2018年05月

思潮社さんから刊行されている雑誌『現代詩手帖』の最新号です。 

現代詩手帖 2018年6月号

2018年5月28日発売  思潮社  税込定価1280円

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【特集】『月に吠えらんねえ』の世界

◎作品  清家雪子 花なんかいらない
◎対談  萩原朔美+清家雪子 『月に吠えらんねえ』の秘密
◎座談会 
朔太郎、戦争詩、女性性、ときどきBL。
      安智史+栗原飛宇馬+猪俣浩司+浅見恵子
◎論考  藤井貞和、川口晴美、TOLTA、黒瀬珂瀾、岩川ありさ
◎人物紹介 詩歌句街から
 青木亮人、安住紀宏、伊藤詩織、井上法子、北爪満喜、栗原飛宇馬、佐藤弓生、
 佐伯百々子、田口麻奈、
田野倉康一、陶原葵、中地幸、中西恭子、マーサ・ナカムラ、
 安智史、柳澤真美子、山田夏樹


というわけで、講談社さん刊行の漫画雑誌『アフタヌーン』で、平成25年(2013)から連載されている、清家雪子さん作「月に吠えらんねえ」の特集が組まれています。

同作は単行本としては、現在、8巻まで刊行されており、「月吠」の愛称で、コアなファンを獲得しています。

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近代文学者たちの作品からのイメージで造型された登場人物達がおりなす、妖しく怪しい(笑)独特の世界です。主人公は「朔」。萩原朔太郎の作品からのインスパイアです。

光太郎智恵子からのそれ、「コタローくん」と「チエコさん」も登場し、第4巻所収の第17話「あどけない話」では、二人がメインのストーリーになっています。

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その他、ところどころに「コタローくん」と「チエコさん」が登場しますが、第6巻以降はほとんど出番が無く、残念に思っています。

真面目(笑)な文学界でもこの作品は無視できないと見え、各地の文学館さんで企画展が開かれたり、詩歌系の雑誌で特集が組まれたりしています。

で、『現代詩手帖』さん。作者の清家さんはじめ、朔太郎の令孫・萩原朔美氏、詩人の藤井貞和氏などが、作品の魅力を語り尽くしています。作品の主要テーマである「戦争詩とは何だったのか」という点についても、逃げることなく真っ向から向き合っています。

そうした中で、「コタローくん」と「チエコさん」の立ち位置についても、ところどころで言及されています。下記は特集の最後、登場人物紹介の項。

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それから、同じ号で「赤磐発・永瀬清子生家保存会の試み 映画『きよこのくら』雑記」という記事も載っていました。香川佳子さんという方のご執筆でした。永瀬清子は現在の岡山県赤磐市出身の女流詩人。昭和15年(1940)刊行の詩集『諸国の天女』の序文を光太郎に書いてもらうなどしています。

当方、6年前に足を運んだ赤磐市の生家保存の取り組みと、残念ながら解体されてしまった蔵を描いた映画「きよこのくら」についてのレポートで、興味深く拝読いたしました。

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『現代詩手帖』さん、大きめの新刊書003店なら普通に置いてあると思われます。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

実に、王公の面前に立つても、なほかつ「爾曹蝮の裔よ」と叫んで怖れなかつたヨハネが人物の雄大と率直とは妙にロダンが勁健な作風に適してゐることから考へても、氏が三十年の蘊蓄を傾倒して仏国彫刻界の舞台へ漸く其の手腕をふるはんとした時の序幕としては実に痛快極まる図題であつた。

散文「アウグスト ロダン作
「バプテスマ」のヨハネ」より
明治38年(1905) 光太郎23歳

我が国に於いて、ロダンを詳細かつ肯定的に評した文章のうち、最も古いものの一つです。光太郎のその炯眼にはやはり舌を巻かざるを得ません。

昨日に引き続き、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』の2018年6月号から。「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載で、今号のサブタイトルは「光太郎が送った夏のたより」。全体の特集テーマが「さあ、暑中見舞いを送りましょう」ということで、光太郎に関しても、光太郎がさまざまな人物に送った夏の手紙が紹介されています。

昨日はグラビア的に画像入りで紹介されている佐藤隆房医師宛の昭和27年(1952)のはがきを取り上げましたが、続く見開き2ページで、大正期から戦後までの7通が引用されています。

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まず、大正12年(1923)8月15日、四国在住の龍田秀吉という人物仁送ったはがき。

遠い町からのお便りは此処のアトリエに海の風のやうなものをもつて来ました。私は家の中で海水着を着て裸体生活をしてゐます。今年の夏は割に弱らない方ですがそれでも頭が半分になつたやうです。ご健康をいのりながら。

海水着」は現代の海パンのようなものなのでしょうか? 想像すると笑えます。


続いて、同15年(1926)7月20日、親友だった作家の水野葉舟に宛てて。

昨夜は一足ちがひにお素麺がお宅から届いた。それで僕だけ喰べた。おつゆが大層うまかつた。昨日天ぷら揚物を此頃に喰べさせてもらひにゆく事を申出たが考へてみて取消す。この暑さに汗を流しながら天ぷらをくふのもやり切れない。むしろ僕は一人で生瓜をかぢる。〈(君が支度するといけないと思つて一筆)〉

相手が親友だけに、ある種ぶっきらぼうな文面ですが、それだけによそ行きでない親愛の情が表れています。


昭和に入って、昭和2年(1927)7月19日、宛先はアナキズム系詩人の小森盛です。

上州白根の方を少し歩いて草津其他の湯に浴して来ました。お葉書をありがたう。この暑い中の働きを想像します。私は夏に極めて弱い白熊のやうな質ですが、今年は山歩きのおかげで夏にまけずに働けさうです。先月末少しからだを痛めた為、又八月号の「大調和」には原稿を休みました。今東京はしう雨気味で涼風が吹きさわぎます。

この年、記述されているとおり、群馬の草津温泉や、長野の別所温泉、さらに智恵子を伴って箱根にも行きました。ずばり「大涌谷」、「草津」という題名の詩も書いています。


再び水野葉舟宛。同14年(1939)7月10日。

おたよりと桃一箱昨日頂戴、まことに忝く存じました、今年はお盆にも別に何もいたしませんが、智恵子が好きだつた桃を見て感慨に堪へません、早速智恵子に供へました、まだ小生智恵子が死に去つたといふやうな気がしません、この桃も一緒にたべるやうな気がします、

前年10月に智恵子が歿し、新盆の夏です。


さらに同16年(1941)7月20日、詩人の宮崎稔に宛てたはがき。

昨日は山百合の花たくさんお届け下され御厚志まことにありがたく存じました、早速父と智恵子との写真に供へましたが殆と部屋一ぱいにひろがり、実に壮観をきはめ、家の中に芳香みなぎり、山野の気満ちて、近頃これほど爽快に思つた事はありません、智恵子は殊に百合花が好きなので大喜びでせう。厚く御礼申上げます。尚近く詩集「智恵子抄」を龍星閣から出版しますがお送りします故註文なさらぬやうに願ひます。

ユリの花、亡き智恵子が「好きだったので」ではなく、「好きなので」と現在形になっています。無意識にそうしたのでしょうが、気になる一言です。「殆と」は、通常、「ほとんど」と発音し、「ど」と送りがなを付けるべきですが、光太郎、この葉書以外にもほぼ全ての文筆作品で、「殆と」と書いています。旧仮名遣いで濁点をつけない場合の延長なのか(「手紙」を「テカミ」と書く場合がありました)、北関東から東北にかけての方言で「ほどんと」と発音する(おそらく智恵子はそうだったでしょう)のが伝染したのか、何とも言えません。


そして戦後、同22年(1947)7月20日、花巻郊外太田村の山小屋から、截金師の西出大三へ。

おてがミ忝く拝見、尚小包にて雑誌「天来」其他書物も落手、御芳志ありがたく御礼申上げます。早速分教場の棚備供へつけます。山中も猛暑となり、作物急に成長しはじめました。今日は遠雷の音をきき、夕立に恵まれるかと期待して居ります。夏の日と夏の雨とは植物成長に無二の天恵、自然の摂理を感嘆します。今年のジヤガイモと南瓜の成績はどうなるかと思つてゐます。

最後に、当時、少女だった令姪の高村美津枝さん(ご存命)にあてた、同年8月28日付。

八月廿六日のおてがみ今日来ました。お庭の作物のことおもしろくよみました。それではこちらの畑につくつてゐるものを書きならべてみませう。大豆、人参、アヅキ、ジヤガイモ(紅丸とスノーフレイク)、ネギ、玉ネギ、南瓜(四種類)、西瓜(ヤマト)、ナス(三種類)、キヤベツ、メキヤベツ、トマト(赤と黄)、キウリ(節成、長)、唐ガラシ、ピーマン、小松菜、キサラギ菜、セリフオン、パーセリ、ニラ、ニンニク、トウモロコシ、白菜、チサ、砂糖大根、ゴマ、ヱン豆、インギン、蕪、十六ササギ、ハウレン草、大根、(ネリマ、ミノワセ、シヨウゴヰン、ハウレウ、青首)など、以上の様です。十一月に林檎の木を植ヱます。

「農」の人となっていることがよくわかります。「チサ」はレタス、「インギン」は「インゲン」の誤りかとも思いましたが、別の野菜のようです。当方、南瓜が4種類、ナスも3種類あるなどとは存じませんでした。


書き写してみて改めて思いました。当方、雑誌、書籍などの受贈の礼状として、絵葉書(絵手紙ではなく)等を使うことが多くありますが、ここまで味のある文章は添えていません。まして日々の事務的連絡等で多用するメールの類では、尚更です。が、少しは光太郎を見習って行こうと反省いたしました。


さて、『月刊絵手紙』さん、日本絵手紙協会さんサイトからの注文となります。1年間で8,700円(税・送料込)。お申し込みはこちらから。


【折々のことば・光太郎】

美こそ彼をささへてゐた唯一のものであり、彼にとつて一切は美の次元から照射されてはじめて腑甲斐あるものとなつた。

散文「(わたしはさきごろ)」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

おそらく発表されずお蔵入りとなったミケランジェロに関する断片的な散文の一節です。題名は付されておらず、『高村光太郎全集』では便宜的に書き出しの一句を題名としています。

晩年にさしかかり、自らの来し方も「美」に捧げた一生だったという感懐が見て取れます。

定期購読しています日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。昨年6月号から始まった「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が、2年目に入りました。

今号は、全体の特集テーマが「さあ、暑中見舞いを送りましょう」ということで、光太郎に関しても、光太郎がさまざまな人物に送った夏の手紙が紹介されています。題して「光太郎が送った夏のたより」。

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全3ページで、1ページ目は、はがきの画像入り。宛先は戦時中、光太郎を花巻に招いた一人で、戦後すぐには光太郎を約1ヶ月、自宅離れに住まわせた佐藤隆房医師です。はがきの現物は花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されています。

足かけ8年にわたった花巻、そして郊外旧太田村での蟄居生活最後の年、昭和27年(1952)の7月19日付。いつ見ても光太郎の筆跡は味のあるすばらしい字です。流麗な美しい文字というわけではないのですが、この独特の味はなかなか出そうと思って出せるものではありません(そこで、今日の記事は「書道」カテゴリーで投稿します)。

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先日中は大変お世話さまになりました。久しぶりで、家庭の空気に触れることが出来て愉快でしたが夏の季節のため早く引き上げねばならなくなり残念に思ひました、
山居七年、山の人間になつてしまつた小生の生理には普通の市民生活が無理になつたものと見え、此の分では東京での生活がどうあらうかと気がかりでもあります、 ツヅク

2枚組の1枚目なので、「ツヅク」となっています。

久しぶりで、家庭の空気に触れることが出来」は、この月10日から12日にかけ、独居自炊の郊外太田村から花巻町に出て来て、佐藤邸に滞在したことを指します。前月には生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため、青森十和田湖を訪れており、その報告を佐藤、そして宮澤賢治の父・政次郎にするためでした。

夏の季節のため早く引き上げねばならなくなり」云々。光太郎は「冬の詩人」と言われますが、まさしくそうで、夏の暑さは一番の大敵としていました。昭和24年(1949)の夏には、旧太田村の山小屋で、熱中症とみられる症状のため4回も臥床しています。

東京での生活」。この年10月に、太田村での山小屋生活をいったん切り上げ、東京に戻って「乙女の像」の制作にかかることを指しています。完成後は再び太田村で暮らすつもりでいましたが、健康状態がもはやそれを許さず、昭和28年(1953)初冬、十日あまり戻ったのみで、その後は東京を出ることがかないませんでした。


ところで、「ツヅク」のあとの2枚目は、かなりどきりとさせられる内容が含まれています。『月刊絵手紙』さんでは紹介されていませんが、『高村光太郎全集』第15巻から引用します。

ただ東京滞在が秋から冬にかけての季節なので、幾分凌げるかとも思ひかへしてゐます。まづ仕事に専念して一切を克服する外はないでせう。七年間見て来たところでは、花巻の人達の文化意識の低調さは驚くのみで、それは結局公共心の欠如によるものと考へられます。宮澤賢治の現象はその事に対する自然の反動のやうにも思はれます。賢治をいぢめたのは花巻です。

足かけ8年、花巻町と郊外旧太田村で厄介になった光太郎、その点では感謝しても感謝し尽くせないという思いは当然ありましたが、それでもその生活すべてが快いものではありませんでした。閉口させられる部分、腹立たしいことなども少なからずあり、そうした思いを、心許した佐藤には洩らしたのだと思われます。

やはり不世出の巨人を収めておくには充分な器ではなかったということでしょう。そして賢治にもそれは当てはまるというわけですね。生前の賢治の生き様は、故郷の人々に完全に理解、肯定されたわけではなかったという指摘、ある意味、その通りでしょう。「賢治をいぢめたのは花巻です。」重い一言です。


さて、『月刊絵手紙』さん。このはがき以外に7通の「光太郎が送った夏のたより」が紹介されています。そちらは現物が花巻高村光太郎記念館さんにあるわけではなさそうで、活字での紹介です。長くなりますので(ブログのネタに少し困り始めたという点もあり(笑))、明日、ご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

この女体のゆるやかな波状線や、鷹揚な単純化による肉感の醇熱を見よ。

散文「ミケランジエロの作品」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

平凡社刊『世界美術全集17 ルネサンス期Ⅱ』に寄せた図版解説18篇のうち、イタリアフィレンツェのメディチ家礼拝堂に収められた4体の装飾彫刻(「朝」、「昼」、「夕」、「夜」) 中の「朝」解説文から。

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同書から画像を採りました。「ゆるやかな波状線や、鷹揚な単純化による肉感の醇熱」。まさにその通りですね。

この文章の書かれた昭和25年(1950)の時点で、十和田湖の「乙女の像」の構想がどの程度光太郎の頭の中にあったのか、判然とはしませんが(「智恵子観音」を造るというアイディアはそれ以前からありました)、「ゆるやかな波状線や、鷹揚な単純化による肉感の醇熱」という意味では、明治42年(1909)、欧米留学の最後にその眼で観たこの像も参考にしているのではないかと思われます。

一昨日、上野の東京藝術大学大学美術館さんで、「NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」」展を拝見したあと、京浜東北線で大森に向かいました。

その前に、「西郷どん」展を拝見したので、銅像の「西郷どん」にもご挨拶。それから、「西郷どん」展を見る前でしたが、最近、ロダンがらみで横浜美術館さんで開催中の「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」や、DVD「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」を拝見したりしましたので、国立西洋美術館前の「地獄の門」も。

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特に「接吻」の部分を、しみじみと観て参りました。

さて、大森。東口から歩いてすぐの西友大森店さん5階の映画館・キネカ大森さんに参りました。こちらで一昨日、映画「一陽来復 Life Goes On」の上映が始まりました。もっとはやく他館で観るつもりでいましたが、何やかやで一昨日になってしまいました。

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東日本大震災の被災から立ち直ろうとする人々を描いたドキュメンタリーで、益田祐美子プロデューサー、尹美亜監督など、平成28年(2016)に封切られた同様の映画「サンマとカタール~女川つながる人々」とスタッフがかなり重複しています。いわば姉妹編といったところでしょうか。

「サンマとカタール」は、光太郎が昭和6年(1931)に『時事新報』の依頼で紀行文執筆のために訪れ、それを記念する文学碑が建てられ、そして「女川光太郎祭」を毎年開いて下さっている宮城県女川町が舞台でしたが、「一陽来復Life Goes On」は、岩手、宮城、福島で5ヶ所の被災地を取り上げています。すなわち、岩手県釜石市、宮城県の南三陸町と石巻市、福島県では浪江町、そして川内村。

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基本、これら5ヶ所の人々の、最近の様子のレポートです。

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このうち福島の川内村は、いわき出身の当会の祖・草野心平が生前にたびたび訪れ、名誉村民に指定して下さっています。そこで、夏には心平を偲ぶ「天山祭」、秋には「かえる忌」(昨年は中止となりましたが)が行われ、「かえる忌」では当方、心平と光太郎の交流について、講話をさせていただいたことものあります。

川内村で米作りを続けられている秋元さん夫妻、それから「かえる忌」を主催なさっている天山心平の会会長にして、川内村商工会長の井出茂氏がご出演。

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消防団の訓練に秋元さんの作った米を使ったおにぎりを差し入れる婦人会の皆さんの中にも、「かえる忌」で見知った顔がありました。それから遠藤川内村長もちらっとご登場。ちなみにナレーションは藤原紀香さんと山寺宏一さんですが、画面には一般の方しか出てきません。

他の地域の登場人物の皆さんも、それぞれの事情や想いをかかえつつ、ときにくじけそうになりながらも、前を向いて歩く姿が描かれていました。


上記動画で流れますが、テーマソングは松任谷由実さん作曲の「春よ、来い」。この映画のための井内竜次氏によるヴォカリーズアレンジバージョンです。ラストシーン、満開の桜のドローン撮影をバックにこれが流れ、思わずうるっと来てしまいました。号泣しているお客さんもいらっしゃいました(笑)。

終演後、大森での初日ということで、尹美亜監督と、出演なさっていた南三陸のホテル観洋さんの女将・阿部憲子さんによる舞台挨拶。舞台挨拶はこれが最後とのことでした。

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全国での上映、じつはほぼ終わってしまっているのですが、キネカ大森さんをはじめ、まだところどころで公開がありますし、「サンマとカタール」同様、テレビ放映やDVD化されることを期待しております。


【折々のことば・光太郎】

ミケランジエロは何をおいても美に生きた。彼ほど美の力を深く感じ、美が人間を救ふものだと信じてゐた者はあまりなかつたやうに思へる。

散文「ミケランジエロ ブオナローテイ」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

光太郎自身も、「美が人間を救う」と信じ、手探りを続けた生涯だったように思われます。

東京上野の東京藝術大学大学美術館さんで、昨日始まった企画展です。

NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」

期 日 : 2018年5月26日(土)~7月16日(月・祝)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 午前10時~午後5時
料 金 : 一般1,500円(1,200円) 高校・大学生1000円(700円) 中学生以下無料
          ※ ( )は20名以上の団体料金
休館日 : 月曜日(※ 7月16日(月・祝)は開館)

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明治維新から150年、2018年の大河ドラマの主人公は西郷隆盛です。
薩摩(鹿児島)の一介の下級武士から身を起こし、明治維新を成し遂げた西郷隆盛。しかし、この稀代の英雄には、肖像写真が一枚も残っておらず、その生 涯は多くの謎に包まれています。本展覧会は大河ドラマと連動しながら、西郷隆盛ゆかりの歴史資料や美術品などによって、「西郷どん」の人物像と激動の時代を 浮き彫りにします。
西郷の風貌を最も忠実に伝えるとされる肖像画や、座右の銘を記した書「敬天愛人」。西郷がその婚礼に尽力した篤姫が所有していた華麗な調度品には多くの 展覧会初公開品が含まれます。また幕府瓦解のきっかけとなった幕末の最重要史料「討幕の密勅」も登場。そして、あの有名な銅像「上野の西郷さん」の制作過程 を物語る新出写真まで、西郷隆盛の魅力のすべてを味わいつくす展覧会です。


報道がなされています。

まず、『東京新聞』さん。  

顔がない!上野西郷像 制作過程写真、初公開

 台東区・上野の東京芸大大学美術館で二十六日から始まるNHK大河ドラマ特別展「西郷どん」で、上野公園にある西郷隆盛像の制作過程の写真が初公開される。「顔が彫られておらず、肖像写真を残さなかった西郷の顔を表現するのに、苦労した様子がうかがわれる」と同美術館の黒川広子教授(近代工芸史)は話している。
 西郷像は東京美術学校(東京芸大の前身)の教授だった高村光雲が率いるチームが制作。肖像写真がないため、隆盛の実弟従道の顔写真や隆盛が着用した陸軍大将の軍服、肖像画などを参考にした。
 初公開の写真は、銅像の基にする木像を制作する過程で、犬を連れた和服姿の西郷隆盛像を正面から撮影。西郷と犬の顔がまだ彫られていなかった。左上部に、紙幣や郵便切手の図案制作などに携わったイタリア人銅版画家のキヨッソーネが描いた西郷の顔の絵もはめ込まれていた。
 黒川教授は「写真の使用目的は不明だが、西郷をよく知る人に印象を語ってもらうため、あるいは、制作の進捗(しんちょく)状況について資金を提供した関係者に報告するために、使ったのではないか」と推測する。
 写真は六月十七日まで公開される。


続いて『毎日新聞』さん。 

上野西郷どん “のっぺらぼう”の西郷像の写真初公開 東京・上野で特別展

 俳優の鈴木亮平さんが主演を務めるNHK003の大河ドラマ「西郷(せご)どん」の展覧会「NHK大河ドラマ特別展『西郷どん』」が東京・上野の東京芸術大学大学美術館で26日から開催される。「上野の西郷さん」の愛称で親しまれている西郷像の制作過程を示す古写真を初公開。写真は、木形制作の段階で西郷と犬の顔面が“のっぺらぼう”になっており、肖像写真を残さなかった英雄の面貌(めんぼう)をどう表現するのか、彫刻家の高村光雲率いる制作チームの苦労を今に伝える貴重な一枚になっている。
 同展はドラマと連動しながら、主人公の西郷隆盛ゆかりの歴史資料や美術品などにより、その人物像と激動の時代を浮き彫りにする。西郷の風貌を最も忠実に伝えるとされる肖像画や、座右の銘を記した書「敬天愛人」、西郷がその婚礼に尽力した篤姫が所有していた華麗な調度品など展示する。
 また幕府瓦解(がかい)のきっかけとなった幕末の最重要史料「討幕の密勅」も展示。犬好きの西郷が地元・鹿児島の住民から「白い犬ユキを借り受ける代わりに渡した」という逸話が残る刀装具も初公開される。
 開館時間は午前10時~午後5時(入館は閉館の30分前まで)。毎週月曜は休館。料金は、一般1500円、大学・高校生1000円。会期は7月16日まで。
 「西郷どん」は、明治維新から150年となる2018年に放送される57作目の大河ドラマ。薩摩の貧しい下級武士の家に生まれた西郷隆盛(吉之助)の愚直な姿に、カリスマ藩主・島津斉彬が目を留め、西郷は斉彬の密命を担い、江戸へ京都へと奔走。勝海舟、坂本龍馬ら盟友と出会い、革命家へと覚醒し、やがて明治維新を成し遂げていく……という内容。NHK総合で毎週日曜午後8時ほかで放送。


NHKさんの首都圏ニュースでも。 

「のっぺらぼう」の西郷像の写真

明治時代、東京・上野に西郷隆盛の像を作る過程で写された、顔が彫られていない「のっぺらぼう」の状態の木型の写真が残されていることがわかり、調査に当たった専門家は「顔写真が1枚もないなかで、顔の制作に苦労したことがわかる」と話しています。
この写真は、東京藝術大学大学美術館で10年ほど前に見つかり、その後、調査が進められてきました。
 縦16.5センチ、横10.5センチの紙に焼かれた写真には、東京・上野にある犬を連れた西郷隆盛の銅像とほぼ同じ姿の木型が写されていますが、西郷も犬も顔が彫られておらず、「のっぺらぼう」の状態になっています。
また、写真の左上には西郷の肖像画が付け加えられています。
 調査に当たった東京藝術大学の薩摩雅登教授によりますと、上野の西郷像は大学の前身に当たる東京美術学校が制作を進め、今回の写真は、銅像を作る前に試作した木型の途中の状態を写したと考えられるということです。
 銅像が完成したのは、明治10年の西南戦争で西郷が自害してから20年以上がたった明治31年で、薩摩教授は「西郷の死後、しばらくたっているうえに顔写真が1枚もない。肖像画から横顔などを想像して立体にするのはさぞかし大変だったと思う。写真からは顔の制作に苦労したことがわかる」と話しています。
この写真は、東京藝術大学大学美術館で26日から開かれる、大河ドラマ「西郷どん」の特別展で初めて公開されます。
 上野の西郷隆盛像は、明治31年に完成したあと、120年にわたって上野のシンボルとして親しまれていますが、制作は大きな困難を伴いました。
 東京藝術大学の薩摩雅登教授によりますと、西郷隆盛は明治10年の西南戦争で自害し政府から反逆者とされていましたが、市民の間で人気が根強く続いていたことから明治22年に大日本帝国憲法の発布にあわせて名誉回復が図られ、東京に銅像が作られることになりました。
 当初は馬に乗った軍服姿の予定でしたが、予算が足りなかったことや、西郷のいとこの大山巌の進言などによって、浴衣姿になったということです。
 制作には、高村光太郎の父親で日本を代表する彫刻家の高村光雲などが参加し、東京美術学校が総力を挙げて取り組みましたが、資料が乏しかったことから難航したと言います。
 特に苦心したのは顔の制作で、写真が1枚も残されていないなか、イタリアの画家キヨッソーネが描いた肖像画や、弟の西郷従道や大山巌の顔、それに西郷をよく知る人物の話を基に進められたということです。
 高村光雲は当時の新聞に、西郷と面識がなく肖像画しか残されていないなかで、顔を立体で表現する難しさについて語っています。
 銅像はこうした苦労の末に完成しましたが、除幕式で西郷の妻がその姿に不満を持ったというエピソードも残されています。

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早速、拝見に行って参りました。

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報道では「のっぺらぼう写真」の件が大きく扱われていますが、そちらは展示の
最後の最後。そこにたどり着くまで、西郷本人をはじめ、島津家の人々、大久保利通、天璋院篤姫ら、また、「敵側」だった彰義隊や新選組(当方、心情的にはこちらの側です)に関する資料などが実に豊富に展示されていました。展示リストはこちら

ちなみに最近流行の音声ガイドは、「西郷どん」で大久保利通役の瑛太さん。しかし、展示自体はあまりドラマを前面に押し出さない、「真面目な」ものでした。

問題の写真は下記左。こういうものが残っていたというのには驚きでした。ミュージアムショップで、ほぼ原寸大と思われるポストカードになって販売されていました。

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展示の解説パネル、それから図録(上記右画像)の解説文には、像制作時の光雲の苦心談が、明治32年(1899)の『中央新聞』に掲載されていると書かれていました。昭和9年(1934)の『小樽新聞』に載った苦心談は存じていましたが、『中央新聞』の記事は未確認で、調べてみようと思いました。

また、ミュージアムショップでは、西郷像を描いた錦絵をあしらったクリアファイルも販売していましたので、ゲットしました。2種類あり、A4三つ折りになっている豪華なものと、「チケットホルダー」なる細長い小型のもの。

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それぞれ勿体なくて実用は出来ません(笑)。

「のっぺらぼう」写真は6/17(日)までの展示。さらに東京展のあと、7月28日(土)~9月17日(月)で大阪展(大阪歴史博物館さん)、9月27日(木)~11月18日(日)には鹿児島展(鹿児島県歴史資料センター黎明館さん)も予定されています。それぞれ、また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

ミケランジエロこそ造型の権化である。造型の中の造型たる彫刻は、従つてミケランジエロの生来を語るものであり、ミケランジエロの他の営為――土木、建築、絵画、詩歌の類はすべて彼の彫刻家的幽暗の根源から出てゐる。

散文「ミケランジエロの彫刻写真に題す」より
昭和16年(1941) 光太郎59歳

自身も彫刻以外に、詩歌、絵画、書、建築、装幀、評論、翻訳など、実に様々な分野に大きな足跡を残しながら、やはり彫刻を第一考えていた光太郎。そうした部分では大先輩ミケランジェロを範としていたと思われます。

北海道から美術講座の情報です。

連続講座2018 彫刻探訪のススメ~150年物語

◎第1回 象・型・形-造形に探る凸オスと凹メス
 日時:6月3日(日) 10:30~12:00
 講師:寺嶋弘道(本郷新記念札幌彫刻美術館館長)
  *パスポートで鑑賞できる展覧会:第2回本郷新記念札幌彫刻賞受賞記念 加藤宏子展

◎第2回 銅像時代-明治150年の光と影
  日時:9月16日(日) 10:30~12:00
 講師:木下直之氏(東京大学大学院教授、静岡県立美術館館長)
  *パスポートで鑑賞できる展覧会:オペラの衣裳と舞台美術:煌く「アイーダ」の世界展

◎第3回 素材との出会い-彫刻制作40年
  日時:11月18日(日) 10:30~12:00
 講師:松隈康夫氏(彫刻家、札幌大谷大学教授)
  *パスポートで鑑賞できる展覧会:本田明二展 ひとノミひとノミ、私は木を削る

◎第4回 人と馬の彫刻-広場とアトリエの物語
  日時:2019年2月17日(日) 10:30~12:00
 講師:山田のぞみ(本郷新記念札幌彫刻美術館学芸員)
 *パスポートで鑑賞できる展覧会:コレクション展「本郷新の見た『異国』」

彫刻の見かた・楽しみ方を学び、芸術鑑賞の幅を広げる講座です。今年は明治改元から150年。西洋美術が本格的に紹介されて以来、造形芸術は大きな変貌を遂げてきました。素材や技法、テーマや表現内容、都市空間や産業との関係など、歴史を辿りつつ彫刻芸術のありようを探ります。

 ・展覧会パスポート付き
  受講生は彫刻美術館の展覧会をいつでも鑑賞することができます。
 ・会場:札幌市資料館 研修室
   札幌市中央区大通西13丁目
   (札幌市営地下鉄東西線「西11丁目駅」1番出口より西へ徒歩5分)
 ・受講料:3,500円(4展覧会のパスポート付)
  ※4回全て受講できない場合はご相談ください。
 ・定員:60名(先着順)

*主催:本郷新記念札幌彫刻美術館(札幌市芸術文化財団)
*道民カレッジ連携講座(1回1単位、全4単位)

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かなり専門的な内容の講座のようですが、それだけに充実したものになりそうです。

特に9月の第2回は、光太郎の父・高村光雲が制作主任として関わった上野の西郷隆盛像などにも触れられるようです。講師の木下直之氏は、銅像に関するご著書等が多数おありで、このブログでも以前に、『戦争という見世物 日清戦争祝捷大会潜入記』(平成25年=2013 ミネルヴァ書房)をご紹介しました。また、当方、平成23年(2011)に刊行された『東京の銅像を歩く』(祥伝社)という書籍も持っております。

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お近くの方、ぜひどうぞ。


西郷隆盛像といえば、明日、上野の東京藝術大学大学美術館さんで始まる企画展「NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」」で、西郷像の制作過程の写真が初公開されるとのこと。早速拝見に行きまして、レポートいたしますのでお楽しみに。
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【折々のことば・光太郎】

この「ダビデ」はもう単なる写実ではない。写実をしつかり踏まへた上での、もつと幅広な、もつと彫刻的本質の方に真剣な探求を志した、いはば美の原型への肉迫を事とした、さうして又如実逼真の現象性を超越した詩精神の高度な具象と放射とを体現した芸術である。

散文「「聖ジヨルジオ」と「ダビデ」」より
 昭和18年(1943) 光太郎61歳

「ダビデ」は、ロダン同様、光太郎が目標とした、ルネサンス期の彫刻家、ミケランジェロの代表作の一つです。

最大級の讃辞ですね。そして同時に光太郎が目指した彫刻のありようの一つの形が、この文から見て取れます。すなわち、「写実を超えた写実」。「言うは易し、行うは難し」ですが。

昨年、歿後百年を記念して公開されたフランス映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」のDVDが今月発売となり、入手、拝見しました。 

ロダン カミーユと永遠のアトリエ

2018年5月2日 コムストック・グループ 定価3,800円+税

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創った。愛した。それが人生だった。天才彫刻家ロダン没後100年記念作!
 1880年パリ。彫刻家オーギュスト・ロダンは40歳にしてようやく国から注文を受ける。そのとき制作したのが、後に《接吻》や《考える人》と並び彼の代表作となる《地獄の門》である。その頃、内妻ローズと暮らしていたロダンは、弟子入りを願う若いカミーユ・クローデルと出会う。 才能溢れるカミーユに魅せられた彼は、すぐに彼女を自分の助手とし、そして愛人とした。その後10年に渡って、二人は情熱的に愛し合い、お互いを尊敬しつつも複雑な関係が続く。二人の関係が破局を迎えると、ロダンは創作活動にのめり込んでいく。感覚的欲望を呼び起こす彼の作品には賛否両論が巻き起こり…。
 
《考える人》《地獄の門》で名高い彫刻家オーギュスト・ロダンの半生を、没後100年を記念して忠実に描いた伝記映画。
 近代彫刻家の父”と称されるロダンの没後100年を記念し、パリ・ロダン美術館の全面協力で製作された本作は、ロダンの製作過程の細部まで再現し、人間関係や当時のエピソードからロダンの内面まで掘り下げ映画化された。国立西洋美術館(《地獄の門》を常設展示)で、没後100年を記念した特別イベントを開催。今後も、横浜美術館で「ヌード NUDE ―英国テート・コレクションより」が開催され、その目玉として、ロダンの大理石彫刻 《接吻》 が日本初公開される。【2018年3月24日(土)~6月24日(日)】

ロダンと愛弟子カミーユ・クローデルの愛と葛藤の物語を官能的に描く。
 イザベラ・アジャーニ主演映画の大ヒットで人気の高い女流彫刻家カミーユ・クローデルの波乱に満ちた生き様がロダン視点で描かれる本作。カミーユが去った後ロダンは、愛をぶつけるようにモデルたちとの官能的な絡み合いを繰り広げていく。愛と苦悩の日々の末、近代彫刻の父が創り上げた最高傑作誕生の瞬間とは・・・ 監督は男女の激しい愛憎と心のかけひきの描写に定評のあるフランスの巨匠ジャック・ドワイヨン。主演は『ティエリー・トグルドーの憂鬱』でカンヌ国際映画祭、セザール賞の主演男優賞をW受賞したヨーロッパきっての演技派ヴァンサン・ランドン。


その若き弟子、カミーユ・クローデルとの愛憎を軸に、光太郎が終生敬愛した鬼才ロダンの彫刻にかける執念が描かれます。

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代表作「地獄の門」の制作中のシーンから始まります。

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門の一部、現在、横浜美術館さんで開催中の「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」で、大理石に写した像が目玉として展示されている「接吻」を前にする二人。今後の二人を暗示していることはいうまでもありません。

激しく求め合う二人ですが、ロダンは長年連れ添った内縁の妻、ローズ・ブーレと別れることも出来ません。

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彫刻の部分でも師の影から抜け出せず、カミーユの苦悩は深まり、やがて精神崩壊をきたします。ただ、以前も書きましたが、心を病んだ悲惨なカミーユの姿は、映画では描かれませんでした。象徴的に使われていたのが、カミーユの彫刻「分別盛り」の一部、「嘆願する女」。物語の終盤、ロダンが画廊でこれを見るシーンで、二人の関係の修復不可能な破綻、その後のカミーユの運命が暗示されました。

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他の登場人物として、モネやセザンヌ、光太郎が訳した『ロダンの言葉』の原典の一部を書いたオクターヴ・ミルボー。

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光太郎も岐阜まで会いに行った、日本人女優・花子

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ロダンの秘書も務めた詩人のリルケ。

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カミーユとの関係が破綻した後も、ある意味ロダンの肥やしとして必要だった若い女性たち。

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そして、人物以外にも、人物以上の存在感を放つ彫刻作品の数々。

「ヴィクトル・ユーゴー」。

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「カレーの市民」。

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「地獄の門」と、その一部の「考える人」。

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「ダナイード」。

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カミーユの「ワルツ」。

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そして「バルザック」。

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この「バルザック」において、ロダンはもはや「時代」を突き抜けてしまったという描き方になっていました。ラストシーンは、現代の箱根彫刻の森美術館さん。子供達が「バルザック」を使って「だるまさんが転んだ」で遊んでいます。時代を超え、国を超え、愛されるロダン作品、という演出でしょうか。

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ロダンは芸術家としては超一流、ところが人としては……という描写、しかし、そうでなければ生み出せなかった偉大な彫刻群、という意図も感じられます。光太郎に観せたかった一作です。

せひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンの作を見れば、直ちに人間を見る事が出来る。生きた人間に接した時よりも更に人間的な人間の力を見る事が出来る。

散文「MÉDITATIONS SUR LE MAÎTRE」より
明治43年(1910) 光太郎28歳

光太郎がロダンを評した文章のうち、初期のものの一つです。

このコーナー、筑摩書房『高村光太郎全集』からほぼ掲載順に言葉を拾っていますが、今回はロダンがらみの内容ということで、若干順番を変えさせていただきました。

花巻高村光太郎記念館さんから、市民講座の情報です。

光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ

期   日 : 2018年6月9日(土)
時   間 : 午前9時~午後3時20分
対   象 : 花巻市内に在住または勤務する方 小学生は保護者同伴
集 合 場 所 : 生涯学園都市会館(まなび学園)ロビー  貸し切りバスで移動
料   金 : 1,000円
問合・申込    : 高村光太郎記念館 0198‐28‐3012

高村光太郎の太田村山口で暮らした山村周辺の自然豊かな里山と展示作品を鑑賞します。
光太郎が日記に書き残していた、当時の自炊生活の食卓を再現して光太郎の世界を感じます。


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詳細日程
 8:50 まなび学園ロビー集合して受付  
 9:00 まなび学園発バス移動
 9:05 賢治詩碑・桜地人館見学(20分)
 9:25 桜地人館出発バス移動
 9:45 髙村光太郎記念館駐車場着
 9:50 高村山荘自然散策(50分)
      あじさいロード自然散策(ガイド)(5分) 
      高村山荘見学(ガイド)(10分)
      展望台見学(ガイド、本舘)(10分) 
      森のギャラリー見学(本舘)(10分)
      トイレ休憩(5分)
      「雪白く積めり」詩碑(ガイド)(5分)
      案内所まで(ガイド)(10分)
 10:40 駐車場集合 出発 バス移動 
 10:45 むらの家見学 祭りへの参加 (55分) 
 11:15 餅つき、魚つかみ体験、釜石交流など
 11:40 むらの家出発
 11:45 旧山口小学校見学(学校門札、ドーム、正直親切の看板など(10分)
 11:55 太田地区振興会館に徒歩で移動
 12:00 昼食会交流会
       光太郎レシピ紹介、受講者感想発表など
 13:00 太田地区振興会館出発バス移動 記念館へ 
 13:25 記念館企画室へ集合
 13:30 講話「光太郎と星」(20分)天文サークル星の喫茶室代表 佐々木一行氏
      DVD視聴(10分)  
      星座早見盤の使い方と星の話(20分) 伊藤 修氏
 14:20 記念館自由見学・休憩(40分)
 15:00 記念館出発バス移動
 15:20 まなび学園着 解散


高村光太郎記念館さん以外にも、市街桜町の光太郎が碑文を揮毫した賢治詩碑、桜地人館さん、太田地区の新農村地域定住交流会館・むらの家さん(ちょうどイベントが開かれているそうで、そちらに合流)、旧山口小学校跡地などを回るそうです。

高村光太郎記念館さんでは、昨年も行われました天文サークルの方によるお話(星の観察会はまた別個)などが盛り込まれていますし、昼食は光太郎記念館さん女性スタッフによる、光太郎が食べたメニューの再現だそうで、もりだくさんの内容です。

市内在住か勤務の方対象ですが、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

ああ研究! 研究とは何だらう! 柱の数を数へたり、敷石の色を調べたり、窓の大きさを計つたり、様式が何だの、時代が斯うだのと言つて騒ぎ立てるのが研究かしら。馬鹿馬鹿しいと思つた。

散文「ミラノの本寺とダ ヸンチの壁画」より
明治42年(1909) 光太郎27歳

光太郎はこの年の春、3年超の欧米留学を切り上げて帰国する前に、パリを出発してスイス経由でイタリアを1ヶ月ほど旅して回りました。この文章は帰国後に発表したものですが、現地のレポートを「××君」宛の書簡形式で書いたものです。「××君」は、荻原守衛あたりかと推察されます。

イタリアでは最初にミラノを訪れ、ミラノ大聖堂(ミラノの本寺)やスフォルツェスコ城、そしてサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会でレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を眼にしました。

上記はミラノ大聖堂の荘厳な建築を見ての一節。本当に美しい芸術作品を前にすると、こういう感懐にとらわれるものでしょう。

造形美術に限らず、音楽でも、文学でも、そうだと思います。

一昨日、昨日に引き続き、「ほんとの空」関連です。

まず福島の地元紙『福島民友』さんの連載記事「ふくしま湯けむり探訪」。 

ふくしま湯けむり探訪 【二本松市・奥岳温泉】 ほんとの空...抱かれて 開放感がいっぱい

 「ほんとの空」の下003、眼前に広がる雄大な自然と四季の移ろいを楽しめる露天風呂が、開放的で気持ちいいと聞いた。日本百名山・安達太良山の中腹にある二本松市岳温泉のさらに奥。曲がりくねった山道を約6キロ進み、たどり着くのが標高約950メートルに位置する奥岳温泉「あだたら山 奥岳の湯」である。
 施設は男女ともに内湯と露天風呂が各一つ。泉質は全国的にも珍しい酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、皮膚病への効能があるという。源泉は岳温泉と同じ鉄山付近にあり、約4キロの距離を引湯している。露天風呂の正面に囲いがなく、まるで自然と湯船が融合しているようだ。40人ほどが入れるという大きな長方形の湯船につかって深呼吸すると、体がすっと軽くなった気分になる。なるほど評判通りの開放感だ。
 安達太良山の標高は約1700メートルで、福島、二本松、郡山の3市と、大玉村、猪苗代町にまたがる。美しい山体が魅力的で、眺める場所によって山容が変わる。個人的には大玉村方面から眺める広々とした光景が好みだ。二本松市側のゴンドラリフトで薬師岳(標高約1300メートルほど)まで上れるため、初心者でも登りやすい。
 ◆要望に応え再開
 日本最古の和歌集「万葉集」では安達太良山について3首も詠まれ、古代の人々も印象深く捉えていた。詩人・彫刻家の高村光太郎は二本松市出身の妻智恵子との愛をつづった「智恵子抄」で、「あれが阿多多羅山~」(樹下の二人)や「阿多多羅山の山の上に毎日出ている青い空が 智恵子のほんとの空だという」(あどけない話)と触れている。
 主要登山口の奥岳には「あだたら高原スキー場」がある。1929(昭和4)年、岳温泉関係者が冬の誘客策としてスキーに着目し、開発が許可されて営業が始まった。規模拡大やリフト増設などが進んだが、運営会社が経営難に陥り、72年から富士山麓一帯の観光開発を進める「富士急行」(山梨県)に移行、新設された富士急安達太良観光(二本松市)の経営で現在に至る。
 「あだたら山 奥岳の湯」も安達太良観光が経営する。前身は77年から一軒宿として営業してきた「あだたら高原富士急ホテル」。東日本大震災で設備が壊れて廃業したが、同ホテル跡地を活用し、2015(平成27)年に日帰り湯として開業した。鷹取健二社長(51)は「富士急は地元の皆さんと手を携えて歩んできた。美しい四季が楽しめる安達太良山の魅力を広く発信したい」と意気込む。
 入湯客は登山者やスキー客ばかりかと思いきや、温泉目当ての人も多いという。「多くの人に癒やしのひとときを味わってほしい」。安斎誠支配人(53)は大玉村出身で、子どもの頃から安達太良山に親しみ、19歳から安達太良観光で働いてきた。震災後に温泉施設の営業が途絶え、再開を求める多くの声に励まされたという。利用客でにぎわう現在の光景に安斎さんは「やっぱり再開して良かった」と安堵(あんど)する。
 きょう20日は安達太良山の山開き。今年も多くの登山客の疲れを癒やすであろう湯船から「ほんとの空」を眺め、至福の時間に浸った。
 【メモ】あだたら山 奥岳の湯=料金は大人600円、子ども400円。日帰り入浴のみ。時間は午前10時~午後8時(11月中旬~4月中旬は同5時)。年中無休。
(2018/05/20)

平成27年(2015)に、中腹のロープウェー駅付近にオープンした温泉入浴施設、「奥岳の湯」が大きく取り上げられました。当方も一度入湯させていただきましたが、標高1,000㍍弱、開放感あふれるいい湯でした。


もう一件、やはり地元紙『福島民報』さんの一面コラム「あぶくま抄」、一昨日の掲載分です。

あぶくま抄 上昇気流

 米国人飛行家チャールズ・リンドバーグはニューヨークをプロペラ機で飛び立つ。正面に窓はなく、視界が遮られる構造だった。決死の挑戦は33時間余り続いた。初めて大西洋を単独無着陸で越え、パリに降りたのが91年前の5月21日だった。
 福島市在住のエアレースパイロット室屋義秀さんも初めは先行きを見通せなかったかもしれない。練習拠点のふくしまスカイパークは農産物を空輸する目的で誕生した。だが、事業はつまずく。周囲は不思議がった。なぜ負のイメージの強い場所を選ぶのか。「比較的自由に飛べるし、何より良い空だ」。屈託のない笑顔は20年前から変わらない。
 「時速400キロでガレージに駐車するようなもの」。ある選手は世界最速レースに求められる技術を、こう表現した。1000分の1秒差が勝敗を分ける。「ほんとの空」で磨いた技が過酷な世界で戦い抜く操縦を支える。
 今季も好調だ。世界に挑む「サムライパイロット」に福島からの声援が上昇気流をもたらす。26、27の両日には大会3連覇を目指して千葉の空をかける。昨年に続く総合優勝にも期待が高まる。希望の翼が今年も大きく広がろうとしている。
(2018/05/21)


「空のF1」とも言われる飛行機競技「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ」の室屋義秀選手に触れられています。奈良県ご出身の室屋選手、福島を練習拠点になさっており、「ほんとの空」と切っても切り離せないというわけです。

一昨年の第3戦・千葉大会で優勝し、一躍注目を集め、昨年はなみいる強豪を抑え、年間チャンピオンにも輝きました。今年もこれまで2戦を終えて3位につけ、次戦は今週末、験のいい千葉大会です。ぜひ3連覇を果たし、「ほんとの空」の語をさらに広めていただきたいものですね。


【折々のことば・光太郎】

彼はこつこつと地味な道を歩いた。彼は中世期的写実と古典的優雅とを婚姻させた。製作技法は徹底酷烈な写実で押し通し、主題の取扱や、布置意匠などに古典の美を取り入れた。彼は地上の人間に飽くなき興味を持ち、つひに天上の夢を知らなかつたやうな彫刻家である。

散文「ドナテロ小感」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

「ドナテロ」は14世紀から15世紀にかけてのイタリア人彫刻家。「ドナテッロ」、「ドナテルロ」とも表記されます。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ・ブオナローティら、ルネサンス彫刻家に先行し、彼等に影響を与えてもいます。

徹底酷烈な写実」、「地上の人間に飽くなき興味」といったあたり、光太郎の目指した彫刻の在り方にも通じるような気がします。光太郎自身も、仏像や女神像などをほとんど手がけず、「つひに天上の夢を知らなかつたやうな彫刻家」だったように感じます。

「花がさき 鳥がなき 風かおる ほんとうの空」を今年のキャッチコピーに冠した、智恵子の故郷・福島二本松に聳える安達太良山の山開きが、20日の日曜(今年は奇しくも智恵子の誕生日と重なりました)に開催されました。


NHKさんのローカルニュースから。

安達太良山で山開き

 福島県の中部にある安達太良山で山開きが行われ、家族連れなど大勢の人が登山やイベントを楽しみました。
 磐梯朝日国立公園内にある標高およそ1700メートルの安達太良山は、「日本百名山」の1つに数えられ、毎年、多くの登山客が県の内外から訪れます。
 山開きの20日、晴れ渡った青空のもと、家族連れや登山グループの一行は次々と登山道に入り、標高が高くなるにつれて残雪や氷ついている樹木が現れると、姿を変える山の景色を写真に収めていました。
また、山頂では、山開きを祝う記念のペナントが配られたり、女性登山者のコンテストが開かれたりして、にぎわっていました。
 郡山市からカップルで訪れた20代の女性は、「安達太良山の風景は、とても美しかったので、良い思い出になりました。次は磐梯山に挑戦したいです」と話していました。
また、祖母と山登りをしていた小学生の男子児童は、「初めて安達太良山に登りました。空気もきれいで楽しかったのでまた来たい」と話していました。
 警察では、例年5月ごろから山の事故が増え始めることから、事前に登山届けを出すことや、十分な装備、それに体調の管理や天候のチェックなどを呼びかけています。

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地元紙『福島民友』さんから。 

「安達太良山」山開きにぎわう 1万1000人参加、絶景を満喫

 福島県二本松市などにまたがる安達太良山(1700メートル)の山開きが20日行われ、青空の下、大勢の登山客が山頂で大パノラマを楽しみながら心と体をリフレッシュした。
 山頂付近では登山客が足元に注意しながら残雪を踏みしめ、記念イベントが開かれる山頂を目指した。友人と一緒に登山した福島市の保育士(29)は「会話をしながら楽しく登れた」と笑顔。主催者の安達太良連盟によると、山開きの参加者は昨年の1万3000人を下回る1万1000人となった。
 山頂でのミズあだたらコンテストには40人が参加。ミズに福島市の公務員遠藤由香子さん(29)、準ミズには郡山市の主婦橋本祐子さん(29)が選ばれた。遠藤さんは「同僚と来て、賞をもらえてびっくりしている」、橋本さんは「夫と2人の子どもを抱えて登ったかいがあった」と話した。

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毎年のように、一度は山頂まで登って、そこからの「ほんとの空」を観てみたいと思いつつ、まだ果たしておりません。今年こそは、と004考えております。みなさまもぜひどうぞ。


明日も安達太良山ネタで。


【折々のことば・光太郎】

製作家の側からいうと、ものを大きく見る力のあるということは一つの重要な資質(カリテ)である。ものを小さくしか見られないということは、製作家としての一つの劣性を意味する。これはむしろ製作以前の精神の特性によるものであるところにその運命的深さがある。

散文「古代エジプトの作品」より
 昭和28年(1953) 光太郎71歳

平凡社刊『世界美術全集 第四巻 古代エジプト』に寄せた作品解説4篇のうち、エジプト第四王朝時代の木彫「シエイク エル バラド」(村の有力者の像)解説中の一節です。

上記のような「大きく見る」見方が出来ている実例として紹介されています。

当方、美術の実作はやらないので、なかなか実感がわかないのですが、雄大な景観などで、「大きく見る」ことの重要性を感じることはあります。そういう意味からも、やはり安達太良山頂に行かねばと思います。

このブログで2月にご紹介しましたが、来月10日、福島県南相馬市をメイン会場に、「第69回全国植樹祭ふくしま2018」が開催されます。

今月中旬にはリハーサルが行われたそうで、その報道から。

まずは『福島民友』さん。 

全国植樹祭、福島の復興『演技』で表現 記念式典で高校生披露

 6月10日に南相馬市原町区雫(しどけ003)地区で開かれる「第69回全国植樹祭」で、県内の高校生が記念式典のメインアトラクションとしてミュージカルを披露する。郡山女子大付高で12日、出演する高校生が練習を行い、本県の復興と今を伝える演技を体いっぱいに表現、本番に向け士気を高めた。
 演劇部やダンス部を中心に、県内10校から約120人が出演する。郡山市を拠点に活動する劇団ユニット・ラビッツ代表で郡山北工高教諭の佐藤茂紀さんが演出を手掛け、2月中旬から練習を重ねてきた。
 ミュージカルは8分で、タイトルは「あどけない話のその向こう」。二本松市出身の高村智恵子の故郷への思いを夫である詩人高村光太郎がつづった智恵子抄の詩「あどけない話」を盛り込んだ。東京電力福島第1原発事故で「ほんとの空」を失ってしまった本県に若者が「希望の種」をまき、復興に向け、前に向かって進んでいく姿を描いた物語を繰り広げる。
 生徒は舞台監督小林イワヲさんらの指導の下、練習に臨んだ。智恵子役の平舘果菜絵さん(18)は「これからも復興に向かって進む福島の力を伝えていきたい」と力を込めた。
 全国植樹祭のエピローグで行われる相馬流山踊りをモチーフにした創作ダンスの練習も行われた。ミュージカル出演者を含む県内12校の生徒が太鼓の演奏に合わせて踊りに磨きを掛けた。
 13日には南相馬市で総合リハーサルが行われる。
(2018年05月13日)


続いて『福島民報』さん。  

本番へ迫真の演技 全国植樹祭出演生徒、衣装初着用 郡山 

 6月10日に南相馬市で開催される全国植樹祭のメインアトラクションとエピローグアトラクションに出演する高校生は12日、郡山市の郡山女子大付属高で合同練習に臨んだ。植樹祭で着用する衣装を初めて着込み、本番さながらに迫真の演技を披露した。
 メインアトラクションは音楽劇で、県内高校の演劇部やダンス部に所属する生徒約120人が参加する。生徒は主人公の智恵子や光太郎、希望を植える少女、失望を掘る少年、大地、空などに扮(ふん)し、県民が未来に向かって歩み続ける姿を力強く発信する。
 12日は生徒約90人が振り付け担当や衣装デザイナーから指導を受けた。全身をいっぱいに使って、それぞれの役割を表現し、会場には若者たちの熱気が満ちた。

(2018年05月13日)

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天皇皇后両陛下をはじめ、多くの方々に観ていただくメインアトラクションで、光太郎智恵子をモチーフとしたミュージカルが上演されるということで、嬉しい限りです。

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『民友』さんの記事にある佐藤茂紀さん。もしかして今回のプロジェクトに絡んでいるかな、と思っていたらその通りでした。東日本大震災とそれに伴う福島第一原発の事故後、やはり高校生たちによる演劇「この青空は、ほんとの空ってことでいいですか?」、さらに続編の「この青空は、ほんとの空ってことでいいですか? 第二章ばらあら、ばらあ」を上演なさいました。

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ぜひ拝見したいと思っておりましたが、すでに昨年のうちに福島県内在住者に限っての参加者募集が終わっており、会場内には入れませんで、途方に暮れておりました。すると、県内5ヶ所に「サテライト会場・PR会場」が設けられ、プラス南相馬市内でもメイン会場以外の2ヶ所で、それぞれ式典の模様が中継されるとのこと。

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サテライト会場  ふくしま県民の森 フォレストパークあだたら(大玉村)
PR会場     福島駅東口駅前広場 会津総合運動公園
         郡山駅西口駅前広場/白河駅前イベント広場
南相馬市中継会場 鹿島学習センター(さくらホール)、南相馬市民文化会館(ゆめはっと)

式典の中継は14:20から15:10までですが、その前後に「プロローグ」、「エピローグ」があるそうです。
 

当方、いずれかの会場に参上します。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

わたしは終戦後七年ほど、岩手県の農村で生活をしていたが、その村の人たちのやさしい、正直な気持ちをいつも忘れることができない。その村では、とうとう一度も殺ばつななぐり合いや、人をあざむくことをみききしたことがなかつた。

談話筆記「おおらかで正直な心」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外太田村への讃辞です。光太郎の山小屋に、村人たちが別棟の便所を建ててくれたエピソードを紹介し、念のこもった丁寧な仕事で結局一年がかり、決して早い仕事ぶりではなかったものの、慌ただしい生活を送る都会の人々こそ、こうした東北人気質――イギリス人気質にも通じる――を学ぶべきだとしています。

テレビ放映情報です。

TOKYOディープ!「山の手と下町 ふたつの記憶が残る街 千駄木」

NHK BSプレミアム 2018年5月21日(月)  12時00分~12時30分

千駄木は山の手と下町、ふたつの顔を持つ。かつて財閥当主が住んだ、ため息が出るほど美しい屋敷。現在は地元ボランティアによって守られている。元従軍看護婦たちが使っていた蔵。今は映像や音声など、地元住民の“記憶”を保管するために使われていた。その蔵で、千駄木の和菓子屋が作った貴重なアニメを拝見。千駄木には“本の街”という顔も。月に1回ほどライブを開く古書店や、「製本カフェ」というユニークな店などを紹介。

【出演】篠原ともえ 【語り】モト冬樹

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先週、5月14日(月)夜に本放送がありまして、再放送です。

光太郎をはじめ、多くの文豪が暮らした街という紹介をして下さいました。

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もっとも、「光太郎をはじめ」ではなく、「夏目漱石、森鷗外をはじめ」で、光太郎はその他大勢扱いでしたが(笑)。

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画面片隅には、智恵子がらみの「『青鞜』発祥の地」も。

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ナビゲーターは、篠原ともえさん。

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さらに番組前半では、伝説の地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(通称『谷根千』)を作られていた山﨑範子さんもご出演。同誌では繰り返し光太郎、光雲、智恵子を取り上げて下さり、当方、バックナンバー10冊ほど所蔵しております。

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昨年文庫化された、『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』や、『「谷根千」地図で時間旅行』などの著者・森まゆみさんも『谷根千』中心メンバーでしたので、昔の映像の中にご登場。

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山﨑さんのご案内で、光太郎の実家である髙村光雲・豊周邸に隣接する旧安田楠雄邸が大きく取り上げられました。

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また、山﨑さんの現在の活動拠点である「記憶の蔵」。『谷根千』編集時に集めた資料などが保管されており、現在、一般公開に向けて準備中だそうです。公開されたら真っ先に行ってみようと思いました。

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その他、団子坂を下りて下町エリアに入ると、千駄木は「職人の街」でもあるということで、女性の職人さんが活躍する左官屋さん、不思議な取り合わせのパン屋さん兼花屋さんなどが登場、最後に「本の街」ということで、音楽ライブを営業中に開催する古書店さん、特徴的な配架をなさっている新刊書店さん、クラウドファンディングで製本機を購入したカフェさんなども紹介されました。

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まさにさまざまな文化の部分で「ディープ」。篠原さんも感心しきりでした。

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ぜひ御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

笑うなら笑いが天の美ろくであるように、泣くなら涙が夜明けの露であるようにと切に思う。

散文「私のきいた番組」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

ラジオ放送に関する評論です。出演者の声調や、ラジオでの詩の朗読など、多方面に話題が及びます。そして番組の中で、「むやみと卑屈に笑う人が多いのは病的なものを感じさせる」、「世にいう豪傑笑いというものも多く心の強さをあらわさないで心の空虚さを示す」、「われわれは小泉八雲もいつた通り少し不可解に笑いすぎる」などといった部分の後に出て来るフレーズです。

現今の、特にバラエティー系のテレビ番組がまさにそうですね。ただ、BS放送等の充実で、「TOKYOディープ!」のような落ち着いた番組も増え、ありがたいところではあります。視聴率は取れないのでしょうが、こうした良質な番組が絶えることの無いようにしていただきたいものです。

昨日は、千葉市の朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾千葉教室さんでの公開講座、「愛の詩集<智恵子抄>を読む」の講師を務めさせていただきました。

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もともとこちらで短歌の講座をお持ちの、歌人にして明星研究会の松平盟子氏にご紹介いただき、松平氏とご一緒に講師を仰せつかりました。

受講してくださった方は10名。平日の昼間、受講料もそこそこの料金でしたが、ありがたいかぎりです。文芸誌『青い花』に、「断片的私見『智恵子抄』とその周辺」というエッセイや、毎年ご参加下さっている連翹忌のレポートなどを寄稿して下さり、「2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留」、「第5回 春うららの朗読会」、「響きあう詩と朗読」などの朗読公演で、光太郎詩の朗読や自作の脚本による朗読劇「智恵子さん」などに取り組まれている、宮尾壽里子さんが、遠く埼玉から駆けつけて下さいました。ありがたや。

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松平氏は、与謝野夫妻の雑誌『明星』における光太郎、それぞれに光太郎智恵子と縁のあった与謝野夫妻、石川啄木・節子夫妻、岡本一平・かの子夫妻と光太郎夫妻の比較、三期に分かれる光太郎短歌の魅力、「智恵子抄」所収の詩のご紹介などのお話をなさいました。

当方は、光太郎智恵子の略歴、詩集「智恵子抄」の成立と、その受容の歴史といったことについてお話しさせていただきました。

太平洋戦争開戦前夜の昭和16年(1941)8月、出版社龍星閣主・澤田伊四郎のすすめで編まれたオリジナルの『智恵子抄』は、「男女七歳にして席を同じうせず」と言われ、見合い結婚が約7割だった時代に、燃えるような恋愛を謳った詩集として驚きをもって迎えられ、戦争の影響で龍星閣が休業する昭和19年(1944)までに13刷もの版を重ねました。

象徴的なのが、冒頭に配された詩「人に」(明治45年=1912)の、さらに冒頭に掲げられた一節「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」。これは男性である光太郎が女性である智恵子に語りかけるフレーズですが、男女が逆転し、戦時の女性たちは出征する男性たちに「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」という思いを抱き、しかし、それを口に出すことは憚られていた、その思いを託して読み継がれたとも言われています。

戦後、光太郎自身は「ものにならない」だろうと澤田に書き送った『智恵子抄その後』(昭和25年=1950)、龍星閣の戦後復元版、さらに光太郎が歿した昭和31年(1956)の廉価な新潮文庫版『智恵子抄』などが続々刊行され、「智恵子抄」はますます広まり、やはり多くは「純愛の詩集」と受け止められ続けました。講座の受講者の中にも、お父様がお母様に贈った『智恵子抄』をご持参下さった方もいらっしゃいました。

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そうした「純愛の詩集」的な讃美に異を唱えたのが、まずは吉本隆明。「智恵子の姿が見えない光太郎の一人相撲」的な見方を示し、その後、ウーマンリブ系・ジェンダー論系の人々に受け継がれました。光太郎は「似非フェミニスト」「意識せざる男尊女卑論者」、智恵子はその「光太郎によって作り上げられた虚像、犠牲者」、「智恵子抄」は「贖罪の詩集」などという構図です。そこまで過激ではなくとも、小説『智恵子飛ぶ』を書かれた津村節子さんなどは、光太郎が智恵子を聖化しすぎ、智恵子は息が詰まっただろうとおっしゃっています。

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当会顧問にして晩年の光太郎に親炙した北川太一先生は、過激なジェンダー論などに疑問を呈し、戦後、続々と見つかった智恵子自身の文章や書簡、同時代人の証言などをもとに次のように述べられました。

はじめこの詩集は光太郎の一方的な思いこみにすぎず、光太郎の声だけしか聞こえない単なる幻想の産物だと批判した者もあった。しかし智恵子に関する資料が徐々に発掘され、智恵子が肉声で語りはじめるにつれて、その生の軌跡はますますリアリティを加え、文学としての評論、創作はもとより、ドラマ、オペラ、歌曲、舞踊、邦楽等々芸術のあらゆる分野の作者、演技者を動かし、それぞれがそれぞれの思いを込めて、その問いかけに答えようとする。  (『芸術夢紀行シリーズ 智恵子抄アルバム』 芳賀書店 平成7年=1995)

このあたりを受け、当方、「智恵子抄」の「抄」とは何か、というお話もさせていただきました。「抄」の漢字は、「すくいとる」「書き抜く」という意味で使われるのが一般的で、「戸籍抄本」 「抄録」などがその例です。つまり「智恵子抄」は、「光太郎全文筆作品の中から、智恵子に関するものをすくいとり、抜き書きしたもの」となります。しかし、それだけでなく、「ここに表されている智恵子は、智恵子という人間のすべてではなく、その抄録なのだ」という光太郎のメッセージも込められているような気がします。

「智恵子抄」の詩の中には、心を病んだ智恵子のそれほど具体的な描写がありません。せいぜい以下のようなところです。
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 尾長や千鳥が智恵子の友だち
 もう人間であることをやめた智恵子に
 恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
 智恵子飛ぶ
  (「風にのる智恵子」より 昭和10年=1935)


 人間商売さらりとやめて、
 もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
 うしろ姿がぽつんと見える。
  (「千鳥と遊ぶ智恵子」より 昭和12年=1937)


 智恵子は見えないものを見、
 聞えないものを聞く。

 智恵子は行けないところへ行き、
 出来ないことを 為 る。

 智恵子は 現身うつしみ のわたしを見ず、
 わたしのうしろのわたしに焦がれる。

 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

 わたしをよぶ声をしきりにきくが、
 智恵子はもう人間界の切符を持たない。
   (「ひがたき智恵子」全文 昭和12年=1937)


 半ば狂へる妻は草を 藉 いて坐し
 わたくしの手に重くもたれて
 泣きやまぬ童女のやうに 慟哭どうこく する
 ――わたしもうぢき駄目になる
  (「山麓の二人」より 昭和13年=1938)


ところが、同時期に明星系の歌人・中原綾子に送った手紙には、智恵子の病状がかなり詳細に記されています。

ちゑ子の狂気は日増しにわろく、最近は転地先にも居られず、再び自宅に引きとりて看病と療治とに尽してゐますが、連日連夜の狂暴状態に徹夜つづき、さすがの小生もいささか困却いたして居ります。何とか方法を講ずる外ないやうに存じます。
  
此を書いてゐるうちにもちゑ子は治療の床の中で出たらめの讒言(うはごと)を絶叫して居る始 末でございます。看護婦を一切寄せつけられぬ事とて一切小生が手当いたし居り殆ど寸暇もなき有様です。

一日に小生二三時間の睡眠でもう二週間ばかりやつてゐます。病人の狂躁状態は六七時間立てつづけに独語や放吟をやり、声かれ息つまる程度にまで及びます。拙宅のドアは皆釘づけにしました。往来へ飛び出して近隣に迷惑をかける事二度。器物の破壊、食事の拒絶、小生や医師への罵詈、薬は皆毒薬なりとてうけつけません。

病人は発作が起ると、まるで憑きものがしたやうな、又神がかり状態のやうになつて、病人自身でも自由にならない動作がはじまります。手が動く首がうごくといつたやうな、病人の独語または幻覚物との対話は大抵男性の言葉つきとなります。或時は田舎の人の言葉、或時は候文の口調、或時は英語、或時はメチヤクチヤ語、かかる時は小生を見て仇敵の如きふるまひをします。


こうした点、さらには他の点も含め、「「智恵子抄」に表されている智恵子は、智恵子という人間のすべてではなく、その抄録なのだから、その他の部分は想像して下さい」という、光太郎の意識が、「抄」の一字に垣間見えます。もともと龍星閣の澤田が「詩集 智恵子」という題名を提案したところ、光太郎本人が「抄」の一字を付け加えることを提案したそうです。

それを受けての北川先生の「芸術のあらゆる分野の作者、演技者を動かし、それぞれがそれぞれの思いを込めて、その問いかけに答えようとする。」の発言なわけです。

そこで当方、「芸術のあらゆる分野の作者、演技者」の皆さんによる、「智恵子抄」二次創作も、いろいろとご紹介させていただきました。小説、漫画、映画、舞台演劇などの文芸系、造形作品系、音楽・舞踊系など。このあたりの内容が、一般の方にはかなりくいつきがいいというのもありましたが。

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そんなこんなで約1時間半。いい機会を与えて頂きました。松平様、朝日カルチャーさんに大感謝です。手前味噌で恐縮ですが、こうした講座の講師等、日程さえ合えば全国どちらででもお受けいたします。ぜひお声がけください。


【折々のことば・光太郎】

農こそ人間の根本的な本業であり、農こそ人間生活の根幹であり、他の一切の人間活動はそれに附随するアクセサリーに過ぎない。農は人間と自然との合力であり、合体であり、最も深いところから人間精神を支え、人間文化の花を咲かせる活動源である。

散文「農にほこりをもて」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像」制作のため、再上京した翌年の文章から。花巻郊外太田村で農作業に取り組み、まがりなりにも野菜類は自給できていた光太郎の言葉。重いものがあります。

昨日昼過ぎ、買い物等のため地元で愛車を走らせていました。地元でしたので、カーナビ画面は地図ではなくテレビ画面、NHKさんの「サラメシ」でした。すると、ニュース速報のチャイム。「何事だ?」と画面に目をやると、「西城秀樹さん死去」の文字。「あらららら」という感じでした。

共同通信さんの発表から。

歌手の西城秀樹さんが死去 新御三家で人気、俳優でも活躍

 「傷だらけのローラ」「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」などのヒット曲で知られる歌手の西城秀樹(さいじょう・ひでき、本名木本龍雄=きもと・たつお)さんが16日午後11時53分、急性心不全のため横浜市内の病院で死去した。63歳。広島市出身。葬儀・告別式の日程は未定、喪主は妻木本美紀(きもと・みき)さん。
 中学生のころからバンド活動を始め、16歳のときに「恋する季節」(1972年)でデビュー。73年の「情熱の嵐」がヒットして人気に火が付き、同時期にデビューした郷ひろみさん、野口五郎さんとともに「新御三家」と呼ばれた。ドラマや映画などで俳優としても活躍。


テレビのニュース映像から。

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西城さん、二度目の脳梗塞で倒れられた後の平成27年(2015)、渋谷Bunkamuraシアターコクーンさんで開催された「世界・日本名作集よりリーディング名作劇場「キミに贈る物語」~観て聴いて・心に感じるお話集~」 に出演され、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)の、初出発表形(102行のロングバージョン)を抜粋して朗読して下さり、その不屈のチャレンジが、その当時のニュースになりました。


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まだ63歳だったとのこと。太く短く、激しく駆け抜けられた一生だったように思われます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

ぼくも妻を亡くしたが妻は「元素」となつてぼくの身の回りに生きている。愛すれば愛するほど亡くなつた人は生きている。悲しいときには無性に悲しいものだ。これ以上悲しいことはない、ドン底だと思うけれど、それが後には光りに変るものです。この悲しみが人を清らかに高くする。死んでしまえば魂も消えてしまうと思うのはごく小さな考えだ。

談話筆記「悲しみは光と化す」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

大正天皇第二皇子・秩父宮雍仁親王の追悼談話です。西城さんご遺族にこの言葉を贈ります。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村での第61回高村祭に参加して参りまして、花巻高村光太郎記念館さんの新しいパンフレットをゲットして参りました。A4判、三つ折り、オールカラー。

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今年度のスケジュールが掲載されています。

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大きなところとしては、以下の通り。

まず来月、市民講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」が企画されています。また近くなりましたら精しくご紹介しますが、貸切バスを使い、花巻市街の桜地人館さん見学、郊外の里山散策、昨年も行われました天文サークルの方によるお話(星の観察会はまた別個)などが盛り込まれています。

7月14日からは、企画展「光太郎と花巻電鉄」。かつて花巻とその郊外の村々を結び、二つの路線が走っていて、光太郎もたびたび利用したた花巻電鉄にスポットを当てます。このブログでフライング気味に何度か紹介してしまって、関係の方にご迷惑をおかけしてしまっていたのですが、ジオラマ作家の石井彰英氏にご協力いただき、光太郎が暮らしていた頃の昔の花巻とその周辺のジオラマを制作していただいており、そちらが展示される予定です。

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秋には2回目の市民講座「光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ」、12月からは次の企画展「光太郎の食卓」。

昨年刊行された『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんに、高村光太郎記念館さんの協力で、毎号、「光太郎レシピ」というページが設けられています。太田村在住時の日記などから、光太郎の食卓を再現する試みで、好評を博しているとのこと。そのあたりともリンクするようです。

こちらが先月発行のマチココさん第7号。まだこのブログでご紹介していませんでした。

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今号は「鶏ガラスープ入りカレーピラフとヤキトリ」。実に美味しそうです。


ついでと言っては何ですが、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』も、昨年度から引き続き、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載を続けて下さっていますのでご紹介します。こちらも高村光太郎記念館さんのご協力が入っています。

最新号の2018年5月号。

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「ことば」は光太郎詩「五月のウナ電」(昭和7年=1932)、挿画は太田村在住時に光太郎が描いたスケッチ帖の中から、薬草としても使われる「ナットウダイ」。


ちなみにマチココさんでは、ジオラマのご紹介もして下さるそうですが、その他、多方面で光太郎智恵子、もっともっと盛り上がって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

美しい生活いふのは伸縮自在なやうに生活を調整して、うしろ暗い事が心に存在せぬ生活である。さうすると自然に生活の外形も美しくなる。無理をした立派さほど醜いものはない。

散文「美しい生活」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

タウン誌のはしりのようなものでしょうか、光太郎が暮らしていた太田村の隣村・湯口村の久保田良致という人物が発行していた謄写版の冊子『若い感覚』に寄せた文章の一節です。

自らの山小屋暮らしを念頭に語っていることはいうまでもありません。

光太郎第二の故郷・岩手花巻の旧太田村で昨日開催された第61回高村祭。地元紙『岩手日報』さんのサイトには、昨日のうちに報道がアップされました。 

光太郎しのび歌や作品朗読 花巻で高村祭

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1900356年)をしのぶ第61回高村祭(高村光太郎記念会など主催)は15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で開かれた。地域住民や県内外のファンら約650人が参加し、多くの名作を生んだ光太郎への敬慕の思いを寄せた。
 光太郎と交流のあった太田小に通う高橋文耶君と照井美空(みく)さん(ともに2年)が詩碑に献花。西南中1年生が「西南中学校精神歌」を歌うなど地元の児童生徒たちが光太郎作品を披露し、地域住民らが座談会で思い出を語り合った。
 光太郎は戦災のため花巻に疎開し、45年5月15日から約7年間を過ごした。


同じく地元紙『岩手日日』さんは、最近、有料会員登録をしないと記事全文が読めなくなってしまっており、割愛します。


サイトで確認できたのは、今日になって『朝日新聞』さんの岩手版。 

花巻で61回目の「高村祭」

 彫刻家で詩人の高村光太004郎が戦時中、東京から岩手県花巻市に疎開した日を記念した「高村祭」が15日、同市太田の高村山荘周辺であった。約500人の参加者が詩碑の前で光太郎の詩を朗読したり思い出を語ったりして、その芸術と人柄に思いを寄せた。

 「花巻高村光太郎記念会」の主催。光太郎の死後、山荘近くに詩碑が除幕された1958年から続いて今年で61回目になる。晴天に新緑が輝く中、地元の西南中学校の生徒らが、光太郎の「雪白く積めり」などを朗読した。

 1945年から7年間、花巻で暮らしていた当時、光太郎と交流があった地元の4人による座談会もあった。光太郎から短歌を学んだという高橋愛子さん(86)は「(山荘の独り暮らしで)寂しくないですかと聞いたら『智恵さん(亡妻の智恵子)がいるから』と話していた」と懐かしんでいた。(溝口太郎)


テレビニュースの動画で、岩手めんこいテレビさん。

高村光太郎をしのぶ 詩人で彫刻家

詩集「智恵子抄」などで知られる、詩人で彫刻家の高村 光太郎の功績をしのぶ「高村祭」が、岩手・花巻市で開かれた。
高村 光太郎は1945年の5月15日、花巻市に疎開し、この地で7年間過ごした。
「高村祭」は光太郎の功績をしのんで毎年行われていて、高村山荘の近くの会場にはおよそ600人が集まった。
15日は、近くの太田小学校の児童や花巻北高校の生徒が、光太郎の詩を朗読した。
光太郎に短歌を教わった高橋愛子さんは、「『愛子さんも(短歌を)書いてみたら』と言われた。(光太郎に見せたら)自分の書いたところが直されて無かった。とにかく何でも知っている人だった」と語った。
参加した人たちは、花巻を愛した偉大な芸術家に思いをはせていた。

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プログラム中の座談会でもお話しいただいた高橋愛子さん。単独インタビュー(笑)。

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それから、『読売新聞』さんも、顔見知りの北上支局長さんがいらしていましたので、記事になっているか、これからなるのか、当方自宅兼事務所隣町の成田市立図書館さんに行けばオンラインサービスで調べられそうですので、近々行ってみます。

暗いニュース、腹立たしい報道が多い中、こうしたニュースであふれてほしいものですね。


【折々のことば・光太郎】

もともと彼は捨身飼虎の菩薩に外ならず、死の数時間前にさえ、訪問してきた一農人の為にわざわざ二階の病室から下りて農事の相談に応接したほどの、殆と仏に近い人であつた。私の見るところでは宮澤賢治の食生活は確に彼の身を破り彼の命数を縮めた。宮澤賢治に限らず、かういふ最低限食生活をつづけながら激しい仕事をやつてゐたら、誰でも必ず肋膜にかかり、結局肺結核に犯されて倒れるであらう。「玄米四合ト味噌ト少シノ野菜」の問題は重大である。

散文「玄米四合の問題」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

自分より13歳年下ながら遙かに早く夭折した天才・宮澤賢治を、光太郎は敬愛して已みませんでした。しかし、有名な「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」の部分には納得いかなかったようで、いろいろな箇所でこれではいかんと発言しています。日本人と欧米人との体格差という部分が、戦後のこの時期に特に気になったのではないでしょうか。後半では日本にもっと肉食や牛乳飲用が広まることを期待し、酪農を勧める提言もしています。

先ほど、1泊2日の行程を終えて岩手花巻より帰って参りました。本日、彼の地の光太郎が戦後7年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)敷地にて、第61回高村祭――昭和20年(1945)の5月15日、東京駒込林町のアトリエを空襲で失った光太郎が宮沢賢治実家の誘いで花巻に疎開するため、上野駅を発った日を記念しての――が行われ、そちらに参加して参りました。

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昨日、千葉の自宅兼事務所を出まして、東北新幹線新花巻駅に降り立ち、レンタカーを借りて高村山荘脇の花巻高村光太郎記念館さんに。今日の高村祭の打ち合わせを致しました。その後、ほぼ定宿と化している大澤温泉菊水館さんに宿泊しました。今回、デジカメをかねて使用しているスマホを自宅兼事務所に忘れて行き、昨日分についての画像がありません。新緑に包まれ、カジカガエルの声響く大澤温泉さんの画像を載せたかったのですが……。

一夜明けて、今日。午前10時から高村祭でした。

以下掲載の画像は、花巻光太郎記念館さんの方からメールで送っていただきました。ありがたや。

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まず、山荘近くで光太郎がよく訪れ、交流が深かった山口小学校が統合された太田小学校の児童さんによる光太郎詩碑・遺影への献花と、花巻東高(かの菊池雄星・大谷翔平などを輩出した高校さんですね)茶道部の生徒さんによる献茶。ちなみに詩碑の地下には当会顧問・北川太一先生が寄贈された、光太郎が亡くなった時の遺髯が埋められています。

西南中学校――こちらは光太郎が「心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する」という言葉を贈った旧太田中学校が統合された先です――の生徒さんの先導で、詩碑に刻まれた光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)を、参会者全員で朗読。

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佐藤進花巻高村光太郎記念会長、上田東一花巻市長のごあいさつ。

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太田小学校2年生の児童さんたちの器楽演奏、旧山口小学校校歌斉唱、詩「案内」(昭和25年=1950)の群読。かつて光太郎が旧山口小学校に楽器一式を寄贈したことにちなんで、器楽演奏が綿々と続けられています。

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西南中学校1年生生徒さんたちによる「西南中学校精神歌」斉唱、詩「山林」(昭和22年=1947)からの群読。

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花巻北高校と花巻高等看護専門学校の代表生徒さんによる光太郎詩朗読。

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看護学校の皆さんは、光太郎詩にメロディーを付けた「最低にして最高の道」、「リンゴばたけに」、それから佐藤進花巻高村光太郎記念会長作詞の「花巻の四季」の合唱も披露して下さいました。

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この後、メインイベントともいうべき、座談会「思い出の光太郎先生」。この地で暮らしていた頃の光太郎をご存じの方4名に、当方がインタビューしたり、話を振ったりしつつ、光太郎との思い出を語っていただきました。

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昭和6年(1931)生まれの高橋愛子さん。光太郎が暮らしていた当時の村長さんの娘さんで、光太郎詩のモデルにもなった方です。昭和24年(1949)、山口小学校の学芸会に、サンタに扮した光太郎がサプライズで登場した際の、サンタの衣裳を、お母様と愛子さんが光太郎の指示で縫ったとのこと。赤い布は襦袢、白い髯は羊の毛だったそうです。

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藤原秀盛さん。昭和2年(1927)生まれ、御年92歳。戦後に入植者が拓いた開拓地――元々の山口集落の西側――にお住まいで、地域に伝わる「かせ踊り」の名手、実演もご披露下さいました。戦後すぐ、仲間と踊りの練習をしていたところ、その歌舞音曲を聞きつけた光太郎がふらりと現れ、その踊りのための面――十二支をかたどった――を彫る約束をしてくれたのに、それが果たされなくて残念、というお話でした。また、昭和24年(1949)、光太郎の山小屋に電線を引く工事の手伝いもされたとのこと。当方、藤原さんを除くお三方のお話は何だかんだで以前にも伺っていましたが、藤原さんのお話は初めてでした。

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光太郎が山口集落にいた頃の山口小学校児童だった、高橋征一さんと浅沼隆さん。学芸会の思い出や、山小屋での光太郎の様子、山小屋裏手の智恵子展望台から、福島の方に向かって「チエコー」と叫んでいた光太郎などのお話を頂きました。

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前列右から二人目が高橋征一さん、後ろの窓から顔を出しているのが浅沼隆さんです。

昨年までは、講演という形で行っていたのですが、今年初めてこのような座談会の形式をとり、初の試みだったもので、どうなることかと不安もありましたが、終わってみれば好評でしたので、胸をなで下ろしております。

昼食休憩をはさんで、午後の部は演芸会的に、地元の皆さんのステージ。トップバッターは、これもおそらく今年初めてではないかと思うのですが、花巻農業高校鹿踊部の皆さんによる春日流鹿踊の演舞。迫力満点の勇壮なものでした。

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その後、太田神楽。笛は花巻高村光太郎記念会事務高橋事務局長。先月、当会主催の連翹忌でも笛の演奏を
していただきました。

ここまで聴いたところで、退散。もう少しゆっくりしたかったのですが、家の事情もありまして……。

今後とも、この地での光太郎を偲ぶこの高村祭、綿々と受け継がれていって欲しいものです。今日の高村祭にしても、泉下の光太郎もきっと喜んでいることでしょうし。


【折々のことば・光太郎】

日本は国を挙げて生活即芸術の方向に進んで、人類最善の理想国をやがて樹立せねばならないが、その基本となるべきは自然を常住の相手とする農そのものである。

散文「第四次元の願望」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

花巻郊外太田村の山小屋に移り住み、宮沢賢治の精神に共鳴し、自らも農に取り組み始めた昭和21年(1946)春の発言です。結局、穀物類は配給や村人の援助に頼らざるを得ませんでしたが、野菜類はほぼ自給に成功しました。そうした生活が、光太郎の人間としての幅をまた大きくしたように思われます。

智恵子の故郷、福島二本松に聳え、その上に広がる空が「智恵子のほんとの空」だという安達太良山関連で2件、情報を。

まずはムックの新刊……といっても2月の発行ですが。

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 よりみち百名山 
  猪苗代ライジングサンホテルヴィライナワシロ、
  米澤屋 ほか

安達太良山
 深田久弥 『日本百名山』 安達太良山
 プランニングガイド 山頂駅から登りくろがね小屋を経て奥岳温泉
 プラス1 滝を見ながらたどる安達太良山の渓谷コース 
 自然図鑑 ムラサキタカネアオヤギソウ、オノエラン ほか 木原 浩
 山の住人たち ハイタカ 叶内拓哉
 よりみち百名山 静流とやすらぎの宿喜ら里、二本松市智恵子記念館 ほか

[連載]
 • 登山とからだのはなし 42 増山 茂
 • 岩崎元郎の HOW TO 安心登山 42 岩崎元郎
 • 山のコトバ学 42 三宅 岳
 • 深田百名山からの贈りもの 42 安達太良山 鈴木みき
 • 海外トレッキングスポット 42


「改訂新版」ということですが、元版は2000年頃だったようです。「深田久弥『日本百名山』から」というサブタイトルになっており、手持ちの新潮文庫版と見比べてみましたところ、安達太良山、磐梯山とも全文が再録されていました。

深田氏、光太郎の「あどけない話」をきちんと引用して下さっており、その一文も大きく取り上げられていますし、周辺ガイド的なページには、二本松市智恵子記念館(含智恵子の生家)も紹介されています。

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それ以外のページでも、随所に光太郎智恵子の名、『智恵子抄』や「ほんとの空」の文字、さらにカットなどもあり、嬉しくなってしまいました。

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新刊書店で普通に売っています。ぜひお買い求めを。


もう1件、テレビ放映情報です。  

新 鉄道・絶景の旅 「仙台~三春~いわき みちのく桜紀行」

BS朝日 2018年5月17日(木)  19時00分~20時54分 

日本国内の人気鉄道路線とその車内外からの絶景、名所、食事処、温泉宿など、沿線の魅力を余すところなく紹介。鉄道ファンならずとも楽しめる鉄道紀行番組の決定版!列車を乗り継ぎ南へ北へ…人と触れ合い、地元に密着!定番の観光地から、とっておきの知られざる絶景まで、様々な情報をお届け!

咲き誇る花々が彩るみちのくの春! 宮城から福島へ、満開の桜を楽しむため、絶景列車に乗り込みます。
まだ雪を頂く山々を車窓に旅を進めれば、そこここに出会いと発見が!
ここに来ないと食べられない絶品ソウルフードも満喫します。

船岡の一目千本桜▽二本松・合戦場の枝垂れ桜▽三春の滝桜▽名山!安達太良連峰&蔵王連峰▽色彩のハーモニー!枝垂れ桜&春モミジ▽花の楽園!菜の花で描く…ハートマーク

春のみちのくを満喫!東北屈指の桜の名所めぐり▽8000万年もの歳月をかけて築かれた大自然の造形美!あぶくま洞を探検▽桜の絶景駅▽ビックリ仰天!桁違いの超~デカ盛りメニューを発見▽ビール焼きそば?▽郷土名物!ふくしまブルブル?▽激安!アイスバーガーの元祖…青春の味!?▽三春名物!ピーマン味噌で食べる?三角油揚げ▽白石名物!うーめん?▽地味に有名?評判の駅弁▽鉄道遺産・レンガの油庫▽東北本線▽磐越東線

ナレーター 林家たい平

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こちらでも光太郎智恵子、ほんとの空的な紹介があるといいのですが。

今日明日と、安達太良山の麓を通って岩手花巻に行って参ります。眼がさめていたら、ほんとの空を車窓から眺めようと思います。


【折々のことば・光太郎】

歴史の動きはのつぴきならぬ道を通るが、その道を通らしめるものに人意以上のものを感じないわけにゆかない。

散文「人意以上のもの」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

確かにそうですね。

しかし、太平洋戦争に関して、同じ文章の別の箇所で「大義の戦のまがふなき神意を強く感ずる」としています。それには首肯できません。

紙面にも載ったのかどうか不明なのですが、長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんのサイトに、昨日アップされた記事から。長野県上田市でのイベント情報です。

芸術の自由さ触れて 上田で二つの催し企画

 上田市を中心に詩の創作活動な003どに取り組み、同人詩誌「樹氷」を発行する「『樹氷』の会」が、市民が広く芸術に触れる機会にしてもらおうと二つの催しを企画している。20日は同市天神のサントミューゼで、戦没画学生慰霊美術館「無言館」(上田市古安曽)館主の窪島誠一郎さんの講演会を開催。8月5日には集まった参加者と共にマイクロバスで同館を訪れ、絵画を鑑賞する。同会はそれぞれ参加者を募っている。

 同会代表の小林光子さん(75)=緑が丘=が、夭折(ようせつ)の画家・村山槐多(かいた)(1896〜1919年)についてのエッセーを、別の同人詩誌に寄稿。執筆の際に目にした槐多の短歌に感銘を受け、槐多の作品を多く所蔵、展示してきた同市の「信濃デッサン館」(3月閉館)の館主でもある窪島さんに依頼し、催しを企画した。

 20日の講演会は2部構成で、前段は槐多の絵画、短歌などの芸術作品や、詩人・彫刻家の高村光太郎や洋画家・版画家山本鼎(かなえ)との関係について説明する。後段は座談会形式で、槐多や信濃デッサン館の今後について参加者と語り合う場にする。

 8月5日の絵画鑑賞は、無言館に展示されている戦没画学生の作品を見学し、学生たちの生涯について触れながら、平和と芸術について考える機会にしたいという。

 催しはともに市のわがまち魅力アップ応援事業を活用している。小林さんは「信濃デッサン館は上田市だけでなく、長野県の大事な財産」と存続を願う一人。また、槐多を「自分自身の思いや情緒をストレートに表現している」と評し、企画を通じて参加者には「芸術は心の中を自由に表現していいものだと伝えたい」と話している。

 20日は午後1時半〜4時。入場無料。8月5日は午前9時〜午後1時。先着50人まで。参加費は無料だが、無言館への入館料は自己負担。ともに中学生以上が対象。申し込みなどの問い合わせは小林さん(電話0268・24・3176)へ。


今のところ、ネット上にイベント自体の情報が見あたりませんで、上記記事から読み解くしかありませんが、同市の交流文化芸術センター・サントミューゼにおいて、やはり同市塩田地区にある戦没画学生慰霊美術館・無言館さん館長の窪島誠一郎氏によるご講演があるとのこと。無言館さんの姉妹館で、やはり窪島氏が館長の信濃デッサン館さんに作品が多数収蔵されている夭折の天才画家・村山槐多についてがメインで、槐多と交流のあった光太郎にも触れられるようです。

ところで、信濃デッサン館さん、今年3月をもって無期限休館――事実上、閉館――となったそうです。この件は存じませんでしたので、驚いております。今後は無言館さんの運営に集中されるとのことですが、やはり残念です。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

女性はますます美しかれ。ますますやさしかれ。ますますうるほひあれ。ますます此世の母性たれ。戦う男子の支柱たれ。男子の心は剛直にして折れ易い。すさび易い。その時、女性の美はこれを救ふ。

散文「扉のことば」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

少女雑誌『新女苑』に発表された文章の一節です。銃後の少女たちに呼び掛けるこの文言、女性を讃美しつつも、一種のモラハラ的な要素を含むでしょう。裏を返せば戦場へ赴く兵士達をしっかり送り出せ、ということにもなりましょうし。

こうして送り出された中には、無言館さんに作品が収められている、戦場で露と消えた画学生達も含まれていたわけです。東京美術学校の学生の中には、大先輩・光太郎のアトリエを訪れ、激励してもらったという、今年亡くなられた深沢竜一氏(光太郎詩「四人の学生」のモデル)のような方もいらっしゃいました。深沢氏は無事復員されましたが、帰って来られなかった学生も多くいたのではないでしょうか。もしかすると、無言館さんに作品が展示されている戦没画学生の中にも、光太郎の元を訪れたという学生もいたかもしれません。

まずは一昨日の『朝日新聞』さんの夕刊から。昨年亡くなった詩人・評論家の大岡信さんを偲ぶ連載の8回目です。

大岡信をたどって 6762回の「折々のうた」003

 詩人・批評家の大岡信は1979年1月25日、詩歌コラム「折々のうた」の連載を朝日新聞で始めた。
 依頼は前年秋。その段階から引用を含め200字程度という字数制限があったようだ。難色を示す大岡との「交渉」には、編集局次長で後に社長となる旧制一高の元同級生・中江利忠(88)も加わった。一高では農耕サークル・耕す会で、便所から肥だめにふんにょうを運び込む苦労を分かち合った仲という。
 妻かね子(87)は「当初は新聞小説の後ろの空白を埋めるためと言われた。でも字数制限でかえってやる気が出たみたい」と振り返る。第1回の東京の紙面を調べると、曽野綾子の小説「神の汚れた手」の後ろにくっつくように、24面に掲載されていた。
 〈海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと〉。彫刻家で詩人の高村光太郎が1906年、彫刻修業のために渡米した際に船中で作った短歌。大岡は、「高村青年は緊張もしていただろう。不安と希望に胸を騒がせてもいただろう。けれど歌は悠揚のおもむきをたたえ、愛誦(あいしょう)に堪える」と評した。
 連載は評判を呼び、編集局長となった中江の決断もあり79年5月には1面に移った。中断もあったが2007年まで6762回を数え、「万葉集」を超える詩歌選集となった。中江は米紙ニューヨーク・タイムズ幹部に「恋の歌が1面に載っているのは世界でも朝日新聞だけだ」と言われたとうれしそうに振り返る。
 約1年分を掲載した岩波新書は19冊を数える。同書に載せた引用詩歌の作者略歴の作成で協力した詩人の高橋順子(73)が今も覚えているのは〈看護婦の妻とボイラー技士のわれ定休日重なり海を見ている〉という歌。「有名な人の作品でなくても、生活感があって心に訴える作品を大岡さんは選んだ」
 「折々のうた」は海も越えた。日本文学研究の第一人者ドナルド・キーンの弟子で、大東文化大名誉教授のジャニーン・バイチマン(75)が英訳を手がけた。約10年間、朝日新聞の英字新聞の日曜版に載り、本にもなった。引用する詩歌の解釈などをめぐってバイチマンは大岡とファクシミリで対話を重ねた。
 〈白壁を隔てて病めるをとめらの或(あ)る時は脈をとりあふ声す〉。肺結核で30歳で夭折(ようせつ)した歌人・相良宏(さがらひろし)の歌を翻訳した際は、約24時間でやりとりが5回ほどに及んだ。
 バイチマンが一つの言葉を選ぶに至った理由を書くと、「いい解決を見つけましたね!」。一方、大岡は訳文の語順の変更を提案。理由を尋ねるバイチマンに、この歌の魅力は療養所の隣の部屋の女性たちを思う、歌人の孤独だが大変優しい心情だと書いた。
 「大岡さんは心を砕いて詩歌を選び、深く読み込んでいた。詩人たちに尊敬を抱いていた」とバイチマンはいう。そして「折々のうた」を「古今東西の詩人が集う巨大な円卓」にたとえる。「歌人や俳人、詩人たちが無名有名の区別なく座っていて、円卓を作った大岡さんも笑顔で座っているんです」=文中敬称略(赤田康和)


昭和54年(1979)に始まった、朝日さんの伝説的ともいえるコラム「折々のうた」。その記念すべき第1回に、光太郎の短歌を取り上げて下さったことが記されています。

後半に紹介されている、ジャニーン・バイチマン氏。。昨秋、日比谷公園内の千代田区立日比谷図書文化館さんで開催された、明星研究会さん主催の「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」にご参加なさっていて、終了後の懇親会でお話しさせていただきました。お写真を見て、「あれま」と思った次第です。寡聞にして大岡氏との交流について、存じませんでした(汗)。


続いて、少し前ですが、先月末の『東奥日報』さん。先月、青土社さんから刊行された中村稔氏著『高村光太郎論』の書評が出ています。 

高村光太郎論 中村稔著 巨人の近代を照らす

 「高村光太郎はまことに夢想家であった」。91歳の詩人中村稔は幾たびもこのように語る。同時に「高村光太郎は、たんに彫刻家、詩人というより、ひろく文明一般に関心のある人物」であり、それが彼の「創作活動の特徴」であるとする。
 中村はこの近代の巨人を深く愛しており、500ページ超の大著の全篇で、光太郎の前のめりの近代性を厳父のごとく叱る。同時にその仕事の核を浮かび上がらせてゆく。
 留学を終え帰国した光太郎は日本の前近代性に激しい焦燥を抱く。日本の彫刻界の匠(たくみ)であった父、高村光雲が望んだのは、「新鮮な彫刻技術」であったろうが光太郎が学んだのは「技術でなく、芸術」であった。
 例えばロダンから学んだのは、「愛は自然と同義であり、自然の摂理にしたがい、愛をもって社会と立ち向かっていく」ことであった。
 この時「自然」は人工と対立する哲学であるが、後年それは光太郎のなかで「おのずから」の意味に変容し、陰の部分を形づくる。
 一つは妻、智恵子との関係である。その身体に抱え込んだ凶暴なエネルギーをひとりよがりに放出したことが、妻を狂気に追いやったのではないかという。しかし智恵子を巡る作品は「愛というものの一方通行的性質」を捉えており、尋常とはいえないほどの愛を背景としていたともみる。
 もう一つは第2次大戦への動きを「とどめ得ない大地の運行」「歴史的必然」とする誤謬(ごびゅう)である。戦中に書かれたおびただしい戦意昂揚の詩が「将兵を励まし、死に赴かせた」ことを光太郎は戦後も反省した形跡は認められないと指摘。それゆえ、花巻の7年間も「彼の若いころからの夢想を現実化したもの」にすぎないとする。
 中村のまなざしは終始、現実主義の側から巨人の近代が何であったか断罪しつつ照らし出す。それは次第に日本近代の自画像にも見えてくる。この厳しい自画像を描くことが、詩人中村稔を完成することであるかのように。(川野里子・歌人)

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この記事の載った『東奥日報』さん。GWに秋田小坂青森十和田湖を回った際に東京駅から乗った東北新幹線はやぶさ号で、当方が座った座席前のネットに、車内誌『トランヴェール』などとともに入っていました。青森方面から載った前のお客さんが置いていったのでしょう。通常、係員の方が清掃点検の際に片付けるので、始発駅の東京駅から乗って、こういうことはまずないのですが、そのおかげでこの記事の掲載を知ることができました。不思議な縁を感じました。



東北新幹線といえば、明後日からまた同線に乗り、今度は岩手花巻に行って参ります。花巻郊外旧太田村、中村氏が「彼の若いころからの夢想を現実化したもの」にすぎないとする(当方は断じてそうは思いませんが)、7年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)での第61回高村祭のためです。また同じようなことがあるかな、と期待しましたが、こういうことが重なると、逆にかえって怖いですね(笑)。


【折々のことば・光太郎】

材料がまはつて来ないといふやうな愚痴ばかり並べて、紆余曲折の工夫を為ない頭脳は頼りにならない。さういふ頭脳は一旦材料が潤沢にまはつて来るやうな日が来ても又何とか不足を見つけてよく運転しないであらう。

散文「戦時の文化」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

同じような言を、最近、何かのテレビ番組で聴いて、「なるほど」と思いました。「「時間がないからできない」という人は、時間があってもやらない」、「「資金が足りないからできない」という人は、資金ができてもやらない」といった感じだったように記憶しています。一面で、真理を突いていますね。

このところ、このブログでご紹介すべき事項が多く、後手後手に回っております。特に新刊書籍等の情報は後回しになりがちで、面目なく思う次第です。

そんなわけで、雑誌の新刊です。 

『短歌研究』 5月号

2018年4月21日 短歌研究社 定価1,000円+税

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短期リレー連載 明星研究会「口語自由詩と『明星』」 第1回 松平盟子 高村光太郎――独自に開いた口語自由詩のフィールド」という記事が掲載されています。昨秋、日比谷公園内の千代田区立日比谷図書文化館さんで開催された、明星研究会さん主催の「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」での第二部シンポジウム「口語自由詩に直撃! 彼らは詩歌の激流にどう漕ぎ出したか」のうち、歌人・松平盟子氏による光太郎の部の筆録です。

先月号では、同じ明星研究会での、第一部の講演「再録 明星研究会講演 松平盟子『みだれ髪』を超えて~晶子と口語自由詩~」筆録が掲載されています。

今月号は、光太郎の、というより、光太郎と与謝野晶子のからみ、お互いの、特に晶子の自由詩作品に見られる光太郎詩の影響、といった内容で、非常に興味深いものです。

ぜひお買い求めを。


ちなみに松平氏、来週18日(金)、当方とのユニットで、朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾千葉教室さんでの講座「愛の詩集<智恵子抄>を読む」の講師を務められます。なかなか受講者が集まらないようで、まだ余裕があるそうです。リンクご参照の上、お申し込み下さい。

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公開講座といえば、こんな講座の情報を得ました。 
会  場 : 和の器 韋駄天地下ギャラリー 東京都台東区谷中5-2-24 03-3828-1939
時  間 : [篆刻]11:00-13:30 [書]15:00-17:30
料  金 : 6,000円(材料費込)
講  師 : 華雪(書家)


【篆刻講座|「わたし」の判子】
方寸の芸術とも称される篆刻。宋代以降、人々はここに”わたしの中の「わたし」”を求めるようになっていきました。自分自身に新たな名――雅号(ペンネーム)を与え、”わたしの中の「わたし」”の名前を石に刻む。空想した書斎の名を石に刻み、そこで過ごす”わたしの中の「わたし」”に思いを巡らし、詩を詠む。そうした”わたしの中の「わたし」”は、あるひとにとっては苛烈な現実を生きるための糧であったのかもしれません。
あるひとにとっては”わたしの中の「わたし」”のあり方を通じて自らをよりよく知ろうとする術であったのかもしれません。
今期の篆刻講座では、そうした自分の中の”わたしの中の「わたし」”をイメージし、名前の判子をつくります。太い線・細い線・かたい線・しなやかな線……篆刻特有の意匠を学ぶことを通じて、毎回異なる様々な「わたし」の判子をつくります。

【書の講座|ひとりの人の眼を通して見る書の見方】
東洋における文字の歴史は、およそ3300年前の古代中国で発生した甲骨文字に遡ります。文字は、長い時間の中で、ひとびとの間で使用され、徐々にその書き方は研ぎすまされ、一定の型を得てゆきました。そしてより速く便利に書くという自然の条件に従い、唐代初頭には篆書・隷書・楷書・行書・草書の書体が確立しました。書体が完成した唐代以降は、それら基本の型をよりうつくしく書くという希求がひとびとの中に芽生え、それが書という文字芸術を生み出していきます。ただ、うつくしさ、というのは時代によって移ろいます。今期は、書の歴史における古典と呼ばれる書と、それを後の時代に真似て、学んだひとの書とを比較し、ひとりの人が、どのように古典を見ていたのかを、うつくしさをどのように消化しようとしたのか、ふたつの書を摸写することを通して学びます。そこから、様々な時代、様々なひとにおける書の見方を知り、自らの書を見る眼を育みます。

篆刻と臨書の2本立てだそうです。書の講座は、全6回で今回が5回目。これまでに「石鼓文と呉昌碩」、「太宗皇帝と王羲之」、「八大山人と王羲之」、「光明皇后と王羲之」というお題でなされてきており、今回が「高村光太郎と黄庭堅」、次回は「白井晟一と顔真卿」だそうです。

黄庭堅は、中国北宋の進士。山谷と号して草書をよくし、宋の四大家の一人に数えられています。光太郎は庭堅の書を好み、最晩年には中野のアトリエの壁にその書、「伏波神祠詩巻」の複製を貼り付け、毎日眺めていました。昭和30年(1955)には、平凡社刊『書道全集 第七巻 中国・隋、唐Ⅰ』の月報に「黄山谷について」を発表、その魅力を語っています。



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画像はともに書帖を見る最晩年の光太郎です。

さて、講座の方は定員6名だそうで、もう埋まってしまっているかもしれませんが、ご興味のある方、リンクをご参照の上、お申し込み下さい。


【折々のことば・光太郎】

たとひ菊の花一輪の絵画でも人を廃頽への傾きから呼び返す力は持ち得る。人の心を貫く美はさういふ力を必ず持つ。美に溺れて滅びた輩はその美とするところを誤つた者に過ぎない。上昇の美こそ美の本来であつて下降の美は美の変種である。

散文「戦時下の芸術家」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

いわゆる頽廃芸術を好まなかった光太郎の真髄が、こうしたところにも表れています。ただ、それが一種の精神主義、根性論と結びつき、戦時にはプロパガンダに使われていってしまうのですが……。

埼玉県東松山市の広報紙『広報ひがしまつやま』の今月号。今年初めに市立図書館さん内にオープンした「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が大きく取り上げられています。

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田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー

ところ  市立図書館2階(常設展示中)
ビデオ上映  午前9時30分~午後5時
問 市立図書館 ☎22-0324 FAX22-0064


田口弘 1922年(大正11年)〜2017年(平成29年)
詩人、教育者。昭和51年から16年半にわたり市教育長を務める。その間、日本スリーデーマーチの開催や、東武東上線高坂駅前に彫刻家・高田博厚の作品32点が並ぶ高坂彫刻プロムナード【高田博厚彫刻群】の整備に携わる。学生時代より、恩師の影響で高村光太郎に傾倒し、生涯研究を続けた。光太郎から贈られた書や交流書簡、関係書籍などを平成28年に東松山市に寄贈した。

高村光太郎 1883年(明治16年)〜1956年(昭和31年)
詩人、彫刻家。彫刻家・高村光雲の長男として生まれる。大正3年、口語自由詩の詩集「道程」を刊行。昭和16年、妻・智恵子との愛の生活をうたった詩集「智恵子抄」を発表。戦後は戦争協力の責任を感じ、岩手県太田村(現花巻市)の粗末な山小屋にこもり自炊生活を送った。アトリエの庭に咲く連翹の花を好んだことから、命日である4月2日には東京と花巻で「連翹忌」が営まれる。

①高村光太郎コーナーの全景。モニターでは光太郎の思い出を生前の田口さんが語りかけてきます。
②光太郎が田口さんのために書した聖書の一節(ロマ書)。
③光太郎から送られた書簡やはがきを展示しています。
④1月13日にオープン式典が行われ、田口さんの長女・直子さんも出席しテープカットが行われたほか、記念講演会も行われました。


東松山市さんといえば、やはり故・田口氏のご遺徳で、光太郎と縁の深かった彫刻家・高田博厚との関わりも深い街です。昨年には鎌倉の高田アトリエにあった遺品類が寄贈されるなどしています。そもそもは、高田の存命中に東武東上線高坂駅前からのびる「高坂彫刻プロムナード」が整備されたのが大きな契機となっています。

その「高坂彫刻プロムナード」の、先月発行された新しいパンフレットを頂きました。恐縮です。

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高田の詳細なプロフィール、東松山市との関係など、オールカラーで40ページ。

32体並ぶ彫刻、一点ずつ、1ページとって紹介されています。下記は光太郎胸像。

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さらに恐縮なことに、「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」オープンの際に、当方が行った記念講演の模様が、東松山市さんのHP内に動画で紹介されています。暇な方は御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

朝起きて顔を洗ひ含漱をして、ああせいせいしたと思ふのも美である。さういふ単純な感覚上の美がいつのまにか最も深い精神上の美にまでもつながるのである。人は日常身辺の健康な感覚上の美によつて無意識裡に力づけられる。その力が大きい。

散文「十二月八日の記」より 昭和17年(1942) 光太郎59歳

太平洋戦争開戦を受けて、翌年元日発行の『中央公論』に寄せた文章です。

のちに戦局が悪化すると、そうでなくなりますが、開戦の時点での光太郎、まだかなり冷静に「非常時こそ美を愛する心を忘るるなかれ」的な発言をしています。

智恵子の故郷・福島二本松からの情報です。

まずは智恵子の生家・智恵子記念館さんから。

高村智恵子生誕祭

智恵子の「紙絵」の実物展示
奇跡といわれる実物の紙絵をぜひご覧ください。
期 日 : 2018年4月28日(土)~5月29日(火)
場 所 : 二本松市智恵子記念館  福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 午前9時~午後4時30分
料 金 : 大人(高校生以上) 個人:410円 団体:360円
      子供(小・中学生) 個人:200円 団体:150円
           ※団体料金は20名以上の利用
休 館 : 水曜日

上川崎和紙で作ろう切り絵体験
智恵子が生まれ育ち、愛した生家。中庭の庭園を眺めながら、切り絵(紙絵)体験ができます。
期 日 : 2018年5月19日(土) 20日(日) 26日(土) 27日(日)
場 所 : 二本松市智恵子の生家「奥座敷」  福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:00~16:00 ※所要時間は10~20分程度
         お一人様1回限り、材料がなくなり次第終了
料 金 : 無料 (入館料に込み)
内 容 : 智恵子の紙絵をモチーフとした切り絵、上川崎和紙を使用したハガキ・しおりの制作
問 合 : 智恵子記念館 ☎0243(22)6151  文化課文化振興係0243(55)5154
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生誕祭としては、先月から今月初めに企画された智恵子生家の二階特別公開がありましたが、裏手の記念館さんでは智恵子紙絵の実物展示(通常は複製)、生家の奥座敷を使っての紙絵制作体験だそうです。


同じ時期に、智恵子が愛した「ほんとの空」の下に聳える安達太良山の山開きがありますので、併せてご紹介します。 

第64回安達太良山山開き

2018年5月20日(日)

【お問い合わせ】  安達太良連盟事務局(二本松観光協会)TEL:0243-55-5122

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◆山頂イベント◆
10:00~ ふくしまアフターDC記念山開き参加ペナント配布(先着3,000名)
11:00~ 安全祈願祭
11:20~ Ms.あだたらコンテスト(ミズ1名、準ミズ1名、入賞6名)
  (未婚、既婚は問いません。入賞者には記念品を贈呈します。)

山頂の天候次第で、途中で中止となったり、予定していた時間も変更となる場合があります。
雨天の場合は、山頂イベントは中止し、奥岳登山口入口にて8時からペナント配布、奥岳登山口(レストラ
ン「ランデブー」)で10時から安全祈願祭を行います。

◆バスでおいでの方へ◆  
岳方面の路線バスは、岳温泉止まりです。 奥岳へは、シャトルバスをご利用ください。

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今年のキャッチコピーは「花がさき 鳥がなき 風かおる ほんとうの空」。たまたまですが、当日、5月20日(日)は智恵子132回目の誕生日にあたります。


ところで上記情報、『広報にほんまつ』さんの今月号を参照させていただきましたが、その表紙がこちら。

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2016「二本松の四季」観光フォトコンテスト「春の風景」部門で入賞した作品で、タイトルは『藤とつつじのコラボ』。撮影されたのは、二本松にお住まいの宮内信雄さんです。霞ヶ城公園内の霞池畔にある智恵子の藤棚――もともとは智恵子の生家の庭先にあったもの――です。例年だと5月上旬から中旬に見頃を迎えるそうですので、あわせて足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

兎に角、芸術作品を商品だといふ観念がなくならねばいかぬ。

談話筆記「美術家と生活」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

作品を売って金儲けをし、自宅や庭を俗物根性丸出しに飾る美術家への批判、国や自治体が美術家を支援し、美術家はそれに応えて社会に貢献するシステムの構築、といったことにも言及されています。

智恵子の紙絵は、智恵子が心を病んで南品川ゼームス坂病院に入院してからの作でした。そこには金銭といった感覚は一切なく、純粋な造型への欲求、そして光太郎に見てほしいという願い、それのみでした。ある意味、これぞ芸術、でしょう。

昨日、当方も講師を務めさせていただく朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾千葉教室の講座「愛の詩集<智恵子抄>を読む」をご紹介させていただきましたが、同じ朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾の札幌教室さんでも、光太郎に関連する講座がありますのでご紹介します。 

書道史アラカルト ―書と書道

期  日 : 2018年5月19日(土)
        札幌市中央区北2条西1丁目 朝日ビル4階
時  間 : 10:00-11:30
講  師 : 北海道書道展会員 中野層翠
料  金 : 2,052円

「アララギ」創始者の歌人斎藤茂吉は書を002よく書いていました。また、詩人で彫刻家の高村光太郎には「書について」という文章があり、書に造詣が深かったことがわかります。二人をはじめとする近代の文人が、書にどう親しみ、書をどのように捉えていたのか、彼らの言葉を通して考察してみます。そして、それが現代の書の見方・あり方につながっていることを確認したいと思います。

講師紹介 中野層翠 (ナカノ ソウスイ)
夕張市出身。北海道学芸大学卒業。札幌開成高校校長など歴任。道展運営委員長等で活躍。当センター「総合書道」コースの創案者。札幌市民芸術賞受賞。


もう1件、よみうりカルチャー宇都宮さんでも、書道系で光太郎。こちらは実作です。 

近代詩文を書く

期  日 : 2018年4/19、5/17、6/21、7/19、0018/30、9/20 
       すべて第3木曜日 途中受講可 見学・体験可
会  場 : よみうりカルチャー宇都宮 
        宇都宮市宮園町4-1 東武宮園町ビル5F
時  間 : 14:00~16:00
講  師 : 書道・絵手紙恒水会主宰 千金楽 恒水
料  金 : 受講料14,256円 設備費926円

近代詩とは、明治時代に伝統の束縛から脱して、欧米の詩体にならい、新時代 の思想感情を自由に歌った詩とあります。高村光太郎、与謝野鉄幹・晶子・三好達治、金子みすずなどなど、心を動かされる心を動かされる詩文を、漢字仮名交じり書で楽しみます。基本の筆使いから文字表現、心構えへと学んでいきます。
筆、墨、紙の織り成す文字空間に癒されてください。

情報を得るのが遅くなりまして、すでに全6回中の1回が終わっています。面目ありません。


こうしたカルチャースクール系、調べてみるといろいろあるのですね。今後はこういった情報にも注意しようと思います。


【折々のことば・光太郎】

美術館は世上に勢力ある愚昧な誤謬を見破る烱々たる眼光を持たなければその甲斐がない。
散文「美術館の事その他」昭和16年(1941) 光太郎59歳

この年、当時の東京市は、「皇太子継宮明仁親王殿下御誕生記念日本近代美術館」事業を決定し、計画案を発表しました。明仁親王殿下は今上天皇。昭和8年(1933)のお生まれですが、なぜか8年経っての誕生記念事業でした。

具体的には「建設費約七百万円、敷地坪数四千坪乃至七千坪、建坪二千坪、延坪五千七百坪の建築を予定し、明治以降現代及将来に亘る美術及美術工芸品を蒐集陳列し、わが近代美術の精華を顕揚すると共に国民文化の向上に資し、日本美術の健全な進展に貢献せんとするものである」とのこと。ルーブル的な巨大美術館を建設する計画でした。しかし、太平洋戦争開戦によりこの計画は頓挫します。

この計画に意見を求められた光太郎が『朝日新聞』さんに発表した文章の一節です。「明治以降現代及将来に亘る美術及美術工芸品を蒐集陳列」、「わが近代美術の精華を顕揚」とあることに対し、その肩書や経歴に重きを置いて、展示物を決めるような愚を犯すなかれ、という話の流れです。

現代に於いても、美術館さんには「世上に勢力ある愚昧な誤謬を見破る烱々たる眼光」が要求されますね。

千葉から市民講座のご案内です。 

愛の詩集<智恵子抄>を読む

期  日 : 2018年5月18日(金)
        千葉市中央区中央1-11-1 三井ガーデンホテル千葉5階
時  間 : 15:30~17:30
講  師 : 歌人 松平 盟子   高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山 弘明
料  金 : 会員 3,456円  一般 4,104円 

彫刻家で詩人の高村光太郎が、最愛の妻・智恵子への愛を綴った<智恵抄>。光太郎は、智恵子との愛をどのようなかたちで詩に託したのでしょうか。歌人と研究者がそれぞれの視点で語り合います。松平さんは、光太郎の詩の特質と、智恵子が詩にどう捉えられているか、という点について話します。ある意味で理想的な男女関係を模索した光太郎ですが、そのモデルはあったのでしょうか。小山さんは、「抄」の一字に込めた光太郎の思いと、<智恵子抄>が現代までどのように読みつがれてきたのかに焦点をあて、二人の鮮烈な生の軌跡をたどります。

松平 盟子 (マツダイラ メイコ)
愛知県生まれ。南山大学国語国文学科卒。「帆を張る父のやうに」により角川短歌賞。歌集に『プラチナ・ブルース』(河野愛子賞)『カフェの木椅子が軋むまま』『天の砂』など。著書に『母の愛 与謝野晶子の童話』『パリを抱きしめる』など。与謝野晶子のパリ滞在とその文学研究のためパリ第7大学にて在外研究(国際交流基金フェローシップ)。現代歌人協会および日本文藝家協会会員。
小山 弘明 (コヤマ ヒロアキ)
千葉県香取市出身。高村光太郎連翹忌運営委員会代表として執筆、講演、市民講座講師、美術館・文学館アドバイザー、TV番組制作協力などを行っている。

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というわけで、歌人の松平盟子氏と共に、当方も講師を務めさせていただきます。

松平氏とは、昨夏、神保町の学士会館さんで開催された「現代歌人協会公開講座 高村光太郎の短歌」の際に知遇を得まして、秋には日比谷図書館さんを会場とした「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」にもお誘い下さり、参加させて頂きました

光太郎に並々ならぬご関心を抱かれ、他にも朝日カルチャーさんで講座をお持ちの松平氏がご紹介下さり、今回の講座が実現いたしました。ありがたいことです。

当方は、以前から感じていた『智恵子抄』という、ある意味日本近代詩史上、特異な詩集の特異性ということに関し、それがどのように読み継がれてきたのか、そして光太郎自身の意図は奈辺にあったのか、そういった点についてお話をさせていただくつもりで居ります。

こういう機会を与えていただくと、気になっていた課題を自分なりに整理する事ができ、そういう意味でもありがたいことです。

ぜひご参加下さい。


【折々のことば・光太郎】

人の心は理窟だけでは動きません。内面からのうるほひと光とが無ければ人の心は本然のはたらきをいたしません。私がかういふ非常時に際して、芸術といふやうな問題を重要視するのはこの点に根拠があるのであります。

ラジオ放送「芸術と国民生活」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

JOAKから放送された光太郎の講演の一節です。雑誌『歴程』や、書籍『生活と文化技術』にその筆記が載りました。

光太郎、泥沼の戦時体制が止めえないものであれば、せめて人心の荒廃を防ごう、というスタンスでした。そのために非常時こそ芸術を愛する心の重要性を訴えています。何としても戦争終結を、という方向に行かなかったのは残念ですし、この後はさらにヒートアップし、「鬼畜米英殲滅すべし」というプロパガンダに積極的に協力していく光太郎。戦後、自らの扇動で多くの若者を死地に追いやった反省へとつながります。

光太郎第二の故郷・岩手花巻よりイベント情報です。 

第61回 高村祭

期   日 : 2018年5月15日(火)
会   場 : 高村山荘 「雪白く積めり」詩碑前広場 岩手県花巻市太田3-85-1
         雨天時はスポーツキャンプむら屋内運動場 岩手県花巻市太田11-363-1
時   間 : 10:00~14:30
料   金 : 無料
内   容 : 式典
         児童生徒による詩の朗読、器楽演奏、コーラス等
         座談会 『思い出の光太郎先生』
         語り部 藤原秀盛 高橋愛子 高橋征一 浅沼隆
         司  会 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)

無料臨時バス運行 
 往路  花巻駅西口発 午前9時30分   高村山荘着  午前9時50分
 復路  高村山荘発   午後2時30分   花巻駅西口着  午後2時50分

高村祭は、高村光太郎が花巻に疎開してきた5月15日に毎年開催されています。
第一部では地元の小学生による楽器演奏や中学生による合唱、高校生・花巻高等看護学校生による詩の朗読などを披露、第二部では花巻農業高校鹿踊り部が演舞を披露します。

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というわけで、光太郎を偲ぶ高村祭。毎年、手作りのイベントとして、光太郎が7年間の独居自炊生活を送った山小屋(高村山荘)敷地内で行われます。

過去6年間の様子はこちら。


毎年、記念講演という形でいろいろな方にお話をしていただいてきましたが、今年は講演ではなく、座談会。山荘周辺にお住まいで、ここで暮らしていた頃の光太郎を知る方々に、その思い出を語っていただきます。当方は司会を仰せつかっています。

午後は基本、地元の方々の演芸会的な感じ。今年は花巻農業高校鹿踊り部さんの演舞があるということです。部活動で「鹿踊り部」というのも、ある意味すごいですね。

山荘周辺、新緑の美しい季節ですし、この日は山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館さんも入場無料。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

面白いことに人はその顔立ちそつくりの発言をするものだといふことを発見した。
散文「芸術政策の中心」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

どこぞのあまり品の感じられない大統領がそういう感じですね。

名古屋から企画展情報です。

明治150年記念 華ひらく皇室文化 ―明治宮廷を彩る技と美―

期 日 : 2018年4月17日(火)~5月27日(日)
会 場 : 徳川美術館名古屋市蓬左文庫 名古屋市東区徳川町1017
時 間 : 午前10時~午後5時
料 金 : 一般 1,400円・高大生 700円・小中生 500円 
      毎週土曜日は小・中・高生入館無料
      20名様以上の団体は一般200円、その他100円割引
休 館 : 月曜日

平成30年は明治維新から150年にあたる記念すべき年にあたり、明治期の宮廷文化にスポットを当てた展覧会を行います。明治政府と皇室は、欧米諸国との融和をはかるため、美をこらした鹿鳴館において、各国の使節をもてなすとともに日本独自の芸術品を広く海外に紹介しました。こうした動きは、日本の国際的地位を高める一方で、江戸時代から続く美術・工芸の保護育成に大きな役割を果たしました。本展では、華やかな明治期の宮廷を彩った調度品や染織品、帝室技芸員の絵画・工芸品を一堂に集め、日本の美と技の粋を堪能する機会とします。

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帝室技芸員の作品ということで、光太郎の父・高村光雲の作「魚籃観音像」が出品されています。出品目録に依れば、「個人蔵」ということです。

魚籃観音は、光雲がたびたび手がけた題材の一つで、最近では一昨年、三重県総合博物館さんで開催された「新津市誕生10周年特別展覧会 過去から未来へ~津のあゆみ~」に津市教育委員会さん所蔵の作が出ています。また、東京葛飾区の貞林院瑞正寺さんには、吸収合併された三田貞林寺旧蔵の作が所蔵されており、平成14年(2002)に三重県立美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」に出品されました。

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おそらくこれらと同様の構図のものでしょう。

その他、徳川家、皇室ゆかりの工芸品の数々が出品されています。最近流行の「超絶技巧」系で、宮川香山、濤川惣助、並河靖之らの作、さらに作者等不明ながら、皇室の方々の日用品的なものも多数。


こちらも全国巡回の予定で、以下の日程になっています。

 2018年7月21日〜9月2日/秋田市立千秋美術館
 2018年10月2日〜11月25日/京都文化博物館
 2019年3月16日〜5月10日/泉屋博古館分館
 2019年3月20日〜5月18日/学習院大学史料館

各会場、また光雲の作が展示されるようであれば、近くなりましたところでご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

変な英語の看板は此頃少くなつたが、此次は文字を隣国人に軽蔑されない程度に高めたい。もう一つは一般大衆に美術を馴れしめる方法として公共建築(銀行、郵便局、諸官衙、学校、図書館、病院等)には必ず絵画なり彫刻なりを適当の程度に附随させるやうに定めること。

散文「適材 岸田氏に寄す」より 昭和15年(1940) 光太郎58

「岸田氏」は岸田国士。第二次近衛内閣下の新体制運動推進を目して結成された大政翼賛会の文化部長に任ぜられました。その岸田の推薦で、光太郎は中央協力会議の議員となり、どんどん戦時体制の歯車と化していくことにます。この後、一貫して光太郎は公共建築や工場等の美的環境保持といったことを提言していきます。

昨日は都内杉並区に出て、同区の社会教育センター・セシオン杉並さんで開催された、「音のわコンサート」を拝聴してまいりました。

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社会教育センターといいつつ、ざっと見積もって600席ぐらいの大ホールが完備されており、意外でした。

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「音のわ」コンサート、音楽家の吉田寛子さんという方を中心とした、地域のさまざまな団体さん合同の演奏会、といった体でした。

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第1部、第2部は、合唱系が中心。

第1部の「音楽物語「鹿踊りのはじまり」は、そうだろうなと予想していたのですが、故・長澤勝俊氏作曲による昭和30年(1955)の作品でした。宮沢賢治作の童話「鹿踊りのはじまり」を元にするものです。「鹿踊りのはじまり」は、賢治生前唯一の童話集『注文の多い料理店』(大正13年=1924)に収録されており、光太郎は同書を詩人の黄瀛から借り、さらに親友だった作家の水野葉舟に又貸ししています。同年刊行された賢治のやはり生前唯一の詩集だった『春と修羅』は、当会の祖・草野心平の回想に依れば、光太郎が智恵子と二人で「小岩井農場」などのユーモラスな部分をクスクス笑いながら読んでいたとのことで、「鹿踊りのはじまり」も、もしかしたらそうだったのでは……などと思いつつ拝聴しました。

第2部で、光太郎作詞、吉田さん作曲の「或003る夜のこころ」が演奏されました。今年2月にカワイ出版さんから刊行された楽譜集『吉田寛子作品集 或る夜のこころ』の表題作です。本来、女声三部合唱で作曲されていますが、今回は混声合唱でした。演奏は「CantaMamma & 音のわ合唱部」さん。元々のアルトのパートを、男声が担当していたようです。公刊されたのは今年ですが、吉田さんが学生時代の作曲ということで、「少し」前の作品です。

詩「或る夜のこころ」は、明治から大正に改元された1912年7月の「或る夜」を題材にしたもの(詩の完成は翌月)。前年暮れに知り合った智恵子への抑えがたい思い、しかし、その思いを抑えねば、という自制心のはざまに揺れ動く光太郎の心情が謳われています。明治42年(1909)、欧米留学から帰国した光太郎は、西洋で学んできた最先端の芸術と、旧態依然の日本芸術界のあまりのギャップに立ち往生し、北原白秋や吉井勇らの「パンの会」の狂乱に巻き込まれたり、吉原の娼妓・若太夫や、浅草のカフェよか楼の女給・お梅などの素人ではない女性達に入れあげたりといった、荒れた生活を送っていました。父・光雲との相剋から、彫刻もきちんと作っていませんでした。そんな自分が果たして智恵子を幸せに出来るだろうか、という思いがあったのでしょう。

8月には銚子犬吠埼に絵を描くためしばらく滞在。すると、何と智恵子が追ってきます。それにより、ほぼ光太郎の心は固まったのでしょう。翌大正2年(1913)には婚約、さらに同3年(1914)には、結婚披露(この時点では入籍はせず)と相成ります。

合唱「或る夜のこころ」、そうした光太郎の揺れ動く、しかし抑えがたい智恵子への思い、といったものが、力強く鮮烈に表現されていました。音の厚みも出ますし、光太郎という男性視点の詩ですから、やはり混声合唱でという選択は正解だったと思いました。

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第3部は一転して、吹奏楽系。久々に吹奏楽をきちんと聴きましたが、いいものですね。合唱は当方、自分の趣味で取り組んでいるのでしょっちゅう聴いているのですが、迫力が違います。あとは、合唱はビジュアル的に変化に乏しく見ていて面白くありません(笑)。

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終演後、吉田さんと少しお話をさせていただき、厚かましくもサインを頂いてきました(笑)。

今後とも、吉田さん、そしてお仲間の皆さんのご活躍を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

所有しないから見ない。見ないから分らない。一般民衆の精神生活と美術とに何の関係もないのが今日の状態である。今日の美術品は一体どうなつて行くのか。多くは金満家の蔵の中に仕舞ひ込まれる運命を科せられてゐる。美術家はもつと一般の人に奉仕したい。一二の人に愛蔵せられるよりも満天下の人と共に創造の悦びを分ちたいのだ。

散文「一彫刻家の要求」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

満天下の人と共に創造の悦びを分ちたい」。美術家に限らず、あらゆるジャンルの芸術家の皆さんは、そうなのでしょう。昨日の「音のわコンサート」を拝聴し、そう感じました。

4/30(月)、秋田の小坂町立総合博物館郷土館さんで、「平成29年度新収蔵資料展」を拝見した後、レンタカーを十和田湖に向けました。

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途中の紫明亭展望台から。

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画像中央あたりに、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」があります。

昼前に十和田湖畔休屋地区に到着。まずは「乙女の像」にご挨拶。こちらも小坂町同様、今年の2月以来です。ただ、その時は、「十和田湖冬物語2018」期間中で、ライトアップされている夜間に参りましたが、地吹雪的な感じで立っているのも困難、早々に立ち去ってしまっていました。

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残雪をバックに見るのはおそらく初めてで、いい感じだな、と思いました。

その後、遊覧船の波止場近くにある、十和田市さんの施設「観光交流センターぷらっと」へ。平成26年(2014)にオープンした施設で、無料の休憩所と、十和田湖特産のヒメマスや、十和田湖を広く世に紹介した明治の文豪・大町桂月、そして光太郎に関する展示も行っています。光太郎コーナーの説明板は、当方が執筆させていただきました。

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入ってすぐ、以前にはなかったジオラマの展示があり、「おっ」という感じでした。

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スケール大きめの十和田神社さん。それから、休屋地区全体のものと、2点です。

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「乙女の像」もちゃんとありました。

続いて2階へ。先月から、新たな展示物が2点、加わっています。まずは、昨夏寄贈された、光太郎胸像。作者は青森市ご在住の彫刻家・田村進氏です。平成元年(1989)、青森県中泊町に設置された、太宰治肖像「小説『津軽』の像(太宰治とたけ)」を制作したことで知られています。

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台座部分は新たに制作されました。刻まれている題名は「冷暖自知光太郎山居」。光太郎が、昭和20年(1945)10月から同27年(1952)10月までの7年間、戦時中の戦争協力を恥じ、岩手県花巻郊外旧太田村の粗末な山小屋に蟄居生活を送っていた当時の肖像彫刻で、直接のモチーフは、昭和24年(1949)10月、太田村の光太郎のもとを訪れた写真家の濱谷浩が撮影した写真です。

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「冷暖自知」とは「仏法の悟りは、人から教えてもらうものでなく、氷を飲んでおのずからその冷暖を知るように、体験して親しく知ることのできるものである。」(岩波書店『広辞苑』)の意。大正元年(1912)作の光太郎詩「或る宵」中の「彼らは自分等のこころを世の中のどさくさまぎれになくしてしまつた/曾て裸体のままでゐた冷暖自知の心を―― 」という一節に使われています。

題字揮毫は、晩年の光太郎と親しく交わり、その没後は筑摩書房『高村光太郎全集』の編集に当たるなどした、光太郎顕彰第一人者にして、当会顧問の北川太一先生です。

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力強い彫刻です。写真は拝見していましたが、実物は初めてで、想像していたよりも大きく、その点でも驚きました。

それから、こんなものも。

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これは一体何なのか、ということになりますが、下の方に写っている台がメインです。

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何とこちらは、昭和27年(1952)から翌年にかけ、東京中野のアトリエで、光太郎が「乙女の像」制作の際に使っていた彫刻用の回転台なのです。

当時の写真がこちら。

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この写真にも写っている、「乙女の像」制作の際の助手だった、青森野辺地出身の彫刻家・小坂圭二がこの台を譲り受け、さらに平成4年(1992)の小坂の歿後、小坂に師事した彫刻家・北村洋文氏の手に渡り、やはり昨年、北村氏から十和田市さんに寄贈されました。

昨夏、当方、その関係で千葉船橋の北村氏の工房にお邪魔し、現物を確認して参りました。その際の写真がこちら。

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金具は「サスペンダー」というそうで、上に載せた彫刻を固定するためのものですが、これも当時のものです。はじめにこの寄贈の話が出たのは一昨年くらいだったと記憶していますが、よくぞこれが残っていた、否、残して下さっていた、と感激しました。

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船橋から十和田へのトラックでの輸送やら、クレーンを使ってのぷらっと2階への据え付けやらも、大変でした。何せ、総重量が250キログラムほどある代物です。

上の分厚い木の板を外すと現れる金属の回転機構部分、これが何と、戦時中の高射砲の部品なのです。

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昭和28年(1953)5月26日付の『東京新聞』さんに載った、「生活に流れる〞詩〟を拾つて 美術映画「高村光太郎」クランク・イン」と言う記事に「戦争の道具を平和な仕事に使つてるんです」という高射砲台座の回転台をまわしたりするところを丹念に撮影」という記述があります。ちなみに今もスムーズに回転します。

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像の顔や手などの高い部分の制作では、光太郎は脚立に登り、下で助手の小坂が回転台を廻して使っていたのだろうと思われます。

戦時中の高射砲はこちら。この根元の部分ですね。ただ、写真は八八式野戦高射砲ですが、高射砲も○○式という型番がいくつかあり、自走式になっているもの、据え付け式のものなど、バリエーションが色々あるようで、そのどれなのかまでは特定できませんでした。

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今回、十和田湖まで赴いたのは、新たに寄贈されたこの2点を拝見するためで、さらにこの2点の説明板の執筆を頼まれました。現在は何のキャプションもなくただ置いてあるだけで、特に回転台の方は一般の人が見てもその正体が何なのか、わからないでしょう。出来るだけ早く原稿を仕上げ、十和田に送るつもりです。

その辺りの打ち合わせを十和田市の観光推進課長・山本氏と致しまして、その後、千葉の自宅兼事務所に帰りました。

十和田湖、これから新緑のいい季節でしょう。皆様もぜひ足をお運びの上、「ぷらっと」にお立ち寄り下さり、新たな展示を御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は一人の男性としてあらゆる女性の内に潜む母性の愛に跪くものである。さうして其によつて浄められようとするものである。無限の奥行あるその深みから幾度でも人を蘇らせる幽妙なその力を受けようとする者である。

散文「母性のふところ」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

智恵子の顔を持つ「乙女の像」、そこにも光太郎は「母性」を感じていたのかもしれません。

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4月29日(日)、千葉銚子で「仏と鬼と銚子の風景 土屋金司 版画と明かり展」及び、「銚子浪漫ぷろじぇくとpresents語り 犬吠の太郎」拝見した後、一旦自宅兼事務所に戻り、今度は北を目指しました。JRさんの在来線、東北新幹線を乗り継いで、午後8時30分過ぎ、岩手の盛岡に到着。この日は駅前のビジネスホテルで1泊し、翌朝、レンタカーを秋田は小坂町に向けました。

目指すは小坂町立総合博物館郷土館さん。3月から、「平成29年度新収蔵資料展」が始まっており、光太郎詩集の代表作の一つ、『智恵子抄』を昭和16年(1941)に刊行し、その後も光太郎の詩集や散文集などを手がけた出版社龍星閣創業者・故澤田伊四郎氏(小坂町出身)の遺品のうち、光太郎や棟方志功関連の資料およそ5,000点が、澤田の故郷である小坂町に、昨秋、寄贈され、その一部が展示されています。

展示が始まる前の2月にも現地に赴き、寄贈されたもののうち、約70通の光太郎から澤田宛の書簡類を拝見して参りました。既に筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に収録されているものと、そうでないものが半々。そうでない方はすべて筆写させて頂きました。そして展示が始まり、もう少し早く行くつもりでしたが、この時期となった次第です。

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入館は無料。ありがたいというか、欲がないというか(笑)。

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会場全景はこんな感じで。

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会場入り口の掲示。当方の名も記していただいており、恐縮しました。

問題の書簡類。『高村光太郎全集』未収録のもののみ34通がずらっと並べられていました。壮観でした。学芸員氏が頑張って、一通一通、活字に翻刻、キャプション的に並べてあり、光太郎筆跡に慣れていない方でもどんな内容か解るようになっています。

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報道された際に目玉的に取り上げられた、昭和25年(1950)、龍星閣から出版された詩文集『智恵子抄その後』に関する葉書。

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それから、2月にお邪魔した際には時間もなく拝見できなかった、光太郎の署名本の数々。

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ほれぼれするような筆跡で、丁寧に書かれています。ネットオークション等で、時折、光太郎署名本なる偽物が出品されていますが、こういう本物を見続けていれば、偽物はいかにもみすぼらしく、下劣な品性の愚物が人をだまくらかそうと書いているのがありありと解ります。

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こちらは地元の子供さん達の作品。光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)にちなむものです。光太郎の母校、荒川区立第一日暮里小学校さんでも同じような取り組みをなさっていました

その他、龍星閣関連で、棟方志功、川上澄生、恩地孝四郎、富本憲吉関連の資料、別ルートの寄贈資料で、画家の福田豊四郎の作品などの小坂町関連資料なども展示されています。

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会期は今月20日まで。ぜひ足003をお運びください。

その後、レンタカーを更に北に向け、十和田湖を目指しました。途中の「道の駅 こさか七滝」には、その名の通り、七滝という大きな滝が。光太郎から澤田に送られた書簡類のうち、澤田が小坂の実家に引きこんでいた時期のものも何通かあり、その住所が「秋田県毛馬内局区内七瀧村大地」となっています。この滝にちなむ地名なのでしょう。

もう少し行くと、道ばたには残雪。運転にはまったく影響ありませんでしたが、さすがに北東北、と思いました。

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ところで、全くの別件ですが、『朝日新聞』さんに、美術評論家の三木多聞氏の訃報が出ていましたのでご紹介しておきます。 

三木多聞さん死去

 三木多聞さん(みき・たもん=美術評論家)23日、急性心不全で死去、89歳。葬儀は家族で行った。喪主は妻玲子さん。
 大阪の国立国際美術館長や東京都写真美術館長を務めた。著書に「近代絵画のみかた 美と表現」などがある。

昭和46年(1971)、至文堂さん刊行の『近代の美術 第7号 高村光太郎』の編者を務められたほか、翌年7月発行の雑誌『ユリイカ 詩と評論』の「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」号で、「高村光太郎の彫刻」という評論を発表なさったりされた方です。連翹忌にも2回ほどご参加いただきました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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【折々のことば・光太郎】

若いのはいい、若いのはいい。何かが知りたくて、知りたくて、又遊びたくて、遊びたくて、疲れるといふ事が疲労でなくて休息であるほど、若いのはいい。若い人を見てゐると、自然と心が腕をのばして来て、仕舞に思はず微笑(ほほゑ)まされる。若い人の水々しさはいろんな意味で此世を救ふ。

散文「若い人へ」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

題名の通り、若い人々へのエール的文章です。このあと、「立身出世教」の毒牙にかかるな、的な内容になったりします。

元々、雑誌『婦人の友』に発表されたものですが、のち、昭和に入ってすぐ、かなり改訂されて、女学校用の教科書にも採録されています。

自由人の当方はあまりいつもと変わらないのですが、世間的にはゴールデンウィークだそうで、記事の題名を「GWレポート」とさせていただきます。特に深い意図はないのですが、これまでこの手のレポートの際には「都内レポート」「東北レポート」などと行った先の地名を使用することが多かったところ、そうした地方の枠を超えて動き回っておりますので、そうします。

まずは一昨日の日曜日、生活圏の千葉銚子。市街の飯沼山圓福寺(飯沼観音)さんの本堂で開催された「仏と鬼と銚子の風景 土屋金司 版画と明かり展」、それから「銚子浪漫ぷろじぇくとpresents語り「犬吠の太郎」」を拝見して参りました。

土屋氏は、銚子や、当方自宅兼事務所のある香取市に隣接する旭市ご在住の版画家です。

たまたま今月、当方趣味の音楽活動の関係で、旭市の東総文化会館さんに行きましたところ、大ホールの巨大な緞帳のデザインも、土屋氏の版画でした。

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それから、当方自宅兼事務所のある香取市での個展もなさっています。会場は旧市街の与倉屋大土蔵。光太郎詩「雨に打たるるカテドラル」が使われた映画「FOUJITA]などのロケにも使われている、土蔵としてはおそらく日本一の大きさであろうという土蔵です。

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全国を飛び回っている当方ですが、逆に地元の情報に疎い部分があり、土屋氏の作品、ちゃんと拝見するのは今回が初めてでした。

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会場の飯沼観音さん。中央が本堂で、階段の下に入り口があり、そこから入ります。

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いきなり「犬吠の太郎」がお出迎え。

太郎は本名・阿部清助。光太郎詩「犬吠の太郎」のモデルとして有名になりました。大正元年(1912)、銚子の犬吠埼を訪れた光太郎智恵子が逗留していた暁鶏館(現・ぎょうけい館)で下働きをしていた人物です。旧会津藩士の子だというのですが、銚子の長崎地区出身という説と、銚子を訪れた曲馬団にくっついて来て銚子に定住するようになったという説と、二通りあります。ちなみに長崎地区には太郎の墓が現存しています。

お寺さんでの開催ということで、仏画的なモチーフが多かったのですが(ちなみに土屋氏、元は仏師志望だったそうです)、太郎系、それからやはり犬吠を訪れ、「宵待草」を詠んだた竹久夢二系で、犬吠などの風景を取り上げたものも多くありました。

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黒いのは、版木です。こちら、おそらく、ぎょうけい館さんにも飾られていたと記憶しています。

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最近、取り入れられたそうですが、刷った後に紙をくしゃくしゃにしてまた伸ばすという技法が使われているものも。すると不思議な陰影や立体感が生まれ、面白い試みだな、と思いました。

ちなみに版画展に関しては、先週、NHKさんのローカルニュースで取り上げられました。 

復興の願いを作品に込め 版画家が展示会 千葉 銚子

東日本大震災による津波で、大きな被害が出た千葉県旭市に住む版画家が、復興への願いを込めて制作した作品などを集めた展示会が、隣の銚子市で始まりました。

会場の銚子市にある飯沼観音の本堂には、旭市の版画家、土屋金司さん(63)の作品、およそ70点が展示されています。
旭市では、東日本大震災による津波で15人が犠牲になり、中には、復興への願いを込めて十一面観音や地蔵の姿を刷り上げた作品があります。
また、詩人の高村光太郎が銚子を訪れた際に作った詩、「犬吠の太郎」の一場面を表現し、びょうぶのように仕立てた作品も展示されています。
土屋さんは「震災で被災した人たちにも元気と癒やしを感じてもらえれば」と話していました。
展示会は29日まで開かれ、最終日には土屋さんの作品の前で、地元の人による「語り」の上演が行われることになっています。


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旭市の飯岡地区では、東日本大震災の本震から3時間近く経った午後5時26分に津波が押し寄せ、15名の尊い命が犠牲となりました。その追悼、復興祈念も兼ねているとのことです。


版画展会場の一角で、「銚子浪漫ぷろじぇくとpresents語り「犬吠の太郎」」が行われますが、その会場の正面には六曲一隻というか、二曲三隻というか、大きな屏風。こちらも太郎系です。

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力強い作品です。聞けば、最初に太郎をモチーフとされた35年ほど前の作品だそうです。女性は太郎が惚れていた曲馬団のヒロイン・お染さん。

さて、時間となりまして、「銚子浪漫ぷろじぇくとpresents語り「犬吠の太郎」」。

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銚子浪漫ぷろじぇくと」さんというのは、「銚子が保有する近代の文化的な遺産を掘り起こし、多くの人に銚子の魅力を知ってもらいたい」という思いで活動されている、地域おこしの団体さんのようです。

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今回は、そちらに所属されている関根真弓さんという女性による一人芝居的な感じでした。知的障害があった太郎が、曲馬団の花形・お染に優しくされ、淡い恋心を抱きます。しかしお染は興行師と駆け落ちし、太郎は淋しく残されるというストーリーです。光太郎が詩「犬吠の太郎」を書いたことで、銚子では有名な話として語り継がれています。一人芝居でしたが、バックの効果音、バナナのたたき売りやサーカスの呼び込み、南京玉すだれなどの声は、銚子浪漫ぷろじぇくとのみなさん総出だそうです。

終演後の関根さんと、土屋氏。

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公演の前後にそれぞれとお話をさせていただき、今後も光太郎を取り上げて下さいとお願いしておきましたが、実現してほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

自分等の生活の時々刻々こそ貴い意味の流れである。自分等を通じてあらはれる至上のものの意志である。姿である。それが積もりつもつて個人としての一生、社会としての世紀がずつしり重く築かれるのである。

散文「日常の瑣事にいのちあれ」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

津波被害により、貴い生活の時々刻々、日常の瑣事を奪われた方々に、謹んで哀悼の意を表します。

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