湖に出かけた。湖畔の「乙女の像」まで足を延ばしたのは、子どものころの遠足以来かもしれない。高村光太郎の晩年の傑作とされる一対の裸婦像は、十和田湖の美を象徴する。彫像の前に、にぎやかな女性旅行者たち。手を合わせるように向き合う乙女のポーズに興じながら写真を撮り合っていた。
 乙女の像から少し奥まった所にある十和田神社は近ごろパワースポットとして人気という。杉木立を抜け境内に入ると、バックパック姿の外国人旅行者が、ベンチに腰を下ろし、霊験あらたかな空気に浸っていた。
 一段と深みを増した緑がぐるり。水面(みなも)を渡る風がすうっと頬をなでる。湖上遊覧では圧倒的なパノラマに解放感を味わった。
 いつからか観光地としての衰退が叫ばれている十和田湖である。しかし悠久の時が創り出した雄大な自然美は、きらきらと多彩な表情を見せ、底知れぬ力を感じさせる。最近は、奥入瀬渓流のコケに注目したエコツーリズムや湖畔のカヌー体験など、新たな切り口でこの一帯の魅力を伝える体験型観光も増えているという。
 きのう全国から千人超が参加した十和田湖ウオークもその一つだろう。神秘の湖の周りを歩いて歩いて1周50キロ。存分にいい汗をかいた後の温泉や冷えたビールは、体にしみたに違いない。いつもよりずっと深い眠りも堪能できたのではないか。


確かにインバウンドの方々が目立つようになった十和田湖周辺ですが、国内の方々にも、もっと訪れていただきたいものです。


続いて『朝日新聞』さんの岩手版。昨日の掲載です。 

光太郎の花巻 再現 記念館でジオラマ公開

 彫刻家で詩人の高村001光太郎(1883~1956)が終戦後の7年間、山居生活を送った当時の花巻を再現したジオラマ模型が、花巻市太田の高村光太郎記念館の企画展「光太郎と花巻電鉄」で公開されている。
 模型は幅1・8メートル、奥行き1・2メートル。旧花巻町役場や花巻病院、光太郎が揮毫(きごう)した宮沢賢治の「雨ニモマケズ詩碑」、商店街や花巻温泉、高村山荘など約70の建造物とその風景が、実物の約150分の1のジオラマで再現されている。光太郎が移動手段として利用した「花巻電鉄」も再現され、「馬面電車」と呼ばれた独特の細い電車がジオラマの中を駆け巡っている。
 光太郎は東京のアトリエを空襲で失い、知人の賢治の実家を頼って花巻市に疎開、戦後の7年間は旧太田村山口(花巻市太田)の山小屋で暮らした。ジオラマは、光太郎が暮らした当時の雰囲気を伝える企画展の目玉で、東京都品川区のジオラマ制作者、石井彰英さんに依頼し、市内の光太郎研究の専門家が情報提供して制作されたという。
 同館は「光太郎は山荘にこもっていたのではなく、市街地や温泉にも出かけて多くの人と交流していた。懐かしい情景と光太郎の足跡を感じてほしい」。展示は11月19日まで(会期中、休館なし)。問い合わせは同記念館(0198・28・3012)。(溝口太郎)


今月14日に始まった花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻電鉄」をご紹介下さいました。以前も書きましたが、各紙一斉に報じられるより、小出しにしていただけると、その都度読んだ方がいらしていただけるので、ある意味ありがたいところです。『岩手日日』さん、『読売新聞』さんではすでに報じられています。

しかし『朝日』さんの記事にある「市内の光太郎研究の専門家が情報提供」というのは、市内ご在住の『花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』編集長の北山氏と、千葉県在住の当方がごっちゃになっているようです(笑)。


十和田湖、そして花巻。夏の旅行シーズン、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

詩とは人が如何に生くるかの中心より迸る放射のみ。定形無し、定理無し、定住無し、捉ふ可からず、しかも人中に遍漫す。故に詩は無限に変貌す。

散文「余はかく詩を観ず」全文 昭和2年(1927) 光太郎45歳

他にも佐藤春夫、堀口大学らの同じ題の文章が掲載されており、アンケートに分類してもいい内容ですが、『高村光太郎全集』では第8巻の評論の巻に掲載されています。

新刊情報です。 

仏像と日本人 宗教と美の近現代

2018年7月25日  碧海(おうみ)寿広著 中央公論新社(中公新書) 定価860円+税 

仏像鑑賞が始まったのは、実は近代以降である。明治初期に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐、すべてに軍が優先された戦時下、レジャーに沸く高度経済成長期から、〝仏像ブーム〟の現代まで、人々はさまざまな思いで仏像と向き合ってきた。本書では、岡倉天心、和辻哲郎、土門拳、白洲正子、みうらじゅんなど各時代の、〝知識人〟を通して、日本人の感性の変化をたどる。劇的に変わった日本の宗教と美のあり方が明らかに。


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目次

 まえがき
 序章 仏像巡りの基層
  1 寺院とは何か  2 前近代の古寺巡礼  3 江戸の開帳
 第1章 日本美術史の構築と仏教―明治期
  1 廃仏毀釈と文化財  2 フェノロサ・岡倉天心・小川一真  3 博物館と寺院
 第2章 教養と古寺巡礼―大正期
  1 古美術を巡る風習  2 和辻哲郎の『古寺巡礼』  3 教養としての仏像
 第3章 戦時下の宗教復興―昭和戦前期
  1 危機の時代の仏像  2 美術の拒絶―亀井勝一郎
  3 秘仏をめぐる心性―高村光太郎
 第4章 仏像写真の時代―昭和戦後期①
  1 資料・美術・教化  2 古寺「写真」巡礼―土門拳と入江泰吉
  3 礼拝と展示のあいだ
 第5章 観光と宗教の交錯―昭和戦後期②
  1 古寺と仏像の観光化  2 信じることと歩くこと―白洲正子
  3 古都税をめぐる闘争
 終章 仏像巡りの現在
  1 仏像ブームと『見仏記』  2 美と宗教のゆくえ
 あとがき 参考文献


著者の碧海氏は、龍谷大学などで教鞭を執られている宗教学者。その見地から、近代以降の「仏像」受容の変遷を追った好著です。

第3章の「秘仏をめぐる心性―高村光太郎」では、永らく秘仏とされ、明治期にフェノロサによってそのヴェールが剥がされた法隆寺夢殿の救世観音像を軸に、光太郎の美術観を論じています。

要約すれば、光太郎にとって「美」とは、手にとって見せられる形而下的なものではなく、人意以上のものの介在によって生み出される形而上的なもの、従って、宗教観に近い美術観であったという指摘。「なるほど」と思いました。

他の部分はまだ斜め読みですが、路傍の石仏に花を手向け、信仰の対象として拝む見方と、博物館や美術館、さらには観光地と化した寺院で美術作品として仏像を見る見方との相剋、明治以降の「仏像」の見方の変遷と、そのターニングポイントに位置した人々を論じています。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

Ima koko de ‘Shi’(Uta) wo tsukuru toki ni kanjita koto wo itte miru to, fudan ‘Shi’ wo kaku toki ni niyakkai ni shite furisuteyô to shitemo hanarenai mono wa, kodomono toki kara kyôiku sareta Shina no moji to kangofû no iiarawashikata de aru ; sore ga jama ni natte honto ni Essentialna mono wo dasenai koto ga yoku aru. Dasu koto ga dekinai nominarazu, sono yûrei no yôna mono ga Essentialna mono wo kabusete shimatte, kaette namajikka omomuki wo soete kuru.

談話筆記「Rômaji de shi wo kaku toki no kokoromochi 」より
大正12年(1923) 光太郎41歳

雑誌『ローマ字』に載った談話筆記のため、ローマ字表記です。漢字仮名交じりに書き下してみます。

今ここで「詩」(歌)を作る時に感じた事を言つてみると、普段「詩」を書く時に荷厄介にして振り捨てようとしても離れないものは、子供の時から教育された支那の文字と漢語風の言ひ表し方である。それが邪魔になつてほんとにエツセンシヤルなものを出せない事がよくある。出す事が出来ないのみならず、その幽霊のやうなものがエツセンシヤルなものをかぶせてしまつて、却つてなまじつか趣をそへて来る。

言葉の有りようについて、深い省察を常に行っていた光太郎ならではの言です。ただ、戦時中には空疎な漢文訓読風、大言壮語調の翼賛詩を乱発することになってゆくのですが……。

雑誌系新刊2冊、ご紹介します。 

虹 第9号

2018年7月7日  虹の会発行 非売


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詩人で同誌主宰の豊岡史朗氏による論考「高村光太郎 詩集『道程』」31ページが掲載されています。なかなか読み応えのあるものです。

ご入用の方、仲介いたしますので、こちらまでご連絡ください。 

月刊絵手紙 2018年8月号

2018年8月1日  日本絵手紙協会  定価762円+税

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花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

今号は、花巻郊外太田村在住時の昭和27年(1952)に書かれた詩「山のともだち」。登場する「ともだち」は、カッコー、ホトトギス、ツツドリ、セミ、トンボ、ウグイス、キツツキ、トンビ、ハヤブサ、ハシブトガラス、兎、狐、マムシ、熊、カモシカ。いかに豊かな自然に囲まれての生活だったかがわかります。ただ、裏を返せば過酷な生活だったことにもつながりますが……。

昭和22年(1947)、雑誌『至上律』に口絵として載った太田村の水彩スケッチ(現物が花巻高村光太郎記念館さんに所蔵されています)画像も掲載されています。

こちらから購入可です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

僕は詩人ぢや無い。只自分の思つて居る事を詩や画に現はすに過ぎないんだ。
談話筆記「詩壇の進歩」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

……だ、そうです。

昨秋、光太郎詩集の代表作の一つ、『智恵子抄』を昭和16年(1941)に刊行し、その後も光太郎の詩集や散文集などを手がけた出版社龍星閣創業者・故澤田伊四郎氏(小坂町出身)の遺品のうち、光太郎や棟方志功関連の資料およそ5,000点が寄贈され、今春、企画展「平成29年度新収蔵資料展」でそれらの一部を展示された、秋田県小坂町の総合博物館郷土館さん。

常設展示でそれらの資料の内の一部を展示することになり、展示が始まったそうです。

NHKさんのローカルニュースから。 

出版人 澤田伊四郎展

 小坂町出身で、竹久夢二の画集などを数多く手がけた出版人、澤田伊四郎にまつわる資料の展示が小坂町の博物館で始まり、当時の書籍など貴重な資料を見ることが出来ます。
 小坂町の博物館「郷土館」では、今月から新たに、東京・千代田区の出版社「龍星閣」に関する資料が常設展示されています。
  「龍星閣」の創業者、澤田伊四郎は小坂町出身で、去年、遺族から2500点あまりの書簡や、およそ500冊の本や雑誌が寄贈されました。
 このうち、常設展には調査が終わった54点が示されています。
 大正ロマンを代表する画家、竹久夢二の画集は、革張りで、本の三方が金ぱくで装飾された豪華なつくりになっていて、澤田の出版へのこだわりをうかがい知ることができます。
また、彫刻家で詩人の高村光太郎が「龍星閣」から出版した詩集「智恵子抄」の初版本には光太郎が智恵子を思って詠んだ詩が直筆で書かれています。
 小坂町総合博物館「郷土館」の安田隼人学芸員は、「多くの人から要望があったため常設展示することにしました。竹久夢二の特装本などは貴重なもので、これだけ美しい本を見る機会は少ないので、ぜひ見に来て、龍星閣の仕事ぶりを知ってほしいです」と話していました。

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当方、2月GWに現地に伺い、報道されている署名本や書簡類を拝見して参りましたが、とてつもなく貴重な資料です。花巻高村光太郎記念館さんを除くと、こうしたものが常設で見られる場所は他にはほとんど無いように思います。

ぜひ足をお運びください。



【折々のことば・光太郎】

おしなべて考へてみると、外国の詩に、黙読して始めて其の味を味はふべき様なのは少い。朗読してはとても聴かれないが、黙読すれば面白いといふ様なのは少い。黙読しても面白いが、朗読すれば尚ほ面白いといふのが多い。黙読してゐるうちに自然と朗読されてしまふ様なのが多い。

散文「詩歌と音楽」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

昨日のこのコーナーでも「詩歌と音楽」という文章から引きましたが、たまたま同じ題名の別の散文です。

具体例として挙げているのは、ヴェルレーヌの詩。光太郎は前年までのパリ在住時に、プルースト研究家のマリー・ノードリンガー女史にフランス語を習っていましたが、その際に女史がテキストとして使ったのが、ヴェルレーヌなどの詩でした。それを暗誦させられた光太郎、はじめは童謡の歌詞かと思ったそうで、それほど平易かつリズミカルなわけです。また、欧州の詩の特徴としての踏韻なども聴いて心地よいと感じる原因の一つでしょう。

そして帰国後、日本でも平易な口語表現などを使って詩を書いていた北原白秋らがいて影響され、光太郎の詩作が本格化します。「黙読しても面白いが、朗読すれば尚ほ面白い」というのが、光太郎の詩作の一つの理想型になって行ったのではないでしょうか。

信州安曇野の碌山美術館さんの企画展情報です。

美に生きる―萩原守衛の親友たち―

期 日 : 2018年7月21日(土)~9月2日(日
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 9時~17時10分
料 金 : 大人700円 高校生300円 小中学生150円
休館日 : 会期中無休

荻原守衛は彫刻家としての資質にも恵まれ、才能あふれる友人にも恵まれました。

彫刻家、詩人として多くの影響を与えた高村光太郎。
彫刻・挿絵・版画などのジャンルを手掛けて繊細な作品を制作した戸張孤雁。
肖像画家として活躍した柳敬助。
日本の洋画界に大きな足跡を残した斎藤与里。

美に生きた四人のそれぞれの芸術をご覧ください。

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同館では、常設で光太郎作品を複数展示して下さっているのですが、改めて企画展として取り上げるということです。

同じ地域のサンリツ服部美術館さんでは、企画展「明治維新150年記念 幕末から昭和の芸術家たちと近代数寄者のまなざし」が開催されており、光太郎の父・高村光雲の木彫が出ています。

当方、今週末に併せて行って参ります。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

絵画なら絵具や筆のタツチ、彫刻なら線の波動や表面の触感、詩歌なら言葉の節奏(リズム)や文字の音色(ねいろ)が直接に人に其の表さうとした情調を与へなければならぬ。画かれたもの、刻まれたもの、歌はれたものの当体に重きを置き過ぎると間違つて来る。

散文「詩歌と音楽」より 明治42年(1909) 光太郎27歳

青年期の光太郎、「何を」より「いかに」を重視していたことがわかります。といっても、「何を」の部分も何でも良いと思っていたわけではないのでしょうが。

一昨日、郡山市公会堂での「第2回朗読パフォーマンス声人(こえびと)LIVE ∞生きる∞」を拝見し終え、愛車をいわき市に向けました。磐越道をいわき三和ICで下り、いわき市立草野心平記念文学館さんへ。このルートは、途中が物凄い山道なのですが、こういう場合のために、現在の愛車はRVです。

午後6時近くに到着。7,8月の土日は、午後8時まで開館していると言うことで、ありがたい措置でした。

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開催中の企画展「開館20周年記念 夏の企画展 宮沢賢治展 ―賢治の宇宙 心平の天―」に合わせ、館外から賢治がらみのオブジェなどがお出迎え。

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館内に入って、「あれっ」という感じでした。ロビーで、コンサート的な催しが行われています。チラシにはその旨の記述がなかったので、「あれっ」という感じでした。

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横田恭子さんのピアノに乗せ、緑川明日香さんの「銀河鉄道の夜」朗読。あとで聞いたところでは、企画展の関連行事として行っているわけではないので、チラシには載っていないとのことでした。

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緑川さんは、平成26年(2014)にいわき市芸術文化交流館アリオスで開催された「いわき賢治の会設立記念事業 賢治の宇宙 心平の天」の際に、光太郎の、「あどけない話」(昭和3年=1928)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)を朗読して下さったので、存じていました。

そちらがほぼ終了するところだったので、そのまま展示室へ。

当会の祖・草野心平と、宮澤賢治の交流についてのさまざま資料が展示されていました。生前に無名だったまま早世した賢治のプロデュースという部分では、光太郎もひとかたならず骨を折りましたので、光太郎がらみの展示も。

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光太郎関連は、花巻高村光太郎記念館さんの所蔵品が貸し出されており、初めてみるものではありませんが、興味深く拝見しました。また、一つの目玉が光太郎が揮毫し、花巻に建つ「雨ニモマケズ」詩碑碑文の書。久しぶりに拝見しましたが、迫力のある書です。

さらには「雨ニモマケズ」が記され、賢治歿後、その「発見」の現場に光太郎も立ち会った手帖も。これを光太郎が手に取って見て、「ホウ」と唸ったのかと思うと、感無量でした。


別室では、鉄の彫刻家・安斉重夫氏による賢治ワールドをモチーフにした彫刻群。こちらは撮影可でした。

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ロビーには、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」のポスターも。チラシは既に無くなってしまったそうで、多くの方にいらしていただきたいものです・

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その後、担当の小野学芸員や、緑川さん、横田さんらとお話をさせていただき、帰途に就きました。

会期は来月26日まで。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

地方的特殊性をどんなに深く持つてゐてもよいどころか、深く持つてゐればゐるほど良いけれども、その体格性能に於て少しも一般人類にはたらきかける素質を持つてゐないものである場合には、それは一地方的存在として終わらねばなるまい。

散文「芸術上の良知」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「地方的特殊性」を深く持っていながら、それに加えて一地方的の存在から脱する「コスモス」を所持していたのが賢治だと、光太郎は別の機会に述べています。同じことは心平にも言えるような気がします。

昨日は福島県の郡山市、それからいわき市に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

まずは郡山。市中心部の郡山市公会堂で開催された、「第2回朗読パフォーマンス声人(こえびと)LIVE ∞生きる∞」。を拝見して参りました。

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会場の郡山市公会堂は、建物自体が登録有形文化財に指定されています。こういう場所での公演というのもいいものだと思いました。

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この手の建造物は、通常、入口の扉を開けるとホワイエ的な空間があるのですが、ここはそうではなく、いきなりホールなので、びっくりしました。

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今回、客席としては使用しませんでしたが、2階席もあったりして、これまたレトロでいい感じでした。

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会場後方には、書家の方が書かれたという「あどけない話」(昭和3年=1928)。

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先月拝見に伺った「第38回日本教育書道藝術院同人書作展」でも感じましたが、書家の皆さん、光太郎詩からインスパイアを受けるというケースが多いようで、ありがたいかぎりです。

「ほんとの空」と安達太良山の水彩画も。

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ご出演は朗読パフォーマンス声人(こえびと)さん。郡山のコミュニティFM・ココラジでパーソナリティーを務められている宗方和子さんという方が代表で、宗方さんが講師を務められているカルチャースクールでの生徒さん達がメンバーだそうでした。

智恵子の故郷、二本松に近い郡山で、地元の方々がこうした公演をなさって下さるというのが非常にありがたいところです。

二部構成で、第1部は『朗読 アラカルト』、三つの作品から。ロバート・マンチ作「ラヴ・ユー・フォーエバー」――岩崎書店さんから刊行されている絵本です―――。斎藤隆介作「ベロ出しチョンマ」――今年の連翹忌で朗読をお願いした山田典子さんがご出演された朗読系の演劇公演「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」でも取り上げられました。我が故郷・千葉県の義民・佐倉宗吾伝説を元にしています。そして、黒柳徹子さんの「窓ぎわのトットちゃん」からの抜粋。

以前にも書きましたが、公共交通機関に揺られている際に読むミステリーや時代小説などを除き、光太郎関係以外はあまり読まない当方にとって、こうした朗読系公演で、普段接しない作品に接するのは実に新鮮な感じです。また、出演者の方々の、一生懸命伝えようとする姿勢にも好感が持てます。

第2部が「ドラマリーディング  ロンド ~智恵子抄 雷火~」。「佐藤春夫原作」となっていまして、佐藤の『小説智恵子抄』を下敷きにはなさったのでしょうが、ほぼほぼオリジナルの脚本で、宗方さんの手になるものだそうでした。「雷火」は光太郎詩「おそれ」(大正元年=1912)中の「あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危険の一つだ/口から外へ出さなければいい/出せば即ち雷火である」から採られた一言です。ちなみにこのフレーズ、智恵子からの愛の告白を意味します。

明治末の光太郎智恵子の出会いから、昭和13年(1938)の智恵子の死(今年が歿後80周年です)までの、光太郎詩の朗読を中心に、二人の共棲生活の軌跡が描かれていました。説明に当たる部分は説明に終始せず、主に智恵子が母・センや親友・田村俊子に送った手紙を朗読するというかたちで説明し、うまい手法だな、と思いました。また、時間の経過と共に光太郎智恵子役の方が交代し(20代、結婚当初、智恵子晩年の頃と3組)、それで時間の経過を表すという手法も用いられ、面白い試みだなと思いました。

「ドラマリーディング」と銘打っていますので、出演者の皆さんは、基本的に台本片手に演じられていました。今年の1月に目黒で拝見した「MAIA STARSHIP朗読劇 いやなんです あなたのいってしまふのが −智恵子抄より」もそうでしたが、下手に暗記しようとしてかえって「こうだったっけ?」的に自信なさげになったり、間違いだらけの朗読やセリフ回しになったりするより、割り切って台本片手の方がずっといいと感じました。何より、出演者の方々の熱演あってのことですが。

ヤマ場では、ダンサー・橋本みなみさんがご登場。千々に乱れる智恵子の心を舞踊で妖しく表現。

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橋本さん、ベリーダンスがご専門だそうで、中東系の音楽に乗せての舞でしたが、壊れて行く智恵子がよく表現されていました。

最後は出演者全員で「あどけない話」の朗読。

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左から、柳敬助、智恵子晩年の頃の光太郎、青年期の光太郎、結婚当初の光太郎、智恵子の姪にしてその最期を看取った長沼(のち宮崎)春子、晩年の智恵子、智恵子の母・セン、結婚当初の智恵子、20代の智恵子、柳八重

後ろのスクリーンには、会場後方に展示されていた「あどけない話」の書と、安達太良山の水彩画が映り、心憎い演出でした。

終演後、出演者の皆さんによるお見送り。

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この公演、郡山市の「ファミリーホームいぶき」さんで生活している子供たちの通学支援チャリティーを兼ねているとのことで、募金箱に募金をし、さらに、宗方さんと少しお話をさせていただきました。今後、二本松でのレモン忌や当会主催の連翹忌等でご縁が持てればと思っております。

その後、いわき市の草野心平記念文学館さんで開催中の「開館20周年記念 夏の企画展 宮沢賢治展 ―賢治の宇宙 心平の天―」へ。そちらについては明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

基調としての季節感に裏うちされぬ日本文学といふものをあまり見なかつた。日本文学にとつて季節の感情ほど読者に直接にアッピイルし易い武器はなかつた事を意味する。日本特有のセンチメンタリズムには必ず背景として又基調として、月が冴えたり、花が散つたり、風鈴が鳴つたり、虫がすだくといふやうな「身にしみる」道具が具備する。

散文「日本の秋と文学」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

いわゆる「もののあはれ」。それはそれでいいとして、それだけにたよっている浅薄な文芸作品はいただけないというのです。同時に、自分は決してそんなものは書かないぞという表明でもありましょう。

このところ、このブログで紹介すべき事項が多く、後手後手に回りがちです。こちらも既に始まっている企画展です。

花子 ロダンのモデルになった明治の女性

期 日 : 2018年7月8日(日)~9月24日(月・振休)
会 場 : 岐阜県図書館 岐阜市宇佐4-2-1
時 間 : 10時~18時
料 金 : 無料
休館日 : 毎週月曜(祝日の場合は翌日)、毎月最終金曜

県図書館では、企画展「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」を下記のとおり開催します。
明治期にヨーロッパへ渡り、女優として活躍した花子(本名太田ひさ)は、帰国後の20余年を岐阜の地で過ごしました。
彫刻家ロダンがモデルとした唯一の日本人であり、森鴎外の短編小説のモデルとしても有名な花子の魅力と生涯を、写真や文献などで紹介します。

岐阜女子大学名誉教授・澤田助太郎氏から寄贈された花子関係資料やロダン作の花子像などを展示
 花子をモデルにしたロダン作のブロンズマスク2体(岐阜市、公益財団法人岐阜市国際交流協会所蔵作品)
 花子像の写真(ロダン作、新潟市美術館、国立西洋美術館等の所蔵品写真)
 ヨーロッパ巡業当時の写真、演劇関係資料他
 花子を題材とした文芸作品(森鷗外「花子」、高村光太郎「小さい花子」等
 花子に関する諸研究資料

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関連事業

花子トーク(全2回)
 場所:岐阜県図書館 2階 研修室(申込不要、各回先着60名) 時間:14:00~15:30
 第一回 : 平成30年7月22日(日)「花子と高村光太郎」
         講師:丸山幸太郎氏(岐阜女子大学教授兼地域文化研究所長)
 第二回 : 平成30年8月5日(日)「森鴎外の『花子』-岐阜ゆかりの女優の活躍」
         講師:林正子氏(岐阜大学副学長・地域科学部教授)

「花子」紙芝居と映画
 期日:平成30年8月19日(日)
 場所:岐阜県図書館 2階 多目的小ホール(申込不要、先着90名)
  <三味線紙芝居「花子」> 13:30~14:30  脚本・語り・三味線:伊藤今日子氏
  <なつかシネマ上映会> 14:30~15:30
     映画「プチト・アナコ~ロダンが愛した旅芸人花子~」


このブログで何度かご紹介して参りました、日本人女優・花子。確認できている限り、唯一、ロダンの彫刻モデルを務めた日本人です。そういうわけで、昨年公開された映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」にも登場していました。ロダンが花子をモデルに作った彫刻は十数点、うち、いくつかは日本でも見られます。

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光太郎は昭和2年(1927)、郷里の岐阜に花子を訪ね、その模様を出版社・アルスから書き下ろしで刊行した評伝『ロダン』に書き残しています。その際の章のタイトルが「小さい花子(プチ ト アナコ)」。上記要項に「高村光太郎「小さい花子」」とありますので、評伝『ロダン』が展示されるということでしょう。

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光太郎から花子に宛てた、訪問させてもらってありがとうございました、的な書簡も現存しています。

また、花子に関しては、光太郎の師・森鷗外が短編小説「花子」を明治43年(1910)に発表しています。今回はそちらの関連の展示物もあるようです。

関連事業としての講演会「花子と高村光太郎」が、明日、開催されます。

それから8月19日(日)には、映画「プチト・アナコ 〜ロダンが愛した旅芸人花子」の上映。この作品は存じませんでした。調べてみましたところ、平成7年(1995)の制作だそうです。物語は、舞踏家の古川あんずさん演じる晩年の花子が、麿赤兒さん扮する光太郎に、ロダンとの思い出を語る形で進行するそうで、ぜひ拝見したいものです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

強いと一緒に広く生きたい。大きく生きたい。のびやかに成長したい。そして、此と共に堪へがたく渇き求めるものは知識である。生きた知識である。

散文「文芸界の広さ」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

2年後に発表された詩の代表作「道程」にも通じるような、「生」への渇望が見て取れますね。

光太郎第二の故郷・花巻から市民講座の情報です。

≪絵画の見方とその歴史Ⅶ≫ 彫刻 高村光太郎と高田博厚 日本近代彫刻の系譜

期 日  : 2018年7月21日(土)
会 場 : 花巻市東和図書館 視聴覚室  岩手県花巻市東和町安俵6区90
時 間 : 午後1時30分から午後3時まで
料 金 : 無料
講 師 : 萬鉄五郎記念美術館 館長 中村光紀氏
対 象 : 高校生以上 先着40名
申 込 : 萬鉄五郎記念美術館館 電話(0198-42-4402)かFAX(0198-42-4405)

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萬鉄五郎記念美術館さんは、花巻高村光太郎記念館さんと花巻市街をはさんで反対側、旧東和町にあります。萬鉄五郎は、ここ旧東和町で明治18年(1885)に生まれました。大正元年(1912)には、光太郎らと共に洋画の革新グループ・ヒユウザン会(のちフユウザン会)に参加し、フォービズム、キュビズム的な絵画を描きました。ただ、不思議なことに光太郎は萬に関しては著作の中に殆ど記述をしていません。

その萬鉄五郎記念美術館の館長・中村光紀氏による講座です。氏はもと『岩手日報』さんの学芸記者だったそうで、その当時から高田博厚と交流が深かったとのこと。そこで高田を通しての光太郎についてお話しいただけるようです。

ちなみに萬鉄五郎記念美術館さんでは、写真展「岩合光昭の世界ネコ歩き」を開催中。

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高村光太郎記念館さんの企画展「光太郎と花巻電鉄」と併せて足をお運び下さい。「光太郎と花巻電鉄」に関しては、7月15日発行の『広報はなまき』さんに紹介記事が出ています。

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石井彰英氏作のジオラマから画像が採られていますが、実にいい感じですね。


【折々のことば・光太郎】

一度争ひを通り越した理解は大きなものであるけれども、争ひのない安直な理解ぐらゐ憎む可く厭ふべきものはない。さう言ふ理解に満足するのは恥ぢである。

散文「明治の時代を劃せる作品」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

ろくな議論も為されないまま、数の論理でどんどん通される重要法案、或いは、今この時期に通す必要があるのか、というようなトンデモ法案。これらも「恥」だと思うのですが……。

早くにご案内を頂きながら、紹介するのを失念していました。 

なつやすみ所蔵企画展 え! からはじまる、ストーリー。

期 日 : 2018年7月3日(火)~9月24日(月・祝)
会 場 : メナード美術館  愛知県小牧市小牧五丁目250番地
時 間 : 10:00~17:00
料 金 : 一般 900円(700円)   高大生 600円(500円)   小中生 300円(250円)
         ( )内は20名以上の団体料金および前売料金
休館日 : 月曜日(祝休日の場合は直後の平日)

美術から物語へ、物語から美術へ ふたつが出会った時、いったい何が生まれるのか…。

 切っても切れない縁にある美術と物語。素晴らしい物語は、読めばその情景が鮮明に脳裏に浮かび、素晴らしい絵画は、画中で展開される物語を想像させます。
 画家たちもまた聖書やギリシア神話、オペラなどに触れ、浮かんだイメージを多くの絵画に残しており、文筆家たちはイメージを装幀そうていや挿画そうがはもちろん、情景描写など文学的表現そのものに活かそうとしました。
 互いの表現を求め合う美術と文学。本展は、このふたつの出会いによって生まれた新たな物語を当館のコレクションの「え(絵)」に探すものです。それは「え!」という驚きをともなうものかもしれません。

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同館に所蔵されている光太郎の木彫「001鯰」(昭和6年=1931)が出品されています。

現存が確認されている3点のうちのひとつです。残り2点は、上野の東京国立博物館さんに寄託されているものと、竹橋の国立近代美術館さん所蔵のもの。3点とも時々展示されますが、常設展示というわけではありません。

他にも同館の所蔵作品は逸品ぞろいで、出品リストによれば、今年、横浜美術館さんで大理石像が出て大きな話題となったロダンの「接吻」のブロンズをはじめ、岸田劉生、梅原龍三郎、藤田嗣治、佐藤忠良、松本竣介ら、光太郎と関わりの深かった作家の作がずらり。

この機会をお見逃しなく。


もう1件。

昨秋、北海道小樽にオープンした似鳥美術館さんからの情報です。 

新収蔵作品のお知らせ

似鳥美術館に、新しく作品が三点増えました。
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高村 光太郎《十和田湖畔裸婦像のための手》
詩人であり、彫刻家であった高村光太郎。
似鳥美術館二階で多数の作品を展示中の高村光雲は、実父である。
本作は、十和田湖畔にある裸婦像「乙女の像」制作にあたって習作として作られたもの。

 平櫛 田中《燈下萬葉良寛上人像》《仙桃》
高村光雲らと並ぶ、日本近代彫刻の代表的な作家の一人。
この度の新収蔵作品二点には、木彫への彩色が施されている。

 高村光雲に関わりのある作家の作品が、続けて新収蔵となりました。
ますます充実の似鳥美術館彫刻コレクションを、ぜひ観にいらしてください。

※高村 光雲《観音》は展示をお休み致します。


というわけで、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」(昭和28年=1953)のための習作です。光太郎歿後、何点かブロンズに鋳造されたうちの一点です。

大正7年(1918)制作の代表作「手」から連なる観音菩薩の「施無畏印」の形、荒々しい肉付けながらも優美さも内蔵するフォルムなど、公開を想定しなかった習作ではありますが、逸品です。

同館では、もともと光太郎の父・光雲やその弟子筋の作品の収集に力を入れて下さっており、そうした流れで購入されたようです。

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収蔵されている光雲作品は、左上→右下の順で、「魚籃観音像」(昭和9年=1934)、「聖観音像」(制作年不明)、「郭子儀」(昭和4年=1929)、「大黒天像」(大正13年=1924)、「投網打つ恵比寿像」(制作年不明)。弟子筋では米原雲海、山崎朝雲の作が収められており、さらにここに平櫛田中と光太郎の作が加わるわけで、なかなか充実のラインナップです。


それぞれぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

日本の今の作家の名を一々上げて、それに就いて論ずるとよく分るけれど、何だか不快(いや)だから止すが、一種のセンチメントを浮べる芸術にセンチメンタルなものの種々な着物を着せたものではつまらない。さう言ふ作に限つて、誰でも読者は引き入れられ易いものである。然し大した価値のある作でない事は勿論である。

談話筆記「センチメンタリズムの魔力」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

文芸作品についての評です。大仰なセンチメンタリズムを前面に押し出した、ある意味、下らない小説などへの批判。造形芸術にもあてはまるような気がします。

まずは『毎日新聞』さん千葉版の記事から。

成田・二人でひとつの展覧会 /千葉

 17~22日、上町500、なごみの米屋總本店2階、成田生涯学習市民ギャラリー。
 成田市の絵手紙講師、大泉さと子さんと、同市で一閑張りのバッグなどを制作する佐藤信子さんによる2人展。
 大泉さんは宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」をダルマの絵とともに書いた作品や、三里塚記念公園にある高村光太郎の文学碑「春駒」の拓本、墨で書いた自身の「春駒」のほか、丸い形のはがきなど遊び心あふれる約100点を並べる。大泉さんは「絵手紙は相手を思って描き、心を伝えることができる」と話す。
 佐藤さんは福島第1原発事故によって、福島県南相馬市小高区から成田市に移り住んで6年になる。事故前は籠やざるに和紙を張り、その上から柿渋を何度も塗り重ねて作る一閑張りと絵手紙制作を南相馬で教えていた。今回はバッグや籠、ざるなど新作約100点を展示する。
 2012年に佐藤さんの個展で知り合い、交流が続いている2人は「絵手紙と一閑張りのコラボレーションは初の試み。ぬくもりを感じる展覧会にしたい。多くの人に見てほしい」と来場を呼びかけている。
 ギャラリー(0476・22・2266)は10~16時(最終日15時まで)。【渡辺洋子】

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というわけで、隣町ですので早速行って参りました。

会場は成田駅から成田山新勝寺へと向かう参道沿いです。車では時々通る道ですが、久しぶりに歩きました。

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なかなかレトロで良い感じの通りです。外国の方もちらほら。

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こちらが米屋さん。地域では羊羹があまりにも有名ですが、全国区なのでしょうか。こちらの2階が生涯学習市民ギャラリーとなっています。これは存じませんでした。最近流行のメセナ(企業の社会貢献)でしょう。

開場前に着いてしまい、店裏の喫煙コーナーで一服。こちらのレトロな洋館は「成田羊羹資料館」。やはり米屋さんの施設です。洒落が効いています(笑)。

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10時になりましたので、いざ、会場へ。

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成田の三里塚ご在住の大泉さと子さんという方が、地元の三里塚記念公園に建つ詩碑に刻まれている光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)を書いた作品などが展示されています。

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温かみのある作品ですね。

三里塚記念公園は、元々、宮内庁の御料牧場があったところでした。その近くに移り住んだ親友の作家・水野葉舟を訪ね、光太郎も何度か足を運んでいます。最近はやんごとなき方々用の防空壕も公開されています。

詩碑の拓本も展示されていました。

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大泉さん、絵手紙講師ということで、昨年の6月号から「高村光太郎のことば」を連載して下さっている『月刊絵手紙』さん主宰の小池邦夫氏の弟子筋に当たられるそうです。小池氏からの絵手紙も展示されていました。

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となると、『月刊絵手紙』さんで紹介があるかも知れないなと思いました。今月号がそろそろ届く頃です。

それから、光太郎と縁の深い宮澤賢治の「雨ニモマケズ」。良い感じです。

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「二人でひとつの展覧会」ということで、もうお一方は佐藤信子さん。「一閑張(いっかんばり)」の作品を展示されていました。竹や木で作った骨組みに和紙を貼り、柿渋で固めるという伝統工芸です。

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こちらも味のあるものでした。

上記『毎日新聞』さんの記事によれば、佐藤さんは震災後、福島県南相馬市小高区から移り住まれたとのこと。こちらにも光太郎詩「開拓十周年」(昭和30年=1955)が刻まれた碑があり、不思議な縁を感じました。


会期は22日(土)まで。成田山新勝寺に参拝がてら、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

予期して居る通りに書かれたものは、僕等に取つては充(つま)らない。僕等の考へて居るのは、自然が自分の胸を打つて来た時に直ちにパレツトなり泥なりを取つて、其の刹那の感興を製作の上に映す。其の結果が何うなるか、それは分らない。

談話筆記「純一な芸術が欲しい」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

造形芸術にしても、文学にしてもそうだと言います。あらかじめ綿密な計算を施した上での制作、それはそれでいいのでしょうが、やはり興の赴くまま、持てる力を展開させていくという制作手法を光太郎は良しとしていたようです。確かに小説などで、いかにも、という伏線の張り方を眼にすると、興ざめの感がぬぐえないことがよくありますね。

7/14(土)、岩手花巻からの帰り、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館に寄って参りました。こちらで開催中の「第80回展覧会 明治の御慶事-皇室の近代事始めとその歩み」を拝見。

 
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光雲作の木彫「文使」が展示されており、拝見して参りました。

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平成14年(2002)に、茨城県近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」の際に見ていますので、二度目となりますが、改めて見て、その超絶技巧にはやはり舌を巻きました。

画像には写っていませんが、文使の背部の帯の結び目など、どうやったら一木から彫り上げられるのだろうという感じです。それから文使いのかしこまった表情。人形のようなそらぞらしさは無く、確かに血の通った人間の描写です。全体のシルエットというか、モデリングというか、そういった点でも守旧にとどまることなく、西洋美術のエスキスもちゃんと取り入れた光雲ならではのしっかりしたもので、作り物感がありません。

また、台座の部分には、蒔絵と螺鈿細工が施されています。おそらくそれぞれ専門の職人の手によるものと思われますが、これまた精緻な作りとなっていました。

明治33年(1900)の作で、当時の皇太子(後の大正天皇)ご成婚に際し、逓信省から献上されたということです。献上当時、文使が手にしている柳筺には、このご成婚に際して発行された記念切手17枚(妃殿下の年齢に合わせて)が入れられていたとの事。何とも粋な計らいですね。

図録を購入して参りました。

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三の丸尚蔵館さんでの企画展示で発行される図録は、いつも圧巻です。とにかく解説文がすごい。今回のものも、維新後の近代化の波の中で、皇室の慶事がどのように変遷していったのか、それから光雲も内部装飾に関わった皇居の造営に関してなど、非常に興味深く拝読しました。

で、新たな発見が一つ。「お前、そんな事も知らなかったのか」とお叱りを受けそうですが、明治天皇の生年は、光雲と同じ嘉永5年(1852)でした。光雲がことさら明治天皇を敬愛して已まなかったその裏側には、自分と同年だという一種の親近感的な感情もあったのではないかと思った次第です。確証はありませんが。

他にも、一級品の出品物がずらり。ただ、三の丸尚蔵館さん、展示スペースが狭いので、入れ替えながらの展示です。現在は後期です。下の画像、クリック2回で拡大します。

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8月5日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

実に飛躍(ル ボン)は其の合言葉である。多彩、多音、流動は其の趣味の基本である。胆大、強行、率直は其の用意である。

散文「未来派の絶叫」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

「未来派」は、イタリアを中心に興った芸術運動で、過去の芸術の徹底破壊と、機械化によって実現された近代社会の速さを称えるもの。明治42年(1909)、詩人のマリネッティの「未来主義創立宣言」によって始まった運動です。

光太郎、過去の伝習の破壊という部分には共鳴しつつも、拙速といえば拙速なその展開にとまどい、全てを肯定しているわけではありません。ただ、やはり、共感する部分も多かったのは事実です。

7月14日(土)、企画展「光太郎と花巻電鉄」開幕を迎えた花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんを後に、レンタカーを北に向けました。当初予定では、東の花巻市街に向けて、光太郎が戦中戦後に歩いた界隈を歩く予定でした。そこで、昨年発刊された隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』の第6号「特集 賢治の足跡 光太郎の足跡」を持っていったのですが、予定を変更しました。高村光太郎記念館さんで、下記の企画展情報を得たためです。 

ハナをめぐる人の環 ~野村ハナ生誕130年・没後50年記念企画展~

期 日 : 2018年6月10日(日)~10月21日(日)
会 場 : 野村胡堂・あらえびす記念館  岩手県紫波郡紫波町彦部字暮坪193-1
時 間 : 9時~16時30分
料 金 : 一般/300円 (250円) 小中高校生/150円 (100円) 
      ( )内は20名以上団体割引料金
休館日 : 月曜日 ただし7/16、9/17、10/8は開館、翌日が休館

野村胡堂の妻ハナが通った日本女子大学。上代タノ、長沼智恵子、井上秀、平塚らいてうなどそこで出会った人々とは、生涯を通して親交を深める。母校へ、友人へ、そして家族に向けたあたたかな眼差しと想いにふれる。

 今年は、『銭形平次捕物控』の執筆者である野村胡堂の妻ハナの生誕130年・没後50年です。ハナは紫波町彦部村の出身で、大恋愛の末に胡堂の妻となり、80歳で生涯の幕を閉じました。その長い人生には、苦しい時代や度重なる不幸がありましたが、それでもキリスト教の信仰を生きる支えとし、家族や友人など多くの人々に愛情を注ぎます。
  明治38年、岩手県立高等女学校から東京の日本女子大学附属高等女学校へと転校したハナは、その後、日本女子大学で学び、母校の同附属高等女学校で教師として勤めました。その間に多くの人々との交流が生まれ、時には支え協力し合いながら人生を歩みました。日本女子大学成瀬記念館の所蔵資料をもとに、ハナの豊かな人の環と遺徳を紹介します。

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調べてみると、先月の『岩手日報』さんに記事が出ていました。智恵子の名が無かったので、気づきませんでした。 

胡堂の妻ハナ、深い愛情 紫波、記念館で企画展

 紫波町出身で「銭形平次捕物控」著者の野村胡堂(1882~1963年)の妻ハナ(1888~1968年)の生誕130年、没後50年を記念する企画展「ハナをめぐる人の環(わ)」は、同町彦部の野村胡堂・あらえびす記念館(杉本勉館長)で開かれている。初公開の3点を含め、友人や家族との手紙や写真から、愛情にあふれるハナの人物像が感じ取れる。
 展示しているのは同館や、ハナが通った日本女子大が所蔵する書簡など36点。ソニーの創業者井深大(1908~97年)、女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)らとの交流を紹介する写真や手紙もある。
 このうち初公開は▽日本女子大の卒業証書▽同大第6代学長の上代(じょうだい)タノ(1886~1982年)へ宛てた書簡▽同大図書館設立のためにハナが胡堂の代筆で書いた寄付の覚書。
 10月21日まで。午前9時~午後4時半。毎週月曜日休館。入館料は一般300円、小中学生150円。24日、7月29日、8月26日、9月23日の午後1時半から学芸員が解説する。9月30日午後1時半からは盛岡二高箏曲部によるコンサートもある。問い合わせは同館(019・676・6896)へ。
2018.06.18


こちらのチラシが高村光太郎記念館さんに置いてあり、これは行かねば、と思った次第です。花巻街歩きはまたの機会にすることにしました。

紫波町は花巻市のすぐ北で、意外と早く着きました。平成26年(2014)に行った際には、山形市、仙台、盛岡と廻る途中で立ち寄ったため、在来線東北本線の日詰駅から歩き、結構難儀しましたが、レンタカーですと楽でした。

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申し訳ないのですが、常設展示は後に回し、まず企画展会場へ。

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智恵子より2歳年下の野村ハナ(旧姓・橋本)は、智恵子と同じ日本女子大学校の出身。智恵子のすぐ下の妹・セキと同じ教育学部の2回生で、智恵子とも親しくなり、テニス仲間の一人だったそうですし、帰省する際には福島の智恵子の実家に立ち寄ったこともあるそうです。明治43年(1910)には、野村胡堂と結婚。いろいろと事情があって、蕎麦屋の二階座敷でのささやかなものだったそうですが、その際には金田一京助が胡堂の、智恵子がハナの介添えとして出席したとのこと。ハナとセキに関してはこちら

今回の展示では、直接智恵子に関わる展示物はありませんでしたが、同級だったセキと一緒に写っている写真が数種類ありました。セキの写真はあまり見たことがなく、興味深く拝見しました。

その他、智恵子を『青鞜』に引きこんだ平塚らいてう、光太郎による日本女子大学校創設者・成瀬仁蔵胸像制作に関わったり、智恵子葬儀に女子大学校代表として参列したり、戦後は光太郎に講演を依頼したりした同校第四代校長・井上秀(朝ドラ「あさが来た」では吉岡里帆さんが「田村宜」名で演じていました)らからの書簡など。

そんな中で、展示の終わり近くでパネルに大きく印刷されていた、胡堂の「良い籤を引いた」という一文が目を引きました。昭和27年(1952)の雑誌『キング』に載ったものだとのこと。

結婚してから四十三年になるが、夫婦喧嘩というものをやった経験は無い。ご質問に応じかねて、誠に相すまぬようであるが、こればかりは致しかたもない。四十三年もの長い間を掴み合いも口喧嘩もしなかったのは、多分私は人間が甘く出来ており、老妻がズルく立ち廻った為だろうと思う。尤も、仕事のことで、時には気むずかしいこともあり、年のせいで、些か小言幸兵衛になりかけているが、老妻は巧みにあしらって、決してこれを喧嘩にはさせない。
(略)
四十三年前、もり蕎麦で結婚した私達は、もう、日本流に算えて七十一才に六十五才だ、喧嘩をせずに来たのは、運がよかったのかも知れない。これから先も無事に平凡に余生を送るだろう。つまりは良い籤を引いたのだ。

幸せな結婚生活を続けることが出来た感懐がほほえましく記されています。

この中で、こんな一節もありました。

自分の芸術のために幾人もの女に関係する男や、夫の芸術のために自分を犠牲にする女を私はお気の毒だと思っている。そんな芸術はこの世の中に無い方が宜しい。

幾人もの女に」云々はともかく、「夫の芸術のために自分を犠牲にする女」は、もしかすると、光太郎智恵子を念頭に置いているのでは、などと思いました。証拠はありませんが、昭和27年(1952)といえば、『智恵子抄』が龍星閣から復刊され、ベストセラーとなっていた時期ですので。

直接、智恵子に関する展示がなかったので少し残念に思っておりましたが、帰りがけ、ミュージアムショップ的なコーナーで、胡堂の弟子筋に当たる藤倉四郎氏の著書『バッハから銭形平次』(青蛙房・平成17年=2005)に目がとまりました。同じ藤倉氏が同じ青蛙房から出された『カタクリの群れ咲く頃の』(平成11年=1999)は所蔵しておりますが、こちらは存じませんでした。パラパラめくると、智恵子に関する記述がありました。明治44年(1911)、当時、雑司ヶ谷にセキと共に住んでいた智恵子の元を、ハナが生まれたばかりの長男を連れて訪れたことがハナの日記に記されているというのです。これは存じませんでした。購入してこようかとも思いましたが、他の部分には智恵子に関する記述がなさそうなので、図書館等で探してコピーしようと思い、やめました。セコいようですが、少しこういうところで節約しないと、なかなか厳しいものがありますので……。

さて、野村胡堂・あらえびす記念館さん、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一体、人間が斯うやッて此世に生れて来たに就いては何か目的が無ければならない。何か神様から言ひつかッて来た事が無ければならない。唯併し乍ら、我々は其を草が草であり、木が木であるが如くには容易に知る事が出来ない。
戯曲「青年画家」より 明治38年(1905) 光太郎23歳

「青年画家」は、翻訳を除き、確認できている光太郎唯一の戯曲です。他に「佐佐野旅夫」クレジットの戯曲「地獄へ落つる人々」(明治45年=1912、『スバル』)も、実は光太郎作品ではないかと推定されますが、確証はありません。

「青年画家」は、現在では否定されているハンセン病に関する偏見があったり、筋立てにも無理があったりしますが、若き日の光太郎の、自らや芸術に対する真摯な思いが見て取れる作品です。この年、「第一回新詩社演劇会」で上演され、石井柏亭、生田葵山、伊上凡骨らが出演しました。引用部分は、与謝野寛演じる「上野」(主人公・「佐山」の親友)のセリフです。

昨夜、1泊2日の行程を終えて、岩手花巻より帰って参りました。

花巻高村光太郎記念館さんで昨日開幕した企画展「光太郎と花巻電鉄」、早速報道されています。

地元紙『岩手日日』さん。

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『読売新聞』さん。13日(金)が報道陣向け内覧でしたが、『読売』さんは事前に取材されていました。

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昨日は、内覧にもいらした『岩手日報』さんがさらに初日の様子も取材されていました。そのうちにネット上でも記事が出ると思われます。下は初日のお客さん。興味深そうにご覧になっていました。

ネット上と言えば、メインのジオラマを製作された石井彰英氏の「制作日誌」がネット上に出ています。ご覧下さい。

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合間に隣接する高村山荘周辺を散策。東北北部はまだ梅雨明けして居らず、13日(金)は雨模様でした。関東ではとっくに枯れて朽ちているアジサイが、こちらではちょうど見頃でした(右上)。背景は、昭和20年(1945)から27年(1952)にかけ、光太郎が蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)です。

残念なニュースも。

山荘のすぐわきに、昭和21年(1946)、光太郎が父・光雲の13回忌を記念して実を植えて芽を出し育った栗の巨木があるのですが、残念ながら枯死してしまいました。右下は光太郎が書いた木標を石に写したコピーです。


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倒壊の危険があるというので、近々伐採されるそうです。色即是空、諸行無常とは申しますが、やはり残念です。

逆に明るい話題では、こんなニュースも。

高村光太郎記念館「弦楽四重奏スペシャルコンサート」

期 日 : 2018年7月29日(日)
会 場 : 高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時 間 : 14:00~15:00
料 金 : 記念館入館料 大人350円 高等学校生徒および学生250円 小中学生150円

光太郎ストリングスは、岩手大学管弦楽団の卒業生によって今回のイベントコンサートをきっかけに結成されました。
クラシック、ポップス、唱歌、演歌まで皆様に楽しんでいただける曲を用意してお待ちしています。

記念館の入館料でどなたでもお聞きいただけます♪
小・中学生の方は「まなびキャンパスカード」か「ふるさとパスポート」持参で入館無料!

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演奏されるのは、花巻や盛岡にご在住の皆さんだそうです。篠笛の達人、花巻高村光太郎記念会の髙橋事務局長も参加なさるとのこと。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

今年もやはりその時刻、裏山に登つて、ホトトギスの声をききながら、南方の空に美しいイメツヂを追いませう。

散文「再び村にて」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

舞踊家・藤間節子(黛節子)による「智恵子抄 第二集」プログラムに寄せた一文から。招待を受けたものの、蟄居中の身としては、東京まで見に行けないので、山小屋の裏山の見晴らしのいい高台から東京方面の南の空に向かって藤間や智恵子を偲ぶ、というのです。前年、それから翌年のプログラムにも同じ趣旨の記述があります。

その高台がこちら。ここで夜な夜な「チエコー」と叫んでいたという故事に因み、「智恵子展望台」と名付けられています。昨春、改修されました。

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そこに至る山道。ちょっとしたハイキングコースです。ふり返ると足下に山小屋。熊が出ます。

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デッキの柱には、生々しい爪痕。いかに過酷な環境かというのがわかりますね。

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昨日から、光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻に来ております。
郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんで、今日から企画展「光太郎と花巻電鉄」が始まりますが、昨日は報道陣向け内覧でした。

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展示の目玉は、品川ご在住のジオラマ作家・石井彰英氏による昔の花巻のジオラマ。このブログで何度かご紹介して参りましたが、約1年かけて作成された労作です。

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何度か石井氏の工房にお邪魔し、その都度の進捗状況は見せていただきましたが、4分割されたパネルが合体した完成形、そしてNゲージのレール上を実際に電車が走るさまは初めて拝見。企画段階から関わった身としては、感無量でした。

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その他、昔の鳥瞰図や時刻表、絵葉書など、当方がコツコツ集めた資料も展示していただいています。

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昔の花巻を知る方々には懐かしんでいただき、そうでない皆さんにも古きよき花巻を知ってほしいと存じます。

また、開幕には間に合いませんでしたが、石井氏制作のDVD (ジオラマを接写したもの)が、今月末くらいには販売開始だそうです。また後ほどご紹介いたします。

是非、足をお運びください。

智恵子の故郷福島・二本松に近い郡山から、朗読・舞踊系の公演情報です。 
会 場 : 郡山市公会堂  福島県郡山市麓山一丁目8-4
時 間 : 開場13:30分  開演14:00
料 金 : 無料

 第1部 朗読アラカルト
  「ラヴ・ユー・フォーエバー」  ロバート・マンチ作 
  「ベロ出しチョンマ」  斎藤隆介作  
  「元気の皮」(窓ぎわのトットちゃんより)  黒柳徹子作
 
 第2部 ドラマリーディング
  「ロンド ~智恵子抄 雷火~」  佐藤春夫原作  


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ご出演は、朗読パフォーマンス声人(こえびと)さん。調べたところ、郡山のコミュニティFM・ココラジでパーソナリティーを務められている宗方和子さんという方が代表で、カルチャースクールでの生徒さん達などがメンバーのようです。それから、郡山ベリーダンス・スクールの橋本みなみさんという方がダンスでご出演されるとのこと。

原作が佐藤春夫となっていますので、佐藤の「小説智恵子抄」(昭和31年=1956)を下敷きにしているのでしょう。

これ以上、詳細が分かりません。分かりませんので、観に行ってきます(笑)。レポートは後ほど。


【折々のことば・光太郎】

藤間節子さんの舞踊を見に東京にゆかれない。智恵子を踊る藤間さん、節子さんの芸に宿る智恵子、それを見にゆかれないのは甚だつらいがわたくしはもう山の住人になり過ぎて、東京の街を歩ける状態に今居ない。

散文「村にて」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

「智恵子抄」の二次創作として、生前の光太郎が唯一許し、実際に上演されたたのが、藤間節子(黛節子)による舞踊化のみでした。奇しくも上記「第2回朗読パフォーマンス声人(こえびと)LIVE ∞生きる∞」でも舞踊が入ります。

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しかし、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居中の光太郎は、帝国劇場でのリサイタルに招かれながら、欠礼。その代わりにパンフレットに寄せた一文です。3年後の昭和27年(1952)には、蟄居を解除し、再び東京に戻りますが、この時点ではまだそういうわけには行かなかったということでしょう。

ちなみに当方、今日、明日と1泊2日で、旧太田村に行って参ります。明日から花巻高村光太郎記念館さんで、企画展「光太郎と花巻電鉄」が始まります。

長野県から企画展情報です

明治維新150年記念 幕末から昭和の芸術家たちと近代数寄者のまなざし

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期 日 : 2018年7月15日(日)~9月17日(月・祝)
会 場 : サンリツ服部美術館  長野県諏訪市湖岸通り2-1-1
時 間 : 9時30分~16時30分
料 金 : 大人1,000(900)円 小中学生400(350)円
      
 ( )内は団体20名様以上の料金
休 館 : 祝日を除く月曜日(ただし、8月6日、13日、27日は開館)

 今から150年前、明治という新たな時代が訪れます。新政府主導のもと、政治、産業、教育、文化などあらゆるものが日々発展し、日本は急速な近代化を成し遂げていきました。
 このような激動の時代の中、芸術家たちは伝統的な美意識と新たな時代の表現を模索しながら、多くの名品を世に生み出していきました。また、武家や町衆などによって支えられていた茶の湯では、明治期に入ると政財界の人々が嗜むようになり、近代数寄者たちによる豪華な茶の湯文化が花ひらきます。
 この度、サンリツ服部美術館では明治維新150年を記念し、幕末から昭和にかけて制作された絵画や工芸作品、近代数寄者ゆかりの茶道具などをご紹介いたします。目まぐるしく移り変わる時代の中で、芸術家や数寄者たちが求めた美の世界をお楽しみください。

主な出品作品
 ・冷泉為恭「養老勅使図」 江戸時代19世紀
 ・久保田桃水「山吹鮎図」 江戸―明治時代20世紀(後期出品)
 ・竹内栖鳳「鮮魚」 昭和時代 20世紀(後期出品)
 ・竹内栖鳳「夏木野雀」 昭和時代 20世紀(前期出品)
 ・高村光雲「鍾馗像」 明治時代 19世紀
 ・富本憲吉「白磁壺」 昭和11年(1936)
 ・長次郎「黒楽茶碗 銘 雁取」 桃山時代 16世紀

関連行事
 第2回美術講座
 日時:2018年7月23日(月) 13時30分から(受付開始13時)
 講師:山盛弥生氏(実践女子大学香雪記念資料館客員研究員)
 演題:近代の日本画を知る―新旧と東西
 会場:サンリツ服部美術館 2階喫茶室  定員:60名  参加費:入館料のみ 
 申込方法:電話、受付にて予約(電話0266-57-3311)
 *当日は休館日ですが、参加される方は13時から13時30分、講座終了後から15時30分
 まで展覧会をご覧い
ただけます。講座中は展示はご覧いただけません。


というわけで、光太郎の父002・高村光雲の「鍾馗像」が出品されます。

「鍾馗」は光雲が好んで取り上げた題材の一つで、複数の作品の現存が確認できています。右は平成14年(2002)、茨城県近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」図録から。この時だけでも2体の鍾馗像が展示されました。


また後ほど紹介いたしますが、サンリツ服部美術館さんのある諏訪からほど近い安曇野の碌山美術館さんでは、企画展「荻原守衛の人と芸術Ⅱ 【夏期】 美に生きる ―荻原守衛の親友たち―」が開催され、光太郎も取り上げて下さいます。

併せて拝見に行こうと思っております。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

この本を見ると、なるほどギリシア彫刻は、彫刻の本源だなと納得させられる。
散文「富永惣一著「ギリシア彫刻」推薦文」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

ミケランジェロ、ロダン等、光太郎の敬愛した彫刻家たちの系譜を辿っていくと、その行き着く先はギリシャ彫刻。光太郎にとっては、ある意味、自らのルーツというわけです。

実は光雲もそうでした。江戸期の仏師の流れを汲む光雲ですが、守旧にとどまることなく、文明開化で流入してきた西洋の文献等にも目を通し、自らの骨肉としています。

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こちらは、光雲が描いたもの。「写」とありますので、おそらく西洋の解剖学的な分野の文献から書き写したものでしょう。この骸骨や筋肉に肉付けをすれば、そのままあたかもギリシャ彫刻のようです。

うっかりご紹介するのを失念していまして、始まってしまっています。 
会 場 : いわき市立草野心平記念文学館  福島県いわき市小川町高萩字下タ道1番地の39
時 間 : 9時~17時(入館16時30分まで)
       7、8月の土曜日は9時~20時(入館19時30分まで)
料 金 : 一般 430円(340円)/高・高専・大生 320円(250円)/
      小・中生 160円(120円) ( )内は20名以上団体割引料金
休館日 : 月曜日 ただし7/16(月)は開館、7/17(火)が休館
      8/13(月)臨時開館

詩人・童話作家の宮沢賢治(1896~1933)による「雨ニモマケズ」は、東日本大震災後、あらためて世界に発信されました。無力の自覚にたって他者を思いやり、助け合う精神が再認識され、彼の作品があらためて注目されています。
本展では、1924年からの10年間、賢治の宇宙と心平の天が重なりあった生前交友に光をあてながら、心平が広めた賢治世界の魅力を紹介します。

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関連行事

講演と朗読コンサート 「雨ニモマケズ」
 7月 29日㈰ 14時 ~15時 30分 
 講演 宮澤和樹  ㈱林風舎 代表取締役 宮澤賢治親族 
 朗読 宮澤やよい「宮澤賢治所有のヴァイオリン」を演奏 宮澤香帆

講演会 賢治と心平 ̶「世界的だなどといふことは……」̶
 7月 8日㈰ 14時 ~15時 30分 
 栗原 敦 (実践女子大学名誉教授)

対 談 「賢治と心平の対話」   
 7月 15日㈰ 14時 ~15時 30分
 牛崎敏哉(宮沢賢治記念館学芸員) 小野 浩(当館専門学芸員)

作品ガイド 賢治ファンタジーの時空ツアー  
 7月 22日㈰ 14時 ~15時 30分
 安斉重夫(彫刻家 イーハトーブ奨励賞2011年受賞)

いずれも会場は文学館小講堂で、聴講、鑑賞無料、先着150名、お申し込み不要です。


地元紙『福島民友』さんの報道から。 

宮沢賢治直筆の手帳や資料、いわきで展示 草野心平との縁示す

 いわき市の草野心平記念文学館企画展「宮沢賢治展―賢治の宇宙心平の天」は7日、同館で開幕した。全国で今年初出展となる「雨ニモマケズ」の一節が記された直筆の手帳など、貴重な資料が展示されている。8月26日まで。
 同館20周年記念事業の一環。賢治が死の前日に記した資料「絶筆二首」や、本県ゆかりの詩人草野心平、高村光太郎との縁を示す資料や水彩画など約120点を展示している。会場には、同市在住の鉄の彫刻家安斉重夫さんが賢治の童話の世界をテーマに手掛けた作品も並ぶ。
 初日には、企画展に協力した賢治の実弟宮沢清六さんの孫和樹さんも訪れ、来館者に「草野心平がいなければ高村光太郎との出会いもなく、賢治の作品が世の中に認められるきっかけも生まれなかった」と説明した。
 開館時間は午前9時~午後5時(土曜は同8時)。休館日は毎週月曜と7月17日(同16日は開館)。観覧料は一般430円、高校・高専・大学生320円、小・中学生160円。会期中は講演会や対談も開催する。問い合わせは同館(電話0246・83・0005)へ。


当初は、心平、賢治、光太郎、そして黄瀛の、4人の詩人の交流といった企画展にする予定だったらしいのですが、光太郎と黄瀛は脱落(笑)。まぁ、手を広げすぎずに心平と賢治に絞ったということでしょうか。

それでも、光太郎が揮毫し、花巻に建つ「雨ニモマケズ」詩碑碑文の書が展示されますし、他にも光太郎に関わる展示物がありそうです。

当方、来週末に行って参ります。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

外山卯三郎先生の厳格な監督だけあつて、企画そのものの秀抜さに加へて印刷の立派なことも、在来のものの比ではありません。児童美意識の助長に絶好の教材であると思ひ、喜んで此を世に推せんする次第です。

散文「教材社「児童の図画工作」推薦文」より
 昭和27年(1952) 光太郎70歳

外山卯三郎(とやまうさぶろう)は、詩人・美術評論家です。

気になったのは「助長」の語。早く育てたいあまり、田の苗を指で引っ張って結局は枯らせてしまったという中国の故事から、マイナスの意味での使い道しかないとばかり思っていました。そこで、「言葉に厳格な光太郎にしては、間違った使い方をしているな」と思いましたが、よくよく調べてみると、「助長」にはポジティブな意味で生育を助けるという意味もちゃんとありました。勉強になりました(笑)。

俳優の加藤剛さんの訃報が出ました。 

加藤剛さん死去 「砂の器」「大岡越前」 80歳

 映画「砂の器」やテレビ時代劇「大岡越前」で知られた俳優の加藤剛(かとう・ごう、本名・剛=たけし)さんが6月18日、胆嚢(たんのう)がんで死去したことが9日わかった。80歳だった。所属する俳優座が発表した。葬儀は家族で営んだ。お別れの会を9月22日、東京都港区六本木4の9の2の俳優座劇場で予定している。
 1961年、早稲田大学文学部(演劇)卒業。俳優座の養成所を経て64年、入団。デビューは62年のテレビドラマ「人間の条件」だった。代表作は70年から99年まで続いた「大岡越前」(TBS)。犯罪に厳しく、人間に温かい名奉行ぶりで人気を博した。NHK大河ドラマでは「風と雲と虹と」(76年)、「獅子の時代」(80年)で2度主演した。
 松本清張原作の映画「砂の器」(74年)では、冷徹さの裏に苦悩を隠し持つ天才音楽家を演じ、映画をヒットに導いた。平和問題への関心が高く、木下恵介監督の「この子を残して」(83年)では、放射線医学の研究者で自らも長崎で原爆に被爆した永井隆博士を誠実に力演した。
 俳優座を代表する俳優の一人として舞台に立ち続けた。80年代から上演された「わが愛」3部作に主演。95年には強制収容所のガス室に消えたポーランド人医師を描いた「コルチャック先生」に、99年には「伊能忠敬物語」に主演した。
 紀伊国屋演劇賞(79、92年)、芸術選奨文部大臣賞(92年)など受賞多数。08年に旭日小綬章を受けた。
 映画「忍ぶ川」などで共演した栗原小巻さんは「悲報に接し、めまいがいたしました。彼はとても知性的で、懸命で、高潔な人でした。人柄も画面や舞台の中の彼そのままでした」と話した。
 俳優座養成所でともに学んだ長山藍子さんは「温かいユーモアもありました。論理だけではなく情の厚さも加わる、あの『大岡裁き』。剛ちゃんだからこそ演じることができたのだと思います」と話した。

『朝日新聞』2018/07/10


加藤さんによる「智恵子抄」の朗読が、2種類、ソフト化されています。

まずは昭和42年(1967)、日本ビクターさんのフィリップスレーベルからリリースされたLPレコード。

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28編の詩が収められています。まだ20代の加藤さんの若々しい声が、印象的です。

ジャケットの内側に、加藤さんの言葉、「僕もまた大風のごとく」。

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 「智恵子抄」の朗読者として僕を、というお話のあったとき、正直のところひどく迷いを感じた。そして考える日数をいただいた。清冽な愛のかたちを思うとき、恐らく日本人の誰もが脳裏に浮かべるだろう、それは美しい詩集である。編まれて以来どれほどの数の人の胸の中に暖かくしみとおり唇の上で愛されてきた作品かを考えると、若い僕などの力の及ぶ範囲は自ずと知れていよう。
 ましてやこの作品の高さに相応しい、磨かれた朗読術――方法論を身につけられた諸先輩が数多くいられるではないか、と僕は心を決しかねた。
 そんな夜半、濃い珈琲を道づれに作品集のページを繰りながら、僕は高村光太郎先生のこんな言葉にふと捉えられた。
 「ともかく私は今いわゆる刀刃上をゆく者の境地にいて、自分だけの詩を体当り的に書いていますが、その方式については全く暗中模索という外ありません。いつになったらはっきりした所謂詩学が持てるか、そしてそれを原則的な意味で人に語り得るか、正直のところ分りません」
 この「自分だけのための体当り的詩」が僕にもうたえぬものか。「智恵子抄」の世界が、生活者としての詩人の心の内を小止みもなく衝きあげるみずみずしい言葉にこんなにもあふれている以上、「所謂詩学」などは無縁なのかも知れない。「方式」などは二の次かもしれない。生命によせる素直な讃美や感動、人を愛する激しく豊かな心のうねり、それらに唯ぴったりと己を重ね合せようとするところに、意外にも僕の出発点はありはすまいか。それが「朗読」と呼べるかどうかはわからない。事実今の僕にとって「方式」は明確ではないのだ。
 僕は多分「詩人高村光太郎」の役を与えられた俳優の発想で「智恵子抄」に立ち向かおうとしているのだと思う。なんとも盲蛇式の図々しい発想ではあるけれども。
 その夜半、僕は冷えた珈琲を啜って再度、智恵子のイメージを追慕した。
 「わがこころはいま大風の如く君にむかへり」。学生時代から何となく暗誦んじていた「郊外の人に」の最初の一節が、不思議に新しい響きを持って心を占めた。僕もまた、今はただひたすら大風のごとく、この仕事に挑むほかはない。

何とも誠実なお人柄が偲ばれる文章です。

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画像はレコーディング風景。左はレコードの監修者で、映画監督の故・若杉光夫氏です。

ちなみにこのレコードは、昭和51年(1976)、フォンタナ・レコードさんから覆刻されました。

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2回目は、昭和62年(1987)。新潮社さんでシリーズ化していた「新潮カセットブック」の一つとしてでした。タイトルは「『智恵子抄』より」。

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詩が29篇、それから「智恵子抄」に収められた「巻末の短歌」6首。

こちらはジャケットに加藤さんの言葉はありませんが、翌年発行の雑誌『彷書月刊』(ちなみに題字揮毫は当会顧問・北川太一先生です)第4巻第10号、「特集 高村智恵子」に掲載された、加藤さんの「無辺際を飛ぶ天の金属」という文章で、前述のレコード、そしてこのカセットブックに触れられています。

 「高村智恵子様。不躾ないい方を許002して下さい。もし、詩
人・彫刻家高村光太郎の役が僕に与えられたのだったら――、そんな発想がある日きらりと全身をつらぬきました。ここからすべての風が起こり、すべてが燃えひろがりました。僕の『智恵子抄』はこのときにはじまったのです。」(エッセイ集『海と薔薇と猫と』)
 と、私はそのとき、正直に記している。私の朗読で「智恵子抄」がレコード化された二十年前であった。この類まれな詩篇の美しさ、高さに、はたして己れが相応しいか、と迷い続けた録音前数ヵ月。けれど、「もう人間であることをやめ」て、「見えないものを見、聞えないものを聞」く、「元素智恵子」は、いつのまにか、あたかも明晰な自然のように無理なく「光太郎」としての私のかたわらにいたのだった。
 「智恵子様。何十年かのち、僕が老優になったときもう一度、この作品を朗読する光栄をお与え下さいますよう」、と私が心の中で結んだ手紙に、「智恵子」からの「返事」が届いたのは二十年後で、この光栄な機会は、あやうく老優になる前に再び訪れた。今回はカセットブックである。「智恵子」が私の「光太郎」を許容してくれたのか、と私は嬉しい。「智恵子」は私にとっても永遠に「無辺際を飛ぶ天の金属」である。


こちらのカセットブックは、同じ新潮社さんからCD化され、現在も販売中です。


そして、平成23年(2011)には、『朝日新聞』さんの福島版で連載された「「ほんとの空」を探して」の第二回にご登場。やはり「智恵子抄」朗読について語られています。

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末尾近くの「国家ではなく、一人ひとりの人間が権威を持つ。光太郎先生と智恵子さんの自由への思いは、我々に力を与えてくれる」というお言葉、その通りですね。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

土門拳は不気味である。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのもののの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。

散文「土門拳写真集「風貌」推薦文」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

光太郎もそのレンズの餌食となった、写真家・土門拳の写真集に寄せた一文から。

朗読レコードにしてもそうですが、まだデジタル技術が開発されていなかったとはいえ、「真」を「写」す技術、それが芸術へと昇華していくことに、光太郎も新時代の到来を感じていたようです。

今春、名古屋で開催された企画展の巡回です。おそらく光太郎の父・高村光雲の木彫が出品されます。 

明治150年記念 華ひらく皇室文化 ―明治宮廷を彩る技と美―

期 日 : 2018年7月21日(土)~9月2日(日)
会 場 : 秋田市立千秋美術館 秋田県秋田市中通2-3-8
時 間 : 午前10時~午後6時
料 金 : 一般1000円(800円) 大学生700円(560円)  高校生以下無料
      ( )内は前売、20名以上の団体および秋田県立美術館との相互割引料金
       くるりん周遊パスで観覧の場合、一般700円 大学生500円

休館日 : 会期中無休

 平成30年は、明治維新から150年目の記念すべき年にあたる。欧米に比肩する近代国家を目指して進む明治という新たな時代の激流のなかで、皇室は外国使臣をもてなし、諸国との融和をはかるとともに、わが国独自の芸術を海外へと広く紹介し、美術・工芸の保護育成にも大きな役割を果たしました。
 本展では、明治宮殿を彩った染織品や調度品をはじめ、帝室技芸員による工芸品や書画など貴重な作品の数々から、明治宮廷の華やかな世界を紹介します。
 秋田会場では、明治政府の基礎固めをする上で大きな効果があった六大御巡幸のうち、秋田県内に滞在された明治14年の御巡幸ゆかりの品や、黒田清輝による重要文化財《湖畔》(東京国立博物館蔵)[展示予定期間:7月21日(土)~8月3日(金)]が特別出品されます。


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関連事業

【特別講演会】昔語りは珠匣のごとく-平成に伝えられる明治の皇室文化-
日時:7月21日(土)午前10時30分~12時 
講師:彬子女王殿下
会場:アトリオン音楽ホール(定員550名 聴講無料)
申込:往復はがきの「往信用裏面」に郵便番号、住所、氏名(ふりがな)、年齢、電話番号を、「返信用表面」に郵便番号、住所、氏名を明記、1枚につき最大2名まで。
※2名で申し込みの場合は2名分の住所、氏名、年齢、電話番号を忘れずにご記入ください。
送り先:〒010-0001 秋田市中通二丁目3-8(アトリオン)
     秋田市立千秋美術館「彬子女王殿下講演会」係まで。
     6月21日(木)必着、応募者多数の場合は抽選。
                          
【講演会】明治宮廷が愛でた美術工芸品
日時:8月18日(土)午後2時~3時30分
講師:小松大秀(本展監修者・千秋美術館館長)
会場:千秋美術館3階講堂(定員70名 聴講無料)
申込:7月9日(月)午前9時30分より電話にて受付

【宮廷装束の着装実演】
日時:7月28日(土)[午前の部]午前11時~12時 [午後の部]午後2時~3時
講師:田中 潤氏(学習院大学非常勤講師)
会場:千秋美術館3階 講堂(事前申込不要、自由見学)

【ギャラリートーク】
日時:7月29日(日)、8月11日(土) 各日午後2時より30分程度
担当:千秋美術館学芸員
会場:企画展示室(申込不要、展覧会チケットが必要。) 

 【明治天皇の軌跡をたどる トーク&ウォーク】
明治14年北海道・東北御巡幸時の明治天皇の秋田滞在に注目し、展示室での作品鑑賞や資料を用いた解説に加えて、当時の視察先があった中通周辺を散策します。
日時:8月25日(土)午後2時~4時
担当:千秋美術館学芸員
会場:3階講堂ほか中通周辺 (定員20名、展覧会チケットが必要)
申込:7月24日(火)午前9時30分より電話にて受付


光雲の作品は、「魚籃観音像」。関連事業の小松館長による講演が「明治宮廷が愛でた美術工芸品 」ということですので、帝室技芸員であった光雲についても触れていただきたいものです。


ちなみにすぐ近くの千秋公園(久保田城址)には、幕末の久保田藩第12代藩主・佐竹義堯の銅像が建っています。

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もとは大正4年(1915)、東京美術学校に依頼があり、光雲が監督、白井雨山が原型制作を担当しました。しかし、こうした像の例に漏れず、戦時中に金属供出に遭い、現在のものは平成になってから復元されたものです。

併せてご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本の「美」を支那の美の一支流と見る見かたに私は同意しない。石清水のやうに水口は細いけれども、日本には美の源泉がある。その源泉の性質は、エジプトの美の源泉、ギリシヤの美の源泉、キリスト教芸術の美の源泉、支那の美の源泉などと同様の深さを持つて居り、決してただ地方的の特色があるといふやうな変種程度のものではない。

散文「五十澤二郎著「歴史教室」推薦文」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

明治期以降の、西洋の猿真似や袋小路に嵌った伝統芸術などには価値を認めなかった光太郎ですが、遠く古代から中世の日本美術には一定の理解を示していました。過剰に「神国日本」を讃美し、国民を煽っていた戦時中の反省から、連作詩「暗愚小伝」の執筆にかかっていた時期に書かれたこの文章、美の部分での日本の歴史はやはり否定できない、というスタンスが見て取れます。

毎年8月9日、女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町から。

東日本大震災で甚大な被害があった女川町では、震災後、当時の女川第一中学校の生徒さんたちが発案した「いのちの石碑」が建てられ続けています。

これは、町内21ヶ所の浜の津波到達地点より高い場所に碑を建て、大地震の際にはそこより上に避難するためのランドマークとするというもので、既に半数以上が設置されています。合い言葉は「1000年後の命を守る」。平成3年(1991)、かつての海岸公園に建てられた光太郎文学碑に倣い、「100円募金」で設置費用をまかなうとして始められました。それぞれの碑には、当時の中学生たちが国語の授業で詠んだ句も刻まれています。

まずは地元紙『石巻かほく』さんの記事を2件。どちらも今月3日の掲載でした。 

新しい町の姿や魅力を発信 女川写真愛好会が発足 初の展示会・16日まで

 東日本大震災の復興の歩みなどを写真で伝002えようと、女川町のアマチュア写真家らが「女川写真愛好会」を結成した。第1弾の事業として写真展をJR女川駅に併設する町営「女川温泉ゆぽっぽ」で16日まで開催している。新しいまちづくりが進む同町で、愛好会は今後も写真展などを開くことで、女川の表情や魅力を広く発信したい考えだ。
 愛好会は今年4月に設立された。メンバーは趣味で写真を撮っている会社員や元教員、女川町に移住した復興支援員などの男性9人。写真を通して、町をよく知ってもらおうと活動を展開する。
 開催中の写真展は「わたしの あなたの わたしたちの 女川」をテーマに、約30点を展示している。
 高台に建設された新しい住宅が並ぶ様子や、津波の到達点に建設された「女川いのちの石碑」など、震災後の町の変化を知ることができる写真が並ぶ。
 一方で、カツオ船に餌となるイワシを積み込む作業や、「女川みなと祭り」で大漁旗をたなびかせた漁船の上で披露する海上獅子舞など、水産の町を象徴するような震災前の写真もある。
 ホタテの貝殻に写真を張って、卓上に飾れるユニークな作品もある。
 阿部貞会長(67)は「女川町の復興の過程を記録するだけでなく、美しい自然などを紹介することで、女川に興味を持ってもらいたい」と話す。町民文化祭への展示なども見込んでいる。
 写真展は午前9時~午後9時。入場無料。
 

被災地忘れない!!「支援」「学び」中高生が今も県外から 石巻地方 作新学院中等部2年 町民の力強さに感動 女川で元教諭の講話を聞く

 東日本大震災から間もなく7年4カ月。いま003だに県外から継続的に石巻地方の被災地支援に訪れている高校や、教訓を学びに来る中学校もあり、被災者との交流を通して互助精神の大切さなどを学んでいる。

 震災の教訓を学ぶため、宇都宮市の作新学院中等部の2年生131人が先日、女川町を訪れた。生徒たちは、まちなか交流館で、震災当時女川一中(現女川中)に勤務していた元教諭佐藤敏郎さんの講話を聞いた。
 佐藤さんは「女川は人口の約1割の人たちが亡くなり、8割の建物が住めなくなってしまった」と紹介。現在、若者を中心に運営する音楽イベント「我歴(がれき)stock」開催のほか、震災の風化防止などを目的に、当時の女川中3年生が「いのちの石碑」を町内21カ所に建立する計画を立て、実行してきたことを説明。
 倉松直大(なおひろ)さん(13)は「実際に女川を目にして、津波で全てを失っても復興に力を注ぐ、人間の力強さを感じました」と感想を話した。
 箭内(やない)みうさん(13)は「佐藤さんの『今の人のためではなく、未来へつなげていくために行動している』という話に感動しました」と語った。
 生徒たちは「いのちの石碑」を見学した後、旧大川小に向かい、献花した。


「いのちの石碑」プロジェクトに関わった女川中学校の卒業生が、テレビで取り上げられます。

あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 山下脩さん」

NHK総合 2018年7月12日(木)  10時50分~10時55分

東日本大震災に遭遇した人々の証言。宮城県女川町の山下脩さんは、津波に流された行方不明者を懸命に捜索する海上保安官の姿に憧れ、この春、海上保安学校に入学した。

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海上保安官を目指す山下さん、昨年には『朝日新聞』さんに取り上げられ、このブログでご紹介させていただきました。また、平成27年(2015)、女川光太郎祭を主催している女川光太郎の会の須田勘太郎会長がお住まいの出島(いずしま)に「いのちの石碑」が建てられた際の報道にも、お名前が。

この番組では、やはり「いのちの石碑」に関わった当時の中学生・勝又愛梨さん、女川中学校教諭だった阿部一彦さん、女川光太郎祭の折に宿を提供して下さっているトレーラーハウス・エルファロの佐々木里子さんなどが取り上げられてきました。震災の記憶の風化が懸念される今日この頃ですが、今後とも継続してほしいものです。

女川光太郎祭、今年も8月9日に開催されます。詳細はまたのちほど。


【折々のことば・光太郎】

時間の威力は滅ぶべきものを用捨なく滅ぼし、のこすべきものをともかくものこした。
散文「奥平英雄編「絵の歴史 日本篇」序」より
 昭和28年(1953) 光太郎71歳

芸術作品に関しての言です。しかし、光太郎芸術にしてもそうですが、後の時代の人々がその価値を正しく把握し、次の世代へと引き継ぐ努力をしなければ、歴史の波に埋もれてしまいます。

震災の記憶などもそうではないでしょうか。

昨日は神田の東京古書会館さんで開催された明治古典会七夕古書大入札会2018の一般下見展観に行っておりました。

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今年も光太郎関連の資料が出品され、それぞれ手にとって拝見して参りました。

特に気になっていた書簡類は細かく拝見。

まず、詩人で編集者の井上康文とその妻・淑子に宛てた4通。すべて筑摩書房『高村光太郎全集』未収録のものでした。井上に宛てたものは、光太郎から以外にも出品されており、当会の祖・草野心平からのものなどもありました。

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そして、北海道弟子屈の詩人・更科源蔵にあてたもの。署名本や写真などとともに一括の出品でした。

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封書が9通、葉書が57枚ということで、これらが『高村光太郎全集』未収録のものであったら大変だと思っていたのですが、どうやらすべて収録済みのものでした。最も古いもので昭和3年(1928)、一番最近のものは昭和27年(1952)。『高村光太郎全集』には130通ほど掲載があり、その約半分ということになります。

署名本は、ほぼ署名と「謹呈 更科源蔵雅兄」といった文言のみでしたが、昭和22年(1947)の『道程復元版』のみ、それに関する短歌「わかき日のこの煩悩のかたまりを今はしづかにわが読むものか」がしたためられていました。それからおそらく署名本が送られてきた際の小包の包装から切り取ったと思われる更科宛の宛名部分なども付いていました。

できれば北海道の文学館さんなどで手に入れておいていただきたい品々です。


それから、やはり短歌をしたためた短冊。他の歌人のそれと220枚で一括の中に、光太郎のものも一枚入っていました。明治43年(1910)の雑誌『スバル』に発表された「爪きれば指にふき入る秋風のいと堪へがたし朝のおばしま」。ただし、揮毫の時期はもう少し後のようでした。


その他、既知のものでしたが、色紙や草稿の類など。ことによると100年の時を経て、光太郎が筆を執った実物を手に取ってみることができ、眼福というか、貴重な経験でした。

今日も午後4時まで、一般下見展観が行われています。


時間に余裕があれば、六本木の国立新美術館さんにまわり、「第38回日本教育書道藝術院同人書作展」をもう一度拝見しようかとも思ったのですが、他の雑用もあり、トンボ返り。

やはり会場にいらして下さった太平洋美術会・高村光太郎研究会の坂本富江さん経由で、「智恵子抄」の詩篇を書かれて会長賞(最優秀賞)に輝かれた菊地雪渓氏から、作品に込めた思いを記した文書を頂き、それを踏まえてもう一度拝見しようと思ったのですが、古書会館さんで時間を使いすぎました。

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書家の方々はこういう苦労をなさっているのだな、と、新鮮でした。

できれば来年の連翹忌にて、展示させていただき、皆様にも見ていただきたいものです。

こちらは明日まで。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

総じてブルデルの芸術の底流をなすものは深い詩的精神の横溢であり、事実彼は自ら詩筆を執つてゐる。むしろ古風な格調を尚んで荘重の趣あるその詩篇を自らゴチツク風の文字で揮灑したのを読むのは、まるで彼の地下窖からほのかに漏れる錬金の硫煙をかぐ思がする。

散文「清水多嘉示著「巨匠ブルデル」序」より
 昭和19年(1944) 光太郎62歳

ロダンの後継者たる彫刻家ブールデルの評伝に寄せた一文から。

このブールデルへの評は、現代の光太郎自身への評と置き換えても成り立つような気がします。まさに昨日、光太郎の書の数々を手に取ってみて、改めてそう思います。

毎年恒例、当会の祖・草野心平を顕彰する行事です。今年公開されたドキュメンタリー映画「一陽来復 Life Goes On」の舞台の一つとなった、福島県川内村での開催です。

第53回天山祭

期 日 : 2018年7月14日(土)
場 所 : 天山文庫前庭  福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
         雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 11:30~14:00
参加費 : 500円

今年で53回目を迎える、川内村の三大祭りの一つ「天山祭り」が7月に開催されます。このお祭りは名誉村民である草野心平先生の発案により、天山文庫の落成を記念して始められました。今では、草野心平先生を偲ぶお祭りでもあります。

人と人が出会い、土地のものを食べ、皆で飲み、親睦を深め、川内村の歴史ある文化の伝承とともに楽しんで頂けるお祭りです。
賑いとは少し違う、天山文庫前庭でのしっぽりとした雰囲気を味わってみてはいかがでしょうか。

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会場の天山文庫は、モリアオガエル生息地として有名な川内村が、蛙を愛した心平を名誉村民に選定して下り、その縁で心平が蔵書3,000冊を村に寄贈、昭和41年(1966)、それを収めるために、村人が一木一草を持ち寄り、ボランティアで建設したものです。建設委員には、光太郎の実弟で鋳金の人間国宝となり、光太郎顕彰のため心平と親しかった高村豊周も名を連ねていました。

祭りはその天山文庫の前庭、木漏れ日の中で行われます。

福島川内村・天山祭り。(平成25年=2013)

心平詩の朗読、郷土芸能の披露など、手作り感あふれるイベントです。

当日は郡山との往復、翌朝に郡山へ片道の、無料シャトルバスが出ます(要予約・川内村教育委員会生涯学習係 0240-38-3806)。

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残念ながら当方、岩手花巻の方に行っておりますので欠礼いたします。代わりにぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

巨匠が巨匠について語る言葉ほどわれわれ製作する者にとつて魅力と教訓とに満ちてゐるものはない。わけて前者が後者の単なる盲目的後継者でなく、後者より出でて、しかも後者の為し及ばなかつた領域にその芸術の特質を確立したほどの巨匠である場合、この魅力と教訓とは更に進んで無限の啓示となるのである。

散文「関義訳ブルデル「ロダン」序」より 昭和18年(1953) 光太郎61歳

ここでいう「前者」の巨匠はエミール・アントワーヌ・ブールデル。「後者」の巨匠はロダンです。ロダンより21歳年下のブールデルは、一時期、ロダンの助手を務め、昭和12年(1937)、ロダン評伝「LA SCULPTURE ET RODIN」を著しました。仏文学者・関義(せきただし)によるその日本語訳に寄せた序文の書き出しです。

ブールデルとロダンの関係、「単なる盲目的後継者でなく、後者より出でて、しかも後者の為し及ばなかつた領域にその芸術の特質を確立」云々、心平と光太郎の関係にも当てはまるような気がします。

毎年開催されている「十和田湖湖水まつり」。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為されます。 

第53回十和田湖湖水まつり

期 日 : 2018年7月14日(土)・15日(日)
場 所 : 十和田湖畔休屋  十和田市十和田湖畔休屋486
時 間 : 14日・15日 10:00~21:00 16日は花火予備日

十和田湖の夏の観光シーズンの幕開けを告げるまつり。湖上花火大会には、イルミネーションに飾られた遊覧船が花を添え、特設ステージでは様々なイベントが行われます。
1966年(昭和41年)から夏の観光イベントとして毎年行われ、十和田湖の夏の風物詩となっています。

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7/5現在、公式サイトにまだ詳細な情報が出ていないのですが、おそらく昨年と同様の内容と思われます。

休屋地区、遊覧船の船着き場前にある十和田市さんの施設「観光交流センターぷらっと」では、今年の4月から、青森市ご在住の彫刻家。田村進氏の手になる光太郎胸像や、昭和28年(1953)、光太郎が「乙女の像」の制作のために実際に使用した彫刻用回転台の展示が始まっています。併せて御覧下さい。

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【折々のことば・光太郎】

谷口氏のこの言は、日本のいわゆる「駅頭風景」の乱雑な、造型の混迷、意匠の喪失を見て発せられた痛切な慨嘆の声であるが、この「路傍の形」の重大性を一国文化の消長にかけて確認しているのは、いかにもこの新鋭建築家の正しい神経を感じさせる。

散文「谷口吉郎著「意匠日記」書評」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

谷口吉郎は、「乙女の像」の台座を含む、一帯の広場全体の設計を担当した建築家です。

「この言」とは、「民衆の造型的センスは、カンバンに、ポスターに、そればかりでなくポストの形に、警官の制服のスタイルに、あるいは橋の形などに、はつきりと表現されてくる」「世相の造形的美醜こそ、民衆の美的水準を示す」といったものでした。光太郎、我が意を得たり、という感じだったのでしょう。

光太郎第二の故郷・岩手花巻の高村光太郎記念館さんでの企画展です。 

光太郎と花巻電鉄

期 日 : 2018年7月14日(土)~11月19日(月)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
時 間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料 金 : 小中学生 150円(100円) 高等学校生徒及び学生 250円(200円)
      一般 350円(300円)
 ( )は20名以上の団体
休館日 : 会期中無休

光太郎が市街地へ日用品の買い出しや、静養先だった温泉への移動手段としていたのは、東北各地の都市に先駆けて大正初期から電車を運行していた『花巻電鉄』でした。都会育ちの光太郎にとって、山での暮らしは東京とは比べようが無いほど不便でしたが、山をおりれば路面電車で市街へ移動できる、『田舎』と『都会』が絶妙に隣り合う環境であったと言えるでしょう。
この企画展では、光太郎にゆかりある市内各所を資料やエピソードを交えて紹介しながら、それらを花巻電鉄が結ぶ情景を温かみあるジオラマで展示します。

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メインは、品川区大井町ご在住の石井彰英氏による、光太郎が暮らしていた頃の戦後の花巻とその周辺を表現したジオラマ。上記チラシにも使われています。すばらしい作品です。

かつて智恵子終焉の地・南品川ゼームス坂病院を含む昔の大井町のジオラマを作成された石井氏に、花巻とその周辺のジオラマ作成をお願いしようと、高村光太郎記念館さんのスタッフ氏と一緒に工房を訪れたのが一年前の今頃。快諾を頂き、9月には、当方の運転するレンタカーで現地花巻をロケハン。その後、いろいろな方にご協力いただき、完成しました。

学術的なそれではないので、デフォルメがなされていますが、その場所ごとの感じは非常に良く再現されていると思われます。

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地元の方や、花巻に詳しい方なら、上記画像でそれぞれの場所がどこかとおわかりになるのではないでしょうか。

その他、花巻電鉄に関わる資料なども展示されます。何点か、当方手持ちの資料もお貸ししました。チラシにも使われている古絵葉書、光太郎が居住していた頃の時刻表など。

それから、ジオラマを元にした石井氏製作のDVDも販売される予定です。石井氏曰く「観に来られた方が、ジオラマを自宅に持って帰ることはできないので、映像として持って帰っていただきたい」とのことです。以前に伺った話では、そう高価な価格には設定しないとのこと。

ぜひ足をお運びください。当方は初日とその前日に1泊2日で行って参ります。


【折々のことば・光太郎】

日本に遺つてゐる造型芸術の中で、埴輪ほど今日のわれらにとつて親しさを感じさせるものはない。埴輪ほど表現に民族の直接性を持つてゐるものはない。それはまるで昨日作られたもののやうである。

散文「野間清六編「埴輪美」序」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

日中戦争開戦直前ということで、若干のきな臭さを感じる一節ですが、時代は違えど古代エジプトの彫刻などのプリミティブな美にうたれていた光太郎らしく、埴輪の持つ素朴な美を讃えています。「それはまるで昨日作られたもののやうである。」、いいですね。

毎年この時期に行われる、古書業界最大の市(いち)、七夕古書大入札会。先週、出品目録が届きました。ネット上でも見られるようになっています。

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毎年光太郎に関する出品物が何かしらあり、中には筑摩書房さんの『高村光太郎全集』未収録の資料等が出る年もあって、目が離せません。

今年の目録で、光太郎がらみは以下の通り。

まず出版物としてベルギーの詩人エミール・ヴェルハーレンの訳書『天上の炎』(大正14年=1925)。

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書籍自体はそれほどの稀覯本というわけではありませんが、見返しに光太郎の署名が入っています。函も欠損していません。


肉筆類が5点。出品番号順に最初が「高村光太郎草稿」。昨年も同じものが出ましたが、大正15年(1926)の第二期『明星』に発表された「滑稽詩」です。

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草稿がもう1点。「高村光太郎草稿 無題」となっていますが、昭和16年(1941)の『ヴァレリイ全集』内容見本のための短文です。

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続いて、大量の資料が一括で、「高村光太郎署名本・書簡・葉書他」。北海道の詩人、更科源蔵に宛てた封書が9通、葉書57枚、写真が3葉、戦時中から歿後すぐの著書10冊です。

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更科に宛てた書簡類は、『高村光太郎全集』に既に130通近く掲載されていますが、それに含まれるものなのか、あるいはそれと別のものなのか、よく調べてみないと何とも言えません。


書簡類の一括出品でもう1件。詩人で編集者の井上康文と、やはり詩人だった妻の淑子にあてた4通。

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こちらは完全に未知のものが含まれています。


最後に色紙。以前から都内の古書店さんが在庫としてお持ちだったものです。

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おそらく智恵子を詠んだと思われる短歌「北国の女人はまれにうつくしき歌をきかせぬものゝ蔭より」。昭和5年(1930)頃の筆跡と推定されます。


その他、昨年もそうでしたが、文学者からの書簡一括的な出品物に光太郎のものが含まれている場合があり、注意が必要です。


出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が、7月6日(金)午前10時〜午後6時、7月7日(土)午前10時〜午後4時に行われます。会場は神田神保町の東京古書会館さん。当方は初日に行って参ります。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

当事者にとつては自明の事柄のやうに思はれることでも、これを手にする第三者にとつてはそのいはれを知りたいと思ふのも自然である。

散文「「日伊文化研究」書評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

どこまでその背景などを説明するか、大事な問題ですね。

当方も時々頼まれる雑文や講演・講座、それからこのブログでもそうですが、悩むところです。

演劇系の公演情報を二つ。

まずは先月から既に始まっていますが、かつて光太郎を主人公とした「暗愚小伝」を上演された劇団青年団さんの公演。 

青年団第79回公演 『日本文学盛衰史』

原作:高橋源一郎 作・演出:平田オリザ
2018年6月7日(木)- 7月9日(月) 32ステージ
会場:吉祥寺シアター
前売     一般:4,000円 ユース・シニア:3,000円 高校生以下:2,000円
予約・当日  一般:4,500円 ユース・シニア:3,500円 高校生以下:2,500円

文学とは何か、人はなぜ文学を欲するのか、人には内面というものがあるらしい。そして、それは言葉によって表現ができるものらしい。しかし、私たちは、まだ、その言葉を持っていない。この舞台は、そのことに気がついてしまった明治の若者たちの蒼い恍惚と苦悩を描く青春群像劇である。

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夏目漱石、島崎藤村、田山花袋、石川啄木、芥川龍之介、北原白秋ら、近代の文豪達の群像劇だそうで、光太郎も登場人物の一人に名を連ねています。


もう1件。愛知長久手から。 
会 場 : 長久手市文化の家 
       愛知県長久手市野田農201番地
時 間 : 12:00~/19:00~
料 金 : 無料

高村光太郎「智恵子抄」の一編「レモン哀歌」を躍り・音楽・朗読で考察してみる、実験的な公演です。
【出演】細川杏子(フルート)藤島えり子(演劇)、豊永洵子(舞踊)ほか


「レモン哀歌」にしてもそうですが、詩は小説ほどに具体的な描写が為されているわけではなく、受け取る側が想像をふくらませることが可能です。登場人物の服装だの表情だの、もっと遡れば、場所、時間、人物の配置、その他。そしてその時その場所で何が起こったのか、人物がなんと言ったのか。小説ではそれらが細々と書き表されますが、詩ではそれらは読者の想像にゆだねられます。

それだけに、二次創作の題材としやすい部分もあるのでしょう。さまざまな分野の表現者の方々が、音楽、演劇、舞踊、漫画、小説、映像作品……美術系でも絵画やイラスト、伝統工芸、現代アートなどでさまざまに表現して下さいます。小説や漫画を元ネタにしたそれらは、元ネタの方が情報量が多く、ダイジェストになってしまいますが、詩から出発すると、そうはなりません。

当会顧問・北川太一先生もおっしゃっています。

 はじめこの詩集は光太郎の一方的な思いこみにすぎず、光太郎の声だけしか聞こえない単なる幻想の産物だと批判した者もあった。しかし智恵子に関する資料が徐々に発掘され、智恵子が肉声で語りはじめるにつれて、その生の軌跡はますますリアリティを加え、文学としての評論、創作はもとより、ドラマ、オペラ、歌曲、舞踊、邦楽等々芸術のあらゆる分野の作者、演技者を動かし、それぞれがそれぞれの思いを込めて、その問いかけに答えようとする。 
  (『芸術夢紀行シリーズ 智恵子抄アルバム』 芳賀書店 平成7年=1995)

今後とも、様々な分野の方に「智恵子抄」を取り上げていただきたいものです。ただし、そこにリスペクトの精神を以て、ですが。


【折々のことば・光太郎】

甘いものは飛んでしまひ、苦いもの、渋いもの、ゑがらつぽいもの、すべてけちけちした空気にたまるわらぢ虫のやうな心の中の塵埃は皆焼かれてしまふ。あとには出来たてのやうな心が眼をあける。心が本来の道にかへる。心は少し赤面しながら再び勇気を奮起させる。単に心を感奮させ、いはゆる襟を正させるものは世の中に少くないが、心を必ず原始の生きいきした姿にしてくれるものは、ざらにない。だが芸術にこれを求めないで、その外の何を求めよう。
散文「楽聖をおもふ ベートオヴエン百年忌を迎へて」より
大正15年(1926) 光太郎44歳

そこに病的なもの、頽廃的なものの入る余地を認めなかった光太郎が捉えた、文学音楽美術その他、あらゆる分野の「芸術」の存在意義が語られています。

このところ、新刊書籍を頂く機会が多く、助かっています。昨日は歌人の松平盟子様から下記書籍が届きました。ありがたし。  

真珠時間 短歌とエッセイのマリアージュ

2018年7月24日  松平盟子著  本阿弥書店  定価2,600円+税

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言葉・音楽・旅など時の移ろいに心を寄せ、綴り続けた四半世紀の軌跡。

松平様が編集発行なさっている短歌誌『プチ★モンド』に連載されたエッセイ「真珠時間」、「琥珀時間」を根幹に、『読売新聞』さん連載のコラム「短歌あれこれ」、そして書き下ろしエッセイ「光太郎とラリックをつなぐ「蝉」」が掲載されています。

「ラリック」はルネ・ラリック。フランスのガラス工芸作家です。現代でもラリックブランドのガラス工芸品は日本でも人気ですね。先行するガレやドームとともに、その分野の三大巨匠と称されることもあります。ちなみに上記『真珠時間』カバーの装幀にもラリックの作品があしらわれています。

そのラリックと光太郎をつなぐ仮説、的なエッセイですが、かなり正解である確率の高い説です。

光太郎の談話筆記に「パリの祭」という作品があります。明治42年(1909)、欧米留学からの帰朝後に『早稲田文学』に発表されたものです。前年、ロンドンからパリに渡り、およそ1年間を過ごしたパリのさまざまな風物が語られています。

その中に、ラリックに関する記述も。ただ、ラリックという人物についてではなく、工芸品店としてのラリックについてです。

冬になると美術工芸品の新物が盛に売り出されます。工芸品でパリに名高い店が二軒ある。一つはラリツクと言つてプラース ド バンドーンにある店。二つと同じ品を作らないのを誇りとしてチヤンとラリツクの銘を打つて置きます。も一つをガイヤールと言ふ。この二軒は競争で新物を作り出し売出すのです。

「プラース ド バンドーン」はパリ1区のヴァンドーム広場。カルティエやティファニーも店を構えています。「ガイヤール」はリュシアン・ガイヤール。やはりガラス工芸作家ですが、日本ではあまり知られていないようです。

光太郎がパリに滞在していた明治41年(1908)、ラリックは、それまでジュエリーデザインを主軸にしていたのを、それ以前から手がけていたガラス工芸に軸足を移したとのこと。香水商フランソワ・コティから香水瓶のデザインを注文されたことがきっかけだそうです。

その頃、パリではジャポニスムはまだ大きな流れとして健在でした。ガラス工芸の分野でも、ガレやドームが日本風の意匠を取り入れたことは有名ですし、ラリックや先述のガイヤールも例外ではありませんでした。

そして、ラリックには蝉をモチーフにし002た作品があります。右の画像は『真珠時間』から採らせていただきました。

光太郎がパリでそれを目にし、のちに木彫「蝉」を制作する一つの契機となったのではないか、というのが松平様の仮説です。

4月頃でしたか、松平様から「こういう文章を発表するのでチェックして欲しい」ということで、今回の草稿が送られて来て一読。「なるほど」という感想でした。確証はありませんが、否定する材料もなく、あり得る話だな、というところです、とお答えしておきました。

ただ、「論文」として発表できる質の内容ではなく、そのあたりは松平様もよくおわかりのようで、「エッセイ」としての発表です。しかし、光太郎彫刻を考える上で、一石を投じる提言であることは間違いありますまい、と存じます。

他のエッセイの部分を読み(まだ熟読は致しておりませんで、斜め読みですが)、こうした発想にいたられた理由が少し解ったような気がしました。すなわち、パリに滞在されたことがおありだということ。やはり彼の地での見聞がないとたどり着かない発想だと思いました。

版元サイトから注文可能です。是非お買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

牛酪(バタ)を臭いと言ふ人には本当の牛酪を嘗めさせるに若くはない。

散文「熊野と公衆」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

「熊野」は「ゆや」と読み、三浦環主演のオペラの題名です。衣裳も背景もすべて歌舞伎風、歌舞伎の公演の間に上演され、うまくいけば日本独特の歌劇の誕生、ということになったのですが、結果は「公衆」に、さんざんな酷評をされました。

光太郎は、単に管弦楽や合唱に慣れていない「公衆」が浅はかな批判を展開しているとし、「本物」に触れることの重要性への提言として、上記の一節を記しています。

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